【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾壱
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
九州に決まっとろうが?
福岡県山門郡、筑紫、糸島、大宰府、鐘崎、鹿児島県川内、出水、阿久根、宮崎県日向、延岡、高千穂、熊本県熊本、阿蘇、八代、球磨郡、人吉、佐賀県唐津、伊万里、長崎県松浦、佐世保、雲仙、島原、天草、潜木、塩田周辺を今すぐ発掘せないかん!
邪馬台国畿内説の根拠は「邪馬台=大和=奈良(完)」だけやん笑
ここはそんな言葉遊び程度の学説を論理的に反論するスレやで
九州中南部説、九州南部説、魏志倭人伝から邪馬台国の位置を何らかの根拠を以って推測する議論等々も大歓迎!
前スレ
【九州説】魏志倭人伝を正しく読む 邪馬拾
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1575784157/
※泡チョンコの書き込み禁止! 相手するのも厳禁!!
推奨NGワード…「阿波」「忌部」 >>845
二本立てにする合理的理由はないし、魏書には魏本国以外に西域の諸国を書いた西域伝もあるが、短里なんて使われてない。
距離の偽装に短里なんて大層な制度があったのではなく、あくまでも帯方郡所管で距離を誤魔化したと言うことだよ。 倭の五王ってなんで南朝に朝貢したんだろう?出来たんだろう? >>852
>短里なんて大層な制度があったのではなく、あくまでも帯方郡所管で、、、
そういうことだろ。役人特有の建前とホンネの違いみたいなものさ。
それを、「魏王朝には確たる短里制度がありましたー」と、さも新発見したかのように誰かが吹きまくったのではないかな。 平氏ってのはそのまんま平氏の子孫
平家ってのは平氏の家臣の子孫らまでが平氏を名乗ったから平家 関東じゃ坂東八平氏が有名やな
平氏の子孫連中ら各国国司に任命されてそれで赴任したのが多い
その平氏の子孫らがやがて武士団の長となった 南朝の宋が一時的に勢力を盛り返して山東半島まで支配したので朝鮮半島から山東半島まで海峡をわたれば残りは海岸伝いに航海できるようになった
それまで山東半島が遊牧民の支配下で往来できなかったのが往来可能になったから遣使しただけで、もともと往来可能なら使節を送りたかったってこと
倭国内で情勢が変わったから遣使したのではない 源氏ってな公家源氏はあまり知られてないが神祇官て官庁がありこちらで勢力を伸ばした
日本全国に広がり源氏一党をそれぞれ形成した
武家源氏ってな代々、鎮守府の将軍を務めて東国における盟主的地位となった
将軍名は途中で変わるがな 源氏長者ってのもあるだろ
武家源氏の連中らが途中から独占しだしたが
本来は公家源氏らの中からだして任命された
公家源氏出身てなら伊勢国司、北畠親房が有名やな >>854
うん、大学の教養課程で習った東洋史学の先生のはなしでは、前近代社会では公的な度量衡と村内ローカルの度量衡を併用してるのが普通で、納税とか外部とのやり取り以外では村内完結だからローカルの度量衡を使ってたとさ
度量衡の統一とは言っても、公的な度量衡以外が廃止・禁止されるほどではなかったようだ
だから、東夷にも独自の度量衡があっても問題はない
ただ、統一的な度量衡ではなくて国ごと・各領主ごとに違った度量衡だったのかもね
問題は、倭人は里程を知らないと書かれてることぐらいか >>855
アフォなこというな
氏ってのはたくさんの家を内包した緩やかな集団
そうしたたくさんの家のひとつである清盛一家(一門)を平家と呼んでるだけだ >>852
魏書にも魏志にも西域伝はないだろ、魏略にはあるけど 魏が国外に金印を印綬した国は2つある。
東の倭国と西の大月氏国
当時の大月氏国はアフガニスタン辺りにあった。
洛陽から大月氏国までの距離は1万6千里ほど。
無論短理なんてものは介在しない。
バランスをとったからだとかも言われたりするが、出張報告は魏の内部文書であり、外部に喧伝するものでもない。
また、後年の西晋の時代に書かれた三国志には距離を改竄する価値もない。
魏志倭人伝にせよ、韓伝にしても、所管するのは帯方郡。
何が行われたのか、一番あり得るのは帯方郡による捏造。 865
よく読め
そいからおまえが口をだせる許可誰が出した? 平家の家人(郎等ら家臣を含む)らが平氏を自称した
織田信長は祖先が平氏に関係あるかすら怪しい 物部氏と関係が深く伽耶から渡来した一族を西漢氏と呼ぶ
主に丹波あたりに土着した 平氏出身の連中らは最初は各国国司として赴任してるだよ(╹◡╹) 丹波にも平安時代に武士団があったんだ
木曽(源)義仲が挙兵して上洛したが丹波武士団の裏切りにあって自滅した言われてる
まあ乱暴狼藉多かったらしいけどね
そんで白河から義仲を射て!って命令が鎌倉の頼朝のとこに来た 摂津源氏に至っちゃ東漢氏が源頼光の家臣に入りこんでる 京都周辺に武士団があったとしたら家臣として入りこんでるんだよ つまり渡来系の部下らが西国に行くほど多いだ(╹◡╹) そしたら主客転倒して主張しだしたバカが中国あたりのカスらだろ
