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【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬漆
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
0001日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 06:14:52.09
九州に決まっとろうが
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せよ!

邪馬台国畿内説の根拠は
邪馬台=大和=奈良(完)と言う
風潮に論理的に反論するスレです
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を推測する議論等々も大歓迎です!

※泡チョンコなどの荒らしはスルーで
推奨NGワード… 「阿波」「忌部」
0003日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 06:33:55.69
ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は「倭国(女王之所都)=計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。

1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる!
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。

そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(南越の北)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる【奴国A(幻)】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」←2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南に引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。
0004日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 06:42:28.43
畿内説石野船長「南→東と読み替えて、不弥国から東に進み投馬国(出雲)を目指そう!次は女王卑弥呼の纏向だw全速前進!」
畿内説寺澤機関長「順風満帆!やはりこちらが正しかったですねw天も我々を祝福しているかのようですw九州説の警告なんて無視して良かったw」
畿内説橋本航海士「我々の進行方向&左右両舷をすっぽり取り囲むような三日月形の巨大な氷山脈発見!!!→)」
畿内説石野船長「エンジン逆回転!!!全速後退!!!←)」
畿内説寺澤機関長「なんで方角を読み替えたんだよ!!!船長のくせに!!!このハゲェ〜ッ!!!(豊田真由子元衆院議員)」
畿内説橋本航海士「フル回転中の逆回転でギア全損!!!エンジン大爆発!!!間に合いません!!!!!」
(フルスピード→ノーブレーキで氷山に正面衝突して、乗り上げ、反対側で再び着水する畿内説タイタニック号)ガツン!ドカン!ザブン!
(船側&船底外板を船首から船尾まで横一直線に切り裂く音)ギギギギギギギ!!!
ザァアアアアアアア!!!(全隔壁に一気に浸水、瞬時に沈む畿内説タイタニック号)
畿内説石野・寺澤・橋本「ぎゃあああああああああああああああ!!」(ごく僅かな庄内式土器と大量の布留式土器と三角縁神獣「銅鏡五百枚」と共に海底に引き摺りこまれ、海の藻屑と化す畿内説タイタニック号)
https://www.youtube.com/watch?v=CJN8oxJIelc
一方、九州説オリンピック号でゎ…
九州説A「畿内説タイタニック号から遭難信号SOS傍受!!」
九州説B「あれほど警告したのに、なんで東(大物主→饒速日の纏向宮殿→神武東征→倭迹迹日百襲姫の祭殿)に向かったんだろう?直ちに救助に向かおう!」
九州説C「纏向の大型建物ABCDは2世紀末には遡れないのに!!!」
不弥国の東の海上に到着した九州説オリンピック号が見た光景は…
因幡の白兎同様、サメの餌食となった畿内説タイタニック号の乗客乗員の遺体の一部と思しき夥しい肉片&骨片が散乱…血で真っ赤に染まった波間に石野船長と寺澤機関長のものと思しきメッキ縁眼鏡がキラキラ&プカプカ浮かんでいる…
茫然自失の九州説ABC「だから船乗りの方角間違え(南→東)は漂流しちゃうからあり得ない、纏向は「本州」島の毛人王権ってあれほど言ったのに...orz」
0005日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 06:47:33.27
>>3の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
   ┏━━┓帯方郡  ┏┛〜〜〜日本海〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜東→✖畿内説沈没地点(†乗客乗員>>4
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜↗〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行十日」↗〜〜〜┃「女王国東渡海千余里 複有国 皆倭種」 
 ↓ ┃「瀚海」↓↓〜玄界灘〜↗_〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
   ┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行十日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃ 
   ┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
 ↑ ┃〜〜┃▲↘_陸行一「日」(正)▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長三四尺(少彦名)
【呉】┃〜〜┃★奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王四千余里」@阿波
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行二十日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↙〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行十日」〜〜〜〜〜〜
   ┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
 ↓ ┃〜〜│↓「陸行一月」(幻)│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
   ┃〜〜│↓〜▲〜〜〜〜〜│亶州(沖縄)〜↓「自郡至女王国 万二千余里」
東冶┃〜〜│☆奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
   ┃〜〜│▲狗奴国(幻)〜〜│夷州(台湾)〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜南シナ海〜〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行一年」
0006日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 07:15:32.35
>>3
>>5
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀への牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉への牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管轄する「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権を確保すること(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで主要3説(九州説・四国説・畿内説)における狗奴国を検討すると、以下のようになる。

−女王国「A東渡海」千里「複有国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡B本州、〇四国説…A紀伊水道B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、△四国説…南阿波、✖畿内説…仲良し東海)

畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し混乱が生じる。鉄製武器も文字も駅伝制(早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を支配下に置くのは物理的に不可能。
また3世紀の四国に十四万戸(邪馬台国+狗奴国)比定は無理がある(後述)。消去法によって、九州説が正しい。
次に、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後川の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮は扇状地の最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3
0007日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 09:35:39.58
【倭人伝 行程文要約】
倭人 在帶方東南 大海之中 依山㠀 為國邑 舊百餘國 漢時 有朝見者
今(魏時) 使譯(梯儁、張政の二回) 所通 三十國
從郡至倭 247年 張政の行程に從れば
↓― 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 七千餘里
到 其北岸 狗邪韓國
↓― 始度一海 千餘里
至 對海國 有千餘戸
↓― 又 南渡一海 千餘里・瀚海
至 一大國 有三千許家
↓― 又 渡一海 千餘里
至 末盧國 有四千餘戸
↓― 東南 陸行五百里
到 伊都國 有千餘戸
以上、動的な直列行程、里程合計満五百里
東南 至 奴國 百里 有二萬餘戸
東行 至 不彌國 百里 有千餘家
奴国の文節には動詞が無い。 前文までの行程とは直列しない。
到達した伊都の近隣紹介であり、247年は女王宮には向かっていない。

で、ふと思ったんだが、
漢時は、本州含む百余国を知っていたのに、
魏時は、2回の使譯で九州島の北部
・帯方郡から行程12000里 (水行30日陸行1月の行軍日程及び総里程)
・周旋可5千里で7万戸の21国 (240年梯儁の国勢参問女王所属国)
・以北の行程内、立寄り国 (狗邪韓国、對海国、一大国、末盧国、伊都国、奴国、不彌国)
・女王の境界が尽きた南の狗奴国
・馬韓54国10万戸、弁辰韓24国5万戸同様の、国の概念での投馬国と邪馬台国21国
しか、知らない。 漢時より、国が減った訳ではないのではないかな?
0008日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 10:04:01.38
>漢時は、本州含む百余国を知っていたのに、

これが根拠ないだろ
0009日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 12:07:57.81
そもそも冒頭の、「倭人有 帯方東南 大海之中」を、どう読むかだが、
どう見ても帯方郡の東の本州は入っていそうにないな
それに、大海の中だからやはり大き目の島だ。つまりは九州島のことを大前提に書いていると思うが・・。
0010日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 12:18:05.62
>>7
例えば、関門海峡を渡海した時は、女王国【東渡海】千余里複有国と書かれているわけだから、昔100カ国は
漢代の九州島内の(狗奴国を含むだろう)百カ国が、倭国大乱を経て、魏代には邪馬台国連合30カ国(敵対した狗奴国連合を除く)に統廃合されたと読むべきだろう。
0011日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 12:20:37.88
倭人伝の行程部分に関しては、使譯 所通 三十國 從郡至倭 であって、
評にも見るように、魏時2回の使譯によるものと判断可能だが

出真珠青玉 其山有丹 其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓香
其竹篠簳桃支 有薑橘椒襄荷不知以為滋味 有獮猴黒雉
のような、風物データに関しては漢書からの引用がある。
魏時の倭人国データは、漢時よりも増えているとは言えない。

この引用が600年近くまで変わらない、というのは日本が中原を避けていたからだろう。
中国側も、隣国に文明を与えればその国は亡ぶ、といった発想で日本を避けているよう。
で、350年以降、百済を傀儡としての七支刀、五経博士、仏教など文化の移入になった。

卑弥呼時代の親交だが、245年魏帯方郡は半島南部の韓に侵攻し箕子韓王朝を滅ぼしている。
この際、詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授による、参戦の檄が有ったが、これに応えてはいない。
この件の査察官が、247年遣倭載斯烏越の船に便乗で来た張政である。
この報告が
使 大倭 監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國 畏憚之 常治 伊都國 於國中有 如刺史
王 遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使倭國 皆臨津捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
であって、女王国は既に主権国家ではなくなっていた。 魏外交は終わった。

この後、魏は大倭王と同盟が有ることにして、東夷を放置。
蜀、呉を倒し覇者となるが、
日本は半島進出をはじめ、牛馬の移入、製鉄の国内化を進め
313年四郡撤退後、350年楽浪候、幽州刺史の高句麗を押し返し、百済新羅建国。
400年南朝との半島利権交渉の倭の五王時代を迎える。

これが陳寿が意味不明の工作によって、皇帝の恥を隠蔽しようとした原因
古代日本の富国強兵政策である。
0012日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 12:33:55.41
>>8
こういう相手の無関心に付け込んだ、我田引水をやらなければ畿内説も多少は信用されるのだろうが、
そうでもしないと成立しない畿内説だから仕方ないw
0013日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 12:34:04.44
>>10
其の読みで大正解と思う。
0014日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/21(水) 12:34:52.86
>>9
九州については、帯方の南12000里であっているのではないかな?
倭人 在帯方東南 大海之中 は
東夷伝序文、沿海州長老の言う海の東の謎の国が大倭であろうという想定。

関門海峡は見れば黄河より狭い河口だし、知らないはず。
九州から東渡海千里は、倭人は里を知らない以上
聞いただけではなく漢時に中津や宇佐辺りから渡った可能性は否定できない。
公孫氏もだが、四郡成立初期の交流は記録されていない。
0015日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 12:42:50.41
>>14
>九州から東渡海千里は、、、、
>聞いただけではなく漢時に中津や宇佐辺りから渡った可能性は否定できない。

倭地及び周辺の地勢をざっくり表現しているわけだから、
漢時に中津や宇佐辺りから見た、或は渡った記録を陳寿が再録したで よく適合するのではないか。
0016日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 15:47:31.85
>>13
そういう自演っぽいレスはやめましょう
0017日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 16:05:22.69
>>10
九州説の立場なんだが、反論というか、他の意見を述べさせてくれ。
魏志倭人伝では九州との交流しか記録されていないが、出雲が倭国を代表していた頃は本州も含めた100カ国が交流していたのではないだろうか。

九州北部に30カ国を当てはめる時に、福岡平野は奴国2万戸の大国邑であり、そら以外の地域に30カ国を詰め込んでいるので、かなりキツキツだ。
吉野ヶ里級の国邑を30詰め込むのは不可能ではないが、100となると小さな国邑を含めてもかなり厳しいのではないか。
0018日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 16:08:03.30
>>16
なんじゃい、年寄りのやきもちか
>>10 の読み方は、これまでなかなかお目にかかったことがなかったが、従前からのオレの考えに極めて近いので、応援したわけだ。
0019日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 16:39:03.28
>>1-2
おつ!
0020日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 16:42:16.84
関門海峡を知らないで、九州が洲島である、と言ってる事には難が有るわけで、
そもそも、出雲や丹後、糸魚川に向かう
日本海海神のルートでは、関門海峡は河口にしか見えないのは確かだろう。

BC200辺りからの青銅の移動はあるわけで、これに関しては
吉備、淡路島、畿内、近江、阿波があるから、瀬戸内海ルートの存在は推定できる。
これを筑紫が握っていたというのなら、まぬけな東遷説みたいのが成立する。

しかし250年以降、歴史の時系列には
そんなファンタジーを生む暇は記紀にしか存在しない。
中国史書や金印によって、筑紫は四郡や公孫氏とのフロントであったと想定可能だが、
倭人伝においても、豊国は邪馬台国に含まないことが推定できる。

これは、卑弥呼時代まで、遠賀川地域以外の九州は非銅鐸文化の異郷であり、
日本海ルートや瀬戸内海ルートは別に存在し、青銅器原料は半島から調達していた。

倭人伝の対馬方可4百里は長辺循海岸の千里を見ていないが
釜山に用が無いなら、西岸しか見ないルートで正しい。

日本海海神にとって釜山から対馬東部経由であれば、
壱岐も不要で宗像以東や土井ヶ浜着岸でも良いはずである。

松浦半島(末盧國)が常時交易の玄関などと言うのは発想自体が貧困なのである。
卑弥呼時代まで、九州は後の朝廷に未加盟の異国。

魏の侵攻で公孫氏や箕氏韓王朝を失い、青銅仕入れ元が不安定になった。
魏に対抗するため、日本の王都が九州を加えたこれ以降に纏向にできた、
が、正しそうだが
これら歴史の必然は、倭人伝が説明する筑紫の邪馬台国とは無関係である。
247年以降、中国史では暗に敵対視している半島進出倭人の記述は消える。
0021日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 17:15:06.50
倭人伝で大きく取り上げたのは、どのみち帯方郡に近かった親魏の倭人集団であり、
旧来の銅鐸文化圏は、倭種の国々として形ばかりの記述に留めたのであろう。
出雲などは新羅系の人種だったようであるので、なおさらのこと・・。
0022日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/21(水) 17:25:49.18
>>21
まあ、総論としてはその通りだ。
0023日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/21(水) 18:24:16.11
ひとつ、基本的な確認をしたいんだが、

日本列島だから、縄文海神みたいな外洋進出は有ったが、
大陸系戦乱遺民の半島人が海を渡る可能性は有るのかね?

韓伝からは、箕氏、衛氏、秦懲役民等、中原戦乱遺民に席巻されて、
(縄文的)半島石器人文明が継続した可能性は感じない。

陸続きなのに、この文明差と言うのは大きすぎで、
松菊里みたいな日本並みの後進文明って言うのは、
戦乱遺民の人畜奴隷化で終ってないかね?

まあ、それが先進とする日本の弥生古代史もどうかしてるがwww
0024日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/21(水) 19:03:58.99
可能性は大有り。通行料は大陸系の科学技術。
壱岐対馬を牛耳る倭人が一枚岩ならともかく内部抗争などした時が
列島側に根付いた遺民が権力奪取するチャンス
たとえば倭国乱とかw→甕棺消えて積石が全国へ
0025日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/21(水) 19:41:07.98
九州と畿内に二つ政権があったのさ

倭人伝に登場する九州政権は白村江の戦いで滅びた
0026日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 19:42:38.01
記紀成立が700年以降、日本の王朝は畿内で良いわけで、
それは、出雲、吉備、丹後、越、淡路島、阿波、畿内、近江、紀伊、美濃、関東
等が統合して、300年辺りで奈良纏向を作ったんだろ?

238年時点で、対魏で九州筑紫の卑弥呼は独立国王を名乗った。
卑弥呼は190年から倭国大乱以降の王だ。 
所属国は21国で総戸数7万戸である。 
梯儁の国勢参問した21国の漢字名命名によれば、この中には、
奴国王難升米、都市支国王都市牛利、巳百支国王伊聲耆掖邪拘 がいる。

邪馬国もあるし、臺は曹操の高楼であるから
これをランドマークとした21国表意文字の総称である。
ちなみに、投馬国も半島国馬韓を過ぎた不明の国だったから、表意文字命名である。

しかし、邪馬台国は九州北部の筑紫であり、小国であった。
三国志覇権で忙しい魏は、これを倭王とし金印印綬した。

東夷の大国倭は魏王を後援しているとして魏は三国志の覇王となった。偽計である。
陳寿はこれを、小声で記録するために、短里のような煙幕を張った。

帯方郡から12000里
所属の参問21国7万戸、周旋可5千里
此女王の境界、南は狗奴国付属女王。
帯方郡から南12000里は会稽東治の東(行程中の3000里東行無視)

陳寿は皇帝直属の、文人である。
0027日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/21(水) 19:45:50.24
>>25

正解
0028日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/21(水) 19:51:06.59
>>23
そもそも海人族も弥生文化を持ち込んだ張本人たちであり、縄文とは関係ない。
海人族は江南の沿岸部「倭」からやって来て、稲作や高床式建物を持ち込んだ。
江南の呉の太伯(中原と決別するために刺青をした)の末裔を名乗り、体に刺青があり、海に潜って魚を取ることを得意とした。
これが弥生時代の中国史書に書かれた倭であり、海人族が弥生文化の主体なんだよ。
0029日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 19:54:45.54
二つ政権があったら巨大古墳なんぞ作る余裕ないだろ
んなもん作ってたら国力疲弊してあっという間に攻め滅ぼされる

大王が就任するたびに
新しいのを作らされたんだよ
忠誠心を示して国力減らして反乱しないように
0030日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 19:55:50.95
筑紫、出雲、吉備、丹後、越、淡路島、阿波、畿内、近江、紀伊、美濃、関東
それぞれ有った、この王国政権が、統一の必要を見たのは
魏による、239年公孫氏滅亡、246年半島南部箕氏系韓王朝滅亡である。

軍事外交的統一の必要が生じた。
糸島北岸の卑弥呼の墓は、一年以内のやっつけ仕事で残っていないだろうが
古墳時代の始まりではないのかな?
0032日本@名無史さん
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2019/08/21(水) 20:47:49.83
>>31
銅鐸時代の重農政策から、
徴兵含む軍事国家の成立ではないかな?
対魏で半島進出は必要だった。
 
しかし、徴兵しても
魏軍ごときに瀬戸内海突破や日本海ルート開拓は無理で戦争は無い。 
では、王の力を誇示する古墳でも作るかなw と。
これが、不沈空母日本 の古代富国強兵の事実だなw

馬の移入と鉄の国内生産、
四郡撤退の313年以降は、百済新羅傀儡化で高句麗追討。

畿内説みたいな、朝鮮史忖度で、古代史捏造なんて
ネット普及の今の中学生には無理だぞ?
0033日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/21(水) 21:10:06.12
>>25
白村江じゃなくて、
247年には女王国の伊都に一大率=三国志時代中国の刺史の如し が置かれ
邪馬台国は検閲下に置かれ、主権国家としての外交権が無くなっていた。

伊都は240年には無かったが、247年には、査察の魏史も検閲駐留させられた。
ある意味で、倭人伝西暦の存在は日本の統一史的にタイムリーだと思うよ。
0035日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/21(水) 21:19:19.43
>>34
白村江は開国派の曽我氏、近くは馬子や聖徳太子の招請で
日本で貴族化した亡国の百済皇子と百済移民の豪族を
日本に置いても無益だから、天智天皇が、海軍付けて強制送還した戦いだろ?
日中の植民地で国境が無かった半島と対馬で国境が確立した歴史だよ。
0036日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/21(水) 21:43:30.23
まあ、日本国側は唐とかなりツーカーで、倭国を陥れた感はあるね。
0037日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/21(水) 22:05:40.74
だからライバルがいるのに巨大古墳つくってたら滅ぼされるだろが
巨大古墳を作ってたという事実から統一国家だったことがわかる
0038日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/21(水) 22:07:14.84
畿内スレ、誤爆天才wだが・・・ 向こうはディベートで無意味なんでw

倭人伝には邪馬台国は九州筑紫であると書かれている。
畿内説は、その時の大倭王は畿内に有ったと言っているだけ。

BC200から、青銅の移入は有るが
日本の中心は、出雲、丹後、越、吉備、淡路、畿内、阿波、近江、伊勢、美濃、関東
とか、と 九州が、統合したから成立したんだろ?

238年の九州の邪馬台国は、外交で独立国家を主張している。
これは、筑紫が朝廷に参加していなかったことを意味する。

この筑紫邪馬台国の外交方針否定は、245年の対韓戦檄または247年で否定され
対魏で敵対し、漢四郡撤退や350年付近の楽浪候幽州刺史の高句麗戦で
百済新羅建国に貢献した日本国の富国強兵と一致する。
0039日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/21(水) 22:20:17.20
メイ首相に本国を任せて
イギリス国王が自ら軍勢を率いてアメリカ大陸に渡ったから
話がややこしくなっているわけだ

スジンがアメリカ大陸を鎮圧してからの
ケイコーが凱旋帰国して狗奴国滅ぼしてイギリス本国を鎮圧して
イギリス本国とアメリカ大陸の両方を完全支配体制完成
王子ん辺りで国力に余裕が出て海外出兵
0041日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/21(水) 23:01:22.34
>>37
ライバルといっても、戦争するわけではないのなら問題ない。
それよりも、九州が畿内の体力を削ぐために大きな墓づくりを押し付けたのかもしれないぞ。
0042日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/21(水) 23:10:20.37
豪族同士、王族同士で争っている時代。
こっちが戦争するつもりがなくても
巨大古墳を作って国力疲弊したら
あっちが攻めてきて尾張。
巨大古墳を作っていたということは、攻められる心配がなかったわけで、
強力な一人の大王が支配していたわけだ。

そして各地にその土地ごとに限界いっぱいの古墳を次々に作っていたということは
強力な一人の大王が全国支配していて、
その大王を讃えるために古墳を作っていればよかったということ。
同時期の古墳はぜんぶ、その時代における一人の大王を讃えるためのもの。
0043日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/21(水) 23:19:59.25
つまり同時期の古墳は全て大王を讃えるものであるが、
被葬者はその場所の有力者
ある意味全てが大王の支配地における大王のための墳であるが、
その墳の中で眠るのは在地の有力者が大部分であり
大王自信がどこにいるのかは別。
0044日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 03:12:49.95
関門海峡が河口にしか見えないとかキチガイだろ(笑)
0045日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 05:58:01.34
九州地方の大規模水田開発は、有明周辺の低湿地に水路を引くとか、クリークを掘ってアオ取水するとかではじまった。
しかし奈良ではそれはできなかったので、
水田開発の一環として、ため池を作り、用水路を整備したことから奈良の初期巨大古墳が始まったのだろう。
つまり、ため池掘りの残土をそれらしく整形して前方後円墳に仕立て、残石で葺いた。
そして功績のあった地元大物はそこに葬られた・・・
(やがて形式に流れ、大和朝廷衰退の原因になったが、少なくとも当初は)万事、経済合理性に基づいた公共事業だったわけだ。
0046日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 07:26:51.18
>>44
昔はトンネルだったらしいぞ。
0047日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 08:26:53.76
>>33
>247年には女王国の伊都に一大率=三国志時代中国の刺史の如し が置かれ

刺史の如しであり、刺史が置かれたわけではない。
0049日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 10:01:23.05
一大国の率じゃないの?
0050日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 10:42:17.54
大前提として伊都国は世々王がいる諸国の一つであって女王国ではないということを忘れてるだろお前ら
そして女王国の北限に置かれたのが一大率
魏志倭人伝に明記されている事実を歪曲するな
0051日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 11:14:12.61
使 大倭 監之 自女王國 以北 特置 一大率 檢察諸國 畏憚之 常治伊都國 於國中有 如刺史
王遣使 詣京都 帶方郡 諸韓國 及 郡使倭國 皆 臨津捜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯

畿内説の目線では、伊都国に筑紫または九州北部の国司を置いた。
これは、特に半島ルートの外交を監視している。 で、帳尻は合うんだろ?
まあ、なぜ筑紫が独自外交で郡や皇帝と文通や朝貢してるのかは、無視だろうがw

九州説目線では、なぜ周旋可5千里の自国内に、地方長官の如き将軍を置いて
女王と皇帝や郡との文書や贈答品の検閲が必要か。 と、言うのは謎なわけだ。

しかし、
王遣使 詣京都は、景初二年難升米都市牛利、正始四年 伊聲耆掖邪拘等の二回
郡使倭國は、正始元年梯儁、其八年張政の二回である。
これ、
一大率の検察が有った可能性は、247年の張政だけなのではないかな?
魏史は続くが、247年の張政のこの報告で、邪馬台国外交は終わっている。
0052日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 11:21:27.50
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。諸国は之れを畏れ憚る。常に伊都国を治むる。國中に於ける刺史の如く有り。”

女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を監視している。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。
0054日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 11:56:07.60
>>52
確かに説明どおりだな・・・
伊都国の立場・・・
0055日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 11:58:00.51
つまり女王国は伊都国の南ですね。
0057日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 12:30:26.31
>>52
有能だが、このスレでは嫌われるな(笑)
0058日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 16:40:33.88
自女王國以北 特置 一大率 檢察 諸國 畏憚之 常治 伊都國 於 國中有 如刺史
この一文から読み取るべきは、畿内説でも伊都は九州北部だろ?

一大卒を置いて、伊都で外交交易を検閲するという事だろうが、
自女王國以北 特置 一大率 という事は、女王国は伊都より南だろ?
どこの畿内の女王国だよ?

まあ、九州スレだから、なんだが、
この場合の 自女王國以北 と言うのは、
九州説だと女王国以南は、狗奴国であって勢力圏外で一大卒は治めてない
ってことじゃないのかね。
0060日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 16:48:50.81
頭の病院に行けと言っているんだよ、
どこの池沼なんだ、それと日本の神話?


なぜ中国人(漢人、漢民族)が日本の先住民なんだ


池沼「❓」?
0061日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 16:56:54.01
中国人なのに日本の先住民、
芸能(実際は当事者では関係ない人々)などが広めた話だと言っている人がいたり


例えばwiki『アマテラス』
孫悟空のような人物が描かれていたり、知っている人は知っているw
0062日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 17:13:50.52
数年前の話

AB蔵暴行事件などがあったでしょ、
何か知っている人がいるんだろう
0063日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 18:26:15.98
>>58
>この場合の 自女王國以北 と言うのは、
>九州説だと女王国以南は、狗奴国であって勢力圏外で一大卒は治めてない
>ってことじゃないのかね。

まあそうなんだろ。
0064日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 18:32:15.48
畿内スレ
>>943 日本@名無史さん2019/08/22(木) 15:53:20
>畿内説では、方角は陳寿の錯誤であると きちんと論証してあるから、
>現実の地理とは一致してなくてもまったく問題ない

つまり、キナイコシの>>943が云いたいのは、
倭人伝の行程記事は陳寿本人の錯誤に基づいて書かれているが、
もし、その記述通りに進むとすれば、末盧国東南陸行500里で到る伊都国は、
今、遺跡らしいものは何もないけれども佐賀川上になる。
依って北部九州説はない。 そういうことだ、、、。
0065日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 18:36:24.77
太宰府だろやっぱり
0066日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 18:38:09.14
日本史に出てくるなら亜目多利思比孤=筑紫君だよ

橘氏ってのが古代の太宰府に勤めていた官庁役人
0067日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 18:39:38.19
筑紫は裏切り戦争なったべ(゚∀゚)

いや〜つながるつながる
0068日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 19:07:06.41
>>64
令和現在での発掘で、対馬外交フロントの伊都を糸島または、
早良付近福岡平野西麓以外に求めるのは無理ではないのかな?

当然、末盧國は糸島北岸にしかならないが、
この末盧國は、247年の張政がたまたま卑弥呼の墓を見るため
或いは倭国側が防衛上博多湾を見せなかった、と考えるべき。
博多湾最寄りの伊都まで南東徒歩500里w アホですか?

帯方郡は245〜6年、韓南部と戦争状態にあり
箕氏韓王朝を廃絶し、臣智と言う菅政を敷いた。 韓伝も読んだ方が良い。

245に詔賜 倭難升米黄幢 付郡假授 だが、
当然参戦要請の 檄 が有り卑弥呼はこれに応えていない。

倭人が、皇帝を無視した記録は残らないのではないかなw
これに関する査察が247年の張政である。

歴史の必然を読む、と言うのは考古学と少々違うかもしれない。
しかし、必然には考古学が後から付いてきている。
ここ掘れ、わんわん。
0069日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 21:00:57.76
>>68
>しかし、必然には考古学が後から付いてきている。
>ここ掘れ、わんわん。

まさに、ここ掘れワン状態の、阿波考古学。

女性の人骨出土 犬山天神山古墳(徳島市)

https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/52348696.html?__ysp=5aWz5oCn44Gu5Lq66aqo5Ye65ZyfIOeKrOWxseWkqeelnuWxseWPpOWis%2B%2B8iOW%2Bs%2BWztuW4gu%2B8iQ%3D%3D

石棺からは、ヒスイ製勾玉(まがたま)1点、青銅製の鏡1枚、水晶製勾玉1点、直刀1振り、

鉄鏃(てつぞく)35点、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)8点なども出土。   @阿波
0070日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 21:26:14.94
>>69

でも、泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃんwww
0071日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 22:02:32.73
>しかし、必然には考古学が後から付いてきている。
>ここ掘れ、わんわん。

まさに、ここ掘れワン状態の、阿波考古学。    阿波の遺跡は、他のトンデモ説の遺跡とは、別格!   @阿波


女性の人骨出土 犬山天神山古墳(徳島市)

https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/52348696.html?__ysp=5aWz5oCn44Gu5Lq66aqo5Ye65ZyfIOeKrOWxseWkqeelnuWxseWPpOWis%2B%2B8iOW%2Bs%2BWztuW4gu%2B8iQ%3D%3D

石棺からは、ヒスイ製勾玉(まがたま)1点、青銅製の鏡1枚、水晶製勾玉1点、直刀1振り、

鉄鏃(てつぞく)35点、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)8点なども出土。   @阿波
0073日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/22(木) 23:45:04.55
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない

【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける

【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし
0074日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 00:13:43.71
>>73により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる

なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い

そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった

つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる
0075日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 00:47:27.52
>>71

でも、泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃんwww
0076日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 07:59:17.07
>>73-74
一連の議論にようやく終止符が打たれたか
陸行できない畿内も四国も終わったな
0077日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 08:22:32.49
新提案
関門海峡は仲哀天皇が開削するまでトンネル状の穴門であったとされる。
つまり、本州は陸続きで行けた。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 08:41:51.37
常識的に考えて、陸続きのところを壊して、海峡を作る意味が分からない
陸続きのままの方が便利だろ
0079日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 09:08:02.20
当時は海運が主力。
陸路の整備は奈良時代から。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 11:15:32.43
南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸
自女王國以北 其 戸數 道里 可得略載 其 餘旁國 遠絶 不可得詳
次有 ―列記21国― 此 女王境界 所盡 其 南有 狗奴國 不屬女王
自郡 至女王國 萬二千餘里

簡略化したが、これが240年梯儁の 魏による初探検の記録である。
(中央一文は、陳寿の補足だが、余計わかりにくい。削除可w)
―列記21国―、狗奴國 は、印綬国の国勢参問の際、和音国名を漢字化命名したもの。
投馬國は馬韓を過ぎた国(当初は倭人国認識)可5万戸、後の弁辰韓
邪馬壹國は21国(韓伝の国名に所属国を列記を踏襲)7万戸で、
女王所属国、邪馬国の女王宮を見てこれをランドマークとして命名。
(臺は、曹操の楼閣を意味する字 として魏書では改訂した)
この仮称の採用は、陳寿が初探検者、梯儁の命名を尊重したものである。
邪馬台国、投馬國と言う国名は歴史上これが初出で他には使われたことが無い。

ついでだが、邪馬台国は概ねで筑紫国にある、21国であり、
南至 邪馬壹國 女王之所都 は主語が並列している。
投馬國から水行十日で邪馬台国に入国し、さらに陸行一月で女王宮に到達した。
この行程が240年梯儁の満二千里の女王宮に至った行軍であり、
247年張政の倭人船便乗の行程は10500里の伊都に到達で終っている。

邪馬台国、投馬國が、国名である以上、
前文の都市間の里程で示された行程とは直列出来ない。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 11:48:16.56
>>76
>陸行できない畿内も四国も終わったな


「陸行一月」

陸行一月区間(旧土佐街道 別名土佐浜街道)  途中の河川は川船で渡河

投馬国(土佐国宿毛) → 途中、魏使一行 阿南市若杉山辰砂採掘現場視察 → 女王国(阿波国鮎喰川下流域集落群)

距離約350km 歩行速度11.7km/日   @阿波
0082日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 12:30:18.10
>>81
でも、泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃんwww
0083日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 15:16:46.56
どう考えても瀬戸内から日本海側に出られる方が便利だろ
関門海峡開削はスエズ運河
0084日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 16:28:43.79
だから魏志倭人伝では宮崎県都万まで鹿児島周りで水行なのかもしれないな。
0085日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 16:54:47.66
>>83
神功皇后の頃だな
0087日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 20:46:53.32
畿内スレ497 >>943日本@名無史さん2019/08/22(木) 15:53:20.
>畿内説では、方角は陳寿の錯誤であるときちんと論証してあるから、
>現実の地理とは一致してなくてもまったく問題ない

つまり、このレスでキナイチュー>>943が云いたいのは、
倭人伝の行程記事は陳寿本人の錯誤に基づいて書かれているが、
仮にその記述通りに進むとすれば、末盧国東南陸行500里で到る伊都国は、
今遺跡らしいものは何もないけれども、佐賀川上と云うことになる。
依って北部九州説はない・・・。こういうことだ。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 21:02:49.81
新九州説:佐賀川上ルート:
(不彌国までの方角一致、里数も短里≒韓倭の里換算で一致)

狗邪韓国〜対海国〜一大国までは省略
・一大国(壱岐)ー末盧国(唐津市中原津)は渡海+遡河計55q(700里)で、千里はまあOK、
・末盧国ー伊都国(佐賀川上)は東南陸行して到る38q(500里)でドンピシャ、
・伊都国ー奴国(佐賀市街)は東南方向至る7.5q(100里)でドンピシャ、
・伊都国(佐賀川上)ー不彌国(彌根郡吉野ヶ里)は東に行く11q(145里)で、其の四捨五入の100里は適切。
0089日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 21:22:51.64
畿内スレの九州説って言うのは、話にもならんのだが
ザラコク説の事なのではないかな?

伊都国は糸島早良福岡平野西麓以外には無いわけで
247年に倭人船便乗で来日した張政の上陸地、
末盧国がどこであろうが、対馬航路の常用帰港地では有り得ない。

と言うより、帰港は風や潮任せで、着けば沿岸を母港に帰る、だろ?
平戸や呼子が着けやすいとして、出雲でも糸魚川でも帰れるんだよ?

奈良に行くために、なんで松浦半島で下船だよ? 

瀬戸内海に自前の外洋船で入れないの? 
何が卑弥呼と狗奴国との戦争応援だよ? 中国皇帝ってアホなの死ぬの?

九州説なら、博多湾入港で当たり前で、どこからでも有って良いわけだけどw
0090日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 21:39:20.47
畿内や四国だと言ってる奴らは偏狭なナショナリズムで主張しているだけ
それを半島が倭国だったと認めたくない朝鮮シンパに利用されているのが今の構図
いい加減に気付いてほしいよね
0091日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 21:40:53.05
>>90

碌な集落遺跡の無い九州に、邪馬台国など在る訳がない。  以上御終い。   @阿波
0092日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 21:45:20.70
>>87 追加説明
今、遺跡らしいものは何もない佐賀川上と云うけれども、
航空写真により、古道に囲まれた国衙らしき遺構(250m×200m)が見て取れる。

その前に、ここから東へ約3q、佐嘉川を東へ渡った大和町久池井で発見された肥前国庁跡を説明したい。
この庁は、8世紀前半に建設された南北110m×東西80mの国府跡である。
其の中心軸線は真北から7度西へ振っている。
この国庁名は肥前風土記には記述がなく、風土記以後の建設とみられている。
なお、和名抄には乎岐国府(オキ・乎伎国府)の別名が有り、今の小城市方面に古国府があったと推定されている。

で、この古国府(オキ、乎伎国府)こそ、上に述べた佐賀川上の遺構(250m×200m)だったのではないであろうか??。
ちなみにこの佐賀川上の遺構らしき敷地区画の中心軸線は真北から約10度西偏である。
仮に中心軸線が北極星を指すものであったとすれば、
先の肥前国庁の軸線とは約3度の差となり、其の歳差から、
古国府(オキ、乎伎国府)の方が約600年古い設計で、西暦150年頃までさかのぼる遺構であったということになる。



この遺構から
0093日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 22:06:15.14
この遺構からさしたる遺物は出土していない。
佐賀県教育委員会のデータによれば、現状では古代遺物の散布地となっているのみである。
先に述べたごとく、佐賀川上の地は西暦150年頃まで遡り得る古い国衙であった可能性が大である。
こうした仮説想定の下に1〜2のトレンチを入れてみれば、必ずや貴重な発見があるものと確信している、、。、
0094日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/23(金) 22:06:32.27
240年に和人の音で国名が漢字になった。
この状況を想像してもらいたい。

247年に張政が倭人船便乗で知った寄港地の都市名だが
末盧国は松浦半島ではない。

伊都は女王国所属大夫の21国には無い(伊都国に王は無い)

丗有王皆統屬女王國 郡使 
往來 常所駐

わかりにくい主語が並列しているが、
女王国所属王は皆、伊都を往来している。
247年の郡師は、伊都に常駐させられたのである。

邪馬台国はヤマトとは関係ない。
投馬国可5万戸は、馬韓を過ぎた半島国。 
弁辰韓は5万戸との情報は既知。
0095日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/24(土) 07:16:20.63
>>74
投馬国は九州山地で隔てられた宮崎平野、邪馬台国は筑後の山門だな
0096日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/24(土) 09:26:58.10
(書き直し・抄)
佐賀川上の推定伊都国と、吉野ヶ里の推定不彌国の中間に位置する大和町久池井には、
8世紀前半にできた国府(現・肥前国庁跡110m×80m)がある。
その中心軸線は北7度西偏である。
そして、和名抄に云う古国府(オキ、乎伎国府)は、佐賀川上に残る区画遺構(250m×200m)だったのであろう。
この中心軸線は北約10度西偏である。。

したがって両者の中心軸線には約3度の差があるが、
仮に其の軸線が北極星を指すものであったとすれば、その歳差から、
古国府(オキ、乎伎国府)の方が約600年古い設計で、西暦150年頃までさかのぼる遺構であったということになる。
0097日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/24(土) 14:08:31.95
( ^ω^ ) 邪馬台国は九州にあったのか畿内にあったのかどっちなの?

