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邪馬台国畿内説 Part385
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0001◆UiepmfCeDJqf
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2018/10/06(土) 12:51:04.19
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1538492111/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0201日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:11:56.75
>>196
ウソをつく人間と、つかない人間とかな
0203日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:14:05.75
ど素人ですが

「大倭」が「大和」に変わった経緯がわかりません
文献があるのでしょうか
もしくは別の圀でしょうか
0204日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:15:41.55
>>790
>>説文解字時代の「冢は墳の一形態である」という立場での説明であり、<

>冢とは高い墳のことだと言ってるね 冢だから小さいと言い張るのは
ウソだから、×だ<

ダメだな。
説文解字のような辞書的な文書は、
その文字の持つその当時の「全ての意味を記載する」ものではなく、
あくまで、近似的な、類似文字や表現での説明でしかなく、
100%完全はイコールでない。
そして、3世紀時点での実際の「冢」の使用例が、
孔明の遺言や魏志の馬韓伝や倭人伝にあるんだから、
そこで使用された意味の方が、説文解字の説明よりも価値がある、という事になる。

そして、孔明の遺言や馬韓伝の「冢」の説明「では、家屋程度の大きさの物に対して使われている、
という事が実態であり、
説文解字の「高」は、その程度の高さのもの、という事になる。
例えば、日本の竪穴式住居程度。
0206日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:16:30.35
>>203
もう誰だかバレてるよ
0207日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:17:41.51
>>201
そうだな
組織ぐるみで嘘をつくのもアリかな
0208日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:18:52.75
>>4
>また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、
>後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など
>3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。

一連の地名起源譚等って具体的に何?
0209日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:18:56.52
>>203
倭はあまりいい意味じゃなかったから
和にして大倭を大和にしたと唐書だったか何だかにある
0210日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:20:01.78
すいません、ちょっと長いんですけど書かせてください。
高校の頃、英語の授業に20代前半の結構イケメンなアメリカ人教師が来た。
授業は一人一人アメリカ人先生に名前を呼ばれ、前に出てマンツーマンで話をするっていう形式。
先生には授業前に生徒の名前をローマ字に直したプリントを渡してた。
授業が始まると片言の日本語で挨拶をする先生に女子連中はキャーキャー言っていたけど
それを結構厳しい口調で注意するような真面目な先生だったので、みんな真剣に授業に臨んでた。
授業は順調に進み、結構人気のあった女子の「新保(しんぽ)さん」の番になった。
先生はそれまでやってきたように大きな声で彼女の名前を呼んだ。

「ジャアツギノヒトネ。ンーーアーー・・・ちんぽ!ちんぽサン!」

生徒は一瞬凍りついた。教室にいた全員が瞬時に「笑ってはいけない!」と思った。
でも、たぶん「シンポ」と言っているんだろうけど、どう聞いても日本語の「ちんぽ」だったし
「それまで片言だったのに、なぜよりによって「ちんぽ」の発音だけがこんなにもネイティブなのか」とか
「なぜか「ちんぽ」に敬称を付けている」とか考えだすとみんな耐えられなくなった。
結局新保さん以外の全員が爆笑。新保さんは顔を真っ赤にしてうつむいていた。

その様子を見ていたアメリカ人先生は状況が飲み込ていないようなのだが、
生徒の一人がみんなの笑いものになっている状況だけは理解できたのだろう
突然般若のような顔になりその爆笑をかき消すかのような大声で「シャァァラッップッ!!」と全員を一喝した。
その表情とテンションの凄さに、教室は水を打ったように静まり返った。
しかし先生の怒りのボルテージは上がったまま。

新保さんの肩に手を置くと「ナンデ?ナンデミンナちんぽをワラウ?ちんぽガナニカシタ?」
全員が「まずお前のせいだ。あと男性生殖器の名称を連呼するのをやめてください」と思っていたと思う。
その後、慰めようとしたのだろう、先生はやさしい口調でうつむいて座っている彼女に語りかけた。

