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邪馬台国畿内説 Part418
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0001◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:25:16.67
 邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。

 邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
 勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。

前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1547482116/

◆0【 要 旨 】  ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
 纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。

 これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。

 2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
 換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。

 倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間に相当する庄内併行期は、畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大していく。
 博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階となっている。
 絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
 それは桜井市纒向以外にありえない。
0002◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:26:47.88
◆1(女王所都)
 奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)

 現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
 居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。

 この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。

 箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある 
 乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。

 この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。
0003◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:27:08.06
◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
 前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
 また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。

 血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
 つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。

 纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
 築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。

 この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。

 その始発点が、元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。
0004◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:27:25.63
◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
 その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
 このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
 箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
 換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ、そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである

 また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。

 乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
 女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。

 紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。
0005◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:27:42.60
◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
 纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
 同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。

 威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
 しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
 代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。

 共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
 それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。

 定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
 もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
 後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
 この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。

 初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。
0006◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:28:02.00
◆5(倭国の形成と気候変動)
 1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
 2に、河内と吉備の交流の深さ
 この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
 共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
 これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。

 2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
 この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
 寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
 弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。

※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
 クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。
0007◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:28:18.94
◆6−1(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
 これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
 これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
 先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。

 析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
 後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
 やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
 分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。

 方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
 二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
 この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
0008◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:28:42.82
◆6−2
 高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。

 巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。

 ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
 一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。

 この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
 このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。
0009◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:29:01.25
◆7−1(北部九州における人の移動と政治的動向)
 3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
 北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
 つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。

 庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。

 上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
 逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
 外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。

 1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
 2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
 これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
0010◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:29:17.89
◆7−2
 北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。

 その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
 糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。

 この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。
0011◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:29:35.31
◆8(結語)
 日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
 原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
 原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。

 その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
 前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。

 博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。

 遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
 この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
 この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。

 土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
 そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。

 倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。
0012◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:29:53.94
◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
 寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf

◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」


◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III    ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号、ホケノ山
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
                           浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
                           メスリ山、行灯山、祇園山
0013◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:30:14.87
◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!

A:九州は倭国の一部なので問題ない。
 郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
 逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。壹岐一国では観察されたが首都よく観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
 畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
 水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。

 北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
 また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
 倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。

◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
  魏使は九州を出ていないではないか!

A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。
 逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)
  「泝流」が6回
  「泝(+固有名詞川名)が7回
 倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
 倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の10日や20日に及ぶ「水行」をその省略形であると見做すことには合理性がある。
0014◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:30:33.02
◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!

A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
 「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。

 以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※検証)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
 三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。

 筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。

 実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
 このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,57も参照)
(本項 続く)
0015◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:30:49.18
(承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
 遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
 予章郡:雒陽南二千七百里  南海郡:雒陽南七千一百里
 蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
 (雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)

 倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。
上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。

 また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。
0016◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:31:16.44
◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!

A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
 纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
 また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。

 畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
 また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。


◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!

A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
 佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)

 小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
 対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
 ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。

 むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
 このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。


◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?

A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。
0017◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:31:34.68
◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
  纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?

A:そのような事実はなく、当然交流があった。
 畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
 このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)


◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?

A:読み替えない。
 行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
 これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
 古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。


◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
  女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
  女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?

A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。
有力な候補である。
 中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
 倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が強調された可能性もある。
 いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
 王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。
0018◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:31:53.81
◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
  年代が判るという考古学者はおかしいではないか!

A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
 陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。

 封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
 しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。


◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
  それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?

A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
 後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
 使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。
0019◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:32:12.68
◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
  畿内説は倭人伝と合わないのではないか?

A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
 福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
 弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
 以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。

 当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。

 3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。


 倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
 倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
 当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。

 なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
 加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
 の指摘は今日も有効である。
0020◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:32:32.49
◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
  古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!

A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。

 現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
 古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。

 現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
 畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
 逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。


◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?

A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。

 伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
 糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
 このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。
0021◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:32:51.45
◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!

A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
 宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。

 一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
 遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
 鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。

 纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
 と結論されている。

 弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。


◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
  九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!

A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。
0022◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:33:08.63
◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!

A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
 また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
 よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
 このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。


◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!

A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
 万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
 したがって測定は存在しない。

 また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
 「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
  則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。
0023◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:33:29.07
◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
  これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!

A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。

 新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
 江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
 まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。

 逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。


◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
  これで説明が付く!

A:そのような整合性は認められない。
 考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
 対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。

 信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
 郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。

 九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。
0024◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:33:52.54
◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
  箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!

A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
 箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
 このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。

 中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、中国では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
 三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
 西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。


◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
  同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
 もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
 つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。

 考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
 炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。

 逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
 これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。
0025◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:34:18.68
◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!

A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
 また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
 基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
 よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。

箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築 
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。

 1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
 2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
 スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
 隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png

 前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。

 方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く)
0026◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:34:38.81
(承前)
◆FAQ 23−2

◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。

◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
 ・ 森将軍塚   :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
 ・ 前橋王山古墳 :上毛
 ・ 持塚二号墳  :上総
 ・ 高千穂七号墳 :上総
 ・ 山伏作一号墳 :上総
 ・ 長沖八号墳  :武蔵
 ・ 温井一五号墳 :能登
 ・ 見手山一号墳 :但馬
 ・ 西穂波16号墳 :東伯 
 ・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
 ・ 高鼻二号墳  :伯耆
 ・ 日拝塚古墳  :筑前
 ・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)

◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等


◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!

A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
 黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
 両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
 古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、

 このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。
0027◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:35:00.86
◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!

A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。

 旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
 
 後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
 このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。


◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
  ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!

A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
 統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。

 遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。

 さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
 ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
 古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。
0028◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:35:19.59
◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!

A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
 ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。


◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
  卑弥呼の墓があるのは九州だ!

A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
 また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。

 参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
 日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。

 墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。


◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!

A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
 高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
 九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
 一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
 九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。

「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
 正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。

 以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
 九州説にとって不利な条件と言える。
0029◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:35:37.47
◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
  箸墓の築造と時間差があるだろう!

A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
 隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
 以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。

 なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
 解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。

 なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。
0030◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:35:57.87
◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?

A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
 考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
 もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
 氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。

 弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
   https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
 また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
 これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。

 優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
 吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
 弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。

 畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
 これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。
0031◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:36:14.57
◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?

A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
 3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。

 これが部分的利用に留まる所以である。


◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
  と倭人伝にある!
  海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!

A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。

 「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
 「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国
0032◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:36:32.10
◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
  伊都国は隆盛のさなかである!

A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
 原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
 副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。

 当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
 国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
 残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
 大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)

 後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
 平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
 いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。

 後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
 このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。

 以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。
0033◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:36:51.62
◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!

A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
 ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。

 以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
 ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)

 一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
 それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
 国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。

 弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
 同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。

※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。
0034◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:37:13.05
◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!

A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
 博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)

 文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
 また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
 吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。

 なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行為することがない。
 那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。

 伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。


◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
  纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!

A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
 外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
 これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。

 ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
 古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
 ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。
0035◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:37:31.75
◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
  仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!

A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
 意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
 金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。
 古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
 この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。

「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
 とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
 纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
 霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。

 大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
 にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
 侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
 新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。
0036◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:37:49.34
◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
  邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?

A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。

 女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。


◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
  九州でいいではないか!

A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
  http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
 福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
 ◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。

 会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
 沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
 東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
 このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。

 捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。
0037◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:38:11.97
◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
  九州には古くから三種の神器がある!
  大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?

A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
 出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
 また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
 記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)

 畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。

 弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
 平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
 これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。

 この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。
0038◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:38:33.12
◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
  新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!

A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
 弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。

 申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
 定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。

 申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
 良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
 参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。

 嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
 このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。
0039◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:38:50.98
◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
  炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
  確かな根拠などないだろう!

A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
 1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
 また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。

その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である

以上から
 1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行する。(高久2009)凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。

 楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
 また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
 よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。
0040◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:39:10.54
◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
  国産に決まっている!

A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
 史料上で抹殺された年号は珍しくない。
 このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。

 中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
 この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
 最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。

 この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。

 景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。
0041◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:39:28.69
◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?

A:◆1で略述したとおりである。
 ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
 箸中山古墳は、幾何的な正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
 その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
 倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
 ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
 同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。

 また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
 その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。


◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
  これが魏晋鏡だろう?

A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
 2世紀の鏡である。

 内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
  内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
 という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
 蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。

 この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
  A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
 2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
 雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。
0042◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:39:51.57
◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
  2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?

A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。

 魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
 これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。

 少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)

 倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。


◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
  考古学的に確認されているのか?

A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。

 桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。

 広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
 このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。
0043◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:40:09.76
◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?

A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
 今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
 また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
 魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
  「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
 さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。

 固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
 また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。


◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
  どこにでもありそうだ。

A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
 画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
 纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
 単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。
0044◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:40:27.38
◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
  壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!

A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
 灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
 郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
 壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。

 弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
 日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
 卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無く、壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
 ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。

 五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
  新方・森之宮(摂津)
  雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
  唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
 ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。
0045◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:40:45.94
◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?

A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
 奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
 巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。


◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?

A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。

 刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
 秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
 この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。
0046◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:41:02.99
◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
  以北ってことは女王国も含むんだぞ!

A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
   (三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
   (三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
   (同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。


◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
  狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!

A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
    山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
    海中の島国がカンボジアと「接」

 狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。
0047◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:41:22.49
◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!

A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。

「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
 殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
  ※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
  ※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。

「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
 太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
  ※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
  ※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
  ※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
  ※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
   昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
   当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
  ※百世に亘って代々を想定
0048◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:41:40.75
◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
  必然性がない!

A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
 法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。

 加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。

 畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。
0049◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:42:01.46
◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!

A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)

「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
 参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。

「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
 より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。

 また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
 以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。

 さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
 また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。

 以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。
0050◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:42:16.50
◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
  の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!

A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。

また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。


◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
  「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
  所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!

A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。

(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
     北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
    南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
    東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
    …東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
    西與犂「革偏に于」・條支接。
    行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
    …東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
    …東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。

                (以上、漢書西域上)
0051◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:42:39.15
◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
  これは実測したとしか考えられない!
  誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!

A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。

 戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
 或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。

 また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
              (後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)

 さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。

 このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。
0052◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:42:57.90
◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!

A:定説に従う。

 金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
 帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。

 二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。

 以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。

 楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
 

◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!

A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い


◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
  径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!

A:基礎知識の誤りである。
  現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する

ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通)
0053◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:43:16.43
◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
  倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!

A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
 殷商:約16cm
 西周:約20cm
 戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
 後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
 南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
 先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
 後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。

 また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
 ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。

《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く)
0054◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:43:33.18
(承前)
◆FAQ 65−2
 『禮記』王制には
 「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
  古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
  古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」

とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。

 ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。

 この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。


 秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
  古者周尺 17.3cm
  今周尺  21.0cm
  秦漢尺  23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。
0055◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:43:54.78
◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
  本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!

A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
 当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。

 なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。


◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
  なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
  倭人伝にある方位に間違いはないのだ!

A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
 東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。

 ・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
 ・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
 ・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。

 ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。

古代の海岸線に沿って「東南陸行」することは、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png

 因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
 地名が実際の地勢と著しく異なる。
0056◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:44:15.02
◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
  奈良県の三角縁はもっと新しい!

A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半と考えられる。

 ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
 しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0に遡る情況と整合する。
 箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は但丹・近江などの地域で弥生後期〜終末の弥生墳丘墓で発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。


◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!  
  このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
  魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
  護軍将軍である淵の任地は都である!

A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
 上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
 淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。

 長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。
0057◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:44:32.71
◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足相赴。
  乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
  襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!

A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
 魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
郭沖三事にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
 銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。

 襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。


◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!

A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。

 中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(十二世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(十三世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
 魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。

 当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
 を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州に限定し得ないことは明らかである。
0058◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:44:54.10
◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
 「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
  畿内は「東征」を受けた毛人だ!

A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
  「服」は他動詞として使う。
  「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。

 「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。


◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
  これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!

A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
 「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
 『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png

 能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。


◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
  大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!

A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。

 大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
 畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。
0059◆UiepmfCeDJqf
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2019/01/18(金) 02:45:18.48
◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
  畿内説は皇国史観の徒である!

A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。

 遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
 複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。


◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
  最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
  8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
  古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!

A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。

 古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。

 弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。
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2019/01/18(金) 02:45:43.16
◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
 前方後円墳体制など、夢想だ!

A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。

 萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
 当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。

 奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。


◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
  里数が書いてないではないか!
  つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
  投馬国は南九州でよいのだ!

A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。

 『九章算術』巻第六「均輸」に
 「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
続けて
 「甲県一万戸、行道八日」「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近・戸数多少から算出された「衰」は
 甲県で 10,000 ÷ 8=125
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。

 本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表している。
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2019/01/18(金) 02:46:01.41
◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
  ただの倉庫だろう?

A:倉庫群は均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ。
  纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。

 建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部に存し、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉するため、望楼状の高床式建築物と考えられる。
 建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
 建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。

 強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。


◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
 「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
  魏志に邪馬臺と書かれていたのではない! 
  ただ当時の風説を書いたのだ!

A:初歩的な誤りである。
 子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
 子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
 動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。

 助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
 よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。
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2019/01/18(金) 02:46:40.36
◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
  だから邪馬台国は畿内ではない!

A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
 後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。

 三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。

 魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。

 三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。


◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
  このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!

A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。

 「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。

 三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
 黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。

 このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。
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2019/01/18(金) 02:46:59.59
◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
  鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!

A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。

●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。

●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
 大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。

 国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。

 両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
 鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。
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2019/01/18(金) 02:47:17.49
◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
  古墳とは違うのだ!

A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
 但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。

 孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。

 類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。

 魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。


◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!

A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。

 K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
 庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。

 古墳主体部の年代は、殉葬の可能性を完全に放棄するならば、これより多少の時代遡求もあり得るが、山の中腹の尾根上という仰ぎ見られる視野角の広くない立地からは、あまり広域を支配していない首長像が瞥見される。
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2019/01/18(金) 02:47:45.03
◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
  日本の古墳は平坦で、高くない!
  卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!

A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
  驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png


◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とやある!
  「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
  特鋳説の根拠にはならない!

A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。

 全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
 この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
 このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
 また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。

 銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。


◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!

A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
 中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。

 また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。

 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。

 このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。
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垢版 |
2019/01/18(金) 02:48:16.82
◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
   3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!

A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。

 下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
 この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。

 夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。

https://i.imgur.com/EXTU3lu.png


◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
  短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!

A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。

「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
 明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
 ※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
 ※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
 ※「皇覽」(魏文勅撰)
0067◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:48:37.66
◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
   10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!

A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。

 実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。


◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
  周囲代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!

A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。

 成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。

『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。

 また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。

 また八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
 よって周城景長尺六寸は、八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比にするための捏造であった可能性が高いといえよう。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
0068◆UiepmfCeDJqf
垢版 |
2019/01/18(金) 02:49:20.90
以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

注意*書き込みは
 邪馬台国畿内説に関係が有って
 根拠のある内容をお願いします。
 畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更点】 ◆FAQ 92を追加
0069日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 06:21:56.80
>>67
> 成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも『天文学的考察』でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。 <

よく言うよ『天文学的考察』なら南は南 太陽は東から昇り、北極星は北の空にある
0070日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 06:34:55.83
 『魏書』(北魏)楊逸伝に「楊使君千里眼あり」という表現が見えるが、北魏の時代であるから、
長里使用時代の例であるが、「千里眼」という言葉自体の成立は更に古い時代と思われる。
この千里が短里であれば約七六キロメートルであり、長里であればその六倍の約五〇〇キロメートルとなろう。
もしこの千里が具体的な人間の「視力」の表現であるなら、それは短里の方が妥当だ。
 なぜなら、地表には球面視差という問題があり、水平線の先はどんな望遠鏡でも物理的に見ることが困難である。
人間の場合、その目の位置が約一・五メートルの高さとすれば、球面視差の限界範囲は約三キロメートルほどで、
標高五百メートルなら千里(短里)先の五百メートル程度の山や島の頂が何とか見える。
これが長里であれば、不可能である。もっとも、高い山の頂部分は、球面視差を超えていれば見える。一例を挙げれば、韓国南岸から対馬は約千里(魏志倭人伝)であり、
現在でも韓国南岸から対馬の山頂を肉眼で見ることができる。このように、球面視差ぎりぎりの遠方が見える視力の持ち主を、本来の意味で千里眼と呼んだのではあるまいか。
こうした観点から、千里眼という成語の成立は短里の時代であったと理解されるのである。
千里という表現を単なる遠い彼方という抽象的なものとする捉え方もあるかもしれないが、そうであれば千里眼ではなく万里眼でも億里眼でもよいはずだが、そうした成語は聞いたことがない。
やはり、千里眼は短里であれば見える具体的な距離に基いた成語と思われるのである(3)。
0071日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 06:41:27.12
韓は帯方の南に在り、東西は海を以て限りと為し、南は倭と接す。方四千里可(ばか)り。

(「魏志」韓伝)

これの「方四千里」の数値は、面積を正方形にした場合の一辺を示しています。
従って、現在のほぼ正方形に近い地形の韓国の東西幅が300〜360㌖とされていますので、
これを四千里で割って、1里の長さ求めます。その結果は1里が75〜90bとなります。
0072日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 06:46:28.31
「一里=約76〜77b」の短里は、自然科学の研究者である谷本茂氏が、
中国最古の数学・天文学書の『周髀算経』の研究によって既にその存在を科学的に証明している

随分前のことだが、このような研究者もいるので紹介しておきます
0073日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 06:49:20.42
狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
>>71
>韓国の東西幅が300〜360㌖とされていますので、
>これを四千里で割って、1里の長さ求めます。その結果は1里が75〜90bとなります。

なるほど。

対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m

∴1里=70、6mは、概ね妥当。  @阿波
0075日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 06:52:00.64
>>71
>韓国の東西幅が300〜360㌖とされていますので、
>これを四千里で割って、1里の長さ求めます。その結果は1里が75〜90bとなります。

なるほど。
狗邪韓国(巨済島南端)→対馬国(対馬島北端) 千余里(70km)1里=70m
対馬(対馬島南端)→壱岐(壱岐島北端) 千余里(50km)1里=50m
壱岐→末盧国(福津市辺り万津浦)千余里(70km)1里=70m
女王国(鳴門)→東の倭種国(和歌山)千里(50km)1里=50m
帯方郡→女王国(阿波)万二千里(900km)1里=75m

∴1里=70、6mは、概ね妥当。  @阿波
0076日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 06:57:58.04
FAQ88
これ要らないよ
> 江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
 参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
 https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
0077日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 06:58:12.01
416の>>984
>倭地一周で5千里(短里)だとすると
投馬國を南九州にはできない <

「參問倭地、絶在海中洲島之上、或絶或連、周旋可五千餘里」であり、
「參問」したのは、女王之所都までであり、
だから魏使らは、南九州の投馬國には「參問」していない。
0078日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 06:59:53.18
416の>>987
しかし、大和説が「南→東」などの、
ありとあらゆる嘘を付いて騙して誤魔化しても、
前方後円墳や三角縁神獣鏡という証拠の前でも、
結局は、崩れ去るしかなかいのだった。
0079日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 07:00:41.62
416の>>990
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
嘘を言うんじゃなく嘘しか言わない
0080日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 07:01:52.56
>>997
倭人伝のクコチヒクをクコチ彦とみなした場合、彦の前のクコチを熊本の菊池と考えるのは妥当。
このクコチを熊本の菊池としないのならば、別の比定地を挙げてもらいたい。

投馬国については、有明海の北端の嘉瀬川河口から南下する行程においては、その行程(水行二十日)からして薩摩が妥当。
また、投の字と殺の字は草書体ではよく似ており、投が殺の誤字、あるいは何らかの事情で替え字した可能性もあり、投馬は殺馬が正しいと思われる。
サツマであれば、それは鹿児島の国名であり、有明海南下の行程からみても投馬はサツマが妥当。

唐津、伊都、奴、不彌の道筋では、現在宇美町の地名があり、これは内陸方面に所在する。
現在の宇美町が不彌と同じかどうか分からないが、不彌は奴から内陸方向に位置すると考えられる。
筑紫野か小郡あたりが不彌ではないか。
日本海へ回るのであれば、不彌を宗像の手前の古賀あたりとするのがよいが、不彌を古賀あたりとするには地名的にそれなりの根拠が必要になる。
0081日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 07:01:55.31
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連投ですよ
問い合わせID:49a845fb994bae4a
ホスト:p1618053-ipad040108kobeminato.hyogo.ocn.ne.jp
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
416の>>1000
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説が、
どんどんトンデモになっていく
0082日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 07:03:32.14
417の>>69
>邪馬台国は岩手県の八幡平 国立公園の中なので発掘はできない<

邪馬台国なんて存在しない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」などに拠っても、×。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 07:05:34.36
417の>>70
>魏志韓伝を読みなさいと忠告したでしょう 陳寿は韓にも行っていません <

当たり前。

>ここがキー
●「韓伝」には、韓国の大きさについて、『方可四千里』とある。つまり、韓国の大きさは『一万六千里』だと言うのであるから、
それに比べると、倭国の大きさは、極めて小さい。<

この大和説者?、ちょっと、脳がおかしいじゃないのか?。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 07:06:58.51
417の>>76
>邪馬台国へは投馬国から水行十日陸行一月と書いてある <

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙しの文言であり、
「水行十日陸行一月」は、郡〜女王之所都の日数説明。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 07:31:17.57
>>157
>現在目にすることができる『三国志』は、
「百衲本(ひゃくのうぼん)二十四史」に納められているものが一般的で、
これは、宋代(1190年代)に刊行された「紹煕本」が元になっています。
陳寿が『三国志』を書いてから900年もの年月がたっているものです。
この間、『三国志』は代を重ねて多くの人に筆写され続けてきました。
ですから、もともと陳寿が書いたものからは、
かなり内容が変わってしまっているんです。
「古本(こほん)三国志」というものがあります。これはごく古い時代の
『三国志』の写本の一部分で、現在までに6編ほど見つかっています。その中に、
「吐魯番(トルバン)出土 三国志 巻五七(呉書一二)虞翻伝・陸績伝・張温伝残卷」
というのがあり、陳寿が書いた直後の晋代の写本と見られています。<

これは、もう説明済み。
宋明清代の三国志の写本版本群の中で、校勘学者らが校勘対象にした文字数は、
全文字数(60万〜80万字)の中の4000字台位であり、確率は、0.5〜0.7%位。
倭人伝の2000字余りの中で言えば、校勘対象になったのは、
「都支国と郡支國」と「黄幢と黄憧」の2つであり、
紹興本の「對馬國」は始めから問題にもされておらず、否認されていた。
そして、古本三国志は、中国側の写本版本と比べて余りにも差異文字が多過ぎて、
それは、写本ではなく、「後代史書に有り勝ちな、内容説明的な書き換え本であった」
と いう結論であった。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 07:37:15.66
研究して何になるの?池沼なんだろう?
本人のところに行ったほうが早いだろうと書いたはず、
子孫や末裔のところに行き、直接、話を聞くとか
0088日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 07:39:27.48
>>158
>姚李農氏という学者が、これを現代 目にするものと比較した研究がありまして、
それによると、全1192字中、画数の同じでない文字が416字。
全体の1/3を越えます。また、用語から見て、
「紹煕本」と異なるものが40句にのぼる・・・となっているんです。
どう思われますか?<

姚李農氏という学者は、そ
んなに差異が多ければ、それは写本ではなく、
後代学者の「民間の人々への啓蒙のための、後代の解釈に拠っての内容説明的な書き直し」
をした文書である事が有り得る、
という事に気が付かないアホ学者であった可能性がある、
という事だ。



 
0089日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 07:39:34.00
>>86
要するにロクに校勘されてなかったわけな
900年書写されて内容の変わった宋代の三国志
0090日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 07:47:59.90
>>163
>おわかりいただけたでしょうか
現在目にする三国志テキストには、これだけ多くの誤記・誤写・改変があります。<

一つの文字の「 誤記・誤写・改変」確率は、0.5〜1.7%位しかない。

>もう一度くり返すと、 全体の1/3以上が異なる漢字に置き換えられ、
約1200字のうち、40句の熟語が違っているのです。<

お判りになりましたでしょうか。
この投稿男も、おそらく、
三国志や倭人伝の中の記載で、自説にとっては都合の悪い文字や記述は、
「何でも間違いだ」として、否定曲解する事を肯定する、
思想宗教的な嘘吐き騙しの・・・・詐欺師であるんだろう、という事。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 08:00:43.66
>>90
「 誤記・誤写・改変」確率は、0.5〜1.7%位とか
計算根拠の元データを出せもしない「確率」を連呼してる人が
詐欺師なんじゃないの?
0092日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 08:00:52.04
>>69
>よく言うよ『天文学的考察』なら南は南 太陽は東から昇り、北極星は北の空にある

逃げ続けるよなぁ
方角は間違うはずがないと、言い募るだけで
これにまともに反論できてないんだから、いくらいっても無意味

その場で方角を間違わないことと
それを記録して、海を渡って記録を持ち帰って、報告して、
それを参照して史書が編纂されるまで間違いがないこととは同値ではないんだよ

実際、末盧国から伊都国の方角は明らかに間違っているし、
狗奴国の方角も魏志倭人伝では南だが、後漢書では東だ

方角が間違うはずがないというのは、反証を示すことで簡単に否定される
0093日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 08:07:24.84
印刷技術は宋代以降だからでしょ
楷書の印刷物を写すのと
手書きの行書を写すのとは
精度が異なるってものよ
0094日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 08:10:28.25
>>88
>姚李農氏という学者は、そ んなに差異が多ければ、
>それは写本ではなく、 後代学者の
>「民間の人々への啓蒙のための、後代の解釈に拠っての内容説明的な書き直し」
>をした文書である事が有り得る、
>という事に気が付かないアホ学者であった可能性がある、


zarakokuがすごい新説を出したぞ

今の三国志は
吐魯番出土の陳寿が書いた直後の晋代の写本と
とても差異が多いの

今の三国志は写本ではなく、 後代学者の
「民間の人々への啓蒙のための、後代の解釈に拠っての内容説明的な書き直し」
をした文書であるかも

だってさ

それじゃ邪馬台国を探せないねえ
0095日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 08:18:26.04
>>86
>宋明清代の三国志の写本版本群の中で、校勘学者らが校勘対象にした文字数は、

やれやれ
何度指摘されてもウソを言い続ける人だ
北宋本が刊行されて以来これまで校勘の記録があるのは版本同士の比較だけ
写本と照合したような記録は存在しない
0097日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 08:51:07.93
>>164]
>>単位が里から日へと、距離と時間じゃ3次元と4次元で別物
繋げて読む方がおかしい><

>おかしいと言い張る理由は?<


里数記載は、女王之所都の邪馬壹國までの記載で、萬二千余里がほぼ終わっているから。

>オレ様が認めたくないから?
ww <


何だ?、「類スレ主の・・・・ww」の・・・・投稿だったのか。
まともな横レスを書いて、損をした。
0098日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 08:55:20.34
>>165

>不弥国から邪馬台国まで南に水行一月(二十日+十日=三十日)陸行一月だよ? <

萬二千余里は、不彌國や邪馬壹國でほぼ終了しているから、
「水行一月(二十日+十日=三十日)陸行一月「は、
女王之所都までの里数距離には関係がないんだよ、
「邪馬台国」という存在もしない嘘つき騙し文言を使う大和説詐欺師くん。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 08:58:52.90
>>167
「南→東」などの嘘つき騙しの、
万世一系皇国史観を信仰する大和説は、
みんな「結論ありき」の・・・・アホだから、
理由が言えない
0100日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:05:38.64
>>97
ザラコクはまともなレスは書いてない
0101日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:08:35.00
>>99
九州説が理由を言えない実例を今まさに>>97で自分が作ったそばから
平気でウソを言うザラコクの朝の日常
0102日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:11:59.62
会稽の東海岸は江蘇省だとウソをつき
朝目覚めてはウソをつき
昼食を食べてはウソをつき
日が傾いてはウソをつき
夜も更けてはウソをつく

そんなザラコクの日常
0103日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:16:36.03
数年前の、とあるゲームスレ

かなり重要

今日の〜(とあるアニメ)〜にキメラアントが出てくるぞw
という書き込み

調べてみるとセル(ドラゴンボール)、
ジャイアン(ドラえもん)?

すべて私(俺)みたいなキャラでしょ
0104日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:18:52.55
全一教、全一教と言っている人がいるけど、
それでしょ?きめら〜セル
0105日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:22:23.32
>>168
>九州説は「方角を決して間違えてはいけない」らしいからなw><

いや、例外がいるの。
万世一系皇国史観という宗教に狂った大和説者や、
立身出世やカネ儲けや人種差別的殺戮戦争に狂った・・・・詐欺師や、
未開のアホなな人種らには、間違える事が有り得るの。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:22:28.15
>>77
>「參問」したのは、女王之所都までであり、
>だから魏使らは、南九州の投馬國には「參問」していない。

既に参問は訪問の意味ではないと教えたのに、周回遅れだから間違いを繰り返し書き続ける
恥さらしなザラコクww
0107日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:24:50.76
>>170
>結局、邪馬台国卑弥呼の宮殿はどこなの?<

おそらく、弥生銀座や安徳台にかけて。
0108日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:26:50.01
>>80
>倭人伝のクコチヒクをクコチ彦とみなした場合、彦の前のクコチを熊本の菊池と考えるのは妥当。

熊本の菊池は、地名として古くないんだ
3世紀に菊池と呼ばれる地名は熊本にはなかったと考えるのが妥当

>このクコチを熊本の菊池としないのならば、別の比定地を挙げてもらいたい。

狗古智卑狗が三国志の表記だけれど魏略では拘右智卑狗となっている
古と右はいかにも転記ミスが起こりそうな組み合わせだ
最初の狗と拘も違う
畿内説では「拘右智卑狗」を「コウチヒク」と読んで「河内彦」に当てるのが人気だね
0109日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:27:54.57
ドクター・ゲロ〜(オモイカネ)〜セル〜?〜、
どう考えても日本の話
0110日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:36:39.25
だから大爆笑だと言っているんだよw
0111日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:38:09.10
邪馬台国は、女王に率いられた平和なユートピア国邑ではなかった
鉄器で完全武装した渡来侵入者の奈良ず者集団で、九州の弥生の村々を襲って倭国大乱の勝者となり、やがては畿内へも迫ったのだ。
0112日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:40:52.50
>>88
>姚李農氏という学者は、そ
>んなに差異が多ければ、それは写本ではなく、
>後代学者の「民間の人々への啓蒙のための、後代の解釈に拠っての内容説明的な書き直し」
>をした文書である事が有り得る、

「そんなに差異が多い」のは、現在出回っている「百衲本二十四史」の三国志、
いわゆる「紹煕本」三国志だ

これが「民間の人々への啓蒙のための、後代の解釈に拠っての内容説明的な書き直し」を
した文書だと主張するならそれでいいけれど、0.5%以下しか間違いがないとザラコクが
言っていたのは完全に無意味だってことだ
0113日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:42:28.17
邪馬台国、初期のヤマト政権は、朝鮮半島と行き来していた日本海側の勢力と、東海の縄文色の強い狩猟民を中心とした征服王朝だな

白山系、諏訪系とか
0114日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:43:15.36
『ドクター・ゲロ』〜『オモイカネ』
0115日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:44:52.77
>>173
>九州説は結局邪馬台国がどこにあったのか、人によってバラバラで統一を見ないw
>倭人伝を正しく読めばバラバラの場所に行き着くんだよ<

九州説は、現在、ほぼ「筑紫付近説」に集約されて来ている。
0116日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 09:58:42.18
『人造人間19号』?
日本が作ったんだぞという話ばかりだし
0117日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 10:03:08.02
これも以前書いたはず


wwwwwwwwwwwwwwwwwww
大爆笑だろう


と書いているだけで、べ
つに面白くもないんだけど、とくに何もない
0118日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 10:04:42.21
>>115
>九州説は、現在、ほぼ「筑紫付近説」に集約されて来ている。

という証拠は?
0119日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 10:19:56.70
某フォーラムに参加して、ゆうれいの正体見たり枯れ尾花、のような気分になりました。
なぜなら・・、
邪馬台国論争では「鉄」を採っていた倭人のいた国が邪馬台国だとされてきました。
そして、弥生の鉄をつかんでいたのは、どう見ても九州です。
それも工具や武器の出土は福岡を抜いて熊本がトップに躍り出ました。

ところが・・、
弥生の北部九州には、鉄がありすぎるから、邪馬台国のイメージとはちがうので、邪馬台国は北部九州にはなかった
と言われたのです。驚きました。イメージですか!
松○さん、邪馬台国は女王のユートピアではなかったのですよ。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 10:57:17.68
>>178
>畿内説は方角だけを変えることで正しく一致した場所に辿り着ける。<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「方角」を変えたら、いつまで経っても嘘つき騙しである事には変わりがない。

>そしてなぜなぜ方角を東から南と書き換えたのかも説明できる。
すなわち、魏にとって倭は呉の背後に南北に細長〜い列島で、
歴代倭王を輩出してきた奴国も、倭国大乱を経て新しく倭王となった卑弥呼の邪馬台国も、<

倭国大乱も邪馬台国もなかったし、この男の話は、全面的に分裂幻覚の嘘つき騙しの妄想。

>すぐに背後から呉を襲ってくれる「会稽の東」にあると書かなければならなかったからと。
奴国から遠く隔たった東にあると本当のことを書くわけにはいかなかったので、
止むを得ず、距離については正しく、方角については東→南にせざるを得なかったのである。<

病院か刑務所で、妄想小説でも書いていた方が、世のため、だよ。
0121日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 10:58:02.80
鉄がありすぎるってより、無管理状態でしょ九州は
国家が誕生してない
0122日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 11:11:00.58
>>120
>「方角」を変えたら、いつまで経っても嘘つき騙しである事には変わりがない。

そうやって
気に入らない意見を論理じゃなく
力で抑え込もうとする九州説は堕落しまくってるな
0123日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 11:18:17.85
北部九州は朝鮮半島から来てる人が多いからね
半島で産する鉄、手に入る中古品は当然多い

北部九州は住居跡規模と鉄器出土数との間に相関関係は認められない(野島)
0124日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 11:24:02.92
>>123
相関関係がみとめられないということは、
弥生人の日常生活とは無関係に、急激で乱暴な鉄の流入と拡散があったことをしめす。
0125日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 11:33:18.17
箸墓が248年の築造と言われるけど、1年じゃあれだけの墳丘できないよね。工期はどのくらいかかったのかな?
仁徳陵で15年8カ月かかったらしいが。。。
0126日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 11:54:18.13
>>125
土の量から試算して毎日500人動員で10年、1000人なら5年という研究がある
ぶっ続けに工事した場合だが
0127日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 11:58:17.65
>>124

最初の1、2年は食料を自給できないから
かさばらないを鉄もって来て市場で交換するんだよ
半島では銭のように使われてるから
0128日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 12:03:40.63
>>179
>でも、唐津まで出るんだろ?
そこから北に行くのに、東南と書くのは間違ってるだろ?<

東南は、出発時点での出発方向の記載であり、目的地の方向ではない。

>唐津まで出る前でも、まず東松浦半島の東海岸に出るという話だから、
伊都国の加也山は見えるよな? その場しのぎのインチキを言ってもだめだよ<

可也山は、伊都国のかなり北方であり、伊都国自体は全く見えないよ。
「伊都国が見える」なんて、その場しのぎの嘘を付いては、だめだよ。
0129日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 12:10:38.88
>>123
北部九州では誰でも鉄を入手できたと
いうことだな
0130日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 12:12:10.43
まーた、その場しのぎの苦しい言い訳してるな、北東イトクズ。
0131日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 12:12:24.09
>>123
倭人が半島で鉄をとってたんだよ
0132日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 12:15:43.34
>>180
>投馬国行きと邪馬台国行きが同じ文型で書いてある以上、
連続読みじゃないと話が通じない<