わかりやすく教えて
0098日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/24(土) 14:10:24.86
「徳島県小松島市・新居見遺跡 縄文晩期の土偶発見、県内初」

徳島県埋蔵文化財センターは、四国横断自動車道建設工事に伴い昨年9月から小松島市新居見町山路の新居見遺跡を調査し、

古墳時代後期(6世紀後半から7世紀初頭)の古墳と小型埋葬施設の墳墓群を発見した後、

さらに下層を調べたところ3月に縄文時代晩期(2500〜3000年前)のものとみられる土偶1体が出土したと発表した。 県内で縄文時代の土偶が確認されたのは初めて。

縄文時代の土偶はこれまで、全国で徳島県だけが未出土だった。

出土した土偶は、腹から脚にかけての下半身のみで、高さが7・6cm、厚みは最大2・5cm。 へその部分はベンガラで赤彩されていた。

一般に土偶は女性を模したものが多いが、出土した土偶の一部から女性の土偶とは言い切れない。

脚の壊れた部分やX線写真の分析から、予め頭や脚などを部位ごとに作り、各部位のつなぎ目に凹凸を作り、胴体を中心に差し込んでつなぎ合わせる方法で作ったとみられる。   @阿波
0099日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/24(土) 14:13:32.15
>>98
でも、泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃんwww
0100日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/24(土) 14:14:07.09
畿内にあったのになぜ九州を歩くの?
そんな馬鹿なことさせちゃあ、中国人怒るよ
0101日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/24(土) 15:19:41.24
>>100
え?笑わそうとしてるの?
0102日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/25(日) 01:25:18.76
>>97
魏の使いは佐賀の末廬国で船を降りて歩いて伊都国に行った
もし邪馬台国が畿内なら佐賀で船を乗り捨てる理由は無いよね
目的地が九州内だから船を降りたんだよね
0103日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/25(日) 07:22:50.34
>>102
その通り、
目的地が九州内だから佐賀・末盧国(唐津)で船を降りた・・、という考えはとても合理的だ。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/25(日) 07:44:52.38
>>102
え?笑わそうとしてるの?
0105日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/25(日) 07:56:11.09
>>104
横からその通りだ、笑顔で笑ってやってくれ。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/25(日) 08:03:44.21
仮に佐賀だとしたら、水行で有明海に回り込むのは面倒だな。
0107日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/25(日) 08:04:27.47
【肥国】

倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
古くは出雲がその盟主であったが、国譲り以降は博多湾玄界灘勢力である天津神が支配する筑紫が盟主となり、対馬海峡の交易と中国との外交は一貫して筑紫が独占していた。
筑紫の王族は天津神として九州や本州の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などが想定される。
免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化する。

筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分割される。
卑弥呼が筑後山門の出身で、筑紫も含めた倭国女王になったからかもしれない。

肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲梟師(くまそたける)の墓は肥前河上大願寺にあるという。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
卑弥呼、壹與、熊襲梟師、田油津姫らはいずれも肥国王家であり、倭国王となる資格を持っていたが、最終的に天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、筑紫倭国の内乱を天孫族から見た呼称であったと考えることができる。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/25(日) 12:55:13.66
>>107
根拠がないから却下な
0109日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/25(日) 14:04:36.78
>小碓尊の二太刀目が急所にきまって倒れた熊襲は息もたえだえながら
「我こそは日本一の武勇者として誇りつづけたが、小碓の尊こそ誠に日本一の武勇者なれば、今後は日本武尊と尊称し奉る。
我は九州全土をわが家の住いとせしも、これが最後となったこの川上の地を記念して
姓の熊襲を改めて川上タケルと称する」、
と遺言して息を引き取った。

>以来、熊襲タケルを、川上タケルと呼ぶようになったという。
熊襲タケルの墓は、一般には現・健福寺の境内にあるといわれているが、
その謂れの元は、健福寺が真手(まて)山(大願寺の北2qほどの山中)にあった時代のことであるので、彼の地一帯を調べる必要がある。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/25(日) 14:41:13.47
なんで負けた方が名前をくれるんですかね
そんな名前いらないだろうし
0111日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/25(日) 16:00:13.74
>>104
負け犬が引きつった笑いを浮かべててワロタ
0112日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/25(日) 16:15:08.41
タケルが倭王の称号の一つだったのだろう。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/25(日) 16:51:08.80
>>111

>>100が悔しがってるんだろ
そっとしといてやるのがオトナだぞ
0115日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/25(日) 17:35:05.01
文盲が悔しがってて草www
0116日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/25(日) 20:11:32.33
>>109
まあ、大願寺が肥国の中心の一つであったことは間違いない。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/26(月) 18:32:58.68
獲加多支鹵(わかたける)か?

応神天皇の異名なんざ誉田分(ほむたわけ)天皇やぞ

これバカ天皇って暗喩じゃん(゚∀゚)

大事な田を分けるバカもんのことを田分け(タワケ)って呼ぶだ

誉めるべきタワケたバカって意味やぞ
0118日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/27(火) 10:33:25.38
ワケとかワカは「財産や地位を継ぐ人」と言う意味ですよ
だからそれなりの地位に着いたときまだ親が生きてるってそれだけの話
0119日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/27(火) 12:36:47.88
別けは分家の意味だと思っていたが、若と同じか。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/27(火) 13:27:04.26
>>117
ニッポンには「戯(たわ)ける」という言葉があるんだよマヌケ
0121日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/27(火) 17:56:27.43
文字が共有されだした600年以降の概念で倭人伝の話し、も いかがなものかと思うが、
400年程度には、天皇が中国語名を使用した形跡は有る。

倭人伝は、240年の和音の国名21国が、漢字の当て字で記されたという
日本言語の歴史上? 中国語文献上なのだが稀有な考古価値を持っている。
また、人名の傾向も
女王/卑弥呼 狗奴王/卑弥弓呼
奴王/(難)升米  都支王/(都市)牛利 巳百支王/(伊聲耆)掖邪狗
載斯烏越/該当国名無し、卑弥呼直属家臣?

官、247年張政の聞き取り漢字化
對海/卑狗 卑奴母離 一支/卑狗 卑奴母離
末盧國/官無し、載斯烏越船の母港?
伊都/爾支 泄謨觚 柄渠觚 奴/兕馬觚 卑奴母離
不彌/多模 卑奴母離(卑奴母離は現地任命の官ではなく同行者の可能性が高い)

240年梯儁の聞き取り漢字化
投馬国/彌彌 副日彌彌那利 邪馬壹国/伊支馬 彌馬升 彌馬獲支 奴佳鞮

倭人伝論争で、
漢字記録しだした奈良から戦国以降の地名が
これら和音名詞の存在を無視して、記紀の地名と
倭人伝の和音名とが似ているというのは、全く評価する気がしない。

九州言語の九州名の漢訳であり、筑紫に結び付くものも無い。
倭人伝行程は、240年から247年までの九州紀行である。
0122日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/27(火) 18:22:19.06
書き忘れたが、
(狗邪)韓
對海 対馬
一大 一支
投馬
(邪馬)臺
は表意文字であり

一般化していない段階での
中国語化した、地名、固有名詞の当て字への
補足的表意文字である。
0123日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/27(火) 18:34:30.51
伊都は意訳か音訳か?
0124日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/27(火) 18:43:18.64
240年梯儁の聞き取り漢字化
投馬国/彌彌 副日彌彌那利 邪馬壹国/伊支馬 彌馬升 彌馬獲支 奴佳鞮
の 漢字化 について

彌については箕氏朝鮮の? キだけどミの影響は否めない
彌国のミはミミ、その那利。

半島は基本的には、馬韓、マ国である。
辰国は移民国で王は月支国に居る。
中原遺民と倭の遺民で国体は無い。

240年の投馬国は、後の弁辰韓5万戸である。

言語学的宿題は、中学生ネラー諸君の夏休みの研究発表で良い。
0125日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/27(火) 19:01:25.97
>>123
東南 陸行五百里 到伊都國 有千餘戸 官日爾支 日泄謨觚柄渠觚
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐

ここで、到の文字が使われているが
247年の張政の行程は、伊都で終っている。

丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐
伊都には、女王所属王皆がが往来していて、
郡使は、検閲を受け駐留させられた。

張政は247年に、これを査察したわけで
魏と邪馬台国の交流は、これで終った。

247年の伊都は筑紫の首都機能を示唆するが
240年の女王所属の21国には無い。

これは、この間の歴史変動であっても良い。

313年、漢四郡撤退から、
350年、百済新羅の建国、対高句麗、牛馬の移入は
記紀では、どれほどの文明革命として記録されているのだろうか?

だから、銅鐸消えて、古墳時代だよねw
現代中学生には、謎も糞も無いんだが?
0126日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/27(火) 19:03:55.99
伊都は紀元前後から王墓が作られ続けた王都であり、それはおそらく倭国大乱より前から変わらなかっただろう。
0127日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/27(火) 19:17:42.19
>>126
碌な集落遺跡の無い糸島に、王都など在る訳がない。  以上御終い。   @阿波
0128日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/27(火) 19:18:31.01
王は奴王もしくは委奴国王であり、委と奴ってのも、有っても良いがw
伊国、伊王と言うのは、247年の伊都国の一大卒からだ。

日本は、239年の公孫氏滅亡、246年の箕氏韓王朝滅亡を見て
どうでも良かった九州防衛の修正や富国強兵政策への転換、これを行った。

廃絶した公孫氏、箕氏韓王朝、後に四郡の遺民から
軍師を迎えたことは言うまでもない。

縄文海神の日本は、帥升に見るように人さらい国であるwww
0129日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/27(火) 20:11:51.09
海神は南方から稲作を伝えた弥生人だ。
そしてアマツカミ(海の神)と呼ばれた皇祖だ。
0130日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/27(火) 20:23:46.28
>>129
それ(稲作)が紀元の2600年以前であることは、確定した。
しかし、稲作の普及と縄文人の消滅、弥生人の台頭は一致するか?

縄文海神の子孫繁栄は、長期的な
外国からの移民、強制連行で成立してないか?

土偶、子孫繁栄の教科書? そんなもん要るのかよ?

日本列島の縄文人の歴史には女性が生まれなくなる歴史があるだろ?
0131日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/27(火) 20:30:57.30
>>127
でも、泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃんwww
0132日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/27(火) 20:32:49.21
しつこく天津神と海神、海人を結びつけようとするキナイコシ
0133日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/27(火) 20:54:41.25
どうみてもキナイコシではないだろ
0134日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/27(火) 22:56:15.94
>>133
必死だな(笑)
0135日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/28(水) 12:16:50.61
伊都国は女王国に属する諸国の一つで一大率に管理されている国
0136日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/28(水) 14:42:06.78
東南 陸行五百里 到伊都國 有千餘戸 官日爾支 日泄謨觚柄渠觚
丗有王皆統屬女王國 郡使 往來 常所駐

丗有王皆統屬女王國は、これで一つの主語。 女王共立の各王は伊都国を往來している。
郡使は、伊都国を往来していないから、ここに常駐させられたことを意味する。

そもそも、240年の梯儁は印綬で皇帝の文書賜遺之物詣女王を携え、
検閲や文書を開けられたら戦争を始めなければならない行軍である。

海賊等と戦える軍を率い、上陸は博多湾だろうし直接王宮に向かい
伊都には常駐も検閲もさせられないし、入ってもいない。
一大卒が無かったかは知らんが、たいした軍隊では無かったのではないかな?

ちなみに『到』伊都國であるが、
到と至は字の違いだけではなく、音も違う。 
明らかに別の意味を持つものであり、到は到達したという意味が勝る。
直列した行程はここで終わっている。

247年の張政は、伊都駐留でここを往来する壹與と難升米に檄告喩して役目が終わった。
丗有王皆統屬女王國 郡使 往來 常所駐 は この説明である。
大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺 が帰国船である。
0137日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/28(水) 15:46:07.03
>>136
>到は到達したという意味が勝る。
>直列した行程はここで終わっている。

一般的な解釈はそうだが、では「到る狗邪韓国」の場合も、ここで直列の行程が終わっているのかな、いかが??
0138日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/28(水) 16:30:46.88
>>137
循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 到其北岸 狗邪韓國 七千餘里
始度一海千餘里 至對海國

到其北岸 狗邪韓國で、とりあえず倭に到達したという認識なのかと思う。
主語の理解で、倭人伝は其や此、之と言う代名詞が何を示しているかを読むのは非常に重要。

また、循海岸水行が終わって、始度一海
この 始度一海 によって、到達後の新たな行程と直列している。

到伊都國 については、
東南 至奴国 百里 が続き、これには動詞が無い。 つまり、行程として書いてはいない。
東行 至不彌國 百里 は、これまでの直列行程の語順では、東行 百里 至不彌國、違いは
東行したら不彌国が有る ということで、奴国と並列した伊都近隣国の紹介である。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/28(水) 17:10:06.59
>>138
>到其北岸 狗邪韓國で、とりあえず倭に到達したという認識なのかと思う。

倭(倭地)に到達したと思ったら○○韓国(韓地)だったというのは、いささかぎくしゃくの感ありとおもうが・・。

また、東南 至奴国 百里 には動詞が無いことが特徴で、東行 至不彌國 百里 は動詞のあることが特徴で、
その両者が並列というのも、聡明な陳寿の筆としてはすっきりしがたいのであるが・・。
0140日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/28(水) 17:44:32.82
>>139
確かに韓南岸に倭地が有る、と言うのはおかしい。
韓伝の書かれた246年の郡による韓王朝廃絶、制圧後の280年辺りでも、
それ以降の史書でも、この240年〜247年の記録が
馬韓、弁韓、辰韓は南を倭と接するという誤解釈の原因になっている。

魏が帯方占領直後、240年の梯儁は、弁辰韓5万戸を投馬国と仮称した。
辰韓が秦遺民であるのに対し、弁韓は鉄青銅移入の倭人の植民も混ざっていた。

公孫氏も漢四郡もこの地は不可触である。
正常に記録されなかった原因は国家の成立も阻まれ制圧されていないからである。
馬韓、辰韓には王政が無くなり、臣智と言う官の統治下に置いた。
弁韓はそのままである。

魏は247年に、卑弥呼との同盟の間違いに気づいたが、
これで東夷を放置し、三国志の覇者へと前進したが、
313年韓四郡は撤退に追い込まれる。

記紀、三韓征伐の嘘で、実は高句麗は中華の楽浪候、幽州刺史であるが、
350年までに、日本が新羅百済を後援して、立国したのは間違いない。

ここからが、馬の移入と鉄の国内生産化で、400年に倭の五王の半島利権外交が始まる。
邪馬台国論争は、東夷の古代史を見えなくしてるだけなのではないのかな?
0141日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/28(水) 21:53:36.87
>>139
ネトウヨ化してしまいw 本論である文法の話を忘れてた。 スマヌ。

東南 陸行五百里 到伊都國 有千餘戸 官日爾支 日泄謨觚柄渠觚
丗有王皆 統屬女王國 郡使 往來 常所駐

東南 至奴国 百里 官日兕馬觚 副日卑奴母離 有二萬餘戸
東行 至不彌國 百里 官日多模 副日卑奴母離 有千餘家

奴国に移動する為の動詞が無い事
東行すると百里で不彌國 なのであって、陳寿の文章には一切疑義は無い。

書写で間違いが有るなら壱岐の、一大国は一支国では無いか?
という部分だけである。 

これは、壱岐だろ?
0142日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/28(水) 22:29:47.10
日本古代史の結論を記紀に迎合させたい、という意向はよくわかる。

しかし、300年以前の九州を何も知らないで、九州起源の記紀は意味が判らない。
時系列が明らかな邪馬台国に、仲哀天皇も神功皇后も三韓征伐も有り得ない。

倭人伝により、247年以前に九州が統一日本であったことは有り得ないのである。
公孫氏と箕氏韓王朝の滅亡で、
BC200年以来の日本の青銅器輸入に支障が有ったという事実は存在する。

公孫氏や箕氏韓王朝から軍師を迎えた日本が、
対魏で防衛体制に入るのは当然である。

数年前に、夏休みの研究で、現代中学生が見て感じたことだが
単純な歴史の必然を無視するのが、考古学なのかね?

徹夜すれば、話題の邪馬台国? 空白の3〜4世紀、模造紙2〜3枚で発表可能だよw
大学生の論文なら、ソースは日本史スレだぞwww
0143日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/28(水) 22:51:43.19
はっきり、言っておくが
邪馬台国論争で、真実を知るという事は
残念過ぎる、のではないだろうか?

歴史に関する、ホントの事って、
自他ともにどうでも良い、五ちゃん認定のネトウヨ以外が、
ホントの事を言っちゃってても良いのかな?

邪馬台国論争は解決しているが、よゐこ限定の、
中学生の夏休みの宿題向けなのではないのかな?
0144日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/28(水) 23:20:31.02
魏志の東夷伝読んでるだけでも、一般に言われてることと
東夷伝の記述が何か違うと思うことは多々あるんだよね。

九州か畿内か阿波かは決着は付いてるし、後は金と時間の掛かる発掘
頑張ってねと思うだけ。日本よりも半島での発掘の方が興味あるけど、
現在の半島情勢を考えると自分が生きてるうちには無理かなと思う。
古墳とかブルドーザーで壊しちゃうんでしょ。

スレがソースなのが嫌なら ttp://tsukudaosamu.com/ とかでもいいんだお(^ω^)
0145日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 02:01:22.74
>>143
おまえは「こくごドリル2ねんせい」から日本語を勉強し直せ
0146日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 06:42:16.07
>>145

その通り。   日本語を勉強し直せ   @阿波
0147日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 06:59:50.49
>>135

そう信じ込みたいのだね。
可哀想に。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 07:08:37.91
>>135

その通り。   @阿波
0149日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 09:39:04.69
>>146-148
でも、泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃんwww
0150日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 09:44:45.84
伊都国は240年の女王共立21王の国としては名前が挙がっていない。
247年までの間にできたか、いずれかの国に含まれるものかもしれない。

南東百里の奴国2万戸に対し千戸である。
奴国は福岡平野の大国であろうと推測できるから
伊都は、早良あたり、福岡西麓から今宿辺りを想定できる。

一大卒が有り、諸国がこれを畏憚するわけで、隣国奴国の2万戸に対する
千戸という小ささは、畏憚に値するとも思えず、一大卒の一部隊の数ではないか?
後世(九州起源後付けの記紀以降w)に怡土城が出来るが、
この付近を古代山城とする、軍事都市である可能性が高い。

238〜9年公孫氏滅亡、245〜6年箕氏韓王朝滅亡。
これを受けて、日本国内で防人を集め作られた防衛部隊だと推測する。
魏と女王国の交流は247年で終っている\(^o^)/オワタ
0151日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 09:49:06.41
「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=大率)を畏れ、気を使っている。
(大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

結論
つまり女王国の北側に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を監視しているということ。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 11:46:03.01
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

「女王国(を含めたそこ)から北の諸国には、(女王卑弥呼が)特別に一大率を配置して検察させており、諸国は之(一大率)を畏れ憚っている。
(一大率は)伊都国で(女王国から北の諸国を)常に治めていた。
(その様子は)魏で(皇帝が)刺史(を州に派遣し検察させて洛陽で治めているの)と同じようだ」の意味となる。

女王卑弥呼が一大率を任命して治めさせているのは自女王國以北(女王国を含む)の対馬海峡の国々である。
女王国が伊都よりずっと東の畿内にあったら、一大率が支配していたのは畿内とその北である若狭湾沿岸になってしまうが、伊都に置かれていたという記述と齟齬を生じる。
つまり女王国は伊都国を含まなくてはいけない。
女王国以北はおよそ里程や概要を記すことができるとされているが、里程が記載されているのは対馬海峡と福岡県内の国だけである。
すなわち女王国以北(女王国を含む)は伊都から北であり、女王国(邪馬台国)が伊都国を含むことを示している。

倭に近い文化を持っていた百済には、大率や徳率などの中央官僚の官職があった。
邪馬台国では中央官僚は大率一つだけだったので一大率と魏志倭人伝に書かれたわけだ。
都から対馬海峡の国々を検察に出かける様子が、刺史のようだとされたのだろう。

「刺史」・・・地方を検察する官僚
「大率」・・・百済などにあった高級官僚の役職
0153日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 12:10:14.19
三国志時代の刺史の概念を過小評価しすぎ。 伊都は千戸。

畿内説であれば、畿内政権が伊都に筑紫総督府を置いた、が成立する。
しかし畿内説で女王国以北に伊都があるというのは成立しない。

女王国=邪馬台国は
南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸
の位置にあり

次有 ―列記21国― 此(21国で全てで)女王境界所盡
21国で構成される7万戸である。 概ねで筑紫です。

これは、東夷伝 前節
韓伝の馬韓54国列記10万戸、弁辰韓24目列記5万戸
の書式を、踏襲している。
其南有 狗奴國 不屬女王 自郡至女王國 萬二千餘里 である。

自女王國以北 特置一大率
この場合の、自女王國以北は、其南有 狗奴國 不屬女王
であるから、女王国以南は、一大卒の勢力圏に無いことを言っている。

これは、日本史における熊襲征伐が半島進出より遅れている
と言う事実と一致する。
日本は四郡撤退の313年以降、全力で半島進出し、
百済新羅の建国を後押しし、牛馬の移入と鉄の国内化に成功している。

魏と同盟、印綬の卑弥呼は190年から247年まで筑紫に存在したが、
この大倭王では有り得ない。 統一前の九州の女酋長である。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 12:57:10.05
後世から見れば本州の統一前だが、それでも九州北部の多数の国邑を束ねて代表した倭国女王だよ。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 13:23:56.05
>>152
ちゃうで「以北」は北限という意味やで
>>151が書いとるように女王国の北限に一大率を置いて、伊都国の王を傀儡にしとる(伊都国王を差し置いて一大率が伊都国を治めとる)と魏志倭人伝は伝えとるんやで
0156日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 13:32:09.18
>>153
筑紫総督府なんてもんはこの世界線には存在しとらんで
あるのは筑紫都督府
しかも中華圏の文献には存在せず、日本書紀の廿七巻 十一月丁巳朔乙丑に
「百濟鎭將劉仁願、遣熊津都督府熊山縣令上柱国司馬法聰等、送大山下境部連石積等於筑紫都督府。」
”百済進駐軍の将 劉仁願は熊津都督府熊山県令上柱国の司馬である法聡らを派遣して、大山下の境部連石積ら百人を筑紫都督府に送り返してきた。”
という一文があるだけや
0157日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 16:19:58.87
>>154

碌な集落遺跡の無い九州北部に、多数の国邑を束ねて代表した倭国女王など居る訳がない。  以上御終い。   @阿波
0158日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 16:21:17.22
自女王国以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絕不可得詳。
(以下次有りとは、女王国の次隣りに斯馬国有りの意。以下同様にして○○国の次の隣りに××国有り)
次有斯馬国、次有已百支国、次有伊邪国、次有都支国、次有弥奴国、次有好古都国、
次有不呼国、次有姐奴国、次有対蘇国、次有蘇奴国、次有呼邑国、

(次の隣りには華奴国と蘇奴国の2国が並んでいるの意)
次有華奴蘇奴国、次有鬼国、次有為吾国、次有鬼奴国、次有邪馬国、次有躬臣国、
次有巴利国、次有支惟国、次有烏奴国、次有奴国(奴国には、伊都国東南の奴国と次有り奴国の2国あり)、

(以上で女王国の「国境」が尽きるではなくて、以上で女王の「覇権、権威の境界の範囲」は尽きる)
此女王境界所盡。

(その女王の覇権、権威の境界の尽きるところの南に・・)
其南有狗奴国、男子為王。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 16:27:50.83
以北の解釈がおかしい。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 16:57:59.46
倭人 在帶方東南 大海之中 依山㠀 為國邑 舊百餘國 漢時 有朝見者
今(魏時) 使譯(梯儁、張政の二回) 所通 三十國

從郡至倭 247年 張政の行程
↓― 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 七千餘里
到 其北岸 狗邪韓國
↓― 始度一海 千餘里
至 對海國 有千餘戸
↓― 又 南渡一海 千餘里・瀚海
至 一大國 有三千許家
↓― 又 渡一海 千餘里
至 末盧國 有四千餘戸
↓― 東南 陸行五百里
到 伊都國 有千餘戸
以上、動的な直列行程、里程積算合計満五百里

東南 至 奴國 百里 有二萬餘戸
東行 至 不彌國 百里 有千餘家
奴国の文節には動詞が無い。 
前文までの行程とは直列しない。
この中、伊都までで墓を見て女王宮には向かっていない。

こういうものに、現代語訳は要らない。
0161日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 17:06:07.68
「自女王國以北 特置一大率」

「自女王國以北」とは、このフレーズが出る前までに登場した国々であって里数が書かれている国のこと。
対海国(千余里)、一大国(千余里)、末盧国(千余里)、伊都国(500里)、奴国(100里)、不彌国(100里)、邪馬台国=女王国・・・(自郡至女王国萬二千余里)の7国。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 17:07:43.11
240年 梯儁の印綬行軍日程と邪馬台国の国勢説明
(投馬國 邪馬壹國 は国名であり里程で示せる行程とは違う)

南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸(官、陳寿の補足、一文削除)
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里
0163日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 17:11:19.41
>>161
その女王国だけ不自然だよ。
距離もなしか?伊都国もしくは不弥国で一万二千里の大部分を使い切るということだろう。
そして邪馬台国は7万戸の大国邑だ。
奴国二万戸の隣に七万戸を入れる余裕はあるだろうか。
そもそも邪馬台国と投馬国だけ別に書かれており、この二つだけは領域国家を表すのだろう。
それならば、それは奴国を含むとしか考えられない。
(わずか千五百里の位置に二万戸と七万戸は並べられない)
0164日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 17:28:38.05
>>163
>その女王国だけ不自然だよ。

この「自郡至女王国」の語句が登場するまでに出てきた女王のいる国は邪馬台国だけであるので、
邪馬台国=女王国でなんら不思議ではない、また文の流れからいっても当然である。
なお、「此女王境界所盡」の女王は、文字通り「女王(いわば女王グループ)」であって「ザ・女王国」ではない。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 17:29:18.33
>>163
>(わずか千五百里の位置に二万戸と七万戸は並べられない)

その通り。   @阿波
0166日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 17:35:35.22
>>164
つまり奴国とかを女王国に含めてもよいということ?
0167日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 17:46:23.78
>>166
・邪馬台国=ザ・女王国
・女王=親女王グループの国々(対海国から其の余の傍国の最後の奴国まで30国のこと)

つまり伊都国東南の奴国や遠絶傍国の奴国は親女王グループに属してはいるが、ザ・女王国の国内に在るのではない。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 17:49:29.87
>>167
>つまり伊都国東南の奴国や遠絶傍国の奴国は親女王グループに属してはいるが、ザ・女王国の国内に在るのではない。

その通り。   @阿波
0169日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 17:50:50.84
じゃあザのグループは空っぽになってしまう。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 17:53:39.99
>>169
>じゃあザのグループは空っぽになってしまう。

空っぽになんかなる訳がない。  旧吉野川流域・鮎喰川流域のメンバーが大勢いる。   @阿波
0171日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 18:08:21.32
>>169
>じゃあザのグループは空っぽになってしまう。

なんかかんちがいしてないか、うちわけは以下の通り。
1.ザ・女王国・・・邪馬台国の別名
2.親女王グループの国々・・・邪馬台国の女王と親しい対海国から其の余の傍国の最後の奴国まで30国のグループ。つまり狗奴国以外の30国。
0173日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 18:26:45.53
>>172
つまり卑弥呼は、旧吉野川流域・鮎喰川流域のメンバーに共立された女王だ。   @阿波
0174日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 19:02:07.74
【魏時の所通 30国とは】

240年梯儁の参問を漢字化 女王共立所属国=邪馬台国可7万戸 の21国
斯馬國 巳百支國 伊邪國 都支國 彌奴國 好古都國 不呼國 姐奴國 對蘇國 蘇奴國
呼邑國 華奴蘇奴國 鬼國 為吾國 鬼奴國 邪馬國 躬臣國 巴利國 支惟國 烏奴國 (奴國)
此 女王境界所盡(これが周旋可五千餘里の筑紫)と、

帯方郡 南至(()内表意文字)
(投馬)国→邪馬(臺)国→其南不属女王、狗奴国 
この3国は、馬(韓)同様、国の概念

247年倭人船便乗での立ち寄り地名、(張政の和名聞き取を漢字化)
狗邪(韓)國→(對海)國→(一支)國→末盧國→伊都國/不彌國 奴國=構成国に重複

これが、陳寿お約束の 所通30国である。
案外細かいw
0175日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 19:06:56.90
>>172
ああわかった、そういう解釈なのか。此れにはややこしい事情がある。
倭人伝は、暦年を追って書かれている。このため時代を経るごとに女王の呼び名が変わる。以下参照。

正史『三国志』魏書・東夷伝「倭人」(魏志倭人伝)
倭人在帯方東南大海之中、依山島為国邑。旧百余国。
漢時有朝見者。今使訳所通三十国。従郡至倭〜〜〜〜、

南至邪馬壹国、女王之所都(これをザ・女王国とする)。水行十日、陸行一月。官有伊支馬、次曰弥馬升、次曰弥馬獲支、次曰奴佳鞮、可七万余戸〜〜〜〜
自女王国(ザ・女王国)以北、其戸数道里可得略載、其余旁国遠絕不可得詳。次有斯馬国〜〜〜〜
其南有狗奴国、男子為王。其官有狗古智卑狗、不属女王。
自郡至女王国(ザ・女王国)万二千余里。
自女王国(ザ・女王国)以北、特置一大率、檢察諸国、諸国畏憚之。常治伊都国、於国中有如刺史。
王遣使詣京都帶方郡諸韓国及郡使倭国、皆臨津搜露。伝送文書賜遺之物詣女王 ←←←(邪馬台国女王のこと)

(↓ここで共立女王が誕生する)
其国本亦以男子為王。住七八十年、倭国乱相攻伐歴年。乃共立一女子為王。名曰卑弥呼。事鬼道能惑衆。
宮室楼観、城柵厳設、常有人持兵守衛〜〜〜〜。

(共立女王誕生後の「女王国」は、倭30国から成る倭女王国で、卑弥呼は倭女王とよばれるようになる)
女王国東渡海千余里 ←←←ここの女王国は倭30国から成る倭女王国、
復有国、皆倭種。又有侏儒国在其南、人長三四尺。去女王四千余里。又有裸国、黒歯国〜〜〜〜
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。太守劉夏、遣吏将送詣京都。
其年十二月、詔書報倭女王曰  ←←←(まだ倭女王のまま)。

(詔書により、親魏倭王となる)
「制詔親魏倭王卑弥呼:帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米、次使・・・ ←←←ここで親魏倭王(倭30国に君臨する親魏の倭王)となる)
今以汝為親魏倭王、假金印紫綬、装封付帯方太守假授〜〜〜〜 

(以下、単に倭王ともよばれるようになる)
正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等、奉詔書印綬詣倭国、拝假倭王〜〜〜〜
0176日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 19:37:27.00
>>175
>倭人伝は、暦年を追って書かれている。

最後の外交史は年順でも、行程は違う。 
行程部分は最奥の到達点である、
自郡至女王國 萬二千餘里 が、最後に記してある。

247年卑弥呼の死後の張政は、
糸島半島で墓を見て王宮に行かず、伊都一大率に駐留した。
一大卒は、ここに壹與及び難升米を呼びつけ、張政は檄告喩で帰国した。

240年の梯儁は印綬行軍であり、女王宮を見ている。

名日卑弥呼 事鬼道能惑衆 年已長大 無夫婿 有男弟佐治國
自為王以来少有見者 以婢千人自侍 唯有男子一人 給飲食傳辭出入居處宮室
樓觀城柵嚴設 常有人持兵守衛

最後の一行は、魏時2回の使譯の内、梯儁意外が得れる情報ではない。

評曰
史漢著 朝鮮兩越 東京撰西羌
魏世 匈奴遂衰 更有 烏丸鮮卑
爰及 東夷 使譯 時通 記述隨事
豈常也哉

卑弥呼が倭王であることは、
占領直後の帯方郡の勇み足で間違いであったが
陳寿は初探検の半島西岸〜対馬海峡の使譯に敬意をもって
これを記している。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 21:05:03.04
博多湾沿岸は後漢の頃から倭の中心であり、そこにいた卑弥呼は間違いなく倭王である。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 21:13:24.56
>>177
碌な集落遺跡の無い博多湾沿岸に、卑弥呼が居る訳がない。  以上御終い。   @阿波
0179日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 21:27:15.76
>>177
考古学的には、
出雲、吉備、淡路、阿波、丹後、越、近江、伊勢、美濃、関東
を統一した倭王は、本州に在り、纏向に首都を作った可能性はある。
250以降で300年?迄だろ? 
卑弥呼は190年から247年迄の、後の筑紫地域の王である。

もちろん、倭人伝247年以降の壹與が畿内に輿入れで箸墓古墳の当事者でも良い。

魏による公孫氏滅亡と箕氏韓王朝滅亡で、BC200年から青銅器移入の日本が
その基盤を失ったことに対する、対外対応が250年以降の九州統合と古墳時代の到来である。

倭人伝は、この歴史を裏付けている。
本州は銅鐸廃棄から九州進出で古墳時代、313年四郡撤退で半島進出本格化だし。

倭人伝に記述されている、卑弥呼は九州筑紫の238年から247年の歴史である。
奇しくも、日本の古代史、激動期の記録なのである。
正しく読む方が良くないか?
0180日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 21:33:35.67
韓南岸に倭地が有る、と言うのはおかしくない
なぜならば
韓國の称は亡命してきた韓氏が王を称したことに由来するからであり
近現代になってからできあがった韓国という近代国家の呼称にひきつけて
陳寿が使用した用語の韓を理解しちゃうのは良くないことだ

彼の証言によれば
3世紀には韓王は半島には不在
韓王はいったい何処にいっちゃったのだろう
0181日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 21:51:47.13
公孫氏や箕氏韓王朝の滅亡は、ちゃんと説明されてるよ。

大韓帝国ってのは、日本 倭による古代韓、350年百済新羅の建国にちなんで
大日本帝国が建国した国の名称で、日帝残滓だろ?

半島人にとっては、朝鮮が半島民族の王道じゃないのか?
高麗だとこれは高句麗で中国の楽浪候、幽州刺史であって、
中華四郡と変わらない。

韓半島 と言うのは、歴史を知らない国特有の日帝残滓でお笑いネタ。
0182日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 22:16:23.01
今の韓国人は自分たちは新羅の末裔、列島は百済の末裔と思ってるんだよな
三国時代の自分たちは勝者で、列島は敗者で格下だと
0183日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 22:16:23.76
魏志韓伝(馬韓)

韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里有 三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓 辰韓者古之辰國也
「韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。」
0184日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 22:22:59.74
>>180
衛氏に追われた箕氏が半島の馬韓地域に入り韓王を名乗った。
秦遺民に辰韓を与え、辰韓12国の王は馬韓の月支国に居た。

朝鮮と言うのは、遼東であり半島は石器人の未開地
だから国体が無く、周辺国の植民地だったんだろ?

弁韓には倭人も多く、倭人伝時点でこれを倭人国と誤認した。
だから、馬韓も弁韓も辰韓も南は倭と接すると記録された。

陳寿が、梯儁の初探検を尊重した結果だろ。
まあ、任那四県割譲の500年迄は、倭人国かなにかは判らない状態だろ?

東夷の古代史をうやむやにするのが、
倭人伝の畿内スレじゃないかと憶測しているw
0185日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 22:29:42.65
接の意味:
@つぐ。つなぐ。「接合」「接続」「密接」
Aちかづく。ちかよる。「接戦」「近接」

韓の東西は広〜い海だが、南は対馬海峡で千里ほど。
接するといっても、必ずしもくっついていなくてよい。倭と近づく・近接するの意味で十分理解できる。
0186日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 22:33:49.65
史書の説明は知っているから
マヌケな詭弁は要らない。
0187日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 22:42:13.34
都合が悪い事実に対しては「詭弁」だと思い込んで目を塞ぎます
0188日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 22:50:45.01
>>182
統一新羅と言うのは、完全に唐の属国であって
百済を滅ぼして日本と敵対した事を悔い、
日本に朝貢することで かろうじて国体を保った国だろ?

似たような状況を知ってるw
チベットウイグルを見れば中共も狡猾だが、
ロシアとか米国を裏切るってのはいかがなものか?

韓国って冷戦、ミサイル戦以前の壁としてはともかく、米国には、
チベットやウイグル、クリミアほどの、価値がある国なのかな?

ニダ―をあげる、ニダ―はイラネ、はないちもんめ、じゃね?
0189日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 22:53:08.48
で狗邪韓国ってどこにあったの?卑弥呼はどこにいたの?そろそろ答えでたんじゃないのかい?
0190日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 22:56:02.94
韓国なんて地名は日本にはないニダ(°▽°)

韓国岳(からくにだけ)って半島から逃げてきたやつら来たらしいから名前がついた山なら九州にあるが
0191日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 23:01:35.20
邪馬台国論争のくだらなさは
倭人伝を正しく読んでしまうと
最初から結論が出ている、という事ではないかな?

