隋唐帝国
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
隋唐は、テュルク・モンゴル人が建てた王朝であって漢人が建てた王朝ではない。 テュルク・モンゴル系が華北に移住して何代も経て、新しい漢人になった
秦漢帝国の頃とは違う、新漢人の時代 中国の伝承文芸『ムーラン(木蘭)』は、テュルク・モンゴル人と漢化テュルク・モンゴル人の仲間割れの話である。 唐では異民族出身者が出世したな
高仙芝とか安禄山とか 唐は、ペルシャやインドの文化から大きな影響を受けた
日本が唐から受けた影響に匹敵する いや、そこは日本が唐から受けた影響のほうが明らかに大きいな
文字や文法、語彙への影響も計り知れない Wikipediaから抜粋
武川鎮軍閥(ぶせんちんぐんばつ)は、中国南北朝時代の西魏・北周、および隋・唐の支配層を形成していた集団のことである。関隴集団ともいう。
武川鎮とは北魏前期の首都・平城を北の柔然から防衛する役割を持っていた6つの鎮のうちの一つのことである。
北魏では各国境に匈奴・鮮卑系の名族を移り住ませ(鎮民)、その上に鎮将を置き、彼らに当地の軍政を行わせ、防衛を行っていた。
しかし北魏の漢化政策が進むにつれてこの六鎮の地位も下落し、孝文帝により洛陽に遷都されたことで、六鎮はほとんど流刑地同然になった。
この待遇に当然六鎮の者たちは不満を抱き、六鎮の乱を起こし、北魏全体を大混乱に陥れる。
この乱は爾朱栄により収められるが、北魏の混乱はそれだけでは終わらずに軍閥の割拠状態となる。
・・・楊堅は幼主の静帝より禅譲を受けて隋を建て、589年に陳を滅ぼして中国を統一する。
革命が起きたとはいえ、隋の支配者集団は変わらずに関隴系であり、楊堅の皇后・独孤伽羅は八柱国の独孤信の娘(七女)である。
これ以外にも関隴集団内では複雑な姻戚関係が結ばれており、互いの間での関係を密にすることでより力を高めていた。
李淵は八柱国の家系であるというだけではなく、独孤信の娘(四女)を母としており、いわば関隴系の中で最上級の血縁を持っていた。
このことにより、関隴貴族集団の強い後援を受けられたことが、李淵が簡単に大興城(長安)を奪取し、最終的に争覇戦で勝利した理由の一つだと見られている。 日本の歴史の教科書では、
「北魏の孝文帝は、中華の文化に憧れて漢化政策を行いました。北方の異民族は漢に同化されて漢人になりました」
と書かれ、その流れがそのまま隋唐へと続いたような印象操作がされている。
でも実際には、孝文帝の漢化政策は強い反発を呼び、北辺の守備兵たちが反乱を起こし、南下してきて北魏を打倒した。
あとの北周・隋・唐は、その南下してきて漢化政策を潰した連中が建てた王朝だということを忘れてはならない 高仙芝は高句麗高氏の後裔、安禄山はソグド系、史思明は突厥系の武将だった
彼らは蕃将と呼ばれて唐朝武官の有力部分を占め、配下の兵士にも異民族
出身者が多かった
これは、彼らが馬術・弓術などの武技に秀でていたこととともに、
府兵制などの軍制では辺境や異民族との戦闘に応じきれなかったことによる なんで他スレで反論されてた内容をまたコピペしてるのこの猿 「北方の異民族は、中華の文化に憧れて漢化しました」を否定されると、顔を真っ赤にして怒り出す人がいるな(笑) なんだこいつ
文体がいつぞや朝鮮語が日本語から作られたと吹聴して盛大に論破されたバカ猿と全く同じだなあ
最近見かけないと思ったがまた戻ってきたのか? 騎馬民族に隷属するシナ土人のルサンチマンが、歪んだ中華思想を生んだ 朝鮮半島には長白山の噴火で人が住めなかった時代があり、それ以前と以後で人種が入れ替わっている。
今の朝鮮人の祖先は、南下した女真人である。 しょうもない無根拠の書き込みばかり
そら相手にされんわ >>23
風向きの関係で、長白山の噴火は朝鮮半島にほとんど影響を与えない。
火山灰はもっぱら東日本から北海道に降り積もる。
前回噴火の降灰を示すこの地図をよく頭にいれておこう。
http://www.hayakawayukio.jp/paper/946/map.JPG >>25
お前の脳内では
噴火=火山灰
ってことになってるのか? >>25
> 風向きの関係で、長白山の噴火は朝鮮半島にほとんど影響を与えない。
んなわけねえだろ
朝鮮半島全域で、当時の厚い火山灰の層が確認されてるぞ
高麗は文化水準が低かったから記録に残ってない
文献としては日本の平安時代のものしかないわけで 偏西風で流されてくれればいいが、朝鮮半島や満州に厚く降り注げば寒冷化と飢饉は避けられない。 どっちにしても>>23が書いてる
噴火で朝鮮半島に人が住めなくなったとか
南下した女真族が今の朝鮮人だとかは出鱈目だろ
そんな証拠は存在しない たまたまタイミングがというか、この史上最大級の噴火が起きたとき、満州は渤海滅亡、朝鮮では三国時代、中国では五代十国と、いずれも史上最大級の動乱が起きている最中だった
「あるいは、この大噴火が大動乱の始まりだったのでは?」という疑問が出るのももっともで、研究はされているが、記録が無さすぎる 朝鮮半島では特定の年代の地層から人骨がまったく発見されていない。
人が朝鮮半島からいなくなった過酷な時代があったことを示している。 人が住めなくなるレベルの噴火というのは
西日本の縄文文化を消滅させた鬼界カルデラの破局噴火レベルのものをきう >>33
はあ、ならその知見とやらを屏風から出してください 唐は外国人に対して開放的だったが、外国人の男性が娶った中国人女性を連れて
本国に帰ることは許されず、また中国で田土や奴婢を取得することも原則的には
禁止されていた
中国に客死した外国人の資産を国外に持ち出すことも許されず、近親者が中国内に
いれば相続させたが、いないときには官に没収した
外国人と中国人の間、国を異にする外国人の間の犯罪には中国の法律が適用され、
同じ国の外国人同士の犯罪はその国の法律に従って処断された
また、中国人が勝手に外国人と交易を行ったり無届けで婚姻を結ぶことは
禁止されていた
また、朝廷に背を向けて外国に投ずることが律の十悪に含められて
重罪とされるなど、かえって中国人が外国人と接触する場合に制限があった 移民を入れて人口を増やそうとしてたんだな
アメリカ合衆国と同じだ 鑑真が日本渡航に何度も失敗したのは後難を恐れた弟子が善意で失敗するよう手回ししたからだろうか? 弟子がジャマしてたのは事実だが、さすがに遭難するように仕掛けたりはせんだろ >>35
韓半島空白の5千年〜中石器時代なんて無かった〜
ソースは韓国の考古学書
韓半島では約1万2千年前に一度滅亡しているらしく、中石器時代と呼ばれる時期の遺跡は一切発見されてないとか・・ >>40
白頭山の噴火って10世紀の話をしてんだが… 石器時代に人種が入れ替わってるとか壮絶すぎ。朝鮮半島。 日本の旧石器時代は壮絶な捏造のせいで記載が抹消されてしまったがね 唐代には、敦煌のような辺境都市にはソグド人たちがコロニーをつくって住んでいた
唐の後半に渤海湾を通って山東半島に渡った新羅人も、自分たちの集落をつくって
故国の風俗や年中行事を守って生活していた
そのころには、南シナ海から広州を経て中国に足を踏み入れるムスリム商人も
多くなった 建国直後のアッバース朝とタラス河畔で戦って負けたテュルク・モンゴル王朝・唐。
後継のテュルク・モンゴル王朝・モンゴルウルスがバグダードでカリフを殺戮したのは500年後のことであった。 >>44
唐代のイメージがいまひとつ脳裏に浮かびにくい大きな原因に、「残っている絵画があまりにも少ない」というのがある
そんな中で、当時の様子を伝える貴重な手がかりといえば敦煌の壁画
現代人は、敦煌の壁画を見て「ああ、唐朝とはこういうところだったのか」と思ってるわけだが、敦煌そのものは西域の異民族の地だ >>45
唐とアッバース朝が戦ったといっても、現代のような国家総力戦ではなかった
安西節度使の高仙芝と、「ホラーサーンの虎」アブームスリムの戦い タラス河畔の戦いでの唐の敗北は中国の製紙技術が一神教世界に広まるきっかけになった。
それ以前、一神教世界で使われていたのは羊皮紙だった。
後世に与えた影響の大きさという点では総力戦にも匹敵する。 製紙法は大昔の人々には習得困難だったようで、東の日本にも、西のペルシャにも伝わるのに何百年もかかっている 唐後半は宦官が皇帝の廃立すら行うようになった
12代穆宗から19代昭宗までの8人の皇帝のうち、
13代敬宗以外は、すべて宦官によって擁立されるというありさまで、
敬宗も在位わずか2年で宦官に弑害されている 唐の後半は、日本でいえば戦国時代だな
室町幕府は、織田信長が滅ぼすまえまは一応存続していたが、事実上の群雄割拠状態 唐朝は、安史の乱のあとも中興の祖みたいな皇帝が出たこともあった
でも足利義満やバルバロッサ・フリードリヒ1世みたいに、常に地方勢力との闘争に追われて東奔西走する忙しい皇帝
統一王朝とは名ばかり 唐代において、ほとんどの節度使は観察使をも兼任し、強大な兵権と広域行政権を
あわせもつことになったため、反中央色の強い節度使は軍閥と化し、なかば独立国の
様相を呈するものすら出現した 安西節度使の高仙芝も、ホラーサーン総督のアブームスリムも、ほぼ半独立国
タラス河畔の戦いは、唐とアッバース朝というより、高仙芝とアブームスリムの戦争 南朝側が勝ってりゃどうなってたか
そうなったのも梁武帝がほとんど悪い訳やが ネガティブな話ばかりになってしまったが、世界に冠たる華やかな文明だったのは間違いない 華やかというのはただの主観にすぎない。学問板で使う表現としてふさわしくない。 唐人はキンキラキンに飾るのが好きだった
イスラム圏の文化的な好みに似ているので、やはり影響を受けたのだろう 騎馬民族スキタイから続く金装飾の伝統でありイスラーム圏は関係ない。
ひょっとして素人さん? 唐は異文化に寛容だったが、受容されたさまざまな異文化が中国の伝統文化と融合し、
より高次の文化にまで昇華されたわけではない
さまざまな異文化は外来人固有の風俗・伝統・信仰として彼らの共同体社会で
保持されたり、あるいは限られた社会的上層部の異国趣味として受容されたに
とどまったというのが実情だったらしい
つまり異文化と中国伝統文化とは混在しながらも、併存したままという、
両者の融合度はまったく無ではないにしても、きわめて低いものだった >>46
>唐代のイメージがいまひとつ脳裏に浮かびにくい大きな原因に、「残っている絵画があまりにも少ない」というのがある
唐代の壁画とか西安だけでも数千図以上見つかってるのだけど
日本人を描いた最古の肖像画とされる「礼賓図」も西安校外の章懐太子墓から見つかったもの
人物壁画と言えば高松塚古墳しかない日本よりもよほど当時の服装についてはわかっているよ >>46
唐代のオリジナル作品はほとんど残ってないが、後世の摸本なら結構ある 中国の場合、先進国とは違い、最近になって遺跡の発見や発掘が相次いでいるから、状況が昔とはかなり変わっている テュルク・モンゴル人の功績を否定したい中国共産党の立場からすれば、唐の研究がすすむことは政治的に好ましくない。 以下、岡田英弘著『チンギス・ハーンとその子孫』「新版まえがき」より一部抜粋
『世界史の誕生』は、二○○二年に韓国語版、二○一二年にモンゴル語版、二○一三年には台湾から繁体字漢語訳が刊行された。
今年二○一五年四月、中国の国家主席・習近平の唯一の盟友と言われる王岐山・中央規律検査委員会書記が、
中国共産党指導部の招待で北京を訪問したフランシス・フクヤマ、青木昌彦両氏に、
日本の歴史学者・岡田英弘の著書の内容について延々と論じ、その歴史観を高く評価したということで、ネット上ちょっとした騒ぎになっている。
おそらく台湾で刊行された『世界史の誕生』を読んだのだろう。
筑摩書房によると、中国大陸における簡体字版翻訳権の申し込みは十社を越したそうである。 王岐山が岡田英弘を高く評価しているといっても、「モンゴル帝国から世界史が始まった」というのが好きなんだろ
「漢の滅亡後、華北の漢人は絶滅した。その後の民族大移動により、人間が入れ替わった」とか、「宋も異民族の王朝」とか、そういうのを好んでるわけじゃないと思うが(笑) 日本も中国も箸を左右方向に置くのがもともとの食事の作法だった。
中国はいつからか箸を縦方向に置くようになったが、ナイフを縦に置く遊牧民の作法に倣ったらしい。 お箸の国の人ですもの 〜中国・日本のお箸の置き方。縦か横か〜 | 石川県金沢発、食と農業を追求するOPENSAUCEの食農メディア
https://riff.opensauce.co/how-to-put-chopsticks-in-japan-and-china/
日本は、中国が失った古い文化をたくさん残している。
箸の横置きもそうだし、箸という語も中国で使っていた古語である。
現代中国では箸を?子(クァイツィ)という。
さて中国の唐代の壁画に描かれている食事風景をみたことがあるのだけれど、箸は横に置かれていた。
今から1000年以上前、7世紀から10世紀まで中国にあった唐代の頃には箸は今の日本のように横に置かれていたのだ。
唐の次には五代という時代がやってくる。
その五代のあとの宋代の絵画史料をみると、箸は縦に置かれている。
五代時代に、きっとヒントがあるはずだ。
(以下、省略) >>66
永代公主墓と懿徳太子墓の壁画も有名だよな >>66
永代公主墓と懿徳太子墓の壁画も有名だよな 宋の官服
https://i.imgur.com/NdGY4UK.jpg
清の偉い人が首から提げてる大きな数珠
重そうやなあ 古代・中世・近世で激変する日本や欧州とは異なり、中国の服装は唐から明までそんなに大きくは変わらんからなあ
時代の変遷をパッとイメージするのは難しい 唐代には塩賊・茶賊と呼ばれる連中がいた
安史の乱の最中、758年に国家専売となった塩を官塩と呼ぶが、
私塩を扱う業者を塩賊と呼んだ
塩と同様に茶の場合にも十分の一税を納付しない私茶が広く出回り、
唐朝は私茶業者を茶賊と呼び厳しくとりしまった 安史の乱の復興財源となった塩の専売だが、皮肉にも塩の闇商人の反乱で唐朝は崩壊することとなる >>87
そうか、そういうもんか
言われてみれば、そうかもな? 唐末になって各地の藩鎮が自立して群雄割拠の状態となり、領内の殖産興業に
力を注ぐようになると
各藩鎮にとっても塩・茶は貴重な財源であり、私塩・私茶の流通を力で
押さえ込もうとし、塩賊・茶賊の活動はやや下火となる 「絹の道」ソグド王の食料庫跡か 中央アジア、ワインや蜂蜜を管理 | 共同通信
https://this.kiji.is/740490224651223040?c=39550187727945729
2021/3/5 17:44 (JST) 茶の栽培と飲茶の習慣は、中国では四川に始まるとされる
六朝期には江南各地にまで普及し、八世紀初めの唐代中期には華北にまで
飲茶の風は広まり、一般庶民層の生活必需品にまでなった
生水を飲むことができない風土上の特質が飲茶の習慣の普及と定着に
大きく作用している
唐代半ばから茶の全国的な普及と必需品化が進行する中で、安史の乱後には
茶に十分の一税が課せられ、一時期廃されたが、793年に復活して唐末まで
課税され続ける 名著とされる『貞観政要』が現実の唐王朝でまったく役立たなかったのはなぜなんだ? 貴族制を完全に壊した朱全忠とかいうあまり評価されない人物 >>96
貴族制を破壊したことにより、「中華帝国」そのものをを終わらせてしまったからな 唐の名門貴族というのは、単に唐朝のみにとどまるものではないからなあ
趙郡李氏は「戦国時代の趙の李牧の子孫」だし、ケイ陽鄭氏は「春秋時代の鄭に由来する」とか、遥か昔の古代から続く家柄が多い
どんなに王朝が交代しても古代から連綿と続いてきた「中華」の伝統がここで切れた。
「唐から後は、別の国」という人が少なくない所以 朱全忠は905年、当時の中央で枢要な地位にあった三十余人の官僚貴族を
滑州白馬駅に集めて殺し、その死体を黄河の濁流に投げ捨てさせた
朱全忠のブレーンとして重用され、後梁建国後には最高執政機関である
枢政院使にまでなる李振が教唆したものである
李振は科挙落第者であり、門閥貴族や科挙官僚といったエリートを
強烈に憎悪していたという 「中華の伝統」ではなく貴族の権勢が絶えただけな
伝統の担い手は士大夫が引き継ぐから 科挙落第者といえば、神として祀られている鍾馗も唐の時代の人だね。
お前らさ、自殺して神として祀られるのと、逆恨みで大量殺人するのと、どっちがいい? 李白の出自および出身地には諸説あり、詳細は不明。
20世紀になると、陳寅恪らが李白を西域の非漢民族の出身とする新説を出した。
日本の研究者でも松浦友久などが、李白の父が「李客」と呼ばれ、正式の漢人名を持ったという形跡がないこと、
また後年の李白が科挙を受験しなかったことなどを根拠にこの説を支持している。
岡田英弘と宮脇淳子も、「有名な詩人の李白はテュルク系といわれ、杜甫の詩にもアルタイ系の言語的特徴がみられます。と述べている。
楊海英も、「そもそも詩仙と呼ばれた李白自身、テュルク人(トルコ系)であった可能性が高い。
また詩聖杜甫にも、遊牧民の天幕で酒を飲んで、テュルク風の踊りを楽しむのが大好きだ』という詩があるほどだ。」と述べている。
現在の中国における通説では、李白は西域に移住した漢民族の家に生まれ、幼少の頃、裕福な商人であった父について、
西域から蜀の綿州昌隆県青蓮郷(現在の四川省江油市青蓮鎮)に移住したと推測する。
いずれにしても、遅くとも5歳の頃には蜀の地に住み着いていたと考えられている。 欧州史に例えれば、秦漢をローマ帝国とすると、隋唐はフランク王国に相当する 欧州には長江みたいな天然の要害がないから例えようがない え?
ピレネー山脈、アルプス山脈、ライン川、ドニエプル川、などたくさんあるじゃない 五胡十六国は、東ゴート王国・西ゴート王国・ヴァンダル王国・ランゴバルト王国等に相当する 隋末はまたまた群雄割拠したのによく再統一できたものだ
江南勢力が弱すぎたのが一因か? >>110
いや、そんなことはない
蕭銑は最大の難敵だった
中国の時代劇だと、たいてい王世充たちを倒して華北統一したところで終わるせど 隋末の群雄割拠は、三国志と比べて日本での人気の無さが目立つ
三国志のほうが人気があるのは別に不思議ではないが、人気に差がありすぎるのは謎 李靖が強すぎた
あれが煬帝のとこに逃げ切ってたらどうなってたが 歴史にifはないというが、隋の統一が短期で終わって、また南北朝時代が何百年も続いたとしても不思議はなかった 唐代には、門閥派と科挙派の党争も激しかったな
唐が本来持っていた北朝的色彩が薄れると、これに対応するかのように、
伝統的な漢人社会がかかえていた弱点が、政治の分野にもあらわれてきた 関隴集団、山東貴族、科挙官僚、宦官
いくつもの勢力が入り乱れていた 蕭銑の梁ってヒ水直前の東晋より領土持ってないでしょ
さすがにヒ水直前の東晋の領土はないと守り切れないよ 隋の煬帝が大運河を建設して、大陸の南北が連結していたからな
豊かな南の地を手に入れることは、北朝にとってマストになってきていたから、南北朝時代がまた何百年ってことはあり得ない 宋の真宗は、交渉の使者曹利用が、歳幣の額を報告すると、その10倍は
支払う覚悟だったのにと大喜びした話が伝わっている
宋にとって、契丹との臨戦体制で、莫大な軍費を注ぎ込むよりは、
これくらいで平和が買えれば安いものだった
他方、低開発国の契丹にとっても、歳幣がもたらす利益は大きなものだった 経済力の南北格差は、すでにそこまで大きくなっていた >>123
それくらいの歳幣ですら、契丹人は贅沢になって堕落し、国民性が変わるほどだった 曹操から始まる北方遊牧民への兵力アウトソーシングがその後の中国史を大きく変えた 唐ではサーサーン朝滅亡後、行き場のなくなったペルシア人傭兵を雇っていたとか 金に歳幣を送っていても北宋時代より軍事費が減って経済的に北宋より豊かになった >>128
南宋では、孝宗在位の27年間において、長江下流域の沃野が開発され、
農業技術も進歩して、「江蘇熟すれば天下足る」の諺が生まれたとか
米や茶などの生産は増え、景徳鎮などの陶磁器業をはじめ、絹織物業、
製紙業、印刷業が各地におこり、国内商業が発達したほか、
広州や泉州を拠点とする対外貿易も盛んだった 唐では、長安で食糧危機が起きることもあった
すでに、江南からの物流が文字通りの死活問題だった >>131
そんな時は物資の集積地の洛陽に皇帝が移動。
武則天も洛陽が好き 五代十国は中国史には珍しく、武人支配の時代だったな >>133
文官優位の記述形式を尊ぶ正史が編纂されていないからそうみえるだけ。
中国歴代王朝はどれも武人支配だよ。公文書の見せかけの文官優位に騙されてはダメ。
東洋史家・岡田英弘の本を読め。 >>132
洛陽も物資の集積地とは言えない (長安よりはずっと近いけど)
唐の滅亡後、復古主義者の李存キョクが洛陽に遷都しようとして、「時代錯誤」と反発された >>133
清朝は、科挙官僚の上に満州の武人階級がいた 唐朝も、家格はともかく実権としては武人階級の関隴集団が最強で、その次が門閥貴族、科挙官僚はその下の事務職ではなかったか >>136
八旗だろ。漢族でも八旗漢人は満州族に準じる扱い。 >>126
南匈奴へ軍事力のアウトソーシングしてたの漢代からの話では
光武中興の原動力の一端を担ったのも烏恒鉄騎だったし
何故曹操から始まる、なんてことになるのか 古代ローマ帝国のトラヤヌス帝だってそうだろ
農耕民族の国が騎馬民族と戦うためには、騎馬民族の傭兵が不可欠
いないわけがない 関隴貴族集団(武川鎮軍閥)は、魏晋以来の長い家系と伝統をほこる旧来からの
門閥貴族、とりわけ山東郡姓などからは二流、三流の貴族とみなされていたとか >>141
そりゃそうでしょ
門閥貴族は、日本でいえば源平藤橘
関隴集団は北九州から帰って来た防人たちに相当する(それ以前に、日本人じゃないっていう・・・) 皇帝の李氏ですら、門閥貴族より家格が下と見なされる風潮があったため、李世民が激怒・・・なんて場面もあった このスレには貞観政要を通読した人、どれくらいいるの?
