邪馬台国畿内説 Part389
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1539600668/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
◆FAQ 23
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で存在が確認された。
箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
・箸中山古墳の後円部と段築が接合しないこと。
・箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープが墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失していること。
・椿井や中山大塚の構造や、河内大塚や見瀬丸山など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部に盛土がないこと
・円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ1)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1 ◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。 ◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。 ◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。 ◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
参考に、正始年間薨の魏仮節龍驤将軍予州刺史李簡子墓誌銘を挙げる。
https://i.imgur.com/MRmSyqP.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。 ◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。 ◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。 ◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正しい!
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するの不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上テンプレ
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注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆10、◆FAQ 23に加筆、88を追加 >>458
「南→東」などの嘘つき騙しのような、
訳の分からん妄想を喚いてる大和説の奴って
やっぱり日本語も意味不明だな
異常者なのがよく分かるわ >>461
「南→東」などの嘘つき騙しの、
こういうデマを平気で流す大和盲信者が
全く信用できない人間なのは誰にでもわかる 03:07:36.51〜04:09:05.81
どんな病気だ?
頭の病院へ行け >>462
>卑弥呼の墓探しはあんま意味ないよ
例え古墳の中調査できても確定するのは難しいし<
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を満たす墓は、
祇園山以外には、全くない。 >>860
>魏志倭人伝に書かれた女王國(邪馬壹[臺]國)が大和に合致しないだけで、何らかの文明があったのは確かだし、日本になった可能性も高い。 >>842
>「計其道里當在會稽東治【冶】之東」
>の「當」は中国語ではどういう意味なのか教えてください。
>本当に中国語では会稽東治の真東にあるって意味なんですか? >>463
>いや、白石氏がもめて辞めたとは言っていない。
ワイもそのあたりは知っている。
立派な学者だ。
白石氏が辞めたので、寺澤も辞めたくなったというような意味だ。<
白石も寺澤も、「南→東」の嘘つき騙しの大和説者であるんだから、
・・・・犯罪者であった事には、変わりがない。 >>464
九州であることは確定だから、白石も寺澤も意味はも内部がな >>466
というか、もう説がどうのじゃなくて、
九州に関わる事を誹謗さえ出来れば何でもいいってレベルだな
「南→東」などの嘘つき騙しの嘘並べて
訳の分からん事叫んでれば
それで満足する程度なんだろうよ大和説は >>692
>「夏后少康の子、会稽に封ぜられしに、断髪文身し、もって蛟竜の害を避く。」とあって、
>1. 夏后少康の子が会稽に行ったがために断髪文身した。
>2. 倭人の風俗習慣がそれによく似ていた。
>3. そういえば倭は会稽東治のちょうど東側にあたるわけだなぁ。
>という流れだから会稽なわけで徐州やら淮水やらでは風習が似ているっていう共通点がないから、記述の意味がなくなる。
>ここは行程をいうためでなく風習について述べている部分だから。 >>470
インチキ大和説は、
「南→東」などの嘘つき騙しの、
病的なウソつき人間。 古代出雲人の人骨をDNA解析し、そのルーツを探るプロジェクトが進行中です。
現在クラウドファンディングにて支援金を募っています。
興味のある方は是非ご支援頂きたく存じます。
日本人はどこからきたのか?
出雲の猪目洞窟遺跡の人骨から、その謎に迫る。
https://readyfor.jp/projects/izumo17990 >>479
邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙しだし、
「南→東」のため、大和説も纏向説も、新興宗教と同じ。 >>483
>こうみてくると、本当に卑弥呼の墓は造られたのか、その墓は本当に「百歩」あったのか、すべて不確かだ。
それらは全て、邪馬台国の役人からの伝聞にすぎない。<
倭人は「夷人不知里數、但計以日」だから、「里」を知らず、だから「歩」も知らず、
だから、倭人からの伝聞ではなく、魏使らの実見による「百余里」だとおもうよ。 >>494
そういう「南→東」などの嘘つき騙しや、中傷ばっかりしているから、
大和説は信用を失って今日の有様である >>496
>冢=円墳 <
「居處作草屋土室、形如冢」だから、
円墳と同じのように見えないから、×。 >>497
「南→東」などのように、
なんの理由もないデタラメをひたすら言い張るのが大和説だ >>499
>径100歩<
「径」は、不定形の大きさを示すものだから、
「円墳」とは限らず、×。 >>500
>貝塚は古墳とか貝墳は言わない
貝殻が積み重なったもののこと
盛り土されたものを冢という おのずと丸くなる<
貝塚も原則は不定形。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. あのさ
畿内説では銅鏡百枚は
紀年銘鏡のどれなの?
全部とは言わないだろうが >>502
>「冢」は説文解字に「高墳也」と書いてある
冢は高く土を盛った墳だよ 形に関する意味合いは特に含まない<
説文解字のような辞書の説明は、「近似的な言い換え」であって、イコールではなく、
使用意味の全部が書かれている訳ではない。
「冢=高墳也」も、「冢=墳」というのではなく、
「冢≠墳」であり、「冢⊂墳」だという意味だ。 >>28
>箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。 <
径百歩。3世紀の炭化物だけで、卑弥呼の墓と断定するのは乱暴すぎないか
功を急ぐ必要はない 調査が進んでから是非を議論すべきだと思うよ
仁徳天皇陵も調査開始のようだし >>103
>「冢≠墳」であり、「冢⊂墳」だという意味だ。
「冢⊂墳」だよ
冢は高い墳だ
だから
>冢は「棺を容るるに足る大きさ形」のもの、
というのが誤訳 >>503
>これが妥当なところだ。 キナイコシが嘘をつく時の常套句<
「其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授」と、
「其八年、太守王kui到官。倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和、遣倭載斯、烏越等詣郡説相攻撃状。
遣塞曹掾史張政等因齎詔書、黄幢、拜假難升米爲檄告喩之」との二回は、
卑弥呼に面会せず、難升米に面会しており、
次に「卑彌呼以死・・・」と書かれているから、
この間は、卑弥呼は面会出来ない状態(おそらく死病に近い病床にあった)、という可能性が高い。
また難升米も、
「復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。政等以檄告喩壹與、壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還。因詣臺」
の時には名前が出て来ないままだから、
難升米の居なくなった(おそらく亡くなった)という可能性が高い。 >>104
「径百歩。3世紀の炭化物だけ」じゃないから
卑弥呼の墓だとほぼ断定していいね >>508
大和説の99.5%は妄想で出来ています (残りはウソで) >>512
>またも、なんの根拠もなく言い張るだけ それが九州説だな<
また、大和説者のいつもの、「証拠や根拠」要求でのヘイトスピーチだな。
九州説は、原則として、
「史料事実や史料実態からの帰納的確率的な推論」であり、
100%絶対論でもなく、
そもそも100%絶対根拠なんて存在もしない。
要は、確率の高い推論である事が大事。 >>516
>また空想100%じゃないか九州説<
また「100%絶対断定要求」の空想100%じゃないか、
「南→東」などの確率0.5%以下の大和説。 >>516
大和説が、また朝からボコボコにされてるな。 >>517
>九州に円墳なし<
久留米の二つの大きな古墳の内の一つは、円墳であった筈だし、
25年位前に九州旅行をした時に、団子状の小さい円墳を幾つも見たよ。 >>518
>祇園山も平原遺跡も当てはまらなくなるから、その解釈は間違いだろう。<
平原や吉野ケ里は「墳丘」的かも知れないが、祇園山は「高冢」的だよ。 >>525
「南→東」などの嘘つき騙しで、
史料根拠ほぼゼロで、妄想ほぼ100%のほぼ大和説、
まだがんばる >>109
怪しげな数字振り回すだけのことを確率とは言わん >>526
>「始皇帝陵」としての「驪山」
始皇帝が埋葬された場所は、史料によって文字が異なるが、「驪山」と呼ばれていた。
現在は、始皇帝陵と呼ばれている。この名称は漢代以降になってからのことである。<
>おいおい、三国志の時代には「始皇帝冢」ではないぞ。<
おいおい、始皇帝の墓は「冢」や「陵」はあっても、
「墳」とは聞いた事がないぞ。 >>527
>一緒に載ってる大仙山と箸中も上が平らじゃないか?<
見た感じは、円墳部と前方部に別れて、「上が平」ではなかったぞ。 >>528
>だから、みんな冢だな<
前方後円墳は、冢ではないな。 >>532
>箸墓は冢でよいな<
前方後円墳は、冢ではないな。 こんなに荒らしに来るって事は九州説が間違ってるからか
正しければ自スレで冷笑してれば済むからな >>539
>尚方作は魏鏡なんですね! 方格規矩鏡が下賜鏡なんですね!<
平原鏡は、塗装されて破鏡されていますから、
渡来の楽浪鏡師らの「塗装」の手が加えられた、とは思いますが、
内行花文鏡は、明帝鏡としては有り得ないような巨大サイズですから、
楽浪鏡師らの製作鏡なんでしょうが、
21枚の方格規矩鏡は、21枚も「尚方作」と書いていては、
倭人らの中に意味が分かる人もいるでしょうから、バレれば国家問題にもなりかねませんから、
おそらく、明帝の下賜の鏡そのものに楽浪鏡師らが、塗装した鏡であったんでしょうね。
また卑弥呼の墓では、破鏡など出来ないでしょうが、
卑弥呼の遺品として残された壱與の墓なら、
宗教的な破鏡があった可能性は、あるんでしょう。 >>540
>>邪馬台国なんて、存在もしない嘘つき騙し文言であるし、<
>なんの根拠もなく自分の思想をわめきちらすのが九州説か?<
邪馬壹國という史料事実を、殆ど何の根拠もなく、
「大和」に合わせたいという結論先にありきの妄想で、
「邪馬台国」と書き換える事が、学問的に許される、
なんて分裂幻覚のような妄想を書いてもよい、とでも思っているのが大和説者か?。 >>542
>尚方作鏡と書いてあるから〜なんて理屈
どうやって漢鏡と魏鏡と区別する気なんだ?<
「尚方作」と書けば、当然価値が上がり、また、通常は、皇帝家の使用品であり、
一般に出回るのは通常は「下賜」があった場合であり、大量に下賜する事もあり得ず、
漢代に列島に21枚も下賜があった記録もなく、
明帝の下賜の「銅鏡百枚」しか可能性がないから。 >>545
>んじゃ、会稽東治の東に当てはまらないな 九州説即死です <
んじゃ、会稽東治の東に、ほぼ当てはまっているから、
この・・・・大和説者は、即死です。 >>547
>その文献考古の史料事実や史料実態が
全力で九州説を否定してるよ<
その文献考古の史料事実や史料実態が、
全て大和説を否定してるよ。 >>529
>あんたの思想は聞いてない
一挙足を「歩」だと言った例を出して見な <
当然、周髀算経の本文での「歩」の記載や、魏志における「歩」の記載が例であり、
それに、それに「一挙足」そのものを「歩」といったのではなく、
「踵を挙げる挙足」と「つま先を地面に付けての移動」の、
両方を合わせたものが「歩だ」と言ってんだよ。 何も理由を言わずに言い張るだけの九州説って
終わってるよね ちんちんシュッシュッシュッ・・・
シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュ・・・
シュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュッシュドピュッ!
ぐはぁぁぁなんじゃこりゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!ドピュルルルゥゥゥゥぴゅっ
ぴゅるりっああぁぁ精子!!精子でちゃうぅぅぅぅぅ〜!ドピュピュピュムピュルミュぴゅっる
ああぁ精子!精子見ないでぇぇぇぇぇぇぇドにゅぴゅみゅピュムぴゅルゥピュル
んはぁぁぁなんじゃこりゃぁぁぁぁピュピュピュドピュルドピュピュぴゅりゅ
あはっぴゅるるぴゅりる精子ぃぃ!!!精子見てぇぇぇぇ〜〜〜〜!どぴゅるりるるリ
ピュルリぴゅピュピュみゅピュルぴゅルルリ精子でちゃいますぅぅぅピュルルルリぴゅっ・・・
あぁぁぁぁちんちん!!!ちんちんシュコンシュコンスコンピュルスコンシュッシュッシュッシュ
ちんちん!ちんちんシュシュシュシュシュバシュッバシュッバシュシュッピュッルシコンパシンパシン
ちゅくチュクバシュッバシュシコンスコーンスコーンバシュッんはぁぁぁちんこ見て!!チンコ見てぇぇぇ!
バシュッぴゅっバシュンバシュンズコンズコンぁぁぁぁぁアアああアぁぁ精子!精子でますぅぅぅ!ドピュッ!
んはぁぁぁぁ〜〜〜〜なんじゃこりゃぁぁぁぁぁぁピュルピュルんはぁぁぁ精子ぃぃぃ!!
ぴゅっつぴゅっつピッピピュッんはぁぁぁぁぁせ、精子ィィィィぃぃぃぃぃぃ〜〜〜〜〜〜〜〜〜ドピュっ!!!!!! 畿内説という詐欺まがいの歪曲史観は批判されて当然だろう。 反日の古田がどろぼう偽書で笑い者になり
会員が火病で荒らしてるだけだからな
九州のことは無知な集団だからウソの連呼になってしまう
九州のメルヘンチックお爺さんとはまた違う で寺沢が卑弥呼墓=ホケノ山説に乗り換えたって?w
どっちみち間違えてるわけだからいいけどねw
あれだけ瀬戸内の要素があるのだから物部の遺跡だと見抜けてない時点で学者としてダメだね。
寺沢の失敗は森浩一さんや上田正昭さんがその重要性や復権を言ってた先代旧事本紀を軽んじたこと。
それに尽きる。 >>141
石野に逆らったのだろう
石野の時代を終焉に持ち込みたいのか
纒向遺跡は研究すればするほど、矛盾が多いのに気がついたのだろう 百枚の魏鏡に紀年銘鏡は含まれるのか?
含まれるのなら、何が本物(魏か下賜されて百枚の一部)かを特定願いたい。 石野も倭国(阿波)の遺跡にはたまげているよ。 @阿波 百枚の魏鏡に紀年銘鏡は含まれるのか?
含まれるのなら、何が本物(魏か下賜されて百枚の一部)かを特定願いたい。 >>144
石野が徳島に行ったのは間違いだったなww
彼の妄想は如何ともしがたいが 百枚の魏鏡に紀年銘鏡は含まれるのか?
含まれるのなら、何が本物(魏か下賜されて百枚の一部)かを特定願いたい。 >>143
>含まれるのなら、何が本物(魏か下賜されて百枚の一部)かを特定願いたい。
魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡
だから
この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろうね 魏から下賜された鏡は。 と、何度言えばw @阿波 >>146
>石野が徳島に行ったのは間違いだったなww
徳島へ来てから、ずっと悶々としているよ。 @阿波 >>147
>景初三年鏡じゃね <
景初三年鏡には
半円方形帯神獣鏡(画文帯同向式神獣鏡)と三角縁同向式神獣鏡があるが
どちらだろう?
また 青龍三年(235年)顔氏作鏡はなんだろう?
青龍三年鏡はなんなんだろう? もう鏡はバリンバリンと割られてるんじゃ
何で破鏡なんかしたんだろ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 鏡そのままだと使っていた故人の姿が映るという言い伝えがあったらしい >>151
日本書紀とか梁書に卑弥呼が使いを送ったのが景初三年とあるから
魏年号で景初三年(239年)と記銘のある三角縁神獣鏡じゃね
同じく魏年号の青龍三年(235年)鏡は魏と国交持つ前に
鏡だけが入ってきたんだろう >>981
ちゃうちゃう
張政が卑弥呼や台与に会ったというのは、推定。
会っただろう、ということ。
会った場面は、どこにも書かれていない。
そのうえ、檄は(木簡に文言を書いて送る)という意味。
卑弥呼、台与ともに「檄」の字が用いられている。
面会したなら、「檄」の字は使わない。 壹與はともかく、卑弥呼は年増だとか独身で引きこもりだとか、人となりまで書いてあるから、会わなかったとは思えないな。
そもそも会って確認して金印を渡すのが仕事だったんだろう? >>158
そうだね、会っていないという考えはトンデモ説だから出てくる。 @阿波 >>550
>資料ねぇ 梁書:台与の後に男子王が立ち晋、宋、斉、梁と使節継続<
それ倭国の話であり、大和日本国の話ではない。
>北史:台与の後に男子王が立ち魏、宋、斉、梁と続けて使節を送ってきた<
これも倭国の話であり、大和日本国の話ではない。
>隋書:ヤマトは魏志の言う邪馬台国<
隋書は、魏志、後漢書、晋、宋、斉、梁の記載を踏襲しており、倭国の後継であった事を書き、大和は全く出て来ない。
そして、この男は、この後の、旧唐書や唐会要の記載は都合が悪いから、出さない。
>新唐書:隋書のアメノタリシヒコ=用明天皇で当時の天皇に繋がる系譜に入れている=邪馬台国は畿内<
髄書は、「倭王姓阿毎、字多利思北孤」であり、
新唐書日本伝は、「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」であり、
「隋開皇末、始與中國通」であるから、後漢書や魏志や晋書や宋書や斉書や梁書が書いた倭国とは違う国を記載。
>宋史:上記の用明天皇の系譜を載せつつ太宗が「日本は皇統が途絶えずに継続している」と評価<
白村江で戦ったのは倭国倭衆倭賊であり、大敗して亡国しそうになったので、
九州倭国の別種分家の旧小国であった大和日本国が、倭国を併合吸収継承した。
>台与の後の男子王は特に何の問題もなく継承している
で、中国はその後の系譜も断絶も王朝交代も認識してないのが分かる 九州説も九州王朝説も入り込む余地はないな<
お前がこっそり伏せて隠した旧唐書と唐会要には、九州倭国と大和日本国が、
違う国だとして、はっきり書き分けている。 そりゃ唐の人間も魏志倭人伝読んだら邪馬台国は九州南辺りと誤解するさ
距離はともかく位置的には南と課かれてるから 詔書印綬を倭王卑弥呼に拜假した=会ったのは梯儁
張政は詔書、黃幢を難升米に拜假して
壹與に檄告喻した=会って公文書を読み上げた >>551
>九州説が大好きな唐書の日本と倭の部分もその本の中でタリシヒコと当時の天皇の系譜の継続を示してるんで断絶も何もないのが分かる<
隋書は、後漢書や魏志からの九州倭国の後裔である事を記載。
からの新唐書日本伝は、神武が筑紫城の倭奴國から大和州に移った国である事を記載。
>筑紫城とやらの記載も神代の神話の丸写しなだけ
どの道、タリシヒコの系譜の部分で九州説も九州王朝も否定される<
隋書は、「俀王姓阿毎、字多利思北孤」。
新唐書は「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」であり、違う。
>どこを取り出して九州説とか九州王朝とかほざいているのか意味不明<
この男は、旧唐書や唐会要の記載を隠蔽して、世間の人々を騙そうとした、悪質な詐欺師。 >>155
有難う
▲は難しいが、畿内説の学者をは離れつつありますね
▲のうち一つを有力とすればよいと思う、あとは国産でもいいし国産以外でも言及する必用は無いと思う 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>155
有難う
▲は難しいが、畿内説の学者をは離れつつありますね
▲のうち一つを有力とすればよいと思う、あとは国産でもいいし国産以外でも言及する必用は無いと思う >>167=>>1
あなたの悪い癖ですよ 誰彼構わずキウスとするのは
いろんなキウスも良い事書き込んでます
私は大和を中心とした畿内説で無いとか纏向は王都で無いとかの主張です
いつも指摘はしてるつもりですが
邪馬台国は京都を中心とした国だと思いますよ ▲はまず、中国で魏だった領域からの出土が必要だな… 畿内説で一番 研究や証拠を並べるのに大事なのは
邪馬台国=初期ヤマト王政の研究ではないでしょうか?
謎の4〜5世紀を語るべきです
前方後円墳にすがるのもいいでしょうが、蝦夷地まで・・・・ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 4世紀頃は倭の5王に三韓征伐に白村江の戦いか
意外と空白でもないな >>173
>邪馬台国=初期ヤマト王政の研究ではないでしょうか?