「ちんぽゲンキダシテ。マエニキテクダサイ。ちんぽスタンドアップ!」

新保さんも笑った。
0212日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:22:39.94
(倭よりも)和を以て貴しとなす・・・詠み人知らず
0213日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:25:31.50
>>801
>わるいけど奴婢埋葬の痕跡がないうえに前方後円墳の後円部だけを解釈とした箸墓とか、
恥ずかしいくらい小さな方墳の平原や祇園山という、
レベルの低い話はやめてくれ。<

わるいけど、「南→東」などという嘘つき騙しになるレベルの低い話はやめてくれ。
0214日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:29:20.10
しかし大倭を大和にして中国に周知させたのは政治的勝利と言えなくもないな
0215日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:30:29.32
>>213
理由も言わないザラコク街宣車
0216日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:33:52.09
>>210

安らぎ有難う
多分 その教師 女性だったでしょう
新保の苗字は東北に多いですね

私の知人にも「新保」君います 青森の出身
「さん」をつけるとおもしろいです
「しんぽ」から「チンポ」は無いですが

「さん」がキー
「シンポサン」と言うと「チンポさん」に聞こえます
0217日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:37:53.51
これは 各説いいですよね

「北部九州は倭国の一員」

ここからが分かれ目でいいですよね
0218日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:39:45.59
>>214
大倭だろうが大和だろうが
当時の中華帝国は小国日本をまともに相手にしてなかった思うよ
0219日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:41:28.28
>>807
>人が九州説になる三つの理由 ・ばかだから ・無学だから ・心を病んでるから<

人が大和説になる三つの理由
・「戦前の万世一系皇国史観」のにクルったばかだから
・無学無能で自分で考える事が出来す、政府文部省やマスコミや学会教育界に忖度して生きて行くしかないから
・唯我独尊の排他的殺戮的思考に心を病んでるから
0220日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:43:41.63
>>809
>ヒミコことヒメ(のちに踏鞴と五十鈴を加えられ姫蹈鞴五十鈴媛)の住んだ葛城に、
径百余歩の奴婢が埋葬された塚を探さねばならない。<

「南≠東」などに拠って、×。
0221日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:43:59.35
>>183
ちゃうね
倭人伝では東南とか8方位だから
南を東とする根拠は無いね
0222日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:47:22.06
>>219
ザラコクはパクリ男
0223日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:50:07.07
>>217
>これは 各説いいですよね
「北部九州は倭国の一員」
ここからが分かれ目でいいですよね <

OKだよ
北部九州までの方位はあたりで その後の方位が間違ってるで良いよ
0224日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:51:41.09
>>223
末盧からもう間違ってるだろ
0225日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:55:24.17
>>218
イヤ相手にせざるを得なかった
兵を出して平定維持するのも面倒な場所にあるし今の所はとりあえずは従順だし
騒がれたら面倒なポジションだったんだろう
0226日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:55:56.58
>>832
>>(冢は)錐体のように土を盛った墓であった事が分かり、
前方後円墳は否定される。<

>箸墓で問題ないようだ<

孔明の遺言の「冢は棺を容るるに足りる」や、
魏志馬韓伝の「居處作草屋土室、形如冢」に全く合わないから、
箸墓は×。
0227日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:59:37.82
>>833
>後世、大和朝廷が大宰府を大和に設置したわけがない、設置するのは遠隔地だ
よって大率は女王国ではなく女王国の遠方に置かれていたはずである
そして設置された大率によって検察された諸国は女王国の以北にあった
ということは女王国は伊都国などの倭の諸国のはるか南方にあったことなる
そこが九州南部でないとするなら、邪馬台国は沖縄以外にはないという結論になる<

不彌國で、萬二千余里がほぼ終了しているから、
邪馬壹國女王之所都は、不彌國の南の筑紫付近になるから、
沖縄は×。
0228日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 19:59:58.47
>>226
そんなの漢文読めない奴ならではの誤読だから
なんの問題ない
0229日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:04:47.27
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0230日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:05:49.81
墳>塚でいいんでねんーの
誰かが書き込んでいたが
倭人伝では なぜ塚と表現したのか研究すればいいんでねーの
0231日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:07:47.66
>>227
不彌國で萬二千余里がほぼ終了しているなら
会稽東治之東にならなくて
九州説終了
0232日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:08:17.05
>>841
>ほんと九州説は無智無学だな
中国の冢は往往にして上に被葬者を祀るお堂みたいな建物がある
つまり平らになってる 尖ってると思うのが妄想<