やつらには死ぬ目にあってもらうべ(╹◡╹)
ここまでバカ思わんかったわい
こゆ性格のやつら他人家に来て平気でものを盗んでいくぞ
結果なんざ見えとるわい うん
丹波武士団てのがあったからな
摂津源氏は有名やが源氏だから有名なだけ .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. 日本では記録に残ってる範囲では
中国の里を使ったことはない。 律令時代に使われた里程は中国の里程の借用で日本独自の度量衡じゃないんだけど。
つまり、中国の里を使っていた 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! 日本が朝鮮の弟分じゃなく中国の弟分だったら困る人がいるからじゃね 支那の弟分て?
バカって初めから答え用意してんだろ(╹◡╹) いいから死ねよ(╹◡╹)
そいから朝鮮て?やつらの死体増やしてほしいのが望みか? ┏━━┓ ┏━┓┏┓┏━━━┓
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最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
. .
最古水田菜畑に伝わった炊飯器だって当時の中国とは全く違っている。
◆菜畑遺跡に伝わった炊飯器 → 甕
◆同期する中国の炊飯器 → 鼎、鬲と甑のセット、釜と竈のセット
鼎は穀物を煮炊きする三足と直耳とフタの付いた炊飯器で日本には伝わっていない。
鬲は上に甑をセットして穀物を蒸し上げて炊く三足の袋足が付いた炊飯器で、
これも日本には伝わっていない。
甑と釜と竈が伝わったのは弥生末の3C頃。
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です!
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┗┛ ┗┛ ┗━━━━┛┗━┛ ┗━┛┗━┛ ┗━━┛ 【邪馬台国】「ヤマト王権のルーツは、邪馬台国ではない」「纒向遺跡を有力候補地とすることに疑問」 奈良県の坂さん、新説を披露
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1584626106/
> 3世紀に奈良盆地で成立した「ヤマト王権」のルーツは、女王卑弥呼(ひみこ)が治めた邪馬台国ではないとする新説を、
>奈良県の坂靖(ばんやすし)・文化財保存課主幹(考古学)が打ち出した。
>新著「ヤマト王権の古代学」(新泉社、本体2500円)で、奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡を邪馬台国の有力候補地とすることに疑問を投げかけ、
>近年の発掘調査の成果に基づいて、ヤマト王権が日本列島各地に勢力を広げ、権力の仕組みを完成させていくプロセスを検証した。
>5月2日には朝日カルチャーセンター中之島教室(大阪市北区)で記念講座が開かれる予定。
> 坂さんは長年、奈良県橿原(かしはら)市の県立橿原考古学研究所(橿考研)に勤め、県内各地の遺跡の発掘調査にあたってきた。
>新著では県内各地を中心とする発掘調査の成果を踏まえ、考古学の立場からヤマト王権成立の謎に迫った。
どうやら畿内説の中心である橿考研から造反が出たようだな
やはり研究すればするほど纏向は違うという事実に気付かざるを得なかったようだ >>892 (つづき)
だが、坂さんは邪馬台国の時代…
(残り:1136文字/全文:1724文字)・・・購読会員向け最新記事
朝日新聞デジタル 2020年3月18日 19時10分
https://www.asahi.com/articles/ASN3K4D1FN38PTFC002.html
まっとうな考えだ。
中華と親密交流してその文化を吸収したのが九州時代、
奈良ヤマトは、まさに日本列島を固めるために欲動した時代、カタチも意義も違う。そして其の奈良ヤマトが日本国に成長したのだ。 畿内スレ>>317
>九州に卑弥呼がいたならその伝承が残っていても不思議ではないと思う。
>でもその伝承は見当たらない。
その卑弥呼の伝承は、奉られ、日本神話の高天原伝承として引き継がれ伝えられているのだよ。 >>892
思想統制などしてる団体じゃないからいろんな意見の研究者が在籍してるだけだよ
造反とか、アホなこと言うな、市民の会じゃあるまいし。 卑弥呼は日/肥の高千穂、臺与は豊の宇佐かな、
卑弥呼は天照だ〜、といった割には、
其の高千穂・宇佐に対抗して、安本は朝倉高天原説を唱え、安の河原は朝倉の夜須川の川原といったわけだ。 橿原は、箸墓卑弥呼で一世風靡しちゃったからな。
その後遺症は小さくないぞえ。 >>897
卑弥呼は魏が聞いた言葉に漢字をあてたって理解してるよね?