だけど、「初期ヤマト王政」の弥生後期集落遺跡群がないから、如何ともしがたいのが実情。 @阿波 ザラコクさんも
太平洋ルートに対し明確な答がでません
投馬国は宮崎あたり南に向い太平洋ルートで畿内(王都は京都だと思う)に対し何も答えていない >>554
>>魏使らの記録の女王國は、不彌國の直ぐ南であるから、九州島で正しく、
陳寿の女王國の位置推定の「会稽東治之東」の「東」に、ほぼ九州島があるから、<
>北部九州だったら会稽からはるか北じゃないか 倭人伝と合わないぞ<
女王國は、投馬國も含んでおり、大体北部九州から佐多岬の範囲であり、
九州島は、会稽東治の「東から東北東の間」だから、
倭人伝とほぼ合う。 >>555
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
断定的なヘイトスピーチを一杯喚く癖に、
口を開けば、・・・・アホの考えた支離滅裂な脳内の大和行程しかないからな。 >>171=>>1
テンプレのすべてを否定してる方と違います
テンプレはいろんな方の主張(文献・公表等)をごちゃごちゃにしています
スレ主なりのメスを入れて 持論を展開すれば良いと思います >>563
ほらな。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
また、幾ら証拠を出しても、知らん振りしては、
「九州説は全く証拠が出せない」と言い張る、
・・・・詐欺師だからな。 スレ主
ここは
ザラコクとキウスと阿波と博学のアンチ畿内説で構成されてるな
スレ主の名無しの煽りカキコミもGOOD >>575
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
願望100%の日。
現実でワロタ。 >>577
九州説は、史料事実や史料実態にコンサバティブで、
大和説は、畿内や「南→東」などや、史料事実の否定曲解の、
嘘つき騙しに関してプログレッシブなので、
意見が合う訳がない >>579
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
学説としてもう死んでるからね。
あとは。「国民の7割や世界の殆どから否定されている」という、
現実認識のできない・・・・老人らの妄想だけだよ。 卑弥呼の使いが1枚くすねようとして埋めといて忘れたのかもな >>580
「南→東」などのインチキして、
史料事実などからの確率的統計を悪用するなどの、
大和説の体質がよく出ている。 >>583
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説って、
戦前の皇国史観時代の真珠湾攻撃のダイホンエーの発表と、
寸分も違わないね。 >>585
鏡もない
絹もない
祭祀遺跡もない
墓もない
宮城もない
丹山もない
そんな、三世紀半ばの大和に、卑弥呼の都があったら驚きだ。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>586
ノーベル賞とった本庶先生は、
科学は、教科書や、先生の多数決では無いと言っているが、
大和説では違うらしい。 >>587
>九州のどこが会稽東冶の東であり潤んだ?<
ウソをつくな・・・・大和説者。
陳寿が書いたのは「会稽東治之東」であり、「東冶」ではないよ。 >>588
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説には、
正常な神経や、精神的な潤いはないな。 >>589
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説って、
国民の何パーセントの人から支持されてるのかな?。
世界の学者だと、0.3%くらいかな?。 反皇国史観を謳いながら
皇国史観である九州説を広めるザラコクの一人相撲 >>591
古田説を知った世界の現役の研究者で、
大和説を支持する人は、殆ど0%であり、
台湾や一部の韓国や中国学者ら、だけだよ 。 >皇国史観である九州説を広めるザラコクの一人相撲
まったくだw
本人がそれに気づいてないというのが凄いw >>592
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説は、
とても、無理。 >>592
「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・大和説は、
とても、無理。 >>593
>北でも南でも西でもないから東側でいいんじゃない? <
陳寿は、不彌國の「南」と書いているから、「南」でよく、「東」は×。
>だいたいその記述は風俗習慣について書いてある節で行程を記述してる部分じゃない。<
陳寿は、当然、
「自郡至女王國萬二千餘里」を受けて、会稽の歴史を述べて、
「計其道里、當在會稽東治之東」という推定位置計算を書いている。
>会稽あたりの南方の習俗に近いから、そういやあその東にあたるところだよ、と言ってるだけだと思うぞ。<
「計其道里、當在會稽東治之東」の会稽を説明するための、記述。 >>596
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は無理だね。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>598
南水行の南は、間違えようもない正しい情報。
南で正しい、ってことってことで決まりだな。 >>599
>南九州のどこに何があるんだよw<
投馬國がある。 >>600
>屋久島じゃなきゃダメだね ww <
おそらく、東テイ人の「残った」国。 >>601
これからは、大和説じゃなくて、
「南→東」などの嘘つき騙しの、大和説者妄言と呼ぶべきだね。 九州説は反皇国史観とずっと勘違いしていた滑稽な老人 >>608
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、最初から死んでる。
死んでる事に気が付かないで動き回ってるゾンビ。
脳ミソの腐った仲間を増やして、そこらで暴れまわってる。 >>609
大和説は、
「南→東」などの嘘つき騙しの、
分裂幻覚の妄想以外何も語っていない件について。 >>613
南水行の南は正情報。
東は×。
証明されたな 。 >>637
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は死にました。
「会稽東治之東」もネックでした。 九州説は江戸時代の国学者=極右さんたちが創った虚構だからね。
邪馬台国は大和であると言ったとたん、
日本は中国の属国であり古代天皇が朝貢してた史実を認める事になる。
極右さんたちはそれが嫌だからわざと邪馬台国は九州だと言ったのさ。
九州説なる虚構にバカを集め、バカにそれなりの意見を言ってもらう。
議論をしてるうちは古代天皇の朝貢は決定事項にならない。
その決定しないという状態を永久に創ろうとしたのさ。
それがまだ分からないバカの代表がzarakokuだwww >>643
>松尾 光 訳 倭の位置を計算してみると、ちょうど会稽・東冶の東にあたる。
その道程や里数を計算すると、ちょうど会稽の東冶の東に位置している( はずだ)。
>田中俊明 訳 その行路の里数を計算すると、
〔 倭国 は〕 とうぜん、会稽や東治( 冶)の東にあることになる。<
魏志は「治」であり、「冶」は嘘つき騙しで×。
松尾も田中も・・・・詐欺師。 >>214
さしもの脳虚zarakokuも
「会稽東治之東」で
「南→東」が正しいことが証明されちゃったのが
ショックで
発狂二倍してるんだよね
www >>646
>陳寿本人(または彼の取材した原・倭人伝を書いた人)は旅程の数字から計算して
ちょうど会稽の東冶の東に位置していると結果を出した
つまり、旅程が間違っていた<
つまり、この「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の「東冶」も、間違い。 >>216
「会稽東治」が「会稽東冶」の間違いだって言い張ってるのは世界広しといえども古田一派と九州爺さんだけの超少数民族なんだよ
世間から嘲笑を受けるだけの存在さ >>649
「倭人伝に記載される物が山のように見つからない大和」って 、
もう冗談でしかないね。 短里なんてモノが存在してたなら、長江の南までたどり着けないのは中学生でもわかるものね 今日もザラコクが万世一系の皇国史観を広めようと頑張っているな >>661
何一つ見つからないから結局無理に無理を重ね、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙ししか言うことがないのが、
大和説。 >>665
「南→東」などの嘘つき騙しの、
自分の言い分の不自然さを悟れよ。 >>666
「南→東」など嘘つき騙しなど、
どう見ても不自然だよね、
大和説。 政治的プロパガンダなら違う形で他でやった方が効果的だと思うぞザラコクよ 卑弥呼→男王擁立→内乱→台与
この間に何が起きたかだな
卑弥呼の父親と台与の父親は誰だったんだろう >>668
本当に、そこらで、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説とか喚いてる奴の話聞くと、
「古墳時代を通じて!」とかのネタを平気で叫んでるからな 。
小学生レベルの、
知能もないバカが飛びつくネタなのがよく分かる。 >>669
倭人伝解釈のごまかし
考古資料のごまかし
実年代のごまかし
色々やってるな
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説・・・ >>670
大和説は、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和クズ説の名に、相応しいかぎりだな >>671
そもそも畿内説なんて、嘘つき騙しの説は存在しないだろ。
大和説とか河内説とか摂津説とか播磨説とか山城説とか阿波説とかの、
雑多な説の総称に過ぎない 。 ザラコクも本当の痴呆ではない
九州説が破綻したことが理解できてるから発狂してるのだ
ホンマものの痴呆ではないけれど
ホンマものの性格破綻者ではある
ww 纒向遺跡の外来系土器、東海、山陰系は初期の頃から変わらず多いな。
吉備系は台与の頃にはぐっと減る。
代わりに初期の頃無かった河内系が台与の頃にぐっと増える。
吉備系が減った原因は何なんだろう。
吉備津彦は何処の勢力を征伐しに派遣されたんだろうか? そもそも古田が九州説で皇国史観を潰すとか絵を描いたのだとしたら
日本の歴史をよく知らなかったという事だな
九州説はまさに天皇の権威を高めるために作られたものなのに >>672
>その道里を計るに、まさに会稽東治【冶】の東にあり。<
魏志は【冶】ではないから、この男も、嘘つき騙しの・・・・詐欺師。
そして、「計其道里、當在會稽東治之東」という記載の説明対象は、
当然「自郡至女王國萬二千餘里」の「女王國」。
そして、「當在會稽東治」の会稽の説明のために、
「夏后少康之子封於會稽」の話を出した。 ザラコクはもう目的もなくたわごとを呟く気の触れた老人そのもの >>673
>そういう人には卑弥呼の時代の直前くらいに大きな社会変革があったと説明しても、
理解できないんだよね<
「舊百餘國」→「今使譯所通三十國」という変化があった、というだけ。 「『計其道里 當在會稽東治之東』(その(倭国の)位置を計ってみると、ちょうど會稽や東冶の東にある)の記述は、本当に陳寿が書いたものなのでしょうか。
とても緻密に計算されたような構成になっている倭人伝の中で、この記述が書かれている箇所が異質なのです。本来なら倭国の位置説明の部分に書くべき内容なのに、「倭の風俗」を記載している部分に挿入されています。
倭人伝はかなり校正を重ねて書かれていると考えられるので、よけいにこの記述の場所に違和感を覚えます。思い出したのでここに書いたなど絶対にあり得ない。校正の段階でいくらでも文節の位置を修正できたのですから。
陳寿が誤った資料を採用したとも言えますが、陳寿自身、この記述内容を信用していなかったのではないかと考えます。このため、位置を記載する箇所にあえて書かなかった。」
http://hokanko.mond.jp/wordpress341/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BD%8D%E7%BD%AE%E3%81%AF%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E3%81%AB%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%EF%BC%9A%E6%B8%AC%E9%87%8F%E6%8A%80 吉備は吉井川流域、旭川流域、足守川流域、高梁川流域にそれぞれ勢力がいて
箸墓直前:高梁川→箸墓併行:旭川→西殿塚併行:吉井川→行灯山併行:足守川
ってな感じで最大勢力がいったり来たりしてるみたいだから
畿内勢力に首をつっこまれて一枚岩ではなくなってると思う >>676
>むしろ会稽の話が出て、たん耳朱崖の話が出て
それを踏まえての会稽東冶の東なんだから
陳寿が倭をどれほど南と認識していたかってことだよね
誤差の範囲を大きくとって九州OKとかいうのは筋が違う <
違う。
「自郡至女王國萬二千餘里」と合計を書いて、
その女王國の位置説明の「計其道里、當在會稽東治之東」の会稽が、
倭人の郷里と思われる(呉付近の)地であったから、書かれた。
。 >>235
いくら必死で「冶」を否定したって
珍発明の短里とやらじゃ
万二千里では長江の南までたどり着けない
短里は存在し得ないと証明されちゃったんだよ
フルタ説は終わったんだよ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>679
ほぼ東であったから、大和説が負けちゃったんだろ?。
キミ、何を惜しんでるんだ?。 >>681
>実際・・・倭人伝に真東と書いてあるんだがな<
「真東」なんて書いていないの。
「計其道里、當在會稽東治之東」は、陳寿の「女王國の位置推定」なの。 >>683
畿内説とか大和説って、
比定地ごとに集計したら、どれも零細泡沫説なんじゃねぇの?。 >>684
>ジャストちょうど東って、真東だろ<
「計其道里、當在會稽東治之東」の「當」は、推定である事を示す文言。 >>685
何一つ見つからないのに、なぜ大和説とか叫んでるのか、理解に苦しむ。
>纏向にケチつけて自分達が出すのがただの柱一本立てた穴と来たもんだ <
弥生銀座がある。
>画文帯が、三角縁がとか叫んでるけど自分達は大昔の砕いた鏡とか持ち出してくるし<
画文帯も三角縁も神獣鏡も、△も、呉系の鏡。
>しまいには4世紀後半から5世紀後半の古墳出土鏡を平気な顔で邪馬台国の証拠とか言い出すし <
祇園山も、平原も、、那珂八幡や津古生掛なども、銚子塚なども、九州倭国の証拠。
>纏向の絹の小袋笑ってると思えばテメーらの土地からは粗悪な糸くず一つだし<
須玖岡本の中国絹がある。
>墓は凡百の方形周溝墓を鼻の穴膨らませて卑弥呼の墓だとか言い張るし<
卑弥呼の墓は祇園山。
>纏向の大型建築物に因縁付けてるけど九州からはそんなもんそもそも影も形もない<
弥生銀座や安徳台や、朝倉付近の遺跡がある。
>遂には「吉野ケ里!」とか言い出すし <
吉野ヶ里も、3世紀までにも存続していた筈。 なんの理由もない、ふとした自分の思いつきを
ひたすら断定強弁するばかりの
傲慢耄碌老人zarakoku >>689
>会稽東冶の東は、南国って意味で我が国だったらどの辺りなのか説明してるんだよ
それを計算で出したわけだ<
いや、「自郡至女王國萬二千餘里」の位置説明で「計其道里、當在會稽東治之東」と推定し、
その会稽は、倭人の原郷であった可能性があるから、
関連を知らしめるために、書かれた。
だから陳寿が出した結果によって徐州の東ということもできたし、淮水の東ということもできた
ちょうど会稽東冶の東だと書いたんなら、台湾くらい南だと認識してるんだよ >>696
>それって
「倭は会稽東治のちょうど東側にあたる」ってどうやって知ったの?<
陳寿は、「自郡至女王國萬二千餘里」を短里で計算して、推定したの。 布留だな
石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル
なぜ布留社の【太刀】何だろうか?
太刀は本来誰かに使われるものだからなぁ
ニギハヤヒはどうなってしまったんだろう 天皇は中国に朝貢した事のない高貴なる統治者と主張したいんだよザラコクは >>250
「夏后少康の子、会稽に封ぜられしに、断髪文身し、もって蛟竜の害を避く。」とあって、
1. 夏后少康の子が会稽に行ったがために断髪文身した。
2. 倭人の風俗習慣がそれによく似ていた。
3. そういえば倭は会稽東治のちょうど東側にあたるわけだなぁ。
という流れだから会稽なわけで徐州やら淮水やらでは風習が似ているっていう共通点がないから、記述の意味がなくなる。
ここは行程をいうためでなく風習について述べている部分だから。 >>702
>倭が会稽の東というのは、思い込みだったということ<
いや、陳寿の「一寸千里の短里」での位置推定計算。
>倭人が短里を使っていたことによる誤解もあるだろうし。<
ない。「夷人不知里數、但計以日」。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ニギハヤヒの天下った交野辺りは畿内征伐の突破口
磐船の伝承も色濃く残る >>254
筆者は計算して
「会稽東治のちょうど東」
という結果を得た
つまり短里など使わなかったし
方位も間違っている
九州説死亡しました ザラコクよ
古田先生は日本に皇国史観を広めないよう頑張っていた筈だろ
それにそむいて天皇中心の皇国史観を広めてしまっていいのか? それよりも、あの写真だよ・・・・
家の写真なんだけど、どういうことだと思う
『きゅうり 祇園』?
『松傾』
ちなみに、こういう名前の家 寺院に通っていたような事も言っていたり、
原因不明の熱が出て・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
で治ったみたいな話とか
なぜ詳しいんだと思う?本物? >>258
対馬壱岐間の約70kmが千余里というのは動かせない。それを短里と呼ぶかどうかはあまり重要ではない。 >>264
対馬壱岐間の約70kmが千余里というのも、重要ではない。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>266
それは知性が少ないからだな
中学生以上なら、帰納しないと客観性がないってことくらい理解しないとね 明解なのは邪馬台国が現在の福建省の東にあると考えられてたってことよね
邪馬台国が博多にしろ奈良にしろ緯度は魏の都洛陽と同じくらいだから実際よりも相当南にあるとの誤認に基づいて書かれたのだろう ほとんど同じような話なんだけど、
ストーカーがいるというわけでもなさそうだし
『日本昔話 姥清水』?
それともストーカーと同じようなものなのかな、
どこどこに住んでいるとか、知っていたり?
『サイバーパンクspecial』
ヘビィ・メタルが何やらみたいなコンセプトだし >>269
つまり「南」盲信者は白痴同然のお迎え待ち爺さんってことだ 昔のことは知らないけど、
香野という家があって・・・浄土真宗?
謎の埼玉名字辞典には、
そのような事が書いてあったり
老婆談によると、
蚕を飼い機織りなどをしていた家だと言っているし、
結婚した家だとか・・・何なんだろう 芝居が〜何やら、歌舞伎の話をしていたり、
謎の刀の話もしているしw 『何者にもなれない お前たち』
これも同じだしな・・・、 >>158
たが、会ったことを示す文章がどこにもない。 >>159
会ったことを示す文章は、どこにもない。 『河童バビィ』
この辺りの設定、
コンセプトも同じような気がする >>162
難升米が仮に受け取った。
政らは檄文を台与に送って、台与に告諭した。
張政は、卑弥呼にも台与にも会っていない。 >>238
それは、逆。
行程記事と邪馬台国の推定位置との間に、南方の風俗を入れて、その推定位置が中国本土からみてどのあたりにあるか示しているわけ。
このことは、すでに九州説者さんか、正しく書いています。 二本松とか、
いまの福島県のほうの話をしているんだけど、
何なんだろう
老婆も、そっちのほうの出身だし >>281
賛同します
會稽東治之東は推定位置でしょう。會稽東治から見て東の方ぐらいでしょう。
日いづる国の天使・・・
南至邪馬壹國は実際の行程。これをどう覆すかが畿内説の難問。 なぜ、太平洋航路を畿内説の学者は支持しないのだろうか
方位は解決すると思うが 香野という家
芸能人、芸名でもないんだけど、
どういう事なんだろう
ユダヤの陰謀関係?
羽衣、機織りをしていたと言っているし 発電、電気を起こしていたという話とか、
ガンダムでもなさそうだし 『アプサラス』
あとキャラ名は、わからないんだけど、先生?のような人物
『ワンピース 粉雪』
『NARUTO イタチ』
兄だと言ってる人がいたり >>284
>なぜ、太平洋航路を畿内説の学者は支持しないのだろうか
倭国(阿波)を無視できなくなるから。 @阿波 家は『松傾』?
こういう名前の家なんだけど、
その家の話をしているんじゃないの 小手子の像というものが
建てられているところがあるんだけど
その近所にも住んでいたことがあるんだよ
と言っているし 『聖化 日霊 日神 津』
ほとんど同じことが書いてあるしw 兄、弟・・・・妹がいて?5月15日生まれ?
家の話だと思うんだけど 近所にホウライ?
そういうところがあったという話とかw
家の話でしょ 何かの家だったのかな?
老婆の話(談)しか聞いたことがないんだけど 三女神?というのも同じようなコンセプトでしょ、
『ザ・モモタロウ』という作品では・・・
ウラシマンが、それと同じようなキャラ うらしまんの台詞「ぼくドザエモン(どらえもん)」
タイムマシン(たつのおとし号)・・・過去、未来? 『Radio Ga Ga』
昔、発電?電気を起こしていて・・・
何々様?なんて言われていた
なぜ同じようなコンセプトなのか?なんだよな、
老婆は、そういう曲のことも知らないしw 箸墓古墳被葬者とその相関関係だ。
長溝(山城県主の祖・五塚原古墳)
┃
iイカガノシコオ(箸墓)━━ 真木姫
┃
タベノ宿祢(交野連・雷塚古墳) 『サイバーパンク special』
ロトちゃんというキャラが登場する作品があって、
なぜか川崎区の南部のほうの話? 短里で帯方郡から一万二千里と書かれた報告書を長里を使う人が読んだら、実際よりも南にある国だと思い込むでしょうね。 クモスケ?が何やらというのも繋がっているでしょ、
歌舞伎 あの写真の話
母親だよ(葱の華のほうにいる人)という人だけ、
なぜか裸足(素足に下駄)だったしな・・・、何なんだろう、
寺院に通っていたとか ほかの国の話なのかな?
蚕を飼い、機織り・・・をしていた?
なぜか母親だけが裸足 >>300
>短里で帯方郡から一万二千里と書かれた報告書を長里を使う人が読んだら、
>実際よりも南にある国だと思い込むでしょうね。
まず「長里」なんてないww
それから、魏晋里なら赤道を越えるから会稽の東にはならない
萬二千里っていうのは地の果てからの朝貢という意味の符牒
要は距離はあてにならないってことしか言えない 何やらプロパガンダ?
たしか、泥棒のようなものに入られたと言っていたし、
蚕、機織りなんかも、やめた?
川俣町という掲示板を読んでみると、
そのようなことを言ってる人がいたり >>305
じゃあ、方角だけ合っているんだな。
やはり畿内にはならない。 クモスケ
お前(芸能人?)のほうが蜘蛛助なんだろうw
と言っているんだけど
老婆は、そういう意味で言っていたような、
テレビを観ていたときの話だから・・・・? 老婆の旧姓は渡辺でしょ・・・、
何か知っているのかな、かなり詳しかったんだけど、
もっと聞いておけば良かったのかな、そういう話(よくわからない話)とか ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 蜘蛛退治の話とか?
小学校しか行っていないと言っているけど、
かなり詳しかったり、
何なんだろう 本当に『ザ・モモタロウ』
という作品と同じような話をしているし
テレビ(芸能人?)を観ているときに、そういうことを言っていた、
ウラシマンみたいな台詞 もっと飲め、歌え、踊れみたいな台詞・・・、
確かウラシマン? >>300
>短里で帯方郡から一万二千里と書かれた報告書を長里を使う人が読んだら、
>実際よりも南にある国だと思い込むでしょうね。
いくら指摘されても、くだらん言い訳を連呼してるなあw
毎度おなじ奴かな?
そんな「短里」なんて
報告を受ける人が知らない単位を使って
報告する人って
いったい、どこの誰?
あり得ない空想しても、それは「説」にはならないのよ それにしても本当に凄い世界だよ
『ザ・モモタロウ』?
テレビを観ていた時に「ウラシマン(まりん)」
と同じようなことを言っていたり 日本史板にスレッドを作製すると、悪質な荒らし行為によって、討論が妨害されるので、避難所を製作しました。
邪馬台国畿内説 避難所
http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/l50 ついに他板にまで荒らしはじめたのか…
連続句読点は最悪だな 荒らしのマッチポンプか (藁
九州説や東遷説が死に体で、畿内説は全盛
抵抗はもう呟いて荒らすくらいしか打つ手がないってことだな 鳥取の遺跡の人骨 弥生時代後期に渡来か DNAで判明
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20181019/k10011677081000.html
弥生時代の渡来人は九州で混血してから本州に移住したという説が主流だったが
直接本州への渡来もあったらしい
倭国大乱の時期にも近い >>704
>倭人は百越の流れで南方の一族って言うのが、当時の中国の常識 ・・・<
古代中国での「倭人」に関する常識は、
「燕の南」情報と、
呉王夫差の遺民の姫氏が中心。
それに、徐福情報があったか?、という程度。
そして、その他の列島情報としては、東テイ人や出雲〜東北の毛人情報があり、
少数部族情報としては、侏儒國や女國(碧眼紅毛人?鮮卑?)が伝わっていた。 >>706
>植生にクスノキ科の木が複数出てくるだろ?