ご都合主義に誘導しないと
予算取りとかに全然役に立たない。

まあ、真実はつまらないなwww
韓国の予算は良いかもな?
0192日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/29(木) 23:48:19.43
邪馬台国論争のつまらなさは
歴史学のイロハもわかってないど素人が
ろくな知識ももたたないのに
俺様だけは絶対正しいっていう思い込みだけで
好き勝手に言いたい放題やってるところだろ
0193日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 00:32:50.02
邪馬壹国の話が流行り始めたんが18世紀

それ以前に邪馬壹国の話なんてまったくない

あるなんていうやついるならそりゃ嘘だ

中国内にあった文献のみにだけ書かれていたん

それから邪馬壹研究が流行り今じゃ九州あたり邪馬壹国にちなんだ伝承を作っちまっただ

町の由来からなにから

もはや後戻りできないくらいになw
0194日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 00:35:40.88
韓国岳の名前なんぞの場合は半島から逃げ出した連中が九州の山岳部に逃げ込み立て篭もったみたいな伝承から韓国岳だぞ(゚∀゚)
0195日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 00:39:01.60
玄人らしき者も結局判断は市販されてる史書で。倭人伝がなけりゃ解からんのは玄人も同じ。
0196日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 00:45:31.47
韓国岳は、古くは霧島岳西峰、筈野岳、雪岳、甑岳等と呼ばれていた
0197日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 00:57:25.88
>>157,165,168,173,178

でも、泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃんwww
0198日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 04:28:28.21
>>179
考古学的には
倭国(阿波)で確定!  他説の追随を許さない圧倒的考古資料。   @阿波
0199日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 06:54:37.20
>>198
>他説の追随を許さない・・・、@阿波

おおよしよし、心配するな。 誰一人として付いては行かぬ、、、。
0200日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 06:57:01.20
>>199
そりゃそうだろう。  誰一人として付いて来れぬ、、、。  わははははは   @阿波
0201日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 07:01:31.09
九州説も畿内説も、ちょろいもんだ。  他説の追随を許さない圧倒的考古資料。   @阿波
0202日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 10:40:57.29
>>198
>>200
>>201
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0203日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 18:41:24.45
魏志倭人伝を読めば邪馬台国に行くには九州を通り過ぎると書いてある
0204日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 18:42:46.21
>>203
その通り。   @阿波
0205日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 18:59:50.93
魏志倭人伝を読めば邪馬台国に行くには阿波も通り過ぎると書いてある
0206日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 19:07:12.55
>>205
魏志倭人伝を読めば邪馬台国は阿波だと書いてある。  わははははは   @阿波
0207日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 19:21:44.14
@阿波の芸風は、一種の炎上商法だな。
しばし阿波に注目が集まればそれでよし、煙りが立たなくなれば、それで御終い、、、。
0208日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 19:54:39.67
>>207
>しばし阿波に注目が集まればそれでよし

倭国(阿波)は、類まれな遺跡の裏付けで、盤石。  これからは阿波の時代である。  わははははは   @阿波
0210日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 22:14:29.25
平成26年10月7日(火)〜11月24日(月、
伊都国歴史博物館開館10周年記念特別展「狗奴浪漫 〜熊本・阿蘇の弥生文化〜」
特別講演会・狗奴国の考古学
「講師:関西外国語大学教授 佐古和枝氏」
>近年の発掘調査などにより、弥生時代の熊本地方では、
>九州の中央に位置する地理的特性を生かして各地との交流がさかんに行われたことがわかってきました。
>また、北部九州とは趣を異にする独特で個性的な弥生文化を生み出しており、
>邪馬台国論争においても、卑弥呼と敵対した「狗奴国(くなこく)」の有力な候補地ともされています。
http://wajinden.com/blog/2015/06/17/狗奴国の考古学「弥生時代の鉄器は熊本がno-1」/

この講演で狗奴国比定地とされた熊本を邪馬台国に置き換えて倭人伝を読み直してみると、
その陸行行程記事がすらすら読めるだけでなく、
魏と交流の深かった弥生時代の熊本地方の鉄器文化の偉大さも納得できる。
なお懸案の狗奴国は、呉系の鍍金銅鏡を出土した熊本南部の球磨地方に比定するほうが合理的ではないか・・。
0211日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 22:24:27.45
>>207
>しばし阿波に注目が集まればそれでよし

倭国(阿波)は、類まれな遺跡の裏付けで、盤石。  これからは阿波の時代である。  わははははは   @阿波
0212日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 22:37:49.25
天の鳥船で、阿波や纒向をか〜るく飛び越えて、
此れからは、九州の阿蘇や日向と深いえにしの橿原の時代であろうな・・、うはははは。
0213日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 22:42:16.28
類まれな遺跡の裏付けで、盤石阿波説と
むなしい妄想しか出来ないちょろい説との闘いだわ。  わははははは   @阿波
0214日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/30(金) 22:47:26.64
>>194
> 韓国岳の名前なんぞの場合は半島から逃げ出した連中が九州の山岳部に逃げ込み立て篭もったみたいな伝承から韓国岳だぞ(゚∀゚)

古くは韓国(からくに)を見渡せるから韓国見岳と呼ばれたんだろ?
すぐ近くに現在でも姶良(アイラ)市、姶良郡がある。よく見ればカラの音を持っている。
それに韓国(カラクニ)の語源は膂完之空国(ムナクニじゃなくカラクニ)九州由来の
地名。
0215日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 01:02:03.66
>>205-206,208,211,213
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0216日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 03:44:07.68
つまり知らないんだろ(゚∀゚)
0217日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 04:40:21.90
韓国岳歴史
>古くは霧島岳西峰、筈野岳、雪岳、甑岳とも呼ばれていた[4]。
>名称の由来として「山頂からは韓の国(朝鮮半島)まで見渡すことができるほど高い山なので
>「韓国の見岳(かんのくにのみたけ)」と呼ばれた」との説があるが、実際には山頂からは朝鮮半島を見ることはできない

鹿児島県薩摩藩のことだから、どのみち明治になってからの維新命名だろうな。
0218日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 04:50:02.61
この韓国岳が属する霧島連山の中ほどには「高千穂の峰」や「高千穂河原」もある。
これも維新命名なのだろう。
0219日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 08:25:18.06
維新に合わせて日本史を捏造しまくったからね。
同時に九州では大量の文書が行われた。
その上に立って歪曲歴史を広めているのが畿内説。
0220日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 08:26:54.90
【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。
博多湾沿岸は、倭国の王権の発祥の地として知られている。

古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。

最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。

高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。
0221日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 09:14:15.76
鹿児島高千穂と福岡高千穂は いい勝負!
0222日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 12:52:01.01
>>220
>此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり

此地とは南九州ですね。野間岬通って空国に向かう。北に山地を抱え東西南3方向が海に面してる
鹿児島県です。
「朝日の直刺す国、夕日の日照る国」まさしく日向(ヒムカ)の国です。
0223日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 13:00:04.52
>>222
いくら文献をこねくり解釈しても、無駄。
碌な集落遺跡の無い九州に、邪馬台国など在る訳がない。  以上御終い。   @阿波
0224日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 13:12:39.01
>>222
地形的に朝日は照るけれども、夕日は照りませんよ。
東側と西側がともに開けていないといけません。
0225日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 13:19:50.51
>>224
>東側と西側がともに開けていないといけません。

まさに、徳島平野。  東西に貫く大吉野川流域国家群。   @阿波
0226日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 13:28:55.37
鹿児島高千穂組 與 福岡高千穂組、
ま、八世紀の記紀を獲物に大いに戦ってくれ。
0227日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 13:33:22.12
>>222
>>225
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0228日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 13:45:36.28
空国(カラクニ)を霧島連山の西南と見れば矛盾しないのに。
0229日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 14:55:05.22
>>228
古来より、倭国(阿波)では、東西に貫く大吉野川流域国家群のうち、剣山を含む県西部一帯を空(そら)の国と呼ぶ。 これマジ。   @阿波
0230日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 15:56:34.13
>>228
イミフ
0231日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 16:07:53.47
>>229
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0233日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 16:29:14.53
泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうのに?!
0234日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 16:30:10.79
>>229
いや、倭国の主体が四国にあった時代は間違いなく存在すると思ってるよ。
3世紀ではないと思うが・・それを考えると、「なるほどなー」となる。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 16:57:38.06
>>234
>3世紀ではないと思うが・・

それ、君の切なる願望w   まちがいなく、縄文時代後期から、栄えていたのは「阿波地域」。   @阿波
0236日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 17:22:11.91
>>235
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0237日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 18:05:54.37
鹿児島・高千穂組長 與 福岡・高千穂組長 素不和
0238日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 18:58:20.67
なんで宮崎ではなく鹿児島になってんの?
0239日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 20:24:43.12
>>238
九州内に高千穂は3か所あるんだよ
甲:筑紫福岡の高祖山高千穂・・・糸島平原伊都国説の守り神
乙:薩摩鹿児島の霧島連山高千穂・・・江戸〜明治維新のころ急きょ付けた薩摩の守り神
丙:宮崎・熊本・大分3県が近接する宮崎県高千穂・・・記紀の天孫降臨神話の舞台であり、邪馬台国佐賀川上ルートの終点の女王之所都高千穂説
0240日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 21:21:04.86
>>239
>九州内に高千穂は3か所あるんだよ

それぞれ、遠方でバラバラ。  トンデモ説のなせる業。  わははははは   @阿波
0241日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 21:21:52.92
10カ所以上あるらしいよ。
0242日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 21:22:54.05
>>239
記紀の舞台は筑紫、すなわち福岡県の方だって。
宮崎県のは町興し。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 21:25:29.62
>>242
それぞれ、遠方でバラバラ。  トンデモ説のなせる業。  わははははは   @阿波

切り取り勝手次第かw  どうにもならんね。
0244日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 22:07:33.90
>>242
宮崎県の高千穂には、
鎌倉時代には源頼朝の代理人の参拝があった。その時に植えられたという樹齢800年の大杉もある。
明治この方、皇族方の参拝も少なからずあり、平成になってからは秋篠宮ご夫妻のご参拝とお手植えがあった。

その時、植えられたのはコウヤマキであるが、コウヤマキは古墳時代から貴重な樹種として有名であった。
何に使ったのかというと、二つに割って中をくりぬき、高貴な人物の棺として古墳に納めた。
香り成分が、遺体を守るのに役立ったからと聞いた。
秋篠宮お手植えのコウヤマキが其の役に立つのは、おそらく1000年くらい先のことであろう・・・。、
0245日本@名無史さん
垢版 |
2019/08/31(土) 22:12:08.22
>>244
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?   @阿波
0246日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 01:33:56.28
>>240
>>243
>>245
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0247日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 03:43:37.83
邪馬台国は人口七万戸、奴国の3.5倍を誇る超大国として書かれている
単一の集落による都市国家ではなく広範囲に渡る領域国家でなければ不可能な数字だろう

余傍二十一カ国に対蘇国(トスこく)などがあるので筑後川の北側は邪馬台国ではなく共立国の領土のようだ
邪馬台国の範囲は筑後川の南側を北限とし、南は山鹿市のあたりまでと見る
山鹿市にある方保田東原遺跡は中九州最大の集落遺跡であり、菊池川を挟んで対狗奴国の最前線だと思われる
大量の鉄器が出土し、武器の割合が多いことからもそれが窺える

ここで見つかった家型土器の戸の部分は形状が明らかに引き戸ではなくドアである
そのせいか妙にモダンに見える
http://inoues.net/club6/add_kuma08.jpg

色々と興味深い遺跡である
http://inoues.net/club6/kumamoto_katouda.html
0248日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 06:17:18.29
>>247
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?   @阿波
0249日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 08:34:22.65
>>247
リンク先にある方保田東原遺跡とならんで、弥生鉄をたくさん出土した西弥護免遺跡は、
山鹿市から菊池川の北側の丘陵地帯を回り込んで下った菊池市大津町にある。
山鹿から阿蘇への県道が、熊本駅から阿蘇へ向かう国道に突き当たって合流する地点だ、
この大津町は熊本市街や熊本城などと同じ白川の流域になるが、古くから山鹿菊池とは一体の地域だ。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 09:09:50.36
>>249
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?

九州各国の風土記編纂時に、九州には温泉が無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波
0251日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 09:53:17.21
景行天皇の九州行幸記事が山ほどあるではないか。
ま、九州のことを心配するより、弥生末の阿波の巨大地震の巨大災害のことを発掘調査しろ。
阿波中の孫・子のためになるぞ、、。
0252日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 10:23:33.04
>>251
>景行天皇の九州行幸記事が山ほどあるではないか。

ない!  九州のことではない!  勝手に九州だと思い込んでいるだけ! どこにも九州の国名は出てこない。   @阿波
0253日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 10:26:16.50
>>251
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?

九州各国の風土記編纂時に、九州には温泉が無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波
0254日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 10:58:48.93
>>247
邪馬台国についての説明は、次の一連の文である。

南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸
次有斯馬國 次有巳百支國 次有伊邪國 次有都支國 次有彌奴國
次有好古都國 次有不呼國 次有姐奴國 次有對蘇國 次有蘇奴國
次有呼邑國 次有華奴蘇奴國 次有鬼國 次有為吾國 次有鬼奴國
次有邪馬國 次有躬臣國 次有巴利國 次有支惟國 次有烏奴國 次有奴國
此 女王境界所盡
其南有 狗奴國 男子為王 不屬女王
自郡至女王國 萬二千餘里

現代語訳が必要とは思わないが補足付きで
(自郡から馬韓を過ぎ)南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 水行十日 女王之所都へは 陸行一月を要し 可七萬餘戸
次有―列記21国― 此(が7万戸の属女王21国で) 女王の境界所盡
(その南の狗奴國は女王に属さない)
自郡至女王國(を里程で言えば )萬二千餘里 である。
0255日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 11:17:34.69
すまない。 >>162 で、判りやすくするため
簡略で、一文削除したままの使っちゃった。

南至 投馬國 水行二十日 可五萬餘戸
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 可七萬餘戸
で、次の陳寿の説明部分は、現代語訳も良い。
自女王國以北 其戸數道里可得略載 其餘旁國遠絶 不可得詳

ここまでの女王国以北については 其 戸數や道里を可得略載(略載できた)
其 餘旁國は、遠絶しているので 不可得詳(詳細は得ていない)
女王国についての詳細は、次有―列記21国― ・・・ となる。
0256日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 11:19:12.64
>>248
>>250
>>252
>>253
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0257日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 11:20:05.42
>>254
南至邪馬壹國女王之所都 此処へは水行十日と陸行一月を要し 可七萬餘戸
次有―列記21+1国― (以上が親女王の30国で) ここが女王の境界所盡
(華奴蘇奴國は。前呼邑國の次正面に2つ並んであったので、2国縮合記述したとみる)
(その南の狗奴國は女王に属さない)
自郡至女王國(女王之所都までを里程で言えば )萬二千餘里 である。
0258日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 11:22:55.44
>>257

《邪馬台国》女王・卑弥呼(七万戸)
↓【東】海渡1000里(50km)1里=50m
女王国東渡海千余里復有国皆倭種 (阿波から東へ1000里渡海→奈良周辺)

帯方郡→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m

∴1里=70mは、概ね妥当。   @阿波
0259日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 11:23:34.65
>>258
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0260日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 11:39:45.17
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、

分かりやすいのが、斉明天皇(第37代)はおろか、明治天皇以前には、一人も九州行幸が無いこと。

九州に倭王権があれば、有り得ない話である。  @阿波
0261日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 11:44:57.93
>>260
>九州に倭王権があれば、有り得ない話である。  @阿波

長期にわたり、古代九州に確たる倭王権があったからこそ、敬意を表して行幸などしなかった、当然のこと。
0262日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 11:46:20.87
>>261


なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?

九州各国の風土記編纂時に、九州には温泉が無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波
0263日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 11:56:08.72
おや、
阿波ちゃん、どうしたの?
救急車呼んだ方が、良くないかい??
0264日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 12:07:39.34
>>260
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0265日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 12:07:49.92
>>261
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0266日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 12:07:56.27
>>262
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0267日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 12:10:32.21
ついでに、次の文だが 難解と言うか、おかしな導入かと思うので解説
自郡至女王國 萬二千餘里 から
男子 無大小 皆 黥面 文身 自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
夏后少康之子 封於會稽 斷髪文身 以避 蛟龍之害
今 倭 水人 好沉没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚水禽後稍 以為飾
諸國 文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差
計 其 道里 當在 會稽東治之東

陳寿は 皆自稱 大夫の後 魏略の 太伯の後の一節を書きたかったと思う。
皆自稱 大夫は太伯の周代の話であり、刺青だけで夏后少康之子を持ち出すのは、頓珍漢である。
しかし、これは中華史書として、倭人が中華周王の系譜に有ることを書けなかったから。
魏略には太伯にちなむ長江河口の句呉の話も有ったはずである。

計 其 道里 當在 會稽東治之東 
が難解なのは、前文に其 道里 の其が示す道里が無いからであり
これは、自郡至女王國 萬二千餘里 を引きずった一文。
帯方郡から南萬二千餘里を西に持ってくれば夏后少康之子にちなむ会稽東治辺りという事。
この道理は、南満二千里であり、行程では韓半島南部の東行3千里分南にずれている。
九州以外の日本列島は当て嵌まる道理、可能性が無い。
0269日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 12:32:50.43
>>263


なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?

九州各国の風土記編纂時に、九州には温泉が無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波
0270日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 12:34:59.97
>>263
まさに、ここ掘れワンワン状態の、阿波考古学。    阿波の遺跡は、他のトンデモ説のチンケな遺跡とは、別格!   

女性の人骨出土 犬山天神山古墳(徳島市)

https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/52348696.html?__ysp=5aWz5oCn44Gu5Lq66aqo5Ye65ZyfIOeKrOWxseWkqeelnuWxseWPpOWis%2B%2B8iOW%2Bs%2BWztuW4gu%2B8iQ%3D%3D

石棺からは、ヒスイ製勾玉(まがたま)1点、青銅製の鏡1枚、水晶製勾玉1点、直刀1振り、

鉄鏃(てつぞく)35点、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)8点なども出土。   @阿波
0271日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 12:50:43.84
>>263
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?

九州各国の風土記編纂時に、九州には温泉が無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波
0272日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 13:12:21.01
>>267
その件はその通りと思う。
他にも「其」は多用されてるのが特徴。

(倭国を指すと思われる「其例」)
其使詣中国、皆自称大夫、
計其道里、当在会稽東治東 ←←ちなみに洛陽〜会稽と、帯方〜中九州はほぼ同距離
其風俗不淫、男子皆露紒、
其衣横幅、但結束相連、略無縫。
其地無牛馬虎豹羊鵲。

(倭地を指すと思われる「其例」)
倭地温暖、冬夏食生菜。皆徒跣 ←←この行以下の其は倭地?
其死有棺無槨、封土作冢。
其行来渡海詣中国、恒使一人、
其木有楠、杼、豫樟、楺櫪、投橿、烏号、楓香、其竹篠簳、桃支。
其俗挙事行来、有所云為、
其会同座起、父子男女無別。
0273日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 13:22:28.21
>>272
なんで九州に在る温泉への天皇行幸が、近年まで無かったのだろうか?

近年になるまで、九州には温泉が無かったのだろうか?

なんで九州の風土記に天皇の行幸記事がないのだろうか?

九州各国の風土記編纂時に、九州には温泉が無かったのだろうか?

あとは、推して知るべし。   @阿波
0274日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 14:23:39.85
>>272
倭人伝を正しく読む、と言う前提で
陳寿の文章がおかしい、とするのは本意ではないが

計其道里 當在 會稽東治之東
自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫
この2文の位置が、おかしいのは自明であって
改訂が陳寿の仕事では無かったのではないかと考える。

この一連の文に、太伯の後の削除での 改訂が有った
という推測で、これを魏略引用含め作文の語順を修正すると、

自郡至女王國 萬二千餘里
計其道里 當在 會稽東治之東

聞舊語 其使自謂 太伯之後
自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫

其 男子 無大小 皆 黥面 文身
夏后少康之子 封於會稽 斷髪文身 以避 蛟龍之害
今 倭 水人 好沉没 捕魚蛤 文身 亦以 厭大魚水禽後稍 以為飾
諸國 文身各異 或左或右 或大或小 尊卑有差

これで、陳寿の文らしくなる。
最初の2文は、謎の東夷伝里使用での、混乱修正の試みでもある。
陳寿は、わざと邪馬台国の位置を混乱させることを歓迎していないと思う。
0275日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 14:38:02.82
訂正
聞舊語 自謂 太伯之後
自古以來 其使 詣中國 皆自稱 大夫

其使が重複した。 陳寿に怒られるw
0276日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 15:30:20.90
>>269
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0277日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 15:30:42.27
>>270
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0278日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 15:30:50.38
>>271
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0279日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 15:30:59.27
>>273
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0280日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 16:22:24.35
>>273
九州を本拠としていたのは倭国を倒した天智天皇の日本。
その後勢力を取り戻した倭国系の血筋の皇族が九州に
行くわけないじゃん。
倭国系は四国に本拠地があったから四国には行ったんだろw
0281日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 17:02:16.68
>>280
>倭国系は四国に本拠地があったから四国には行ったんだろw

その通り。   でも倭国は、四国でも東四国・淡路島だがね。  @阿波
0282日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 17:18:06.13
>>274
>夏后少康之子 封於會稽 斷髪文身 以避 蛟龍之害

このあたりの文章の配列がなんとなく順不動に見えるのはその通り。
ただその当否は、そもそも「夏后」が中華世界に於いていかなる人物だったかの評価・認識によるのではないか。

夏氏は、中華九州をくまなく巡って治水事業に手腕を発揮した謂わば中華世界の祖神として代々の王朝から敬われている大人物だ。
あの秦始皇帝でさえ、夏氏の末裔を名乗ったという。
陳寿としては、その偉大なる夏氏の縁を引いて敬意を示そうとしたのかもしれないし、
加えて、いささかの権威にあやかろうとしたのかもしれない。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 17:42:26.57
夏(か、紀元前1900年頃 - 紀元前1600年頃)
史書に記された中国最古の王朝、夏后ともいう。
また、夏・殷・周を三代という。
『史記』『竹書紀年』などの史書には、初代の禹から末代の桀まで14世17代、471年間続き殷に滅ぼされたと記録されている。
従来、伝説とされてきた「夏、夏后」であるが、近年、考古学資料の発掘により実在の可能性もでてきた。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 18:20:41.71
>>282
夏后が、謂わば中華世界の祖神 と言うのはシラナカッタ。
夏后は東夷によって滅びた、みたいな話は聞いたことが有るので

この部分は、自郡至女王國 萬二千餘里 と言う
何言ってんだ、こいつ? 的、謎の場所指定に始まって、
中華皇帝の末裔だののホラ、倭なんていうそんな国、有んのかよ? 
みたいな、混ぜ返しの意図を感じる悪文だと思っている。

帯方の南萬二千餘里が計其道里 當在 會稽東治之東
と言うのが、当時の人が北緯30度をグーグルアースで追えないとしてもw
陳寿の文人としての良心が見える気がする。

238年魏皇帝に筑紫の小国の卑弥呼が倭王であるという
占領直後の帯方郡による間違いで、印綬した事。
韓制圧の245〜6年の檄に卑弥呼が応えていない事。

280年、三国志覇者となるが、313年、四郡撤退に繋がる、
東夷情勢で これ以降、日本は百済新羅の建国を後援し、牛馬を移入。
中国史は記さないが、東夷の倭は、中華の覇権には防衛的、敵対の姿勢である。

三国志覇者も東夷情勢では高句麗や倭にしてやられているのである。
これが247年で、魏と邪馬台国の交流の記述の筆が折られた要因だと思う。

諸々の、ご教示に感謝。
0285日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 18:41:15.15
>これが247年で、魏と邪馬台国の交流の記述の筆が折られた

卑弥呼の次の男王の時期だから倭が混乱していて外交どころじゃなかったんでしょ。
台与の時に政等を返しているし、晋にも朝貢してるから
倭国側さえ落ち着いていれば交流は続いている。
0286日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 21:00:33.16
>>285
全然辻褄が合わない。

卑弥呼の墓は、径150mの日本最初の巨大古墳じゃないのかな?
張政に見せたい為だけだったのか、やっつけ仕事、過ぎるが・・・
筑紫でも王権は確立して、古墳のはったり軍事帝国の知識がある。

卑弥呼は九州だが、銅鐸本州でも青銅移入などで親交があったであろう、
魏に滅ぼされた公孫氏遺民とかの軍師を迎えていたはずである。

倭人伝は、247年
壹與 遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還因詣臺
獻上男女生口三十人 貢白珠五千孔 青大句珠二枚 異文雑錦二十匹
で、終わりだが、魏は続き、三国志の覇者に繋がる。

この韓制圧完了で、帯方郡お手柄、乙の 247年に、
皇帝の親書や、軍事同盟強化の、お土産が有れば自慢して書くのが、朝貢外交。

壹與の朝貢の記録が有って、詣臺なのに、帰国の話が無い。 
魏志の範疇なのに、書かない以上は、皇帝と邪馬台国の外交が終わってるだろ?
0287日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 21:11:32.36
壹與は晋の時代にかかるから、魏志倭人伝に書く必要はない。
また、壹與の年代は明確ではないが、魏志の執筆(280年頃とされる)と年代が被り進行形であるため書けなかった可能性もある。
0288日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 21:12:26.97
>詣臺なのに、帰国の話が無い。
>魏志の範疇なのに、書かない

魏は265年まで。
つまり266年以降に帰ってきたわけだな。
0289日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 21:22:10.70
>>286
>壹與の朝貢の記録が有って、詣臺なのに、帰国の話が無い。 
>魏志の範疇なのに、、、

壹與の朝貢には年号が入っていないので、これは魏代でなく、その後の晋代のことだったことを示しているのではないか。
もちろん魏志の範疇からは外れていたのだが、
張政は派遣元の魏王朝の終りを受けて確かに帰国したことを書きとめたかったのであろう。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 21:48:24.55
>>247
地形を見ると山鹿市と筑後山門(みやま市)の間は山間部だけど間道がありそうだな
現在の国道443号線ルートで山あいを通り抜けられそうだ
うまくすると国道3号線ルートで八女方面にも抜けられたかもしれない
0291日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 22:12:04.04
>>281
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0292日本@名無史さん
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2019/09/01(日) 23:33:53.40
安曇の祖とされる安曇磯良(あずみのいそら)には磯武良(いそたけら)という別名があり、五十猛(いそたける)と同一の可能性がある
恐らくイソタケルとは個人名というよりはイソの王という意味だろう
イソとは伊都、つまり魏志倭人伝にいう伊都国は後の安曇族の国だった可能性が高い

筑前国風土記逸文に、
「五十迹手(いとで)奏ししく、高麗の国の意呂山に、天より降り来し日桙の苗裔、五十迹手是なり。」
「天皇、即ち五十迹手を美めたまいて伊蘇志(いそし)と曰う。故れ、時の人五十迹手が本土を号けて伊蘇(いそ)国と曰う。伊覩(いと)と謂うは訛れるなり」
とあり、怡土郡が元々はイソという地名であったことが記されている
日本書紀によれば五十迹手は筑紫の伊覩県主(いとのあがたぬし)の祖
0293日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/01(日) 23:41:52.72
伊都国が海人の国であったことを考えると、邪馬台国の場所も見えてくる
海人の高位の者が身につけたとされるゴホウラ貝輪の分布が有明海東岸に集中しているのだ
http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/f012.gif
https://img04.ti-da.net/usr/o/c/t/octagon/image_1378.jpg

また、弥生時代の鉄鍛冶工房もまたこのあたりに集中している
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg

有明海の東海岸、すなわち筑後国山門郡が邪馬台国の中心だろう
製鉄関係はもう少し南まで続いているので、>>247のとおり山鹿市あたりまで邪馬台国の範疇と見る
0294日本@名無史さん
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2019/09/02(月) 00:05:44.15
>>292
天叢雲命の別名に天五多底(あめのいたて)がある
五十迹手(いとて)と同一人物の可能性がある
また射立神(いだてのかみ)という呼称もあり、伊達神こと五十猛と同一視する向きもある
そうすると天叢雲命=五十迹手=五十猛=安曇磯武良

草薙剣の元の名が天叢雲剣なのは有名だが、ヤマタノオロチからこれを手に入れたのは素戔嗚命であり、その息子が五十猛とされる
スサノオが息子の五十猛=安曇磯武良=天叢雲命に譲り、その佩剣となったから天叢雲剣なのではないか
天叢雲剣は皇室の神器となった後に熱田神宮に祀られているが、熱田神宮の大宮司は当初は尾張氏だった
尾張氏は安曇氏と同祖氏族
http://img-cdn.jg.jugem.jp/472/1262880/20190718_2587894.png
0295日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/02(月) 13:54:36.12
>>290日本@名無史さん2019/09/01(日) 21:48:24
>地形を見ると山鹿市と筑後山門(みやま市)の間は山間部だけど間道がありそうだな
>現在の国道443号線ルートで山あいを通り抜けられそうだ .
>うまくすると国道3号線ルートで八女方面にも抜けられたかもしれない

443号線と3号線のあいだにも県道4号線がある。山鹿から八女市本町へほぼ直線。
途中の峠越えは、自動車道化のためグネグネに見えるが、徒歩の場合はおおむね直線的。
このルートの良いところは、八女市手前(南)の 矢部川を、岩礁地帯を利用して簡単に渡れること。
八女本町からは、
国道3号線沿いに久留米方面へと、県道15号線?の城島経由で吉野ヶ里・佐賀市方面へも行ける。
0296日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/02(月) 17:44:55.11
>>292-294
とても興味深い考えですね。
五十鈴姫(入れ墨を見て驚いた)との関わりはどうでしょうか?
0297日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/02(月) 19:02:40.51
五十鈴姫は関係ないでしょ
単に音からの当て字でしかもイソでもイトでもないし
0298日本@名無史さん
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2019/09/02(月) 20:19:41.47
倭人伝を正しく読み、萬二千餘里を周髀算経から算出すると900km程度(但、球体説ではなく平面説に拠るので誤差大)となるが、九州説では、熊本あたりに比定せざるを得ない。
然し、考古的資料の貧弱さからこれは否定される。
四国全域、日本海側各地も同様。

結局は定説通り畿内説を摂らざるを得ない。
尤も、大和盆地に7万戸を収容するのは無理がある。
畿内単独ではなく、王都/祭祀宮殿巻向を中心としたほぼ近畿全域・播磨・若狭敦賀・伊勢湾岸をなどを含んだ広域国邑が邪馬台国というのが妥当であろう。

周髀算経流の算出方法は特定日の二点同時刻の日陰長を計測せねばならず、魏史単独でこれを成し得たとは考え難い。


むしろ、王都巻向に計測者が定住していたと見るべきだろう。

どのような定住者かは、魏略にある。
「自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後」

句呉の末裔であると称すのだから、一部指導層に周髀算経の知識があるのも時代的に合う。
刺青の習俗は、江南地方の海洋民の習俗でもある。
0299日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/02(月) 21:23:17.10
新九州説:佐賀川上ルート:
(邪馬壹国女王之所都までの方角里数は良く一致、しかも里数は韓倭の里≒短里に一致)

狗邪韓国〜対海国〜一大国までは省略
・一大国(壱岐)ー末盧国(唐津市中原津)は渡海+遡河計55q(700里)で、千里は可。
・末盧国ー伊都国(佐賀川上)は東南陸行して到る37q(500里)で、方角・里共にドンピシャ、
・伊都国ー奴国(佐賀市街)は東南方向至る7.5q(100里)で、同じく方角・里共にドンピシャ、
・伊都国(佐賀川上)ー不彌国(彌根郡吉野ヶ里)は東行く11q(146里)で、方角はドンピシャ、里の四捨五入100里も適切
(続)
0300日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/02(月) 21:27:33.83
新九州説:佐賀川上ルート:(続き)
・南至投馬国(宮崎県西都市都万)、
水行二十日(自郡至末盧国まで万余里を十日、さらに九州西岸回りで都万まで万余里を十日)、可五万余戸。 方角ドンピシャ、里も適切。
・南至邪馬壹国(官衙:熊本県菊池郡砦村臺城)女王之所都(宮殿:宮崎県高千穂町三田井・・・馬臺の訛り)。
水行十日(自郡至末盧国まで万余里)、陸行一月(自末盧国至三田井まで158qで二千余里)、可七万余戸。方角・里共に適切。
(中略)其余傍国22国は国名のみ記載。華奴蘇奴国は2国縮合記述とみる
・自郡至女王国万二千余里(自郡至不彌国まで1万600里、残り不彌国〜臺城〜三田井の実距離は110qで1400余里)。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/02(月) 21:32:58.37
(注記)
末盧国東南陸行500里の佐賀川上にあった伊都国と、
其の東行く百里の吉野ヶ里にあった不彌国との中間に位置する大和町久池井には、
8世紀前半にできた国府(現・肥前国庁跡110m×80m)がある。
その中心軸線は北7度西偏である。

そして、和名抄に記された古国府(オキ、乎伎国府)のほうは、
佐賀川上に残る大区画遺構(大願寺地区の廃寺跡250m×200m)だったのであろう。
この中心軸線は北約10度西偏である。

したがって両遺構の中心軸線には約3度の差があるが、
仮にこの軸線が北極星を指すものであったとすれば、その歳差から、
佐賀川上の古国府(オキ、乎伎国府)の方が、約600年古い設計施工であり、
西暦150年頃までさかのぼり得る大区画遺構ということになる。
0302日本@名無史さん
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2019/09/03(火) 12:37:45.27
>>678日本@名無史さん2019/09/02(月) 12:55:03
「卑弥呼の邪馬台国と争った国が熊本に.九州説に新解釈 」(産経ニュース 2019/9/2)

BS11、BS-TBSに続いて、ついに産経新聞も「九州説へ 面舵いっぱ〜い」、か・・・、
0303日本@名無史さん
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2019/09/03(火) 13:22:53.35
北部九州の古い倭種は いつまで島めぐり巡業するつもりなのかねえ???
0304日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 01:33:46.41
そもそも、倭人伝の行程は魏使のルートじゃないからねぇ。
難升米による朝貢ルートを中華視点に直し、北九州華人・半島人からの地理情報を加味したもの。
北九州と中華は漢代からすでに交流あるから、大陸に知られた情報の蓄積も多い。

魏使は少なくとも沿岸国伊都までは対馬海流を利用しつつ魏船で直行。
親書を宝物抱えて、山賊遭難リスクある末盧の山中をえっちらおっちら往く道理がない。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 02:29:21.40
糸島遺跡マップ
http://www001.upp.so-net.ne.jp/wi12000/forGmap/html/itoshima_isekimap.html

これを見ると糸島の遺跡は東の古今津湾側に集中している
そしてそれは能古島の真南あたりまで途切れることなく続いている
能古島の真南はちょうど筑前の山門にあたるが、ここはもう早良地域である
どうやら十郎川あたりまでは伊都国の範疇だったようだ
マップが見切れているが、国境になりそうな自然地形を周辺で探すと、恐らく室見川が境だったのではないか

筑前山門が女王連合内で邪馬台国に次ぐ地位にあったと思われる伊都国の一部だと考えると、筑後山門とのつながりが推測される
0306日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 02:42:58.90
伊都国は代々王がいるにも関わらず、諸国の中でも女王国の役人である一大率に統治され、荷降ろしの場としてこき使われていた最も惨めな国であることが魏志倭人伝に記されている。
0307日本@名無史さん
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2019/09/04(水) 03:11:10.83
>>305
遺跡の数の多さからすると、伊都国の人口は魏志倭人伝の千戸より魏略の戸萬余の方が正しそうだな
0308日本@名無史さん
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2019/09/04(水) 03:34:11.83
伊都国は代々王がいるにも関わらず、諸国の中でも女王国の役人である一大率に統治され、荷降ろしの場としてこき使われていた最も惨めな国であることが魏志倭人伝に記されている。
0310日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 04:09:16.62
実際の航路はこんな沖合ではなくもっと沿岸沿いだろうが、まあそこは分かりやすさ優先ってことで
0311日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 05:05:16.11
希望を交えず魏志倭人伝の漢文を正確に読めば以下のようになる

「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

結論
つまり女王国の北限に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を代々の王を差し置いて統治しているということ。

そして何より志賀島から新宮までを支配域にしていた安曇を勝手に伊都国と併せるなよ(笑)
0313日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 07:03:36.31
帯方郡から直線距離で萬二千餘里であることは倭人伝のみならず他の引用文献にも記されているわけで。
単里だろうと長里だろうと、萬二千餘里の前提からすると北九州全域アウト。

また、不弥国から水行20日+水行10日・陸行1月の行程記述からも、北九州は候補にすら上がらない。
陸行1月が1日の誤記であったとしても、だ。
0314日本@名無史さん
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2019/09/04(水) 07:27:54.18
>>305
>マップが見切れているが、国境になりそうな自然地形を周辺で探すと、恐らく室見川が境だったのではないか

面白いですね。
高祖山がまるまる伊都国になるわけですね。
これが倭語では筑紫の日向の高千穂なのでしょう。

ただ、狗奴国は菊池城を含める地域ではないでしょうか。
狗奴国と邪馬台国が元は一つの国だとすると(王の名が似ている)、近接していてもいいわけですから。
0316日本@名無史さん
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2019/09/04(水) 08:02:51.11
>>309
いい感じだな
矛盾点が無い
0317日本@名無史さん
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2019/09/04(水) 08:17:05.31
>>315
とっくに結論出てるのに相変わらず畿内厨は堂々巡りしてたんかw
0318日本@名無史さん
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2019/09/04(水) 12:42:42.24
倭人らの祖と言われてるのが呉の太白・虞仲

これがどこにあったか知らないがどこからか来て彼ら(倭人)に聞いたんだろ文献書いたやつらが

倭人らが呉の太白の子孫だって自ら名乗りいれてなかったか?
0319日本@名無史さん
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2019/09/04(水) 12:45:21.82
そんな感じで向こうの文献関係みたいなんみると書いてある

なら周王家の兄弟から始まる子孫に仕えた連中らだよ

紀元前11世紀あたりに虞仲はいたって書かれているが
0320日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 12:48:32.45
>>309
当時の海岸線も考えないとダメだよ
0321日本@名無史さん
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2019/09/04(水) 12:49:03.11
>>318
ユダヤの王と同じような話?
0322日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 12:55:57.29
希望を交えず魏志倭人伝の漢文を正確に読めば以下のようになる

「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

結論
つまり女王国の北限に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を代々の王を差し置いて統治しているということ。

そして何より志賀島から新宮までを支配域にしていた安曇を勝手に伊都国と併せるなよ(笑)
0323日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 13:15:37.94
>>309
あいかわらず末盧国から北東へ進んでるね。
それは、神功皇后の行幸路に引きずられてしまった 新井白石以来の よくある迷い道だよ。
そっちに行ってしまっては、ミイラになるか土座衛門になるか、あるいは一山いくらのその他大勢組になるかだ、、。
0324日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 13:31:13.31
希望を交えず魏志倭人伝の漢文を正確に読めば以下のようになる

「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

結論
つまり女王国の北限に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を代々の王を差し置いて統治しているということ。

そして何より志賀島から新宮までを支配域にしていた安曇を勝手に伊都国と併せるなよ(笑)
0325日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 13:36:33.64
>>73日本@名無史さん2019/08/22(木) 23:45:04
>邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である

用例はそれとして、
倭人伝のこのケースでは、女王国まで萬二千余里なと総距離が出ている。
水行十日、もしくは陸行一月と読んでしまうと、A水行の場合とB陸行の場合で距離が異なるであろうから、
両者間で総距離に食い違いが出ることになる。このケースで、A又はBの読みはない。
0326日本@名無史さん
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2019/09/04(水) 14:22:05.48
321
調べてみりゃ分かる

その子孫らはやがて句呉と呼ばれたと書かれてる

蘇州あたりを治めてなんちゃら

その子孫連中の一部がどっか知らないが流れてきて倭人名乗ったんだべ
0328日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 14:26:29.29
つまりもともと倭人自体が向こうから流れてきたやつらと向こうでも認識されてたんじゃないのか?