中国の当時の音は上古音から中古音に差し掛かる頃
卑 声母唇音 p 陰声 –i
彌 声母唇音 m -i
呼 声母喉音 h -φ
卑弥呼はピミフ若しくはピミフィと発音された言葉にあてた漢字。 .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. >>892
倭人伝の邪馬台国を語る以上
247年迄 魏と交流の在った、筑紫21国の共立女王卑弥呼の話
だという事は、記録された事実。
そこから判ることは、大和朝廷の纏向が200年であるなら だが、
大和朝廷は九州を統合していないという事。
それが、300年辺りでは統一されている。
古墳時代と言う、考古学の王道への道が開いている時代であって
そこから判ることは、大和朝廷は君主国家になっていない、という事である。
日本の学者は、今でも記紀と皇室への忖度から離れられていない。
君主国成立の前段階には卑弥呼の筑紫がそうであったであろう、共和国。
もう少し原初形態の言い方だと、首長国連邦と言う形態がある。
神話の国生みから絶対君主だった? そんなわけはない。
うそをつけ、うそをつけ、うそをつけw
明らかな萬世一統、絶対君主を成立させたのは、700年の記紀であるが
物部系大王の400年辺りから、中華冊封で高句麗戦、半島利権外交を知る。
百済を傀儡とした博士の伝来も有って律令制、立憲君主の概念を理解しだして
仏教公伝で一旦は法皇を目指すと、曽我系600年の遣隋使に至る。
この銅鐸社会以来の首長国連邦史から二大豪族系統の王家の歴史を消して、
絶対君主、萬世一統の 記紀王朝を成立させた。
倭人伝邪馬台国が、筑紫卑弥呼である限り、絶対王権は成立していないし
これが、日本の歴史なのである。
修正する気無いんじゃね? もう一歩進んで、漢に朝貢していた九州北部の倭国のことも述べるべきだ。 >>902
当時の日本のどこの事だと魏志倭人伝に書いてないからずーっと揉めてるんじゃね?