ぱっとみて区別出来ないのにわざわざ細かく記載してあるのは強調してるって事だよ。
クスノキの大木でも見たんだろうよ。
神社の必須アイテムだし。 ちなみに奈良には無い。<
ふーん。成程。 >>713
「南→東」などの嘘つき騙しで、追い詰められた大和説が発狂したな。 >>714
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
証拠なんて何一つないから、異常な妄想を叫ぶしかないんだろう。
そして本当に異常者になると。・・・・
いや、最初から・・・・異常者なのか。 >>716
大和説やってたら、「南→東」などの嘘つき騙しの異常になるのか、
異常な皇国史観戦争の思想だから、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説に嵌るのか、
難しい問題だ。 >>717
「南→東」などの嘘つき騙しを、そう思い込んだのなら、
大和説者の長里とかも、分裂幻覚の妄想だな。 >>718
>なんで畿内説が不利なの? 理由は?<
「南≠東」が、99.5%以上間違いだから。 >>722
>おいおい
「倭は会稽東治のちょうど東側にあたる」ってどうやって知ったの? 無視して逃亡?<
おいおい、
陳寿が、魏使らの記録(短里)を見て計算をした、
ってことは、もう数えきれない位、書いておいてあるよ。
相変わらず、無視してヘイトスピーチして逃亡?。 >>723
>で「當」は中国語ではどういう意味なのか教えてください。<
「南確率の高い推定」だ、という事を示す文言。 >>724
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、いくら聞かれても根拠を言わない
大和説はいくら追求されても証拠を出さない
大和説はいくら問われても合理的な説明をしない >>733
>逆だ 南方の国、会稽の東だという常識があるから、畿内へ行く旅程の記録があったとしても
「南へ行かないとおかしい」というのが、陳寿の認識なんだよ<
いや、魏使らの記録に、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國の南だ
とはっきり書かれている事になる。 >>736
いつも、「証拠は?、理由は?」と相手に質問をするばかりで、
自分の反論の理由を説明しないのが、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者。 >>745
なにも自説の説明できない
なにも自説の証拠を出せない
それが、「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・詐欺師の九州説者。 >>751
>(会稽東治の場所)杭州湾より南、厦門より北だ<
いや、魏代末頃に、
会稽郡の東の「揚子江と杭州湾の間地域」を、会稽郡から呉郡へ分郡された記録があるから、
陳寿の記載時点では、会稽郡と書くべきか?呉郡と書くべきか?が迷う状態であったので、
陳寿は、「会稽東治=会稽郡の東方の治域」というつもりで、
会稽東治と書いたんだろう、と思うよ。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>335
>いや、魏代末頃に、
>会稽郡の東の「揚子江と杭州湾の間地域」を、会稽郡から呉郡へ分郡された記録があるから、
もちろんzarakokuの捏造
そんな記事はない
>>768]
>>昔の学者は「前方後円墳時代は4世紀」と言っていた。<
>それから、研究が進んだ結果が「古墳時代は3世紀前半(初頭)から」になった訳だ <
ダメだ。
その後、古田説が出て、列島盟主は九州倭国であった、と判ったのであり、
大和は、九州倭國の筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であって、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の中の一国であり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であり、
中国などとの国交も九州倭国があたっていて、
大和は、九州倭国からの伝来やおこぼれ頂戴国であるから、
何事においても、九州倭国から50年位遅れていた、という事になっていた。 >>770
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
何でまったく大和説の理由を言わないんだろう?。
国民の7割の一般人や、世界の学者らの殆どが、
ついて行かなくなったのは当然だな。 >>772
つか、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説には、理由そのものが無いんじゃない?。
すべてが思い込みやアヤフヤ又聞きで出来てるから、
他人に説明することすら出来ない。
だから、全てにおいて「証拠は?と質問」をするだけで、
議論に勝った、かのような言い方をする。 >>775
>近現代中国人の書いた注釈だよ
九州説って、自分に都合の悪いものは理由もなく頑として拒むんだな<
近現代中国人学者にも、(日本の現代文献考古学者らと同じように)、
後代の「自己解釈に拠る書き換え」をするインチキ学者がに幾らでもおり、
その文献批判や史料批判は無くしては、証拠にはならない、んだよ。 >>776
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者に、証拠を聴くと、
黙るか?誤魔化し始めるか??、 二つにひとつだからだから、
大和説がウソついてることは、すぐバレる。 卑弥呼の墓は径百歩と書かれているのはその通り。
しかし、この(径百歩)は、張政らが直接目でみたものとは言いがたい。
なぜなら、張政らは卑弥呼にも台与にも会っていないので、狗奴国と戦いがあった邪馬台国には行っていなかったと考えられるからだ。
となれば、(径百歩)は、邪馬台国側からもたられされた情報である確率が高く、つまり伝聞だということになってくる。
なので、(径百歩)は、信憑性が低く、?印で考えるのがよいということになる。 官位や印を与えて外臣にするのだから使者は卑弥呼に直接会ってると考えるのが自然じゃね >正始元年、
>太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、
>拝假倭王、并齎詔賜、金帛、錦罽、刀、鏡、采物。倭王、因使上表答謝恩詔。
魏帝の名代の帯方郡太守のそのまた名代の梯儁等は、倭王に拝し、倭王は名代に謝辞をことづけたと・・・、 魏使が誰も卑弥呼にも台与にも会っていない、邪馬台国には行っていないと考えるなら
行程も倭人の風習も倭地にあるものもすべてが伝聞で信憑性が低くなるので
比定地論争には参加しなくてもいいだろう (会稽東治)は(東冶)の誤りで、東冶は今の福州市を指すとする意見がある。
それが正しい。
現在の倭人伝に書かれている(会稽東治)の東は紹興市の東ということになるので、この方位だとちょうど屋久島あたりになる。
この屋久島あたりは、倭人伝が書いている水行十日地点である。
倭人伝では、ここで上陸して一ヶ月陸行してから卑弥呼の都に着くとしているので、会稽東治の東の場合はこの陸行一ヶ月がなかったことになる。
この一ヶ月の陸行を加えると、屋久島あたりから南へ一ヶ月ということになるので、その位置はちょうど福州市の東に当たる。
つまり、会稽東治は会稽東冶が正しく、倭人伝の文章は(会稽と東冶の東)の意味になる。
これは地図上では、屋久島から沖縄本島あたりに相当する。 >>345
そう、この時点で冊封の関係は成立していた。
あとは、皇帝の詔書と軍旗を卑弥呼に渡せば、その冊封が完了する段階だった。 >>352
狗奴国が邪馬台国に攻め込んだのは、ちょうどその“完了”の時期。
狗奴国の邪馬台国攻めは、冊封成立阻止が目的だった可能性が高い。 >>123
>平原鏡は、塗装されて破鏡されていますから、
この塗装って何のこと?
古鏡に見せかけるためのさび加工を塗装って言ってるの? >>128
>「踵を挙げる挙足」と「つま先を地面に付けての移動」の、
>両方を合わせたものが「歩だ」と言ってんだよ。
それだと足跡ひとつしか残らないね
歩の象形と合わないから不可
もうあきらめな
ザラコクの思うようにはどうやってもならないから
大陸史書の歩はすべて現代でいう複歩で書いてある >>307
>じゃあ、方角だけ合っているんだな。
方角の話は散々やっただろうが
末盧国ー伊都国間でもう間違ってるんだから、その先も正しいとする根拠がない >>328
>陳寿が、魏使らの記録(短里)を見て計算をした、
おいおい、短里で萬二千里は会稽に届かないし、
魏晋里で萬二千里は赤道の向こうなんだから、
そんな言い訳は通らないって何度も書かれてるじゃないかww
唯一言えることは、萬二千里はあてにならない、あてにできないってことだけだよ
短里で萬二千里(+島巡り仮説)という捏造に捏造を重ねたものしか九州説の
プラスの根拠がないんだから、短里で萬二千里をひたすら守るしかないよなww
でも、尺からも歩からも、短里は否定される
もういくら抵抗しても無駄だよww >>334
>それが、「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・詐欺師の九州説者。
なるほどww >>357
238 名前:日本@名無史さん :2018/10/18(木) 22:39:44.47
「『計其道里 當在會稽東治之東』(その(倭国の)位置を計ってみると、ちょうど會稽や東冶の東にある)の記述は、本当に陳寿が書いたものなのでしょうか。
とても緻密に計算されたような構成になっている倭人伝の中で、この記述が書かれている箇所が異質なのです。本来なら倭国の位置説明の部分に書くべき内容なのに、「倭の風俗」を記載している部分に挿入されています。
倭人伝はかなり校正を重ねて書かれていると考えられるので、よけいにこの記述の場所に違和感を覚えます。思い出したのでここに書いたなど絶対にあり得ない。校正の段階でいくらでも文節の位置を修正できたのですから。
陳寿が誤った資料を採用したとも言えますが、陳寿自身、この記述内容を信用していなかったのではないかと考えます。このため、位置を記載する箇所にあえて書かなかった。」
http://hokanko.mond.jp/wordpress341/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AE%E4%BD%8D%E7%BD%AE%E3%81%AF%E5%80%AD%E4%BA%BA%E4%BC%9D%E3%81%AB%E6%9B%B8%E3%81%8B%E3%82%8C%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%EF%BC%9A%E6%B8%AC%E9%87%8F%E6%8A%80 >>359
筆者は倭人の南方的な風俗を説明する段で、倭の位置関係を計算して、地理的にも納得できることだと考証しているのだ
異質でもなんでもないし、まったく変なところはない
>>359は合理的な理由もなしに、自説に都合が悪いというだけで史料を否定しているのだろう >>359
決して異質ではない
ここは、倭国の位置を特定するためではなく、
倭国の位置をダシにして中華史上の英雄である「夏氏」の名前を挿入し、ハクをつけるとともに、おもねったのさ。
そこんとこ、わかんねえのかなあ。 平原の鏡が塗装?
あーそういやこの馬鹿は確かどっかの個人が作った平原の鏡を見て本物だと思い込んで「八咫烏が刻印されてる」とかほざいて大恥晒してたバカか
曽根遺跡群について聞かれても「なんだそれは」とかアホ晒してたし
こいつらって実は平原の事さえも何にも知らないよな 偉大なる九州
鏡:5〜6期の古い鏡を打ち割って細々と配り4世紀後半から5世紀後半の古墳出土鏡まで完形鏡が出てこない
絹:麻布よりも粗悪な糸くずが一つ出るだけで、中期の13遺跡出土から激減しており絹製品の衰退の証拠となっている
祭祀遺跡:柱を一本立てただけの穴が一つ見つかるだけしかない
墳墓:近畿、東国を中心に広まる数百はある凡庸な方形周溝墓か、近畿、山陰でもっと古く大型の物が盛行する方形台状墓一つしかない
宮殿:影も形もない
丹山:この当時はまだ採掘されてない(九州の水銀朱の出どころも中国大陸と近畿、四国で九州産はない)
記述に完璧に適合してるな
間違いなく九州が邪馬台国だと分かるな ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 邪馬台国ってどれのことよ?
@倭国大乱で分裂する前に都だったところ
A倭国大乱で分裂した奴国の都
B倭国大乱で分裂した狗奴国の都
C卑弥呼共立後の都 この時代は国邑も国と呼ぶよ。
そもそも>>366は倭国について書いてないし。 >>364
>鏡:5〜6期の古い鏡を打ち割って細々と配り4世紀後半から5世紀後半の古墳出土鏡まで完形鏡が出てこない
そうね
正確には(九州説的に)4世紀後半から5世紀後半の古墳出土鏡ねwww 漢委奴国王印 いわゆる金印part2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537107301/33,40-45,52
33 :日本@名無史さん[] 投稿日:2018/10/16(火) 10:02:13.52
「漢委奴国王」は
日本では「漢の倭の奴国王」という読み方が一般的だが
中国の専門家には「委」を「倭」と読む人はほとんどいない。
57年 漢委奴国王
57年 新羅の王が倭人になる
金印をもらったと同時に新羅の王も倭人になってるから
「漢から(新羅や任那や九州北部の管理)を委ねられた奴国王」って意味だよ。
古代中国は朝貢した倭王に、朝鮮半島南部の軍事権などを与えている 。
例えば、倭王武が与えられた称号は、「使持節都督・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事安東太将軍倭国王」であるが
「漢委奴国王」もそれと同じ。 41 [sage] 投稿日:2018/10/16(火) 22:53:56.83
漢委奴国王を初代天皇とすると
漢委奴国王が神武天皇ということになる。
西暦815年に編纂された『新撰姓氏録』には
神武天皇の兄である稲飯命は新羅王の祖であると書かれている。
西暦57年 神武天皇が漢委奴国王になった。
西暦57年 稲飯命(神武天皇の兄)が新羅の王になった。
44 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2018/10/17(水) 07:24:44.79
帥である今が新羅の王
帥である升が倭の王
倭国大乱後に帥(大率)の上に君臨したのが卑弥呼
中国から見た序列ではあくまでも卑弥呼は倭王だが、東夷の世界では王の上に君臨する、皇帝や天皇のような存在だったのだろう。
45 名前:33[sage] 投稿日:2018/10/17(水) 10:57:01.35
『魏志倭人伝』にも卑弥呼を佐治する弟(卑弥呼の政治を補佐する弟)のことが書かれているが、
「一大率」は、伊都で佐治する人(伊都で卑弥呼の政治を補佐する人)のことだよ。
伊都佐治(いとさち) = 一大率(いったいそつ) >>367
倭人在帶方東南大海之中依山㠀為國邑舊百餘國漢時有朝見者 今使譯所通三十國 短里なんて存在しないことは証明されたし
南水行の南は東の間違いだということも確認できた
畿内説盤石だな 100国なり30国なりの連邦なんだから都となる国はあったろうな ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 バカ妄想のコピペをする奴ってぼくちゃんの考えたバカ丸出しの珍説をそこらに貼りまくるから迷惑極まりないな >>348
倭人の風習などは、魏が倭國を冊封することに決まったときに、帯方郡から役人がやってきて、あれこれ調べたもの。
張政が倭國へやって来たときの記述は、また別。 >>777
亜大和説の定番コント
大和バカ「大和派は記紀や神話を半分信用してる!神武東征を見れば大和説は史実だ!」
↓
じゃあ神功皇后は卑弥呼に比定されてるから、卑弥呼は大和の女王なんだな
という毎度のバカコント。 >>378
卑弥呼の冢を作る前までは魏使が邪馬台国に行っていたのに
壹與が王になり國中遂に定まった後に
張政だけ邪馬台国に行かなかった理由がない
卑弥呼の墓を小さくちょろまかしたいお前の都合がいい作り話
平原1号でもいいことになると、張政は糸島にすら来ていないことになる >>778
「南→東」などの嘘つき騙しのように、
それだけ学問の常識に反することばかり言い張ってれば、
大和説が、世界の大部分の学界や、7割の国民に相手にされなくなったのも、
当然だな。 >>780
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説馬鹿は、
目の前の苦境を切り抜けることしか考えないから、
警察の取り調べを受けてる犯人みたいに、
右往左往するのさ。 >>788
ほら、「南→東」の嘘つき騙しなどへの批判に対しての、反論理由が答えられない。
大和説とは、「証拠は?」などと衝動的に思いつきを口にして、
相手の返事も待たずにすぐさま「返事がない」と誹謗してるだけのもので、
なにも理由が無い妄想ってことだよ。 畿内の大御所は、とっくにトンズラした。
残っているのは、雑兵ばかりなりwww >>385
>畿内の大御所は、とっくにトンズラした。
トンズラした理由は九州説に負けた訳ではないからw
トンズラした理由は倭国(阿波)の実体を知ったから。 @阿波 >>385の妄想狂はキウスだろ
もしかしたら他もzarakokuに似せたナリスマシかも >>789
>>小爾雅にも、「二挙足」とは書かれていない。<
>「跬,一舉足也,倍跬謂之步」 で、跬が一舉足で、倍跬はその2倍
一舉足を2倍して二舉足にする以外に倍にできるところがあれば教えてくれ<
「歩」が「一挙足」の2倍ならば、
「「跬一舉足也,歩二挙足也」と書けばよいのであり、
「倍跬謂之步」ような「伝聞推論」のような書き方をしなければよい。
>次につま先を挙げて歩く、という事の説明であった、という可能性がある。
>ないよww 自分でもないと思ってるから「可能性がある」に逃げてる
バカすぎww<
ダメだよ。
殷周代の漢字の発生時期の論理の話ではなく、
はるか後代の小爾雅では、始めから参考文献にしかならず、
直接的な根拠にはならない、んだよ。 >>790
ブーメラン?。
「計其道里、當在會稽東治之東」で、九州説に致命傷を与えた筈であった武器が、
手元にまた戻ってきて、大和説がまた外傷を被ったのだな。
また投げて、大和説が自傷のトドメを刺のされるか。 天津神・・・天神、天孫(降臨)・・・・・、
老婆は、そういう話をしていたのかな?
電気、発電、雷?何の話だったんだろう
コミックを読んでみるとわかる、
ほとんど同じようなコンセプト >>791
>「跬」が一挙足だろ? わかる? 「倍跬で二挙足で歩のこと」だって
なんで理解できないの? 清白鏡?<
小爾雅が、殷周代よりもはるかに後代での、
「自己解釈による書き換え」文であったらしい、
という事が分かるから。 >>793
会稽東治之東を指摘されて死んだのは、
大和説だろ?。 >>389
>殷周代の漢字の発生時期の論理の話ではなく、
殷周代の漢字の発生時期の論理
つ http://www.zdic.net/z/1c/zy/6B65.htm
間違いなく今で言う「複歩」だな
いろいろごちゃごちゃ言ってるけど、
ザラコクの言い分は最初から最後まで間違っている
ザラコクの主張の「歩は足底ひとつ分」の例も、
「魏の度量衡では一歩=一尺」の例も、何一つ出せやしないww
まあ、ないものは出せないわな
ザラコク、バカすぎ 『鬼に横道はない』
調べてみると出てくるサイトにも書いてなかった?
スサノオは天津神
天津
↓
↓
国津(天孫降臨)、実際は同じ人物の話でしょ >>794
九州の銅矛も、武器の一種だとして造られた。
薄馬鹿でなければ、大和説者でも理解できるはず。 >>795
「九州の銅矛が武器ではない」なんて、
さすがにコレはなぁ。
大和説者って無教養すぎるだろ。 >>797
九州は、幾ら逆立ちしても、会稽東治の、直接的に「ほぼ東」にはなるが、
大和は、その九州よりも2倍位の遠くの間接的なオシャカです。
そう指摘されたのを、見えない聞こえない〜ですか?。
大和説スゲー (神経が)。 これもモレ(仮)が書いたのかな、数年前の、とあるスレ
「『ジャックと豆の木』も同じような話」 >>798
>誤魔化すな 九州は会稽東治之東じゃないだろ?<
陳寿の 「計其道里、當在會稽東治之東」は、始めから、
「魏使らの記録」からの女王國の大体の位置推定文であり、
近似的位置推定であり、
九州は、会稽東治の「東〜東北東」の範囲内に収まり、
8区分方向で、「ほぼ東」であり、
ほぼ「会稽東治之東」だよ。 >>800
大和説者は、
いちばん馬鹿にしていたザラコクにまで議論に負けて、
息を殺して隠れてる我が身かわいさ男 。
イザとなったらトンデモ大和説やスレ主を切り捨てて、
九州説に寝返ればイイと思ってるだろ?。
卑しいなあ。 >>807
大和説は、追い詰められると「証拠は?」の連発の荒らしを始めるから、
わかりやすいな。 『瞳はダイアモンド』?
同じようなコンセプトだしな・・・
作者の意図は、わからないけど >>806
>漢文の場合、檄とは木簡に督促や激励などの文言を書いて送ること。
檄を飛ばす、というのはそういう意味。
だから、台与と面会しているのに、檄を送るわけがない。
檄を作ったというのは、張政は、台与とは別のところにいたということ。<
関係がない。
「檄」は、木簡でも手紙でも直接面会しても、檄する事が出来るもの。 >>402
>大和説は、追い詰められると「証拠は?」の連発の荒らしを始めるから、
>わかりやすいな。
証拠がなかったら相手を追い詰められるわけないだろ
九州説信者の知能が低いのが丸出しだな >>812
>後円部径なので何の問題もない<
巨大な前方後円墳を見たら、当然「前方部も含めた全体」を見てしまうものであり、
見るものであるから、
後円部だけを見た、という大和説は、×。 あとファイナルファンタジー
『くらやみのくも』・・・その他?