そゆ地政調査に乗り出して始めたんが魏の役人らと言われとるでな

魏の役人らが仏教関係も調べてやがて中国人一般にも流れたんじゃなかった?
0329日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 14:28:31.20
327
魏のやつらに対して名乗ったんだよ

文献まとめたん向こうの文官らだからな
0330日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 14:32:27.58
日本は後世、中国あたりから文献を取り寄せそれ参考に学問なんか習ったからな

当然、向こうの故事なんかは学問通じて知り得た
0331日本@名無史さん
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2019/09/04(水) 14:51:00.22
>>324
前節を受けて後節が書かれているのはその通り。
和訳は、このようにも読める

女王国及びその北側の国々には、特に、一大率を置いて検察している。
(このため)諸国(の人々)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国に治まっている(常駐している)。
(一大率は)諸国を束ねる(魏の)洲監督長官のようである。
0332日本@名無史さん
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2019/09/04(水) 14:54:39.65
その後に渡来人が来ているんだけど、
邪馬台国は必要無くなったという話だろう
0334日本@名無史さん
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2019/09/04(水) 15:15:26.48
>>325
その通りなのだけど
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 の場合、
主語の邪馬壹國は次有21国の女王国全体名なので、
南至 邪馬壹國 水行十日 で既に女王国入国
さらに、女王之所都へは陸行一月を要した。
これが、自郡至女王國 萬二千餘里
でなければ、おかしい。
邪馬壹國 女王之所都 は主語の並列です。

この用法は同じく判りにくい、伊都の説明
丗有王皆統屬女王國 郡使 往來 常所駐
もそうで、
丗有王皆統屬女王國 女王共立21国王は皆 で主語
郡使 も主語
で、
女王共立21国王は皆 伊都を往来し
郡使 が、駐留させられた所、である。
伊都に駐留した魏使は、史上、張政だけであり往来も常駐も無い。
主語並列でなければ、意味は通らない。
張政のお役目、壹與と難升米への檄告喩之が到伊都で終った経緯である。
この旅の里程積算は、萬五百里であり、女王宮までの萬二千里ではない。

邪馬台国=女王国が馬韓、辰韓同様の21国7万戸であることが
読めていないと、倭人伝は、正しくは読めない。
0336日本@名無史さん
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2019/09/04(水) 15:54:13.55
>>330
後世の話ではなく、3世紀(卑弥呼とほぼ同時代)に書かれた魏略の中に、倭人は呉の太白の末裔だと名乗ったとあるんだよ。
つまり卑弥呼の時代の倭人は、すでに史記(呉の太白の話が載っている)などの文献を読んでいたことになる。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 16:07:32.54
>>334
南至る邪馬壹國の女王之所都→→→ 女王の都のある邪馬台国=別名女王国である
この女王国(邪馬台国)とは別に、後年共立に参加する予定の遠絶の傍21国があった。、

したがって、
伊都国に丗有る王(代々居た王たちは)皆、女王國に統属した(則ち邪馬台国に統属した)。 
(なおこの伊都国は) 郡使も 往來して 常所駐するところであった。
以上は、卑弥呼共立前の倭の状況に基づいている。

その後、倭人伝本文が2/3ほど進んで、
卑弥呼共立の記事が出てきた後は「共立に参加した倭30国=女王国」に拡大される。
0339日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 16:09:52.12
>>337
魏略も、「あいつら、こんなこと言っているんだけど」というニュアンスがある。
しかし、弥生人が史記を読んでいたとなると、歴史観が変わるよな。
0340日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 16:22:27.69
史記を読めるほどの語学力があったなら、自分たちでも何か文献を残したことでしょう
0341日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 16:36:59.96
律令制定時と明治維新の時の焚書で証拠隠滅。
0343日本@名無史さん
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2019/09/04(水) 17:52:47.84
>弥生人が史記を読んでいたとなると、

二千年前の倭人といっても我々と同じ日本人だからな。好奇心旺盛で勤勉。
舶載鏡があるのだから当然史記その他の大陸知識も旺盛に吸収していただろう。
0345日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 18:00:20.90
>>344
現代はアメリカが中心。
英語は読み書き、会話もできるよ。

日本の必修科目だね。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 18:19:11.22
墨と硯があったのだから、読み書きしていたのだようなあ。
魏志倭人伝でも伊都国で荷をあらためて間違いがないようにする、というのは、伝票か何かと突き合わせていたのだろうし。
0347日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 18:28:07.16
難升米は内すくねで都市もりは十市コリだね。難升米は武内すくねの弟。
0348日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 19:06:46.75
難升米は写本のときにパロったのではないか、
倭人伝の原本を読んで書いたらしい古事記(?)には難斗米とあるそうだ。
そうすると難斗米はナー・ト・ミーと読める。・・・中臣の祖??
0349日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 19:21:39.84
>>348
中臣だったら漢字で書くだろ
0350日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 19:28:44.06
中臣をナカトミと読むのは、記紀編纂頃の日本式訓読み
だから、中国漢字でかろうじてナカトミと読めるよう難斗米(ナートミー)と書いてあるんじゃないの
0351日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 20:14:49.76
隋書に距離を日数で数えるのは倭人の作法と明記されていることから明確なように、投馬以降の〇〇日記載および方角は魏人の計測ではなく、倭人からの伝聞。
不弥の港以降は倭人の船に乗ったから、勝手知ったる魏船と違って日数を距離換算できなかったということ。

周髀算経方式だと二点間の距離は測れるから、総直線距離萬二千餘里は基準となり得るが。
不弥以前は行程距離と思われる以上、直線距離の萬二千餘里と混ぜて計算するのは無意味。
0352日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 21:12:37.59
>>309
なかなかの力作おつ
邪馬台国の北側の範囲はまだ議論の余地があるだろうけど概ね正しいと思う
東渡海千里の倭種の国は大分の女王共立国から四国かな?
あるいは宇佐から山口県光市あたりでもあり得るか
0353日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 21:39:37.98
>>347
邪馬台国の官の一人、奴佳鞮は天糠戸命(アメノヌカド)じゃないか
都市牛利(トシゴリ)はその子石凝姥命(イシコリドメ)
0354日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 21:50:35.66
島津が石曼子。
大和が邪馬臺、邪靡堆でいいだろ。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 21:51:32.70
>>354
魏志倭人伝の記述とことごとく合わないので不可ですね
0357日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/04(水) 22:03:41.52
希望を交えず魏志倭人伝の漢文を正確に読めば以下のようになる

「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

結論
つまり女王国の北限に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を代々の王を差し置いて統治しているということ。

そして何より志賀島から新宮までを支配域にしていた安曇を勝手に伊都国と併せるなよ(笑)
0359日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 00:36:16.09
はっきり書かれているからな

倭(句呉)人らがいた拠点は蘇州と北方の虞と呼ばれたとこ
0360日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 00:40:36.03
354
島津は鎌倉御家人出身

島津、大友、少弐これすべて初代となる連中らがでとる

初めは鎌倉にいた

現地に土着したのは鎌倉時代
0361日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 00:42:32.48
まず鎌倉あたりにもともとの荘園ら持っているからなそゆ連中

同系島津一族なら川中島あたりにも枝分かれした子孫らがいた
0362日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 00:57:10.60
なんか日本史まったく無視しまくりやのおめら
0363日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 03:59:53.53
>>355
なるほど確かに一致してるな
これで魏志倭人伝の謎はほぼ解明か
0364日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 05:18:56.75
>>309
邪馬台国論争にはさんざん紆余曲折があったけど、最終的には割とオーソドックスな結論に落ち着いたな
0365日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 06:23:05.59
作っちまった感じやな

そんな感じがするわ
0366日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 06:24:10.76
はっきり書いてあるからな

会稽東治なんやろからな
0367日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 06:39:50.42
倭人らが会稽を統治していたんだろ

蘇州のすぐ隣やん

虞 (国名)
西周から春秋時代にかけての国。虞仲(上記の仲雍の子孫)を封建したとされる。現在の山西省にあった
蘇州市(そしゅうし、中国語: 蘇州市/苏州市、拼音: Sūzhōu、英語: Suzhou)は、中華人民共和国江蘇省東南部に位置する地級市。

蘇州のすぐ隣、会稽
0368日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 07:31:15.76
倭人らは魏の官人らに対して自らを太白虞仲の子孫らと名乗りをいれとる

どんな集団らかは知らないがな

そいから中国は陸路だけでなく河川交通が盛ん

何艘ものでっかい船が河川場で戦争できるくらいな

長安までも河川を通っていけるんだよ
0369日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 07:31:53.78
倭人は虞仲の息子の太白の末裔を名乗っていたわけだろ。
姫氏というのがこの一族の姓であり、卑弥呼の一族、筑紫王家の天孫族に対する肥国王家ということになる。
0370日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 07:37:40.17
なんか自作自演の響きアリやナシや、、、
0371日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 08:18:26.43
希望を交えず魏志倭人伝の漢文を正確に読めば以下のようになる

「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

結論
つまり女王国の北限に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を代々の王を差し置いて統治しているということ。

そして何より志賀島から新宮までを支配域にしていた安曇を勝手に伊都国と併せるなよ(笑)
0372日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 08:55:04.96
>>371
「諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

前節が後節にかかるのだから、
諸国は常治にかかり、・・・(諸国の内では常日ごろは伊都国に治す)
また国中にもかかる、・・・(諸国中に於いて刺史の如く振る舞っている)
0373日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 09:01:17.20
>>372
前節の意味が理解できない文盲
0375日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 09:54:05.85
太伯の後 の奏上、についてだが、
そもそも論で、倭人が皇帝に朝貢するという発想自体が出てくるわけが無い。
縄文海神の翡翠や黒曜石交易については、まあ年期は?だが確かに縄文である。
中華文明は見て、海賊っぽいが、有力王族との交易も有ったとみて良い。

青銅の移入を見れば、BC200年程度からである。
これを持ち込むにあたり、中国人の渡来が有り、
銅鐸や剣は日本製であるから、鋳造技術なども入っている。
本格的には、前漢武帝のBC108年漢四郡以降だとは思う。

この渡来人が、ある程度の、知識人であったことは間違いないが、
太伯については、史記レベルの文献に接する中国人でなければ知り得ない。
史記であれば、前述武帝で司馬遷だからBC90年以降だ。

考証可能な朝貢の記録は、AD57年金印からである。
この時、朝貢に関する献上品や奏上の知識を教えた軍師は存在した。

前漢や後漢であれば、どこの辺境王であっても朝貢は問題なかったと思う。
はったりでローカルで不明、しかも正統虞仲ではない太伯の末裔を名乗らせた。
相当な詐欺師であるので、史記以前の歴史が継承された秦の徐福の経歴偽装を想定したが
日本の青銅器の始まりが、始皇帝直結でもなければ、そんなに前の記録では無さそう。

倭人伝に戻れば、三国時代の魏は、
中華王の末裔を名乗る辺境王は認られないのではないかな。
これが、倭人伝では太伯の後削除の要因だろう。
0376日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 10:01:16.13
>>373
「前節」を自由自在に選択すれば、どんな解釈でもできる。畿内説の鷺手法と同じ。
0377日本@名無史さん
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2019/09/05(木) 10:04:43.83
たぶん刺青つながりで故事を中国人に教えられ、そう思い込んだか、そう主張した方が得だと考えたんだろ
0378日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 10:05:10.98
畿内大和説と九州古安説とは、アタマは同じで尻尾の長さが違うだけ・・。
アタマが死ねは二つの尻尾も一緒に死ぬ、ま、しっかりアタマに絡んで締め殺せばよか・・wwww
0379日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 10:12:04.67
>>375
>太伯については、史記レベルの文献に接する中国人でなければ知り得ない。
>史記であれば、前述武帝で司馬遷だからBC90年以降だ。
>考証可能な朝貢の記録は、AD57年金印からである。

この辺りの考察は面白いな。
弥生時代の年代を考える上でも大事だと思う。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 10:24:28.79
ここに住むこと7、8十年取り敢えず帥升だわね。帥升は王として中国に行っとる、が、あまりいい顔はされない。57年とは違う系列でしょう。どちらかが落としたんだね。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 12:28:48.71
ただよく考えてみると107年から約130年だから50年争ってたのは長過ぎるな、この間に東征があったのかねえ?
0382日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 12:46:19.71
【住】
じゅう‐・する  ヂュウ‥
〘自サ変〙 ぢゅう・す 〘自サ変〙

@ 住む。住まう。
A 一つの所にとどまる。長く同じ状態のままでいる。停滞している。

住むことではあるが、
Aの「長く同じ状態のままでいる(安住していた)」と解すれば、その安住ののちに倭国大乱がやってきた・・、ではいかが。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 12:52:29.29
神武らが筑紫を出た理由の一つに倭国大乱を想定するのは無理ないことだ。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 13:10:45.03
そのことだが、
倭国大乱というのは、桓霊のころに起きた中国大陸の争乱を逃れてやってきた貴人・軍団の主力集団で、
末盧国に上陸したのち、肥前・肥後・日向へと領土を広げた一族だったのではないか。
そして、旧来の博多奴国や不彌国師升を従え、また先住の狗奴国男王を熊本南部へ追っ払ったのではないか・・。
さらにその分派の神武たちは、遠く畿内から諏訪あたりまで進んだとみれば、その後のつじつまが合う。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 13:14:53.38
むしろ肥国が後から伸長してきた外来集団で、卑弥呼と卑弥弓呼が筑紫の天孫族を圧迫して神武らが都落ちしたのかもされない。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 14:52:37.82
倭なんて国号を日本が使っていた時代なんてないからな
0387日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 14:55:12.58
古代の地図なんか表すのに書かれていたりするが他称にしろ自称にしろ矛盾点はあるからな
0390日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 16:16:10.23
389
どの地域が?

あったとしても小国乱舞でそれぞれの国々の名前すらはっきり残っているのによ
0391日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 16:17:04.05
倭なんて地図にすら使ってたり残ってるとこもないだろ
0392日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 16:33:11.73
倭國自惡其名不雅,改為日本

明らかに倭国やーめたって言ってるね
0393日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 16:39:31.42
希望を交えず魏志倭人伝の漢文を正確に読めば以下のようになる

「自女王國以北 特置一大率檢察 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」

読み下し
”女王国の以北に一大率を置き特に検察す。
諸国は之れを畏れ憚る。
常に伊都国を治むる。
國中に於ける刺史の如く有り。”

和訳
女王国の北側に一大率を置いて、特に(=厳しく)検察している。
(そのため)諸国(の使)は之れ(=一大率)を畏れ、気を使っている。
(一大率は)常に(諸国の一つである)伊都国を治めている。
(一大率とは)国中に束ねる(魏の)監督長官のようである。

根拠
三国志の記述では前節が後節に掛かっている。
よって諸国が畏れている(諸國畏憚之)のは前節の一大率。
監視されている伊都国(常治伊都國)は前節の諸國。

結論
つまり女王国の北限に設置された一大率が諸国の一つである伊都国を代々の王を差し置いて統治しているということ。

そして何より志賀島から新宮までを支配域にしていた安曇を勝手に伊都国と併せるなよ(笑)
0394日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 16:59:27.05
だからどこにあったん?

倭って文字が人名に使われる人らはいるが倭って文字を使った国々なんてないぞ
0395日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 17:00:06.54
や〜めた!って?

元からそんな国はないもんよ
0396日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 17:02:27.31
なんだ、漢文も読めない、歴史も知らないクズどもだったか
0397日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 17:02:48.79
その場合はな( ・∇・)

中国側が勝手に倭国よばわりしていた可能性があるな

で、現実問題としてその人物らと会う機会があるとしよ〜

勝手に呼んでるが我々はそんなん知らない話だぞ!ってなる
0398日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 17:06:52.83
大和朝廷論自体が崩壊するがな

そんなんあったかすら疑問だぞ(゚∀゚)

だいたいちょっと前までの大和朝廷論唱えていた連中は中華主義みたいな話で進めていたからな

そいつらの矛盾が浮き彫りになってくればかなりねつ造した連中らがいた話になる
0400日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 17:19:51.19
>>388
魏志倭人伝で狗奴国は王の名が卑弥弓呼と記載されている。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 17:21:02.31
倭王が中国に国書を送っているね。
0402日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 17:22:14.51
倭国は倭人が「ワ(我、吾)のクニ」と名乗ったのを、中華で卑字を当てて音訳したんだよ。
もともと国号はおろか、天下国家という概念すら無い頃に

中華「お前らどこから来たんや?」
倭人「うーん。。別に国名とかないんで…『わしらのクニ』としか言いようないっスわ」
中華「んじゃ、お前ら ワ コクな。」
0403日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 17:29:46.20
中国人に言われ続けてるうちに、そーかなと思ったんだろ
0404日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 17:49:37.79
一人称を「ワ」とする民族集団が住まう地を「倭地」「倭国」と呼び、女王の任ずる「官」が置かれた国々を総じて「女王国」と呼んだ。
邪馬台国は女王国首都・王都の意であって、邪馬台国=女王国 とするのは完全に間違い。

倭国>女王国>邪馬台国が正しい認識。

倭国には狗奴国など、女王国に含まれない国邑も存在するが、それも含めて「倭」というのが陳寿の認識。
0405日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 17:54:27.91
まあ元は100以上あったんだからそうでしょう。30国vs狗奴国+?ってとこ。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 18:08:51.66
>>402
魏と倭が同じ発音なんだからそれは無いと思うよ
0408日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 18:25:56.28
>>404
>邪馬台国は女王国首都・王都の意であって、邪馬台国=女王国 とするのは完全に間違い

その解説は不十分で50点。
陳寿の文では、卑弥呼共立までは、女王の所都を擁していた邪馬台国だけが女王国。
卑弥呼が共立され倭王となってからは、共立に参加した30国を総称して、則ち倭国を女王国と称した。
論理的に云っても、共立の前と後では違って当然。
0409日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 18:44:02.21
倭人て呼ばれてる人物らがいたのが中国大陸の方

それから倭の起源での説明につながる部分が虞仲からはじまる句呉と呼ばれた連中らが始まり

初めから日本のこと指した意味じゃないじゃん💢
0410日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 18:44:49.87
日本には倭を含む名前を持った人物らが日本史にでてくるのみ
0411日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 18:50:18.98
倭の起源は虞←と呼ばれた中国にあった国から始まる

倭人は中国大陸にすでに存在しており日本には倭人なんて呼ばれた連中らなんて出てこない

日本にいたのは名前に倭を含む人名を持つ人らのみ

これすべてひっくるめて日本内の出来事としちまった部分がすべてねつ造にあたるわけ
0412日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 18:53:44.82
この虞仲から繋がる句呉から出てきた人物なら虞美人おるな

つまりこの人は倭人

漢て国が始まる前に劉邦と項羽が争った時代あったが項羽の妻だった人物
0413日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 19:06:33.49
>>408
>共立に参加した30国を総称して、則ち倭国を女王国と称した。

あほか。狗奴国はもとより、
女王國東 渡海千餘里 復有國皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國黒齒國 復在其東南 船行一年可至

女王統治範囲外にも倭種の国々があることは明記されている。
それらも含めて「倭」。

卑弥呼は倭王として冊封されたが、倭国内には未だ非女王国が存在するというのが中華の捉え方。

壹與の援軍要請をスルーして檄文でお茶を濁したは、遠征の価値無しが本音だろうが
「女王国VS狗奴国は、倭国内の内乱問題だから倭国王権で処理してね」ということ。
対外戦争という体になってしまうと、援軍を送らざるを得ないからね。

倭国=女王国なら、狗奴国その他はなんだ?っつー話になるわな。
狗奴国は女王国に含まれない倭国の一部。
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 19:17:13.57
例えば、
神武天皇紀
「時弟猾又奏曰「 倭國 磯城邑、有磯城八十梟帥。又高尾張邑或本云、葛城邑也、有赤銅八十梟帥。・・・」
0415日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 19:27:02.69
これ事実だからな

日本に倭国があるだの書いたやついたな

そんな基準はない
0416日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 19:28:30.27
双方向から書かれた場合はどちらから見た場合か?って選択肢がはいってくるのを考えながら判断しなきゃならないか?くらい常識やろ
0417日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 19:31:01.99
ならその倭人と呼ばれた連中らは日本で呉人と呼ばれた連中だよ

倭=句呉=呉人

つまり倭王とは呉王の分派
0418日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 20:21:26.05
>>413
陳寿の区分を混乱解釈してないか

倭地とは= 九州島= 倭の30国+狗奴国
倭国とは= 倭の30国
倭人とは= 倭地、すなわち九州島に住む人間たち
倭種とは= 倭国(女王国)の東の海を渡った先にすむ倭人に似た半人間ども
0419日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 20:38:12.70
会稽だの言われた地が拠点みたいな話なんだろ
なら船着き場みたいなんがその辺にあったんだろって話になる
九州からは起源前後から硯を使って漢字を使用した文書の記録みたいなんが出始める
だいたい倭王は中国の方と連絡を取り合いやりとりしたみたいなことが書かれている

日本内部のやつがこんなんできるかアホ( ・∇・)

はい、あとは考えろ
0420日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 20:50:00.69
>>380-382
住だとあまりに文意が不自然なので、「住」は伝写時の誤記で本来は「往」だったんじゃないかな
往時、往古などと言うように、往には過去という意味がある
往七八十年は70〜80年前という意味だろう
そう考えた場合「其國本亦以男子爲王 住七八十年 倭國亂 相攻伐歴年」は
「其の国(邪馬台国)もまた(狗奴国と同様に)元々は男子を王と為していたが、70〜80年前に倭国は乱れ、何年も攻め合った。」と読める

陳寿が引用したその文章を帯方郡吏か誰かが書いたのが西暦240年頃だとすると、その80年前は160年
桓帝の崩御が168年正月なので、70〜80年前は桓・霊の間にぴったりくる
0421日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 21:04:49.74
いつ書かれたのかはっきり書いてないのに、それが起点になってるわけがない
0422日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 21:13:15.15
>>421
それは陳寿が原文をそのまま引用したから
後漢書を編纂した范曄はそれでは何時起点だか分かりにくいから報告書の時点から70〜80年前を逆算して
それが桓帝と霊帝の間くらいの時代に当たることを記したんだろう
帯方郡吏の報告書には報告日時や報告者が誰か書いてあるはずだからいつからの計算かは原典を見た范曄には分かったはず
0423日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 21:17:11.19
つまり後漢書の桓・霊の間という記述はべつに新しい情報があったわけじゃなくて、
陳寿も范曄も同じ原典資料を見てそれぞれ三国志と後漢書を書いたけど表現の仕方が違っただけってこと
0424日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 21:41:00.97
梁書と解釈が違うね
「漢霊帝光和中(178〜184),倭國乱,相攻伐?年」
0425日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/05(木) 22:27:46.81
>>420
なるほど、そっちのほうが解釈としてすっきりしているな

>>424
梁書は時代的にだいぶ後だからなぁ
原本資料を見てない可能性も高いだろうよ
0426日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 00:05:30.63
>>418
混乱してるのはお前。
中華九州島王ぐらいで「倭王」に封ずるはずがなかろう。
漢代ですら、九州の盟主と思しき奴国王は
「漢の支配下の倭のさらに下の奴国王」止まり。曲解して委奴国王としても「漢の下」に変わりない。

中華はお前ほど阿呆ではないから、その時既に出雲・吉備に奴国以上の勢力があることを知っていた。
朝貢には来なかったがね。
九州王程度で倭王とするわけにはいかなかったんだよ。
倭国王として認めていたなら、印は「倭国王之印」になる。

現に、同時代の比較対象の「滇王之印」はそうなってる。

帥升もあくまで「倭面上(倭面土・倭面土地)國王」帥升であって、倭国王ではないからな。

卑弥呼が九州王を遥かに超えて「倭国王」待遇になったのは、九州南部など一部を除いて、本州含んだ倭地の多くを掌握したからに他ならない。
0427日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 00:06:53.50
梁書は(178〜184)−(70〜80)→107帥升朝貢(帥升の就位挨拶)にぴったり
0428日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 00:07:48.64
それはちょっと違うんじゃない、倭乱れ卑弥呼を共立したとあるんで7、8十年争ってたことになる
0431日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 00:31:08.66
>>426
.>漢の支配下の倭のさらに下の奴国王

もうそんな読み方してる人いないだろw
0432日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 05:30:51.88
つまりいつの時代にあたるかの目安になるわけか
0433日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 05:56:02.79
西日本全般に見られる豊富な漢代遺物はもとより、林・藤島遺跡(福井県 弥生後期〜古墳前期)の翡翠工房では大量の鉄製工具が出土されている。
北九州対馬ルートとは別に、日本海・半島大陸直通の交易ルートが弥生後期に存在したことは明らか。
福井〜新潟沿岸に見られる硬玉翡翠は中国では産出されず、重要な交易品となっただろう。
卑弥呼が魏に献上した「孔青大句珠二枚」も翡翠玉だと解されている。

北九州から福井に鉄器が伝播したとは考えにくいが、そうだとしたら九州から西日本・北陸に至るまでの広範な流通ルートが確立されていたという事になる。
倭側の認識としても、倭の範囲は九州島程度で収まるものではない。
0434日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 05:58:09.49
権威付けみたいなんに利用できるとこで勝手にねつ造しちまったわけな
0435日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 06:36:11.24
>>433
>卑弥呼が魏に献上した「孔青大句珠二枚」も翡翠玉だと解されている。

まさに、ここ掘れワンワン状態の、阿波考古学。    阿波の遺跡は、他のトンデモ説のチンケな遺跡とは、別格!   @阿波

女性の人骨出土 犬山天神山古墳(徳島市)

https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/52348696.html?__ysp=5aWz5oCn44Gu5Lq66aqo5Ye65ZyfIOeKrOWxseWkqeelnuWxseWPpOWis%2B%2B8iOW%2Bs%2BWztuW4gu%2B8iQ%3D%3D

石棺からは、ヒスイ製勾玉(まがたま)1点、青銅製の鏡1枚、水晶製勾玉1点、直刀1振り、

鉄鏃(てつぞく)35点、碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)8点なども出土。   

そのほか、

黒谷川郡頭遺跡http://yama4.web.fc2.com/oasa/kouzu.html

井出上遺跡http://awakouko.info/modules/xpwiki/?%BB%B0%B9%A5%BB%D4%2F%B0%E6%BD%D0%BE%E5%B0%E4%C0%D7

蓮華谷古墳群(U)二号墳https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14121
0437日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 06:56:42.67
「蓮華谷古墳群(U)二号墳」 https://sitereports.nabunken.go.jp/ja/14121

蓮華谷古墳群(U)二号墳出土品

当物件は、平成2年に四国縦貫自動車道建設に伴い発掘調査された板野郡板野町犬伏

所在の蓮華谷古墳群(U)二号墳の出土品である。調査により古墳時代前期(3世紀後

半〜4世紀)の粘土槨を持つ円墳であることが判明し、本県の粘土槨の始原を考える上

で重要な古墳である。副葬品には銅鏡1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄

?1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、徳島県立埋蔵文化財

総合センターで展示されている。前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、特に

銅鏡は?製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。   @阿波
0438日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 07:09:52.68
『其死有棺無槨』

そうかそうか

倭人とは 無 槨
0439日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 07:18:08.50
>>433
>卑弥呼が魏に献上した「孔青大句珠二枚」も翡翠玉だと解されている。
壹与だろ。

>北九州対馬ルートとは別に、日本海・半島大陸直通の交易ルートが弥生後期に存在したことは明らか。
>北九州から福井に鉄器が伝播したとは考えにくいが、

北九州経由を絶対否定する結論ありきのいつものパターン。

もうムチャクチャだな。
0440日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 07:20:46.05
倭国王を三国志時代の用語では倭王と呼ぶんだよ。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 07:22:22.31
だから倭国なんてもの自体がないって言ってるんだが理解力ないのか?
0442日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 07:23:46.12
頭が悪いなほんとに

こんなん勝手に呼んでたんがいるならそれは自称活動家の類だろ
0443日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 07:24:18.49
>>439

大陸と列島の間の交易の権利や玄界灘の制海権をめぐる争いが出雲の国譲りなんだろうなあ。
最終的に筑紫が列島の代表になったと記紀は伝えている。
それが筑紫の日向すなわち伊都国。
0444日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 07:26:14.16
出雲の国譲りだのに引っかけて今度は自分らの主張に結びつけよ〜みたいなんかな

付き合っちゃいらんねえわこんなんよ
0445日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 07:28:37.80
筑紫が日本の代表?
0446日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 08:03:47.54
>>420
なるほどなっとく
住むだとあまりにも表現がおかしいもんな
0447日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 08:26:44.36
住も往も、結果として70-80年の時間の経過を表す。
依って、
「男子王の時代が70-80年経過してから→ 倭国が乱れ→ 暦年(何年か)争った→ 共立一女→ 卑弥呼と名付けた」となる。

陳寿の文章の大きな特徴は、時間の経過を追って、川の流れのように順々に書かれていること。
だから文中で、卑弥呼共立の70-80年前・・、というような、歴史を逆転させて、時間をさかのぼる記述はない。
時代が前に戻る場合は、
・漢時、朝見者有り
・其の国元また男子を以て王と為し・・、のように、文頭に時代を明記してある。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 09:53:18.94
>>435-437
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0449日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 10:06:34.45
447、普通に解釈すればそうだよね。ここに住むこと7、8十年が陳寿はなんと思ってたか?だよね。107年は遠過ぎるし、なんか知ってたんだよね。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 11:40:00.53
知ってたも何も、その人が国を治めていたのだから気付かない訳はない
0451日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 13:10:33.00
う〜ん、だからここの男王が7、8十年+混乱+卑弥呼の統治をあわせても、帥升の107年には合わなくないか?って話な訳で帥升とこの男王一族の間に何かあったのかねえ?陳寿は越してきた理由知ってんのかねえ?という話。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 13:51:57.59
57年・・・漢時朝見者(倭奴国王)
107年・・・男子を以て王となし(師升)
108〜179年・・・住/往70-80年
180年頃・・・倭国乱れ(推定20年間)
200年頃・・・女王共立(ヒミコ)

女王共立の年号が書かれていないので、魏の時代(220〜)より前のことであったと推定できる
(魏志倭人伝ゆえ、年号を記載して魏の時代の事項でなかったことが明白になると困る)。
(しかし、もし卑弥呼の共立を書かなければ、前後関係が不明になるので、あえて年号を入れずに書いた。これは読み人も承知)
(推定卑弥呼共立200年・・・参考:神功皇后即位201年)
0455日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 14:42:23.84
>>454
8世紀の記紀は、どうやら三世紀の卑弥呼と臺與を神功皇后に置き換えようとしたのではないか。
とすれば、卑弥呼の共立念は繰り上げられた神功皇后の即位年、及び臺與の退位年は、
同神功皇后の退位年になぞらえられている可能性がある(高い)からだ。
0457日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 14:57:44.74
神功皇后はどう考えても記紀が倭人伝と辻褄を合わせるためにでっち上げたキャラでしょう
0458日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 14:59:15.55
>>456
どっかの歴代天皇一覧(記紀準拠)に載ってた。
で、神功皇后即位は201年、退位は269年と記憶してたけど、間違ってたか・・?
0459日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 15:10:05.96
日本書紀の記事をまるまる信じるとすると、ということね
0460日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 15:24:47.48
>>459
あらま、そういう面白い理解なのね!
日本書紀に書かれている年号そのものは事実であり、それはそれで致し方ない。
ただ日本書紀は、卑弥呼・臺與の替え玉として神功皇后を120年くらい繰り上げてキャラ設定したのであろう。
そして、活躍した場所は玄界灘沿岸に、名前は神功皇后に変えているが、
性別は女にして、即位年・退位年はできる限り卑弥呼・臺與に近づけて設定したのではないかという推測だ。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 15:24:48.25
三国史記にある、「二十年(173年)夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」
は無視するのか
0462日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 15:35:10.32
>>461
倭人伝には、倭女王(ヒミコ)の共立年は書かれていないので、確定はできない。
ただ、後漢の時代であったのではないかと推定できるだけだ。
だから、173年を信ずれば、そうだったのかもしれないし、
その共立後も倭国内のごたごたは続いており、200年ごろになってやっと落ち着いたのかもしれない。
ま、その辺りは、今となっては確定できそうにないが、
173〜200年頃のあいだの共立であれば、その後の展開に矛盾や支障はないであろう。
0463日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 15:38:13.89
中国史で楽浪帯方は238年から313年まで魏が治めた。
246年からこの313年までの間の馬韓、辰韓も魏が王政を廃して臣智他の直轄。 

神功皇后記の半島事績は350年辺りにもっていくしか無く
神話杉で存在も困難で 記紀での歴史の話は
百済建国の350年から400年以降迄、無理筋。
古墳は語るが、記紀はこれを語れない。

記紀は楽浪も知らない。
筑紫王卑弥呼の話は500年以降に三国志で知ったw
倭王とか金印とか、なんのこっちゃ状態。
四郡撤退の313年まで、三韓征伐の高句麗なんて無い。
 
倭人が侵入した記録も無いが、
246年で倭人系が多かったとされる弁韓については、魏史でも詳細を知らないし
王政が継続していることから、抵抗が制圧されてはいない。

その規模の小ささから言って、背後の倭人の後援が有ったと思う。
中国史は、皇帝の恥を記録しない。
0464日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 15:52:46.40
>>460
いじってあるのは年号だけだと思う。
よくよく読むと、神功皇后は仲哀を裏切り愛人との子を天皇にしたことがわかる。
記紀は応神の生まれた日にこだわり、生まれが遅れた理由まで書かなくてはいけない始末。
ということは、当時はすでによく知られた話でもあり、創作というわけではなさそうだ。
(わざわざ天皇家の恥を創作する意味はない)
0465日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 16:29:12.26
>>464
そうともいえるねえ
神功皇后記のあらかたは事実だが、ほぼ年号だけをいじって120年ほど繰り上げ、卑弥呼+臺與の年号にぶっつけて身代わりに仕立てた・・。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 16:37:55.02
>>463 名前:日本@名無史さん 2019/09/06(金) 15:38:13
>中国史で楽浪帯方は238年から313年まで魏が治めた。

あのー、魏は220年から265年までなんですけどー
そして266年からは晋(西晋)の時代。
0467日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 16:38:22.55
お前たちの解釈が間違いなのw

龍宮〜松傾は中国(中華)の人だとか、
頭の良い人は気づいていたり、なぜだと思う?
0468日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 16:40:12.72
中華コンプレックスか何かなんだろう?
0469日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 16:59:07.34
240年ごろに親魏倭王で40年前に即位じゃ応神幾つだよ。倭乱れるも20年は長過ぎるだろ
0470日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 17:02:37.57
応神は関係ないんだってば。
そもそも卑弥呼は夫も子供もいない。
0471日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 17:17:53.29
後の時代に卑弥呼と神功皇后を関連付けた人がいたというだけの話だからね
0472日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 17:30:59.08
卑弥呼の即位は、190年位ってのは有ると思うけど
大乱がそれまで7〜80年も続いたってことは無いだろうね。
大乱になる軍事国家じゃなくて、環濠集落程度の小領地の開拓時代だから。

107年から、ある程度の国が連合した卑弥呼即位当時の話とかで
紅巾の乱から朝貢が途絶えても、魏が滅ぼした公孫氏や韓との交流とか伏せてたんだろな。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 18:26:38.02
>大乱になる軍事国家じゃなくて、環濠集落程度の小領地の開拓時代だから。

それは鉄鏃のない畿内だけだろw
0474日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 18:59:21.89
明史の石曼子が日本の島津氏w
魏志の邪馬臺、隋書の邪靡堆が日本の大和なw
0475日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 19:46:26.77
457
だから〜倭人伝なんてのが日本に伝わったのが18世紀なんだよ
それまでどこにあったか!?って言えば中国本土
日本ではそれを知り得たから倭人伝が流行り始めて研究が進められいろんな学説が生まれた

桓帝、霊帝あたりの該当する部分が時代範囲に該当するって方が正解やないかい?
0476日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 19:47:37.45
その連中らが活動していた時期に当たるって考えりゃな

活動時期が判明する
0477日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 19:50:48.93
文献などに存在する人物らを実際の存在として仮定すれば海外からの模写だらけになるでよ

その模写に倭人伝は利用されていない

まったく中身が被らないからな

被るのは盤古神話の方

つまり日本が引用に利用したのは盤古神話を利用した
0478日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 19:54:46.31
>>473

うむ。
歴代倭国の盟主たる筑紫に対して、肥国の台頭があったのかもしれない。
その痕跡が筑後平野に見られる。
0479日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 19:56:57.96
この理論から行けばもともとの天皇家の起源となるものが時代からいた場所から判明する

いた時期は起源前からいた

場所は

四国←
0480日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 19:59:13.78
>>479
>四国←

四国じゃない!  阿波!   @阿波
0481日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 20:48:04.73
>>420
陳寿ほどの人物がわざわざ住なんて意味のよく分からん迂遠な表現を使ったと考えるより、
7,80年前と素直に書いていたが写本時に払いが一つ消えてしまったと考えたほうが合理的だな
0482日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 20:52:22.07
>>447
>・其の国元また男子を以て王と為し・・、のように、文頭に時代を明記してある。
「其の国元また男子を」のどこが時代明記なんだよコジツケすぎ
往七八十年(7,80年前)が時代明記だろ
0483日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 21:03:14.72
その国7、8十年前争い卑弥呼を共立してって卑弥呼幾つだよ。でなんで晩年に親魏倭王貰いに行ってんだ?
0484日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 21:10:43.96
>>314
海側を見ると今津湾の東端がイザナギが禊をしたと伝わる小戸の阿波岐原だね
その禊で生まれたのが安曇氏が志賀海神社に祀る綿津見三神なので、やっぱり今津湾全域が伊都の安曇海人の縄張りだったと考えるのが自然だろう
小戸のすぐ東には名柄川もあるけど、国邑を分けるにはちょっと川幅が狭すぎる観があるので、室見川が境界という>>305の推測は正しそうだ
0485日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 21:11:57.61
>>483
幾つだよと言っても倭国大乱が桓霊の間なのは事実なんだししょうがないだろ
0486日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 21:23:22.18
>>422-423
范曄が表現を変えたのは、帯方郡の役人が書いた報告書が魏代のもので後漢書の範疇から外れるという理由もあるんじゃないかな
桓帝霊帝は後漢の人物だから出来事としては記載したいけど引用元は後漢代じゃなかったから表記を変えたとか
0487日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 21:37:07.23
男王住むこと7、8十年で倭が乱れ卑弥呼を共立でも倭国大乱は成り立つのよ。大乱はその前だから、本は男王だから7、8十年前に男王が居たことになって大乱で争うこと歴年卑弥呼では長過ぎるし卑弥呼年食いすぎだろ?ってならない。
0488日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 21:42:54.96
>>487
倭国が乱れたときはまだ卑弥呼じゃないから7,80年前でも同じこと
無理な解釈に固執する必要はない
0489日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 21:47:52.05
だから倭人伝がなんで日本を語る規範になるんだ?