>>903
後漢書には倭奴国は倭国の南端とある。
建武中元二年 倭奴国奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬
倭国の範囲を九州と捉えるなら、倭国の南端は鹿児島県や熊本、宮崎の南部となる。
倭国を日本列島と捉えるなら、倭国の南端に北九州を含めてもまぁアリ。
志賀島から金印が出ていることから
1.倭国の範囲には九州だけでなく本州も含める。
2.金印が九州南部から移動した。
どちらかと解釈する必要がある。 邪馬台国=ヤマト王権という思い込みが「邪馬台国をわが県に」と主張する動機になっている
ヤマト王権とは何か 奈良県の坂さん、新説で迫る
https://www.asahi.com/articles/ASN3K4D1FN38PTFC002.html
> 3世紀に奈良盆地で成立した「ヤマト王権」のルーツは、女王卑弥呼が治めた
> 邪馬台国ではないとする新説を、奈良県の坂靖(ばんやすし)・文化財保存課
> 主幹(考古学)が打ち出した。
> 新著「ヤマト王権の古代学」(新泉社、本体2500円)で、奈良県桜井市の
> 纒向(まきむく)遺跡を邪馬台国の有力候補地とすることに疑問を投げかけ、
> 近年の発掘調査の成果に基づいて、ヤマト王権が日本列島各地に勢力を広げ、
> 権力の仕組みを完成させていくプロセスを検証した。 記紀の天地創造から萬世一系の王統というファンタジーには
王権成立の過程が存在しない。
戦国武将の発生と統一の過程と同じと考えても良いが、
まず、荘園的地域社会が縁組などで横に連携し諸侯が豪族化する。
交易から戦争を経て、一定の価値観の共有が生じ、広域化する。
これは、銅鐸社会の広がりが示唆しているもの。
具体的には、銅鐸社会の連携では日本海ルートが主導とは思うが
吉備、出雲、丹後、越、近江、摂津、淡路、阿波、濃尾、武蔵
青銅は、BC200年〜AD200年の交易を生み、
領地資本の所有や婚姻による覇権を目指すものが出てくる。
九州筑紫は倭人伝が示すようにこの社会には属していない。
239年公孫氏滅亡、246年漢王朝滅亡。 これは青銅ルートの断絶を意味する。
本州勢力は、九州を迎え新羅百済を抱きこみ、半島進出の富国政策を発動した。
牛馬の移入と、鉄の国内生産化はこれによって成立する。
もちろん、本格的進出には313年漢四郡の撤退を待っただろう。
諸侯融合による王権、後宮の成立は500年、記紀の言う継体天皇辺りから
実質は、600年上宮法皇、完成は700年記紀の成立である。
諸侯の王や、非嫡子王子、豪族の古墳が大王墓同等はおかしいのである。
これを、萬世一系にまとめれば、
デタラメな神話ファンタジーになるのは当たり前である。 >>904
対馬海峡の北岸から対馬海峡の南岸(福岡)までが倭国ですよ。 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(倭国のことだが、ここではその王都がある邪馬台国を指すと考えられる)から一万二千里である。
その西北界(倭国の西北の国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の南界を極める。
魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。
魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。
魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国(福岡県)まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎県)までは水行20日
邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif >>907
その考え方には無理がある。
そんな狭隘な範囲に後漢の頃、百余国あった?
倭国の南に陸続きの別の国があるのに、海の向こうの倭種の地しか書いてない? >>908
魏書明帝記に公孫氏討伐の行軍について、洛陽から遼東まで陸路四千里と書いてるし
後漢書郡国史でも洛陽から遼東郡まで東北三千六百里、楽浪郡までも東北五千里とある。
漢書西域伝、後漢書西域伝、魏書明帝記には、西の大月氏国の朝貢についても書かれているが
この大月氏国は魏が邪馬台国よりも前に金印を授けた国であり、この二国のみが魏から印綬を受けているが
後漢書西域伝では、洛陽からの距離は一万六千三百七十里とある。
当時の大月氏国はアフガニスタン辺りの国で直線で真西に4000kmほど離れており、旅程になおすと魏国内の里程方と違いがない。
後漢でも魏でも京は洛陽は。
帯方郡から狗邪韓国まで七千里と言うのは、これらより遥かに離れている事になる。
朝鮮半島が台湾を突き抜け、フィリピン辺りまで広がってると報告している。
明らかに帯方郡からの報告書だけが距離の偽装を行ってることがわかる。
この距離の無理をベースに邪馬台国の場所の特定はできないよ。 >>910
洛陽から遼東郡まで東北三千六百里、洛陽から楽浪郡まで東北五千里、洛陽から大月氏の距離は一万六千三百七十里。
これらはいずれも洛陽起点で、漢土ヲ通過する里程であるから、皇帝の度量衡である長里によって書かれるのは当然である。
これに対して帯方郡から狗邪韓国まで七千里は、漢土の外の蛮夷の地の里程であるから、
皇帝の里によるべきことではない。
「蛮夷の奴らは、途方もなく遠絶の地に生息しており、決して帝都を汚すようなことは有りませぬ・・、」というわけだ。
つまり、短里というよりは、里を誇張することによって「地の果て」に棲んでいることを強調したのである。 陳寿の里程粉飾は事実だが
韓の方可4千里、対馬海峡の1千里×3、対馬方可4百里、壱岐方可3百里
は、地理を知る現代日本人が概念を理解するのに十分な情報。
あーだこーだ、言うのはマヌケ。
日本人には難しいが、陳寿は魏人にもヒントは残している。
自郡至女王國 萬二千餘里=計其道里 當在 會稽東治之東 である。
魏志倭人伝を正しく読む為には
省略された主語と指示代名詞に対する判断を
ご都合主義で曖昧にしてはいけない。
萬二千里は、洛陽から會稽東治に当たり
この道里を帯方まで東にもっていった処になる。
ただし、自郡 至女王國 には、
歴韓国 乍南乍東 到 其北岸 の3千里の東行が含まれている。 >>909
疑問はいろいろあるだろうが、距離まで明示されているから、倭とは対馬海峡と九州北部としか考えられない。
実際には百国には山陰や北陸、九州南部の国も含まれていたかもしれないが、少なくともその区別は中国側からはついていなかったのですよ。 その明帝紀の記述を見るだけでも魏晋朝短里が成り立たないのは明らかだよな .
