西郷隆盛 イメージと実像が最もかけ離れた男 2
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たまにちらほらある西郷ageのコピペがスッカスカ。
本気で明治維新ageのプロパガンダやる気あるのかね?
間接的にsageにしたい側の巧妙な誘導なのではと疑ってしまう。 >>496は、防衛大の海自幹部を養成するコースを卒業した方が、
おそらく防大関連の冊子に独自研究として発表したものです。
PDF化したものが、ネットで出てきます。
不思議なことに、スレ主はこういう時に決して出典を明らかにしません。
はっきりさせないことで、権威付けを狙っている節があります。
そこを指摘すると「忘れていました」とか平気で書きます。
でも薬を飲む時間は忘れない方がいいですよ。
勝手にコピペして貼り付けられたものでしょうから、
>>496の中身については直接の論評はしません。
ただ、幕末の佐賀鍋島藩の動きには、同じ佐賀出身の大隈重信が、
「動く必要がない時に動き、動くべき時に動かなかった」と当主・鍋島直正のことを強く批判しています。
スレ主は相変わらず、>>493で重野の、>>494で市来の西郷批判を載せていますが、
いつもならトリオで出してくる大隈の西郷批判を載せていません。
このあたり、何でも自分に都合よく考えるところも相変わらずです。
ちなみに、「二股膏薬」(アーネストサトウ)、「ずるい人」(徳川慶喜)と同時代人に評された鍋島直正が
「朴強武毅だが、学識に乏しく、変化する時局を制する器は無い。ただ軽はずみなことはしない」と
消極的理由により起用した人物こそ、>>496に出てくる鍋島茂昌です。 >ちなみに、「二股膏薬」(アーネストサトウ)、「ずるい人」(徳川慶喜)と同時代人に評された鍋島直正が
>「朴強武毅だが、学識に乏しく、変化する時局を制する器は無い。ただ軽はずみなことはしない」と
>消極的理由により起用した人物こそ、>>496に出てくる鍋島茂昌です。
↑この文章、論理的におかしいよ?
鍋島直正が無能なら、直正による鍋島茂昌の人物評価や起用法も参考にしてはいけないはずなのに
そこは参考にして茂昌が取るに足らない人物であるかのように印象誘導している
頭が悪すぎる ちょっと訂正
鍋島直正がズルい無能なら、直正による鍋島茂昌の人物評価や起用法も参考にしてはいけないはずなのに
そこは参考にして茂昌が取るに足らない人物であるかのように印象誘導している
頭が悪すぎる 閑叟は飽くまで「自分の手足・耳・眼となってくれる家臣」を重用しただけで
そいつらが「自分の意思で勝手に行動する」というやつらは評価していない
前者が身内で言えば須古の領主で後者が武雄の領主という感じw そもそも>>500の言いたいことがさっぱり分からんわ
雑談に参考コピペして何がいけないのか
防大の資料の何がいけないのか
大隈重信の西郷批判を載せてないことの何がいけないのか
(ていうかなんでそこで唐突に大隈の話題になるのか)
ほんと老害鹿児島人のキチガイ難癖いい加減にしてほしい >>437 >ただただ、キモチ悪い
これはスレ主です。基本的に感情的に物を考える人です。
おまけに誇張やすり替えや都合の悪いことはスルーします。
>>501-504には特徴がよく表れています。
>>502 >鍋島直正がズルい無能なら
>>500には「無能」なんて大げさな言葉は一つも使ってありません。
鍋島直正は佐賀藩の財政を立て直し、アームストロング砲を自前で造るところまでいった殿様です。
それを無能呼ばわりするほどの歴史音痴ではありません。
ただ直正は、政治的には勤皇か佐幕か、旗幟を明らかにせず、
それを貫けばまだよかったんでしょうが、奥州征伐の段階になって、
やっと新政府側についたというのは、日和見と言われても仕方ないでしょう。
現代にまで「肥前の妖怪」「鵺」といった評価がついて回るのは当たり前です。
その日和見(「ずるい」はあっているが、「無能」とはちがう)の直正が、
自分の意図する範囲で動くと指名したのが、鍋島茂昌であったということです。
矛盾はないでしょう。 >>504
>雑談に参考コピペして何がいけないのか
>防大の資料の何がいけないのか
>>500ではコピペがいけない、防大がいけないなんてことは一言も書いてありません。
ただ、5ちゃんでコピペするにしても、なぜ出典を省くのか、
とは書いてあります。
出典を省いた理由は>>504でもスルーですね。やれやれ。
>>504
>大隈重信の西郷批判を載せてないことの何がいけないのか
>(ていうかなんでそこで唐突に大隈の話題になるのか)
佐賀の人物の話題の枕なら、佐賀出身の大隈重信に触れないのは不自然だと思っただけですが、
そんなにムキになって怒るなら、たまたまだったということでよいですよ。
あ、お薬は忘れずに。 鍋島家の話はごく最近BSでやってたから持ってきたんだろうけど
スレチもいいとこ。
話が西郷のダメ出しになってまとまってきたら、濁すタイミングで
つまらないコピペ貼ってそれに乗っかって適当なウンチクに
逸らすんだよなぁ。 >>506
キチガイ特有の細かくアンカーした無能レス
ただただキモチ悪いです