なぜ同じ話(コンセプト)なのか?なんだよ、
神殺し(金の元、金のなる木)? >>814
>ことは、簡単明瞭。
邪馬台国は、中国中古音ではヤマドイ。
ヤマドイは、卑弥呼のいる国の名前の音写。 山門は、古代九州ではヤマドと発音されたと推定。
そのヤマドの音写が、ヤマドイ。 ヤマトの音写では、ヤマドイにはならない。
こういうこと。<
ことは簡単明亮。
魏志の記載は「邪馬壹國」である。
こういう事。 >>816
>それが、根拠ないからダメでしょ
通説ではそれは甲類だから、曖昧母音で乙類と考えられる臺とは似ていない
大和は、乙類でピッタリ だから学者に九州説支持者がいない <
それが、根拠がないからダメでしょ?。
魏志は「邪馬壹國」であって、邪馬臺國ではなく、
勿論「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙しの文言であり、
甲類乙類などというのは、8世紀の大和での文字選択の話であり、
3世紀の魏使らには関係が全くない事なんでしょ?。 >>822
つまり、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の主張には、
結局、根拠も証拠も無いのですね 。 >>824
「南→東」などの嘘つき騙しの根拠が言えず、
罵るだけになったということは、
大和説者や大和説学会教育界が論破された、ということだな。 >>827
>5世紀初頭、松阪に進出した畿内系豪族と三河の豪族は同盟していて、伊勢湾の海運を牛耳っていた。
また、この二つの勢力の同意なしには、東海地方との物資輸送もままならなかった。<
5世紀初頭には「畿内」なんて存在しなかったから、×。 >>827
大和がよくこういうパターンで論破されてるな。
学習しろよ。 >>829
ここ、掲示板なのに、大和説をからかうスレになっちゃってるなぁ。
自戒を込めて反省ww。 >>830
「南→東」などの嘘つき騙しの、
無能無謀な大和説馬鹿が来るせいだ。 >>835の訂正追加
だから大和説は学問でいられなくなった... 畿内説は印象操作ばかりだもの。
テンプレと称して吐き気を催すような妄想を書き散らしているし。 >>412
>5世紀初頭には「畿内」なんて存在しなかったから、×。
5世紀初頭に「畿内」な存在しなかった
って証拠は? >>409
>魏志は「邪馬壹國」であって、邪馬臺國ではなく、
>勿論「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙しの文言であり、
じゃ、九州説の山門説は破滅だね 『ボーボボ 田ぼ』〜『日本昔話 雷さまと桑の木』
なぜ同じなんだろう M>>418
あんさん あかんてー
あんたのカキコミ
あかんてー
反論とか くわしく頼むと
言わんとあかんてーー 『広瀬座』
というところの話だと思うんだけど、あと家の先祖の写真とか、
葱の華?・・・その他 畿内説の鬼門を突破するしかない
大平洋ルートしかザラコク他 九州説を打撃を与え、倭人伝に忠実に論ずるのは太平洋ルート
投馬国を吉備あたりにする必要無い・・出雲説を完全否定するつもり?
投馬国は九州と認めない限り方位は解読できない 『福島 民家園』
稲田の保存されている家?なんだけど、
名前の読み方を何やら〜という話をしていたり。
数十年ほど前までは「す」のほうの読み方で?
何やらとか。
他の家の人について調べてみても、変えていっている人ばかりだしな、
また昔の姓(名字?)に戻したとか。 まー全体的には畿内説の方が素直だよね
九州説は短里水行日程方位墓の大きさ等々おかしな仮説が多過ぎる >>404
直接面会している場合では、「檄」の字は使わない。 支持者は少ないが
私はアンチ畿内説・・奈良を中心とした論調はおかしい
また、アンチ纏向、箸墓
京都が王都であり淀川水系が邪馬台国 北は若狭、出雲 東は関ケ原 南は奈良盆地 西は淀川まで >>431
>その前に知能失ってたけどな
失う前に、「最初からなかった」説に一票 京都は平城京作ったときも水捌けが悪かったらしいし違うんじゃね 太平洋ルート
投馬国は宮崎 南に向い黒潮か四国沿岸沿いで南紀 陸行で京都
奈良は南紀から陸行は難所(山脈)が多いから河内経由京都
阿波が問題だが、阿波は独自の国家圏 >>408
魏志の邪馬壹は、皇帝のいる都を指す臺の字を僻字としたため、元資料にあった臺の字を避けて壹の字を当てたもの。
陳寿が臺の代わりに壹の字を用いたのは、恩のある司馬懿の懿から壹を取り出して司馬懿をヨイショし、晋の皇帝の司馬氏を喜ばしたということ。
これは、ほぼ通説になっている。
邪馬壹国は、元々は邪馬台国。 >>437
それを言うなら、奈良盆地も水はけが悪かった。 >>439
訂正
最後の行にある邪馬台国→邪馬臺国 畿内説が瀬戸内海に面した摂津や河内を都に主張していたら、かなり手強かっただろうな。
纒向だの葛城だのでは、ろくなものが出ないのはわかっているから、ただの児戯に過ぎない。 鉄はどうなんだろね
畿内が九州を傘下に収めたいと思う動機になるのかな
逆に九州が西に向かう理由は薄いよね >>437
ありがとうございます。
京都は水はけは良いと思いますが違いますか?
標高からいけば大阪湾に流れますが・・・・ 製鉄のための伐採できる森林資源。
領土を拡大しながら搾取するのが植民地の基本だからね。 土地が悪いらしい畿内よりしょぼい墓しかない九州www >>444
京都盆地は小椋湖の底ですよ。
奈良盆地は古奈良湖の底ですよ。
何百年もかけて陸地化していきますが、8世紀に大きな条里制の都を建設できるほどには過疎の土地でした。 >>432
檄の字は、督促や励ましを書いた木簡を相手に送ること、だから。 鉄・絹は畿内説では劣点です
畿内に限定するから
京都が王都なら近江 北陸まで邪馬台国の領地は広がります
狗奴国は和歌山 阿波 連合 淀川の水運を使えて日本海にもなんとかアクセスできる京都の方がまだ奈良よりマシかもしれない。
奈良なんて、畿内でも有数の後進地域なのに。
貧乏くじを引いたな。
畿内説なんてしょせんは7世紀以降の興隆を3世紀に投影しているだけの幻想だよ。 『きつね たぬき 天ぷら つきみ』
この曲も、宗教的なものでしょ
「ちから」とか >>447
しばし時間をください
「小椋湖」京都南部か奈良盆地北部か???
お題有難う座います
即答できませんが、考えてみます
諸用で失礼します >>447
>京都盆地は小椋湖の底ですよ。
小椋湖って現在のどこだと思ってんの?
九州ってバカすぎ 天ぷら=ぷら崎のこと?
なぜか、このスレッドにも現れたり
『2ちゃん 信on ぷら崎』
新宿が〜、アルタ前に来い、何やらと言っていたり 信onスレもそうなんだけど、
なぜ家の写真の話をしているのか?なんだよ
「ポテオ」イモ類の葉でしょ?
「モアイ」うらしまマリン(『松傾』)
「」「」「」・・・「」 >>456キウス
>@阿波さん
>阿波は狗奴国かも??????
たしかに、狗奴国は倭国(阿波)の南方(みなみがた)、阿南市周辺ですよ。
しかし、同時に邪馬台国も倭国(阿波)の北方(きたがた)、阿波市周辺です。
ちなみに、京都で「其山有丹」を説明できるのかな? そりゃ無理だね。 以上京都終了。 @阿波 「チョパー」というは
『ボーボボ』〜『ワンピース 粉雪』でしょ 失礼 もう今日はお邪魔しません 携帯からカキコムかも知れませんが
@阿波さん
淡路島北部と南部はいかに考えてますか?
私は淡路島は国境/非戦闘地域か中立国と思います 纒向遺跡の外来系土器、東海、山陰系は初期の頃から変わらず多いな。
吉備系は台与の頃にはぐっと減る。
代わりに初期の頃無かった河内系が台与の頃にぐっと増える。
吉備系が減った原因は何なんだろう。
卑弥呼→男王擁立→内乱→台与
この間に何が起きたのだろうか?
男王とは誰なのだろうか?
布留がキーを握っているかもしれない。
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものかな。
石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル
なぜ布留社の【太刀】何だろうか?
太刀は本来誰かに使われるものだからなぁ
ニギハヤヒはどうなってしまったんだろう
切られたカグツチの血が湯津石村に落ちて生まれた神、甕速日、樋速日、建御雷。
ニギハヤヒとどういう関係があるのか?
ニギ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>462キウス
>淡路島北部と南部はいかに考えてますか?
>私は淡路島は国境/非戦闘地域か中立国と思います
地図を見てみなさい。 古代の最先端都市「鳴門」と淡路はすぐ近く。 陸続きのようなもの。
古来より、淡路・讃岐は倭国(阿波)の領分です。 @阿波 平安京の右京は元が湿地であったため住みにくく、早々に廃れた
鴨川は戦後に川底を掘り込むまでは頻繁に氾濫していた 賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬものと(白河上皇)
秀吉の造った御土居の東側は鴨川の氾濫から防ぐ役割を兼ねていた 宇治川が京都盆地に流れ込むところは、京都盆地の中でも最も低いところに位置しており、
琵琶湖から流れ出る唯一の河川である宇治川は、京都盆地へ流入する平等院付近から、京都盆地の西端にあった木津川、桂川との合流点の上流側にかけて広大な遊水池を形成していた。
これがこの時代の巨椋池である。
平安京と平城京の間に位置しており、古代、中世を通じて、水上交通の中継地として大きな役割を果たした。
また陸上交通は、巨椋池を避けるように盆地の外縁部を通っていた。
巨椋池の北側には多くの島州が形成されていた。現在も残る槇島や向島や中書島などの地名はそれらが巨椋池の水面に浮かぶ島々だったことに由来し、
これらを一望にする景勝地・指月の丘(現在の桃山丘陵南麓)には橘俊綱によって伏見山荘が営まれた。
wiki 巨椋池より引用 >>838
>中国人が、会稽の東だと思い込んだということだ。<
ちょっと違うね。
女王國への説明文に対して「計其道里、當在會稽東治之東」という判断文は、
陳寿の「地の文」だ。 洛中の開拓なんて、何世紀だよ。
寝ぼけているんじゃねえ。 地形図で標高を確認することもできない無能が何か吠えてるなw >>844
>水行三十日と陸行一か月の距離<
ちょっと違うね。
「水行二十日」は、不彌國から側副傍線国の投馬國への所要日数説明。
「水行十日陸行一月」は、郡から目的地の「女王之所都」までの所要日数説明。 >>846
「南→東」などの嘘吐き騙しの根拠が言えずに、大和説が終わったよ。
大和説者は、全員、証拠が出せなくて死んだまま。 >>847
安直に他人に聞く前に漢和辞典を引いて、
それから、しっかりした学者の書いた訳本を何種類か読みなさい。
まかり間違っても、
「南→東」などのような嘘つき騙しである事が決まっている大和説学者や、
文部省推薦型の学者の辞典や訳本は、読んではいけませんよ。 >>860
>魏志倭人伝に書かれた女王國(邪馬壹[臺]國)が大和に合致しないだけで、
何らかの文明があったのは確かだし、日本になった可能性も高い。<
大和は、筑紫城の倭奴国の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であった。 >>864の訂正
「南→東」などの嘘つき騙しで負けた、
敗残大和説のイヤガラセが汚いな 。 >>879
「南→東」まどの嘘吐き騙しの大和説を唱える学者の説は、
唱えた時点で全て・・・・でありオカルト。
学者崩れのおっさんの希望でしかない。 >>885
>『周髀算経』の中で、300歩=1里、6尺=1歩が記されているから、1里=1800尺は、変更がない <
周髀算経の、
「立二十八宿,以周天曆度之法。
術曰:倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步。
令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分。・・・」
は、「平地徑二十一步,周六十三步」の「歩」系の寸法記載を、
わざわざ距離が少し小さい「尺寸分」系表記に書き変える、
という奇妙な記載をしており、
前漢始めに「周髀算経の収集」をした筆者が、
「始皇帝の1歩=6尺」に従っての「自己解釈に拠る書き足し」をした可能性が高い。
>そして、『周髀算経』の里が短里だというなら、尺も短尺でなければならなくなるし、
寸も当然短寸になる
で、1寸千里の一寸の長さは何センチなんだ? 谷本氏は「通常の寸」で計算してるよな?ww
まあ、八尺棒の方も短くなるから、比例定数的には変わらないけれど、
短寸の一寸は4ミリくらいだぞww <
ならない。尺寸分系の寸法は、殆ど変わっていない。
>そんな小さな差が正確に測れるっていう主張もおかしいんだよなww <
お前の頭と顔貌がおかしいんだよなあ。
>そもそも『周髀算経』の蓋天説が間違っているんだから、それを立論の根拠にしても結局最初から間違っているってことにしかならない<
蓋天説は、周地付近での大地平面の近似が効く範囲での推論であり、
近似モデルとしては、別に問題はない。 >>886
>九州説は邪馬台国の大きさを間違えている<
邪馬台国なんて、存在もしない嘘つき騙しの文言。
>九州が辺境レベルの巨大国家だから 実際今も昔も辺境だけど<
唐会要は倭国伝と日本国伝とを、違う国だとして、伝をはっきり書き分けており、
倭国伝には「正北抵新羅」としているから、倭国は北部九州にあった、という事になり、
新唐書日本伝で、大和は、神武が移った地、として倭国と区別されている。 >>887
>奴国の位置までは確定したけど <
日向峠の西麓〜早良平野の国。
>九州にはそこより大きな国が無いから仕方無いよね<
邪馬壹國は、福岡平野中央部〜筑紫平野、及びその周辺丘陵地。 >>889
>>大和の前方後円墳は、3世紀末以後<
>そんなこと田舎爺さんが理由も言わずに断定したって
日本の教科書は書き換わらないよ<
大和の前方後円墳は、卑弥呼の墓の「冢」ではないから、
卑弥呼の頃よりもずっと後であり、
大和の石塚の庄内も、筑紫からの伝来であり、筑紫よりも50年位の遅れるから。
という事は、
教科書会社や執筆大和説学者らが、「南→東」などの嘘吐き騙しであったのであり、
文部省や右翼マスコミや右翼大和説学者らに忖度して、
子供らを「戦前の万世一系皇国史観の戦争国家」に参加させるような騙しをしていた、
という事になる。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>345
これは、難升米らが卑弥呼の使節として魏に朝貢し、その返礼として魏が送った使節団。
邪馬台国が狗奴国と戦争になり、その時、帯方郡が邪馬台国へ送った張政らの使節団とは別。 >>443
纏向に連合政権がつくられたそもそもの動機は、鉄剣の入手。
農耕具などの鉄器の入手は、当初は主な動機ではなかった >>474
倭人伝の行程は、途切れることのない一文。
唐津から有明海を南下し、薩摩半島に沿って進んで、開聞岳付近から屋久島へ渡り、そこから上陸して一ヶ月陸行ののちに卑弥呼の都に着く。
放射状の行程の記述になってない。 >>490
この張氏の(到)字の解釈は、辞典の解釈と異なる。
至は、(真っ直ぐな矢が一線に届くさま)を表している。
到は、(反った刀のような湾曲の曲折をへて届くさま)を表している。
−学研大漢和字典(藤堂明保編)
起点になる、ならない、との解釈はみられない。
到字を含む熟語においても、そのような解釈はみられない。 読み分ける必要性無いけどな
自説の結論に導くための見苦しい操作でしょ
聖書の暗号を解いたと言ってる人と同じ >>463
減っているのは、吉備だけでなく、西部瀬戸内もへっていて、最終的には西部瀬戸内はまったくゼロになる。
一方では、河内、播磨、関東が現れて、東海、北陸山陰なども継続的に増加する。
纏向連合の中で、吉備と西部瀬戸内の勢力がはじかれてしまう格好だ。
纏向連合の勢力関係が河内、播磨以東の勢力が主導権をもつようになったのではないか。
これ以降、纏向に対して、吉備が意固地になっているような節がみられる。 新語 「纏向連合」
邪馬台国と関係無いからどうでもいいけど A「先生 纏向が王都ともう嘘はつき通せません」
先生「将来が無くなるぞ」 >>493
それ、各地の「忌部はん」の列挙ですか?
「外来系土器」といっても、各地の「忌部はん」が持ち寄った「東阿波型土器」様式だよ。 @阿波 >>493
森浩一さんや上田正昭さんたちが復権を言ってた先代旧事本紀を無視してる馬鹿には何も分からない。
まったく滑稽だ。w
纏向に王権が来るのは4世紀初頭〜前半の崇神以降、それ以前は王権などない。
崇神は物部の母から産まれた物部系天皇。
纏向は物部の遺跡、だから瀬戸内や東海など物部ゆかりの土地の遺物が出る。 京都の五塚原古墳と大阪交野の雷塚古墳は箸墓と強い関連性がある。
先代旧事本紀を無視してる馬鹿には何も分からないだろ。
これが箸墓古墳被葬者とその両古墳の相関関係だ。
長溝(山城県主の祖・五塚原古墳)
┃
イカガノシコオ(箸墓)━━ 真木姫
┃
タベノ宿祢(交野連・雷塚古墳) >>497
>崇神は物部の母から産まれた物部系天皇。
その「物部の母」を唯一、往古よりお祀りしているのが、倭国(阿波)の「忌部の里」。 @阿波 >>491
>至は、(真っ直ぐな矢が一線に届くさま)を表している。
>到は、(反った刀のような湾曲の曲折をへて届くさま)を表している。
なるほどがってん。
唐津・末盧国から、佐賀川上の伊都国まで500里の道は、反った刀にそっくり。
この伊都国から、佐賀神崎の不彌国まで100里は真っ直線だ。 >>500
>その「物部の母」を唯一、往古よりお祀りしているのが、倭国(阿波)の「忌部の里」。
往古よりお祀りしろと命令されたからお祀りしてきたのだろうwww >>503
>往古よりお祀りしろと命令されたからお祀りしてきたのだろうwww
そうだね、物部の祖地だからね。 @阿波 >>481
>「始皇帝の1歩=6尺」に従っての「自己解釈に拠る書き足し」をした可能性が高い。
史料はそのまま読まなきゃいけないんじゃなかったのか?
ザラコクの言い分の方が、自己解釈による勝手解釈だろ?
「南≠東」ばかり書いてるくせにダブスタがスゴいww
畿内説はきちんと魏志倭人伝の構成(国々が順に北から南に配列されている)や
陳寿の認識、日本列島の現実の配置から、南至 水行と書かれた理由を説明しているが
ザラコクは自説に都合が悪いからという理由だけで、なんの理由もなく
勝手に「そうだった可能性がある」と逃げるww >>504
> 物部の祖地だからね。
それ賛成。
国生み神話で言えば淡路が最初、
そしてイザナギ・イザナミが契りを結んだのはオノコロ島こと沼島。
前方後円墳と言えば上空から見た鍵穴の様な形ばかり議論されるけど、
古代人は上空から見れないので、人間目線・水平目線から見た形の方が重要。
あれはオノコロ島こと沼島を模したものだろう。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1a/Nushima_1.jpg/300px-Nushima_1.jpg
その聖地・淡路島や沼島の南北にある播磨や阿波讃岐から前方後円墳の祖型が見つかる。
神話と考古学が一致してるのだ。 >>484
>大和の石塚の庄内も、筑紫からの伝来であり、筑紫よりも50年位の遅れるから。
これ1970年代の年代観なんだよな
その後、列島内の人の交流の活発さや、九州における土器出土の共伴関係から、
土器の変遷は各地でほぼ時間差なく進むことが常識となっている
九州説ってのは、1970年代、つまり4,50年前からまるで進歩がなく
思考停止してるんだよな
話がかみ合うわけがない >>507
>その後、列島内の人の交流の活発さや、九州における土器出土の共伴関係から、
>土器の変遷は各地でほぼ時間差なく進むことが常識となっている
九州が交流のハブだということだよ。
畿内の、それも尾張としか直接交流していなかった纒向は少なくとも辺境の地だね。 >>508
尾張としか直接交流していなかった
って証拠は? >>890
大和って、未だに珍走やDQNがイキってる田舎だしwww。 >>892
>>南を東と読み替えてはいけないということだ。 畿内説は誤り。<
>読み替えないとテンプレに明記されてるので問題なし<
最も「大和を直接的に否定する」証拠である「南]を「読み替えない」として、
他の「大和に都合の良いインチキ解釈をした」間接的情報によって、
スレ主は「南→東」の嘘つき騙しをしているんだから、
スレ主は「・・・・詐欺師」であり、インチキ。 後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。
○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば 津守経国
八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。
○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば
淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ 仁徳天皇
自凝島は字の如く、自ずと固まってできた島、淀川河口の洲のこと >>893
>>ダメだ。 劉徽の「九章算術注」の「九章算術」自体が、
秦漢朝の長里で書かれた書であるから、魏朝の度量衡の根拠になっていない。<
>本文と無関係だから批判は的外れだ。
劉徽注には「當今大司農斛、正深一尺。」もある。
當今大司農斛=魏の銅斛も同時に測定されているのさ。
當今大司農斛:深一尺
王莽銅斛:深九寸五分五氂=23.1cm<
ダメだ。
魏徽は、始めから「魏朝の周髀算経の度量衡」を無視して、
「秦漢朝の長里で書かれた九章算術」の「イイとこ取りの説明」をしている。
丁度「南→東」などの嘘つき騙しをした大和説と同じ。
これが資料実態。 >>895
>>ダメだ。 劉徽の「九章算術注」の「九章算術」自体が、
秦漢朝の長里で書かれた書であるから、魏朝の度量衡の根拠になっていない。<
>魏代になっても秦漢以来の1里=1800尺は変わっていないって証拠ですけど?<
魏代になっても、魏朝の文帝らの指示に従わず、
秦漢朝の度量衡を踏襲した学者がいた、
という事の証拠だ。 >>907
「南≠東」などの痛烈なパンチを食らった大和説が、錯乱状態です。 >>907
「南≠東」などの痛烈なパンチを食らった大和説が、錯乱状態です。 新スレ立てました。
高天原にある卑弥呼の墓
https://lavender.5ch.net/history/?v=pc#2
>>1よ、卑弥呼墓=箸墓などという、
もう誰も支持しない説に拘泥するのはお前の勝手だが、
沈む泥船に載ってる様なもんだぞ。w
寺澤さんも降りたようではないか。 三角縁自体は魏で流行ってたんでしょ
神獣鏡ではないだけで
どこでチャンポンされたのだろ >>517
トンデモ説の人はどうして
平気でウソをつくんだろうね
簡単にバレて自分が損をするのに >>912
>>前方後円墳は、卑弥呼の「冢」の後。<
>つまり箸墓以降が定型化前方後円墳だな 問題ない<
石塚も箸墓も「撥型」前方後円墳であり、同じ形の前方後円墳。
久住編年によって、いずれも、那珂八幡の模倣発展型。 >>522
>久住編年によって、いずれも、那珂八幡の模倣発展型。
久住編年で石塚は那珂八幡の模倣発展型となってない、平気で嘘を言うな。
おい加古川のズラ、いい加減にしろ。 「纒向石塚古墳」朱塗の鶏形木製品の水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。 @阿波
「纒向石塚古墳」も倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw @阿波 >>512
>自凝島は字の如く、自ずと固まってできた島、淀川河口の洲のこと
淀川河口というか、河内湖の中の島ってのはあるかもしれない >>918
>>(周代の歩は)甲骨文字時代とは、違う文字になっていた事になる。<
>違う文字だったらもう読めないし意味をなさない<
人類の「人間の大きさレベル以下の長さの単位」は、
成人の身体の一部分の「平均的な寸法」を単位にした、という可能性は非常に高い。 >>921
「会稽東冶の東」の件でも、
陳寿が短里を使って位置推定をした事は明らかになったし、
「南→東」などの嘘つき騙しもダメ 。
大和説、もうお手上げでしょ?。 >>922
大和が独立国として九州倭国と対峙する力を持っていないことは、
古墳や遺跡みればわかる。
そして大和は、日本の、出雲縄文〜九州倭国の弥生の間でほぼ空気。
経済政治の中心地にはなれない土地ってこった。 >>924
陳寿は短里を知っており、それを使って、魏使らの記録から、女王國の位置推定が出来た。
だからこそ、魏使らの短里の資料をそのまま信じて、
(沖縄や赤道付近を指定することなく)、
「会稽東治の東」だろうという位置推定が出来た。 >>928
>筆者は道里を計算して考えて、倭人の国を「会稽東冶の東」だと思ってる<
ウソを付くな、・・・・大和説詐欺師。
筆者の陳寿は「会稽東治之東」と書いており、「東冶」とは書いていない。
「東冶」と書いたのは、
「自己解釈に拠る書き換えの非常に多い」後代史書の范曄の後漢書であり、
半分×書だ。
>ということは、筆者は自分が書いた道順どおり12000里進んで、もう長江より南まで行ってると思ってる<
行っていない。
>ということは筆者は短里なんかで書いたつもりはなく、<
短里だと理解しなくては、「会稽東治之東」にはならない。
>書かれた方位も間違ってることが確定してる。<
方位も「南」を「南だ」と読んだから、陳寿は、
女王國は九州島付近だ、と推定出来た。 存在もしない物を知っていたはずなかろう
倭まで万2千里という伝承は知っていたにしても >>929
宮廷の公式記録を見れる立場の陳寿が知っていたんじゃあ、
魏晋朝の短里は存在した、
ってことだな。 >>930
「南→東」などの嘘つき騙しがばれた大和説は、
荒らして誤魔化すしかないわけだ ww。 >>931
公孫氏時代の単位だって、魏志の記録が単位なんだから、
「長里」言い訳もありえないな。
魏の天下で、旧政権の、漢朝の単位を使って報告なんか書くわけないもんな。
そんなことしたら反逆者だから。 >>933
魏や郡の役人たちにとっては、明らかにある程度既知であった半島や海峡の里を、
6倍位も間違えた、という論は正常ではないし、普通ではない。
「南→東」などの嘘つき騙しのトンデモ大和説名物の、「1例帰納」というやつだ。 >>934
陳寿は実際の距離なんか知らない。
千里と書かれた記録を魏志にまとめただけ。
で、実際の地理と比較して見るとかなり短い里だったんだよ。
でも陳寿は長い里だと思っていたから、倭は帯方郡からずっと南の会稽の東にある国だと思ってしまった。
なぜ短里のようなものが使われていたかは想像するしかないのだが、そのような里で魏志東夷伝が書かれていることは事実なんだよ。 >>527
>成人の身体の一部分の「平均的な寸法」を単位にした、という可能性は非常に高い。
だから成人の身体を使って歩いたときの平均的な複歩の長さが「步」という単位になってるんだよ >>528
>陳寿が短里を使って位置推定をした事は明らかになったし、
嘘つきww
短里を使ったら萬二千里って九州北部までしか来ないんだろ?