陳寿は、
部分行程の里数合計が、不彌國までの「萬二千余里」で全く終わっている、
という記載であり、
日数説明部分は、行程記載とは直接関係のない付加的な説明部分。
0133日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 12:17:02.50
某フォーラムに参加して、ゆうれいの正体見たり枯れ尾花、のような気分になりました。
なぜなら・・、
邪馬台国論争では「鉄」を採っていた倭人のいた国が邪馬台国だとされてきました。
そして、弥生の鉄をつかんでいたのは、どう見ても九州です。
それも武器や工具の出土は福岡を抜いて熊本がトップに躍り出ます。

ところが・・、
弥生の北部九州には、鉄がありすぎるから、邪馬台国のイメージとはちがうので、邪馬台国は北部九州にはなかった
と言われたのです。驚きました。イメージですか!
松傾さん、邪馬台国は女王のユートピアではなかったのですよ。
0134日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 12:44:33.11
>>128
>東南は、出発時点での出発方向の記載であり、目的地の方向ではない。

理由もなくアンタの一存で、なんでそんなこと決めつけられるんだ?
0135日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 12:46:38.38
>>132
>部分行程の里数合計が、不彌國までの「萬二千余里」で全く終わっている、

それじゃあ会稽よりも遥かに北になるから
九州説後臨時でよろしいね
南無阿弥陀
0137岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2019/01/18(金) 13:22:55.67
古本三国志を紹介しているHPをみてると、面白い事実がありますね。

http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/kohon.htm

「立正大学文学部論叢62」にある大川富士夫氏「『古本三国志』をめぐって」によるらしいですが、
百衲本の「陸績伝」にある「従今巳去」の「巳」が、古本では、「以」につくるとありますね。陳寿は普通に「已」と「以」通用して書いていたという動かぬ証拠ですね。内藤湖南も藤堂明保も通用して読んでますし、やっぱりそれが最有力の読みってことです。
もともと「已」と「以」は、字形からして同じ文字だったらしいですしねぇ。

もうこれ、FAQ30は、無理でしょ。
箸墓の年代観と無理に合わせようとして、いかにも最もらしく間違ってことが書かれてますね。
もう2年前でしたが、私が指摘しましたが、未だにそのままとはね。

ま、勝利宣言ってことで、ひさびさに書き込んでおきます。
0138日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 13:23:42.28
>>182
>九州島内を延々堂々巡りして一月で邪馬台国に着く九州説<

不彌國で萬二千余里はほぼ終わっているから、「九州島内を延々堂々巡り」しないし・・・。
0139日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 13:31:55.34
>>183
類スレ主は一つもまともな理由を挙げてない。理がないと理由にならないの。
お前の脳内だけにある思い込みなんて誰にも理解できないね。
お前は馬鹿だから思い込みが強いんだよ<

>里数が伊都国、奴国で12000里を越えるというのはマトモな歴史学者が誰も認めてない珍妙な島巡り読みを
敢えてお前がした結果に過ぎない つまり全く理由にならない <

里数が不彌國で「萬二千余里」に達している、というのは、
魏志の史料事実であり、史料実態である。
0140日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 13:35:46.01
自己の解釈を史料事実とか史料実態と主張してるから明らかな詐欺ですな
0141日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 13:39:19.45
>>185
>唐津湾岸まで出れば見えます ごまかしても無駄<

唐津湾岸からは、伊都国は見えない。

>里数が伊都国、奴国で12000里を越えてるし

>島巡り仮説は、短里以上のトンデモ 根拠なしのご都合読み<

島巡りは、魏志に記された史料事実であり、史料実態。

>日数表記は普通に道里の表現として使われる
単に情報の精度または出典の違いを反映しているだけ <

日数表記は、
不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わっているから、
行程里数記載とは別の説明。
0142日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 13:46:56.01
>>186
「南→東」などの嘘吐き騙しの学会教育界や、
安部文部省や右翼マスコミというペテン師の罪がいかに重いかよく判るねw。
@長里のでっち上げ、
A不彌國で萬二千余里がほぼ終わっている事の無視、
B「冢=前方後円墳」という嘘吐き騙しや「正北抵新羅」などの否定、、
その妄想から抜けられなくなった被害者の大和説シンパをの、
大勢出してしまったんだから。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 13:49:41.75
>>137

已と巳は別の字
「已」と「以」は、
陳寿じゃなくて、古本三国志(吐魯番、敦煌)と版本での字の異同だろ
0144日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 13:53:34.27
>>188
>一寸が約2.3cmとして1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱
どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある
影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので
周の1尺は20cm弱 <

谷本計算は、太陽仰角を使っているので、尺寸系の寸法関係は、
千里の距離には全く関係がなく、変わらない。、
0145日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 14:05:18.07
>>143
同じこと
0146日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 14:15:39.13
71日本@名無史さん2019/01/18(金) 06:41:27.12>>73>>75
韓は帯方の南に在り、東西は海を以て限りと為し、南は倭と接す。方四千里可(ばか)り。

(「魏志」韓伝)

これの「方四千里」の数値は、面積を正方形にした場合の一辺を示しています。
従って、現在のほぼ正方形に近い地形の韓国の東西幅が300〜360㌖


韓伝で4千里が300キロから360キロなら
右往左往して行くから1万2千里はそう遠くないので畿内はむりだな
0147日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 14:26:35.59
>>128
>東南は、出発時点での出発方向の記載であり、目的地の方向ではない。

出発方向だけ書いて、実際の方向が書いてない地理情報なんて無意味だろうに
ザラコクの知能だと、これで十分な反論ができていることになるっていうのがすごいよなw

>可也山は、伊都国のかなり北方であり、伊都国自体は全く見えないよ。
>「伊都国が見える」なんて、その場しのぎの嘘を付いては、だめだよ。

加也山のお膝元に伊都国があるんだから、加也山の方角が分かれば伊都国の方角が分かる
ザラコクの言い分がその場しのぎのデタラメであり、まったく論理的ではないww

ザラコクはうそつきというよりは、インチキデタラメの方が表現としては正しい
0148日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 14:28:50.40
>>132
>部分行程の里数合計が、不彌國までの「萬二千余里」で全く終わっている、

ザラコクの知能だと、これで十分な反論ができていることになるっていうのがすごいよなw
島巡り仮説を認めているのは、古田史学の会の信者だけだという体たらくなのにww

だいたい、そこから水行二十日+十日、陸行一月さらに進まなければならない時点で
萬二千里が終わっているというのが間違っていると分かる
0150日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 14:41:20.93
>>146
3世紀に300km以上の直線距離を測定できたとか、あるいは300km四方の面積を測定できたとか
いくら何でも頭が足りないだろw
0151日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 14:46:41.29
某フォーラムに参加して、ゆうれいの正体見たり枯れ尾花、のような気分になりました。

なぜなら・・、
邪馬台国論争では「鉄」を採っていた倭人のいた国が邪馬台国だとされてきました。
そして、弥生の鉄をつかんでいたのは、どう見ても九州です。
それも武器や工具の出土は福岡を抜いて熊本がトップに躍り出ます。

ところが・・、
弥生の北部九州には、鉄がありすぎるから、邪馬台国のイメージとはちがうので、邪馬台国は北部九州にはなかった
と言われたのです。驚きました。イメージですか!
松傾さん、邪馬台国は女王を戴くユートピアではなかったのですよ。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 15:34:15.31
>>150
文句は魏志韓伝び言ってくれ
0153日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 15:49:28.38
>>152
アホ
四千里=300kmがこじつけなんだよ
仮に距離を測定したとしても、当時測定できた距離とは道のりの距離か航行距離(移動距離)
韓地の東西方向、南北方向の移動距離が300kmに収まることはない
実際には測定なんかしてないだろうが、測定したと仮定した場合でも、3世紀の技術の限界は移動距離までだよ
0154日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 15:59:03.31
>>137
岡上が反論もできずに勝利宣言しててワラタ
0155日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 15:59:36.34
>>191
つまり「東南」は出発方向であり、
「陸行五百里」になるんだから、
大和説は、最初から失格してる説だな
話にならないクズ大和説
0156日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 16:10:29.61
>>192
>これがうそ
日数で書いてあっても道里=距離の表現<

これがウソ。
「実際の移動での所要日数で距離を表現する」場合と、
「単なる位置や距離説明での所要日数表現」の場合とのの、
差異の問題である事を隠蔽して、口先で誤魔化す事をしている。
それは、スレ主も同罪。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 16:21:32.21
>>144
>谷本計算は、太陽仰角を使っているので、尺寸系の寸法関係は、
>千里の距離には全く関係がなく、変わらない。、

一尺が何寸かで太陽仰角は変わるぞ
0158日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 16:27:38.60
>>199
中原とか千々賀を通る事は、
怡土の地の伊都国へも、大和へ行く場合でも、逆方向の非常な遠回りになり、
大和説の方が否定になり、破綻だ。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 16:29:15.85
>>200
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説は、
自己矛盾のウソが多過ぎだな。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 16:31:12.32
>>203
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者は、下品な詐欺が多過ぎだな。
0161日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 16:36:54.86
>>155
>つまり「東南」は出発方向であり、
>「陸行五百里」になるんだから、

あのね

東南方向に出発するけど、どれだけ進んだかはヒミツ
そのあと五百里進むけど、どっち方向に進んだかはヒミツ
なんて文章
あたまが変な人以外に誰が書くの?

おしえてね
0162日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 16:38:10.16
>>206
>「水行」は魏略逸文に出てくるのを陳寿がまねしただけじゃないか<

変な男?。
魏略逸文という後世の文書を陳寿が「まね」る事が出来る筈もなく、
陳寿が魏略を見て写した、という証拠も全くない。
有り得る事は、魏使らの記録を、魚豢も陳寿も別個に参考にした、という事。
0163日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 16:41:19.86
>>158
>中原とか千々賀を通る事は、
>怡土の地の伊都国へも、大和へ行く場合でも、逆方向の非常な遠回りになり、

どんなに大回りだって海の上は歩けないんだから
中原を通って行くしかないだろ
0164日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 16:49:52.07
>>210
>邪馬台国所在地論争はここでひとまず休憩して、<

何だ?、「邪馬台国」なんて、存在もしない嘘つき騙し文言だ。
誤魔化すなよ。

>古墳時代の大和朝廷(前方後円墳による全国支配&序列化)を考えると<

大和朝廷なんても、存在もしなかったんだから、
お前はまた「結論先にありき」のインチキ詐欺師であった事にしかならんよ。

>定型化された最初の前方後円墳とされる箸墓の被葬者が(卑弥呼かどうかは別にしてw)最初の大王ってことになるよね?<

ならんよ。九州倭国の「東征毛人五十五國」の東征将軍らの4世紀の墓だ。

>邪馬台国と大和朝廷・天皇家の関係はどうなっているんだろう?
乗っ取ってから前方後円墳をそのまま継承したのか、新しく導入したのか?
後円部の特殊器台は吉備で焼いた完成品を持ってきてるから箸墓の被葬者は吉備王で、
卑弥呼の冢が真下に埋まってる説もあったし。<

吉備も、元は出雲系であったが、
九州倭国の「東征毛人五十五國」に拠って支配され、
その後東征将軍らに従って東征の援軍をしただけだ。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 16:50:55.61
>>132
>部分行程の里数合計が、不彌國までの「萬二千余里」で全く終わっている、

そもそもトンデモ王朝節では
その部分里程が国の周縁部までなんだろ?
ならば部分里程の里数合計は総距離にならないじゃないか

九州説は自己矛盾してるよな
0166日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 16:53:39.08
>>137
相変わらずお鏡さんは、チェリーピッキングで文句をつけるだけww
心根が曲がってるね

>もともと「已」と「以」は、字形からして同じ文字だったらしいですしねぇ。

うそつきww
小篆まで遡っても字形は同じじゃないよ
ただ、異体字扱いはされてる
http://www.zdic.net/z/19/zy/5DF2.htm
http://www.zdic.net/z/15/zy/4EE5.htm

>もうこれ、FAQ30は、無理でしょ。

FAQ30の論旨は以下だぞ

 また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
 このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。

特に問題ないだろ?
「已」として読んだ場合まできちんと考えて書いてある

「已」と「以」が通用することが確認できただけで、FAQ30が否定できたと考えるのは浅知恵w
0167日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 16:54:08.85
>>214
>180年頃から纏向の整地、建物の建築がはじまったのだから。<

ダメだ。
纏向の庄内の始まりである石塚が、撥型前方後円墳であるから、
3世紀末になってしまう。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 16:57:15.54
>>147
平原あたりは可也山の東南で、結構距離があり、可也山の膝下と言った地理ではない
可也山を基準にすれば、逆に東南と勘違いするだろう

呼子あたりから見えるか確認してないが、地理的には可也山は東に見えるだろうからね
0169日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:01:14.44
意味不
0170日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:03:00.70
>>165
>ならば部分里程の里数合計は総距離にならないじゃないか

それが一応なるんだよ

ただ、末盧国から伊都国への距離は、
普通は、「末盧国の中心から伊都国の中心」になるんだけれど、
九州説では、「末盧国への到達地点(海岸)から伊都国への到達地点(国境)」だと
言い張っていて、「末盧国を横断する距離」になるんだってさ

それ、末盧国から伊都国への距離じゃなくて、末盧国の大きさじゃね?
と思うんだけれど、話が通じないww

しかも、帰り道だと伊都国から末盧国への距離が今度は「伊都国を横断する距離」に
なるという不合理な話なんだが、これを不合理とも思わないらしいww
0171岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2019/01/18(金) 17:10:37.93
>>166
なんか変なこと言ってますね。
已に通用を認める以上、張政が到着したときに、卑弥呼はすでに死んでいたと
解して何か具合が悪いんですか。

藤堂先生の倭国伝、読んでみて、それに文句をつけてといてくださいね(笑)。
手紙でもかいてみたら?
0172日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:12:13.59
>>168
>結構距離があり

言うほど距離はないぞ10キロもない
名護屋浦に上陸とかいうインチキを前提としても、陸行する以上は唐津を
通らざるを得ないし、唐津から加也山を見ながら伊都国(三雲遺跡群)へ
向かうのは「北東」〜背振山脈の脇を抜けるあたりでは「ほぼ真北」になる

よく、名護屋浦からから唐津へは南でそこから東だから南東とかいうコピペを
何度も貼ってた人がいるが、北へ向かわないと着かないんだから、詭弁にもならない
https://i.imgur.com/h2ujlEL.jpg

それを東南陸行と言い張るのは、厚顔だよなw
0173日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:16:55.73
>>167
庄内の始まり、庄内1式は200年前後。
これは定説。
途中の年代は、諸説ある。
0174日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:18:28.36
北東イトクズのまやかし苦し紛れw
0175日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:21:00.34
>>171
勝利宣言できるような内容じゃないってのが理解できないんだな
お鏡さんは相変わらずお鏡さんだ

FAQ30から引用
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
(中略)
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。

>已に通用を認める以上、張政が到着したときに、卑弥呼はすでに死んでいたと
>解して何か具合が悪いんですか。

そう解釈して構わないが、正始8年の卑弥呼の生存確認以降、年号の記載がない
「張政が到着したとき」がいつなのかは分からないんだよw

そして、お鏡さんの本領発揮はここ
>藤堂先生の倭国伝、読んでみて、それに文句をつけてといてくださいね(笑)。

自分が批判されると、引用だから自分の責任じゃないと、権威を前面に出して自分は逃げるww
平原1号墓の10月20日の日の出(本当は10月22日)も柳田先生に下駄を預けて自分では何の論証もしないし
本当に、他人のふんどししか使わないチェリーピッカーがお鏡さんの本質ww
0176日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:21:44.17
>>171
卑弥呼は、張政到着時には既に死んでいたと。
藤堂シェンションは、どんなストーリー描いとるん。
難升米らが張政に知らせなんだと?
0177日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:24:21.70
>>170
>それ、末盧国から伊都国への距離じゃなくて、末盧国の大きさじゃね?

だから壱岐や対馬も島巡りで国の大きさを示しているんだよ。

>しかも、帰り道だと伊都国から末盧国への距離が今度は「伊都国を横断する距離」に
>なるという不合理な話なんだが、これを不合理とも思わないらしいww

国の大きさですから不合理ではありません。
0178日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:25:21.69
>>168
>呼子あたりから見えるか確認してないが、地理的には可也山は東に見えるだろうからね

呼子に近づいたら海上から確実に見える
視野の限界近くで海の上に突き出ているのが見える
自分たちが可也山の真西を過ぎたとわかる
三雲からは可也山が北西に見える
比較的近いのがわかる

つまり地理の読める軍人とかが一向の中にいれば、糸島が呼子の東南だとか錯覚は起こさない
錯覚を起こす程度のメンバーが書いた記事なら、信頼はできない
0179岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2019/01/18(金) 17:28:05.80
>そう解釈して構わないが、正始8年の卑弥呼の生存確認以降、年号の記載がない
>「張政が到着したとき」がいつなのかは分からないんだよw

張政が260年とかにきて、その時已に卑弥呼が死んでいたと言いたいの?
普通に248年に張政が来たと考えてますが。
珍説を他人に強要しないでください。

10月20日の話は、北条先生も書いてますね。
そちらもみてみたら?

抗議する人が多くて大変ですね(笑)
0180日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:29:32.38
福岡平野の東端の三笠山(宝満山)から、西端の糸島平野の一貴山までは、40余qあり、
両山を結ぶ直線ライン上には、漢委奴国王の4世代(4時代)の王墓がおよそ10qごとに配置されている。
このことから、福岡平野〜糸島平野のすべては、奴国王家の長きにわたる支配下にあったことがわかる。その雄大な歴史観・国家観は、見事というほかない。
もちろん、ここにイトコクが入る余地など、全くなかったのである。

<東端・三笠山> − 須玖岡本王墓 − 吉武高木王墓 − 三雲南小路王墓 − 銚子塚王墓 − <一貴山・西端>
0181日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:29:39.88
>>178
え?比較的近くに見える?

三雲あたりからは可也山は近くには見えんよ
ある程度離れて見える
0182日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:30:55.98
>>217
>TB期新相は、庄内3式。<

これは、筑紫の編年であり、
同じモノの大和での編年年代は、筑紫よりも50年以上遅くなる

>庄内3式は、最近は230年頃〜250年頃の年代。<

大和では、
庄内の卑弥呼の冢や那珂八幡などの前方後円墳よりも新しい石塚の庄内が、
3世紀末である。
0184日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:38:06.29
>>167
>ダメだ。
>纏向の庄内の始まりである石塚が、撥型前方後円墳であるから、
>3世紀末になってしまう。

って、ダメだろ

撥型前方後円墳だと3世紀末になる、という
理由が、全く説明できてない
0185日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:39:08.06
>>171
>藤堂先生の倭国伝、読んでみて、それに文句をつけてといてくださいね(笑)。
>手紙でもかいてみたら?

あの世に?
0186日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:39:33.62
>>178
呼子に着いた時点でほぼ東に見えるだろう

対馬→壱岐→呼子を"南"に進んできたと思ってるなら尚更だ
0187日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:40:14.73
>>178
じゃあ南は南と言う事で決着だね
0188日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:41:49.08
>>172
>言うほど距離はないぞ10キロもない

呼子〜可也山と可也山〜三雲を比較してみてね
0189日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:43:12.28
>>185
墓前でケチをつける畿内虫www
0191日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:45:20.51
>>181
>三雲あたりからは可也山は近くには見えんよ
>ある程度離れて見える

どの程度?
0192日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:46:59.41
あのーーーー
纒向からまだ大集落跡見つからないの?倭人伝に記された鉄鏃や絹は?
0193日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:49:24.43
>>221
>弥生時代のモモ核は岡山で弥生中期後半くらいから増えるから
卑弥呼が始めたわけじゃないからな <

ふーん。
魏志には「桃支」という文言が記載されている。
0194日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:49:31.39
>>179
>普通に248年に張政が来たと考えてますが。

それ、普通?

新太守着任、倭の使者到着、倭に使者派遣、使者が倭に到着
そんなクイックレスなの?
0195日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:51:59.76
>>177
>国の大きさですから不合理ではありません。

伊都国は東西何里あるの?
0197日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:53:19.37
>>176
>藤堂シェンションは、どんなストーリー描いとるん。
>難升米らが張政に知らせなんだと?

藤堂先生は、どんなストーリーも書いてないよ
藤堂先生が言いたいことはこれ↓
「しかし、これまで私が縷々列挙してきたのは、「三国志」を「三国志」として「書写したもの」同士の「異同」なのである。
 その間に、これほどの「異同」が含まれていることは、「写本には誤写はつきもの」という、当たり前のことを如実に
 示していることは明々白々である。逆を言えば、今日の「版本魏志」が「陳寿オリジナル」のままであることなど、
 到底望むべくもない「夢想」でしかないと言いうるのである。」

魏志倭人伝の記述は99.5%正しいから「南≠東」だ、というザラコクの言い分を
全否定ww
0198日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:55:55.48
>>226
>放射状なんて、根拠なし。 水行十日のあと上陸するのは屋久島付近。
そこから沖縄本島あたりまで陸行一月なの。<

不彌國で「萬二千余里」がほぼ終わってしまっている事と、
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」に拠って×。
0199日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:56:53.50
>>177
>国の大きさですから不合理ではありません。

行きと帰りで、違うものが「末盧国と伊都国の間の距離」とされるしかない地理の
表記法なんて、不合理以外の何物でもないじゃないかww
頭わいてるのか?ww

西から来たときは、
末盧国の大きさ(横断距離)が「末盧国と伊都国の間の距離」
東から来たときは
伊都国の大きさ(横断距離)が「末盧国と伊都国の間の距離」

こんな表記だったら、軍隊は絶対に動かせないね
ロジスティックが破綻するww
0200日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 17:59:48.27
>>229
>九州は沖縄あたりまで続く巨大島というのが、古代中国人の強固な固定観念。<

実際に倭地に来て記録した魏の役人らの報告と、
陳寿の「計其道里、當在會稽東治之東」に拠って、×。
0201日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:02:17.25
>>230
>箸墓の被葬者は、薩摩阿多から来た祭祀王。
吉備みたいな分家の祭祀者ではない。 <

箸墓は、九州倭国の東征毛人五十五國」の東征将軍らの墓。
0202日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:05:58.04
>>237
>邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える <

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、×。
0203日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:14:53.46
>>179
>10月20日の話は、北条先生も書いてますね。
>そちらもみてみたら?

それは柳田説を批判しなかっただけだろ? きちんとした礼儀のある人は、安易な論難はしない

そして、単純な数学的な計算で、平原遺跡から見た日向峠からの日の出は10月22日だと分かる
権威の後ろに逃げて、自分では何の論証もしない卑怯者がお鏡さんww

そして、吉野ヶ里遺跡北墳丘墓の立柱、及び平原5号墓の大柱も
平原1号墓の大柱と同様に、墳丘の長軸方向にあわせて立てられており、
同じ葬送文化を示す遺物であることが明白

そして、吉野ヶ里遺跡北墳丘墓の立柱も及び平原5号墓の大柱も、「特定の日の出方向は意識していない」のが確定
つまり、「平原1号墓の大柱が10月20日の日の出を指しているから太陽信仰の証拠」というのは「まったくのでたらめ」なのが確定

卑弥呼の墓が寿墓でないことが「卑彌呼以死大作冢」から読み取れるし「卑彌呼已死大作冢」とした場合でも、
「倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。 」
FAQ30より引用

藤堂先生の文章は一通り読んだけれど、古本三国志と現行版本では、文字の異同が多いというのと
一箇所で「巳」と「以」の異同があるとしか書いておられないよ
(「巳」は「已」の(藤堂先生の)誤記)

そこから、卑弥呼以死は、卑弥呼已死「だったに違いない」
卑弥呼すでに死すと読めるから、卑弥呼の墓は箸墓よりも「年代が古いはず」
と勝手に決め付けて勝利宣言しているイタイ人がお鏡さんという人

藤堂先生は卑弥呼以死の部分には何も言及していない、そういう説がよそにあるだけ
卑弥呼の死んだ年がそもそも不明、寿墓でなければ造墓年数もかなりかかるのも無視している
0204日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:17:18.07
>>182
>同じモノの大和での編年年代は、筑紫よりも50年以上遅くなる

ザラコクや、それ何十年前の編年だ?
倭国内の流通の活発さを舐めすぎ
0205日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:18:10.58
>>240
>卑弥呼亡き後の男王は吉備系の饒速日だろう
台与の時代、纒向遺跡から吉備系の土器が消えていく
神武東征神話は、2世紀末の卑弥呼を共立した勢力、尾張山陰吉備によるヤマト征伐と
卑弥呼亡き後男王の時代の内乱を合一してできたんだろう <

台与なんていないし、
卑弥呼も壹與も筑紫の女王だから、×。
0206日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:19:58.86
まあ墓作ってる時点で本人が既に死んでておかしくない
しかし「すでに」の一言で、さらにどこまで年代遡れる気なの?

ってコトよ
0207日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:24:29.94
>>188
>呼子〜可也山と可也山〜三雲を比較してみてね

呼子〜可也山28キロ
可也山〜三雲7キロちょいだな

4倍違うが?
それに、
呼子から可也山を見込む角度と
呼子から三雲を見込む角度は 5度も違わない

呼子から見たらとか、名護屋浦から見たら見えないとかは
結局はその場しのぎの思いつきで、詭弁にもならないし言い逃れもできていないww

そもそも呼子や名護屋浦湾を末盧国とする時点で間違ってるんだがなww
0208日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:26:23.59
どこからどの方角に見えたとかはいろんな想像してもきりがないので
結果的に末盧國ー伊都國の方位が違ってるなら、
他の方位についても違ってる可能性があると考えなければならない
0209日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:28:22.72
>>203
お鏡さんは論理的に説得するんでなく、有名人の名前でネームバリューで説得しようとする人だと
自分で鋭意宣伝中
0210日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:35:09.46
>>248
>水行に渡海を含むというのは間違い <

水行は、当然水上の舟行の事であり、渡海を含むから、×。
0212日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:36:14.07
>>207
だいたい九州説が出すのはウソデータ
あるいは全く出さない
0213日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:36:38.51
纒向のどこに魏志倭人伝に書かれた王城の楼閣があるんだ?
どこで千人の奴婢が働けるんだ?
0214日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:36:38.66
>>192
纒向は宮殿跡だからいくら探しても集落跡は見つからないよ
鉄鏃や絹は古墳から出ている
0215日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:39:13.30
>>207
>そもそも呼子や名護屋浦湾を末盧国とする時点で間違ってるんだがなww

そうですね。  対馬海流に流されて、呼子や名護屋が末盧国では有り得ない。  @阿波
0216岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2019/01/18(金) 18:39:37.06
>>203
北条先生の著作、読んでないでしょ。適当書いたらダメ。

>そこから、卑弥呼以死は、卑弥呼已死「だったに違いない」
>卑弥呼すでに死すと読めるから、卑弥呼の墓は箸墓よりも「年代が古いはず」
>と勝手に決め付けて勝利宣言しているイタイ人がお鏡さんという人

決めつけも何も、私に限らず誰のどの説も全て推論でしょ。
アホじゃないの
0217日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:39:56.24
>>198
不彌国までで里数は合計1万700里だよ
残り1300里を南に水行陸行すると魏志倭人伝にある
0218日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:42:47.34
>>214
>鉄鏃や絹は古墳から出ている

だけど、その古墳は「忌部はん」 のお墓だけどね。  @阿波
0219日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:43:04.34
>>216
そうやって
相対的に相手を貶める手法つかうと
自分の主張も落ちるよ
0220日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:45:49.62
>>216
あんたがどれだけ論理的に主張できるかを
今まさに問われてるということが
全然わかってないようだな
0221日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:46:06.00
ここまて畿内説は全く納得のいく説明ができていない。
0222日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:48:02.73
>>213
>纒向のどこに魏志倭人伝に書かれた王城の楼閣があるんだ?

建物B
0223日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:48:14.34
>>215
>北条先生の著作、読んでないでしょ。適当書いたらダメ。

お鏡さんが紹介していたURLに出ていた文書は読んだよ
あれを読めばお鏡さんの主張が確認できるという意味で貼ったんだろ?
それを読んだうえで、お鏡さんの言うことは権威を笠に来たそら言だって言ってるんだよw

>決めつけも何も、私に限らず誰のどの説も全て推論でしょ。

つまりお鏡さんは、根拠も希薄な推論(というよりあて推量)で『勝利宣言』しちゃったんだww
しかも、根拠として貼ってあるURLの藤堂先生の文章では「そんなことは言ってない」w

>アホじゃないの

ほらほら、言い返せなくなると意味もなく相手を罵る言葉が増えるのもお鏡さんの特徴w
0224日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:49:19.84
>>221
という証拠は?
0225日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:49:22.34
>>250
>>Yahooでの計算では、当然、8尺棒の先端の上面長(幅)も、推定した。<

>どこまでもバカだなww
棒の先端(影側)を通る光の「太陽の見かけの大きさ分」だけ
半影と本影の差が出るのだから、棒の上面の幅などは半影の長さ大きさに関係がしない<

どこまでもバカなんだなあ。
8尺棒の棒頂面が、
四角か?丸か?不定形か、どの方向に長くなっているのか?が判らず、
太陽方向に尖っていたり不定形であれば、その影端の形も位置も不定になり、
影端位置も全く不明になってしまうではないか。
0226日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:51:55.52
>>221
>ここまて畿内説は全く納得のいく説明ができていない。

いやいや、九州説の人が何を言われても「まったく納得しないにだ」っていうだけの
簡単なお仕事に徹してるだけでしょ?

末盧国からの東南陸行五百里で伊都国に到るというのが方角の間違いだというのは
誰が見ても明らかなのに(おそらく伊都国ではない場所への旅程の記録の混入)、
それを「認めないんだー」って言い張ってるだけじゃない?
0227日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:52:23.01
>>213
どこに楼閣があるのかってこっちが聞きたいわ
邪馬台国の時代の物が現存してるわけないだろ
0228日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:54:06.81
>>225
>太陽方向に尖っていたり不定形であれば、その影端の形も位置も不定になり、

どんな形でも、太陽の大きさ分が、半影と本影の差になるのは変わらない
うるさいことを言うと、回折もあるけれど、そこまでは気にしなくていいだろう?
0229日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:56:06.94
>>195
東南至奴國百里
これからすると100里足らずでしょ。
0230日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:56:37.55
現代中国語でのピンインでの表記
卑弥呼:Bēi mí hū / Bei1 mi2 hu1
(俾彌呼:Bǐ mí hū / Bi3 mi2 hu1)

今のところ卑弥呼の発音に関して日本側の古事記表記の比桃@(Bǐ miē hòu)、
比売后〈Bǐ mài hòu〉以外には類似する名称は存在しない。

ビミホなんて人は古代日本にいない。
考えられるのは「hi」、つまりヒミ、ヒム、ヒメに関わる名前。

ならば
ひめこ(日女子、姫子) - 駒澤大学教授の三木太郎の説。
ひめこ(比梼q、比売子) - 古事記における音読み表現
ひみか・ひむか(日向) - 松本清張が唱えた、日向(日向国)と関係するとの説。
ひみか・ひむか(日向) - 原田大六、古田武彦が唱え説。

このあたりになりアマテラスの別名ヒルメであるという安本説は音韻的にも消える。
さようなら。

そしてヒメ、ヒムなら候補はいる。
崇神天皇4世紀前から6世代前、すなわち2世紀末、
ヒメ(踏鞴五十鈴)媛と日向賀牟度美良姫 ( ひむかのかむとみらひめ )だ。
この二人以外に卑弥呼候補はいない。
この二人が住んだのは葛城である。
したがって邪馬台国は葛城である。
0231日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:57:08.37
>>227
たぶん、渋谷向山古墳の南側あたりにあったと思われる
辻地区の建物群より後に、より大きな居館域が展開されたと想定されているよ

渋谷向山古墳と珠城山古墳群の間の辺り
0232日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:58:10.26
>>253
>>「東北至成都二千四百里」は、成都の位置説明。<

>以前から「如至成都」の読み方が、誤読になってる<

安南への通行路説明に拠る安南の位置説明の一部。

>これは安南までの「距離」が(大理から)成都まで至る距離の如しだと教えているのに
通水陸行の如しだと言い張る <

距離が同じだと判っているのなら、始めから安南も「東南至安南二千四百里だ」とでも書いた筈。
そうしないで、「東して如至成都のようにして通水陸行だ」という説明を書いた、
という事が、
安南の通行路に拠る位置説明だ、と言っている。

類スレ主の頭が・・・・。
0233日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 18:59:03.18
>>226
つか「納得いく」か、いかないか
第三者が客観的に判断できる基準
出せないでしょ?

つまり言っても意味ないこと言っても
意味ない

九州説はいつも意味ない
0234岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2019/01/18(金) 18:59:44.26
>>223
北条先生のURLなんて書いてないんですど。
何を読んだの(笑)

>>根拠として貼ってあるURLの藤堂先生の文章では「そんなことは言ってない」
私がいっているのは、「倭国伝」の読み下し文のことですよ。

>>希薄な論拠
希薄も何も、古本三国志に通用の例があるとの堅い推論ですけど。
そのためにURLを貼ったんですが。
0235日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 19:01:19.58
>>229
>これからすると100里足らずでしょ。

その100里足らずと、「九州説の言う短里=70メートル」を合わせて考えると、
糸島平野から出られないんだよww

だから、伊都国の入り口を無理やりに伊都GCに持ってきたり、
奴国を無理やり引っ張ってきて峠のてっぺんまで奴国にしたりしてるww
でも、そんな比定地は妥当性「ゼロ」だよw
0236日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 19:05:22.91
岡上みたいに頭わるく生まれついて、プライドだけ持ってる人
悲しいよね
0237日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 19:08:56.99
>>191
平原公園付近から北なら見えるな
南の方だと見えない
曽根や三雲だと見えない。
0238日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 19:10:15.51
>>234
>希薄も何も、古本三国志に通用の例があるとの堅い推論ですけど。
>そのためにURLを貼ったんですが。

ある箇所で通用があるから、別の箇所でもその通用が「あったに違いない」というのは
堅い推論とは言わないだろ?

別の箇所でも「ありうる」という程度だ

そして、FAQ30では「已」だとしても、
「当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱」だときちんと論証してあるし
「已死」を根拠に卑弥呼の墓の造営時期を大きく繰り上げるのは妥当性が低いとしている

結局、ただ難癖をつけて意味もなく勝手に「勝利宣言」しただけだよ、お鏡さんはww

それと、お鏡さん以外の九州説の人にもよく書くんだが、
「勝利」とか「勝ち負け」とかに意義を見出すのは、歴史の真実の追及とは程遠い価値観だよな?