何が言いたいのか知らんけど>>498の内容が間違ってると言いたいのかなそもそもは
それならどの部分が間違ってるのか具体的に指摘したうえで
例えば西郷には近代軍事用兵の能力はちゃんとあったのだと資料付きで反論してみてはいかがでしょうか X >>498の内容が間違ってると言いたいのかなそもそもは
◯ >>496の内容が間違ってると言いたいのかなそもそもは ★☆一目でわかる陰謀論者の奇痴害キーワード一覧☆★
・反ユダヤ系…「ユダヤ」「フリーメーソン」「イルミナティ」「ロスチャイルド」「ワンワールド」「世界政府」
・反日系…「薩長」「田布施」「日本会議」「統一教会」「神社本庁」「アベ(安倍首相のこと)」
「≪様々な良くない事態≫が起きるのは○○○○のせいだ」の○○○○に上記の単語が入る場合、
典型的な奇痴害陰謀論者の妄言である。
また「○○○○が使う」とされる手口に「電磁波攻撃」「集団ストーカー」「人工地震」の単語が入っている場合も同様である。
将来、こいつらはテロを起こす危険性が高いため、早めに警察やら公安調査庁に通報したほうがよい。
何故ならば、この手の陰謀論は特定民族の迫害・虐殺を目的とした悪質な差別主義理論だからである。
「米軍が毒ガスを撒いているぅぅ」という奇痴害陰謀論を放置した結果、
オウム真理教事件が起きたことを忘れてはならない。 >>507
そもそもがこんな場末な掲示板で専門知識どうたらこうたらなんて
無駄なリソース消費もいいところなんよw
気楽にいこうぜ〜 ネットが普及して卒論書くの簡単になったけど、
専門知識だと思ってコピペしたらフェイクってのもあるからね。
知識マウント取るためにいろいろ専門用語並べていても
このスレにあるコピペはゴミ。 代表的なフェイク
・西郷は西南戦争で皇居の方角を拝礼したあと切腹した
・西郷はわざと負けて士族の世を終わらすためにあえて西南戦争を決起した
・西郷は若い頃城下で篤姫と知り合っていた
・西郷家は少年時代の大久保利通に食事を与えていた
・西郷は江戸総攻撃を阻止し江戸百万人の命を救った
・西郷は奄美でアイカナと恋愛し結婚した
・西郷は廃藩置県を断行した
・西郷は明治天皇と相撲をとって教育していた
・西郷は南洲翁遺訓を残した >>508-509
呆れた。何が「そもそも」なんだか。何でも自分に都合よく考える人です。
スレ主は相変わらず「なぜ出典を示さなかったか」という点はスルーです。
これがちゃんと出典を示し、「ネット上にこんな文章があったんだが、自分はこう考える」と考察でも添えているなら、
まだ議論の対象になるでしょう。
それを出典も示さずに勝手にコピペを貼っただけで、この中身について反論しろとか、いったい何様のつもりなんでしょうか。
「他人のふんどしで相撲をとる」なんて言葉の意味も知らないんでしょう。
スレ主の独自研究と言えば「西郷隆盛と貴乃花は似ている」しかありません。
(それも中身の大半は、貴乃花についてのスポーツ新聞か週刊誌かのゴシップのコピペです)
こんなの「へー、そうですか。それで西郷となんの関係があると説明できるんですか」で終わる類です。
スレ主は、西郷隆盛について何の情報も考察力も持ちません。
ひたすらコピペを貼り付けるだけの無能です。
最近のスレ主のレスは、まるで自らの無能ぶりの証明と化したようです。
この調子では何をやってもスレ主は、ふんどしかつぎで終わるに違いありません。 >>515
老害のヒステリーまじかんべん
おなごのこつある
鹿児島弁ではこんなふうに言うのかな
ご自分の残された時間をもっと有意義に使ってはいかがでしょうか? 西郷隆盛はどうしても
長州藩士山田市之允に勝てなかったな。
日本軍隊誕生当時、山田顯義兵部大丞の国民皆兵(徴兵令)構想に
どうしても付いていけない
所に西郷隆盛の苦しみがあるのだよ。西郷には背後霊の様な
薩摩藩士族の存在があるからな。
山田顯義にはバックに大村益次郎と木戸孝允(桂小五郎)が
付いているのだよ。長州藩は大義(近代国家建設)の為に旧長州藩士族を
潰してしまうのだよ。
山縣有朋を味方にした西郷隆盛ではあったのだが
山縣も木戸孝允と山田顯義に睨まれていては
日本軍隊を薩摩藩に売りに出すことは出来ないのだよ。
結論だけ言えば山縣有朋は国民皆兵(徴兵令)に乗り出さざるを得なくなり
旧薩摩藩士を切って捨てるのだよ。西郷隆盛は薩摩藩の余った旧士族に
情けを掛け過ぎたのだよ。生活に窮した旧士族に情けを掛けたのが
西郷のいいところでもあり欠点でもあります。 愛エメ 狂騒のパジェント 靖国神社の大村益次郎像についての批判
http://pagent.seesaa.net/article/388231675.html
西郷隆盛は大村益次郎と山田顯義の日本軍隊を牛耳る長州藩出身の
2トップの強引さに押し切られてしまうのだよ。
西郷隆盛は山縣有朋をお味方に引きずり込むことには成功した者の
木戸孝允と山田顯義の唱える国家の軍隊の前に
西南戦争で敗退します。
西郷隆盛は国を動かす首相タイプではなくて、
郷土に貢献する県知事タイプの人物です。 >>514
小説とまんがとドラマのフィクション描写の部分だね。