会稽東治の東に全然届かないじゃないかwwwww >>934(また途中で投稿ボタンを押してしまった事になったようだから書き直し)
陳寿は、当然実際の距離なんか知らない。
魏使らの「千里」などと書かれた記録を魏志にまとめただけ。
で、陳寿も、実際の大体の地理と比較して見ると、
(漢里の長里ではなく)かなり短い里だったんだよ。
そして陳寿のも短里だと思っていたから、
倭は帯方郡からずっと南の会稽東治の東にある国だと位置推定が出来た。
なぜ短里のようなものが使われていたかは
そのような里で魏志東夷伝が書かれているこが事実がだったから、なんだよ。 >>491
>>492
>>502
「”到”と”至”とは、漢字の三大要素である形(字の形態)、音(字の発音)、義(字の意味)が全て違う字である。
しかし、日本語で読むと、両字とも”イタル”と読むので、全く同じ字と誤解されている。
まず、両字を英訳すれば、その違いがよく分かるが、
”到”はreachまたはarrive to、”至”はtillまたはuntilというように違っている。
日本の漢和辞典は、これらの両字をどう扱っているのかは知らないが、中国の辞典(例えば、台湾中華書局印行の『辞海』)は、明らかに二つを違う字としている。
『辞海』によって、”到”と”至”の意味を調べて見よう。
”至”は至部の字であり、その意味は、第一に”極”、第二に”到”、第三に”大”、第四に”善”...というようになり、『魏志倭人伝』では、素直に第一の意味を取っており、”.....まで”として理解したらいい。
”到”は刀部の字であり、その意味は、第一に”至”、第二に”周”、第三に”倒”、第四に”弔”...というようになり、『魏志倭人伝』では、素直に第一の意味を取っており、”.....にいたる”として理解したらいい。
(中略)
”到”は現代音では”タウ”、中古音では”トウ”でいずれも陽音
”至”は現代音では”ツウ”、中古音では”チイ”でいずれも陰音
というようになり、もともと違う意味を持つ両字である。
(中略)
『三国志』を見ると、いたるところにこの使い分けが見かけられる。」
「誤読だらけの邪馬台国」p23-27
http://iss.ndl.go.jp/sp/show/R100000002-I000002197163-00/ >>935
会稽の東という表現からは、魏の中央にいた人間も知も知っていて、
名前だけ同じで中身が「長里とは違う単位」があったことがわかるんだよ。 >>936
「6倍位も違う里距離」ってそういうの、常識の世界では、
「裏付けている」とは言わなくね?。 九州の現実
鏡:5〜6期の古い鏡を打ち割って細々と配り4世紀後半から5世紀後半の古墳出土鏡まで完形鏡が出てこない
絹:麻布よりも粗悪な糸くずが一つ出るだけで、中期の13遺跡出土から激減しており絹製品の衰退の証拠となっている
祭祀遺跡:柱を一本立てただけの穴が一つ見つかるだけしかない
墳墓:近畿、東国を中心に広まる数百はある凡庸な方形周溝墓か、近畿、山陰でもっと古く大型の物が盛行する方形台状墓一つしかない
宮殿:影も形もない
丹山:この当時はまだ採掘されてない(九州の水銀朱の出どころも中国大陸と近畿、四国で九州産はない) そろそろザラコクの言い分が常人には理解できない域になってきたな >>961
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘つき騙しの大和説の素人爺さんがの、
アホな無根拠断定を連投しとるな。
大和説の恥さらし、とさぞ笑われてることだろう。 >>965
大和説唯一の拠り所「南→東」が死んだし… >>983
もはや「南→東」などの嘘つき騙しの妄言を吐くだけの、
キチガイ大和説のスレ主ら。 >>985
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説なんて、
なんの根拠もないw。 ハチのムサシは死んだ。
畿内説もしんだ、大和説もしんだ、、、 >>984
>別に箸墓じゃなくても全長で径百歩に相当する古墳なんて
畿内にいくらでもあるけれど<
畿内なんて、存在もしない嘘つき騙しのインチキ文言。
>まあ卑弥呼の墓の特定はそんなに邪馬台国の決定的要素にはならない<
邪馬台国も、存在もしない嘘つき騙しのインチキ文言。
>魏志倭人伝の記述が正確とも限らないし<
99.5%以上の正確さ。
大和の確率は、0.5%以下。
>邪馬台国と関係ない場所に作られたされたというのもあるかも知れない<
「正北抵新羅」の北部九州の九州倭国のインチキ筑紫になら、存在する。 >>986
>>「歩」という長さの単位文言は、当然「一回の歩」の長さが単位。<
>現代日本語で考えてどうする<
歩の字形の発生時期での論里が根拠。 >>986
>>何度も言うが、歩と言ったら単歩単であり、大体「1足底長」なんだよ
だからどうやっても1歩は25.5cm。<
>歩が足底長だという例を出してみろよ<
周髀算経の、
「立二十八宿,以周天曆度之法。
術曰:倍正南方,以正勾定之。即平地徑二十一步,周六十三步。
令其平矩以水正,則位徑一百二十一尺七寸五分」 と、
魏志の、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」が証拠。 >>513
>ダメだ。
>魏徽は、始めから「魏朝の周髀算経の度量衡」を無視して、
>「秦漢朝の長里で書かれた九章算術」の「イイとこ取りの説明」をしている。
>丁度「南→東」などの嘘つき騙しをした大和説と同じ。
>これが資料実態。
「短里」なんておかしな単位は存在しないから、批判は的外れだ。
魏徽は、文帝の定めた「大司農斛」を測定して正深一尺と書いている。
これこそが「魏朝の度量衡」の証拠そのものだ。 >>991
>曲学さんの発見した御所市の玉手山は径百余歩に相当する。<
「南≠東」などに拠って、×。 >>995
「南→東」などの嘘つき騙しや、
都合の悪い史料事実をヘイトスピーチ抹殺して大和説に合うような曲解をして、
九州説に寄生しないと自説も唱えられないくらいに、
大和説が落ちぶれてるんだな。 歩く事を表現した字から足のサイズに飛躍する発想は異常だわ まぁ無理やりな屁理屈でタンリとか言う妄想を喚き散らすしか他にネタがないんだからな
九州説なんてキチガイの妄言でしかないとよく分かる 寺澤さんが箸墓説から逃げたというのは賢明。
しかしホケノ山なら更に無理がある。
だいたい墓の大きさが違う、棺あり槨なしからほど遠い。
ホケノ山埋葬者って武具が多いし男の武人でしょ。
ヒミコが纏向にいたという説自体がにっちもさっちも行かなくなっている。
だからと言って九州であるはずもなく、阿波でもない(先に言うw)
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃)C懿徳
ヒメ踏鞴 B安寧
ヒメ踏鞴 A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武
葛城ですね、はい終わり。 >>86
>魏志倭人伝に書かれた女王國(邪馬壹[臺]國)が大和に合致しないだけで、
何らかの文明があったのは確かだし、日本になった可能性も高い。<
「邪馬臺國」なんて、范曄の「自己解釈に拠る書き換え」だから根拠にならないし、
大和は、
「正北抵新羅」の九州倭国から別れた別種の旧小国であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であったし、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であった。 >>95の訂正
倭人は「夷人不知里數、但計以日」だから、
「里」を知らず、だから「歩」も知らず、
だから、倭人からの伝聞ではなく、魏使らの実見による「百余歩」だとおもうよ。 >>567
ヒミコ墓=箸墓という説は沈みゆく泥船。
だから寺沢さんは降りた。
というか纏向説自体が沈みゆく泥船なのだが。 だいたい奈良盆地をザッと見渡して、
径百余歩の塚らしきものが箸墓の円墳部分にしかない。
卑弥呼の墓はとりあえずここであろう。
しかし箸墓にはモモソ媛の伝説がある。
モモソ媛は一皇女であり女王ではない。なんだか変だ。
時代も崇神時代まで生きているから卑弥呼にするのは無理がある。
しかしまぁ他に候補の塚がないからいいや、これで行こう。
大型建物が出てきたしちょうどいい。
まぁ纏向説なんてこの程度の底が浅いもの。 >>568
>ヒミコ墓=箸墓という説は沈みゆく泥船。
>だから寺沢さんは降りた。
倭国(阿波)の実体を知ったんだろうね。 @阿波 阿波のバブルを知って、こちらの望みも絶たれたのさ。
ま、阿波といえば忌部、古墳作り部と石棺担ぎ部で頑張ってくれ。 その底が浅い纏向説に比べてどうよ、この天才の説は。
まぁわしなんだけどね。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
魏志倭人伝に書かれた卑弥呼の墓が高天原にあった。
高天原最有力地・御所市高天の日本最古の神社・高天彦神社の境内に、
径百余歩(約150m)の塚があり、魏志倭人伝の記述通り奴婢が埋葬されている。
埋葬された奴婢とは土蜘蛛である。
https://goo.gl/maps/SnEKaJ2co5m
卑弥呼(ヒミコ)とは簡単。
I崇神(310年頃 318年没)
H開化
G孝元
F孝霊
トヨ津 E孝安 D孝昭
トヨ津 (250年頃) C懿徳
ヒメ(踏鞴五十鈴) B安寧
ヒメ(踏鞴 五十鈴) A綏靖
ヒメ(踏鞴五十鈴) (200年頃) @神武
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も鴨族。
鴨の語源はカミ。
ヒメ(踏鞴五十鈴)もトヨ津媛も死後に高天原の神々になった。 >>571
>ま、阿波といえば忌部、古墳作り部と石棺担ぎ部で頑張ってくれ。
ま、忌部といえば、古墳作り部と石棺担ぎ部だけじゃないからね。
水銀朱部、軽量薄型土器部、勾玉部、銅鐸部、縫製部、銅鏡部、石棒部、石斧部その他諸々。
いろんなことするから、忙しくて大変なんだよ、「忌部はん」て。
全国各地でその文化を待ち望んでいるからね。 @阿波 要するに阿波は、職業部の働き人だらけだったってわけか。
感心な人たちばかりじゃ。忠勤お疲れさん。 >>576
>要するに阿波は、職業部の働き人だらけだったってわけか。
他所に そんな「職業部」がないから邪馬台国に成らざるを得なかったんだよ。 @阿波 忌部氏と後の品部の分布と混同してる阿波バカとか失笑しか出ない >>575
他に、鉄器部や漁労部、紡織部、航海部もあるな。 普及に大変。 @阿波 >>578
ここでいう忌部一族とは、平安時代の『新撰姓氏録』以降の忌部(斎部)氏ではない。
忌部一族とは倭人(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。 @阿波 >>574
>太陽を用いた天文測量だから直接距離だよ。
太陽で計れるのは南北方向のみ
それは緯度差であって距離ではない
太陽を用いた天文測量だとかいうのは根拠なしの言いっ放しw >>582
リンク先ちゃんと読んで理解しろ‼︎
読まずに適当なこと書くな! 珍説系キチガイってみんな「我のみが真理に気が付いた」みたいな感じのやたらと偉そうなバカが多くて笑えるよなw こっちはキチガイ観察してるんだけどキチガイは「我の悟った真理を教えてやる」みたいな態度だからまた笑える >>583
論じ尽くされた話題だ
あり得ないトンデモ説と結論が出てる >>525
国生みの初めに天沼矛で作ったというオノコロ島は、銅矛文化の中心地であり弥生文化の上陸の地である博多湾の能古島。
ここが倭国建国の地です。
博多湾沿岸には、早良遺跡などでわかるように、紀元前から王権がありました。 今日も、畿内説のテンプレートが、蠅が叩き潰されるようにして、論破されているな、、、 破綻した畿内説の宣伝係が、優れた考古学者の意見の発表によって、天文測量のことでも論破されてしまい、怨恨を抱いて、悪口を言っているのではないのかな。。。
584日本@名無史さん2018/10/20(土) 13:33:49.72
珍説系キチガイってみんな「我のみが真理に気が付いた」みたいな感じのやたらと偉そうなバカが多くて笑えるよなw
585日本@名無史さん2018/10/20(土) 13:37:17.17
こっちはキチガイ観察してるんだけどキチガイは「我の悟った真理を教えてやる」みたいな態度だからまた笑える
586日本@名無史さん2018/10/20(土) 13:55:35.41
>>583
論じ尽くされた話題だ
あり得ないトンデモ説と結論が出てる >>589
論破され、破綻した邪馬台国畿内説での観光関連の宣伝を断念したので、次の宣伝方法に選ばれた、火星人降臨纏向説のために、天文の測量の知識が必要になったのではないのかな。。。 歩については既に尺という超分かりやすい単位があるのに重ねて似たような長さの単位作るはずがないと思うのだが と言うか銅鐸なんかよりも、銅矛祭祀の変容の方がかなり大きいよな
銅矛は基本的に集落に埋納されるから年代が決めにくいけど弥生時代後期後半には生産も埋納も終わってる
そして破鏡の副葬と祭祀に取って代わってる
銅鐸が鏡に乗っ取られた!とかよく珍説くんが言い出すことが多いけど銅矛の方が急激な変化をしてる
銅矛は福岡周辺で生産が続いていたので銅鐸どうのよりもかなり劇的な変化をしてるのが分かる
福岡の勢力が根本的に変容してる事を意味してる だから邪馬台国当時の九州は銅矛文化の土地とは呼べないんだよね
むしろ短期間で破鏡に上書きされた土地
それこそ珍説くん論理で行くなら九州は破鏡勢力にあっという間に侵略されたと言われてもおかしくないよな 銅矛みたいな大型の青銅器を作るだけの材料が不足していたのかもしれないな
小型鏡の生産と言う方法にシフトしたのも青銅材料を入手できなくなったからかもな
それだけ九州と言う土地が窮乏して衰退している事の表れとみることが出来るかもしれない わけわからん謎論理が繰り広げられているな。
筑紫で銅矛の生産が続いていたなら、王都の警護のために生産が続いていただけだろ。
時代により形が変化するのは当然だし。
畿内は明確に銅鐸を捨て、銅矛や銅鏡を祭るようになった。
破鏡を含めての銅鏡文化だし、破鏡を含めて畿内にも継承されている。
現代の神事では破鏡は行われないが、仏教伝来や廃仏毀釈など、神事の様式はその後も変化し続けるわけで、それ以上に鏡が今日でも多くの神社で祭られている事実の方が重い。
ちなみに、武器としては矛より剣の方が上位で威信財としてふさわしいので、三種の神器が鏡と剣であるのも、弥生時代から続く我が国の伝統文化だよ。
最後の神器である鏡も、平原遺跡にはザクザクだったしね。 まぁ九州説のキチガイにまともな話題振ってやっても無駄だからな >>595
思いつきで適当なことを書くなよ。
青銅器も鉄器も、その後も長く九州で生産される。
ただ、八咫の鏡以外の大型鏡を作らなかっただけ。
ちなみに古墳時代の最大の銅の生産地は福岡県の香春山だからね。
不足するわけがない。 >>600
証拠は?
思いつきで適当なことを書くなよw 祭具の銅矛が武器だとか言ってる奴、畿内で銅矛が祀られてるとか言ってるやつ
中学出てるとはトテモ思えない 古墳時代に銅の採掘がおこなわれたとか真顔で言い出すのが九州バカだからな 銅矛の歴史とか普通に興味深い内容だけど九州キチガイはどうせ本当は古代史とか興味ないからな
ウリナラ邪馬台国九州説が言いたいだけのバカの集団だから会話しても無駄 >>583
>リンク先ちゃんと読んで理解しろ‼︎
>読まずに適当なこと書くな!
現代なら、精密測量で東西方向も天測で出せるけれど、それには正確な時計が必要
それがない時代に、太陽観測で距離が出せると主張していたら、
何が書いてあったところでトンデモ以外の何ものでもない
原理的に無理なんだから、読むだけ無駄ww >>587
>国生みの初めに天沼矛で作ったというオノコロ島は、銅矛文化の中心地であり弥生文化の上陸の地である博多湾の能古島。
国産み神話は、最初に淡路島が生まれていることから分かるように、もともとは淡路島周辺の
神話だったというのが通説 九州説はいわく「偉大なるウリナラ九州は日本の代表政権として白村江まで存続してたのだ!」とかいう異常者の集まりだしな
丹も銅も邪馬台国の時代から産出してた言わないと成り立たない発狂ぶり
こんなもん信じてる奴がまともなわけないよな >>596
>筑紫で銅矛の生産が続いていたなら、王都の警護のために生産が続いていただけだろ。
銅矛は祭器であって、応急の警護のような実用には向かない
こういう基本的なことすら押さえていないのが、今どき九州説なんかを信じている訳だ 弥生時代後期後半から九州北部は埋葬方式や銅矛などここまで数百年続けてきた伝統が大きく変容しているからな
邪馬台国どうの関係なく面白いところだけど、本当は考古学に興味なんてない九州説に言っても無駄だったな
こいつ等は偉大なるウリナラ大九州王朝邪馬台国とか言いたいだけのバカだし
邪馬台国の会とかこんな奴らの集まりだからな >>609
邪馬台国の時代に銅を産出していたなんて誰も書いてないだろ。
捏造するなよ。
銅鏡を大量に仕入れていたから、卑弥呼の時代にはまだ採掘していなかったし、九州説では香春はまだ邪馬台国の支配下ではない。 >>610
>銅矛は祭器であって、
本気で書いているのか?
バカだろ。
後世に槍や薙刀に進化したというのが常識らしいぞ。 >>366
@とBが同一の場所でそこが邪馬台国だな
Aはどこか知らん
Cは巻向だな キチガイに授業してやっても意味ないからな
あぼーんしておくのが一番だ >>366
>邪馬台国ってどれのことよ?
>@倭国大乱で分裂する前に都だったところ
伊都国
>A倭国大乱で分裂した奴国の都
奴国は国邑
>B倭国大乱で分裂した狗奴国の都
熊本県?
