邪馬台国畿内説 Part405
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1544178696/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。 ◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。 ◆6−2
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。 ◆6−3
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。 ◆7−2
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等 ◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。 ◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。 ◆FAQ 3
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が里程等から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りが含まれていること、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌ほどの南方に過ぎず、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、会稽山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
伊豆七島などは唐古鍵の時代から畿内と交流圏である。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、そのような測定実施の記録がない。
万が一にも、そのような測定があったなら福岡県が魏の許都の真東近くに所在することが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。 ◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代の雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中華王朝では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。 ◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した!
これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示している。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018)
一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等 ◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国が大和の日本に取って代わられたことは、旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記されており、中国側の認識の混乱を表している。以下の各項等を勘案すると、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等として片付けて毫も問題ない。
・唐代に書かれたことが明らかな史料がみな倭=日本という認識を示していること。
・唐会要(倭=日本と認識)より、旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に認識できること。
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認できること。
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家であり、政変の頻発する中で、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前にようやく完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複するという不体裁が発生しているばかりでなく、他にも同一人物の伝が二本別に収録されるなど、他の史書に例を見ない杜撰が複数件発生している。 ◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。 ◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
以上のとおり、墳丘本体に殉葬痕があるか否か卑弥呼冢の判定基準にしようという考えには合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう!
弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出であり、景初の遣使が献上した班布がこれであると推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退している。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が連続していない。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示している。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色が行われていた状況(金原2013,2015)と一致する。茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用されているため、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解されるからである。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでないところに行くことだから、女王国は本州にある畿内ではないな?
A:陸続きのところへも渡海するので、伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。 ◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。 ◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。 ◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(以上、漢書西域上)
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62−1
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域と考えられる。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制の異なる碧城郡・海州市は郡域外であろう。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 62−2
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。 ◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。 ◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。
◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76−1
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
(続く) (続き)
◆FAQ 76−2
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。
◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。 ◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。暮壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。
古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png
◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正しい!
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。 ◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するの不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 なし >>911
>>912
新唐書は平安時代前期に当たる1060年に編纂された。
当然、日本書紀を知っていて、神武東征のことが書かれている。
そして、神武は天皇の祖先だと認識しているようだ。
なので、大和に入ったのは神武であり、南九州薩摩から大和へ行った。
北部九州の博多の分家が東遷したとは、新唐書に書かれてない。
また、纏向遺跡で出土した土器では、古いのは弥生X様式土器と呼ばれるもので、実年代に当てはめると180年〜210年頃。
また、それ以降でも出るのは、地元の庄内式や尾張、吉備、近江、北陸などの土器であって、北部九州の土器はまったく出ていない。
西新式土器でもでれば、博多の分家が東遷したということも可能だが、北部九州の土器はまったく出ていない。
博多の分家が、2世紀末〜3世紀前半に東遷したことを示すものは、何一つない。 >>993
>誤情報で片付けるのでしたら、各説 邪馬台国は至る所に存在してしまう
☟
>>100
どうして?
邪馬台国の所在地なら考古学で確定できるから何も問題ないでしょ
☟
倭人伝の畿内説に不利な記述を誤情報とするならば
各説、自説に都合の悪い記述は誤情報で片付けられる
これが横行すれば
各地に邪馬台国が存在してしまう
以上 旅程見ても九州では無いでしょ
上陸したあとに30日も水行する場所なんて無い >>714
>女王国は文脈によって邪馬台国中心の連合国全体をあらわす場合と
邪馬台国そのものを指す場合があるよね。<
女王國は、原則として、卑弥呼共立國範囲。
狗奴國は、おそらく共立に同意しなかったから書き分けられているし、
東方の渡海に拠って区別されている倭種も、
女王國と書き分けられていて、女王國ではない。
それに対して、倭國と言うときは、狗奴國も含むようであるが、
東方倭種を含むか?は、不明である。 >>993
>誤情報で片付けるのでしたら、各説 邪馬台国は至る所に存在してしまう
☟
>>100
どうして?
邪馬台国の所在地なら考古学で確定できるから何も問題ないでしょ
☟
倭人伝の畿内説に不利な記述を誤情報とするならば
各説、自説に都合の悪い記述は誤情報で片付けられる
これが横行すれば
各地に邪馬台国が存在してしまう
以上 >>716
>魏志倭人伝でも1万2千里に追加で南4千里つけ足したりしてるよ
これは呉が東1万6千里にあるという大月氏と国交を結んでいたため
それに対抗した表記 <
呉と大月氏の国交関係と、魏や女王國と侏儒國のや関係は同じではない。
侏儒國は、魏と国交を持っていた形跡がない。
>短里で書かれてるらしい距離を換算したら短里になったから短里は証明されたというのは
循環論法的証明<
史料事実や史料実態からの帰納的推論をしているから、循環論法になっていない。 >>993
>誤情報で片付けるのでしたら、各説 邪馬台国は至る所に存在してしまう
☟
>>100
どうして?
邪馬台国の所在地なら考古学で確定できるから何も問題ないでしょ
☟
倭人伝の畿内説に不利な記述を誤情報とするならば
各説、自説に都合の悪い記述は誤情報で片付けられる
これが横行すれば
各地に邪馬台国が存在してしまう
以上 >>721
>歩測したりできるところは計れるし、騎馬で一日で進む距離でも概算はできるだろ
だが、大陸王朝に水行や渡海の距離を測る手段はない <
手段はある。一寸千里と簡易三角測量。
>3世紀に短里を使う人はどこにもいない <
如淳注や、魏朝西晋朝の役人たちや、、陳寿や、魚豢や、江表伝?などがある。
>親魏倭王と親魏大月氏王は、この二つしかない特別な称号
曹真の功績と並ぶためには、倭を大月氏と対等以上に遠くする必要があるんだよ<
ない。卑弥呼の遣使は司馬懿と直接的な関係がないし、
距離も、大月氏は長里で萬二千里であるが、倭は短里で萬二千里だ。 >>724
>張政が倭国に来たのは260年<
正始八年の話に書かれているから、正始8〜9年頃であるから、×。
>この時は恐らく畿内の邪馬台国まで行っている<
畿内も邪馬台国もなかったから×だし、当然行っていない。 >>739
>九州北部から瀬戸内海航路で投馬国(鞆の浦)にしばし停泊
そこから邪馬台国に向かう<
「南≠東」などに拠って、×。
>航路だから距離を稼げるのでそんなに停泊しなくてもいいはず<
これも、×。
後世の推古や斉明の頃でさえも、半月位はかかっていた筈。 ERROR: We hate Continuous....
連投ですや
問い合わせID:4872a3d1e8b994e7
ホスト:219.115.235.241
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>762
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者って、
人間として壊れてるやつが多いね。 御免 操作方法の間違いで連投となりました
>>90
>旅程見ても九州では無いでしょ
上陸したあとに30日も水行する場所なんて無い
これについての問答はスレ違いになるので九州説のスレでやりましょう
このスレでも過去 書き込んでいる九州説の方もいますが・・・ >>421
ほら、また大和説がウソついてる
「会稽東治之東」という動かぬ証拠を突きつけられて
必死で証拠を抹殺しようとニセ情報流したり
口から出まかせで誤魔化そうとしたり
醜態だねー大和が >>801
>狗邪韓国が倭人の国だなんて
それこそ学界で全く相手にされないトンデモ説の極みだよな<
魏使らや陳寿は、狗邪韓国と伊都國に特別に「到」を付けて区別して、
倭地内の重要な目的地の一つであった事を示そうとしており、
「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接」や「其toku廬國與倭接界」として、
韓と海を隔てずに直接的に境界を接している事を示し、
「到其北岸狗邪韓國」の「其」は倭人伝の記載であるから、「倭」地である事になり、
「始度一海」も「渡海」が初めてであった事を示しており、
という事は、歴韓國乍南乍東は韓国を陸行した、という事になり、
魏使らは「持衰」を実見した記載をしているから、
狗邪韓国からは「倭船」の乗って渡海した事になるから、
狗邪韓国に倭人が居していた事は確実であり、
狗邪韓國という呼称は(狗邪+韓國ではなく)「狗邪韓+國」であるから、
「狗邪韓」が実質的呼称部分であり、
韓内に「〜韓」という呼称を持った国はなく、倭地にも「〜倭」という呼称はなく、
従って、「韓」は国名ではなく地域的文言としての文字使用であり、
「狗邪韓」というのが始めからの地域的呼称名であった、という事になる。 >>837
>それ以前に九州説が狂いザルと化してるぞ!?<
それ以前に、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者や学会教科書界学者らが、
狂いザルと化してるぞ!?。 >>844
>割り出して 短里になったから短里はあったとするのは 循環論法<
史料批判して得られた史料事実や史料実態を出発点にして、
それからの帰納的推論をする事は、学問の正道であり、
循環論法にならない。 >>94
>倭人伝の畿内説に不利な記述を誤情報とするならば
>各説、自説に都合の悪い記述は誤情報で片付けられる
ほら
「倭人伝の畿内説に不利な記述を誤情報とする」という条件を
後から付け加えたね?
つまり
>誤情報で片付けるのでしたら、各説 邪馬台国は至る所に存在してしまう
というのはウソ
誤情報であると合理的判断が下せる情報は
誤情報で片付けて、なんら問題がない 魏の役人の記録出してよ
無いのに出任せ言ってるんじゃないのか >>104
>誤情報であると「合理的判断」が下せる情報は
誤情報で片付けて、なんら問題がない <
「合理的判断」であるかどうかの根拠の内容が希薄であれば、独りよがりの「判断」となります。
南⇒東について根拠ある「合理的判断」はできているのでしょうか?
テンプレも根拠というより、邪推の域をでません。 >>106
>テンプレも根拠というより、邪推の域をでません。
という根拠は?
あなたのその断定が
独りよがりの「判断」なんじゃないの? 石野氏や寺澤氏も纏向=邪馬台国王都論から距離を置くようになりました。
邪馬台国王都論から離れ他人事のように「纏向は初期ヤマト政権の都宮と目されています」の論調です。
彼等は邪馬台国論者でなく初期ヤマト政権論者です。 >>106
他人をそう咎めた本人が
今まさにソレをヤラカしているという
この皮肉 >>1
あなたが信奉する寺澤先生がセンター長である
「纏向学研究センター」のHPを一度お読みください 以下のカキコミが意味深い
967日本@名無史さん2018/12/10(月) 17:35:26.53>>970>>982
>>「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説<<
⇧
これへの反論があればいいのだが・・・
テンプレ(畿内説)も南⇒東の根拠が言い訳じみて国民に受け入れられない
纒向も集落跡は未発見だし、大陸との交流を示す遺物も・・・・
念仏のような「前方後円墳」「三角縁神獣鏡」も効果ないし
よって他説批判に走るしかないのかなーーーそれも返り討ちに合うし
畿内説のスレにしてはお粗末至極
なにを根拠にしているのか畿内説はよくわからない >>107
言論の自由を阻害はしませんよ
十二分に論じてください >>112
なんの証拠もなく誹謗中傷していたとバレました
笑 あまり熱くなるのは???
冷静に書きこめば良いと思いますが いかがですか >各地に邪馬台国が存在してしまう
各地に分散しているのが九州説 >>862
>短里のあった証拠に短里で距離が書かれてるらしい書物をあげるのは
循環論法 つまりどれだけこの書に書かれてるどこそこからどこそこの距離が
短里相当になったとしてもそれは全て循環論法になるという事だ<
史料批判して得られた史料事実や史料実態を出発点にして、
それからの帰納的推論をする事は、学問の正道であり、
循環論法にならない。
>1短里は通常の5分の1里で・・・と体系が明記されてる書が必要<
周髀算経の一寸千里の法に、明記されている。 >>108
>彼等は邪馬台国論者でなく初期ヤマト政権論者です。
本音は倭国(阿波)論者。 @阿波 >>865
>一寸千里は循環論法 <
里歩系と尺寸系の両方での計測法であったから、1里の長さが尺寸系で示された事になり、
「計測事実からの帰納的推論」に拠って短里の存在示された事になり、
循環論法になっていない。 >>119
>周髀算経の一寸千里の法に、明記されている。
ウソだな
現代日本人の「自己解釈に拠る高慢な書き換え」(笑)があるだけだよ テンプレが、完全に論破され、畿内説の学者からも笑われるような内容になったのだから、SF・ファンタジー・ホラー掲示板で討論を続行すれば良いのではないのな、、 >>123
そだね キナイコシは畿内説の宣伝係も首になったみたいだね 邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、真実を暴かれたので、焦っているな。。。 >>125
そだね キナイコシの行き場所が無くなりそうだね >>121
>里歩系と尺寸系の両方での計測法であったから、1里の長さが尺寸系で示された事になり、
>「計測事実からの帰納的推論」に拠って短里の存在示された事になり、
>循環論法になっていない。
あなた・・帰納ってなんだか知らないで言ってるでしょ >>873
≫A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融): 山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮) :
海中の島国がカンボジアと「接」<
これも×だ。「其toku廬國與倭接界」というように、「界を接す」であり、
境界がくっ付いている、という事をはっきり示している。
≫狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、
3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、
3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。<
そりゃ、半島南岸に韓の諸国を混ざってはいたんだろうが、
「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接」であるから、
南岸では、最低、「倭」の方が勢力が強くて多い、という意味だ。
>◆FAQ 62−2 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、
伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、
そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。<
いや、倭王武の上表文に「自昔・・・道kei百濟、裝治船舫」とあるように、
昔から、百済西岸に出て行く道は、陸路だ。
>金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。<
これも×だ。弁辰狗邪と狗邪韓とは、同じ狗邪部族ではあっても、居住地が違い、
別国だ。 魏志倭人伝時代、巨済島は、倭国の領地だった可能性が、高まってきたな。。。 >>874
>>狗邪韓國は狗邪韓國、弁辰狗邪國は弁辰狗邪國だね。 同じなら同じ名前を書くだろう?<
>本質的には狗邪国なんだよ のちの伽耶だ 韓伝で 所属が分かるように弁辰狗邪国とし、
倭人伝では倭人の国ではないことを示すために狗邪韓国としてある<
同じ狗邪部族であるが、居住地の違いに拠って、
弁辰側の狗邪部族の国は、弁辰狗邪の國と呼ばれ、
倭地域側の狗邪部族の国は、狗邪韓の國、と呼ばれただけの事だ。 >>129
「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接」や「其toku廬國與倭接界」として、
韓と海を隔てずに直接的に境界を接している事を示しているので、
魏志倭人伝時代、巨済島が、倭国の領地だっただけではなくて、朝鮮半島の大部分も倭人の領地だったのではないのかな。。。 畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
国作りが進み平和で豊かな時代が到来したんだろう
中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。
伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない
魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い
万葉集の奈良時代後半の歌を読むと、月やホトトギス時鳥の来訪の期待感が、次第に高まっていくのが感じられる
桓武朝で神代の王統が復活したのだろうか?
信長秀吉家康の例え話
ホトトギスは何を指すのだろうか? 杵築大社の天井図、八雲が一つ欠けて七つしかないだろ?
出雲地方で【オオナムチ】以前に信仰されていたのは【幸神】、【東!】から来て文物をもたらした【クナトの神】、そして二神の子【サルタヒコ】
追放されたんだろうな。八雲が欠けた理由
八雲を出た一族、出雲。
逃れたサルタヒコが見つかったのは、天の【八衢】
道が幾つにも分かれるところ、【方違】
堺に方違神社があって、方違【幸】大神が祀られている
畿内に逃れてきた幸神一族、出雲族と元々畿内にいたクナト族が一緒に国作りをしたんだろう
1世紀半ば〜2世紀後半の出来事
倭国大乱前に畿内にあったクニは、この二つの勢力が中心となってできたんだろうな
【八衢】と延喜式祝詞にある道饗祭の神々との関係が興味深い
【八衢】彦、【八衢】姫、クナト
上記の神々は、高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。 ホマツタエという真偽不明な言い伝えがある
スズ(銅鐸?)は暦の源
とか物の化成の話とか色々書かれていて、結構面白い
ウツホ(空)とカゼ(風)、ホ(火)、ミズ(水)の四気が化成して生じたのが鳥類(四化)で、
その中でもウツホ(空)が勝っている鳥は良く空を飛び(飛鳥か)、
カゼ(風)の勝る鳥は美声で囀(さえず)り(鶯?)、
ホ(火)の勝る鳥は良く水に泳ぎ(鴨?)、
特にミズ(水)に勝る鳥の羽は柔らかで上等な羽二重(はぶたえ)の原料となります。 スズという音で思い出すのは、サザキ
スズは古語で小さいという意味らしい。
小、少、スクナい
仁徳天皇
大雀命
オオ【サザ】キのミコト
鳥の王様はミソ【サザ】イ
日本書紀によれば、応神が生まれて喜んだのは、神産巣日の子スクナヒコナとある
スクナヒコナは鳥の服を着ていたという日本書紀の記述もあるな
神産巣日、サザキで思い出すのは、
布都主、武甕槌の件で、櫛八玉神が料理をする話
この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、
地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、
緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、
割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します 韓国政府が邪馬台国畿内説を応援し、キナイコシや3寸男を雇用して、5ちゃんねるで畿内説を宣伝していたのは、
魏志倭人伝時代、巨済島が、倭国の領地だっただけではなくて、朝鮮半島の大部分も倭人の領地だったことを、隠すためだったのではないのかな。。。 倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか?
畿内にあった銅鐸とヒスイの勾玉の集落
弥生時代末期に営みが終焉
貴重な勾玉が放置されている
池上曽根遺跡は、日本最大の井戸や弥生最大の大神殿、鉄工房もあった弥生時代にかなり栄えた集落。6cm大の巨大勾玉が出土
大阪は他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡
など、きりがないほどヒスイ勾玉が見つかっている。
奈良の唐古・鍵遺跡、鉄鉱に納められた巨大勾玉が見つかっている。貴重な勾玉が放置されていた。
これらの集落の人々はどうなってしまったのだろうか?
仁徳天皇の治世、再び勾玉が大ブームになる。
弥生時代の勾玉勢力と何か関係があるのだろうか? 倭人の領地は、朝鮮半島のどのくらいの大部分に、広がっていたのだろうか。。。 古代において、巫女は兵団とセットなんだな
卑弥呼の役割は民、兵を教化して纏めることだったんじゃないか?
軍隊に随行する巫女の一軍の埴輪も見つかっている
また櫛を頭に刺した巫女の埴輪も見つかっている
◎櫛、巫女、兵はセット
◎櫛は衛生道具、毛じらみやフケなどを梳き除く為の道具
記紀で櫛に変えられた姫がいたような
どういう意味があるんだろう オオナムチは初期のヤマト政権に与した勢力だろうな
気多大社の謂れは興味深い。
孝元天皇の時代(台与の頃かな)オオナムチが【化鳥、大蛇】を退治して【海路が開けた】とある
倭国大乱の余波で日本海航路は安全が担保できない状況だったんだろう
四隅突出墳丘墓の分布
広島→岡山、島根、鳥取→石川、富山
舞鶴マイヅル、敦賀ツルガに無いのは興味深い
更に気多大菩薩は、孝元天皇の時代、従者を引き連れて渡来した異国の王子とある。 新羅の王子だろう。
オオナムチは異国の勢力の浸入を手引きしてまで、在地の勢力を討とうとした。
敦賀湾〜伊吹山の勢力は義に厚く最後までヤマト政権に抗ったんだろう。日本書紀にある伊吹山の荒ぶる神。
伊吹山は和歌に於いて一途な思いの代名詞
伊吹山にはヤマタノオロチの神霊が眠ると言われている。
伊吹山の麓の稲部遺跡、貴重な鉄が放置されている。
風の宮の神、級長津彦命 級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子のことだろう。鉄。ヤマタノオロチ。 >>876
>周髀算経は周朝の物でもなんでもないし ましてや魏朝ろは無関係だ<
卷上が、
昔者周公問於商高曰:
「竊聞乎大夫善數也,請問古者包犧立周天曆度。夫天不可階而升,地不可得尺寸而度。
請問數安從出?」
という周公と商高の会話から始まっているから、周朝の度量衡の説明だ。
>魏朝の「周制への復古」なんて無いんだよ 歴史に暗い現代人の妄想だ <
初代文帝の即位の詔書の受命改制で、「度量衡の統一」を指示して、
重臣たちが「周制への復古」の上表を繰り返した、という事は、
「始皇帝の1歩=6尺」を否定し、
漢代末に再収集注釈が入れられた周髀算経の度量衡に戻そう、
という事だ。 >>141
>初代文帝の即位の詔書の受命改制で、「度量衡の統一」を指示して、
>重臣たちが「周制への復古」の上表を繰り返した、という事は、
はーい、そんな事実はありません >>892
>>日の出日の入り方向に拠って、南と東とを間違える事は、ほぼ100%ない。<
>その場では、の話だ
それを記録して、持って帰って、報告して、報告書にまとめられて、
それを参照して史書を撰述するまでの過程で、いくらでも錯誤が入る<
ダメだ。
同僚が確認してしまうし、後続の魏や郡の役人が差異渡来して来て確認してしまうから、
間違えようが無い。
>そして、最終段階の撰述を行う陳寿が、倭国は南国という認識なんだから
その最終段階だけでも南とされる蓋然性としては十分だ
陸行一月の行程が南向きだというのも、水行方向の錯誤の原因の一つになり得る
ザラコクの論証は無意味w <
ダメだ。
陳寿も女王國に対して、「計其道里、當在會稽東治之東 」という判定をしているんだから、
ほぼ九州付近に比定しており、
陳寿は、沖縄や赤道付近のような極端な南に間違えていないし、
当然東との混乱も起こしていない。 >>893
>画文帯神獣鏡や三角縁神獣鏡は、二十四節気3年暦のカレンダーだよ。<
ふーん。 >>902
>コンパスのある現代でさえ方向間違う奴おるのにアホな理論だ<
そういえば、「南→東」などと間違う大和説者は、・・・・アホであったなあ。
そんな例外がいるから、普通の正常な人類は「ほぼ間違えない」なんだよ。 >>905
>考古学的遺跡・遺物という現実が、邪馬台国=ヤマトを示しているからね
九州説のような、ただの捏造寝言とは違う、確度の高い推定だよ<
「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
考古は,金石文位の事物出ない限り、文献証拠よりもはるかに根拠にならないものであり、
確率の低い推論根拠にしかならない。 明らかに九州よりはるかに南をほぼ九州って言ってる時点で目茶苦茶 大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf >畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって
纒向学研究 第4号は2016年3月31日発行だな
瀬田の大型円形周溝墓が見つかったのが2016年5月 〇〇が無い理論は一掘りで覆されてしまう怖さがあるな >>143
根拠:
存在を主張する側が頑として根拠を提示しないので
虚言と判定する >>144
明快な解説だ
畿内説はグーの音も出ないから
詭弁を繰り返すだろうな 【筑紫の日向】
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、峰々に楼閣があった。
その中に高祖神社がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。 高祖は韓鍛冶の宅蘇吉士が住んでいたところ
『古事記』応神(おうじん)段に、
手人韓鍛(てひとからかぬち)名は卓素(たくそ)なる者を百済から貢上したとある 邪馬台国がどこにあったのかという討論で、畿内説が負けてしまったので、負け組のだめの掲示板に、スレッドが必要になったのではないのかな。。。
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/loser/1543546433/l50 【あるコンサート会場にて】
入場口の係「お客様! 入場券をどうぞを」
九州説の男「入場券なら、あるから」
入場口の係「あのーお客様、入場券をご提示ください」
九州説の男「だから、入場券ならあるから」
入場口の係「お客様、半券を切り取りますので、入場券を出してください」
九州説の男「うるさい、お前は入場券厨か?」
入場口の係「お客様! 入場券をお持ちでないと入場できないのですがを」
九州説の男「ターコ! 俺が入場券を持ってないという証拠を出せ」 >>158
>九州説の男「ターコ! 俺が入場券を持ってないという証拠を出せ」
むしろキナイコシの口癖のような? >>137
対馬が今でも名前として残っているように、
戦で滅ぼされたといっても、民が住み続けて国名(地名)は残った場合も考えられる
例えば織田信長が武田勝頼を滅ぼしても、甲斐国という国は残ったようにである。 韓国政府が応援を実行している、邪馬台国畿内説が嘘だと判明したので、日本国が対馬の領地を防衛できるのでは、ないのかな、、、 韓国政府が、邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、雇用した、キナイコシや3寸男に、元気がなくなってしまったな。。。 >>907
>>(世界の果て情報や列島情報)いや、ほぼ経験実測値に拠ったもの。<
>世界の果てまで行った人が、一人もいないのにどうやったら実測できるんだ?