今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を
作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも
500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。
紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が
始まって約400年後のことになります。
こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に
位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。
http://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975
. その明帝紀の記述を見るだけでも短里が使われていたのは明らかだよな >>916
洛陽から遼東までの行軍距離が300キロしかなかったとか、どんな荒唐無稽な頭の変人なのか。 洛陽→遼東は1498.3km÷4000里=374m/里
https://www.google.com/search?client=firefox-b-d&q=洛陽 遼東 距離
まあ短里(70〜100m)じゃあないわな 陳寿にとって邪馬台国は大国でなくてはならない、朝貢は晋の始祖司馬懿の功績だから(公孫淵の征討で卑弥呼が朝貢)
そう考えるとやたら強調されてる邪馬台国の大国ぶりの記述も怪しい
例えば卑弥呼の天気予報を全国に届けるわけだけど畿内だと各地に届けるの遠くない?(九州地方限定なら現実的)
占いで政治やってるような国がどうやって日本統一を達成したの?
魏に援軍を乞うたとあるけど奈良まで来てもらうって遠くない?(九州なら距離的に現実的)
九州の地方政権と考えた方が色々と辻褄があう
何でみんな陳寿先生のこと忖度して「陳寿先生は日本のことを真摯に記述しようとしたけど間違ってしまった」って考えてんの
昔から今までずっとプロパガンダの国だろ 明史に秀吉のことが書いてあるけど出自とか滅茶苦茶いい加減
明史ですらこの体たらくなんだからそれより古い史書などなにをかいわんや
大陸は昔から日本にたいして関心を持ってない
陳寿の記述を真に受けて右往左往すること自体バカバカしい
陳寿もあの世で笑ってるぞ
何をそんなに論争してるんだと倭人は理解に苦しむと >>915 〜チョンコの心の支え「松菊里(ソングンリ)遺跡」の真実♪〜
無能ヒトモドキ(https://sites.google.com/view/jhistory)を筆頭に、
チョンコは通称「ソングンリ型住居」が日本列島の縄文遺跡や弥生遺跡から多数発見されている事と同遺跡の炭化米出土を根拠に「ウリたちが住居も稲も倭人に教えてやったニダ」とホルホルしていますが、愚の骨頂です
ソングンリ遺跡は1975年に発見、住居跡は1977年に名付けられ、板付遺跡は1978年、菜畑遺跡は1979年に発見され、発掘調査を開始しました
学問に対して謙虚な日本の歴史研究者は先に命名した韓国側を尊重し、この名称を用いたに過ぎません
現時点までの炭素年代測定で判明しているのは
菜畑遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前900年」頃
板付遺跡の「住居跡」ならびに「水田遺構」が「紀元前600年」頃
ソングンリ遺跡の「住居跡」ならびに「炭化米」は「紀元前500年」頃
という客観的事実だけです。
現時点でソングンリ遺跡から水田遺構は見つかっておらず、朝鮮半島最古の水田遺構は20Km南にあるマジョンリ里遺跡の「紀元前300年」頃です。
朝鮮ヒトモドキどもはオクキョン遺跡はさらに古いなどと言い出しましたが、日本、中国、ロシアからの共同研究を頑なに拒んだ上に、理由もなく埋め戻すという愚行を平然とやって見せたりもします
しかもソングンリ型住居は現在では日本の竪穴式住居の劣化コピーであることが判明しています
その証拠は北緯36度線より北にあるにもかかわらず、ソングンリ住居跡に炉の形跡が一つもない、1柱支から3柱支への移行遺構が存在しないなど多数に及びます
これら客観的な科学検証に基づけば3千年前には水稲や竪穴式住居を完成させた縄文人が朝鮮半島に入植し、朝鮮ヒトモドキに水稲と住居を指導し、支配下に置いていたことが明確です
支配していた根拠として挙げられるのは、日本人特有と言えるY染色体O2b1で、朝鮮半島では北緯36度線以北には存在していません
寒さに弱かった縄文人は北緯36度線以北は朝鮮ヒトモドキに開拓させていたという傍証であり、ソングンリ住居跡に炉がないことの理由と結論付けられます
正しく国際的な視点から見れば、魏志韓伝にもあるように馬韓の南は倭人の国であり、むしろ三韓は北から魏の影響を受け、南から倭の影響を受けて発達したと断定できます バカにしつくされる運命を享受するしかおまえらに選択肢ないだ .