フィクションは銀魂でまにあってます。 大久保像の下部の名前の「通」の部分がずれているのはわざと「じゃない」よね?w 空前絶後の偉人。自分のことなどはどうでもいい。
愛する家族のため、鹿児島のため、そして日本のために命をかけて働かなければならない。
自分は死しても、人を生かす。それが西郷という男であった。
↓現実
西南戦争の最前線で毎日多数の若者が命を落としている最中に
西郷一人だけウサギ狩りに出かけて気をまぎらわす。
あげく一人だけ政府軍に助命嘆願を申請。
却下されると城山を降り、投降を試みるも桐野利秋に見つかり強制玉砕。 「晋どん、ここらでよか」と言って、宮城を遥拝し、従容と死んでいった大西郷。 西郷が格好良かったシーンは継続性のない瞬間芸。
ジャイアンは劇場版のときだけ良い奴になるっていうのと同じだねぇw タイプは全く異なるが
伊藤博文、桂太郎、吉田茂、岸信介、池田勇人、田中角栄……
ゴシップや人物評にはさまざまな異聞・異論が混じるが、
本人の政治的位相が高ければ高いほど、ポジな実像とかけはなれた醜聞が流布することは法則のようなもの 私学校の上層が日頃より西郷を「全くの師」と畏敬の念を得ていたのであれば
そのような御仁を困らせるような事はしなかったであろうと
寧ろ何かとても「都合のいい」人物だったと思えば
こちら側が奇声を上げれば向こうからやってくるであろうという風に勘ぐりたくなる
故に「要らなくなった」が故に後ろから射殺という行為は至極当然だったのかな?と >>530は、主語と述語がはっきりしないし、
故に故にの繰り返しとか、日本語がおかしい。
普段「奇声をあげてる」人みたいで、薄気味悪い。 >>532のような薩摩戦闘民族伝説は初出が小説だったりで、西郷伝説同様後世に創られたファンタジーだよ んでも関ヶ原時に義弘の元に馳せ参じた連中はすごいとは思うがねw
中馬大蔵さんとか 西郷伝説の面白いところは年代により西郷隆盛の"死に様"が変化しているところです
■西郷隆盛死亡場面の時代的変遷1
明治10年〜 西郷軍全滅の三日後、東京日日新聞(現在の読売新聞)が西郷の最期を報じ、これが初期の通説となる
『新撰旅団の安村治孝中尉兼二等大警部(旧長州藩士。市ヶ谷集獄署長。のち樺戸集治監典獄)が
西郷に飛びついたが、薩兵に撃たれてピストルだけを確保して引き下り、別府晋介が西郷を介錯した』
安村中尉は西郷を生け捕りにしようとしたと言われていた。
この場面は当時多く刊行された錦絵にも描かれていて、この時代の人たちはこれが西郷隆盛の最後であると広く信じていたと思われる。
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/dimension=origxorig:format=jpg/path/se785f6f8e4e096c9/image/i161acf2574067835/version/1431503839/image.jpg
https://ms-cache.walkerplus.com/walkertouch/wtd/event/58/l2/311458.jpg
安村中尉と格闘する西郷隆盛 ■西郷隆盛死亡場面の時代的変遷2
明治42年〜 「西南記伝」が"黒龍会"より出版され
その中で描かれた死亡場面がこれ以後通説となる。
『西郷以下残された薩摩士族全員が一列になり最後の突撃をする。西郷は政府軍に脚を撃たれて負傷。
最初は「まだまだあ」と気張っていたが動けなくなり「晋どんここらでよか」と言って
地面に跪坐。厳然と襟を正し、東の皇居の方角に深々と頭を下げ、別府晋介に首を刎ねさせた。』
ちなみにこの死亡場面が真実であるかの根拠は「西南記伝」でとくに示されているわけでもなく、
西郷の最期として講談調に説明されているだけなのですが
死に方が潔く立派で"大西郷"の最期としてふさわしいと思われたのか
これ以後の西郷顕彰本や一般向けの歴史本では
この死に方があたかも真実であるかのように引用されるようになり通説化した。
ところでこの本を世に出した「黒龍会」とは何者なのでしょうか?
Wikipediaによると1901年に東京で設立された右翼団体の大手で「大アジア主義」「大東合邦論」を展開した。
大物運動家や政治家も多く参加し、西欧に対抗するために日本のアジア進出を唱えており
対露開戦を主張。玄洋社(右翼団体)の海外工作センターといわれた。
ようは西郷が生前感化された「東アジア団結」思想の流れをくんでいるのが黒龍会や玄洋社であり
プロパガンダとして西郷隆盛を神格化する意図があったのだと思われます。
https://alchetron.com/cdn/black-dragon-society-94cd8e3b-0b24-4062-bb76-b69ce3e599d-resize-750.jpg
中二感全開の黒龍会シンボルマーク ■西郷隆盛死亡場面の時代的変遷3
昭和17年〜 鹿児島私学校の後身団体である三州社社長の息子竹崎武泰が西郷隆盛顕彰本「肚乃西郷」を刊行した。
その中で真実の西郷死亡場面として桐野利秋による銃撃を明かした。
目撃したのは、別府晋介の従卒、城川市二。
城川の証言によると「 西郷が洞窟を出て城山をくだってゆくために、