バカも休み休み言えww<
現在の知見では、人類は、
アフリカで発生して、アジアやヨーロッパに広がり、
更にオセアニアやアメリカにまで広がったんだから、
古代中国人が、先祖の「伝承の一部」を伝えていた可能性は当然あるし、
山海経も、沢山の「中国外の部族」の情報を伝えているんだし、
殷だったかの王が部下にユーラシア大陸の東西距離を歩測する事を命じ、
部下が5億歩位だったか?を報告した記録があった筈だから。 >>908
>>淮南子も短里を使っていて、魏使らも短里を使った計測をしたから、
同じ萬二千余里が出て来た。<
>淮南子は、実測値じゃないんだって!<
殷の頃だったか?に、ユーラシア大陸の東西距離を歩測した情報があるんだから、
「ない」なんて断定したって、何の価値もない。
>つまり短里はない そして、それと一致している時点で、同じく魏志倭人伝の萬二千里も
実測値ではないし、短里もない <
不可知部分が殆どである自然や歴史において、そんな「断定」など何の価値もなく、
お前は・・・・アホ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>915
>いわゆる魏志倭人伝と同じところ「三国志巻三十 烏丸鮮卑東夷傳」に「台」が3箇所あるんだぞ
それすら確認してないって、古田武彦氏もいい加減だなってことにしかならないww<
古田さんは、「壹」や「臺」の三国志での全調査をされたが、
「台」の三国志での全調査をした、とは書いておられず、
調査立論対象ではなかったから、全調査されなかったんだろう。 古びた説ゆえ、
あちこちに、ほころびもあったということだ。 >>952
>短里と魏晋里で「4倍」異なると言っているんじゃなくて、
九州説が短里と言っているもの同士で「4倍」異なるんだぞww<
「4倍」も違わない。
おそらく、出発地と到着地の誤魔化しをやった数字なんだろうが、
短里の76.5mに対して、ばらつきは90〜50m位だから、「2倍弱」の範囲のばらつき。 >>93
魏で使われた度量衡の書かれた書や
当時使われたモノサシの史料事実や史料実態から
換算すれば魏の1里は430m
そこから帰納的に考えれば魏で遣われたのは1里75mの短里じゃなかった >>103
魏志倭人伝を史料批判すれば
短里なんぞ使われてなかった事は明白 >>964
>少数民族は九州という語を使いたがるけど
考古では九州が一つのような纏まりはない <
九州倭国地域では、漢代に100国で、卑弥呼の頃は30国で、
倭王武の頃は、「西服衆夷六十六國」状態。
それに対して、瀬戸内〜南関東方面は「東征毛人五十五國」状態。 >>106
とうとう九州説は
魏志倭人伝の南は東の間違いだから邪馬台国は畿内と頑迷に主張する
現実には居ない脳内畿内説と戦い出したようだな >>990
>>なぜ韓国が方可四千里なのか?
>それももう何度も説明しただろ?
倭国本土まで一萬里ありき
渡海一回、一律千里ありきで、
渡海三回だから残り七千里
半島の二辺の半ばまで行って七千里に合うように
倭国までの旅程の都合に合わせて、逆算で韓地方四千里としているだけ
ただの机上の数合わせ
短里の実測値なんて、どこにもないww <
変な男。
「韓在帶方之南、東西以海爲限、南與倭接、方可四千里」は、
倭人や魏使らには関係がなく、魏使らの計測記録でもなく、
楽浪や帯方の郡役人らの計測記録ではないか。 計測記録とかまたでっち上げてるし
計測したって何処に書いてあるの >>119
周髀算経には周で使われた尺度は1尺=1歩
1里は300里でなんかの短里の体系なんて書かれてないよ >>1000
>>誤情報で片付けるのでしたら、各説 邪馬台国は至る所に存在してしまう<
>どうして? 邪馬台国の所在地なら考古学で確定できるから何も問題ないでしょ<
不可知部分が殆どである自然や歴史においては、
考古だけでは、金石文のようなものでなければ、
その解釈の可能性が無限にあり過ぎて、全く確定出来ないものなの。
例えば、巨大前方後円墳でも、
九州倭国の東征毛人五十五國という文献事実で、
十分に説明が付いてしまう。 >>83
k1甕棺の突帯部の特徴が庄内併行期のものと比べて失われていると柳田氏の指摘があるとのことだが、
k1甕棺の形式である日佐原式は5段階の変化があり、庄内期を200年〜250年とする編年に当てはめると、
k1甕棺の変化の段階は、3世紀半ば〜後半とすることができる。
このような状況なので、k1甕棺の年代推定については、まず庄内期の年代を確定することが肝心。 >>149
大和には大型墳丘墓はなかったが、尾張には前方後円型墳丘墓があり、北陸には出雲発祥の四隅突出型墳丘墓があり、吉備だけに大型墳丘墓があったわけではない。
これらの地域の勢力を含む多数の地域が集まったのが纏向遺跡である以上、吉備が主導した政権であったとのモデルは根拠に欠ける。
一方的な思い込みの可能性がある。 >>121
1里約75mの短里になるように観測地の条件を当てはめただけだ
何の検証でもない
そもそも千里離れた場所の8尺の棒の影長の差が
丁度1寸になったなんて数値が整いすぎて実測値ではありえないし >>145
この鏡を掲載しているサイトから画像をダウンロードして、二十四節気を当てはめて線引きしてみた。
間違いない。
この鏡は、3年分の二十四節気を円環上に配置したカレンダーだ。
その中の一つは、5度角ごとに一周で72個の山形を鋳込んでいる。
72個×5度は360度になり、円周の全角に当たる。
伊勢遺跡の円周上の建物配置や纏向遺跡の大型建物の向き、墓域の範囲の決定、筑後山門の軸線の痕跡などは、こうした銅鏡の3年分二十四節気暦を用いる技術者によって行われた可能性が極めて大きい。
3年分二十四節気を銅鏡に鋳込み、この銅鏡を祭祀用具として用いて方位の確定が行われた。 邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、真実を暴かれたので、焦っているな。。。 一寸千里は嘘
なぜなら計算すると1尺5寸になるはずの影の長さが実際には1尺3寸になるからだ >>1の低能じゃ太刀打ちできない
頭のいい友達を連れて来い
うーーーん 友達いないだろうな 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>188
そだね
友達いないから24時間張り付いているのだろう >>178
いや、距離が書いてあるってことは何らかの計測をしたってことでしょうよ。
逆に距離は書いてあるけど計った訳ではないですよ、って書く訳ないじゃん。
三国志のあちこちにある里程は全部デタラメですってことはないだろう? >>178
(訂正)
いや、距離が書いてあるってことは何らかの計測をしたってことでしょうよ。
逆に距離は書いてあるけど計った訳ではないですよ、って書いてある訳でもないじゃん。
三国志のあちこちにある里程は全部デタラメですってことはないだろう? 想像で距離を書いたとすると、「餘(余)」を付ける必要はないように思うが。 >>178
このサイトで「餘里」で検索したらこれだけあった。
http://www.seisaku.bz/search/word_count.php
これら全て想像の数値ということはないのではないかな?
◆ 三国志01 魏書01 武帝紀第一に 3件あります。
◆ 三国志02 魏書02 文帝紀第二に 1件あります。
◆ 三国志08 魏書08 二公孫陶四張傳第八に 1件あります。
◆ 三国志09 魏書09 諸夏侯曹傳第九に 3件あります。
◆ 三国志10 魏書10 荀ケ荀攸賈詡傳第十に 1件あります。
◆ 三国志11 魏書11 袁張涼國田王邴管傳第十一に 1件あります。
◆ 三国志15 魏書15 劉司馬梁張溫賈傳第十五に 2件あります。
◆ 三国志17 魏書17 張樂于張徐傳第十七に 1件あります。
◆ 三国志18 魏書18 二李臧文呂許典二龐閻傳第十八に 1件あります。
◆ 三国志19 魏書19 任城陳蕭王傳第十九に 1件あります。
◆ 三国志24 魏書24 韓崔高孫王傳第二十四に 1件あります。
◆ 三国志26 魏書26 滿田牽郭傳第二十六に 2件あります。
◆ 三国志27 魏書27 徐胡二王傳第二十七に 2件あります。
◆ 三国志28 魏書28 王毌丘諸葛ケ鍾傳第二十八に 4件あります。
◆ 三国志29 魏書29 方技傳第二十九に 1件あります。
◆ 三国志30 魏書30 烏丸鮮卑東夷傳第三十に 12件あります。
◆ 三国志32 蜀書02 先主傳第二に 3件あります。
◆ 三国志35 蜀書05 諸葛亮傳第五に 1件あります。
◆ 三国志38 蜀書08 許麋孫簡伊秦傳第八に 1件あります。
◆ 三国志43 蜀書13 黃李呂馬王張傳第十三に 2件あります。
◆ 三国志44 蜀書14 蔣琬費禕姜維傳第十四に 1件あります。
◆ 三国志46 吳書01 孫破虜討逆傳第一に 1件あります。
◆ 三国志55 吳書10 程黃韓蔣周陳董甘淩徐潘丁傳第十に 1件あります。 想像で距離を書いたとすると、「餘(余)」を付ける必要はない
ということはないだろ >>185の人は、二十四節気5度説が、もともと太陽と何の関係もない吉野ヶ里遺跡の
北墳丘墓付属立柱の方角を詭弁を使って太陽信仰と結びつけようとしたものであったっていう
発端を覚えているんだろうかww
鏡の上に72個の突起があったらそりゃあ5度間隔にはなるけれど、鏡みたいな持ち運ぶものでは
太陽の移動との対比は無理だなw >>185
>この鏡は、3年分の二十四節気を円環上に配置したカレンダーだ。
1年で一周する二十四節気を、3年分も円環上に配置することはあり得ないよ 想像で書いたのではなく、想定で書いてるんだよ
「餘(余)」を付けるのは、もっともらしくするためでもある どのみち筑後山門の二十四節気が用いられていた痕跡というのは江戸時代なんだろ >>200
もっともらしくするということは、読者が計測したと思うように書いてるっていうこと? もっともらしくというか
そう考えてたんだろう
地球が平面で天が蓋の時代だから 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>172
魏志倭人伝とあう史料を無視してどうするの? >>200
>想像で書いたのではなく、想定で書いてるんだよ
>「餘(余)」を付けるのは、もっともらしくするためでもある
痛いなあw
そこまで無理をして魏志倭人伝を否定するんだ
邪馬台国論争から手を引いた方がいいよ
あなたが追い求めているのは邪馬台国てはない「何か」だよ >>198
太陽信仰そのものとは関係ないだろうな。
季節の意味が重要だったのだろう。
また、分度器を鏡として持ち運べたから、祭祀が可能になった。
山門の卑弥呼は、その技術者ではなかっただろうが、その鏡を手に持って呪文となえたんだろうよ。
近江の伊勢遺跡の東側の円周上の建物のうち、最も北に位置する建物は小満の節気と重なるが、実際の太陽はこの暦の小満の位置まで登ってこない。
なので、この二十四節気は実際の太陽位置からは離れて、冬至から日数を数えることによって季節を予測するようになっていた証拠だ。 >>210
>近江の伊勢遺跡の東側の円周上の建物のうち、最も北に位置する建物は小満の節気と重なるが、
それ言ってるの、世界でアンタ一人だよな >>199
前にも言ったことが、太陰太陽暦は3年に一度閏月を入れることによるサイクルとしていた。
だから、3年を1サイクルとする暦があることは当然。
銅鏡に二十四節気の3年分のサイクルを示す刻みを鋳込んで、専門家が季節の到来を読み出した。
その進言を受けて、卑弥呼は祭祀の準備に入った。
そういうことだな。 >>201
神社の社を建てたのが江戸時代ではないか。
その建てた位置が、元々いわれかなにかの標識があった場所ではないのか。
10度間隔で、神社が線上に建っている。
普通確率的にあり得ん。
その線の中心点に祭祀所があった可能性が高い。 >>215
元々いわれかなにかの標識が見つかったら考えよう >>213
>前にも言ったことが、太陰太陽暦は3年に一度閏月を入れることによるサイクルとしていた。
でもソレ、真っ赤なウソでしょ? >>213
>前にも言ったことが、太陰太陽暦は3年に一度閏月を入れることによるサイクルとしていた。
あのー
二十四節気は、太陽暦なんですけど
(笑 黒塚古墳出土の画文帯神獣鏡を画面に出して、それを印刷して、よく見てるとよい。
外周付近の異なる図像が合わせて24個ある。
これらの図像は中心の紐吊り球から15度ごとの等間隔に配置されている。
15度ごとに、冬至、立春、春分、立夏、夏至が半年。
そのあと立秋、秋分、立冬、冬至で1年となる。
これで120度、あとの240度分には2年分の節気が入る。
この画文帯神獣鏡は、専門家が用いる季節の分度器なんだよ。
纏向の大祭祀者に使えた神官が、その分度器の専門家なんだろうな。 >>218
太陰暦は季節がずれてしまうので、太陽の運行に合わせて季節と重なるようにした。
これが太陰太陽暦。
その太陰太陽暦をつくる作業で二十四節気が用いられた。
それでもまだ少しずれるので、3年に1度一か月分を追加した。
この3年サイクルの太陰太陽暦に合わせて、円環上に二十四節気を配置したのだろう。 >>219
だからさー
それ、世界でたった一人のお前さんの独自説だろ?
だれからも、信用されない、 >>208
計測していなかったよも書いていないから、結論は保留すべきだな。
>>209
技術的に無理かどうかは要求精度次第。
何本あったか知らんが、出土した物差しの長さを計って何倍もして、1里は430m、とか言うのも精度的にはちょっと怪しいかもしれない。 >>220
二十四節気は、太陰太陽暦などとは違い、暦法なんてな。
二十四節気は、季節暦に過ぎん。 >>221
まあ、お前らにこの画期的な発見の意味は分からんやろ。
ほかの掲示板で提示してみることにするわ。 >>223たった一人の発見から、新しい知見が生まれるのだよ。
お主は、いままでの人生で、何か発見したことないだろう。
すでに知られた知見でしかもの言えん哀しいやっちゃ。 二十四節気3年分に閏月を加えて円周に配置したら
73区分になるんじゃねーの? >>212
別のことでも言ったが、新しい発見をする者は、世界で最初の一人だよ。
オメは、その最初の一人にはなれんわな。 >>228
しらんがな、ほかでやることにしたんでな。
返答できん。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>211
もう、よそでやることにしたから、返答せん。
あしからずだな。 キナイコシは
無理して話についてこないでいい ボロが出る >>224
魏で使われた尺度は
1里=300歩=1800尺と度量衡の解説書の律歴志にある以上
そう計算するしかないよ
実際にきっちり正確に距離を測れたかどうかは別として >>88
>新唐書は平安時代前期に当たる1060年に編纂された。 当然、日本書紀を知っていて、神武東征のことが書かれている。
そして、神武は天皇の祖先だと認識しているようだ。 なので、大和に入ったのは神武であり、南九州薩摩から大和へ行った。<
「九州薩摩」なんて、王年代紀にも新唐書にも書かれていないの。
王年代紀には、
「凡二十三世、並都於筑紫日向宮。彦瀲第四子號神武天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮」と書かれ、
新唐書には、
「凡三十二世、皆以尊爲號、居筑紫城。 彦瀲子神武立、更以天皇爲號、徙治大和州」
と書かれていて、少し違うの。
>北部九州の博多の分家が東遷したとは、新唐書に書かれてない。<
別種分家の話は、旧唐書や唐会要に書かれているの。
>また、纏向遺跡で出土した土器では、古いのは弥生X様式土器と呼ばれるもので、
実年代に当てはめると180年〜210年頃。<
第X様式は、筑紫に出ていたし、おそらく筑紫の方が纏向よりも古いの。
>また、それ以降でも出るのは、地元の庄内式や尾張、吉備、近江、北陸などの土器であって、
北部九州の土器はまったく出ていない。<
筑紫の庄内も、筑紫の胎土で250年頃以前に造られていて、大和の庄内の一番古いのは、3世紀末の石塚のものなの。
>西新式土器でもでれば、博多の分家が東遷したということも可能だが、北部九州の土器はまったく出ていない。<
当たり前。筑紫が都だから、筑紫への搬入上納があったの。
>博多の分家が、2世紀末〜3世紀前半に東遷したことを示すものは、何一つない。<
神武東征は、は、書紀では紀元前660年が即位元年。二中歴では、神武即位元年は紀元前91年ごろ。 >>90
>旅程見ても九州では無いでしょ<
不彌國で萬二千余里がほぼ終わっているから、邪馬壹國女王之所都は筑紫になるの。
投馬國は側副傍線國説明であるし、
「水行十日陸行一月」は群から女王之所都の日数なの。
そして大和は「南≠東」などに拠って×なの。
>上陸したあとに30日も水行する場所なんて無い <
大和へ行くのなら、
末盧國から不彌國まで九州北岸を上陸してとぼとぼと歩く必要もないの。 >>238
>「水行十日陸行一月」は群から女王之所都の日数なの。
九州だとは思うけど、これは同意できないな。 モモソ姫の活躍とタウポ火山の大噴火を組み合わせるとこんな感じになる。
西暦181年 ニュージーランドのタウポ火山の大噴火(過去100万年で最大級の大噴火)
西暦181年 『後漢書』によると「空が黄色くなり太陽が覆われた。」 「6月に雹が降った。大きさは鳥の卵ほどもあった。」
西暦182年 『後漢書』 によると「井戸の中が凍ってしまった」異常気象を示す記述は2年続く。
西暦182年(崇神5年) 『日本書紀』によると「倭国の人口の半分が死んだ。」
西暦183年(崇神6年) 『日本書紀』によると「崇神天皇の徳でも国を治める事が困難になった。」
西暦183年(崇神6年) 『日本書紀』によると「渟名城入姫の髪が抜け落ち身体が痩せ細って神を祀れなくなった。(崇神天皇の娘も餓死寸前)」
西暦184年 黄巾の乱が勃発
西暦184年(崇神7年) 『日本書紀』によると「モモソ姫(卑弥呼)が奈良で大物主神を祀ったら、五穀豊穣になった。民百姓は喜んだ。」
西暦184年 『梁書』によると「卑彌呼という一人の女性を共立して王とした。」
倭国を救ったモモソ姫が女王・卑弥呼になった! >>237
神武と書かれている。
新唐書のこの記述の原典は、日本書紀。
日本書記が書いている神武の出身地は、薩摩の吾田、現在の南さつま市阿多。
北部九州なんて、日本書紀はひとことも書いてない。
新唐書の筑紫日向宮は阿多のこと。
九州王朝説者は、誤読が得意なのか。
それとも、遊んでるだけなのか。
まあ、遊びで神武が北部九州出身だと言ってるのなら、別にかまわんがな。 >>237
弥生V様式土器は、近畿が発祥でそれが各地へ拡散したもの。
九州王朝説者は、大和の歴史を九州へ移し替えるのが得意だな。
まあ、九州書紀を大和が奪って改竄したのが日本書紀だと言ってるくらいだから、近畿発祥の土器を九州発祥だというくらいお手のものだしな。
この九州説者は、遊びでやるならいいが、本物の議論じゃないわな。 >>237
その博多の分家が大和へ移ったのだから、博多の西新式土器が大和で出なけりゃならんだろが。
なに、あほめいたこというとるの。
また、神武は薩摩の阿多出身だから、北部九州とは関係ない。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>245
まあ、この掲示板は遊びだから、遊びでいいのかもな。 >>249
円墳先造説には、笑ったな。
さすがは、大和説だよ。
そんな曲芸は、大和説者にしかできん。 >>231
節気厨・・・
・・・逃亡にしても、ぶざますぎる >>250
>円墳先造説には、笑ったな。
そこで全く反論できすにエヘエヘ笑ってる人
白痴の人にしか見えないんですけど
w >>251
その学説の根拠が、江戸時代の観光絵図だというのだから、えらい学説だ。 九州説はお気楽でいいな
手も足も出なくてもウソついて
毎日ヘラヘラ笑ってればいいんだから >>255
この掲示板は、遊びだよ。
そう真剣にとらなくてもいい。
九州王朝説をみてみろよ。
遊びでしか対応できんだろ。
短里に至っては、遊びでしか理解できん。
みんな、遊びが大好きだということだな。 >>254
>その学説の根拠が、江戸時代の観光絵図だというのだから、えらい学説だ。<
賛同
「溺れる畿内説は藁をもつかむ」ってとこだろうなww >>1よ
江戸期の観光図を引用して箸墓円墳を根拠とした
研究者名を知りたいな >>236
>そう計算するしかないよ
>実際にきっちり正確に距離を測れたかどうかは別として
おっ、キナイコシ得意のダブスタか? >>242
>新唐書の筑紫日向宮は阿多のこと。
筑紫だろアホか >>245
>また、神武は薩摩の阿多出身だから、北部九州とは関係ない。
各方面からブーイング必至 >>245
スレ違い
九州説のスレでやれよ
ここは崩壊しかけの畿内説のスレ >>265
あれ、日本書紀読んだことないの?
神武の先祖、タカチホからムナクニとおって、アタに行くんだけど。 >>263
うわ、キチ〇ガイだ。
日本書記、よんだことないのか。 >>267
え?
こいつ九州説なの?