祇園山の場合の説明で、「錐体台」的だ、と言って来ておいた。
0233日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:10:45.37
>>230
ウソだからダメだろう
0234日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:11:04.27
邪馬台国はヤマト国、生駒葛城山系の東側
残りの畿内、河内和泉摂津山背は邪馬台国ではない

ヤマトは地形からつけられた地名、山の向こう側という意味。山外。
0235日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:11:54.87
近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。 クニ、クナ。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。


畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によってヤマト政権が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生した邪馬台国、ヤマト政権の主体は、尾張、出雲、吉備。

次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
初期のヤマト政権に虐げられていた元々の畿内の人々と関東の先住民が手を結び神功皇后応神を旗頭に立ち上がったんだろう。

神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
0236日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:12:38.95
東(ひむがし)の野に炎(かぎろひ)の立つ見えてかへり見すれば月傾(かたぶ)きぬ


真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨

白を纏った雲、香、
シラの姫を娶った香具山の勢力、蜘蛛、火明命を連想させるな

纒向遺跡の外来系土器の主体尾張は火明命の地
天香久山の山頂に祀られている国常立神、鬼門に封じられた神
尾張一宮は火明命だが、本来は国常立神と言われている

三輪 能

思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。

三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し邪馬台国、大和朝廷を作ったんだろうな。

サルタヒコの遺言。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立、阿波咋

国底立神、
国常立神、鬼門に封じられた神、天香久山に祀られている神、
阿波咋

倭国大乱を引き起こした張本人だろう
0237日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:13:15.67
伊勢内宮神前祝詞

天照大御神、又の名は
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある

天から遠ざかった向津姫
伊勢の向かい側は熱田台地
何か関係あるのかな

また、『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述される。

瀬織津姫を祀る槻神社のある三河と関係あるのかな?

卑弥呼とはどうなんだろう
0238日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:13:55.31
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力が関係していたのかもしれない

アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 猟夫ラガ 持タ木ノ真弓 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス豊日霎カ 御魂欲ス 本ハ金矛 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 三輪山ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、穴師ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 木綿取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
0239日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:14:48.43
邪馬台国の南の狗奴国
魏志倭人伝の狗奴国の版図は南河内と和泉だろう

元々狗奴国は畿内くらいの版図があったんじゃないかな
2世紀末の畿内征伐で、なにわ、北河内、ヤマトは卑弥呼を共立した勢力によって征伐されたんだろうな

狗奴国の官、狗古智卑狗は河内彦だろう
0240日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:15:35.98
杵築大社の天井図。八雲が一つ欠け七つしかないだろ。 あれは、紀元前後出雲地方の内乱の結果、神庭にいた出雲の王族が追放されたから。

出雲地方で元々信仰されていたのは、姫神の幸神、東!から来て文物をもたらしたクナトの神。そしてその子のサルタヒコ。 サルタヒコ一族は、オオナムチに破れるんだな。 そして、畿内など各地に逃げ延びる。
加茂岩倉遺跡との同笵銅鐸が各地で出ている。

1世紀、畿内に逃れてきた出雲族と元々畿内にいた集団が国作りを行なったんだろうな
狗奴国の建国、クナはクニだな
0241日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:15:51.18
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0242日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:16:15.92
サルタヒコ。
出雲族の姫神幸神と、クナトの神の子。
サルタヒコ、月夜見、大国主、卑弥弓呼は同一だろう

猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。

その近傍にイシズ川。サルタヒコが消えたのはイスズ川の川上。

猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北がアサカ、浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。

伊勢と同じものが揃っているんだな。
凄い偶然。

更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろう。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:17:00.19
サルタヒコは、方違幸大神や道饗祭の神々と関係あるかもしれない
八衢比古・八衢比売・久那斗