今年の1月に講談社から新しい訳本出たけど、どんな感じなの >>135
洛陽は歴史がある分、唐皇帝の居場所に選ばれる。
隋の大運河開通のおかげで開封の方が物資集積地として発展する。
朱全忠の後梁以後、後晋、後漢、後周、北宋が開封を首都に選ぶ。
五代の中の後唐は洛陽が首都。 後唐が2百年くらい続いても面白かったかもな?
前唐・後唐だな 洛陽が首都なら、西唐・東唐でもいい
「長安から洛陽に遷都」というパターンが、東周・東漢に続いて3回目 しかし、李存キョクの洛陽遷都は極めて不評だった
もう、そんな時代じゃなかった 唐の中期から始まった節度使の専横は、年とともに激しくなった
藩鎮の勢力圏内にある州県には朝廷の威令がおよばず、軍政、民政、財政の
すべてが、暗黙のうちに藩鎮にゆだねられた
かくして朝廷の直轄する刺史州と藩鎮の支配する節度州とにはっきり
色分けされてしまった でももともと開封のほうが
洛陽や長安よりも中華文明の古い都市なんじゃないの? >>150
開封は春秋時代の鄭からだから西周の首都だった長安の方がちょっと古い。
洛陽は東周の首都だから開封と同じくらいか。 >>149
令外の官に実権が移るのね。
律令は形骸化しちゃったん? こいつらの出世のきっかけになった武川鎮軍閥と節度使なんて何らかわりないのになぜ制度を作ったのか
自分らが漢族の名家出身とでも子孫はマジで思ってたのか? 唐朝とともに繁栄をほこった長安・洛陽も、その後は急速に衰退した
唐を滅ぼした後梁の朱全忠は、当時の大運河と黄河との接点となる
汴京(開封)に都をおいた
黄河と江淮との水運がそれだけ重要になっていた
以後、中国では沿海地帯の経済的な比重が増し、内陸諸都市の重要性は薄れていった
北宋では洛陽は東京開封に対する西京としてなお余光を保つが、長安に唐代の栄光を
とりもどす日はついに訪れなかった >>154
唐代にはとっくに中原は貧しい地域に転落してた
昔からの惰性で無理矢理長安に都を置いただけ >>154
安史の乱の前までは世界最大の都市だったんじゃないの?
西域との通商路の起点で国際都市だったはず。
明の洪武帝が西安を首都にしようかと考えて、
皇太子を視察に行かせた。
その皇太子が早世しちゃって、西安遷都計画が白紙に。
永楽帝が北京へ遷都させちゃった。
その北京も近年は水不足と大気汚染と砂漠化の接近がある。
かつてブッシュ大統領が福田首相に
「中国は西安遷都を考えているようだ」
と伝えたことがある。
水資源と内陸開発を考えるなら
衰退どころか発展可能性の高い都市なのかもしれない。 北京も内陸都市やけど
海からの距離は京都の3倍やで >>156
唐の後半には海洋貿易が盛んになり、長安から西域に向かう陸路のシルクロードは衰退した モンゴル帝国は、天津と北京を大運河で連結し、海から直接、北京に入れるようにした
北京は世界の商業センターになった 華南からだと、運河で北京に運ぶよりも、海路で日本に運ぶ方が安上りな場合があるらしい。
競争原理とか運河使用料とか。 >>158
陸路より海路のほうが大量の物資を運べるからな >>158
実は陸路交易は衰退していない。
もちろん戦乱中は途絶したり、
ルート変更はあるだろうが
隊商交易の全体量はずっと増加し
後の宋、元、明、清にかけて量的にはずっと拡大している。
だからこそモンゴルなどの遊牧民族が勃興できた。
海洋貿易が目立つだけで、
陸上交易の重要性は清末まで大きかった。 >>163
漢から唐までは、長安から河西回廊に入り、ラクダで砂漠をはるばる越えて西域に入るルートが主流だった
遼・金・元の時代には、北京からモンゴル高原に入り、高原を騎馬で駆けるハイウェイルートが主流となった
長安から北京へと都が移動した理由の1つに、この物流革命があった >>159
つまり重慶も武漢もシカゴもデトロイトも内陸都市ではないていうことか >>165
内陸都市かどうかは、海港があるかどうかで決まるのではないか
ハンブルクを初めとして、河川に面しているのに巨大な海港のある都市なら、内陸とは言えない >>164
北京にもラクダ隊商がやってきてる。
清末の北京城でのラクダ隊商の写真がいくつか載ってた。
https://kknews.cc/history/neboay3.html 荷物運ぶのならウマじゃなくてウシとかロバとかラクダでしょ。
高原を騎馬で駆けるのは伝令だけだよ。交易とは関係ない。 モンゴル帝国期の北京は、海上交通でも陸上交通でも最大の拠点だった
鎖国志向の強い明朝のおかげで、北京の海港は廃れてしまったが、陸上交通での重要性は変わらなかった
しかし、そんな物流の拠点という意味合いが、現代の北京ではまったく失われてしまっている 当たり前のことだけどウマは戦場では全力疾走しないよ。道路じゃない場所を全力疾走したら転ぶか捻挫するだけだからね。 玄奘三蔵が訪れたオアシス都市の楼蘭は
既に廃墟になっていたかもね。
王維の
「西出陽関無故人」
(西のかた 陽関を出づれば故人無からん)
からすると西域への旅に向かう友との別れは辛い。 >>169
大草原なら問題ない。
人間様のトイレだって大草原。 >>168
北京に行ったときロバ車で野菜を売ってる屋台を見た。
杭州の宋朝のテーマパークでは、
ラクダに10元で乗せてもらった。
ラクダって可愛いんだよ。
巨大な頭を撫でてもらいたいかのように擦りつけてきやがる。
図体がでかい甘えん坊。 長安の西市には胡商と総称されたペルシア商人やソグド商人が
たくさんいて、西市一帯には濃厚な西域的雰囲気が漂っていたらしい 安史の乱の安禄山はソグド系。
禄山はソグド語でロクシャン(明るい、光)。
アレクサンドロスの音訳という話はただの俗説。 >>168
楊貴妃はライチが大好物。
嶺南から長安まで早馬で運んできた。 長安なんか、もともと砂漠のオアシス都市みたいなもんだよなあ
秦漢の頃はまだしも、唐代ならすでに気候の乾燥が進んでただろ >>182
現代の西安は水が豊富だよ。
北は黄河支流の渭河と黄土高原があり、
南は2千〜3千m級の秦嶺山脈と森林地帯がある。
北京の方の砂漠化を心配すべき。 習近平は、河北省のどこかの田舎に新首都を建設しようとして不評 黄巣軍は蕃坊(外国人居留地)を襲撃し、ムスリムやゾロアスター教徒を
大量虐殺しているが、唐代でもやはり異民族は漢人から
良く思われていなかったんだろうか? 黄巣軍は漢族も大勢殺してるんですけど
漢族は漢族をよく思ってなかったんですか 安史の乱って登場人物ゴミクズしかおらんかったな
一人でもマシなのが居たら起こらなかった 8世紀以降の唐代文化は民族的・復古的な色合いを帯びてくるんだよな
古文復興運動の旗手とされる韓愈は強硬な廃仏論者だった 高句麗滅亡が、比較的凡庸な高宗の代になって実現したのが不思議だ
隋の煬帝も、唐の太宗も失敗しているのに >>196
結局は新羅にしてやられて、朝鮮半島が統一されちゃう。
おまけに「海東の盛国」(新唐書)たる渤海国も誕生する。
唐にとって利はないぞ。 高宗の時に武帝以来のチョン半島討伐に成功してしまった 白村江の戦で敗れた倭国は唐の占領下という異説がある。
曰く、
倭国にやってきた唐の使節団兵士2千名の規模が大きすぎる。
使節の郭務?は進駐軍司令官に違いない。
大宰府の水城は唐の指令で唐様式で建造された。
倭国の制度改革も唐の指導で天智朝が実行したものだ。
高句麗滅亡後に唐・新羅が対立すると、
天智天皇は唐への恭順派、天武天皇は新羅重視派としての対立となる。
等々。
面白い説ではある。 古代漢族に支配されるならまだ箔がつくが五胡の畜生どもの支配下とか笑えんな >>201
日本と中国のどちら側の史料でも裏付けがまったく無いので、その説は消えた 半島から撤退する以前の倭国にとっては、九州の比重が高かったはずだ
それが、畿内へと完全に中心が移ることになる 唐軍が北九州や瀬戸内海を無害通行できるはずがない。 元寇でもそうなんだが、よしんば北九州を武力制圧しても瀬戸内海を無害通航できないから、神風がなくても元軍の勝利は不可能。 受入国が無条件降伏していれば可能。
GHQに米国国旗を掲げて出迎えた日本国民なら
唯々諾々と無抵抗で従うのみ。 「筑紫都護府」が大宰府の別名ではなく、
唐の出先機関そのものだとすると面白いよなぁ。
小説的に。 博多を自分で焼き払うような鬼畜集団の鎌倉武士が素直に従うはずないだろ。 >>211
筑紫都護府×
「筑紫都督府」の間違いじゃった。日本書紀の記載は。 唐の出先機関なのであれば筑紫のような地方名を冠さず、日本都督府にすると思うよ。 >>214
唐は
百済に「熊津都督府」
新羅に「鶏林大都督府」
高句麗領に「安東都護府」
を設置してるぞ。
国名や旧国名を使ってない。
そもそも「日本」という国号を唐が承認したのは後だと思う。
702年の遣唐使を唐側は「大倭国」の使節としてるし。 白雉5年から朱鳥元年まで32年間、日本に元号がなかった時期とかぶるのは、日本が唐の属国として唐の年号を使っていたからかな。 沖縄は明治維新まで明や清の元号を使っていたので、沖縄は日本ではなく中国だと思う。
沖縄は文化的にも日本より中国に近い。
今はキリスト教徒の軍が日本に駐留しているから西暦を併用しているけど、
イスラム教徒の軍が日本に駐留するようになれば、日本は西暦を捨ててヒジュラ暦を使用するようになると思うね。 >>215
大倭国の「大」は敬称ではなく、倭国に従う別の国があったことを意味していると思う。 「大倭国」はそういう意味だな
複数の国を支配してないと「大」はつかない 唐の水軍が日本に攻めてくるのは無理だ
山東半島と朝鮮半島の間には、かなり海の幅が狭くなっているところがあり、古代の船でも容易に渡れる
朝鮮半島から日本に船で渡るのは、それよりずっと困難 チンギス・ハーンが建国したモンゴル・ウルスがイェケ・モンゴル・ウルスになったとみなせるのはいつごろからだろうか。
西夏を滅ぼしたあたり? >>220
攻めてはいないだろうが
47艘の船で唐使が来日。
2千人が同行。 『旧唐書』に曰く
日本國者、倭國之別種也。以其國在日邊、故以日本為名。
或曰、倭國自惡其名不雅、改為日本。
或云、日本舊小國、併倭國之地。
読み下すまでもなく意味は容易に理解できる。
三つの段落で各々異説を併記している。
第二段は兎も角として、
第一段や第三段には「倭」と「日本」の間に沈む闇が仄見えるようにも思われる。
南九州に発祥しつつも故地と訣別した集団(倭國之別種)が東方(日邊)に建国、やがて逆に故地を併合(併倭國之地)した
−−と読めば記紀の語る磐余彦から大足彦までの伝説と妙に符合する。
或いは男大迹の磐井攻滅戦まで視野に入るか。
…って、ここは隋唐を語るスレだったな。
御免。 >>220
倭国軍は海を渡って白村江まで攻めてるんだが。
もっと大型の唐船が渡海できないわけないよ。 遠山美都男の白村江の本によれば
唐の圧倒的軍事力の前に弱小倭国軍が奮戦やむなく破れたわけでない。
倭国軍の方が動員兵力ではるかに勝り、
唐軍船より小型の船でも数が多く
運用次第で有利。
倭国は勝つ気満々だった。
蓋を開けてみれば唐軍の術策にまんまと引っかかり、
これはまずいと引き返そうにも
後方からどんどん血気にはやる味方の船団が押し寄せるので
引き返せず順番に沈められた。 >>223
> 読み下すまでもなく意味は容易に理解できる。
そうだな
「倭国はみずから改名して日本国となった」
そういう主旨だとすぐ分かる >>222
講和使節だ
1人で行ったんじゃ殺されるのがオチだろ >>196
ちょうど高句麗内部で内紛が発生したんだよ。
これを好機と見た唐軍が高句麗を攻撃して成功。
668年に高句麗滅亡。
やれやれと一息ついたが
670年に唐の西側で吐蕃が攻めてきて
唐軍が大敗し大打撃を被る。
これを見た新羅が唐に反逆して
唐は朝鮮半島から撤退。
息付く暇が唐にはないのであった。 残念でもないし当然蛮族王朝にふさわしい落ち着きのなさ 漢人にとって領土としての旨味がないことがモンゴル・満州・朝鮮半島の強み >>230
新羅の王となった金春秋は自ら
唐や日本、高句麗に行ってる。
それぞれの国の実情を直接つぶさに観察した。
古代日本の皇族に真似できないフットワークで
情報量が違う。 >>226
同格の三つの説を紹介しているうちの一つであることは間違いないが、
一つであるに過ぎない。
それのみを採るのであれば他の二説を否定する論拠を示さねばならない。
なお、
現実に列島の最大政治勢力が「日本」を名乗るのが天武朝以後であることに留意されたい。 >>233
日本と倭が、もともと日本列島の中にある別の国だったという説もあったわけだが、それと「唐が日本を占領」うんぬんは全く結びつかないだろ(笑) >>234
ん?
結び付けるも付けないも、
俺は唐が日本占領云々の荒唐無稽な与太話には全く立ち入ってないぞ。
ただ少し上のレス群が無批判に「倭=日本」を前提としているのが気になったから注意を喚起しただけだ。 倭が九州で、日本が畿内の国
いかにもありそうな話じゃないか 別の国同士の戦いじゃなくて地方豪族による下剋上じゃないかな >>237
現代の尺度で見たら、正にそうだろう。
しかし当時の列島における「クニ」の概念からすればやっぱり国家間戦争だったり階級革命だったりする。
年代定かならぬ神武建国伝説がわざわざ辛酉の歳に設定されたのは何故なのか。
皇國史観ドグマからも津田史観ドグマからも自由にならなければその意味は見えてこない。 >>229
各地で同時多発的に生じる難題に対処せねばならぬ巨大帝国の苦労をヤマト人は知るまい。 均田制、班田収授法って
社会主義、共産主義だよね。 西域で見つかった行政文書から見るに
土地公有制度はこんな僻地に至るまで実施されてたので全国津々浦々まで実施されてたという考え方と
僻地だからこそ実施できたに過ぎないという見方が可能。
自分は前者を支持。
素晴らしき共産国家だったんだよ。 ダール・ル・イスラーミアとモンゴル・ウルスを同時に相手しなければならなかったチョンファーの立場を理解しろ ダール・ル・イスラーミアとモンゴル・ウルスを同時に満たす勢力が西でアリ・オスマニアとなったのである 社会主義国の崩壊が同時期に起きたのと同様に、
律令制国家の崩壊も同時期だったりする。
902年南詔滅亡
907年唐滅亡
926年渤海滅亡
935年新羅滅亡
もしかすると日本も危なかったかもしれぬ。
939年平将門新皇を称す
939年藤原純友、太宰府を攻撃 史上最大級の連鎖破綻
その後の数十年間、中国では五代十国時代、朝鮮では後三国時代と、それぞれ史上最大級の乱世が到来、モンゴルや満州ではしばらく記録が乏しい暗黒時代となる
「白頭山の大噴火」と結び付けたくもなるわなあ 前から疑問に思ってることだが、日本の歴史教育では「白紙に戻す遣唐使」とかいって、
「飛鳥・奈良時代の日本は、唐から大陸の文明を取り入れました。もう学ぶことがなくなったので、菅原道真は遣唐使を廃止しました。それからの日本は国風文化に移行しまして」
というストーリーを小学校から繰り返し、刷り込まれる
でも、菅原道真が遣唐使を廃止した894年は、すでに黄巣の乱で唐朝は崩壊して大乱世に突入。各地で外国人の大虐殺が頻発していた
単に、「危険だから行くのを止めた」としか思えないのだが・・・ もっとも、それよりだいぶ前、9世紀に入った頃から遣唐使は滅多に送られなくなり、造船・航海技術が低下していた
安史の乱以後の後期の唐は、群雄割拠の乱世になって統制が取れず、留学生の受け入れどころでない
加えて、朝鮮半島でも新羅王朝の支配が弛み、新羅人の海賊が暴れる危険な海になっていた 日本ではその後12世紀初頭ごろまで安定期
その後保元平治の乱で突如中央政治が乱れて
治承寿永の乱に至るも鎌倉幕府が出来てからまた安定期に その後、なぜか東アジアに武人階級の時代が到来する
1170年 李義方・鄭仲夫のクーデター、高麗で初の武人政権が始まる
1179年 平清盛のクーデター、日本で初の武士政権が始まる
1206年 チンギス・カンがモンゴル高原統一 >>248
遣唐使は廃止したけど、
平安貴族の舶来品嗜好は変わらないのにね。
唐語を学ぶ貴族もいたし。 欧州や日本が経験した封建制を経験できなかった地域は、おおむねモンゴル帝国による併合を経験している >>246
「危なかった」って辺りで貴公が西日本の人、または西日本的感性の人だと解る。
我々関東者にとって将門公は英雄だから、むしろ「独立できてたらなあ…」と思う。
因みに、
杉山正明氏は貴公が挙げた大陸や半島の諸動乱と列島における将門公の壮挙との時系列的近接は偶然ではないとして、両者の間に「論理の関連性」を認めている。 >>254
四国と九州も純友によって独立できてたかもしれないな
しかも純友は呉とか呉越とか後百済と結びついてたとしてもおかしくないな >>253
モンゴル帝国の大元ウルスと各ウルスの関係はものすごく粗放なかたちでの封建と云えるんじゃないか? 乱が起きるときは大抵食料不足
シリアなんかも飢饉起きてから内戦勃発 唐の永泰公主の墓の壁画と、遼(キタイ)の慶陵の墓室の壁画を比べると、
やはり永泰公主のものは慶陵などおよびもつかないすばらしさなのだとか
また遼三彩も、唐三彩にくらべれば、まったくひなびて、粗野なしろもの >>256
支配者は外来のモンゴル人であって土着勢力じゃないので、領主や領民に権利意識が芽生える機会がなかった
封建制を経験しなかったことが大陸国家で資本主義が育たない遠因になっている
自由主義陣営のふりをしている韓国もそろそろやばい
李氏朝鮮を建てた李成桂からしてモンゴル帝国の女真系軍閥だったから朝鮮半島は資本家などの権利を守る発想がないまま近代を迎えた社会はもろい 想像してごらん、ジャック・マーのような実業家が突然行方不明になる社会を >>259
> 支配者は外来のモンゴル人であって土着勢力じゃない
封建をそこまで狭義に限定するんなら日本なんざ真っ先に「封建制度を経験しなかった国」として挙げられるな。
鎌倉時代の地頭、室町時代の守護、織豊大名、江戸時代の藩主、ほとんどが外来者として領地支配をしてたんだから。
日本をそう位置付けると、なるほど貴論の如く本邦では剥き出しの資本主義は長らく忌避されてきたことに思い当たる。
その時期にまずまず良く治まっていたこの国を共産主義の総本山たるソ連邦が「最も成功した社会主義国家」と評価したのも頷ける。
そして何をカンチガイしたのか今更剥き出しの資本主義に走り始めた途端に国がボロボロになったのも貴論の通りなんだろう。
日本が資本主義なんぞに馴染み難い国であってくれて本当に良かったと、心から思う。 >>261
江戸時代は天領の経済発展が目覚ましかった。
領民に権利意識があったからこそ可能なことであり、これは鎌倉幕府や後北条氏のころから続く伝統。
財産権を尊重する鎌倉武士の「一所懸命」の考え方は、大陸国家とはおよそなじまない。
鎌倉幕府はマグナカルタのイギリスに近い。 墾田永年私財法が出てきたあたりから日本は完全に中国と別の道を歩むようになった
これがなければのちの武士の台頭もない 均田制が崩壊して、貴族の荘園が全国に広がったっていうのは、平安時代の日本に限らず後期の唐や新羅にも共通して見られる傾向だけどな
でも、なぜか日本史ではそれを強調するけど、中国史ではそれほど語られない 白丁は朝鮮半島固有のものじゃなくて古代日本にもあった。
律令制で平民のこと。口分田を班給されて租を納め、庸・調・雑徭などの課役を負担する農民。
イスラーム圏でマムルークがモスクに寄進して節税したのは、日本の荘園制度や武士台頭に似ているちゃあ似ている >>262
領民意識と経済発展の相関はお前のただの妄想
なにひとつ根拠がない >>266
資本家と労働者、両方の権利を守ることができなければ資本主義は持続できない
大陸国家で資本主義が失敗するのは領民を家畜のように扱う遊牧民王朝の価値観が残ったままだからで
中国やロシアの資本主義がいびつなのはこれが原因だよ >>267
別に原理的資本主義が絶対正義でもあるまいに、
歪なら歪で構わないし持続できないんならしなきゃいい。
実は資本主義にとって「最も危険な敵」−−その危険度は共産主義ごときの及ぶ所ではない−−を含む生活文化の下に在る我々日本人が他国をあげつらっても始まらない。 >>267
領民を家畜のように扱ってたのはヨーロッパも同じことだが?