お鏡さんのやりたいことは、「俺すげー」と「お前らバーカ」のマウンティングだけでしょ?
0239日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 19:10:36.70
>>235
それは君の思い込みだしょ
現在の糸島市東部の糸島平野が伊都国なんですよ。
0240日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 19:11:30.68
伊都GCの東南は三瀬トンネル
0241日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 19:14:03.53
>>221
邪馬台国までの距離とされる帯方より1万2千里は
会稽東冶乃東の沖縄や台湾を指している
そこは邪馬台国ではないので魏志倭人伝の距離方位は間違い
物証から見れば邪馬台国は畿内
0242日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 19:14:24.49
福岡平野の東端の三笠山(宝満山)から、糸島平野の西端の一貴山までは、40余qあり、
両山を結ぶ直線ライン上には、漢委奴国王の4世代(4時代)の王墓がおよそ10qごとに配置されている。
このことから、福岡平野〜糸島平野のすべては、奴国王家の長きにわたる支配下にあったことがわかる。
その雄大な歴史観・国家観は、見事というほかない。
もちろん、ここにイトクズ国が入る余地など、全くなかったのである。

<東端・三笠山> − 須玖岡本王墓 − 吉武高木王墓 − 三雲南小路王墓 − 銚子塚王墓 − <一貴山・西端>
0244日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 19:19:31.55
>>234
>希薄も何も、古本三国志に通用の例があるとの堅い推論ですけど。

通用の例があるって話では
どう転んでも
別の意味に使われたという説は
否定出来ないのだがな
あなたは論理的思考が出来ないのかな
0245日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 19:20:52.55
>>241
>物証から見れば邪馬台国は畿内

それはあまりにも厚顔無恥でしょう。 図々しいにも程がある。  @阿波
0246日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 19:21:23.70
吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓の立柱と祀堂について、お鏡さんは言及しないよなw

平原1号墓の大柱の延長上に異形建物とか特殊建物とか呼ばれる小建物跡があって、
吉野ヶ里遺跡の「北墳丘墓・立柱・祀堂」が墳丘の長軸方向に一直線に並ぶのと
平原遺跡の「1号墓・大柱・異形建物」が墳丘の長軸方向に一直線に並ぶのが
完全に対応してるんだがな

平原1号墓の葬送儀礼を考える場合無視できない存在なんだが
0247日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 19:22:51.76
>>242
とにかく、福岡平野は人があまり居ない寒村ですな。  @阿波
0248日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 19:31:16.31
>>239
>現在の糸島市東部の糸島平野が伊都国なんですよ。

糸島平野の西半分はどこの国なの?
国境で国と国は接していて、隙間の無主の地はないんだよね?
だから国境に着いたところが「至○○国」だっていう主張なんだから

さあ、伊都GCより西側で背振山脈より北の領域は「どこの国」なのか教えて!ww
0249日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 19:33:30.91
>>240
>伊都GCの東南は三瀬トンネル

だよね!
伊都GC が伊都国に着いた場所で、そこから東南至奴國百里だったら、日向峠にはならないよね!ww
0250日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 19:36:51.27
>>237
>平原公園付近から北なら見えるな

「付近」の取り方にもよるけど、三雲遺跡群の三雲南小路遺跡がある中心付近から見て
冬至の日の入り方向に、平原遺跡と可也山がまっすぐ並んでるんだよ
北ということはない
0252岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2019/01/18(金) 19:40:42.42
>「当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱」だときちんと論証してあるし

これのどこがキチンとした論証があるのかな?本当意味不明です。
已にと読む限り、張政がついた時、卑弥呼が已に死んでいたと考える以外ない。
248年の記事なんだから、それは248年と考えるのが普通でしょう。
張政着いたのがが260年前後でその時卑弥呼が死んでいたといいたい、その根拠を示してくださいね。
0253岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2019/01/18(金) 19:41:52.17
張政着いたのがが260年前後でその時卑弥呼が死んでいたと言いたいなら、
その根拠を示してくださいね。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 19:45:55.90
>>243
>よっぽど変な形の棒使わない限り
>影の長さなんてミリも違わねーだろ

夏の短い影で0.76寸(1.7センチ)、冬至の影の長さだと2.8寸(6.4センチ)と
結構な差が出るんだよ

   測定条件      表の影の長さ
             夏至      冬至
A 本影(影は最短)S1  15.04寸    129.2寸
B 半影(影は中間)S2  15.42寸    130.6寸
C 半影(影は最長)S3  15.80寸    132.0寸
   『周髀算経』    16寸      135寸
0255日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 20:05:08.02
>>252
>248年の記事なんだから、それは248年と考えるのが普通でしょう。

お鏡さんは、帯方郡と倭国中央との間を自由に通行できると思ってるのかな?

魏志倭人伝の記録では、倭国本土についてから邪馬台国までの往復だけで4ヶ月かかるんだけど?

そして、対馬海峡の横断はよい季節に天気のよい日を選んで渡るというのが
一般の想定で、波の荒い季節は何ヶ月も行き来が途絶えると考えるのが普通

遣塞曹掾史張政等因齎「詔書・黄幢」、拜假難升米、爲檄告喩之。
とあるから、皇帝の詔書をもらうために皇帝の下まで少なくとも情報が往復している
帯方郡から魏の都、洛陽までの往復だって何ヶ月単位だ

お鏡さんは「正始8年の記事だからー」というが、この項は
其八年 太守王頎到官が、正始八年の記事の主文
正始八年に太守王頎が帯方郡に任官して、それを知った卑弥呼が使いを出して
そこから洛陽まで連絡が行って詔書が戻ってきて、それから張政が派遣される

季節がいつかは書いていないが、渡海に適した季節が限られることを考えれば
正始八年のうちに張政が邪馬台国まで到着するのはむしろむつかしい

こうして考えてみれば、張政が正始八年に着いたとする根拠の方が乏しい
だって「正始八年と書いた後の年数が書いてないから」だけなんだから

>>253
>その根拠を示してくださいね。

示したよww
0256日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 20:07:54.32
伊都GCが伊都国に着いた場所って言ってた人、消えたかな?
0258日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 20:19:18.46
>>255の補足
別に張政が260年前後に着いたとは主張してないがな

卑弥呼以死大作冢 は
卑弥呼死すを以って大いに冢を作る と読めばよいだけのこと

「卑弥呼死す」(原因・理由)を以って「大いに冢を作る」(結果)というだけ

248年に死んでいたところで>>126にあるように
「土の量から試算して毎日500人動員で10年、1000人なら5年という研究がある
 ぶっ続けに工事した場合だが」
くらいの時間はかかる
箸墓の推定年代260〜280年と誤差10年くらいしかないぞ

「勝利宣言」という恥ずかしい台詞とともに久しぶりに登場というのが痛すぎるw
0259岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2019/01/18(金) 20:22:07.97
>>255
うわ、悲しいほどに読めてないですね。

>正始八年に太守王頎が帯方郡に任官して、
ここはOK
>それを知った卑弥呼が使いを出して
そんなことどこにも書いてません。
>そこから洛陽まで連絡が行って詔書が戻ってきて、それから張政が派遣される
これもそんなことどこにも書いてません。

「詔書・黄幢」は、すでに郡にあったものを
張政が「因りて(ついで)」渡しただけですよ。
0260日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 20:23:11.79
>>257
>お鏡さんって何だ?

邪馬台国スレに出没する奇人だよw

「平原1号墓の超大型内行花文鏡が倭王のシンボル」というのが持論
平原1号墓が卑弥呼の母親の墓という説で、卑弥呼自体は大和だという畿内説と自称しているが
その精神は九州説で、畿内説の言うことは全て正しくないと言い張る人

252岡上 ◆Lv09mLa3HM 2019/01/18(金) 19:40:42.42の人のこと

コテハンの「おかがみ」に合わせて「お鏡さん」と呼んでるんだよ
0261岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2019/01/18(金) 20:24:18.63
>>258
>卑弥呼死すを以って大いに冢を作る と読めばよいだけのこと

これもめちゃくちゃ。それは、「以卑弥呼死大作冢」の読み下しでしょ。
0262日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 20:25:20.78
其六年、詔賜倭難升米黄幢、付郡假授。

その六年、詔して倭の難升米に黄幢を賜り、(帯方)郡を通して授けさせた。

1.「黄幢」は魏の軍旗。何故か突然この記述がある。卑弥呼への挨拶もない。何かが起こったと考えるのが自然?。
2.この年、馬韓の反乱がおきている。このため、この時の黄幢は倭に届かなかったとする説あり。この説では、正始八年の黄幢はこの時のものであるとする。
3.この馬韓の反乱により帯方太守弓遵が戦死している。これを知らないと、次の正始八年の『太守王[斤頁]到官』の意味が解らない。
0263日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 20:30:07.45
お鏡さんが話をそらし始めたなぁ

魏志倭人伝とは関係のない呉書で、現行版本と古本で「已」と「以」の通用がある
ここまではいい

そこから「卑弥呼以死大作冢の「以」も「已」の通用と見るのは堅い推論」でというのは
論理の飛躍

その論理の飛躍を以って「FAQ30は間違いだと『勝利宣言』に来ました」というのが
痛いという話なのに
0264岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2019/01/18(金) 20:32:50.73
>>263
自分の漢文の読めないのを誤魔化してますね。
分かりますよ(笑)
0265日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 20:34:36.66
>>259

「説相攻撃状」が「因」だろ
その前に詔書は郡にはない
0266日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 20:49:04.72
詔賜倭難升米黄幢 だから詔書あるわな
0267日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 20:55:14.12
六年のは詔して難升米に黄幢を賜う
0268日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 21:04:30.10
>>264

>>238を再掲
結局、ただ難癖をつけて意味もなく勝手に「勝利宣言」しただけだよ、お鏡さんはww

それと、お鏡さん以外の九州説の人にもよく書くんだが、
「勝利」とか「勝ち負け」とかに意義を見出すのは、歴史の真実の追及とは程遠い価値観だよな?

お鏡さんのやりたいことは、「俺すげー」と「お前らバーカ」のマウンティングだけでしょ?
0269日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 21:09:10.84
ごまかすのに必死だなー

www
0270日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 21:21:00.19
お鏡さんの特徴
・権威の引用ということにして、自分への批判には一切答えない
・自分に都合の悪いコメントには一切触れない見ない聞こえない
・畿内説を自称しながら、畿内説が大嫌い
・基本チェリーピッキング体質、最初の権威の引用も都合のいいところだけ拾って自説(のようなもの)に使うだけ
0272日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 21:52:42.49
岡上さんは結局は畿内説だしな。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 21:55:02.52
奴国 二万戸
投馬国 五万戸
邪馬臺国 七万戸
すごくイメージしやすい
お互いに船で行き来して交流してたんだろうね
3世紀西日本の状況がよく分かる気がする

これを記した魏人が実際にどこまで行ってたか、伝聞かは分からないが、書くべきことをきちんと書いてるなあと思う
0274日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 21:59:35.82
>>240
>>249
伊都GCから飯場峠へ
更にセブンミリオンCCから先が不弥国
0275日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 22:28:10.76
>>274

飯場峠(標高371m)が奴國の入口w
0277日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 22:40:19.70
飯場峠(標高371m)の東百里(直線約8km)はもーもーらんど油山牧場だな
0278日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 22:41:20.98
卑弥呼の墓でもさがせば?
0279日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 22:42:51.50
>>273
すごく同意します。
0280日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 22:49:57.74
>>276
九州の可能性がまだあれば、議論でも罵り合いでもある程度意味があると思うのですが、実質、九州の目はないでしょう?

であれば、事務的な対応と言うか、ほどほどでいいんじゃないですかね?

それよりも畿内説の中で、精度を高めたり、差異について議論したいです。
0281日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:07:08.18
>>280
畿内説同士で議論する事もないと思うけどなー
邪馬台国は畿内で決まりだし
むしろ九州説をこの地球上から根絶させる方法を議論したい
なにかとてつもない方法があるかも知れない
0282日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:07:15.17
>>275
福岡市周辺が奴国
奴国の端を横切って不弥国へ。
0283日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:07:21.23
>>417
>>大体「短里」が出る筈であり、<

>短里はきちんと決まった長さで、それが周髀算経と谷本計算ではっきり示された
という話だったはずなのにww<

始めから、76.3mも76.6mも76.5mも、皆「大体の近似」だよ。

>大体短里なんてないんだよ 短里は捏造 <

あったから、陳寿らは使った。

>谷本計算は、前提が間違っている、

お前(類スレ主)は、谷本計算が全く分かっていない・・・・アホだよ。

>周髀算経は実測していない <

「測影」した、と書いてある。

>周髀算経と谷本計算で何か言えると思っているのは大間違い<

史料事実を否定曲解する類スレ主が大間違い。
0284日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:07:46.05
最も優れた頭の、岡上氏が、邪馬台国畿内説を宣伝する韓国人を、論破してしまった。。。
0285日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:09:41.40
>>255
>場合によっては、投馬国(出雲)五万戸の範囲に、吉備も入ることになる<

「南≠東」に拠って×。
0286日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:12:19.51
417の>>261
これまでにも何度も紹介してるんだがな
距離はヤフーマップで適当に直線(折れ線)で計っているから適当
0287日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:16:27.65
417の>>262
>>纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。 <

>だって筑紫が使ってるのは畿内系の土器だもの 植民地だから w<

大和からの搬入上納土器は殆どなく、
少しあるのは、河内や播磨からの搬入土器。
0289日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:20:34.87
417の>>263
>出雲まで及び丹波までの水行は海岸沿いだから特に方角は意識せず、記録漏れして
最後の丹波から大和の南向き陸行の方角が記録されれば、全体が南向きと認識される、ということはありうる<

同僚の魏の役人や、後続の魏使らに拠って、バレたら、首が危ない。

>記録漏れでなくても、記録した木簡が紛失する、あるいは別行程とまぎれた場合でも、同じことが起こる <

同僚の魏の役人や、後続の魏使らに拠って、バレたら、首が飛ぶかも。
0290日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:23:10.15
417の>>265
>水行20日 福岡から出雲平野までが約300キロ 妻木晩田遺跡辺りまでだと370キロ
水行10日 妻木晩田遺跡から竹野までが約150キロ
陸行1月 竹野から纏向までが170キロくらい
そして、この日数は十日単位で丸めたものだろうと思っている <

「南≠東」などに拠って、×。
0291日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:24:26.84
>>282

どこの邪馬台国に行くのに山の中ばっかり通ってるのかな?
0292日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:26:09.26
417の>>267
>だから、何度も言っているように、古代中国人は強固な固定観念で、九州は巨大島と思っていた。<

分裂幻覚の妄想的だから、×。
0293日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:31:25.07
>>288
実際、ザラコクとかが消えるのはそれ以外にないと思う
話を聞く気のない者に何を言っても通じない
どんなに理を尽くして矛盾を突きつけても聞きゃしないんだから
0294日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:33:02.11
417の>>277
>デタラメ 会稽は最北端でも北緯30度 九州島最南端より南だ <

「会稽東治之東」の「東治」をこっそり隠して反論する類スレ主は、
・・・・アホ詐欺師だ。
0295日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:33:50.50
>>282
>奴国の端を横切って不弥国へ。

そこに奴国はないだろうに
何度も言うが山の中なんかは人も住んでないしどこの国でもないんだぞ
0296日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:39:03.34
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0297日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:39:20.68
>>274
この>>274の書き込みを見るだけで、魏志倭人伝の方角と距離が正しいと
してしまうとこんなに理不尽な比定をしなければならなくなるというのが
如実に分かるな
0298日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:41:56.45
韓国人が宣伝する邪馬台国畿内説が、破綻してしまった。。。
0299日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:43:21.08
>>281
>畿内説同士で議論する事もないと思うけどなー

出雲と吉備の関係とか、投馬国の範囲とかは議論してみたいんだけどな
0300日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:44:07.26
417の>>287
>ダメダメ。
前方後円墳の撥形前方部は、2世紀後半の尾張が発祥。 <

ダメダメ。
前方後円墳型の採用は、当然その墳墓形を選択した部族がいた事になるが、
尾張に伝来発症した理由がない。
0301日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:47:04.45
417の>>288
>南は東の間違いとして<

「南を東の間違い」としたら、×。
0302日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:48:52.04
417の>>290
>久宝寺あたりに着いて まず南に向かう <

久宝寺に着く事が、南≠東だから、×。
0303日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:51:35.19
417の>>292
>畿内説が倭人伝の行程に疑義を唱えるのはわかるよ
だとしたら 狗奴国の連合体の中心が奈良・京都にあったという説も成り立つね <

「南≠東」などに拠って×。
0304日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:54:21.11
417の>>294
>それ邪馬台国京都説だよ<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つきだましだから×だし、
「南≠東」に拠っても×。
0305日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:57:14.93
417の>>296
>畿内じゃん<

「畿内」なんて存在もしない嘘つき騙しであるから×であるし、
「南≠東」に拠っても×。
0306日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/18(金) 23:59:49.54
417の>>298
>京都説は 畿内説とは違うよ
現京都市に卑弥呼がいて 京都周辺が邪馬台国
よって近江や福井南部や舞鶴も邪馬台国の一部 <

「南≠東」だけでも、×。
0307日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 00:01:41.12
417の>>302
>狗奴国の中心が奈良のような気がしてきた<

「南≠東」に拠って×。
0308日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 00:05:14.94
417の>>304
>畿内に邪馬台国があったと言っているのに
畿内説ではないとは、おかしなことを言うねえ。<

「南≠東」で×だし、畿内も邪馬台国も存在しない嘘つき騙しだし、
おかしな事を言うね。
0309日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 00:07:39.01
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連投してるで
問い合わせID:49b1f761781da5a2
ホスト:219.115.235.241
名前: 日本@名無史さん
E-mail:
内容:
>>305
>ヤマト王権の祖は狗奴国か? <

「南≠東」だから、×。
0310日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 00:08:54.34
自分が住んでる九州に邪馬台国を持って来たいっていうモチベーションが分からない。

我田引水、我田引鉄。我田邪馬台国。

一番蓋然性の高いところで、弥生時代末期か古墳時代初期の倭国に思いを馳せ、推論と想像の翼をはためかせる。それが一番楽しいじゃないの。

邪馬台国を無理に自分の地元に持ってきて、一体何が楽しいのさ?
0311日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 00:17:49.30
末盧国に上陸した後、いきなり内陸深く分け入る行程を取るとか、誰がどう考えても不自然でしょうが。

それだと北九州の沿岸諸国歴訪はどうなってるのよ?博多湾の大人口地域は無視して、佐賀平野や熊本平野に行っちゃう訳?
0312日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 00:33:10.79
九州説だけど、九州には数えるくらいしか行ったことない。
でもやっぱり倭とその王都である邪馬台国は九州しかないと思う。
0314日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 00:35:13.47
畿内から環濠が消えていく1世紀後半〜2世紀中頃の、守山の伊勢遺跡
政治の中枢の誕生を示す遺跡だろう
国作りが進み平和で豊かな時代が到来したんだろう

中国の建築様式やレンガ、出雲や北陸の建築様式の建物など各地の特徴を持った建物跡が出土している。
おそらく30もの首長たちが集い、祭祀を行い政治が行われていたと推測できる。
面白いことに伊勢遺跡の全盛期に同時代の墓が周辺に認められないんだよね。政治の中枢であるが墓がない、国会のような年に1回首長たちが集う祭祀の場であった可能性がある。
神無月に出雲に神々が集う言い伝えがあるが、伊勢遺跡の伝承だった可能性もある。

伊勢遺跡の祭祀は夜に行われていたと言われている。
夜の食国を治めたのは月夜見
農作業に使う暦を作って、首長たちに伝えていたのかもしれない

魏志倭人伝の魏略からの引用に女王国には暦がないという記述は興味深い

万葉集の奈良時代後半の歌を読むと、月やホトトギス時鳥の来訪の期待感が、次第に高まっていくのが感じられる
桓武朝で神代の王統が復活したのだろうか?

信長秀吉家康の例え話
ホトトギスは何を指すのだろうか?
0315日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 00:36:20.19
杵築大社の天井図、八雲が一つ欠けて七つしかないだろ?
出雲地方で【オオナムチ】以前に信仰されていたのは【幸神】、【東!】から来て文物をもたらした【クナトの神】、そして二神の子【サルタヒコ】
追放されたんだろうな。八雲が欠けた理由
八雲を出た一族、出雲。

逃れたサルタヒコが見つかったのは、天の【八衢】
道が幾つにも分かれるところ、【方違】

堺に方違神社があって、方違【幸】大神が祀られている

畿内に逃れてきた幸神一族、出雲族と元々畿内にいたクナト族が一緒に国作りをしたんだろう
1世紀半ば〜2世紀後半の出来事

倭国大乱前に畿内にあったクニは、この二つの勢力が中心となってできたんだろうな

【八衢】と延喜式祝詞にある道饗祭の神々との関係が興味深い
【八衢】彦、【八衢】姫、クナト

上記の神々は、高天原で事を始めた皇御孫之命で、根の国底の国の侵略に抗ったと書かれている。
0316日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 00:39:14.77
道饗祭

高天之原に事始めて、皇御孫之命と称辞竟へ奉る、大八衢に湯津磐村の如く塞り坐す皇神等の前に申さく、
  八衢比古・八衢比売・久那斗と御名は申して辞竟へ奉らくは、
根国底国より麁び疎び来む物に、相率り相口会ふ事無くて、下より行かば下を守り、上より往かば上を守り、夜の守・日の守に守り奉り斎ひ奉れと、
進る幣帛は、明妙・照妙・和妙・荒妙に備へ奉り、御酒は・辺高知り、・腹満て雙べて、汁にも穎にも、
山野に住む物は、毛の和物・毛の荒物、青海原に住む物は、鰭の広物・鰭の狭物、奥津海菜・辺津海菜に至るまでに、
横山の如く置き足らはして進る宇豆の幣帛を、平けく聞食して、
大八衢に湯津磐村の如く塞り坐して、皇御孫命を堅磐に常磐に斎ひ奉り、茂御世に幸へ奉り給へと申す。
  又親王・王等・臣等・百官人等、天下の公民に至るまでに、平けく斎ひ給へと、神官、天津祝詞の太祝詞事を以て、称辞竟へ奉らくと申す。

其南有狗奴國 男子為王 其官有狗古智卑狗 不屬女王 

倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和

邪馬台国の南の狗奴国と道饗祭は何か関係あるのだろうか?
ヤマトの南の狗奴国は南河内&和泉だろう
0317日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 00:41:05.38
ホツマツタエという真偽不明な言い伝えがある
スズ(銅鐸?)は暦の源
とか物の化成の話とか色々書かれていて、結構面白い
ウツホ(空)とカゼ(風)、ホ(火)、ミズ(水)の四気が化成して生じたのが鳥類(四化)で、
その中でもウツホ(空)が勝っている鳥は良く空を飛び(飛鳥か)、
カゼ(風)の勝る鳥は美声で囀(さえず)り(鶯?)、
ホ(火)の勝る鳥は良く水に泳ぎ(鴨?)、
特にミズ(水)に勝る鳥の羽は柔らかで上等な羽二重(はぶたえ)の原料となります。

スズという音で思い出すのは、サザキ
スズは古語で小さいという意味らしい。
小、少、スクナい
仁徳天皇
大雀命
オオ【サザ】キのミコト
鳥の王様はミソ【サザ】イ
日本書紀によれば、応神が生まれて喜んだのは、神産巣日の子スクナヒコナとある
スクナヒコナは鳥の服を着ていたという日本書紀の記述もあるな

神産巣日、サザキで思い出すのは、
布都主、武甕槌の件で、櫛八玉神が料理をする話

この、私のつくる【火】は、大空高く【神産巣霊】(かみむすひ)の御祖尊の、命の富み栄える【新しい宮居】の煤の長く垂れ下がるように【焼き上げ】、
地の下は底岩に堅く焼き固まらせて、
緒の長い綱を延ばして釣りをする海人の釣り上げた大きな鱸(【すず】き)をさらさらと引き寄せあげて、
割り竹でたわむほど打って捕らえた、立派な魚料理を献上します

倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか?
0318日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 00:42:11.35
倭国大乱前に存在した畿内の国は滅ぼされたのだろうか?

畿内にあった銅鐸とヒスイの勾玉の集落
弥生時代末期に営みが終焉
貴重な勾玉が放置されている


池上曽根遺跡は、日本最大の井戸や弥生最大の大神殿、鉄工房もあった弥生時代にかなり栄えた集落。6cm大の巨大勾玉が出土
大阪は他にも高槻市成合遺跡、東大阪市鬼虎川遺跡、四条畷市城遺跡、高宮八丁遺跡
など、きりがないほどヒスイ勾玉が見つかっている。
奈良の唐古・鍵遺跡、鉄鉱に納められた巨大勾玉が見つかっている。貴重な勾玉が放置されていた。

これらの集落の人々はどうなってしまったのだろうか?
仁徳天皇の治世、再び勾玉が大ブームになる。
弥生時代の勾玉勢力と何か関係があるのだろうか?
0319日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 00:44:15.97
櫛八玉神の櫛とはどういう意味なんだろうか?

古代において、巫女は兵団とセットなんだな
卑弥呼の役割は民、兵を教化して纏めることだったんじゃないか?
軍隊に随行する巫女の一軍の埴輪も見つかっている
また櫛を頭に刺した巫女の埴輪も見つかっている

◎櫛、巫女、兵はセット
◎櫛は衛生道具、毛じらみやフケなどを梳き除く為の道具

記紀で櫛に変えられた姫がいたような
どういう意味があるんだろう
0320日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 00:45:29.18
オオナムチは初期のヤマト政権に与した勢力だろうな

気多大社の謂れは興味深い。
孝元天皇の時代(台与の頃かな)オオナムチが【化鳥、大蛇】を退治して【海路が開けた】とある
倭国大乱の余波で日本海航路は安全が担保できない状況だったんだろう

四隅突出墳丘墓の分布
広島→岡山、島根、鳥取→石川、富山

舞鶴マイヅル、敦賀ツルガに無いのは興味深い

更に気多大菩薩は、孝元天皇の時代、従者を引き連れて渡来した異国の王子とある。 新羅の王子だろう。
オオナムチは異国の勢力の浸入を手引きしてまで、在地の勢力を討とうとした。

敦賀湾〜伊吹山の勢力は義に厚く最後までヤマト政権に抗ったんだろう。日本書紀にある伊吹山の荒ぶる神。

伊吹山は和歌に於いて一途な思いの代名詞
伊吹山にはヤマタノオロチの神霊が眠ると言われている。
伊吹山の麓の稲部遺跡、貴重な鉄が放置されている。

風の宮の神、級長津彦命 級長戸辺命
しなは息が長いという意味。
息が長い、吹子のことだろう。鉄。ヤマタノオロチ。
0321日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 00:49:17.47
>>284
やっぱり連句読点の正体は岡上か
0322日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 00:50:20.36
出雲国造神賀詞から抜粋

大穴持の命の申したまはく、

己命の和魂を八咫の鏡に取り託けて、倭の大物主くしみかたまの命と名を称へて、大御和の神奈備に坐せ、

◎八咫の鏡はオオナムチの和魂
八咫の鏡が今あるのは伊勢神宮
能の三輪に通じるな

三輪 能

思えば伊勢と三輪の神。思えば伊勢と三輪の神。一体分身のおん事。今さらなにと岩倉や。その関の戸の夜も明け。かくありがたき夢の告げ。覚むるや名残.なるらん.覚むるや名残.なるらん。

三輪の神さんと伊勢の神さんは一心同体で石。
天の岩戸は関。
関の向こう側に追いやられていた勢力が、ヤマトを征伐し邪馬台国、ヤマト政権を作ったんだろう。

斎宮歴史博物館のホームページに面白い話が載っている。
神鳳寺縁起帳によれば、
天照大御神は蛇で、夜な夜な斎王の元に通っているらしい
その度に鱗を一つ落としていくんだとか
その鱗を櫃に収めているのだが、櫃が鱗で一杯になるとこの世の終わりが訪れるのだとか

この話は蛇で有名な三輪の神さんに通じる
当時の庶民の歴史認識が垣間見れて、面白い

なぜ明治維新以降、天照大御神が皇祖神になったのか?
歴史を書き換えたのは、どういう理由があったんだろう?
0323日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 00:51:38.42
伊勢内宮神前祝詞

天照大御神、又の名は
撞賢木厳之御魂天疏向津比賣命とある

天から遠ざかった向津姫
伊勢の向かい側は尾張三河
何か関係あるのかな

また、『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』『中臣祓訓解』においては、伊勢神宮内宮別宮荒祭宮の祭神の別名が「瀬織津姫」であると記述される。

瀬織津姫を祀る槻神社のある三河と関係あるのかな?

卑弥呼とはどうなんだろう
0324日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 01:05:50.51
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものだろうか?
邪馬台国、初期のヤマト政権は、石器作りや狩猟を生業にしていた勢力が主体だったことが窺える
また、「フル」、「アチメ」という言葉は大和言葉では意味が分からないが、朝鮮語では「流れる」「朝日」という意味になる
初期のヤマト政権は、朝鮮半島と日本列島を行き来していた日本海側の勢力も関係していたのかもしれない
纒向遺跡の外来系土器から推測すると、これらの勢力は東海山陰吉備が主体だったと考えられる
石上神宮の布留の謂れは、刀が【流れてきて】布で受け止めたら留まったというもの。

【アチメ】 オオオオ オオオオ オオオオ
 天地ニキ揺ラカスハ サ揺ユラカス 神ワカモ 神コソハ キネキコウ キ揺ラナラハ
アチメ オオオオ オオオオ オオオオ
 【石ノ上】 【布瑠】社ノ 【太刀】モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【猟夫】ラガ 持タ木ノ【真弓】 奥山ニ 御狩スラシモ 弓ノ弭見ユ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 上リマス【豊日霎】カ 御魂欲ス 本ハ金【矛】 末ハ木矛
アチメ オオオ オオオ オオオ
 【三輪山】ニ アリタテルチカサヲ 今栄エデハ 何時カ栄へム
アチメ オオオ オオオ オオオ
 吾妹子ガ、【穴師】ノ山ノ山ノ山モト 人も見ルカニ 深山カ縵為ヨ
アチメ オオオ オオオ オオオ
 魂筥ニ 【木綿】取リシデワ 魂チトラセヨ 御魂上リ 魂上リマシシ神ハ 今ゾ来マセル
アチメ オオオ オオオ オオオ
 御魂ミニ 去マシシ神ハ 今ゾ来マセル 魂筥持チテ 去リクルシ御魂 魂返シスナヤ
0325日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 01:06:08.08
難升米が魏に日本の首都の場所をゲロってしまった
日本としては帯方郡の次にターゲットにされるの日本だと考えるのは当然
その為に新首都を建造した

それが巻向
0326日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 01:07:29.78
纒向遺跡の外来系土器、東海、山陰系は初期の頃から変わらず多いな。
吉備系は台与の頃にはぐっと減る。
代わりに初期の頃無かった河内系が台与の頃にぐっと増える。
吉備系が減った原因は何なんだろう。

卑弥呼→男王擁立→内乱→台与
この間に何が起きたのだろうか?
男王とは誰なのだろうか?

布留がキーを握っているかもしれない。
鎮魂歌
卑弥呼→台与の頃を歌ったものかな。

石ノ上 布瑠社ノ 太刀モガト 願フ其ノ児ニ 其ノ奉ル 

なぜ布留社の【太刀】何だろうか?
太刀は本来誰かに使われるものだからなぁ

ニギハヤヒはどうなってしまったんだろう

切られたカグツチの血が湯津石村に落ちて生まれた神、甕速日、樋速日、建御雷。

饒速日とどういう関係があるのか?

卑弥呼亡き後の男王は吉備系の饒速日だろう
台与の時代、纒向遺跡から吉備系の土器が消えていく

神武東征神話は、2世紀末の卑弥呼を共立した勢力、尾張山陰吉備によるヤマト征伐と
卑弥呼亡き後男王の時代の内乱を合一してできたんだろう
0327日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 01:09:33.08
纒向遺跡は巨大古墳が幾つもあり掘りが巡らされており、鋤が沢山出土してることからも、多くの民が土木作業に従事していたのが分かる。

農業中心の集落跡とは違い、かなり特殊。いざ戦になれば、兵として駆り出される人々だったんじゃないかな。



◎纒向には、万単位の人々が暮らし、土木作業を行っていた。纒向集落は、ヤマトの地が外部勢力に征圧され、その結果できた集落。
纒向は、ヤマトの地を征圧した兵と徴用された地元民が万単位で土木作業に従事した大集落。
卑弥呼は鬼道で民を纏める役割を担っていた。

さらに4世紀に突然消失し武器などの遺留物が無いこと(もぬけの殻)を考えると、記紀の四道将軍の記述と合致する。
◎纒向は、4世紀に意図的に解散し、民は兵として全国平定に駆り出されたと推測できる。
0329日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 01:16:50.79
崇神の代に創建されたと言われている【白山】比め神社

その神紋は三子持亀甲瓜花
亀甲が三重になっているが

三子持が気になる
崇神の前は、卑弥呼、男王、台与

郡上市、【白山】中居神社の五段神楽の謂れも興味深い

五段神楽は、古代史上最大の王権をめぐる闘いに勝利した天武天皇の即位を称えて、
天下太平国家安全を五行相生の原理に基づいて宮廷の五節舞いと同様に天武期に越の宗廟(石徹白【イトシロ】)と【岩見】【出雲】等で舞われる様になった。
0330日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 01:18:29.12
魏志倭人伝
邪馬台国の官

官は伊支馬有り。次は弥馬升と曰う。次は弥馬獲支と曰う。次は奴佳鞮。

伊支馬は生駒。生馬。火の神。
弥馬升は三見宿禰、出雲醜大臣の子。
弥馬獲支はミミ鷲、日鷲。
奴佳鞮は中臣。
邪馬台国の官は、大和朝廷の官と瓜二つ。

出雲地方には生馬神が祀られているんだな。
生馬神社境内には「牛荒神の大木」と呼ばれる木があり木に藁が巻き付けられている。

出雲風土記かな、生馬神の子は、もう荒ぶらないと言ったとか。
ヤマトの地名と出雲の集落名、共通点が多い。

邪馬台国の官の筆頭
伊支馬。これがどういう勢力か解明できれば、邪馬台国卑弥呼に近付ける気がする。

伊支馬、生駒、生馬、伊熊、猪熊、生目などの地名が、ヤマト、出雲、三河、遠賀川、宮崎に見られる。
何か関係あるのか?