>C卑弥呼共立後の都
これが邪馬台国 広形、中広形銅矛は袋部が浅い、もしくは埋まってて槍を差し込む場所がない
刃も研いでない
その為武器として扱われてないと判断されてる
と、親切に教えてやってもキチガイには意味ないか >>608
>国産み神話は、最初に淡路島が生まれていることから分かるように、もともとは淡路島周辺の
>神話だったというのが通説
だから、まさに倭国(阿波)のお話と何度言えばw @阿波 チンパンジーに数学を教えようとしてる奴がいたらそいつの方が頭おかしく思われるだろうからな
九州説に物を教えるってのはそういう事だとよく分かる >>625
しといた方がいい
品部の分布をそのまま忌部氏の分布だとか思い込んで日本を支配してたとか言い出す典型的トンデモキチガイだから
最近じゃオウム返しで「それは泡にあった」とか言うだけのスクリプト荒らしみたいになってるしな
目障りだから消しとけ >>622
流石に直線距離はねーわ
普通に狗邪韓まで水行七千里して残り五千里はその比率分でしょ >>622
読む価値ないわ
あんたが前に引用した一文で
もうトンデモ判定が出てる 伊万里って江戸時代の始めまでは今利と表記されてたんだよな
それを伊万里と改称して歴史を混乱させた江戸時代の国学者様たちはみんなくたばってしまえ >>622
>アンタより賢い人はいるんだよ。
正確な時計がなければ、天測で東西の経度差は分かりません
これは原理的なものであって、『賢いかどうか』はまったく関係ない
これだけのことが分からないだけでも、>>622は私より理解度が劣るのが確実ww チンパンジーではないけど、
サルが何やらという話?
父親が言うには
家の外(人のいるところ)で、
そんな話をしていると殺されるぞと言っていたんだけど、
何の話なんだろう
会話などを聞いていた人によっては?聞く人が聞けば?
みたいな事らしいんだけど
みざる、いわざる?それともサルタ? >>622
リンク先、目を通したけれど、一寸千里を信じてるただのトンデモじゃないか
時間を無駄にしたわ >>622
簡単に言うと魏の景初代では正確な地図を作る技術は無かった。
魏の劉徽が『海島算経』を書いたのが慶元四年(263年)。
裴秀が泰始四〜七年(268〜271)に『禹貢地域図』を作成するまで正確な地図は存在しなかった。 老婆談、父親の話など・・・・、
なぜか家の話のような気がするんだけど?
歌舞伎が何やらとか >>634
技術が無かったんじゃなくて、海無し県に住んでたから海図なんて必要なかっただけだろw >>635
つーか、地球が丸いの知らんから
仰角使って三角測量するとバカ遠い間違い計測しちゃうんだよね 山王?
天王宮、山王院・・・同じような名前の家でしょ
『松傾』
このような名前の家 日本昔話でも、なんでも良いけど、
ほとんど老婆談と同じような気もするし 昔、山の上のほうに住んでいて・・・という話も同じような気がするし、
よくわからないけど、凄い刀が飾ってあって 千年経ってもこんな地図使ってんのに
Oパーツ信仰のトンデモが笑える
https://i.imgur.com/nIVTpBY.png とある忍者作品があるでしょ?
サイ(弟?)とサスケ(弟)というキャラ?
同じ人物なんだろう、みたいな事が書いてあったり 家の話ばかりしてるのも九州の人なの?
掲示板にはおかしな人多いけど邪馬台国関連は人数といい粘着度といいぶっちぎりだと思うわ >>644
呟きのことなら畿内説だぞ
たまに九州説に喧嘩を売っている 『NARUTO サイ』というキャラのwikiを読んでみて
>周囲からは声と容姿が少しサスケに似ていると言われている
同じ人物・・・というか家の話 現代(2018年)の話でしょ
兄もいるし、あと妹もいるし・・・ サイ・・・その他、
というキャラクター・・・本名は不明?
『松傾』
こういう名前だよ 『猫神やおよろず』
これも同じでしょ、メイ(メイコ)?
妹は五月生まれだし 小手子の像?
あの周辺の話をしているし、
むかーし住んでいた事があるというところ >>645
じゃ、なんで九州説が論破されると出てきてログ流すんだ?
w そのままサトシという名前だぞ
とか知ってる人がいたり キチガイ九州説は畿内スレを荒らすと九州に邪馬台国が湧いて出てくると本気で信じてるからな
異常者の集まりだ >>104
>箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
>箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周濠、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。 <
それなら、「4)」の段階で、埋葬祭祀は終わっており、
「5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築」する必要が全くなく、
矛盾。 兄「智□」
妹「知□」
このような名前w
寺院に通っていたのかな、通っていたんだよ〜
という話 >>105
>>「冢≠墳」であり、「冢⊂墳」だという意味だ。<
>「冢⊂墳」だよ 冢は高い墳だ だから
>冢は「棺を容るるに足る大きさ形」のもの、
というのが誤訳 <
辞書は、
全「使用例」の意味を網羅するものではなく、部分的な意味を挙げているだけであり、
不完全なもの。
実際の使用例の方での意味、の方が重要。 誰か(何かの家の)の自作、自演みたいな話なのかな? >>107
>「径百歩。3世紀の炭化物だけ」じゃないから
卑弥呼の墓だとほぼ断定していいね <
「南≠東」だから、箸墓は、始めから×。 >>626
>品部の分布をそのまま忌部氏の分布だとか思い込んで日本を支配してたとか言い出す典型的トンデモキチガイだから
>最近じゃオウム返しで「それは泡にあった」とか言うだけのスクリプト荒らしみたいになってるしな
すべては泡にあった。 @阿波 『本当のアマテラス』『本当のスサノオ』
このようなスレも読んでみた?ほとんど同じ話 数年前の予言スレ、読んだことがある?
「芸能人はしていません」
みたいなことを言ってる人がいたり 畿内か九州かの二択でしか考えてないから、お前ら何の進歩もなく同じ主張の繰り返しにしかならないんだよ >>662
で?
いつ、誰が何と言って
畿内説が論破されそうになったんだ?
ww だから頭の病院に行けと言っているんだよ、
言ってることがわからない、理解出来ない? >>115
>怪しげな数字振り回すだけのことを確率とは言わん<
史料の数的な事実や実態を否定して「ヘイトスピーチ」を振り回すだけの事は、
確率がある、とは言わん。 >>665
畿内説は考古学の進歩によって
ガンガン進歩してますが? 家は『松傾』?
こういう名前の家なんだけど、
軍人でもないと言っているし 1たす1は2だよ
と九州猿に教えてやると何故かヘイトや陰謀だとか言い出すからな
サルと会話しようとしてる奴がいたらそいつの方がおかしくみえる
相手するだけ無駄 >>669
数的な事実が無いので、ニセ統計バレて九州説死 >>116
>祇園山は「方墳」だよ。<
祇園山は、四隅円弧の不定形であり、
基盤台は、更に激しい不定形だよ。 wikiなどには載っていないんだけど、
ネット?で調べてみると・・・・・いるんだよ
山の上のほうに住んでいて・・・ 「祇園山古墳」の水銀朱は、まず間違いなく筑紫忌部が持ち込んだ「若杉山産」だよ。
すべては泡にあった。 @阿波 >>677
考古学者の書いた公的な調査の報告を
現地を見たこともない素人老人が
理由も言わずに否定しても
誰も信じない >>122
こんなに荒らしに来るって事は、
大和説が間違ってる、という証拠になるか。
正しくない事を自覚しているから、自スレで冷笑しておれない、んだな。 >>679みたいな、くたらない罵りと
無学まるだしの妄想と
見え見えのウソ
それが、九州説のすべてだよね 九州猿は本なんて読んだこともないだろ
古代史なんてホラ吹き放題とか思い込んでバカ丸出しの妄想を叫んでなんか頭良く成ったつもりのバカの掃きだめ
つか倭人伝も読んだことないだろうな
マジで
邪馬台国の会とかのアホサイトを流し読みして知った気になった低能の集団 >>683
ここは畿内説のスレで、ここで我々はあなたを冷笑しています。 つか今になってまで「銅矛が出るから邪馬台国」とかバカ丸出しの事を偉そうに喚くようなアホだからな
古墳時代に銅が九州から産出されるとか
バカは自分が恥かいてるの微塵も気が付かないから無敵だよな
おれだったら恥ずかしくて死ぬわ 恥かいてる九州説本人は余りのバカさ加減に恥かいてると気が付かないからな
サル以下の知能だからまだ生きてられるんだろう
あんだけバカ晒して平気で生きてられるんだから異常者は無敵だな 子孫や末裔などがいたとしても
むかーしの、そういう家(不明)の人は、
学校などにも行っていないんじゃないの?
老婆も行っていないよと言っていたり、
でも、なぜか詳しかったり ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 芝居(歌舞伎など)が好きで、よく観に行っていた、
これが『旧広瀬座』というところの話
なぜ知っているのか?なんだよ・・・
老婆の旧姓も渡辺だし オラK国は邪馬台国九州説が天皇中心の皇国歴観と気付かず
60年以上ずっと広めようとしていたマヌケだったと周知してやるぞ 安本氏なんてバリバリの皇国史観だよな
日向三代も実在って立場だし それにしても詳しい人がいたりするんだけど、
何なんだろう
あの当時、天皇はいなかったよ
みたいな話をしていたり、称号?
当時は天王だったのかな?
その後、取り入れて『天皇』になった?
本当は実在しない? 九州説よ
内情をバラされたくなかったら今すぐ論争自体をなかった事にするんだな
ダメージコントロールするにはそれしかないがな >>129
何も理由を言わずに、「南→東」などの嘘つき騙しを言い張り、
「言葉尻を曲解してのヘイトスピーチ」をしている大和説者って、
殺人テロのキョクウの街宣と同じであり、
終わってるよね。 ザラコクは天皇中心の皇国史観の九州説を広めようと頑張っているな >>700
?
「南→東」の根拠なら、ちゃんと
「会稽東治之東」って何度も説明してるよね?
そして、反論は全て論破されてる >>702
九州説は天照大神が実在人物で皇室の祖先と言い張る超右翼皇国史観グループ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 『智』という人物のwikiを読んでみて
【関連文献】
とある・・・学者がいるでしょ?
福島県生まれという人物がいたり >>706
誰も根拠とか言ってないのに、九州説信者は頭がおかしい >>698
天皇の概念がはっきりするのは聖徳太子からでは? 故・金関 恕(かなせき ひろし)氏が奈良県天理市和爾の東大寺山古墳から発見した「国宝」中平銘鉄刀。
金関さんは2017年3月の考古学雑誌で、この刀は卑弥呼の五尺刀ではないかという見解を出された。
また元橿原考古学研究所指導研究員の和田萃さんも和邇氏の系譜にヒミコがいるとの見解を出されたようだ。
仮にそうだとして、謎の豪族・和邇氏と卑弥呼の関係が分からなかった。
解いたのはわしだ、参ったか。
事代主
┣━━━━━━━┓
天日方奇日方(鴨王) ヒメ踏鞴━━神武
┣━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ踏鞴(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
┣━━━━━━━┓
彦国姥津命 姥津媛(開化天皇妃)
┏━━━━━━━━━━━━━╋━━━━━┳━━━━━━┓
伊富都久命 彦国葺命 小篠命 乙国葺命
┏━━━━━━┳━━━━━━━┫ 【丈部氏祖】 【吉田氏祖】
彦忍人命 建耶須禰命 大口納命 【飯高氏祖】
(武社国造) ┃ ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
八千宿禰命 難波根子武振熊命 彦汝命 真侶古命
(吉備穴国造) 【和邇氏祖】 【葦占氏祖】 (額田国造) >>130
このスレの大和説論者は、「南→東」などの嘘つき騙しの狂人過ぎる。 >>133
「南→東」などの史料事実を否定曲解のウソ付き騙しでの、
その中傷ぶりが、
頭狂ってると言われる理由だ。 >>135
実際は、「南→東」などの嘘つき騙しの九州説学者学らや、
学会教育界や、右翼マスコミや、安部自民文部省らは、
みんな頭狂ってる。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>137
ひたすら、「南→東」などのような史料事実の否定曲解のウソをつく、
それが、大和説のすべて。 >>708
日本列島が南北に長いイメージだったってこと? >>307
>じゃあ、方角だけ合っているんだな。
方角も九州上陸直後からメタメタだろ
末盧国から伊都国は東南ではなく北東 >>138
「反国民」「反日」の」大和説学者らが、「南→東」などの嘘つき騙しだけではなく、
偽書捏造でも笑い者になり、
部下の大和説者が忖度で荒らしてるだけだからな。
「都合の悪い史料事実」のことは、無視し知らん振りする集団だから、
ウソの連呼になってしまう。
九州の史料事実を大事にするまともな学者らとは、また違う。 学部の世界では、完全に破綻した邪馬台国畿内説なのだから、インターネットでは、気軽に宣伝すれば良いのではないのかな、、、 >>143
>百枚の魏鏡に紀年銘鏡は含まれるのか?<
「尚方作」鏡には、紀年を書く必要がなかったんだろう。
民間からの買い上げなどの鏡には、紀年鏡があった可能性がある。
>含まれるのなら、何が本物(魏か下賜されて百枚の一部)かを特定願いたい。<
勿論、21枚の「尚方作」方格規矩鏡は、 下賜鏡。
青龍三年(235年)顔氏作鏡の方格規矩四神鏡は、下賜鏡であった可能性はある。
景初三年以後の紀年鏡は、明帝の詔書が景初二年12月だから、下賜鏡にはならず、
渡来して来ていた呉系の楽浪鏡師らの作であった可能性が高い。 >>566
この隋書の「夷人不知里数…」は、裴松之が魏略の記述を引用して魏志倭人伝に注記した「其俗不知正歳四節、但計春耕秋収為紀」をもじったものと考えられ、3世紀前半の卑弥呼の時代に里数を知らなかったかどうかは、判然としない。
隋書のこの記述から、卑弥呼の時代に里数を知らなかったと即断するのは短絡すぎる。 >>715
>この刀は卑弥呼の五尺刀ではないかという見解を出された
アタマおかしいね その学者も追従者も そんな事よりも『松傾』?の嫁というのがいるでしょ、
なぜ何々様なんだと思う、ヒミコではない
老婆が言うには、
そのようなことを言っていた、家だけなのかな >>149
>魏の水銀朱が使われた萩原古墳群出土の画文帯神獣鏡
同じく魏の水銀朱が使われた天河別神社古墳群出土の斜縁二神二獣鏡
だから この画文帯神獣鏡か斜縁二神二獣鏡 このどちらかだろうね
魏から下賜された鏡は。 と、何度言えばw<
明帝の下賜に、「鉛丹五十斤」があるから、
徳島の「魏の水銀朱」とやらは、
卑弥呼から、「東征毛人五十五國」の将軍らの支配國に与えらえた鉛丹であった、
という可能性がある。 発電、電気を起こしていたという話とか
あのキュウリの葉、葱の華・・・・・・・の
写真の話なんだけど 老婆(とは言っても、家の嫁)は言われていないしw
何なんだろう >>155
>日本書紀とか梁書に卑弥呼が使いを送ったのが景初三年とあるから
魏年号で景初三年(239年)と記銘のある三角縁神獣鏡じゃね <
梁書は、後代に「自己解釈に拠る書き換え」が非常に多い半分×書であり、
書紀も、それを踏襲した半分×書であるから、×。
通典は、きちんと「魏明帝景初二年」と書いている。 >>157
>景初三年画文帯もか 両方下賜鏡でいいんじゃね<
明帝の詔書は景初二年12月であるから、×。 謎の埼玉名字辞典に同じ名前の家があって、
浄土真宗? >>161
>そりゃ唐の人間も魏志倭人伝読んだら邪馬台国は九州南辺りと誤解するさ
距離はともかく位置的には南と課かれてるから<
後代の唐や現代の日本の大和説学者らの「自己解釈に拠る書き換え」は、
証拠にならず、×。
投馬國は、「至」の前に、移動した事を示す文言がないから、がないから側副傍線刻説明であり、
不彌國で「折れ線的道のり距離が萬二千余里」になってしまっているから、邪馬壹國状之所都は、
不彌國の直ぐ南の筑紫付近にある事になる。 あと数年前の陰謀スレ
誰々が死んだとき(葬式のとき)創価が近づいてきた・・・とか、
家と同じような話をしている人がいたり
親戚に創価がいて、家族の誰々が創価に入り〜
近づいてきた? >>531
ダメダメ。
“短里”=76.5mで1万2000里をキロメートル換算したら、地図上で南九州大隅半島あたりに邪馬台国があった計算になってしまう。
“短里”なんて、もうやめろよ。 >>169
>邪馬台国は京都を中心とした国だと思いますよ<
邪馬台国なんて存在しなかったし、
京都も、「南≠東」などに拠って、×。 >>495
「先生 纏向が王都ともう嘘はつき通せません」
先生「将来が無くなるぞ」
「先生より僕たちは将来が長いのではないのかな。。。」 >>172
>洛陽から1面出てるよ三角縁<
0〜1面では、明帝の銅鏡百枚の根拠にはならず、
列島の500枚以上の△の根拠にはならないよ。 >>173
>畿内説で一番 研究や証拠を並べるのに大事なのは
邪馬台国=初期ヤマト王政の研究ではないでしょうか?
謎の4〜5世紀を語るべきです
前方後円墳にすがるのもいいでしょうが、蝦夷地まで・・・・<
畿内も邪馬台国も存在しないから×であるし、
大和も「南≠東」などの嘘つき騙しで、×でsy。 >>538
魏の記録保管庫に、狗邪韓国と対馬の間が千里と書いた記録があった、なんてタイムマシンに乗ってみてきたの? >>742
九州上陸までで一万里なのに、対馬海峡の2/3で大隅まで行くわけない。 >>177
>ザラコクさんも 太平洋ルートに対し明確な答がでません
投馬国は宮崎あたり南に向い太平洋ルートで畿内(王都は京都だと思う)に対し何も答えていない<
投馬國へは行っていない、と言ってあるし、
「海流に漂流するようなコースを魏使らは選択しない」とも言ってあるし、
「南≠東」などで、大和も阿波も京都も否定してある。 >>177
>ザラコクさんも 太平洋ルートに対し明確な答がでません
投馬国は宮崎あたり南に向い太平洋ルートで畿内(王都は京都だと思う)に対し何も答えていない<
投馬國へは行っていない、と言ってあるし、
「海流に漂流するようなコースを魏使らは選択しない」とも言ってあるし、
「南≠東」などで、大和も阿波も京都も否定してある。 >>177
>ザラコクさんも 太平洋ルートに対し明確な答がでません
投馬国は宮崎あたり南に向い太平洋ルートで畿内(王都は京都だと思う)に対し何も答えていない<
投馬國へは行っていない、と言ってあるし、
「海流に漂流するようなコースを魏使らは選択しない」とも言ってあるし、
「南≠東」などで、大和も阿波も京都も否定してある。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 短里とか持ち出さなくても狗邪韓国までの七千里と海路の三千里は大体比率としてはあってるんだから残り二千里の問題だよね それよりも、お前の名前は?
そろそろ頭の病院に行ってきたほうが良いと思うんだけど 調べてみると精神科?
そういう病院があると書いてあるでしょ >>755
邪馬台国は九州以外にあり得ないということだ。 >>179
皇国史観を謳いながら
皇国史観である大和説を貶めるスレ主の一人相撲 調べてみるとわかると思う、
ほとんど家の話なんじゃないの?
一番上(下)
主計・・・の親戚?
理由はわからないけど、
凄い土地を持っていたとか、稲田、要劇料・・・、
戦争しているときも芝居ばかり観に行っていたとか そういう職業だったのかな、
子供のころの写真で?何かの制服のようなものを着ているけど、
軍人でもない、戦争にも行っていないとか
住んでいたところは山の上のほうで、
親戚の家に疎開したときも、芝居ばかり観に行っていたとか、
家の人に🍙を作らせて・・・・という話
そういう職業? >>750
12000里×76.5m=918000m=918km
ソウル→海路・巨済島→唐津→大隅半島付け根付近=900km。 九州上陸で一万里
残りは2千里
2000×77mで154km
そのままだと八代あたりか? >>755
魏晋1里=434m
1万2000里×434m=5208000m=5208km
ソウル→巨済島→唐津→薩摩半島→インドネシア・チモール島=5000km 『サイバーパンクspecial』
コミック(漫画)なんだけど、なぜか同じ話、
住んでいるところも、川崎区の南部のほうだし
どういうシステムなんだろう、
謎の刀も話も同じだし ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 老婆も、かなり詳しいし・・・、
何かの家だったのかな?
調べてみると・・・、
ほとんど符合していたり 松傾、長竿?
釣りをしていて〜何やらという話も、
むかーしの神話だぞと言ってる人がいたり >>764
間違いだね
そんな場所じゃ会稽よりはるかに北だ 会稽の東のくだりっていかにも南方の風俗の記述中に出てくるから倭国を南に見せたがってるって意図は感じるけどそれが何で九州説の否定になるんだ?畿内だって同じだろうに >>771
どうして同じ?
結論だけ喚かれても意味がわからない 馬鹿とは伝統的にそういうものだ
自分の考えを説明する能力がない どこかに知っている人がいるんじゃないの?
他のスレの話になるんだけど、宮内庁が何やらと言ってる人がいたり
それとも、むかーしの宮内庁のこと? 家の老婆は、そういう職業?でもないし・・・・
ただ、なぜか詳しい 泥棒のようなものに入られたみたいな話とか、
有名な話なのかな
その信夫山の話があるでしょ、
同じような話をしているしw 畿内説の初歩的段階
「南→東」をいかに理解するか
これは理解できない
信ずるしかない
畿内説教にまず入信すること
畿内説はゴミ箱に捨てろ 畿内説の初歩的段階
「南→東」をいかに理解するか
これは理解できない
信ずるしかない
畿内説教にまず入信すること
初歩的修行
「南=東」と毎日1万回唱える事から始める事 畿内説の初歩的段階
「南→東」をいかに理解するか
これは理解できない
信ずるしかない
畿内説教にまず入信すること
初歩的修行
「南=東」と毎日1万回唱える事から始める事 皇国史観
邪馬台国を否定する材料が無い
九州に持って行こう
いや待て 記紀との整合性が取れない
邪馬台国=ヤマト王権初期とすれば良い
初期だから天皇は関係ない
記紀と離れよう
しかし ウソはバレるな
どうしよう
???????????????????????????????