そしてそれが変化したのはペスト禍による労働人口の急激な減少によるものであって領民意識(笑)とやらが原因ではない
定義が極めて曖昧な人間の意識なんかを持ち出すまでもなくすでに合理的に分析されている話
お前の言ってることは科学ではなく妄想 トランプが、まだ大統領としてホワイトハウスで執務していた頃、彼のデスクの左側の壁に、アンドリュー・ジャクソン(Andrew Jackson)大統領の肖像画が掛けられていた。
この人の事績を追っていくと、どうも彼はアメリカ先住民(インディアン)を人間だと思っていなかったような印象を受ける。
軍隊を使って単純に殺す、追い出すなどの行為をやっており、反乱が起きれば「しめた」とばかりに集団虐殺に走っている。
元々、インディアンはミシシッピ河から東の森林地帯や低湿地帯で農耕に従事する部族が大半を占めていた。
今、ジョージア・アラバマ・ヴァージニア・南北カロライナ・フロリダと言われるアメリカ南部地方だ。
ジャクソン大統領の時代に、彼らは移住を強制され、オクラホマのような不毛の大地に設けられた「特別居住区」に移動した。
大陸の冬は寒く、移動の過程で年寄、子供、病人がバタバタと倒れて死んだ。trail of tears(涙の街道)という言葉が残っている。
約束された食料の供給などは業者の横流しなどで果たされないことが多く、体の弱い者は、移住の過程でほぼ死滅した。
我々が西部劇で見るインディアンは、半砂漠地帯で馬に乗ってバッファローを追いかけている「狩猟民族」の印象が強いが、これは強制移住後のインディアンの姿だ。
インディアンを追い出した後の土地に、アメリカ人は黒人奴隷を入れ、開墾を進めて広大な綿花栽培の土地を生んだ。
背景に、英国で産業革命があり、紡績業が工業化したという事実がある。
産業革命が大きな綿花需要を生み、アメリカ南部に奴隷労働を主とする綿花地帯を生んだわけである。
当時、南部の沿岸の市場では、お父さんが幾ら、お母さんが幾ら、子供が幾らというふうに、
人身がセリにかけられて売られていた。奴隷を買い取って持ち主となったもの(主人)は、
奴隷に衣食住の提供の義務を負った反面、賃金を払わずにあらゆる労働をさせることができる、
とされた。奴隷は農地とともに相続の対象であり、くじ引きの景品になり、人権はないに等しく、気に入らない奴隷がいれば、最寄りのconstable(警察署)で鞭打ち何回というふう
に「お仕置き」をして貰うことができた。
まあ、こういう過程を経て、人類は進歩をしてきた、ということだ。昔に戻っていい、ということにはならないだろう。 >>251
節度使の地方政権化が武人政権じゃないか?
節度使あがりの各王朝だって武人の性格を帯びてるよ。 >>271
それもそうだな
唐末五代は武人政権の時代といえる 唐末の状況が、3世紀遅れて日本と高麗にも現れたというところか たまたま北宋の太祖が自身が武人なのに文官重視に切り替えてしまった。
日欧との違いは俗権とは別の神聖な権威がなかったことかな。 徳川家康が各地の大名の力を削ごうとしたのと同じで、調教員は武人政権こそ乱世の元凶と見て武人を調教することを決意した
ここから北宋は文官優位になる
高麗も武臣政権は百年で終わり、文官優位の貴族社会に逆戻りした
日本だけが別の道を歩み始めた >>263
やがて班田収授も完全に止めちゃって、
律令制崩壊をソフトに対応できた。
官位を餌に地方豪族を活用することで、土地も兵力も民営化。
将門や純友へも地方武士団の働きで鎮圧。
これでしばらく安定できた。 共産主義が有効なのは最初だけ。
しばらくは発展して税収と兵力を確保できるが
すぐに行き詰まる。 府兵制で疑問なんだが
徴兵されてる間の飯は自弁という話し。
1、2日ぐらいなら自弁で済むだろうが、
それ以上は無理だろう?
武器すら自弁とか書いてあって、
飯はもちろん武具や軍装だって政府側が支給して統一しないと
軍の体裁を成さないじゃんか? 資本主義はいずれ一握りの金持ち貧乏人なバラけて破綻するらしい >>277
>共産主義が有効なのは最初だけ。
>しばらくは発展して税収と兵力を確保できるが
>すぐに行き詰まる。
イスラムやモンゴルの台頭期と同じなんだよなぁ。
ユダヤ人やペルシャ人や漢人の富裕層から収奪した富で勢力拡大するも、
領民に分配するための富を収奪し続けることができずに息詰まる >>281
収奪するものなんかなかっただろ。寧ろ、インフラ投資で日本側の出超だ。 >>278
> 1、2日ぐらいなら自弁で済むだろうが、それ以上は無理だろう?
年に1、2ヶ月だな
その代わり、税金を納めなくていい 征服者が科学文明の担い手でなくただの収奪者だった場合は悲惨
その民族のトラウマになる イスラムは正統カリフ4人のうち3人が暗殺されるとかキルレシオ高杉 >>286
「自弁は一部にすぎず、じつは大半が支給されていた」という研究もある 府兵制下の「軍事財政」
↑この論文にそう書いてあった >>287
だよねぇ。
先ずは飯をたらふく食わせてくれないと戦なんかやってられないよなぁ。 「このままじゃ腹減って死にそうだから、軍隊に入ろう」というくらいのノリが古来から普通だろう >>282
植民地支配の場合資本家が市場で搾取するのが目的だから国側の投資だけみて赤字とか言っても意味ないぞ 日本の防人に関する記述で、任期3年で武器・食料は自弁。
任務が終わって家に戻る途中で野垂れ死にする者が多かったとか書いてあったりする。
いくら何でも無茶苦茶だろう。 「これは問題だ、異様だ」と思ったから記録に残される
当たり前なことはわざわざ記録に残さない
それが中国史の恐ろしさ その記録が全部に当てはまると考えてはいけないんだろ?
勝つ戦の基本は兵站にある。
各人が任務中の食料を全部持参なんて考えられないわ。 室町時代後期に日本を訪れた宣教師ルイス・フロイスの「日本史」が重視される理由は、
当時の日本人が当たり前のこととしてわざわざ記録に残さなかった事柄を記述している点にある 関東から北九州に行く日本の防人と、関中から西域に行く唐朝の防人は、どっちも移動距離が千キロくらいで似ていた
途中で野垂れ死んでも、なんら不思議はない移動距離 西域っていうか、いまで言う青海省あたりが唐朝の防人の主戦場。長安から西に千キロくらいの距離
君見ずや 青海の頭(ほとり)
古来 白骨 人の収むる無きを
新鬼は煩冤し 旧鬼は哭す
と杜甫の詩にも吟われた そんな3年がかりの遠征する防人もいたが、それが府兵制のすべてではない
首都防衛の任務にあたる衛士というのもいて、こちらは年に1、2ヶ月。租庸調で納税するより負担が軽かったかもしれない >>298
1ヶ月分の食料持参でも無理だと思う。
穀物何kgかね? 租庸調の租だけなら重税感を感じないな。
やっぱり労役、兵役の負担が大きいんでは? 君聞かずや 漢家山東の二百州
千村万落 荊杞を生ずるを
縦(たと)い健婦の鋤犁を把る有るも
禾(か)は隴畝に生じて東西無し
況(いわん)や 秦兵 復た苦戦に耐うるをや
という杜甫の有名な詩の一節からすると、関中の兵は「秦兵」と呼ばれ、屈強だという評判だったから徴兵されまくり。
おかげで長安周辺の一体の農村は荒れ果ててしまったということだ
日本でも、防人はもっぱら関東から徴兵され、北九州の任地に赴任しないといけなかった。東国の兵はやはり強さが段違いだったらしい 納税者の便宜を計らない制度は長続きしない。
なるべく薄い税負担を広い範囲で公平に徴収することを目指して
制度を設計して欲しい。
さすがに唐も制度に欠陥があると感じて、
両税法を考えついたんだろう。 税制の名前は別にして、基本的にはほぼ同じ税制が8世紀の後半から16
世紀の前半まで続いた >>304
それは凄い。
考案者の楊炎は天才だな。
でも楊炎は処刑されてる。報われない。。 国家による塩鉄酒の専売提唱実行した桑弘羊も処刑されてるな 消費税の引き上げに成功した民主党の野田佳彦が政治生命を失ったようなものか >>259
>李氏朝鮮を建てた李成桂からしてモンゴル帝国の女真系軍閥だったから朝鮮半島
先ずこれ自体が継体天皇、半島から渡来した騎馬民族説並みに胡散臭い話なんだけどな
そもそも李成桂が率いていたのは東北面兵馬使の職権によって率いていた高麗軍の戍兵だし
モンゴル帝国の女真系軍閥なる存在も元史にも高麗史にも現れない丸っきり空想上の存在
李成桂はたびたび女真の地に攻め入っては屈服させた李之蘭などの女真族の酋長と私的な主従関係を
築いていたことから想像を膨らませたのだろうが実際は「軍閥」と言えるほどの規模ではない 李成桂が朝鮮半島外部からやってきた征服者であることに変わりはないよ 唐はやたらと女性たちが権力闘争で活躍する。
武則天を筆頭に
中宗を毒殺した韋皇后と娘の安楽公主。
武則天の娘の太平公主は李隆基と協力して韋皇后を倒したり、李隆基と敵対したり。
武則天や中宗の女性秘書の上官婉児は並み居る官僚や学者を上回る才能を見せた。 唐の時代に日本に伝わったもの
・唐揚げ
・トウキビ
・からし
・カラスミ 女系社会と女権社会をはき違えてる奴いるよな
男系だが女権社会、女系だが男尊女卑社会とか普通にある
サモア人何かは後者でタイ、ベトナムは前者 >>313
大半が嘘だ。
舶来のものに一般名称化した唐を当てただけだよ。
南蛮由来だったり安土桃山時代以降に伝来だったり。
からすみは明代に伝来というし。 >>312
女が活躍するなんて儒学者からは許されない暴挙。
高宗から睿宗に至るまで男たちがダラしないので中国史上稀有な現象が生じた。
儒学者たちはこれを武韋の禍と称す。
実際は唐は発展しており、玄宗の最盛期への地ならしであった。 呂后も統治能力は高かったが後継者が無能過ぎて評価ボロクソ 馬に乗った女性像が残るのは遊牧民風習が残るからかな?
女性が馬に乗ってポロに興じたり、
グラマー女性が露出度高めの服着て、胸を強調してたり、
上官婉児は男装して執務してるし。
フェミニストが喜びそうな時代。
それが纏足させて女性抑圧する時代に変わってしまう。 徳のある政治とは聞こえはいいが、最高指導者の気分で動く危うい政治 胡旋舞は薄い布を着けて高速に回転するソグド人のダンス。
デブにはとてもできないが
楊貴妃はやってた。 >>318
逆でしょ
文帝、景帝が名君と言われているのは暴君と言われる呂后の善政のおかげだとかいうやつ
真偽はいかほどのものか
文帝がそれまで微罪でも行われていた肉刑を廃止したり、田租や労役、兵役を大幅に削減したところを見ると
呂后の治世がどのようなものだったのか大体想像がつくけどね 女性権力者ほど血生臭い説。
結果的に武則天は門閥貴族を排除し
狄仁傑や姚崇、宋m、張説のような優秀な科挙官僚を抜擢。 >>326
呂后や武則天が権力掌握した時点では閉経して血は出ないんじゃない? シドニー・パウエル弁護士みたいな人が出てきた誰も止められない >>321
後世でも農民はしてないかもしれん
太平天国の指導者は都市にくるまで知らなかったらしい そりゃ、ギリギリで生活してる連中に、わざわざ労働力を減らしてる余裕なんかないだろ >>329
女性が田舎でスカーフつけないのに都会でスカーフつけるイスラーム社会に似ている
都会は開放的なはずなのに都会は規律に厳しい知識人が多いから、田舎よりも抑圧的ってパターン テン足の場合は外見以前に、マトモに歩けなくなるので農民には致命的
労働力が減ることになる >>332
纏足は最初は上流階級だけだった。
次第に農村部でも行われるようになる。
重労働をしない証で富裕な家の象徴となる。
娘に纏足させれば富裕な家に嫁がせられるかもしれない。
そこで無理してでも纏足させる貧乏階級の家が続出。
何度か清朝が禁止令を出したが止められなかった。 >>321
満洲人、漢人八旗は纏足をしない。
唐の貴族に馬に乗れる女性がいたのと同様に、
八旗でも馬にまたがる女性がいた。
チャイナドレスの元は騎馬兵戦闘服。
客家も纏足しないな。 >>339
やはり、遊牧民の国だった隋唐帝国が滅び、中国人らしさが増大してきたからだろう
わざわざ歩きにくく、馬に乗りにくくするなど牧畜民族の発想ではない 明朝の時代が、最も中国伝統文化が爛熟して社会が腐敗していた時代といえる
それに比べたら唐朝は、質実剛健な時代だった 鮮魚市場のようなもんだ
こまめに新しいのに入れ替えできたかどうかの違いでしかない 随唐も意外と人気あるんだなあ
おれは、ギリシャ、ローマ、ルネサンス、
メッテルニヒ、だな >>344
奇妙な並べ方だな
日本でいえば「奈良、京都、元禄時代、陸奥宗光」って感じ? ギリシャ、ローマの歴史観しか知らない人はたいてい間違える
アメリカ人なんてその典型で、アメリカは外交を失敗し続けている
テュルク・モンゴル系の歴史を知ることこそが重要なんだよ
遊牧民からみた世界観を学べ
以下がおススメ
オスマンvs.ヨーロッパ 〈トルコの脅威〉とは何だったのか | 新井政美 アンチ西欧のためのテュルクモンゴルの過大評価には意味がない
テュルクモンゴルは安易にイスラームに教化されちまったわけでな だれも西欧を誉めてないだろ
狭い西欧でしか通じないローカルルールを外界に持ち込んでも失敗するだけって話をしてる >>348
シベリアにはイスラム教徒でないトルコ人おるで 武川鎮は陰山の北斜面に位置して長城を遊牧民の侵入から守る前進基地だった
寒い北風にさらされ、牛馬を伴侶として、いつ起こるかしれない北方騎兵の
襲撃に備えるのは並大抵の苦労ではなかった
このような過酷な環境で暮らしていたからこそ、北斉、北周、隋、唐といった
王朝を生みだすことができたんだろうな >>348
イスラムが良くねえってのも西欧的価値観でしかねえな。
いくら耶蘇に媚びたってお前さんの肌は白かぁなんねえよ。
除夜の鐘を聞きに行った足で鳥居を潜って初詣、の日本人なら
イエス山とムハンマド錦の大一番、天井桟敷から八卦よいやヨイヤと高見の見物。 西欧が良くねえってのも日本的価値観でしかねえな。
いくら突厥蒙古に媚びたってお前さんの自尊心は満たされやぁしねえよ。
天孫降臨おおきみの末裔として島国で極楽往生、八百万の神さまに感謝の毎日。 アホか、だれもテュルク・モンゴルをほめてないだろ
良きにつけ悪しきにつけテュルク・モンゴルの影響の大きさに着目しろっていってるだけだぞ 隋末、華北の割拠勢力の多くは突厥から軍事援助を受けていたんだよな 突厥の可汗自身が中国の皇帝になろうとはしなかったわけか 華北が東西に分裂していた6世紀後半、突厥は東ユーラシア最強を誇る遊牧国家であり、
北斉も北周も突厥可汗の歓心を買うことに腐心していた
ところが、北周が北斉を併合し華北を統一していたころから形勢が変わり始め、
隋の文帝が放った離間策によって突厥は東西に分裂し、東突厥は隋に臣従する 唐の太宗は東突厥を倒して、可汗の上の天可汗となった 唐朝にとって最初の危機は、619年9月、代北の劉武周が王朝創業の地、太原を陥れ、
さらに南進を窺ったときだった
李淵が長安で新政権を樹立し自立した結果、突厥は劉武周を動かして揺さぶりを
かけてきた メーガン妃、大統領選挙出馬を準備? 民主党議員と人脈作り中(ELLEgirl) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/2f6b2664e6b8f691fae48cf728c6dc60d48ccde8
3/16(火) 20:58配信
以前から囁かれていたメーガン妃の大統領選出馬の噂。
昨年9月にも妃の友人が雑誌『ヴァニティフェア』に「メーガン妃がロイヤルファミリーに入っても
アメリカの市民権を持ち続けたかったのは政治界への進出という選択肢を残しておきたかったから」と証言。
また「英国王室の称号を捨てることになれば、妃は2024年の大統領選に出馬することを真剣に考えるだろう」とも。
また王子と妃の王室離脱に関する暴露本『自由を求めて』を執筆した
王室レポーター、オミッド・スコビーも「妃の目標はアメリカ大統領だ」とコメントしている。 トランプも「メーガンが出馬するなら、受けて立つ」とか 則天武后も人格障害だったのかな。お坊ちゃんは強気な女性に惹かれやすい。自分が持たないものを持っているから。
異母姉は「メーガン妃は人格障害」と批判、メーガン妃のヤバすぎるファミリーたち(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/9b7ff7e36b146ab7ce0dc8bc734c7fd331a14c07
3/23(火) 6:00配信
「メーガン妃には父と母、母親の異なる姉と兄がいます。特に姉サマンサさんは、妹であるメーガン妃を『浅はかな成り上がり者』とし、
『彼女は間違いなく、自己愛性パーソナリティ障害』、『彼女を王室に入れると後悔することになる』とまで発言。
兄トーマス・ジュニア氏はヘンリー王子に『メーガンは、あなたが思っているような女ではない』という手紙まで出したと報じられていました。
ロイヤルファミリーとなった妹に嫉妬して、そんなことを言い出したと思われていたのですが、今にして思えば当たっていると思うことが多いのです」 隋唐がもとは北方系だったなんて
てっきり中原の漢族だとおもってた 隋唐は、そもそも「中国」ではない
ユーラシアの諸国には「タクバツ」と呼ばれてた ただ唐の皇族も貴族層も華北の遊牧民の子孫の新漢人も同化されていったよね
これが宋代になると遊牧民も中々同化しないし漢人も排他的な民族意識を確立してしまって朱子学なんてものも産まれた(科挙に採用されるのは元代だけど)
からここで中国文明の性質が大きく変わったとは言えるんじゃなかろうか
だからウイグルとかモンゴル人とかチベット人とかを唐の時代のように漢人に同化させるなんて無理だと思うわ >>370
その辺りは、人によって大きく見方が変わるところだな
隋や唐も、別に漢人に同化されたわけではない
西洋史でいえば「フランク王国」に相当する国 つまり、「宋以降の遊牧民が漢人に同化されなかった」というのはその通りと思うけど、
「唐以前の遊牧民が漢人に同化された」というのには賛成できない >>371
でもフランク人と同じで、
鮮卑とかも同化したよ 西フランク人は、しだいにゲルマン系ではなく、
ロマンス系の言語を話すようになっていったな フランク人は遅れてきたからあれだけど
ガリア人とか初期にローマに接触したゲルマン諸族なんかは普通にローマ化してるんだよなあ
まあローマ化拒否した部族もあるんだけど、それは極東も同じよね
ちなみに東匈奴は5代以降は普通に漢化しきって、固有の民族集団としては消えてしまいます それは物事を見る角度の問題だわな
清朝も「満州人は漢人に同化されて消えた」と言われるが、
清代を経て中華料理は満漢全席になり、中国の民族衣裳は旗袍、北京語も大きく変質したわけで ローマ人もトーガではなく、ゲルマン風のズボンをはくようになった そうなんだよな
東洋と西洋で起きた、古代帝国の崩壊と中世初期の民族大移動。
東洋史では「鮮卑人は漢文を勉強して漢化されました」が強調される傾向があり、
西洋史では「ゲルマン人が新しい国を作り、彼らの習俗が浸透しました」が強調される傾向にある
でも、実際にはどちらも似たような現象。
ゲルマン人やフランク人だって、ラテン語を勉強してキリスト教を信仰し、ローマ化されている 隋唐だって、秦漢時代の中国人とは違う新しい「中国人」になっていた
移民の人口比率は低かったとはいえ、何百年も流入と支配が続いた
その間に、服装や生活習慣、言語などが大きく変質している 定期的に自分の暴論書き込んでるやつおるな
ゲルマン人は個々に王国を建ててそれらが別々に存続したが
隋唐はあくまで中華帝国の国制を踏襲した中華王朝
共通する部分はあっても全然一緒ではない フランク王国のカール大帝だって、西ローマ帝国を継承してるだろ 暴論ついでに言うと、漢化の本質って、漢字とそれに基づく記録・歴史の受け入れだと思うんだよな、それ以外は枝葉末節で
対するローマはローマ法の受容がそれなんだろう >>381
カールが受け継いだのは皇帝っていう称号だけ
元老院や民会といったローマ帝国の国制は受け継いでないだろ 唐朝だって、受け継いだ制度の大半は北魏や北周の鮮卑王朝だろ >>383
最も重要なのは、「ローマ・カトリック教会の守護者」という立場だ >>382
そうすると漢人って
古典の教養を備えた士大夫だけになるじゃん
漢文を読めず文章に出来ない口語を喋って
多様な生活文化の中で暮らした人たちは
ただの中原に流入した移民の子孫に過ぎない メーガン妃は則天武后になれるタマだよ
メーガン妃は邪魔者を躊躇なく殺せるサイコパス感が漂ってる
ヘンリー王子夫妻、発言撤回に証人も困惑「メーガン妃は明らかに混乱」
https://news.yahoo.co.jp/articles/6e58cc893ba35d7f9a8a1b12da99239df44437dc >>385
カトリックの守護者とかいう名分がでっち上げられたのはむしろこの時から >>384
隋唐が遊牧帝国の制度のなにを受け継いでるの >>388
いや、控えめに見ても300年前のクローヴィスの改宗からだろう 西ローマ帝国の崩壊で守護者を失い、アリウス派を信仰するゲルマン諸国に囲まれたカトリック教会は困っていた 漢朝では儒教が国教の位置にあったが、唐朝はどちらかといえば仏教と道教を信仰する王朝であり、漢朝の精神は受け継がれていない >>390
それ鮮卑が漢化したあとの制度な
鮮卑がゲルに住んでた時代の制度ではない >>391
ローマ司教が蛮族にすり寄っただけの話だな >>394
要するに、中原で定住することが「漢化」ということか? >>395
そんなの隋唐も同じだ
儒教勢力は鮮卑にすり寄っていった >>397
同じではないな
ゲルマン王国はローマ帝国的思想や制度を受け継いでないもん
隋唐は中華思想や法制、文明を受け継いでる >>396
定住しただけでなく、名前や文字も漢化
そればかりか儒教や中華思想、法制も漢化 >>398
ローマ末期の思想といえばキリスト教だし
国家制度は恩貸地制度だから受け継いでるぞ
ギリシャの古典についてはそもそもローマ人が捨てたからゲルマン人関係ない つまりローマ人がキリスト教を核とした新しいローマ文明を作った後に
ゲルマン人が侵入して彼らの文化と混ざり合って中世ヨーロッパ文明が誕生したってことやな 北魏→西魏→北周→隋→唐という鮮卑王朝の流れには連続性がある
漢と北魏の間には連続性がない 漢文と農耕文明を受け継いだ鮮卑族と末期ローマ帝国を受け継いだゲルマン人・・・
やはり両者の紀元4〜6世紀ごろの文明の受け継ぎ方は似ている・・・ような気がする >>404
似てない似てない
ゲルマン人はローマ文明を継承してない 背景には地球の寒冷化がある
東洋でも西洋でも、北方民族が盛んに南下するようになった >>405
ラテン語を学び、アルファベットを使用し、キリスト教を信仰し、ローマ法を導入し、名前もローマ風に変えたのにか? >>405
アタナシウス派キリスト教は
古代ローマにおいて誕生し
新しい主流派の思想に成長したのに?
ギリシャの古典を捨てるのもローマ人が始めたことなのに? >>401
ローマ帝国の根幹の元老院や民会をなにひとつ受け継いでないのに
恩貸地制(笑)とか一部で共通してるだけなのにゲルマン王国はローマの後継者とか
本気で言ってるとしたらマジで間抜けやぞ
ロシアがローマの後継者とか自称で言ってるの本気で信じる馬鹿おるか? >>409
でもキリスト教って
末期のローマ文明に誕生したものが
そのまま受け継がれていくじゃん
ラテン語も使われ続けたしな
文化の連続性があるよね >>403
だからこそ頑張って孝文帝が漢化したんだよ
支配層がそもそも漢文化にあこがれてしまうのが中華文明
ゲルマン人はローマ文明の残滓を利用しこそすれ憧れたりはしない >>410
そんなこと言い出したら日本やベトナムも中国との連続性ありますけど
というか論点は連続性の有無じゃないですけど >>412
日本は天孫の子孫が治める国だし
地理的にも中国と離れてるけど
何が連続してるの?
ローマ教会が同じ場所で存続し
各地にローマ貴族がいて社会制度もゲルマンのそれと融合して
ラテン語の文章を使い続けて言語もラテン系の言葉が使われ続けたんだから
文明としての連続性を認めるべきじゃないか?
美術品が写実性を失いだしたのも末期ローマの時代だしな アンチ西洋中心史観の人たちが
しばしば”西洋人はローマ文明の後継者じゃない!”って主張するのを読むのは
昔は斬新さがあって好きだったけど
よく考えるとキリスト教化があらゆる面で進むのはローマ時代からだし
不自然な点が多いなと感じるようになってきたんだ >>413
天孫の子孫(笑)
そもそも日本書紀からして中国の史書を模倣してつくったパチモンなんだけど
お前の名字も中国の氏姓にならってつくられたものだし
お前が書き込んでる文字も漢字の亜流だぞ
連続性ないと言い張るとかやっぱ頭おかしいな
ローマ貴族の子孫が現地で統治してても
一旦ローマの統治機構が崩壊したあとで土着化した有力者が世襲貴族になってる時点で
明らかに帝国としての連続性ないよね
そもそもキリスト教だって統治と外交の便宜のために貴族が改宗してるだけで
民衆までカトリック信仰が普及するのって相当後代になってからなわけだが そもそもローマをローマたらしめる地中海文明の要素がゲルマン中世王国には欠如してるだろ >>415
表意文字と表音文字に連続性を認めるの!?
そもそも中華文明に征服されたこともないから
文明の受け継ぎようもないというのに滅茶苦茶だぞ >>417
はあ?
仮名の成り立ちから教えないかんの?
お前小学生か? >>415
君主による専制政治に近い体制に
ディオクレティアヌス帝やコンスタンティヌス大帝によって移行が進められてたし
元老院なんて最早古代末期の新しいローマ文明において
重要な部分ではなくなっていただろ
ゲルマン人がまったく新しい文化を持ち込んでローマ文明が消えたんじゃなくて
ローマ人が自分で文化も社会制度も変えた後にゲルマン人が来て
融合していったというのが実態 ドングリ食ってた倭人に鉄器と文字と法制の概念をもたらしたのが中華文明なんだがw
貫頭衣か腰ミノ着ながら暮らしてから連続性ないって言えよ >>418
古代ローマの支配領域で
末期ローマの様々な文明的な側面がそのまま受け継がれたのと
日本語に表音文字が産まれたのと
全然違う話だぞ
頭沸騰して冷静な思考力が失われたのではないか? >>419
ローマ人が自分で変えたんじゃなくて維持できなくなった領土にゲルマン人を防衛用に呼び寄せて
部族自治王国を築かせたのが実態な
そこでローマ文明の残りカスみたいなのもゲルマン王国に利用されたから残ってるだけ
だいたいゲルマン人の王国って法律からしてゲルマン法に変わってるしほぼ別もんだよ >>420
はっきりいってお前の言ってることは
強引すぎて論理的合理性がまったくないと思うわ >>421
表音文字が生まれる前まで日本語って漢字で表記してたって知ってまちたか?ボク? >>423
お前にとって都合悪い知識を論理性がないとかいって見ないふりしたいのはわかった
まずお前の知識量がゴミ 日本文化への中国の影響は必死に否定するくせに
ローマ帝国からゲルマン王国への影響は必死にこじつけ
なにこれ >>422
つまりローマ文明の残りかすなるものが受け継がれたことは認めるのね
まあでもキリスト教とラテン語とラテン系言語って
中世ヨーロッパ文明において主要な要素となっていたし
残りかすというのはどう考えても低く評価しすぎだと思うけどね
どうしてもキリスト教が国教化される以前の共和政から元首制の頃の文明の形じゃないと
ローマ文明じゃないと考えるとおかしくなるのであって
ローマ人自身の手で変えた後にゲルマン人が来てキリスト教などの末期ローマの文明が継続したんだから
連続性を見るべきだと思うけどな
まあ隋唐のスレでローマの話しすぎたかもしれんなw 最近の世界史板は
左のネトウヨが多くて
ネトウヨと同様に極端な意見を感情的に言い立ててきて鬱陶しい・・・ >>427
お前が必死こいて否定する中国→日本の連続性よりは薄いけどな
日本は法律も宗教も言語もものすごい量が中華の影響受けてるから
首都の配置とか律令制とか全部パクリだし
それに比べてゲルマン人の王国の首都って移動宮廷だし法律はゲルマン部族法だし
それのなにがローマ的なんだよってレベル >>411
> だからこそ頑張って孝文帝が漢化したんだよ
そこが、歴史の教科書のおかしいところだ。
教科書には、「北方の異民族は中華の文明に憧れ、孝文帝が漢化しました」とだけ書いてあり、
そこから隋唐へと続いているような印象操作かなされている
実際には、孝文帝の死後ただちに漢化政策への反動が起こり、南下してきた北辺の武人たちによって北魏王朝は崩壊した。
その漢化政策を潰した武人たちというのが、北周・隋・唐を建国した武川鎮軍閥、またの名を関隴集団 まあ受け継いだかどうかの判断って
主観が入るから結論は出ないかもね
不毛だった >>429
極端な意見って日本は天孫の子孫とかいうオカルトだろwww >>431
反論されて根拠を失ってるのにおなじことを書き込むな馬鹿が 馬に乗って颯爽と駆け回る騎馬民族にとって、漢人の農民なんか土人だ。泥人形みたいな連中だ
頭から見下している。憧れてなんかいない >>435
じゃあなんで馬から降りてゲルをたたみ、
でかい宮殿に住んで天子になりたがるのか
そのほうが豊かで楽しいからだよ
それが憧れるということ >>430
日本は律令止めて慣習法に変わったし
何故か武家政治とかいうのに変わったし
文化面でも文人っていう考え方が輸入されず
ずっと各流派の職業画家が画壇の主流派を占め続けてたり
勅撰和歌集の編纂や源氏物語の注釈が高等な学問として位置付けられたり
族譜も宗廟もなかったし(一応江戸時代に宗廟はあったけど一般的な社会制度とは言い難いね・・・)
むしろ違うところが多すぎて中国文明を受け継いだとは思い込むのも難しいんだが・・・
まあこれぐらいにしとこうか
隋唐スレでなんでこんな話になったのやら・・・ >>437
ゲルマン人がローマ文明を受け継いだというなら日本が中華文明を受け継いだという主張もより容易に成立するということ
そういう違いなら当然ローマと中世ヨーロッパの差異としても現れる
要はお前は自分の都合のいい部分だけつまみ食いして持論を押し通したいだけの屑ということ >>437
> 隋唐スレでなんでこんな話になったのやら・・・
「古代黄河文明を生んだ先住民は、漢までで滅んだ。唐では既に人間が入れ替わっている」
というのは、中国史スレで最もモメ筋のテーマ ローマ文明は中世ゲルマン王国に立派に受け継がれている。なぜならこういう要素が〜
↓
その程度の話なら中国→日本にだってある。だったら日本やベトナムも中華の後継者か
↓
中国と日本は違うやい!こういう部分で全然違う!
いまここ
いやそうじゃなくてローマとゲルマン王国の共通点を補強する主張しろよ >>440
そもそも急に日本の話をしたり
ドングリがどうこう言い出したり意味不明
言葉もずっと汚いし
まあ多分ケンモメンだと思うw >>441
論破されたからってみっともなくレッテル貼りか
お前は結局天孫オカルト論者な時点で知能レベルがしれてるけどな >>442
だってお前みたいな汚い言葉で急に日本の話を持ち出して叩くやつ
それもそういう口調のやつって嫌儲によくいるもん
こういうやつって屁理屈続けるから相手するの疲れるんだわ
レスバおわるまでずっといるしな >>439
古代ギリシア人と現代ギリシア人とは別物、という
ファルメライヤーの説を連想させるな >>443
じゃあ綺麗な言葉で議論できるコミュニティにでも逝けよwww
突っ込まれる要素しかない話自分からしといて言葉が汚いとか疲れるとかみっともない
じゃあそもそも5ちゃん以外で語ったら >>431
>実際には、孝文帝の死後ただちに漢化政策への反動が起こり、南下してきた北辺の武人たちによって北魏王朝は崩壊した。
>その漢化政策を潰した武人たちというのが、北周・隋・唐を建国した武川鎮軍閥、またの名を関隴集団
全然違う
北魏の漢族優遇に反発して反乱を起こしたのが破六韓抜陵でそれを鎮圧したのが爾朱栄率いる武川鎮軍閥
この武川鎮軍閥は遊牧民だけではなく高歓を筆頭とする漢人将兵も含む雑多な集団
のちに爾朱栄が外戚として裏から北魏を操ろうとして誅殺され西魏と東魏に分かれるのだが
皮肉なことにほとんどの北族は漢族である高歓に引き抜かれて東魏についてしまう
そこで戦力不足を補うために宇文泰は地方で割拠していた漢人豪族たちを折衝府の将軍として任命し
配下の兵士たちの租庸調をすべて免除する代わりに軍役を負担させ自らの支持基盤とした
これが府兵制 >>437
>勅撰和歌集の編纂や源氏物語の注釈が高等な学問として位置付けられたり
今川了俊にあんな低俗本を子供に読ましたらアカンと揶揄された源氏物語が高尚とかわらかすなww
近代以前の日本で「文学」と言えば漢籍のこと「詩」とは漢詩のことで「からうた」と訓じていたぐらいだぞ
そもそも六国史や類聚三大格からはじまり徳川実紀にいたるまで日本の公文書はすべて漢文だわな >>447
帰ってきたらまだ日本の話をしてた・・・
勅撰和歌集は無視?
現実に代々の高名な学者が源氏を研究してきた事実は無視?
増々お前が頭のおかしい左のネトウヨだということがわかってきたよ
じゃあ正真正銘僕からは日本の話はこれきりにするわ 何が左のネトウヨだよ
そんなワード使ってるほうがお里が知れるわ
そもそもこいつの書き込みからはなんの知性も専門性も感じない >>448
藤原公任が漢詩の船に乗れていればよかったと嘆じた故事とその意味をご存じで?
紀貫之がなぜ女性と偽って土佐物語を書いた理由をご存じで?
左のネトウヨとか左に右折なみに意味不明なんだけど?
俺はサヨクではないし日本の伝統文学も好きで君よりも圧倒定期に造詣が深いと思うよ
それで言わしてもらうけど漢文学より国文学を一段低く見る傾向があったのは紛れもない史実なんだわ 漢文は、古代黄河文明の先住民の言語だ
西洋でいえば、古代ギリシャ語やラテン語に相当する古典言語
「中国語」ではない。
後世の中国人にとっては異人の言語であり、日本人にとっての漢文と変わらない 江戸時代の日本人も、古代中国には畏敬の念を持っていたが、同時代の清国人については「野蛮人」と認識していた >>451
南朝、唐代と宋代に大規模に整理されて整備されたの無視っすか
明朝と清朝でも収集・拡張・整備されてるね漢文 あの朝鮮人ですら、「現代(当時)の清国人は、中華の地を乗っ取った野蛮人ニダ」と陰で清を軽蔑していた で、隋唐は漢族の中華なるものに併呑されたのか、それとも北方民族の独自性が併存したの?そこが知りたいのよ
別のスレで北朝時代には儒教的な世界観を払拭して非中華的な普遍化を仏教でしようとした皇帝がいたみたいな話をきいた >>446
ということは随や唐の王家は漢民族かもしれないわけだ 北京語は漢族が創始したものではなく、もとになっているのは
清代の北京官話、すなわち清代北京の、内域区域にある宮廷や
中央官庁で旗人官僚たちが用いていた言語
旗袍は清朝旗人社会の婦人が用いた衣服のうち、冬の綿入れの
形を普遍化したもの >>458
そういう説(隋朝や唐朝をたてたのは、本当の鮮卑ではなく鮮卑化した漢人だ)を唱える人もいる >>457
併存してたよ
だから隋唐当時の女性は馬の騎乗技術を当り前に持っていたし
宗教的な側面で言うと当時の中央アジア遊牧民は仏教を好んでいるんだけども
北朝〜隋唐の支配層はやはり仏教に傾倒していた
たまに道教とかに行く奴もいたがこの時代はどっちかというと少数派
政治文化においても鮮卑に限らず遊牧系の民族は女性が結構強い
漢人の政治文化では女性は色で君主を惑わして政治を動かす事はあっても
直接的に男性と権力のやり取りをする事は少なかった
等、隋唐は文化的、精神的には完全に鮮卑OSで支配者層が動いてる >>456
当たり前だろ
どこに尊敬できる要素があるんだか >>458
かもしれないかどうかで言うと「確率は0じゃない」けどもまずありえないという状況かな
高3のセンター直前まで遊び歩いてた偏差値35のDQN学生が一念発起して
浪人しないでストレートで東大理3合格するくらいには確率低いと俺は思うよ
言語的な観点で見ても隋唐の支配者層の使ってた言葉は借用の範囲を越えて
上古の漢人達からの変化とアルタイ語系の特徴が指摘されている
同じ漢字という文字を使っただけで別の言語を用いてたと考えられる
切韻や唐韻等が編纂されるのも方言の存在もさることながら
鮮卑人にとって漢語がネイティブな言葉ではなかったという面もあろうだろうね >>461>>463
こういうデマカセを長文で書き込むのって何が目的なんだろうな >>464
えーっとどの辺がデマだと思ったのかな?
とりあえずデマだと言っとけの精神?それだとまともに相手したくないんだけど >>465
自覚ないのにデマカセこいてるならなお救いがたいな
隋唐当時の女性が騎乗技術を当たり前にもっていただの
支配者層の使っていた言葉はアルタイ語だの
一見して頭悪いデマなんだけど大丈夫か? >>466
カク国夫人游春図には楊貴妃の姉が男装して騎乗している女性が描かれている
男装して騎乗するのは姉個人だけの特徴ではなく周囲の女性も行っている事から
唐代の支配層の女性は遊牧騎馬民の文化である騎乗が一般的だった事がわかる
言語に関してはこっち
「隋の天下統一後まもない601年、陸法言という鮮卑人が『切韻』という字典を編纂した。
これは、漢字を発音別に分類した字典だが、ここでは後漢時代にあった語頭の二重子音がなくなって
音が単純になり、Rで始まる音がLに変わっている。
こうした変化が何故起こったかというと、6、7世紀に漢字を魔なんだ中国人が
秦・漢時代の中国人ではなく、遊牧民出身だったからである。
北アジアの遊牧民のことばには、語頭の二重子音はないし、語頭のRは発音できない。
現在、中央ユーラシアで話されている、トルコ語、モンゴル語、満洲=トゥングース語は、
アルタイ系言語に分類されるが、今でもこの特徴はそのままだ。」
出典 モンゴルの歴史 宮脇淳子 >>467
「隋唐当時の女性」じゃなくて「支配層の女性」にしれっと修正してんじゃねえよ馬鹿が(笑)
後段についても「支配層がアルタイ語を話していた」の根拠になっていないため論外
やっぱ頭悪いですな >>469
最初から支配者層の話をしているので>>461を読んでちょ
>隋唐は文化的、精神的には完全に鮮卑OSで支配者層が動いてる
最初から支配者層の話をしているので >>470
最初から読んでわかるのはお前が馬鹿だということだけだぞ
そもそも趣味の乗馬が鮮卑OSとかこじつけもいいところだしなんの論理性もないから 人格攻撃に走るのは反論不能だったという理解をするがよろしいか? ゲルマン人はローマ帝国の後継者だの
隋唐の皇族が鮮卑語話してただの
わけわかんない妄想語る厨房が増えたのは春休みだからかな >>473
いや論点まとまってないのでちゃんとした反論をしてくれ
アルタイ系言語なんてないというのはただの表記揺れに関するツッコミで反論として成立していない
この場合、否定するのであれば出典元の指摘する語頭の二重子音の変化の指摘等を
根本から否定するような言説が必要になる
遊牧民の鮮卑人が文化的に騎乗をしていたことを否定したいのであれば
漢人の女性が馬に乗る文化が隋唐の頃には一般化していたとかそういうちゃんとした方向から攻めないと
反論として成立しないぞ >>474
鮮卑語なんてものがあったのか、それはどこで確認できるんだ? >>475
どこまでも馬鹿だね
まずお前が隋唐の支配者層がアルタイ語を使ってたと主張するのならその証拠を出しなさい
お前が貼ったのは中国語がアルタイ系の影響を受けて変化したという内容のソースであり隋唐の支配者層がアルタイ語をしゃべっていたというソースではないw
そしてお前は隋唐の女性が当たり前に騎乗技術を持っていたと主張したが、
根拠に上げてるのは数少ない絵画に描かれている一部の特権階級の行動のみであって
その他の鮮卑系庶民や漢人女性に騎乗技術を当たり前に持っているということは立証できていないなw
デマカセ指摘されて焦ってわけわからないこと言ってないで早くソースを出したらどうか >>477
文書を残すのも、絵画となって残るのも「支配者層」、つまり一部の特権階級を中心にした層だからなぁ
そこを理解しないで反論したつもりになっててもあまり意味がない >>478
「隋唐の女性は当たり前に馬の騎乗技術を持っていた」と主語を無防備に広げたのはお前だぞ?
ならその証拠を出しなさい
出せるものならね 昨日の左のネトウヨが夜中の間延々変な絡みを続けてたのか・・・
本当にもうせめて嫌儲に帰るかできれば5chから出ていって・・・ 無防備に拡大
って言説出る時点で残念ながら批判のためにする批判としか、横から見ていて判断せざるを得ないなあ
たしかに色々???って記述あるけど、アルタイ語以外に具体性のある批判もないし モンゴル語自体がテュルク語の派生。
チンギス・ハーンの「チンギス」は古代テュルク語で「激しい」という意味の語。
チンギス・ハーンを漢字で意訳すると武烈皇帝あたりが近い。 そういえば、「武烈天皇」って良い名前だな
日本書記にはボロクソ書いてあるのに 北朝はテュルク直系王朝もあったんでしょう
突厥.vs 蒙古.vs 漢族、ややこしいのう モンゴルで末子を意味する「オッチギン」は古代テュルク語で「火の番人」という意味だぞ 語彙借用なのか語法派生なのかではえらい違うね
語彙だけにとらわれたら日本語もシナ語系がルーツになってしまう >>486
鮮卑が使ってた言語は上記の通りウラル=アルタイ語族の系統の言語なのは
ある程度文献的な資料からも推測されているんだが、それが具体的に何であったのかは不明
先祖とされる東胡がテュルク系民族だったか、満洲系なのか、ツングース系なのかもわからないし
そもそも東胡が本当に先祖だったのかもよくわからない
もっと言うと仮にそれらが本当であったとしても
モンゴル語からトルコ語話者になってしまったモンゴルのバルラス氏族のように
鮮卑も言語的に入れ替わってるケースも想定されるため
「鮮卑語」なんてものを安直に規定することができない 隋唐時代初期の突厥は、公用語はトルコ語ではなくイラン系のソグド語だった >>498
>鮮卑も言語的に入れ替わってるケース
いや、それ言うなら結局漢人になったんやし
入れ替わる元のはなしをしてるんや >>500
東胡から鮮卑になる過程で在地の言語と入れ替わってる可能性や
鮮卑が大きくなった時期にトルコ系であったりイラン系と言語が入れ替わったり
割と何時でも入れ替わる可能性はあるからそもそも「元の鮮卑語」がどこかすらロクにわからんよ >>502
だからその蓋然性を示す証拠がほぼないから困ってるんだっての
「鮮卑語」なるものが存在するならそれはそれで凄い事だから
ちゃんと根拠示せるなら示してちょーだいよ もう非漢語の北方民族系言語ってひとくくりの定義でいいよ
"鮮卑語"史料が出てこない限り不毛な議論
華北でコロコロ入れ替わったかもしれないコトバがなぜ北朝期に漢語化したのか、してないのか知りたいのはそこのところ
隋唐以後なぜ漢語だと入れ替わらなかったのか
表音文字に翻訳容易な表意文字のチカラ、中華の吸引力が優ったんだって説が妥当だとすると、いや違うんだ鮮卑系は馬に乗って、二重子音を省略して〜Rの発音が〜とくる
これなんか表意文字を採用すると音素を少なくしても意味が通るからでは?と漢字のチカラをみせつける材料のように思えるんだが
母語にない音素を作りなおす必要がないほど漢字は便利だったという証拠ではないか >>504
そもそも議論の始まりは隋唐の支配者層が元々の言語(アルタイ系)を話していたかどうかだ
それを便宜的に鮮卑語といってるだけであって鮮卑語がテュルク系だろうがモンゴル系だろうがイラン系だろうが話の本筋は変わらんよ
少なくとも隋唐時代の支配者層がそんな言語を母語として話してたという可能性は乏しい >>505
鮮卑についてはおそらくかなりの確率でモンゴル語族であると思われる
根拠は残された語彙のほとんどがモンゴル語と酷似していること
鮮卑の生き残りとされる契丹(五代会要)がモンゴル語族だとハッキリしていること
また鮮卑語の詩文はほとんど漢語翻訳されたものしか残ってないが
斛律金の詩の中にはモンゴル語で解釈しないと意味が通らないものがあることからほぼ確実 >>507
漢文はそもそも話し言葉と乖離した書き言葉がメインの文字だからこそ
その発音が変化しているってことは使用者たちが変化した証拠になるやで
特定の言語の特徴が出た状態での変化は使ってる人が使いやすいように変えたって事だし 碑文がソグド語で刻まれていたからといって突厥がソグド語の話者だったかどうかは別の話
そもそもモンゴル独自の文字が制定されたのでさえチンギス・ハーン即位からずいぶん後の話だし
初期のモンゴル・ウルスはウイグル文字を使ってた 第二帝国期の突厥の碑文は古いテュルク語が使われてるしな >>505
単純な問題として元々存在してた膨大な文献や資料を活用する形で
新しい支配者が旧支配者たちの文字を使う事は歴史ではしばしば見られる事なので
漢字のチカラ〜というのは間違いではないけどそれは別に併存状態が解決されるもんでもないのよ 鮮卑と漢人の文化の二層構造でしょ
最終的にはそれらが融合して唐宋革命と呼ばれる程の社会構造や文化の激変が起こったね >>514
浸透王朝である隋唐に2層構造なんてものはない いや君の主張はて「浸透王朝であるならば」「二層構造なんてない」という主張なので
「浸透王朝」である事が「二層構造を否定」する論旨を組み立てないとただの言い掛かりにしかなってないよ
つまり「浸透王朝である隋唐に2層構造なんてものはない」という主張は偽である事になる >>519
北方遊牧民と漢土の定住民の二層支配構造を保っているのが征服王朝で、そうではないのが浸透王朝ってのが中国史の前提知識な
こんな基礎的な知識すらないのに何いってんだか >>520
浸透王朝ったって、支配層が北方系であることに変わりはないだろ
現代の南米諸国みたいなもんだ
国民は土着民や混血が多いが、支配層は何世代を経ても欧州系 首都が中原や関中や開封にあるのが浸透王朝
北にあるのが征服王朝
東西ゴートは浸透でフランク王国は征服 >>521
そんな誰でも知ってること今更言われても
皇室が異民族出自でありながら漢化してるのが隋唐
2層構造って具体的に何?
清朝の満漢偶数官制みたいな制度ある?
ないでしょ >>520
そうではない、というのは何処を根拠にして言ってるの?
基本的な知識で言うと今はもうウィットフォーゲル的な征服王朝と浸透王朝って分類は主流じゃないんだが
君の言う「基礎的な知識」の出典を訊ねてもいいか? >>523
> 清朝の満漢偶数官制みたいな制度ある?
> ないでしょ
李世民は、伝統的な漢人の上流階級である山東貴族よりも、北方系の関隴貴族のほうが家格が上であると位置づけた
高祖・李淵の後を継いだ太宗は、貴族の家格を九等に分ける『氏族志』の編纂を命じ、
一等に唐皇族の李氏、二等に独孤氏・竇氏・長孫氏の外戚を就け、関隴系こそが最高の家格であると「公認」させた。 唐の皇族は誇り高い遊牧民の首長として振る舞うのではなく
漢人貴族の仲間入りをしたかったということだ
異民族の出自をむしろ恥じているといえる >>526
じゃあ論拠なり典拠なり示してくれよ、基礎なんだろ?
お前さん、何を以て基礎だと認定したんだ? >>529
え?お前が言うように昔から学校で習うレベルの常識なんだけど。
それを覆す根拠をずっと求めてるのはこっちなんだけど。
隋唐の二層構造とやらの具体例はよ。 唐朝では、鮮卑系の関隴集団と、漢人系の山東貴族という2大勢力が争っていた
鮮卑の李氏や長孫氏、匈奴の独孤氏が最上級の家格とされ、漢人の山東貴族はその下に位置づけられた >>532
> 唐の先祖は漢民族と異民族が混じりあってそう
唐の先祖は鮮卑だが、漢民族とは混ざりあってない
匈奴の妃が多く、混血を重ねてきた >>531
つまり学校で習ったものを検証せずに正しいとしてしまっているという告白なのね
ありがとう、君が何も本を読んでいないと言う事がよくわかった
ただ、征服王朝、浸透王朝というのは小中高の学習指導要領ではやってない筈なんで
大学でタチ悪いのに教わっちゃったか、数十年も知識の更新しないおじなのね >>528
いや、そんなことはない
長孫氏なんか、かつては漢族風に劉氏と改名したが、わざわざ鮮卑風の長孫氏に戻した >>535
なるほど、議論の本題について何も示せないから
言葉の定義に噛み付いてる情けない状態ってわけね
浸透王朝でも征服王朝でもそれ以外でもなんでもいいが、
隋唐が保持していた二層構造とやらの具体例を早く示すように。
クソ雑魚くん 颯爽と馬で走り回る騎馬民族からみれば、漢人の土着民など「土人」そのもの。
あたまから見下している。憧れてなどいない。
むしろ逆で、土着民のほうが騎馬スタイルのファッションを夢中で真似ていた
経済的にも文化的にも遠く及ばない現代のモンゴル人だって、どこか中国を侮蔑しているところがある >>536
名前を変えただけで、遊牧生活に戻ったわけではない
草原で過ごすよりも城市内で優雅に暮らす漢人貴族の生活からは抜け出せなかった >>528
北方の遊牧民相手にはテングリ・カガンとして振舞ってるから
誇り高い遊牧民の酋長としても行動しとりますがなwww >>541
ゲルに住んでないじゃん
大元の皇族はゲルで生活してたぞ >>537
上で示した通り隋唐では伝統的な漢人の文化と異なり
支配者層の女性が鮮卑女性では一般的な騎乗するスキルを持っていた史料がある
また言語的にも変化が文章に残っている
じゃあこの時、伝統的な漢人文化が消失したかと言えば
相変わらず女性の騎乗をしない人々は後代までいたし
白話のように文語と違う口語が残ってたり、それらがシナチベット語族の言語だったりするわけで
どのようなグラディエーション状態になってたかは時代毎の差異はあるが
層状を形成してたのはまず間違いのない話
鮮卑が漢人側に完全に融合したんだっていう謎の世界観に何か論拠あるのかな? >>544
同じ話を2回するとかガイジかよw
お前が言ってんのは信長が南蛮趣味に興じたり高山右近がキリシタンになったことをもって日本は南蛮人と日本人の二層構造とか言ってるようなもの
そういうのは単なる趣味にすぎない
官制や経済などの統治面で具体例をいえず、趣味の世界の影響をもってきてる時点で(しかも前回と同じ話、進歩ゼロ)
まったく話にならない低脳だw >>542
秋七月辛亥,啓民可汗上表請變服,襲冠帶。
詔啓民贊拜不名,位在諸侯王上。
甲寅,上於郡城東御大帳,其下備儀衞,建旌旗,宴?民及其部落三千五百人,奏百戲之樂。
って隋書にあってゲル使って宴会やる程度には隋代はまだ遊牧遊牧した文化が残ってたりする >>545
まず「南蛮人」が多種多様だし層化する程の人口がないだろ
お前例えが下手過ぎるぞ >>547
お前が言ってる騎乗スキルを持ってる女の例がそもそも貴族階級の女って時点で層化する程の人口擁してないんだけどセルフツッコミか?w 要は隋唐の鮮卑要素ってその程度の文化的残滓があるって話であって
清朝みたいに満州語と漢語を公用語併記したり満漢の官人を同数にしたりっていう性格のもんではない
その清朝にしてもかなり早い段階から皇族すら満州語は母語としなくなったが >>548
お、鮮卑系貴族の人口を把握してるのか
それはどの史料から読み取ったんだい? >>550
はい、また雑魚が逃げ始めました
困ったときは言葉の定義や数に逃げてごまかすのがお前の得意技なんやなw 隋唐の二層構造とやらの存在を示す証拠が
乗馬の趣味(笑) 唐の太宗の肖像画なんて、太宗が穿いている靴が騎馬民族の靴っぽいよな。 いや君が層になる程じゃなかったと主張してるから
じゃあどうなると層じゃないと判定しているのかの、まずその基本になるデータを問うてるわけなんだが
別に実数じゃなくてフェルミ推計でもなんでもいいよ? >>546
テントでの宴会なんて項羽と劉邦が鴻門の会でやってるぞ >>554
じゃあまずお前が南蛮人の人口統計をフェルミ推定したら?w 現代日本はみんな洋服着てスマホ持ち歩いてるからアメリカ人と日本人の二層構造なのかな >>555
まずそれは臨戦状態に近い時に場内に入れないから外でやった話なのと
実は、史記や漢書において「鴻門の会がテントで行われた」という記録はないのだ
外でやったかもしんないし帷幕の中でやったかもしれないし、記録がない
それに帷幕はあくまでも帷幕であってゲルやパオ等の帳殿とは構造からして全く別物だから
テントが〜って混同もちょっと酷いよね
ちなみに上の隋書の箇所はわざわざ宴会のために
門の外に大きな帳殿を作り、旗を立てさせて、〜と言う事で状況も全く違うしな 珍しい形式の宴会だからこそ記録にわざわざ残るわけで
それをもって遊牧遊牧した文化っていうのもおかしな話だけどな >>559
隋書では4回似たような大帳を使った宴会等の記録があるけども
要人や住民を招いての宴会をやる時の記録なんでレアリティもさることながら
イベントの大きさや重要性を加味しての記録とも言えるかな 隋の楊氏も、唐の李氏も、鮮卑系の出自を表明していない
漢族の出自が公式発表である
また王朝の創始にあたっては中原の伝統を踏襲して禅譲の形を採っている
これは後の遼・金・元・清とは大いに異なる部分だ
つまり異民族の出自は後ろめたい黒歴史という意識があったということだ >>561
重要なのは李淵や李世民の母語が何かや
もし母語が漢語なら、祖先がどこから来たかに関わらず紛うことなく漢人やし
もし母語が鮮卑語なら、漢文を書こうが漢服を着てようが紛うことなく鮮卑人や 鮮卑語がそんな後代になるまで残ってたら鮮卑語の系統推定にこんなに苦労してないのだが
唐の李淵からして母親は匈奴と漢族のハーフ、父親の李モなんて母親と父方の祖母と曾祖母と高祖母がいづれも漢族だから
血筋的にはほとんど漢人と変わらん 北魏の漢化政策の時点で鮮卑語なんかほぼ消えてるだろ 陛下のご先祖様はラーメンマンみたいな髪型してテント暮らししていました
と正直に書いた崔浩がぶっ殺されたところを見ると道武帝の頃は辮髪や遊牧の習慣も
無かったこと扱いになってるぽい 当時は「漢人」はいても「漢族」は存在しない
隋唐の漢人は近代以降の漢族の祖先の一つではあるが
隋唐以降も散々に混血を繰り返してようやく近代の漢族が成立する
隋唐時代の漢人を漢族と呼称するのは学術的ではなくただの政治プロパガンダの類かと
まあその漢人の定義も時代で相当変わるのでどっちもあんまり安直に使いたい言葉じゃないんだけども
それから漢人との婚姻で言うと北魏孝文帝以来の漢化政策の一環で
鮮卑貴族の漢人貴族の結婚が推奨された
母系に漢人が多いということはむしろ由緒正しき鮮卑貴族であることの傍証の一つになる話ではある >>541
じゃあ兀良哈三衛からモンゴルのハーンの称号を贈られた朱元璋も誇り高いモンゴルの酋長だな 野蛮で粗野な鮮卑の血を漢人の血で薄めてきれいにしたかったんだよ 隋を興した楊氏は普六茹という鮮卑系の姓が伝わっていることから元は鮮卑族だろうとされているけど
系図上にはっきりと鮮卑人だと分かる人は一人もいないのよね >>567
ん?さすがにモンゴルのハーンはちょいとちゃうんだが
三衛は朱元璋を君主として仰いで、入貢はしたが、別にクリルタイやったわけでもなけりゃ
ハーン号を名乗ってください言ったわけでもなかったしなぁ >>569
宇文泰の西魏では正式な名乗りは鮮卑姓、普段であったり略式は漢風の姓で
という使い分けがあったという研究があるね
どういう文献を参照してどのような理屈でそんな結論になったのかは知らんので
全く裏取りできないけど >>566
混血とか関係ない
民族の定義は母語
それだけ
日本語が母語の黒人がもし居たら、それは紛うことなく日本人や >>572
民族の定義は母語だけではないんだ
様々な要因によって生まれる共通性を下地にした歴史的な人間の共同体を民族と言うので
宗教であったり、居住する土地、文化、血統等の言語以外の面でも民族は定義される
簡単な例でいうと伝統的なユダヤ人は言語関係なくユダヤ教徒である事
母がユダヤ人である事が要件
あと「日本人」というのは日本国籍を持った人の意味でもあるし
民族としての大和民族は基本的には血統、言語、それから文化等が特徴なので
言語のみが定義とするのはまたおかしな話 >>573
>あと「日本人」というのは日本国籍を持った人の意味でもあるし
日本国籍を持ってる人は「日本国民」
「日本人」は日本民族のことや
もし「日本人」が日本国籍のことなら
「クルド人」はクルド国籍の人のことか?
ならクルド人なんか一人も存在せんな >>576
単純に日本人と言った時、それは大和民族等を指すケースと
日本国籍を持った人を指すケースがある
後者は日本国民と呼ぶ事もあるだけで、「日本人」単体では判断できない
>>573にも「日本国籍を持った人の意味でもあるし」と書いたように
「それ以外の意味もあるし、その意味もある」という書き方をしているよ
ちゃんと文章は読もうぜ、頼むからさ
あとクルド人の例えは全く例えになっていないでしょ
存在しない国の名前出したって意味ないよ 現代のアメリカ大統領だって、「俺はアメリカ人だ!」と言うだろ
「俺はアイルランド人だ!」とか、「ケニア人だ!」と言うはずがない これほど変化が速くて情報交流が活発な現代のアメリカでさえ、イタリア系は何世代を経てもやっぱり「イタリア人だ」とすぐ分かるし、スウェーデン人も「北欧系だ」とすぐ分かる
ましてや千年以上も昔の多民族国家、隋唐ではなあ >>580
イタリア系とか、どうせ英語しか知らんから
しょせん「イタリア系」でしかない
イタリア人とは到底言えん 李世民や長孫無忌たち唐朝の支配者が鮮卑系なのは、同時代の人々には一目で分かる
考えるまでもなく明らかだったはずだ 同時代の周辺諸国は、唐を「タクバツ」と呼んでいた。
「中世タクバツ帝国」だ
西洋史でいえば「フランク王国」に相当する スペイン人がメキシコを支配すれば「征服王朝」
メキシコに移住したスペイン系がメキシコを支配すれば「浸透王朝」
それが「征服」と「浸透」の違い >>583
その理屈だとロシア語だと中国はキャセイ(契丹)と呼ばれているから契丹人の国という事になるのですけど
あと唐の対外的な呼称はチーナ(秦)ね
唐代のイスラム商人が書いた「中国とインドの諸情報」でもそう呼ばれている
タウガス(拓跋)と呼ばれていたけどあくまで美称であって唐が秦や拓跋の後裔と考えられていたわけではない >>585
全く違う
スペイン人が先住民族に同化してインディオ式統治をしてたら浸透王朝な >>587
隋唐帝国の統治体制は、先行する鮮卑王朝の北魏・西魏・北周から受け継いだ制度が大半
メキシコに例えれば、スペイン人が入植したときの植民地の制度 日本が遣唐使を送って唐から学んだ律令制・均田制・租庸調制・府兵制といった諸制度は、
北方系の支配者が多数派の土着民を統治する体制
歴史の教科書では「大陸の進んだ制度を取り入れました」と美化されてるが もそもそ北魏って、東晋やそれ以前の制度積極的に取り入れて漢化進めすぎて滅んだ部分があるような…… まとめると隋唐は漢人に換骨奪胎された王朝だったてことでいいんだね >>591
隋唐はまったくの鮮卑王朝
漢人は支配される者 >>591
支配者である鮮卑が漢人の文化で気に入った奴を取り入れてった王朝
だから漢人やその文化的後継者達から見ると「あれは我々の先祖だ!」って勘違いする >>593
隋唐の皇帝に鮮卑意識全くない
唐室の姓は李なんで、老子(李タン)の末裔とか言って道教保護した そりゃ当人たちの意識の問題ではないからな
数だけは多い植民地人を支配するための正統性の強調、政治的主張に過ぎない
本人たちの意識がどこにあったかなんて記録には残ってないぞ? 正当性の強調、政治的主張というなら、むしろ逆のことをするよね
鮮卑の名前を漢人に強要するはずだ
日本が朝鮮に強要した創氏改名
ロシアが帝国臣民に強いたロシア風の名前
ヨーロッパが植民地で行ったクリスチャンネームへの改名
史実を重ねていくと圧倒的少数の植民者が現地マジョリティに改名を押し付けている
鮮卑はなぜコレができないのか
支配者であるはずの鮮卑が漢人の文化で気に入ったものを自由に選んで取り入れられるほど優位な立場ではなかったから
改名こそ強者と弱者の関係性を端的にあらわす記録に残ってる史実なんだよなあ >>597
> 日本が朝鮮に強要した創氏改名
サラッと嘘を混ぜるな(笑) >>566
なんで母方が漢族であることが鮮卑である証拠になるんだ? >>569
その姓ももともとあったのか、わざと鮮卑っぽく作ったのか 【ウイグルの声#45】ハリマト ローズ〜新体制で大きく変わった日本ウイグル協会 [R3/3/27]
https://youtu.be/Rf_XW2vFy6U
【南モンゴル草原の風 #37】上野宏史議員に聞く!南モンゴル議連の行方[R3/3/27]
https://youtu.be/tX1v-LLB2ek >>597
鮮卑のほうが文化的には漢民族より圧倒的に下だからだろう
でも随も唐も本当に鮮卑ならそう名乗るだろうな >>586
>あと唐の対外的な呼称はチーナ(秦)ね
なら唐が日本に対して秦と自称してる文書見せて 唐の太宗の肖像見ると、袍着て長靴履いて胡人風だが、
隋の煬帝は振り袖着物みたいな漢人風衣裳
唐は胡人ぽいが隋は漢人なんじゃないの >>588
その北魏や北周の制度ってまんま中華王朝の制度なんだけど
何いってんだお前 【南モンゴル問題を考える勉強会】楊海英 静岡大学教授講演(ノーカット)[R3/3/27]
https://youtu.be/2Rj-7hJeNYA 動画コピペとかしだしたところを見ると
やっぱり政治的に偏ったネトウヨがキモい歴史観を連呼してるだけだな >>606
煬帝も胡人だけど、どういうわけか江南に惚れ込んでいた
異常な情熱で江南までの運河を掘った‼と思うと、「揚州に行幸する」と行って出ていったきり帰ってこないので、その隙に唐の李淵に長安を乗っ取られてしまった
まったく北朝らしくない人物 >>607
バカはお前だよ
秦や漢の制度なんか痕跡もねえわ >>611
江戸幕府の制度が飛鳥時代頃の制度とまったく違うようなもんじゃないの >>611
は?
北周の官制って周礼をもとにした六官で構成されてて中原古来の制度そのものなんだけど?
お前は前から「鮮卑王朝」とか定義もなく連呼してるけど
北魏・西魏・北周が鮮卑古来の部族制を放棄して漢風制度に移行した事実を都合よく無視してるよな
無知の癖に粋がるな雑魚 普六茹を漢訳して楊
朱邪を漢訳して李
耶律を漢訳して元
愛新覚羅を漢訳して金
なんじゃないの
大野は判らない >>609
政治的に偏ったパヨパヨがキモい漢人史観を連呼してる 三公九卿を祖型として、少なくとも官職の名前は周代から長いこと生き残っとるな >>616
事実でなく妄想で鮮卑王朝とか言ってる時点でお前の主張の説得力ゼロ >>614
もともと鮮卑側にも偶然ヤナギやスモモを意味する姓があったと考えるより、
楊や李という姓を鮮卑訳して新しい姓を作ったと考えるほうが自然だろう >>618
このスレの争点は現代の中国問題に通じる ガイジウヨが歴史を都合よく解釈して政治議論にもっていきたいだけ
なんの知的生産性もない >>604
>なら唐が日本に対して秦と自称してる文書見せて
対外的な呼称の意味が理解できてないのかな?
お前も自国のことをジャパンと言ったりしないでしょ >>604
>なら唐が日本に対して秦と自称してる文書見せて
対外的な呼称の意味が理解できてないのかな?
お前も自国のことをジャパンと言ったりしないでしょ お前が対外的な呼称の日本語の意味わかってないだけじゃん 北魏の均田制と兵戸制は明らかに曹魏を意識した政策だな >>623
対日なら対外やろ
まさか日本が唐の一部分やったとでも? ウヨキッズの国語力ヤバくね?
大辞林で「対外」の意味調べて来いよ ウヨキッズの国語力ヤバくね?
大辞林で「対外」の意味調べて来いよ チーナは自称じゃなくて唐代の大蔵経辺りが出典で
当時、インド以西だとチーナって呼ばれていた
それは秦由来だよね、ってだけの話を何でそんな謎の解釈する奴おるんやろか 日本の中国地方は従来通り「チュウゴク」、国家としての中国は「チョングオ」と呼べば何も問題ない。 中国人のことをモンゴル人やウイグル人やトルコ人と同じカタカナ表記でチョングオ人と呼ぶべきだろ
それで呼称問題はすべて解決できる >>636
チョングオやチョンファが蔑称に聴こえるのか?
ネイティブ発音に偏見を持ってるのはお前じゃないの 中国人が日本ネイティブ発音を尊重するなら、日本国をニホングオ、日本人をニホンレンと発音すべきだろう
なんの偏見もない
中国ネイティブのチョンファーやチョングオが滑稽に聴こえるなら、それは差別意識の表れだ
反省しる 支那は華北・華中・華南を合わせた地理的呼称だけど、いわゆる中華帝国の国家に対する呼称としては誤り
また、中華帝国の領域全てに当てはめるのも誤り
あえて日本に当て嵌めるなら「本州」みたいな意味
国を意味しない、政治的まとまりを意味しない、地理的呼称
中原+周辺地域をまとめて示す呼称がないから、江戸時代中期頃から使われ始めた用語なんだよね、これ 批判が的を得てないんだよな。
まず業務で高校数学が応用として使える時点で、世の中の上側1%以上なのよ。
アク界隈はお受験からのエリート教育で育ってるから、世の平均以下がちゃんと認識できていない。
残念ながら需要が存在してしまうわけですわ。高校数学の範囲だろうが何だろうが知らんがな。
あと、純粋な高等な数学になればなるほど、応用が狭まっていく。平たく言うと役に立たない。
なんでそんなものと比較するのか意味が分からない。好きなら勝手に博士課程でも行ってろ。
そして、哀れにもアク候補生として入社して、想像以上に日本社会の企業文化に揉まれ疲弊し、
自分は東京一工のエリートなのにこんな試験にも受からないクヤシイ!!みたいな人が、
5chで見えない敵をたたいて必死にもがいているんだな。憎むべきはその選択の損切りができない自分自身なのに。
だから、嫌ならやめろよと。クソ試験と思うなら今すぐやめて転職なりしろ。何事も中途半端が一番良くない。 「日本は遣唐使を送って、大陸の進んだ文明を学びました
→ もう唐から学ぶことはなくなったので、菅原道真が遣唐使を廃止しました
→ 平安時代には、日本独自の国風文化が発達しました」
日本人なら誰でも、小学校6年生の歴史の授業でこのストーリーを刷り込まれる
さらに中学校で、もういっぺん刷り込まれる
戦前の「皇国史観」と同じで、これは現代の日本人が共有する一種の建国神話 >>643
その手の批判的視点て史学的には極めて重要だけど
資料の評価と仮説書かなきゃ、ただ言っただけになる 建国神話なんてぜんぶ刷り込み
いまのひとが昔の人になれないのは自明
批判する意味がわからない
全部相対化したがるポストモダンの悪い影響
隋唐は鮮卑!とかの類も同じ 「漢が滅亡して華北は荒廃し、北方民族が移住して支配しました
→ 華北を支配した北方民族は中華の文明に憧れ、漢字を学んで漢化しました
→ 隋唐が新たな中華帝国を建てました」
これも、中国にとっての建国神話 中国の実質的なスタートは、北魏や隋唐あたりからだと思うんだな
古代黄河文明から春秋戦国時代を経て秦漢帝国までは、「失われた先住民の旧文明」と位置づけるべきだろう >>647
だから建国神話なんて刷り込みって言ってんだろ
どの建国神話がもっともらしさ正当性を理論武装できてるかで史実はつくられ正史になってきた
鮮卑OS説には理論のかけらもない その点、ドイツなんかは「我々はアーリア民族」といって、北方から移住してきた蛮族の末裔であることを逆に誇っている
そこが、「北方の野蛮人は中華の文明に憧れて漢人になりました」を、自国民はもとより外国人にまで刷り込もうとする中国とは対照的 もっとも、「北方民族は漢人に同化されました」に本当にこだわっているのは、実は中国人じゃなくて、日本人の年寄り連中ではないかと思えるフシもある
中国の時代劇をいくつも見てきた印象では、当の中国人がそこまでこだわっているようには見えない >>651
共産党公式見解が鮮卑どころかモンゴル人やチベット人ですら黄帝の子孫で
全てを中国の統治下にする正統性があるというものなんで
日本の老人でもそれに騙されてるクソ無能結構いるけど中国人が拘らないってことはない 「北方から移住してきた野蛮人は、中華の文明に憧れて漢化しました」
というが、現代の中国人はその「野蛮人」の子孫であり、「中華の文明」は滅びた先住民の文明 江戸時代の日本の儒者たちは、そのことをよく知っていた
だから、彼らは古代の中国については畏敬の念を持っていたが、同時代の清については「野蛮人の国」と認識していた 間宮林蔵の「東韃地方紀行」だと沿海州に駐屯する清の武官たちの威容を見て感動していることから
まだまだあこがれの国だったと思うけどね そりゃ、19世紀の前半だったら、日本のしょぼい軍隊とは比べ物にならんわな
ていうか、日清戦争のちょっと前までは威圧されるレベル差があった
あの頃の日本の軍事的高度成長は奇跡 普通に考えて西晋までの漢民族が死に絶えた後、
北方民族が急激に増えて、
漢民族の文化を吸収して、
言葉まで漢語にして、
さらには漢民族の文明を凌駕するようになったとかあり得ないから さらには漢民族の文明を凌駕するようになったんでしょ
勘違いしてるアホいるが遊牧民は遊牧に最適化した文明を持ってて
農耕民の文明が目指す最適化とはまた違った方向に進化しただけだぞ
有史以来かなりの長期間、遊牧民の文明が軍事的優位を持っていたし
交易に関する文明や、情報の伝達に関するもの等は遊牧民の方が高度な文明を築いていたし
遊牧民の方が農耕民に優越していた時期は長い
大航海時代や産業革命を経てそれらの遊牧民の文明が持っていたアドバンテージが喪失して
今じゃ遊牧民の文明は工業化した時代に生産力でも軍事力でも劣ってる状態になっただけで
近代以前の遊牧民は農耕民とは別ベクトルで優れた文明だったんだわ >>660
交易は遊牧文化のにはないもの(ウイグルやソグドと言った、遊牧と農耕双方の辺縁の文化圏がになった)
情報の伝達は農耕文化圏が遊牧文化から馬を使う技術を得て進化した(駅伝制度、郵便等)
遊牧は、純粋に遊牧するために進化した文化であって、実は農耕文化やその周辺の文化がないと成立しない
ただし、遊牧の方が実は農耕文化よりも新しい文化だったのは確か >>661
別に遊牧民が交易してなかったわけではないはずなんだが、おかしいな
「交易は遊牧文化のにはないもの」という説はどこに掲載されてるか教えてくれ モンゴルでは商業が全然発達してなくて、
そのせいで清代に入ってきた漢民族に収奪されたみたいなこと聞いたな ちな遊牧民は穀物を農耕民との交易や略奪で入手しないと食糧が苦しくなるので
交易そのものが生活サイクルに組み込まれている
交易は遊牧文化に必要不可欠なパーツなんだがなぁ >>664
遊牧文化では取引は必要だが
特にユーラシアの東西交易と言った大規模な商業経済を成立させる文化はなかったって話だ
遊牧民にとっての交易とは自分たちに必要なものを他の文化圏から交換で得る理手法であって
大規模で長期的、定期的な交易ルートの開発、維持を行なったわけではない
これらを行なったのは遊牧民との接触が多かったオアシス民や農耕文化圏の周縁部の人間だった
モンゴル帝国でも、交易を担ったのは色目人(特にウイグル系)だぞ >>663
モンゴル帝国では帝国構成国の間で戦争状態に入ってても
各国間を行き交う商人には手出しをしない、関税も掛けない
というくらいには商売っ気のある帝国だったのだが
フビライの時代には官費から商人に融資して、その利益を官民で折半する融資制度が定められたし
塩や銀錠の預り証を元本に紙幣の発行や手形の決済を行う金融の制度が出現
後の時代の銀本位制の元になった交易制度や商慣習を定着させたのもモンゴル帝国時代なのだが…
明代に交易を禁じられたモンゴル帝国のハーンの一人も商売させろ、と明に攻め込んで
商売okになったら戦争やめて入貢したりとか、徹頭徹尾商売人気質だったよ 久しぶりにきたらまだあの左のネトウヨがいるじゃん
まあ個人的には隋唐は鮮卑人を先祖に持つ新しい漢人の王朝だと思うけど
必死に鮮卑的要素を否定して更にネトウヨ連呼するのは左のネトウヨしぐさと言わざるを得ない スキタイやアヴァール、ブルガール人も自分たちでは積極的に交易は行っておらず、大規模な交易はギリシャ人、ペルシャ人、ソグド人などが担っていたな
遊牧民自体が交易隊なんぞ組むわけがないんだよ
大規模な交易品なんぞ遊牧の邪魔でしかないんだし >>666
だから、その制度を運用していたのはウイグル人だっての
モンゴル帝国は中身ウイグル帝国だったとはよく言われるが知らんのか >>669
「よく言われる」ってことは言ってる論者が多数いるってことかい?
具体的に誰?それともなんとなく「みんなが言ってるんだーい」っていうアレ? >>660
その「民族いれかわり説」では、
北方民族が古代漢民族の上位互換文明を作り出したことになってんの >>670
オルトクで調べろよ
遊牧民と商業民って元来別物で、長いこと共依存関係だったってわかるから >>666
その制度を作ったのも漢民族や色目人だろ >>667
随唐の王族が漢民族だか北方民族だかしらんが、
大多数の国民は古代漢民族の子孫な >>672
上位互換じゃないでしょ
全く別の文明がその地に残ってた少ない漢人集めて採用したいところ採用してったってだけじゃん
この辺は西ローマ滅亡後のローマ人をゲルマン諸族が拾い上げてったのと類似してる ちなみにイブン・バットゥータが、遊牧民と交易商人たちの関係について書いてたりするけど、多分知らんのだろうなあ >>673
>モンゴル帝国は中身ウイグル帝国だったとはよく言われるが知らんのか
よく言われてるという事の説明になっとらんのだが?ん? >>678
遊牧民が直接交易してたことの反論にはなってるからな
うん?とか言ってる場合ではない
杉山正明や宮脇淳子あたりの著作にも普通に出てくる話 >>677
アウトソーシング出来ることはやっとる、ってだけだよね >>679
ということは言ってるの2人だけってこと?
「よく言われる」ことなの? >>681
いいからお前は本読んで出直してこい
お話にもならんから とりあえず手元にあった宮脇の「モンゴルの歴史」を確認して来たが
「モンゴル帝国は中身ウイグル帝国」という論旨の文章はなかったな >>675
んなことないぞ
漢の滅亡後の華北は、「人煙稀なり」と史書に書かれるほど人口激減
それから400年に渡って民族大移動が続いてるからな
5年や10年ならともかく、400年は長い >>677
イスラームがアラビア半島で広まったのも同じ構図だよね
交易商人がいたから遊牧民が潤い文明文化が伝播した、その逆ではない
別の文明圏でも証明されてるってことは普遍的な可能性が高いのは明らか
言葉尻ばっかとらえて本質的なことは避けてる論破されてるんで >>682
んじゃ出典不明ということね?よく言われる割には出典がよくわからないのね >>684
戸籍人口で言うと後漢最盛期に5600万程度から
三国時代に800万程まで激減しているな
人口密集地だった中原において1/100になったという記述もあった
ただこれは相当盛って書いてあると思われる
議論の中でかつての一州分の人口しか今全土併せてもいない、という発言があったんで
概ね1/7〜1/10程度にはなったということだろうな
ここに北方民族を服従させて内地に居住させた後の晋代の人口統計が2200万程度
後漢末の動乱で戸籍から離脱した人の子孫が再度カウントされてたとしても
晋の時点で既に相当人口減少があって遊牧民の人口に占める割合も増加してる事になる 大多数が北方民族に入れ替わったとして、
なんで言葉が中国語のままなのかってことがある
ハンガリーやトルコみたいに遊牧民族がごく少数でも言語は入れ替わりうるのに >>689
>>467参照
書き言葉から発音の変化が観測されてて話し言葉がアルタイ系になってる事がほぼ確定してる >>667
まだ左のネトウヨとか言ってる
レッテル貼りじゃなくて論理的で勝てばいいだけなのき >>690
それは単に北方民族との接触で漢語が変化したという言語現象に過ぎないぞ
民族そのものがまるごと入れ替わってたら漢語と全く文法構造の異なる膠着語が現在話されていなければおかしい
しかし古代漢語と以降の漢語には明らかに連続性があり、民族まるごと入れ替わったという主張は明らかに誤り
少数の支配民族(デーン人・ノルマン人)に古代英語が影響を受けて
ゲルマン系言語の基層を保ちつつ文法・語彙要素にデーン系・ラテン系の影響が混じったようなもの
お前はこれをブリテン島の民族はまるごと入れ替わり英語はラテン系言語になった!と主張しているに等しい
馬鹿の極みである >>693
その後支配民族が何度入れ替わりましたか?
何度も入れ替わりましたね >>694
支配民族が入れ替わっても漢文化に吸収されてくのが中国史の流れ
遊牧民に何度も支配されても人口圧で結局吸収していくスラヴ人みたいにな この手の中国人入れ替わり説(笑)ってネット上ではやたら人気あるけど
南朝を完全に無視してるのが笑える まず、隋唐時代の中国語の単語のうち、
どれくらいモンゴル語やトルコ語由来のものがあるっていうんだろうな? >>698
まず中国語というものが当時存在していなかったという事を考慮すべきだな >>693
日本語だって中国語や英語の影響を受けてるしな >>700
それで日本語特有の発音が消えて他の言語に顕著な発音が登場してるとかではないから
日本語が中国語や英語の影響を受けているから、というのは
二重子音が消えてアルタイ語に顕著な発音が登場するという言語の特徴そのものが入れ替わるような話とは全く別物だな >>701
お前のその書き込みだけで日本語史に明るくないと分かるわ
恥の上塗りやめろ 漢字音が日本語の音韻に与えたと思われる影響
日本語特有の発音の消失→ア行ヤ行ワ行の区別の消失、甲類乙類母音の消失
他の言語に顕著な発音の登場→語頭の流音および濁音、撥音の登場、音便の発達 >>705
何回負けたらも何も上で出てる話一切反論になってないのだが じゃあとりあえず
>>669の「モンゴル帝国は中身ウイグル帝国だったとはよく言われるが知らんのか」という発言で
「よく言われる」という程であったら具体的に名前出して何人くらいがそんな事言ってるのかってのに
まともな答えなかったやん
杉山と宮脇と言うから手元にあった宮脇のモンゴル通史の本をざっと読んだけどそんな事書いてなかったんだよね
で出典不明なのか?と言ったら「ソースしか言えんのか」ってよく言われてるなら具体例くらいすぐ出るんじゃねーの?
「よく言われる」という割には「モンゴル帝国 ウイグル帝国」を中心に
検索ワード変えながら色々検索かけたけど上位の3ページくらいには出てこないから
これ本当に「よく言われる」のか? >>710
お前の書き込みって小学生が「それっていつ、何時何分何秒、地球が何周回った時〜!?」っていうくらいくだらない突っ込みだって気づこうぜ
いい歳してそのレベルで知的ぶってるつもりなのが痛いわ >>712
いや全然
モンゴル帝国が中身がウイグル帝国だ、という説で
遊牧民の文明の交易云々という話の反論としているので
それがどんな学者がそのように唱えてて実際にどの書籍でそう述べてるのか確認取れなきゃ
その話を信用するもしないもないじゃない
しかも「よく言われる」という程に膾炙した説ならば通史本くらいに書かれてもおかしくないのだが
別にそんな事もなかったし書名訊ねるくらいは当り前の話じゃね? >>713
でもお前もソース出せないじゃんなにひとつ じゃあとりあえず>>669の根拠出してくれ
でなきゃお前が妄想語ってるだけだぞ >>717
シーライオニングの前に自説の出典を出そうね >>718
「モンゴル帝国は中身ウイグル帝国」ってよく言われてるんだろ?
で、それがモンゴル帝国が商業に通暁していなかったことを示すんだろ?
じゃあそこを示せなかったら以降の話相当潰れるじゃないか
その根拠は何かな?
宮脇御大自らが商業的に発展した帝国だったことは解説してくれてるな
ttps://www.youtube.com/watch?v=UCHpaEqrmBo >>719
そもそもその話ふってんの別のレスな
お前の騎乗スキルとアルタイ母語話者隋唐皇室の典拠はどこいったよ 今のこのスレで言われてる事の大半が宮脇淳子が元ネタだし
隋唐に言及してる動画のURLでも張って終わりでよくね?
皇帝たちの中国第二章 唐の太祖李世民
1回 ttps://www.youtube.com/watch?v=1G9aXDTGR3A
2回 ttps://www.youtube.com/watch?v=YlqD7EV_mUQ
3回 ttps://www.youtube.com/watch?v=xJv_9XazXEQ
4回 ttps://www.youtube.com/watch?v=LIpMU945RGs
5回 ttps://www.youtube.com/watch?v=IEwlzzctsQA >>722
宮脇淳子と物故した夫の岡田英弘は少なくとも学者として実績ある人だけど
それを切って捨ててる君にどんな実績あるの?
君に実績なけりゃ別の実績ある人の書籍とかから引用するとかで
それでその説同士の比較するとかだと建設的だけどそうするかい? >>723
また自分に盛大なブーメラン投げてる
人にソース要求するくせに自分は絶対出典示さないよなあ?おめーは 少なくとも中国語がアルタイ系言語に変わったとかいっちゃうレベルの人間よりは歴史言語学の知識あるよ じゃあ聞けばいいよ
どこの部分に対してソースを求めてるのか言えば俺は引用元なり何なりを示す用意はあるよ
俺も君にソースを求めるし、君も求めればいいじゃないか
「妄言だ」と言うんであれば妄言だと思う部分のソースを俺に聞いてくれ
んでとりあえずそうするんであれば俺の質問にもちゃんと答えてくれな >>725
中国語がアルタイ系言語に変わったという主張は誰がしているの? >>727
どこについて聞いてるのかね、ちゃんと言ってくれよ
でもそうする以上は俺が既に質問してる事に返答してからにしてくれよな >>729
上で聞いてるんだけど、無視してる理由は何?
またごまかしですか? >>730
それ中国語がアルタイ語系に変わったとは言ってないぞ?
隋唐の人々の「話し言葉」は中国語ではないしな >>731
どこについて?もう一度ちゃんと示して貰っていいかい? >>732
隋唐の話し言葉がアルタイ系である証拠は? >>733
おいおい往生際が悪いなw
まあそうやってごまかすのがお前の限界だってことだな
YouTubeソースで威張ってるゴミカスくん >>737
じゃあもっと上に同じ宮脇のモンゴルの歴史から引用したのあるから
>>467見て >>736
学者が解説してる動画なので根拠にはなるでしょ
そもそも何の根拠もない主張とは違う じゃ、モンゴル帝国が中身ウイグル帝国だとよく言われてるって話の根拠頼むな >>738
467はアルタイ系の影響を受けてるって内容であって話し言葉がアルタイ系って書いてないですね
話し言葉がアルタイ系って何の妄想? >>739
学者が解説してたらソースになるとか馬鹿の極みだな
まともな論文もないって白状してんなよ >>741
鮮卑人が『切韻』という字典を編纂した。
これは、漢字を発音別に分類した字典 >>743
そりゃ根拠にしてんだから何回でも言うが、反論する君のソースが全然出てこないので
ちゃんとソース示して反論してくれよ >>744
だから、それがなんで当時の話し言葉がアルタイ系言語って証拠になるの? >>745
お前の根拠が動画だってのはわかったから、
それを支持する内容のまともな論文を示したらどうなの?
言いっぱなしの解説動画なんて中田大学と同じレベルでしかないぞ >>748
否定するなら論拠を出してくれ
言いっぱなしの反論なんてそれ以下だぞ >>747
鮮卑人が中国語を発音してもそれは中国語であってアルタイ系言語ではないぞ >>749
お前の根拠がソースになってないんだから、お前の意見は否定されてるぞ?w
オリラジ中田チャンネルをソースに歴史語ってるレベルで何いつまでも頑張ってるの? >>750
中国語を発音していたというのは何がソースなんだ? >>751
ソースになってないという理由はどこにあるんだい?
動画だからって芸人の解説動画と学者の解説動画では全く話が違うだろ
論拠がないぞ >>753
宮脇淳子って歴史言語学者じゃないけど? てかこの動画も岡田英弘の皇帝たちの中国の解説なんだから
動画は〜っていう批判全く当たらんのだが
岡田英弘の話を根拠付きで論破するならともかくソースになってない、はそれこそソースないよ
>>754
夫婦で遊牧民や東洋史やってて歴史学者としての意見だろ
歴史言語学者じゃないってんなら歴史言語学者でこの説を否定する人出してきて
論説の妥当性を突き合わせりゃいいんじゃね? >>755
漢字は「中国語でも使われる文字」であって「中国語の文字」とは限らんよ
上古や中古の漢語でも使われてるし日本語筆頭に東アジア圏のあちこちで使われてる文字だよ
中国が成立する以前の言語を「中国語」とするのは中国政府の政治的な宣伝で
全くもって学術的じゃないよ >>757
え?遊牧民の研究してても専門外だよね
しかも動画でおしゃべりしてるだけで学会の査読に耐える論文ではないよね
学術的に信頼できるソースをこっちは求めてるんですけど
ないならないって早く認めたら?w >>759
いや?夫婦揃って唐に関しても学術論文書いてる専門家だぞ? >>758
いや漢字はまず中国語を書き記すための文字ですけど
で、鮮卑人が中国語の字典をつくり、中国語の発音にアルタイ訛りが反映されてるって話と
アルタイ語が話し言葉だったって話って全く次元が違う話なんですけど
まだ理解できない? >>760
じゃあその学術論文を直接持ってきたらいいよ
はよ >>761
鮮卑人が作ったのは中国語の字典じゃなくて漢語の字典
当時の漢語は書き言葉がメインで話し言葉としては機能していない
「漢人」と呼ばれた人々も漢代でも各地で方言が別れていた
この辺は楊雄が方言でまとめてるな
だから文語に発音が反映されているのは口語の変化を表していると言える >>763
その口語ってのは中国語の口語であってアルタイ語という根拠は未だに君から提示されてないけど。 >>764
「その口語ってのは中国語の口語」という根拠がないな >>765
史書に鮮卑がアルタイ系言語など異なる言語を口語として話していたという記録はない
つまり通常の中国語を話したということ
アルタイ系口語を話したという根拠はありますか?
ないでしょ >>766
史書に「中国語を話した」とも書いてないのだが
アルタイ系云々は根拠は上に示した通り >>767
中国に移り住んで定住化して漢人に傭兵として雇われてた連中がアルタイ語しか喋ってないって思うほうが不自然だわな
当然中国語で漢人とコミュニケーションとってたわけだし
文書も中国語で残っていて、アルタイ語でしか話が通じないという記録もないし
文化的にも漢風に染まっていったわけだが
その中で中国語自体にアルタイ的要素が入ってきたって話であった
口語がアルタイ語だったって話ではないんだけど
何回言っても理解できないのね
まず社会言語学とかの本ちゃんと読んでみたほうがいいよ >>768
君は史書に書いてない、と言う事を根拠にしたのであれば
同じく自説を補強する傍証も史書に書いて無けりゃおかしいだろう
とりあえず阪大の森安の話だとこんなんだよ
ttp://www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/main/seminar/2006/moriyasu_honbun.pdf
4の「唐の本質は拓跋国家である」でもあるように隋唐は鮮卑系王朝だというのがこの人の説だね
今我々がアルタイ語云々を今言い争ってるのはこれが是か非かという話のためだけども
鮮卑系王朝であることを否定する有力な説って現在だとないぞ あ すまん
YをWと見間違えてた
Yのところ見てくれ >>769
補強する材料以前に、現在の中国語って古代の中国語に北方系の要素が混じったものだってのが通常の言語学的理解であって
それを否定してまるごと言語や文化や民族がアルタイ系に入れ替わったというのならそれをきちんと論理で示すのが筋だと思うが?
君はそれ全くできとらんよね
で、そのうえで鮮卑系王朝って何を指してるの? >>774
研究会のレジュメか予定表かなんかでしょ
単に森安の説を簡単に示せるネット上の史料が手元にないからこれ張ったんだよ >>775
その説とやらが結局何なのか全く意味不明
お前って本当に馬鹿なんだね
拓跋国家って何?定義は? >>776
ttp://www.let.osaka-u.ac.jp/toyosi/members/moriyasu/moriyasu_tsushin_202004.pdf
論文じゃないけど森安がこれの184ページ目辺りで解説してくれてるから読むといい
ttps://www.y-history.net/appendix/wh0301-035.html
あとはこの個人サイトだけど出典元は書いてないが概要を説明してくれてるな
ただあくまでも個人サイトなので参考までに留めといて
俺は持ってないけど世界史用語集にも載ってるらしいから歴史用語としてもほぼ定説の域だね >>769に関する質疑応答で
Q.唐を拓跋国家とみなす学説は、日本の学界、さらに中国や欧米の学界では、どの程度認知されているのか。
A.唐の王族・李氏が拓跋出身であることを認めない者は、もはや世界中のどこにもいません。
ただし問題になるのは、中国でも日本でも同じで、多くの「中国史」学者が、
唐の王族・李氏をはじめとする支配者階級の集団はすでにほぼ完全に「漢化」してしまっていたに違いないと信じ込み、
我々のような見方に対して冷淡だったことです。
(中略)
とはいえ、私とて唐代の漢人文化、漢字文化のすごさを否定するつもりは毛頭なく、
行きすぎた振り子を戻すために違いを強調していることを付け加えておきます。
太宗を取り巻くブレーンたち(特に漢字文化の担い手であった山東集団)が「漢化」を推進したこともまた事実でしょう
というやりとりもあるね >>777
さんざん偉そうに出典がどうのと要求しておきながら
自分は動画がソースだと言い張ったり
書籍や論文は一切引用できないとか
どうしようもねえゴミだなwww
そしてなぜ自分で直接答えられないの?
鮮卑系王朝って何ですか?
拓跋国家って何ですか? 自分が要求するときはコレ↓なのにほんとひで
713 世界@名無史さん sage 2021/03/31(水) 01:06:45.37 0
>>712
いや全然
モンゴル帝国が中身がウイグル帝国だ、という説で
遊牧民の文明の交易云々という話の反論としているので
それがどんな学者がそのように唱えてて実際にどの書籍でそう述べてるのか確認取れなきゃ
その話を信用するもしないもないじゃない
しかも「よく言われる」という程に膾炙した説ならば通史本くらいに書かれてもおかしくないのだが
別にそんな事もなかったし書名訊ねるくらいは当り前の話じゃね? >>779
> 鮮卑系王朝って何ですか?
横レスだが、鮮卑が中国の内地を征服して建てた王朝のことだろ
具体的には北魏・東魏・西魏・北斉・北周・隋・唐だな
> 拓跋国家って何ですか?
鮮卑系の拓跋部族が中国の内地を征服して建てた国家のことだろ
具体的には北魏・東魏・西魏・北斉・北周・隋・唐だな 五胡以降の中国語がアルタイ系の言語なら
今の中国語はなぜアルタイ系とされてないのか >>957
アルタイ系の音が入ってくることと、その言語がアルタイ系であることはまるで違うことではなかろうか アルタイ諸語 : 膠着語
シナ・チベット語族 : 孤立語
全然違うがな >>781
字義通りの鮮卑系王朝というのではなく
こいつは隋唐が鮮卑OSを持った異質な異民族王朝であり
隋唐時代の口語が北方アルタイ系言語だと主張している
だから単に鮮卑が立てた王朝という意味ではないと思われる まず「異民族王朝」っていうけどそれは学術的でないよ
漢人王朝は鮮卑人王朝から見たら「異民族王朝」だし、普通は推奨されねーぞ >>786>>787
言語学のいろはも知らないゴミ
動画がソースで威張ってるゴミ >>788
で、杉山説とか森安説を引っ繰り返す話はあるの? 隋唐が鮮卑系の拓跋国家だって説を引っ繰り返す主張できないから
場を荒らしてるだけなんですねわかります >>789>>790
書籍も論文も出せずに動画とプリント貼っつけてソースと言い張ってる馬鹿がなにほざいてるのかしらねー
プリントとかお前がシコシコ作っただけじゃねえの?(笑) >>791
URL削ればわかるけど森安本人が阪大のサイト通じて出してるやつだぞ >>792
>>781が書いてくれてるし十分やろ
それ以上知りたかったら杉山の本を直で当たった方がいいぞ >>794
隋唐が鮮卑系とか話の前提でしかないんだけど
そんなことを主張するために必死に深夜まで粘着してたのかお前は?w じゃあ隋唐も鮮卑人による拓跋国家である、ここまでは前提でいいね? 隋唐の口語がアルタイ語だの女性の騎馬スキルだの鮮卑OSだのからはじまって
執拗なソース要求からの自分は動画ソースてで失笑
しまいに隋唐は鮮卑系の拓跋国家だと否定できない!(みんな知ってる)とか
防衛ライン下げすぎて草なんだ 拓跋国家は森安の説明だと
拓跋氏が王族である北魏・東魏・西魏のみならず,
それに続いて拓跋部族集団が支配層を形成した
北斉・北周・隋・唐王朝をひとくくりにして「拓跋国家」と総称する杉山案
とのこと
杉山の説明では
全ての鮮卑族が統合したわけではなく,
鮮卑の一部である拓跋氏を中核とする連合体であるゆえに「拓跋国家」という.
だってさ 中原の人口が激減して後に回復したということだけど、
後で入ってきた人間の大多数は中原から逃げていた漢民族や他の土地にすんでいた漢民族なんじゃないの? >>800
後漢の5600万から三国時代に800万に減って晋代に2000万になってるのは多分漢人の戸籍復帰が相当部分あると思うが
三国時代の各国の記録を当たってくと三国それぞれが数千から数万規模の非漢人部族を
内地に移住させる記録があって、記録に残らない移住なんかも考えると
具体的な数値では計算できないが晋の時点でも既に漢人の人口に占める割合が落ちてると考えられる
その晋も八王の乱、永嘉の乱と続いて洛陽や長安等の漢人の密集してるであろう地域で大虐殺が起こり
後のモンゴル帝国参考にすると草原で養える人口は100万〜150万くらいで
それが五胡十六国時代に部族ごとに入って来て華北に居着いたままになっているから
人口増加は漢人じゃないのか、というのは東晋ではありえるが
華北では継続的な遊牧民の流入のある北部はそうではないと考えられるな モンゴル帝国期って地球規模の気候変化で遊牧民の人口がかなり増えた時期なんでそのまま当てはめるのは無理があるよ
基本的に遊牧民と農耕民じゃ人口増加率が比べ物にならないし
華北への流入といっても都度吸収同化されるレベルじゃないのかね
結局胡人のコミュニティって歴史の中に消えてるし 専門家が当時の戸籍を研究した結果はこうだなあ↓
>後漢末の永寿3年(西暦157年)、戸籍登録人口は前漢末に近い、56,486,856人にまで回復した。
・・・後漢は滅亡した(西暦220年)。中国は魏・呉・蜀の三国に分裂したが、それぞれの戸籍登録人口は蜀が940,000人(西暦263年)、魏が4,432,881(西暦263年)、呉が2,300,000人(西暦280年)に過ぎなかった。
三国合計でも戸籍登録人口は一千万人に届かなかった訳である。ちなみに、この三国を統一した西晋(西暦265−316年)の戸籍登録人口は16,163,863人(西暦280年)であった。
実人口の減少はこれほどではなかったと推定されるが、西暦3世紀が中国史上、空前絶後の人口崩壊期であったことは確実視されている。
現に、中国の人口崩壊に乗じて北方の遊牧民族が南進し、次の4世紀には「五胡十六国」時代(西暦304−439年)がはじまる。 >>800
三国時代に合計1000万人だった人口が、西晋では1600万人に回復している
その「逃亡から戻ってきた漢人が復帰した」というのは、西晋時代の話だな。
北魏や隋唐ではない 減っても2千万はいる漢人に対して数万の移住北方民
そら吸収されるよね 一方、五胡十六国時代に移住してきた北方民族は数百万人
だいたい、漢人2.5人に北族1人、もしくは漢人3人に北族1人くらいの比率と推計されている。
もちろん、これは全国の話であり、首都や大都市ではさらに北族の比率が上がる
しかも、その関係は対等ではない。北族が支配者であり上流階級なので、影響力が大きい
そんな時期が何百年も続いた。10年や20年ではない。何百年だ。
「秦漢時代の中国人とは異なる、新しい中国人」とされるのも当然 >>806
何か、根本的なところを大きく勘違いしているようだな?
漢人はそこまで多くないし、北族はそんなに少なくない 匈奴が劉邦を囲んだ時の兵数が40万だからキャパはやっぱ人口100万↑だろう >>808
勘違いしてるのはお前だろ
その数字の根拠どっから持ってきてんだよ 草原で暮らしてる遊牧民が数百万人もいるわけないんだよね
牧草枯れるわ >>810
「だいたい、漢人2.5人に北族1人、もしくは漢人3人に北族1人くらいの比率と推計されている」
↑これは名著「中国征服王朝の研究」で知られる京都大学の故・田村実造名誉教授の説
宮崎市定は、「チベット系も含めると、陝西地方の人口の半分は異民族」と言っていた >>813
当時の戸籍の研究だろ
大昔とはいえ、意外と正確なんだよ統計は >>815
そこまで言い張るんなら、もう好きにしろや(笑) 遊牧民を過小評価してるマル経のデッドコピーみたいな連中はホンマ邪魔やな >>819
そもそも動画ソースで語ってるような奴に偉そうに言われても エジプト、メソポタミア、インダスと違ってなぜ中国文明が存続したかというと、
「ある場所で人口が激減しても、
中国は広いからどこかで生き残りがいて、
それが人口が激減した土地に流入するから」になるだろうな 唐代の中国の将兵は、短い期間に西アジアから東アジアまで移動し、
西はアラブ人・ペルシア人、東は倭人にいたる、ほとんどの民族と
対戦していたんだが、覇権国家というのもなかなかしんどいものだよな >>823
そういうのが錯覚だと思うんだよなあ
「中国」は、国というより文明圏
比べるなら、「中近東」や「インド」のような他の文明圏と比べるべきだろう 唐の故地である陝西省や山西省など、どうしようもない衰退地域だ >>824
> 唐代の中国の将兵は、短い期間に西アジアから東アジアまで移動し
節度使の高仙芝軍は、タラス河畔でイスラム軍にボロ負けしたあと、洛陽や長安に移動して唐朝をボコボコにしたな アテネやローマが衰退して、ロンドンやパリが栄える
洛陽や長安が衰退して、北京や上海が栄える
↑この2つは同じことだろ
「同じ古代文明でも、ギリシャ文明やローマ文明はダメになったなあ。それに比べて中国は広いから、1つの地域が衰退しても別の地域が栄えるので中国文明の繁栄は古代から持続している」
とかなんとかいうのは、錯覚というか幻想というか、とにかく無意味 錯覚も何も首都ローマを含めてすべての都市が機能停止して石器時代に戻った
西ローマと中国は同列には語れんな
東ローマはオスマン朝に座を譲る形で近代まで残ったが >>829
ローマ帝国が崩壊したといっても、さすがに漢みたいに人口が6千万から1千万人に激減したりはしていない
おそらく、これは人類史上最大の大絶滅 シナは、南下してきた野蛮人に占領された
古代黄河文明の民は、日本に移住した そもそも本当に漢民族が激減して数分の一になってたら文明が維持できるはずないだろ >>833
維持できてなかったら、なんで鮮卑が漢化するんだよ
馬鹿 >>834
漢化、漢化というが、漢字くらい古典を見て勉強すりゃ使えるようになるだろ 古典ではなく物質文化も継承している
長安、鄴、洛陽、許昌、建康、成都といった都市文明は漢代からそのまま存続するどころか
南北朝時代に反って規模が拡大した
例えば洛陽は後漢代は南北9里東西6里の規模だったが北魏代では人口増加にともな
東西20里南北10里に羅城を増築している 見よう見まねですぐ習得できるものを
日本人は莫大な費用と年月と人命を費やして学びに行ってたわけか >>829
ヨーロッパだってローマ人が人口数分の一とかになったわけではないはず
それでも文明は崩壊する
本当に漢民族が激減してたら
ヨーロッパどころじゃない >>838
いや、中国の人口が激減したのは確定した事実だ
大昔のこととはいえ、戸籍は意外と正確なんだよ。徴税とか、国家運営の基本だからな
戸籍から漏れた人間が何倍もいたなんてことはあり得ない もちろん、「大昔のことだ。誰もタイムマシンに乗って見てきたわけじゃない」とかなんとか言って、己れの信念を言い張り続けることは可能だ
それに対しては、「好きにしろ」と言う他はない 後漢代の中国何て封建制真っ只中の中世なんだから戸籍なんていい加減だよ
例えば三国志司馬芝伝によると郡県の民はみな豪族の賓客(私有民)になってしまい兵を徴発できなかったという 三國志を見れば分かるだろ?
魏・呉・蜀どの国も、必死で農業開発して商業開発して、税金を集めて、限界ギリギリまで徴兵して何十年も戦い続けている
当然、どの国も戸籍統計など必死になって作っている。
それでいて、三国合計した人口が、後漢では6千万人だったのが1千万人に激減した。
「残りの5千万人は減ったのではない。戸籍がテキトーだから漏れていたのだ」というのか?
それとも、「三国の領域外のモンゴルとかベトナムにとりあえず疎開していたのだ」というのか?
じゃあ、なんで曹操は北族を移住させて人口不足を埋めようとしたのだ?
「人煙まれなり」と当時の記録にも書かれているのはウソなのか? だから司馬芝伝とか三国志の随所に豪族が私有民として囲ちゃってまともに徴税も徴兵もできませんってあるから
曹操の腹心の許褚からして何人もの私有民を従える嗚主(荘園領主)だし基本的に三国のどこも豪族の寄り合い
日本も藤原家筆頭に荘園作りまくって統計人口が激減したけどそれと同じこと
それと曹操が烏丸、テイ、鮮卑、キョウなどの遊牧民を移住させたのは人口の穴埋めではないし
本当に人口が激減していたのならそこまでの攻勢に打って出れないだろう あと魏公や晋の諸侯が保有していた兵戸や田屯も魏公の個人的な私有民で戸籍には編入されていない
例えば晋書泰始二年には農官を罷免してその所轄の屯田民屯を郡県民としたとある
つまりは魏公自身が私兵や私有民を抱える封建領主の一人でもあったわけ
日本でも国家の財産である公民や公領とは別に天皇や摂関家が荘園や私有民をもっていたよね
それと同じこと この問題に以前から関心があるので幾多の本や論文を見てきたが、「後漢末から三国時代にかけての人口激減」は完全に定説だ
「実はそれほど減っていなかったのである」などと主張する学者は誰もいない 百歩譲って、たとえ戸籍から漏れている人口が専門家の推計より遥かに多かったとしても、
「北朝の人口比率は、漢人2.5人に対して北族1人の割合」というのは比率の問題だから間違いない >>843
> 基本的に三国のどこも豪族の寄り合い
豪族の寄り合いなのは、漢代も同じだ。
三国時代に始まった傾向ではない
> 藤原家筆頭に荘園作りまくって統計人口が激減したけどそれと同じこと
それは東アジア共通の均田制崩壊期、つまり中国では唐の後期に起きたことだ >>847
またその妄想か
嘘を百回言えば真実になるを実践してるゴミクズ ウヨキッズは妄想や動画ソースじゃなくてまともな知識で語りなさい >>850
以前から感じてたが、お前は本物のバカだな(笑)
心から軽蔑しかわいてこない 「漢朝が滅亡して三国時代に入ると、豪族の荘園が広がって均田制が崩壊しました」という、どうしようもない誤認識
貴族の荘園が広がって均田制が崩壊したのは、唐の後期のことだな 漢文を読み書きするからといって、漢人とは限らない
ラテン語を読み書きするからといって、ローマ人とは限らないのと同じだ
実際に日常会話がどうだったかは、聞いてみないとわからない >>851
馬鹿はお前だよ
毎回短文でくだらないこと書き込んで、しかも根拠が全くないもの
賃金も低そう >>853
お前もなんか書き込んでるけどチンパンジーだもんな(笑) 始皇帝による全国的な郡県制で一旦封建制が終わって
漢代に郡国制と言う形でかなりささやかな形で復活して
魏も一応ちょっとだけやってるけどこの時期まで来たらほぼ消滅かな?
宮崎市定が武川鎮軍閥関隴集団について封建制の性質を有してたと論評していたが
この集団が鮮卑の遊牧民的、部族的な特徴を残しており
部族単位での資産や兵権の保持を認めざるを得なかったという
古代の氏族単位で封建制が成立した時代に相似する社会構造になっていたということが伺えるな >>853
聞いてみないとって、
少なくとも後世の記録からは話言葉も中国語だったんでは? >>860
鮮卑語の話し言葉が絶滅してる時点で察し >>861
お気持ちをお察しするような事で学問って成立しないから
後世の記録から、というならちゃんとその記録がどのような存在か説明しないと説は不成立 >>862
日常会話が中国語以外の未知の言語だっていう主張こそ妄想お気持ち発表なんだが 武川鎮軍閥の武人たちが鮮卑語だったってのは、当時の記録にも残っている
そいつらが関隴集団となり、隋唐帝国を建てた 北魏の漢化政策の一環で朝廷で「北俗之語」を使わないように、という命令が出されてるな
つまりこの時点までは漢語以外の言語が朝廷で使われており
また朝廷の外では以降も通用していた、ということになる
後世の記録ではこれ以降どのように推移して鮮卑たちの言葉が消滅してしまうのかはよくわからないね
>>863
現在の中国で話されてる言葉は多種多様
普通話という満洲人の朝廷で使われた北京官話からなので漢民族の言語と満洲民族の言語の混合されたもの
漢民族の言語で一番由緒正しいのは客家語でこれ以外は結構他の民族の言語が混ざってる >>864
では貴方が根拠としたその「後世の記録」とは何か
記録されたものの名前くらいは書けるよな? >>867
普通に史書
隋唐代の話し言葉がなんか異様な言語だって言うならソース出しなね >>867
お前は動画とプリントがソースのくせに相変わらず偉そうだな
ゴミのような人間性だ >>868
「異様な言語だった」という主張はしてないのでソース出す必要もないな >>870
シーライオニング乙
そもそもお前がまともなソースを出す番だ >>871
中国語以外の未知の言語を喋ってたといいたいんじゃなければ単なるダル絡みだな
邪魔だから消えな とりあえず「後世の記録」の記録名の名前と該当箇所の抜き書きしてからにしてくれ
ちなみに「北俗之語」は魏書孝文帝紀太和19年の詔勅だ >>874
記録がないっていってんのに記録名を抜き出せもくそもないもんだ
悪魔の証明って知ってます?