欠史七代実在として本土に渡ったのがなら開化の時期となる
0491日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 22:00:39.53
倭人伝は中国本土のみに存在した

倭人伝全てに記載されてることが日本史に該当するなら向こうの連中らが日本のことをまったく知らないのはおかしい!ってなる
0492日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 22:06:27.30
>>488
そういうことだねえ
70-80年前は間違いなく男王の世であり、
これに続く大乱が数十年であろうが、数年であろうが、その後に共立が行われたことに変わりはない、、、
そして卑弥呼は、景初2年(又は3年)に親魏倭王の金印紫綬を受けた。
0493日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 22:42:34.31
今日の朝日に日田の鉄鏡の記事があるが、
話題にすらなってないとか、どんだけやねん
0494日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 22:45:13.58
>>493
そりゃ、阿波のニュースのようにはいかんわね。   @阿波
0495日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 23:22:16.52
>>292,294について更に調べたが、どうやら間違いなさそうだ

>>292で書いたように筑前国風土記逸文に五十迹手が伊蘇志(イソシ=勤)と褒められたので地名をイソにしたとある
一方の五十猛はイサオシの神と称えられている
安曇磯武良=五十猛=五十迹手は確実のようだ

伊太祁曽神社の御由緒について
http://itakiso-jinja.net/yuisho.php
> そして五十猛神は高天原から樹種を持ってきますが韓国には植えず日本に持ってきて、九州より播き始めて日本中を青山にしました。
> このことから有功神(いさおしのかみ=大変に功績のあった神様)と呼ばれています。

また、先代旧事本紀によれば天村雲命の別名は天五多底(あめのいたて)とされているが
兵庫県の射楯兵主神社に祀られている射楯大神(いたてのおおかみ)はそのものずばり五十猛だとされている
http://sohsha.jp/under02.php
> 御祭神 射楯大神 いたてのおおかみ
> 五十猛命(いたけるのみこと)と称し、素戔嗚尊(すさのおのみこと)の御子神であられ、檜や楠等の木々を植樹して、日本の国土を緑豊かな国にされた
> 植樹の神様と崇められています。
> また、神功皇后(じんぐうこうごう)の新羅遠征の折に、御船の先導をしたという播磨国風土記の故事から、勝利や幸福へ導く道開きの神様としても崇敬されています

事績に神功皇后の新羅遠征で水先案内をしたとあるが、太平記や磯良神社の社伝によれば、神功の水先案内を務めたのは安曇磯良とされる
安曇磯武良=五十猛=五十迹手=天村雲命はもう間違いないと断定していいだろう
0496日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 23:52:18.91
それはそれでいいのだが一人の人物と考えるなら時代がまたがりすぎてるのではなかろうか
0498日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 23:55:53.81
496
欠史七代の子孫らってのはいるだよ
かなり古い氏族らに多い
ならその連中ら四国から広がったってなる
0499日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 23:57:12.62
四国に起源前から存在していた連中らがいたってなるだな
0500日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/06(金) 23:58:05.88
>>498
お前はもう少し日本語を勉強しろ。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 00:00:14.53
500
日本語で語ってるがw

海外の文献より日本にあった文献をはるかに優先して語ってるだよ(゚∀゚)
0502日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 00:03:25.33
倭人伝の見方は魏の連中らと倭人らのやり取りの記録に他ならない
倭王を語る連中らが日本にいた証拠ないからなw
0503日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 00:04:35.10
欠史七代の子孫らってのはいるだよ
かなり古い氏族らに多い

ふむふむ、、、

ならその連中ら四国から広がったってなる

なんで?www
0504日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 00:07:42.69
>>496
まさにそこが今回最大の収穫かもしれない
つまり記紀神話の年代のでっち上げの手法が判明したということだ

五十猛は素戔嗚命の息子なので神代の人間、というか神だが、五十迹手を褒めたのは仲哀だし、磯良は神功の水先案内を務めているから人代の話である
つまり実在の人物として人代に記録されている人間が別名を使って素知らぬ顔で神代にも書かれていることになる
従来考えられていたように神代が九州で人代が畿内というような分かれ方ではなく、人代の出来事を神話仕立てにして遠い過去の出来事として
投影したのが神代であり、人代と同一人物が重複して登場しているのだ

これはつまり、他の神々にも人代におけるモデル人物が存在する可能性を示している
例えば天照大神のモデル人物は神功皇后かもしれない、とかな
スサノオの子であるイソタケルが安曇磯武良なら、天照大神はその伯母にあたるから一世代上だが概ね同時代の人物とみると
むしろそう考えたほうが自然なくらいだろう

単に伊都国が安曇の国であることを実証するのが目的だったのだが、思いがけず記紀の嘘を暴いてしまったのかもしれない
0505日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 00:08:50.06
理解できないだか?(゚∀゚)
0506日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 00:09:52.45
なら無理やな
一生がんばれや
0507日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 00:11:47.42
なんで?って聞いた理由は?
0508日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 05:56:14.04
お前ら記紀をちゃんと読めよ。
卑弥呼はヒッキー神官、武闘派陽キャ神功皇后とは真逆のキャラ設定だろうが。
皇后と王では意味がまったく違うし。
神功=卑弥呼など後代のこじつけにすぎない。

記紀神話が単なる創作でなく史実の反映だとしたらむしろ神代末〜人代初期だろう。

弥生早期には
●樺太ルート
●朝鮮東岸-北陸ルート
●朝鮮南岸対馬ルート
●南方ルート
など、いくつもの渡来人流入があった。
0509日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 05:56:41.84
北九州で発展したのは対馬ルートの朝鮮系弥生人。

南方から華人江南グループが宮崎に漂着
→天孫降臨

宮崎にしばらく定住のち、北九州に進出するも先着朝鮮系弥生人・および断続的に流入する朝鮮系渡来人の圧に押される形で撤退・転進し畿内へ
→神武東征

神武はもちろん一個人ではなく、江南グループの「神武一家」の意。
100歳以上の年齢設定は神武一家主導のもと東征完了まで1世紀以上かbゥった、というbアと。

東征完了したのちに邪馬台国(ヤマト国)成立、だ。


高天原は江南地域ということになるな。魏略の「自謂太伯之後」記述とも合致するし年代も合う。
神武東征が魏晋期より後だとしたら記紀の時代にまったく合わない。
0510日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 07:01:45.54
>>504の続き
もっと深い問題もある
天村雲命が五十猛=安曇磯武良=五十迹手と同一人物だということが分かったわけだが、この天村雲命は
「然が宋の太宗に献上した王年代記にも登場する
曰く
「初めの主は天(御)中主と(号)す。 次は天村雲尊と曰い、其の後は皆な『尊』を以って(号)と爲す。」
とうとう倭王になってしまった
しかもなんと天之御中主に次ぐ二代目の倭王にされてしまっている

王年代記は記紀よりも後に作られており、神武の即位が周の時代と書かれていることからも明らかに年代が捏造されている
そして二代目倭王が天村雲命=五十猛=安曇磯武良になっているのを見ても、単に年代を何百年かスライドさせたのではなく
倭王の即位順までメチャクチャに改竄されているし、倭王じゃない人まで倭王にされている有様

要するに、大和朝廷が作成した史書は、個々のエピソードについては脚色、改変はあれど元になった事実があるのだろうが
その年代観も天皇の順番さえもまるで信頼が置けないということである
0511日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 08:58:33.97
仲哀神功の時代の話は、創作の部分も多いため、むしろ神代をモデルに人代を創作したのだろう。
伊都の語源については、後世になまってイソシが伊都になったと説明しているが、卑弥呼の時代にはすでに伊都が成立しているので、日本書紀の記述の方が明らかに創作だ。

>>508
>記紀神話が単なる創作でなく史実の反映だとしたらむしろ神代末〜人代初期だろう。

年代の点からいえば、これは神武が卑弥呼と並行する時代なのではないか。
神武の妃が卑弥呼とかいう鴨もいるが、卑弥呼は独身とあるので、むしろ神武が筑紫を出た後に筑紫で倭王となったのが卑弥呼ではないか。
神武が筑紫を出たきっかけとして倭国大乱が想定できる。
0512日本@名無史さん
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2019/09/07(土) 09:03:38.96
>>509
いろいろ間違いだらけだ。
江南からの民族は福岡に上陸し弥生文化を成立させたことが考古学的に推定されている。
記紀の国生みは博多湾の能古島(おのころ島)に天の沼矛を用いるところから始まり、銅矛文化の中心地も考古学的に九州北部となっている。

宮崎は、筑紫を追い出された海幸彦の末裔である隼人の故地となっている。
追い出した側の筑紫の日向の倭王である山幸彦を祭るのが、伊都の高祖神社となっている。
0513日本@名無史さん
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2019/09/07(土) 09:08:50.27
>>480
>>494
でも、泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃんwww
0514日本@名無史さん
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2019/09/07(土) 09:09:31.55
>>510
>そして二代目倭王が天村雲命=五十猛=安曇磯武良になっているのを見ても、単に年代を何百年かスライドさせたのではなく
>倭王の即位順までメチャクチャに改竄されているし、倭王じゃない人まで倭王にされている有様

改竄なのだけれども、複数の人物に同じ名前を与えた結果に見える。
そして五十猛も倭王だったのだろう。
というか、そもそも倭王の定義が緩やかで、現代において神代の神と呼んでいる人物は殆どが倭王かそれに準じた立場であり、倭人は皆が王や大夫を自称していたというのと似ている。
その中でも明確に倭王とできるのはやはり漢から冊封を受けた倭王しかなる、それは金印が示すように筑紫の倭王となる。
安曇や五十猛は十分にそれを満たすし、その所在地は志賀島や早良や能古島や伊都だったりするのだろうが、すべて博多湾沿岸と見ることができる。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 09:46:39.45
免田式土器の分布:
熊本県を中心とする南九州に分布する。
150ヶ所で発見されているが、熊本県は95ヶ所を占める。
特に球磨・人吉では30ヶ所あり免田式の本場であることが推定される。
0516日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 16:05:57.72
>>496
イソタケルがイソ国=伊都国の王の美称ならば、代々の伊都国王がそれを名乗った可能性もある
つまり●代目イソタケルがずっといた可能性
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 16:16:06.69
伊都国で五十猛を探したら、王丸の白木神社というのが出てきた。
王の城(バル)の新羅神社。
五十猛は新羅から苗を持ち帰り植樹をした林業の神様なので、ここにいたのかもしれないね。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 17:27:00.00
神社ってのができ始めたのは平安時代なんだよ

秦氏が持ち込んだってか自分らで大工仕事みたいなんから創建した位置が近江、そのあと源平時代初期ころから全国に広がり始めたの
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 17:27:36.20
安曇磯良は本当にあちこちに出てくるな
タケミカヅチやアメノコヤネまで安曇磯良らしい

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%98%BF%E6%9B%87%E7%A3%AF%E8%89%AF
>民間伝承では、阿曇磯良(磯武良)は豊玉毘売命の子とされており、「日子波限建」(ひこなぎさたけ)と冠されることのある鵜葺草葺不合命と同神であるとする説がある
>(磯と渚はどちらも海岸である)。また、『八幡宮御縁起』では、磯良は春日大社に祀られる天児屋根命と同神であるとしている。
>『磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神
> 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神』(愚童訓より)

http://www.genbu.net/saijin/isora.htm
>袋中上人の『琉球神道記』には「鹿島の明神は。もとはタケミカヅチの神なり。人面蛇身なり。 常州鹿島の海底に居す。
>一睡十日する故に顔面に牡蠣を生ずること、磯のごとし。故に磯良と名付く。 神功皇后、三韓を征し給うときに、九尾六瞬の亀にのりて、九州にきたる。
> 勅によりて、梶取となる。また筑前の鹿の島の明神。和州の春日明神。この鹿島。おなじく磯良の変化なり」とある。
0520日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 17:31:06.25
京都あたりにだいたい武家の連中らみたいなんが行くな

んで向こうで元服してくるだ

そんときに公家の連中らが保証人になったりなんとか社みたいな寺院だかよく分からんとこで元服して地元に戻ってきたら氏神神社を作った

こやって広がったわけ
0521日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 17:37:21.31
まず秦氏(渡来人)が持ち込んで創建したものが始まりは間違いなかろ

んで京都に行って元服してくるだな

そんときは公家の連中らが身元保証人になるわけよ

その元服した寺院だか神社だかよく分からん建物があるだろ

それが加茂神社だの新羅神社って呼ばれたわけ

そんでその神社の名前を一代限りの苗字としたわけ

八幡社→八幡義家

新羅社→新羅義光

加茂社→加茂義綱

みたいにな
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 17:38:48.28
自分らの領地に戻ってきたら新たに氏神神社を作る

その神社の名前をもって苗字とする

始まりはこおなん
0523日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 17:47:51.07
制度としてはそうでも、始めが逆じゃないのかな

八幡一族の人が元服する時は、京都の八幡社で元服して八幡義家と名乗って、
お祝いに地元領地で八幡神社を創建あるいは寄進する

みたいに

それぞれの氏族が各地に住んでいて、その代表が京都にいて、

江戸時代の江戸藩邸や京都藩邸みたいな感じで
0524日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 17:50:09.75
九州の神社の多くは奈良時代よりはるか前にあったことが記紀からわかる。
畿内でさえそうだ。
平安時代だ?
日本の歴史を半分に縮める気か?
0525日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 17:53:44.50
八幡一族?
そんなんない!

八幡大社を作ったときが始まりか!

なんらかで八幡社が存在していてその社号を貰ったかが始まり

鎌倉の八幡大社は頼朝が五代前の義家の事績を尊重して建立した鎌倉時代に建てられたもん

源氏の連中らは鎌倉を東国における都としたからな
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 17:55:32.44
江戸時代の話だろ

それは家康が江戸城を作ったときに都市割りを作ったんだよ
0527日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 17:57:25.78
銅鉾や銅戈が境内から出土してるからね
古代は政祭一致だから建物だってあっただろう
倭人伝に書かれた倭人の風習がそのまま神社参拝の作法だし
0528日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 17:57:55.51
日本は海外の様子は向こうから取り寄せた文献などにより知るのみ

どっかのバカは平気で成りすまし主張するからな

それクセなんだろ
0529日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 18:00:37.57
527
アホかてめえわほんとによ

なんか気持ち悪いんだよてめえみたいなん

他人の意見にぶら下がりやってるんと同じだからほとんど足を引っ張っているんと同じ
0530日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 18:01:53.94
このクズ

倭人伝とやらとどやっても結びつけたいみたいだな
0531日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 18:08:57.13
>>519
やっぱり伊都国王はみんなイソタケル=磯良を名乗ってたんだろうな
0532日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 18:12:07.10
爾支との関係性は?
0533日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 18:21:33.41
>>511
>神武の妃が卑弥呼とかいう鴨もいるが、卑弥呼は独身とあるので、むしろ神武が筑紫を出た後に筑紫で倭王となったのが卑弥呼ではないか。
神武が筑紫を出たきっかけとして倭国大乱が想定できる。

逆。倭国大乱は神武の畿内進出より遥か後のこと。

弥生早期から古墳時代まで、北九州は民族流入激しい紛争地帯。
武具の出土が多いことからも明らか。
倭国大乱とは、倭全土に及ぶ戦国時代的なものではなく、北九州の主導権争い。
倭人伝の魏帝の言葉にある通り邪馬台国は
「汝所在踰遠(汝の在る所は遠きを踰(こ)える」、漢代から何度も朝貢のあった北九州から遥か離れた地にあり、中華(魏)からは状況を窺い知ることができない。
北九州の地域紛争が(本州は安定しているにも関わらず)中華には「大乱」に見えた。

北九州地域が戦乱で疲弊する間、出雲・吉備・畿内等の本州勢は富国政策を進めることができた。
覇権争いで収拾のつかなくなった北九州は本州の大国である邪馬台国に統治を求めることによって、漸く安定を見る。

武具の出土を北九州の先進性と主張する阿呆も居るが、それは
「人民共和国には(日本にはない)核兵器も弾道ミサイルもあるニダ!共和国の方が国威が上ニダ!」
と主張するぐらい愚か。
0534日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 18:25:01.20
富国ったって何にも無いじゃないか
0535日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 18:27:33.69
>>654
>卑弥呼より前1世紀後半から2世紀半ばの伊勢遺跡。

ウソはイカンぜよ。


>巨大な銅鐸が見つかっている

巨大な銅鐸 「矢野遺跡」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/135244
>>534
富国は、倭国(阿波)だけ。   @阿波


        
0536日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 18:28:42.29
>>654
>卑弥呼より前1世紀後半から2世紀半ばの伊勢遺跡。

ウソはイカンぜよ。


>巨大な銅鐸が見つかっている

巨大な銅鐸 「矢野遺跡」
https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/135244
0537日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 18:29:00.80
>>534
富国は、倭国(阿波)だけ。   @阿波
0538日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 18:49:45.63
銅鐸やら銅矛が見つかった地域はそれに纏わる伝承を作っちまったが正解

つまりもともとはなんだか分からない

掘ってみたら出てきたときが始まりだからな
0539日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 18:55:25.16
中国史の文献に書いてあるんだよ

倭人は紀元前8世紀ころに滅んだ虞って呼ばれた人々に関係ある連中
0540日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 18:56:50.01
矛の伝承や祭りは一杯あるが

銅鐸の伝承や祭りなんぞ無かろう
0541日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 18:59:05.17
向こうでな

神話とかじゃなくちゃんと正史化されて書物に記されてんだよ

そいから向こう中国との縁なんてものがあるなんておまえら考えるなよ

魏の人間らに対して倭人らとのやり取りが向こうの文献に書かれてんだからよ

つまり倭人らが勝手に日本を倭国呼ばわりしていた可能性の方がでてきたんだからな
0542日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 19:00:01.35
矛の伝承なんざねえよ

日本史にはほとんどでてこないぞ
0543日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 19:01:01.66
もう全滅って言っていいくらいない
0544日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 19:04:44.79
日本の長槍は足軽時代になって雑兵らが持つ武器として広まったんだからなw
0545日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 19:10:16.91
虞って呼ばれた国に関係ある連中らがいたのが中国蘇州

そいつらが倭人なら中国史にでてくる楚漢戦争の楚帝、項羽の妻だった虞美人は倭人←てなるわけだ

でも日本にいたわけではない

倭人らは中国大陸の方にいたんだよ

そお書いてある
0546日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 19:14:49.96
日本列島の形成が矛によるものなのだが
0547日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 19:15:11.86
つまり答えは簡単

倭国の発展が日本に非ず

日本はもともといろんな国々があったがその総称として日本という名前に決まった

向こうつまり魏あたりと直接あったなら日本を倭国と向こうの連中らが勝手に呼びそれを否定するために日本に決まったと推測できる
0548日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 19:17:44.80
勝手に倭国呼ばわりしてるならそりゃ倭人らだろ

魏の連中は倭人らから情報を仕入れてそれを文献に書く

だがそんな話は普通、誰も知らないって日本側ではなるわな(´∀`)
0549日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 19:20:08.05
ならんだろ

記紀でも倭人伝が引用されておるし
0550日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 19:27:42.48
引用されてるか?

見当たらないんだがさ
0551日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 19:29:36.88
やつら倭人条で書いたのいっぱいあるんだろ?

どこらあたりが引用されてるかここに書いて示してみてくれ
0552日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 19:31:44.51
なんかおまえらが悪あがきしてるくらいのもんだぜ
0553日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 19:47:32.54
なんとかして倭国と日本の連続性を断とうと必死な外国の人
0554日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 19:55:19.02
>>527

ですな。
神社の建築様式は、かつての王宮の様式だったのでしょう。
神とはつまり王族のこと。
九州の主な神社は概ねかつての王宮が存続したもの。
0555日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 19:55:51.39
>>529
まともな議論の足を引っ張っているのは君の方だ。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 20:03:55.52
>>532
記紀と対照するならば、伊都国の禰宜は邇々藝の末裔、すなわち旧伊都国王家の頭領、天孫族の生き残りだろう。
これは高祖神社のヒコホホデミと同じこと。
神武の諡もヒコホホデミだしね。
神武らは四兄弟なのに、東に旅立ったのは二人だけ。
残りの二人は筑紫に残ったのだろう。

それでは卑弥呼は何者なのか?
狗奴国の王が卑弥弓呼とあるので、おそらく同族だろう。
つまり卑弥呼は肥国から倭国全体(筑紫、肥国、豊国)の王に共立され、伊都の天孫族の上に君臨するようになったわけだ。

安曇や五十猛は何者か?
記紀の大山積の一族であるなら、天孫族が筑紫に入るより前から博多湾沿岸にいた倭王の家柄である。
後に天孫族の力の拡大により遠賀川からさらに宇佐へと圧排されていった豊国王家だろう。
豊玉姫などの名が系譜に見られる。
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 20:10:41.57
バカやこいつ

憶測しかしとらんでそれで話が通るのかよ
0558日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 20:13:21.05
憶測の部分は実はほとんどない。
各種の伝承や史料をつなぎ合わせてあるだけだ。
0559日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 20:25:21.60
倭人伝なんて言ってるのがおかしいからな

それ魏とやらの連中らが調べて書いて持って帰ったものがずっと中国の奥殿みたいなとこに保管されていたものだろ

参考にしたいから!って言ってもなんでおまえらに見せなきゃならないんだよ(´∀`)って言わば重要書物の類いだぞ

引用できるわけないじゃん

日本書記が引用してるのは盤古神話の方だって書いたよ
0560日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 20:27:01.27
言ってみりゃ調査書とかそんな類いやぞ

一般に出回るものですらない

もし似たよ〜なんあったらねつ造しかありえんわな
0561日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 20:31:48.86
>>559
妄想はいらない。
0562日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 20:33:20.12
為政者が自分の手柄みたいなのを世に示すために書かれる文献と言うのもある

日本でも太平記やら神皇正統紀書かれたわな

書いた人物の名前すらはっきりしとる

いわば政権の正統性を示すために書かれ世に出回るために為政者が流すのもあるがなw
0563日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 20:35:18.08
561
てめえがな
ちょっと聞くがなんでおまえが妄想だの決めつけてるわけ?
0564日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 20:35:57.62
いらないってならてめえがいらない

なんか気持ち悪いやつだな
0565日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 20:46:19.32
卑弥呼が卑弥弓呼と同族であれば、
卑弥呼の邪馬台国は本来伊都国を盟主とする倭国であるのに対して、
卑弥弓呼が立ち上げた狗奴国こそが肥国王家の本名ということになるかな
0566日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 20:49:18.13
アホな妄想やってんのはてめえだよなど〜みても(゚∀゚)

キチガイ染みてるぞマジ
0567日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 21:20:16.25
肥前王家って?
0568日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 21:20:40.00
あった証拠でとらん
0569日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 21:34:55.87
卑弥呼が卑弥弓呼と同族ということはないだろな。
同族というのは、名前がなんとなく似てるからという日本人の受け止め方だ、
書いた本人は中国人なのだから、卑字を使ってどっちもどっちという印象を込めただけ。
素より不和なんだから、年来の宿敵で、狗奴国は呉ゆかりの種族だったのだろう。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 21:46:19.20
>>565
>卑弥弓呼が立ち上げた狗奴国こそが肥国王家の本名ということになるかな

卑弥呼が素より不和というのは、その共立または即位の段階から、家督争いをしていたとも考えられるのですよ。
肥国から筑紫を含めた倭国全体の王になったものの、倭王として王都の伊都に入ったら、本拠地の熊本を取られてしまったといったところかと思います。
0571日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 21:47:45.95
>>569
>素より不和なんだから、年来の宿敵で、狗奴国は呉ゆかりの種族だったのだろう。

なぜ素より不和だったかの理由が問題ですよ。
同族なら、卑弥呼も呉ゆかりの姫氏で説明がつきます。
0572日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 21:56:52.23
姫氏ね
現代日本語のキャラクターセットだと姫氏と記すより他ないんだが
本来からすれば姫氏というのは誤表記
0573日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 22:07:40.62
kwsk
0574日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 22:22:35.39
姫氏なんてのが日本にきた証拠でとらん

倭人(呉人)らが日本にいたって話をしとる

呉人らなら九州から漢字を使用した遺物みたいのがでとる

そいから彼らは朝廷などにも古い時代に作られたが学問所の教官として採用された
0575日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 22:24:08.23
王家なんてのがでとる証拠はまったくない

そいから太宰府ってのは学問所

そこに勤めていた一族が橘氏
0576日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 22:24:52.82
姫氏というのは呉の太白の一族のこと。
0577日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 22:26:50.45
倭人て呼称自体がな〜日本で使われた歴史はない

そいから遣唐使を送ったあとはこのとき始めて漢字を漢音で使用する学問が始まった

てめえらの妄想いい加減にしとけ(゚∀゚)
0578日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 22:46:06.33
>>576
そこのところに限定すべきではない
周王室から分家した姬姓の諸国のひとつが句呉
0579日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 23:07:28.30
邪馬台國と対抗するくらいなんだから狗奴國って委奴國の流れなのか?
0580日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 23:42:12.25
>>579
たぶん違うと思う
金印が安曇海人の総本山である志賀島から出ているから、安曇の国である伊都国が委奴国の系譜だろう
安曇と伊都国については>>292参照
0581日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 23:49:57.84
>>580
例えばだが、委奴國を滅ぼしたのが安曇海人だったとしたらどうだろう
博多湾の出入りを睨む要衝だからな、大阪城のように
0582日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 23:55:12.03
倭人伝の固有名詞に関する、和語を変換した表音文字と
時の使譯が記録に使用した表意文字を分析すると、
また面白い事実が見えて来るヨ。

氏姓は天皇が与える時代までは無いし、倭の五王は中国語名を使った。 
氏姓は五経博士が来て、仏教公伝とかで漢字が普及する500年付近からだ。

倭人伝の倭使である大夫は地域名を姓としてる。
卑弥呼と卑弥弓呼は、地域領主の大夫とは違う統合国の王だけど
卑弥と言うのが、地域名ではなく、阿蘇火山にまつわる神官の役名かと思う。
0583日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/07(土) 23:57:32.63
>>581
委奴国消滅説?それは十分にありえるだろうね
光武帝から魏志倭人伝まで200年くらい間があるし
0584日本@名無史さん
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2019/09/08(日) 00:06:51.78
単に王宮が移動しているだけだろ。
0585日本@名無史さん
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2019/09/08(日) 00:08:34.64
>>582
>氏姓は天皇が与える時代までは無いし、倭の五王は中国語名を使った。 

皇国史観ですか
倭王の姓はアマ
0586日本@名無史さん
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2019/09/08(日) 00:14:31.76
魏は後漢から禅譲なんだから委奴国勢力が残っていれば漢委奴国王金印が倭人伝にも登場するはず
0587日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 00:33:03.13
記紀を読むと、筑紫では天孫族(ニニギら)と大山積の王家(木花咲耶姫や豊玉姫ら)がそれぞれ男系相続と女系相続をして婚姻関係を結んでいたことがわかる。
大山積の別名が和多志大神であり、豊玉姫の実家が綿津見の宮であることからも、大山積とは志賀島の海神そのものであることがわかる(なぜか海と山の両方の性質を兼ね備えている)。
天津神と国津神のどちらも筑紫の日向の小戸で生まれたイザナギ大神の末裔である。
木花咲耶姫の嫁いだ先が伊都で、細石神社に祀られている。
ニニギと木花咲耶姫の間に生まれたのが山幸彦ことヒコホホデミであり、伊都の高祖神社に祀られている。
記紀からわかることは、博多湾沿岸の勢力は複数あるが、いずれも親戚であり、滅ぼし合うような関係ではなかったということだ。
イザナギの末裔として複数の宮家が並立しているような状態だったのだろう。
そしてそれぞれの王家に対応する神社が現存しているので、元々はこれらの神社が宮であったのだろうと考えられる。
さらにこの二王家を支える豪族に安曇氏や宗像氏といった他の海人族があったのだろう。
最終的に天孫族の末裔が天皇家になるため、記紀は天孫族の視点からその系譜を伝えている。
0588日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 00:37:45.79
アホかよ

ほんとすっげ〜妄想ありきで話進めてんな
0589日本@名無史さん
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2019/09/08(日) 00:37:49.33
>>586
そもそも卑弥呼が倭王として国書を魏に送ったとき、志賀島の金印を使ったはず。
そうでないと、本当に倭王からの国書であるかどうか証明できない。
魏は漢から禅譲されたので、漢の金印は魏に対しても有効なんだよ。
その後に卑弥呼は改めて親魏倭王印を受け取っているので、最後に漢委奴国王印を正式に使用したのは卑弥呼だったということになる。
0590日本@名無史さん
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2019/09/08(日) 00:38:23.74
>>588
どこが妄想に思えるのか教えてくれ。
0591日本@名無史さん
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2019/09/08(日) 00:39:36.01
なんで王宮とやらが移動した前提で話進めてんだよ

それてめえらの願望とか?
0592日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 00:40:12.50
すっげ〜うざいんマジでな
0594日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 00:42:29.98
おいこいつらなんとかしろよ

しつこく繰り返してるわなほんとによ

まともに議論にすらならねえわこれじゃよ
0595日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 00:43:28.86
なにが王宮だボケ

それでそれ書いてそ〜なんだ〜とか言うやつがいると思ってんのか?
0596日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 00:44:35.93
は〜じゃ〜ど〜すりゃよいわけ?

そのバカどもの始末でもつけりゃよいんか?
0597日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 00:46:06.01
アホかい!だからど〜した?

へ〜、すごいねか?ありえるわけないだろバカがよ

少しは考える頭すらないのかおい(゚∀゚)
0598日本@名無史さん
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2019/09/08(日) 00:46:29.76
古代においては、王族ごとに宮家を持っていることが普通だった。
0599日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 00:47:45.87
知るかボケ(°▽°)

てめ〜の主張なんざ通るかアホ
0600日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 00:55:08.40
宮家、今の天皇みたいにか?

なら廃止しちまえばよいやんかよ(°▽°)

てめえらの主張がうぜえんだよマジでな

バカはくれくれしか頭にないからな
0602日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 00:58:38.15
古代の天皇も一人一人が別の宮に住んでいただろう?
神社の本殿の大きさを見れば、そんなに何人も住めないよね。
一般人は竪穴住居に住んでいたけれど、王族は高床建物の宮に住んでいて、いわゆる宮様だったんだよ。
イザナギの故地である筑紫の日向の小戸を囲むように伊都、奴国、志賀島は並んでいて、中国人の感覚では別々の国邑になるのだろうが、博多湾沿岸で一つの国、すなわち倭国になる。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 01:04:59.10
移動する王宮ってや?
それモンゴルの話だろボケ(°▽°)
だいたいどこも死んだらはいる王廟ってのが向こうあったはずだがなあ?
0604日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 01:05:36.46
601
どれ指して言ってんだ?
0605日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 01:06:11.42
転載

(-_-;)y-~
奄美方言、くま=ここ、あま=あっち。
北部九州=あまの国
中南部九州=くまの国
はい、解決。卑弥呼が勝手に外交やり出して裏切ったんよ。
裏切者血統なんで詳しいことが書き残されていない。
と俺は思っている。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 01:17:24.33
単なる裏切り者だったら悪者に仕立てた上でその旨を書くだろうから
0607日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 01:39:29.26
そかそかそゆの認めてないからよ
0608日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 01:41:25.98
606
なんか読みもんかなんかと勘違いしてないか?
0609日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 02:42:47.73
>>535-537
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0610日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 02:44:40.58
>>585
天が降ってくるから雨はアメ

西暦600年に倭王「阿毎多利思北孤」はアメ姓を自称している(中華書局『隋書』でAME TALISHIBUOKO AHOKIMIと断定済み)
また、アメ王によって自国(倭国)の阿蘇山の噴火が伝えられているため、倭国は北部九州で確定

なお、現代研究では阿毎の古音には七つの解釈がなされており、五段母音に音階すればアメの確率が約50%であり、アマの確率は15%以下

 
加えて、7世紀後半に天武天皇は尼(アマ)子娘を娶って当時最大支配域を持つ海人族であった宗像氏と姻戚を結んだ
天皇家が海人族であったなら改めて親戚関係を結ぶ必要はない

 
一方、8世紀初頭に完成した古事記では編纂者がワザワザ「訓高下天云阿麻下效此」と注釈をつけ、高+天の場合のみアマと読むよう指定されている
つまり高天原以外の天はアマとは読まないという揺るぎない傍証

同じく、8世紀初頭に完成した日本書紀では天照大神の誕生以前にアマが付く神が存在しない

 
 
天=アマ=海人だと妄想するカマチョンの反論は個人的願望や独自解釈に終止しており、根拠を示せていない

 
天 = ア マ = 海 人 だ と 妄 想 す る カ マ チ ョ ン コ の反 論 は 個 人 的 願 望 や 独 自 解 釈 に 終 止 し て お り 、 根 拠 を 示 せ て い な い


結論: 海 人 = ア マ ≠ 天 ( ア メ )
0612日本@名無史さん
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2019/09/08(日) 03:16:31.36
九州倭国時代って?