ウソをつき通せば そのうち真実になるから頑張ろう
まずはマスコミ誘導だ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そして釣られたのがスレ主 ・
・
・
妄想と中傷しか出来なくなった九州説が
哀れでならない・・・
・
・
・ スレ主は釣られたが
知識がおぼつかない
なぜならウソ畿内説だから
テンプレの支離滅裂をみればわかる
幾度も皆が指摘しても変えないのは
ほかに材料が無いから ウソをつき通す
だから このスレはウソはいけないという事を諭すスレ
スレ主が改心するまで続くだろう このスレ バカは死ぬまで治らないから
スレ主が死ぬまでこのスレ続くのだろう あと他のスレ(あまてらす、すさのお・・・・その他)を
読んでみるとわかるはず
電波(不明)だろ
と言ってる人が多数いたり 実在しているのか、していないのかは、どうでも良いとして
三貴子?の家は創価に入っているよ
と言ってる人がいたり
どのスレッドだったかな? 読んでみても、そういう話ばかりだし、
創価なら創価?本人(その家が)が入っているんじゃなくて
嫁、祖母・・・親戚が・・・みたいな話 乗っ取られた、寄生されたベジータ、オパオパ(父)・・・、
なぜか同じような話 天王、天子?オパオパ?
・・・本当に乗っ取られたのかな? 忍者アニメ、『ボーボボ』にも言える事なんだけど、
なぜ知っている人がいるのか?とか
家の〜〜〜〜〜子供の頃の写真で、
4、5歳くらいだったかな〜とか
学校(幼稚園?)などの制服でもないと言っていたり 宮内庁もいい加減だ
箸墓は天皇の陵墓だと思う
モモソだけ特別扱いする必要があったのかな?
候補はいっぱいいたのに・・・・へび女を何故 『電波 意味』
>ほとんど犯罪者です
という解説があるでしょ
天草(✟)・・・銀□?うまやど?
川俣町というところの話もしていたり このスレに書き込んでくる畿内説以外の人間はもはやキチガイだけ 何が、おかしいのか?というと
「うだうだ」という作品に出てくる、
ウマヤドは悪人のような設定だし、あのキャラはウマヤドでしょ?
皇国史観〜いまでは犯罪者扱い? >>792
>箸墓は天皇の陵墓だと思う
天皇の陵墓を湿地帯になど造る訳ないよ。 無礼千万の説。 @阿波 あと『本当のアマテラス』というスレッド、
何やらを床下に隠す・・・
隠しておいた?という話をしている人がいるでしょ
老婆談と同じじゃない? 泥棒のようなものに入られ、
畳や床下の土まで掘り起こされていた?
隠しておいた刀なんかも無くなっていた
なぜ知っている人がいるのか?なんだよ 部外者、他の人から見ると、
犯罪者にしか見えないという意味なんだろうけど どこかで宣伝でもしているのかな?
老婆談というのも、川俣軍司の事件よりも前の話だし、冤罪事件? 老婆が話(数十年ほど前に創価に入った)を広めたのか、
それとも、当時、近所に住んでいた人々がいて・・・
そういう話を知っている? 刀の話の続きなのかな?
川俣町?まで荷物などを引き取りに戻り
今まで、お世話になりました、ありがとう、ありがとう
と言いながら、近所に挨拶をして回ったんだよ
と老婆も言っていた、筋肉少女帯の曲? ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 『これでいいのだ』
オジギソウ、ネムノキ?
家の写真と同じような植物が写っているし
あの松の木の立てられている写真 本当に・・・松傾?
こういう名前の家なんだけど、何なんだろう
松の木、オジギソウ、シダ類・・・
などの写っている写真 >>197
(昨夜は、仕事場と家の両方のPCで「5chに繋がらなくなる」というトラブルあり、
返事が大幅に遅れた)
皇国史観を謳いながら、 皇国史観の出身地である九州を貶める、
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の一人相撲。 >>217
さしもの脳虚大和説者も
「会稽東治之東」で
「南→東」が正しいことが証明されちゃったのが
ショックで
発狂二倍してるんだよね 。
www >>219
「会稽東治」が「会稽東冶」の間違いだって言い張ってるのは、
世界広しといえども、
後漢書の范曄と、それを踏襲した唐代史家と、
現代日本や台湾の「南→東」などの嘘つき騙しの大和説学者や大和説者ら、
だけだよ。
宋明清代の校勘学者らは、全て「魏志の東治」を校勘せずに肯定しており、
写本版本でも全て「東治」だとしている。
つまり、大和説学者らさんだけの超少数民族なんだよ。
世間から嘲笑を受けるだけの存在さ。 >>221
魏志記載が長里であったんなら、
赤道付近にまで行ってしまう、と言うのは、
中学生でもわかるんだものねんだ。 >>222
今日も、万世一系の皇国史観の大和説者が、
国民に人種差別的殺戮戦争をやらせようと、
ヘイトスピーチしているな。 >>226
「南→東」などの嘘つき騙しでの人種差別的な政治的プロパガンダなら、
5chのような学問的な場ではなく、
違う形で、他でやった方が効果的だと思うぞ、大和説者よ。 >>232
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者も、本当の痴呆ではない。
大和説が破綻したことが理解できてるから発狂してるのだ 。
ホンマものの痴呆ではないけれど、
ホンマものの性格破綻者ではある。 ww >>234
そもそも大和説者が、「大和説で皇国史観を再興」とか絵を描いたのだとしたら、
日本の歴史をよく知らなかったという事だな。
九州説は、まさに、
天皇家の祖先の権威を高めるの事になる、ものなのに 。 >>236
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、
もう目的もなくたわごとを呟く気の触れた老人そのもの 。 会稽の件は九州説に有利にしか見えない。
短里と長里の取り違えで九州を南北に過大評価したんだよね。
畿内は出る幕なし。 >>239
>吉備は吉井川流域、旭川流域、足守川流域、高梁川流域にそれぞれ勢力がいて
箸墓直前:高梁川→箸墓併行:旭川→西殿塚併行:吉井川→行灯山併行:足守川
ってな感じで最大勢力がいったり来たりしてるみたいだから
畿内勢力に首をつっこまれて一枚岩ではなくなってると思う<
吉備は、元は出雲銅鐸祭祀地域であり、
九州倭国の「東征毛人五十五國」を波状的に受けて、
その都度の東征将軍の征服地域がそれぞれ違っていた、
というだけの事であった、と思うよ。 >>816
そもそも距離は短里で書かれようがない
魏で使われていたのは普通の里だし
帯方で使われただろう里は漢の里
東夷は里を知らないで日数で距離を表す
短里なんぞどこにも存在しなかったんだよ
九州説の脳内以外には >>241
>いくら必死で「冶」を否定したって 珍発明の短里とやらじゃ
万二千里では長江の南までたどり着けない
短里は存在し得ないと証明されちゃったんだよ フルタ説は終わったんだよ<
古田説では、会稽東治地域として、江蘇省海岸付近も呉地であった地図を書いておられ、
そうすると、「会稽東治之東」の地には、九州全域が相当する事になる。 九州の人は自スレで自説の披露でもしてればと思うが
大半は安本さんあたりの本の受け売りなのだろうけど 朝からこれだ
九州説爺さん、よっぽど「会稽東治之東」が痛手だったんだね >>819
>古田説では、会稽東治地域として、江蘇省海岸付近も呉地であった地図を書いておられ、
そんなところは会稽ではないのだから、詐欺だね >>243
>会稽は呉ではありません。 越です。<
永安3年(260年)に、会稽郡の南部が(越の)建安郡に分郡され、
魏末期に、会稽郡の東方の治域が呉郡に分郡されているから、
揚子江河口の南北は、魏代には会稽郡であり、西晋代の陳寿の執筆時は呉郡です。 放射説だったり起点を変えてみたり昔の人だってそんな理解しにくい書き方しないだろ 東京駅から新大阪駅まで何キロです。
東京から大阪までおよそ何時間かかります。
普通の表現だぞ。 >>249
なんの理由もない、「南→東」などの嘘つきや、ふとした自分の思いつきを
ひたすら断定強弁するばかりの
傲慢耄碌老人の、「万世一系皇国史観戦争狂」の大和説。 >>250の訂正追加
「ちょうど会稽東冶の東だと書いたんなら、台湾くらい南だと認識してるんだよ 」
は、「東冶」ではなく「東治」であるから、×。 >>814
へえ九州説ザラコクは天皇万歳の皇国史観を広めようと頑張ってるのか >>825
(北九州の端にある)不彌国から投馬国まで水行20日
そこから水行10日陸行1月で邪馬台国です
どう考えても九州北部ではないな >>252
>布留だな
石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル
なぜ布留社の【太刀】何だろうか? 太刀は本来誰かに使われるものだからなぁ<
米田に拠って、布留は大和よりも「南加賀」の方が早かったのだから、
布留社の【太刀】も、九州倭国の東征将軍を祀ったものなんだろう。
>ニギハヤヒはどうなってしまったんだろう<
時期が違い過ぎる。 また九州サルは朝からぼくちゃんの脳内の都合のいい行程を喚くだけか >>253
>天皇は中国に朝貢した事のない高貴なる統治者と主張したいんだよザラコクは<
天智以後の大和の天皇も、遣唐使を派遣しているよ。 >>254
>「夏后少康の子、会稽に封ぜられしに、断髪文身し、もって蛟竜の害を避く。」とあって、
1. 夏后少康の子が会稽に行ったがために断髪文身した。
2. 倭人の風俗習慣がそれによく似ていた。
3. そういえば倭は会稽東治のちょうど東側にあたるわけだなぁ。
という流れだから会稽なわけで徐州やら淮水やらでは風習が似ているっていう共通点がないから、記述の意味がなくなる。
ここは行程をいうためでなく風習について述べている部分だから。<
陳寿の魏志だけではなく、
魏略にも、「聞其舊語、自謂太伯之後」や、
「昔夏后少康之子、封於會稽、 斷髮文身、以避蛟龍之吾」や、
「今倭人亦文身、以厭水害也」が書かれているから、
これらの内容は、
魏使らの推定や記録の文である、
という事になる。 >>258
筆者は計算して 「会稽東治のほぼ同じ東」 という結果を得た
つまり長里など使わなかったし、方位も合っている
大和説死亡しました 。 >>265
対馬壱岐間の約70kmが千余里というのも、
韓の「方四千里」や、「郡〜狗邪韓國の七千余里」などの、
比率が(6倍も違わずに)ほぼあっているから、
重要である。 邪馬台国が九州になれば皇国史観がなくなるはずだというトチ狂った発想から生まれたのが九州説
しかし九州説は天皇は中国に朝貢した事などない神聖不可侵な存在としたい皇国史観から出発したものだという事に気付かなかったマヌケぶり >>836
これって・・・ zarakokuが発狂しているのか?
??? >>269
>明解なのは邪馬台国が<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つきだまし。
>現在の福建省の東にあると考えられてたってことよね <
現在の「上海付近〜江蘇省海岸」の東にある、って考えられていた、ってこと。
>邪馬台国が博多にしろ奈良にしろ緯度は魏の都洛陽と同じくらいだから
実際よりも相当南にあるとの誤認に基づいて書かれたのだろう <
邪馬台国なんて存在もしないし、
奈良の緯度は、京都と釜山が北緯35度だから、対馬北端位。
そして、会稽東治は、上海〜江蘇省海岸付近であった事になるから、
陳寿の位置推定は合っていた。 >>271
つまり「南→東」などの嘘つき騙しの大和説盲信者は、
白痴同然の、病院や警察からのお迎え待ち爺さんだ、
ってことだ。 ザラコクはもう考える事を放棄している
畿内と書き込めば畿内なんてないと同じ事を繰り返すBOTと同じ ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>276
>たが、会ったことを示す文章がどこにもない。 <
正始元年、太守弓遵遣建忠校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭國、拜假倭王、
并齎詔賜金、帛、錦kei、刀、鏡、采物、
倭王因使上表答謝恩詔。 >>284
>なぜ、太平洋航路を畿内説の学者は支持しないのだろうか
方位は解決すると思うが <
太平洋航路説者も、大和説者も、
嘘つき騙しの、人類の常識知らずの、・・・・だから。 九州説はもう存在意義を失ったにも関わらず
ザラコクはいやそんな事はないと心にフタをして自分の中では天皇中心史観になっている畿内説を攻撃 >>303
魏志には長里なんて、殆ど無いでしょ。
そんなものと一緒にされたら、
スタップ細胞の小保方さんにも失礼でしょでしょ。 やまとねこ・・・、なにやらねこ・・・
という人物?もいたり 『松傾』?
家の写真なんだけど、
何かの制服のようなものを着ているし、警察?他の制服? 九州説で皇国史観がなくなるはずというのはもはや信仰だな
ここはザラコクの信仰が試される場 >>305の訂正追加
>それから、魏晋里なら赤道を越えるから会稽の東にはならない<
魏朝西晋朝の短里なら、赤道にも達しないし、会稽東治之東にもほぼ合う。
>萬二千里っていうのは地の果てからの朝貢という意味の符牒<
陳寿は、萬二千余里の更に先に、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。
又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里。
又有裸國、黒齒國復在其東南、船行一年可至」
と書いているから、
「萬二千余里」で地の果てになっていない。
>要は距離はあてにならないってことしか言えない <
要は、この男は、・・・・詐欺師だ、
という位しか言えない。 >>315
>>いくら指摘されても、くだらん言い訳を連呼してるなあw 毎度おなじ奴かな?
そんな「短里」なんて 報告を受ける人が知らない単位を使って 報告する人って
いったい、どこの誰? あり得ない空想しても、それは「説」にはならないのよ <
そんな「長里」なんて、
報告を受ける人が使わない単位を使って 報告する人って 、
いったい、どこの誰?。
あり得ない空想しても、それは「説」にはならないのよ。 聖化・・・日神・・・日霊?
後に、そういう制度になったとか
犬のおまわりさん >>319
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説の、
荒らしのマッチポンプか (藁。
大和説や東遷説が死に体で、九州説は全盛。
抵抗はもう、呟いて荒らすくらいしか、打つ手がないってことだな。 会稽東治って、会稽から東治の範囲
と言う意味ではないかな? 家に凄い刀が飾ってあったと言っていたり、
何なんだろう >>320
>鳥取の遺跡の人骨 弥生時代後期に渡来か DNAで判明・・・
弥生時代の渡来人は九州で混血してから本州に移住したという説が主流だったが
直接本州への渡来もあったらしい <
出雲や越は、梁代位まで独立国であったらしいから、当然大陸からの渡来も有り得る。
>倭国大乱の時期にも近い <
「倭国大乱」なんてなかったから、×。 邪馬台国の会って書くと九州説が一時的に消えるって本当?
九州説の多くが邪馬台国の会の情報準拠だから? ザラコクは朝鮮系腐れ儒教信者の古田史学の会蒙信者だから、
ザラコクには邪馬台国の会は効かないだろうけどw >>331
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の、
ヘイトスピーチ街宣車の行進が、
また始まりました。ww >>334
なにも自説の説明できない。
なにも自説の証拠を出せない。
それが、「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・詐欺師の大和説者。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>337
>>いや、魏代末頃に、 会稽郡の東の「揚子江と杭州湾の間地域」を、
会稽郡から呉郡へ分郡された記録があるから、<
>もちろんzarakokuの捏造 そんな記事はない <
勿論、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者のwwの、
ついうっかりの情報提供の話。 畿内説を攻撃する事で極右の戦争主義者だか何だかを攻撃した気になってる気の触れた哀れな老人ザラコク >>344
>ただ、墓は伝聞で、倭人の誇張かもしれないね。<
いや、「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」は、
具体的な数字もあり、実地の見聞記録。
そのような数字まで書いて、同僚や後から来た使節などの報告で、
間違いであった事がバレれば、
そりゃ、張政らの首が危ない。 >>348
>魏使が誰も卑弥呼にも台与にも会っていない、邪馬台国には行っていないと考えるなら
行程も倭人の風習も倭地にあるものもすべてが伝聞で信憑性が低くなるので
比定地論争には参加しなくてもいいだろう<
この男は、自分の比定地などが不利である事を自覚しているから、
「すべてが伝聞で信憑性が低くなる」としなければならないんだろうねえ。
それが、大和説者。 >>351
>(会稽東治)は(東冶)の誤りで、東冶は今の福州市を指すとする意見がある。
それが正しい。 <
正しくない。
魏志の「東治」は、
後代史書の後漢書の「自己解釈に拠る書き換えが非常に多い」×記載や、
それを踏襲した唐代以後の史家や現代大和説者などの「自己解釈に拠る書き換え」の×情報でしかなく、
魏志写本版本では全て「東治」」であり、
宋明清代の校勘学者らも、誰も「東治→東冶」の校勘をしていない。
という事は、この男もおそらく、嘘つき騙しの・・・・大和説者。 九州説のバカを量産してるのが邪馬台国の会だからなぁ
あのアホサイトのネタそのまま喚き散らしてる奴がそこらにいるから本当に鬱陶しい >>355
>>「踵を挙げる挙足」と「つま先を地面に付けての移動」の、
両方を合わせたものが「歩だ」と言ってんだよ。<
>それだと足跡ひとつしか残らないね 歩の象形と合わないから不可 <
殷周代の「歩」の象形とも合っており、
小爾雅のような後代辞書説明は、簡略文言による省略的部分的説明にしかならず、
絶対的な根拠にはならない。 >>356
>方角の話は散々やっただろうが
末盧国ー伊都国間でもう間違ってるんだから、その先も正しいとする根拠がない <
末盧国→伊都国での「東南」は、陳寿の記載原則に拠って「出発時点での出発方向」であって、
間違いではなく、
伊都国の位置は、風土記や書紀に拠って「怡土郡」の地である事が確定しており、
伊都国以後の方向にも、間違いだとする必要が全く認められない。 邪馬台国の会のサイトに騙された程度の人間だったらまだ説得すれば納得してくれるけどな
皇国史観がどうとかで九州説やってるのも九州説こそが皇国史観と理解すれば大概はやめる
ザラコクみたいに信仰に生きてる人間と狂人にはどうしようもない >>344
魏の代理人である帯方太守のそのまた代理人の郡使は、明瞭に、女王に目通りした。
>正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝假倭王、并齎詔賜金帛、、、
>其八年、太守王頎到官。、、遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黃幢、拝假難升米為檄告諭之。
>卑弥呼以死、大作冢。径百余步。徇葬者奴婢百余人。
>更立男王、国中不服、、、復立卑弥呼宗女壹與年十三為王、国中遂定。
>政等 以檄告諭 壹與。 >>357
>陳寿が、魏使らの記録(短里)を見て計算をした、<
>おいおい、短里で萬二千里は会稽に届かないし、<
直線距離の萬二千余里は、投馬國を含むから、「会稽東治」の緯度に届く。
>魏晋里で萬二千里は赤道の向こうなんだから、<
魏志に記載の里は、韓や海峡の里記載から、短里であり、
「赤道の向こう」になんかいかない。
お前のそんなウソは通らないって、何度も書かれてるじゃないかww。
>唯一言えることは、萬二千里はあてにならない、あてにできないってことだけだよ <
唯一言える事は、お前ら大和説人間らの人間性が全くあてに出来ない、という事だけだよ。
>短里で萬二千里(+島巡り仮説)という捏造に捏造を重ねたものしか九州説の
プラスの根拠がないんだから、短里で萬二千里をひたすら守るしかないよなww<
南→東などの嘘つき騙しの指摘に全く反論出来ず、
お前ら・・・・大和説は、里記載でも曲解捏造の嘘つき騙しのインチキをするしか、
生き延びる手は存在しないんだよ。
>でも、尺からも歩からも、短里は否定される もういくら抵抗しても無駄だよww<
周髀算経や「冢、徑百餘歩」からも、始皇帝「歩」は否定され、短歩になり、
もういくら抵抗しても無駄だよww。 九州説が方位にこだわるのはそこしか拠り所が無くなったからなのだろうな 九州説は根底から覆った
さあネット上のサイト畳んで邪馬台国の会も解散しろ >>834
典型的な朝貢外交でしたよ。
しかも敗戦国という札付きで。 >>879
>倭人伝に基く 遺物
「其山有丹」で即、終了。 @阿波 >>880
断じて朝貢などではない。
なぜなら偉大なる天皇は朝貢などするわけがないからだ
魏に朝貢していた邪馬台国が九州なのがその証拠 >>879
三角縁神獣鏡が畿内の方が多いよ
これは景初三年と魏の年号が入っていて
景初三年は梁書、日本書紀、翰苑、太平御覧には卑弥呼が魏に使いを送った年と出てくる
記述には魏志曰く、と魏志からの引用である事が示されているし
自己解釈による書き換えで複数の書の年号が一致するとかはありえないから
卑弥呼が景初三年に魏に使いを送った事は確実 年号が入った鏡が出る古墳は
4世紀後半から5世紀前半。 >>884
4世紀後半から5世紀前半だと言う理由が
三角縁神獣鏡が出るから 鏡が伝わったのが景初三年、239年、三世紀とはっきりしてるから
出る古墳はそれ以前はないにしろ近い年代のものと考えても差し支えないように思えるけど 九州説の持ち出す情報は
たいてい出所不明
信用するのは
ばか者 >>796
>天皇の陵墓を湿地帯になど造る訳ないよ。 無礼千万の説。 @阿波
纏向遺跡の地は扇状地の微高地
そういうところはむしろ水が地下に抜けやすいって中学校で習わなかったのか?
粟はえらそうに言ってるくせにこういう基礎がまるで分かってないし知識として入ってない >>872
>殷周代の「歩」の象形とも合っており、
本当にバカだよな
つ 殷周代の「歩」の象形
http://www.zdic.net/z/1c/zy/6B65.htm
甲骨文でも金文でも、足跡二つ分だろ?