九州説としては、神武が阿多とかいう世迷いごとは叩こうと思っていたのに。 >>268
志賀島に上陸して海の中道と福岡平野を横切って、高祖山に登ったんだよ。
筑紫の日向のクシフル岳は高祖山のこと。 >>266
>ここは崩壊しかけの畿内説のスレ
自虐ネタ? >>104
>>倭人伝の畿内説に不利な記述を誤情報とするならば
各説、自説に都合の悪い記述は誤情報で片付けられる <
>ほら 「倭人伝の畿内説に不利な記述を誤情報とする」という条件を
後から付け加えたね? <
いや、「後から付け加えた」という事にはならんよ。
大和説者は、「南」という大和説に不利な記述を「誤情報だとして来た。
>つまり >誤情報で片付けるのでしたら、各説 邪馬台国は至る所に存在してしまう <
いうのはウソ<
いや、ホント。
「南→東」や「邪馬壹國→邪馬台国」などのような嘘つき騙しをしてよいんなら、
日本中のどこにだって比定出来る。
>誤情報であると合理的判断が下せる情報は誤情報で片付けて、なんら問題がない<
いや、「南→東」に関する合理的判断など存在しない。
しかし、この男の応答を見ていると、まるで、
蓮池加計などの問題に対する安部自民政府の答弁と全く同じような、
あるものをない、と言いくるめる口先での騙し答弁にそっくりだな。 >>109
他人をそう咎めた大和説者本人が、
今まさに、「南→東」などの嘘つき騙しのソレをヤラカしているという、
この皮肉。 連続句読点はとうとう他板まで荒らし始めたのか…
強制入院待ったなしだな 連続句読点が、このスレッドでも流行したので、連続句読点というニックネームでは、誰のことかわからなくなったなw 合理的判断というのが曲者なんだよな
その「理」なるが、結局は畿内・大和教徒という特定個人・特定集団の「教義理」でしかない 邪馬台国畿内説が破綻し、テンプレートが完全に論破されたので、韓国政府に雇用された畿内説の宣伝係員達が、次々に発狂し、強制入院待ったなしになってしまったのではないのかな。。。 >>271
あほちゃう。
それも九州書紀に載ってるのか。 >>279
わけ分からんな。
ちゃんと、学校行ったんか。 >>278は自分の犯行を誤魔化そうとする連続句読点その人 邪馬台国畿内説が破綻し、テンプレートが完全に論破されたので、韓国政府に雇用された畿内説の宣伝係員達が、合理的判断での討論を放棄してしまったのではないのかな。。。 >>122
>>周髀算経の一寸千里の法に、明記されている。<
>ウソだな 現代日本人の「自己解釈に拠る高慢な書き換え」(笑)があるだけだよ<
一寸千里の法は、
尺寸系の8尺棒と影長の尺寸長と、
里歩系の千里との、
関係の法だ。 二十四節気厨の人は、結局吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓と立柱の示す方向が、
太陽信仰だってことを論証できなかったね
そして、同じ配置で立てられている平原1号墓の大柱も太陽信仰とは関係ない訳だ
平原1号墓が卑弥呼の墓だとか卑弥呼の母親の墓だとかいうのは、全部トンデモ >>148
>明らかに九州よりはるかに南をほぼ九州って言ってる時点で目茶苦茶<
「折れ線的道のり」行程の距離は、不彌國で萬二千余里にほぼ達してしまっているから、
「九州よりもはるか南」にはならず、なる筈もない。
この反九州説も、滅茶滅茶な・・・・詐欺師。 >>149
>>大和弥生社会の展開とその特質 寺沢薫 (纒向学研究 第4号より抜粋・引用)・・・<
この寺澤の主張は、
「正北抵新羅」の九州倭国の「東征毛人五十五國」の事を、一顧だにしていない欠陥論だ、
という事を指摘済みだ。 >>152
>根拠: 存在を主張する側が頑として根拠を提示しないので 虚言と判定する<
この男も、
以前に、魏の初代文帝の即位の「受命改制」の詔書や、
重臣たちの「周制への復古」の上表の繰り返した、という事の、
「市民の古代第15集」の秦政明氏の論考や、古田本での紹介をしておいた事を隠して、
知らん振りして、「根拠の提示をしない」とヘイトスピーチを繰り返す、
・・・・詐欺師である、と判断が出来、
・・・・は放置すべき、と判断できる。 韓国政府が邪馬台国畿内説を応援し、キナイコシや3寸男を雇用して、5ちゃんねるで畿内説を宣伝していたのは、
魏志倭人伝時代、巨済島が、倭国の領地だっただけではなくて、朝鮮半島の大部分も倭人の領地だったことを、隠すためだったのではないのかな。。。 卑弥呼墓=箸墓をあきらめて勝山だホケノ山だに逃げると余計に迷路に迷う。
纏向遺跡に卑弥呼の墓はないからだ。
前期古墳の特徴である山稜に卑弥呼墓はある。
卑弥呼墓のある奈良盆地の山稜とは高天原(御所市高天)である。 >>253
>>円墳先造説には、笑ったな。
>そこで全く反論できすにエヘエヘ笑ってる人
>白痴の人にしか見えないんですけど
円墳先造説なんて誰も言ってないし、もちろん定説でもない。
そんな事を言ってるお前が白痴。 韓国政府に雇用された、キナイコシや3寸男が、5ちゃんねるで畿内説を宣伝するために作製したテンプレートが、完全に論破されてしまったのではないのかな、、、 >>300
テンプレにあるからといって何で定説になるんだよ。 >>302
誰も言ってないなんて間違いだろ?
スレ主を批判しろよ。 韓国政府が、邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、雇用した、キナイコシや3寸男に、元気がなくなってしまったな。。。 >>302
鈍いやつだな
「テンプレにあると思う」が
「誰も言ってない」の反証だって
気がつかないのは知能が低い証拠だ
出会った人から白痴に見えている可能性が高い >>魏で使われた度量衡の書かれた書や
当時使われたモノサシの史料事実や史料実態から換算すれば魏の1里は430m
そこから帰納的に考えれば魏で遣われたのは1里75mの短里じゃなかった<
魏朝で使われた度量衡の書かれた文書や、
当時使われたモノサシの史料事実や史料実態から
換算すれば魏朝の1里は約76.5m。
そこから帰納的に考えれば魏朝で遣われたのは、1里430mの長里じゃなかった。 韓国政府が、邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、雇用した、キナイコシや3寸男に、元気がなくなってしまったので、出会った人から白痴に見えている可能性が、99.5パーセントあるな。。。 >>783
「南→東」などに嘘吐き騙しに関して、
決して証拠を出さないのが大和説。 >>174
魏志倭人伝を史料批判すれば、
長里なんぞ使われてなかった事は明白。 >>176
とうとう大和説は、
魏志倭人伝の「南」は「東の間違い」だと、頑迷に主張し、
邪馬台国とか畿内とかの存在もしない嘘つき騙しの造言を、頑迷に主張して、
現実には居ない脳内の畿内説者と戦い出したようだな?。 >>178
>計測記録とかまたでっち上げてるし
計測したって何処に書いてあるの <
計測したことを記録しないで、6倍も違ったでデータを記録して、
同僚や後続使節らに確認されて嘘吐き騙しがバレれば、
当然データ記録者の首が危なくなるの。 >>179
>周髀算経には周で使われた尺度は1尺=1歩
1里は300里でなんかの短里の体系なんて書かれてないよ<
周髀算経には周で使われた尺度は1歩≒1尺。
1里は300歩で、
なんかの長里の体系なんて書かれてないよ。 韓国政府に雇用された、キナイコシや3寸男が、5ちゃんねるで畿内説を宣伝するために作製したテンプレートが、完全に論破され、九州説との討論に敗北したので、現実には居ない脳内の畿内説者と戦って、同士討ちの討論で勝とうとしているのではないのかな。。。 >>306
>「テンプレにあると思う」が
>「誰も言ってない」の反証だって
この場合の「誰も言ってない」は学者の話だ。
箸墓円墳先造説なんて誰も言ってないし、もちろん証明されてない。
おまえがテンプレに書いてる事に何の意味があるのだ。
スーパー玉出の青果部のおっさんが言ってるぞと同じ程度だ。
気がつかないのは知能が低い証拠だ。 ザラコク氏によって、1里は300歩という、重要な情報が発表されたのではないのかな。。。 スーパー玉出の青果部のおっさんという、謎の人物の意見が、テンプレートの根拠だった可能性があるな。。。 >>316
じゃあ、一緒に笑っとくか、テンプレをきちっと否定したらいい。 スーパー玉出の製作者は、奈良判定を実行した闇の勢力と関係性があるのではないのかな。。。 >>320
>テンプレをきちっと否定
それなりの機関、どこでもいい、考古学雑誌でもいい、
全国邪馬台国連絡協議会でもいいから、
まずお前が円墳先造説を唱えろ。
存在しない説を否定もなにもあるものか。」 >>322
「円墳先造説」を唱えてるのはスレ主だよ。
彼がここでは「邪馬台国畿内説」の代表意見に見えるのは仕方ないだろ?
だいたい邪馬台国を専門に飯を食ってる学者がいるなんて信じられない。 邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、奈良判定を実行した闇の勢力と関係性があるという、真実を暴かれたので、焦っているな。。。 >>323
5ちゃんの畿内説スレのテンプレに書くことが発表なんてならない。
せめて全邪馬連あたりで「根拠を伴って」発表してもらわないと。
しかしまぁその根拠自体がないのだから発表しようもないのだろう。 >>322
>まずお前が円墳先造説を唱えろ。
昔からある説を知らない情弱九州説が情けない 本当に寺沢せんせー?
仮面ライダー(アポロガイスト)、ガンダムが〜・・・とか?
『Purple Rain』? 本当に偶然にしては凄い話ばかり
『ボーボボ』
『アポロガイスト 英語』 ベジータというキャラがいるでしょ、
どこかの王子(Prince)という設定だし キナイコシは
無理して話についてこないでいい ボロが出る から 250 名前:日本@名無史さん :2018/12/12(水) 01:49:45.36
>>249
円墳先造説には、笑ったな。
さすがは、大和説だよ。
そんな曲芸は、大和説者にしかできん。
↓
299 名前:日本@名無史さん :2018/12/12(水) 11:57:20.73
>>253
>>円墳先造説には、笑ったな。
円墳先造説なんて誰も言ってないし、もちろん定説でもない。
そんな事を言ってるお前が白痴。
↓
中略
↓
328 名前:日本@名無史さん :2018/12/12(水) 14:03:30.07
>>322
>まずお前が円墳先造説を唱えろ。
昔からある説を知らない情弱九州説が情けない
(イマココ) 邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、奈良判定を実行した闇の勢力と関係性があるという、真実を暴かれたので焦って、立小便男を九州説と誤認した可能性があるな。。。
328 名前:日本@名無史さん 2018/12/12(水) 14:03:30.07
>>322
>まずお前が円墳先造説を唱えろ。
昔からある説を知らない情弱九州説が情けない 韓国政府に雇用された、キナイコシや3寸男が、5ちゃんねるで畿内説を宣伝するために作製したテンプレートが、完全に論破され、九州説との討論に敗北したので、左側スロープを発見した畿内説者と戦って、同士討ちの討論で勝とうとしているのではないのかな。。。 キナイコシは
無理して話についてこないでいい ボロが出る から >>336
同士討ちの討論によって、ザラコク氏によって発表された、1里は300歩という、重要な情報から、話題を逸らすためなのではないのかな。。。 とある曲のMVを観てみた?
プリンスがバイクに乗ってくるでしょ・・・・、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
トンネル?石橋(鉄橋?)?壁にGODという文字が書いてあったり 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 『ボーボボ』グーググで検索すると、
某『NARUTO』の画像が出てくはず
王子&revolution「言ったな・・・・革命だと」? >>338
1里は300歩という、重要な情報?
それ・・・前から知らなかった馬鹿っているのか> 『MARINE』=『うらしまマリン』
どこかの王子(Prince)という話だしな・・・・・。 >>338
千里は、76834メートルという真実の情報と組み合わせれば、卑弥呼の塚の大きさが判明するな。。。 76834を1000で割って一里の長さを計算すると、76.834メートルになるな。。。 76.834メートルが、300歩なのだから、76.834を3で割れば、卑弥呼の塚の直径100歩になるのではないのかな。。。 驚いたな、、、
卑弥呼の塚は直径が25.61メートルしかなかったのだな。。。 >>347
熊本城の地下にすっぽり収まる大きさだね。。。 >>182
>k1甕棺の突帯部の特徴が庄内併行期のものと比べて失われていると柳田氏の指摘があるとのことだが、
k1甕棺の形式である日佐原式は5段階の変化があり、庄内期を200年〜250年とする編年に当てはめると、
k1甕棺の変化の段階は、3世紀半ば〜後半とすることができる。
このような状況なので、k1甕棺の年代推定については、まず庄内期の年代を確定することが肝心。<
成程。
スレ主の>>83の、
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には、共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から
西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。・・・
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、
柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、
IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)4世紀初頭と考えられる。
でも、
筑紫の庄内の絶対年号を大和などの庄内編年よりも新しくよりもする傾向があった柳田は、
まだ250年頃の可能性を含ませていたが、
久住になって、突然、
土師器の古い時代(=庄内)の祇園山を、
「IIc期(布留1中・後段階併行=4世紀)」に編年した、という事なんだな。 アポロガイスト?
カミは死んだ
と言ってる人がいたりしたんだけど、
それの影響なのかな? >>183
>大和には大型墳丘墓はなかったが、尾張には前方後円型墳丘墓があり、
北陸には出雲発祥の四隅突出型墳丘墓があり、
吉備だけに大型墳丘墓があったわけではない。
これらの地域の勢力を含む多数の地域が集まったのが纏向遺跡である以上、
吉備が主導した政権であったとのモデルは根拠に欠ける。
一方的な思い込みの可能性がある。<
巨大前方後円墳に関しては、筑紫の那珂八幡などが先行していて、
出雲系銅鐸民や毛人が共存していた大和の前方後円墳の石塚は、3世紀末になるんだから、
やはり、この間に九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五国」があったんだろう、
という可能性が非常に高い事になる。 >>184
>1里約75mの短里になるように観測地の条件を当てはめただけだ
何の検証でもない <
北回帰線では、夏至正午の8尺棒の影長は0になる、
という事からの検証計算は、もう説明済み。
>そもそも千里離れた場所の8尺の棒の影長の差が
丁度1寸になったなんて数値が整いすぎて実測値ではありえないし<
周髀算経の論理は、有効数字1桁程度の近似値論理。 円墳先造説が何を意味しているかだな
最初円墳(完成形)として作られて、その後前方部が新たに作られた、という説は
古くからあるが、まあ既に否定されているものだ
ここのテンプレに書いてあるものは、最初から前方後円墳として築造を始めているが、
築造手順として、後円部を作り「隆起斜道」を作って、埋葬主体を構築し、
その後「隆起斜道」を埋める形で前方部を作ったというものだ
前方後円墳は、後円部⇒隆起斜道⇒埋葬主体⇒前方部の順に築造されたのは、
複数の古墳で確認されている
何でも一緒くたにして、一部の例を持って全体を否定した気になるのが
九州説の詐術の一種
三角縁神獣鏡も、新しいタイプのものは確実に国産仿製鏡だが、それで
すべてのものが国産と決まる訳ではない
そして、最初期のものは実は三角縁ではなく斜縁だし、三角縁神獣鏡が
大陸では出てないというが斜縁神獣鏡は大陸でも出土している >>185
>この鏡を掲載しているサイトから画像をダウンロードして、二十四節気を当てはめて線引きしてみた。
間違いない。
この鏡は、3年分の二十四節気を円環上に配置したカレンダーだ。
その中の一つは、5度角ごとに一周で72個の山形を鋳込んでいる。
72個×5度は360度になり、円周の全角に当たる。
伊勢遺跡の円周上の建物配置や纏向遺跡の大型建物の向き、墓域の範囲の決定、筑後山門の軸線の痕跡などは、こうした銅鏡の3年分二十四節気暦を用いる技術者によって行われた可能性が極めて大きい。
3年分二十四節気を銅鏡に鋳込み、この銅鏡を祭祀用具として用いて方位の確定が行われた。 <
成程。
部族指導者や王や女王は、銅鏡を地面において、(分度器のように)、
日の出方向を確認するだけで、
春耕秋收の大体農民時期を農民に教える事が出来た、という事か。 周髀算経の一寸千里は、蓋天説の地と天が「八万里」隔てた平面というのと、
影を測る棒が「八尺」という二つの定数から、機械的に出てくるただの比例定数
一寸対千里に80をかけると、80寸=八尺:八万里になるというだけのもの
北緯35度だろうが北緯15度だろうが、蓋天説なら「どこでも一寸千里」になる
実測値じゃないし、周髀算経自身が、1歩=六尺、1里=300歩で書いてあるんだから
短里説の根拠として周髀算経を言い続けるのが滑稽でしょうがないww >>328
ほら、円墳先造を支持する畿内説がいるじゃないか。 前方後円墳にこだわる人たちは斜道が好きだよね。
見えないものが見える人たち。
やばいやばい 韓国政府に雇用された、キナイコシや3寸男が、5ちゃんねるで畿内説を宣伝するために作製したテンプレートが、完全に論破され、九州説との討論に敗北したので、左側スロープを発見した畿内説者と戦って、同士討ちの討論で勝とうとしているのではないのかな。。。 >>187
>一寸千里は嘘
なぜなら計算すると1尺5寸になるはずの影の長さが実際には1尺3寸になるからだ<
周地付近での夏至正午の8尺棒とその影長の造る直角三角形と、
夏至正午の太陽とその直下の北回帰線と洛陽付近との直角三角形との相似と、
8尺棒の影長が1寸短くなった地点での同様の直角三角形と縮小比率で、
その地点と元の洛陽との距離を計算したら、78〜79kmであって、
短里の距離になっていたんだよ。 ほとんど同じような気がする
『もののけ姫』?
カミ殺し〜という台詞とか >>360
後漢書では、倭国とは朝鮮半島南岸の狗邪韓国から九州北岸の倭奴国まで。
考古学的にも玄界灘沿岸が弥生文化到来の地、博多湾沿岸が倭国発祥の地。 >>347
>弥呼の塚は直径が25.61メートルしかなかったのだな。。。
「天石門別八倉比売神社」裏手の円墳(卑弥呼の陵墓)はそんなものだよ。 @阿波 >>353
テンプレをあまり読んで無いだろう
前方後円墳の作り方なんて、邪馬台国と何の関係も無いのだよ
何故 スレ主があえて記載した理由を全く理解していない
FAQ88も併せて読んでみたらよい
愚かなスレ主の意図がわかる・・ 『神々の使者』
アポロガイストと同じようなキャラじゃないの? >>195
>想像で距離を書いたとすると、「餘(余)」を付ける必要はないように思うが。<
賛成。
古代中国文献における「一種の近似値的な推論的な数量表現」方法なんでしょうね。
形容詞的な断定的な場合には「余」なんて付けないもの。 >>197
>想像で距離を書いたとすると、「餘(余)」を付ける必要はない
ということはないだろ <
計測した魏使らも、それを写した陳寿らも、
おそらく「近似的推定地」である事を知っていて、いて、記録した。 計測してないのに計測したと言い張るのが不思議でならん >>199
>>この鏡は、3年分の二十四節気を円環上に配置したカレンダーだ。<
>1年で一周する二十四節気を、3年分も円環上に配置することはあり得ないよ<
いや、例えば、冬至の時の日の出の位置を印して?おいて、
どの位置からの日の出になったら、春耕の時期だ、とするのか?を、
決める道具だ。 >>364
>FAQ88も併せて読んでみたらよい
愚かなスレ主の意図がわかる・・<
ほんとうにバカだよなFAQを継ぎ足すほどバカさ加減がわかる
だがな、たまにはバカを相手にするのも面白いぞ >>208
>結局魏の役人が計測した資料は無いな <
そりゃ無理だ。
東夷の人々は「里」を知らないんだから、
魏の役人らが計測しなければ、扶余や高句麗や韓などの国の大きさの「里」や、
国や地域間距離の「里」の記録が出来ない。
それは、倭への行程でも同じ。 >>209
>そもそも技術的に無理<
技術的に可能であったから、
扶余や高句麗や韓などの国の大きさの「里」や、
国や地域間距離の「里」の計測が出来た。
それは、倭への行程でも同じ。 >>210
>太陽信仰そのものとは関係ないだろうな。 季節の意味が重要だったのだろう。
また、分度器を鏡として持ち運べたから、祭祀が可能になった。
山門の卑弥呼は、その技術者ではなかっただろうが、
その鏡を手に持って呪文となえたんだろうよ。
近江の伊勢遺跡の東側の円周上の建物のうち、
最も北に位置する建物は小満の節気と重なるが、
実際の太陽はこの暦の小満の位置まで登ってこない。
なので、この二十四節気は実際の太陽位置からは離れて、
冬至から日数を数えることによって季節を予測するようになっていた証拠だ。<
成程。 >>360
>九州王朝か。 お遊びだな。
倭国の成り立ちを理解してないで畿内説は語れない
俺的には
漢時代の倭国は九州
魏の時代は西日本も含めた倭国
九州倭国が勢力拡大し西日本に及ぶ
邪馬台国は九州
倭人伝に記述するまでも無い倭国に平伏する豪族が九州以西居たと思う
狗奴国は九州南部 追記
畿内も倭国の一員だと思うよ
国なのか邑の集合体か?? >>218
>>前にも言ったことが、太陰太陽暦は3年に一度閏月を入れることによるサイクルとしていた。<
>あのー 二十四節気は、太陽暦なんですけど (笑><
あのー、
360÷5=72だから、
元々は、太陽暦の話をされていたんですけど。 >>375
>倭国の成り立ちを理解してないで畿内説は語れない
「其山有丹」を理解してないで畿内説も九州説説も語れない。 @阿波 >>356
勘違いするな
前方後円墳の作り方教室として円部が先だと言うだけだよ
墓としては前方後円墳 >>375
漢時代の倭国は九州 ・・・、これ基本
以下、いいセンいってるね >>219
>黒塚古墳出土の画文帯神獣鏡を画面に出して、それを印刷して、よく見てるとよい。
外周付近の異なる図像が合わせて24個ある。
これらの図像は中心の紐吊り球から15度ごとの等間隔に配置されている。
15度ごとに、冬至、立春、春分、立夏、夏至が半年。
そのあと立秋、秋分、立冬、冬至で1年となる。
これで120度、あとの240度分には2年分の節気が入る。
この画文帯神獣鏡は、専門家が用いる季節の分度器なんだよ。
纏向の大祭祀者に使えた神官が、その分度器の専門家なんだろうな。<
ふーん。画文帯神獣鏡は、呉系の鏡だったからな。 >>379 @阿波
漢の時代の倭国は何処だと思いますか
畿内説より阿波説のほうが優位だとは思いますが・・
私の邪馬台国の順番付けは
九州≧阿波>出雲>大和>畿内 >>360
>九州王朝か。 お遊びだな。
九州王朝と受け止めるからおかしくなる。「倭王朝説」だ。 >>383
>九州≧阿波>出雲>大和>畿内
少なくとも、九州は「其山有丹」で除外される。 @阿波 敦賀〜多賀〜甲賀〜伊賀〜雑賀〜那賀(阿波)〜香賀(讃岐)〜英賀 (播磨)
倭国大乱前の倭国は、畿内を中心に賀に囲まれた範囲じゃないかな >>379 @阿波
漢の時代の倭国は何処だと思いますか
畿内説より阿波説のほうが優位だとは思いますが・・
私の邪馬台国の順番付けは
九州≧阿波>出雲>大和>畿内 >>236
>魏で使われた尺度は
1里=300歩=1800尺と度量衡の解説書の律歴志にある以上
そう計算するしかないよ 実際にきっちり正確に距離を測れたかどうかは別として <
ダメだ。
魏朝や魏の役人たちが使った尺度は、始皇帝の「1歩=6尺」の否定であり、
周髀算経の一寸千里の度量衡であるから、「1歩≒1尺」の度量衡であり、
「1里=300歩≒300尺」という度量衡であったんだから、
はるか後代の唐代の晋書の律歴志の方が信用出来んだない代物。 >>387
>九州≧阿波>出雲>大和>畿内
少なくとも、九州は「其山有丹」で除外される。 @阿波 >>241
>倭国を救ったモモソ姫が女王・卑弥呼になった! <
「南≠東」など拠って、×。 >>389
@阿波
全て除外すると思いますが
除外する順位付けは?
全て除外ですか? >>242
>神武と書かれている。 新唐書のこの記述の原典は、日本書紀。<
いや、情報は、書紀だけではない。
筑紫に神武らが出立した城があった、という事を認識している。
>日本書記が書いている神武の出身地は、薩摩の吾田、現在の南さつま市阿多。
北部九州なんて、日本書紀はひとことも書いてない。<
歴代中国史書群や唐書群は、倭國の始まりは倭奴國であった、という事を確信している。
>新唐書の筑紫日向宮は阿多のこと。<
新唐書も、神武ら東征出立の「筑紫日向宮」情報を否定して、敢えて
「筑紫城」と書き換えている。
>九州王朝説者は、誤読が得意なのか。 それとも、遊んでるだけなのか。
まあ、遊びで神武が北部九州出身だと言ってるのなら、別にかまわんがな。<
この男も例の大和説男だな。
何かといえば、テンプレ記載を引用する男。
ひょっとしたら、スレ主自身。 >>389
@阿波
全て除外すると思いますが
除外する順位付けは?
全て除外ですか? >>389
@阿波
全て除外すると思いますが
除外する順位付けは?
全て除外ですか? >>389
@阿波
全て除外すると思いますが
除外する順位付けは?
全て除外ですか? 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 このスレに従い書きこめ
>邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。 < >>396
あっちいけ しっ しっ しっ
畿内説のスレだ
あっちいけ しっ! しっ! しっ! >>243
>弥生V様式土器は、近畿が発祥でそれが各地へ拡散したもの。<
これも問題だな。
庄内が、筑紫が3世紀前半に発現して、大和での石塚が3世紀末の発生であり、
その庄内の前段階である弥生V様式土器も、筑紫でも大和でも庄内の前段階であって、
大和は九州倭国の別種分家の旧小国であり、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の国であったんなら、
土器文化の先進地は筑紫であったんだから、やはり筑紫の方が早かった可能性が高い。 >>390
>「南≠東」など拠って、×。 <
わかるけどさーーー
それ以前にモモソが実在すると思うか あのね 以下でいいの
>>1=すれ主=キナイコシ=おくやま=根拠連呼爺=証拠連呼爺=小汚い爺 >>1
>3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。<
前方後円墳が根拠?