桐野は西郷が敵方に投降するつもりかと思い、西郷を敵方に渡してなるものかと、銃で撃った 」というもの。
「この事実を書きし、西郷の伝記はおそらく世に無いと思うが、
これは別府晋介の従僕城川が著者の父(三州社社長)に話せし実話である。
西郷が大義名分を重んじて、江藤新平を諭せし事を思う時、
寸秒の疑う余地は無いのである。
西郷が簡単に切腹するのであれば、最期の陣営たる洞窟の前庭において、
幹部と共に枕を並べて死すべきである。
何もわざわざ岩崎谷を下り敵陣近き、現在建設せられある『西郷終焉の地』まで
のそのそ出て行く必要はないのである。
一度鹿児島に遊び、彼の洞窟と終焉の地とを検討せば、著者の論が実証せらるるであろう。」
と、城川説が疑う余地の無い"事実""実話"であると断じている。
西郷は命が惜しくて投降を試みたのではなく、薩摩士族の大義を法廷で主張するために山を下ったのだという。
しかしこの"事実"は従来信じられてきた突撃自決説と比べて往生際が悪く
西郷にとって不名誉であると受け取られかねず、また出版年が戦時中ということもあり
当時は黙殺されたと思われる。
https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr000/auc0309/users/2/3/7/6/kokolomusi-img1200x900-1506319510zae5be10285.jpg ■西郷隆盛死亡場面の時代的変遷4
昭和52年にも西郷死亡場面についての論争が起こり
「跳ぶが如く」の著者司馬遼太郎は、桐野利秋による西郷銃撃を目撃した“城川”なる人物の実在が証明されていないとし、
この目撃証言を奇説として退けた。
また昭和52年に南日本新聞で村野守治氏(西郷研究の第一人者)が、
「別府晋介の従者に城川なる人物は、自分の持っている資料には無いから実在しない、
だから実在しない人物の証言は成り立たない」という記事が載り、桐野銃撃説は否定されました。
架空の人物による、架空の目撃証言だと言うのです。
ところがその数日後に同じ南日本新聞で入佐俊興氏が、昭和十年発行の「葛城彦一伝」の中に
加治木編成の六番大隊編成表として「別府晋介附従卒城川市二」との記述を示し、
あっさり実在の人物と証明されたのです
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5b/43/533b3514bb93341a85125b2f68f15d03.jpg
さらに城川市二氏の孫嫁が健在で
「御祖父さんは83歳で亡くなった。口数の少ないきびしい人で、西南のことはほとんど話さなかったが、
昭和三、四年ごろ東大の先生が二、三度春になると訪ねてきて、襖を閉めきり朝から遅くまで
何事か話しをしていた。
城川の家は製造業で、職人たちが噂話などをはずませていると、御祖父さんが現れて、
“今ン話しはおはんナ自分で見た話しか、人から聞いた話しか”と詰問されて、
“わが眼で見た話しでなかのなら、ここでは語いやんナ” とピシャリといって引っ込んだ 」と述懐しています。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/30/6b/d47c724195ad61ad581eeea234aed1a4.jpg ほとんど語らなかったという流れ会津の飯沼と一緒だな
両者とも語ればなにか都合の悪いことがあるからというとこに着地する話だわな
会津プロパガンダの存在と悪行はもはや周知の事実
西郷が英雄でないと困る奴らのプロパガンダというものもあり
今でもその影響、洗脳下にあると考えるのがこうなると 普通なのかもしれない
追って研究するべきだな 「晋どんここらでよか」と言って
地面に跪坐。厳然と襟を正し、東の皇居の方角に深々と頭を下げ、別府晋介に首を刎ねさせた。』
◇ この説は信じがたいな。
東の皇居の方角に深々と頭を下げと言う部分は眉唾もんだな。
だって征韓論の時、負けた西郷隆盛は明治天皇に最後の挨拶もすることもなく
すべての職務を完全放棄してドロン。鹿児島県に引っ込んだ男だぜ。
まったくすべての明治新政府の重責を放棄したんだぜ。三条公も岩倉公も
木戸孝允も口あんぐりだぜ。
西郷隆盛からすれば明治天皇そのものがカッチャー(韓国語で偽物)という
事なんでしょう。
依って東の皇居の方角に深々と頭を下げるという事はありえません。 愛エメ 昔からまともな人間はおかしいと思っていたはず
しかし西郷関連のネガティブな著述は右翼やおかしな信者の標的になるので表立って言えない
最近だよ多少なりとも言えるようになったのは 薩長信者は創作美談を垂れ流すだけならまだしも
ネガティブ説には全力で貶めに来るから関わりたくなくて普通の人は
諦めて黙ってしまう。
コピーペースト・レッテル貼り・荒らしと、その他の醜い罵詈雑言。
全部ブーメランな内容だけどよく飽きないなー。
ほとんどパターン化しているからNGワード設定であぼーんしている。 >>543
>西郷隆盛からすれば明治天皇そのものがカッチャー(韓国語で偽物)という
>事なんでしょう。
言ってるのは韓国人ですか