そんなんないっす
0613日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 03:18:22.02
ありえるとしたら勝手に自称している連中らが勝手にいついたか

魏の連中らが勝手にそ〜よんでいたかのどちらかっす(°▽°)

魏(中国)本流が今の中国の母体っすからな
0614日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 03:19:55.74
日本本土から中国にアポ取ったんは考えにくいからの

普通に考えてそんなことありえるわけないんだよ
0615日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 08:13:01.06
>九州倭国時代を隠そうとしている

大敗して慌てて作られたわけだから白木のも倭国王統だったんじゃないの?
本来の初代がアマテラスもしくはニニギだったのを白木と分岐したところに初代をもってきた
0616日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 08:29:11.20
それであれば既に畿内が中心の時代だし
神代をぼかしてそもそもの出発点を宮崎に設定する動機にもなる
万一攻め込まれて本来の筑紫の日向を占領されて倭国王を名乗られる危険性を回避
0617日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 08:48:09.65
アマテラスは初代でもなんでもないぞ。
明治維新の亡霊は消えろ。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 10:11:59.76
釜山対馬ルートの朝鮮系渡来人が北九州に定住した。
北九州の強国・奴国は朝鮮系渡来人+先住縄文人のハイブリッド国。

江南由来の華人は後着のため、すでに奴国が成立していた北九州には定住できず、畿内へ。
北九州が地域紛争で衰退していく間に成長・倭全域の盟主、邪馬台国となる。
邪馬台国が江南由来であったことは、魏略「自謂太伯之後」より明らか。朝鮮系ほどの大量移民は考え難く、江南系は支配層に限られると思われるが。

邪馬台国が畿内の盟主から倭全体の盟主となっていった要因は、水稲栽培など高い農業力。
どの文明でも古代で最も重要なのは「民草を食わせること」に尽きる。

農業生産には気象天文の知識が不可欠だが、江南系の邪馬台国支配層は天文に長けていた。
権力独占のため支配層の機密事項として、庶民には「神託」という形で情報を与えていたわけだが。

支配層の一人アマテラスの時期、神託にない日食が来てしまった。早い話が日食予測に失敗した。
天岩戸伝説はこれに拠る。

紀元158年日食である可能性が濃厚。
0619日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 10:25:01.75
考古学的に誤りだよ。

江南から来た倭人(弥生人)が九州北部にたどり着いて稲作を伝えた。
これが弥生時代の始まり。
そして倭国の支配層となった。
後から朝鮮半島経由で渡来した人たちが、開拓が進んでいなかった畿内に流れ込んだのが古墳時代。
0620日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 11:30:24.98
>>619


で、弥生人が長江・江南から渡来定着した事を証明する証拠遺跡と、
その生活痕たる衣食住に関わる生活密着型文物と住居文化である

三足や耳の付いた中国系土器の飲食器や炊飯器や調理器と

石刃の中国系耕作用農具と

中粒種の中国系イネと

土壁の中国系住居と

帯と袖の付いた中国系衣類と

龍信仰と

亀卜と、

渡来時に伝わった中国系言語の単語は?


で、弥生人が長江・江南から渡来したと提唱している頭のおかしな考古学者の氏名と所属団体は?


.
0621日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 11:32:31.18
それで、お前の名前は?
0622日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 11:37:02.45
>>617
なぜ知っているの?
ホンモノは河童(不明)などの話でしょ
0623日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 11:43:04.04
んだよ普通は自分らの歴史に関係あるもんは神話形式で書かないもんよ
0624日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 11:44:55.45
まったく知らないものが見つかっただのあるいは歴史的に関係ないが神世のもんだろな!って場合に限り神話形式で書く

つまり歴史的には断裂しているわけ
0625日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 11:48:37.87
>>620
で、長江・江南で農作をやっていたのは全員その民族だけなのか?
0626日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 11:52:52.16
河童(河伯?)関係

仙道、道教〜何やらと書いてあるし、
ずっと中国(日本の中国地方ではない)周辺に住んでいて、後から渡ったきたとか?
0627日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 12:02:25.07
曹操墓出土の鏡、大分の鏡と「酷似」 中国の研究者発表
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190908-00000006-asahi-soci

同研究院でX線を使って調査したところ、表面に金で文様が象嵌(ぞうがん)され、貴石などもちりばめられていることがわかった。
潘研究員は「日本の日田市で見つかったという鏡『金銀錯嵌珠龍文鉄鏡(きんぎんさくがんしゅりゅうもんてっきょう)』とほぼ同型式である可能性が高い」と話す

 金銀錯嵌珠龍文鏡は、1933(昭和8)年に鉄道の線路工事の際に見つかったといわれ、
考古学者の梅原末治によって1963年に報告された。翌64年に重文に指定されている。
邪馬台国の女王・卑弥呼に贈られたとみて、「邪馬台国九州説」を補強する材料の一つと考える研究者もいた
0628日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 12:09:34.74
河伯とは〜?用語などが出てくるしょ?

ほとんど合致していたり、あの写真もw
『王母 龍宮 鳳 寒いな〜』という名前の家の写真
0629日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 12:11:35.36
卑弥呼に贈られたなら間違いなく目録に記載されるでしょ。
となれば卑弥弓呼しかいない。
0630日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 12:17:00.97
>>619
>江南から来た倭人(弥生人)が九州北部にたどり着いて稲作を伝えた。

逆だと思う。
百済・高句麗から江南に強制的に移住させられた倭人系が水稲を中国に
伝えた。
0631日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 12:20:47.63
>>627
それが卑弥呼の鏡だとしたら、畿内説ほぼ確定だな。
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土したとされるダンワラ古墳は他の副葬品から5~6世紀のものとされている。
ヤマト王権伸長期真っ最中。
各地の豪族を手なづけるために下賜されたものであることが濃厚で、大和が邪馬台の継承王権であることの証明。

ダンワラ古墳自体はすでに破壊され存在せず、これ以上の調査進展可能性ほぼゼロなのが惜しいが。
0632日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 12:23:54.63
>>631
同レベルのお宝が畿内に存在しないのでその妄想はあり得ない
豪族に下賜した宝が中央の支配者より豪華なんてことがあるわけがない

畿内説って本当に頭おかしい人しかいないんだなw
0633日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 12:36:55.03
>>623
現代人が勝手に神話に分類しているだけで、形式としてはあくまでも記紀は歴史書ですよ。
0634日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 12:38:06.41
>>630
>百済・高句麗から江南に強制的に移住させられた倭人系が水稲を中国に

そんなものは伝承にも考古学にもない。
0635日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 12:39:16.92
畿内説はいいとこどり専門店、嫉妬深さと自画自賛に定評あり、、。
0636日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 12:39:53.42
>>631
時代が違うから、逆だよ。
3世紀に九州にあったものが6世紀には畿内にたどり着いたんだよ。
0637日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 12:41:43.62
>>620
亀卜と言語はクリアできるように思うよ。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 13:15:43.11
稲作の伝来の方がはるかに古いですよね。
0640日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 13:20:48.05
江南から直接北部九州へ伝播したのではなく、
大陸沿岸→朝鮮半島→壱岐→北部九州の経路でしょうね。

直接伝播するのなら、
鹿児島や長崎、高知など九州西部〜四国南部から稲作が始まるはず。

何らかの理由で江南を追われた一族が、種モミを持って海沿いに逃避行を続けた。
緯度の関係で朝鮮半島では育たず、
壱岐辺りまで南下してようやく稲作に適した気候に落ち着いたわけでしょう。
0641日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 13:22:13.99
今日は文化の日。

親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。

その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。  @阿波
0642日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 13:23:04.74
11月3日は文化の日。

親授式で渡される文化勲章は「橘」に「勾玉」をあしらったものという。

その「橘」も「勾玉」も倭国(阿波)の特産物とは此れ如何に。  @阿波
0643日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 13:26:00.79
>>510,514
最初の方の倭王は漢委奴国王の金印を受けた伊都国王で、倭国大乱後に卑弥呼を共立して筑後山門に主導権が移ったのが天孫降臨なのかも
0644日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 15:57:22.47
>643
「漢委奴国王」印が「倭王ではない」ということを明確に示してるのに、なんでそんな妄想出てくるの。
倭王に封じられたなら印文は「倭王之印」となるはず。

真の倭の盟主は本州に居ることを中華は知ってるわけだから、北九州の酋長が朝貢に来たところで倭王号は出せない。
後から真の倭王が現れた時に「あっ、ごめん。倭王号返して。本物の方に渡すから…」という事になったら覇権国の威信に関わる大問題。

魏は形式上は禅譲により漢帝を継承したことになってるから、邪馬台国=ヤマト国女王卑弥呼の朝貢に際して堂々と倭王号を出したわけ。
0645日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 19:16:03.01
>>644
>真の倭の盟主は本州に居ることを中華は知ってるわけだから、

ウソウソ。
そんなことはそもそも事実ではないし。
0646日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 19:20:14.45
>>643
卑弥呼共立後は女王国なわけだから、その直前に天孫降臨ということはない。
天孫降臨の後の日向三代が卑弥呼の前の男王70~80年が長さとしてぴったり。
0647日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 19:49:37.35
筑後には有名な山門の地名があるが、
江戸時代には山門郡であり、郡全体が柳川藩であった。

肥後熊本にも山門はある。江戸期までは菊池郡山門郷といった。白鳥庫吉が邪馬台国の主邑に比定した地として知られている。
近くには呉王一族が渡来して居ついたという神来郷もある。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 22:01:02.95
>>647
山鹿・菊池は怪しいねえ
なんとスサノオのヤマタノオロチ退治の逸話がこのあたりにもあるらしい
実はヤマタノオロチ退治の逸話って地元のはずの出雲国風土記にはなぜか載ってないんだよね
本当はこの地域の話だったんじゃないか?

https://ameblo.jp/kenbuncho2017/entry-12513375590.html
>熊本県山鹿市菊池市一帯は「肥川 ひのかわ」と呼ばれる菊池川が流れ、八岐大蛇(やまたのおろち)神話の櫛稲田姫(くしなだひめ)生誕の
>伝説の地・熊本県山鹿市に旧稲田村があります。櫛稲田姫の本来の名称は「稲田媛」。

>福岡県高良大社の「高良玉垂宮神秘書」第1条に「ヤマタノオロチと天叢雲の剣」について古典的記載があります。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 22:43:01.12
>>641
でも9/8が文化の日という別の世界線なら仕方がないんだろうけど、
こっちの世界線だと泡チョンコの主張であるアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなってるんだぞ(爆笑)
0651日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 22:43:09.82
>>642
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0652日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 23:02:55.58
>>648
「漢委奴国王」印が「倭王ではない」ということを明確に示してる、が根拠だよ。

現実に印文が「倭王之印」にならなかったのはなんでだかおせーて?
九州妄者の妄想だと、北九州酋長=倭王なんだろ?
0653日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/08(日) 23:35:15.67
九州の中にもたくさんの勢力があったけど、その中で倭奴国王に金印を渡したということは、倭の代表権を与えたということで、事実上の倭王ですよ。
その次の卑弥呼の時にはちゃんと倭王としていますし。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 00:13:27.11
全国制覇できるほどの勢力はさすがに一個か二個でしょう多くて3個
0655日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 00:14:01.61
奴國王が漢帝によって仮想上の息子認証されて金印を貰った
0656日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 00:19:44.52
委は奴國王の属性
親魏倭王の 親が魏の属性であるのと同様
0657日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 01:00:52.28
>>649
>実はヤマタノオロチ退治の逸話って地元のはずの出雲国風土記にはなぜか載ってないんだよね
あんな古代史のクライマックスみたいなシーンが載ってないとかおかし過ぎるよな
やっぱり九州の話だったんだろう
0658日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 05:06:06.07
>>656
>委は奴國王の属性
>親魏倭王の 親が魏の属性であるのと同様

不正解。同じく漢代の滇王には「滇王之印」、廣陵王には「廣陵王璽」が与えられている。
委奴国王は委奴国王であって「倭の王ではない」から倭王号にならなかっただけのこと。

属性にしても親魏倭王と比べると「漢帝の子分」扱いと「魏帝の心の友よ!」待遇の間には越えられない壁があるわけだが。
0659日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 05:19:15.96
やはり「漢の 倭の 奴国王」の意味なんじゃないかと。
0661日本@名無史さん
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2019/09/09(月) 09:23:42.12
正しく読む、と言うのは原典回帰でも有るわけだが、倭人伝は
倭人 在帶方東南 大海之中 依山㠀 為國邑 舊百餘國 漢時 有朝見者 今 使譯 所通 三十國

今 使譯 所通 三十國を記したが、魏時には日本に統一倭国は無かったし、
魏志の記述が倭国を意味していないから、東夷伝各国のような地域名ですらない 
倭人 と言う表現になっているわけだ。 

使譯 所通 三十國は 魏時2回の使譯で知った30国である。
自郡至女王國 萬二千餘里←これは、240年梯儁到達の最南、女王宮
参問倭地 絶在海中洲㠀之上 或絶或連周旋可五千餘里←これは次有列記の21国
これによって、筑紫の卑弥呼共立連合を邪馬臺国と名付けた。

この記述での 30国は、
いわゆる、国名の 投馬国可5万戸 邪馬台国可7万戸 狗奴国未調査
女王国所属の 次有列記21国
自女王國以北 其戸數道里可得略載 里程行程内の
狗邪韓國 對海國 一大國 末盧國 伊都國 奴国 不彌國
である。(奴国は重複) 其餘旁國遠絶 不可得詳=名前も知らない

陳寿は 参問倭地 絶在海中洲㠀之上 周旋可五千餘里
によって、卑弥呼を倭王として印綬した事が、間違いなのには気付いている。
この邪馬台国と名付けた倭地は、
依山㠀 為國邑 舊百餘國 の 山島で國邑を為す、ではなく 
絶在海中洲㠀之上 周旋可五千餘里 です。
おそらく、舊百餘國 漢時 の方が、広範囲を把握している。↓
女王國東渡海千餘里 侏儒國 裸國 黒齒國に至っては東南船行一年可至

この印綬を 陳寿は、帯方郡、魏帝の恥として、
東夷伝里による場所や国の規模の曖昧化工作をしたように思う。
正しく読めるなら、筑紫です。 大倭王は本州に生まれつつあった。
考古学は後から付いてくる、乙。
0662日本@名無史さん
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2019/09/09(月) 09:53:52.64
出雲には世々大国主命の大社あり
その傍らの山間のへき地に小さなスサノオノミコト神社有り
大蛇伝説の割には、アマテラスと不仲のスサノオの居所が定まっていない印象がある。

だが、肥後・山鹿の大蛇と剣の伝説を、記紀編纂の際に、何らかの理由で砂鉄の採れた出雲に付け替えた。
そして元の肥之川上も、簸之川上に書き換えられたということになると、
なるほど卑弥呼がもらった金印は蛇紐だから「ヤマタイのオロチ」もありえないことではない。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 10:17:27.93
華夷秩序の世界 と言っても この時は三国分散で、魏は楽浪帯方占領直後で、
帯方郡は倭人国と同盟が欲しくてしょうがなかったんじゃないのかね。

檄と言うのは、魏が245〜6年日本に韓制圧に参戦しろと言って来たのであって、
見たことも無い辺境の内戦の応援に行く、まぬけな戦国武将なんて無いぞ。 
張政は倭人船便乗で査察に来て、伊都一大率に駐留させられ、軍なんて連れても居ない。

東夷伝序文
而公孫淵 仍父祖三世 有遼東
天子 爲其絕域 委以海外之事 遂隔斷 東夷 不得通 於諸夏
景初中 大興師旅 誅淵 又 潛軍浮海 收 樂浪帶方之郡
而後 海表謐然 東夷 屈服
其後 高句麗背叛 又 遣偏師 致討窮追 極遠踰
烏丸 骨都 過 沃沮 踐 肅慎之庭 東臨大海

東夷を抑えたのは、楽浪帯方238年〜313年だけだ。韓は246年〜
倭については、末文
長老說 有異面之人 近日之所出 遂周觀 諸國
采其法俗 小大區別 各有 名號 可得詳紀

雖 夷狄之邦 而 俎豆之象 存中國 失禮 求之四夷 猶信
故 撰次 其國列 其同異 以 接前史 之所未備焉
247年迄の調査だけで、触れても居ない。
0664日本@名無史さん
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2019/09/09(月) 10:19:14.39
>>662
>出雲には世々大国主命の大社あり

大国主命をお祀りする式内社は、倭国(阿波)だけ。   @阿波   

【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】
徳島県阿南市長生町に鎮座する「八鉾神社」。祭神は大己貴命。延喜式内社である。
この「八鉾神社」には四つの重要文化財が神宝として保管されている。
また「八鉾神社」自体も重要文化財に指定されているので、合計五つの重要文化財を持ち合わせている神社となる。
一つは「大己貴命 木造彫刻立像」
二つ目は「少彦名命 木造彫刻立像」
三つ目が「二品家政所 下文 」
四つ目が「附紺紙金泥法華経」である。
この八鉾神社、阿波では出雲の「杵築大社(出雲大社)」の元社であると伝えられている。
八鉾とは八千矛神(やちほこのかみ)。
出雲の主であり、長(おさ)である大国主神のこと。
大国主神の別名、大己貴神は、長国の偉大な主を意味している。
大国主神は、スサノオ命の子孫で、稲羽の素兎の物語で有名である。
オオクニヌシは、兄さん達から大きな袋を持たされる等、色々のいじめを受けたが、それらの試練を乗り越え、出雲国を治める立派な人となった。
オオクニヌシの子供にコトシロヌシ(えべっさん)と建御名方神(たけみなかたのかみ)がいる。
コトシロヌシは、式内社の事代主神社として、勝浦町沼江と阿波市市場町伊月に祀られ、タケミナカタは、式内社の多祁御奈刀祢神社として石井町浦庄字諏訪に祀られている。
平安時代に記録される3132座の式内社の中に、これら八鉾神社や事代主神社・多祁御奈刀祢神社等の国譲りに遣わされた神達を祀る神社は、阿波にしかない。   @阿波
【大国主神を祀る、全国唯一の式内社「八鉾神社」】   
https://blogs.yahoo.co.jp/noranekoblues/47852915.html?__ysp=44CM5YWr6Ym%2B56We56S%2B44CN44CR
0665日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 11:27:55.22
徳島の商工会の宣伝文句として聞いておこう
0666日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 11:30:59.15
倭国(阿波)は、逆立ち・し・て・い・て・ も、どの説にも負けない。  まともに反論・で・き・る・人・は、 はい、どうぞ。   @阿波 

行程でも、四国の阿波
海人でも、四国の阿波
鉄器でも、四国の阿波
辰砂でも、四国の阿波
土器でも、四国の阿波
勾玉でも、四国の阿波
神社でも、四国の阿波
古墳でも、四国の阿波
木簡でも、四国の阿波
石器でも、四国の阿波
鯨面でも、四国の阿波
神道でも、四国の阿波
寺院でも、四国の阿波
気候でも、四国の阿波
植生でも、四国の阿波
地勢でも、四国の阿波
銅鐸でも、四国の阿波
銅剣でも、四国の阿波
銅鏡でも、四国の阿波
風土記でも、四国の阿波
魏との交流でも、四国の阿波
天皇家大嘗祭でも、四国の阿波

何がどう転んでも、四国の阿波に辿り着く。
0667日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 11:40:18.08
これも、徳島の商工会の宣伝文句として聞いておこう
0668日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 11:56:22.32
人の噂も75日
浮かれさせておけばいいうどん県は
0669日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 11:58:20.03
>浮かれさせておけばいいうどん県は

徳島県の話では?
0670日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 12:04:13.14
そもそも四国ってどこ
0671日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 12:09:31.18
なるほど、確かに徳島は知名度イマイチを証明してるな・・。 わはははは。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 12:13:14.19
>>671
邪馬台国だったから、それで十分。  わははははは   @阿波
0673日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 13:01:38.95
四国はわかるけど徳島がわからない。
0674日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 13:24:49.90
660
いっぱいおるやん
0675日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 13:46:11.09
673
徳島は香川と徳島合わせて阿波の国って言ったんだよ

徳島から香川が独立して讃岐
0676日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 13:49:23.70
商工会ってどこがや?
0677日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 13:55:32.31
魏志倭人伝にでてくる国名にまったく合わないんだがさ
0678日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 13:57:58.40
>>677
邪馬臺=やまと=「倭大國魂・倭大國敷神社」の鎮座まします倭国(阿波)。   @阿波
0679日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 14:08:17.76
250日本@名無史さん2019/09/08(日) 14:59:31
>あーあ
https://i.imgur.com/K6tUoPA.png

商工会は、↑ここだ。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 14:42:18.96
で、@阿波はどいつなん?? 
0681日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 14:53:00.19
商工会会員のクリーニング屋さんとかラーメン屋さんの人かな
0682日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 16:21:56.51
>>659
漢の子分の倭のそのまた子分の奴国(漢から見れば陪臣だな)に金印を与えるか?
0683日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 16:26:42.52
魏志倭人伝に

@阿波でてくる?
0684日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 16:31:14.11
倭をヤマトと読む事例は日本書記の事例にある

問題なんは邪馬壹(ヤマタイ)が創作ってとこ
0685日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 16:32:11.07
邪馬壹をヤマタイあるいはヤマトと読む部分が創作なんだよ

実際にはどう読まれたかが不明
0686日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 16:33:36.16
>>683
女王国=「丹」の採れるところ=倭国(阿波)。  以上御終い。   @阿波
0687日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 16:50:04.29
邪馬壹を漢字発音するなら発音は

邪馬壹(シェマーイー)となるだ(´∀`)
0688日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 16:51:34.25
馬=マしかあってない
0689日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 16:52:59.44
>>683
女王国=「勾玉」を作れるところ=倭国(阿波)。  以上御終い。   @阿波
0690日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 17:11:49.67
金印の国名についても、
倭人伝で240年に梯儁が、女王所属国21国について
和音を聞き取り漢字を当てた国名に
奴国 系で
彌奴 姐奴 蘇奴 華奴蘇奴 鬼奴 烏奴
が 有るわけで
これより180年ほど前ではあるが、
この地域、志賀島海神なので 博多湾岸で良いけど
委奴国
が、有ったという事には、何の違和感もない。
委を倭であるとするのは、邪馬臺=ヤマトの類だな。

奴国の奴 はナと思うが、せいぜいヌ、ドであって、
伊都は無理ではないかな?

248年倭人船便乗の張政の聞き取り漢字化国は
狗邪韓國 對海國 一大(支)國 末盧國 伊都國 奴国 不彌國
であるが、表音文字より、表意文字が多い。
伊都は都のように思う。
 
240年梯儁の漢字化の表意文字は、邪馬臺国の(臺)、馬韓のこっちの(投馬)国
だけである。
0691日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 17:34:47.28
対馬海峡と博多湾沿岸だけ表意文字なんだろう。
伊都は倭人が倭奴国に因んで変えさせたのだろう。
古典の掛詞では多少の音韻の差は無視しているから、伊都と倭奴の音の違いは、否定する根拠にならない。
イソシが伊都になったという説明がまかり通るくらいだし。
0692日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 17:40:19.23
>>691
>伊都は倭人が倭奴国に因んで変えさせたのだろう。

強引なことを云ってると、行く先、奥山みたいになるぞ
0693日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 19:17:57.28
日本に漢字の無い時代の表意文字は中国人にしかわからない。
固有名詞の方言に疎いが、東北の「んだ」が九州の「そげじゃ」で
表意文字の漢字を当てれば倭人伝だと
計其道里 當在 會稽東治之東 の 當在 みたいな感じ。
音を当てても固有名詞以外の表音文字だと意味は分からないはず。

馬韓の馬は馬氏領なのかも知れないが、魏も司馬氏になるな? 表音かな?
倭と委は音が違い過ぎて、確かに、南=東の畿内や@阿波状態。 
知らんが・・・ w
倭=大和=大和と言うのは、記紀厨は嵌りそうだが、500年以降。
0694日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 19:26:02.30
倭=邪馬台=やまと

大倭=大和=おおやまと
0695日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 19:28:10.15
>>694
その通り。  @阿波  

倭=邪馬臺=やまと=「倭大國魂・倭大國敷神社」

大倭=大和=おおやまと  
0696日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 19:40:23.10
文字の話なのに返還すっ飛ばしちゃったけどw orz

倭=邪馬台 みたいなデタラメは無理で、邪馬臺 は、
そもそも邪馬が表音、臺は曹操の楼台で陳寿が倭王宮での使用を避けたわけで、

和音地名が やまとなら、
万葉や記紀の、古代日本の漢字文化の文字感覚だと
やまと=耶摩斗 程度の漢字が漢風漢字で、適当だよね。
大和ってのは、和風で良いね。
0697日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 20:05:09.09
と、言うよりも、そもそも論で、
和風と言う、日本語の意味は、倭、大倭を 
大和と言う漢字表記にしたという、雅な雰囲気を言うんだろうな。

次の歴史を捲ると、表意文字的には、山都であって、
瀬戸内海沿岸の都を防衛上、山中に移したのが、纏向。

これが、魏による、238年公孫氏滅亡。 
246年韓王朝滅亡であることは間違いない。

青銅器移入に支障が生じ、九州卑弥呼の外交は、統一した。
銅鐸消滅と、古墳時代の到来に一致するのである。
0698日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 20:20:39.17
>>697
>次の歴史を捲ると、表意文字的には、山都であって、

海と山を対比させる文化は九州の文化だね。
海幸山幸は筑紫の日向三代の2代目だ。
天孫族が天津神(海の神)なら、山都の卑弥呼は山の神。
おそらく出自は筑紫ではない。
志賀島の豊国王家は筑紫の係累となっているから、残るは肥国王家しかない。
肥後狗奴国の卑弥弓呼とは家督争いをしていたのだろう。
0699日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 20:51:36.46
海彦山彦って作り話で別に兄弟じゃないだろ、武内宿禰300才。彦姫制じゃなくて彦彦制なんだよ。海と山で支配してるって話でしょ。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 20:57:18.40
山門なら山門の入り口という意味がある

山門、山戸
0701日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 20:58:50.96
公孫氏とやらは漢からの派遣役人だぞ

統治した場所が帯方郡時代の話だ
0702日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 21:01:22.10
場所は朝鮮半島の漢領

この時代に漢による朝鮮半島の統治区域として設置されたがやがて廃れて消えた
0703日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 21:02:08.51
その帯方郡時代の遺跡が北朝鮮から発見されて話題になっていたんだろ
0704日本@名無史さん
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2019/09/09(月) 21:04:43.46
>倭国伝と日本国伝に分かれてるのは、国名変更のあったとされる700年前後をまたいで遣唐使が送られたからだ

違う!
国名変更のあったとされる700年前後をまたいで倭国(阿波)から奈良大和への遷都が行われたからだ。   @阿波
0705日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 21:15:18.55
>>699
作り話という根拠はないだろ?
単に兄弟での分割統治の名残だ。
それはアマテラスと大国主の関係と似ている。
海幸も山幸も天孫ニニギの子で、山幸は倭王だ。
山幸ことヒコホホデミは伊都を見下ろす高祖神社の主で、海幸は宮崎県の都万神社の主だ。
これが邪馬台国と投馬国の兄弟国だよ。
0706日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 21:46:45.37
東夷って呼ばれて主に魏時代あたりの主力なしていたよ〜なんの有名どこが青州って呼ばれた地域や張飛なんかもでた燕国

魏ってな中国分裂時代もあのあたり統治していたからな
0707日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 21:47:24.10
国名変更のあったとされる700年前後をまたいで倭国(阿波)から奈良大和への遷都が行われたからだ。   @阿波
0708日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 21:51:41.16
707
倭人時代が周の太白時代まで遡る

そいから中国人らって基本的に外洋に乗り出さない

河川の大河から取れる漁業だけで事足りるから
0709日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 21:53:38.40
倭人らが書記にも書かれてるから日本にも流れてきたやつらがいたんだろ!くらいのもんやなあ
0711日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 22:02:08.65
倭人伝で抑えるべき日本古代史についてだが、

238年楽浪帯方陥落。239年遼東で公孫氏滅亡。
245〜6年、箕氏韓王朝滅亡。 楽浪帯方の直轄で臣智以下官制下に入る。

郡は弁韓については未制圧、王政温存。
この時日本は、九州までは未統一で、筑紫卑弥呼は魏から金印印綬。
これは、卑弥呼は筑紫王であるという事で、倭人伝を正しく読めば判る。

BC200年から青銅器移入の、本洲の日本には、
公孫氏と箕氏韓王朝から、中原文化を知る、軍師となり得る有力遺民が来ている。

九州卑弥呼は238年朝貢、魏と同盟でも、本州は青銅器他が魏によって途絶えている。
これが、本州と九州が統合した理由であり、銅鐸廃棄で古墳時代の軍事政権成立と
半島進出、富国強兵時代の始まりである。

これが無きゃ漢四郡越しに、400年まででの日本の甲斐信州までの
高句麗牧童や馬の移入国産化は成立しない。

邪馬台国論争って言うのは、歴史の必然を無視するためにやってるのか?
九州の統合が247年であれば、考古学の纏向が
調略で輿入れの壹與の墓でも馬具が出ても問題はない。
まあ、247年13歳で、墓に入るなら300年位だが・・・
0712日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 22:28:28.31
>>710
白村江の惨敗で、やむを得ず、半島渡来人に住まわせていた内陸の奈良大和へ遷都した。 以上。   @阿波
0713日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 22:31:55.95
某漫画でいうとking(実際は中華)など渡って来て、島の住民が惨殺された?
0714日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 23:24:08.08
>>711
>公孫氏と箕氏韓王朝から、中原文化を知る、軍師となり得る有力遺民が来ている。

確定的に書いているけれど、推測だろ?
名前は?
0715日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 23:46:01.57
移民が100万人来たんだろ
軍師もいれば蓑作りも居ただろ
0716日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/09(月) 23:46:08.68
>>712
朝鮮半島での敗戦で阿波を追われた?ってこと?
唐とか新羅の勢力が四国に侵攻してきたのかな?
0717日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 00:22:44.50
>>712
馬鹿杉、白村江の捕虜返還2000人は日本海ルートで越に送った。

600年招かれ倭人の遣隋使船で来た、裴世清は斑鳩宮、法隆寺を見ているが
これはもう、AD200年程度の倭人国、倭人伝スレのアラシが出る幕じゃない。

大型古墳の400〜500年の倭の五王は概ね大阪湾岸だが、
白村江海戦以前での斑鳩への遷都は有名な聖徳太子で良いのである。

継体天皇を500年、これ以前の倭の五王で、記紀は歴史の話は無理。
兄弟相続や、女帝ってのは、記紀作者が倭人伝読んで間違って修正してる。

247年以前と この卑弥呼以降、500年迄の記紀日本史には、
宋書の半島交渉以外に、時系列を追える証言は無い。
天皇は、中国名を使っていたし、600年、推古天皇であっても女帝も無い。

500年百済経由五経博士は重要で、600年の聖徳太子、馬宿皇子は
馬子邸の博士を家庭教師として、三国志等を読んだ。

古い倭は、九州の小国で日本はこれを併合した。
聖徳太子は、倭人伝九州説である。
0719日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 00:40:43.62
移民の話なら3,4世紀ころから来始めたん書かれてるじゃん

日本初期にな
0720日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 00:43:58.59
日本書記やったな

出自からなにからわりかしはっきりしてるぞ

仏教の僧から職人関係みたいなんまでな

呉王の末裔がどおだのほざいてるキチガイは無視して構わないがな
0721日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 02:08:00.10
日本書紀に書いてあるのはほんの一部だろ
100万人が移民してきたんだから
王族もいればエベンキもおるやろ
0722日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 04:26:48.94
日本のコメの遺伝子調査をすると朝鮮半島に存在しない種という結果なのだから、大陸からの直接ルートを設定せざるを得ない。
それが江南民だとすると「自謂太伯之後」記述にも合う。
地勢的には朝鮮対馬の方がに容易に来れるわけけだから、朝鮮系渡来人+朝鮮米が北九州に先着。
江南民+大陸米は後着、大陸米は北九州にて朝鮮米を駆逐するも、持ち込み主の江南民は圧倒的多数の朝鮮系渡来人に圧迫され長期定住できず。

→畿内へ。のちの邪馬台=ヤマトの支配層となる。

九州を去った江南民が、九州滞在時に影響を残した地域が伊都。
小国でありながら邪馬台国時代に特別な扱いだったのはこの歴史的経緯による。

邪馬台=ヤマトは史書に明記されているので疑いはない。
0723日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 06:50:33.07
>>722
>日本のコメの遺伝子調査をすると朝鮮半島に存在しない種という結果なのだから、大陸からの直接ルートを設定せざるを得ない。
>地勢的には朝鮮対馬の方がに容易に来れるわけけだから、朝鮮系渡来人+朝鮮米が北九州に先着。

自己矛盾しとる。
やり直し。
0724日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 07:38:58.61
>>722
稲米の渡来なぞ、何波も何十波もあったことだろう。
最初の1回だけを取り上げて先陣争い論を自慢しても始まらぬ。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 08:21:20.74
何派もあっただろうが、弥生文化を築いたのは、朝鮮半島でも九州南部でもなく、九州北部に到着した勢力。
0727日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 08:34:07.27
>>725
弥生文化といっても数百年続いた。その初期と末期では大違いだ。
初期に北部九州で花開いた奴国勢力を、末期になって政治的軍事的に駆逐した新興の渡来勢力が、
最新の鉄器を擁した邪馬台国勢力だったのだろう。
0728日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 08:42:00.27
つまり邪馬台国は火の国。
肥後狗奴国熊本はその分派。
0729日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 09:07:32.48
いや判らない
邪馬台国は大分日田のあたり
0730日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 09:18:41.39
倭人伝に登場する「奴」の付く国々が、
北部九州博多の倭奴国に属した旧勢力だったのではないか。
それを、佐賀末盧国に上陸した「火の国勢力」(肥国)が、鉄器の力で切り崩して女王共立に持ち込んだのが倭人伝のストーリだったように思える。
0731日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 09:33:44.75
>>729
その辺りも邪馬台国の支配域となった、でいいだろう。
田油津姫もその辺りなのだろう?
0732日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 11:30:17.28
日田の鏡は6世紀ころの墓から出土したという。
鉄鏡を与えられた漢王族のそのまた末裔が、九州各地を転々とした末に、後生大事に伝世していたものを日田の古墳に埋めたのだろう。
0733日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 12:49:27.31
30国に王、首長がいたんだよ。その中で選ばれたのが卑弥呼だろ。東京23区からどっかの区長がまとめていたという状況だろう、都知事を殺して。都庁を都としたか区役所を都としたかはわからない。だから紀伊もあり得る。
0734日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 12:52:12.06
>>733
30国すべて九州北部の国邑だろうね。
0735日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 18:42:15.40
( ͡° ͜ʖ ͡°)
0736日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 19:28:11.23
具体的には日本の常識、
縄文から弥生の土器、穀物経済発祥に伴う
人的変換ってのが、有り得ないわけで

倭人は、黒曜石以来、中国から沿海州も往復してるが
有史の中国に日本に渡来したとか、貿易の記録は無い。(詐欺師徐福以前で)

しかし青銅器の、BC200年以降であれば、
東岸の日本海ルートは、無いなら出雲系遺跡も無い。
半島西岸の交易ルートは、四郡以前の、BC200 程度から有るはず。

銅鐸時代が終わり、古墳時代、九州統合の歴史が、
238年公孫氏滅亡、246年箕氏韓王朝滅亡での防衛強化だ。

この間が、魏と邪馬台国卑弥呼の交流記録であって、
これが、313年の四郡撤退、350年の新羅百済建国。
400年迄の高句麗馬国産化の完了、倭の五王の半島利権交渉
に、繋がるのは歴史の必然だろ?

アラシ@阿波とか、市議会の予算獲得の都合は知らんが、邪馬台国は何処か? 
じゃなくて普通に古代日本史を検証した方が良い。
0737日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 19:29:05.04
日田の鉄鏡って、この図の上の方にポツンとあるやつかな?
筑後の邪馬台国が安全な場所に隠したという感じだな。

http://www.netpia.jp/history/map-fukusohin237.gif
0738日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 19:56:00.85
>>736
>アラシ@阿波とか、市議会の予算獲得の都合は知らんが、邪馬台国は何処か? 


邪馬台国の萌芽は、縄文時代晩期から、倭国(阿波)で始まっている。

阿波から西日本各地に文化発信が始まったのは、卑弥呼の時代より遥か昔の縄文時代晩期末から弥生時代前期初頭である。

「石棒」 石棒は縄文時代を代表する石器である。実用品ではなく儀礼に用いられたと考えられている。

縄文晩期末から弥生時代前期初頭に、島根県・愛媛県・高知県から東は京都府・滋賀県・奈良県・和歌山県

にいたるまでの今までになく広い範囲で泥質片岩製の石棒が出土する。

この石材はすべて銀色を呈する泥質片岩製であり、石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡が、

その一大製作遺跡であると考えられている。   @阿波
0739日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/10(火) 19:56:49.59
>>736
>アラシ@阿波とか、市議会の予算獲得の都合は知らんが、邪馬台国は何処か? 