畿内中心主義?
古墳時代の定義は? >>395
>全て除外ですか?
もちろん、倭国(阿波)以外はすべて除外される。 @阿波 >>245
>その博多の分家が大和へ移ったのだから、博多の西新式土器が大和で出なけりゃならんだろが。
なに、あほめいたこというとるの。 また、神武は薩摩の阿多出身だから、北部九州とは関係ない。<
なに、あほめいたことをいっとるの?。
神武東征は、書紀でも紀元前7世紀であるし、二中歴でも紀元前1世紀であり、
西新式土器そのものがまだなかったんだよ。
そして、西新式期には、大和は筑紫へ土器を搬入上納する田舎側であったの。 >>259
大和説学者らは、みんな「南→東」などの嘘をつく。 >>1
>3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。<
謎の4世紀から6世紀前半?を「古墳時代と一括りにした」のが学説では
3世紀は倭人伝で現日本の形の通過点として捉えてるのが常識だと思う
謎だから、大型前方後円墳を軸に古墳時代と学者が定義したと思うよ
3世紀まで古墳時代を遡る必要性は皆無
畿内説の正当化の為に3世紀としたとか思えない
3世紀は弥生後期
邪馬台国は3世紀弥生期に存在した
ヤマトの前方後円墳文化と隔離すべき >>405
あのーー君ねーー
人権板で語ればーーーー 【倭国】
紀元前に博多湾沿岸に倭国が成立して漢と国交を持ち、後漢の頃には漢委奴国王印により倭国王に冊封された。後漢書では、倭国は朝鮮半島南岸から九州北岸までの、対馬海峡の海洋国家として書かれている。
対馬海峡における貿易の権益が、天津神すなわち海の神を中心とした倭国の形成の原動力であったと考えることができる。
記紀の国生みは博多湾から始まる。伊奘諾が最初に手に入れた領土である淤能碁呂島は博多湾の小島である能古島のことである。
それに続きイザナギとイザナミの生んだ国(領土)のうち、天の冠詞がつく島である隠伎之三子島(天之忍許呂別)、伊伎島(天比登都柱)、津島(天之狭手依比売)、
女島(天一根、姫島)、知訶島(天之忍男、五島列島)、両児島(天両屋、男女群島)が天つ国の本来の領域である。
国産みにおける島々は九州北部沿岸の島を意味していたが、後に西日本全体の地名に拡大され再配置される。
博多湾岸を起点として対馬海峡から朝鮮半島南岸へ、日本海から山陰や北陸に広がる国が古代の倭国の姿である。
連合国家である倭国の盟主は筑紫であり、他に九州北部の倭国連合を構成する豊国、肥国がある。倭地とされた本州には出雲、越などがあった。
また、中国との交易は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の特に玄界灘周辺の勢力は、対馬海峡の権益を独占して力をつけ、海人の国、天津国と呼ばれ、その王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
九州で出土した副葬品の分布地図
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
狗奴国(熊本)も元は卑弥呼と近い立場の同じ文化圏であり、卑弥呼共立をめぐって反対していただけである。
上記の地図は邪馬台国と狗奴国(熊本)を合わせた九州北部の国、倭国の中枢を示している。
実際にはこれに属州としての日本海沿岸、瀬戸内海沿岸の地域が付随する。
卑弥呼の時代の畿内は、奈良も京都も大阪もまだ沼地であり、特に奈良は主要交易路からはずれた名もなき辺境の沼地であった。
2世紀の倭国大乱後の女王の墓として3世紀に平原遺跡が作られた。
副葬された王位の証である八咫の鏡は、筑紫伊都国が王権の所在地すなわち倭国の王都であったことを示している。 >>1
>・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)<
逆も真なり
「畿内は既に九州政治連合の傘下にあった」 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>290
大和説の人は、結局吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓と立柱の示す方向が、
太陽の日の出の位置だってことを否定できなかったね。
そして、同じような配置で立てられている平原1号墓の大柱の太陽信仰との関係もできなかった、
否定できなかった訳だ 。
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、全部トンデモ。 >>298
>卑弥呼墓のある奈良盆地の山稜とは高天原(御所市高天)である<
「南≠東」などに拠って、×。 >>1
>・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)<
逆も真なり
「畿内は既に九州政治連合の傘下にあった」 >>1
>「倭女王卑弥呼の都があったのは{畿内}である」
最初から
>「倭女王卑弥呼の都があったのは{纒向}である」
いいんでねーの
何故そうしたの??????? >>415とかぶっているが
>>1 纒向で統一した方が良いよ
「ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。」
・・・・・
「 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 」 >>319
>桃の種の分析で畿内が確定したと聞いて来ました<
桃の種の分析で、纏向が、
卑弥呼の「宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」ではなく、
九州倭国の地方の「市」を監督する「大倭」職の祭祀建築であった、
という事が確定した、と聞いて来ました。 畿内説の拠り所は
桃の種と径百歩以外では
三角縁神獣鏡?前方後円墳? >>1はマスこきタイムだよ
友達いないし伴侶もいないから
マスこいたら、また貼りつくから
しばし休憩してる >>328
>昔からある説を知らない情弱九州説が情けない、
昔からある「南≠東」という説を知らない情弱大和説者が情けない。 >>403@阿波
漢の時代の倭国は何処だと思いますか 王都は何処だと思いますか >>370
>いや、例えば、冬至の時の日の出の位置を印して?おいて、
いや、バカだろ?
3年円周説っていうのは、当時の日に日の出の位置が来るはずのないところに
冬至の位置が来るってことだぞ?
3年分を円周に配置したら、日の出・日の入とまったく関係のないところにも
二十四節気が置かれることになる
だからトンデモだって全員から言われてるんだよ 太陽は東から昇るのは
会稽からみて、日本かアラスカかハワイか北米か知らんが方向的には東でいいんでねーの >>421
>漢の時代の倭国は何処だと思いますか 王都は何処だと思いますか
漢の時代は関知しない。 漢時代の史書に「邪馬台国」はない。 @阿波 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 キナイコシや3寸男が、邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員だということを暴いた、謎の人物が出現し、優れたキウス氏に提案を実行された可能性があるな、、、
405日本@名無史さん2018/12/12(水) 19:53:32.26
チョンスレ
408日本@名無史さん2018/12/12(水) 20:04:50.84
>>405
あのーー君ねーー
人権板で語ればーーーー >>429
人権の5ちゃんねるにも、邪馬台国畿内説のスレッドが、必要になった可能性が
99.5パーセントあるのではないのかな。。。 >>353
>円墳先造説が何を意味しているかだな
最初円墳(完成形)として作られて、その後前方部が新たに作られた、という説は
古くからあるが、まあ既に否定されているものだ
ここのテンプレに書いてあるものは、最初から前方後円墳として築造を始めているが、
築造手順として、後円部を作り「隆起斜道」を作って、埋葬主体を構築し、
その後「隆起斜道」を埋める形で前方部を作ったというものだ
前方後円墳は、後円部⇒隆起斜道⇒埋葬主体⇒前方部の順に築造されたのは、
複数の古墳で確認されている<
ダメだ。人類は、
始めから前方後円墳形の墓を造るんなら、
その全体がほぼ出来てから、埋葬祭祀を行う、
という事が常識であり、
円墳を先に造って埋葬祭祀をして、その後で、
埋葬した円墳部分を踏みつけにして巨大な前方部の工事を行う、
というような、
円墳部の主体に対して失礼になる事はしないものだ。 埋葬した円墳部分を踏みつけにして巨大な前方部の工事を行う、
というのは、天皇や天皇の一族に礼儀が悪いな、、、 >>431
>古くからあるが、まあ既に否定されているものだ
誰がいつ、何て言って否定したの?
なんで、だれも反論できないの? なぜ、畿内説は討論での反論を、廃棄したのたろうか、、、 >>353
>三角縁神獣鏡も、新しいタイプのものは確実に国産仿製鏡だが、それで
すべてのものが国産と決まる訳ではない <
ダメだ。△は、
洛陽から0〜1枚しか出土していないから、魏での盛行鏡ではなく、
魏の敵国であった呉付近で盛行していた鏡であるから、
明帝が卑弥呼に下賜の銅鏡百枚に、全く選択されない鏡だ。
>そして、最初期のものは実は三角縁ではなく斜縁だし、三角縁神獣鏡が
大陸では出てないというが斜縁神獣鏡は大陸でも出土している <
斜縁にして誤魔化そうとしても、
洛陽からの出土は全くのようになく、洛陽での盛行が全く否定されるから、
下賜鏡には×だ。 今は三角縁神獣鏡の呉鏡説は望み薄
徐州の影響の技術&デザイン ザラコク氏が、斜縁にして誤魔化そうとしても、
洛陽からの出土は全くのようになく、洛陽での盛行が全く否定されるから、
下賜鏡には×だ、という重大な発表を実行したのでは、ないのかな、、、 >>355
>1周髀算経の一寸千里は、蓋天説の地と天が「八万里」隔てた平面というのと、
影を測る棒が「八尺」という二つの定数から、機械的に出てくるただの比例定数
一寸対千里に80をかけると、80寸=八尺:八万里になるというだけのもの
北緯35度だろうが北緯15度だろうが、蓋天説なら「どこでも一寸千里」になる<
ダメだ。周髀算経は、
周地付近での一寸千里の計測に拠って、太陽直下までの萬六千里を算出し、
それから、太陽直下での太陽高8万里を計算しており、
「蓋天説」が先にあったものだ、とはなっていない。
>実測値じゃないし、周髀算経自身が、1歩=六尺、1里=300歩で書いてあるんだから
短里説の根拠として周髀算経を言い続けるのが滑稽でしょうがないww<
周髀算経には「測影した」と書かれているんだし、
一寸千里も、南北千里も実測でなければ分からない事である、
という事が理解出来ないらしいこの男が、・・・・アホに見えて、
滑稽でしょうがない。 >>434
韓国政府に雇用されたことが判明した、畿内説は、討論で反論を実行しても、すぐに論破されることが続行されたので、討論での反論を諦めたのではないのかな、、、 >>412
>「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、全部トンデモ。
>>280のどこに南とか東とか畿内説とか一言も書いてないんだが?
要するに議論を放棄した壊れたレコーダーでしかないってことだ、ザラコクは >>414
>「畿内は既に九州政治連合の傘下にあった」
王より大きな墓を臣下に許す王朝はない
あったら教えてくれww
これに答えられた九州説はいない
先に書いておくと、薄葬令なんてないからなw 王とは、何かを知らないので、質問した可能性が、99.5パーセントあるのではないのかな。。。。
441 名前:日本@名無史さん 2018/12/12(水) 22:21:40.29
>>414
>「畿内は既に九州政治連合の傘下にあった」
王より大きな墓を臣下に許す王朝はない
あったら教えてくれww
これに答えられた九州説はいない
先に書いておくと、薄葬令なんてないからなw >>438
>周髀算経には「測影した」と書かれているんだし、
「書いている」ってなんだよww
書いてあったところで、実際に測影してたらありえない数値が書かれているんだから、
「測影した」というのが「測影した(つもり)」にすぎないってのが、バレバレなんだよw >>357
前方後円墳の箸墓を、円墳にこだわる大和説の人たちは、
埋葬祭祀が終わった墓の破壊や造り変えが好きだよね。
人類の常識を知らず、見えないものが見える人たち。
やばいやばい。 韓国政府が邪馬台国畿内説を応援し、キナイコシや3寸男を雇用して、5ちゃんねるで畿内説を宣伝していたのは、
魏志倭人伝時代、巨済島が、倭国の領地だっただけではなくて、朝鮮半島の大部分も倭人の領地だったことを、隠すためだったのではないのかな。。。 >>404
遊びにふけっているから、まともな思考が゛きんようになっとるな。
博多の分家が東遷したのは3世紀前半のことだと言うたろが。
3世紀前半なら西新式じゃろ。
新唐書で神武のことが書かれているというから、神武は薩摩の阿多出身で、博多とは何の関係もないというたわけや。
ボケ。
自分が言うたこと、もう忘れとるな。
薬いただいてこい。 >>386
>敦賀〜多賀〜甲賀〜伊賀〜雑賀〜那賀(阿波)〜香賀(讃岐)〜英賀 (播磨)
倭国大乱前の倭国は、畿内を中心に賀に囲まれた範囲じゃないかな <
倭国大乱も畿内もないし、
「南≠東」などによっても、×。 が゛という文字は、複製しなければ、作製出来ない可能性が、99.5パーセントあるな、、、 韓国政府が邪馬台国畿内説を応援し、キナイコシや3寸男を雇用して、5ちゃんねるで畿内説を宣伝していたのは、
魏志倭人伝時代、巨済島が、倭国の領地だっただけではなくて、朝鮮半島の大部分も倭人の領地だったことを、隠すためだったのではないのかな。。。 >>415
>最初から 「倭女王卑弥呼の都があったのは{纒向}である」
いいんでねーの <
「南≠東」などに拠って、×。 >>416
>「ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。」 ・・・・・
「倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 」<
「南≠東」などに拠って、×。 円墳先造説は、倭人伝の卑弥呼の墓の「径百余歩」を円墳とみなし、その卑弥呼の墓と箸墓を無理むくたいに結びつけようとした昔の説。
その後、同時築造のデータが出て、円墳先造説は笑いものになったのに、いまだにその円墳先造説に噛りついているのが今のテンプレ主。
その他の各論でも、データがすべて古い。
つまり、テンプレ主は、一度それらのデータをすべて洗いなおして、新たに組み直すことを進める。
そうしないと、今のデータに基づいた議論では、まったく遅れをとってしまい、議論自体が噛み合わんというつまらん結果になる。 >>418
>畿内説の拠り所は 桃の種と径百歩以外では 三角縁神獣鏡?前方後円墳?<
全部×でしょうね。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>424
>>いや、例えば、冬至の時の日の出の位置を印して?おいて、<
>いや、バカだろ? 3年円周説っていうのは、
当時の日に日の出の位置が来るはずのないところに
冬至の位置が来るってことだぞ?
3年分を円周に配置したら、日の出・日の入とまったく関係のないところにも
二十四節気が置かれることになる<
3年分なんて直接関係がない。
特に必要なのは、冬至の日の出の太陽位置であり、
夏至の日の入りの位置なども、印出来れば、便利。
だからトンデモだって全員から言われてるんだよ >>453
>今のデータに基づいた議論
それを具体的に提示しましょう 今のデータってまさかあの斜面に丸描いてたやつじゃないだろうな? >>459
当たり前だ。
自分で仕入れろ。
アホ。 >>427
>投馬国は高知県宿毛辺り。@阿波<
「南≠東」などに拠って、×。 >>436
>今は三角縁神獣鏡の呉鏡説は望み薄 徐州の影響の技術&デザイン<
今は三角縁神獣鏡の「明帝下賜鏡」説は望み薄。
「海東鏡」などに拠って、徐州の影響の呉系楽浪鏡師らの技術&デザイン。 >>440
>>「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、全部トンデモ。<
>>>280のどこに南とか東とか畿内説とか一言も書いてないんだが?
要するに議論を放棄した壊れたレコーダーでしかないってことだ、ザラコクは <
「南≠東」という、大和説者には直接的に致命的な事実への反論を放棄して、
知らん振りして、
他の間接的な傍証で大和説を宣伝し続ける・・・・大和説投稿に対しては、
面倒だから、
根本的な「南≠東に拠って大和説は×になっているんだよ」という否定投稿で、
警告して上げているの。 >>441
>>「畿内は既に九州政治連合の傘下にあった」<
>王より大きな墓を臣下に許す王朝はない あったら教えてくれww
これに答えられた九州説はいない
先に書いておくと、薄葬令なんてないからなw <
根本的には、
九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五国」の国々は、
九州倭国の完全支配組織下になっていたのではなく、
半独立的な自治権力を持った国々であり、
九州倭国を「血縁的な盟主である」、という意識の国々であった、という事。
それが「別種の旧小国」という事の意味であり、
世界史の中でもしばしば見られる状態であり、
アメリカやオーストラリアの、イギリスなどとの関係にも似ており、
別種の旧小国らは、支配出来た在地の部族を半奴隷化して、
旧主の宗主国よりも「何でも大きく」、「何でも勝とう」としがちである、という事。
これは、「渡平海北九十五國」や「白村江」や「秀吉や明治の朝鮮出兵」などにも似ているね。 もう「南≠東」「南≠東」「南≠東」ってお経を唱えるしかないのね
つまり九州説には未来がない >>443
>>周髀算経には「測影した」と書かれているんだし、<
>「書いている」ってなんだよww <
まさか、「測影」もしていないのに「測影」なんて書けないよ。
そして、
「商高曰:「數之法,出於圓方。圓出於方,方出於矩。矩出於九九八十一。
故折矩,以為句廣三,股脩四,徑隅五。
既方之外,半其一矩。環而共盤,得成三、四、五。兩矩共長二十有五,是謂積矩。
故禹之所以治天下者,此數之所生也。」
というように、
その測影結果から、計算や図形的な分析をした事が書かれている。
>書いてあったところで、実際に測影してたらありえない数値が書かれているんだから、<
古代の知見の範囲内では、十分にあり得る数字だ。
>「測影した」というのが「測影した(つもり)」にすぎないってのが、バレバレなんだよw<
お前が、「測影」と書かれていた事が「致命的な事」であった、
事を示しているに過ぎないんだよ。 >>447
>遊びにふけっているから、まともな思考が゛きんようになっとるな。
博多の分家が東遷したのは3世紀前半のことだと言うたろが。 3世紀前半なら西新式じゃろ。
新唐書で神武のことが書かれているというから、神武は薩摩の阿多出身で、博多とは何の関係もないというたわけや。
ボケ。 自分が言うたこと、もう忘れとるな。 薬いただいてこい。<
神武東征の年次の直接的根拠は、書紀と二中歴しかないんだよ。
そして、書紀では紀元前7世紀であるし、二中歴ではは紀元前1世紀。 >>467
>もう「南≠東」「南≠東」「南≠東」ってお経を唱えるしかないのね
つまり九州説には未来がない <
大和説者は、
もう「南≠東」「南≠東」「南≠東」って批判されて、
反論出来ずに逃げて、犬の遠吠えのように吠えるしかないのね。
つまり大和説には未来がない。 >>470
あんた、いくら反論されても完全無視で現実逃避して
南≠東」「南≠東」「南≠東」ってお経を唱えてるだけだろ >>449
>が゛という文字は、複製しなければ、作製出来ない可能性が、99.5パーセントあるな、、、
が+半角Shift7 >>472
九州説が負けを自覚して具体的な議論を避けてるんだろ?
テンプレへの反論も諦めたようだし >>472
議論にならないのは
なにを言われても「南≠東」って呟く脳停止老人のせいだね 南⇒東は
畿内説の課題でいいじゃん
九州説も課題がある
無理して課題解決しようとするから支離滅裂となる
課題は課題として残せばいいじゃん >>476
ほら、そうやって逃げるから九州説はダメになった >>477
そうやって
なにを言われても聞く耳持たない態度でしか
九州説を維持できない
という
一つの悲劇 九州説では古田説が教義だから新しい知見は否定するしか無いのが哀れ >>477
「今倭水人好沉沒捕魚蛤」をどこでしてたかも畿内説の課題で未解決じゃなかったっけ? >>484
ほら、そうやって逃げるから畿内説はダメになった >>482
>「今倭水人好沉沒捕魚蛤」をどこでしてたかも畿内説の課題で未解決じゃなかったっけ?
誰も問題にしてないし課題でもない
その昔、アワビマンという白痴が
奈良県は海がないから邪馬台国ではあり得ないと執拗に言い張って
皆から冷ややかな嘲笑を浴びたことがあった
という程度 >>471
>あんた、いくら反論されても完全無視で現実逃避して
南≠東」「南≠東」「南≠東」ってお経を唱えてるだけだろ<
あんたら大和説者や学会教育界は、
いくら「南≠東」だと否定されても、完全無視で現実逃避して、
「万世一系八紘一宇の皇国史観」の安部文部省や右翼マスコミの応援を受けて、
「南→東」って嘘つき騙しのお経を唱えているだけだろ?。 >>487
>奈良県は海がないから邪馬台国ではあり得ない
極、尤もな意見。 @阿波 >>474
>九州説が負けを自覚して具体的な議論を避けてるんだろ?
テンプレへの反論も諦めたようだし <
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
負けを自覚して具体的な議論を避けてるんだろ?。
テンプレのスレ主も、反論も諦めたようだし。 >>475
>議論にならないのは
なにを言われても「南≠東」って呟く脳停止老人のせいだね<
議論にならないのは、なにを言われても、
「南→東」って嘘つき騙しを呟く、
「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観」の人種差別的殺し合い戦争狂のキョクウの、
学会教育界の先生や、安部文部省や右翼マスコミに教育された、
脳停止の・・・・アホガキ生徒のせいだね 。 >>487
で、結局誰も答えられなかったまま今に至る、とww
こんなこと即答できなくて、畿内「説」とか、
よく恥ずかしげもなく言うよな...。 >>491
「南→東」が正しいという根拠ならテンプレに書かれてるだろ
九州説からの反論はない
無理な言い訳をしどろもどろしていたが反論と言えるレベルじゃないし
すべて再反論で潰されている
無駄なことだ >>493
誰も答えられなかったって証拠は?
あんた、アワビマン
まだ生きてたの? >>494
325 名前:日本@名無史さん :2018/12/12(水) 13:51:01.25
>>323
5ちゃんの畿内説スレのテンプレに書くことが発表なんてならない。
せめて全邪馬連あたりで「根拠を伴って」発表してもらわないと。
しかしまぁその根拠自体がないのだから発表しようもないのだろう。 >>495
オマエは答えられるのか?
外野の球拾い >>492
>「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観」の人種差別的殺し合い戦争狂のキョクウの、
>学会教育界の先生や、安部文部省や右翼マスコミに教育された、
>脳停止の・・・・アホガキ
こんなヘイトスピーチばっかりしてるから
九州説は社会から軽蔑されるようになった >>496
ほらな
今日も九州説はなにも反論ができない >>500
ほら、罵ることしかできない
九州説には、他人に反論できるような脳がないのだ >>501
>>477
「今倭水人好沉沒捕魚蛤」をどこでしてたかも畿内説の課題で未解決 >>502
Q 邪馬台国が畿内にあったとして
「今倭水人好沉沒捕魚蛤」をどこでしてたと考えていますか?
A 答えられるよ 日本列島だ
立派な反論ですことwwww
畿内説論者だって罵るわ! しかし九州説もかわいそうだねw
史料に倭のことが書いてあるだろ?
畿内説にとって、それば西日本のどこのことであっても問題ない
ところが九州説は、九州でとれない産物が書かれてるので即死してるんだ
不公平のようだが、九州説は根本から無理筋だったんだよ >>504
立派な回答だよ
現にお前、反論できないだろ? >>506
オマエが畿内説の代表回答者で他のヤツはホントにいいのか?
心配になるレベルだが... >>508
「今倭水人好沉沒捕魚蛤」をどこでしてたかも畿内説の課題で未解決 >>511
オマエが畿内説の代表回答者で他のヤツはホントにいいのか?
心配になるレベルだが... >>477
>南⇒東は 畿内説の課題でいいじゃん 九州説も課題がある
無理して課題解決しようとするから支離滅裂となる
課題は課題として残せばいいじゃん<
ダメです。
「南≠東」は、ほぼ100%正しい「人類の常識」であり、
しかし、日本の学会教育界は、それを敢えて、
「南→東」などという嘘つき騙しをした論を学生や生徒に教えて、
騙しているんだから、
それは、黙過し難い。 >>479
>ほら、そうやって逃げるから九州説はダメになった<
ほら、そうやって「南→東」の嘘つき騙しなどの議論から逃げるからから、
大和説はダメになった。 >>513
>「南≠東」は、ほぼ100%正しい「人類の常識」であり、
九州説は宗教 >>509
あなた反論できてないよね?