生駒は火の神。
生馬も藁が巻きつけられ、荒ぶって燃えると自らが燃えるようになされている。火の神か。
0331日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 01:21:08.89
古代史を考える上で牛鬼伝説も見逃せない。
鳥取県の上石見に伝わる伝承。
牛鬼伝説の中でも、一番古いものじゃないかな。
孝霊天皇が牛鬼を討つ話。
上の岩を見よと言って牛鬼を倒す。 ここでは、牛鬼は石に倒されるんだな。

次に神功皇后。
瀬戸内海で神功皇后が住吉明神と、頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話。敗れた牛鬼に似た塵輪鬼はバラバラになり、島々になるとある。八雷神と似ている。

その後は西日本各地で様々な時代の牛鬼伝説。
共通しているのは、
◎牛鬼は海や水辺に現れる。
◎牛鬼は磯女と一緒に現れる。
◎牛鬼の子供は石である。
同じようなこととして、牛鬼に「石は流れる、葉は沈む」などあべこべなことを言うと助かる。
◎また蓑火に関するものもある。
◎牛鬼は老いた椿という言い伝え。古い海神ということか。
見えてくるストーリー。
牛鬼(古い海神)は孝霊天皇の時代に石にやられた。
海神の姫達は、石の子を産むようになった。
神功皇后の時代に、瀬戸内海の牛鬼に似た塵輪鬼が倒され海賊になった。

また久留米では、牛鬼を退治し、その耳を耳納山に埋めたとある。
牛鬼は磯女を娶ったミミとも言えるんじゃないかな。

百襲姫と大物主神の箸墓伝説。
石が海神の姫である磯女を娶る話かもしれないね。
0332日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 01:23:21.55
近畿の男系は縄文系の遺伝子は結構残っていて、他の地域と大差ない。
畿内の弥生時代の遺跡は縄文時代の遺跡に連なるものが多い。
渡来人が縄文人達の水源を奪った痕跡もない。
渡来人達が新たに住み始めたのは洲や井戸の技術がないと住めない水利の悪い台地。
2世紀半ば迄は環濠が要らなくなるくらい平和な時代になっていた。
神武東征前のヤマトの記述。
ナガスネヒコ、ヤソタケル、土蜘蛛、皆仲良く暮らしていたんだな。
温暖で河内湖の水資源も豊かで稲作も盛んになり、豊かな地域に発展したんだろう。日本書紀でいう食国、芦原中津國。 クニ、クナ。
スサノオが豊かな田に嫉妬して度々荒らしにきたとあるだろう。近畿周辺の東海や山陰の勢力が嫉妬したんだな。
そして征伐に来る。
倭国大乱、近畿征伐、記紀でいう神武東征だよ。


畿内の勢力は2世紀末に大きく変わる。
纒向遺跡でも、東海や山陰、吉備などの外来系土器が突然現れる。
記紀にもヤマト征伐によってヤマト政権が始まる様子が記述されている。
畿内征伐によって誕生したヤマト政権の主体は、尾張、出雲、吉備。

次に考古学的に大きな変化があるのは4世紀後半。 大きな政権交代があったんだろう。
初期のヤマト政権に虐げられていた元々の畿内の人々と関東の先住民が手を結び神功皇后応神を旗頭に立ち上がったんだろう。

神功皇后応神に該当する時代。
記紀や各地の伝承。
忍熊皇子の討伐、飛騨の顔が二つ頭が一つの怪物を討つエピソードがあったり、出雲の生馬の神がもう荒ぶらないと宣言したり。
神功皇后が三韓征伐の往路復路で、八雷神に似た頭が八つで牛の姿をした塵輪鬼を討つ話があったり。
纒向遺跡の外来系土器の中心、東海(飛騨の怪物)、山陰(出雲の生馬の神、牛荒神の木)、吉備(塵輪鬼)が討たれるエピソードばかり。
全て牛というキーワードが共通する。
同時代の若草山山頂古墳。かつては牛塚と呼ばれていた。牛頭天王と何か関係あるのかもしれない。
0333日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 01:24:45.53
お伊勢参らばお多賀を参れ、お伊勢お多賀の子でござる

意味深だなぁ
0334日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 01:27:58.54
和歌の父母

安積山【アサカヤマ】 影さへ見ゆる 山の井の 浅き心を わが思はなくに

難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

安積と書いてアサカと読む、興味深い
堺の方違神社の近くに浅香という地名が残る
伊勢のサルタヒコを祀る阿射加神社、大阿坂、小阿坂
上町台地〜泉北丘陵
北から
大阪オサカ、浅香アサカ、小阪コサカと並んでいる
伊勢と大阪湾の類似性が興味深い

猿田彦で注目すべきは最初に出会った場所。
天の八衢。
道が幾つにも別れる処、方違。
面白いことに上町台地と泉北丘陵の間に方違神社がある。なにわ、和泉、河内、淡の境。
その近傍にイシズ川。サルタヒコが消えたのはイスズ川の川上。
猿田彦が溺れたとされるのが、阿邪訶の海。
方違神社のすぐ北がアサカ、浅香。
浅香の北がオサカ、大阪。
浅香の南、泉北丘陵にコサカ、小坂。
伊勢と同じものが揃っているんだな。 凄い偶然。
更にサルタヒコはヒラブカイに挟まれて亡くなるとある。
泉北丘陵、イシズ川を遡った地に平井と深井という弥生時代から立地が変わっていない集落がある。
平井と深井の間が弥生時代の鈴の宮遺跡。
サルタヒコは最後はこの辺りに逃れていて、殺されたんだろうか?

サルタヒコは、方違幸大神や道饗祭の神々と関係あるかもしれない
八衢比古・八衢比売・久那斗
0335日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 01:29:21.83
>>1
お伊勢参らばお多賀を参れ、お伊勢お多賀の子でござる

意味深だなぁ
0337日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 01:33:26.24
>>334
サルタヒコの原像は、古代エジプトのトート神でつ。
0338日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 01:35:27.66
それよりも、
なぜ家の写真と合致しているんだろう・・・という話、
キュウリのような葉、葱の華。

河童?水神、稲・・・田が保存(謎の民家園)されていたり、
・・・、・・・、・・・、・・・、・・・、その他
0339日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 01:39:12.20
賀は牙
旗印を掲げた拠点
国境の防衛拠点、関

敦賀〜多賀〜甲賀〜伊賀〜雑賀〜那賀(阿波)〜香賀(讃岐)〜英賀 (播磨)

倭国大乱
中には寝返った勢力もいただろう

兵団と巫女

倭国大乱前の倭国は男王が治める国
邪馬台国は女王
邪馬台国側には倭国王足りえる男系の王統が無かったのかもしれない
0340日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 01:40:56.56
老婆談、当時の大震災関係の話というかwiki

白い服を着ていたので・・・・間違われたとか、
職業?何なのか知らないけど、白い制服のようなものを着ている子供も写っているでしょ、

あと白い服も着ていたのかな?
白い服の写真・・・裏に『松傾』?このような名前
0341日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 01:43:24.20
>>318
放置されたて、そらあ、解釈が異常。
区画溝の水の霊的パワー増幅のために、祭祀で勾玉が水に沈められた。
勾玉が区画溝などから出土するのは、工房の職人たちの祭祀行為だよ。
0342日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 01:48:10.83
現代まで同じ構図の争いが繰り返されてきたからなぁ
真の和解は事実を明らかにし事実を受け入れて始まるんじゃないか?
0343日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 01:49:28.40
関東大震災のwikiを読んでみて。

当時、老婆は子供だったと言っていた、
あの写真に写っている人(松傾?)から、震災の話を聞かされたとかw
0344日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 01:55:44.36
>>1
お伊勢参らばお多賀を参れ、お伊勢お多賀の子でござる

意味深だなぁ
0347日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 02:11:38.49
『何者にもなれない お前たち』

    祇園〜牛頭?
0350日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 02:17:59.56
関東大震災が起きた当時、
どこに住んでいたんだろう、

たしか東京に出かけたとき(遊びに行き?)・・・、
下駄を履いていたので、よろよろ転びそうになった

そういう話

きたろー、あきら?
0352日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 02:28:15.13
>>300
前方後方型墳丘墓があるじゃないか。
前方部は撥形で、墳丘の周りをぐるっと周溝がとりまいている。
後方部を後円形にしたら、そのままじゃ。
前方後方型墳丘墓の後方部を後円形にすることを尾張に要求したのは、吉備だがね。
0354日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 02:44:31.63
>>292
だから、古代中国人が黄海の沖に神仙郷があると強烈に妄想していたのだよ。
歴史事実だから。
その神仙郷に倭奴国や邪馬台国があるというわけで、唐津から有明海を経て沖縄あたりの邪馬台国までの行程を書いたのが3世紀後半の陳寿なんだよ。
このことが解けない君は、分裂幻覚に陥るしかないよな。
0355日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 02:56:52.22
>>353
最初からそのような企画の古墳だ、というじゃないか。
前方後円墳が、前方後方型墳丘墓由来だということを如実に示しているわな。
0356日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 03:01:14.50
>>276
無理、無理。
0357日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 03:22:54.02
>>201
えっ、うそ。
箸墓は、崇神=薩摩阿多から来た祭祀王の墓だろ。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 03:26:14.15
>>200
周旋五千余里もあるんだからな。
1里434mで計算してみてちょ。
0359日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 03:27:53.87
誰が「卑弥呼の」って決めたんだろう?
「卑弥呼の時代の地層から桃の種が出てきたから、ここに卑弥呼が居た」
「桃の種が出てきたんだから、ここに卑弥呼がいたんだ」
掘立柱建物しかり
・・・理屈がおかしいと思いませんか?
0361日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 03:38:06.99
>>197
ザラコクという者のことは知らんが、藤堂シェンションのいうのは、ごく普通に当たり前。
藤堂シェンションのこの意見に反論するやつは、モグリ。
他人がA4版用紙にびっしり書いた文章を、別の用紙に書き写してみればすぐに分かること。
2、3行もすれば誤字脱字が一気に増える。
なので、版本が陳寿の原本そのままだということはまったくアリエンというのは、ごく当たり前に正しい。
0362日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 03:47:59.70
上東遺跡(岡山県)
 桃核出土数9,608個
(700年〜2000年前の弥生時代後期から古墳時代前期を中心とする集落跡。
多くの竪穴式住居のほか製塩炉や波止場状遺構を確認。貨泉や卜骨、骨鏃、 桃核、絵画土器が出土。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 03:48:10.21
>>182
長年古代史やってきて、それか。
0365日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 04:57:53.88
史跡と特別史跡の違いはあんの?
纒向は特別史跡じゃないと思うが
0367日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 05:33:44.10
史跡と特別史跡の違いはあんの?
纒向は特別史跡じゃないと思うが
0368日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 05:40:00.68
>>362
楯築の近くだよな
0369日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 06:47:21.53
史跡と特別史跡の違いはあんの?
纒向は特別史跡じゃないと思うが
0370日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 06:49:58.86
>>368
そうだね
倉敷市 邪馬台国の王都と思わないが
纒向が何故騒ぐのかわかりませんね
0372日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 07:01:01.26
>>305
>ヤマト王権の祖は狗奴国か? <

「南≠東」だから、×。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 07:03:26.92
>>318
>弥生時代の勾玉勢力と何か関係があるのだろうか?

勾玉も「忌部はん」 の専売特許 だと、何度言えばw  @阿波
0374日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 07:06:17.10
>>352
>前方後方型墳丘墓の後方部を後円形にすることを尾張に要求したのは、吉備だがね。

尾張も吉備も「忌部はん」  と、何度言えばw  @阿波
0375日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 07:19:10.32
417の>>309
>不弥国までは北九州。これは間違いない。
投馬国→当麻国(山背・丹波・丹後)→5万世帯
邪馬台国→大和国(畿内・五畿)+東四国→7万世帯
列挙されてる傍国名を見ると瀬戸内とか四国の地名があるように感じる。<

「南→東」という嘘吐き騙しは、始めから×。
0376日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 07:30:44.34
417の>>311
>北九州あたりはもともと海神一族の国々で
大和連合国からすると親戚の合衆国自治区だったんジャマイカ <

「大和連合国」というのはなかった。
当初は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種分家の旧小国であり、
また、九州倭國の「東征毛人五十国」の中の一国であり、
九州倭國の地方の市を監督する大倭職の附庸國であった。

>後の時代に岩井さんの乱があったわけだが、
岩井さんの一族が柵封うけてて倭の五王になったんジャマイカ><

九州倭国では、
卑弥呼後の東海姫氏國の(倭王武の次の)倭國王哲から、
阿毎氏系の磐井に政権交代があり、
それを、大和の継体と物部が突然クーデター反乱をして、磐井を死なせて、
大和の阿毎氏が九州倭国の王家に参画できる事になった。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 07:34:17.47
417の>>311
>北九州あたりはもともと海神一族の国々で
大和連合国からすると親戚の合衆国自治区だったんジャマイカ <

「大和連合国」というのはなかった。
当初は、筑紫城の倭奴國の阿毎氏から別れた別種分家の旧小国であり、
また、九州倭國の「東征毛人五十国」の中の一国であり、
九州倭國の地方の市を監督する大倭職の附庸國であった。

>後の時代に岩井さんの乱があったわけだが、
岩井さんの一族が柵封うけてて倭の五王になったんジャマイカ><

九州倭国では、
卑弥呼後の東海姫氏國の(倭王武の次の)倭國王哲から、
阿毎氏系の磐井に政権交代があり、
それを、大和の継体と物部が突然クーデター反乱をして、磐井を死なせて、
大和の阿毎氏が九州倭国の王家に参画できる事になった。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 07:38:19.69
417の>>314
九州倭国ではずっと短里ずっとが使われていた事もはっきりしたし、
大和説は、筋道立った考えや物の道理を憎悪する万世一系皇国史観儒教での、
近隣諸国への殺戮戦争根性に基づく怨念、
という事もわかった
0379日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 07:41:35.08
417の>>317
>東漢直駒の父が東漢直磐井だから
筑紫君磐井は渡来人じゃないか? <

ふーん。
情報源は?。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 08:18:17.44
猿田彦は筑紫への降臨のルートの最後を案内した神なので、九州の人間だけれどね。
福岡市早良区の猿田彦神社のあたりにいたのだろう。
0381日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 08:53:58.37
現代中国語でのピンインでの表記
卑弥呼:Bēi mí hū / Bei1 mi2 hu1
(俾彌呼:Bǐ mí hū / Bi3 mi2 hu1)

今のところ卑弥呼の発音に関して日本側の古事記表記の比桃@(Bǐ miē hòu)、
比売后〈Bǐ mài hòu〉以外には類似する名称は存在しない。

ビミホなんて人は古代日本にいない。
考えられるのは「hi」、つまりヒミ、ヒム、ヒメに関わる名前。

ならば
ひめこ(日女子、姫子) - 駒澤大学教授の三木太郎の説。
ひめこ(比梼q、比売子) - 古事記における音読み表現
ひみか・ひむか(日向) - 松本清張が唱えた、日向(日向国)と関係するとの説。
ひみか・ひむか(日向) - 原田大六、古田武彦が唱え説。

と、このあたりになり、アマテラスの別名ヒルメであるという安本説は音韻的にも消える。
さようなら。

そしてヒメ、ヒムなら候補はいる。
崇神天皇4世紀前から6世代前、すなわち2世紀末、
ヒメ(踏鞴五十鈴)媛と日向賀牟度美良姫 ( ひむかのかむとみらひめ )だ。
この二人以外に卑弥呼候補はいない。
この二人が住んだのは葛城である。
したがって邪馬台国は葛城である。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 08:54:52.55
日向賀牟度美良姫 ( ひむかのかむとみらひめ )はヒメ(踏鞴五十鈴)媛と神武夫妻の義理姉になる。
日本書記の鴨王こと天日方奇日方の后である。
ヒメ(踏鞴五十鈴)媛と神武夫妻も義理姉にはなかなか頭が上がらなかったであろう。
もし天日方奇日方に先立たれてたとしたら、その姿は「年すでに長大 夫はいない」となる。
その場合、「男弟」は神武になろうか。

とは言え彼女の「日向」はあくまで地名であり、実際は美良姫が名前であろうし、
またヒメヒコという観点からも 天日方奇日方(日方をヒコという説もある)の妹、
ヒメ(踏鞴五十鈴)媛が最有力であろう。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 09:02:20.11
今のところ卑弥呼の発音に関して日本側の古事記表記の比桃@(Bǐ miē hòu)、
比売后〈Bǐ mài hòu〉以外には類似する名称は存在しない。

hòuとは后か。
つまりヒミコは生涯独身などではない。

比売(ヒメ)という后、ヒメ(踏鞴五十鈴)媛以外に誰がいるのだ。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 09:14:57.95
某フォーラムに参加して、ゆうれいの正体見たり枯れ尾花、のような気分になりました。
なぜなら・・、
邪馬台国論争では「鉄」を採っていた倭人のいた国が邪馬台国だとされてきました。
そして、弥生の鉄をつかんでいたのは、どう見ても九州です。
それも武器や工具の出土は福岡を抜いて熊本がトップに躍り出ます。

ところが・・、
弥生の北部九州には、鉄がありすぎるから、邪馬台国のイメージとはちがうので、邪馬台国は北部九州にはなかった
と言われたのです。驚きました。イメージですか!
松傾さん、邪馬台国はユートピアではありません。女王をお飾りに担ぎ、鉄で完全武装した、ならず者国家だったのですよ。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 09:15:07.44
このスレで纏向は邪馬台国と関係無い事が理解できる
畿内説からさしたる反論も無い
掘立柱建物、土器、梅核だけでしゃーしゃーと邪馬台国の所都と言う能の中を見てみたい
0386日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 09:20:07.79
417の>>318
>中華内陸から安南(ハノイ)に向かう経路を確認してごらん
現在でもソンホン川の水運が主要交通路として利用されているんだよ
川の移動が「水行」で表現されているたった二つの例のうちの一つ
水行と陸行を使って安南に至るんだよ <

また類スレ主は、何やら、論点を逸らそうとしているな。
大理から安南への通行路は、昆明以遠はソンホイ川を使うんだろうが、
昆明までの大半は、揚子江の支流の最上流部に沿った通行路を使うから、
それを「如至成都」だと説明したんだよ。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 09:20:42.56
>>295
福岡市とその周辺が奴国
不弥国へは奴国の端を横切ったに過ぎない。
0388日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 09:26:28.51
417の>>321
>京都で止まる理由がない
京都は通過点で木津川沿いを遡って平城山越えで大和盆地に入るんだよ <

「南≠東」などに拠って、×。
嘘つき騙しは、黙過し難い。
0389日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 09:32:51.44
>>385
しかし我ら畿内説の宣伝によって世間の認識は
纏向って邪馬台国の何かスゴイ遺跡なんでしょとなりつつある
九州説の負けだグワハハハ
0390日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 09:37:15.32
>>378
儒教オウムの九州説ザラコクが何か言えば言うほど
見てる人間はああ儒教だなあと思うのみ
0391日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 09:37:41.26
200回発掘して
邪馬台国と関係のあるものが
出てこなかったというのが凄い。

普通は何かしらありふれたものくらいは
出てくるもんだが。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 09:42:32.54
逆に出て来ないから凄いだろ
壊れた土器とか生活雑品とかな
管理の行き届いたある種の聖域だったのさ
0393日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 09:44:55.95
九州説の遺跡からは割れた土器とかサビた鉄器とか
死体とか出るらしいが
ゴミ捨て場だったんじゃね
0394日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 09:53:03.20
417の>>336
原文が東至安南如至成都通水陸行であり
如至成都通水陸行は、東至安南の修飾句だから、

東、安南に至る。成都に至るが如きの通水陸行なり。
と読み下せばよい
0395日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 10:00:21.42
200回発掘しても何も出て来ないくらいに管理されてたんだぞ
どうだ纏向ってスゲーだろ
0396日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 10:01:09.97
417の>>339
>一寸千里という伝承を調べて
実際は一寸300里だったと訂正するという
おおよそ2000年は前の中国人も出来た事をなぜ九州説は出来ない<


南朝から唐代の学者や皇帝らは、
周髀算経の一寸千里の千里が短里である事が全く判らず、
長里だと思って計測したから、一寸300里だとから言い出した。
現在の通説大和説者らも、彼らと同じ穴の貉。
そして、現代の谷本氏の確認計算で一寸千里の千里が短里であった事が確認された。
0397日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 10:14:56.23
>>392
何もないただの田舎だよ
0398日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 10:16:09.34
>>396
3世紀ぐらいから時々調べられてたらしいぞ
そのたびに違うと結論が出てる
3世紀頃は確か魏で短里が使われてたんじゃなかったか
それで違うと結論が出るのは短里なんてなかったからだ
0399日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 10:17:42.71
魏志倭人伝に書かれている卑弥呼の王城の楼閣とか、1000人の奴婢が働いていた建物はどこにあるの?
まさか1000人が食事もトイレもせずに、纒向の宮の建物の前の広場で広場で立って仕事をしていたわけではないよね?
0400日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 10:18:31.10
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある
女王国とは倭奴国のことである

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。
0404日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 10:32:32.95
417の>>342
>書き込みがしたかったら、ちったぁ自分で調べろや、この能なしがww
下山先生ときちんと敬称をつけな!
有明海の海岸線だけを調べてるんじゃなくて、縄文海進から弥生時代の
海面変動を調べている方で、歴史学とも考古学とも関係ない先生だよ<

こりゃ、下山ってのは、やっぱりの)、
(南→東などの嘘つき騙しの)通説大和説者の下請け学者のようだな。
普通の学者なら、当然、日本列島全体や地球全体の海面変動を調べるし、
大阪湾や瀬戸内の海面変動を研究するのが当たり前。
それを北部九州だけにしぼっているのが、おかしい。
おそらく、九州説の矛盾を探して造作して、
大和説が有利になる証拠を探そうとしている似非学者。

それを調べるフィールドが北部九州中心で、福岡平野の方も調べているよ
0405日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 10:34:11.11
低湿地だと竪穴式住居は水が湧くので
高床式じゃないと住めない。
いくつかある掘っ立て柱建物が
築造労働者の住居だろう。

ただし土壁などがない板だけの住居では
断熱性が低く居住環境が悪いので、
築造が終わればすぐに放棄したと思われる。
0406日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 10:35:53.21
>>400
女王国とは邪馬台国だよ
会稽東冶の東は台湾や沖縄の辺りの事
つまりそこを指す1万2千里は邪馬台国までの距離ではない
0407日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 10:38:58.30
417の>>352
陳寿の悪口を言うなよ。
「南→東」などの嘘つき騙しで、陳寿の悪口をいう大和説は、
ひどいやつらだ。
0408日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 10:53:26.92
>>407
九州説こそ陳寿をバカにしまくっている
九州北部を狂ったような意味不明の書き方で邪馬台国と書いたと

畿内説はちゃんと陳寿の意を汲んで
陳寿は魏志倭人伝を後漢からの伝承に添い
淮南子や後漢の文書や魏使の記録などを統合し
当時の皇帝陛下に奉るような記述をした
なかば祭事的な書き方をしたんだなあと理解する
0410日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 11:06:31.81
417の>>373
>難升米は黄幢が見つかった黒塚古墳の被葬者だな<

「南≠東」などに拠って、×。
0411日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 11:22:25.04
論拠が跡形もなくなって抗弁の余地すらなくなった九州説
でも書き込むのは儒教的悪意に突き動かされるゾンビ
0412日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 11:22:31.65
>>405
「古墳造営前線基地」だね。  @阿波
0413日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 11:36:20.41
後漢書は倭の北限が狗邪韓国、倭の南限が倭奴国で、畿内など出てこない。
魏志倭人伝には後漢代までさかのぼった記事が書かれているのに、九州から畿内への遠大な東遷は書かれていない。
いつ倭は畿内に東遷したのかな?
0414日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 11:36:51.89
>>411
それ、畿内説へのブーメランだよ。
0415日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 11:41:42.48
417の>>374
>>会稽東治≠会稽、なのにねえ。<

>会稽東治は会稽の中にあるんだよ だから北緯30°より南だよ
どうやら九州説はまた 別のものに仕立て上げて詐欺をする気だな<

類スレ主は、本当に・・・・アホ大和説者なんだなあ。
若しも「会稽の中」に「東治」があるんなら、
陳寿は「会稽東治」という「東治」なんて、わざわざ記載する必要がないではないか。
陳寿は、「東治」が通常の「会稽」の中になかったが必要であったから、
「会稽東治」とかいたんだよ。
だから、「東治」地域は、会稽郡から別れて別の支配地域になっ提供たんだろう、
と言っているんだよ。

こんな事は、人類の常識だよ。
0416日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 11:46:04.06
>>413
後漢書はそりゃあ後漢の事を書いてあるからな
朝貢してたのは倭奴国だし
一部魏志倭人伝の記述が混じってるが

魏志倭人伝に桓霊の間、だいたいAD160〜180年頃に
倭国大乱があったとある
そして日本書紀に神武が九州から出発して
畿内に連合国を作った神武東征の事が書かれてるからその事だとしたら
2世紀中ごろから後半に政治的中枢の移動があったという事になる
0418日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 11:54:05.19
>>415
>若しも「会稽の中」に「東治」があるんなら、
>陳寿は「会稽東治」という「東治」なんて、わざわざ記載する必要がないではないか。

こいつ、すげえ無知だな
会稽郡は広すぎたから分割されたんだぞ
そんなことも知らないで歴史に口を出してるのか
0419日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 11:56:14.65
九州説の宮室は竪穴住居
0420日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 12:14:01.28
>>386
>昆明までの大半は、揚子江の支流の最上流部に沿った通行路を使うから、
>それを「如至成都」だと説明したんだよ。

使わない
川が細すぎて、過去において水行、水運(漕運)に使ったという記録は一切ないし
現在も使われていない

適当なことを言っても無駄
0421日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 12:15:59.89
>>387

で、油山もーもーらんど不彌國の次の水行二十日は?
0422日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 12:18:07.43
しかし九州説は今までホント色んな事主張してきたな
畿内には鉄器がないだの集落跡がないだのから始まって
前方後円墳は3世紀じゃなく4世紀からで
AMS炭素14測定法は試料をプラズマ化するから
原子崩壊が加速されて間違った結果が出る
魏の時代には数千kmを高精度で測れる測定方法があった
三角縁神獣鏡は呉の職人が日本に来て作った
畿内説の学者は権力で若手の九州説学者を潰す
0423日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 12:19:49.06
>>394
>東、安南に至る。成都に至るが如きの通水陸行なり。
>と読み下せばよい

句読点が、
東至安南如至成都、通水陸行。
と付けられているから、如至成都は、東至安南と一体
そして、東至安南如至成都で、安南までの距離が成都までの距離と同じくらいと
言った上で移動方法の注釈として通水陸行が付く

「東、安南に至る。成都に至るが如きの通水陸行なり。」みたいなザラコク読みだと
安南までの距離がどこにも書かれていないことになる
地理記述としてはありえない
しかもこの時期、安南は唐朝の国内なんだから、距離が分からなかったは通らない
0424日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 12:27:04.42
>>415
>若しも「会稽の中」に「東治」があるんなら、
>陳寿は「会稽東治」という「東治」なんて、わざわざ記載する必要がないではないか。
>陳寿は、「東治」が通常の「会稽」の中になかったが必要であったから、
>「会稽東治」とかいたんだよ。
>だから、「東治」地域は、会稽郡から別れて別の支配地域になっ提供たんだろう、
>と言っているんだよ。

と、zarakokuはとても馬鹿なこと言っているんだよ。


現実には會稽郡の中に「會稽東冶」という地域が存在してるんだよ。
0425日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 12:31:51.66
畿内説がどうしようもなく暗闇の中を突っ走ってる
九州説に反論しようにもなんの説得力もない
どうしてここまで差がついてしまったのかと感慨深い
0426日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 12:41:38.59
福岡平野の東端の三笠山(宝満山)から、糸島平野の西端の一貴山までは、40余qあり、
両山を結ぶ直線ライン上には、漢委奴国王の4世代(4時代)の王墓がおよそ10qごとに配置されている。
このことから、福岡平野から糸島平野の西端までが、奴国王家の長きにわたる支配下にあったことがわかる。その雄大な歴史観・国家観は、見事というほかない。
もちろん、この両平野の中にイトクズ国が入る余地など、全くなかったのである。

<東端・三笠山> − 須玖岡本王墓 − 吉武高木王墓 − 三雲南小路王墓 − 銚子塚王墓 − <一貴山・西端>
0427日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 12:44:17.53
>>422の続き

倭国の葬儀習慣は棺あって槨なしだから
槨のあるホケノ山が存在する畿内は邪馬台国じゃない証拠
周とそれから間を置いて500年ぐらいの魏は短里を使った
ほぼ思想書に類する周髀算経の一寸千里の千里が短里と主張
計算ミスのある谷本計算を短里の根拠にしてふんぞり返る

九州説主張者はこんだけのアホ
朝鮮式腐れ儒教思想が染み付いてる朝鮮韓国在日人非人は
こうやって狂気にまみれながら世の中に害悪を垂れ流していく
0428日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 12:49:04.62
箸墓は掘れないから、何を言っても言い逃れできる。
しかし、出土物だらけのホケノは、畿内説の致命傷を提供してる、、、
0429日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 12:50:20.09
朝鮮式腐れ儒教思想九州説が取り付いてる亡者どもよ
お前らを深く哀れむわ
反道義不道理的=反人類的思考の九州説はいずれ激しく糾弾され
この地球上から抹殺される憂き目にあうだろう
0430日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 12:50:49.38
417の>>375
>そもそも後漢書の会稽東「冶」県じゃなくて
より北部にあるという魏志倭人伝の会稽東「治」県は実在したのか
九州説のいう事はどうにも信用できない <

陳寿の魏志の、会稽東治の東治は、地名や県名の固有名詞ではない。
地域を示す普通名詞。
後漢書の范曄は、それを、
「自己解釈に拠って、はるか南方の地名の東冶に誤解釈」した。
0431日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 12:56:06.05
>>425
そういう誰が見ても意味不明の書き込み一つ一つが
九州説の朝鮮式腐れ儒教性を周りに明らかにしていき
やがては九州説朝鮮在日儒教的思考者自体の首を絞める事になるんだよ
0432日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 13:01:32.45
非理性的な邪馬台国九州説は反人類的な説
その背景にある朝鮮式腐れ儒教がそもそも
0433日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 13:11:15.41
「自己解釈に拠って、はるか南方の地名の東冶に誤解釈」というのが客観性に欠ける九州説の自己解釈
0434日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 13:18:03.48
このスレがきっかけになって
朝鮮韓国在日儒教根性が行動原理の全ての亡者ゾンビは
その正体がバレその他のまともな理性ある全世界の人々に叩かれ抹殺される
0435日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 13:19:29.87
>>419
九州では紀元前から高床建物があるけど?
0436日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 13:27:34.31
吉野ヶ里は高床式の宮殿と竪穴式の
住居が共存してるんですよ。

土は断熱性が高いからね。

仕事は高床式の宮殿で
生活は竪穴式住居と使い分けてたらしい。

断熱性が高いから、北海道には
3メートルも掘り下げた竪穴式住居を
江戸時代まで使っていて
今でも原野にはその穴が
半ば埋まりながら残っているらしい。

明治時代の開拓者は本州と同じ家を立てて
しばしば凍死したらしいが、
あえて竪穴式住居を採用したら防げたかもしれない。
0437日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 13:29:53.62
しかし九州説も哀れだなあ
腐れ朝鮮儒教の在日同胞のために主張するとかいう信義だったんだろうけど
朝鮮式腐れ儒教はその根元思想から物の道理に反し狂ってるから
やればやるほど目的と違う結果になって
結局同胞在日諸兄をこの地上から根絶するハメになtった
0438日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 13:51:10.29
417の>>393
>海峡なら渡らない 海も渡らない 海峡を抜けて通って行くよ
船で博多から伊予にでも吉備にでも、沿岸部を移動していくだけだ<

「南≠東」などに拠って、×。
0439日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 13:56:18.21
417の>>408
類スレ主が、いくら他人を中傷しても、
「臨海郡が江蘇省だ」と、言ってもいない事をでっち上げる、
という貴方の嘘が、
正当化されることはない。
0440日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 13:57:07.62
九州説は儒教道徳的に見たら儒教の反人類っぷりを
まざまざと周りに晒し儒教を根絶に導こうとする最大級の不忠者
これは朝鮮在日同胞が許してはおかんなあ
0441日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 14:02:28.32
これもザラコクがロクなレスせずに
オウム返しと東→南しか言わなかったせいだな
0442日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 14:09:39.80
417の>>415
>>であるから、会稽の東部臨海地域は、揚子江下流から揚州海岸部付近になる。<

>三国時代の揚州は会稽郡を含む
しかし会稽郡以外の揚州が会稽になることはない
だから会稽郡でない長江河口地域は会稽ではない <


類スレ主は、まだ、変な事をしゃべっている。
陳寿が書いた会稽東治は、会稽とイコールではない。
会稽の東方部の地域が揚州に属した、と書かれている。
従って、会稽東治は、揚州に属した。
0443日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 14:21:08.26
魂魄にかけてお前ら九州説を滅ぼす…
とはやらんよ
どうせ放っといても勝手に滅ぶから
0444日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 14:30:45.99
417の>>447
(南と東などは)宗教に狂ったり詐欺に狂ったのではない「普通の人類」は、
間違えない。
普通の人類は、
旅程や行程の説明では、出発の説明+途中の説明+到着の説明、の順に書く事が常識なのであり、
東西南北の方向は特に間違えない事も、人類の常識なんですよね。
0445日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 14:32:59.03
九州説が断末魔のうちに滅んで行く様を
我々畿内説は笑って眺めさせてもらうとするかなあ
0446日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 14:34:09.29
>>442
ザラコクは、まだ変な事をしゃべっている。

>会稽の東方部の地域が揚州に属した、と書かれている。
>従って、会稽東治は、揚州に属した。

当たり前だ。
そして、会稽も揚州に属した。
呉郡も丹陽郡も揚州に属した。

会稽の東部臨海地域は会稽郡に属した。
長江河口地域は呉郡に属した。

会稽東治は、会稽郡に属した。
長江河口地域には会稽東治は存在しない。
0447日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 14:40:00.13
>>487
>「里」が「物差し」レベルのものではなく、
厳密な長さがあったものではないなら
「一寸千里の法」の千里は「物差し」にならない<

里は、始めから(物差しではなく)、「田畑」単位の大体の数え方。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 15:15:47.45
九州説=腐れ朝鮮在日儒教の力の限りの非倫理性不合理性
すなわち反人類性はこのスレで今まで存分に発揮されて来た
このスレの過去ログ自体が腐れ朝鮮在日儒教の所業の証拠となるのだ
後悔してももう遅い
0449日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 15:31:50.50
九州説はあとは座して死を待つのみだな
それもとびっきりの非業の死を
0450日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 15:39:17.78
>>422
鉄器がなく、集落跡がないのは事実だろ。
0451日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 15:45:46.26
>>450
事実じゃないんだよなぁ
鉄器が古墳からわんさか見つかってその古墳が計7000基以上あるから
当時大規模集落があったんだろで通じるのが畿内
0452日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 15:47:53.94
>>416
日本書紀では、ニギハヤヒや長脛彦ら人民は奈良で平和に暮らしていた。
この有様からすると、全国的な騒乱は起こっていなかったということになる。
神武東征の時代設定は、倭國騒乱の時代に合わない。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 15:51:36.56
>>435

倭人伝は3世紀
0454日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 15:53:48.93
荒神谷遺跡の銅剣を見ても分かるように、緑青に保護される青銅は土の中でも残りやすい。

けど鉄は土の中では残りにくい。埼玉の稲荷山古墳の石室の、あんだけ条件のいい場所でも、
たった1500年くらいで鉄剣はボロボロになっていた。

奈良盆地では陵墓に指定されている古墳の石室を開けない限り、
なかなか鉄は出てこないんじゃないだろうか。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 15:58:13.62
>>451
3世紀中頃以前の話な。
古墳時代に入ると、鉄器などは博多から大和へ独占移送されるから、古墳からざくざく出てくる。
ごく普通の考古学的事実。
0456日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 16:02:04.72
>>454
同じ条件なのに、大和以西では住居跡からもいっぱい出てくる。
それが、大和では皆無。
なぜに、大和は皆と異なるの。
不思議だなあ〜。
0457日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 16:02:30.49
>>452
そのナガスネヒコと神武は戦争したんだろうが
それであまりにナガスネヒコが頑強に抵抗しっため
しまいには身内に殺されたとか

AD160〜180年
倭国大乱の神武東征はドラマチックよ
タケミカヅチの神が神武に下したとされる剣
フツノミタマが石上神宮に現存してたりするし
0458日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 16:04:36.47
>>453
倭人伝の倭國騒乱は、2世紀後半頃。
0459日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 16:04:47.45
>>455
じゃあ畿内が当時の倭国の中心
邪馬台国で九州の立場は奴婢奴隷ペクチョンだったわけだな
0460日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 16:05:20.54
>>455

3世紀中頃以前は魏使は倭国に来ていない
0461日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 16:10:54.21
>>460
魏使が来たのは、倭國が魏と冊封関係を持つと決まったときだろう。
卑弥呼の使節が魏に朝貢する直前だな。
3世紀前半になる。
0462日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 16:13:06.53
おら卑しき奴隷ペクチョン九州説は
我らリャンバンでも何でもなくて
普通の良識持って普通に生活してるごく普通の日本人に従わんかい
0463日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 16:22:59.87
>>439
>類スレ主が、いくら他人を中傷しても、
>「臨海郡が江蘇省だ」と、言ってもいない事をでっち上げる、
>という貴方の嘘が、
>正当化されることはない。

ザラコクは「毎日ウソついてないと死んじゃう」病なのかな

#134日本@名無史さん2019/01/05(土) 22:42
>会稽東治は、
 257年に会稽郡から分郡された臨海郡を指すから、揚子江周辺から江蘇省の海岸付近であり、
>その「之東」は九州島付近を指す。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/134

ザラ・・・モロ言ってます
0464日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 16:24:00.53
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0465日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 16:45:34.65
【速報】


大河板の【西郷どん】スレ及び関連スレで暴れている会津廚のレッテル爺こと

「馬鹿児島爺」は本日より


「馬鹿児島包茎」と命名を変更しましたので宜しくお願いします(本人承諾済み)

尚、当人が居座るスレが他に有りましたら告知を行いたいと思いますので教えて頂けたら幸いです。
0466日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 16:47:39.97
畿内で鉄器が出る古墳って
九州の形式に近い古いタイプの
古墳じゃなかったかな?