石棒の素材産出地で、製作遺跡でもある徳島市三谷遺跡・名東遺跡付近に接してそびえる眉山には、紅簾片岩の露頭が確認でき、

この紅簾片岩製石棒と神戸市戎町遺跡・同市大開遺跡・八尾南遺跡・滋賀県米原町磯山城遺跡の出土資料とを比較検討すると、それぞれが非常に類似している。

また、各地に分布する石棒の時期が、ほぼ縄文時代晩期末?弥生時代前期初頭の土器型式で2型式間にも満たない短期間に集中することが明らかになり、

三谷遺跡・名東遺跡の存続期間とほぼ一致することが確認された。さらに、石棒が近畿地方最古の環濠集落である神戸市大開遺跡をはじめとする初期の弥生集落でも出土することをうけ、

近畿・東部瀬戸内地域における「弥生集落」の形成は、「渡来人」「移住者」のみならず、在地の人々による積極的な関与があったと考察される。  @阿波
0740日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 07:06:54.66
最近、日田の鉄鏡が話題になっているようだ。
これが話題になるのは、朝日新聞が拡散させたからだ。つまり朝日新聞も九州説に乗り換えたということだわな・・。
0742日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 07:26:11.21
>>723
>>726

あほなの?
朝鮮米が先に定着して、後から入ってきた大陸米が朝鮮米を駆逐したという話。
気候風土に合ってたのか、食味が優れてたのかはわからんが。

江南民が直接倭に到達してても、あくまで少数。邪馬台=ヤマトの「支配層」になったと書いとるだろうが。
邪馬台=ヤマトの民草の中心が縄文系+朝鮮系のハイブリッドなのは当然。
先に朝鮮系が西日本に定着している上に、大和王権の中心である畿内は渡来人を積極的に受け入れ、白村江以降は百済遺民も入ってるしな。

邪馬台=ヤマト「支配層」が江南民として魏朝貢に際して太伯後を自称して何の矛盾もない。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 08:40:40.98
>>742
時代の順序がめちゃくちゃじゃないか?
そもそも朝鮮米が先行して入ってきたというデータはあるのか?
0744日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 08:44:03.11
西日本の米が朝鮮系でも、それより先に九州北部に江南系の米文化が入ってきて弥生時代が始まったと理解している。
百済の遺民云々なんて、邪馬台国よりかなり後だろ。
日本国内の米の方が遺伝子が多様だから、その一部が朝鮮に伝わったと考えられていたと思うけど、思い違いかね?
0745日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 17:27:57.51
そんな本当のことを言っちゃったら
輸出管理強化されたキナイコシが発狂しちゃうだろw
0746日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 17:33:44.71
お前は頭が悪いんだな、
米でも何でも良い、伝わって来たものなんだろう


はやく精神病院に行ったほうが良いぞ
0747日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 17:40:46.86
被災、停電・・・何でも良いけど、
謎の報道などがあるでしょ、餓死、病死するまで放置されているとか?

それはなぜか・・・(そのような事ばかり言っている)、
お前たちのような人間がいるから、本当に人殺しだよな
0748日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 18:36:43.14
いつ朝鮮米とやらが伝わってきた話になってんだよ
0749日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 18:37:41.81
バカくせえ妄想だしてるやつらがいるんだろ
0750日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 19:06:33.02
百済移民て?

そんなんいたか?
0751日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 19:10:16.49
昔の天皇の治世とやらに百済王だのなんだのって名前のやつらはでてくるな

つより書いてあること見ればかなり京都周辺にいたやつら舐め腐ったことやってるやん

自分らがバカだって自覚すらなさげなんだがさ

んであそこまでのぼせ上がったやつらいつ死ぬ目に合わせるだ(°▽°)
0752日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 19:56:52.68
つか、モモタンも福岡にいたんじゃないの?
0753日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 20:03:56.65
モモから生まれたカスにだ(°▽°)か?
0754日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 23:07:06.08
日本と百済が同盟したときに百済の方が仏教寺院だの仏教における先進国だったわな

そんで同盟の証として百済の国王が百済の仏教文化やら寺院の建築技術みたいなものを率先して日本に流してくれた

だから日本には百済風寺院みたいなものが建ったと調べたら書いてあったぞ

朝鮮半島は今じゃ痕跡すらないな

だから日本に残っていた百済風建築とも呼ぶべきものを再現するために寺院関係の再建は日本の寺院が参考にされたんだろ

そのための協力は日本側も同意し協力してきた

だいたい話はこんなだ(°▽°)
0755日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 23:08:08.65
新羅の方が書記に書かれたこと見れば強盗まがいやってるしはるかに蛮族って感じやん
0756日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 23:09:18.60
日本に寺院ができ始めたんは遣唐使を送ってからじゃないんだよ

日本と百済が同盟したときに百済の技術移管が始まったんだよ
0757日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 23:10:50.13
つまり寺院が建てら始めたんがそれ以降の話

百済は滅んだらそれも中止(°▽°)👋
0758日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 23:19:40.28
そいから倭ってのは日本じゃないぞ

倭に関しては中国の文献にはっきり起源が書かれているからな

倭人らしか朝鮮半島の歴史見ても交易やっとらん

つまりこれが示すことは?

朝鮮半島南部に倭人と日本人両方所在としたということ
0759日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 23:23:46.82
倭人とはなにか?

海洋民だよ、もともとは中国あたりの大河を船なんかの航行を行っていてやがて中国大陸の反対側にある朝鮮半島あたりも交易路となった

つまり黄海を船で行き交った連中らだ(°▽°)
0760日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 23:27:04.05
つまり倭の歴史と日本の歴史は繋がらない

そのことははっきり否定しといたら
0761日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/11(水) 23:30:40.00
中国史に出てくる倭人らならその出身者から虞美人と呼ばれた女性がでとるな

これ楚と呼ばれた国の王となった項羽と関係ある女性

こんな感じで倭人らの歴史が一部となっとる向こうでな

こんなんは聞いたこともないし日本には関係ないと否定したらな(°▽°)

分離不分離の部分を抜き出すな簡単な話だからよ
0762日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/12(木) 01:00:53.12
倭人らともともと言ってた連中らの正体がまったく分からなくなった理由は中国における政変移動だよ(´∀`)

つまり上層部がまったく歴史的に繋がらない連中らに入れ替わった
0763日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/12(木) 01:02:46.16
魏の連中あたりまでなら知ってるはずだ

だいたい魏という国が中国で主導権握っていたのが500年ころだからな
0765日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/12(木) 01:11:19.53
764
話の流れ読んで理解できないかな?
0766日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/12(木) 01:12:09.98
ここまであからさまなんだがな

分からないってより自分が知ってるんと話が違うみたいなんか?
0767日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/12(木) 01:13:18.50
単に知識ないならそもそも考えるだの判断すらおまえ無理やろ(°▽°)
0768日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/12(木) 02:01:25.71
倭人集団関わるならそれ日本の古来やらに関わりある水軍衆の話やろ(°▽°)

それを持ちだし中国あたりの皇帝と関わりあるだのって妄想が訳の分からない生まれたわけだろ

もはや区別すらなくしていたからな
0769日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/12(木) 02:26:56.72
そいから朝鮮の公式資料には初めて日本から渡来した人物らのことも書かれている

日本人とな←

時期は900年代だ
0770日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/12(木) 03:18:52.73
つまり倭人らの正体自体が虞の太白から始まるもともとは大河あたりを中心に生活基盤を築いていた連中、やがて黄海にまで進出して船で🚢行き来した

この集団を倭人と呼称します

日本にも影響を与えたんでしょうな(°▽°)

日本が利用してんだか向こうの連中らが好き勝手してんだか知らないがかなりふざけた連中ら日本でも多いですわな

少し考えりゃ分かる話

そもそも日本から見ても縁故すらない時点で気づけよ!としか言いよ〜がないカスのさばり過ぎ
0772日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/12(木) 06:51:50.04
倭人の呼称と地域名としての倭は別に考えるんだよ。
おおざっぱに辺境民、胡人・夷人みたいな意味合いで倭人という言葉があって、倭人がいっぱい住んでるから倭地!ってなったのかも知れないし。

ともあれ、倭人伝には帯方郡の東南に住んどるって書いてるんだから、この時期にはすでに倭地=日本と解されていた、とするしか無い。
さらに遡っての「そもそも倭人とは~」なんて話しても意味がない。

弥生倭人は対馬ルートやら黄海ルートやら北方・南方ルートやら色々あって単一ではない。

数的に一番多いのは地の利のある対馬ルートだろうが、天孫族は大陸から渡海で倭地直行。
「天降った」という描写は、天(遠い世界)から降ったように突如現れたということであって、対馬ルートで島伝いに来たとは考えられない。
なぜなら、対馬ルートは日本から半島への渡航が十分可能で、半島が天界(=手の届かない世界)とはなり得ないからだ。

天孫降臨の地は記紀神話をそのまま採ると日向宮崎となるが、地形描写からすると糸島半島。

糸島半島であれば、東西両面に海があり、「朝日も夕日も射す」。「からくに(半島)」にも対向している。
韓国へ面していることが強調されたのは故郷だからではなく、半島が「監視対象地域」だから。

神武東征の九州発地も博多湾近辺だとすれば、すべてが整合する。
0773日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/12(木) 06:55:10.31
倭人とは「忌部一族」(広義の忌部氏)であり、全国を拓殖していった古代倭国(阿波)スーパー頭脳集団の総称である。

その忌部(斎部)氏は、物部氏の衰退後、残党が「忌部氏」を名乗った可能性が高い。   @阿波
0774日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/12(木) 14:17:17.16
『曹操集訳注』には、「皇帝は金をあしらった鉄鏡、皇后と皇太子は銀をあしらった鉄鏡、以下の貴人たちは、金銀を用いない鉄鏡を持った」とある。すなわち、金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は漢の王族が所持したお宝だったということだ。
0778日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/12(木) 19:29:54.77
ふ〜ん 
んじゃ、卑弥呼(もしくは臺与)は皇后クラスの扱いだったのか、、。
さもありなん、親魏倭王だったんだからねえ。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/12(木) 21:33:23.25
『三国志』魏書・張魯伝から
 (中略)曹操軍に追われた張魯軍は漢巴を放棄して敗走するのだが……
>曹操は、使者を立てて張魯に降伏するよう説得させた。説得に応じた張魯は、家族全員を伴って出頭した
>これを迎えた曹操は、張魯に鎮南将軍の官位を与え、賓客の礼をもって待遇し、閬中候に取り立てて領邑1万戸を与えた。
>さらに、張魯の5人の子と閻圃らをすべて列候に取り立て、張魯の娘を曹操の息子の嫁に迎えた。

張魯は大陸で鬼道(道教)を広めた人物である。
大陸で鬼道を習得した張魯の縁者の一女が渡来して倭国にも鬼道を広め、やがては卑弥呼と呼ばれるようになったのではないか・・・、と伊作は述べている。
つまり日田の鏡は、曹操と鬼道と倭女王が極めて親密な間柄であったことを具体的に示すものであろう。
0781日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 02:17:25.68
五斗米道ってなんて読むの?
ゴトベイドウ?
0782日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 02:28:11.47
それデタラメな解釈だろ。
卑弥呼のシャーマニズムを中国人は得体の知れぬ信仰という意味で鬼道と表現したとしか。
0783日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 02:43:59.66
これ絶対そうだよな
曹操と卑弥呼はツーカーなんだろ?
0784日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 05:55:56.08
遺跡からも史書からも日田に巨大国邑があったとは考えにくいから、日田の鏡は独自入手ではなく下賜品か交易品、略奪品だろ。
卑弥呼の鏡かどうかも怪しいし。卑弥呼の鏡だとしたらあとの99枚はどこいったんだ?って話になるしな。
与えた帝は曹操ではなく曹叡だし、曹操廟から見つかったから…というのはちと苦しい。

特別な鏡ではなく、曹操コレクションと同型のものがそれなりに流通してたのかもね。
0785日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 06:21:42.30
鏡渡来の最も早い可能性は、
卑弥呼が鬼道の達人王族で、つまり張魯の親族で、洛陽を発つときに曹操かその息子から身分証明として1枚もらった。
最も遅い可能性が後世のお宝交易品・略奪品だね。
0787日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 06:36:08.72
❸五斗米道
 もともと巴郡の巫人(巫鬼道の巫覡だった)張脩は、張衡の死を境に天師道と巫鬼道を一つにして天師道の信徒を統括した。
信徒や患者に米を拠出させたことから、米巫・米賊とも呼ばれた。
そもそもは、これが五斗米道であり『三国志』のいう鬼道である(注:張魯の鬼道のこと)。・・・伊作の遺作より
0788日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 07:35:14.12
量産されてる銅鏡と違い、ワンオフ品かつ
魏の王族しか持ってないものが日本国内から出るって凄いことにだよね。
0789日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 07:45:39.14
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。  

圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ひれ伏すばかりなり。   @阿波
0791日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 09:25:12.48
卑弥呼が賜ったのは銅鏡100枚だから、とりあえず鉄鏡は朝貢との関係は薄い。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 09:36:58.72
>>791
何度も行ってるのにもらったものの目録が全部国史に載ってると思う?
0793日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 09:39:44.14
曹操が死んだのは220年、まだ公孫氏が健在で魏との国交はない
入手経緯は曹操とのからみじゃないよね
0794日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 10:27:42.05
>>793
あー、そりゃ全くの勘違いだ
公孫氏は三代目半までは、曹操の忠実な部下だった。
只、四代目の公孫淵が途中からおかしくなって、晩年は反逆に転じ、最後の二年であっけなく滅ぼされたのさ。
魏との国交が途絶えたのは公孫淵の最後の数年間(228〜232くらい)だけ。
0797日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 10:58:18.94
九州から卑弥呼の鏡が出るとしたら、大国である奴国か、外交・交易の要所伊都国だよ。
それ以外のところから出るなら、それは間接的に入手したもの。
日田が不弥国だった可能性はある。

でも、鉄鏡だからそもそも卑弥呼の鏡じゃあない。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 11:29:12.40
>>774 から、
曹操が作った鏡である可能性は高いが、曹操は後漢の丞相であったわけで、
皇帝として自分が作った鏡を墓に持ち込むというのも? であって
後漢鏡である可能性も高い。

公孫氏についても、出自は後漢の遼東太守であって、
皇帝襲名後の曹操の魏鏡でも良いが、後漢鏡も贈られているはずである。

筑紫卑弥呼は238年以前から青銅の供給元であろう公孫氏との親交は合ったわけで、
238年はまさにこの公孫氏の楽浪帯方陥落の時である。

魏に朝貢に行くよりは、公孫氏の後援が先ではないだろうか?
公孫氏の王族の筑紫亡命を手伝っていると思う。

247年(313年)以降の牛馬移入や富国強兵政策には
間違いなく、中国系軍師の存在が有る。
曹家の王族鏡が、辺境に廻って来るとは思えない。
0799日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 11:42:34.52
検証動画。

ttps://www.youtube.com/watch?v=V7ux9R56i64&t=3s

ttps://www.youtube.com/watch?v=_mFcPEUJsro

ttps://www.youtube.com/watch?v=Zim4zjN7Klc&t=397s
0801日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 11:46:24.70
長雨の時期にさしかかり兵糧が底を突いたため、公孫淵は人質を出して和睦しようと画策するが、司馬懿はこれを許さず公孫淵を捕え、処刑した。公孫淵の子公孫脩をはじめとする一族も討たれ、遼東公孫氏は滅亡した。
戦後、司馬懿はこの地に魏へ反抗する勢力が再び生まれぬよう、当地の15歳以上の男子を皆殺しにし、夥しい数の亡骸で京観を作ったことが後世に伝わる。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 12:23:29.35
>>801
それまではうまく回っていたのに、、
大騒ぎになったのは、すべて四代目公孫淵の晩年の痴ほう症のせい。
ま、公孫淵一族が殲滅されて、卑弥呼と魏の仲は前にもまして親密になったということだろうね。
0803日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 12:40:36.36
公孫氏を滅ぼした時に魏は倭国について書かれたそこの公文書を押収しているって本当?
0804日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 13:01:44.28
そもそも帯方郡は韓国倭国を支配監督するために置かれた役所。
だから、公孫淵反逆前までの公文書は、その都度洛陽へ送られたのではないでしょうか。
0805日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 13:37:43.13
どうやって?社内メール便みたいなのがあったの?
0806日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 13:56:21.89
宅急便のメール便みたいなの
といっても竹簡・木簡なら、ゆうパックかヤマト便だねえ
0807日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 14:20:39.35
>>789
本音が出ちゃってる投稿だね
いずれも弱くて頼りないって判っているくせして
嘘八百ならびたてて荒らし回るのはよくないよ
0808日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 14:22:46.70
>>803
そもそも倭は漢と国交があったじゃないか。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 19:49:46.15
漢と言うのは一応、まぬけの始皇帝後の統一国の皇帝だが
魏と言うのは、蜀と呉を統一出来てない、自称中華皇帝なんだよ。

公孫氏は漢が任命した太守。
まず、魏は王を名乗り呉と組した公孫氏の、楽浪郡帯方郡を占領して、遼東に追った。

この時、BC200年から半島勢力から青銅器を買ってた日本は
魏が半島領有で軍事力によって、青銅器輸入などの利権を失うことを知った。

富国強兵の歴史は成立してるが、
海神商人の縄文人ではない、軍師の受け入れが絶対有るだろ?

238年難升米は魏の将軍となるが、
親交が在ったであろう、公孫氏の遺民も連れ帰れる。

245年の韓制圧戦の檄には応じてない。
247年の倭人船便乗での張政の査察で、魏と邪馬台国の国交は終わった。

張政を洛陽に返した247〜8年? の 掖邪拘が
曹家に取り入り、曹家の鏡を持ち帰った可能性は有るが
この249年司馬氏のクーデターを陳寿は詳細に説明できなかったかもしれない。
中国史にはスポンサーが有る。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 20:52:57.67
>>810
まず、曹丕は献帝からの禅譲で皇帝となっているので自称ではない。
伝国の玉璽を所有している、中華圏を八割以上勢力圏下に収めている。
自称皇帝は蜀の劉備と呉の孫権で、辺境地を開拓や占領して領土拡大をしたので地図上では三国が張り合ってるように見えるが、魏の一強だった。
中国史にはスポンサーと丁儀の件で判断したとは思うが、陳寿は私的に歴史書を編纂したのであって三国志は当てはまらない。
成立から公史として編纂ではなく陳寿死後の後世に正史として扱われたので、司馬氏への配慮以外は陳寿の意思で記述したと言える。
この辺を、もう一度考えてほしい。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 21:49:31.88
朝貢だべ

要するに奴婢何人向こうに送ったってことやぞ

おまえら割りと当たり前に語ってるがな
0813日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 21:50:45.13
バカすぎなんだよな

そんで権威だのバカ皇帝に従わないものなどいないだの
0814日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 22:25:42.68
偉そうなことばかり語っているけど、
どこの基地外なんだ、お前の名前は?
0815日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/13(金) 22:27:10.92
あと新聞やテレビ(報道など)なんて信じているのかw
と言っている人がいたでしょ、なぜだと思う?
0817日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 00:03:21.72
どこが偉そうなん?
0818日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 01:37:38.38
>>511
>仲哀神功の時代の話は、創作の部分も多いため、むしろ神代をモデルに人代を創作したのだろう

これを読んで閃いたのだが、仲哀神功は九州邪馬台国が東遷するより前の人物で、神功は卑弥呼と台与の二人の事績をくっつけたもの
そして三韓征伐とは帯方郡からの援軍要請の結果だったのではないか
というのも魏志韓伝にどうも納得のいかない記述がある

「韓忿攻帯方郡崎離營 時太守弓遵楽浪太守劉茂興兵伐之 遵戦死 二郡遂滅韓」
韓が帯方郡の崎離営を攻撃して帯方太守弓遵と楽浪太守劉茂が討伐にあたり、弓遵は戦死したが韓は滅ぼしたとある
だがこれは不自然ではないか

太守は郡の軍権のトップであるので、弓遵は帯方郡の軍勢の総大将ということになる
この時代の戦争で総大将が討ち取られているのに戦には勝ったなんていうことがあり得るだろうか?
楽浪太守の劉茂が頑張ったという解釈も不可能ではないが、攻撃されているのは帯方郡であり楽浪は援軍の立場であるので不自然だろう
魏本国から援軍があったとも聞かないし、総大将が討たれて士気ダダ下がりの帯方軍が、敵将を討って意気上がる韓に打ち勝ったというのは信じ難い
桶狭間の戦いで今川義元が討ち取られたのに残った家臣が奮戦して織田勢を壊滅させましたとか言われたら「そんなバカな」だろう

そこで考えたのが、窮地に陥った帯方郡残党ないし劉茂が先に親魏倭王となった卑弥呼に援軍を出させたのではないかということ
神功は香椎宮の神託で出兵したとあるが、本当は香椎の浜に帯方郡の船が来て韓の背後を衝くように依頼されたのではないか
狗奴国との戦争に協力してもらうつもりで朝貢したのに逆に援軍に駆り出されるハメになった卑弥呼だが、"親魏"倭王としては断る訳にもいかず
伊都国の安曇水軍を送って韓を南から攻めたのが三韓征伐の実態なんじゃないか

弓遵を討ち取って勝利を確信していた韓だったが留守にした本国を倭に攻められて大慌てで撤退し、帯方郡は難を逃れた
しかし、東夷に太守を討ち取られた挙句、自力解決できずに別の東夷に助けてもらいました、では魏帝国の面目丸潰れであるため
記録には残さなかった
一方の記紀はかつて中国に従属していたことを隠したかったので神託ってことにして事実を隠蔽した

どうだろうか?
0819日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 03:18:17.22
精神病院に行けと言っているんだよ、
どこの基地外なんだ
0820日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 03:58:33.61
>>818
なるほど案外無理のない設定だな
>>510とか見ると記紀の天皇の順番は当てにならないしワンチャンあるで
0821日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 06:12:27.10
>>818
>これを読んで閃いたのだが、仲哀神功は九州邪馬台国が東遷するより前の人物で、

最初から東方にある邪馬台が、どこに東遷するの?

神武東征は遅くとも弥生中期〜後期前半の出来事だぞ。
その頃北九州は奴国の絶頂期で、勢力を広げられなかった神武グループが東に追い出されんだよ(発地:伊都国)。

神武グループが畿内に定着して邪馬台=ヤマトとなった。
邪馬台=ヤマトは中華正史にも記述された客観的事実。
0822日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 09:59:11.88
神武は卑弥呼より後だよ
0823日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 10:15:47.78
>>822
その通り。   @阿波
0824日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 12:14:18.91
弥生中期後半から瀬戸内〜近畿に多く見られた高地性集落は、高地西面に設けられたものが多く、狼煙跡などが見つかっていることから、西方からの侵入に備えた防衛的集落であるというのが定説。
つまり、この頃すでに九州から瀬戸内〜近畿への軍事圧迫があった。

それが、弥生後期前半には、瀬戸内の高地性集落が消滅し、近畿のみ見られるようになる。

神武東征の進軍で、瀬戸内の高地性集落は撃破されたんだよ。
これがAD50〜AD150頃な。卑弥呼の時代のずっと前、奴国の後漢朝貢の時期。

近畿の高地性集落が消えなかったのは何故か。
神武は大阪湾周辺の砦を落とせなかったから。

やむなく神武軍は迂回戦略で熊野から奈良盆地に侵入して攻略成功。
記紀にもちゃんと書いてること。
近畿の砦は温存されたまま、邪馬台=ヤマトの第一次防衛ラインになった。

転じて弥生後期後半(150年〜)以降は、再び瀬戸内〜北九州にかけて高地性集落が見られるようになる。

畿内の政・軍の地盤が固まって、邪馬台=ヤマトの防衛ラインが北九州にまで西進したわけだな。

これら全部、卑弥呼以前の動き。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 12:20:20.89
お前たちの言っているジンム?よりも

『諸蕃』
ここに書かれている人々のほうが上なんだけどな、
低脳なんだろう
0826日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 12:24:30.01
『諸蕃』

古代日本における用語〜と書いてあるけど、
ほとんど後付け、頭が悪いんだろう
0827日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 12:26:47.12
でっど・えんど?

真のまがいもの〜と言っているでしょ
0828日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 13:01:34.39
『大里  dead end』という人物(関係者)がいたり、
・・・何か、おかしいな〜?となってくるでしょ
0829日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 13:02:28.91
>>822
根拠を示せ。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 13:46:47.04
>>829
三世紀までは奈良盆地内には鉄器がほとんど存在しない一方で、北部九州には鉄器が豊富
この頃の本州の鉄鍛冶工房は北部九州の海人族の進出地のみ
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/kodaisikawakatu/imgs/7/b/7b77c3d5-s.jpg

そして四世紀になると奈良盆地内にも鉄器が増えてくる

このことは三世紀までは北部九州の勢力と畿内勢力が別勢力であったことを意味している
そして地理的条件により、畿内の勢力が北部九州を経由せずに魏とやりとりすることは不可能
ゆえに三世紀の魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州以外にあり得ない

神武東征が卑弥呼より前ならば、畿内は当初から北部九州から鉄材も鉄鍛冶職人も入手可能なはずで
四世紀まで鉄器が普及しなかった理由を説明できない

証明終わり
0831日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 13:52:30.07
うーん、そこに神武を絡める意味が全くないな。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 14:10:30.00
>>831
>神武東征が卑弥呼より前ならば、畿内は当初から北部九州から鉄材も鉄鍛冶職人も入手可能なはずで
>四世紀まで鉄器が普及しなかった理由を説明できない

神武を絡める意味しかないな
0834日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 15:04:42.73
倭国乱れて大騒動で、やっとこさ女王卑弥呼の共立に持ち込んだ。
ところが今度は、南の方で狗奴国の反乱が続き、帯方郡に軍師の派遣を願い出るしまつ。
悪い時には悪いことが重なるもので、卑弥呼が急死して大急ぎで墓をつくり、
葬式が済んで、やれやれ後継ぎに男王が立とうとしたら、又もや倭国乱れててんやわんや。
そんな不安定な時代に箸墓なぞ作ってるヒマなかろうが、、。まして女王の権力基盤が定まっていたなどとバカもたいがい
0835日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 15:15:25.81
神武東征と鉄ってのは完全に無関係じゃないのか?

弥生土器や稲作の東進とは、関係ありそう。
こっち来るより、2600年より、遡って行っちゃうかもなw
0836日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 15:42:14.78
>>835
>神武東征と鉄ってのは完全に無関係じゃないのか?
>>832のとおり完全にリンクしてる
0837日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 15:58:55.28
諸蕃とか言われてるん雑魚が現れたんが10世紀なんだが
0838日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 16:00:33.91
あれはもともと唐王家と縁戚を結んでいた連中らが唐が滅んだあとに仏教国後継はわれわれだ!って名乗りを挙げたんが始まり
0839日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 16:01:28.10
歴史くらい勉強しろや(°▽°)
0840日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 17:21:48.31
>>830
>北部九州には鉄器が豊富

碌な鍛冶炉遺構や資源の無い北部九州に、邪馬台国など在る訳がない。  以上御終い。   @阿波
0841日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 18:30:38.54
831
絡めるじゃなく読み解くだろ

おまえの知人じゃないんだぞ
0842日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 18:48:46.06
俺とはツーカーだよ
0843日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 18:50:15.12
>>830
>北部九州には鉄器が豊富

碌な鍛冶炉遺構や資源の無い北部九州に、邪馬台国など在る訳がない。  以上御終い。   @阿波
0844日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 19:10:20.65
狗邪韓國の棒状鉄斧を頂点とする鉄素材のサプライは
はるか古攝津湾沿岸にまで達していたのだった
0845日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 19:34:14.35
>>832

その可能性を完全に否定はしないけどさ、個人的には神武は落ち武者的に筑紫を出たのだと思う。
だとしたら、鉄器は持っていたけれども生産基盤までは移動できなかったのかも。

記紀の年代とのすり合わせからも、卑弥呼より後に神武では、その後の年代記がえらく詰まってしまう。
0846日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 19:41:45.16
>>845
>個人的には神武は落ち武者的に筑紫を出たのだと思う。

その神武は、ジメジメした奈良盆地がお好みだったのかね?   @阿波
0847日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 19:44:28.11
>>845
欠史八代の何人かは、神武に付き従った将軍(?)たちではなかったかと思ってるんだけど。
孝霊は吉備など中国地方に祀られてるし・・、
他の孝の付く人たちもなにかの意味があると思う。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 19:58:22.38
844
鉄なんざ朝鮮半島が鉄の取れる地だからみな乗り込んだの間違いだろ

日本からも鉄目当てで乗り込んだ連中らはいた
0849日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 19:59:46.85
>>845
>個人的には神武は落ち武者的に筑紫を出たのだと思う。

その神武は、ジメジメした奈良盆地がお好みだったのかね?   @阿波
0850日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 20:01:00.41
向こうから人質を取って当時向こうで流行っていた鉄の剣なんか手に入れた

それと同じもんが奈良の古墳から出てきた

これを日本古来からの神具だの祀った連中らも現れたが文献に書かれてることから起源が分かった
0851日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 20:01:30.66
>>845
>個人的には神武は落ち武者的に筑紫を出たのだと思う。

その神武は、ジメジメした奈良盆地がお好みだったのかね?   @阿波
0852日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 21:56:07.06
神武東征だの欠史八代だのは弥生文化の東進。
神功皇后も神話だし、歴史の話が始まるのは継体天皇からだろ。

豪族が連合して軍事国家形成した
古墳時代はあったけど、調略は熾烈化するし
皇室の系統が直系になる話は聖徳太氏以降でもっと後だ。

記紀が作った話だ。 
語るに落ちてろだろがwww
0853日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/14(土) 22:39:11.19
>>845
それは>>504>>510を読むと分かる
記紀は同一人物を複数回に分けて記載してあるので、実態はかなり短い期間で良いということになる
0855日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/15(日) 00:59:06.97
>>840
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0856日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/15(日) 00:59:15.61
>>843
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0857日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/15(日) 00:59:24.50
>>846
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0858日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/15(日) 00:59:37.57
>>849
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0859日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/15(日) 00:59:54.01
>>851
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0860日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/15(日) 01:24:00.77
>>853
なるほど同じ人を2回登場させていれば実際の期間は半分ってことか
0861日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/15(日) 01:31:30.72
それと春秋で2年の倍年も入るから250年分で750年分くらいにしてる可能性も
0862日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/15(日) 06:25:46.11
>>861
その通り。   @阿波
0863日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/15(日) 06:31:39.92
神武は北九州からハブかれて畿内に流れて邪馬台=ヤマトを成立させたグループ。
北九州内の海外交易権は奴国が持っているから、ハブかれた神武はこの時期はそもそも鉄器あんまり持ってない。

別に神武という名前を使わなくてもいいけど、弥生中後期に北九州→畿内への東進があったとすると、高地性集落の奇妙な盛衰も説明がつく。

なおかつ、銅鐸の消失にも符合する。

近畿を中心に西日本全般、はては佐賀吉野ヶ里にまで広く、400年も存在した銅鐸は2世紀末〜3世紀に突如される。
しかも、最盛地である近畿の中でもなぜか奈良だけ異様に出土が少なく、消滅も早い。
神武グループによって畿内の地に中華的天子思想を軸とした邪馬台=ヤマトが成立し、ヤマトの地では旧来の信仰(銅鐸)の破棄がより徹底的だったということだ。

畿内で旧勢力と新勢力の交代があったとすると、2世紀〜遅くても3世紀初、邪馬台国より前。
勢力交代があった結果、畿内に邪馬台国が生まれた。
0864日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/15(日) 06:35:52.12
>>863
>神武は北九州からハブかれて畿内に流れて邪馬台=ヤマトを成立させたグループ。

その神武は、ジメジメした奈良盆地がお好みだったのかね?   @阿波
0866日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/15(日) 08:06:31.57
>>863
>神武は北九州からハブかれて畿内に流れて邪馬台=ヤマトを成立させたグループ。

ハブられていたら倭国を代表できない。

>しかも、最盛地である近畿の中でもなぜか奈良だけ異様に出土が少なく、消滅も早い。

内陸だったから僻地だっただけ。
弥生時代の開拓は海に近いところから。
0867日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/15(日) 08:07:23.53
>>863
>畿内で旧勢力と新勢力の交代があったとすると、2世紀〜遅くても3世紀初、邪馬台国より前。

ここは同意。
九州北部における倭国大乱の余波だ。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/15(日) 08:32:27.02
>>862
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0869日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/15(日) 08:32:37.93
>>864
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0870日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/15(日) 12:37:35.38
畿内王権について明らかなのは
倭の五王時代、400〜500年の、大阪湾地域の古墳群

ただし、これは地方豪族の群雄闊歩時代であり、
BC200以降の銅鐸文化の広がり
日本海ルートが起源で、出雲、丹後、越、
瀬戸内海に及び、吉備、阿波、淡路、摂津、
そして、近江、伊勢、美濃、関東も含むようになる。

筑紫の参入についてはAD250年以降と言うのは、
倭人伝からも読み取れる。
いずれも、銅鐸〜古墳によってこれが証明される。

300年付近で、一旦奈良の山中に遷都が有ったのは
247年以降の九州参入の時までに、
魏による楽浪帯方、箕氏韓王朝の滅亡が有ったから。
弁韓地域はかろうじて勢力圏を維持し、倭人伝でも倭と接すである。
日本の青銅の搬入元が、消滅し魏に抑えられたのである。

倭の五王航海までには、いくら魏晋宋であろうとも、
瀬戸内海には侵入できない、と知ったから
畿内説の奈良も400年には、中央王権として大阪湾が中心となる。

次に奈良が開けるのは、550〜600年辺り、
隋唐の台頭で百済滅亡が見えだしてからである。
500年任那割譲以降の歴史は、記紀でも歴史として読める部分が増える。
600年、聖徳太子の斑鳩には、中国人が初めて奈良に入った。
0871日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/15(日) 16:24:26.09
>>866
その通り。   @阿波
0872日本@名無史さん
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2019/09/15(日) 16:25:08.25
>>863
>神武は北九州からハブかれて畿内に流れて邪馬台=ヤマトを成立させたグループ。

その神武は、ジメジメした奈良盆地がお好みだったのかね?   @阿波
0873日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/15(日) 16:51:14.74
阿波爺は具体的にいつごろまで阿波が中心地だったと考えてる?
0874日本@名無史さん
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2019/09/15(日) 17:34:03.26
>>873
白村江で負けるまで。   @阿波
0875日本@名無史さん
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2019/09/15(日) 19:45:44.33
>>863
貝輪の分布から見て弥生後期〜晩期に北部九州の海人が瀬戸内海を東進したのは間違いないが、彼らが訪れた場所には鉄も来ているので矛盾する
http://ac.jpn.org/kuroshio/hitomono/f012.gif
http://inoues.net/club6/tetu2.jpg

大阪湾岸には鉄工房がもうあるので海人の支配領域に入っていることが分かるが、一方で奈良盆地内には弥生末まで鉄器がほとんどない
このことは摂津、河内、和泉までが卑弥呼の頃の海人の進出限界であり、大和にはまだ海人が入れていないことを意味しているが
すでに包囲網は出来上がっていたと言える
また琵琶湖の西側の安曇川周辺には三世紀までに安曇が来たと考えられており、山城も海人の領域である可能性が高い
奈良盆地は東西南を山に守られているが、北側は木津川沿いに平地が多く比較的守りが薄い
神武が九州の落ち武者と考えると、この状況で大和に安住できるとは考えにくいだろう
まして鉄器ももたずに土着勢力を従えたと考えるのはかなり苦しい

やはり弥生末までに大和を包囲していた海人が三世紀末か四世紀初頭に大和まで制圧を果たしたと考えるのが鉄の軌跡から見ても自然だろう
0876日本@名無史さん
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2019/09/15(日) 19:57:11.44
>>818
なかなか面白い推論だと思う
日中双方で事実を隠蔽したなら立証は難しいだろうが、「あってもおかしくない話」としては十分成立しているんじゃないか

>この時代の戦争で総大将が討ち取られているのに戦には勝ったなんていうことがあり得るだろうか?
特にここは今までツッコミが入らなかったのが不思議なくらいの不自然さに思えるしな

空想ついでに、
「このときの救援の謝礼として卑弥呼に送られたのが日田の金銀錯嵌珠龍文鉄鏡であるが、魏にとっては恥なので史書に記されることはなかった・・・」
なんて妄想を付け足してみるw
曹操の鏡に次ぐほどのお宝を下賜したのが史書に一切記載されてないのも不自然といえば不自然だし
0877日本@名無史さん
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2019/09/15(日) 19:59:00.00
>>875
>やはり弥生末までに大和を包囲していた海人が三世紀末か四世紀初頭に大和まで制圧を果たしたと考えるのが鉄の軌跡から見ても自然だろう

倭国(阿波)から、「忌部はん」 が入植しただけだよ。 へんな妄想しすぎ。   @阿波
0878日本@名無史さん
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2019/09/15(日) 20:26:36.24
>>875
>まして鉄器ももたずに土着勢力を従えたと考えるのはかなり苦しい

記紀によると、大和の地には先にニギハヤヒが王国を打ち立てており、そこに居候させてもらったことになっている。
0879日本@名無史さん
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2019/09/15(日) 20:27:26.75
>>875
>まして鉄器ももたずに土着勢力を従えたと考えるのはかなり苦しい

倭国(阿波)から、「忌部はん」 が入植しただけだよ。 へんな妄想しすぎ。   @阿波
0881日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 05:54:55.61
移動もなにも、五斗長垣内、林・藤島を見てもわかるように弥生後期には北陸から近畿瀬戸内まですでに鉄器は
「ある」
あるが、当時の鉄は輸入に頼る以上、近畿まで来る量は少ない。鉄器文明は弥生後期既に西日本全般に浸透しているが、原料がないとどうしようもない。
林・藤島の鉄は朝鮮東岸-北陸直交の北九州と別のルートだが、絶対数は少ないだろうし。

もっとも、鉄鏃のアドバンテージは「貫通力」であって、優位性が発揮されるには鎧の普及する古墳時代まで待たねばならない。
逆に、鉄鏃の普及が鎧の進化を促したとも言える。

人体に対する殺傷力は石鏃の方が上という実験結果が出ている。
石鏃では甲を貫けないし、鉄鏃がコモディティ化した後は廃れるが。

倭人伝の記述からも明らかなように、畿内邪馬台=ヤマトは女王共立によって独自の交易ルートを獲得しており、古墳時代に入って畿内に鉄器保有量が飛躍的に増えるのはこのため。
それまで公式交易権を持っていた奴国経由でしか手に入らなかったものが、ほぼ直通になったことが大きい。
絶対的保有量は北九州全域の方がまだ上だが、卑弥呼以降はせっせと鉄資源を貯め込めるようになった。
0882日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 06:41:37.09
>>881
「倭国(阿波)は鉄器王国」

倭国(阿波)では遺跡発掘が少ないにも関わらず、阿波一国だけで現在、阿波各地7か所の弥生時代鉄鍛冶炉遺構がある。  

「拝原東遺跡」・「光勝院寺内遺跡」・「矢野遺跡」・「名東遺跡」・「庄・蔵元遺跡」・「加茂宮ノ前遺跡」・「芝遺跡」   @阿波
0883日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 06:43:28.87
>>881
倭国(阿波)では、大陸から鍛冶素材を入手して鉄鍛冶を倭国(阿波)内各地で実施し、中国鏡・中国産朱も渡来している現実がある。

また、朝鮮半島で作られたと思われる青銅鏡や鉄斧も出土している。

「大陸と倭国(阿波)までの流通ルート」が確立されているのは紛れもない事実である。  @阿波
0884日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 09:10:45.57
>>881
鉄関連の説明は納得できるが
当たり前の様に卑弥呼が畿内にいて突然鉄の権益を手にいれたとか断定できることが謎過ぎて逆に笑える
0885日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 09:16:50.78
>>881
後半が妄想。
そもそも古墳時代の前倒し詐欺をしないと成り立たない仮想歴史。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 09:17:48.15
>>884
それが、トンデモ説のなせる業。   @阿波
0887日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 09:46:47.83
>>881
>移動もなにも、五斗長垣内、林・藤島を見てもわかるように弥生後期には北陸から近畿瀬戸内まですでに鉄器は「ある」

「ある」じゃねーよバカ
だからそれらの遺跡は全部北部九州の海人のものだっての
鉄器だけがあるんじゃなくて北部九州の海人が北陸から近畿瀬戸内まで支配してたから鉄器があるんだよ
そして畿内大和はまだ抵抗していたから奈良盆地内には鉄器がない

今まで>>830とかさんざんソースが出てるのに何を周回遅れの話をしてるんだお前は
0888日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 09:53:35.04
>>887
>だからそれらの遺跡は全部北部九州の海人のものだっての

無理!  碌な鍛冶炉遺構や資源の無い北部九州に、海人族など居る訳がない。  以上御終い。   @阿波
0889日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 10:08:22.59
日本には青銅器と鉄器がほとんど同時に伝わったとされているが、奈良盆地では四世紀にならないと鉄器が普及しない一方で青銅器は存在する
三世紀までは鉄器の所有は北部九州が圧倒的で、その他の地域での鉄鍛冶工房は>>830>>875にソースがあるように海人の進出地ばかり
明らかに北部九州を地盤とする海人が鉄材料の輸入を独占しており、その支配地域のみに鉄器が普及している
それが奈良盆地内にも及ぶのが四世紀
0890日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 10:37:14.19
海洋民族である海人にとって、そもそも大和は価値のない荒地だろう。
日本海も瀬戸内も、博多の海人族の支配下だし、そこにあった鉄も海人のもの。
畿内とかそういう枠組みそのものが意味を持たない。
0891日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 10:56:51.90
青銅器で無双してた忌部が衰退する時期だな
0892日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 11:26:37.93
>>889
畿内の3世紀のホケノ山古墳や椿井古墳の2つだけでも
合わせて350点の鉄器が見つかっているぞ
3世紀に畿内は九州を逆転
0893日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 11:39:27.57
3世紀に畿内が九州の支配下に入ったんだろう。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 11:46:19.47
>>891
無理!  碌な鍛冶炉遺構や資源の無い北部九州に、海人族など居る訳がない。  以上御終い。   @阿波
0896日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 12:04:04.97
なぜ?
0897日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 12:13:20.23
熊本の鍛冶遺跡で鉄器や半加工品、鉄さい等が500点以上出てるからな。

時代はあとになるが
7世紀〜8世紀の糸島の高炉遺跡で
高炉数十基と炉そのものを含む
出土物が32トンほど。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 12:14:41.26
弥生時代どころか平安時代くらいまで、
鉄で畿内が九州を上回ることはない。
0899日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 12:15:16.73
邪馬台国はおおむね福岡で、狗奴国は熊本だろうね。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 12:16:32.90
>>897
>熊本の鍛冶遺跡で鉄器や半加工品、鉄さい等が500点以上出てるからな。

遺跡名を言えないところが、痛々しい。   @阿波
0901日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 12:20:10.61
方保田東原遺跡
合計500点以上の鉄が見つかっていて、その多さは全国でも際立った数です。
種類は斧やナイフなどのほか、鎌や釣り針など非常に多彩です。
注目されるのは、製品ではない塊や棒や板状の破片です。
これらは鉄器の素材となった物と考えられます。
出土数は全体の約半分を占めているので、この遺跡ではかなりの規模で
鉄器づくり(鉄鍛冶)が行われていたようです。


西弥護免遺跡
弥生終末期(581点の鉄器、細い針状の鉄滓など)
0902日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 12:47:46.75
>>897
鍛冶炉遺構はないの?