つまり、あなたは論破されました >>516
>>502
Q 邪馬台国が畿内にあったとして
「今倭水人好沉沒捕魚蛤」をどこでしてたと考えていますか?
A 答えられるよ 日本列島だ
立派な反論ですことwwww
これが畿内説の公式回答なのか? >>514
>ほら、そうやって「南→東」の嘘つき騙しなどの議論から逃げるからから、
>大和説はダメになった。
それは真っ赤な嘘だな
テンプレに「南→東」が正しいという主張が書かれてる >>517
>立派な反論ですことwwww
「今倭水人好沉沒捕魚蛤」をどこでしてたと考えていますか?
ってのは質問なんだろ?
質問にに反論するものではない >>480
そうやって、「南→東」の嘘つき騙しの指摘に、
なにを言われても聞く耳持たない態度でしか、大和説を維持できない、
というのが、
大和説学者や学会教育界の、一つの悲劇。 >>519
日本列島では範囲が広すぎる。
その時代に魚蛤を腐らせずに運べる範囲に限定しないと意味はない。 >>481
大和説では、「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観」という戦争キョクウ思想が教義だから、
新しい知見は否定するしか無いのが哀れ。 「今倭水人好沉沒捕魚蛤」をどこでしてたかも畿内説の課題で未解決 >>486
>>ほら、そうやって逃げるから畿内説はダメになった<
>逃げてないじゃん 攻撃してる<
いや、大和説者は、「南≠東」などの嘘つき騙しの指摘に、
反論せずに、逃げている。 >>522
>その時代に魚蛤を腐らせずに運べる範囲に限定しないと意味はない。
意味不明
どこに運ぶの?
あなたの日本語は不完全で話が見えない >>527
その時代に魚蛤を腐らせずに女王がいるところに運べる範囲に限定しないと
なんで意味がないの?
理由は? >>525
>いや、大和説者は、「南≠東」などの嘘つき騙しの指摘に、
>反論せずに、逃げている。
という証拠は? >>523
>大和説では、「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観」という戦争キョクウ思想が教義だから、
そんなヘイトスピーチばかりしてる九州説に明日はないな >>529
畿内にはそんな場所はないはずだからだよ。 畿内説においては
「今倭水人好沉沒捕魚蛤」をどこでしていたかについて、“日本列島のどこか”よりも限定した想定ができない。 韓国政府に雇用された、キナイコシや3寸男が、5ちゃんねるで畿内説を宣伝するために作製したテンプレートが、完全に論破され、九州説との討論に敗北したので、魚蛤を腐らせずに女王がいるところに運べる範囲についての討論が、開始されたのでは、ないのかな、、、 >>494
>「南→東」が正しいという根拠ならテンプレに書かれてるだろ
九州説からの反論はない <
いや、テンプレ自体には、その全部に対してもう3回も反論して来たし、
「ww」らが引用したテンプレにも、全て反論否定済み。
>無理な言い訳をしどろもどろしていたが反論と言えるレベルじゃないし
すべて再反論で潰されている 無駄なことだ<
旧唐書の大理付近からの「 東至安南、如至成都、通水陸行」での、
「安南は大理の東南であるから方向間違いだ」の問題も、
「如至成都」が、大理から東へ山越えをして、
一旦揚子江の支流群の最上流部を川沿いに東に水陸行する説明であり、
昆明からは、」東南に水陸行にして、安南に至るルート説明であった、
という事の説明済み。 >>532
ないなら纏向で50cmもある鯛が出土するわけないね
ばか丸出し >>533
>畿内説においては
>「今倭水人好沉沒捕魚蛤」をどこでしていたかについて、“日本列島のどこか”よりも限定した想定ができない。
九州説だって特定できないだろ?
全国どこでもやってることなんだから >>535
>いや、テンプレ自体には、その全部に対してもう3回も反論して来たし、
>「ww」らが引用したテンプレにも、全て反論否定済み。
「南→東」の嘘つき騙しーーーって連呼しただけだろ 韓国政府に雇用された、キナイコシや3寸男が、5ちゃんねるで畿内説を宣伝するために作製したテンプレートが、完全に論破され、九州説との討論に敗北した後も、頭の悪いことを公表しているな。。。
505日本@名無史さん2018/12/13(木) 09:18:24.68
しかし九州説もかわいそうだねw
史料に倭のことが書いてあるだろ?
畿内説にとって、それば西日本のどこのことであっても問題ない
ところが九州説は、九州でとれない産物が書かれてるので即死してるんだ
不公平のようだが、九州説は根本から無理筋だったんだよ >>537
奈良だとすると海から遠過ぎるのではないかという指摘だ。
九州はさほど海岸から遠くない場所が比定地とされている。 >>539
そうだね、、、
韓国政府に雇用された、キナイコシや3寸男は、朝鮮半島の南と日本列島全体が倭地であることを判っていないのではないのかな、、、 >>498
>>「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観」の人種差別的殺し合い戦争狂のキョクウの、
学会教育界の先生や、安部文部省や右翼マスコミに教育された、
脳停止の・・・・アホガキ<
>こんなヘイトスピーチばっかりしてるから 九州説は社会から軽蔑されるようになった<
「南→東」などの嘘つきだましの指摘に反論出来ず、
人格誹謗合戦に持ち込んで隠して、
相手側からの厳しい指摘文の「言葉尻」を切り取って、
その部分だけでの人格誹謗を吹聴する事で、
「ヘイトスピーチばっかり」だという詐術的な嘘つき騙し投稿をするから、
大和説は、国民の7割からの支持を失った。 >>541
韓国政府に雇用された、キナイコシや3寸男は、頭が悪いので、邪馬台国が、九州にあったことと、魏志倭人伝の物質が九州以外の日本列島にあることが、両方成り立つことが、理解できない可能性が、99.5パーセントあるな、、、 >>501
ほらな。
今日も大和説は、「南≠東」などの素敵になにも反論ができず、
「口先ヘイトスピーチ」に逃げ込んで、人々を騙そうとしたから、
国民の7割に否定された。 >>540
>奈良だとすると海から遠過ぎるのではないかという指摘だ。
理由もなく言い張ることは指摘と言わないよ 議論らしい議論がなくなったな。
しばらくよそへ行ってこ。
わははははは。 >>502
>ほら、罵ることしかできない
九州説には、他人に反論できるような脳がないのだ<
ほら、
今日も大和説者は、「南≠東」などの指摘に何も反論ができず、
「口先ヘイトスピーチ」に逃げ込んで、人々を騙そうとしたから、
国民の7割に拒否された。 >>540
鯵や鯖も見つかってるのに、なんで遠すぎるって言うの? 4世紀後半に、倭国が捕獲した馬で、纏向で発掘された50cmもある鯛を、明石から速い速度で運搬した可能性があるな、、、 >>545
「陸行一月」して魚蛤を運べば都では食べることはできないはずだ。
魏使の滞在中にが潜水漁を見ることもできない。
だから、遠過ぎると考えるのは理由としては充分だと思うが。 >>550
つまり、纒向遺蹟は、4世紀後半に作製されたのだな。。。 >>550
4世紀後半に、倭国が捕獲した馬で、纏向で発掘された50cmもある鯛を、明石から速い速度で運搬しなければ、腐ってしまうな、、、 >>548
纏向では馬具も見つかっていて、鯵鯖ももっと後代のものであった可能性もある。
祭祀用や墓場なら腐った魚蛤でもいいだろうから、出土品が食用だったかどうかもわからない。 >>555
どんどん苦しい言い訳けに堕ちていく九州説
ww >>552
>「陸行一月」して魚蛤を運べば都では食べることはできないはずだ。
纏向が大阪や伊勢志摩から一ヶ月もかかるかどうか
子供だってちょっと考えれば、あなたのはナンセンスな主張とわかるよ
魏使だって船旅を重ねて纏向まで来たのだから、途中のどこでも漁師を見かけることができる
そもそも魏使が書いた文章だという根拠もない
あんた、めちゃくちゃだよ >>555
要するに通説を根本から否定しないと九州説はなりたのだね >>505
しかし大和説者もかわいそうだねw。
史料には、倭のことで、「正北抵新羅」や「東征毛人五十五國」などが書いてあるだろ?。
だから、九州説にとっては、西日本のどこのは話であっても、
九州倭国の征服地での「地方の市を監督する大倭職」の管理下での話として説明が付き、
九州中心からの視点である、から問題ない。
ところが大和説は、史書に大和では有り得ない話やとれない産物が書かれてるので、
即死してるんだ。
不公平のようだが、大和説は根本から無理筋だったんだよ。 >>515
>>「南≠東」は、ほぼ100%正しい「人類の常識」であり、<
>九州説は宗教<
大和説の「南→東」の嘘つき騙しに執着するところが、
「万世一系八紘一宇の皇国史観」の人種差別戦争狂の宗教。 >>563
>大和説の「南→東」の嘘つき騙しに執着するところが、
>「万世一系八紘一宇の皇国史観」の人種差別戦争狂の宗教。
ほら、九州説は学問的な議論を捨て、ヘイトスピーチ専門だ >>463
>国が違う
>時代が違う
同じ「倭国」で、同じ「弥生終末期〜古墳時代草創期」だよ
残念でしたww >>515
>>「南≠東」は、ほぼ100%正しい「人類の常識」であり、<
>九州説は宗教<
大和説の「南→東」の嘘つき騙しに執着するところが、
「万世一系八紘一宇の皇国史観」の人種差別戦争狂の宗教。 >>465
まったく論拠にしていない投稿にまで
「南≠東」という無関係なコピペで思考放棄しているのがザラコク
まあ、九州説を今どき信じているくらいだから、思考放棄なのがデフォルトなんだろうけどさww >>468
>まさか、「測影」もしていないのに「測影」なんて書けないよ。
今、ザラコクは「測影」もしていないのに「測影」って文字列を並べてるだろ?
いくらでも書けるんだよ、そんなものはww >>518
>>ほら、そうやって「南→東」の嘘つき騙しなどの議論から逃げるからから、
大和説はダメになった。<
>それは真っ赤な嘘だな テンプレに「南→東」が正しいという主張が書かれてる <
それは真っ赤な酷いウソだな。
「南≠東」は、人類の常識だし、
テンプレは、一旦保留して逃げて、旧唐書などのインチキ傍証をでっちあげて、
それで「南は東の間違いだろう」と言っていただけであったし。 >>522
>その時代に魚蛤を腐らせずに運べる範囲に限定しないと意味はない。
地産地消って知ってる?ww
それはさておき、貝塚の貝は、海水で茹でて串に刺して干し貝にして、広域流通されてた
腐らせない方法が干し貝
丹波で獲れた貝は大和まで届くよ
瀬戸内で穫れた貝もね >>531
>大和説では、「戦前の万世一系八紘一宇の皇国史観」という戦争キョクウ思想が教義だから、<
>そんなヘイトスピーチばかりしてる九州説に明日はないな<
そんな言葉尻を切り取っての口先ヘイトスピーチで国民を騙して、
「南≠東」などの批判から逃げているから、
国民の7割に否定されているのであり、
大和説には明日はないな。 >>552
>魏使の滞在中にが潜水漁を見ることもできない。
「邪馬台国」滞在中に潜水漁を見た、なんてどこにも書かれていないだろ?
「倭国」滞在中であり、今「倭水人」好沉沒捕魚蛤としか書いてない
また、わざわざ「倭水人」と書いてあることから、倭人の中でも「倭水人」という
カテゴリーが認識されてるということでもある(海幸彦の系統?)
つまり、倭人すべてが海に潜る訳ではないということだ
>だから、遠過ぎると考えるのは理由としては充分だと思うが。
全然理由になってないだろ?
ご苦労様でしたw >>559
じゃあ「今倭水人好沉沒捕魚蛤」は大阪湾か伊勢湾ってシンプルに答えればいいんじゃん?
大阪湾から奈良までは徒歩で何日
伊勢湾から奈良までは徒歩で何日
かかるの?
魏志は途中で見かけた漁師の話を記録した訳ね?
奈良にいた人達も入墨はしてたのかい? 邪馬台国は九州北部か朝鮮南部で決まり
倭国は日本とは限らない
倭人も日本人と言う意味では無い
漢文が解ればそうなる >>572
「倭水人」て倭人の漁師のことじゃないのか?
だとしたら、全然誤解してたわ。
全部撤回するよ。
普通の倭人とは別に「倭水人」っていう種族がいたとは知らなかった。へぇ〜。 「男子無大小 皆黥面文身 〜
今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異」
九州は黥面の痕跡となる遺物が非常に少ない >>576
>九州は黥面の痕跡となる遺物が非常に少ない
「土製仮面」はこれまでに全国で約120点見つかっているが、出土地点は阿波国の矢野遺跡が最西端に位置する。
同遺跡は縄文時代から中世にかけての県内有数の複合遺跡で、調査の結果、「土製仮面」は縄文時代後期(約4千年前)のものとみられる。
この「土製仮面」作成時期も国内では最古のクラスにあたる。「貝製仮面」は5000年前の物が九州からも発見されているようだが、土製のモノはこれが最古級である。
「土製仮面」の使われた時期と地域の偏りから、今の状況では四国東部から発生し、近畿・中部・東北方面へと伝播していったことが明確である。
用途としては、土偶、石棒などが同時に出土している事を考えると、祭祀の時に使われたと考えるのが妥当である。
また、仮面表面の多数の穴の跡は、後年の魏志倭人伝にも「男子無大小,皆面黥面文身」とあるように入墨(文身)を表したものであろう。 @阿波 帯方郡のお役人が、2-3年かかけて倭を調査し、
その結果を「倭風土記」のような形式でまとめた原資料があったのだと思うよ。
それをもとに魏略や倭人伝が書かれたのであって、魏の使いの滞在中に云々はどうかな・・・ 卑弥呼は当時の中国ではピミフと発音するんだよ
何で日本人だと思い込むんだ?
畿内説は根底からおかしい 矢野遺跡の土製仮面と無理やり呼んでいるものは、
穴が三つ空いているだけで鼻もないし、
中心からズレているし一部隆起している部分もある
顔を模したではないだろう >>574
このように、とんでも九州説はいつも理由が言えない >>580
なんせ、国内最古なもんで、不細工ごめん。 @阿波
「土製仮面」は縄文時代後期(約4千年前)のものとみられる。
この「土製仮面」作成時期も国内では最古のクラスにあたる。 畿内説はいかん
都合が悪いと倭人伝を批判する
記述は誤情報と言う
いっそ畿内説は邪馬台国が無かったにしたら 約4千年前はりっぱな縄文土器を作っているので
ヒトの顔にしてはあまりにも不細工すぎる
仮面じゃないだろうから最古のクラスにはならない 邪馬台国は畿内に無かった Part406
これいいじゃん! 大和説は大和だけでは説明がつかないから畿内説となり、ついに西日本どこでも説になったのだな。
そんなものはもう説でもなんでもない。 >>572
>また、わざわざ「倭水人」と書いてあることから、倭人の中でも「倭水人」という
>カテゴリーが認識されてるということでもある(海幸彦の系統?)
キナイコシが詭弁を弄している。 >>569
>テンプレは、一旦保留して逃げて、旧唐書などのインチキ傍証をでっちあげて、
>それで「南は東の間違いだろう」と言っていただけであったし。
ウソをついたら反論にならないよ >>584
>仮面じゃないだろうから最古のクラスにはならない
君にそんなこと断言されてもwww
徳島県埋蔵文化財センターに文句を言いなさい。 @阿波 >>589
秘境であれを何と呼ぼうと勝手だが
徳島県埋蔵文化財センターが
秘境から発生し、近畿・中部・東北方面へと伝播していった
と言ってるわけじゃないんだろ? >>585,586
やっぱりアワビマンが白痴同然という評判は本当だった
倭の水人が素潜り漁を邪馬台国だけでやっていたとか
そんな話は倭人伝のどこにも書いてない
倭国のあちこちで普通にやっていたんだろうから
当然ながら西日本どこでもいい 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 韓国政府に雇用された、キナイコシや3寸男が、5ちゃんねるで畿内説を宣伝するために作製したテンプレートが、完全に論破され、九州説との討論に敗北したので、倭の水人が実行した、素潜り漁についての討論が、開始されたのでは、ないのかな、 テンプレートは支離滅裂だが
>>1はウソをついていないウソをつくほど頭が良くない
引用した畿内説の文献が悪いのだ >>592
あれ、倭水人は普通の倭人とは別種族じゃないのか? 別種族だとは誰も言ってない
最初に書いてあったのは
「倭人の中でも「倭水人」というカテゴリーが認識されてる」
このカテゴリーというのは>>575の言う「倭人の漁師」で構わないだろ
土器を作る人もいれば、漁師もいるってだけだ
ただし、土器を作る人が海に潜って鰒を獲るかといえば、取らないだろ? >>596
>あれ、倭水人は普通の倭人とは別種族じゃないのか?
「忌部はん」 の内、海人族のことだよ。 @阿波 >>556
>すぐ論破されては逃げる九州説<
「南→東」の嘘つき騙しの指摘に反論出来ず、
すぐ論破されては逃げる大和説。 >>597
カテゴリーってどう言う意味で使ってるんだ?
職業の違いは別カテゴリーなんかじゃないぞ。 >>557
>どんどん苦しい言い訳けに堕ちていく九州説 ww <
「南→東」などの嘘つき騙しがバレて、
どんどん苦しい言い訳けに堕ちていく大和説。ww >>560
>要するに通説を根本から否定しないと九州説はなりたのだね<
要するに、「南→東」などの嘘つき騙しの通説大和説は、
頭と精神を、根本的の手術しないと、回復しないんだろうね、 >>961
>九州説は常に無理筋 <
大和説は、常に、「南≠東」などの嘘つき騙しの無理筋。 >>595
そだね
キナイコシは嘘をつくほど頭が良くないね
キナイコシは嘘八百の畿内説に洗脳されたんだろう 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 纒向が邪馬台国の王都は却下されたの?
石野さんや寺澤さんは過去の発言から逃げ回っているように思えるけど・・ 石野さんも土器の纒向編年について最近は語らないし・・・・・ >>603
邪馬台国は東の畿内にある国なのに
陳寿が南と書いたから魏志倭人伝では東じゃなくて南になってるんだよ >>600
>職業の違いは別カテゴリーなんかじゃないぞ。
は?
職業別に人を分類すれば、それはカテゴリーだが? >>565
>同じ「倭国」で、同じ「弥生終末期〜古墳時代草創期」だよ 残念でしたww<
大和は、九州の倭國と同じ国ではなく、
倭国の中の倭奴國の阿毎氏から別れた別種の旧小国であり、
倭国の地方の市を監督する大倭職の地位にあり、
倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であって、東征の応援をした国であり、
大和の「弥生終末期〜古墳時代草創期」も、九州倭国よりも50年位遅れたんだよ。 >>598
>「忌部はん」 の内、海人族のことだよ。
その海人族から後の世に「息長氏」「阿毎氏」などと呼ぶようになったのだろう。 @阿波 >>567
大和説者は、殆ど全ての投稿で、根拠も言わずに、
「南→東」などの嘘つき騙しを使った投稿をしており、思考放棄している。
まあ、国民の7割にも否定されているいる大和説を、
今どきになっても信じているくらいだから、
思考放棄なのがデフォルトなんだろうけどさww。 >>612
>思える理由は?
ヨコだが、倭国(阿波)の遺跡を目の当たりにしたから。 @阿波 関川尚功(邪馬台国大和説と箸墓古墳・纏向遺跡、2017)
「大和の弥生遺跡と纏向遺跡をみても、邪馬台国のあった地域の遺跡とは思えない。大陸系の遺物もほとんど出ないし、
古墳の起源になるような墳丘墓もみられない。
このようなところに北部九州の「奴国」や「伊都国」を統属して、中国王朝と盛んに交流を行ったという邪馬台国があったは
ずはないし、またこのような国が大和において自然に現れてくるということは、まず考えられない。
また、箸墓古墳の土器や埴輪も布留式の時代ですから3世紀まで行くものではない。纏向遺跡のピークもこのころだから、
やはり邪馬台国の時代よりあとのことで、纏向遺跡はむしろ大和政権の確立期の遺跡であろうと思われる。」 >>609
>
>また、わざわざ「倭水人」と書いてあることから、倭人の中でも「倭水人」という
>カテゴリーが認識されてるということでもある(海幸彦の系統?)
海幸彦の系統
海幸彦の系統
海幸彦の系統
海幸彦の系統wwwwww 石野博信「墓から出てくる三角縁神獣鏡について土器で年代がわかる例を見ると、四世紀の「布留式土器」と近畿で呼んでいる土器と出てくる例はありますが、その前の、三世紀の土器といっしょに出てくる例は一つもない。
それは埋葬年代を示すのであって、製作年代は示さないということはあるんでしょうが、それにしても、ひとつもないのはおかしい。新しいんだろう。」
森浩一「神獣模様や三角縁を持った鏡は長江下流の江南地方に多く発見され、明らかに呉があった地方と関連している。」
白石太一郎「三角縁神獣鏡の変遷過程は極めて連続性が高く、各段階によって製作地が異なるという前提はとても考えることができない。第四段階が日本で作成されたものなら、第一段階も日本で作成したと言わざるをえないだろう。」
菅谷文則「それでは日本への輸出、厳密には卑弥呼への下賜品として特別に鋳造(特鋳)されたものであろうか。これはまず成り立たない仮説といえよう。
魏より前代ならびに魏と同時代の呉、魏に続く晋代においても日本にのみ出土し、中国に出土しない中国鏡はない。三角縁神獣鏡のみがそうであるとする特別の根拠もない。」
原口正三氏「あくまであれは魏でつくったのだと言い張っているのは、もう信仰にも近い考えだろうと思っています」 >>568
>>(周髀算経)まさか、「測影」もしていないのに「測影」なんて書けないよ。<
>今、ザラコクは「測影」もしていないのに「測影」って文字列を並べてるだろ?
いくらでも書けるんだよ、そんなものはww<
そりゃ、「南→東」などの嘘つき騙しをする・・・・大和説者なら、
嘘つき騙しを「いくらでも書ける」んだろうが、
普通の国民や人類は、嘘つき騙しは、書かないもの。 >>617
いちばん若い人が76歳でワラタ
(上は故人) >>618
ザラコクは普通の国民でも、人類でもないの? 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 2016年の纏向編年言及を確認した
>>607はウソつき >>576
>「男子無大小 皆黥面文身 〜
今 倭水人好沉没捕魚蛤 文身亦以厭大魚水禽 後稍以為飾 諸國文身各異」
九州は黥面の痕跡となる遺物が非常に少ない<
梁書では、出雲が文身國と書かれているから、文身は元々は出雲系の文化であり、
当初は出雲が西日本の盟主であったから、だから九州にも鯨面文身族がいた。
そして、出雲は倭人の天孫族の天照らに「国譲り」を強制された後、
筑紫の鯨面文身習俗が減少し、
それを魏使らが記録した、という事になる。
要は、魏使らが記録したものが、九州に合ったら十分であり、
これは「丹」に関しても同じ。 >>620
ザラコクは
このスレでは無くてはならない博学の一人だよ
スレ主は博学では無いが次スレたててくれるから良いと思う。 >>578
>帯方郡のお役人が、2-3年かかけて倭を調査し、
その結果を「倭風土記」のような形式でまとめた原資料があったのだと思うよ。
それをもとに魏略や倭人伝が書かれたのであって、魏の使いの滞在中に云々はどうかな・・・ <
「原資料があったのだと思うよ」という不確定な事だけでは、
確率が低い推論レベルにしかならず、
倭人伝のような魏使らの実見記録の方が、確率ははるかに高い。 >>581
>このように、とんでも九州説はいつも理由が言えない<
「南→東」などの嘘つき騙しのトンデモ大和説者は、いつもこのように、
大和説にとっては具合が悪い事実を「口先でのヘイトスピーチ」宣伝をして、
理由も言わずに、否定抹殺しようとする投稿をする。 『梁書』
「倭者 自云太伯之後 俗皆文身」
「文身國 在倭國東北七千餘里 人體有文如獸 〜
其王所居 飾以金銀珍麗 繞屋塹 廣一丈 實以水銀 雨則流于水銀之上」
出雲は金銀で飾ってはいない、水銀もない >>628
「具合が悪い事実」とか・・・
今度は捏造かよ九州説 >>592
>やっぱりアワビマンが白痴同然という評判は本当だった
倭の水人が素潜り漁を邪馬台国だけでやっていたとか
そんな話は倭人伝のどこにも書いてない
倭国のあちこちで普通にやっていたんだろうから
当然ながら西日本どこでもいい<
ダメだ。
「南≠東」だから、魏使らが見聞出来たのは、殆ど北部九州が中心であり、
東方は、倭種とその南の(足摺付近の)侏儒國までしか見ていない。
だから「西日本はどこでもいい」は、×。 >>627
これは、魏略と倭人伝を比較研究した学者の見解であり、
それを読んで、俺も、なるほどそうかと思った・・、という意味なんだが。 606日本@名無史さん2018/12/13(木) 17:38:21.04>>612
纒向が邪馬台国の王都は却下されたの?