なるほどね 木戸日記に目を落としてみよう。
「西郷が辞職するときは、近衛の士官など己の本職を
忘れ、気まま勝手をもってみだりにその職を捨てる。
近衛士官は天子の親兵である自覚を欠き、政府および
国民を保護する使命を放棄している。
そのことに良心の呵責を感じないとは。」
木戸は、西郷が喧嘩に負けた子供のように、ぷいと
姿をくらますような無責任な行動をとったことに、
言い知れぬ怒りと幻滅を感じていた。
少なくとも天皇をはじめ、国の根幹を担う人々へ、
潔く辞去の挨拶をして立ち去るべきなのだろう。
ましてや、将官や省庁の幹部を制止することなく、
道づれにすることの罪深さは理解に苦しむものがある。 (国のために一命を賭して朝鮮への使節を志願した者が、
その主張を受け入れられなかったからといって、
その国を麻痺させ、内乱の危機を招こうとする
矛盾を何と説明するのか)
木戸は西郷に独善の極みを問い正しかった。
木戸は死に瀕していたのである。
幸いぎりぎりの一線で硬膜下への出血が止まった。
参照 「小説木戸孝允―愛と憂国の生涯」下巻 中尾實信著 277頁 鳥影社 西郷さんは
言っちゃぁ悪いが近代国家建設なんていったって
チンプンカンプンで分からなかったんじゃぁないのかな。
蛤御門の変では幕府についていたはずの西郷隆盛が
鳥羽伏見の戦いでは長州側に付く矛盾。
西郷さんは時々息詰まるとガラガラポンに出たい人なのかもな。 愛エメ さいごうたかもりは大村益次郎・木戸孝允・山田顯義の
長州藩頭脳派に敗れてしまいました。
江戸城開城までは西郷さんにも主役が廻って来たのだけどな。
五稜郭の戦いでは小僧の山田市之允(顯義)に主役の座を奪われ、
誕生した日本陸軍の主導権は大村益次郎と門人の山田顯義に奪われてしまいました。
木戸孝允と山田が海外に行っている間に山縣有朋を籠絡したまでは
良かったものの、帰国した木戸孝允と大久保利通に実権を奪われ征韓論はおジャン。
夢破れた西郷どんは天皇陛下と近代国家を放り出しガラガラポン。
最期のスポットライト、主役の座返り咲きを狙って
一かパチかの勝負に打って出ましたが近代国家の軍隊に完敗しました。
軍艦ひとつないんじゃぁ勝つのは難しい。 愛エメ 過大に持ち上げる薩摩ステマって日本的じゃないね、やらせている奴らが透けて見える 木戸や大久保も政変の時辞職出してるし実際その後辞めたからな
後朝廷の命を聞かないってのも木戸や大久保にあるし
長州征討の際に朝敵だったが抗戦した長州や勅命無視して出兵しなかった大久保
その辺は割とドライ まぁ〜古来からの手法といえばそれまで
大山や従道で言えば「お前ら単に身内やん?」と「あの西郷どんのお身内か」とじゃ〜違うしなw 薩摩武士なんて半分農民みたいなもんだろ
薩摩武士って他藩の士族や武士とはまるで別の存在じゃないか
藩の人口における割合が多すぎてもはや支配階級とはいえない
多くの庶民から税をたかって無為徒食する特権階級という
評価が士族にはあるが、薩摩は半分屯田兵みたいな自給自足
をしていたのだから特権階級なんてとてもいえない。
薩摩武士は他藩の士族ほど希少でもない別の階級 薩摩藩っていわばヨーロッパ的な近代国家
他領地を植民地として搾取して工場もたくさんもってた
そして近代隊列を組める銃兵を大量に養成できていた
すでに近代化がなされていてノルマをクリアしていたが
薩摩が、それにおんぶにだっこ状態の明治政府に
どうしてしたがわなければならないのかと
藩なんてのは大量の銃兵も養成できません近代工場も建てられません
だから潰します!っていわれても、ハア?俺たちとっくにそれできてんですけど?
っていうかおまえら明治政府が俺たちの武器工場と兵力におんぶにだっこ
状態じゃねえかと文句言うのもわかりますわな
赤字のところおおいんで子会社ぜんぶつぶします!って親会社にいわれても、
親会社も赤字で、薩摩子会社だけが血反吐はいて頑張って黒字叩き出してて
親会社さえ子会社からの上納でやっと息してる状態だったら、薩摩子会社は
何いってんだお前?って怒るのもとりゃ道理だわなと 徳川幕府は巨悪だから何がなんでも倒さなければならない。
徳川幕府は卑怯だから 556の続き
徳川幕府は倒すためならどんな卑怯な手を使ってもいい。
薩長のモチベーションの根底はそんな感じ。 卑怯だから、じゃなくて封建主義だから。
職業選択の自由も移動の自由も認めないんだから。
そりゃ倒されて当たり前。 西洋の封建主義の貴族と幕藩体制の藩主はまったくの別物。
貴族が搾取しまくって人々を苦しめて革命が起きるってテンプレは
フランス革命から来た衆愚のイメージ。
江戸時代、代を重ねるごとに武断政治から文治政治に移行することに
成功してからは、武士は質素倹約を美徳にするようになった。
さらにその上の「お殿様」は搾取するのではなくその地を守護する存在。
庶民層にとって安心安全の守り神だった。
一揆も革命というよりは交渉の手段。代表者は責任を取って死ななければ
ならないという覚悟で事を起こすが、その動機は理不尽を正すことであって
復讐することではなかった。
悪徳領主をガチでやっていた藩主はけっこう少数例。
一応、監査システムはあったし、領民への度を越した年貢の取り立てや