碌な鍛冶炉遺構や資源の無い熊本に、狗奴国など在る訳がない。  以上御終い。   @阿波
0905日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 13:13:58.63
>>892
ホケノ山は四世紀だし、京都は>>830のとおり北部九州の海人族の手に落ちている

http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku277.htm
> 『調査概報』の年代を見た近畿説の考古学者は、ホケノ山古墳の年代をさまざまな理屈を付けて古く持っていき、
> これが卑弥呼の年代と重なると述べるようになった。
>
> しかし、今回の2008年の研究報告書では、ホケノ山古墳についてかなり新しい年代が報告された。
> 今回の報告書は、樹齢が15年ぐらいの細い木を測定対象として、いわゆる古木効果が入らないように注意深く試料を選んだ。
> これだと、再利用したものではないし、風倒木でもないと言えるので、炭素14年の誤差も15年以内に収まる。
>
> 小枝からとった試料No.1の2σ暦年代範囲は250〜400calAD(95.4%)、 試料No.2の2σ暦年代範囲は320〜420calAD(81.5%)と
> 250〜300AD(13.9%)である。
(中略)
> この結果は、ホケノ山古墳の年代が卑弥呼の時代の3世紀中頃よりも、かなり新しく4世紀後半であることを示している。
> 『調査概報』のデータを見て、ホケノ山古墳の年代を卑弥呼の時代まで遡らせる主張をしてきた考古学者たちは、はしごを外された恰好になった。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 13:18:10.76
邪馬台国は、「倭大國魂・倭大國敷神社」が鎮座する、東西に貫く大吉野川流域弥生時代後期集落遺跡群。   @阿波
0907日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 13:19:08.44
堂ノ後古墳はホケノ山古墳の前に作られて
ホケノ山古墳築造の際に一部が削られている。

その堂ノ後古墳は埴輪が出土し
5世紀と比定されている。
0908日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 13:19:57.72
邪馬台国は、「倭大國魂・倭大國敷神社」が鎮座する、東西に貫く大吉野川流域弥生時代後期集落遺跡群。   @阿波
0909日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 13:38:44.94
>>905
ホケノ山の木棺小片サンプル5つの平均が120〜240年
副葬品に内行花文鏡はあっても三角縁神獣鏡はなく
これからホケノ山は卑弥呼の魏への遣使景初三年239年以前のものと推定される
0910日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 13:48:13.41
>>903
畿内説は循環論法が好きですね。
0911日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 13:50:37.54
>>909
それは三角縁神獣鏡が卑弥呼と関係するだろうという仮説を前提とした循環論法
0912日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 13:55:52.15
>>909
木棺の材木は埋葬時の伐採とは限らない
最も新しく出た資料が古墳の年代である
それは>>905のとおり四世紀後半
>>907を考えれば五世紀もあり得る
0913日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 14:02:16.90
Old Wood Effect(古木効果)を理解する
https://www.radiocarbon.com/jp/old-wood-effect.htm
>芯材(内側)と辺材(外側)の放射性炭素年代は異なり、芯材の方が辺材より年代が大幅に古くなります。
>炭化物や木の炭素年代測定を行う場合は、年代は特定できますが、サンプルが短命な植物や小枝がサンプルでない場合は、
>木の成長過程のどの部分をサンプリングするかによって数百年の誤差が生じる可能性があります。
>
>また、放射性炭素年代測定は試料がいつ使われたのかではなく、試料となった有機物がいつ生きていたのかを教えてくれるものです。
>測定試料と史実をリンクさせる場合は間違った結論に導かないように“古木の問題”を考慮しなくければなりません。
>伐採年とは違う年における木材の使用、木材の再利用も年代測定という観点からすると“古木の問題”となります。
>木材はいわゆる“寝かせ”の期間があります。 建築材の中には後世の建築に再利用されるものもあります。

この古木効果があるので、炭素年代測定には小枝資料が最適
その結果が>>905
0914日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 15:49:07.89
>>910
魏志倭人伝に景初二年に卑弥呼が魏に使いを送ると書いてある
景初二年は西暦238年で3世紀

>>911
三角縁神獣鏡には景初や正始など
魏志倭人伝に卑弥呼が魏に使いを送ったと書いてある年の魏の年号が入っている
三角縁は魏の鏡であり景初や正始の年度2西暦40年ごろに
出土の多い畿内が魏と交流していた証拠

>>912
ホケノ山は天井が崩落しているので4世紀初頭の異物が玄室内に入り込んでいる
しかし棺の木棺の木片サンプルは120〜240年頃を示し
副葬品の年代も3世紀前半ごろに収まる
よってホケノ山遺跡は3世紀中葉と年代の判定がされている
0915日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 15:52:11.68
>>914
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。  

圧倒的な倭国(阿波)の遺跡のまえに、ぐうの音も出ない九州説や畿内説。   @阿波
0916日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 16:03:26.61
>>914
>ホケノ山は天井が崩落しているので4世紀初頭の異物が玄室内に入り込んでいる
>しかし棺の木棺の木片サンプルは120〜240年頃を示し

貴人の木棺には樹齢数百年のコウヤマキなどを使う。
因って、120-240年でも埋葬されたのは5-6世紀ということは十分ありうる。ホケノの木棺の樹種・樹齢はどのようだったのか??
0918日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 16:19:38.34
>>914
>ホケノ山は天井が崩落しているので4世紀初頭の異物が玄室内に入り込んでいる
その戯言はさっきN速で論破してやっただろw
棺は古木効果によるもの
古木効果の無い最も信頼性の高い測定結果が>>905

338 :名無しさん@1周年 :2019/08/24(土) 07:04:48.91 ID:v9LHhkkt0
>>319
>・ホケノのC14年代測定は、極端に古い年代と極端に新しい年代が出て、精度そのものに疑問がある
古く出るのは古木効果でしかない
小枝には古木効果が働かないので精度が高い
それによると4世紀

>・ホケノは天井が崩落しているので、後世に小枝という異物が墓室に混入した可能性がある
墓室の上にかかっている土は古墳築造時のもの
その土に4世紀の小枝が混じっているなら古墳の築造時期も当然4世紀
残念だったな

.  .    ._______
.  .  ../  .  .  .  . \ 
.  . ./  .  .___← 墓室の天井崩落時に混じるとするとここの土だが、ここの土は古墳築造当時のもの
.  / . .   | 墓室 |  .  \
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
0919日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 16:25:44.92
>>918
>墓室の上にかかっている土は古墳築造時のもの
>その土に4世紀の小枝が混じっているなら古墳の築造時期も当然4世紀

そりゃ墳丘の土は築造時に盛ったもんだからな
そこに4世紀のものが混じってたら4世紀の古墳ですわ
当然ですわ
0920日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 17:06:47.62
>>915
>>261
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0921日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 17:32:30.75
>>916
>>918
残念ながらホケノ山の棺内副葬品が3世紀の特徴を現している
特に100m級規模の古墳なのに古いタイプの銅鏡が
破片程度にしか出ていないという事は
その後卑弥呼の239年の魏への遣使によって三角縁神獣鏡がふんだんに手に入り
これより小規模の遺跡で一度に10枚20枚埋葬される以前の古墳ということ
つまりホケノ山古墳は木棺サンプルの120〜240年という分析結果と
鏡の服装状況から240年かそれ以前に被葬者が埋葬された古墳であると言い切ってもよい
0922日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 17:39:58.10
>>921
残念だが三角縁神獣鏡が卑弥呼の鏡であるという証拠は何もない
そして古墳の中の最も新しい資料が古墳の年代である
それは>>905のとおり四世紀後半
>>907を考えれば五世紀もあり得る
0923日本@名無史さん
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2019/09/16(月) 17:41:53.15
ホケノ山古墳に重なり
ホケノ山古墳の下に作られた
堂ノ後古墳は埴輪などから5世紀と
比定されている。
0925日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 17:47:28.22
>>921
>特に100m級規模の古墳なのに古いタイプの銅鏡が

これが3世紀だなんて思う方がおかしい。
畿内説の論者の年代観はおかしい。
0926日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 17:48:26.97
そもそも魏の領内にはめぼしい銅山が無かったため魏は銅不足に苦しんでいた
貨幣の鋳造さえ覚束なかったのに倭国は魏から銅鏡たくさん輸入したニダとか寝言もいいとこ

三国志時代の銅貨幣から邪馬台国を検証する
https://www.excite.co.jp/news/article/Recordchina_20190606059/
> 後漢以降「魏・呉・蜀」の三国時代になると、呉や蜀の貨幣(銅銭)は稀に見られるが、魏時代(曹操以降)の貨幣がなかなか見つからないのが実情であった。
> 山田勝芳「貨幣の中国古代史」によると、後漢末「董卓」による悪銭(董卓小銭)流通により市場経済は混迷した(西暦191年)。
> その後の洛陽を都とした魏国(曹操)は、董卓小銭を廃止して漢代からの五銖銭を標準貨幣にしようと鋳造を試みるが、銅原料が洛陽周辺から手に入らず、
> また燃料炭(木炭)も長い戦災によって極度に不足、銅銭による貨幣経済安定が得られない状況であった(写真3は曹魏五銖)。
> その反面、呉は揚子江周辺(華中)、蜀では成都の西南部で銅鉱石が掘られ「直百五銖:写真1左」・「太平百銭」・「世平百銖:写真1右」や
> 「大泉五百:写真2麹カ下」・「大泉涛鱒轣v・「大泉涛轣F写真2右上」などの銅貨幣が鋳造された。
> これらの筆者が集めた大型銅銭を見るにつけ、銅銭鋳造すらおぼつかない「魏」では、銅鏡をつくることは不可能であったろうと推定する。
>
> 強大な兵力を有する「魏」は西暦263年に「蜀」を滅ぼし、西暦265年には魏の実権を握っていた司馬炎による晋王朝(西暦265年〜316年)が樹立、
> 西暦280年にはついに「呉」を滅ぼし、ここに三国時代は終了する。
> ようやく安定した銅鉱石を入手して安定した銅鋳造が可能になったのは、西暦263年以降280年代に入ってからである。
> そうなると、景初2年(西暦238年)に卑弥呼に下賜した100枚に銅鏡は、魏の時代というより漢時代に作られた漢王朝の「漢鏡」を提供したと考えるのが普通であろう。
0927日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 17:50:36.46
中国側の研究者も魏は銅が不足していたと言っている

http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku365.htm
> 魏や晋の時代、中国の北方では、銅材が不足していた。
> このことについて、中国の考古学者、徐苹芳氏は、「三国・両晋・南北朝の銅鏡」(王仲殊他著『三角縁神獣鏡の謎』角川書店、1985年刊所収)
> という文章のなかで、つぎのようにのべている。
> 「漢代以降、中国の主な銅鉱はすべて南方の長江流域にありました。三国時代、中国は南北に分裂していたので、魏の領域内では
> 銅材が不足し、銅鏡の鋳造はその影響を受けざるを得ませんでした。魏の銅鏡鋳造があまり振るわなかったことによって、
> 新たに鉄鏡の鋳造がうながされたのです。数多くの出土例から見ますと、鉄鏡は、後漢の後期に初めて出現し、後漢末から魏の時代にかけて
> さらに流行しました。ただしそれは、地域的には北方に限られておりました。これらの鉄鏡はすべて夔鳳鏡(きほうきょう)に属し、
> 金や銀で文様を象嵌(ぞうがん)しているものもあり、極めて華麗なものでした。『太平御覧』〔巻七一七〕所引の
> 『魏武帝の雑物を上(のぼす)すの疏(そ)』(安本註。ここは『上(たてまつ)る疏(そ)』と訳すべきか)によると、曹操が後漢の献帝に贈った品物の中に
> ”金銀を象嵌した鉄鏡”が見えています。西晋時代にも鉄鏡は引き続き流行しました。洛陽の西晋墓出土の鉄鏡のその出土数は、
> 位至三公鏡と内行花文鏡に次いで、三番目に位置しております。北京市順義、遼寧省の瀋陽、甘粛省の嘉峪関などの魏晋墓にも、
> すべて鉄鏡が副葬されていました。
> 銅材の欠乏によって、鉄鏡が西晋時代の一時期に北方に極めて流行したということは、きわめて注目に値する事実です。」
0928日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 17:57:07.19
三角縁神獣鏡「魏鏡説」の著しい退潮
http://www.shmj.jp/tuushin/tuushin77.pdf
> しかし実際には、今世紀に入る頃から、魏鏡説は防戦一方に追い込まれていたのである。

> 特に、三角縁神獣鏡は日本から既に 560面も出土しているが、未だ中国からの確実な出土例がない。
> 大流行したのは確実に日本のみであり、流行地で複製鏡が製作された可能性が高いのである。
> その意味で注目すべきは、三角縁神獣鏡の 80%以上が同型鏡(同笵鏡)だという点である。
> 中国鏡にはほとんど同型鏡(同笵鏡)は見られないので、三角縁神獣鏡だけの特徴であり、いわば大量複製技術なのである。
> また、三角縁神獣鏡には表面に凸線キズという欠陥が認められるが、これも中国鏡にはない。
> 見かけは同じであっても、内部品質、特に組成は製作地によって異なるかもしれない。
> これらの点に関して、近年の大きな進展は、
> 1、中井一夫が、鏡のキサゲ加工から、青龍 3年鏡は踏返し鏡であることを論証したこと
> 2、鈴木勉が、2層式鋳型(粗い外型に細かい内型)を用いて、凸線キズの再現に成功したこと
> 3、新井宏が、鉛同位体比の研究から、異なる年号鏡を後にまとめて鋳造していることや同時期の中国鏡との比較で、
>   大部分が国産であることを論証したこと、などである。
>
> 王仲殊は最新の論文で、「日本の著名な金属考古学者新井宏氏が、三角縁神獣鏡に含まれる鉛同位体比率の測定に基づき、
> ……三角縁神獣鏡が中国の「魏鏡」ではなく、日本で製作されたことを確認」と称賛してくれた。
>
> さて、2015年になってからの進展。
> ひとつは、前出の鈴木勉が三角縁神獣鏡の鋳造後の補修痕を精密比較して、埋葬古墳毎に特徴が異なり、
> 鋳造地が古墳に近いところにあったとしたことである。もちろん、これは国産説に繋がる。
> もうひとつは、奈良県立橿原考古学研究所が年末に読売大ホールで開催した公開講演会「三角縁神獣鏡研究の最前線」で、
> 凸線キズの研究から、三角縁神獣鏡の「舶載鏡」が誰もが国産鏡と認める「仿製鏡」と、同一の鋳型(外型)で作られていたことを
> 明らかにしたことである。「舶載鏡」も国産であった。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 18:27:06.15
>>917
そうか、やはりコウヤマキだったのか。
コウヤマキは特に成長が遅い。木棺にできるまでに難百年かかったことか・・。
ちなみに去る年、秋篠宮は阿蘇高千穂神社にご参拝されたが、その際にお手植えなされたのもコウヤマキだった。
0930日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:16:39.28
>>922
古代中国の文献に卑弥呼が魏に使いを送ったのは景初三年とあって
三角縁神獣鏡にはその魏の年号の景初三年と記銘の入った物が存在している
卑弥呼が景初三年に魏に使いを送って銅鏡百枚貰ったというのは
この三角縁神獣鏡である確立が非常に高い

>>925
100m級の前方後円墳が3世紀なのはおかしいとはどういう事か
4世紀ならおかしくないのか
ちなみに3世紀の箸墓古墳は前長200m
0933日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:27:21.57
ホケノも箸墓も3世紀でもいいよべつに
邪馬台国は九州で、
九州からの征服者が地元の毛人に作らせたんだから
むしろ3世紀でいい

副葬品と外の民衆の落差から明らかだし
0934日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:32:14.04
石使ってるんだから渡来人系かな
倭人伝には書いてないね
よくある手じゃん
自らは手を汚さずに別民族に支配させて憎悪を向けさせる

米が肝心に特権与えたのとかもそうだし
英も華僑使ったっしょ
卑弥呼も賢かったんだよそこらへん
0935日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:35:23.77
>>932
三角縁神獣鏡は中国の洛陽郊外に相当する所の畑から1面出土

>>933
魏志倭人伝には3世紀の西暦239〜240年
魏の年号で景初、正始年度に邪馬台国が魏に朝貢したと書いている
その頃の畿内は支配者に大きな権力があった事を示す前方後円墳がすでに存在し
景初や正始と魏の年号が入った三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡が出土している
0936日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:37:06.11
・コウヤマキは、秋篠宮悠仁親王の「お印」としても知られる。
コウヤマキの成長は極めて遅いが、樹齢を重ねれば樹高40m、直径1.5mになる。

・樹皮は赤みを帯びた褐色で縦に剥がれるが、古木では鱗状になる。
材は水に強く丈夫であり、優良な材を賞する「木曽五木」に数え上げられる。
古くは木棺や橋脚(橋杭)あるいは船舶に使われた、現代でも建築や器具(桶など)に用いられる。
0937日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:38:26.34
>>935
畑から見つかったと農民が言ってるだけっしょ
それを根拠にすること自体が
トンデモ説とみなされる行為だと理解できないのかねえ

皆から失笑されてるんだけど

恥の概念とか
わっからないかなあ??
0938日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:39:33.48
九州の強大な権力者が
各地に作らせたんだろ
参勤交代と同じだよ<国力疲弊させて反乱する気力を削ぐ
0939日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:40:52.11
>>935
どうでもいいけど、
キナイコシだろうがなんだろうが
狗邪韓国は倭人領土だよな!
0940日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:41:26.24
>>937
けれども
三角縁神獣鏡が中国から1面も見つかってないというのは誤りである事になるんだけれど
0941日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:41:37.65
こいつ前から中国で△が見つかって〜とか言ってた奴だろ
0944日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:44:30.90
>>942
はい、ハッキリしましたね。

△が中国から見つかったとか
前方後円墳がとか言ってるのは

>狗邪韓国は韓国と書いてるから韓人の領土

キナイコシさんでした〜!!!
0945日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:45:30.38
キナイコシさん!

アメリカが

「キナイコシは嘘つき」

って連呼してるよ?
0946日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:45:59.46
>>941
見つかってるけれど何かな
そして形が同じで三角縁神獣鏡の原型とも言える斜縁神獣鏡は
それこそ古代中国によくあるデザインの鏡
0947日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:46:19.32
コウヤマキだと周径4.5mで
樹齢600年ってところらしいですね。

直径ならば1.5mくらいでしょうかね?
0948日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:49:48.77
>>943
鏡の所有者である南省博物館の中国鏡研究者、王趁意(おうち.んい・ワンチェンイ)氏が
雑誌『中原文物』に洛陽発見の三角.縁神獣鏡を検討し論文発表

>>944
三角縁神獣鏡は中国で見つかってるし
前方後円墳は卑弥呼の時代の畿内に大きな勢力のあった証拠だよ
0949日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:51:27.29
>>948
「前方後円墳」も「三角縁神獣鏡」も、倭国(阿波)の特産品 だと、何度言えばw   @阿波
0950日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:57:53.37
魏の年号が入って洛陽でも発見された三角縁神獣鏡が多数見つかる畿内こそ邪馬台国
0951日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 19:59:49.36
三角縁神獣鏡 は、「魏の水銀朱」が使われた「天河別神社古墳群」出土の「斜縁二神二獣鏡」を倭国(阿波)でぼう製したものだろう。   @阿波
0952日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 20:02:06.17
三角縁神獣鏡 は、「魏の水銀朱」が使われた「天河別神社古墳群」出土の「斜縁二神二獣鏡」を倭国(阿波)で仿製したものだろう。   @阿波
0953日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 20:05:56.89
>>950
残念だったね

狗邪韓国が倭人領土で
0956日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 20:09:03.32
>>954
九州説はそんな事しか言えないの?
もしかして邪馬台国は九州にはないと思ってるの?
0957日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 20:25:49.27
>>930
>ちなみに3世紀の箸墓古墳は前長200m

こいつ頭おかしい
0958日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 20:27:06.30
>>940
発見報告の学術論文は?
0959日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 20:29:52.68
>>942
>>939
>狗邪韓国は韓国と書いてるから韓人の領土

キナイコシの本性が出たな。
土地は朝鮮半島だけれど、倭人伝に書かれているのだから倭人の地だよ。
魏志倭人伝を無視するのも大概にしろよ。
0961日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 20:56:04.69
>>947日本@名無史さん2019/09/16(月) 19:46:19
>コウヤマキだと周径4.5mで 樹齢600年ってところらしいですね。
>直径ならば1.5mくらいでしょうかね?

棺には直径1.5mくらいは必要でしょう。でもそんなにかかるとは思っていませんでした。
C14 なら、600年の平均としても300年は古く出るわけですから、120-240年は、420-540年の伐採ということになりましょうか。
つまりホケノは、420-540年でもおかしくないし、直系1mだったとしても320-440年頃の伐採??
0962日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 20:59:45.97
>>960
ようするに、中国でみつかったのは「洛陽三角縁笠松鏡」で、日本の三角縁神獣鏡とは異なるいということだね
0963日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 22:24:43.69
王趁意は中国のどこを探しても見つからなかった三角縁神獣鏡を彼だけ2枚も見つけた
まるで某藤村さんみたいですねw

http://wwr2.ucom.ne.jp/hetoyc15/hitori/sanka-china.htm
> 2 「王趁意」なる人物には、注意しなければならない前歴がある。彼は、「研究者」と紹介されることもあり、
> 中国銅鏡研究会の理事の一人でもあり、『中国東漢竜虎交媾鏡』(2002年刊。副題が「一个青銅鏡收蔵愛好者的発現」
> 〔一人の青銅鏡收蔵愛好者の発見〕)、『中原蔵鏡聚英』(2011年刊)という著書もあるが、本職を別にもつ
> 古鏡愛好者・マニアといったほうが実態に正確そうである。本格的な学究と受けとめるには、問題があろう。
>
> 3 実は、2006年末ごろに王趁意氏が絡む洛陽付近出土という「三角縁神獣鏡」が問題になったことがある。
> このときの鏡(「伝06鏡」と仮にいう)についての状況報告は、安本美典氏により『季刊邪馬台国』第95号(2007年6月刊)に
> 詳細に記述されており、安本氏も岡村秀典氏(京大教授)も、これが日本出土の三角縁神獣鏡とは異なるものと評価されている。

> この鏡が王趁意氏所有とされる。
> これも、出土や入手の経緯は明確にされない。その3年後に異なる大きさ(伝06鏡は直径が21.5センチで、
> 今回の伝14鏡は18.3センチ)で、異なる銘文(伝06鏡は「吾作明竟幽三商……」、伝14鏡は「吾作明竟真大好……」)をもつ、
> 今回の鏡を入手し、それが王趁意氏によって、なぜか入手6年後も経ってから論考(『中原文物』2014年6期〔12月号〕に
> 「洛陽三角縁神獣鏡笠松紋神獣鏡初探」という標題)が発表されたということになる。
>  中国では、まだ発見されていないとされる三角縁神獣鏡らしき鏡が、なぜか特定の古鏡愛好者のもとで2枚も見つかり、
> それが発表されては大騒ぎをする。これは、はたして偶然なのか、古鏡愛好者の熱意(5年の歳月をかけて
> 中国の大半を歩き回ったという)のなせる業なのか。
0966日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/16(月) 23:13:40.88
>本職を別にもつ
>古鏡愛好者・マニアといったほうが実態に正確そうである。本格的な学究と受けとめるには、問題があろう。

本職を別にもち(心理学者)、古代史愛好者・マニアといったほうが実態に正確な安本美典氏が主宰するのが「邪馬台国の会」なんだが・・・
0967日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 00:13:10.29
倭の五王ってのやたら中国皇帝から指名されてなんとか将軍だのなってるだよ

そいから古代あたり日本〜中国間を行きかった船は2年に一辺でる定期便だけ

次に乗りたきゃ2年待ち

どやって連絡取り合うん?
0968日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 00:14:23.35
文献にはやたら互いに連絡取ってる痕跡あるわな

倭の位置が違うんだよ
0969日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 00:16:39.02
倭の五王がいた位置が黄海近辺のどこかだよ

初めから日本にはいない

天皇は日本にいたことになってる

互いに同存在だと比定してんのが滅茶苦茶
0970日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 00:32:48.11
>>966
安本は文献解釈や出土品の統計を分析するだけで遺跡から出土品を見つけたとかは言わないじゃん
分析は考古学者じゃなくてもできるしな
むしろ統計解析は元産能大学教授の彼の専門分野
0971日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 00:54:14.03
三角縁神獣鏡に関しては組成解析で中国産の青銅という結果が出ているから少なくとも一部は中華製。
ただし、枚数多いし国産レプリカ多数の可能性もあり。
偽物というより、朝貢記念ノベルティグッズか。

畿内邪馬台=ヤマトの九州における直属国である伊都で、女王宛文物チェックのち女王(=ヤマト)に送られる旨記載(倭人伝)。
朝貢冊封認定後は正式な交易権が認められ、魏帝下賜でなく商人レベルの交易品として多数流通した可能性も。

九州・伊都は単なる通関に過ぎないから、本州西日本で大量に出るのも当たり前。
畿内の鉄資源入手も、女王共立以後はこのコースで畿内への流入増加。
以前は奴国ルートしか無かったので畿内への流通は限られた。

高地性集落の推移および銅鐸の消滅状況から、九州勢東進があったとしても1〜2世紀、遅くても3世紀直前には完了している。
この筋で問題ない。

どう頑張っても福岡平野に奴国etcの人口にプラス邪馬台国7万戸は収容できないし、短里を採用したとて福岡平野は「萬二千餘里」から外れる。
北九州には邪馬台国はない。

九州で邪馬台国があり得るとしたら南部しかないのだが、南部にはそれらしき考古的証拠が皆無。

史書には邪馬台=ヤマトであることは明言されている(隋書)。
0972日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 02:40:57.83
>>971
>三角縁神獣鏡に関しては組成解析で中国産の青銅という結果が出ているから少なくとも一部は中華製。

あいにくだが、それは完全な誤りだと金属分析の専門家からとっくの昔に指摘されてるんだ
しかも平成十六年には既に指摘されていたのに平成三十年になって同じ過ちを繰り返している悪質なゴッドハンド

http://arai-hist.jp/thesis/archeaology/yamataikoku/100.pdf
> 平成十六年五月、マスコミが一斉に泉屋博古館の発表をもとにして「卑弥呼の鏡、中国鏡と成分一致、製作地論争に新展開」と報じた。
> 興味ある内容であり、さっそく関連する詳細な報告書「Spring-8を利用した古代青銅鏡の放射光蛍光分析」1)を入手し一読して驚いた。
> すくなくとも、金属考古学を多少でも知る者にとっては、とても容認しがたい議論が展開されていた。
> すなわち、微量成分のアンチモンが錫原料からもたらされたと言う前提そのものが完全に間違っており、
> 当然のことながら、その前提から導かれた「三角縁神獣鏡は魏鏡」との結論も無意味のものであった。
中略
> たまたま、泉屋博古館の続報論文について、金属製錬史分野の第一人者である植田晃一氏とお話する機会があったが、
> 植田氏も泉屋博古館の主張について「実際を知らない愚論で、……こんな幼稚な論文が罷り通ったのでは、日本考古学の将来は真っ暗」
> とまで述べておられた。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 02:45:13.71
>>971
>高地性集落の推移および銅鐸の消滅状況から、九州勢東進があったとしても1〜2世紀、遅くても3世紀直前には完了している。

それはお前のただの願望
実際は>>830>>875のとおり鉄の移動から見て九州勢が大和盆地に入ったのは3世紀末か4世紀初頭
邪馬台国時代より後のお話
0975日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 08:06:25.63
もうすぐ終わりか
今回は>>73>>309始め重要っぽい内容が多かったから次スレにも転載しとかないとな
何やら畿内厨がスレ流ししてたっぽいし
0976日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 10:27:02.19
倭王武の表奏文でも左氏伝が使われてるくらい結構何でも読んでそうなのに、伊都国と名づけたのは仲哀だなんて何故記紀は書いたんだ?
0977日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 12:33:21.03
記紀の歴史書としての限界は500年位からだと思います。
応神天皇以降、事績が整合することも無いとは言わないけれど
楽浪帯方は313年迄、新羅百済建国も後援し350年建国、高句麗馬移入。 
コレ誰の事績なのか書くでしょ。
倭の五王は漢名を名乗って、古墳も有り系図化できるはずなのに合わない。
つまり、本当に一統の、世襲天皇ではない可能性があるんです。
これの疑義が無くなるのが、継体天皇以降で、筑紫の君等豪族の系統も固まってきます。

天皇名にしても諡号の無かった時代の名を作って、
この700年あたりで、年号として採用したわけです。

190年から247年迄、筑紫は女王国でした。
倭人伝に描かれたのは独立国ですから、銅鐸本州勢の記紀はこれを知らない訳で
三国志を読んで、事績を併せようとしたのが、仲哀記、神功記です。

この記紀以前の、聖徳太子も倭人伝を読んでいますが、
600年に馬子−太子の国記、天皇記と言うのが書かれていた記録がありますが
神話が有ったかは不明ですが、おそらく、倭の五王以降は漢名も記されていたと思います。
記紀自身が、その時、歴史を創ったw わけです。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 12:59:51.14
そうだよな、57年も107年も卑弥呼も中国は知ってて、系列があるとされてるもんがデタラメって誤魔化し以外何物でもないよな。何なんだよなこの記紀というデタラメな書物わ
0979日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 13:07:55.61
それでも、テキトーに創作したのは神功皇后のくだりくらいで、あとは年代の前倒しくらいだと思うよ。
神功皇后そのものも、本当なら天皇家の恥だから書かなきゃいいのに、なんとか辻褄を合わせようと苦労したあとがうかがえる。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 13:32:08.53
前スレにもあったように、神功皇后のくだりは、
白村江の敗戦戦犯を追及す唐・新羅連合軍から逃れるための創作で、、
半島を荒らしまわった阿婆擦れ女王が北部九州に本拠中枢を有していたかのように装ったのではないか・・。
0983日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 20:52:50.71
>>982
読んだけど容認しがたい議論でも何でもなかったよ
そもそも金属考古学がイカサマくさい
0984日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 21:01:09.60
>>983
なんだ、手も足も出なくなった畿内厨が根拠のないレッテル貼りしてただけか
0985日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 21:09:07.88
自説に都合が悪いものは専門家だろうと理由もなしに胡散臭いと言い出す
畿内説は学問ではないということを自ら証明してるなぁ
0987日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 21:11:04.80
畿内説なんて妄想なんだから、初めから知ってた。
0988日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 21:11:49.11
神武は東遷ではなく東征なんだよなあ。
筑紫は神代の王都であり続けているんだよ。
0990日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 21:15:48.29
>>989
ああ、多分似ているんだろう。
0991日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 21:18:08.16
神武を皇統に置くことで成り立つのが記紀だからな
事積としてはあったとして、それを天皇とするのは後世の判断とも言える
実際は畿内地域を治めた存在なだけなのかも
それを確認するには橿原あたりが全国に支配を及ぼした形跡が発掘されないとならないわな
0992日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 21:20:32.57
いやいや、よく読めば記紀でも饒速日の居候だろ。
天皇家の祖先だから一生懸命によいしょしてその程度だった。
橿原が周囲に影響なんて与えてないもんな。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 21:25:14.41
>>991
>それを確認するには橿原あたりが全国に支配を及ぼした形跡が発掘されないとならないわな

碌な集落遺跡や資源の無い橿原に、全国に支配を及ぼした形跡など在る訳がないわな。  以上御終い。   @阿波
0994日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 21:28:27.89
阿波にはピラミッドもキリストの墓もあるからな。徐福も別荘をつくった
0995日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 21:34:20.47
東遷じゃなくて東征なんだから
畿内は饒速日にお任せのまんまでいい。
橿原は案外香椎など北部九州のことだったのかもな。
0996日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 21:36:32.65
>>995
途中の経路も明記してあるからそれはないだろう。
問題は、神武が去った後の筑紫の倭王は誰だったのかだよ。
0997日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 21:38:08.23
年記があわん以上、個々の人物、逸話を大きく取り上げるべきでない。伝承された大きな流れが大事
0998日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 21:39:03.43
>>993
でも泡チョンコの主張だとアカゲザルとクロキジが生息しない日本列島は倭国ですらなくなっちゃうじゃん(爆笑)
0999日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 21:54:52.95
>>996
途中の経路が明記してあったらなんで東遷になるんだ?
一度東征したんだから
帰りは我が道を帰るだけだろ。
1000日本@名無史さん
垢版 |
2019/09/17(火) 21:55:51.34
東征したらお仕事終了。

九州のお家に帰ってお風呂にでも入ろう。
10011001
垢版 |
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