 道饗祭

高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
  八衢比古・八衢比売・久那斗と御名は申して辞竟へ奉らくは、
根国底国より麁び疎び来む物に、相率り相口会ふ事無くて、下より行かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守・日の守に守り奉り斎ひ奉れと、
進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備へ奉り、御酒は・辺高知り、・腹満て雙べて、汁にも穎にも、
山野に住む物は、毛の和物・毛の荒物、青海原に住む物は、鰭の広物・鰭の狭物、奥津海菜・辺津海菜に至るまでに、
横山の如く置き足らはして進る宇豆の幣帛を、平けく聞食して、
大八衢に湯津磐村の如く塞り坐して、皇御孫命を堅磐に常磐に斎ひ奉り、茂御世に幸へ奉り給へと申す。
  又親王・王等・臣等・百官人等、天下の公民に至るまでに、平けく斎ひ給へと、神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉らくと申す。

其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 

倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和
0244日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:18:10.66
ヤマタノオロチは、元々は丹後半島だろう。
王が殺されて、一族が畿内で逃げ延びた。
その後一部伊吹山辺りに移った可能性がある。
伊吹山、ヤマタノオロチの神霊が住むと言われているな。

ヤマタノオロチ族と風宮の神との関係が気になるな。

級長津彦命
級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子、鉄と関係あるかもしれない。

丹後半島に遅れて、畿内淡路島や池上曽根、彦根で鉄工房が始まるからな。

伊吹山、和歌では一途な想いの代名詞。

畿内に逃げ延びたヤマタノオロチ族は、助けてくれた勢力に恩義を感じていたのかもな。

伊吹山の神は、大和朝廷と最後の最後まで戦い抜いている。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:18:52.89
魏志倭人伝
邪馬台国の官

官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。

伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?

生駒は火の神。
生馬も藁が巻きつけられ、荒ぶって燃えると自らが燃えるようになされている。火の神か。

焼畑と何か関係あるのかな。
焼畑の遺跡の分布も気になる。
0246日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:19:39.22
古代史を考える上で牛鬼伝説も見逃せない。
鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。 ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。

次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。

その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また蓑火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。

古事記では、 事代主〜オオタタネコの子がタケミカヅチ。 石が牛鬼、古い海神を乗っ取るのに関係しているのかもしれない。

また久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミとも言えるんじゃないかな。

百襲姫と大物主神の箸墓伝説。
石が海神の姫である磯女を娶る話かもしれないね。
0247日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:20:38.22
やっぱりシラ、白も重要なキーワードだろう
しら、おしらさま、白日、天白、太白、しらぬひ、 石徹白イトシロ、白山

おしらさま伝承は伊勢以東、東海を中心に東北まで分布

白澤、人面の牛、牛妻
白も牛と繋がってくる

新羅も本来はシラ

白根、島根、鳥取→新羅、神奈川、埼玉みたいな勢力の移動があったのかな?

郡上市、白山中居神社の五段神楽の謂れも興味深い

五段神楽は、古代史上最大の王権をめぐる闘いに勝利した天武天皇の即位を称えて、
天下太平国家安全を五行相生の原理に基づいて宮廷の五節舞いと同様に天武期に越の宗廟(石徹白)と岩見、出雲等で舞われる様になった。
0248日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:21:01.27
会稽東治之東は
説を超えて正解だよ
0249日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:21:22.75
蝦夷は邪馬台国、初期のヤマト政権の残党じゃないか?
大墓公、タモ公、アテルイ
タモ 、魏志倭人伝に九州の不弥国の官に多模があるな

大墓公、大白公、太白公

東海〜東北にかけて、 天白信仰が分布している、何か関係があるのかもしれない

蜂子皇子や小手子とかもそうだし、東北は中央で権力争いに敗れた勢力が逃れる先だしね

ヒルコ、蛭子、蝦夷
日本書紀に寄れば、ヒルコが誕生した時には既に日神月神がいたとある

倭国大乱以前は倭国は男王が治める国だった
畿内を征伐して初期のヤマト政権を作った卑弥呼&台与の政権、男王を担げない不完全な存在。
ヒルコだろうな

蝦夷、アテルイはヒルコの系譜だろう
0250日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:22:00.05
潮嶽神社
ヒコホホデミノミコト(山幸)に追われたホデリノミコト(海幸)がこの地にたどり着き、居を構えたと伝えらています。
神話、海幸彦、山幸彦では山幸彦の影に隠れ、山幸彦ほど有名ではありませんが、海幸彦は隼人(南九州に居住する氏族)の祖といわれております。