お家騒動などの醜聞がバレたらそれはもう厳しく粛清された。
薩摩の非人道的な重税と黒糖地獄と密貿易は、遠方であることと薩摩弁の
分かりにくさが暗号レベルのせいでバレなかったようだが。
島津斉彬が藩主になりたいがために、阿倍正弘を味方につけてから密貿易を
密告して、不仲だった先代の実父を隠居に追い込んだのはなんだかなぁ。
もう一つの打ち出の小槌だった奄美の黒糖地獄のことを明るみにしなかった
ことが何気に作為的。 江戸時代の庶民の移動はかなり自由だった。
分かりやすい例はやじきた道中記。
旅のガイドブックのような絵付きの出版物が多く刷られて広く読まれた。
旅ブームも起こっていた。一番有名なのはお伊勢参り。
ピーク時には6人に1人が行くほどで、旅によく使われる街道は女性だけで
行って帰ってこられるほど治安が良かった。
恋愛もかなり自由。最終的な結婚は親が決める相手になることが
ほとんどだったが、親だって我が子は可愛いから悪縁になりそうな
相手は回避するようによくよく評判を聞いて吟味していた。
合わない相手と結婚してドアマット展開になる話がなかったわけでは
ないが、それは現代でも起こっていること。時代のせいというよりも
局所的に不幸の見舞われた気の毒な例。
そのためのセーフティーとして駆け込み寺なるものがあって
DV夫と縁切りする権利が妻にはあった。
知れば知るほど現代との類似点があって目からウロコが剥がされる。 最近よくある「本当はすごかった江戸時代」みたいな本の主張ですね。
さて寺社参りが認められていたから、江戸時代には移動の自由があった、
と言えるんでしょうか。
「移動の自由」という言葉には、単に東から西に行ける、ということだけでなく、
移動して居住できる、そこで生計を立てられる、という意味が含まれます。
江戸時代の寺社参りは、手形という形で許可を貰い、必ず帰ってくることが前提です。
労働力が流出してしまうことを認めてないわけですね。
これが「移動の自由が認められれていた」と言えるのかどうか。
だから移動の自由、職業選択の自由がなかった、とセットで書いてあるわけで。
江戸の幕藩体制は封建主義ですよ 「お伊勢参り」が今日の観光旅行の原型になった、と巷間言われているのはその通りだと思います。
それによって東海道は繁栄した。
しかし江戸時代、東海道筋に並んでいるのは、幕府の譜代親藩ばかり。
それで他所から来てお金を落としていってくれるんだから、
「お伊勢参り」を認めたのはさもありなん。
特に伊勢国の桑名藩などは、一番利益を得られる位置だったはずです。
そりゃ幕藩体制を守る側につくでしょうな。 >>562
足ることを知っているからないものねだりはしない。現代人が自由なんて嘘だ。
本当に自由な人間なんていない。絶対にしがらみがある。
だからと言って流浪の民になりたいとも思わないが。
帰る家があることは幸せなこと。旅から帰るのは帰りたいから。
安心安全に定住することがどんなに幸せなことか。
世界史上だと定住しない暮らしをしていたのは所有者に従わされる奴隷・民族単位だと
シルクロードの遊牧民・ジプシー・故郷の奪い合い真っ最中のパレスチナ人etc。
日本史上だと流刑になった罪人・白拍子しながらさすらう遊女・参勤交代する
大名行列一行・行商する商人・地図を作る伊能忠敬チーム・巡業する大衆演劇の
旅役者・花を求めて移動する養蜂業者・転勤族etc。
現代人のほとんども住処を変えるのは結婚や就職などの人生の分岐点くらいの
もので、それは江戸時代と変わらない。また行く先々で地域に順応するのは大変だから
転勤族も好き好んで転勤やっているわけではない。冒険は旅行で充分。定住できる
ホームがないと心細くなるんじゃないかな。 >>563
観光地と都会以外が田舎なのは至極当たり前のこと。
観光客を呼び込みたいなら、僻んでないで現状をよくするための村興し・
町興しのようなことをやっとけばいいだけのこと。
余所はいいなー、うちは迫害されている。……と負の想念へ思考が傾き
やすいのは討幕派の性癖っぽいね。だから徳川のすべて奪いにきた。
田舎は田舎のままで住み良くできるのに。
戦時中でも空襲のターゲットは都会だったし、戦後の食糧難のときも自分家で
農作物が採れる農村だったら飢えないし。
それよりも現代は過疎地だの廃村だのが増えてインフラが途絶える地域が
増えてきたから江戸時代よりも悪くなっているともいえる。
余談だが、加賀の前田利常は豊臣側だったから徳川幕府に警戒されていた。
ゆえに鼻毛を伸ばして江戸でバカ殿のパフォーマンスをして難を逃れていた。
見た目を犠牲にしたけれど名君で加賀をちゃんと富ませていた。
だが明治維新後の新政府は薩長ばかりが実権をとって、それなりの活躍をした
加賀藩の士族が日の目を見ることはなかった。 >>565
加賀がそれなりの活躍ってなんだよ?w
加賀は徳川から睨まれないように家康のときから政治にはかかわらないようにしてきたんだぜ
それが御家芸であるかのように徳川の世が終わるまでまでまったくといっていいほど政局にはかかわらなかった
すべてその結果なんだがw >>567
じゃあ情弱の俺にそれなりに活躍した加賀を説明してみてくれよwん?