◆長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
縄文末に弥生人が渡来したとき、彼らは龍信仰を伝えませんでした!
. >>920
陳寿の記述がいい加減だからこういうことになったのに記述だけじゃなく人物もいい加減なのか?
朝鮮人じゃないからひとの真剣を笑ったりしないよ
さ、議論を続けよう >>892
久々にまともな畿内人を見た気がする
忖度連中に潰されなきゃいいんだが >>924
>朝鮮人じゃないからひとの真剣を笑ったりしないよ
ヘイトスピーチ?
日本人として恥ずかしいわ。 朝日カルチャーセンター
中之島教室 歴史と文化 日本の歴史(古代)
出版記念講座 ヤマト王権の古代学
「おおやまと」の王から倭国の王へ
坂 靖(奈良県地域振興部文化財保存課主幹)
講座内容
邪馬台国の有力候補地として纒向遺跡があげられています。果たして、邪馬台国の所在地はヤマトだったのでしょうか。
私は、纒向遺跡がヤマト王権の「王都」、箸墓古墳が初代「王墓」であったと考えています。
弥生時代の唐古・鍵遺跡には「オウ」が君臨していましたが、せいぜい遺跡の周囲を統治していたにとどまっていました。
唐古・鍵遺跡の上流部でおこったのが纒向遺跡で、両遺跡を含む広い範囲が、「おおやまと」地域です。
ヤマト王権の王の統治の範囲は「おおやまと」地域に限られていたとみることができます。
その領域を徐々に拡大させ、ヤマト王権の王が、倭国の王となって、最後には王と有力氏族による権力の仕組みを完成させていく過程を検証します。 後漢書
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 .
日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。
. >>926
日本人として恥ずかしい
と、言うやつは朝鮮人 .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
アー タノシーデスネー 長江の鬲!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
アー タノシーデスネー 江南の越式鼎!wwww
http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E8%B6%8A%E5%BC%8F%E9%BC%8E&aq=-1&oq=&ei=UTF-8
. .
◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
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http://search.yahoo.co.jp/image/search?p=%E9%95%B7%E6%B1%9F+%E9%AC%B2&ei=UTF-8&fr=top_ga1_sa
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. 933
普通にそおだろ
日本人としてだのなんでそのバカが勝手に主張してんだって話やろ (8)蒸して食べる
7000年前 中国に起源
最近、タジン鍋やシリコンスチーマーといった、油を使わずに調理できる蒸し調理器具が話題になっています。
モノを蒸す調理法は、形を崩さずに素材の持つ美味しさをそのまま生かせるだけではなく、お酒やお茶を
作る際にも欠かせない調理法です。
この「蒸し調理」、実は東アジアで発達した調理方法なのです。
蒸し調理の起源は、今から6000〜7000年前の中国新石器時代にまで遡り、黄河流域の遺跡から、
粘土で作った蒸し器がわずかながら発見されています。それ以前は、ゆでる、煮る、焼くといった調理法が
基本だったと考えられています。
日本へは中国東北地方、朝鮮半島を経由してこの調理法が伝わりました。最初に蒸し調理が行われたのは
3世紀頃の北部九州。福岡市の西新町遺跡から土製蒸し器が出土しています。実に4000年余りの時を経て、
ようやく日本にまで到達したことになります。
しかし、この後、日本では蒸し調理は廃れ、全国的な普及はそれから数百年後のことでした。
今では日本料理とは切っても切れない蒸し料理。普段、何気なく接している蒸し料理にも、
数千年にわたる人々の営みが隠されているのです。 http://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/04/tanken08.html
◆7000年前の江南の河姆渡遺跡の甑
http://inoues.net/museum/mikata_museum_kaboso.html
. .