石野さんや寺澤さんは過去の発言から逃げ回っているように思えるけど・・
607日本@名無史さん2018/12/13(木) 17:39:38.49
石野さんも土器の纒向編年について最近は語らないし・・・・・ >>612
最近の石野さんや寺澤さんの講演知らないの?
講演の内容は、そのうちネットで公開されるよ >>608
>邪馬台国は東の畿内にある国なのに
陳寿が南と書いたから魏志倭人伝では東じゃなくて南になってるんだよ<
邪馬台国も畿内も史料事実に存在しない造作文言だから×であるし、
魏志倭人伝の「南」を「東」とする嘘つき騙し説を書いたから、それも、×。 >>469
神武の実年代が紀元前7世紀であるかどうかは、今は問題ではないだろが。
神武の出身地の話だ。
薩摩の阿多がその土地で、そこから東征するのだから、博多の分家とは何の関係もない。 >>626
賛成
テンプレ短くならんかなぁ 畿内説が誤解される 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>623
>2016年の纏向編年言及を確認した
>>607はウソつき<
それじゃ、「ウソ月」かどうか?は、分からんよ。
何故確認した内容を、説明するか?、転写するか?、しないのかね?。 >>610
>大和は、九州の倭國と同じ国ではなく、
といった時点で、其山有丹で九州説は即死
粟じゃないけどww >>616
>海幸彦の系統
書き方が悪かったのは認める
海幸彦の血統っていう意味で取られるとも、思わなかった
海から幸を得て、生業にしている人たちという意味だよ
要するに、海辺で暮らす人たちだ 少数民族は倭国を小さくしないと存在がより小さくなるからね >>621
>>>616は毎日論破されて逃げてる人だな
>>616だが、いつ論破されたんだい?
具体的な指摘をどうぞww >>629
梁書の文身国は、魏志倭人伝の裸国や黒歯国と同様の、伝説の国であって、
出雲と比べる理由はどこにもないぞ? >>630
>死にぞこないの九州説<
「南→東」などの嘘つき騙しに拠って、死にぞこないの大和説。 畿内説は明治以降の捏造だろ
ナショナリズムで古代史を語る何ておかしい
そもそも文字文化の無い遅れた国に魏の使者が来たとかアホ過ぎ >>631
>「具合が悪い事実」とか・・・ 今度は捏造かよ九州説 <
「南は大和説者にとっては具合が悪くない」とか・・・。
また捏造するのかよ、大和説。 >>645
あなたは>>609に反論できなくなって論破されてますよ 「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳があり鹿の顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html 遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありワニの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html >>649
>畿内説は明治以降の捏造だろ
これほど学史に無知な人が
どうして邪馬台国の議論ができるの?
いや、できはしない 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>650
事実でないとテンプレで論証されてるので具合は悪くない >>637
>神武の実年代が紀元前7世紀であるかどうかは、今は問題ではないだろが。<
あなたが、神武東征年次を「西新式」の3世紀に置かれたから、
書紀と二中歴に拠って、反論した。
>神武の出身地の話だ。 薩摩の阿多がその土地で、<
父のウガヤフキアエズは、(薩摩ではなく)宮崎の日向にいた筈。
>そこから東征するのだから、博多の分家とは何の関係もない。<
新唐書の「筑紫城」や、王年代紀の宋史の「筑紫日向宮」の「筑紫」は、
古事記や書紀の「九州全体」という意味は無くなっていて、
当然「福岡県の筑紫」の意味になっていた筈であり、
そして、
五瀬命らの移動ルートの、最初の北行や、「岡田宮」への舞い戻りなどの矛盾や、
糸島付近に神武ら兄弟や姉のナルタ姫の神社が多い事などで、
五瀬命ら兄弟は、宮崎から一旦筑紫に里帰りして戻っていて、
そこで、先行きの見込みがない事を知って、
筑紫の日向宮で、「猶東に行かむ」として、仲間を集めて、東征をした、
という事になる。 >>659
理由もなく「筈であり」とか言われても
説得力ゼロだ >>646
>梁書の文身国は、魏志倭人伝の裸国や黒歯国と同様の、伝説の国であって、<
梁代には、倭王武への叙爵があったし、
扶桑國の沙門慧深が中国に来ているし、
梁書が書かれた唐の初期までには、
大和日本国の「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」があったなど、
中国は、列島情報には事欠かない状況だったよ。
>出雲と比べる理由はどこにもないぞ?<
少し意味不明だが、「文身國、在倭國東北七千餘里」は、
長里では太平洋の中になってしまうが、
短里では、ほぼ出雲にピッタリだし、
大漢國の「大漢國、在文身國東五千餘里」も、
長里では太平洋になってしまうが、
短里では越にぴったりだ。 >>659
ウガヤは、薩摩阿多に住んでいるヒコホホデミの息子。
親が阿多に住んでいるのに、宮崎で生まれるわけがない。
ずっと阿多に住んでいて、その子の神武も阿多育ち。
宮崎は、昔からニニギはタカチホにすんでいたと言っていた張本人。
その子孫も宮崎立ちを吹聴している。
日本書紀には、そんなこと書いてない。
古事記だけや、そんなへんなこと書いとるのは。 >>656
>炭素測定で証拠が出たのだから近畿で確定では <
AMSでは、50年位以上、古い年代になってしまうようだよ。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 邇邇芸が降臨した筑紫の日向は福岡県西部の高祖山周辺。
邇邇芸と木花咲耶姫の墓は三雲南小路遺跡。
高千穂宮は彦火火出見を祭神とする伊都国の高祖宮。
倭国の中心部は、郡使が滞在した三雲地区。
山幸彦との勢力争いに負けた海幸彦が落ち延びた倭国の分家が宮崎県の投馬(都万)国。
神武が倭国大乱で筑紫の日向を出てから筑紫で倭国女王になったのが卑弥呼、その象徴が倭王の証である平原遺跡の超大型内行花文鏡である八咫の鏡。 福岡県以外で倭国の王都たる遺跡があったらぜひ紹介してほしい。 福岡県以外で倭国の王都たる遺跡があったらぜひ紹介してほしい。 >>659
>新唐書の「筑紫城」や、王年代紀の宋史の「筑紫日向宮」の「筑紫」は
へー
王年代紀を使うの?
「彦瀲第四子號神武天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮。
即位元年甲寅、當周僖王時也。」
周の僖王は在位が前681〜677年だな
「次用明天皇。
有子曰聖徳太子
・・・中略・・・
當此土隋開皇中、遣使泛海至中國、求法華經。」
邪馬台国九州説も九州王朝説も
お亡くなりになりましたね
ご愁傷さま >>626
ザラコクが博学に見えるって
どんだけ無学なんだ
おどろいた >>669
>福岡県以外で倭国の王都たる遺跡があったらぜひ紹介してほしい。
そのまえに、まず福岡の「倭国の王都たる遺跡」ってなに? @阿波 素人で悪い、教えて!
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸」
これだけど、水行十日陸行一月 で 辿り着いたのは邪馬壹國OR邪馬壹國の所都?
1.女王が居る邪馬壹國の都に着いた
2、女王の都がある邪馬壹國に着いた >>670
お、筑紫日向ではなく、完全に筑紫宮だな。 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎都万)までは水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif >>674
畿内説は
1.女王が居る邪馬壹國の都に着いた
の立ち位置です
2、女王の都がある邪馬壹國に着いた
であれば、瀬戸内海航路で陸行は不要となります 前に 「水行は大和川も含む」 と言っていたバカ思い出した >>681
そだね
2とすると畿内説では水行だけで邪馬台国に着いちゃう(現大阪湾岸=邪馬台国の領土だから陸行は不要)から✖ 着いたというのは中心地に着くことを言うんだから
1、2どっちも同じだ >>684
あんたの解釈だと末盧国までの国々は海岸沿いに中心地があったんだろうなww >>685
出ないと部分距離の合計が総距離と合わない >>686
正解
海岸近くに各国の都はあったのだ
邪馬台国だけ纒向?? >>692
九州説ってさあ
理由が言えないチエオクしかいないの? >>694
九州説ってさあ
理由が言えないチエオクしかいないの?
2 キウス? なかなかやるな
-------------------------------------------------------------------
>>674
素人で悪い、教えて!
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸」
これだけど、水行十日陸行一月 で 辿り着いたのは邪馬壹國OR邪馬壹國の所都?
1.女王が居る邪馬壹國の都に着いた
2、女王の都がある邪馬壹國に着いた >>681
そだね
2とすると畿内説では水行だけで邪馬台国に着いちゃう(現大阪湾岸=邪馬台国の領土だから陸行は不要)から✖ >>657
>事実でないとテンプレで論証されてるので具合は悪くない >
テンプレやスレ主は、
大和説と言う宗教思想的な「南→東」などの嘘つき騙しをしている事が、
確定してしまっているから、
それの反省がない限り、何を書こうと、信頼性確率もない。 >>681
>>「陸行一月」して魚蛤を運べば都では食べることはできないはずだ。
>
>纏向が大阪や伊勢志摩から一ヶ月もかかるかどうか
>子供だってちょっと考えれば、あなたのはナンセンスな主張とわかるよ
>
1も×なのでは? ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>668
>>福岡県以外で倭国の王都たる遺跡があったらぜひ紹介してほしい。<
>マキムク <
纏向は、倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国であり、
倭国の地方の市を監督する大倭職の「祭祀場」。 ≥≥704-706
すげーな九州説
複数の人の書き込みなのに
みごとなまでに理由も証拠も書いてないぞ >>670
>>新唐書の「筑紫城」や、王年代紀の宋史の「筑紫日向宮」の「筑紫」は<
>へー 王年代紀を使うの?<
王年代紀は、半分偽書の書紀を踏襲している×部分があるから、全部は使わないよ。
「ついうっかり」書紀に反する事を書いた部分には、信頼性が少しあるから、
使う事があるの。
>「彦瀲第四子號神武天皇、自筑紫宮入居大和州橿原宮。 即位元年甲寅、當周僖王時也。」
周の僖王は在位が前681〜677年だな
「次用明天皇。 有子曰聖徳太子 ・・・中略・・・當此土隋開皇中、遣使泛海至中國、求法華經。」
邪馬台国九州説も九州王朝説も お亡くなりになりましたね ご愁傷さま<
神武即位元年も、二中歴に拠って否定されているし、
厩戸の聖徳太子も、善光寺の「厩戸との往復書簡」で否定されているし、
大和説も お亡くなりになりましたね。
ご愁傷さま。 >>710
それってチェリーピッキングの典型じゃないか >>713
畿内説のテンプレもチェリーピッキングだけどな。 >>674
>素人で悪い、教えて!
「南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月
官有伊支馬 次日彌馬升 次日彌馬獲支 次日奴佳鞮 可七萬餘戸」
これだけど、水行十日陸行一月 で 辿り着いたのは邪馬壹國OR邪馬壹國の所都?
1.女王が居る邪馬壹國の都に着いた
2、女王の都がある邪馬壹國に着いた <
「南至邪馬壹國」で至ったのは、「邪馬壹國」。
「女王之所都」は、その直前の文言の邪馬壹國の説明。
「水行十日陸行一月」という数量記載文言は、
当然その直前の「女王之所都」の説明であり、
それは「從郡至倭」の目的地にあたるから、
水行十日陸行一月は、郡から女王之所都に要した日数説明。 >>695
大和説者ってさあ、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しは言えるけど、
理由が言えないチエオク、しかいないの?。 >>699
大和説者には、
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しは言える者はいるけど、
自分の意見を論理的に語れる人は、
皆無だね。 >>703
「南→東」などの史料事実の否定曲解のウソ付き騙しの大和説者が、
また思考停止したか。 >>709
すげーな大和説。
複数の人の書き込みなのに、 みごとなまでに、みんな、
「南→東」などの史料事実の否定曲解の、
理由も証拠も書いてないぞ。 卑弥呼は古代中国語ではピミフと発音される
とても日本人の名前では無い
そもそも魏誌倭人伝は日本の事とは言って無い
中国から見て倭国、倭人は多数ある
倭国と言うのは中国の朝廷に従属した国、倭人は中国に従う人
その為中国内にも倭国はある
邪馬台国が日本の事では無い可能性も高い
白村江から50年ほどで日本書記が完成しているのに明確な記述が無いのもおかしい >とても日本人の名前では無い
上代日本語は今と発音が違う >>720
書いてあるだろう
会稽東冶の東だからだと
どうして九州説は毎日ウソをつくの?
日課? いつのぞいても、テンプレートが論破されているね。。。 >>723
>書いてあるだろう 会稽東冶の東だからだと
どうして九州説は毎日ウソをつくの? 日課?<
魏志は「会稽東治之東」であり、
後漢書の「東冶」は根拠にならない×情報なんだよ。
どうして大和説は、毎日のように、「南→東」などのウソをつくの?。
日課なの?。 >>725
いつ見ても、大和説者は、ウソついてるな。 >>726
>理由も証拠も書いてないぞ。
が嘘だったとヘロっと認めちゃってるzarakokuの愚 伝統のこの邪馬台国畿内説も、ついにまともな議論ネタが無くなったな。
投稿は、残骸みたいなおちゃらけだけ。
まあ、君たちも、いつまでもそれを続けていたまえ。 >>724
仕方ないよ、、、、
天皇家直近の国家機関を巻き込んだ、あの2013年の延べ何百時間にも及ぶ、箸墓の大規模調査で、畿内説を精力的に先導する考古学者たちが、意気消沈して古墳から戻ってきた姿は、僕も今でも目に焼き付いている、、、、
畿内説は破綻したんだよ。。。。 仲哀天皇の王宮は、なぜ畿内ではないのだろうか。。。 >>731
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている >>731
将来を嘱望されている、有能な若手学者がフェードアウトしていく、きっかけになった2013年の調査からこのかた、急に畿内説の素人や学芸員レベルの爺さんのネットでのつぶやきが危地外じみてきたね
有能な若手考古学者を繋ぎとめるために、ポストをちらつかせるのが常套手段だが、大和王権を扱う若手の学者たちは、邪馬台国問題からは距離を置きたがっている 卑弥呼の読みはピミカ
意味としては日向だろう
筑紫の日向の伊都の平原遺跡が卑弥呼の墓だと推定される 大和王権を扱う優秀な若手の学者達にとっては、纏向が邪馬台国の要素の存在しない遺蹟であることは常識なのだが、中には、邪馬台国を食い物にしている老学者からのハラスメントを避けるために、心にもない追従の意を発している者もいる。。。 2013年のあの日以来、小汚く年老いた奈良の自称考古学者が、優秀な若い古代研究家たちに、無茶な自説をゴリ押すための工作やパワーハラスメントを仕掛けることが多くなってきたが、しかし、一部の良識ある若者たちは結束して、真実を次世代に伝えようとしている。。。
すなわち、巻向は邪馬台国とは無関係であると、、、 不思議なんだよね。
2013年以来、学者は勿論、一般人にも、畿内説を連呼する狂人はいないのに、インタ−ネットの世界では、目立つのだよね。 >>735
>九州説には、ウソと中傷しか無いのか<
大和説者には、「南→東」などのような嘘つき騙しと、
「口先でのヘイトスピーチ」街宣や中傷しか無いのか?。 >>743
>嘘と中傷とイヤガラセ それが九州説の全てですか?<
「南→東」などのような嘘つき騙しと、
「口先でのヘイトスピーチ」街宣や中傷でのイヤガラセ、
それが大和説の全てですか?。 >>744
韓国政府の、工作活動ではないのかな。。。 >>743
それ、畿内説だろ。
埋めているのはキナイコシだし。 このスレは、基本的に出来損ないが集まってワイワイやるスレ。 それにしても書店から邪馬台国本のコーナーがなくなって久しいし
もはや国民の関心は薄れた
今だに邪馬台国と言ってるやつの平均年齢は70歳超えてるかもしれん >>651
>あなたは>>609に反論できなくなって論破されてますよ
あのぉ、>>645で>>616だけれど、私が「倭水人というカテゴリー」があるって
言った人だよ?
>>609はそれに賛同しているコメントで>>575以下に対する反論
論破されてないぞ >>661
>梁代には、倭王武への叙爵があったし、
梁が斉を簒奪して、新王朝を立てたときに、宋代と斉代の封王を
追認アンドご祝儀進号しただけで、梁に対する倭からの遣使はないんだよ
この辺の知識も全然ないから話にならない >>663
>AMSでは、50年位以上、古い年代になってしまうようだよ。
その分を考慮して、土器編年との齟齬が少なくなるように補正したものが
Jcalだっていう理解をしていない人が多い >>700ら辺
水行は日本海航路で、陸行は丹波から京都盆地経由でちょうど一月くらいになると
何度言えばw >>721
>卑弥呼は古代中国語ではピミフと発音される
>とても日本人の名前では無い
では、女親のことをパパと発音していた人たちは、日本人じゃないんだな?ww 古代の倭語については
@倭人が発音する A中国人が聞き取る B中国人が聞き取った音に漢字を当てはめる
の3段階を経ているので、かなり原音から遠くなっている可能性がある
現代でも「愛因斯坦 アインシュタイン」のようなものだし >>756
>>梁代には、倭王武への叙爵があったし、<
>梁が斉を簒奪して、新王朝を立てたときに、宋代と斉代の封王を
追認アンドご祝儀進号しただけで、梁に対する倭からの遣使はないんだよ<
だから私は、「叙爵があった」とだけでなく書いておいたのであり、
「遣使があった」なんて書いていないんだし、
倭王武の地位が少し降格であった事も知っている。
そして、降格があった、という事は、
梁側が倭王武側の関する何らかの降格すべき事情があった、
という事も存在した事になり
だから、梁書は、その列島側の事情や記録を知っていて、
文身國や大漢國や女國や扶桑國の事を書く事が出来た、と推定出来た。
>この辺の知識も全然ないから話にならない<
「叙勲がなかった」→「遣使がなかった」なんて、嘘吐き騙しの曲解捏造して、
の相手をヘイトスピーチするこの大和説男は、「南→東」の嘘吐き騙しも相まって、
まあ、人間とはとても思えない、「狂った・・・・ケダモノ」というべきだな。 >>757
>>AMSでは、50年位以上、古い年代になってしまうようだよ。<
>その分を考慮して、土器編年との齟齬が少なくなるように補正したものが
Jcalだっていう理解をしていない人が多い <
いや、誤魔化してはダメだ。
通説大和説側のJcalには、
「AMSが直接的原因となった」可能性に関しては、全く考慮を払っておらず、
他の海水リサーバー効果などの補正年数の曖昧な事を考慮した、と言っているだけで、
だから、曖昧だから計測データそのものの価値は変更する必要がない、
という事にした解釈をして、計測データを直接的根拠にした論を書く、
というインチキをやっている。
そのインチキの関しては、新井さんも指摘しておられた事だ。 >>758
>水行は日本海航路で、陸行は丹波から京都盆地経由でちょうど一月くらいになると
何度言えばw <
「南→東」などの史料事実を否定曲解する嘘吐き騙しの詐欺は、×だ、
と何度言えば?。 >>760
>古代の倭語については
@倭人が発音する A中国人が聞き取る
B中国人が聞き取った音に漢字を当てはめる
の3段階を経ているので、かなり原音から遠くなっている可能性がある <
いや、列島在地の「南方諸島渡来系の旧石器人や元縄文人」は、
漢字が全く解せない、という事はあり得ても、
沿海州方面から渡来して来た縄文人系の列島人や、
「燕の南や呉王夫差の遺民」が中心の九州渡来倭人らは、
ある程度の中国語を覚えていた可能性が高く、
それに、難升米や都市牛利は、その後に見られた「重訳」のような記録がないから、
通訳を必要としなかったようで、
だから、明帝も直接的に詔書を読み上げたようであり、
卑弥呼も上表文を書いているから、
倭人上層部は、既に確実に中国語や漢語やそれらの音韻が使えて話せた、
という事になる。 >>762
>瀬戸内海を通らなかった理由は? <
「南≠東」などに拠って、日本海側経由も瀬戸内海経由も、どちらも、×。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ここは定説を書き込むと
九州説の珍説が見れる珍説データベース >>765
あなたの信仰を何度言ったってダメでしょ
事実を言わなきゃ意味がない
そして、事実とは何か?
史料事実とは、単に史料にそう書かれているという事実なんで
歴史的事実とは別なんだからね >>569
>ここは定説を書き込むと
九州説の珍説が見れる珍説データベース <
ここは、原則自由投稿の掲示板。
「南→東」などの嘘つき騙しの珍説大和説を、きちんと批判して、
これ以上、国民が騙されないようにしてあげる場所。 >>770
>そして珍説を潰すスレ<
そして、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者や、
それをこっそり応援している安部文部省や、
右翼マスコミや学会教育界やYahooや5chなどに、
国民が騙されないように、注意を喚起して上げるスレ。 三角縁神獣鏡は魏鏡
景初三年と魏で使われた年号が入っており
景初三年は梁書、日本書紀、太平御覧などに
卑弥呼が魏に使いを送った年とあるので
卑弥呼への下賜鏡 >>762
>瀬戸内海を通らなかった理由は?
逆だ、逆なんだよ!
「日本海航路を通る理由」があったんだよ
その理由が、倭国第二の大国・投馬国=出雲の存在
魏使は倭国の情勢報告の役割の内だから、倭国の三大国、
奴国(福岡)、投馬国(出雲)、邪馬台国(大和)には寄る必要がある
だから、奴国の後、日本海沿岸を水行して出雲に向かい、そこから大和に向かう
奴国ー出雲間、出雲ー大和間には、交流のための往還路がすでに存在するので、
それに沿って倭国内を移動するだけ
それが一番、合理的 >>764
>「AMSが直接的原因となった」可能性に関しては、全く考慮を払っておらず、
そりゃ「AMSが直接的原因となった」可能性とか、誰も問題視してる人はいないからな
人はな >>776
投馬国=出雲が合理的でないなら
ペケでつね 前方後円墳は畿内にある三世紀当時最大の墳墓
畿内に当時国内最大の勢力があった証
特に箸墓古墳は偶然の可能性もあるけれど
円墳部分が魏志倭人伝にある卑弥呼の墓の径百歩
当時の魏の尺度で約140mに相当する >>771
>あなたの信仰を何度言ったってダメでしょ
事実を言わなきゃ意味がない そして、事実とは何か?
史料事実とは、単に史料にそう書かれているという事実なんで
歴史的事実とは別なんだからね<
これも、×。
自然は歴史における「事実」は、殆どが不可知。
だから、その中の知り得た事実情報からの帰納的確率的推論をするしかなく、
その確率の高低を推定し競うのが、学問であり科学。
そして、大和説は、確率が殆ど0であり、九州説は確率が非常に高い。 >>772
>史書にある邪馬臺國=畿内の大和国 <
畿内なんて、5世紀の史料事実に存在しない文言だから、×。
また後漢書の邪馬臺國は、5世紀に書かれたから、対象たる後漢代の史料事実にはならず、
范曄の記載の仕方に「前史の自己解釈に拠る書き換え」になる例が沢山あるので、
史料事実としての価値や確率が非常に低くなるもの。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>776
>奴国ー出雲間、出雲ー大和間には、交流のための往還路がすでに存在するので、
>それに沿って倭国内を移動するだけ
>
>それが一番、合理的
しかし、鉄道がある訳じゃなし、往還路があるったってめちゃくちゃ長距離の徒歩移動が必要になる。
朝鮮海峡を渡って帰るのにまた必要な船を捨てて移動することになるし、それなら出雲から大阪湾へ関門海峡経由で回航した方がマシじゃないかな。 >>775
>三角縁神獣鏡は魏鏡<
洛陽から0〜1枚しか出土せず、
それでは列島の500枚以上の△の説明が不可能だから、×。
>景初三年と魏で使われた年号が入っており 景初三年は梁書、日本書紀、太平御覧などに
卑弥呼が魏に使いを送った年とあるので 卑弥呼への下賜鏡<
魏志では、明帝の詔書は景初二年12月に出されたんだから、
その時既に下賜品の準備が終わっているので、
景初三年鏡は、明帝の下賜鏡にはならない。
また、梁書、日本書紀、太平御覧なども、同時代記録ではなく、
はるか後代の「自己解釈に拠る書き換え」が沢山あった記載であるから、
根拠にならず、×。 >>776
>逆だ、逆なんだよ! 「日本海航路を通る理由」があったんだよ
その理由が、倭国第二の大国・投馬国=出雲の存在
魏使は倭国の情勢報告の役割の内だから、倭国の三大国、
奴国(福岡)、投馬国(出雲)、邪馬台国(大和)には寄る必要がある
だから、奴国の後、日本海沿岸を水行して出雲に向かい、そこから大和に向かう
奴国ー出雲間、出雲ー大和間には、交流のための往還路がすでに存在するので、
それに沿って倭国内を移動するだけ それが一番、合理的<
「南≠東」などに拠って、×。 出雲と大和の間のルートは確立されてないぞ。
土器の分析からは、纒向は尾張と交易していて、尾張が出雲と交流していたみたいだ。 >>777
>>「AMSが直接的原因となった」可能性に関しては、全く考慮を払っておらず、<
>そりゃ「AMSが直接的原因となった」可能性とか、誰も問題視してる人はいないからな
人はな<
そりゃ、「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者で、
アインシュタインの「重力場と電磁場とが相互作用している」という、
自然の実態を勉強していなかったアホ人種ではな。 >>788
>出雲と大和の間のルートは確立されてないぞ。
そうだね。 律令時代の五畿七道にない。 推して知るべし。 @阿波
五畿七道 >>778
>投馬国=出雲が合理的でないなら
合理的で「ないなら」ね
合理的ではないと考えるなら、「根拠とともに」「具体的に」論証してくれ
そうしたら、議論が進むからさ >>784
>いくら言い張っても、それは倭種
それ、何かの反論になってるか?
魏志倭人伝に書いてあるのは、
「女王國東渡海千餘里、復有國。皆倭種。」
だぞ?
対馬も、壱岐も、北部九州も、渡海千里の国も「皆倭種」だ
もちろん畿内も倭種の国
東渡海千里の国は畿内ではないけれどな 関門海峡は幅600メートルしかないから
何も問題ないぞ?ww スマン
畿内説は倭人伝の記述のどの部分が一致してるの?
大半が一致? >>785
>朝鮮海峡を渡って帰るのにまた必要な船を捨てて移動することになるし
何か勘違いしてないか?
対馬海峡を渡ってきた舟で、そのまま水行して、丹波竹野の潟湖に船を置いて
そこから陸行する
帰りも、竹野まで戻ってきたら、そこから同じ船で帰っていけばいい
>めちゃくちゃ長距離の徒歩移動が必要になる。
長距離徒歩移動と言うが、実際には170キロほどだ
ただ歩くだけなら、一日20キロくらいは普通に歩けるし、それだと10日も
係らない距離だ
30日かけて移動するなら、一日辺り6キロ弱になる
これは、途中の集落で歓待を受けながら進んだ日程なのだろう
大陸の陸路移動に慣れた人なら、苦にするような距離ではないだろう ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>788
>出雲と大和の間のルートは確立されてないぞ。
>土器の分析からは、纒向は尾張と交易していて、尾張が出雲と交流していたみたいだ。
出雲からは畿内の土器が出ているし、畿内でも出雲の土器が出ている
旅の途中で壊れる土器もあるし、近場の土器の比率が高くなるのはある意味当たり前
遠方にもかかわらず、出雲と畿内で双方向の土器が出ていることから考えて、
十分な往還路があったと考えてよいだろう >>795
>合理的だと思う根拠は?
地名の一致
投馬 dug-mag 出雲 (i)du-mo
四隅突出墓文化圏の中心地
西谷墳墓群は、纏向古墳群、吉備の楯築墳丘墓と並ぶ巨大墳墓群
考古遺物から推定される経済力
荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡からの大量の青銅器
おまけで記紀神話での扱い
皇統の母系の祖とされており、大和との往還も記されている
これらを考えると、投馬国=出雲が最も妥当と考えられる >>796
>バカじゃね〜の? >>796が?
反論したいなら、せめて具体的な論点を示して、
どこがおかしいと思うのが具体的な論拠とともに指摘しなよ
できないなら、ただの無能w >>798
畿内は一体ではない。
大和と河内の交流がなかったくらいだし。
その反論は空虚で無意味だ。 >>799
投馬国は水行二十日、邪馬台国話水行十日陸行一月だから投馬国の方が近いのはおかしくないかな >>798
>十分な往還路があったと考えてよいだろう
律令時代の五畿七道に「往還路」ない。 推して知るべし。 @阿波 >>794
>対馬海峡を渡ってきた舟で、そのまま水行して、丹波竹野の潟湖に船を置いて
>そこから陸行する
>帰りも、竹野まで戻ってきたら、そこから同じ船で帰っていけばいい
初めて行った土地に大事な船を置き去りにしてどれだけの距離行くか、いつ戻って来られるかわからないところへ行くなんて随分チャレンジャーだな。
船が壊されたり、流されたりしたら帰れなくなるのに。
オレだったら絶対しないけど魏使は度胸あったんだな。
>大陸の陸路移動に慣れた人なら、苦にするような距離ではないだろう
大陸では牛馬を使うのが普通ではないのかな。 韓国政府に雇用された、キナイコシや3寸男が、5ちゃんねるで畿内説を宣伝するために作製したテンプレートが、完全に論破され、九州説との討論に敗北したので、投馬国についての討論が、開始されたのでは、ないのかな、 >>779
>前方後円墳は畿内にある三世紀当時最大の墳墓
畿内に当時国内最大の勢力があった証 <
纒向=王都らしいが
鉄器も無い、武器もお粗末、環壕も無い、纒向に兵が止まる集落も無い、文明の最大に劣った地が畿内
兵用矛盾木弓 木弓短下長上 竹箭或鐵鏃或骨鏃
以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處 宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛
宮室樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛 >>798
>十分な往還路があったと考えてよいだろう
律令時代の五畿七道にそんな「往還路」などない。 推して知るべし。 @阿波 畿内説は時代錯誤の物証を出さないと成り立たないのか >初めて行った土地に大事な船を置き去りにして
と言っても、末盧で一旦上陸してるからな >>803
舟で敦賀に着いたんだよ。
そこから鯖街道通って、木津川、大和だ。
なんど言うたら。
この街道は縄文時代がらあった。 >>793
>畿内説は倭人伝の記述のどの部分が一致してるの? 大半が一致?
畿内説の根拠は
1、邪馬壹國のよみが「ヤマト」に似てる
2、倭人伝に記述の無い時代錯誤の「前方後円墳「」
3、相当な数各地で出土する「三角縁神獣鏡」
4、円墓で無いし土器に付着した炭化物で3世紀とする「ヒミコの箸墓」
5、畿内は当時耕作面積が少ない湿地帯で「7万戸の収容能力」
6、何に使ったか不明の「掘立柱建物跡」
7、集落跡も無い纒向「王都」
他 何かあったっけ?
倭種の別国でいいんでねーの >>811
>この街道は縄文時代がらあった。
そんな昔からあるメイン街道があったのであれば、律令時代の五畿七道に無いはずがない。 推して知るべし。 @阿波 あのね
日本海ルート、出雲を持ち出したのはキナイコシなんだよ
本当は瀬戸内海ルート支持だけど
自信の畿内説が論破されたから
ネタとして持ちだしたのだよ そしてね太平洋ルートは@阿波やキオスが言いだしたから避けたのだよ ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 九州説論者になるための要件
・無知であること
・自信過剰であること
・頑迷であること
九州説論者になるための不要件
・知識
・何事も客観視できること
・柔軟な考え方 >>811
バレバレのキナイコシの演出
何度言ったら⇒なんど言うたら
関西弁で通すなら通すほうがいいがwww
他人を装おうキナイコシ >>779
>前方後円墳は畿内にある三世紀当時最大の墳墓 <
列島での自己解釈に前方後円墳の始まりは、筑紫の那珂八幡など。
>畿内に当時国内最大の勢力があった証<
畿内なんて存在しないから×だし、河内や大和などの東瀬戸内は、
正北抵新羅の九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の地域。
>特に箸墓古墳は偶然の可能性もあるけれど
円墳部分が魏志倭人伝にある卑弥呼の墓の径百歩
当時の魏の尺度で約140mに相当する<
3世紀半ばの卑弥呼の墓は「冢」であ」であるから、
巨大前方後円「墳」の箸墓は×であるし、
また箸墓は、布留であるから4世紀である事でも×。 >>817
畿内説のスレでねえーー
窮鼠猫を嚙むってか(爆笑) 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
注意*書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください >>817
で、あなたは畿内説に代表者なんですね?
くだらないヤツだなぁ...www >>785
>>奴国ー出雲間、出雲ー大和間には、交流のための往還路がすでに存在するので、
それに沿って倭国内を移動するだけ それが一番、合理的 <
>しかし、鉄道がある訳じゃなし、
往還路があるったってめちゃくちゃ長距離の徒歩移動が必要になる。
朝鮮海峡を渡って帰るのにまた必要な船を捨てて移動することになるし、
それなら出雲から大阪湾へ関門海峡経由で回航した方がマシじゃないかな。<
どちらにしても、「南≠東」に拠って、×。 九州説論者の要件には
・日本語能力の欠如
追加なw >>791
>>投馬国=出雲が合理的でないなら<
>合理的で「ないなら」ね
合理的ではないと考えるなら、「根拠とともに」「具体的に」論証してくれ
そうしたら、議論が進むからさ <
「南≠東」に拠って、始めから合理的ではなく、×であり、議論も進まない。 >>792
>>いくら言い張っても、それは倭種 <
>それ、何かの反論になってるか? 魏志倭人伝に書いてあるのは、
「女王國東渡海千餘里、復有國。皆倭種。」 だぞ?
対馬も、壱岐も、北部九州も、渡海千里の国も「皆倭種」だ もちろん畿内も倭種の国
東渡海千里の国は畿内ではないけれどな 関門海峡は幅600メートルしかないから
何も問題ないぞ?ww <
「女王國」とはほぼ29國の共立諸国の事であり、ほぼ海峡部〜九州の範囲であり、
だから「女王國東渡海千餘里」の倭種の地は、女王國にはならず、×。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>795
>何か勘違いしてないか? 対馬海峡を渡ってきた舟で、そのまま水行して、丹波竹野の潟湖に船を置いて
そこから陸行する 帰りも、竹野まで戻ってきたら、そこから同じ船で帰っていけばいい
>長距離徒歩移動と言うが、実際には170キロほどだ ただ歩くだけなら、一日20キロくらいは普通に歩けるし、それだと10日も
係らない距離だ 30日かけて移動するなら、一日辺り6キロ弱になる
これは、途中の集落で歓待を受けながら進んだ日程なのだろう
大陸の陸路移動に慣れた人なら、苦にするような距離ではないだろう <
何か、勘違いしていないか?。
「南≠東」などに拠って、始めから×話であり、何の価値もない無駄なアホ話だ。 >>799
>地名の一致
投馬 dug-mag 出雲 (i)du-mo 四隅突出墓文化圏の中心地
西谷墳墓群は、纏向古墳群、吉備の楯築墳丘墓と並ぶ巨大墳墓群
考古遺物から推定される経済力 荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡からの大量の青銅器
おまけで記紀神話での扱い 皇統の母系の祖とされており、大和との往還も記されている
これらを考えると、投馬国=出雲が最も妥当と考えられる<
「南≠東」に拠って、×。 >>800
>>バカじゃね〜の? >>796が? <
>反論したいなら、せめて具体的な論点を示して、
どこがおかしいと思うのが具体的な論拠とともに指摘しなよ
できないなら、ただの無能w <
「南≠東」だから、×であり、ただの無能。 >>801
>畿内は一体ではない。
>大和と河内の交流がなかったくらいだし。
>その反論は空虚で無意味だ。
「大和と河内の交流がなかったくらいだし」の根拠は、
大和型の庄内甕と河内型の庄内甕が区別できるから、とかいうやつかな?
どうして両方とも庄内甕と呼ばれるのか考えてみれば、「交流がない」などというのが
戯れ言以前だと分かりそうなものだがなww >>811
>舟で敦賀に着いたんだよ。 そこから鯖街道通って、木津川、大和だ。
なんど言うたら。 この街道は縄文時代がらあった。<
「南≠東」に拠って、大和は始めから、×だ。 >>804
>初めて行った土地に大事な船を置き去りにしてどれだけの距離行くか、
>いつ戻って来られるかわからないところへ行くなんて随分チャレンジャーだな。
それを言ったら、海の苦手な大陸王朝の役人が対馬海峡を渡る時点でチャレンジャーだよw
倭人が案内してるんだからそれに従うよりないだろ? >>817
大和説論者になるための要件
・「南→東」などの嘘吐き騙しであること
・無知であること
・自信過剰であること
・頑迷であること
九州説論者になるための要件
・知識
・何事も客観視できること
・柔軟な考え方 >>806
>鉄器も無い、
「出土しない=なかった」ではない
鉄は朽ちやすいし、出土するものは使用量と比べてごく微量になる
>武器もお粗末、
何のことを言っているのか意味不明
木鏃のことを言っているなら、明確に儀礼・儀式用であり祭祀王の都にふさわしい
>環壕も無い、
3世紀半ばには九州でも環濠集落は廃れているぞ
卑弥呼の都に勘合が必要だと思っているなら、時系列の理解できない時代遅れだと
いう自白にしかならない
>纒向に兵が止まる集落も無い、
周辺にはいくらでも集落はあるんだがな
都庁の中に職員住宅はないだろ?
>文明の最大に劣った地が畿内
根拠のない思い込みだねww >>825
大和説論者の要件には、
・日本語能力の欠如
追加なw 。 >>810
>そのまま伊都に駐在するからだろ。
魏志倭人伝に書いてあるのは「郡使『往來』常所駐」
行き帰りに必ず立ち寄るところ、だよ
末盧国には寄らなくてよい
それに「駐」は「一時的に滞在する」の意味 >>825
アンタの畿内説をちゃんと書けよ。
畿内説論者の後ろでごちゃごちゃくだらんことを書いてないで。
論者のみなさんに相手にされなくなるぞ。 >>811
>舟で敦賀に着いたんだよ。
>そこから鯖街道通って、木津川、大和だ。
でも、日本海側三大古墳の立地や、開化妃、垂仁妃に丹波の姫が入っていることから、
この時代には丹波経由の方が重視されていたと思う ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>823
くだらないと思うなら、根拠を挙げて否定してごらんww >>839
>アンタの畿内説をちゃんと書けよ。
今だにぜんぜん分かってないね
「アンタの畿内説」なんてモノは無いのだよ
畿内説は大同小異の共通了解事項なんだ
誰でも大筋はブレない 九州説論者の要件には
・根拠や理由を述べ証拠を開示する生活習慣がない、
・思考停止ができる
追加なw 九州説は畿内説を敵だと思って書き込んでるけど、
畿内説は九州説を敵だとは思ってない
九州説は敵じゃない
九州説は邪魔なだけww つーか。九州説という学説が存在していない
単なる分類名なんだよね >>842-850
この間一つも畿内説についての記載がないけど、気づいてる? 倭人伝に書かれている狗奴国は、吉野熊野のことであり、その北は大和と接している。
なので、大和が邪馬台国であるのは、ごく普通に常識。
クコチヒクと書かれている狗奴国の官は、日本書紀や古事記に伝えられてククノチ神とされる者である。
ククノチのノは、(〜の)のノであり、ククノチは(ククの精)の意味だ。
そして、ククは木のことだから、ククノチは木の精ということになる。
元々は、ククチと呼ばれる人物名であったのが、後に神とされたもの。
つまり、倭人伝のクコチヒクはククチヒコが元ということである。
このククチヒコが宰相を務めるクヌ国が、吉野熊野である。
神となったククチヒコを祀る神社が吉野川上村上多古の上谷川の上流にある。
明治初期まで十二所権現を祀っていたが、元の伝承に還ったもの。
ここから東南に下ると太平洋岸の三重県熊野市に至り、その熊野市には花の窟があり、イザナミ尊が葬られている。
ククノチは、イザナミの子だというのが記紀の述べるところである。
すなわち、邪馬台国と戦った狗奴国は吉野熊野の勢力であり、それが後に記紀に取り入れられたということになる。
邪馬台国である大和の南に狗奴国があったことは、以上の通りだ。 >>858
追加
文中の吉野川上村上多古は、吉野の川上村上多古である。 >>858
倭人伝に書かれている狗奴国は、吉野熊野のことであり、
妄想は聞き飽きた。 @阿波 >>858
えーーー
南は東じゃんかったのではないのかな
其南有狗奴國
畿内説は方位を自由に扱う魔術師か 狗奴国はクヌ国、クノ国の事。
つまり、久努国、久能郷のあった静岡から関東一帯の事。 >>832
>>畿内は一体ではない。 和と河内の交流がなかったくらいだし。
その反論は空虚で無意味だ。<
>「大和と河内の交流がなかったくらいだし」の根拠は、
大和型の庄内甕と河内型の庄内甕が区別できるから、とかいうやつかな?
どうして両方とも庄内甕と呼ばれるのか考えてみれば、「交流がない」などというのが
戯れ言以前だと分かりそうなものだがなww <
変な男?。
根拠は、当然「米田の胎土の分析」論だ。
このスレでも、数えきれない位紹介されているし、
古田史学会の本にも掲載されている。 >>834
>>初めて行った土地に大事な船を置き去りにしてどれだけの距離行くか、
いつ戻って来られるかわからないところへ行くなんて随分チャレンジャーだな。<
>それを言ったら、海の苦手な大陸王朝の役人が対馬海峡を渡る時点でチャレンジャーだよw
倭人が案内してるんだからそれに従うよりないだろ?<
渡海が倭人の舟だった、というのは、OKだが、
日本海側であれ瀬戸内であれ、大和へ行く、としたら、その時点で、
「南≠東」などに拠って、×だ。 >>863
>古田史学会
あぁあの古代史界の「わかば学級」と言われる集団だね。 >>836
>鉄は朽ちやすいし、出土するものは使用量と比べてごく微量になる
それなのに他の地域では鉄がザクザク見つかるから、奈良盆地は母数が数なかったとしか考えられない。
>3世紀半ばには九州でも環濠集落は廃れているぞ
卑弥呼の死後に王都が伊都から他に移動したということでしょう。
九州北部全体はむしろ興隆して全盛期を迎えます。 >>838
>それに「駐」は「一時的に滞在する」の意味
そりゃあ、しばらくしたら本国に帰るからね。
駐在していたということでしょう。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>836
>(纏向)「出土しない=なかった」ではない
鉄は朽ちやすいし、出土するものは使用量と比べてごく微量になる<
3世紀末のホケノや、4世紀の桜井茶臼山など、大量の鉄の出土があるから、
「鉄は朽ちやすい」は、言い訳にしかならない。
>>武器もお粗末、<
>木鏃のことを言っているなら、明確に儀礼・儀式用であり祭祀王の都にふさわしい<
儀礼儀式用であれば、武器として実用された、という証拠にならない。
>3世紀半ばには九州でも環濠集落は廃れているぞ
卑弥呼の都に勘合が必要だと思っているなら、時系列の理解できない時代遅れだと
いう自白にしかならない <
「倭國亂」の存在や「狗奴國との衝突」や「更立男王、國中不服、更相誅殺」などの、
存在の否定。
>>纒向に兵が止まる集落も無い、<
>周辺にはいくらでも集落はあるんだがな 都庁の中に職員住宅はないだろ?<
「居處宮室樓觀、城柵嚴設、常有人持兵守衞」が出来ない。
>>文明の最大に劣った地が畿内 <
>根拠のない思い込みだねww<
史料事実に関する根拠のない分裂幻覚の妄想だね。 >>840
>>舟で敦賀に着いたんだよ。 そこから鯖街道通って、木津川、大和だ。<
>でも、日本海側三大古墳の立地や、開化妃、垂仁妃に丹波の姫が入っていることから、
この時代には丹波経由の方が重視されていたと思う<
どっちにしても、卑弥呼への遣使の話であれば、「南≠東」などに拠って、×。 >>842
>>で、あなたは畿内説に代表者なんですね? くだらないヤツだなぁ...www <
>くだらないと思うなら、根拠を挙げて否定してごらんww <
「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・詐欺師である事。 >>843
>>アンタの畿内説をちゃんと書けよ。<
>今だにぜんぜん分かってないね
「アンタの畿内説」なんてモノは無いのだよ
畿内説は大同小異の共通了解事項なんだ 誰でも大筋はブレない<
「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙しの文言であるし、
「南≠東」などによっても、始めから×になっていた・・・・アホ説。 >>845
大和説学者者の要件には、
・史料事実に基づいた根拠や理由を述べて証拠を開示する、という生活習慣がない、
・思考停止をして、上司のキョクウの学会教育界や、
右翼マスコミや安部文部省らの「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説に、
隷従追従する事ができる。
追加なw。 >>848
大和説者は九州説を敵だと思って書き込んでるけど、
九州説者は、
大和は九州倭国の別種分家の旧小国でで、東征毛人の協力国であった、
と思っているから、九州説を敵だとは思ってない。
大和説は敵じゃない。
畿内説なんて「自分が天皇か皇帝だ」と思っているらしいから、邪魔なだけww 。 >>849
つーか。畿内説という学説が存在し得ない。
単なる「大和に天皇か皇帝がいた」なんて分裂幻覚の妄想名なんだよね。 >>850
>>>舟で敦賀に着いたんだよ。 そこから鯖街道通って、木津川、大和だ。
なんど言うたら。 この街道は縄文時代がらあった。<
>>「南≠東」に拠って、大和は始めから、×だ。<
>無視。 犬は吠えても隊商は進む。<
無視。
怖い怖い。犬が吠えても、
「南→東」の嘘吐き騙しの、・・・・アホの殺人戦争狂キョクウは進む。 >>860
@阿波の独り言は、聞き飽きた。
ククチ(日本神話)=クコチヒク(倭人伝)。
これが否定できるなら、否定してみろ。 >>861
其=大和。
南有狗奴国=吉野熊野。
吉野熊野にククチあり。
ククチ=クコチヒク。 >>863
>根拠は、当然「米田の胎土の分析」論だ。
例えば、日清のどん兵衛きつねうどんを作る工場が名古屋と大阪にあって、
名古屋の工場から中京圏に出荷され、大阪工場から近畿圏に出荷されてたとする
(例示なので実際の日清食品の生産出荷体制とは無関係)
この時、名古屋には名古屋工場の製品があるので、大阪からどん兵衛を持っていくことはない
生産した工場ごとに味付けは別だし識別番号も付いているから区別できる
この状況で、名古屋には大阪のどん兵衛がないので、名古屋の日清食品と大阪の日清食品には
交流がなく別会社だって言ってるやつがいたら、ただのバカだろ?ww
内削りが右刷毛か左刷毛かの違いが味の違い、識別番号が胎土分析の結果に相当する
区別はできるし製品の融通はしていなくても、その前に同じ製品を同じ規格で
作っている時点で一体の組織(会社or国)だろww
これに対して「南≠東」としか反論できないのがザラコクww >>862
クヌ(狗奴)=クマノ(熊野)。
野はヌとも読む。
クマヌ→クヌ。 >>866
>九州北部全体はむしろ興隆して全盛期を迎えます。
その環濠集落が興隆して全盛期を迎えたとかいうのは、いつの時代のことだ?