いくらたくさん何度も書いたところで、歩が短歩になったり足裏長になったりはしない >>888
> 纏向遺跡の地は扇状地の微高地
天皇の陵墓を扇状地の微高地などに造る訳ないよ。 無礼千万の説。 @阿波 扇状地は、水はけが良く農耕には適さない
河川沿いには伏流水が存在しやすく、浅井戸でも大量の地下水を取水でき水質も良い >>888
>扇状地は、水はけが良く農耕には適さない
農耕地はどうでもよい話。
天皇の陵墓を扇状地の微高地などに造る訳ないよ。 無礼千万の説。
少なくとも初期の天皇陵は、山の尾根や丘を利用して築かれた。
初代〜第五代天皇の陵墓の記事(『古事記』『日本書紀』『延喜式』)には
まず神武陵が畝火山の北方白檮尾上、綏靖陵は衝田岡、懿徳陵は畝火山の真名子谷上、孝昭陵は掖上の博多山上とあるように、
初期の天皇陵は、 山の尾根や自然の丘陵の一部を利用して築かれている。 @阿波 >>892
>天皇の陵墓を扇状地の微高地などに造る訳ないよ。 無礼千万の説。 @阿波
すぐに前言を翻すww
プライドはないのかい?
まあザラコクみたいなバカなプライドも困りものだがww
端中山古墳以降、行燈山古墳、渋谷向山古墳等が山沿いに作られるのは、
山の尾根を利用して盛り土の土木量を減らすためとも考えられている
無礼とかそういう話じゃなく、もっとプラグマティックな判断のようだよw >>882
>>>880
>断じて朝貢などではない。
>なぜなら偉大なる天皇は朝貢などするわけがないからだ
>魏に朝貢していた邪馬台国が九州なのがその証拠
うわあ痛いなあ
遣唐使は敗戦国としての土下座朝貢そのものだぞ >>893
>すぐに前言を翻すww
>プライドはないのかい?
湿地帯も扇状地の微高地も平地に変わりはないよ。
天皇の陵墓を湿地帯や扇状地の微高地などに造る訳ないよ。 無礼千万の説。 @阿波 >>893
>端中山古墳以降、行燈山古墳、渋谷向山古墳等が山沿いに作られるのは、
「行燈山古墳、渋谷向山古墳」も「大和天神山古墳」同様、倭国(阿波)の朱を使った「忌部はん」のお墓と何度言えばw @阿波 >>896
秘境阿波人が倭人なんだよ。
一度、秘境阿波へおいで。 秘境の湯もあるよ。 @阿波 >>892
>天皇の陵墓を扇状地の微高地などに造る訳ないよ。 無礼千万の説。 @阿波
すぐに前言を翻すww
プライドはないのかい?
まあザラコクみたいなバカなプライドも困りものだがww
端中山古墳以降、行燈山古墳、渋谷向山古墳等が山沿いに作られるのは、
山の尾根を利用して盛り土の土木量を減らすためとも考えられている
無礼とかそういう話じゃなく、もっとプラグマティックな判断のようだよw >>900
>すぐに前言を翻すww
>プライドはないのかい?
湿地帯も扇状地の微高地も平地に変わりはないよ。
天皇の陵墓を湿地帯や扇状地の微高地などに造る訳ないよ。 無礼千万の説。 @阿波 >>895
>湿地帯も扇状地の微高地も平地に変わりはないよ。
扇状地の微高地が湿地じゃないのは認めるかい?
粟はザラコクよりはましだと思ってたけど、
この件で完全に同類でいいやってレベルまで落ちたなww >>902
>扇状地の微高地が湿地じゃないのは認めるかい?
今はね。 @阿波 >>903
>今はね。 @阿波
じゃあ、間違いが認められる分だけ、ザラコクよりはまし、に
位置づけておいてあげよう >>904
>じゃあ、間違いが認められる分だけ、ザラコクよりはまし、に
>位置づけておいてあげよう
当時は、湿地帯だよ。 @阿波 小児病者が陥る妄信的な神社宗教は笑える
リアル史実と懸け離れすぎて
妄想だけが大きくなるからどうしようもない アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
https://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
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https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL6WAQsxbu3kAXBGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>358の訂正
それが、「南→東」などの嘘つき騙しの・・・・詐欺師の大和説者。 崇神の代に創建されたと言われている白山比め神社
その神紋は三子持亀甲瓜花
亀甲が三重になっているが
三子持が気になる
崇神の前は、卑弥呼、男王、台与
関係無いかw >>363
>平原の鏡が塗装?
曽根遺跡群について聞かれても「なんだそれは」とかアホ晒してたし
こいつらって実は平原の事さえも何にも知らないよな<
確か、大和説の誰か?が、平原の鏡には色が付けられていた、と言って、
平原説者をヘイトスピーチしていたんだよ。 >>911
このように
九州説の情報はいつも又聞き程度のアイマイなもんだ >>894
遣唐使は敗戦国としての土下座朝貢そのもので、朝鮮通信使も敗戦国としての土下座朝貢そのもの、ってことでオケ? >>364
>鏡:5〜6期の古い鏡を打ち割って細々と配り<
鏡片の大量出土は筑紫。
>4世紀後半から5世紀後半の古墳出土鏡まで完形鏡が出てこない<
大和説での一貴山銚子塚の黄金鏡があるし、日田の鉄鏡があるし、
沖ノ島の△もある。
>絹:麻布よりも粗悪な糸くずが一つ出るだけで、中期の13遺跡出土から激減しており絹製品の衰退の証拠となっている<
須玖岡本の中国絹。
>祭祀遺跡:柱を一本立てただけの穴が一つ見つかるだけしかない <
誰かが朝倉付近でも発掘を報告していたぞ。
>墳墓:近畿、東国を中心に広まる数百はある凡庸な方形周溝墓か、近畿、山陰でもっと古く大型の物が盛行する方形台状墓一つしかない<
一貴山銚子塚等の他、久留米にも前方後円墳があるし、半島の栄山江流域にも前方後円墳がある。
>宮殿:影も形もない<
朝倉付近の発掘。
>丹山:この当時はまだ採掘されてない(九州の水銀朱の出どころも中国大陸と近畿、四国で九州産はない)<
松浦川流域。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
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https://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL6WAQsxbu3kAXBGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 【大阪】「邪馬台国」卑弥呼の後継者“台与”の西晋朝貢以降〜「倭の五王」時代までの「空白の4世紀」に迫る特別展
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1540116516/ ふと思うたが空白の4世紀って三韓征伐とかあって韓国朝鮮に都合悪いから
空白って事にしてるんじゃないだろうな >>870
会稽東治を紹興地方と限定した場合、その東は屋久島付近に限定される。
屋久島付近は水行十日の地点に当たるので、そのあとの陸行一ヶ月の記述は無いことにしないと成立しない。
なので、陸行一ヶ月分は、ちょうど福州市の東あたりとなることから、邪馬台国の都の位置は福州市の沖とするのがよく、これに従えば、会稽から東冶(福州市)までの間が会稽東治の記述に重なるため、(治)は(冶)の誤りとするのが妥当。 >>796
纏向石塚古墳などの前方後円型墳丘墓がなぜ、低湿地の微高地に造られたのか考えないといけない。
箸墓は、石塚古墳の延長線上にあるから、湿地の中の微高地にあるわけ。
箸墓以降になると、山の尾根に造られるようになって、明らかに墓の立地に関する考え方が変わったのが分かる。 >>917
>4世紀後半から5世紀後半の古墳出土鏡まで完形鏡が出てこない<
>大和説での一貴山銚子塚の黄金鏡があるし
それ、いつの古墳? >>844この文章は、卑弥呼の使節団が魏の皇帝に朝見した翌年に、魏が返礼として送った使節団。
当然、卑弥呼に会っている。
しかし、狗奴国が邪馬台国に攻め込んだときに、帯方郡から送られた使節団は、卑弥呼や台与には会っていない。
この二つをいっしょくたにしたらダメ。 >>370
>>鏡:5〜6期の古い鏡を打ち割って細々と配り4世紀後半から5世紀後半の古墳出土鏡まで完形鏡が出てこない<
>そうね
正確には(九州説的に)4世紀後半から5世紀後半の古墳出土鏡ねwww<
いや、鏡を非常に好んだのは、天孫族系や阿毎氏系の国であり、
卑弥呼らの(呉王夫差の後裔の)東海姫氏系の国は、鏡をそれほど珍重したり大事には、しなかった。
例えば、三種の神器などとして、鏡は一個あれば十分であった。 >>374
魏志では長里なんて殆ど存在しない、ということは証明されたし、
南水行の南は東ではない、ということも確認できたし、
畿内なんて存在しない嘘つき騙しである、という事も判ったし、
九州説は盤石だな。 >>809
宋明清代になると、大和政権とのつながりから、邪馬台国は大和の前身とみなすことで決着しており、会稽東治か会稽東冶かについては、最早あえて校勘しなくなっていたのだろう。 アメタリシヒコって、200年頃の人でいたよね。
孝昭天皇の息子。 九州から畿内への政権交代が唐の白村江の戦いの後だからね。 崇神が300年頃の人ならば、4代前の彼は200年頃の人だ。 タリシヒコの名前は歴代天皇で何人もいるよ。
和風諡号で7人くらいいたかな? >>884
それって、「朝貢していたのが天皇家のはずがないから古墳時代は4世紀以降に決まり!」
って決めた時代の時代認識だよw >>830
10日陸行一ヶ月のところにある卑弥呼の都は、古代中国人の伝統的な神仙郷が反映された位置認識。
この古代中国人の願望と、実際の卑弥呼の都の位置は異なる。
陳寿は、魏の役人が書いた里程を丸写しにしただけ。
そして、陳寿もその神仙郷にある卑弥呼の都の位置をそのまま書き写した。
しかし、別に実際の邪馬台国の所在地を示すデータもあった。
その実際の邪馬台国の所在地を示すデータは、帯方郡の役人が作ったものだろう。
陳寿は、そのデータは採用しなかった。
そのあたりを、よく読みこむことが必要。 >>379
「南→東」などの嘘つき騙しがバレた大和説は、断末魔さ。 方角を読み替えてる時点で畿内説は全て否定できるからな
畿内説キチガイは方角音痴を先に直せよ >>386
キョクウ戦争狂の大和説のヘイトスピーチ街宣車が、
またウソ連呼の大行進を始めたぞ 。
ww アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
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http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL6WAQsxbu3kAXBGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>394
>>殷周代の漢字の発生時期の論理の話ではなく、<
>殷周代の漢字の発生時期の論理
つ http://www.zdic.net/z/1c/zy/6B65.htm
間違いなく今で言う「複歩」だな <
何だい?、
甲骨文と金文は、「止」の文字とは全く関係がなく、
清朝の解釈での説明に過ぎないし、
小篆と楷体は、「単歩」で説明が付くものではないか。 >>405
「南→東」などの嘘つき騙しの証拠が出せなかったから、九州説を追い詰められるわけないだろ?。
大和説信者の知能が低いのが丸出しだな。 何で明治になって伊勢神宮の神紋が菊になったんだろう >>868
張政が卑弥呼と台与に会っていないということは、張政は邪馬台国へ行っていないということ。
おそらく、伊都国の迎賓所にずっといて、邪馬台国の役人からいろいろ聞いたことを帯方郡に戻って報告し、その記録にもとづいて陳寿は倭人伝に書いたのだろう。
なので、倭人からの伝聞というのが正しい。
張政の渡倭以来、魏の役人がさらに渡倭したという記録はない。
張政は、出世したのではなかったか。 >>426
>邪馬台国は京都を中心とした国 奈良は墓地 <
邪馬台国なんて存在しなかったから、×。
また、奈良は「南≠東」に拠って×。 >>427
大和説は、「南→東」などの嘘つき騙しがバレて、
もう、正義も大義名分も失った。 青龍年の紀年銘鏡を見れば、当時の最有力者は海部氏の先祖(和珥氏の先祖でもあり
尾張氏の先祖でもある)の丹波氏(丹後が本貫)だった。
丹後王国を築き赤坂今井古墳を作り、ガラス釧が出た大風呂南遺跡、巨大な方形張石墓の
日吉ヶ丘遺跡、絹織物に包まれた青龍三年の方格規矩四神鏡の紀年銘鏡が出た太田南5号墳、
女王を共立した有力者のうちの一つであり、歴代の天皇の后を出し、伊勢神宮の外宮の神の
出身地でもある。
卑弥呼がこの一族の宗女ではないという根拠は見当たらない。 >>875
正始八年の使節については、卑弥呼や台与に会っていないことが、「檄」の字によって既に決着がつている。
墓を造ったことなどは、全て伝聞。 >>429
>まー全体的には畿内説の方が素直だよね<
畿内なんて存在もしないから、この男も嘘つき騙しであり、×。
>九州説は短里水行日程方位墓の大きさ等々おかしな仮説が多過ぎる<
大和説は、長里や水行や日程や方位や墓の形や大きさ等々、
「史料事実の否定曲解捏造」の、
おかしなインチキや仮設が多過ぎる。 >>949
じゃ、会ってる難升米にも、なんで檄してるの? それよりも
『倭猿』というのは何なの?
『やまとねこ』などで調べてみて >>430
「檄」は、直接面会している場合でも、面会していない場合でも、でも、出来る。 >>431
その前に、大和説者は、「南→東」などの嘘つき騙しをやり過ぎて、
脳を失ってたけどな。 家の老婆は、なぜか詳しいんだよな、偶然なのかな?
『Radio Ga Ga』
猫が何やらとか >>433
>京都が王都であり淀川水系が邪馬台国
北は若狭、出雲 東は関ケ原 南は奈良盆地 西は淀川まで<
邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙しであるから、×であるし、
「南≠東」に拠っても、×。 電気・発電が?
何やらと言っていたり・・・『松傾』?
『猫神やおよろず』? >>434
>絹も鉄もない <
大和は、3世紀末まで絹も鉄もなかった。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL6WAQsxbu3kAXBGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 『サイバーパンク special』
『ボーボボ』・・・、
ほとんど同じだし、住んでいるところも川崎区の・・・?
『サイバーパンク 』 >>915
>乾燥地って砂漠?
花粉というのは硬い殻があるから、結構長く残る
その花粉を観察して分類することで、湿性植物が多いか、
乾燥した土地の植物が多いかを見てるんだよ
乾燥地といっても砂漠ではないけれど、森の中ではない例えば学校の
グラウンドのような環境に生える植物を、乾燥した植生などと表現するんだよ >>438
>投馬国は宮崎 南に向い<
投馬國は、不彌國からの側副傍線国説明であり、魏使らは行っておらず、×。
>黒潮か四国沿岸沿いで南紀<
黒潮漂流のような危険を冒さないから×であるし、
「南≠東」になっているから×であるしである。
>陸行で京都<
南紀から京都は「一月」かからないから×だし、
「北へ向かった」なんても書かれていないから×だし、
そんな危険なルートを通るんなら、瀬戸内を行けば済むから×だし、
そうしたら今度は「南≠東」に拠っても×。 ドラえもん?
「うらしまマリン」?
「ぼく、どざえもん」と言っていたり >>439
>魏志の邪馬壹は、皇帝のいる都を指す臺の字を僻字としたため、元資料にあった臺の字を避けて壹の字を当てたもの。<
魏志には、始めから「邪馬壹」と書かれていたのであり、
後漢書で初めて、邪馬壹とは別の国として、「邪馬臺」と書かれたんだから、
この男も、嘘つき騙しの・・・・詐欺師。
>陳寿が臺の代わりに壹の字を用いたのは、恩のある司馬懿の懿から壹を取り出して司馬懿をヨイショし、晋の皇帝の司馬氏を喜ばしたということ。
これは、ほぼ通説になっている。<
その通説者は、皆、嘘つき騙しの・・・・詐欺師。
>邪馬壹国は、元々は邪馬台国<
「南→東」などの嘘つき騙しと同じく、
「邪馬壹→邪馬臺」も×。 尾張連祖奥津余曾の妹である余曾多本毘娘を母に、天押帯日子命(あめおしたらしひこのみこと >>939
>記念品として作ってみただけ。
記念品を作る必要があるのは誰かな?
この1点で、三角縁神獣鏡が魏鏡でも仿世鏡でも、
その出土分布の中心が邪馬台国比定地で問題ないことが分かる
それからよく九州説が、畿内政権が九州の邪馬台国を倒してその名前を奪ったとかいうが
易姓革命の思想を持つ大陸中華と付き合う上で、倒した国の国号を名乗る理由はない
倒された国は徳を失ったから倒れたというのが易姓革命の根本思想であり、
前王統を倒したならそれを主張する方が王権の正当性を示せる
九州説はその辺りも分かっていない >>442
>畿内説が瀬戸内海に面した摂津や河内を都に主張していたら、かなり手強かっただろうな。<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙しであるから、×であるし、
摂津や河内も、「南≠東」などに拠って、×。 歌舞伎〜芝居が好きで・・・という謎の話とか、
ジギー? >>940
>甲骨文と金文は、「止」の文字とは全く関係がなく、
今問題にしているのは、「止」ではなく「歩(旧字では步)」だ
金石文でも間違いなく複歩だなww
もうまともな反論もできなくなってきてるな
間違いを認められないってのも大変だww アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
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>鉄はどうなんだろね <
大和では、3世紀末のホケノまで殆どなし。
>畿内が九州を傘下に収めたいと思う動機になるのかな
逆に九州が西に向かう理由は薄いよね<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙しの文言であるし、
逆に九州倭国が「自昔・・・東征毛人五十五國」をやったの。 >>446
>土地が悪いらしい畿内よりしょぼい墓しかない九州www<
畿内なんて存在もしない嘘つき騙しの詐欺だし、
大和の巨大墓は、3世紀末以後。 >>449
>京都が王都なら近江 北陸まで邪馬台国の領地は広がります
狗奴国は和歌山 阿波 連合<
邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しの文言であり、
それ以外にも「南≠東」などに拠って×。 >>463
>吉備系は台与の頃にはぐっと減る。
代わりに初期の頃無かった河内系が台与の頃にぐっと増える。吉備系は台与の頃にはぐっと減る。
代わりに初期の頃無かった河内系が台与の頃にぐっと増える。<
「台与」なんて存在もしない嘘つき騙しであるから、×。 とうとう「九州説」ってngワードになったのか
御時世だな >>952
垂仁陵は低い高台の上にあるよ
現地に行って堀の東南隅に立てばわかる アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
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http://search.yahoo.co.jp/image/search;_ylt=A2RCL6WAQsxbu3kAXBGU3uV7?p=越式鼎&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 >>487
>纏向に連合政権がつくられたそもそもの動機は、鉄剣の入手。
農耕具などの鉄器の入手は、当初は主な動機ではなかった<
纏向に連合政権、なんて存在しなかったから、この男らは、嘘つき騙しの×人間。 >>489
>倭人伝の行程は、途切れることのない一文。
唐津から有明海を南下し、薩摩半島に沿って進んで、開聞岳付近から屋久島へ渡り、そこから上陸して一ヶ月陸行ののちに卑弥呼の都に着く。
放射状の行程の記述になってない。<
陳寿は、「至」の前での、途中移動があった事の有無を、きちんと書き分けている。 >>933
元の報告書に里程はなかったかあっても陳寿は採用しなかった
そして漢の領土は南北2万6千里とする淮南子の記述を元に
倭は約半分の帯方から南1万2千里とし行程に里数を当てはめた
恐らく漢の時代から倭まで1万2千里は定説になっており
実際の距離はそれより短いと書くのは漢より領土が縮小する事になり
当時の皇帝の機嫌を損う可能性があった
なので陳寿は伝承の通りに、さらに四千里ほどプラスもして
邪馬台国は気の遠くなるほど遠くかつ大きな国であるとしたかった >>493
>纏向連合の勢力関係が河内、播磨以東の勢力が主導権をもつようになったのではないか。<
纏向連合、という実態が、そもそも存在しない嘘つき騙しだから、×。 >>505
>>「始皇帝の1歩=6尺」に従っての「自己解釈に拠る書き足し」をした可能性が高い<
>史料はそのまま読まなきゃいけないんじゃなかったのか?<
史料批判をして、その信頼性の程度を確認して、その史料事実を読むべし、
と何度も言って来てあるよ。 >>983
>垂仁陵は低い高台の上にあるよ
そういう場所を微高地というのだが、粟に言わせればそれも平地らしいw やれやれザラコクがまた皇国史観である九州説を広めようとしているのか
大日本愛国烈士ザラコク 崇神は色々神を祀っているよな
大物主、廣瀬大忌神、白山比め、etc >>990
>史料批判をして、その信頼性の程度を確認して、その史料事実を読むべし、
ザラコクのというか古田史学の「史料批判」と称するものが、
ただの牽強付会、我田引水の捏造だからダメだっていってるんだよ
歩は複歩で6尺
これが間違ってるというのは史料批判でもなんでもないただの捏造 >>992
>そういう場所を微高地というのだが、粟に言わせればそれも平地らしいw
だから、天皇の陵墓は「山のてっぺん」に造られるものだと、何度言えばw
微高地? なんじゃそれ? @阿波 >>507
>>大和の石塚の庄内も、筑紫からの伝来であり、筑紫よりも50年位の遅れるから。<
>これ1970年代の年代観なんだよな
その後、列島内の人の交流の活発さや、九州における土器出土の共伴関係から、
土器の変遷は各地でほぼ時間差なく進むことが常識となっている<
ダメだ。
卑弥呼の墓が「冢」であり、石塚は前方後円墳であったから、
石塚は、卑弥呼よりもはるかに新しいし、
三雲の庄内が最も古く、筑紫では筑紫の胎土で作られていて、
大和は、九州倭国の東征毛人五十五國の中の一国である事になって、
筑紫→纏向の搬入が0で、纏向→筑紫の搬入も殆ど0であったんだから、
大和は、筑紫からの伝来で模倣生産を始めた事になる。 アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=長江+++鬲&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
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