ちなみにその北俗語ってのは鮮卑系の語彙のことな
文法構造や語彙を一緒くたにしようとするのは言語学の常識もない証拠 >>875
>>859を見ろ
859 名前:世界@名無史さん[] 投稿日:2021/04/01(木) 12:22:14.17 0
>>853
聞いてみないとって、
少なくとも後世の記録からは話言葉も中国語だったんでは
と言ってる以上記録があるという前提で話を進めているのは君なので
記録名およびその記述を用いてどのようにその結論を導いたか説明せよ
それと語彙云々と言う説明をしている論文でも持って来るべきだね
〇〇之語の用例を見れば
魏書の文帝拓跋沙漠汗紀
自帝在晉之後,諸子愛寵日進,始祖年踰期頤,頗有所惑,聞諸大人之語,意乃有疑。
で「諸大人之語」は「聞」するもので話し言葉であり語彙を表さない
同じく魏書の宣武霊皇后胡氏傳
時人為之語曰「陳留、章武,傷腰折股。貪人敗類,穢我明主。」
これも語彙の意味ではなく人々はこのように語ったという意味でそちらの主張とは相反する >>876
いやその文持ってきたところで何も覆せてないが。
仮に語彙だけの話じゃないとしてもそれが中国語や漢文と全く違う北方系の膠着語であったとそれこそ「どこに書いている?」という話
単に北方訛りの中国語であるという可能性のほうが高いね。
五胡が中原に到来してから何百年経ってんのって時点の話だし
後世の記録(いずれも中国語で記録)を見る限り当時の話し言葉も中国語だろって話であって
いちいち説明する必要ないと思うけど日本語もまともにわからんのかね >>877
うん、じゃあその説を補強する「後世の記録」を出してね
論理の部分に君の思い込みしか書いてないよ >>866
混合というか、
満州語の影響をわずかに受けただけだろうな
日本語に対する英語の影響よりも少なそう 凄いな
「語彙だったんだ!語彙に決まってる!」しか言ってねえ 「古代漢民族は絶滅して北方民族に入れ替わった」という話と、
朝廷で北方民族の言葉が使われていたという話は分けないと >>878
思い込みはお前がやってることでしかないけどな
なんも立証できていないもん
一方でこちらはいくつも根拠を挙げてるよ
・北魏代で既に漢化が相当進んでおり言語も中国語化が進んでいたと考えられること
・鮮卑語の記録がないこと
・鮮卑語が現在死語と化していること
・後代及び現代中国語における鮮卑語の口語の影響が極めて僅少であること
他の地域の例で考えてみても、バイキングが支配者として君臨したロシアやノルマンディー、イギリスなど
いずれも少数の支配者の言語は数世代で話されなくなり、庶民の口語を塗り替えるに至っていない 武川鎮軍閥の武人たちが鮮卑語をしゃべってたのは、当時の記録にも残っている
そいつらが関隴集団となり、隋唐帝国を建てた >>883
で、漢民族にくらべて遥かに少なかったからすぐに中国語話者になったと >>882
とても「少数の支配者」なんてものではない
北朝ではだいたい、漢人2.5人に対して北族1人くらいの人口比率だ
しかも、この両者の関係は対等ではない。北族が支配者であり上流階級なので影響力は大きい >>882
唐代の言語で書き文字を持たない口語だけの言語って
他の言語もほぼ消えてるし、どれがどの言語の影響かってほとんどわかってないぞ?
それ全部根拠になってないよ
それより先に主張した>>859で言う後世の記録まだー? >>884
いや、たしかに漢人のほうが多かったが、それほど差はなかった
とくに、隋唐の本拠地である陝西地方では、「あいなかばした」と宮崎市定も言ってた >>881
そうだね
でも実際に北方民族の言語が保持されてたのってかなり短いと思うよ
満州人のアイデンティティを守ろうとした清朝ですら、満州語は初期の時代でほとんど用いられなくなり、
中国語に満州要素が加わった北京官話がもっぱら使われたので
皇室も満州語ネイティブではなくなった
いわんや鮮卑語をや >>883
そんな記録はないな
喋ってたのは鮮卑訛りの中国語だよ
おまえリーベンレンアルヨっていう中国訛りの日本語と同じ >>886
後世の記録で鮮卑語を使ったという記録はないよ
あるというなら出してくれ
ないことの証明はできないからなあ >>886
影響わからないうえに現在も残ってない言語がなぜ口語として優勢だったと判断したのか根拠を示せよ ノルマンディはノルマン方言が生まれて従来のフランス語とは異なる特徴持ったよな
イギリスの場合、ノルマン人の襲来の後でブリテン人の王朝が復興して、を繰り返して
最後のトドメにノルマン方言フランス語話者のウィリアム1世がイングランド王になった
少数のフランス貴族がイギリスを支配する事で中英語に変化した
むしろ少数の支配者の言語がちゃんと後世まで影響を及ぼしてる例だよなぁ…うーん… >>893
わかってねーなあ…
言語接触による語彙や文法の変化と
語派・語族レベルの転換って次元が異なる話だぞ
ノルマン人やデーン人が支配したイングランドの言語は
古英語にノルマンやデーンの語彙や文法の影響を与えたが
結局言語は英語のままなんだよ
中国もそれと同じで、中国人の使ってる言語は通時的変化をしつつ基本的に同じである 中国で鮮卑語が口語として優勢になってたというなら
古代エジプト語がイスラムの征服でアラビア語に取って代わられて、
直接の子孫がコプト語って形で細々と残っているというような形になってるはずだろ
現実は鮮卑語が死語化して中国語話者が13億人 >>895
いや、妄想ではない
「北朝ではだいたい、漢人2.5人に対して北族1人くらいの人口比率」
>>810
「だいたい、漢人2.5人に北族1人、もしくは漢人3人に北族1人くらいの比率と推計されている」
↑これは名著「中国征服王朝の研究」で知られる京都大学の故・田村実造名誉教授が、当時の戸籍統計を綿密に研究した推計による
宮崎市定によると、「チベット系も含めると、陝西地方の人口の半分は異民族」だった >>896
漢と唐では、同じ文字を使っていても、発音が大きく異なる >>892
隋書李徳林傳を読むと
武帝嘗於雲陽宮作鮮卑語謂羣臣云
と北周武帝が鮮卑語で臣下を会話している様子が記録されてる
臣下もこれに鮮卑語で返答した事から、北周の朝廷では鮮卑語が用いられていた事がわかる
また北史等でも官人が「能く鮮卑語に通じる」という評価で出世する様子が記録されており
孫搴傳には「能通鮮卑語,兼宣傳號令,當煩劇之任,大見賞重」と書かれている
彼は鮮卑語が上手だという評判でもって貧乏人の出ながら、軍における号令係として出世し
最終的には名誉鮮卑扱いになり妻韋という鮮卑姓を賜る事になった
拓跋国家において鮮卑語というのはそれだけ上流階級が使う話し言葉としての地位があった >>898
日本語だって600年の間に変わりまくってるのでは? あーすまん
賜妻韋氏とあったんだが妻韋氏を賜ったと読んでしまったが
他の鮮卑姓を賜る時の表記が賜「姓」〇〇氏だから
妻に韋氏を賜った、という意味だった
名誉鮮卑云々というのは誤読だから訂正しておくわ 「北斉書」によると、東魏・北斉の高歓は三軍に命令するとき、常に鮮卑語を用いていた
鮮卑人は、漢人の朝士を軽んじる傾向があった >>894
デーン人は古ノルド語印欧語族ゲルマン語派か
古英語は印欧語族ゲルマン語派か
なるほどね
それで中英語印欧語族ゲルマン語派で
ノルマン語とアングロ=ノルマン語はイタリック語派として
貴族社会で使われたが今では残ってない、と 時代によって発音が変化することと
別の言語に入れ替わることが同列か
せめて言語学の初歩くらいは囓ってこい >>905
同じ文字を使っているからといって、同じ言語だと決めつけるべきではない
漢文なんて、日本人も朝鮮人も読み書きしてるんだぞ
それと日常会話はまったく別 「同じ文字を使っているからといって、同じ言語だ」なんて誰も言うてないやん
幻でも見えてんの? 唐人をタイムマシンで漢代に連れてったら(逆でもいいが)、会話はまったく通じない
漢文で筆談するしかない この時代の漢文、漢語を中国語と言うことで勘違いが増えるんだよな
中古の漢語を中国語と言うのは政治的過ぎるから止めた方が良いし
漢人も中国人とするのは政治的主張だなー >>906
じゃあ違う言語を使っていたという根拠をだしなさい >>899
それ北周が反動的に鮮卑文化の復古を企図した国だったから
復古趣味としてそう振る舞っていたにすぎないぞ
そもそも自然な言語現象というより人為的な言語政策だ
その割に国制は古代周を理想にしたりわけわからん国だよ
北周が潰れたら皆漢姓に戻してるし察し 孫搴は北魏東魏の人だから北周に限った話でもないんだがなー >>909
いちいち政治的とか言ってるのお前だけやん このスレも終わりだな
壊れたバカ左翼が1人いるせいで、北朝の話から先に進まない
「隋唐帝国」なのに、隋の手前で止まっているな(笑) >>914
馬鹿なのは妄想しか語らない無知無知のせいだぞ 政治的主張がしたい人がいるねー
やけに漢人や漢民族を定義したがるところに透けてみえるわ否定しかしてないくせに 現実を指摘するとサヨク連呼してくる奴ら
普段どんな馬鹿な言動をしてるのだろうなあ 散々ウヨクのなんのと言ってた奴が言ってる事だと思うと片腹痛いな ええから、言語学の初歩くらい囓ってから出直してこい
もし、言語学くらい知ってるて言うんならどんな文献で学んだか書名挙げてみろ 言語学がとか言う割には言語学的な論文の引用も何もないよね >>899
鮮卑民族主義に目覚めた北周が無理して復活させた鮮卑語を
貴族がいやいや使ってる状況が目に浮かぶわ
しかも上流階級の話し言葉って自分で言ってるし
やっぱり支配下の漢人や胡族が話してたのは中国語なんだよなあ だいたい鮮卑語が上手くて出世できた漢人が特筆されてる時点で
大多数の漢人は鮮卑語ネイティブじゃないってことじゃん >>922
あれれ?すり替えが始まったぞ〜wwwwww
関隴集団の言語が鮮卑語だったという話をしていたのに
一般人は〜とか言い始めちゃったぞ〜 >>924
いやそんな話元からしてないけど
してると思ってたならお前が文盲かアスペなだけ もともと隋唐の話し言葉がアルタイ系って話から始まったのに
時代は北魏や北周に変えるわ
対象は支配層や関隴集団に変えるわ
すり替えまくってるのは鮮卑厨の方だぞ 歴史学のお話をさせて貰うと宮崎市定の各種書籍でもそうだが
内田吟風の「北朝政局に於ける鮮卑及諸北族系貴族の地位」は
基礎の基礎だから、それを読んでない発言はぶっちゃけゴミでーす
谷川道雄の「初期拓跋国家における王権」とかも是非抑えて欲しいね
昨今の拓跋国家論だのなんだのに影響を与えてる半世紀以上前の論文だからヨロシク
>>926
おっと更にすり替えが始まりました!
それは鮮卑であることを説明するための派生の議論で
レス番300前後くらいからの鮮卑かどうかの話に付随するものなので
そこを「もともと」というのはすり替えでーすwwwwww >>927
また発狂かよ
463以降の流れ百回読み直せ
議論に負けそうになるとすぐ論点そらすからな、ごみ箱 鮮卑であることを説明するための議論(笑)
またそこに防衛ライン戻すのかよ
早く謝ればいいのに馬鹿だよね まあ中国での言語の入れ換えみたいのは周以降はまず無さそうだね もうレスが900超えてんだぞ、いつまでやってんだ
何がなんでも相手より長く続けて、最後は必ず自分の勝利宣言で締めくくろうとする
それが左翼の爺さんの好む手法だ。
頭は悪いけど、頑固さでは負けない(笑) >>899
>武帝嘗於雲陽宮作鮮卑語謂羣臣云
>と北周武帝が鮮卑語で臣下を会話している様子が記録されてる
>臣下もこれに鮮卑語で返答した事から、北周の朝廷では鮮卑語が用いられていた事がわかる
これは恣意的な引用よいところだな
原文の続きを引用すると「我常日推開李コ林名,及見其與. 齊朝作詔書移墩我,謂其是天上人。當
言今日得其驅使,復為我作文書,極為大異。」
おれが鮮卑語で喋ってるのにうまくその意を組んで文書を作ってくれて李くんはまじ天才児だわー
って意味ね
武帝は常々鮮卑語を使っていたけどそれを理解できる人が少ないからこそ褒められているわけ
北周で鮮卑語が日常会話としてつかわれていたのならわざわざ「作鮮卑語」なんて特記しないからね
まぁ孝文帝の「断諸北語」(すべての北族の言語を根絶やしにする)政策から半世紀しか
まだ経ってないからある程度は鮮卑語を解する人はまだいただだろう
しかし君が引用している数々の伝にある通り鮮卑語理解できること自体が特筆する程度には
話者が少なくなっていたわけだ そりゃそだろ?
鮮卑語は書き文字ないんだからどうしても漢語等に翻訳する作業を経るんだし
綺麗に翻訳してくれたら嬉しいよな 書き文字なくても万葉仮名みたいに転写すればいいぢゃん
いくら鮮卑意識高くてもやっぱ正文は漢文なんだよね そういう天才的な発想できるのって日本だからこそなんだよなぁ >>938
万葉仮名的な漢字の使い方って三韓のパクリなんだが この場合の三韓って、高句麗・百済・新羅の三韓か馬韓・辰韓・弁韓の三韓のどちらですか? >>946
高句麗は扶余族であって、満州族(マンチュリア)とは関係がない
満州族は、満州に住んでいる民族を指す意味ではない 高句麗が扶余というのは自称であって実際は系統不明
それと金も清も高句麗の後裔を名乗っているので無関係ではない
考古学的には高句麗と渤海は靺鞨同仁文化に属し、この文化は10世紀以降に女真文化とオホーツク文化に分岐しているので
単なる権威付けの自称とは言えない >>949
言語学的には、高句麗も渤海もツングース系であり、女真族も同じくツングース系の言語だったので、文化圏的には繋がりはある
それは大前提の話だ
だからといって、高句麗が女真族の祖先が建てたとか、満州族またはその近縁だったといわれれば、それは明白な誤り 明白な誤りと言うのが明白の誤り
高句麗時代の集落がそのまま女真時代まで連続しているのはどう説明するのかね? >>951
そもそも、女真族というものの成立が高句麗よりはるか後世に成立したものであるのが前提なわけで
相互的に影響し得ない、かつ一度は文化的に途絶(都市文化としての遺構は一度消えている)したものを、近縁とは呼ばない
高句麗、渤海といった古代ツングース文化の影響を女真族が受けていることは、何度も言うが否定しないし、できない
もちろん、新羅、高麗といった朝鮮王朝も、ツングース文化の影響をかなり強く受けている(現代の人々は否定するかもしれんが) 意味が分からない
女真は高句麗の後裔にあたる存在なのだから「相互的に影響し得ない」「はるか後世に成立したもの」なのは当然
そして都市がなくなったから文化的に途絶というのは間違ってるだろ
都市=文化というのなら都市を持たない民族は最初から文化をもたないことになるぞ >>953
高句麗は都市型かつ農業型の文化だったんだけど
その都市が一旦途切れていることは文化の途絶そのもの
そして、女真族は遊牧民などの影響も受けて半農半牧の文化に変化している
で、古代ツングース系の文化の影響を受けていることと、高句麗・渤海の直接的後裔であることを必ずしも意味しない
だから近縁ではないと言っている
影響を受けいて、同じ土地にいたとしても、直接的な後裔とは限らないってのは大陸の文化では良くあることだろう
アナトリアやハンガリーという物凄くわかりやすい例もある 高句麗渤海と女真の関係は
ホモサピエンスとチンパンジー
ってイメージ 高句麗は満州の地に興り、数百年の後に南下して北朝鮮を支配した
韓国とは地理的にも民族的にも、ほとんど被るところのない完全な異国
高麗神社で反日朝鮮人どもが「日韓友好ニダ」と騒いでいるのを見ると吐き気がする >>952
粛慎と夫余高句麗の言語わ違うと断定されてるから
全く別個の文化,民族 https://www.kobe-np.co.jp/news/sougou/202104/0014214675.shtml
2021/4/5 17:44神戸新聞NEXT
「お言葉-」シリーズ 中国文学者・エッセイストの高島俊男氏死去 姫路市在住
エッセーシリーズ「お言葉ですが…」などで知られる中国文学者、エッセイストの高島俊男(たかしま・としお)氏が
5日午前9時3分、心不全のため兵庫県姫路市内の高齢者住宅で死去した。84歳。
同県相生市出身。通夜は6日午後6時から、葬儀・告別式は7日午後1時から、
いずれも姫路市本町68の101、しらさぎ大和会館で。喪主は妹森澤敦子(もりさわ・あつこ)さん。
県立姫路東高、東京大経済学部を卒業後、銀行勤めを経て同大大学院で中国文学を専攻。
岡山大助教授となるが、母親の介護のため職を辞し、在野で研究を続けた。
1987年刊の「水滸伝の世界」が丸谷才一に激賞され、一般向けエッセーも広く執筆。
95年から11年間「週刊文春」誌上に連載した「お言葉−」シリーズで人気を博した。
「本が好き、悪口言うのはもっと好き」で講談社エッセイ賞、
「漱石の夏やすみ」で読売文学賞など受賞多数。言葉への愛を終生貫いた。 高句麗は多民族国家だし韓国人のルーツの一つと思って間違いないよ
三国統一時の郡県のうち3分の2は旧高句麗だったのだから間違いなく混血はしているだろう 渤海国は靺鞨が建てた国で高句麗の遺臣や遺民も参加したといっても主たる住民は靺鞨人 高氏高麗、新羅、百済は漢四郡、帯方郡の影響から誕生したから漢王朝の地方史。朝鮮民族は王氏高麗から。 その論法で行くとヤマト王権とか邪馬台国も漢の地方史になるな >>962
>朝鮮民族は王氏高麗から。
王建自身がどこの国の人かは諸説あるけどな >>963
李氏朝鮮は大清帝国の一部であり、いま風にいえば「朝鮮族自治区」
韓国は、近代日本が大陸から切り離して創った国 漢の話からいきなり清に話題そらしとか
相変わらずの馬鹿だね 抑々和人の九州系邪馬台国大倭国と継体以降の畿内系日本国
足利以降の東国武家王朝は少なくとも文化と部族違うよな 古代の九州・近畿・関東かんて、まるきり文化が違うわ
どんだけ離れてると思ってんだ 空白の100年になにがあったのか
古代日本史永遠の謎
魏晋南北朝隋唐のように異民族が入り乱れたのか 平安末期から足利義満の300年間も空白の大乱期じゃん 細長い国土、多くの島々に分かれる島国、山あり谷ありで細分化された山岳国家、森林は多く、沼沢や湿原も多い
統一しにくい要素に満ちているのが日本
中国のほうが統一しやすい 朝鮮人も、本音は日本に統合されて日本人になりたかった
内地への嫉妬が、彼らの運命を狂わせた >>965
倭王武の上表文
封國偏遠作藩于外自昔祖禰躬擐甲冑跋渉山川不遑寧處
我が国は封国(皇帝が諸侯に与えた領土)でありますが辺境にあるため化外の地に藩をなしております。
先祖代々甲冑を身に着け山川を問わず分け行っては陛下のために戦功をあげること暇がありません。
中国の諸侯を自称していることを考えるとワカタケル大王の本当の出自って漢人系の渡来人かもな
この上表文にしても完璧に呉音で音韻を踏んでいてネイティブではないと書けないと言われるぐらいのレベルだし >>977
新羅と百済の支配を、南朝の皇帝から承認されたんだよな >>978
冊封国側でちゃんと作文して持ってくパターン
案内役が文章の体裁整えて作文してくれるパターン
記録を残すのは漢文が掛ける文人できっちりとした書き直して記録してるパターン
隋書にあるアハケミのアマイタリシヒコの文章も間に入った朝鮮人が作文した説とかあるしな
他にも漢人系じゃない人々の上奏で普通にそれっぽい定型文残ってるから
パターン2と3のどっちかなんだと思われ >>979
要約すれば、新羅と百済は倭の属国だったってことだな 中国人にとっても、唐朝ともなると古すぎてイメージがわきにくい 日本と違う 中国の歴代王朝の寿命が短かったわけ
http://news.searchina.net/id/1698195?page=1
300年を超えて続いた王朝はない。
東周は500年以上にわたって続いたとはいえ、その歴史の大部分は多くの国が生まれては
滅びていった春秋戦国時代であり、国として存続していたといえ、中国の大半を支配していた王朝とは言い難い。
また、漢は前漢と後漢を合わせれば400年以上になるが、途中で滅んだので中断しており、
比較的長く続いた唐、明、清でも300年を超えることはなかった。
「農耕国家」だった時代において、国は農民が主体で土地が重要になるが、疫病や自然災害、
外部からの侵略などの要因で土地を失うことが多々あったと分析。このため農民の反乱が
繰り返されてきた。また、地方の支配者が収穫を隠して自分の力を蓄えることで中央の力が小さくなること、
皇帝がぜいたくな暮らしをして王朝を衰退させてしまうこともたびたび起きたとし、これが中国に
300年以上続いた王朝がない要因だとしている。
では、なぜ日本の皇室や欧州の王室は長く続いているのだろうか。「貴族による統治だったからだ」と分析。
権力を少数の貴族が握り、血筋を保つことで権力を維持してきたとしている。しかも欧州では長期間にわたって
宗教の影響力も強かったので、信仰を前にすると王室を翻そうという人はいなかったのだと論じた。 >>984
でもローマなんか王朝物凄い短いで
200年続いたパレオロゴス朝だけ例外で他は百年も続かん
一番最初のユリウス・クラウディウス朝も五代百年や
(アウグストゥス、ティベリウス、カリグラ、クラウディウス、ネロ) >>985
東ローマの後期までは「王朝」という考えそのものがかなり希薄かなと ローマ帝国だと、兵士が出世して皇帝になるとか普通にあっただろ >>986
ガチガチの封建貴族政国家で王朝政治ド真中
中華王朝は官僚政治に寄ってる
日本列島も女王→大王→倭の五王→継体朝天皇→足利将軍→徳川将軍→天皇 >>984
日本も徳川の約300年が最高だからな
日本は天皇が古くからいたけど実質的な王朝は幕府だったからな このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 81日 7時間 14分 35秒 5ちゃんねるの運営はプレミアム会員の皆さまに支えられています。
運営にご協力お願いいたします。
───────────────────
《プレミアム会員の主な特典》
★ 5ちゃんねる専用ブラウザからの広告除去
★ 5ちゃんねるの過去ログを取得
★ 書き込み規制の緩和
───────────────────
会員登録には個人情報は一切必要ありません。
月300円から匿名でご購入いただけます。
▼ プレミアム会員登録はこちら ▼
https://premium.5ch.net/
▼ 浪人ログインはこちら ▼
https://login.5ch.net/login.php レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。