7000年前から中国では炊飯するのに、釜と竈のセットで炊く、鼎で炊く、
さらに甑を釜にセットして蒸し上げる、という3種類の炊飯方法があった。
ところが縄文末に渡来した、いわゆる弥生人は渡来時に釜も竈も鼎も甑も何一つ伝えなかった。
弥生人は弥生末の3Cに甑が半島から伝わるまで甑で蒸し上げて炊飯する事を知らなかったのだ。
中国には7000年前からある甑で蒸し上げて炊飯する方法を弥生末の3Cまで知らなかったのだ。
弥生人が中国からなんて2兆%あり得ないね。
. .
中国大陸には7000年前の河姆渡遺跡の時代から皿という器種がありました。
あちらで皿は盤と呼びます。
ところが、縄文末に渡来した弥生人は鬲や鼎どころか、皿(盤)の一枚さえも
伝えませんでした。
日本に皿という器種が伝わるのは4C末の古墳時代です。
中国大陸には7000年前からある皿という器種を我々の祖先は古墳時代まで
知らなかったのだ。
その時代差、約5400年。
弥生人が中国大陸から来たと吹聴しているヤツはガチで中卒です!
. 最古水田菜畑に伝わった日本最古の耕作用農具だって当時の中国とは
全く違ったものが伝わっている。
と言うか、当時の中国には存在しない耕作用農具が伝わっている。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古の耕作用農具 → クワ、エブリ 《すべて木製》
◆同期する中国の耕作用農具 → 耜(スキ)、鋤、犂 《すべて石刃》
クワは当時の中国には存在しない耕作用農具。
エブリは田を均す耕作用農具で、これも当時の中国には存在しない。
鋤は地面を引っ掻いて除草する除草用の耕作用農具で日本には伝わっていない。
スキが日本に伝わるのは菜畑遺跡から200年以上あとの弥生前期頃で、
やはり全て木製であり、犂は牛耕用の耕作用農具で日本に伝わるのは5C頃で鉄刃。
伝わった日本最古のイネの粒種だって違う。
◆菜畑遺跡に伝わった日本最古のイネ → 短粒種のみ
◆同期する中国のイネ → 中粒種が半分近く混ざったもの
稲作が長江やら江南やら中国から伝わったと吹聴してるヤツは中卒です! 倭国とは、
日本で唯一、後追いで「倭大國魂・倭大國敷神社」と名付けることが 「許された」ところ。 @阿波 南に黒潮流れる温暖な海が無く、東にも海が無いようなところに「邪馬臺国」など興るわけがない。 @阿波 「前方後円墳の成立に阿波地域が大きな影響を与えたことを示す貴重な資料」
徳島県鳴門市大麻町萩原の「萩原2号墓」で、板材でつくった墓室・木槨(もっかく)を積石(つみいし)で囲んだ三重構造の埋葬施設が確認された。
県教委と県埋蔵文化財センターによると、築造は弥生時代終末期の2世紀末〜3世紀初頭で、邪馬台国の女王、卑弥呼が活躍した時期に一致する。
石で木槨を囲う例は、他には弥生墳丘墓と前方後円墳の過渡期的存在とされるホケノ山古墳(奈良県桜井市、3世紀前半)だけで、
同古墳の構造に影響を与えたのは確実。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 阿波國 鮎喰川下流集落群では、弥生終末期には軽量薄型の土器が生み出される。
中・東部瀬戸内から大阪湾岸地域、淀川地域・山城地域に搬出された阿波を代表する土器であり、「東阿波型土器」と呼んでいる。
企画性が強く、器壁内面にヘラケズリと指頭圧痕を残す製作技法に特徴がある。 土器製作専業集団によるものだろう。
類似技法による土器は讃岐・吉備に拡がり、薄型土器の南北軸を形成している。 @阿波 「奈良藤原京より先の時代、7世紀中頃の阿波の役人は木簡に習字をしていた。」
阿波国国府町の観音寺・敷地遺跡から出土した7世紀中頃の論語木簡は、日本で一番古い出土木簡である。
ちなみに、同遺跡から円面硯・風字硯・須恵器蓋転用硯、上級貴族が使用する油杯(燈明)など官衙有数の資料が重要文化財に指定されている。
ではなぜ、奈良藤原京より先の時代に、阿波の地にそれらが存在したのか。