隼人の祖は海幸彦。
海幸彦と山幸彦は対立していた。
海幸彦は内陸へ追いやられたとある。

山幸彦の子孫を自称する天武の時代に隼人の乱が起きたのは必然と言える。
0251日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:22:40.49
龍田神社
天武天皇4年(675年)4月10日に勅使を遣わして風神を龍田立野に祀り、大忌神を広瀬河曲に祀ったと『日本書紀』の記述が初見である。

祭神
天御柱命は級長津彦命(男神)、国御柱命は級長戸辺命(女神)のこととされている。

天武は息長タラシ系を滅ぼしたんじゃないかな
そして鎮魂したと

息長タラシ系の最後は大津皇子かな

ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

ももづたふ、敦賀や鈴。
イワレと鴨を恨んでいるのかな。
雲隠りなむ、太陽が雲に隠れるのかな。

金烏臨西舎 鼓声催短命 
泉路無賓主 此夕離家向

にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも

草薙剣に祟られた天武
こういう経緯があったからかもしれない
0252日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:23:41.36
>>806
>伊都国は「伊」氏の根拠地、というレスは関心深く読んだ。<

有難うございます。

>同様に、 邪馬台国や投馬国や斯馬国(ついでに対馬も)は、「馬」氏のテリトリーだったのかも。
で、伊氏とか、馬氏と聞けば、もろ漢(や魏)の貴人の傍流だったのかと・・・<

私は、昔から、古代の部族的なる国の国名が選択されるのは、何が基準になるんだろうか?と考えていて、
大体、
その部族國の首長の姓や先祖の姓を付ける場合と、
その部族の出身地や存在地の呼称で付ける場合と、
そうではなく、単純な華字を付ける、
などという場合がある、
という事で、倭人伝の国名や韓伝の国名を分析してみた事があるんですよ。
0253日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:24:29.74
出雲国造神賀詞から抜粋

大穴持の命の申したまはく、
『皇御孫の命の鎮まりまさむ大倭の国』と申して、
己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、
己命の御子あぢすき高孫根の命の御魂を、葛木の鴨の神奈備に坐せ、
事代主の命の御魂をうなてに坐せ、
かやなるみの命の御魂を飛鳥の神奈備坐せて、


八咫の鏡はオオナムチの和魂


奈良は色々興味深い
荒木神社の辺りも興味深い、浮田の杜

葛城襲津彦の弓、荒木神
0254日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:25:39.93
大麻比古神社

忌部氏の祖、大麻比古祀る
かつてはサルタヒコも祀っていたようだ

大麻比古、又の名は津咋見命

サルタヒコの遺言。
「底どく御魂」「つぶたつ御魂」「あわさく御魂」
底、独、常、立、阿波咋

阿波咋に繋がってくるな

忌部氏の祖は、阿波の海人を倒し、姫を乗っ取ったんじゃないかな
そして倭国大乱でサルタヒコを倒したと

サルタヒコが祀られていたのは荒魂を鎮魂しろということだったのかもしれない
0255日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:26:13.43
倭人伝に基く遺物を多く示す事が畿内説に欠けていると思う
0256日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:30:39.45
非科学的な神社厨イラネ
0257日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:30:51.45
>>232
九州説さん
そんなウソを言ったらダメですね
0258日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:31:52.72
>>255
漠然と思いだけか