または山陰で製鉄が始まる
5世紀以降の古墳かな?
0467日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 16:50:17.49
あと、鉄器の出土量は
平安時代くらいまでは九州のほうが多くて
逆転されるのは鎌倉時代あたりから。
0468日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 16:57:04.08
>>457
神武の設定は、局地的な侵略行為。
気候変動による社会不安から生じた広域の社会再編の騒乱とは、神武と長脛彦の衝突は異なる。
神武が侵略する前は、ニギハヤヒは奈良で平穏に統治していると神武自身が独白している。
0469日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 17:03:25.37
>>459
九州人民がぺクチョンかどうか知らんが、西日本から東海・関東にかけての政治的まとまりの中心地が大和だな。
この3世紀後半に、纏向の政権がヤマト=倭國を名乗っていたかというと、まだなんじゃないか。
ヤマトを名乗るのは、河内政権からではないか。
0470日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 17:10:28.83
>>443
魂魄にかけても…とは、大げさな。
よほど、こたえたか。
0471日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 17:15:45.74
>>461

公孫氏を滅ぼす前に魏使が倭国に来たとか倭人伝に書いてない
卑弥呼の遣使とは関係なく朝鮮半島から鉄をもって韓濊が来ているのが北部九州
卑弥呼の晩年の遣使の後、壹與の時代に鉄器が急増するのが畿内
0472日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 17:31:35.28
>>471
普通の外交関係だと、初めて条約結ぶ時には、相手国の実情を念入りに調べる。
条約結ぶ相手がどのような国であるか分からずに、そのまま大事な条約結ぶことはない。
まして、皇帝絶対の中国で、その皇帝に相手国がどのような国であるかブリーフィングなしのまま、冊封を相手国に与えるわけがない。
魏略や倭人伝に書かれている具体的情報の多くは、冊封樹立前に魏が情報収集した記録なのは、疑いない。
邪馬台国に情報収集に来たのは、おそらく帯方郡の役人だろう。
0473日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 17:36:34.85
>>472

何年に?
0474日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 17:42:40.29
後漢はその前の新の外交の失敗の苦い経験があるからな
周辺国に対してかなり大盤振る舞いな対応をしてる
ただの北部九州の一部でしかない奴国程度に金印を渡すくらいだからそれが分かるな
0475日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 17:45:42.82
>>471
>卑弥呼の遣使とは関係なく朝鮮半島から鉄をもって韓濊が来ているのが北部九州

朝鮮半島から鉄素材を持ってきて、鍛冶をしているのは、圧倒的に倭国(阿波)。  @阿波
0476日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 17:48:36.79
魏志倭人伝は倭国の風俗について記述してる部分が面白い
文身が諸国いろいろのくだりとか
個人ごとに自由に文身してるのでもなく、倭国みんな同じではなく、国によって様式が違うんだなー
0477日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 17:55:03.53
>>473
公孫氏が滅ぼされるのは238年の夏。
倭人伝は、卑弥呼の使節が魏に朝貢したのは景初二年六月としているが、
この六月はまだ公孫氏が滅んでいない。
激戦中。
この時期に卑弥呼の使節が魏に朝貢するのは不合理。
公孫氏が滅ぶのは238年の長雨の時。
満州の雨期は7月〜8月。
この時期の激戦で公孫氏の軍が魏の司馬軍によって撃破される。
したがって、卑弥呼の使節が魏に朝貢するのは、景初三年六月説が正しい。
一年近い期間があれば、倭國の情報収集や卑弥呼の使節の上洛時期などの折衝は、十分できる。
0478日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 17:55:53.16
>>476
>魏志倭人伝は倭国の風俗について記述してる部分が面白い

「橘」や「楠」で、北部九州や奈良盆地は即刻退場だね。  @阿波
0479日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 18:00:40.84
魏志倭人伝は倭国の風俗について記述してる部分が面白い
文身が諸国いろいろのくだりとか
個人ごとに自由に文身してるのでもなく、倭国みんな同じではなく、国によって様式が違うんだなー
0480日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 18:04:19.97
>>475
淡路島の鉄工房は、火力が弱かったという話があるな。
0481日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 18:05:07.16
>>479
>魏志倭人伝は倭国の風俗について記述してる部分が面白い

「橘」や「楠」で、北部九州や奈良盆地は即刻退場だね。  @阿波
0482日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 18:06:42.63
>>477

証拠もないことを想像してもきりがない
倭国は鉄を産する国でもなく、鉄器を豊富に持つ国でもない
0483日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 18:07:40.56
>>451
>鉄器が古墳からわんさか見つかってその古墳が計7000基以上あるから
>当時大規模集落があったんだろで通じるのが畿内

畿内という枠組みそのものが詐欺
少なくとも纒向は尾張の傘下に過ぎない
0484日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 18:09:06.11
>>452
>この有様からすると、全国的な騒乱は起こっていなかったということになる。
>神武東征の時代設定は、倭國騒乱の時代に合わない。

神武が筑紫を出た理由が、九州にあった倭国における大乱の影響とは考えられないだろうか。
0485日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 18:12:15.06
どこの基地外の集団なのか知らないけど、
頭の病院に行ったほうが良いぞ、家の話をしているんだろ?


記紀神話、日本書紀?など『松傾』の話、
妹がいるんだけど5月15日生まれ、なぜ知っている人がいるんだと思う?


でも、やまたい国なども無かった頃の話だと言ってる人もいたような、
どういうことなんだろう
0486日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 18:12:31.55
>>484
>神武が筑紫を出た理由が、九州にあった倭国における大乱の影響とは考えられないだろうか。

そんなアホな。 いったい神武さんはどこへ行くつもり? 海の無い、湿地帯の奈良盆地かい?  @阿波
0487日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 18:15:02.20
>>482
鉄は朝鮮半島から持ち込んだが、鉄器は豊富だったと魏志倭人伝にある。
0489日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 18:19:20.26
>>477 名前:日本@名無史さん 2019/01/19(土) 17:55:03.53
>>473
>公孫氏が滅ぼされるのは238年の夏。
>倭人伝は、卑弥呼の使節が魏に朝貢したのは景初二年六月としているが、
>この六月はまだ公孫氏が滅んでいない。
>激戦中。
>この時期に卑弥呼の使節が魏に朝貢するのは不合理。

バカ殿の4代目公孫淵と魏軍が激戦を繰り広げたのは、遼東城だったのだよ。
帯方郡の役人兵士から見れば、関ヶ原の戦いの終戦を博多で待っていたようなもの。
卑弥呼の使いも、のんびり魚釣りでもしながら、朗報を待っていたのだろう。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 18:33:00.34
なぜ人工地震(不明)なのか?、
お金を返さないからなんだよ

みたいなことを言ってる人がいたり、
漫画、アニメ・・・ゲーム・・・・その他、創作関係?

元々のモデルとなった存在がいるでしょ、原型
0491日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 18:40:51.19
書いてあるでしょ、記紀神話?
冒頭、初めのほうは『松傾』本人の話・・・みたいなこととか、
0492日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 18:45:37.58
『松傾』
本人は普通(普通のというのは、おかしいんだけど)の仕事をしている家でしょ?家もw
漫画など・・・人権侵害のようなものばかりだし、調べてみた?
0494日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 18:50:21.01
>>451
そら、人は住んでるだろ、畿内には。
集落は普通にある。
集落か集落でないかは、お主らの議論は纏向遺跡じやろが。
纏向遺跡から人が住んだ集落跡は、出てない。
これは、考古学上の事実だ。

しかるに、纏向遺跡を文科省や桜井市が“集落”と呼んでいるのは、地理学や民俗学の用語としての“集落”とは異なる。
地理学や民俗学の用語としての“集落”からすれば、明らかに間違いじゃ。
文科省や桜井市は、纏向遺跡を“集落”と呼ぶのなら、その用語をちゃんと定義してから呼べよ。
ただし、地理学や民俗学の“集落”の定義と激突することになるのは明らかで、地理学や民俗学からブーイングが出るのは必死だから、覚悟しとけ。
0495日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 19:07:05.21
那珂遺跡の弥生終末期の検知してる住居跡も10数基くらいじゃなかったかな
想定してる居住エリアはあるけど
0496日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 19:10:51.77
老婆談

当時、持っていた本や書なんかも、
誰かにあげたのかな?売ってしまったのかな〜と言っていたり


『松傾』
このような名前の家の人の話、
あの写真なども本人?なのかな、
わかりやすく言うと家のなんだけど
0497岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2019/01/19(土) 19:11:31.88
このままグダグダで終わるも嫌ので、きっちり整理しておきましょう。FAQ30の件です。

「以」「已」の通用があったのは、下記二点の実例があります。
1. 魏志 今権以死、託孤於諸葛恪 (第二十一傅嘏傳)
2. 百衲本の「陸績伝」にある「従今巳去」の「巳」が、古本では「以」につくられている
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Lake/5739/kohon.htm

内藤湖南も藤堂明保も二文字を通用させて魏志倭人伝を読んでいます。藤堂明保監修の倭国伝では、下記通りに訳しています。
「使者の張政が到着した時は、卑弥呼はもう死んでいて、大規模に直径百余歩の塚を作っていた」

これのどこが「時系列を逆転させた解釈」なのか私には意味不明の指摘としか言いようがありません。
「すでに」と意味をとる以上、「張政が到着した時は、卑弥呼はもう死んでいた」のです。
張政が正始八年に到着したとは限らないとの指摘ですが、例えそうであったとしても、倭国の救援の依頼に対応して、張政を派遣している以上、
長くても翌年ぐらいまでの話で、その時点で卑弥呼は死んでいた、ということになります。
ここまでの話は、下記HPにまずまずまとまっていると思います。

https://blogs.yahoo.co.jp/kuwx1167/37759141.html
0498日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 19:12:04.75
>>482
お主らは、大規模な戦いの事後の経済行為についての普通の知識すらない。
戦争が終結したら、戦争当事国の武器が大量に無用物となる。
なので、倭国にしたら、魏や公孫氏の不要になった鉄器が市場に放出され、だぶついたそれら鉄器などを安い対価で入手することができる。
だから、戦争の勝者側につくのは当たり前。
そうした経済的な側面についても、卑弥呼が使節を送った動機となっていると考えなければならない。
0499日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 19:12:12.34
畿内に劣らず、福岡平野も人が少ない寒村のようだね。  @阿波
0500岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2019/01/19(土) 19:13:49.52
では、「以」を「已」と通用させること自体が「特殊な解釈」で、「以」は、「因」の意味に解することが通常である、という主張はどうでしょうか?
私はこれも大きな間違いと思います。
「以」を「已」の通用が決して特殊なものでないことは、すでに示しました。
では、「因」の意味に解することは、どうでしょうか?
私は、これは漢文文法上の解釈に問題がある読みだと思います。
FAQ30では、「因」の例に解すべき用例として下記三つが例示されています。

「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書) 「彪以疾罷」(後漢書楊彪)

そして、これらの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」と読むのが順当ありますが、これらの3つ例文と「卑弥呼以死大作冢」とは、全く構造が違うからです。
これらの3つの例では、「以」が導く句を抜いても、そのまま主語術語の関係が維持されています。
「田豐 見誅」「騭 免」「彪 罷」
田豐は誅殺され、歩騭と楊彪は、罷免されていますね。
対して卑弥呼はどうでしょうか?
「卑弥呼 大作冢」
もちろん、卑弥呼が冢を作ったわけではありません。文の構成が、3つの例示のある「(主格)以(原因)→(結果)」と読みと、「卑弥呼以死大作冢」とは、文の構造が違います。つまり「因」の意味では取れないということです。

以上、FAQ30への反論でした。
箸墓の年代観と無理に合わせようとして、いかにももっともらしく間違ってことが書かれてますね。

最近流れを見ていると、あんまり積極的に参加したいとも思いませんので、
あとは、ザラコクさんとキナイコシさんで、せいぜい死ぬまで罵りあってください。

では。
0501日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 19:16:15.24
>>497
まぁまぁ、  

「以」「已」がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来して通交してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0502日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 19:22:31.35
あわすとーりぃ?

『松傾』の話(曲)でしょ、どういうことなんだろう
0503日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 19:22:44.01
>>498

魏は公孫氏滅亡後、高句麗、東濊、韓を討伐してる
0504日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 19:24:28.34
この辺りの話などは確実『日本昔話 姥清水』・・・・『記紀神話』
0505日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 19:32:01.15
>>435
>九州では紀元前から高床建物があるけど?

青森では縄文時代に臍組みを使った高層建築があるんだけど?
倭国の木造建築技術は>>435が思うよりずっと高いんだよ

高床式建物は、結構どこにでもある
巨大建築(池上曽根遺跡)とか、軸線を揃えた建物(纏向遺跡)とか、
円形配置の建物群(伊勢遺跡)とかくらいになると、エポックメイキングだけれど、
九州には高床建物があると言われても、ほーん、それで?としか言いようがない

九州説が誇るものって、たいていどこにでもあるんだよね
例えば登呂遺跡あたりでも普通に高床建物があるし、鉄を使った(と想定される)鍬も出てる
0506日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 19:33:55.97
>>436
>吉野ヶ里は高床式の宮殿と竪穴式の
>住居が共存してるんですよ。

登呂遺跡でも、高床建物と竪穴式住居が共存してるけど?
それ、何か珍しいものなの?
0507日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 19:39:43.71
>>461
>魏使が来たのは、倭國が魏と冊封関係を持つと決まったときだろう。
>卑弥呼の使節が魏に朝貢する直前だな。
>3世紀前半になる。

これ、何を言ってるの?
対馬や壱岐の人は普通に南北市糴していて、出雲には楽浪土器も来てるし
卑弥呼の遣使の前の魏使なんて想定する必要ないぞ

魏使は、卑弥呼の遣使に対する答礼使であり、親魏倭王の詔書を携えた除正使
卑弥呼の遣使より後だよ
0508日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 19:42:23.48
>>471
>卑弥呼の晩年の遣使の後、壹與の時代に鉄器が急増するのが畿内

それは単に>>471が現在の標準編年を「認めないんだー」って言ってるだけ
3世紀には、古墳時代に入っているし3世紀の初期古墳から十分量の鉄器が出ている
0509日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 19:45:53.29
>>508

3世紀の初期古墳って?
0510日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 19:46:18.46
>>472
>魏略や倭人伝に書かれている具体的情報の多くは、冊封樹立前に魏が情報収集した記録なのは、疑いない。
>邪馬台国に情報収集に来たのは、おそらく帯方郡の役人だろう。

いやいや、その情報収集の役目は、除正使の建忠校尉梯儁さんでしょ
だから、きちんと倭国の情勢を調べているし、北部九州により羽振りのいい吉備や
出雲、丹波に大和の人が来ているときに、九州ローカルの首長を倭王にしたりはしないって

同じ理由で、九州までしか来ていないというのも却下
戸数道里略載の投馬国(出雲)、邪馬台国(大和)まできちんと来て
倭国の3大国はきちんと訪問してるよ
0511日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 19:50:35.33
>>483
>畿内という枠組みそのものが詐欺
>少なくとも纒向は尾張の傘下に過ぎない

こういう寝言を根拠なく言い出すからなぁww
東海は、三遠式銅鐸の頃からのおつきあいが深いってだけだよ

纏向遺跡で外来土器で一番多いのが東海だからって言いたいんだろうけれど、
外来土器は多いところ(祭祀施設)でも3割どまり

北部九州の在地様式の土器がなくなって、全て畿内様式と置き換わるのとは
話が違うw
0512日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 19:52:30.52
>>494
>ただし、地理学や民俗学の“集落”の定義と激突することになるのは明らかで、
>地理学や民俗学からブーイングが出るのは必死だから、覚悟しとけ。

纏向遺跡は「都市」なんだけど?
0513日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 19:52:50.78
>>510
>邪馬台国(大和)まできちんと来て

それは、ない。  @阿波
0514日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 20:00:20.72
>>505
>倭国の木造建築技術は>>435が思うよりずっと高いんだよ
>高床式建物は、結構どこにでもある

違う違う
畿内説が卑弥呼の王宮だと言い張る纒向遺跡は決して特別なものではなく、倭王の王城だとする根拠は不足していると言いたいんだよ。
0515日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 20:02:07.90
>>508
>3世紀には、古墳時代に入っているし3世紀の初期古墳から十分量の鉄器が出ている

纒向遺跡を微妙に前倒し、古墳時代を微妙に前倒し、そして古墳時代の古墳からは鉄が。

詐欺だろ。
0516日本@名無史さん
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2019/01/19(土) 20:03:43.49
>>510
>だから、きちんと倭国の情勢を調べているし、北部九州により羽振りのいい吉備や
>出雲、丹波に大和の人が来ているときに、九州ローカルの首長を倭王にしたりはしないって

当時一番羽振りが良かったのは平原女王様だろ。
出雲は完全に筑紫の格下だし、大和なんて内陸の後進地域だろ。
0517日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 20:05:00.90
>>511
>外来土器は多いところ(祭祀施設)でも3割どまり

繁栄していた筑紫の恩恵を受けることができずに、鉄も絹も玉も何もない。
考古学的には大和は畿内の中でもかなりの田舎だよ。
0518日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 20:06:39.57
>>497
藤堂明保編の辞典に、「以」の意味として(すでに)は、無い。
ただ、日本語の古訓としては(ステニ)も挙げている。
このほかに、「以往(イオウ)」を(これより前)の意とし、已往(イオウ)と同じとしている。
なので、以と已を同じとみなしていることになる。
で、已(イ)には、(やめる、すでに、はなはだ、のみ)の意味がある。
藤堂が、倭人伝の「以死」を(すでに死す)と読んでいるというのは、以を己の意味だとしていることになる。
藤堂の読み方は、こういうわけだ。

この読みに従えば、張政は倭國に到着して、まず皇帝からの軍旗を難升米に送って渡した。
そうこうしている間に卑弥呼はすでに死んだ。倭人はその後、おおいに墓を造った…。
こういうことだろう。

張政が倭國に着く前に、すでに卑弥呼は死んでいた、と解釈するのはいかがか。
なぜなら、卑弥呼が到着前にすでに死んでいたことが分かれば、魏と倭國の冊封関係は白紙に戻るわけで、張政は難升米に魏の軍旗を渡すいわれがない。
軍旗を手元に置き、状況の推移を見守るのが筋だろう。
しかるに、軍旗を難升米に送るとともに、難升米に激励文を書いて送っているのだから、この時点で卑弥呼は生きていたということになる。
そして、そうこうする間に、卑弥呼が死んだと知らせが張政のもとに来たということだろう。
0519日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 20:08:07.76
出雲も何もないんだよ〜『松傾』〜本人の話だと書いてあるはず、
そもそもの神話?自体が『松傾』の話
0520日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 20:09:12.42
>>518
訂正
6行目の「己」は誤りで、正しくは「已」。
0521日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 20:10:06.08
>>497
>「使者の張政が到着した時は、卑弥呼はもう死んでいて、大規模に直径百余歩の塚を作っていた」
>これのどこが「時系列を逆転させた解釈」なのか私には意味不明の指摘としか言いようがありません。

このひとは頭が弱いのかな
1.使者の張政が到着した
2.難升米に檄告喩した
3.卑弥呼は「もう死んでいて」?

3が1の前に時系列逆転してるやん
グダグダですな
0522日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 20:12:59.54
邪馬台国畿内説を宣伝する者達の正体は、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すために、韓国政府が雇用した韓国人の宣伝係員だったのだな。。。
0523岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2019/01/19(土) 20:14:46.37
>>521
遣 が導く使役の構文を勉強してくださいね。
0524日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 20:18:36.53
岡上氏が、構文のことで、韓国人を論破してしまったのでは、ないのかな、、、
0525日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 20:21:44.34
韓国人が精一杯計算したが、自信が無いので適当に計算したと言いながら、意見を発表したが、また、計算を間違えているの可能性が高いので、
ここは、学部の討論の掲示板なのだから、 1尺=10寸と1尺=8寸の二つ通りで、真実の里の長さを計算すれば良いのでは、ないのかな。。。

705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど 周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった
0526日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 20:28:44.61
>>523
まぁまぁ、  

構文がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来し、鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0527日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 20:42:40.21
卑弥呼が247年〜張政到着までの間に死んでいたとしても
既に塚を作っていたことにはならんだろ
0528日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 20:43:08.89
>>515
座布団三十枚。
0529日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 20:48:14.93
>>521
頭、大丈夫か。
日本人が読んで、普通に意味分かる文を書けよ。
意味がわからんやんけ。
小学校出たんか。
0530日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 21:01:26.62
>>515
鉄器が出る古墳は、実年代でいうと3世紀後半だろう。
それに、古墳時代開始を200年頃に持っていっているのは、寺澤だしな。
0531日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 21:07:05.61
>>512
人の住まない都市という概念は、成立せんだろう。
0532日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 21:12:10.37
多くの人が見ないところに大規模古墳を造るということはない
0533日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 21:21:04.20
むしろ人のいない空き地だから
大きな古墳を作れるのでは?
0534日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 21:26:17.98
>>510
魏の返礼使である梯儁の派遣目的は、皇帝の詔書などを卑弥呼に届けること。
届けたら、宴会に出て酒飲んで、言い気分になって、帰ること。
余計なことはしない。
変にスパイみたいなことをしたら、関係がまずくなる。
魏略や倭人伝の情報は、冊封樹立前に魏が調べ上げたもの。
0535日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 21:31:37.02
纒向は倭種の別国の葬儀場兼市場
0536日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 21:36:01.30
>>531
纏向遺跡を集落と言い、都市と言う考古学者などのその語彙に違和感があるのは、その語彙と実態が乖離しているから。
0537日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 21:54:04.73
>>507
何の事前折衝もなしに、冊封が締結されると思っているの。
ある日突然、倭國の使節が帯方郡の役所に来て、これから朝貢したいのでよろしく、ということだと思っていたの。
まあ、倭人伝にそのように読める記述があるからて、そのままに事が進んだと思い込むなんて、おめでたくない?
0538日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:00:24.41
>>500
>そして、これらの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」と読むのが順当ありますが、これらの3つ例文と「卑弥呼以死大作冢」とは、全く構造が違うからです。
>これらの3つの例では、「以」が導く句を抜いても、そのまま主語術語の関係が維持されています。
・・・
>もちろん、卑弥呼が冢を作ったわけではありません。文の構成が、3つの例示のある「(主格)以(原因)→(結果)」と読みと、「卑弥呼以死大作冢」とは、文の構造が違います。つまり「因」の意味では取れないということです。

岡上もう論破されてたぞ

<以下皆()内を外すと意味の通じなくなる文です
<「權(以露布於蜀)劉備聞之曰云々」
<「布(以敗劉備)而臧霸等應之」
<「叔父(以告嵩)嵩驚愕呼太祖」
<「老父(以告烈)烈曰云々」
<「兒(以語母)母答云々」
<どれも()内が原因、後段が結果です

https://mint.5ch.net/test/read.cgi/history/1497445234/169
0539日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:03:32.79
>>536
>その語彙と実態が乖離

>>536が「実態」だと思っているものが実体からかけ離れてるんだよ
人がいなかったら大規模墳丘墓は作れない

平原1号墓程度なら成人男子が10人もいれば1週間くらいで作れるが、
纒向石塚古墳で墳丘長96メートルある
弥生時代なら都市と呼べるほどの人がいなければ作れないよ
0540日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:04:37.21
>>211
話の流れわかってる?
可也山を基準にしたら、錯覚をおこすよ、という流れ

対馬→壱岐→呼子と南に進んできたと思ってるなら、呼子からは可也山は東に見え、到着した平原あたりからは西北に見える
南には脊振山脈が壁のように聳え立っている

つまり、歩いた方向は南東だと勘違いすることになる

地図がない時代だからね
0541日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:06:41.17
>>536
乖離してるっていう理由は?
0542日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:07:33.26
>>539
>人がいなかったら大規模墳丘墓は作れない

「古墳造営前線基地」で寝泊まりして、古墳が出来上がったらさっさと故郷へ帰ったのさ、「忌部はん」たちは。  @阿波 
0543日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:09:23.14
>>540
呼子が間違ってるんだよ。  @阿波
0544日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:16:09.47
>>540
>可也山を基準にしたら、錯覚をおこすよ、という流れ

どういう神経でこれを錯覚できるんだ?
https://i.imgur.com/POHiSA8.jpg

呼子から見える可也山と平原あたりから見る可也山だよ
距離感ぜんぜん違うでしょ
どうして東南だと錯覚できるの?
0545日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:16:44.76
>>541
(都市)の意味を、知らんのか?
試しに、ウィキをみてみると、(商業、流通などの発展の結果、限られた領域に人口が集中している領域)とでているな。
纏向遺跡のこれまでの調査で、人口が集中していたことを示す知見は得られていない。
人が集中して住んでいなかった纏向遺跡は、ウィキの(都市)の定義と乖離してないかね。

遊んでいちや、だめだよォ〜、君ィ〜。
0546日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:19:23.58
>>543
なぜ?
間違っている、という根拠はどこにもないし、正解は誰にもわからない
安全に海を渡るなら最短の港をまず目指すと思うがね
0547日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:19:24.89
秘境阿波で集めた下層肉体労働者は故郷に帰る
秘境の人に見せても何の効果もない
0548岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2019/01/19(土) 22:22:35.17
それらは、呼応の「以」
0549日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:23:46.25
>>523
相変わらず、全く反論ができない岡上みじめ
0550日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:24:53.55
>>539
君はそう思っているけれど、実際にそこに人が住んだ痕跡がない。
とすると、建設作業員たちは、毎日外から来たと考えられんのかね。
また、出来上がった施設は祭祀のための神聖なものだから、人は住まずに、祭祀日のたびに人が外から来たということも考えられんかね。
0551日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:25:29.00
>>548
呼応の「以」だっていう根拠は?
0552日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:27:11.88
>>550
実際にそこに人が住んだ痕跡がないって、誰の説?
0553岡上 ◆Lv09mLa3HM
垢版 |
2019/01/19(土) 22:31:48.02
岡上 ◆JN/67qb8kM :2017/06/15(木) 21:02:32.37
>>119
以下皆()内を外すと意味の通じなくなる文です
「權(以露布於蜀)劉備聞之曰云々」「布(以敗劉備)而臧霸等應之」
「叔父(以告嵩)嵩驚愕呼太祖」 「老父(以告烈)烈曰云々」 「兒(以語母)母答云々」

これらは、以〜為〜と同じ形の「呼応関係」を表す「以」ではないでしょうかね?
「權 以露布於蜀 劉備聞之 曰云々」  → 以〜 曰〜 が呼応
「布 以敗劉備 而臧霸等應之」     → 以〜 而〜 が呼応
「叔父 以告嵩 嵩驚愕呼太祖」     →以〜 呼〜 が呼応
「老父 以告烈 曰云々」        →以〜 曰〜 が呼応
「兒 以語母 母答云々」        →以〜 答〜 が呼応

たくさん例示してくれたおかげで、呼応関係がわかりやすくなりましたね。
介詞の用法でないのですから、カッコに入れてしまうと主述関係が維持できていないのが
よくわかります。

介詞としての「以」の用法で、呼応関係の「以」を必死に列挙しています。わかりますか?
残念ですが、1さんは、漢文を読むにあたって、品詞について「鈍感」であるとしか言えませんね。
0554日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:33:14.25
>>537
>何の事前折衝もなしに、冊封が締結されると思っているの。

倭国からは前に奴国が朝貢に来てるから、冊封自体は昔の名前でできるんだよ
ただ倭国を冊封するのはいいとして、誰を倭王と認めるかってところで、
答礼使であり、親魏倭王の詔書を携えた除正使の建中校尉梯儁さんが卑弥呼でいいかを確認するんだよ

>ある日突然、倭國の使節が帯方郡の役所に来て、これから朝貢したいのでよろしく、
>ということだと思っていたの。

朝貢ってそういうもんだぞ
何ヶ月も、場合によっては年単位をかけて朝貢に来るんだから、
打ち合わせのために行ったり来たりなんてできない

>まあ、倭人伝にそのように読める記述があるからて、
>そのままに事が進んだと思い込むなんて、おめでたくない?

九州説は魏志倭人伝には間違いはないっていう立場じゃなかったっけ?ww

まあ九州説は実際には、短里を捏造したり、放射説を唱えたり、水行の起点を帯方郡に戻したり
陸行一月を陸行一日に書き換えたり、いろいろ特殊な解釈をしてるから、そのまま読んだりは
してないかww
0555日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:34:00.20
>>544

そうだな、Googleマップの平原あたりから可也山が見えてるから見てみ。
建物がない見えるところまで移動しなきゃいけないが

遠くの北西に見える二子山の左側の高い方が可也山だ
0556日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:38:35.99
>>550
>とすると、建設作業員たちは、毎日外から来たと考えられんのかね。

とすると、その大勢の建設作業員が住んでるところが七万戸のヤマト国でいいと考えられるだろ?

畿内説は邪馬台国七万戸は「大和+河内から環大阪湾」の範囲って言ってるだろ?

都庁に都職員の住居がないから東京じゃないっていう人がいたら
「バカじゃん?」としか思わないだろ?

纒向遺跡は邪馬台国七万戸の中心施設だよ
0557日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:40:14.28
張政が難升米に詔書黄幢を持って来たときは
相攻撃中で王都までは来ていないんじゃないかな
壹與が女王に立てられた後に再度倭国の王都に派遣されて、
聞いたことを「卑弥呼以死」以下に書いてるんだろう
「國中遂定」を内外に示すために「大作冢」し、「獻上〜」が豊富になっているんだろう
0558日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:55:53.83
>>555
だから呼子から可也山ってさ、平原から可也山の距離の4倍はあるでしょ
どうして呼子から平原が東南って錯覚できるんだ?
0559日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:55:55.60
>>553
呼応の「以」だっていう根拠を問われてるんだが
岡上はもう回答不能か
みじめなもんだな
0560日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 22:59:49.62
韓国人が精一杯計算したが、自信が無いので適当に計算したと言いながら、意見を発表したが、また、計算を間違えているの可能性が高いので、
ここは、学部の討論の掲示板なのだから、 1尺=10寸と1尺=8寸の二つ通りで、真実の里の長さを計算すれば良いのでは、ないのかな。。。

705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど 周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった
0561日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 23:02:27.89
岡上氏が、呼応の「以」のことで、邪馬台国畿内説を宣伝している!韓国人を論破してしまったのでは、ないのかな、、、
0562日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 23:04:03.53
邪馬台国畿内説を宣伝する者達の正体は、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すために、韓国政府が雇用した韓国人の宣伝係員だったのだな。。。
0563日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 23:06:23.35
福岡平野の東端の三笠山(宝満山)から、糸島平野の西端の一貴山までは、40余qあり、
両山を結ぶ直線ライン上には、漢委奴国王の4世代(4時代)の王墓がおよそ10qごとに配置されている。
このことから、福岡平野から糸島平野の西端までが、奴国王家の長きにわたる支配下にあったことがわかる。その雄大な歴史観・国家観は、見事というほかない。
もちろん、この両平野の中にイトクズ国が入る余地など、なかったことは明白である。

<東端・三笠山> − 須玖岡本王墓 − 吉武高木王墓 − 三雲南小路王墓 − 銚子塚王墓 − <一貴山・西端>
0564日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 23:08:58.97
>>559
足りないのは根拠ではなくて、>>559の知能ではないのかな、、、
0565日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 23:09:51.07
>>561
また岡上が論破されたようだな
0567日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 23:18:51.88
>>539
>弥生時代なら都市と呼べるほどの人がいなければ作れないよ

地方で人員を挑発すればいいだけ。
都市の有無とは関係ない。
そもそも弥生時代において都市の存在は学問定義的に成り立たない。
0568日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 23:20:47.44
漢文というものがそもそも欠陥製品だと思うわ。
なにしろパズルみたいな解釈を加えないことには意味不明。
嘘だと思うのなら孫子の兵法でも白文で最後まで読んでみ?
さっぱりわからんこと請け合いだわ。
0569日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 23:21:05.43
>>556
>とすると、その大勢の建設作業員が住んでるところが七万戸のヤマト国でいいと考えられるだろ?

別に邪馬台国でなくてもいい。
畿内説がそう言い張っているだけ。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 23:22:15.24
そもそも岡上氏は畿内説だし
0571日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 23:29:46.99
ダウト
0572日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 23:30:53.54
417の>>488
>>であるから、会稽の東部臨海地域は、揚子江下流から揚州海岸部付近になる。《

>257年(太平2年)には東部臨海地域に臨海郡を、<

Wikiをよくよむと、会稽郡の東方を分郡した、とは書いてあり、
それが揚州に属したように書いてあったが、、
それが「臨海郡」とは書いていなかった筈。

>260年(永安3年)には郡南部に建安郡を、
266年(宝鼎元年)には諸曁、剡両県以南に東陽郡を設置した。
この分郡の前に、銭塘江より北は呉郡になっているから、揚子江下流域は
既に会稽郡ではない<

だから、それなら「銭塘江より北」の東方地域が「会稽東治」になる。

>そして、ここで言う「東部臨海地域」は、分郡前の会稽郡の南の方の
「大陸の東岸」であって、会稽郡の東側という意味ではない
臨海郡は、分郡前の会稽郡のうち南側の大陸東岸の地域
この地図を見れば臨海郡と会稽郡の位置関係が分かるな?<

またお前は、「会稽郡」と「会稽」とを間違っている、と思ったら、
更に、郡名としての「臨海郡」と地域名としての「臨海地域」とを、ごっちゃになっているな。
「会稽東治」は、会稽の東方であり、
会稽郡内の東部地域でもなくて、
また、会稽郡の南にある臨海郡の事でもないんだよ。
0573日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 23:36:08.69
417の>>489
>>Wikiに拠れば、「会稽東治」は、揚子江下流~揚州海岸地域。<

>それ、ウィキの誤読ww 魏志倭人伝も誤読だらけでデタラメだし、ザラコクは無能ww
まあ、ウィキペディアの文章もうまくないが、それでも自分で調べれば
臨海郡がどこにあったかはすぐに分かる<

お前が提示した地図では、臨海郡は会稽郡の南になっていたから、
それでは、始めから、臨海郡は「会稽東治」の地域にはならない、
と言ってんだよ。
0574日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 23:41:38.99
417の>>490
>こちらは、何度でも臨海郡の地図も貼っているし、寝ぼけたことを言っても無駄<

その地図は、いつの時代頃の地図だったんだ?。

>九州は会稽の東ではないし<

まだ類スレ主は、変な事を言っている!。
「会稽の東」ではないよ。
「会稽東治の東」だよ。
誤魔化すなよ。
0576日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 23:47:50.47
>>567
>地方で人員を挑発すればいいだけ。

その地方から徴発した人員はどこに住むんだ?
それだけの人数を生活させるだけの基盤が纒向周辺にあったんだよ

それを集落と呼ぶか都市と呼ぶかは自由だけれど、
住居跡が発掘されていないから人がいなかったというのは虚妄
0577日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 23:48:14.26
>>572
ザラコクは「毎日ウソついてないと死んじゃう」病なのかな
今夜もたっぷりウソをつく

#134日本@名無史さん2019/01/05(土) 22:42
>会稽東治は、
 257年に会稽郡から分郡された臨海郡を指すから、揚子江周辺から江蘇省の海岸付近であり、
>その「之東」は九州島付近を指す。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1546683723/134

ザラ・・・モロ言ってます
0578日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 23:50:58.32
>>574
>まだ類スレ主は、変な事を言っている!。
>「会稽の東」ではないよ。
>「会稽東治の東」だよ。
>誤魔化すなよ。

会稽東治は会稽郡の中にあるから会稽の東でも正しいんだが
0579日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/19(土) 23:52:30.37
>>569
>別に邪馬台国でなくてもいい。

こっちは「ヤマト国」と言ってるんだがな
それを大陸の人が漢字表記の音訳で邪馬臺國と書いただけ

魏志倭人伝の記述する3世紀の倭国の状況と考古学的資料を付き合わせると
畿内ヤマトに倭国の中心=王都があったとするのが妥当
0580日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 00:02:28.08
417の>>492
>>投馬国経由で畿内邪馬台国に行ったと思えない
投馬国の位置説明と見るのが妥当と考える<

>投馬国と邪馬台国の旅程の書き方は同一
投馬国が位置説明なら、邪馬台国も位置説明となるが、
邪馬台国には多くの記述があるよな?<

また、この類スレ主は、変な事を言っている。
「至」には、
四至方向のように「〜にある、という静止的位置説明」の使用と、
「実際の移動して至った」という移動と到着を示す場合の、
二つの使用例がある、と言っておいた筈だ。

そして投馬國へは、
「至」の前に途中移動の説明文言がないから、静止的位置説明であり、
邪馬壹國は女王之所都の目的地の国である事が示されているから、
実際に移動して到着したことを示しており、
その途中移動を示す文言がないから、途中移動はほぼ0だ。
0581日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 00:04:00.95
お鏡さんは何が言いたいんだろう?

0003 岡上 ◆JN/67qb8kM 2018/01/08 18:03:09
(中略)
箸墓は発掘できていませんが、私は主に文献的なところから、卑弥呼の墓として箸墓を考える立場です。

お鏡さんは、自分(お鏡さん)箸墓が卑弥呼の墓と考えるけれど、
「以死」は証拠はないけど「已死」だから
張政が着いたときには死んでたから箸墓は年代が合わない! テンプレは間違ってる!
支離滅裂じゃね?
0582日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 00:07:28.38
>>555
>遠くの北西に見える二子山の左側の高い方が可也山だ

グーグルストリートで見ても、ちっとも遠くないよ?
見る山を間違えてないか?
0584日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 00:18:16.99
>>585
建物があったら見えなくなるぐらい、わりと遠くに見えるが?
膝下?というほどではないのは明らか
0585日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 00:42:24.30
>>584
>建物があったら見えなくなるぐらい、わりと遠くに見えるが?

グーグルストリートを何だと思ってるんだ?
道の横に家があって、その家に隠れて見えないから遠くって、頭おかしくないか?
0586日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 00:43:50.44
>>584
視野の内にあるのに、九州説さん距離が読めないの?
0587日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 00:45:16.81
>>584
>膝下?というほどではないのは明らか

それほど広くもない糸島平野の端にある山なんだから
三雲遺跡の辺りまで可也山のお膝もとだよ
0588日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 00:53:05.88
>>580
>その途中移動を示す文言がないから、途中移動はほぼ0だ。

途中移動してないならそこは不彌國だろうww
0589日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 01:03:25.91
>>575
橋本はこの講演の中で、「3世紀の初頭段階から布留0式にかけての間というのは、…縦穴式住居というものが遺跡の中央部から1棟も確認されていない」と言っている。
また、「纏向遺跡では、基本的には縦穴式住居というのは存在しないと考えています」とも言っている。
人が住む縦穴式住居は、纏向遺跡にはないということだ。
橋本は、纏向遺跡と言うとともに、この集落というような発言をしている。
つまり、橋本の考えとしては、(集落)の語彙は(纏向遺跡)と同義なのだ。
地理用語や民俗学の用語である人が集まり住むという意味の(集落)とは、相当異なる使いかたをしている。
纏向遺跡を集落と表現することに違和感があるのは、当然だな。

「弥生都市って言葉、わりに市民権があるんだが?」 と言っているが、その弥生都市なるものには人が住んでいるのかい?

橋本は、外来土器炊飯用の甕の割合からして、纏向遺跡では「10人に出会えば1.5人〜3人は外来の人が居たというようなことで、非常に都市的な様相を現すのかなというふうに思っています」と述べている。
ただっぴろい野原で食事のための甕を携えた土木工事人が働いていて、そのうちに土地の者以外の他所から来た者が10人の中に1.5人〜3人はいたとして、それが都市的と言えるのかねえ。
それが東京や大阪のような人の住む都市の中でなら、そういうことも言えるが、場所が人の住まん荒野の話ではなあ。
0590日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 01:21:26.47
>>579
邪馬臺の発音は、ヤマドイ。
ヤマトの音写では、ヤマドイとはならんね。
九州山門が、ヤマドだったのだろう。
それで、ヤマドの音写がヤマドイとなった。
音写としては、こちらのほうがごく自然だ。
0591日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 01:25:11.40
検出されている住居のほとんどは平地式の建物というか、
柱穴を掘ってそこに柱を立ち上げるという形の建物ばかりが確認されておりまして、
おそらくは高床式の建物や平地式の建物で纏向遺跡の居住域が構成されている可能性が高いということで、
同時期の奈良盆地内では当然ながら竪穴式住居というのが普通に出てまいりますので、
同時期の周囲の遺跡と比べると纏向遺跡の集落景観は竪穴式住居の存在しない特殊な景観が
展開していたというふうに言って良いだろうと考えております。   橋本

ということ
0592日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 01:29:01.34
>>556
問題は、その人の住まないエリアを集落と呼ぶ違和感なんだがなあ。
当然、その人の住まないエリアの外側には、人が住む集落はあったのさ。
しかし、その外側の集落のことを言ってるのではないだろうに。
0593日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 01:36:56.27
>>591
「高床式や平地式の建物で纏向遺跡の居住域が構成されておりまして…」と橋本は言っているが、この高床式と平地式に人が住んでいたという証拠があったのかねえ。
住んでいたというのが、単なる推測じゃなあ。
0594日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 01:41:57.88
竪穴住居はそこらへんのおじさんの家も竪穴だからな
九州説は、梯儁や張政に「今宵はこちらの竪穴住居でごゆるりと」みたいな感じなのかな
0595日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 01:45:38.61
>>579
>畿内ヤマトに倭国の中心=王都があったとするのが妥当

勝手な主観
根拠にはならない
0596日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 01:47:25.67
>>590
>ヤマトの音写では、ヤマドイとはならんね。

ならんという理由は?
0597日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 01:49:17.76
>>591
で?
その建物とやらは何棟あって、何人が働けるんだ?
0598日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 01:50:59.58
何でも良いけど・・・、
『松傾』このような話は、いつ頃の話なの?

家の老婆(大正生まれ)でも知ってるという年代?
山の上のほうに住んでいたんだよと言っているし
0599日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 01:51:31.91
>>594
九州には紀元前から高床式があるから、外国の公使はもちろんこちら。
0600日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 01:53:47.72
韓伝では「居所作草屋土室 形如冢」 ← 竪穴住居
倭人伝では「有屋室 父母兄弟卧息異處」だから魏使が面会した倭人の住居は
韓とは違っていたのだろうな
0601日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 01:54:04.16
>>593
居住域と言う以上、人が住んだ証拠を橋本氏は持っているはずだが、橋本氏に一度「その証拠は難ですか」と聞いてみたいもんだ。
0602日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 01:57:33.83
>>596
君は、(ド)と聞いて、(ト)だと人に伝えるかね。
0603日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 02:03:48.91
山門は寺の門だからな
高麗人でも意味はわかる
筑後にヤマドの地名音が先にあったなら
他の漢字も当てられる
0604日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 02:06:59.00
上代に日本語を表記するために漢字の音を借用して用いられた万葉仮名は一音節一字
0605日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 02:08:39.85
>>594
立派な縦穴式住居に泊まっていただいたのだろう。
0606日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 02:16:35.73
>>603
寺の山門は、サンモンだろ。
こんなこと、アホでも分かることだ。
それに、寺が造られるのは奈良時代になってからだしな。
3世紀前半に、サンモンなんてあるわけないわ。
0607日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 02:22:59.49
>>599
高床式は倉庫がおもだから、貴賓に倉庫で寝てくださいとは言わんのじゃ。
失礼だろうから。
中国から来た貴賓は、立派な縦穴式に泊まっていただいた。
0608日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 02:24:51.94
>>604
邪馬臺は、3世紀前半。
0609日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 02:32:20.77
邪馬臺は、漢人の当字
大和は、夜麻登、野麻登、椰麽等、夜麻苔、山常、也麻等、夜末等、夜万登、八間跡などの表記が見られる
0610日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 02:36:06.19
>>607

立派な縦穴式はどの竪穴かな?
0611日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 02:49:40.08
>>602
奈良のヤマトが三世紀にはヤマドと発音してなかったなんて立証できないだろ?
母はパパって発音してたんだぜ
0612日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 02:55:28.85
馬に乗り・・・というのも合致していたり、
町だったか村のほうまで下りて行き、芝居を観に行っていたとかw
家には刀が飾ってあったという話

三貴子(神)?
0613日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 02:59:05.79
>>591
橋本は、大型建物群の外観やその周辺の光景をもって(集落景観)と言っているが、この大型建物が施設であって人が住んでいなくても(集落景観)と表現するのかね。
大型建物群に人が住んでいず、建物が祭祀目的の施設群であれば、(集落景観)というのはやはり違和感がある。
漢和辞典でも(落)は、人がかたまって住む村の意味で、集落とも書くとしている。
従って、人が住まない集落とは廃村のことになる。
このように、纏向遺跡に対して(集落)の言葉を用いるのは、いたずらに混乱を招くだけであるので、相当数の竪穴式住居跡がみつかってからその(集落)を使うのがよいだろう。
0614日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 03:04:38.48
竪穴式住居だけが人が住む住居じゃないからな
0615日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 03:07:04.72
>>611
奈良の人民は7、8世紀に、母をパパと発音していたとして、それは知らんがな。
奈良のヤマトは、3世紀にはヤマドと発音してたのかい?
どちらも、立証できんよ。
山門は現在、ヤマト、ヤマド、ヤマカドの発音があり、3世紀前半にもそのいずれかの発音をしていた可能性がある。
そして、古代中国の(邪馬臺)の発音がヤマドイなら、ヤマトよりもヤマドのほうが近い。
当たり前のことだよね。
0616日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 03:09:34.28
現在の発音は時代に隔たりがありすぎる
0617日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 03:10:50.87
>>614
竪穴式以外の建物に人が住んだ、という証拠を持っているのかね。
0618日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 03:13:04.88
>>616
この(山門)は日本書紀に出ており、日本書紀は8世紀初頭に書かれたものだし。
0619日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 03:14:29.29
纒向は倭種の別国の葬儀場兼市場
0620日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 03:14:50.99
ヤマト、ヤマド、ヤマカドの発音は現在なんだろ
0621日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 03:15:30.50
纒向は倭種の別国の葬儀場兼市場
0622日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 03:15:41.02
纒向は倭種の別国の葬儀場兼市場
0623日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 03:16:39.40
>>615
>奈良のヤマトは、3世紀にはヤマドと発音してたのかい?

してたんじゃないの?
3世紀の中国人が濁音と聞き取って
「臺」の字を当て
同じ場所を7世紀の中国人が清音で聞き取って
「堆」の字を当てたんなら
発音が変わったんだろう

まあ別に畿内説は地名の類似を第一の根拠にしてるわけじゃないから
どうでもいいけど
0624日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 03:16:49.79
竪穴住居自体は平安時代ごろまで造られ、
さらに時代が下がった例で東北地方では室町時代まで造られていた
特に近畿地方では平安時代にはほとんどが平地住居へ移行したとされる
0625日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 03:19:38.44
山門の竪穴住居がたくさんの候補となる遺跡は?
0627日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 03:58:10.93
纒向は湿地帯だから、国の要人が住むにはなら高床は必要
その時だけの土木作業員なら簡易な掘立小屋で充分だが

いずれにせよ纏向は都では無い
古墳造成基地 掘立柱建物は儀式が行なわれた斎場
0628日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 04:19:43.42
祭祀でも何でも同じ、
私が代表であると勝手に名乗り始めたのがいるんだろう

実際に記紀(神話)の冒頭、
始まり〜『松傾』〜の話なんだから
0629日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 04:23:45.13
有名な言葉とか、なかった?
誰々のいないうちに〜、泥棒〜、みたいな諺
0630日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 04:26:10.11
『松傾』?
東北のほうに住んでいたと言っているし、
家の老婆もそうだと言っている
0631日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 04:38:02.76
>>627
>いずれにせよ纏向は都では無い

畿内説に抵抗するトンデモたちは
このように易々と断定し
このように頑として理由を言わない
0632日本@名無史さん
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2019/01/20(日) 04:57:59.10
>>625
筑後山門には、たくさんの遺跡、出土物がある。
ここには挙げきれない。
0633日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 05:01:08.28
>>623
で、その奈良のヤマドの意味は?
九州の山門は漢字のその構成から、意味がちゃんと分かるんだけど。
奈良のヤマドの意味は?
知らないの?
0634日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 05:37:06.89
>>620
奈良時代までは、たどれる。
筑後山門は、日本書紀では山門縣と書かれ、平安時代初期の倭名抄ではこの筑後山門をヤマトと読んでいる。
なので、奈良時代の日本書紀でもおそらくヤマトノアガタと読んだことが考えられる。
奈良時代の万葉仮名でも、門の字はト(甲類)と発音しているから、日本書紀の山門縣はヤマトノアガタで間違いないだろう。
しかし、その門をトと発音するのは奈良弁による発音であり、奈良でヤマトと発音したものが、九州現地でもヤマトと発音したかどうか分からない。
現在でも標準語の発音は東京では発音され、NHKなどでもその発音がながされているが、地方では標準語の発音がなされていないのが普通だ。
だから、中央発音であった奈良弁が、九州でもおなじように発音されていたということはなかっただろう。
なので、倭名抄に筑後の山門をヤマトと発音していても、九州でもヤマトと発音されたという保証はない。
現在、九州には山門野と書いてヤマドノと読む地名があり、このヤマドが3世紀の中国の邪馬臺のヤマドイの発音とごく近いことから、3世紀の筑後の山門はヤマドと発音されただろうというのがワイの説だ。
また、苗字でも山門さんはヤマドと発音するケースがみられる。
3世紀の倭人伝に伊都(イト)と書かれる国名があり、その比定地に糸島という地名があることを考えれば、現在の発音が3世紀までたどれるケースは少なくない。
だから、地名が現在の発音だからといって、それが3世紀ころから続いているものではないとは言いきれないのだ。

ところで、奈良のヤマト、あるいはヤマドの意味は分かったかね。
0635日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 05:44:33.29
お前たちの話を読んでいると大爆笑なんだよ、
それに、なぜ知っている人がいるんだと思う


歌舞伎や芝居が何やら〜、
銀?????という親戚がいたとか〜、とか

ほとんど漫画やアニメ、ゲーム・・・その他・・・・
の元型でしょ?
0636日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 05:48:07.00
>>632
>筑後山門には、たくさんの遺跡、出土物がある。
>ここには挙げきれない。

と言って一つも挙げないのが
九州説
0637日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 05:48:30.34
名前などは変えているんだろうけど、
『記紀神話』〜『松傾』このような名前の家w

老婆が言うには、
たしか銀〜なんていう名前だったかな、
違ったかなとか、刀が〜w
0638日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 05:50:09.98
>>623
7世紀の万葉仮名では、奈良はヤマトだよ。
これは、おそらく5世紀頃に奈良をヤマトと呼ぶようになったのだと思う。
それ以来ヤマトで一貫しているのだろう。
そのヤマトの発音を聞いた中国人が堆(タイ)の字を当てたのであって、ヤマドをヤマトと聞き取って堆字を当てたのではないだろう。

いずれにしても、奈良ではヤマト発音が一貫していたと思う。
ヤマトには、ヤマトやヤマドという大字、小字の地名はないから、よそから持ってきた国名だろう。
0639日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 05:52:36.64
>>636
ワイは、面倒だからな。
他人に頼らずに、自分でググって探してみろよ。
0641日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 06:05:20.35
>>623
学者たちは、邪馬臺=ヤマト発音だと言って譲らないけどね。
奈良のヤマトは、元々はヤマドだった可能性もあるという意見は、初めて聞いた。
いいぞ、邪馬臺=ヤマド説が広がっているなあ、感激だ。
0642日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 06:13:24.11
やまとは漢字にすると山の戸
当時は信仰対象だった山の入り口という意味だろう
戸はドと読む場合があるから3世紀大和はやまどだったかもね
0643日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 06:19:00.29
>>640
ググり方が悪いと思う
私には関係無いが・・・甘木・朝倉だと思ってるから

ところで高床式にこだわる必要があるかどうかは別にして
纏向遺跡から竪穴住居群ぐらい見つかっても良いと思う
0645日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 06:25:45.48
>>609
ヤマト漢字表記で「夜麻苔」「夜麻騰」「耶麻騰」
のトが濁音だね
どうやら音韻から見た邪馬臺は
奈良のヤマトで良さそうだ
0648日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 06:58:47.86
417の>>493
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説の人は、
わからなんじゃなくて、
最初から人を騙す気なんじゃないの?。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:02:26.31
417の>>495
>どちらに上陸したとしてもそこから陸行で京丹後市役所のある峰山付近を通って丹後半島を横断
横断したところが籠神社のある与謝野町、そこから野田川沿いに遡っていくと蛭子山古墳がある
福知山付近を通って、山陰本線に近いルートで亀岡まで来ると、丹波国一ノ宮の出雲大神宮がある
亀岡から桂川沿いに京都盆地に入り、巨椋池を経て木津川を遡り平城山を越えて奈良盆地に入って纏向ってルートでいいだろう><

「南→東」の嘘吐き騙しをしているから、始めから×。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:07:27.09
417の>>497
>>総行程は「郡〜女王之所都」だ、と何度も書いておいたし、
「南至邪馬壹國」は不彌國のすぐ南だ、という表現であり、
「郡の南だ」という意味でもない。<

>なら水行10日陸行1月は不弥国からの日程で 郡からのじゃないのが当然だろう <

不彌國で「折れ線的道のり里数記載合計がほぼ萬二千余里に達している」から、
「不彌國からの日程」ではない事が当然。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:10:48.82
417の>>498
>それが言いたかったら、 論旨を明確にして
具体的な根拠を提示した上で 論じてくれ
それができないのなら、蛤のあくびと同じww <

それが言いたかったら、
「南≠東」などの指摘に対して、論旨を明確にして 具体的な根拠を提示した上で。
反論を論じてくれ。
それができないのなら、蛤のあくびと同じだ。
0653日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:19:16.56
417の>>502
大和説者は、テンプレはもちろん、九州説のレスを読んでも
頭の中では、「南≠東」などのことは」など、
反論できずに、すべて素通りしていると思う 。

九州説は、大和説のスパゲティ読みよりまともでしょ。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:20:12.35
>>595
>勝手な主観
>根拠にはならない

そんなことはない 勝手な主観という言葉で>>595が逃げているだけ
魏志倭人伝の記述で、倭国全体の文物風習ではなく邪馬台国固有の記述が以下の通り

・邪馬台国の発音に近い地名
 ⇒ ヤマト国そのもの
・戸数7万戸
 ⇒ 大和+河内〜環大阪湾の畿内第V様式土器が共通で出る範囲
   戸数7万は実数ではないだろうが、福岡平野2万戸(奴国)、
   四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる
・30近くの国々の盟主
 ⇒ 纏向遺跡で出土する、広範囲で多様な各地の土器の集積 
   広い範囲からの人が集まっている証拠  
 ⇒ 前方後円墳の定型化が、纏向遺跡で進められている
   それを古墳時代に列島の広い範囲で共通に受け入れていることから、   
   この墓制の共通化を主導した盟主と認められる
・宮室、楼観、城柵
 ⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群
   それまでの弥生時代の建築にはない複数建物の計画的な配置が確認できる
 ⇒ 唐子鍵遺跡から、楼閣を記した線刻土器が多数出土している
・卑弥呼の墓径百歩
 ⇒ 纏向古墳群は、最初期の纏向型前方後円墳の纏向石塚古墳で墳丘長96メートル
   それ以後、ずっと列島最大の墳丘墓が作られ続け、いずれでも径百歩の墓として見劣りしない
   どれが卑弥呼の墓かは編年次第で変動するため特定できないが、
   いずれにしても纏向古墳群に卑弥呼の墓がある蓋然性が極めて高い
・徇葬百人
 ⇒ 日本列島で大規模殉葬の確認例はない
   家族墓である方形周溝墓への追葬を殉葬と誤認した=倭国には殉葬の風習があると誤解した可能性がある
畿内大和説では、殉葬以外はきちんと説明できる
0655日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:27:39.69
417の>>504
>会稽東冶問題が南の答えだよ <

「会稽東治」が陳寿の答えだよ。

>会稽の東部を臨海郡にしたと三国志は言っているけれど<

言わない。陳寿は、「臨海郡」なんて言ってもいない。

>臨海郡は会稽郡の南にある<

それが書かれた、という地図の時代も不明。

>東越も東閩も東冶もみんな南にある <

当然、なんらかの基準から「東」という文言が出てきた。

>南と東は相兼ねるんだ <

大和説者らのような嘘吐き騙しの詐欺師ら以外の、
普通のまともな人間は、「相兼ね」ないんだよ。
0656日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:28:11.81
>>591
>で?
>その建物とやらは何棟あって、何人が働けるんだ?

で?
労働者は纒向遺跡の外から通えばいいんだろ?

纒向遺跡の領域の6%が発掘済みで、それで100人単位で働けそうな大型建物が出てる
100%になることは未来永劫ないだろうけれど、100%までの17倍で単純計算すると
1700人くらいは働けるよな?
0657日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:30:45.24
>>505
「南→東」などの嘘吐き騙しをしている戦争狂の大和説者ののssnの、
脳自体が、虚構なのである。
0658日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:32:15.12
>>507
「南→東」みたいな嘘吐き騙しの投稿見ると
大和説はもう思考能力がないとしか思えない
0659日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:33:59.29
>>599
>九州には紀元前から高床式があるから、外国の公使はもちろんこちら。

だから高床式建物くらいは縄文時代からどこにでもあるしいくらでもあると言うにww

九州説の人も>>514でこう言ってるよ
「違う違う
 畿内説が卑弥呼の王宮だと言い張る纒向遺跡は決して特別なものではなく、倭王の王城だとする根拠
 不足していると言いたいんだよ。」

高床式建物があっても決して特別なものではなく、それがあるからと言って
外国からの貴賓が泊まったなんて場所だとかの根拠には、まったくならない
0660日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:36:30.39
417の>>515
>3世紀の卑弥呼やトヨ、そして2世紀前半の其国の男王までの王権は葛城にあったのである。<

「南≠東」などによって、葛城説も×。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:37:40.22
東にある邪馬台国を
陳寿が南と書いたからそうなってるんだよ
0662日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:38:35.71
>>517
あんたら「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者は、あたま変だろ
0663日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:42:27.99
>>654
殉葬は人物ハニワが作られる前行われていたと日本書紀にある
ハニワが作られる前の古墳には特殊器台があるから
それに奴婢の血を捧げたり何がしかの儀式をしてたんだろう
0664日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:46:44.69
>>602
>君は、(ド)と聞いて、(ト)だと人に伝えるかね。

上古の大和言葉では現在のハ行は子音のpの音で発音されていたのが分かっている
p→f→hと発音が変遷しているわけだ

また、濁点が発明されるまで、かな表記に清音と濁音の区別はなかった

ヤマトの音が上古にはヤマドゥではなかったと言う証拠なんてないんだよ
0665日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:48:22.03
417の>>522
>>だから、会稽東治は、会稽の東の海岸地域であり、
上海付近〜江蘇省の「揚州海岸部」、である、であるという事になる。<

>うそつき 会稽の東の海岸地域が上海付近〜江蘇省でないことくらい
誰でも知ってる <

うそつき。
陳寿が書いた「会稽東治」の「東治」は、会稽郡の南の臨海郡ではなく、
会稽郡の東方の一番東シナ海に出っ張っている上海付近を指している事は、
子供にも判る。
0666日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:50:41.97
>>615
>山門は現在、ヤマト、ヤマド、ヤマカドの発音があり

それ現代の方言ww
そんなのよりは、上代オ段の甲類、乙類の区別の方が根拠としては妥当性が上だろ
0667日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 07:56:58.29
>>632
>筑後山門には、たくさんの遺跡、出土物がある。
>ここには挙げきれない。

こいつ、本当に卑怯者だなww
そのたくさんの遺物のうち、「邪馬台国七万戸の都であることを示すに足る代表的な遺跡」を
一つでも二つでもあげればいいだけ

山門郡の領域は弥生末にはまだ半分くらい海の底だぞ
下川正一先生の研究をググって見な

山門郡には普通の弥生遺跡がぱらぱらとあるだけ
しかも平野面積が弥生時代にはずっと少ない
0668日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:03:27.43
>>665
>陳寿が書いた「会稽東治」の「東治」は、会稽郡の南の臨海郡ではなく、
>会稽郡の東方の一番東シナ海に出っ張っている上海付近を指している事は、
>子供にも判る。

朝起きてウソをつくザラコク
夜までウソをつくザラコク

上海などのある江蘇省は杭州湾を隔てて会稽郡の北隣
会稽郡の東にあるのは海だけ
http://www.iobtg.com/C.Shaoxing.files/map2.jpg
地図をみよ

九州説には捏造しかないんだね
0669日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:03:32.23
>>633
>で、その奈良のヤマドの意味は?

「倭」を「やまと」とは読むようになったのは? より引用
http://www.rui.jp/message/31/12/80_e33f.html
「651年につくられたとされる、元興寺の塔の露盤銘にあった「山東」である。
 現在この露盤銘は存在していないが、「元興寺伽藍縁起并流記資財帳」に記録されている。

 ○・・・令作奉者 「山東漢」大費直名麻高垢鬼 名意等加斯費直也 書人百加博士 陽古博士
 丙辰年十一月既 爾時使作金人等 意奴彌首名辰星也 阿沙都麻首名未沙乃也 鞍部首名加羅爾也
 「山西」首名都鬼也・・・


 である。この「山東漢」は『日本書紀』の「東漢」「倭漢」(やまとのあや)にあたる。
  森博達氏は、『日本書紀』をα群とβ群に分け、α群は中国人が書き、β群は日本人が書いたものだと
 いう。「東漢」は雄略紀・欽明紀・敏達紀(6世紀末)のα群にあり、「倭漢」は皇極紀(7世紀
 中頃)以降のα群と、応神紀・推古紀・天武紀のβ群にある。このことから、日本人の主張が
 はいるβ群はすべて「倭漢」で統一され、中国人が書いたα群は、敏達紀(6世紀末)までは
 「東漢」で、皇極紀(7世紀中頃)からは「倭漢」であることがわかる。これは、「やまとの
 あや」は、6世紀末から7世紀中頃までの間に「東漢」から「倭漢」に変化したことを意味し、
 また「東漢」は「山東漢」の「山」が省略されたものであるから、「やまとのあや」は「山東漢」
 →「東漢」→「倭漢」と変化していったものであることがわかる。つまり「やまと」と読む最初の
 漢字は「山東」だったことになる。


  この「山東」という字はなぜ生まれたのだろうか。元興寺の塔の露盤銘には「山東」のほかに
 「山西」というのがある。これは「かふち(かわち)」と読む。山の東西が「やまと」と
 「かわち」なのである。」

まあこれでは河内の方が当て字だけれど
0670日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:06:33.61
>>654
殉葬も、棺に入れて葬れば何かしら出て来るかも知れないが、
日本書記の垂仁紀の記述にあるように、殉葬された者たちの呻き声が
何晩も聞こえたり(たぶん体を縛って半分土に埋めていると思われる)、
その後(生きながらか死んだ後かに)犬に食われたりするような殉葬の仕方だと、
現代まで残らない可能性がある。

卑弥呼だけでなく、垂仁までの墓のどこからも殉葬跡が出ないのは、
そのためだと思う。
0671日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:15:21.86
有明湾に面した筑後山門だと、『陸行1月』の説明がつかないでしょ。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:19:32.64
>>647が示してくれたURLにあった図
http://www.geocities.jp/bicdenki/MAP2.jpg

こんなに海だらけでは、七万戸の国の都は無理だろ?

九州説の中では、山門説は山門郡が置かれていたから、ある程度実体のあるマシな説だが
山門郡は筑紫、筑後の中でも重要な地域とされたことがないし、
古代に栄えたことを示す遺跡もない

行程論からも、水行、陸行記述を説明できないため否定される
九州説の中でも山門説が主流にならないことを見ても、
山門説に妥当性および説得力がないのが見て取れる
0673日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:20:20.73
>>607
>中国から来た貴賓は、立派な縦穴式に泊まっていただいた。

ほう
畿内ではそうだったのか
0674日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:20:32.38
古墳への殉葬も7世紀ぐらいまでぽつぽつあったらしく
たびたび禁止令が出ている
0675日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:21:31.39
>>611
>奈良のヤマトが三世紀にはヤマドと発音してなかったなんて立証できないだろ?

3世紀に奈良をヤマトと呼称していたという根拠がない。
0676日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:22:59.17
>>614
>竪穴式住居だけが人が住む住居じゃないからな

畿内説がまた詭弁を振り回しているのか。
ではどんな住居だったんだ?
そしてそれは纒向で何戸発見されているんだ?
0677日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:25:36.32
>>638
>7世紀の万葉仮名では、奈良はヤマトだよ。
>これは、おそらく5世紀頃に奈良をヤマトと呼ぶようになったのだと思う。

勝手に前倒しするなよ。
詐欺と変わらないだろう。
0678日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:27:00.45
>>645
>どうやら音韻から見た邪馬臺は
>奈良のヤマトで良さそうだ

奈良のヤマトだなどという根拠はないよ。
畿内説はいつも根拠がないことを結論だけ言い張る。
0679日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:29:01.44
>>654
>   四隅突出墓の範囲5万戸(投馬国、出雲)との比較で妥当な数字といえる

投馬国は宮崎県都万

>・宮室、楼観、城柵
> ⇒ 纏向遺跡の辻地区居館域の建物群

楼観も柵もない
嘘をつくな
0680日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:32:42.26
>>656
>纒向遺跡の領域の6%が発掘済みで、それで100人単位で働けそうな大型建物が出てる

それは纒向遺跡の範囲をどう捉えるかによる。
宮室から離れていたら意味がない。
大型建物で作業しているのは王宮の姿ではない。
平安京の局とかを考えて貰えばわかる。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:33:04.90
>>675
>3世紀に奈良をヤマトと呼称していたという根拠がない。

あるんだよ
「都於邪靡堆、則魏志所謂邪馬臺者也」
0682日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:33:11.42
>>659
勘違いしてるよ
纒向は都市として文化程度が低いと言っているのだよ
0683日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:33:24.63
>>665
>うそつき。
>陳寿が書いた「会稽東治」の「東治」は、会稽郡の南の臨海郡ではなく、
>会稽郡の東方の一番東シナ海に出っ張っている上海付近を指している事は、
>子供にも判る。

ザラコクって本当に病的(精神医学的な治療が必要)な嘘つきだなww
自分で東治は臨海郡だと言ってたのに、臨海郡の地図を示されて間違いだとバレると
またすぐ次の嘘をつく

三国時代に銭塘江以北は呉郡で会稽郡ではない
三国志が書かれた精神時代も同様
ザラコクも卑弥呼時代の地名の範囲で考えないといけないっていってたしこれが正しい

そして呉郡まで含めてもその地域で一番東なのは「寧波」であり、上海ではない
寧波は銭塘江以南でしっかり会稽郡の中

ザラコクの言う、会稽東治は普通名詞で会稽の中の東の部分だとしても
上海より南だし江蘇省にはどうやってもならないww
0684日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:34:32.88
>>659
>高床式建物があっても決して特別なものではなく、それがあるからと言って
>外国からの貴賓が泊まったなんて場所だとかの根拠には、まったくならない

その通り。
纒向遺跡は、そこにも倭人がいたんだなあというだけで、邪馬台国と関係するという根拠がまるでない。
むしろ魏志倭人伝の邪馬台国の描写との乖離が目立つ。
0685日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:35:21.46
>>666
>そんなのよりは、上代オ段の甲類、乙類の区別の方が根拠としては妥当性が上だろ

それって九州にも当てはめられるの?
0686日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:35:52.15
>>678
>奈良のヤマトだなどという根拠はないよ。

根拠は聞こえないフリか?
ヤマト漢字表記で
「夜麻苔」「夜麻騰」「耶麻騰」
のトが濁音だね
0687日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:39:45.35
>>681

それって九州のことだよ
帯方郡から一万二千里
0688日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:41:08.76
>>685
そうやってあらゆる学問を無視してきたので
九州説は亡んだ
0689日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:42:32.18
>>677
>勝手に前倒しするなよ。
>詐欺と変わらないだろう。

地名は言葉の化石と呼ばれるくらい、長い間変わらないんだよ
人が同じ土地に住み続ける限り、親と子が同じ場所を違う地名で呼ぶことはない
世代が重なりながら暮らしていくのだから、地名というのは変化がごく小さいことが知られている

7世紀の記紀で、「夜麻登」「耶馬騰」「椰磨等」「夜摩苔」「夜莽苔」「揶莽等」「野麼等「野麻登」「野麻等」「耶魔等」「野麻騰」と書かれ、魏志倭人伝で「邪馬臺」と書かれているのだから、
他に想定される地名がなければ、さらにそれ以前から「ヤマト・ヤマドゥ」と呼ばれていたと
考えるのがもっとも妥当
0690日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:42:49.85
>>687
そうやって九州説はどんどんトンデモの隘路に無限後退していく
0691日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:44:03.38
>>682
>纒向は都市として文化程度が低いと言っているのだよ

根拠もなく、な
0692日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:44:18.53
纒向に人が住んでいないとは誰も言っていないよ
日本全国3世紀には人がいたのだから
遺跡としては住居環境が劣悪かほとんど住んで無いかだよ
これで王の都といえるかどうかを問うているんだよ
市場兼斎場とか古墳造成基地と考える可能性は否定できない
0694日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:46:53.43
>>678
>奈良のヤマトだなどという根拠はないよ。
>畿内説はいつも根拠がないことを結論だけ言い張る。

すげえブーメランだなww

筑後山門だという根拠はさらにない
筑後山門のすごい遺跡はいつ教えてくれるんだ?ww

「奈良のヤマトだなどという根拠」については
つ >>654参照
0696日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:50:42.27
>>679
>投馬国は宮崎県都万

それだと女王国以北にならないと何度言えばw

>楼観も柵もない
>嘘をつくな

柵はあるよ?
発掘報告書、見てごらん

まあ、卑弥呼の遣使の時代の楼閣はもっと東の高台の
渋谷向山古墳と珠城山古墳群の間の領域だと想定されてるけどね
0697日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:54:32.68
>>682
>纒向は都市として文化程度が低いと言っているのだよ

それまでにない軸線を合わせた大型建物一つとっても
それまでより高度な建築文化だよな?

奈良盆地は青銅器生産でも北部九州より技術水準が上だぞ?

文化程度が低いって一言でごまかさずに、「具体的な指摘」をプリーズ!w
0698日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:56:25.85
>>689
>地名は言葉の化石と呼ばれるくらい、長い間変わらないんだよ

九州説の主張かと思ったよw

>他に想定される地名がなければ、さらにそれ以前から「ヤマト・ヤマドゥ」と呼ばれていたと

九州だろ
0699日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:57:17.02
>>691

都市の定義と、纒向遺跡がそれを満たすという根拠を畿内説が示していない。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 08:57:37.20
>>685
>それって九州にも当てはめられるの?

記紀が書かれた頃は九州も大和朝廷に従っている
それで畿内に伝わっていた九州の地名が記紀に記されているのだから
甲類、乙類の区別をした上で記述されていると考えていいだろう
0702日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:01:39.70
>>697
>それまでにない軸線を合わせた大型建物一つとっても
>それまでより高度な建築文化だよな?

何をもって高度?
配置だけ?
建築学の人が聞いたら笑われるよ?

>奈良盆地は青銅器生産でも北部九州より技術水準が上だぞ?

これも根拠がわからない。
世界最大の青銅鏡でも見つけたら認めてあげる。
畿内は九州から技術を導入した下請けだろ。
銅鏡文化は九州北部が中心なのは周知の事実。
0703日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:01:45.76
>>687
>それって九州のことだよ

それは無理すぎる
隋書の裴世清は大和に行っているのだから

こうして九州説はトンデモカルトになっていく

>帯方郡から一万二千里

つまり萬二千里は実測値ではなく、古典にある「伝説の地の果てまでの距離」が
そのまま踏襲されていることがここでも確認できる訳だ
0704日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:03:04.31
>>699
>都市の定義と、纒向遺跡がそれを満たすという根拠を畿内説が示していない。

都市の定義を満たさないと
どうして「都市として文化程度が低い」ということになるの?
0705日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:03:09.30
>>702
三角縁神獣鏡が畿内でたくさん見つかってるから
銅鏡文化の中心はむしろ畿内
0706日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:03:53.87
>>700
九州が畿内の影響を受けた後に、畿内で作成された資料だよ。
信頼性は十分ではない。
0707日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:05:13.22
>>703
>隋書の裴世清は大和に行っているのだから

こうして畿内説はトンデモカルトになっていく

>つまり萬二千里は実測値ではなく、古典にある「伝説の地の果てまでの距離」が
>そのまま踏襲されていることがここでも確認できる訳だ

畿内説はもはやカルトだな
0709日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:05:46.16
>>702
>銅鏡文化は九州北部が中心なのは周知の事実。

だという証拠は?
0710日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:06:06.83
>>705
おっ
考古学に常識への挑戦か?
どっかの学会で発表して来てくれ!
0712日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:07:17.78
>>704
定義を満たさないなら、ただ言い張っているだけだろ。
今朝の畿内説は学問的素養がないな。
論理性のかけらもない。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:07:53.98
教科書レベルの知識を頑として受け付けない人々
反論はせず拒否するのみ
それが九州説
0714日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:08:28.65
畿内説って、本当に機内しか見えていないんだな。
近視眼的すぎる。
それでは説得力がない。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:08:48.58
>>699
>都市の定義と、纒向遺跡がそれを満たすという根拠を畿内説が示していない。

それ、九州説が新しい論文も読まずに古い九州説の本とその焼き直しのブログしか
読んでいない時代遅れの情弱ってだけww

この論文も何度も紹介してるだろうが!
「日本における都市の初現-纏向遺跡の調査から」 橋本輝彦 · 2008
>>575を参照
0717日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:09:09.34
銅鏡文化が九州北部にあったことは事実だろ。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:09:40.36
>>712
>定義を満たさないなら、ただ言い張っているだけだろ。

何を?
目的語がないね

つまり君の投稿には論理性のかけらもない
0719日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:10:57.31
>>718
>>712
>>定義を満たさないなら、ただ言い張っているだけだろ。

>何を?
>目的語がないね

>つまり君の投稿には論理性のかけらもない

「を」は目的語を示す助詞だよ。
日本語が不得意なんだね。
0720日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:11:56.55
>>702
>何をもって高度?
>配置だけ?
>建築学の人が聞いたら笑われるよ?

軸線を揃えて複数の建物を計画的に配置するのは弥生時代としては初現

建築「史」を研究してる人に聞いてごらん?
現代建築学の人に弥生建築の何を訊く気だ?ww
0722日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:12:37.43
>>716
査読を受けた「論文」ではないよ。
シンポジウムでの怪しい発言のまとめにすぎない。
0723日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:14:25.57
>>702
>世界最大の青銅鏡でも見つけたら認めてあげる。

世界最大の銅鐸という立体造形を、肉厚数ミリで実現している
現代の技術でも鋳造銅器としては再現不能だそうだ(削り出しなら作れる)
0724日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:14:34.82
卑弥呼の時代は日本史でいう弥生時代?
古墳時代?
0726日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:16:48.96
現在の定説は卑弥呼の時代は弥生時代だっけ
実際はホケノ山古墳が3世紀前半に近い時期の完成だろうから
古墳時代になるんだろうけれど
0727日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:16:49.68
>>719
で、目的語は何なのかね?
0728日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:16:49.72
九州は銅鏡文化圏である
畿内では三角縁神獣鏡がたくさん発見されている

邪馬臺国に関係あるのはどっちなんだろうな
0729日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:18:07.95
九州は失速した銅鏡文化圏である
0732日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:20:37.01
テンプレで実にアッサリと纏向で出土した三世紀前半の魏鏡が紹介されているな
0733日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:22:10.41
帯方東南大海の中、女王卑弥呼に率いられた平和な共立国家・・、
これは戦乱の三国志時代にあって、陳寿が描いた倭の理想郷・ユートピアだ。
戦中〜戦後〜団塊世代は、そういうイメージで、町おこし村おこしを夢見つつ邪馬台国捜しをしてきたのだろうな。

それは、ある意味で当たっていたが、
実は邪馬台国は、帯方郡の強力な支援を受け、
鉄器で完全武装した渡来の侵入者軍団で、倭国大乱の覇者だったのだ。
0735日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:26:38.18
>>720
誰も現代建築学とは限定していないが?
0736日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:28:07.90
>>729

失速とは何を根拠に言い張っているのか不明
0737日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:29:30.01
>>732
そこが本当に三世紀前半なのかは論点にならんの?
0738日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:31:39.44
>>734
陳寿は、ある意味、自らのユートピアとして、大海の中の女王国を描いているのだ
その背景を読み取ってこそ、倭人伝に込めた陳寿の筆の意義が理解できる。
0739日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:33:40.90
>>738
陳寿は皇帝を奉るために
古くからの伝承に合わせる形で魏志倭人伝を書いたんだよ
全然読み取れてないじゃん
0740日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:35:10.72
>>722
>シンポジウムでの怪しい発言のまとめにすぎない。

既に常識だから、シンポジウムで一般向けに紹介されているんだよ
このpdfを紹介しているのは、図表も含めて情報量が多いから

弥生都市論はこの辺を読んでおけばだいたい把握できるだろ
http://actdoi.com/tosironhoi1.html

ただそこに住んでいる人がいる集落とは違って、広域から集まった人が活動し
他地域への物品供給の生産と流通の拠点となっている、というのが大雑把な都市の定義

それまでの弥生集落とは規模・機能の点で別物となっている纒向遺跡を都市と見るというのが
弥生都市論の始まりだが、そこで都市機能を考察すると、出雲や奴国も弥生都市と呼びうると
考えられるようになってきている
0741日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:35:13.83
魏やその周辺では鉄なんて一般的なのにわざわざ鉄の事を書いたのは倭国では鉄が珍しかったからでは無いのかと思ったりする
こいつ等まだ武器に骨とか青銅とか使ってるぜぷゲラの中で鉄器があったので書いてみたのではと
0742日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:35:51.48
>>739
歴史バカの漢文学者や、土器バカの考古学者の限界だな。。。
0743日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:36:16.93
>>737
ならん
0745日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:38:52.04
>>724
>卑弥呼の時代は日本史でいう弥生時代?
>古墳時代?

それは古墳時代の起点を何と考えるかで規定される問題

箸墓以降の定型化した古墳が作られる時代を古墳時代と考える場合は
卑弥呼の時代は弥生終末期

纒向型前方後円墳から古墳と認める立場では、
卑弥呼の共立以降を古墳時代草創期としている
0746日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:41:43.70
>>735
>誰も現代建築学とは限定していないが?

で?っていうww
具体的にはどんな人に訊けばいいんだ?

言い返すのが目的のザラコクの同類でしかないな、この無能はww
0747日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:43:10.07
>>743
じゃあ畿内で決まりやん
0750日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:43:54.92
>>744
陳寿の倭人伝を、皇帝に対する忖度ゴマスリとしか読めないのは、
歴史バカの漢文学者や、土器バカの考古学者の限界だな。。。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:49:27.24
>>751
そういう俗説を安易に信奉する畿内の学者こそ、卑しさの極み、、、
0754日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:53:45.69
なんでそんなに、無理に無理を重ねてまで自分の地元(九州)に邪馬台国を持って来たいのさ?

そのモチベーションが本当に分からんわ。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:54:48.92
>>753
そういう卑説に、安易に同調したがる畿内の学者こそ、卑しさの極み、、、
0757日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:56:46.18
九州人じゃなくて儒教的思考が染み付いた在日関係さ
鮮人にとって歴史は都合よく作り変えるものだから
0758日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 09:59:05.42
>>756
卑説も何も
三国志を見れば皇帝に都合の悪いことは書かれてないのがわかる
それと身内を持ち上げたりとか
0759日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 10:13:10.81
>>757
いわゆる恨の文化ってやつだよな

日本の歴史が半島国より長いのが恨めしいから、
邪馬台国と大和朝廷とは別、大和朝廷は8世紀からと言い続けるし
半島がせいぜい銀印なのに、金印をもらった倭国が恨めしいから、
邪馬台国は北部九州の小国にしたがる

さらに言えば、北部九州は半島の文化のおかげで繁栄していたことにしたがる

九州説の背景はある意味実に分かりやすい
0760日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 10:25:22.99
そういう長い戦乱・混乱の幾世代を経て、
七〜八世紀、奈良地方に仏教を取り入れた平和な国が出来上がっていった。それが大和なのだ。
(古めかしい因縁の倭を捨て)、「和を以て貴しとなす」の国だな
0761日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 10:25:34.75
>>759
九州説はただの悪罵というか
儒教精神から生まれる政治的意味合いの呪詛というか
日本国民の大多数がウソで騙されてるのを見ると
奴らは溜飲が下がる
0762日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 10:26:46.52
>>745
ありがとう
「前方後円型弥生墳丘墓(纒向型前方後円墳)」と「定型化した前方後円墳」の時代の境目くらいにあるのが箸中山古墳で、
そこには女性が葬られてるとの伝説があると

箸中山の築造は諸説あるが三世紀後半から四世紀初頭くらいで卑弥呼の死と時期が被ってるとも言いきれない微妙な感じと

卑弥呼もややこしい時期に死んだな
あと100年早いか遅いかならもっと議論は単純だったろうに
0763日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 10:46:41.31
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0764日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 10:54:09.79
くに、クニの語源だよな
0765日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 11:18:25.36
>>762
>箸中山の築造は諸説あるが三世紀後半から四世紀初頭くらいで

四世紀などと言ってる人はいない
0766日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 11:31:28.71
畿内に邪馬台国が有った→だから纒向遺跡は邪馬台国
纒向遺跡が有る→だから邪馬台国は畿内
畿内説の本質は循環論法
文献無視、方位距離デタラメ、時代詐称なんでも
有りの単なる珍説
0767日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 11:37:08.13
>>585
誰が道の横の家の事をいっている?
そんなの大前提
離れた所にも建物や木がなくて、見晴らしのいい場所じゃないと見えないという意味だ
言葉が足らなかったみたいだから、謝るよ

>>586
そもそも、見えなかったら基準にならないのだが

>>587
膝下、の感覚の違いだね

自分は広い平野を到着地の基準にはできないので、膝下とは思わない
0768日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 11:50:45.47
>>702

黒田龍二(神戸大学工学研究科教授)

建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。神明造の形が倉庫と近いのは、
王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。
建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。
偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深い
纒向遺跡と伊勢神宮に関しては直接的な関係が認められる。
纒向遺跡が見つかるまでは他の遺跡で神宮に似た建物が出ると、
伊勢神宮の起源などと議論されたが、纒向遺跡以降はその可能性はなくなった。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/forum/list/CK2014092002000221.html
0769日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 12:20:05.62
>>767
>そもそも、見えなかったら基準にならないのだが

実際見えるものを見えないとゴネても意味がない
0770日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 12:34:19.26
土器の通りか
杵築と伊勢
山陰と伊勢湾東海勢
邪馬台国、初期のヤマト政権、外部勢力による政権
0771日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 12:36:35.12
>>760
>(古めかしい因縁の倭を捨て)、「和を以て貴しとなす」の国だな

むしろ、大国主の国譲りや卑弥呼の共立という古くからの縁故歴史の結果が
「和を以て貴しとなす」の国の基層にあるように思う
0773日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 12:42:18.12
>>765
>>箸中山の築造は諸説あるが三世紀後半から四世紀初頭くらいで

>四世紀などと言ってる人はいない

標準的には260〜280年くらいとされているけれど、幅20年とかそこまで
ピンポイントに分かるものでもないんだけどね

桃核の14C年代の測定結果を見るともっと古い方が落ち着きがいいのは確か
三日月湖年縞基準の14C較正曲線がリリースされるのを楽しみに待ってるところ
0774日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 12:53:17.08
>>766
>畿内に邪馬台国が有った→だから纒向遺跡は邪馬台国
>纒向遺跡が有る→だから邪馬台国は畿内
>畿内説の本質は循環論法

一生懸命に循環論法って言い返す方法を考えたんだね、えらいぞ! でも無駄だけどなww

纒向遺跡があるから、じゃなくて、纒向遺跡の発掘成果と魏志倭人伝の記述を照らし合わせると
畿内ヤマト以外の候補地が全滅ってだけだよ

細かい根拠は>>654に書いてある
邪馬臺・ヤマトはある意味マイナーな1項目ってだけ

>文献無視、

それは九州説
会稽の東も、水行陸行記述も無視しないと成り立たないし、距離は短里を捏造するし、島巡り仮説も捏造、放射読みと水行の起点は帯方郡というのは無理読みの珍解釈

>方位距離デタラメ、

距離は上で書いた
方角が間違っているのは末盧国・伊都国間で間違っているのが確定
https://i.imgur.com/POHiSA8.jpg

>時代詐称

それは科学技術軽視の呪術師レベルのカルトの言い分

>なんでも有りの単なる珍説

以上、九州説のブーメラン解説でしたww
0775日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 12:57:26.91
>>770
だから、「忌部はん」 が各地にもたらした「東阿波型土器」 だと、何度言えばw  @阿波
0776日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 13:03:41.64
>>767
>離れた所にも建物や木がなくて、見晴らしのいい場所じゃないと見えないという意味だ
>言葉が足らなかったみたいだから、謝るよ

いや、見えるだろ?
昔はビルなんてなかったんだしわざわざ建物の影に入ったら見えないといったところで
建物を回り込むだけで見えるだろ?

>そもそも、見えなかったら基準にならないのだが

いや見えるだろうが
あとでグーグルストリートで三雲遺跡群の辺りから見た可也山画像、貼っておくよ
綺麗に三角形の山が近くに見えてるよ

>膝下、の感覚の違いだね

どうでもいいけど、お膝もとは「膝元」だぞ、通常は
「膝下」は「しっか・ひざした」だ

「川の深さは膝下程度」という使い方が普通

感覚の違いはいかんともしがたいが、遠くに見えてた山がそこにあることは分かるから
東南という誤解は生じない
0777日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 13:07:53.06
>>776
まぁまぁ、  

「膝元」がどうあれ、たびたび大陸・半島と倭国(阿波)は往来し、鉄素材や中国鏡や中国朱などを交易してるんだから、そんなこと、どうでもよろしいがな。  @阿波
0778日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 13:34:52.73
>>774
年代詐欺は、否定できないのがよくわかりました。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 14:23:54.54
>>778
>年代詐欺は、否定できないのがよくわかりました。

「それは科学技術軽視の呪術師レベルのカルトの言い分」
これで否定されているのが理解できないんだww
テンプレより>>12
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)

○弥生時代後期
  1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
  2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃 
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
  3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
  4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
  4世紀第4四半期〜5世紀中頃
   (古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)

※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
 庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
 同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
 庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
 IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
 IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III    ●纒向矢塚、矢藤治山                  
  IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III    ●箸墓、権現山51号、ホケノ山
  IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V  ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、浦間茶臼山、西求女塚
  IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、メスリ山、行灯山、祇園山
0780日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 14:35:19.28
泡も結局はザラコクの同類

「東阿波型土器」 だと、何度言えばw
「忌部はん」
水銀朱は、まず間違いなく大和忌部が持ち込んだ「若杉山産」だと何度言えばw
そんなこと、どうでもよろしいがな。

このコピペを繰り返すだけ
どうせならここらのスレに大量コピペしておいでよ
そうしたら泡の評価も、極微量きっと上がるよ
さあがんばれp(^-^)q
邪馬台国纒向説 part4  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541980709/
邪馬台国畿内説 避難所  http://matsuri.5ch.net/test/read.cgi/entrance/1539752632/
邪馬台国畿内説 part1  http://mevius.5ch.net/test/read.cgi/sf/1541650797/
韓国政府が邪馬台国畿内説を応援する理由  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1544415658/
邪馬台国畿内説 part440  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541819761/
考古学者の邪馬台国畿内説離れは集団心理なのか  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/psycho/1542857513/
邪馬台国畿内説 part4001  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542985752/
邪馬台国畿内説が敗北を宣言したね  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1542631006/
邪馬台国畿内説 箸休め  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1540975350/
邪馬台国纏向説が破綻した理由part3  http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541036706/
邪馬台国畿内説の角度  http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/math/1543928789/
邪馬台国畿内説 part1  http://mao.5ch.net/test/read.cgi/management/1543927675/
邪馬台国畿内説 part1  http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/soc/1543922864/
邪馬台国畿内説が破綻した理由 part1  http://mao.5ch.net/test/read.cgi/lifework/1543919660/
邪馬台国畿内説 part1  http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/loser/1543546433/
0781日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 14:59:17.64
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0782日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 15:04:16.36
客観的に判断すると九州説がやや優勢
畿内説は反論のポイントがしぼりこめず四苦八苦している状態
0783日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 15:04:42.51
連続句読点の嫌がらせにかける昏い情熱は 「恨」の感情なんだろうな!
0784日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 15:07:15.74
>>782
>客観的に判断すると九州説がやや優勢

江戸時代よりどっちもどっち。 間違い説同士、いい勝負。  @阿波
0785日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 15:09:34.94
邪馬台国畿内説を5ちゃんねるで宣伝するために、韓国政府が雇用した係員のキナイコシや3寸男が、真実を暴かれたので、焦っているな。。。
0786日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 15:10:11.73
>>773
桃核c14年代と箸墓が、なんか関係あるん?
0787日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 15:12:34.56
>>782みたいなことを何も具体的根拠をあげずに書けるってことは
九州説がダメだって証拠だな
0788日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 15:15:06.29
>>762
卑弥呼の死の時期と合わんだろ。
0790日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 15:25:41.45
>>745
古墳時代開始年代の諸説にかかわらず、大和は倭種の国。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 15:31:58.55
>>740
人が住んで暮らしていた、というのが大前提だよ。
纏向遺跡に人が住んで暮らしていたという証拠は、現在みつかっていない。
纏向は、都市とは言えない。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 15:44:27.67
竪穴住居都市はどこなの?
0793日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 15:45:42.11
>>788
合わないことも無い
だいたいで
0794日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 15:50:50.76
>>716
橋本は、纏向の土木工事の人員ののうち1.5〜3割が他所から来た者で、それは都市的といえると言っているだけ。
その纏向には人が住んで暮らした痕跡がまったくなく、野っ原の原野に祭祀センターがポツンとあって、また首長の墓がポツポツとあり、あちこちで工事人夫が働いているだけの景観だった。
この地域を“都市”と呼ぶといったら、とても小学生の授業では使ってくれんだろうよ。
0795日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 15:53:55.11
柳田國男は都市の起源は集落間に出来た市場だと言ってたな
0796日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 15:55:46.41
>>793
卑弥呼が死んでから20年、30年のちの築造は、まず無いな。
0797日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:02:05.85
>>762
邪馬台国大和説が、ややこしいのじゃ。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:07:41.39
>>754
元々、邪馬台国は九州。
大和が、横槍を入れているのじゃな。
0799日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:19:56.07
>>794
>その纏向には人が住んで暮らした痕跡がまったくなく

まだ言ってる
それ、誰の説?

w
0800日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:22:17.37
韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだから、韓国人の無駄な抵抗が、面白いな、、、
0801日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:23:58.51
>>731
西長峰遺跡は、中心の建物を取り巻くように中小建物を放射状に計画配置しているもので、纏向の大型建物群が軸線をそろえて並行に配置されているのとは、また別だな。
西長峰遺跡の建物は、弥生中期後半から後期初頭にかけての遺跡。
瀬戸地方は、全般に円形物が好きだな。
0802日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:24:57.97
熊本城は、大きくないが、御城下には人民が多かったな、、、
0803日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:27:20.78
>>726
ホケノ山の後円部の形は、まだ不整円形なので纏向型。
0804日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:33:56.49
西長峰遺跡の分銅形土製品は約43%が岡山県、約16%が鳥取県で出土
0805日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:39:14.96
なぜ、纒向遺蹟には、人民の住所が無いのだろうか。。。
0806日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:39:26.87
>>701
奈良のヤマトの語源すらあやふやなのに。
即死は、大和だよ。
0807日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:40:04.68
>>525
>>だから、会稽東治は、会稽の東の海岸地域であり、
上海付近〜江蘇省の「揚州海岸部」、である、であるという事になる。<

>いいえ 揚州市は江蘇省だけれど、臨海郡は江蘇省にかすりもしない <

陳寿は、臨海郡という名前を出していないし、それが会稽郡の南にあるんなら、
「会稽東治」の場所とは関係がない。

>地図を見ろってw
臨海郡は、分郡前の会稽郡のうち南側の大陸東岸の地域
この地図を見れば臨海郡と会稽郡の位置関係が分かるな?<

その地図が何時のものか?が、まず必要。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:45:18.96
>>779
単なる相対年代で、何の決めてもないことが良く分かりました。
0809日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:46:03.55
417の>>527
もう類スレ主君も、無視していいよね?
まともな人間じゃないし、
「東治」を外して「会稽の東」の四文字で全てを説明しようとする、
頭のおかしい人なのは周知されたし・・・。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:48:00.38
417の>>430
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説って、
どこまで狂ってくの?
0811日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:48:25.91
>>689
夜麻登などの万葉仮名は、みな(ト)。
(ド)音を用いたヤマトは、ない。
なので、ヤマトの音写が邪馬臺(ヤマドイ)にはならん。
唯一可能性があるのは、九州筑後の山門。
この山門はヤマドとも発音する。
邪馬臺(ヤマドイ)に最も近い。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:49:27.42
>>807
>陳寿は、臨海郡という名前を出していないし、それが会稽郡の南にあるんなら、
>「会稽東治」の場所とは関係がない。

そりゃあ、理由もなく会稽東治は臨海郡にあったとワメき回ってたのは
zarakoku一人だけだからね

>その地図が何時のものか?が、まず必要

257年だ
必要だと思ったなら自分で調べろ
簡単いわかることだ
0813日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:49:52.27
4世紀の秋津遺跡
伊勢神宮と作りが似た建物群

これ何の遺跡やろな
高い塀で囲まれている割には、立地的に防衛に向かない場所だし
姫に纏わる神社も近くにあった

大切なものを守ると同時に、大切なものが逃げないようにしていた風に感じるわ

アキツって言葉はどういう意味なんやろ
関東では低地のことをアクツというらしい
0814日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:55:29.13
>>417>>537>見えた所は、簡易三角測量で測距できる。

>三角測量をするためには、「正確に長さが計測された基線」が必要だと何度教えればww
もうね、バカに何を教えても無駄ってやつだねw〉<

有効数字1桁概数程度の精度で良いんだし、
基線の測距は数百m位であってもあって概算は出来るし、
もうね、バカに何を教えても無駄ってやつだろうね。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 16:56:05.96
>>811
>夜麻登などの万葉仮名は、みな(ト)。
>(ド)音を用いたヤマトは、ない。

真っ赤なウソ
「耶馬騰」「椰磨等」「夜摩苔」「夜莽苔」「揶莽等」「野麼等」「野麻登」「野麻等」「耶魔等」「野麻騰」のうち
「耶馬騰」「夜摩苔」「夜莽苔」「野麻騰」が「邪馬臺」と同じ(ド)音
ちなみに「苔」の旧字は「薹」
0816日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 17:03:49.17
417の>>538
>>倭人の計測ではない、という意味がある。<

>そこから「中国人が計測した」って結論出しちゃうサギを
排中律悪用ファラシーといいます<

里数を計測する可能性があるのは、魏
使ら中国人でなければ倭人だ、という、
二者択一、という事になるから。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 17:06:04.02
>>815
(ド)と読めるのは(騰)だけ。
(騰)は(ト)音もある。
その他のヤマトの万葉仮名は、みな(ト)。
だから、(騰)も(ト)と読んだはず。
この(騰)を用いた耶馬騰だけが(ヤマド)と読まれたということは、有り得ない。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 17:08:56.73
>>815
万葉仮名の一覧表がウェブサイトに複数みられるが、個人が自分で選別した一覧表もある。
学者の間で認められた一覧表かどうか、確かめてみたほうがよい。
0819日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 17:10:23.47
【白栲】(しろたへ)の雲

秋津と何か関係あるのかな
0820日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 17:12:37.48
417の>>539
>女王國以北だけど女王國の南側にありますって サギだよね<

投馬國は、女王共立國であるから、女王國の中に入る事は確定。
また「女王國以北」の「以」は、「以って」だから、
「女王國を含む」事が普通。
勿論、投馬國は、不彌國から水行して行ける国だし共立国であるから、
「女王國以北」の不彌國から行ける国。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 17:21:33.80
>>801
>西長峰遺跡は、中心の建物を取り巻くように中小建物を放射状に計画配置しているもので、纏向の大型建物群が軸線をそろえて並行に配置されているのとは、また別だな。

倭国(阿波)は、遺跡発掘後進県であるにも関わらず、畿内説や九州説がよだれを流すような遺跡がばんばん有るんだよね。 これから先、どうなるんだろう?  @阿波
0823日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 17:32:02.26
「門」は万葉仮名では甲類の「と(to)」だけ
乙類の「ど(do)」 は、杼、雖、騰、跡、等、登、常、十、迹、藤、止、特、耐、廼、苔だから、
「耶馬騰」「椰磨等」「夜摩苔」「夜莽苔」「揶莽等」「野麼等」「野麻登」「野麻等」「耶魔等」「野麻騰」
は全部「ど」と読める

http://www1.kcn.ne.jp/~uehiro08/contents/kana/1ran.htm
0824日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 17:44:34.87
417の>>543
>>渡海前は「女王國」だ。<

>女王国も倭種なんだよ♪ 頭悪いなw<

魏使らも陳寿も、女王國の事を倭種だとは呼ばず、区別した書き方をしているんだよ。
この大和説男も、やはりずるい詐欺師のようだな。
0825日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 17:48:33.27
417の>>546
南を東に変更しない九州説が一番説得力あるに決まってるだろ!。
正しく読まなきゃ行けない。
大和説も阿波説なんても論外。
普通に考えたら、大和とか有り得ないから。
0826日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 17:50:42.37
>>794
>橋本は、纏向の土木工事の人員ののうち1.5〜3割が他所から来た者で、それは都市的といえると言っているだけ。

博多奴国は国際的大都市だな。
0827日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 17:51:18.80
>>806
前方後円墳と三角縁神獣鏡と纒向遺蹟があるから畿内の大和はノーダメージ
0828日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 17:52:18.68
>>771
>むしろ、大国主の国譲りや卑弥呼の共立という古くからの縁故歴史の結果が

はあ?
降伏しなければ血の雨を振らせるぞと脅して国を奪ったんだろ?
0829日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 17:53:49.82
417の>>549そうだよな
>邪馬台国は畿内で<

邪馬台国も畿内なんても、存在もしない嘘つき騙しの文言だから、×。

>確定してるから当然魏志倭人伝の南は東として十分な根拠がある<

嘘つき騙しである事が確定しているから、「南→東」などは×。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 17:55:11.17
>>740

シンポジウムのまとめを論文と言い張るキナイコシ
0831日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 17:57:25.21
>>754
なんとかして畿内に邪馬台国を持っていきたいというモチベーションはどこから来るんだ?
大和以外に列島の代表はいないはずという皇国史観か?
0832日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 17:58:19.28
>>760
仏教伝来は6世紀だろ?
出直せバカ
0833日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 18:00:50.49
>>762
>卑弥呼もややこしい時期に死んだな

卑弥呼の死亡により九州が求心力を失って畿内などが勢力を伸ばしたのではないかな?
卑弥呼即位が2世紀末なら、奈良はまだ王都には程遠いだろ。
0834日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 18:01:47.54
417の>>561
>箸墓は、纏向連合に加盟している各国が人を送って、大人数で築造したのだろうね。
これは、纏向石塚古墳なども同じで、各地から人が派遣されて、築造されたものだろう。<

「纏向連合」なんて存在していなかったし、
大和は九州倭国から別れた別種の旧小国で、地方の市を監督する大倭職の国であったんだから、
×。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 18:02:49.36
>>770
筑紫と出雲と尾張かな?
いずれも沿岸地域だろ?
内陸の大和が発展するのは邪馬台国より後の時代だよ。
0836日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 18:04:21.84
>>783
キナイコシはなんで半島を持ち出すんだ?
コンプレックスでもあるのか?
江戸っ子だから痛くもかゆくもないけどな。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 18:13:28.02
>>774
654は全部誰かの妄想でこれが根拠とか
畿内説は珍説と言われる所以
五百枚も出てきた単なるレプリカ鏡
畿内の何処にも千里渡る海は無し
致命は馬具、時代詐称の証
0838日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 18:13:45.85
>>822
根拠がないって証拠は?
0839日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 18:14:40.64
>>799
橋本輝彦が、竪穴式住居は纏向遺跡にはない、と言っている。
普通に人が住んだ建物はない。
橋本は、大型建物を住居跡と言っているが、その証拠を示したことはない。
単なる推測だろう。
このような掘っ立て柱建物は、祭祀場か倉庫が普通だ。
建物Dは、祭祀施設だ。
いいかげんに、証拠も提示できない説なんかに乗るなよ。
0840日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 18:16:40.11
>>795
起源な。
起源=都市ではないし。
0841日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 18:24:01.64
>>838
こいつバカ?
0842日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 18:27:35.42
417の>>577
>淮南子の裸国と黒歯国
後漢書の1万2千里と会稽東冶乃東が一緒だから
魏志倭人伝の1万2千余里は後世史家のつけ足したもの<

淮南子も後漢書の范曄も、倭地へ来た形跡がないから、
いずれも、中国内に存在した情報を借用している事になり、
だから、複数以上の魏使らが実地に見聞計測した記録である魏志や魏略の方が、
信頼性ははるかに高い。
0843日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 18:40:16.59
417の>>579
魏略や魏志倭人伝って<、
実は范曄の編集する前の後漢書 前後漢書の文章を相当引き写しで書いてるのかも知れない
倭は韓の東南、大海の中にあるとか百余国あるとか
交流のあったのは三十国ほどであるとかの前文から <

漢代の郡の役人らの使節は、伊都国までしか明確な渡来形跡はなく、
また、魏志倭人伝の記載は、あくまで魏代の倭人に関する記録であり、
その時には、魏使らの複数回の渡来があったんだから、
魏志倭人伝の記載情報の殆どは、難升米たらの口述記録と、
240年の魏使らの実地の見聞計測記録が元になった、同時代記録であったんだろう、
と言えるもの。
0844日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 18:42:05.00
>>839
>いいかげんに、証拠も提示できない説なんかに乗るなよ。

でも今あんた、証拠も提示できない説を言ってるぞ
0845日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 18:43:17.56
>>841
なんの証拠も出さずに、また罵って誤魔化すのか?
0846日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 18:48:56.29
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0847日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 18:49:24.99
>>843
その割には魏志倭人伝には侏儒国や裸国や黒歯国だのが出て来るんだが
これは魏志倭人伝が淮南子や後漢書を下敷きに書かれている事を示し
正確性よりも政治性や祭事性の強い書である事を示すもの
0848日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 18:51:55.03
>>842
淮南子は魏の時代より前の漢の時代の成立だぞ
そこに出てくる国境より南1万2千里という距離は
概念的な世界の果てを指す数値
もちろん邪馬台国までの距離じゃあない
0851日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:04:03.81
邪馬台国畿内説は破綻し、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートは、決してキチンとした論理的な文章でないことがばれ、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されたので、
このスレッドでの討論を、韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人のキナイコシと韓国政府に雇用された破綻した畿内説の宣伝係員の韓国人の3寸男では、どちらの方が頭が悪いかの話題に、変換すれば良いな、、、
0852日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:07:42.10
>>837
三角縁神獣鏡はレプリカじゃなくて
魏鏡だったと科学的に分析された

魏里で千里、約430km航海して別の地に着くような海は
九州にもなし

馬具は古墳の外側から見つかった後世のもの
0854日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:13:24.77
>>848
>もちろん邪馬台国までの距離じゃあない

後漢書も魏志倭人伝も無視して、畿内説は想像の中の幻の国を探しているのか?
0855日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:17:41.34
>>854
九州説は淮南子を無視するの?
大好きな国境より1万2千里が出てくるぞ
空想的数値として
0856日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:17:59.39
>>852
>魏鏡だったと科学的に分析された

根拠は?
0857日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:18:22.25
韓国政府が宣伝していた邪馬台国畿内説を、完全に、破綻させてしまった谷本計算とは、どのような計算なのだろうか、、、
0858日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:18:45.30
淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。
帯方郡から倭の国境である狗邪韓国までは七千里である。
一万二千里は明確に王都の位置を示しており、この縮尺では邪馬台国は九州北部に収まる。

淮南子に概念的数字でこの世の果ては国境より1万2千里とある
後漢書に倭奴国は倭の極南界で会稽東治の東とある
そして魏志倭人伝に女王国は会稽東治の東とある
女王国とは倭奴国のことである

一万二千里という数字だけが伝わった結果、中国人からは倭が実際よりも南方の会稽の東にあるととらえられてしまった。
会稽の東という表現は、東夷において短里が使われていた証拠でもある(倭人条を含む魏志東夷伝すべてが短里で統一されている)。
0859日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:22:10.71
>>856
スプリング8という分析器で調べた所
三角縁神獣鏡は魏・晋時代の中国銅鏡と同じ銅素材と分析結果が出た
0860日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:25:30.72
>>858
女王国は邪馬台国
1万2千里は淮南子に出てくる概念的なこの世の果てまでの数値
当然元は邪馬台国までの距離を示すものではないから
九州北部を指すというならそこは邪馬台国じゃないという事になる
0861日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:27:19.98
417の>>583
>1尺=8寸=約20センチの周時代の物差しが見つかってる<

Wikiでは、
「尺という単位は古代中国の殷の時代には既にあったとされている。
古代の1尺の長さは正確にはわからないが、出土文物からの推測では、
戦国から秦にかけての1尺は23cm前後であった。
漢代でもあまり変わらず、23-24cm程度であった。
文献によると周の尺はその8割ほどの長さ(約20cm)であった」
とされ、
「『説文解字』夫部「夫、丈夫也。从大、一以象簪也。周制以八寸為尺、十尺為丈。人長八尺、故曰丈夫。」
ともされる。
要するに、これでは、周制では八寸為尺であったらしいが、戦国〜秦では1尺約23cm位であったのであり、
それは、「寸」の長さが地域によって違っていた、という可能性もある事にもなる事になる。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:30:35.17
短里は無いって
井田法限田法戸調制といった周から晋までの土地政策と合わないじゃん
0863日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:32:16.17
>>861
何が言いたいのかわからんな
とにかく周の時代は1寸2.3cmとして1尺8寸の約20cm
1尺10寸で一寸千里を計算して1里76〜77mになったという谷本計算は間違い
0864日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:34:56.72
417の>>588
>「魏璽」はどこも未発見。
阿波国以外の畿内や九州で「国璽」云々の物証を挙げてごらん<

印鑑を神宝としていたと思われる印鑰神社は、
殆どは北部九州や筑紫にあった筈だよ。
0865日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:38:41.14
417の>>597
万世一系皇国史観の儒教精神で嘘をつき続けてるのは大和説者、
という事は誰の目にも明らか。
0866日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:39:13.29
>>844
ワイの説て、どれ指してるの?
はっきり言ってね。
ごまかさずに。
0868日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:43:35.46
417の>>599
>邪馬台国を指すという
帯方より南1万2千里は元は淮南子に出てくる 架空の世界の果てまでの数字
政治的祭事的理由で 後漢の時代に朝貢のあった倭の極南界で
会稽東冶乃東にあるという想定の倭奴国までの距離とされた 魏志倭人伝はそれを引き継いで
邪馬台国もその位置にあるという体で書かれた書 <