具体的に時代と遺跡名で例示してくれよ >>877
>ククチ(日本神話)=クコチヒク(倭人伝)。
>これが否定できるなら、否定してみろ。
否定も肯定も、第一なにそれ? それがなにか? @阿波 環濠集落というより、平野を埋め尽くすような広域発展になったよね。 >>864
南の由来は、其南有狗奴国。
邪馬台国(女王国)の南に狗奴国がある、というところから。
大和の南に吉野熊野があり、熊野(クマノ)は(クマヌ)とも読め、そのクマヌ(クヌ)を
音写したのが狗奴(クナ)。 韓国政府に雇用された、キナイコシや3寸男が、5ちゃんねるで畿内説を宣伝するために作製したテンプレートが、完全に論破され、九州説との討論に敗北したので、日清のどん兵衛きつねうどんを作る工場が名古屋と大阪にあって、
名古屋の工場から中京圏に出荷され、大阪工場から近畿圏に出荷されてたとすることについての討論が、開始されたのでは、ないのかな、 卑弥呼以後も九州北部を中心に発展し続ける倭国
http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
彩色古墳、沖ノ島祭祀など、4世紀、5世紀になっても九州北部は独自の文化を維持していた。
継体天皇は筑紫を攻めたが、屯倉を一つ手に入れただけに終わった。 >>884
妄想は聞き飽きた と、何度言えばw @阿波 >>887
徴税権を取り上げられたんだから
地方政権としては終わったね >>877
>ククチ(日本神話)=クコチヒク(倭人伝)。
>これが否定できるなら、否定してみろ。
その否定だけなら簡単だよ
ククチ(日本神話)≠クウチヒク(魏略)(=河内彦?)
魏略曰 女王之南 又有狗奴國 女男子爲王 其官曰「拘右智卑狗」 不属女王也
少なくとも無条件で『=』とできるものではない >>876
>>884を否定できなければ、876は負け。 >>885
「米田の胎土の分析」論というレベルの高い化学を、理解するためには、名古屋と大阪のどちらの工場で作製された日清のどん兵衛きつねうどんの方が、良い栄養を獲得できるかというレベルの低い話題ではないのかな。。。 >>878
>其=大和。
>南有狗奴国=吉野熊野。
原文は
…次有烏奴國、次有奴國、此女王境界所盡。
に続いて
「其南」有狗奴國。
だから、「其=大和」ではなく「其=女王之境界尽きるところ」だろう >>890
魏略=拘右智卑狗
倭人伝=狗古智卑狗
右の字の行書体は古とほとんど同じ。
倭人伝の時代は、行書主体とされる。
魏略の右字は、古字の写し間違いともいえる。
拘右智を河内とみなしたとしても、熊本ではない。
九州説の崩壊。 「米田の胎土の分析」論というレベルの高い化学を、理解したので、邪馬台国畿内説が破綻したことが判明してしまったな。。。 >>883
>環濠集落というより、平野を埋め尽くすような広域発展になったよね。
ならば>>806の「環濠もない」というのがまったく見当違いのバカってことでいいね
ありがとうww
その平野を埋め尽くしたのは「奴国」であって、邪馬台国とは別の国だけどさw >>889
たくさん屯倉があったから、そのうち一つを分けただけだろ。
畿内政権の反逆は成功しなかった。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 魏志倭人伝には奴国に王はいない。
1世紀以降、奴国は伊都国の支配下であることは明白。 >>887
>彩色古墳、沖ノ島祭祀など、
彩色古墳は九州独自だと認めるけど、九州全域の文化ではないし
むしろ小さめの古墳に見られるもの
これを以て興隆しているというのはいかがなものか?
沖ノ島祭祀については、三角縁神獣鏡が祭祀に使われているなどヤマト王権が
主導していたとされている
九州独自の発展という例としてはいかがなものか? 韓国政府に雇用された、キナイコシや3寸男が、5ちゃんねるで畿内説を宣伝するために作製したテンプレートが、完全に論破され、九州説との討論に敗北したので、熊本城の西にあった河内についての討論が、開始されたのでは、ないのかな、 >>901
残念だったね
古墳を見られたらすぐ
磐井が反乱失敗者だって事実が
バレちゃうんだよ 狗古智卑狗というのは、熊本城の西の河内町で誕生した可能性があるな。。。 >>895
「其」は、前段の「女王」に掛かっている。
魏略の「女王之南又狗奴国」の文章も勘案すれば、女王が都する所=邪馬台国の南に狗奴国がある、とするのがよい。
狗奴国は吉野熊野。
吉野熊野の北に女王が都を置く国(大和)がある。 >>908
その熊本の河内町の名は、いつできた?
江戸時代に河内から来た職人が住んだ町じゃないの。 「其」は、前段の「女王」に掛かっている。
魏略の「女王之南又狗奴国」の文章も勘案すれば、女王が都する所=邪馬台国の南に狗奴国がある、とするのがよいので、やはり、熊本の緑川の南にあったのだね。。。 その大坂の河内の名は、いつできた?
魏志倭人伝時代に河内町から来た職人が住んだ町じゃないの。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 狗古智卑狗というのは、熊本城の西の河内町で誕生し、狗奴国の男の王の官になったので、卑弥呼を攻撃した可能性があるな。。。 「米田の胎土の分析」論というレベルの高い化学を、理解するためには、名古屋と大阪のどちらの工場で作製された日清のどん兵衛きつねうどんの方が、良い栄養を獲得できるのだろうか。。。 >>908
明治の中頃までは、河内村だったそうだ。
村名の由来は、分からんね。 日清のどん兵衛きつねうどんを食べたあとは、河内みかんを食べれば良いなw >>915
上天草の上島にも教良木河内村がある。
ここは、八代市の対岸だ。 >>836
>>3世紀半ばには九州でも環濠集落は廃れているぞ
なにも知らないで書きこむなよ まあ、いずれにしても、クコチヒク(クウチヒク)は、熊野のククチでもOK。
ということは、熊本と紀州熊野との綱引きになる。
熊本一択は、消えた。
大和=邪馬台国の可能性の復活。 >>921
無力すぎる反抗
wwwww
www
w 韓国政府が応援する、破綻した畿内説の宣伝係員のキナイコシが、論破された時の癖を出してしまい、論破されたことを公表したのではないのかな。。。
923日本@名無史さん2018/12/15(土) 09:19:48.68
>>921
無力すぎる反抗
wwwww
www
w 環濠集落というのは、人民を守るための集落なのではないのかな。。。 4世紀後半の、人民の少なかった纒向遺蹟には、環濠集落が無かった可能性があるのではないのかな。。。 >>909
>「其」は、前段の「女王」に掛かっている。
それは無理読み
普通に直前の事物を受ける
>魏略の「女王之南又狗奴国」の文章も勘案すれば、
>女王が都する所=邪馬台国の南に狗奴国がある、とするのがよい。
魏略と言いつつ、実際には翰苑所引の逸文だから、誤字欠字がありまくり
その後ろの「女王之南 又有狗奴國 『女男子爲王』」の「女男子」はなんて読むんだい?
女王之南も女王国の南でよい
女王国は卑弥呼に従う範囲で、「此女王境界所盡」までがその範囲 >>926
纒向遺蹟は、4世紀の墓地と大物主の桃の倉庫の遺蹟だったね、、、 >>921
>なにも知らないで書きこむなよ
だったら3世紀半ば以降に興隆している北部九州の環濠集落を
具体的に遺跡名を挙げて教えておくれよ
いろんなことを知っている>>921には造作もないことだろ?
ただ反論してみたかっただけの無能でないのならさっさと教えて!ww 韓国政府に雇用された、キナイコシや3寸男が、5ちゃんねるで畿内説を宣伝するために作製したテンプレートが、完全に論破され、九州説との討論に敗北したので、「女男子」はなんて読むのかについての討論が、開始されたのでは、ないのかな、 韓国政府に雇用された、キナイコシや3寸男が、5ちゃんねるで畿内説を宣伝するために作製したテンプレートが、完全に論破され、九州説との討論に敗北したので、
3世紀半ば以降に興隆している北部九州の環濠集落というのは、魏志倭人伝時代の討論で、重要な話題の可能性があるな。。。 バカだな。
あんな野蛮で未開な土人生活を送っていた邪馬台国を別に「畿内にあった!」としなくても
いったい誰得なんだよ。
無理苦理ヤマト王権に繋がる系譜に加える必然性を感じない。 >>931
そうだね、、、
韓国政府に雇用された、キナイコシや3寸男が、5ちゃんねるで畿内説を宣伝するために作製したテンプレートが、完全に論破され、九州説との討論に敗北したので、
卑弥呼の城が熊本城なのか、北部九州の環濠集落なのかの、討論が最終段階になってきたな。。。 >>852
>なるほど、丹後派に転向する。<
これも「南→東」の嘘つき騙しの大和説だから、×。 >>927
(直前の事物を受ける)という直前の文章が、(此女王境界所尽)。
その直後に(其南有狗奴国)が来る。
(其)は女王国(倭國)に掛かる。
なんとなれば、最後の奴国の位置の方位が不明。
位置の不明な奴国の南に狗奴国があるとするのは、不合理。
魏略の(女王之南又有狗奴国)も勘案すれば、(其)は(女王国)に掛かるとするのがよい。
女王国の最南端にあるのが邪馬台国。
その南に狗奴国があるとするのは、方位的にも明確だ。
「女男子為王」が変だから「女王之南…」も怪しい、とはいえない。
倭人伝のその文章は、魏略のその文章とほとんど同じだから、(南)については、邪馬台国の南の意味であることに、改変はないと考えられる。 >>853
>無視。<
九州説者の指摘に本論出来ず、都合が悪いからの、
大和説者の「逃げ」。 >>934
邪馬台国の南にある狗奴国が熊本一択ではなくなったと、何度言えば。 >>858
>倭人伝に書かれている狗奴国は、吉野熊野のことであり、その北は大和と接している。
なので、大和が邪馬台国であるのは、ごく普通に常識。・・・<
この大和説男の投稿も、「南≠東」に拠って、×であり、
史料事実を否定曲解する分裂幻覚の妄想の詐欺師。 九州説はもうファンタジーになってるからな
わからんものは分からんでいいのに
無理矢理こうだったって答えようとするから >>862
>狗奴国はクヌ国、クノ国の事。
つまり、久努国、久能郷のあった静岡から関東一帯の事。<
この大和説男?の投稿も、「南≠東」に拠って、×であり、
史料事実を否定曲解する分裂幻覚の妄想の・・・・詐欺師。
世間の皆さま、このような「煽り運転者」は怖いですから、始めから近寄らないようにしましょうね。 >>936
これも、熊本一択でなくなったので、無意味。
南→東が成り立たないのは、狗奴国が熊本一択である時。
いまや、吉野熊野も狗奴国である選択が成り立つのだから、(南→東は無理)は意味がなくなったの。
阿波は、吉野熊野は狗奴国にあらず説をはやく出さないと。 >>905
大和政権も参加したという程度のものだろう。
大和政権が祭祀を行うなら、三輪山か淡路島ででも行えばよい。
沖ノ島まで来る必要はない。
大和政権がわざわざ沖ノ島で大和でより大規模な祭祀を筑紫で行う理由がある? 4世紀の九州の中心も三雲地区でいいんじゃない?
近年の研究で次々に成果が上がっていたよね。 >>941
この静岡のケースでは、久努国、久能郷の北に邪馬台国が設定できるかどうかが肝心。
磐田市、袋井市の北に、邪馬台国らしき大国はみあたらないのでは…。 >>878
>其=大和。 南有狗奴国=吉野熊野。<
「南≠東」などに拠って、×。
>吉野熊野にククチあり。 ククチ=クコチヒク。<
類似地名なら、日本中にだって、どこにでも沢山有り得るものであり、
類似だけでは、絶対的な根拠にならないもの。 >>943
>大和政権がわざわざ沖ノ島で大和でより大規模な祭祀を筑紫で行う理由がある?
半島政策にとって大切でしょ? >>935
>女王国の最南端にあるのが邪馬台国。
いろいろ書いてるけど、この一文が通らない
自女王國以北、其戸數道里可得略載とあり、邪馬台国までは道里が分かっていて、
その先の20カ国分は戸数道里の分からない邪馬台国以南の国
そしてその最後の此女王境界所盡までが女王国
邪馬台国は女王国連合の最南端ではない >>943
>大和政権が祭祀を行うなら、三輪山か淡路島ででも行えばよい。
>沖ノ島まで来る必要はない。
>大和政権がわざわざ沖ノ島で大和でより大規模な祭祀を筑紫で行う理由がある?
沖ノ島祭祀というか、宗像三神が対馬海峡の渡海安全を祈るための神なんだから、
その航路を主宰するヤマト王権が沖ノ島祭祀を行うのは当然 韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が、頭の悪さを公表しているな。。。
949 名前:日本@名無史さん 2018/12/15(土) 10:31:09.09
>>935
>女王国の最南端にあるのが邪馬台国。
いろいろ書いてるけど、この一文が通らない
自女王國以北、其戸數道里可得略載とあり、邪馬台国までは道里が分かっていて、
その先の20カ国分は戸数道里の分からない邪馬台国以南の国
そしてその最後の此女王境界所盡までが女王国
邪馬台国は女王国連合の最南端ではない >>949
>その先の20カ国分は戸数道里の分からない邪馬台国以南の国
その先といっても、長崎や佐賀だろ。
南は狗奴国だからね。 >>950
宗像三女神は高天原から「筑紫への」天孫降臨を守護する神々だ。
そしてその際に運ばれたとされる八咫の鏡は伊都の平原遺跡がら出土している。 >>951
そうだね。。。
魏志倭人伝の製作者は、道里や戸数を書けるとは書いたが、書くとは言っていないので、20か国の内、奴国だけの戸数と道里を書いたのだったな。。。
(帯方郡から)南に10日航海し、(末盧国から)陸路を1月行くと女王が都にしている所である(後に、熊本城が建てられた)邪馬壹国に至る。
官は伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮といい、70000戸あまりあるようだ。。
女王の国とそこから北の地域は、その戸数や道や里の様子は、おおよそ書き記すことができるが、その他のかたわらの国は遠くて交流も絶えており、詳しく書き記せない。。。
(帰りに宿泊するのは、邪馬台国の)次は斯馬国であり、その次は巳百支国であり、その次は伊邪国であり、
その次は都支国であり、その次は彌奴国であり、その次は好古都国であり、
その次は不呼国であり、その次は姐奴国であり、その次は對蘇国であり、
その次は蘇奴国であり、その次は呼邑国であり、その次は華奴蘇奴国であり、
その次は鬼国であり、その次は為吾国であり、その次は鬼奴国であり、
その次は邪馬国(八女)であり、その次は躬臣国であり、その次は巴利国であり、←邪馬国(八女)に注目、、、、
その次は支惟国であり、その次は烏奴国であり、その次は(帯方郡からの道里を前述し、示した)奴国である。
これが女王の境界が尽きるところである。。。
その(女王の熊本城のすぐ)南に狗奴国があって、男子が王になった。
その官には狗古智卑狗がある、、
女王に服属していない、、、 和名抄に記載の熊本の菊池の読みは、(くくち)だそうだ。
となると、吉野熊野の(ククチ)とまったく同じ。
いよいよ、クコチヒクは熊本一択ではなくなってきた。 邪馬台国の南にある狗奴国が熊本一択だったので、邪馬台国は熊本城の以北で、マツラ国から1月、南に陸を歩いた所なのだね、、、 >>956
やはり、卑弥呼の城は、熊本城だったのだな。。。 >>959
緑川で、合戦を実行した可能性が高いな。。。 正始八年、太守として王頎が役所に到着した。
倭国の女王の卑弥呼と狗奴国の男王は交わったが、卑弥(弓はミドルネームではないのかな、、)呼がありのまま過ぎたため仲良くできなかった。。。
倭国は載烏越等を派遣して郡に詣でて、(二人の不仲が原因で女王国と狗奴国が)互いに相手を攻撃している状態だと説明した。
塞曹掾史張政等を派遣して、皇帝の意思表示の文書と黄い軍旗を与え、(卑弥呼に)拝謁した。
難升米を利用し、触れを出し、(争っている兵たちに相手を攻撃するのをやめなさいと)告げて諭した。
卑弥呼は、死ぬので、先に、塚と(熊本城からその塚までの)道を100歩分あまり作り、徇葬者として女の奴隷を百人(選び)、(狗奴国の)男王を(倭国王として)立てた。
国中が(男王に)服さなかった、、、、
更にお互いを咎めて殺しあい、当時、千人あまり殺した。
ふたたび(女王として)、卑弥呼の十三歳の娘の壹與を立てて王とした。。。。
国中がついに安定した。
政等はお触れをだして、壹與(が王であること)を告げて、(人々に)諭した。
壹與は倭の大夫である率善中郎将の掖邪拘等二十人を派遣した。
政等が還るのを送らせることで、土台のしっかりした非常に高い建物にも詣いらせた、、、
男女の奴隷三十人を献上し、白い玉を五千孔、青い大きな勾玉を二枚、(織り込まれた)文が雑に異なる錦を二十匹、貢いだ。。。。 >>879
>>根拠は、当然「米田の胎土の分析」論だ。<
>例えば、日清のどん兵衛きつねうどんを作る工場が名古屋と大阪にあって、
名古屋の工場から中京圏に出荷され、大阪工場から近畿圏に出荷されてたとする
(例示なので実際の日清食品の生産出荷体制とは無関係)
この時、名古屋には名古屋工場の製品があるので、大阪からどん兵衛を持っていくことはない
生産した工場ごとに味付けは別だし識別番号も付いているから区別できる
この状況で、名古屋には大阪のどん兵衛がないので、名古屋の日清食品と大阪の日清食品には
交流がなく別会社だって言ってるやつがいたら、ただのバカだろ?ww<
インチキするな。
河内も大和も名古屋も、
同じ九州倭国の「東征毛人五十五國」内の国々であったとしても、
組織としては別組織だ。
>内削りが右刷毛か左刷毛かの違いが味の違い、識別番号が胎土分析の結果に相当する<
ならん。技法は容易に伝播するが、胎土は殆ど伝播しない。
>区別はできるし製品の融通はしていなくても、その前に同じ製品を同じ規格で
作っている時点で一体の組織(会社or国)だろww
これに対して「南≠東」としか反論できないのがザラコクww<
胎土が別で技法も違えば、完全別組織だ。 >>880
>クヌ(狗奴)=クマノ(熊野)。 野はヌとも読む。 クマヌ→クヌ。<
呼称の音韻の類似だけでは、論拠にはならん。 卑弥呼は、狗奴国の男王と、復縁したかった可能性があるが、合戦が好きだった、お互いの軍隊の将軍が妨害したのではないのかな。。。 >>951
行程以外の国の位置関係は、不明。
それらの国が邪馬台国の南にあるとは、倭人伝のどこにも書いてない。
しかし仮に、邪馬台国の南にその20国があったとした場合、邪馬台国は会稽東治(冶)の東にあるとみられているので、その南に20国を入れると台湾の東あたりの位置になる。
その20か国の南に狗奴国を設定するとなると、狗奴国はフィリピンに近い位置になってくる。
となると、狗奴国と邪馬台国の戦争はどのような位置関係となるのか理解しがたい。 >>963
そんなことを言えば、狗奴(クヌ・クナ)の音韻はどことも類似性を追及できず、熊本はおろか狗奴国の位置はまったく不明とならざるを得ない。
それでは議論にならないし、邪馬台国の位置も不明となる。
倭人伝の国の位置は対馬、壱岐が明確になるだけ。
音韻の類似性を有効にしないと、どうもならない。 >>942
>阿波は、吉野熊野は狗奴国にあらず説をはやく出さないと。
「吉野熊野は狗奴国にあらず」
ここが狗奴国、こっちが狗奴国と安易に比定するが、狗奴国は邪馬台国に対峙する強国なんだよ!
「吉野熊野」に、狗奴国に相応しい弥生後期集落群があるのかね?
そして、狗奴国に相応しい強国となり得る資本が存在するのかね?
その「吉野熊野」には、長国(狗奴国)のような権力の元となる鉱物資源・海洋資源がないんだよ。
そんなところに有力勢力など勃興するわけないでしょ。 何を考えているんだかwww @阿波
>>966
追加
上記の意味は、まず音韻の類似性を評価して、そののちにその他の条件を勘案すべきという意味。 >>968
熊本だろうが、静岡から関東一帯だろうが、
長国(狗奴国)のような権力の元となる鉱物資源・海洋資源がないんだよ。
そんなところに有力勢力など勃興するわけないでしょ。 何を考えているんだかwww @阿波
>>968
そこに挙げた条件が戦争可能条件であり、それがないと戦争ができないというのは、何によって決めているのか。
現代のような戦争を頭に描いてはいけない。 >>881
>>九州北部全体はむしろ興隆して全盛期を迎えます。<
>その環濠集落が興隆して全盛期を迎えたとかいうのは、いつの時代のことだ?<
九州の環濠は、卑弥呼の頃に衰退が始まって、壹與の頃にはほぼ必要でなくなった。
>具体的に時代と遺跡名で例示してくれよ<
勿論、弥生銀座や糸島が共立中心であって、
その地域では環濠も余り必要でなかったんだが、
吉野ケ里や、朝倉付近の遺跡に環濠が残っていた筈では。 >>971
>そこに挙げた条件が戦争可能条件であり、それがないと戦争ができないというのは、何によって決めているのか。
ずばり、鉄器の獲得だよ。 @阿波 >>968
>「吉野熊野」に、狗奴国に相応しい弥生後期集落群があるのかね?
>そして、狗奴国に相応しい強国となり得る資本が存在するのかね?
その通り。
熊本(有明海沿岸の肥国)であれば、鉄器生産や稲作の収穫量を背景として筑紫に対抗しうる勢力となる。
紀伊半島南部にそのような背景は見出せない。 >>971
>現代のような戦争を頭に描いてはいけない。
魏志倭人伝には邪馬台国の兵の武装についても記載があるが、銅矛も鉄鏃も奈良盆地には乏しい。
九州北部にはたくさんあるけどね。 >>884
>南の由来は、其南有狗奴国。
邪馬台国(女王国)の南に狗奴国がある、というところから。
大和の南に吉野熊野があり、熊野(クマノ)は(クマヌ)とも読め、そのクマヌ(クヌ)を
音写したのが狗奴(クナ)。<
「南≠東」に拠って、×。 >>977
平塚川添遺跡が、筑前邪馬台国と肥後狗奴国の間の前線だったのかもしれないな。
大野城、基肄城、菊池城もそれぞれ邪馬台国と狗奴国の城柵だったのだろう。
その背後の伊都国や奴国は環濠を要しない首都圏として発展していたのだろう。 >>976
いや、銅矛や鉄鏃がなければ戦争できないのかと言うとるの。 連続句読点はスレの終盤になると
狂ったように連投と偽スレへの誘導を始める >>974
鉄器がなければ戦争できないのか、と言うとるのよ。 >>979
何度も言うが、狗奴国と想定できるところの北に邪馬台国らしき国があればよいわけ。
南というのは狗奴国のことだから、東西は関係ないの。 >>889
>徴税権を取り上げられたんだから 地方政権としては終わったね <
阿毎氏系の磐井の後、大和の阿毎氏系も九州倭国の王家に参画出来た、
というだけであり、
九州倭国側は、俀王姓阿毎字多利思北孤が出て、天子を称しているんだから、
更に発展していたのであり、
逆に、継体の後、宣化や欽明や推古や孝徳や斉明が、
九州倭国の執政や太宰や秦王的地位にいた、という可能性がある、
という事になるだけの事。 >>985
倭人伝には、倭國の鉄器保有量の記載はないだろう。 このスレッドは1000を超えました。
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