ちゃんと理由を言えや
0259日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:31:59.50
>>851
>40年間掘り続けて小さな柱穴の建物しか出なかった纏向遺跡になんで大きな掘立柱穴が出たのか。
大きな建物を作るには、それなりの財力・権力が不可欠。
辺りにそれらしいものが見られないのに大型建造物は信じられない。
それも、1mもある方形の柱穴で(弥生の大きな柱穴は円形だそうだ)大変珍しいとか……
5・6世紀でも珍しい方形の柱穴が弥生時代に出るとは。やっぱり、発見当初の見立てのように7世紀後半の建物跡ではないか。
柱近くの溝から庄内式土器の欠片と布留式土器(4世紀以降の土器)の欠片も一緒に出たのなら、すくなくとも4世紀以降の遺構であることは確実。
不確実な炭素年代法だけで大騒ぎするのは材料不足ということだろうな。 <

ふーん。成程。
0260日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:32:27.04
邪馬台国は葛城である。
葛城に住んでいたヒミコが判明したからである。

10代崇神天皇がいつごろの人物なのか。

これで邪馬台国論争は終了する。
崇神陵=行燈山古墳=布留1式=4世紀初頭から前半。
2015年久住編年でもこれが最有力。

そして卑弥呼擁立の時代=庄内0式(2世紀末)まで文化断絶がない。
という事は崇神から卑弥呼の時代までを普通に遡れるのだ。
にもかかわらず古代史家、考古学者の誰一人としてヒミコを探そうとしない。
ヒミコは記紀に登場しないという固定観念があるからであろう。

わしは探した。 ほらヒミコもトヨもいた。

I崇神(310年頃 318年没)
H開化
     G孝元
          F孝霊   
トヨ津        E孝安 D孝昭
トヨ津   (250年頃)C懿徳 
ヒメ踏鞴        B安寧
ヒメ踏鞴        A綏靖
ヒメ踏鞴 (200年頃) @神武 

神武から6代孝安まで宮は葛城である。
また神武から孝安まで不自然な事に正后はいても「妃」がいない。
彼らは複数の妃を持つ大王ではなかったのである。

つまり魏志に書かれた女王国とは神武〜孝安時代の事であり、 それは葛城王朝であった。
0261日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:33:34.36
邪馬台国論争ってさ

ガニ股の女が好きか内股の女が好きかの論争じゃないか
ガニ股=畿内
内股=九州

おれはガニ股の女がたくましくて好き
0263日本@名無史さん
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2018/10/06(土) 20:37:47.14
八十島祭。
天皇の国土支配権の裏付けを企図する祭祀と書かれてある。なぜ大阪で行うのか?



後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。

 ○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑たみのの島に御祓しつれば      津守経国

 八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島くにじまなどの地名に残る。

 ○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば

   淡島あはしま 自凝島おのころじま 檳榔あぢまさの 島も見ゆ 放さけつ島見ゆ          仁徳天皇


難波の崎からオノコロ島、淡路島見えるとある。
古代の人々は国生み神話は、大阪湾の話であるのを当たり前のように理解していた。
0264日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:39:55.26
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0265日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:40:06.01
>>861
>中国人が魏志倭人伝を読むと、九州説にしか読めないんだろう。<

おそらく、
日本の大和説学者に洗脳させられた学者や日本国民の3割以外の、
魏志倭人伝を読んだ世界の人々の殆どは、九州説。
0266日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:43:14.68
壬申の乱で負けた難波は奈良時代は寂れていた。
弥生時代、古代の難波はどういう場所だったのか?
下の長唄は、なにわの地が芦原中津國や食国と認識されていたのが分かる。
それを前提に記紀を読み直すと面白い。

聖武天皇の難波行幸に従駕した笠朝臣金村(かさのあそみかなむら)の詠んだ一首

押(お)し照(て)る 難波の国は 葦垣(あしかき)の 
古(ふ)りにし郷(さと)と 人皆の 
思(おも)ひ息(やす)みて つれも無く ありし間(あひだ)に積麻(うみを)なす 
長柄(ながら)の宮に 真木柱(まきばしら) 太高(ふとたか)敷きて 食国(をすくに)を 治めたまへば 沖つ鳥 
味経(あぢふ)の原に もののふの 八十伴(やそとも)の緒(を)は 廬(いほり)して 都(みやこ)なしたり 旅にはあれども

この歌からは、芦原中津國、食国であるのが伺える。

なにわのもう一つの枕詞
葦が散る
倭国大乱でなにわは敗北したんだろうな
0267日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:44:58.91
>>255
畿内では
倭国が魏に使いを送ったと後漢書、隋書、北史、通史、太平御覧に
記されている景初三年(239年)記年号銘が入った三角縁神獣鏡が見つかっている
0268日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:45:15.50
>>862
>どういった経緯で魏から倭までの報告書が短里で書かれる事になったんだよ<

何度も言ったように、
魏の初代文帝の即位の「受命改制」の詔書で、度量衡の同一化を指示し、
魏の重臣たちが「周制への復古」を繰り返し上表し、
後漢末に再収集注釈された周髀算経の一寸千里の法の、
短里の度量衡が採用されのたから。
0269日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:45:31.32
あま市石作神社

石作明神、石作連、火明命。
どういうことだろう。

近隣に美和の地名もある。
三輪、纒向と何か関係あるのか?
0271日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:49:10.62
中大兄 近江宮御宇天皇 三山歌
高山波  雲根火雄男志等  耳梨與  相諍競伎
かぐやまは  うねびををしと  みみなしと  あひあらそひき
神代従  如此尓有良之  古昔母  然尓有許曽
かむよより  かくにあるらし  いにしへも  しかにあれこそ
虚蝉毛  嬬乎  相挌良思吉
うつせみも  つまを  あらそふらしき  (13)
反歌
高山与  耳梨山与  相之時
かぐやまと  みみなしやまと  あひしとき
立見尓来之  伊奈美國波良
たちてみにこし  いなみくにはら  (14)
渡津海乃  豊旗雲尓  伊理比紗之
わたつみの  とよはたくもに  いりひさし
今夜乃月夜  清明己曽
こよひのつくよ  さやにてりこそ  (15)

耳成山に関する歌は興味深い
神代の伝承をモチーフにした歌と思われるが、意味することがよく分からないな
詳しい人いないかな‥
0272日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:49:58.67
畿内説を宣伝する係員を、雇用している闇の勢力とは、どのような勢力だろうか、、、
0273日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:51:21.27
>>869
>存在し得ない単位で書かれるわけないのに不思議だねー
何かの間違いじゃないの<

「何かの間違いじゃないの」という情報よりは、
史料事実や史料実態の方が、確率が高く、信頼性や価値があるから、優先。
0274日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:54:01.28
闇の勢力と古墳とは、どのような関係だろうか、、、
0275日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:55:19.32
>>268
>魏の初代文帝の即位の「受命改制」の詔書で、度量衡の同一化を指示し、
>魏の重臣たちが「周制への復古」を繰り返し上表し

それ、ぜんぶ架空の話だよね
そんな史料ないもの
0276日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:55:31.77
和歌は興味深いな
鴨や雲に纏わる歌

真十鏡 可照月乎 白妙乃 雲香隠流 天津霧鴨

大津皇子の辞世の句
ももづたふ磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ

月に纏わる歌

ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり

大空をわたる月を、鳥でも刺すように網でからめとり、大君はその月を蓋になさっている。

天武朝では、月は嫌われていたのかな

この歌は桜井市のホームページにも載っている
桜井市にこの歌の碑もある
0277日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:55:41.56
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0278日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:57:43.11
>>268
律歴志に魏の1里は1里=300歩=1800尺と記されている上に
1尺約24cmのモノサシまで見つかってしまっている
ここから換算すれば1魏里は約430mとせざるを得ない

そして周の時代も1里が80m近辺の短里というのはデタラメ
九州説の主張する周の里は短里であるという根拠の一寸千里の法は
適当な空想の数値である事が検証により明らかになってる
0279日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 20:59:47.22
>>873
>魏志倭人伝には銅鏡は100枚貰ったと出てくるから
「尚方作」の方格規矩鏡が下賜鏡だとしても21枚しか見つかってない九州は
邪馬台国じゃなくなるな<

100枚の内の大半は、筑紫や地方の諸豪族や、東征将軍らに下賜されていたようであり、
また一部は鏡片に分割されて、卑弥呼直属の「親愛なる家臣」に下賜されたようであり、」
「尚方作」鏡はさすがに下賜には使用し難く、おそらく壹與が後を継承した。
0280日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:01:07.35
>>874
>地名を辿れば海を渡って大和らしき所に向かってるっぽいが<

「南≠東などに拠って、×。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:04:33.32
>>279
いや簡単な引き算で
見つかってないなら残り79枚は畿内にあるとせざるを得ないよ
0282日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:04:33.79
また短足のカキコか
0283日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:05:28.08
>>878
>あまりに辛い現実からの九州説の現実逃避<

長年信じて来た大和説が、
史料事実や史料実態によって論破された、という、
あまりに辛い大和説者の、
現実逃避。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:07:44.05
百枚なきゃおかしい尚方作の方格規矩鏡が21枚しか見つかってない九州は
邪馬台国じゃありえねーなー
0285日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:07:52.48
>>283みたいなウソをつくしか打つ手のなくなった九州説
みじめだね
0286日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:08:35.00
闇の勢力と古墳とは、どのような関係だろうか、、、
0287日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:11:22.76
>>881
>百メートルの所が間違って50メートルになってる地図を見て
おヌシは通常より短い短メートルで書かれてると思うか?
そういう事だ <

秦漢代の里に比べて、魏志に記載された里は、
6分の1位の余りにも短いメートルで書かれたいた、
という事が史料事実であり史料実態そのものであった、という事であり、
そういう事だ。
0288日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:11:35.66
百枚なきゃおかしい尚方作の方格規矩鏡がたった21枚しか見つからない九州
プッククク
0289日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:16:31.99
尚方作ー尚方作ーと得意になってた九州説ザラコク
撃 沈
0290日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:16:56.14
>>885
>魏の里は1里約400m それに照らし合わせて違っているなら
それは間違いが記載されているという事だ<

「魏の里は1里約400m」という事が、そもそも間違いであって、
魏朝は、文帝の即位の詔書の指示で、
「魏の里は1里約76.5m」位に決められていた、
ってそういう事だ。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:21:53.93
>>886
>短里などはない 場所によって4倍も伸び縮みする単位などはない<

史料事実や史料実態は、
魏志は殆どが(漢里の6分の1位の)短里で書かれており、
蜀志や呉志では、長里と短里の混在であった、という事だ。
0292日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:26:52.18
>>887の訂正
517−39−569×2=−660
が正解。
つまり、継体元年の517年の前の39年間は「結縄刻木」によって年を数えて記録し、
それ以前は、神武即位元年から二倍年歴での年数え方をしていた、という事だ。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:27:09.19
>>287
そんな証拠、ないよね?
0294日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:29:15.20
>>290
そんな指示は実在しない
0295日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:31:38.83
>>292
存在すら怪しい継体元年って
0296日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:32:18.90
>>889
>魏志倭人伝の記述では邪馬台国に向かうには
どう読んでも九州北部から船出をする
頼みの綱の魏志倭人伝にすら否定される邪馬台国九州北部説哀れ<

投馬國の説明は、「至」の前に途中移動があった事示す文言がないから、
魏使らは移動しておらず、倭人からの側副傍線國の説明になっており、
行程説明では「九州北部から船出」していないから、
この男も、×。
0297日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:32:40.76
>>290
魏で使われていた度量衡が記されている律歴志には
1里=300歩=1800尺とあるぞ
そして1尺は見つかってるモノサシから1尺約24cm

つまり魏で使われていた里は1里約430mと
これ以上にないくらいはっきり判明している
1里75mの短里なんぞ存在する余地はない
0299日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:37:35.69
◆中国の釜



中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/

商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた


. 
0300日本@名無史さん
垢版 |
2018/10/06(土) 21:39:20.34
>>891
>九州説がもし説得力のある主張をしたいなら
1万2千里は距離的には間違いだけれどそれは九州を指していると
そう主張するべき
と言っても短里だー短里だーを止めないんだろうけど <

史料事実や史料実態は、魏志では殆どが「短里」で書かれている事になるから、
史料事実や史料実態を否定する事出来ず、
止めない。
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