できるのかなあ?説明が?w 加賀藩は禁門の変、鳥羽伏見、戊辰戦争と出兵はしてるよ
ただ勤皇と佐幕の対立で藩論がまとまらず右往左往しただけで終わったが
北越戦争には藩兵1500人と軍艦が参戦してる
これは各藩の中で最大の軍勢だったが、手柄は全部薩長に付いた
この時、加賀藩は100人程度の戦死者を出している
ちなみに薩摩藩の戦死者は戊辰戦争全部合わせて514人、長州が全部で300人
加賀の100人というのはけっこうデカイのだ >>569
石高におうじた出兵兵力だがw
しかもその死者数の割合みたらどうみても練度の低さと近代化してない旧式の装備によるもの
君の理論でいくと
太平洋戦争時の戦闘員の死者の多くは東北系の人
そして沖縄が多い
だからといってそれらの県が戦後評価されて政局に重要な役割やらポストにいたんですか?w
禁裏の防衛任務は大藩の義務であるからして禁門の変に加賀藩が居合わせたのも当たり前
で、これのどこが政局にかかわってたというんだ?wん?w
死者の多さが政局なのか?w
死者を多数出したのは加賀の運用、戦術の責任じゃないとでもいうわけか?w
錦の御旗がひるがえるまで佐幕だった藩を死者が多かったからって明治の中枢の一角にいれろと?w
加賀なんぞ評価する前にもっと評価してやらんといけない藩なんて腐るほどあるというのに
人を情弱呼ばわりするわりに誰もが知ってるようなことしか言えんでどっちが情弱なんだかw >>570
泣き事多すぎ
禁門の変では長州藩と幕府の間に立つという形で政局にしっかり関わってます
結果が出なかっただけで
君の言ってる「加賀は徳川から睨まれないように家康のときから政治にはかかわらないようにしてきた」なんて情弱の思い込みにすぎません >>571
これでこいつが無知無学のアホだということ完全証明されましたww
>禁門の変では長州藩と幕府の間に立つという形で政局にしっかり関わってます
お前が政局の意味すら理解してない大馬鹿者だということこのフレーズだけではっきりわかるww
>結果が出なかっただけで
クソワロスwwww
お前のそのクソバカ理論でいけば結果がでなくてもいいなら徳川治世300藩すべて政局にかかわってることになるが?wあ?wドアホw >>569
細かい数字をありがとう。
余談だけど加賀といえば加賀百万石。
大河ドラマで知名度上がったけど、その後継も内政力がすごい。
豊臣側についていた外様大名なのに頑張った。
豊臣時代にも朝鮮出兵には断固反対したあたり、利家は戦闘力が
あっても戦争依存経済の領政を選択しなかったということ。
薩摩のよくやる侵略だの黒糖奴隷だののジャイアニズムなしで、
加賀を住み良く整えたのは戦の手柄以上の功績だと思う。 あの朝敵と罵られた会津からも後に高名な人材が排出されているのを見ると
加賀のソレはとても希薄に見て取れるw
まぁ〜名もなき事務レベルで優秀なのは居たのかもだが >>571
関ヶ原以降芳春院が利長に書いてる手紙に記載されてますが?
まさか知らんわけでないだろお前?
利長も子供や家臣にそれらのこと言っている文書も残ってますが
まさか知らんわけでないだろオマエ?w 幕末維新期に石川県士族がやったことと言えば、
思いつくのは大久保利通の暗殺。
川路利良なんかは事前に情報をつかんでいても
「石川県人になにが出来る」と高をくくった末の凶行だったそうだが。
他県人を見下すような鹿児島県人の悪い所が出てるとは思う。
しかしそれを差し引いても、
暗殺犯たちは、時代に遅れてやって来た人たちだな、とは思う。 犯人たちは征韓論信者で鹿児島の私学校に滞在もしている
テロとはいえ
萩の乱→西南戦争→紀尾井町の変
という流れで起きた("加賀の乱"とでも言うべき)小さな内戦であった 歴史に対する影響力としては、
「桜田門外の変」の方がずっと大きいが、
それでも「桜田門外の乱」とは言わない。
「桜田門外の乱」なんて言ったら笑われる。
>>577は歴史音痴。 最後の仇討ちも確か加賀だっけか?当時の執政・本多家の当主殺害に於ける本多家家臣VS加賀藩士w 西郷隆盛と鋭く対立した人たちってみんな後日反政府右翼に暗殺されてるんだよな
大村益次郎
大久保利通
大隈重信(右足切断)
大隈に爆弾を投げつけたのは右翼団体玄洋社の関係者
玄洋社は西郷神格化本「西南記伝」の刊行元黒龍会と同じ一派
こういうところで点と点がつながる >>581
おおお。
その点がつながり、線となり面となった考察を、
ぜひ御開陳ください。 そんな大げさなものではありませんけど
西郷神格化と反政府右翼の狂気じみた活動は同根であるということです
同じ人たちがやっていた
ところで、この反政府右翼が刊行した「西南記伝」は西郷が最期まで戦い立派に自決したという伝説を創りましたが
その一方で、桐野が西郷を銃撃したと証言した"城川市二"の名前がこの「西南記伝」にはどこにも出てきません
城川の親友であり一緒にカゴを担いでいた小杉恒吉衛門の名前はしっかり出てくるのに城川の名前だけが無い
たぶんですけど「西南記伝」が刊行された明治42年ごろも城川説というのは存在していて
しかし不名誉な死に様ゆえに目撃者の城川市二の名前ともども無かったことにされたのではないかと思います
それくらい不自然なのです、城川市二の名前だけが無いというのは・・・
大隈重信に爆弾を投げた狂信的な右翼ならそのくらいの"検閲"はやると思います
>>539のように城川は生涯悔しさのようなものを心に持ち続けたようで、その原因は自分の目撃した西郷の最期、そして自分の存在さえも無かったことにされた
戦火の中を命をかけて別府晋介や西郷に最後まで付き従ったのに、その自分の名前も葬られた
ということに起因しているとすれば納得いきます 西郷ageはキモチワルイ。
只人を神格化するなら、もうちょっと瑕疵の目立たない経歴の人物にして欲しい。 >>583
なぁーんだ。
「点がつながった」というから、新資料があるのかと思ったら、
昔のテンプレの焼き直し。「スレ主=無能の証明」ですな。