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、始めから×だし、
後漢書は「自己解釈に拠る魏志記載の書き換え引用が多い半分×書である」から、
根拠にならない。
0869日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:45:00.65
>>844
桜井市お雇いの学者、研究者らが纏向は都市だったとほのめかして、それを受け売りして卑弥呼の都が纏向だったとの仮説をヨイショする意識高い系の言説は、支持する人は少ないけどね。
0870日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:46:30.51
本当に頭が悪いみたいだな、
例えばwiki

>この存命人物の記事には、出典が全くありません。
>信頼できる情報源の提供に

このような事が書いてあるでしょ
『記紀神話』~『』『』『』『』という意味
0871日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:48:13.51
『記紀』(古事記、日本書紀?)のところ読んでみた?
『松傾』本人の話
0872日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:52:03.50
歌舞伎、芝居が好きで〜・・・、
家に凄い刀が〜・・・馬に乗り・・・。

出典、情報源?
0873日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:52:25.86
>>834
東遷説は、すべて根拠薄弱。
九州倭國から別れたなんて…。
0874日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:55:31.04
>>862
だから東夷における里なんだってば。
周とか関係ないから。
畿内説は嘘をついて批判するの?
0875日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:55:55.29
>>868
後漢書には魏志倭人伝に無い
漢と倭奴国の交流記録が書いてあるぞ
それは魏志倭人伝の引き写しじゃないからな
0876日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:57:02.72
>>860
あれも間違いこれも間違い。
畿内説は全てに文献を批判しないと成り立たないにだねえ。
その挙句に纒向遺跡などという、魏志倭人伝の描写と程遠い遺跡を持ち出す羽目になっている。
嘘に塗り固められた畿内説にもう未来はないよ。
0878日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:58:01.58
>>875
その後漢書を否定しないと成り立たない畿内説
0879日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:58:40.67
後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(の王都、邪馬台国)から一万二千里である。
倭国の西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。

魏略逸文における里程
帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。

魏志倭人伝の邪馬台国までの里程
帯方郡(朝鮮北部)から狗邪韓国まで七千里、女王国まで一万二千里。
対馬海峡が三千里であり、帯方郡から九州上陸までで一万里となるので、邪馬台国の位置は九州北部になる。

魏志倭人伝の邪馬台国までの日程
帯方郡から邪馬台国まで水行10日、陸行1月(1日の誤りか)
また、帯方郡から投馬国(宮崎都万)までは水行20日

邪馬台国時代の遺物の出土状況
http://yamatai.cside.com/tousennsetu/image/zu11.gif
0880日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:59:18.58
河童みたいな話(『老婆談』)もしていた、
扇風機を付けたまま寝てしまい、死んでしまった男の話とか

お尻から空気が入り・・・お腹が膨らみ・・・。


これも何度も書いている事なんだけど、
老婆というのは、キュウリの葉・・・葱の華などが写っている写真の
家の嫁
0881日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 19:59:40.87
>>874
そんなものがあったって証拠は?
0882日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:00:13.86
>>827
アホちゃう。
それ、全部ヤマト王権の属性。
一方、卑弥呼は筑後山門だし。
0883日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:01:54.72
>>876
それなら邪馬台国は会稽東冶の東
沖縄台湾辺りにあったと主張する気?
陳寿はそう書いてるにだからな
そんでポロッと祖国の言葉が出ているよ
0885日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:05:08.86
>>878
じゃあ邪馬台国は台湾沖縄辺りにあったと主張するんだな
後漢書にもそう書いてあるんだから
そんなアホが一人誕生するわけだけれども
0886日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:06:13.22
本当の話だと言っているし、
あと、なぜ知っている人がいるんだろう、有名な話なのかな

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

仕事にも来ないでしょ、休むという連絡もないし、
おかしいな〜と思った同僚(同じ会社)が家に行ってみたの、
そうしたら・・・・そのような状態になっていて
0887日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:07:35.83
>>882
卑弥呼が居る所は邪馬台国だよ
そして魏志倭人伝にはその墓は径百歩、
約140mとある
これは箸墓の円墳部分に丁度一致するのだ
0888日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:12:42.44
あとジョジョの奇妙な冒険(SBR)・・・?
同じような状態になっていたキャラがいたり

男のキャラで・・・、なぜ知っているんだろう
0889日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:14:20.18
九州説が真の危機を迎えると
呟き荒らしが突如覚醒しものすごい九州説論客になったりして
0890日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:16:21.80
ただの漫画『SBR』だろうwと思い、
読んでいないのかもしれないけど

ほとんど同じような話
0891日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:16:43.79
417の>>516
>そして今の後漢書は前文や邪馬台国の記述から魏志倭人伝をベースに書かれたとされているが
実は魏略、魏志倭人伝が逆に1世紀から存在した原後漢書の倭奴国と後漢の交流であり倭国の情報、
東南大海の中にあるとか百余国あるとか30カ国と使者の往来があるとか
国境より南1万2千里にあるとか会稽東冶乃東にあるとか
文化風俗をかなりの部分そのまま引き写して書かれたのではないかと<

魏志倭人伝には、
伊都國付近に来た郡使らの見聞記録では説明が出来ない情報が沢山あり、
半分×書の後漢書の記載は、魏代の女王國の根拠にはならない。
0892日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:17:08.76
呟き荒らしがフフフ…今まで皆さんの議論を存分に楽しまさせて頂きました
とか言ってな
0893日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:21:10.49
死んだ男の人というのも、
裸のような状態だと言っていたのかな?夏だと言っていたし、暑かった・・・?。
本当に何なんだろ。


数十年も前の話だよと『老婆談』
0894日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:22:09.80
>>891
後漢書倭伝と魏志倭人伝の記述はほぼ共通だぞ
後漢書には漢と倭奴国の情報もあるけれど
後漢書が×なら魏志倭人伝も×になるだろ
0895日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:23:50.84
ほんとうに家の老婆は嘘などは言わない人(性格)
0896日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:24:26.52
畿内説が不利になると呟きが増える不思議
0898日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:30:59.26
>>790
>大和は倭種の国。

魏志倭人伝の記述を読め!

「皆」倭種だよ
対馬も壱岐も九州も大和も伊豆諸島も「皆」倭種だ
0899日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:31:45.23
ジョジョの作者は、どこの出身なんだろう、
老婆が言うには、家は(伊達郡、いまの福島県?)・・・?
0900日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:34:00.80
>>791
>人が住んで暮らしていた、というのが大前提だよ。

人が居なければ、大墳丘墓も大面積の遺跡も作れない

都庁に職員宿舎がほとんどないから、都庁に人がいなかったっていう人がいたら、
バカとしか思わないだろ?
0901日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:37:19.48
>>796
>卑弥呼が死んでから20年、30年のちの築造は、まず無いな。

土を盛るだけで10年以上かかるんだが?
殯も年単位でありそう
誤差を見積もれば、違うというのは不可能な年代差しか残らない
0902日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:44:07.09
>>813
>アキツって言葉はどういう意味なんやろ

記紀を呼んでいれば、「あきつ」はトンボで秋津洲で日本のことだと分かりそうなものだが
0903日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:44:29.13
>>879
鏡は邪馬台国の時代とは全く関係ないものまで載せて水増ししてるじゃん
0904日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:47:45.86
>>814
>基線の測距は数百m位であってもあって概算は出来るし、

現代基準の測距器があれば計れなくもないが、当時1度以下の角度が正確に測れると思うか?ww

測れるって言うんだろうなww
ザラコクだからww
0905日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:50:13.17
417の>>616
>1寸はどの時代でも約2.3cmでそんなに変わらない
1尺は違って周の時代は8寸相当 漢の時代で10寸相当 <

wikiでは、戦国期には1尺≒23cmであったような情報を書いている。
また、中国は十進法が基本であり中心であった国であったようで、
そんな地域に、「1尺=8寸」という換算則が発生する、という事が考えにくく、
尺の寸法が変われば寸の寸法も変わってしまうのではないか?とも思えわれ、
「1寸はどの時代でも約2.3cm」であった、という事の根拠が疑わしい。

>証拠に周の時代の1尺20cm、漢の時代の1尺23cmの
モノサシがそれぞれ見つかっている <

「周の時代の1尺20cm」というモノサシの、
一寸は2cm位であったのではないか?。
0906日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:50:29.05
>>900
現代と違って、交通機関なんかないんだぞ。
魏志倭人伝に書かれた千人の奴婢はどこにいたんだ?
0907日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:50:54.30
>>807
>陳寿は、臨海郡という名前を出していないし、それが会稽郡の南にあるんなら、
>「会稽東治」の場所とは関係がない。

自分で言ってたことを全否定ww
都合が悪くなると手のひらクルックルww

でも教祖の古田御大の言ったことは、どんなに明確に間違っていても決して認めませんww
それが儒教道徳者ザラコクの生き方!
0908日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:51:48.67
>>903
それは畿内説へのブーメランだよ。
500枚もの三角縁神獣鏡が魏から運ばれたわけないだろ。
後世の記念メダルみたいなものだよ。
0909日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:54:33.48
>>776
現代では、離れた所に建物があったら容易に見えなくなる、と言っているのだよ

当然、昔は糸島平野のどこからでも見えただろうね、それが何か?
尚更可也山を基準に考えただろう

膝下は、わるいね、誤字だった
0910日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:56:52.48
>>822
>これが正しいという根拠がない
>願望で書いただけ

これ、読めるかな?
「現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの」

自説の都合から、否定したいという願望を持っているのが九州説
現状でこれより妥当な編年はないよ

否定したかったら、これまでの「多数の学者の成果の集合知」を否定できるだけの
膨大な根拠と正確な論証を用意してね!
0911日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:57:53.01
417の>>617
>魏志倭人伝にも裸国とか黒歯国とか 淮南子に出てくる国がそっくりそのまま出てくるよ
そして淮南子では1万2千里が世界の果て 後漢書は倭の極南界倭奴国までの距離
倭人伝の1万2千余里は1万2千里に余を後代史家がつけ足した<

魏志も魏略も「余」を付けており、
二人とも「淮南子の萬二千里に余を付ける」という事は、極めて起こり難い。
という事は、陳寿も魚豢もどちらも魏使らの記録を見て書いた、という可能性が高い。
0912日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 20:59:43.72
>>822
>魏使らも陳寿も、女王國の事を倭種だとは呼ばず、区別した書き方をしているんだよ

それが九州説に思い込み
海を渡った島も全部皆倭種だって書いてあるんだよ

そもそもからして倭人伝だろ?
倭種の人が倭人だよ
0913日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:02:35.62
>>910
>自説の都合から、否定したいという願望を持っているのが九州説

自説の都合から魏志倭人伝も後漢書も否定したいという願望を持っているのが畿内説
0914日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:03:05.14
417の>>621
>>一寸千里は、「測影」と書かれているから、実測値。<

>じや、ホラーラノベに「ゾンビが襲ってきて首都壊滅」と書いてあったら史実なのか?<

周髀算経は、「測影」していなければ、わざわざ「測影」と記載する必要がない。
0915日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:03:33.49
>>825
>南を東に変更しない九州説が

それ以外の会稽の東も、水行陸行記述も無視しないと成り立たないし、
距離は短里を捏造するし、島巡り仮説も捏造、放射読みと水行の起点は帯方郡というのは
無理読みの珍解釈

魏志倭人伝の方角記述が間違っているのは、末盧国・伊都国間で間違っているのが確定
https://i.imgur.com/POHiSA8.jpg

>一番説得力あるに決まってるだろ!。

一切ないねww
0916日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:03:34.22
>>912
九州の邪馬台国から東に海を渡っても倭人が住んでいるということだろ?
大和だとそもそも海がないし。
0917日本@名無史さん
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2019/01/20(日) 21:06:02.58
>>905
だから1尺20cm相当の周の時代のモノサシが見つかってるって
1寸2.3cmはどの時代でも変わらない
尺の長さは時代を下るにつれ少しづつ長くなっていく
周の時代の1尺は約8寸相当と漢の時代の人間も言っているし
それぞれその通りの周1尺20cm漢1尺23cmのモノサシも見つかってる
0918日本@名無史さん
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2019/01/20(日) 21:06:48.92
>>828
>降伏しなければ血の雨を振らせるぞと脅して国を奪ったんだろ?

でも、血の雨は降ってないぞww
半島や大陸とは文化が違うんだよ

縄文時代から広域流通、広域分業が成り立っている社会なんだよ
0919日本@名無史さん
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2019/01/20(日) 21:08:26.91
>>830
>シンポジウムのまとめを論文と言い張るキナイコシ

査読なし「論文」というカテゴリがあるんだよ
0920日本@名無史さん
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2019/01/20(日) 21:10:47.76
>>911
だから漢の時代より後代の歴史家
魏の歴史学者が淮南子及び後漢書を下敷きにして
皇帝陛下への報告書を書いたんだよ
そして恐らく陳寿はそれに邪馬台国までの記述をつけ足した
0921日本@名無史さん
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2019/01/20(日) 21:12:02.35
>>833
>卑弥呼の死亡により九州が求心力を失って畿内などが勢力を伸ばしたのではないかな?

後漢書では
桓・靈間 倭國大亂 更相攻伐 「歴年無主」 有一女子名曰卑彌呼 
年長不嫁 事鬼~道 能以妖惑衆 於是共立爲王

とある
卑弥呼の死亡どころか、卑弥呼の共立以前から九州の王なんていない状態が
何年も続いていたんだよ
0922日本@名無史さん
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2019/01/20(日) 21:12:57.20
>>908
なぜそう決め付ける?
まあ倭国と魏は4回ほど使者の行き来した記録が残ってるから
1回100枚貰ったとすればそう不自然でもないけど
0923日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:15:12.24
韓国政府に雇用された、破綻した畿内説の宣伝係員が作製したテンプレートが、ゴキブリが叩き潰されるようにして、完全に論破されてしまったな。
0924日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:15:40.45
魏志倭人伝では、なぜ、短里が使用されたのだろうか、、、
0925日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:17:48.08
韓国政府は、魏志倭人伝時代の一里の長さが、76.834メートルだったという真実を、隠すことを目的に、宣伝しているのではないのかな。。。
0926日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:18:45.49
纒向型前方後円墳から前方後円墳へ移行し全国に拡大していく時期が卑弥呼の時代、三世紀と重なるのは興味深いな

卑弥呼の時代というか卑弥呼の死後まもなくというか
0927日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:18:46.43
『SBR』という作品を読んでみた?

『河童 尻子玉』
このような状態で死んでいた・・・人物(キャラ)がいなかった?
画像を検索してみて・・・広瀬川というところの話もいていたし・・・。
あと広瀬座とか。

本当に、どういう事なんだろう。


同じような状態で死んだ人(男)がいるんだよという話(『老婆談』)
0928日本@名無史さん
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2019/01/20(日) 21:19:54.35
>>858
>淮南子に準じて邪馬台国まで一万二千里とされており、
>それは一里が100メートル以下の縮尺となる。
>対馬海峡が三千里、韓が四千里四方というのも同じ縮尺である。

このコピペの人もいい加減人の話を聞かないよなww
観念上に数値、誰も行ったことのない世界に果てまでの距離として「設定」されただけの
数値に縮尺なんてないっていうのにww

何度言っても聞かないフリで、同じコピペを貼り続けるww
0929日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:20:54.78
417の>>623
>もうちっとマジメにやれやザラコク
同じ時代で何で西が長里で東が短里なんだよ
辻褄合わせにしても酷過ぎるぞ <

殷代?であったかの「皇帝が大陸の東西距離を歩測させた」話があったし、
周の穆王伝の西王母への紀行をした記録があるし、
山海経にもいろんな国の記録があるし、
礼記に陸地の東西の距離の記載があるようだから。
0930日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:22:34.64
男の同僚(友人?)というのがいて、
・・・・・・・・・・・・・・・・
おかしいな思い、男の家に行ってみたんだよ、
そうしたら???????????????



出典、情報源?『老婆談』
0931日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:23:50.62
韓国政府が完全に破綻した邪馬台国畿内説を今もまだ宣伝している目的が、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すことだと判明したので、
このスレッドで討論する話題を、魏志倭人伝時代に倭人が本州や四国の、どの範囲まで、領地を広げていたのかや、魏志倭人伝時代に奈良に住んでいた者達が何者だったのかや、九州のどこに倭国の都があったのかの話題に、変換すれば良いな。。。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:24:16.86
>>874
>だから東夷における里なんだってば

その東夷に、九州説のいう東夷伝里も短里も「使う人がいない」ww
0933日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:25:36.03
つまり、韓国政府が宣伝する邪馬台国畿内説は、完全に破綻したのだね、、、
0934日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:25:43.99
>>929
そんで西は普通にスタスタ歩いて測って
東はちょこちょこ歩きでえらい長時間かけて測ったのか?
東担当は恨むだろ
0935日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:27:50.60
417の>>638
「南→東」などの嘘つき騙しの大和説者の「類スレ主」らよ。
お前らまたウソついてるだろら?。
そういう病気なのか?。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:28:03.89
>>903
どのレスに対しての答え?879関係なさそうだけど
0937日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:29:50.71
韓国政府が邪馬台国畿内説を宣伝するために雇用した、韓国人の3寸男が、ちょこちょこ歩きでえらい長時間かけて測ったので、発狂し、自殺して、死体になった可能性が高いのではないのかな。。。
0938日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:30:00.07
>>882
>一方、卑弥呼は筑後山門だし。

筑後山門には大きな遺跡もないし弥生終末期には後の山門郡の半分近くが海の中
そんなところに邪馬台国七万戸を求めるのは無理
投馬国も置けないし、水行陸行記述とも合わない
0940日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:33:38.46
邪馬台国畿内説を宣伝する者達の正体は、魏志倭人伝時代までは倭人という民族が九州や沖縄だけではなく、今の韓国の領土の大部分も元々の領地にしていたという真実を隠すために、韓国政府が雇用した韓国人の宣伝係員だったのだな。。。
0941日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:35:07.62
韓国人が精一杯計算したが、自信が無いので適当に計算したと言いながら、意見を発表したが、また、計算を間違えているの可能性が高いので、
ここは、学部の討論の掲示板なのだから、 1尺=10寸と1尺=8寸の二つ通りで、真実の里の長さを計算すれば良いのでは、ないのかな。。。

705日本@名無史さん2018/12/27(木) 19:04:36.84
ちなみにオレの計算では
1尺20cmで八尺160cmの棒の影の長さは
周ヒ算経にある1尺5寸じゃなく1尺2寸になったな

955日本@名無史さん2018/12/28(金) 18:45:22.98
一寸が約2.3cmとして
1尺=10寸なら23cm
1尺=8寸なら20cm弱

どちらの尺=寸だったかによって周髀算経に書いてある影の長さを測る八尺の棒の長さが違ってくる
そして周で使われた1尺20cm弱のモノサシが見つかっているので周の1尺は20cm弱

谷本氏は周は1尺=10寸だったとしているので夏至の北緯35度付近で八尺(186cm)の棒の影長が
1尺6寸になるのでそう実測されたとしているけれど 周の八尺は実際には160cm弱なのでそこから違っている事になる

そして160cm弱の棒の影長が1尺6寸になる場所は
北緯35度付近よりも北になり、それに連れて
棒の影の伸びる距離も短くなっていくので
186cmの棒と160cm弱の棒の影長がそれぞれ
1尺6寸→1尺5寸と1寸差になる距離は違ってくる事になる
概算だと186cmの棒だと74km程度で160cm弱だと60kmぐらい
つまり一寸千里の法則に出てくる八尺の棒の1尺が
何センチかによって距離はこうして変わってくる

ちなみに俺の適当な計算だと
北緯35度付近で160cm弱の棒の影長は
1尺6寸じゃなくて1尺3寸ぐらいになった
0942日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:39:57.25
>>908
>それは畿内説へのブーメランだよ。
>500枚もの三角縁神獣鏡が魏から運ばれたわけないだろ。
>後世の記念メダルみたいなものだよ。

畿内説は500枚全部が魏鏡だなんて言ってないんだが?
三角縁神獣鏡のうち「最初期の鋳上がりのよい『斜縁』神獣鏡」が魏鏡だって話

そして、踏み返しその他でコピーを大量に作って、
魏と交流した年号を入れて配布する動機があるのは、魏と実際に交流を持って勢力だけだ
0943日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:41:34.40
417の>>639
>倭国(本土)上陸までが万里というのも、漢土方万里との対比と考えれば分かりやすい <

分かりやすくない。
郡の「南〜東南」の倭国が長里での萬里であったんなら、
赤道近くの南方になってしまって、説明が付かなくなる。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:43:56.84
『河童の三平』〜『茶釜 天津』


 家の写真と同じような?
天津という人物のwikiを読んでみて
0945日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:45:16.07
>>909
>当然、昔は糸島平野のどこからでも見えただろうね、それが何か?
>尚更可也山を基準に考えただろう

話の発端はもう忘れたフリかい?
末盧国が呼子だとかいうインチキを言い立てたところで
基準となる可也山が見えているんだから、『東南』ということにはならないって話だ

「それが何か?」じゃなくて、
「魏志倭人伝の方位・方角は間違ってない」
「末盧国→伊都国の東南陸行も間違ってない」というのが改めて否定されたんだよ

方角記述は間違うときは間違うことが実証されたってことだ
0946日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:46:46.42
>>921
>卑弥呼の死亡どころか、卑弥呼の共立以前から九州の王なんていない状態が
>何年も続いていたんだよ

それを収拾するためには九州で女王を立てなければ意味ないだろ?
0947日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:47:46.71
だから・・・・・
詐欺師がいるんだろう、いるんじゃないの?
と言ってるの


家は神奈川県(川崎)だしな、住んでいるところ
0948日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:53:28.07
417の>>641
>>つまり、倭國は薜原朝常嗣の頃までは、尚も実態として存続していた、という事だ。<

>つまり、白村江の敗戦(663年)で九州倭国がなくなったというこれまでの
デタラメは放棄するんだな? 薜原朝常嗣(藤原常嗣)の遣唐使は838年だぞww
九州説は常に矛盾だらけ<

ウソを付くな。
以前から、701年に九州倭国は大和日本国に併合吸収継承されたが、
(何度も)「残映」として、
九州倭国が宋代になってもまだ、
中国に遣使を派遣して国交を持とうとした事を説明して来てある。

大和説者という人種は、常に嘘つき騙しの矛盾だらけだ。
0949日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 21:56:31.67
mike oldfield『let there be light』

天津(乙女)という人物のwiki
馬の・・・、蜘蛛、ベースボール・・・とか


もれ(仮)には妹がいるんだけど、
5月15日生まれ
0950日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:04:14.97
417の>>648
>魏志倭人伝の会稽東「治」乃東は後漢書の会稽東「冶」乃東の誤りというのが定説<

後漢書倭伝は、半分×書。

>福建省福州市辺りでその東方向は台湾や沖縄 これは誰でも確かめられる事実 <

魏志の史料事実は、「会稽東治之東」であり、九州島付近でピッタリ。

>そもそも九州説のいうさらに北に位置したという会稽東「治」県が存在したか怪しい<

私が「会稽東治県が存在した 」なんていう筈がないから、
類スレ主らは、はウソばかりつく・・・・詐欺師。
これも誰でも確かめられる事実。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:04:35.53
>>946
>それを収拾するためには九州で女王を立てなければ意味ないだろ?

なぜ?
九州倭国に権威がなくなったから「歴年無主」になったんだぞ?

昔の秩序では収まらないから新秩序が模索され、その結果新しい女王・卑弥呼が共立された

ただ、九州も卑弥呼の共立に乗りやすくするために
卑弥呼の血筋は九州に繋がるというストーリーが喧伝された可能性はある
それが神武の東征として記紀に記述されていると考えると理解しやすい
最後の部分は憶測以上にはならないけれど
0953日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:06:13.74
妹もいるけど、兄もいる、
なぜ知っている人がいるんだろう、兄は10月生まれ


電気石〜10月だと書いてあるし
0954日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:06:40.53
九州では強力な国は誕生しなかったから畿内の邪馬台国に調停を頼んだのだろうな
0955日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:08:49.76
『電気石 ポケモン』
0956日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:11:23.68
>>948
>以前から、701年に九州倭国は大和日本国に併合吸収継承されたが、
>(何度も)「残映」として、
>九州倭国が宋代になってもまだ、
>中国に遣使を派遣して国交を持とうとした事を説明して来てある。

どんなゴマカシを思いついたところで、837年の遣唐使で唐会要の倭国伝に
薜原朝常嗣と記録されている藤原朝臣常嗣は畿内大和朝廷の貴族だ

畿内大和朝廷が倭国であることの証明でしかない
0957日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:13:42.10
>>950
ほう
なら会稽東「治」は存在しなかったと認めるんだな?
それなら魏志倭人伝に記されてる邪馬台国の位置は
後漢書に書かれてる会稽東「冶」乃東で沖縄台湾辺りという事になる
0958日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:14:46.23
ポケモンなどもそう、
作者(制作)などは用済み・・・みたいな話なのかもしれない、
ここにホンモノがいるんだから


本来なら、そういう話
0959日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:20:12.06
『天津神』
0960日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:20:35.83
九州の勢力が親魏倭王になったと仮定して、それを畿内の豪族が知って、前方後円墳に入れるってのはよく分からんね

時系列とか経緯とかも
0961日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:21:18.21
>>960
銅鏡をってことね
0962日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:24:15.68
本当の何やらというスレ参照

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜直系なんだろう・・・、
みたいな事を言ってる人がいたり、気づいているというか。


兄、弟、妹・・・『松傾』こういう名前の家
0964日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:40:09.12
何十年前の写真だったかな〜、
50年は経っていないと思うんだけど、
写真の人も、かなり歳を取っているw
0965日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:42:16.11
417の>>652
>この会稽東治が会稽東冶の誤りであることは、テンプレ主が詳しい。<

「南→東」などの嘘吐き騙しのテンプレ主や類スレ主の「会稽東冶」説は、
全部論破した。

>会稽東治(冶)は、紹興市あたりから福州市あたりまでの南北の範囲を指していて、<

ダメだ。
「会稽東治」は、あくまで「会稽の東方の治域」であり、
「紹興市あたりから福州市あたりまでの南北の範囲」は、「会稽の南方の治域」になるから、×だ。

>その東に邪馬台国があるはずだ、というのが倭人伝の記述であるとするテンプレ主の考えは、珍しく正しい。<

正しくない。
この男も、結局「南≠東」である事を否定曲解する嘘吐き騙しであった、という事だ。
0966日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:46:08.67
どういう事だと思う?
0967日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:46:32.08
417の>>655
>>唐会要の倭国伝と日本国伝を転写すればよい事。<

>おいおい それって後世の歴史家がやらかした
「自己解釈」wによる書き換えの典型だろ <

唐会要は、殆ど「唐代記録」に転写ばかりだ。
0968日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:50:30.30
ここ(つーちゃん、現在ごちゃん?)に書き込みをしているだけだから、
読んでいる人だけが知っている・・・みたいな話


それにしても、おかしな話
0969日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 22:54:31.02
417の>>660
>会稽東冶は福建省福州市辺り その東方向は台湾や沖縄 <

後漢書の「東冶」は、半分×情報。

>そこが邪馬台国ではない事は明白で<

邪馬台国なんて存在もしない嘘つき騙し文言であるから、
この投稿者が嘘吐き騙しの詐欺師。

>魏志倭人伝の距離方位は邪馬台国を指しては居ない <

倭人伝の距離方位は九州島付近を指して居る。

>すると考古物証で見て畿内で確定<

考古物証でも、九州で確定。
するとこの男も、「南→東」などの嘘吐き騙しの詐欺師であった事が確定。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:00:25.96
417の>>662
「南→東」などの嘘吐き騙しとかの指摘に関して、「反論できない」で、
ヘイトスピーチのお経となえるのって、
もちろん反論にはならないからね。
0971日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:04:55.88
417の>>665
>魏略、魏志倭人伝の1万2千余里の余は後世史家の付け足し<

魏使らの実測記録。

>淮南子で1万2千里 <

周代以前の情報の踏襲。

>後漢書でも1万2千里 <

半分×書。
0972日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:09:27.16
その写真の家の話なんだよ

当時(不明、かなり昔)住んでいた家があるんだけど、
本や書なんかが沢山並んでいて・・・・・そういう物なんかも、誰かに・・・。
0973日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:09:29.18
417の>>669
>邪馬台国はヤマト国 他の畿内は関係ない<

邪馬台国も畿内も存在しないから、×。
0975日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:16:36.06
417の>>671
>邪馬台国は広域連合国<

「邪馬台国」なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
大和は、九州倭国の「東征毛人五十五国」の中の一国であり、
九州倭国の地方の市を監督する大倭職の旧小国。

>3〜4世紀の前方後円墳の散見される畿内一帯だろう<

大和の遠方後円墳は、
卑弥呼の冢や那珂八幡などの筑紫のはかよりもよりも新しく、
3世紀末以後。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:19:28.42
417の>>673
という理由は?。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、常に理由が無いな 。
0977日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:22:47.36
キュウリの葉、葱の華の写真も同じ。

『松傾』の家の誰だったかな〜、
白い制服のようなものを着ている子供・・・たしか4、5歳くらい。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:24:58.20
>>945
なんで呼子がインチキとして否定してるかはしらないが、流れがわかっていないみたいだからもう一回書こうか

まず、呼子説があるのは確かなこと
誰もどこに上陸したか正解はわからない
呼子を間違いと断定できる正解があるなら別だが?

で、呼子説を前提にした場合、対馬→壱岐→呼子と"南"と思って進んできたなら、可也山は"東"に見えるだろう

そして、三雲に到着したら可也山は北西に見える訳だ

可也山を基準にすると、東南に進んだと勘違いしやすいだろうね
と言っているのだが
0979日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:25:14.66
417の>>676
>畿内からの入植者が作ったバリエーションだろ
それが何か?<

畿内なんて存在もしない嘘つき騙し文言であり、
大和の方が、出雲の支配地であったところに、
九州倭国の東征毛人五十五国の入植者があったの。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:25:41.51
>>971
漢時代の淮南子にこの世界の果ては1万2千里と出てしまってる以上
魏志倭人伝の1万2千余里はそれを踏襲したと結論付けざるを得ない
つまり帯方より南1万2千里は邪馬台国までの距離を記したものではなくて
漢時代からの万里の修交を謳う目的で
邪馬台国は万里の彼方にあるとするための符牒的な数字
0981日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:28:25.97
>>859
sp8で判明したのは主に京都出土のたった8枚のうち
古い6枚の成分が中国由来というだけ
古い銅鐸も同じく中国由来が有るが中国産と言う人はいない
中国から材料輸入して鋳直しただけ
0982日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:28:39.65
前後の画像も見れるんだな
吉備型甕の分布図とか
0983日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:31:00.84
417no>>683
「南→東」などの嘘吐き騙しの異常者のの大和説なんて、
相手してもしょうがない。
0984日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:37:16.57
417の>>686
筑紫の庄内土器が広域に広まる近畿はともかくとして、
神門古墳周辺は東海系の土器が主流で大和系の土器は希薄
やはり東国に突然筑紫式の古墳が現れる状況は、
「東征毛人五十五国」の支配下になった、という事が原因。
その辺の動きの解明が初期邪馬壹国の発展の重要な部分だと思う
0985日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:37:44.75
>>973
こうやってもう泣き喚くしかないんだよ
九州説はな
反人類的朝鮮在日儒教九州説の末路がこれだ
ローマ法王に言われた通り
魂すなわち行動思考原理を変えなければ救われる事は無い
このままだったら道義性が支配するまともな社会から徹底して糾弾が始まり
朝鮮在日儒教同胞を巻き込み朝鮮儒教的なものはまとめて
全て滅ぼされるだろう
0986日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:40:53.07
>>978
>可也山を基準にすると、東南に進んだと勘違いしやすいだろうね
>と言っているのだが

それが間違いだと
動かぬ現実を示しているのだが

呼子から"東"に見える可也山と
三雲に到着したら"北西"に見える可也山とでは
一見してまるで距離が違うのが歴然なのだから
東南に進んだと勘違いするのは相当の方向オンチということだ
0987日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:41:12.60
>>981
鋳直した鏡は複数素材の混合の国内コピー品と
測定結果が出てるよ
従来から文様などで舶載品、渡来品であるとされていた
三角縁神獣鏡は魏・晋鏡と成分が一緒と測定結果が出た
0988日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:43:43.09
>>978
>可也山を基準にすると、東南に進んだと勘違いしやすいだろうね
>と言っているのだが

「山が見える」と「山が同じ大きさに見える」は同じじゃないんだよ
遠く東に見えていた山が、近くに見えるところまで来れば、
最初に東に見た場所に来たなと思うだけ

>まず、呼子説があるのは確かなこと

これ、ほぼ誰にも相手にされていない戯れ言扱いの説だぞww
それを「あるのは確かなこと」って言っちゃう人間なんだ?>>978はww

>誰もどこに上陸したか正解はわからない

唐津平野の発掘も進んでいて、唐津平野の国が末盧国だと考えるのがほぼ定説になっている
このスレでも、「魏志倭人伝の方角は絶対に間違っていない」というバカな主張を
する人以外に顧みる人はいない
まあ、古田史学の会では呼子推しを未だにしているみたいだけどな

>呼子を間違いと断定できる正解があるなら別だが?

断定は原理的に不可能だが、呼子だと考えるべき積極的な理由が何一つない
>>978は古田史学の会の関係者なのかい?www
0989日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:44:13.21
このスレで行われてる事は
大げさに言えば朝鮮在日儒教九州説による人類への犯罪
0990日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:44:25.16
>>951
>昔の秩序では収まらないから新秩序が模索され、その結果新しい女王・卑弥呼が共立された

妄想としか言いようがないぞ。
畿内で女王が共立されたら、九州における争いが止むのか?
そんなわけないだろ。

北海道で与野党合同で知事を立てたら、永田町の派閥争いが止むのか?
そんな説明で納得するわけない。
0991日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:46:15.88
>>980
その符牒に合わせて短里が使われた。
0992日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:46:26.12
417の>>687
前方後円墳はわかってる所でも那珂八幡などが最古もであり、275年頃。
ホケノの副葬品に方格規矩四神鏡はあっても、卑弥呼か壹與からの下賜された鏡片。
239年伝来の三角縁神獣鏡もないから恐らくはそれ以前
それから考えると、大和の庄内や前方後円墳は、
3世紀末頃の、石橋から後。
0993日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:48:09.15
>>991
そう主張するなら
短里で距離を正確に測定したという従来の九州説の主張が崩れるんだが
0995日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:51:41.87
九州説は一言で言うと冒涜だな
人類の常識に対する
非常識は九州説
0996日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:51:46.29
水行一日の行程を千里とするとちょうど良かったんだよ。
だから帯方郡から一万里、水行10日で九州の北岸に到達する。

測定?
弥生時代だぞ?
2倍程度のばらつきがあることからも、正確な測定など行われていなかったことは明白。
それでも概ねの比例関係は維持されているので、邪馬台国は残り二千里で福岡県内になる。
0997日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:52:32.00
>>992
素人オジンの空想聴いててもしょうがない
0998日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:53:45.91
>>996
正確に測ってピタリ九州というタイプの九州説は
もう死んだな
0999日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:54:56.77
417の>>691
>これが西暦160年〜180年頃とあるので
いわゆる神武が九州から畿内へ入った神武東征と思ってるけど <

「畿内」なんて、存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
神武東征は二中歴に拠って紀元前91年頃だし、
卑弥呼共立は、225年頃?。
1000日本@名無史さん
垢版 |
2019/01/20(日) 23:55:04.85
ワシの九州説人生、一片の悔いもなかとです。
10011001
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