それは、7世紀終末頃に阿波から奈良へ遷都(藤原京)する直前まで、阿波に倭の王権・王都があった証なのである。
阿波国国府推定地に隣接する観音寺・敷地遺跡出土品(重要文化財指定)
http://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/213354
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 稲持遺跡(徳島県三好郡東みよし町稲持)は、弥生時代後期の玉作遺跡として代表的である。
斉一性の強い小型勾玉の一群が阿波地域を中心に 讃岐地域 ・ 吉備地域とその西縁 ・ 伊予地域 ・ 豊前、筑前、肥前地域 に点在しており、
石材・色調・形状から特定の場所で作られたと考えられる。
蛇紋岩の製作遺跡 : 東みよし町稲持遺跡・徳島市矢野遺跡・上板町七条経塚遺跡
原石産出地 : 徳島県吉野川加茂谷川水系蛇紋岩
徳島県で勾玉が出土された遺跡 : 稲持遺跡、矢野遺跡、黒谷川郡頭遺跡、井出上遺跡など。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 「ぼう製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料」
「蓮華谷古墳群(U)二号墳」
副葬品には銅鏡(四神形鏡)1、鉄製武器工具(鉄刀1、鉄剣1、鉄斧1、鉄?1)、装身具(翡翠勾玉1、碧玉管玉11)、土師器壺1があり、
前期古墳の出土資料は全国的にみても数少なく、特に銅鏡は ぼう製鏡の古墳への副葬開始時期を考える上で重要な資料である。
三角縁神獣鏡のぼう製・古墳への副葬は、これ以降であろう。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 「銅鐸」は、全国で約400個出土していて、徳島県はその約1割を占める42個(29遺跡)が出土している。
古代史上、重要視されていない徳島県で、なぜこれほど多数の銅鐸が出土するのだろうか? @阿波 さらに、銅鐸の出土数もさることながら、 29遺跡もの銅鐸出土遺跡の多さに驚かされる。
まさに、倭国(阿波)は、銅鐸王国。 @阿波 ついに侏儒国の謎が解けたな
やはり種子島だった
624 :名無しさん@1周年 :2020/03/26(木) 15:57:53.48 ID:Iu07cLlu0
>>615
三四尺ってわざわざ書いてるんよなぁ
145cmとは流石に45cmとか70cmと差がありすぎて、仕草で云々の言い訳は立たない。
しかも女王国から南に4千里って方向と距離まで書いてる。
魏志倭人伝が正確なら、掘ってみりゃわかる。
628 :名無しさん@1周年 :2020/03/26(木) 17:04:02.23 ID:Jye9WcQM0
>>624
それは簡単なことだ
魏人がそれを諮問したとき、訊かれた倭人は座っていたんだよ
魏人「倭人よ、倭国について知っていることをできる限り教えてくれ」
倭人「女王様の国から南の方には小さな奴らが住んでる国があります」
魏人「ほう侏儒(中国語で小人の意)の国とな、して其奴らの背丈はどのくらいなのじゃ?」
倭人「だいたいこのくらいっすね(座ったまま首元を指す)」
もちろん倭人は自分が立ち上がったときに侏儒国の人間の頭部が首元あたり(145センチくらい)、という意味でそう示したのだが
魏の人間は地面から倭人が指した位置までの高さ(70センチくらい)と勘違いしたのである >>948
割とありえるから困るw
通訳のレベルもどんなもんだか怪しい時代だしな >>939
泡チョンコはクセーから自スレに閉じ篭もって出てくるな!マヌケ >>940
泡チョンコロの民族願望は聞き飽きたから死ね!と何度言えばwww レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。