結局、竹崎櫻岳「肚乃西郷」と片岡吾庵堂「横目で見た郷土史〜言いたい放題でごめんなんせ〜」しか
資料は無いんでしょ。
それとも何か隠し玉があるというなら、ぜひ知りたいです。わくわく。 >>584
新興宗教において神格化されてる"教祖"の実態がほとんど例外なくエグい人物であることを考えれば
神格化というのはそういうものなのかも
共産主義の"英雄"たちの神格化もね
そんな神格化された西郷像が、日本人のあるべき姿、理想像のようになっていた時代もあったわけでその弊害は大きかったと思う
"負けると分かっていても戦わなければならない時がある"という精神論が日本人は好きですが
そのモデルの一つは明らかに西南戦争の美化ですよね
美化された西南戦争は、太平洋戦争下の日本軍による無謀で意味の無い作戦の連発という事態の精神的な背景の一つになっていたと思います
本当に西郷や桐野たちが負けると分かっていて、しかしそれでも戦わなければならない時が男子にはあるのだ
と思って西南戦争を決起したのならまだいい
それを顕彰しようとする者も出るでしょう
しかし西南戦争の実態は、負けるつもりなどさらさらなく、単純に自分たちの無能さからくる甘い見通しで
薩摩士族全員出撃というわけのわからない決起をしただけであった
敗色が決定的になっても間違いを認めず、その歪は現場に押し付け戦死者を山のように出した日本史上最大規模の愚行
それが西南戦争の本当の姿です
このような愚行を「男には負けると分かっていても戦わなければならない時がある」などとすり替え、西郷や桐野を美化していたらそりゃアメリカに負けますよ
右翼や西郷信者の罪は重いですね 西郷は別に美化さなくても維新三傑と評価されてて
しかもまず西郷と筆頭で名前が来るようにその評価はなんら変わりないよ 私学校のやった恐怖政治と独裁政治は、
戦争中の軍国主義、そしてスターリン主義や毛沢東主義にソックリだね。
夜郎自大の日本共産党やオール沖縄を見ると、今だに西郷政治が生き残っていると
しか思えない。日本人にとって、最も忌まわしい記憶が西郷の恐怖政治と夜郎自大。 >>588
なんで寺子屋ではなく私学校だったのかというと九州地方は隠れキリシタンが
多く潜伏していて、隠れキリシタンのカムフラージュ用のハリボテ寺はあれど、
真面目に現世功徳している本物の寺が少なかったから。
そんな地域では教育施設としての寺子屋は足りず、私学校が代わりをすることになる
ものの、学べるのは士族階級が主で女性や農民の識字率は上がらないままだった。
そういえば吉田松陰の教え子の多くがテロリスト化したけど、どんな教育をしたら
ああも暴力にためらいのない理不尽な理想主義者に仕立ててしまえるのだろう。
教育ついでに危険思想植え付けてくる私塾はカルト宗教とどう違うの? 私学校と隠れキリシタンが関係あるって初めて聞いたんですが・・・
私学校はもともと士族階級しか対象にしてないよ 多分創立に尽力した一人、鹿児島県令・大山綱良が「隠れキリシタン」だったからかもねw
大山の葬儀は何故か浦上のキリシタンが執り行ったとか
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%98%8C%E5%AF%BA_(%E9%B9%BF%E5%85%90%E5%B3%B6%E5%B8%82)
福昌寺 (鹿児島市) >>586 や >>588によれば、
西郷(や私学校党)は、「右翼」で「共産主義」で「戦争中の軍国主義」で「スターリン主義」で「毛沢東主義」で「新興宗教」で「日本共産党」で「オール沖縄」なんだそうです。
支離滅裂です。
歴史や政治を少しでも知っている人なら、およそ恥ずかしくて書けません。
鵺のように自分の立ち位置をはっきりさせないから、こんな支離滅裂なことになるのでしょう。
こう書くと、
「いや、夜郎自大(自分の実力を知らずに仲間内ではいばっているさま)な点で共通している」と言うのかもしれません。
夜郎自大なのは、支離滅裂な自分自身なんだよ。 586を書いた者です
588さんの意図は分かりませんけど
592さんの>「右翼」で「共産主義」で「戦争中の軍国主義」で「スターリン主義」で「毛沢東主義」で「新興宗教」で「日本共産党」で「オール沖縄」
という書き込みを見て、これってようは全部全体主義じゃんと思いました
592さんは支離滅裂と申されますが、自分で書いてて気が付きませんでしたか?
支離滅裂どころか全部全体主義でこれはまさに鹿児島私学校のことでした
教えてくれてありがとう >>593
586で「全体主義」という言葉が出てこないまま、
宗教と共産主義のように、本来性格の異なるものを並べ、長々と主観で以て否定する。
こういうのを最近は、
【中二病】
と言います。
そう、あなたは【中二病患者】なんですよ。
まず気づくべきはそこですね。 >>594
いや最近は「中二病」というのは死語かと思いますよ、おじいさん 笑 やれやれ。スレ主は、
>>537では、右翼を揶揄するために「中二感全開」などとと書きながら、
自分がツッコまれると
>>595のように「中二病は死語」とすっとぼけます。
というより本当にボケているのでしょう。
何でも自分に都合よく考える人です。
こういう「中二病をこじらせた人」を最近ではなんと呼ぶのか、
ぜひうかがってみたいものです。 >>596
おじいさんはたぶん「中二」の用法間違ってますよ
「中二」とか「こじらす」とかはおじいさん世代には微妙に伝わらないニュアンスなのかな・・・
それとこのスレは「若い奴にバカにされた年寄りが粘着して気持ち悪いレスを繰り返すスレ」ではないんで少し察してください
もちろん西郷隆盛関連の話題なら大歓迎です 今スレのスレ主は、やたらテンションが高かったり低かったり情緒不安定で、
レスの矛盾を指摘されると、「気持ち悪い」を泣きながら連呼します。
その不安定なこと、まるで思春期の女の子のようです。
こういうのは「中二女子感全開」と言えばいいのかな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています