邪馬台国畿内説 Part514
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1570239943/
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆1(女王所都)
奈良県桜井市に所在する纒向遺跡が2世紀末に人為的・計画的に建設された前代未聞の巨大祭祀空間であり、また北部九州を含む列島各地の文化を受容し融合し、そして全国に発信する中枢的な場であったことは、夙に知られている。(◆2,FAQ38参照)
現・纒向駅近くに東西軸上に複数棟連続して計画的に建築された大型建物群(4棟まで発見済み)は、3世紀前半のものと公式発表されている。
居館域は桜井線西側のみでも東西150m、南北100m前後の規模を持ち、大小それぞれ構造・機能を異にする複数の建物が方形の柵列に囲繞されており、重要な古道として知られる上つ道に接面している。
これに比肩するものは、弥生時代に存在しないのは勿論のこと、飛鳥時代まで見当たらない。
大型建物の傍(大型祭祀土壙SK-3001)で宗教的行事が行われた痕跡も発見された。
この建物群は、位置関係から言って三輪山及び箸中山古墳と緊密な関係が推察される。
建物廃絶の時期と箸中山古墳建設開始の時期が近いこと(FAQ10参照)を勘案すると、三輪山と関係の深い宗教的指導者がここに君臨し、死後に箸中山古墳に葬られたと考えるのは合理的である。
この大型建物群と箸中山古墳そして上つ道の位置関係は、トポロジー的に咸陽と驪山陵を想起させる。
箸中山古墳は、日本列島広域各地の葬制を総花的に集約した定型化古墳の嚆矢であり、初期ヤマト政権の初代王墓と考えられるが、被葬者が女性であるという伝承にも信憑性(◆3参照)がある。
乃ち、その葬制の総花的性格から初期ヤマト政権の初代王は各地の首長に「共立」され求心的に集約された権力基盤を持つ者であり、かつ女性と考えられる。その死亡時期は3世紀中葉(FAQ30参照)である。
この地に、青銅鏡や武具、新たな土木技術や萌芽的馬匹文化(FAQ21参照)、列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)など、中国文化が急速に浸透する時期は、列島が魏晋と通交した時期と重なる。
ほぼ同時代史料である魏書東夷伝倭人条(魏志倭人伝)の記事と上記の考古的諸事実を突合すると、箸中山古墳の被葬者は曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、◆2〜8に詳述するとおり、ここ纒向が女王の所都である。 ◆2(箸中山古墳に見る共立の構造と政治的ネットワークの形成)
前掲の大型建物が廃絶時に解体され柱まで抜き取って撤去されていることは、後世の遷宮との関連も考えられるが、歴代の宮のあり方に照らせば、建物の主の死去に伴う廃絶と考えることに合理性があるといえる。したがって、この建物の主人の活動時期は卑弥呼と重なる。
また、箸中山古墳はこの建物の真南2里(魏尺)に立地し、且つ上つ道(推定)で結ばれるなど緊密な関係を有しており、この建物の主が被葬者であると合理的に推認できる。
血統による相続原理が未確立な社会において、葬礼の執り行われる首長墓や殯屋は次代首長継承権の公認・公示される儀式の場(FAQ26参照)である。その場で顕示されている各地の葬制は、いわば王権の中における各地首長の影響力のバロメータである。
つまり、纒向に誕生した定型化前方後円墳のあり方は、共立された王をめぐる権力構造の表象たるモニュメントに他ならない。そして箸中山古墳以降、古墳の築造企画共有が、初期国家の骨格を形成する。
纒向の時代、上つ道に沿って系統的に展開する大王墓級古墳を時系列的に見ても、箸中山を嚆矢として西殿塚、行灯山、渋谷向山と明確な連続性が認められ、一連の政権が列島規模で存在したことが判る。
これらの大王墓級古墳とそれぞれ築造企画を共有し、単純な整数比で縮小された首長級古墳が、全国に展開(澤田1999)しているからである。
築造企画の共有は、地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係を示していると考えられ、これが重層的に各地を網羅している状況が観察できる。
この個々の紐帯の集積が、律令的全国支配が企図される以前の、さらには各地首長の自立性が希薄化して国造化する以前の、倭国の政治的骨格である。
ここでいう重層的とは、例えば大王級古墳の4/9の築造企画を持つ古墳においては、大王と2/3の力関係を誓約した大首長があり、更にその大首長と2/3の力関係を誓約した首長があるような関係を意味する。
乃ち、大王が4/9首長に対して直接指導力を発揮するのでなく、2/3大首長を通じて影響力を行使するような形態の国家権力構造である。
その始発点が、a.元来は無形である地域的政治集団間の政治力学関係が具現化・表象化し固定化される時期、乃ち機構的には未組織で初代国王の個人的カリスマに依存したプレ国家段階(庄内期)から、b.或る種の政治的機関により運営される初期国家段階(古墳時代)へと移行する画期、乃ち布留0期にあるとみることが出来よう。 ◆3(文献に見える箸中山古墳の特異性)
その行灯山、渋谷向山がともに帝王陵として伝承され、それらと規模的に同等である箸中山もまた「箸陵」の名が伝えられているにも拘わらず、帝王の姨の墓に過ぎないと紀で位置付けられている。
このことは、築造工事の大規模さや神と人の協業による築造という逸話が紹介されていること、就中それが紀の収録する唯一の陵墓築造記事であることも併せて鑑みれば、紀編纂時の、行灯山及び渋谷向山の規模を認識している読者視点に於いて、明らかに不自然である。
箸中山、行灯山及び渋谷向山は、例え位置関係及び築造年代の連続性を等閑看過しようと、その圧倒的質量において、同等格の主権者が連続的に存在したと人々に印象付けずにはおかない。
換言すれば、眼前の事実として当該陵墓を実見している読者にとって紀編纂時点で箸中山古墳の被葬者に崇神や景行と並ぶ男性帝王が被葬者として伝承されていたならば、現行のように改変を行うことは困難であろうということ。
そして被葬者についての伝承が存しない場合も現行のように新規創作することが難しいであろう、ということである
また、所謂三輪山伝説の類型要素について記との相違点から考証すると、後世に陶邑から入って当地の勢力者となったと考えられる三輪氏の始祖譚など3世紀の史実とは無関係な要素が一連の地名起源譚等とともに接合されていることには疑いない。
三輪山伝説類型の神婚説話や天岩戸神話など、付加された疑いの濃厚な類型的部分を除去すると、改変以前に存したと思われる伝承の残存部分が浮かび上がって来よう。
乃ち、手白髪陵に治定された西殿塚などより明確な形で、被葬者が男性の帝王でないことを示す伝承が紀編纂時においても無視しえなかった情報として存在したと考えることが出来よう。
女性被葬者のものと治定されている他の巨大古墳には、仲津姫(応神后、景行曾孫)や手白髪(継体后、雄略・市辺孫)など先代との血統的継続性に疑義のある大王に正統性を付与している配偶者のものなどが目立つ。
或いは、五社神(神功)など本人が大王相当とされる者のものもある。これらの性格と比較しても、やはり箸中山の位置付けは異例である。
紀のしるす壬申乱の倭京での逆転戦捷に関連して、磐余彦天皇陵と箸陵の二つが登場することも加味しつつ、敢えて踏み込んで言えば、箸中山が考古学的知見から推察されるとおりの始祖王墓的な存在であること、
かつ巫女王墓であるということを、当時の民衆が知悉しており、紀編纂当時の政治がそれを改竄し切れなかったという推測すら成り立つ余地があろう。 ◆4(纒向の地政的意味と倭国の形成)
纒向は二上山と三輪山で奈良盆地を南北に二分する横断線の東端近くに占地する。この地は大阪湾から大和川を遡上した瀬戸内航路の終点にして、初瀬街道経由で伊勢雲出川河口付近から東海航路に向かう起点である。
同時に上つ道に面し、北陸・山陰にも抜ける交通の要衝である。乃ち、三輪山をランドマークとする辻に関塞の神を祀る地であり、古くより大市が立つ。
威信材の流れや墓制の消長から、弥生時代の北部九州では対外交渉力で突出した小国の興亡があったことが判明しており、そのうちには中国製威信財を独占的に入手し配布することで「倭国」的な政治的纏まりを現出せしめるやに見えた者もあった。
しかしながら、国家形成と呼べる水準に至らぬまま衰退し、最終的には2世紀末の大乱期、中国製威信財入手ルートの途絶を以て、この列島における旧世界の秩序は崩壊した。
代って、気候条件悪化に起因する社会不安の沈静化と政治的求心力の喪失による紛争の回避を目途として、この地纒向に新たな秩序の中枢が構築され、本格的な国家形成が緒に就く。
共立とは、各地の葬制を総花的に集約した定型化前方後円墳に表象されることになる政治的関係における求心的集約の状態を、当時の中国の語彙で表現したものに他ならぬと思われる。
おそらくは当初に調停の庭であったそれが、完鏡等の威信財供与と祭祀の規格化に表象される首長間のリンケージの核となっていくのである。
それは首長と首長個々の相対の結縁が重層化した形態をとり、次代の前方後円墳築造企画共有に繋がっていく祖形となる。
定型化前方後円墳における葬制の「総花」性要素の中で、突出しているのは吉備地方であり、北枕原則が貫徹している畿内―吉備は葬制から見た政治状況中の枢軸といえる。
もとより畿内第V様式圏の文化的斉一性は、交流圏・通婚圏として纏まりが存在したことを示す
此の環大阪湾文化圏と吉備を核とする瀬戸内圏との合作は、日本列島中西部を縦貫する流通大動脈を形成し、現実的に倭国乱の帰趨を決したとも言えよう。
後段で触れる所の寒冷化による海水準低下で、多くの砂丘上の港湾集落が廃絶し潟港が埋没して機能低下を来たした日本海航路に対して、瀬戸内航路の価値は大いに上昇していた。纒向に誕生した政権の特徴である求心性も、この流通支配の趨勢を踏まえたものであろう。
この意味で、倭人伝に登場する倭の国が東夷伝中で珍しく流通や通信に言及していることは、注目に値する。
初期ヤマト政権の性格を、アンフィクチュオニーと通商連合の両面から理解することは、有益である。 ◆5(倭国の形成と気候変動)
1に、南播磨を主力とする畿内系住民が北部九州に移住し交流しているとみられる状況
2に、河内と吉備の交流の深さ
この2点を併せ鑑みれば、東海地方(中勢)にも影響力を持つ宗教的指導者を、纒向の地に地域間紛争回避の機構として擁立した勢力の中核をなすのは、汎列島的交易網の再構築と拡大を目途とする、瀬戸内の海上交通を支配する首長たちの利益共同体であろう。
共立によって地縁的紐帯の域を超えた広域のプレ国家が誕生した。その成熟段階であろう3世紀前半末には、四等官を有する統治機構や市場の統制、通信網の整備などが観察されている。
これが更に個人的カリスマの死去を契機として、布留0期に、機関化した政治システムのフェイズへと進むのである。
2世紀は、炭素年代の較正曲線などからも太陽活動の不活発な状況が見て取れるとおり、寒冷化が進んだ時期であることが知られている。
この寒冷化は、世界的な環境収容量力の低下となって、漢帝国の弱体化を決定づける農村の疲弊(逃散を含む)や北方民族の南下を引き起こしており、世紀末葉の中国は天下大乱の時期となった
倭国乱もこの時期である。
寒冷化による海退は、砂丘の発達を再開させ、温暖期に安定していた砂丘上に展開していたいくつもの海浜集落を廃絶に追い込み、潟港の機能低下と相俟って国内流通網の再編(※日本海航路の衰退と瀬戸内航路の隆盛を含む)を促した。
弥生社会を終焉に向けて転身を強いていた気候変動の総決算である。
※寒冷な海退期には無遺物砂層が、温暖な海進期には遺物を伴うクロスナ層が交互に形成されており、遺跡の消長が判明する。(甲元2008)
クロスナ層の時期は弥生前期〜中期・弥生終末〜古墳前期・古墳後期〜奈良時代であり、その合間に空白期間である無遺物砂層の時期がある。
島根県小浦遺跡、山口県豊浦郡中の浜遺跡、土井ヶ浜遺跡、吉母遺跡
福岡県新町遺跡、同藤崎遺跡、西新町遺跡、御床松原遺跡
長崎県五島の宇久松原遺跡、福江市大浜遺跡
鹿児島県宇宿港遺跡、種子島鳥ノ峯遺跡
等で整合性が確認された。
これらの時期は、ユーラシア大陸の寒冷化と一致する。 ◆6(自然環境と下部構造からみた国家形成期社会の動態)
これより先、寒冷化に対応する生産力確保という社会的必要性が、開墾や治水・灌漑の分野で大規模開発行為を行うに足る労働力を大量に徴発できるような強権的な地縁型首長を誕生させつつあった。
これは、墳丘墓の急速な巨大化・高塚化から窺知できる。換言すれば、高塚化の加速した地域には急速な脱弥生の社会構造変動が起こっている。
先駆的な具体例としては、寒冷期に向かう不安定な気候が卓越する時期、吉備中南部で体系的な用水施設を備えた大規模な水田開発が、高塚化された大規模で入念な埋葬に見る威信や地位を付託された特定の人々の析出と共時的に生起(松木2014)している。
析出された特定者への威信付託の象徴として、モニュメントである墳丘墓に付帯するものとして、本源的に個人が身体に装着する物品に由来する威信財には親和性がある反面、個人所有に馴染まない楽器型青銅製祭器は前途を分かつたものと推察される。
後期に入って既に退潮となっていた大型の武器型及び楽器型青銅器祭祀は、より広範な地域統合を象徴する社会的ニーズの高まりから、その役割をより可視性の高い高塚墳丘墓によって代襲され、その社会的使命が終焉に向かう。
やがて地域間統合の阻害要因となりうる祭器の性格の差異を捨象する必要から、武器型の持つ金属光沢属性を鏡面に、楽器型の鋳造文様の造形的属性を鏡背に統合して引き継がれ、古墳祭祀の付帯要素に落着(吉田2014)した。
分節化した統合性の象徴として、小型で可搬性のある銅鏃のみが儀器化して古墳時代に引き継がれる。
(本項 続く) (承前)
◆6−2
方形周溝墓は主に親族集団墓として近畿・東海を中心に分布し、円形周溝墓は析出層の墓制として岡山に分布したが、その境界である南播磨で両者が共存した。
この延長上に、円形墳丘墓は弥生後期に摂津・播磨から阿讃播・摂河泉・丹波南部・大和山城、近江へと展開し、後期後葉には周溝陸橋部から変化した突出部付き円形墳丘墓として環大阪湾地域及び大和盆地にほぼ同時展開し、これが大和で巨大化の加速する前方後円形墳丘墓に繋がる。
二つの文化の共存した播磨で前方後円型墳丘墓と方形周溝墓の間の階層性が発生し、これが前方後円型墳丘墓巨大化の要因となって拡散した可能性がある。
辺縁部で派生した葬制の変化が、畿内社会内部にも進行していた階層化を承ける形で中心部へとフィードバックされたのである。
この墓制の成立過程には、庄内式土器が制作技法、焼成方法ともに在地以外からの影響を受け技法の一部を取り入れて新たな型式を創出していること(長友2006)とも共通した特質がある。
高塚化の進行から窺知される社会構造変化は各地域で概そ銅鐸祭祀の終焉と期を一にしていることが知られているが、こと畿内とくに大和に関しては例外的に、銅鐸祭祀の縮小と高塚の発生(モニュメント社会の到来)に大きな時間差がある。
むしろ高塚化に代えて第V様式が広範囲に斉一性を発揮しているように見えるのが畿内の特異性であり、世俗権力的な核の見出しにくい弥生後期畿内社会の特質の解明が待たれる。
巨視的観点からは、弥生石棒文化圏から銅鐸分布圏そして畿内第V様式と、令制畿内の前身が連綿として環大阪湾域を核とした東瀬戸内囲繞エリアを形成している。
ここで夙に指摘される畿内弥生社会の均質性の中から急激に巨大前方後円墳にみる権力集中が湧起したことは、近代のポピュリズムにも通じるものがある。権力の一局集中と公共性、一者が突出・隔絶することと他者が均質であることは、対立的に見えてその実良く整合が取れるのである。
一方、九州で高塚化が起こらなかったのは、その先進性が災いして中間階層が富裕で有力な社会構造であった為に、突出した権力の発生に対して掣肘が大きく働き停滞的であった所以であると考えられる。
この寒冷化が過ぎると、次の古墳寒冷期が開始するまでの間、砂丘上には再びクロスナ層の形成が始まり、集落も再生する。宗教的権威が政治力を行使できた背景には、このような一時的温暖化による社会不安の沈静化という現実があり、気候変動が祭祀者の存在感を強調する意味で予定調和的に働いた可能性がある。
このクロスナ層中の遺物に共伴するのが庄内併行期の土器である。 ◆7(北部九州における人の移動と政治的動向)
3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期と呼ばれ、卑弥呼の活動期間が稍前倒し的にこれと概ね重なる。
北部九州で出土する楽浪土器は庄内併行期をピークに激減、土師器 IIB(布留0新相〜布留I古相)期には確認例がない(久住2007)ことが知られている。
これは停滞期(高久楽浪IV期)を脱した楽浪が再興期(同楽浪V期)に活発な対外活動を展開したのち急速に衰退する、という趨勢がリアルタイムに反映している。(FA43参照)
つまり旧二郡域との交渉はIIA期(布留0古相併行)の中でほぼ終了していたものとみられ、ピークとなる庄内期の中に魏と定期的交渉を持った西暦240〜248年が位置すると考えられる。
庄内併行期は、先行する弥生V期に引き続き畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入している時期であり、ことにその最終時期である布留0期に級数的に進展する。この流入は人的移動を伴うものと考えられており、博多湾岸に広がり、河川に沿って内陸に浸透する。
上位の墳墓に畿内系土器が供献される事例が増え、3世紀前半のうちに博多那ノ津地域の政治中枢が弥生時代以来の春日地域から畿内系色濃厚な比恵・那珂地域へ移ることからも、その浸透状況の性格が覗われる。
逆に、最後まで在地系の独自性を維持するのが糸島地域で、その畿内系土器の受容に極めて消極的な姿勢は、ヤマト王権への接近傾向が顕著な博多とは対蹠的と言える。
外港である今津湾、加布里湾双方に畿内系の往来が見られるにも拘らず中心部が在来系一色で、極めて僅かの供献土器が祭祀遺構とされる一角で発見されるのみ、という状況は、あたかも包囲的閉塞の中で辛うじて政治的独立を保証されているようにさえ映る。
1つに、前方後円墳の浸透状況(外港:泊地区に久住IIB期、中心街:塚廻に同IIC期)がその後の伊都国の終焉過程を表象していること
2つに、強権的色彩を帯びた一大率が人口の少ない伊都国に治を置いて検察業務を執行していると記す史料
これらを突合すると、対外交易の主導権を喪失した後の伊都国の姿が窺知できよう。
(本項 続く)
北部九州の土器編年で言えば卑弥呼の人生の大半を占める時期の相当する久住IA・IB期、博多は対外交易について最大級の中心地である。そのころ、博多は畿内人の流入を含む深い人的交流があり、生活様式から祖先祭祀の形態まで、その影響を受けている。
その影響を受けた在来系と影響を与えた外来系が共存・集住している集団と、外来系に対して閉鎖的な在地集団の間に、前者を上位とする集団間の階層差も指摘(溝口1988)されている。
糸島三雲番上地区に一定数の楽浪人居住が確実視されていることも鑑みれば、倭が中国と国交を再開した3世紀中葉において、中国は必ず博多の情報を入手していると見做してよい。
従って、中国魏王朝は畿内にあった倭人社会最大の政権を知っていると考えるべきである。土師器IB期が魏王朝と国交のあった時期に相当することは諸説の一致するところである。
この時期に、奴国の中枢域に比定される那珂比恵地域の土器相が畿内ヤマトの「飛び地」的展開に向かっている現実は、邪馬台国九州説にとって絶望的である。 ◆8(結語)
日本列島の対外交渉は、古くは勒島貿易、ついで原ノ辻貿易、そして博多湾貿易と移行する。
原ノ辻貿易の直接主体が壱岐のオウであり、そこに最も影響力を持っていたのが前原三雲の王であることが有名である。
原ノ辻が活気を失い博多湾が対外交渉の主役に躍り出るのが、庄内併行期である。
その転換の最終段階には、大和や播磨から移住してきた人々やその二世世代が圧倒的シェアを占める港湾都市で西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易を展開する時代となる
前原三雲の王は静かに表舞台から退場していく。
博多湾貿易の時代全体を通じて、那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカとして機能し、その消長も時期的に一致する。
これが倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)アライアンスであり、博多湾貿易を基軸とする倭国の政体であり、金海貿易へ移行するまで存続したと考えられる。
遡って、第二次高地性集落は弥生後期になると低丘陵上で一部の一般生活集落が防衛的要素を帯びた形態をとる。
この現象は、寒冷化現象に起因すると思われる社会変動の存在や、同じく寒冷化に起因する中国の政情不安による威信財輸入途絶という政治的要素を綜合的に判断すると、文献資料上にある「倭国乱」にほかならない。
この時期に高地性集落が中九州から東海、北陸にまで展開するという事実は、「倭国乱」が日本列島中西部を広範に巻き込んだ社会現象であることを物語る。
土器拡散にみる遠隔地交流の活性化と併せ見れば、2世紀末〜3世紀の状況証拠は、すべて初期ヤマト政権と新生倭国の誕生を指し示しているのである。
副葬習慣をほとんど受容しない地域であった畿内(佐原1970)の豹変的社会構造変化は、全国区的政権誕生に向かう胎動にほかならない。
そして絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開したとき、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
以上の根拠により、それは桜井市纒向以外にありえない。 ◆9 参考 (URL)
●ネット上でも見られる、畿内説を取る代表的な学者のひとり
寺澤薫が一般向きに書いた論説
纒向学研究 第1号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-1.pdf
纒向学研究 第4号(PDF)ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf
◆ 参考(市販書籍)
●文献ベースの入門的論説
西本昌弘「邪馬台国位置論争の学史的総括」日本書紀研究17所収
仁藤 敦史「倭国の成立と東アジア」岩波講座日本歴史1所収
●コンパクトで包括的な概説書
洋泉社編集部編「古代史研究の最前線 邪馬台国」
●東アジアの考古学へと視野を広げた解説書
東潮「邪馬台国の考古学」
等
◆10 実年代目安の参考
(現時点で高等学校日本史教科書などに採用されている年代観と概ね同等の、最も広く通用しているもの)
○弥生時代後期
1世紀第1・2四半期〜2世紀第3四半期中頃
○庄内式期(庄内0〜3)
2世紀第3四半期中頃〜3世紀中頃
○古墳時代前期前半(布留0〜1)
3世紀中頃〜4世紀第1四半期
○古墳時代前期後半(布留2〜3中・新段階)
4世紀第2四半期前半〜4世紀第3四半期
○古墳時代中期前半(布留3の一部、TG232〜TK216)
4世紀第4四半期〜5世紀中頃
(古代学研究会 森岡、三好、田中2016による)
※箸中山古墳は布留0古相に該当(寺澤2002)
※本文◆7の「3世紀初頭から約半世紀の時間幅が庄内併行期」は
庄内0を庄内式直前として弥生後期に分類する考え方で、実年代観は同一である。
同様に、布留0を庄内に分類する考え方も実年代観に違いがない。
庄内併行期を弥生時代と呼ぶか古墳時代と呼ぶかが実年代観の相違でないことと同じ。
※北部九州編年(久住)との並行関係(久住2002,2006,2010)
IA期ー 大和庄内0〜1 ー 河内庄内I〜II
IB期ー 大和庄内2〜3 ー 河内庄内II 〜III ●纒向矢塚、矢藤治山、ホケノ山
IIA期ー 布留0古相 ー 河内庄内III ●箸墓、権現山51号
IIB期ー 布留0新相〜布留1古 ー河内庄内IV〜V ●西殿、黒塚、桜井茶臼山、
浦間茶臼山、西求女塚
IIC期ー 布留1中相〜布留1新 ー河内庄内IV〜布留I●椿井大塚山、神原神社、
メスリ山、行灯山、祇園山 ◆11
◆FAQ 1
Q:倭人伝には九州のことばかり書いてあるではないか!
A:九州は倭国の一部なので問題ない。
郡使は伊都国で常に駐するので、九州のことがよく観察されているのは当然のこと。
逆に、伊都国の属する博多湾岸地域に見られない風俗や産物(灼骨卜占や丹井)が記されている事実は、倭国の地域的広がりを推定するうえで重要な情報であり、就中、倭国の都が博多湾岸地域には無いことを物語る。
壹岐一国では観察されたが首都で観察しても見出せなかった風俗を、倭国全般の風俗と記録することは、合理的行動でないからである。
畿内は朱の生産地を擁しており、これは3世紀の九州に見られないものである。水銀朱精練遺構は三重の丹生の天白遺跡や森添遺跡、宇陀の丹生河上が縄文、唐古鍵・清水風が弥生中期で宮古北が布留0と、古くから利用されている鉱床所在地近辺に点在する。
水銀朱採掘遺跡そのものは未発見であるが、丹後赤坂今井墳丘墓(弥生終末)出土の水銀朱が明らかに丹生鉱山産朱の特徴を示し(南ら2008)、ホケノ山の水銀朱はMn,Feの含有量に於て大和水銀鉱山と同じ特異性(南ら2001)を示す。
桜井茶臼山(3世紀第3四半期末〜第4四半期)出土の水銀朱が大和産であることは水銀、硫黄及び鉛同位体比分析によって判明済み(南ら2013) である。これらの状況から、3世紀の宇陀や丹生に丹山が有ったことは確実視される。
北部九州の古墳出現期には、津古生掛古墳など畿内と関連の深い一部の限られた墳墓より畿内産の水銀朱が発見され(河野ら2013)ている。被葬者でなく埋葬施設に施朱するのは九州では殆ど見られない儀礼(志賀・谷口2012)であり、東方からの影響と考えられる。
また、纒向遺跡から出土した卜骨も倭人伝の記事と合致する。(FAQ51参照)
倭人伝に糸魚川産の硬玉ヒスイが登場していることにも疑義の余地はなく、当時の中国人が認識する倭国の範囲は日本列島規模である。
◆FAQ 2
Q:水行とは河川を行くことだ!
魏使は九州を出ていないではないか!
A:海を行くときも「水行」と記載された実例があるので不成立。
「水行」と書かれているが川であるか海であるか判明しないケースを、川と判断する理由は無い。逆に、明確に河川を移動しているケースで陳寿が「水行」という語彙を使った例は無い。
(例)「泝流」が6回
「泝(+固有名詞川名)が7回
倭人の地が大陸ならぬ大海中の島嶼上に所在することは予め明示されている。
倭人伝における「水行」の初出が「循海岸」と副詞的に形容されている以上、以降の日本国内の河川上移動には明らかに過大な10日や20日に及ぶ「水行」を「循海岸水行」の省略形であると見做すことには合理性がある。
以上の根拠を以て、倭人伝における「水行」は全て「循海岸水行」と推認する。 ◆FAQ 3−1
Q:行程論から言って、畿内説は無理ではないのか!
A:倭人伝の記す行程を記載通りに辿れば、沖縄本島付近の南海上(◆FAQ40参照)となる。史料にいかなる解釈を施して上記以外の比定地を求めても、それはテキストの改竄もしくは粉飾に他ならない。
「當在」という語法からは、筆者が道里から倭人の国を会稽東冶(現・福州市近郊)程に南方であると具体的に推計し、倭人の南方的風俗との整合性確認を意図したことが明らかである。(関連:◆FAQ 40)
故に、「自郡至女王國」の「萬二千餘里」は倭人の国が会稽東冶ほどに南方であると言う筆者の認識を端的に示している。
以上から、倭人伝の里数及び「南」という方位倶に致命的な誤りを含むこと、並びに筆者が1里=1,800尺を用いていること、の二点に疑問の余地がない。(註※)
実際の倭人の国々の存する倭地は会稽山陰はおろか魏都許昌に遠からず、宛城ほども南方でなく、纒向に至っては洛陽とほぼ同じ北緯である。
三海峡渡海は概ねの定点を得ることが可能なので、測距に錯誤があることが明らか(◆FAQ19参照)である。加えて、九州本島最南端は会稽山陰より猶ほ北方である。
また、現実の1/5ほどの架空の1里を想定するならば、楽浪を「雒陽東北五千里」とする地理感に照らすと倭地は洛陽の猶ほ北であり、倭人伝記事と全く整合しない。
筆者の認識した万二千余里の数字、及び「南至邪馬壹國」の方位「南」。この双方に錯誤を認めない限り、「當在會稽東治(当作「冶」)之東」と記述されることは有り得ない。また、机上の計算であるから、東冶の「東」の方位に誤差はあり得ない。
加えて、道里を記述した本人が推計した位置が会稽山陰以南であることは、一部現代人の想定する異常に短小な里単位の不存在を立証するものである。
実際の地理上3海峡の間隔が等距離でないことはもとより、倭人伝所載のとおりの行程を辿ったのでは、伊都国であることが確実視される糸島三雲にも、奴国たるべき博多・比恵那珂エリアにも到達できないことは自明である。
このように、行程記事は方位・距離ともに著しい誤情報を含み実用に耐えないので、所在地比定には採用しない。検証にのみ用いる(関連:◆FAQ8,17,18,19,20,58も参照)
(本項 続く) (承前)
◆FAQ3−2
※検証 古代中国の地理感覚(続漢書地理志注記による)
遼東郡:雒陽東北三千六百里 楽浪郡:雒陽東北五千里
予章郡:雒陽南二千七百里 南海郡:雒陽南七千一百里
蒼梧郡:雒陽南六千四百一十里(刺史治廣信は「漢官」に拠れば去雒陽九千里)
交趾郡:雒陽南萬一千里
(雒の用字より漢代原史料に基づくものと推定)
倭人伝云う所の12,000余里うち韓が方可4,000里であるから、南方向成分は9,000里程度となろう。楽浪が東北5,000里より南方向成分を概略3,000里程度と見積もると、
楽浪から、山陰よりも稍や南に所在する予章まで南北で6,000里以下、広東まで10,000里程度とイメージできる。ヴェトナム北部ハノイ付近は洛陽の南11,000里と認識されており、倭人の地域はこれほど南ではない。
以上、上記約9,000里は帯方〜現・福州市間の南北距離として矛盾がない。
筆者が倭人の風俗を会稽ならびに朱崖と比較していることとも整合する。
また、12,000余里うち南方向成分が9,000里程度となると方位は著しく南南東に偏し、倭人伝冒頭に掲げる「帯方東南」との齟齬が大である。このことも「南水行」の方位に錯誤を認むべき根拠となろう。 ◆FAQ 4
Q:纒向遺跡は、七万戸だという邪馬台国には小さすぎる!
A:誰も、纒向遺跡=邪馬台国だなどと、主張はしていない。
纒向遺跡は、巫女王の居た王都であり、国ではない。
また、「邪馬台国は大和国」と言う表現を用いる諸説も、多くは邪馬臺の語源(音写元)についての言及であって、領域としての令制大和国という定義を主張していない。
畿内説においては、邪馬臺を大和朝廷の王畿とした内藤湖南の見解(内藤1910)以来大きなブレは無いものの、令制国の疆埸と3世紀とでは時間差による異同が無視できない。
よって、邪馬台国の厳密な範囲については材料不足であるものの、令制五畿の概念に代えて、考古学的観点から概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域を想定する。
また、邪馬台国と女王国を=でなく⊂で考えた場合、纒向遺跡に搬入量の多い中勢雲出川流域等をはじめとする畿内周縁部もまた、女王国に含まれる可能性を考慮する必要もある。
中勢地域が纏向と結びつく原因としては、東海航路の地政的意義に加え、この地域が宇田と並び古くから知られる水銀鉱床に富むことも認識する必要がある。
◆FAQ 5
Q:方位を間違っていたなら海峡を渡れず遭難する!
A:1719年に朝鮮通信使の一行として来日した申維翰は、対馬で南下しているのに東へ向かっていると誤認した。さらに対馬は東西に長い島(東西約三百里,南北はその1/3)と著書『海游録』に記す。(「東西可三百里、南北三之一分」)
佐須浦(現・対馬市上県町佐須奈)は対馬の北西端、府中(現・厳原)はそこから東(実際は南)二百六十里と書く。
(「自此西距釜山四百八十里、東至島主府中二百六十里」)
小船越では、実際昇る朝日を見ているのに、依然東に進んでいると考えており、彼の地理勘はちょうど90度狂っている。
対馬から見て釜山を西、大阪京都を北、長崎を東と認識している。
ところが、対馬からの京都大阪の方位について大きく錯誤しているにも拘わらず、江戸は京都の東千三百里と正しく把握している。
むろん遭難などせず、ちゃんと日韓を往復している。
このように、使者が方位を誤認していても安全に往還可能であることの証明が存在するとともに、誤情報の竄入によって全体の整合性は易々と喪失することが明らかである。
◆FAQ 6
Q:畿内説では、卑弥呼は記紀の誰なんだ?
A:記紀の王統譜をそのまま史実と見做さないため、卑弥呼を記紀の誰かにそのまま当て嵌めない。近年の歴史学のあり方に沿った考え方と認識している。 ◆FAQ 7
Q:纒向から九州の土器が出ないではないか!
纒向は九州邪馬台国と交流のない別の国だろう?
A:そのような事実はなく、当然交流があった。
畿内第V様式、庄内式、布留式みな時系列に沿って北部九州から出る(本文◆7参照)し、纒向においても筑紫で製作された庄内甕(久住2006)が出る。畿内と北部九州を結ぶ海路の重要拠点からも畿内系・吉備系の土器が発見される。(◆FAQ31参照)
このことは、往来していたのが畿内系・瀬戸内系の人間だったことを示し、畿内と北部九州の片務的関係を示唆する。かつ畿内系が社会的に上位である。(◆7参照)
◆FAQ 8
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある。畿内説は南を東に読み替えるから、これは北だな?
A:読み替えない。
行程論とは別の方法で纒向を倭国の都と特定した結果「南至邪馬壹國」の南は「東」の誤りと判明した。つまり、行程論で邪馬台国の位置を比定しようとする九州説の多くとは論理の向きが逆の方法論である。
これは他の箇所をも読み替えるという主張ではない。
古くは伊豆七島神津島産の黒曜石が三重県まで流通している。考古的遺物の分布からも、古来百船の渡会たる伊勢より三遠駿さらに南関東に至る海上交通路の存在が明らかであり「女王國東渡海千餘里」の情報源として注目される。
◆FAQ 9
Q:狗奴国はどこだ?
女王を共立したのが西日本を覆うような広域だとしたら
女王に属さず逆に脅かす程の勢力、狗奴国とは何者か?
A:S字甕第1次拡散域ならびに多孔銅鏃分布域が中部から北陸、関東に及ぶ広域に存在した。有力な候補である。庄内〜布留0期には関東北西部に展開しており、狗奴国の語源を毛野に求める見解も根強い。
これを踏まえ、纏向の政治集団が中勢・渥美半島経由で東海航路に進出するのに対し、東山道を掌握して東方進出する政治集団との間に生じた角逐を反映した文字情報とみる見解にも説得力がある。
中九州を中心とした免田式分布域も面積的には狭いが、倭国の対外交渉を阻害する可能性という側面での危険性を考慮すれば対抗勢力として評価できる。
倭女王卑弥呼は二郡の対韓戦役に協力した形跡がなく、その言い訳に狗奴国の脅威が過度に強調された可能性もある。
いづれにせよ領邦国家が成立している史的発展段階にはなく、当時の「国」は複数の政治的地域集団が点と線で結ばれ彊埸が不分明であったと考えられることは念頭におく必要がある。
王名の卑弥弓呼を称号と理解する限りでは倭国と同一文化圏に属するものと解せるので、卑弥呼の共立に対して不服な分派という解釈もあり得よう。 ◆FAQ 10
Q:箸墓は宮内庁管理の陵墓で発掘できない筈だ!
年代が判るという考古学者はおかしいではないか!
A:箸墓(箸中山古墳)墳頂で採取された土器相は宮内庁書陵部から報告書が出ており、その成果が弥生後期後葉から連続する時間軸上での指標となっている。
陵墓指定から外れた墳丘裾、渡り堤、周濠は発掘され、県の機関から正式の報告書が出ている。
封土を築いた土取り穴底で発見された土器等が工事開始直後周濠最底部に埋没した土器であって完成直後の時点を示すと判断され、布留0古相の範囲内で築造され完成したと判定されている。
しかしながら封土以前には地山切り出し工事があるため、着工がさらに若干遡る可能性も否定できない。
◆FAQ 11
Q:倭人伝の国は律令下の郡ほどの規模だろう!
それらの国が30国程度なら、筑前・筑後・肥前三国程度の規模にならないか?
A:倭人伝の記述からは、5千戸未満の小国と、万単位の大国に二極分化している状況が見て取れる。
・前者が、自然国境等に阻まれて規模的に弥生拠点集落の域を脱していない「クニ」
・後者が、河川流域や平野等の単位の大きな纏まりへと進化した、新しい時代の「国」
とみられる。
後者に属する奴国の位置は、博多湾岸地域最大である福岡平野に求めることが妥当である。彊埸には筑前型庄内甕の波及範囲を想定することが出来よう。
使訳通じる30国のうち両者の構成比は不明だが、すべてを郡単位と見做すのは不合理である。 ◆FAQ 12
Q:倭人伝には「兵用矛」と明記されている!
畿内説は倭人伝と合わないのではないか?
A:矛という考古学用語は古代中国人の認識とは異なる。よって判断材料とならない。
福岡県においても、3世紀前半と確認できる鉄矛はひとつも出土しておらず、条件は同じである。
弥生時代に導入された銅矛は、儀器化する一方で実用武器として一部が鉄器化したが、殆ど普及しないまま弥生中期で概ね消滅した 。
以降、古墳時代に入って、騎兵の突撃を迎え撃つための三角錘型の穂先を持つ突刺武器=矛が盛行するまでほぼ途絶した理由は、
実用武器として堅牢性の要求水準が袋状鉄斧等より高く、鋳造品である銅矛と同等の袋穂構造を鉄の鍛造品で作ることが経済合理性の上で鉄槍に劣後したためと考えられる。
当時の槍は中世以降のものと容貌を著しく異にしていて、剣状の穂先を4つの杷木で挟んで糸で巻き黒漆で塗りかためて固定しており、使用法も形状も矛の後継品であったと思われる 。
3世紀に属する鉄鉾の発見例では西求女塚があり、鉄槍や絹織物等の遺物と共に発掘された。
倭人伝に描写された3世紀前半は矛の副葬が盛行した嶺南地方と対蹠的に、本邦で信頼に足る鉄矛の出土例が見られない時期であり、当時の倭人社会で使用されている長柄武器は、現代語で言う槍である。
倭人伝にいう実用武器の「矛」の実体は、倭人伝原資料の報告者が目撃したところの倭人の武具、乃ち今日の考古学者が槍と呼ぶ遺物である可能性が最右翼といえるだろう。
当時の中国で「槍」という文字は長柄武器を指すものではないので、現代人の言う3世紀当時の槍を実見した中国人がこれを表記した可能性のある語彙が他に見当たらず、自分たちの社会で最も類似した道具の名前で呼んだとして何ら不思議は無いからである。
なお、「日本考古学の習慣で柄に茎を入れるものをヤリ、袋部に柄を差し込むものをホコといっているが、これは現代考古学の便宜上の区別に過ぎない」(「弥生から古墳前期の戦いと武器」日本の古代6)ともいう。
加えて
「『兵用矛楯木弓。竹箭或骨鏃。』とあるは、大要漢書地理志の儋耳朱崖の記事を襲用せり。此等は魏人の想像を雜へて古書の記せる所に附會せるより推すに、親見聞より出でしにあらざること明らかなり。」(内藤1910)
の指摘は今日も有効である。 ◆FAQ 13
Q:倭人の墓は「有棺無槨」と明記されている!
古墳に槨のある畿内は倭人の国ではない!
A:槨という現代日本の考古学用語は、古代中国人の語彙である槨(本来の槨)とは異なるものである。よって否定材料にならない。
呂覧に「題湊之室棺槨数襲、積石積炭以環其外」と見える如く、古代中国人の耳目には竪穴式石室の側壁或いは現代考古学に言う礫槨・木炭槨の類は室外を環る地中構造物と認識される。そして棺槨は室内に重ねられるのである。
石を槨の表、黄腸を裏とする鄭玄註は、題湊が木槨壁面に接合する時期を経た塼室墓時代の意識として整合性がある。
現代語「槨」が古代中国のそれとかけ離れていることは粘土槨や礫槨など古代中国にない呼称を用いていることでも明白であり、考古学者の間でも批判的意見のあるところである。(斎藤忠ら)
古墳の竪穴式石室もまた古代中国人の云う槨の概念とかけ離れた形状・構造であり、両漢魏晋人に槨と認識される可能性は無きに等しい。
現代日本考古学上で木槨墓と呼ばれている埋葬用地下構築物は、弥生時代以降主に北部九州を中心に分布しており、時期的にみて楽浪木槨墓の文化的波及・間接的影響と思われはするものの、
ホケノ山例を含め原形とは似ても似つかぬ形状であり、古代中国人に木槨と認識されるとは考え難い。
畿内で一般的な墓は木棺直葬で「有棺無槨」に適合している。
逆に、北部九州に多い箱式石棺は中国人に槨と認識される可能性が否定できない。
◆FAQ 14
Q:畿内の政権が、本国を遠く離れた九州伊都国に諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を置くことは困難なのではないか?
A:北部九州最大勢力の奴国域内に畿内系住民が多数おり、奴国と畿内は密接な協調関係にあったと合理的に推定できる。この人的資源を背景として、伊都国の外港を管掌する位置にヤマト王権が強権的な監察者を置くことは十分に可能であったと思われる。
伊都国の王都域とされる三雲遺跡から今津湾に注ぐ瑞梅寺川の河口付近には、博多在住の畿内系住民が往来したとみられる特殊な拠点がある。
糸島は壱岐と強いパイプを有していたことから、弥生中・後期にあって対外貿易の利を独占的に享受していた経緯が、遺物から窺知される。
北部九州にあっても威信財の配布に於いて明らかに格差のある扱いを受けてきた辺縁部の首長にとって、対外貿易当事者の利権独占を制約する強権的な監視者の存在は有益である。
このような状況下で、畿内出自の流官が北部九州において、諸国が畏憚するような強制力を持つ機関を主導することには、これといった困難が認められない。 ◆FAQ 15
Q:鉄器の乏しい畿内の政権が覇権を握るのは無理だ!
A:倭人伝の描かれた卑弥呼の政権は覇権的でない。
宗教的権威者を核に、各地の首長が自主的姿勢で政治力を求心的に集約(共立)したものであり、考古学が解明した3世紀の状況とよく整合する。
一方、伐採用石斧の減少状況から鉄器の普及状態を推測すると、九州と畿内でも極端な格差が無い。準構造船(久宝寺南:庄内新)をはじめとする木製品の加工痕からみても、一定量の鉄器が普及していたと思われる。
遺存例には大竹西遺跡の鉄剣(弥生後期初頭)や唐古鍵40次調査の板状鉄斧、痕跡では加美遺跡Y1号周溝墓の鉄斧による伐採痕や唐古鍵SD-C107鉄斧柄、纒向遺跡メクリ地区の大型鉄器を研磨したと推定されている大量の砥石(3世紀前半〜中頃)など。
鍛冶を伴う遺構は纒向石塚の北東200m近辺出土の鞴羽口や鉄滓等(3世紀後半)、淀川・桂川圏で中臣遺跡(京都山科,弥生後〜古墳初)、西京極遺跡(京都市内,弥生後前)、和泉式部町遺跡(右京区,弥生後〜古墳初)、
南条遺跡(向日市,弥生後前)、小曽部芝谷遺跡(高槻,弥生後)、美濃山廃寺下層遺跡(八幡,弥生後後)、星ヶ丘遺跡(枚方,弥生後後)、鷹塚山遺跡(枚方,弥生後後)、木津川圏で田辺天神山遺跡(京田辺,弥生後〜古墳初)など。
纒向での鉄利用状況については、大型建物D隣の大型祭祀土壙SK-3001より出土したヒノキ材(庄内3)の分析で、その加工痕及び周辺で植生上少ないヒノキの多用という状況から
「集落を包括した工人専業集団の発達がなされ、鉄器が一般使用または使用できる集落」(金原 2011)
と結論されている。
弥生終末期(庄内新相)の畿内中枢に於て遺物が直接土壌と接触しにくい墓制が普及し始めると同時に俄かに豊富な鉄器が登場するという状況を鑑みると、畿内の土壌の特性が鉄器の遺存状態に大きく影響していたことには疑問の余地が無い。
◆FAQ 16
Q:記紀には卑弥呼に当たる人物が登場しない!
九州の邪馬台国と大和朝廷が無関係だからだろう!
A:3世紀の史実を、8世紀に書かれた記紀が逐一忠実に反映しているとは期待すべきでない。
ことに、記紀の成立した当時の国是は治天下天皇が外国に朝貢した歴史を容認しない。 ◆FAQ 17
Q:三国志の東夷の部分は短里で書かれていたのだ!
A:同一書の中で説明もなく、同名の別単位系を混用するのは不合理である。
また、倭人伝の里程を現実の地理と突合した有意な規則性は。未だ提示されてない。
よって短里という単位系を帰納することは不可能であり、短里は存在しないと言える。
このことは白鳥庫吉(1910)以来縷々指摘されているが、有効な反論がない。
◆FAQ 18
Q:3世紀の科学では、目視出来ない長距離の直線距離も天測によって求めることが出来た筈だ!
A:いかなる史料上にも、3世紀に其のような測定実施の記録がない。
万が一にも其のような測定が有ったなら、倭人の国々が魏の許都から遠からぬ程度の南方に過ぎないことが明らかになるので、倭人伝の記事と齟齬する。
したがって測定は存在しない。
また、魏代の三角測量技術を示す当時の史料上では1里=1800尺であることが明瞭であり(『海島算経』劉徽,A.D.263)、多数出土している尺の現物と突合すれば、異常に短い架空の里単位系が実在しないこと、これ明らかである。
西漢代には淮南子(淮南王劉安B.C.179〜122)に「一里積萬八千寸」とあり、漢書食貨志の「六尺為歩」と整合する。
西漢末成立と考えられる周髀算經においても
「即平地径二十一歩.周六十三歩.令其平矩以水正
則位径一百二十一尺七寸五分.因而三之.為三百六十五尺四分尺之一」
とあり、1里=1800尺が維持されている。 ◆FAQ 19
Q:釜山〜対馬あるいは対馬〜壱岐の距離は、信頼できる基準ではないか!
これに基づいた里程論で、邪馬台国は九州島内に求められる!
A:1〜2例から単位系を帰納すること自体が手法として非科学的であるというより、帰納の方法論に反する。ましてや、海上の距離のような測定困難な値から、古代の単位系を逆算することはナンセンスである。
新しいものでは、1853年の『大日本海岸全圖』にまで釜山〜豊浦(対馬北岸)は48里と書かれている 。江戸時代の48里は約189kmであり、海保水路部距離表に基づく釜山〜佐須奈間は34海里(=63km)である。
江戸時代に1里が約1,300mという「短里」があったであろうか? 否、間違った距離情報があっただけである 。
まったく信頼性のない情報を用いて得た邪馬台国の比定地は、当然ながら信憑性が無い。
逆に、郡使の「常所駐」と記される伊都国から奴国の距離「百里」を、有効数字一桁(50〜150里)の範囲で三雲遺跡から日向峠越えで博多南遺跡に到着するまでの実距離20km超と突合すると、正常な中国の単位系(1里=1800魏尺)で十分に解釈可能である。
魏人或いは楽浪人の実見した可能性が最も高い地域で現実性ある数値が得られていることは、空想上の単位系を前提とした邪馬台国論の空虚さを物語っていよう。
◆FAQ 20
Q:倭人伝の里程はすべて概ね実距離の1/5〜1/6
これで説明が付く!
A:そのような整合性は認められない。
考古学的知見から、帯方郡治は鳳山郡智塔里の唐土城、狗邪韓は金官伽耶に比定される
対馬国邑は不確定ながら、一支国邑は原ノ辻、末盧は唐津市中原付近、伊都は糸島三雲、奴は那ノ津に求めることが出来る。(不弥は説得力ある比定の材料を欠くため、候補として宗像から遠賀地域を示唆するに留む)
信頼に足る実測に基づく限り倭人伝記載の里程には有意な規則性が認められず、倭人伝の里程には多数の間違いが含まれることになる 。
郡から九州本島に至るまでの距離は、ちょうど1万里になるように机上で創作ないし強引に調整されたものであると考える方に妥当性があろう。
九州説の重鎮たる白鳥倉吉が、現実の地理と照合して里数に有意な規則性が見出せないことを以て里程に基づいた邪馬台国位置論の抛擲を提言(白鳥1910)してより、既に100年が経過したが、有効な反論は提起されていない。 ◆FAQ 21
Q:箸墓の周濠から馬具が出土している!
箸墓の築造は5世紀に近いとみるべきだ!
A:箸墓(箸中山古墳)の周濠が機能停止して埋没する過程で堆積した腐食土層より、廃棄された木製輪鐙が布留1式土器とともに発見されている。つまり周濠が機能して流水が通じていた時期にシルト層が堆積した時間幅に続いて腐食土の堆積した時間幅がある。
箸中山古墳の築造を布留0古相の3世紀第3四半期、布留1を西暦300年前後±20年程度とする実年代観と矛盾しない。
このような摩擦的な遺物の存在は、魏晋朝と纒向の初期ヤマト政権の交流による断片的な馬匹文化の流入と途絶を示すものとして合理的に理解される。
中国本土では前漢代雲南省「シ眞」(テン)国の陶俑の片鐙、郡県内では湖南省西晋墓の陶俑片鐙(西暦302年埋葬)が最古発見例で、現物は西暦340年の河南省出土例まで降る。
三国志には魯粛が下馬する際に孫権が鞍を支えた記述があり、鞍に装着された昇降用片鐙に体重が懸って鞍が傾くの防いだ状況が窺われる。
西暦302年時点で騎馬に従事しない陶工が正確に描写できる程度には普及が有ったと見ることが出来ることからも、4世紀初頭に日本列島で現物が出ることに不合理はない。
◆FAQ 22
Q:歴博がAMS法による土器付着炭化物のC14を測定、箸墓の築造年代を西暦240〜260年と発表した! これは信用ならない!
同じ層位から出土した桃核が100年約新しい年代を示しており、こちらが信用出来る!
A:箸墓(箸中山古墳)で発掘された桃核のひとつが1σ西暦380〜550年という数値を示しているが、2σは西暦245〜620年である。
もう一個が1σ西暦110〜245年であり、土器付着炭化物の数値群と整合性がある。
つまり、桃核の測定値が系統的に新しい年代を示すとかいうのではない。
考古学的常識を大きく逸脱した一個の異常値を盲信するのは非科学的である。
炭化物の多孔性が持つ吸着力はコンタミネーションのリスクを伴うことも含め、統計的に信頼に足る量の測定例集積を待つべきである。
逆に、矢塚古墳庄内3層位出土の桃核2つ(NRSK–C11及び12)並びに土器付着炭化物1つ(NRSK–6)は、揃って3世紀第2四半期前半をピークとする値を綺麗に示す。
http://i.imgur.com/rYVZcSP.png
これを、桃核なら信じられるという主張に則って庄内3の定点として信用した場合、後続する布留0古相を3世紀中葉とする歴博見解を強く裏付ける好材料となるであろう。
大型祭祀土壙SK-3001出土桃核他遺存体の測定結果もこれを強く裏付ける結果が出ている。(中村2018、近藤2018) 一部に土器付着炭化物の測定値が系統的に古い数値を示すという意見があるが、
そこで提示されている稲作到達以前の北海道の測定例は海産物由来のリザーバー効果で説明できる。一年草である米穀の吹き零れを測定した歴博例と同一視することはできない。 ◆FAQ 23−1
Q:卑弥呼の冢は円墳なのだから箸墓ではありえない!
A:「径」は円形以外のものにも用いられる表現である(ex.典韋の斧の刃:魏書18)ので、円墳と特定する根拠はない。
(河南省南陽市出土『武器庫図』より斧 魏晋代) https://imgur.com/IlJCqTA.png
また、築造過程で箸中山古墳は円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期がある。
基壇部は水平方向から見ると隆起していない。
よって、基壇部の築造企画が当初より前方後円型である事実は、方丘後付説を否定できる材料ではない。
箸中山古墳は以下の過程で築造されたと推定される。
1)地山周囲を馬蹄形に掘り込み基壇部と周堤、渡り堤等を削り出しで整形構築
2)基壇後円部上に円形に堤状の土塁構築
3)その内側を埋めて円丘の段築を一段完成、2)から繰り返し円丘を完成させる。
※ この時点で、基壇前方部から円丘頂上に向けてスロープがある。
4)主体部を構築しスロープより棺を搬入し、墳丘上で葬送儀礼を行う。
5)前方部基壇上に盛土と方丘を構築して完成
以上の段階1〜4で方丘が存在していない。
1)は基壇部や周濠の渡り堤が一体に地山から削り出されていることから
2)3)は椿井大塚山の事例(中島;山城町教委1999)から
スロープについてはアジア航測によるレーザー計測で「隆起斜道※」の存在が確認された。棺を搬入したスロープそのもの、乃至は墓壙に直結する作業用墓道を被覆して上陵儀典に墳頂に赴くため造成された通路である。
隆起斜道は、箸中山古墳では第4段テラスに接合して実用性が認められるのに対し、時代が降るとともに形骸化している。
※隆起斜道 https://i.imgur.com/8uOFpSp.png
前方後円墳の発生過程を考慮すれば、円型周溝墓の周溝を全周させず陸橋部を切り欠き残したのが前方後円型墳丘墓の祖形であり、前方部は墳丘に至る通路に由来する祭壇部である。
前方部突端を殊更に高峻化することには、墓道を閉塞して結界を形成することで墳冢を完成させる象徴的意味を見出すことが出来よう。
方丘築造が後出であるという判断は以下に拠る。
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 23−2
◯ 箸中山古墳の後円部と段築が接合しない(森岡2013立入)こと
◯ 箸中山古墳の円丘から降りてくるスロープ(隆起斜道)が墳丘くびれ部から前方部寄りの位置で、前方部盛土に遮られる形で消失し、墳裾に達しないこと
※ 初期古墳の墓壙構築は地鎮を含む数次の儀式を伴い入念に行われるのが通例で、更に棺の安置から埋葬は次期時期首長の即位儀礼そのものと直結すると考えられる。(西谷1964,春成1976)所用日数・参加人員共に少なくない。
◯ 同じ畿内中枢部の前期古墳である黒塚や椿井大塚山で、前方部と後円部で造成に用いた土質の相違が確認されており、一体施工でないこと
◯ 萱生の中山大塚では前方部と後円部で葺石の工法が異なり、且つくびれ部で後円部葺石が前方部盛土の下まで施工されており、築造に相応の時間差が想定されていること
◯ 工程上で後円部墳丘が先行する発掘調査確認事例が多数あること
・ 森将軍塚 :科野ー川西 I 期(矢島1985,86)
・ 前橋王山古墳 :上毛
・ 持塚二号墳 :上総
・ 高千穂七号墳 :上総
・ 山伏作一号墳 :上総
・ 長沖八号墳 :武蔵
・ 温井一五号墳 :能登
・ 見手山一号墳 :但馬
・ 西穂波16号墳 :東伯
・ 上種西一四号墳:東伯 帆立貝式
・ 高鼻二号墳 :伯耆
・ 日拝塚古墳 :筑前
・ 神松寺御陵古墳:筑前(以上 植野1984)
◯ 河内大塚など築造中に中断放棄されたと考えられる古墳で前方部盛土欠如があること
◯ 箸中山古墳円丘上に吉備足守川流域の胎土で製作された特殊器台が、方丘上に在地産の二重口縁壺がそれぞれ配置され(書陵部2018)、墓上祭祀の実施時期乃至実施主体に相違がある可能性が高いこと等
◆FAQ 24
Q:黥面文身は九州の習俗で畿内には無いだろう!
A:黥面文身を九州説の根拠とすることは不可能である。
黥面土器の分布から見て、弥生時代終末から庄内併行期にこの習俗が特に盛行したのは岡山県及び愛知県(設楽1989)であり、九州ではない。
両地域と深い交流のあった纒向に黥面の人々がいたことは確実であろう。
古墳時代の畿内にも、この習俗が濃厚に存在したことは埴輪から明らかである、
このように、倭人伝の黥面文身記事は九州説にとって不利な記述である。 ◆FAQ 25
Q:九州にあった倭国は大和の日本に取って代わられた! 旧唐書に明らかではないか!
A:7世紀或いはそれ以前の史実解明を、日本列島と国交のない10世紀の後晋で書かれた後代史料の新出情報のみに依拠するのは、学問的でない。
旧唐書では倭・日本別国説と倭→日本改名説が両論併記され、中国側の認識の混乱を示す。以下の各項等により、別国説は、壬申乱に由来する訛伝等とみて毫も問題ない。
・唐代成立が明らかな史料が、みな倭=日本と認識している事実
・唐会要(倭=日本と認識)にて旧唐書における錯誤の発生過程が時系列的に把握可能
・突厥伝で同一国異政権を「別種」と表記している事例が確認可能
後晋は僅か10年しか存続しなかった短命国家で、政変の頻発する中、旧唐書は編集責任者が転々とする過酷な環境のもとに編纂され、国家滅亡の直前に漸く完成をみた。
このためか、倭と日本が同一国でありながら伝が重複する不体裁を呈すのみならず、他にも同一人物の伝が幾つも重複するなど、他の史書に例を見ない杜撰が発生している。
◆FAQ 26
Q:古墳時代にあっても前方後円墳の企画が一律に展開しているわけではない!
ヤマトに統一政権があったなど幻想ではないのか!
A:日本列島における国家形成は弥生終末から急速に進展し、庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成されたとみられる。しかし、領邦国家の誕生は未だ遥か先である。
統一政権という語彙に、律令時代をも凌駕する近代的な地域的政治集団をイメージするのは、明らかに間違いである。
遠隔地同士の盟主的首長が、擬制的兄弟或いは親子的結縁で主に通商ルートに沿ってネットワークを構築し、網の目が列島の過半を覆った時点でも、それら点と線の合間には各個の盟主的首長には各地各個の敵対者もいるであろうし、中立的に距離を保つ者もいるのは当然である。
さらには、このネットワークの構成要素たる個別的関係が、世代を超えない当代首長単独相対の不安定な関係であったと考えられる。
なぜなら、被葬者の遺伝的形質から推定される当時の親族構造から言って、血縁的相続関係が各地首長権の安定的継承を保証し得ていないからである。
ゆえにこそ、首長権の継承を決定づける古墳の墳頂祭祀において、そのステージの造作や儀式の所作で、首長権の継承を保証する従属者の奉事根元声明(誄)とともに、上位者や盟友に関する外交関係の継続も宣言されたのであったと考えられる。
古墳の定型化はこういった政治的諸関係の公示を含む組織化・規格化にほかなるまい。 ◆FAQ 27
Q:ヤマトという地名が、奈良県に古くからあった固有のものという確証などあるまい!
A:ヤマト、カハチ、ヤマシロ、アフミなど、これら地理的特性を説明している地名は、古来のオリジナルと考えて支障えない。
ことにヤマトとカハチは対概念であり、確実にセットでオリジナルの古地名と考えるべきである。
◆FAQ 28
Q:九州には平原1号墓や祇園山古墳などに殉葬の例があるが、畿内の古墳には無い!
卑弥呼の墓があるのは九州だ!
A:平原1号墓、祇園山古墳ともに公式調査報告書は殉葬墓の存在を認めていない。
また、殉葬の奴婢たちが卑弥呼冢域に埋葬されているとする文献的根拠は無い。
参考事例であるが、始皇帝陵の陪葬坑はその多数が冢どころか陵園外にある。
日本の古墳においても墓域の認識は要検討であり、ましてや垂仁紀のように殉死者の遺体が遺棄されるのであれば痕跡も発見困難である。
墳丘本体での殉葬痕の有無を卑弥呼冢の判定基準にする考えには、合理性が無い。
◆FAQ 29
Q:魏への献上品に絹製品があるだろう! 弥生絹があるのは九州のみ!
A:献上品に含まれている高密度絹織物「縑」は弥生絹ではない。
高密度絹織物は弥生時代の九州には存在せず、奈良県下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)が初出で、景初の遣使が献上した班布がこれと推定(布目1999)されている。
九州の弥生絹は織り密度の低い粗製品で、弥生中期の発見例が多いが、弥生後期には衰退する。弥生末期はわずかな発見例のみで、品質的にも低く、織り密度も低下している。
一方で、古墳時代の絹生産は伝統的な撚り糸を用いながらも、弥生九州と比較にならない高密度の織布を行っている点で、技術的系譜が不連続である。
九州と畿内の絹生産は中国製青銅鏡の様相と酷似した推移を示していると言えよう。
「縑」に特徴的な、経糸と緯糸に併糸を加える技術で織られた大麻製織布が弥生中期の唐古鍵で発見されており、弥生時代における布の織り密度としては記録的に高い値を示す。(21・23次概報)
正始四年に倭の献上した絳青縑は赤色部分をベニバナで染色された「縑」であり、当時の纒向遺跡でベニバナの栽培乃至染色作業があった状況(金原2013,2015)と一致する。
茜染を意味する「蒨絳」の語彙が別途使用され、単独の「絳」deep redはベニバナ染と解される。
以上から、3世紀前半以前の畿内で絹織物製造の画期的技術変革があったと思われる。
九州説にとって不利な条件と言える。 ◆FAQ 30
Q:卑弥呼が死んだのは3世紀中葉と言っても3世紀前半のうちだ!
箸墓の築造と時間差があるだろう!
A:正始8年は帯方の新太守が赴任した年であり、卑弥呼はその着任を知って郡に状況報告の遣使をしたと考えるのが妥当である。よって正始8(西暦247)年は卑弥呼没年ではなく、生存の最終確認年である。
隔年の職貢が途絶したこの時から「及文帝作相、又数至」(晋書東夷倭人)とある景元4(263)年までを動乱期として捉えると、卑弥呼の没年は3世紀第3四半期の前半頃で、造墓開始がこれに続くものとみることができる。
「卑弥呼以死大作冢」とあるので、卑弥呼の死と「大作冢」の間には因果関係が認められ、寿陵ではないと判断できることと、卑弥呼の死の先立って張政の渡倭と檄告喩という政治的状況が開始している時系列を勘案した結果である。
以上から、大作冢の時期と箸中山古墳の築造とされる布留0古相の時期とには整合性がある。
なお、「以死」を「已死」と通用させてその死期を繰り上げて考える見解もあるが、通常の「因」の意味に解することに比べ特殊な解釈であり説得力を欠く。
また、「已」と解しても会話文の発話時点を遡るだけなので、地の文である本例では意味がないため、倭人伝の当該記事の記述順序を時系列順でないように入れ替えて読む根拠としては脆弱と言える。
このことは目前の用例からも明らかで、「已葬、舉家詣水中澡浴、以如練沐」の「已」が直前行の「始死停喪十餘日、當時不食肉、喪主哭泣、他人就歌舞飮酒」と時系列を入れ替えないことは誰もが知るところである。
解釈上も、繰り上げて卑弥呼の死を正始年中とすると、併せて壹與の初遣使も遡ることになり、不合理である。
「田豐以諫見誅」(魏志荀ケ)、「騭以疾免」(歩騭裴註所引呉書)、「彪以疾罷」(後漢書楊彪)などの用例に従い、「(主格)以(原因)→(結果)」の時系列で読むのが順当である。
なお、倭人伝自体に正始8年以降の年号記載がないが明らかにそれ以降の記事が載っていることを勘案すると、張政派遣に関する一連の記事は嘉平限断論に基づいて書かれた改元以降の事柄である可能性が高い。 ◆FAQ 31
Q:投馬国はどこに比定するのか?
A:畿内説の場合、投馬国を吉備玉島や備後鞆あるいは出雲に当てる説が従来から知られている。
考古学的に見て3世紀には瀬戸内航路が基幹交通路であったと見る立場、及び初期ヤマト政権の形成と勢力拡大に吉備が大きく関わっていたと見る立場からは、
これを早鞆瀬戸や鞆の浦など鞆(船舶の部位名称)を含む地名や玉島・玉野など音韻的に近似する地名が多く分布するところの、瀬戸内航路に深く関連する地域的政治集団の連合体とみる見解が、整合性の上で有力視されよう。
もとより、交易ルートを分有する首長は利害を共有し易く、強固なギルド的連合を組成するインセンティブが存在する。
氏族名の上では上道氏・下道氏の祖に御友別の名が見られることも興味深い。
弥生終末から古墳前期の基幹交通路には、吉備形甕の分布形態から、博多湾沿岸→周防灘→松山平野・今治平野→備後東南部→吉備→播磨・摂津沿岸→大阪湾→河内湖→大和川→大和というルートが推定(次山2009)されている。
https://i.imgur.com/TFlMqXz.png
また河内産庄内甕の伝播経路を、(播磨〜摂津〜河内)間を陸路として外を同上に見る見解(米田1997)も上記を裏付ける。
これら瀬戸内ルート説は、海水準低下に起因する日本海航路の機能低下を鑑みると妥当性が高い。
優れて規格性・斉一性に富んだ吉備形甕の分布域は、博多湾域への大量搬入を別とすると、東においては揖保川流域で畿内第第V様式圏と重なり、西には芸予・防長の文化圏と予州で重なる。
伊予以西から博多湾までは吉備形甕、庄内甕及び布留甕みな大きな集中がなく沿岸部に点在しており、吉備・伊予を核として各地沿岸部の小首長が協調的に交易ルートを維持し博多湾に到達していた状況が窺知される。
吉備は葬儀用器台文化の中心であり、瀬戸内・畿内は勿論のこと西出雲や但丹狭にまで影響を及ぼしている。
弥生後期から古墳前期における吉備中南部の人口動態(松木2014)と、足守川流域における墳丘墓の卓越性から見て、中瀬戸内における港津性を有する主要河川ごとの首長の連合体の中核はこの地域を想定するのが妥当と思われる。
畿内色に染まって以降の那珂川地域と、足守川流域、ならびに纒向という3エリアの消長が時期的に一致していることは注目に値しよう。
これを倭人伝記載の三大国(奴・投馬・邪馬台)のアライアンスとして理解し、博多湾貿易を基軸とした政体が金海貿易への移行とともに解体するものと概念把握するのである。 ◆FAQ 32
Q:畿内説はなぜ記紀を重要視しないのか?
A:いかなる史料も史料批判が欠かせない。
3世紀の史実解明にとって、原史料すら成立が6世紀を遡る見込みの乏しい史料を使用することは、考証に要する労力負担が過大な割に成果の期待値が低い。
これが部分的利用に留まる所以である。
◆FAQ 33
Q:「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」
と倭人伝にある!
海を渡るとは陸続きでない場所に行くことだ! 女王国は本州にある畿内ではない!
A:陸続きの場所へも渡海する。伊勢から遠駿相総等への東海航路と見做して問題ない。
「夏六月,以遼東東沓県吏民渡海居斉郡界」(三国志三少帝)遼東熊岳付近→山東半島
「東渡海至於新羅、西北渡遼水至于営州、南渡海至于百済」(旧唐高麗)北朝鮮→韓国 ◆FAQ 34
Q:平原王墓の豪華な副葬品を見よ!
伊都国は隆盛のさなかである!
A:平原1号方形周溝墓の築造時期は弥生後半〜弥生終末とされるが、より詳細には、埋没の開始した周溝下層出土の土器相から、弥生終末(西新式直前)と位置付けられる。(柳田2000)
原の辻貿易が終焉にさしかかり糸島が対外貿易のアドバンテージを喪失することとなる時期に当たる。
副葬品は中国製青銅鏡を含まない鏡群中心で構成され、使用された金属素材は、鉛同位体比分析に基づけば一世紀ほども前に入手された輸入青銅器のスクラップであった可能性が高い。
当時は楽浪IV期(停滞期)にあたり漢鏡6期の完鏡舶載品が払底していた時期で、舶載鏡の多くが鏡片として研磨や穿孔を施して利用されていた。
国産の小型仿製鏡は漢鏡6期の破片を原料として利用することも叶わず、それ以前に舶載された所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)製品のスクラップを原材料としたと考えられるが、平原出土鏡の約半数がそれらと同じ素材で作鏡されている。
それらは漢鏡4期の舶載鏡素材に近い特徴を示している。
残り半数には上記領域をはみ出した素材(同WH領域)が用いられており、原料不足を異種青銅器スクラップないし異質の備蓄で補填した可能性がある。これらには山東省出土の戦国期遺物に近い特徴が認められる。
大量鋳造の中途で異種の金属素材が追加投入されるような状況は、荒神谷の銅剣で観察されている。(馬淵ら1991)
後漢鏡に用いられる金属素材は、漢鏡5期の早いうちに所謂前漢鏡タイプ(馬淵W領域)から後漢鏡タイプ(同E領域)に移行している。
平原1号出土の大型乃至中型仿製鏡群は、漢鏡4期及び5期の模倣作であり、かつ後漢鏡タイプの金属素材を使用せず、かつまた北部九州で拡散することがない。
いづれも古墳時代の仿製鏡や復古鏡とは断絶がある。
後続する2号以下にはめぼしい副葬品は発見されておらず、規模的にも退潮が明らかである。
このように、「絶域」時代で、大陸系文物の入手経路と、倭国の代表たることの背景としての漢朝の威光が共々喪なわれ、また博多湾貿易への移行によって経済的基盤も喪失している状態である。
以上より、平原1号は、伊都国当事者にとって自分たちの凋落が決定的という認識のもと、大規模とは言えない墳丘墓の被葬者のために年来の保有資産を思い切り投入した墓所、という様相を呈していると見ることができるであろう。 ◆FAQ 35
Q:当時の出雲には日本海側を総括するような大帝国があったのだ!
A:四隅突出型墳丘墓の分布域は一見して山陰・北陸を糾合しているかに見えるが、墓制の異なる但丹狭でもとから東西が分断されている。しかも雲伯と越、さらに因幡にも異なる地域性があり、墳丘規模的にも西出雲の西谷墳墓群が隔絶して卓越するとは言い難い。
ことに西出雲西谷が最盛期にあって因幡の西桂見がこれらを凌ぐ規模であることに加えて、葬儀用器台の文化が吉備から直接流入しているのは西谷のみである。
以上より、各地域の自主性ある地域的独立政権を成員として統一的指導者なき緩やかな同盟関係があった可能性、という以上の想定は困難である。
ことに越地域は、雲伯との政治的連携があった形跡が希薄であることが指摘されている。(前田1994,2007)
一方で、西出雲の西谷墳墓群は、草田3(弥生後期後葉・楯築墳丘墓や平原1号墓と同時期)から草田5(庄内後半併行、布留0含まず)の時期に最盛期を迎えたあと急激に衰退する。
それでも弥生中期以来の文化的伝統を保持したまま、古墳時代に入ってもヤマトの文化圏に呑併されずに、独自性を保った地方首長として永く存続した特異な地域である。
国譲りの神話は、ヤマトに従属的とはいえ同盟関係であった地方政権(※)が、5世紀以降に分断・解体の圧力に晒され宗廟祭祀の存続保証と引き換えに独立性を著しく減衰させていく、という政治的状況を反映した後代所生の教条的逸話と考えるべきであろう。
弥生後期から古墳初期の史実を追求するにあたって、記紀に基づいて出雲を過大評価することは非現実的である。
同時に、北部九州勢力等に武断的に征服された等と過小評価することも、全く非現実的である。
※神原神社(箸中山古墳に後続する3世紀後半、三角縁紀年銘鏡を蔵)が四隅突出墓から方墳に退行した直後段階と評価できる。 ◆FAQ 36
Q:弥生中〜後期に隆盛を誇った伊都国は、終末期にもヤマト政権発足に関して強いイニシアチヴを発揮している筈だ!
A:伊都国は、3世紀前半から半ばにかけ北部九州で畿内系土器が拡散する状況下において、極めて閉鎖的であったことが明白であり、伊都国側が政治的に有利な立場は観察され難い。
博多方面で外来系に対して閉鎖的な在地集団が集団間の階層差において劣後する状況も鑑みる必要があろう。(◆7参照)
文化面においても、打ち割りタイプの銅鏡祭祀は従前より既に列島各地に波及していることから、その淵源が北部九州であっても畿内に対して影響力を有したとは評価できない。
また、畿内で主流となる護符的用途の完鏡祭祀(囲繞型をとる非破砕祭祀)は畿内で完成したもので、伊都国の影響ではない。
吉備ー畿内で支配的な器台祭祀が九州に見られないこと、精製三器種による祭祀は畿内から九州に入ったこと等を見ても、宗教面で伊都国がヤマト政権に先駆的であるとは見られない。
なにより、漢鏡6期流入段階では既に糸島地域(伊都国)は漢鏡流通の核としての機能を停止しており(辻田2007、上野2014など)、仿製鏡の製作者としてもこれを流通に供して威信財供給者として影響力を行使することがない。
那珂川流域(奴国)が規模を縮小しながらも小型仿製鏡の生産と供給を維持しているのと対照的である。
伊都国の文化的先進性は、古墳文化に消化吸収された源流の一つという以上の評価は難しいであろう。
◆FAQ 37
Q:特定の戦役が考古学的に存在確認されることなど滅多にない
纒向が九州勢力に征服されたことを考古学的に否定など出来ない筈だ!
A:纒向遺跡は、土器相・葬制共に畿内と複数辺縁地域との相互作用によって累進的に発展してきた遺跡である。
外部の特定地域からの支配的影響力は認められない。
これが総花的・キマイラ的と言われる所以である。
ことに高塚化の希薄であった北部九州については、根本的に社会構造が違っていたと見られ、畿内側が一貫して北部九州の政治的様相に影響を与える側である。
古墳時代のモニュメント型社会の根幹を形作る突出部付円丘の墳型もまた2世紀末から畿内に胚胎していた因子の史的展開経路上にあり、箸中山から西殿、行灯山、渋谷向山と大王級古墳が連続する。
ヤマト王権が2世紀末の形成期から4世紀中葉まで、外部から侵略等を受けることなくこの地に連続的に存在していたことに、疑問の余地はない。 ◆FAQ 38
Q:纒向遺跡は一般人の住む竪穴式住居がなく、首都たり得ないのではないか!
仕えているはずの多数の侍女や警護の兵士はどこに住むのだ!
A:一般人の居住空間が宮城を囲繞する中国式の城市は持統朝を待たねばならない。
意図的企画により建設された纒向遺跡は、首長居住域も集住環境の埒内にある弥生時代の大集落とは一線を画しており、内郭が独立し宮殿及び禁苑域が発生した萌芽的政治首都と評価できる。
金文の「宮」が並行する複数建物と囲繞する方形牆垣からなる朝政空間を象形していることからも、庭院と回廊性の屋外空間を伴うこの大型建物群は宮殿の要件を具備しているといえよう。(FAQ79参照)
古来中国の宮都造営は河川の利用と改変を伴うのが常で、多くの場合に漕渠が開鑿される。
この点も、矢板で護岸工事を施した長大な大溝の掘削で開始した纒向遺跡との類似性が認められる。
「自為王以来少有見者、以婢千人自侍、唯有男子一人給飮食伝辞出入。」
とあるとおり、卑弥呼に近侍するもの寡少で、その居処が一般人の居住区とは隔絶していた状況が窺知される。
纒向遺跡の示す非農村・非居住空間性、祭祀空間性といった性格と合致していると言えよう。
霊的威力者と信じられている者が一般人と雑居しないことは民俗的に肯われるが、弥生末に拠点集落が解体して内郭が首長居館を為す方形区画として独立化している傾向とも平仄が合う。
大溝の建設や、封土の運搬量が五百〜千人日×十〜五年とも言われる箸中山古墳をはじめとする土木工事跡は、相当の人口が纒向で労働していた証左である。
農村型集落でないにも拘らず居館域下流の水路で多量のイネ科花粉が発見されていることで、稲籾や雑穀など穀類の集積的収蔵があったことが判明していることも、これを下支えする。
にも拘らず大規模な倉庫群が未検出である(豊岡2018)ことは、初瀬川の水運も有之、相当の昼間人口の参集が可能な交通環境も鑑みれば、
弥生的大型集落が発展的に分散・解体したとされるこの時期、纒向遺跡の近傍に郊外的居住環境が展開し有効に機能していたことが確実である。
侵入経路の限定される奈良盆地自体に防衛上の利点があり、かつ四通八達の交通要衝でもある。
新生した倭国の首都と目するに相応しい遺跡といえよう。 ◆FAQ 39
Q:魏志によれば卑弥呼の都があるのは邪馬壹國である!
邪馬台国と呼び習わすのは畿内の大和と結びつけたい作為だろう?
A:倭人伝の記載する倭人固有語には日本語のもつ開音節言語の特徴がよく顕れており、閉音節であることを示す入声かつ二重母音となる「邪馬壹國」が、後世に発生した写本間の誤写であることは確実と言える。
女王所都の用字については12世紀を境に「臺」から「壹」へと移行して截然としており、誤写の発生時期が概ね明らかである。
◆FAQ 40
Q:倭があるのは会稽「東治」の東である!
九州でいいではないか!
A:孫策に敗れた会稽太守王朗が「東治」(拠 書陵部蔵 南宋刊「紹熙」本)へと敗走している。
http://i.imgur.com/BOEvc2X.png
行き先が東冶の候官(現 福州市冶山遺跡)であることは同行した虞翻ならびに追撃した賀斉の伝、並びに閩越の地と記す裴註所引献帝春秋にて明らかである。
福州市の東は沖縄であり、倭人伝の里程記事で邪馬台国所在地論争をすることの無益さを示す
◆FAQ17で触れた短里なるものを想定し難い証左でもある。
会稽東冶は、「会稽東冶五県」(呂岱伝)という用例からも判るとおり会稽郡東冶県の意味ではなく、同郡南部の通称的地域名(県名も当時既に冶県でない)である。
沿革も「李宗諤圖經曰…元鼎中又立東部都尉、治冶。光武改回浦為章安、以冶立東候官。」(資治通鑑所引注)などと紛らわしく、諸本とも治と冶の混用が多い。
東候官(故・冶県)は魏代・呉下は単に候官と称され、のちに会稽郡を分ち建安郡の属となった
このため、陳寿が三国志を執筆したとされる太康年間に会稽郡東冶県が存在しないことを以て東治は会稽東冶と別であるとする少数意見は、不合理である。
そもそも会稽東冶が郡県名でないのみならず、儋耳朱崖など晋代にない歴史的地名が同じ倭人伝に用いられているからである。
捜神記や大平広記に登場する「東治」も全て冶県を指す。現・福州が文献上も「東治」と記された唯一例であり、唯一の「東治」候補地である。 ◆FAQ 41
Q:平原1号を見よ!
九州には古くから三種の神器がある!
大和朝廷は九州勢力の後裔なのは明らかだろう?
A:その主張は、出現期古墳が鏡・剣のみで玉を欠く事実によって否定されている。
出現期古墳は、発生より2〜3世代は玉を副葬に用いない畿内の習俗を継続しており、文化的混淆が進むには未だ時間を要していた。玉を副葬する文化圏の出身者は頭初からは初期ヤマト政権の中枢に参与していないと判断できる。
また、王権の象徴たるレガリアは、世界史的に見て被征服者から征服者に移転する傾向が強い。
記紀においても、榊に伝宝である鏡・剣・玉を懸垂して征服者を迎える降伏儀礼が記されている。(景行紀、仲哀紀)
畿内系土器は、葬送祭祀の供献土器として、古墳時代に系列的に展開する大王級古墳に採用されている。これらの受容に極めて消極的(FAQ36参照)であった三雲遺跡の支配者が、初期ヤマト政権と政治権力として連続しているという想定には、微塵も現実性がない。
弥生後期以降盛行した小型仿製鏡は主に内行花文鏡と同じ連弧文鏡系列に属すが、弥生後期のうちに分布が畿内圏まで達しており、その供給地は那珂川流域に求められる。
平原の八葉鏡は仿製鏡として独自の簡化と肥大化を遂げており、系統樹では古墳出土鏡の系譜に繋がらない枝葉に属する。同じく大宜子孫銘鏡(径27.1cm)も異形の内行花文鏡である。
これに対し、古墳出土の国産大型内行花文鏡は細部の仕様に倭臭を加えつつも、基本の幾何的設計原理(※)を舶載内行花文鏡から踏襲しており、系譜的に平原と断絶している。平原出土鏡と古墳時代に盛行する内行花文系仿製鏡との間のヒアタスは大きいといえよう。
※内行花文鏡の幾何的設計原理
円を8分割し、円周に内接する正方形を得る。
この正方形に内接する円を、雲雷文帯と連弧文の基調線とする。
この基調線の1/2径の同心円を圏帯の基調線とし、その内側に柿蔕鈕座を配す。
この、コンパスと定規だけで笵上に描画できる設計原理が、舶載の長宜子孫内行花文鏡から大型仿製内行花文鏡(柳本大塚、下池山など)に継承されており、平原鏡と異根である。これらが同笵鏡を持たないことも平原鏡と異質である。 ◆FAQ 42
Q:初期の布留式があちこちで古式新羅伽耶土器と一緒に見つかっているではないか!
新羅の建国の頃まで時代が下るのだから当然箸墓は4世紀の古墳だ!
A:古式新羅伽耶土器とは新羅や伽耶という国の土器ではなく、新羅と伽耶の地域性が発現する以前の時代の土器を指す用語(武末1985の定義による)なので、単純な誤解である。弁辰韓V期(後期瓦質土器)に後続する年代の様式とされており、箸中山古墳の年代とも矛盾しない。
弁辰韓V期初期の良洞里162号墳では最終段階の弥生小型仿製鏡と漢鏡6期が共伴する。
申敬Kは慕容鮮卑による扶余の崩壊に起因する事象として木槨墓 II類の成立を捉えて大成洞29号墳の実年代を求めたが(申1993)、文献解釈として説得力ある根拠とは評価できない。
しかし両耳付陶質短頸壺の成立を西晋陶磁器の影響下にあるものとした申編年には説得力があり、3世紀第4四半期に位置付ける結論には問題がない。
定角式銅鏃の編年により椿井大塚山(布留1)がこの直後の年代に位置付けられる。
申編年による大成洞29号墳の陶質土器金官伽耶I期は久住 IIB期に併行するが、申が同じI期に含めた良洞里235号墳は前段階である弁辰韓V期に編年されており(高久1999)不整合である。
良洞里235号墳を木槨墓I類とみる金一圭は、嶺南の陶質土器編年をより詳細に10段階に細分して陶質土器の初源をもう一段階古く3世紀半ばから(金2011)とした。
これは忠清道系陶質土器を共伴する加美周溝墓の庄内 II〜III(久住IB〜 IIA)や、久宝寺の瓦質土器(弁辰韓V期)模倣品の年代と整合性がある。
参考事例に西暦250年代とされる昌原三東洞2号石棺墓に副葬された硬質(陶質)土器短頸壺(釜山女子大学博1984)がある。
嶺南の陶質土器が形態上西晋陶磁器の影響下にあるとする前提は、より二郡に近接する忠清道系の陶質土器の起源がもう一段階古いとする動向と整合性がある。
このように日韓の交差編年は年々精緻化し、通説が強化されている。 ◆FAQ 43
Q:平原が2世紀末だというのは何故だ? 箸墓は何故3世紀半ばなのだ?
炭素や年輪は信用できないし鏡は伝世しているかも知れない!
確かな根拠などないだろう!
A:楽浪・帯方郡塼室墓は分類・編年すると
1B II型式→ 1BIII型式→ 1BIV型式と漸移的に変化している。
また、1C型式が1BIII〜IV型式の時期に亘って並存していた。
その築造年代を端的に示す紀年銘塼が
・1B II型式新段階の貞梧洞31号墳から興平2年(195)銘
・1C型式の鳳凰里1号墳から正始9年(248)銘
・1BIII−1型式のセナル里古墳から嘉平四年(252)銘
・1BIV型式の楸陵里古墳から太康四年(283)銘である
以上から
1B II型式新段階(2世紀末〜3世紀前葉:塼室墓最盛期、遼東系)
→1BIII型式(3世紀中葉:衰退期、非遼東系)
→1BIV型式(3世紀後葉以降:末期)
という実年代が得られており、このうち塼室墓1B II型式新段階が楽浪木槨墓V期と併行(高久2009)する。
凡そ公孫氏が郡県支配を再編し倭韓との接触を強化してから、倭人の魏への定期職貢が途絶するまでの楽浪郡再興期に当たる。
楽浪木槨墓V期は下大隈式に後続する西新(I式)及び庄内と併行する(白井2001)
また後期瓦質土器の登場は西新式と同時期である(李昌熙2008)
よって西新式直前の平原1号墓が2世紀末に、布留0(大和庄内最新層)の箸中山古墳が3世紀中葉後半に相当する。 ◆FAQ 44
Q:三角縁は存在しない年号が書かれている!
国産に決まっている!
A:景初三年から正始元年の改元事情を鑑るに、景初四年は実在したと考えざるを得ない。
史料上で抹殺された年号は珍しくない。
このような当事者しか知りえない事実は、中国製の証拠として有力である。
中国皇帝の即位は原則として踰年改元であり、即位後最初の正月に改元と共に慶賀の大会が催されるが、魏明帝は景初三年正月元日に死去したため、即位祝賀と忌日が重なる事となった。
この問題の解決法として魏朝は、明帝の推進した三統暦思想を敢えて廃案にし、再び夏正月を採用し元日を一ヶ月のちに移動させた。(宋書志礼一)
最終的に後十二月として閏月扱いとなるが、忌日と新年の大宴会作楽を分離させる為には景初四年正月の実在が必須である。
この改暦議論は忌日直前の十二月に入って始めて議論が始まって急遽決定された事柄であるため、暦の運用に当たって混乱が生じるのは自然であり、幾つかの記事にその痕跡を留めている。
一例として「春二月乙丑、加侍中中書監劉放、侍中中書令孫資為左右光祿大夫。」の記事は、景初四年(正月壬午朔)でなければ干支が合わない。
景初中の倭女王遣使から正始元年の冊封使派遣までの間、景初三→景初四→正始元各年銘の銅鏡が慌しく制作される状況の想定は現実的であり、
従来より考古学者が推定する所の、相互に連携した複数工房で同時進行し急いで集中的に制作されたという三角縁神獣鏡第1ロットの制作環境と合致する。 ◆FAQ 45
Q:纒向遺跡に中国と通交した痕跡などあるのか?
A:◆1で略述したとおりである。
ホケノ山古墳は、3世紀に製作された後漢鏡や魏鏡、素環頭大刀などの武具を副葬品に蔵する。
箸中山古墳は、幾何的な巨大正円を築く土木技術が用いられた列島最初例であり外来の技術である。
その周濠からは萌芽的馬匹文化の痕跡(FAQ21参照)が見出された。
倭人が上献した班布や倭錦そして絳青縑(FAQ29参照)も重要である。
ベニバナ及びバジルという、これまで列島に存在しなかった植物の花粉等(金原2015)は、朝鮮半島での発見例が無く、中国本土との直接交渉の結果であると見るのが最も妥当である。帰属時期は庄内3頃(纒向61次:李田地区溝1-A、橋本2008)とされる。
同じく花粉の大量検出によって大型建物群の近傍に桃園があったことが確認され
(金原2011)、SK-3001出土の桃の大量供献事例と併せ、魏志上で張魯の教団と同じ「鬼道」という呼称を用いられている卑弥呼の宗教が初期道教の影響を受けた新宗教であるとする見解について裏付けが得られた。
文字使用に関わる考古史料は未発見であるが、大福遺跡出土の用途不明管状遺物(3世紀前半)に筆軸の可能性が指摘されている事実の指摘に留め、今後に期待したい。
また、纒向遺跡から遠からぬ萱生の下池山古墳(布留1式古段階:3世紀末)からは、中国にない超大型国産鏡を収納するための、国産ではあり得ない羅張りの夾紵製容器が出土しており、中国に特注したとしか考え難い状況が観察されている。(河上2008)
その入手時期は二郡との通交が途絶する以前に求めざるを得ない。
◆FAQ 46
Q:洛陽晋墓から連弧文と蝙蝠座鈕の間に円形のある内行花文鏡が出土している!
これが魏晋鏡だろう?
A:洛陽晋墓からは日光鏡や昭明鏡など前漢鏡も出ており、本鏡も伝世した後漢鏡と見てよい。
2世紀の鏡である。
内行花文鏡全般において、連弧文と蝙蝠座鈕の間にある圏帯は
内側に櫛歯文を伴う圏帯→櫛歯文が省略され圏帯のみ→圏線に退化→すべて消失
という順に簡化していき、漢鏡6期(2世紀)において圏帯、又は圏線のあるもの(VA)と既に消失したもの(VB)とが共存する。
蝙蝠座鈕内行花文鏡の場合は、圏帯のあるものがI型、無いものが II型と呼称される。
この前半タイプI型が共伴する遺物の紀年銘には
A.D.94(洛陽近郊出土),105(長安出土),191(洛陽出土)
などがある。
2世紀末時点で既に伝世鏡であろう。
雲雷文のない四葉座内行花文鏡の成立する漢鏡6期の始期も、自ずと明確である。 ◆FAQ 47
Q:魏志によれば「其國」には2世紀前半から男王が存在している!
2世紀末から始まる纏向遺跡では無理ではないか?
A:素より、「其國」=纒向遺跡と考える者は畿内論者には事実上いない。
魏志記す男王は、異説もあるが、後漢書謂う安帝永初元年請見せるところの「倭國王帥升等」とし、これを倭人の外交を事実上とり纏める立場にあった伊都国王に当てる見方が有力であろう。
これに倭国王と称すべき実態が具わっていたか否かについては寧ろ否定的に捉える必要がある。
弱体化した後漢帝室には東夷王度海奉国珍を積極的に求める動機があり、帥升「等」という表現からは倭国王をその他と隔絶した者として扱っていない漢朝の姿勢が窺知できるからである。
少なくともこの政治体制は、地域的統合の不首尾や甕棺分布域の縮小、漢鏡6期鏡の減少などから見て既に衰退期にあり、2世紀末には漢鏡を副葬する弥生首長墓の終焉とともに最終的な崩壊を迎えたものと推定される。(FAQ34,36参照)
倭国乱を収束に導いた卑弥呼共立と新生倭国の国家形成はこれと無縁であり、女王の都する所が桜井市纒向であることを妨げない。
◆FAQ 48
Q:そもそも纒向遺跡とはどの範囲を指すのだ?
考古学的に確認されているのか?
A:纒向遺跡は、考古学的な範囲確認調査により、旧烏田川河道から旧纒向川河道の間の扇状地に所在する複数の微高地上に展開する遺跡とされている。
遺跡建設の早い時期に大型の運河が開削され、また照葉樹系の花粉に代わり乾燥した人為地を好む草本の花粉が検出されるようになっており、計画的な開発行為が大規模に行われていた状況が窺知される。
桜井市教育委員会は旧烏田川河道北岸にも同遺跡が広がる可能性を指摘し、天理市にまたがる考古学的想定に基づいた遺跡全体図をも公表している(桜井市同遺跡保存活用計画書2016)が、柳本町及び渋谷町側で連続する遺跡は現状では確認されていない。
広大な遺跡であり、宮内庁を含めて地権者が膨大な数にのぼるため、調査には文化財保護法第四条3項はじめ種々の制約がある。
このため調査が及んでいる範囲は現状は未だ全体中の僅かな部分に過ぎないが、我が国における王権誕生への道筋を辿れる遺跡群として極めて重要視されている。 ◆FAQ 49
Q:光武が印綬を賜うた委奴国はイト国と読むべきではないのか?
A:古代音韻史が未発達であった時代の謬説であり、過去の遺物である。
今日の定説では「奴」をdoと濁るのは隋唐長安音であり1世紀の発音としてあり得ない。上古音nagが順当であろう。
また、范曄後漢書に先行する袁宏(東晋)後漢紀光武帝紀にも「倭奴国」として現れており、「委」が「倭」と同義であることに疑問の余地が無い。
魯宣公倭が委とも表記されることからも通用が明らかである。
「宣公 名倭。一名接。又作委。文公子。」(杜預左氏伝註)
さらに「委」、「倭」の子音はwであり、伊都国はyであるので全く発音が異なる。
固より光武時には已に「倭人」という民族名が知られており、此の文字を同じ倭人の国名表記に、民族名としての倭という語義を含意させずに固有名詞「倭奴」として用いることも、就中発音の異なる表音文字として使用することも、凡そ正常な用字とは考え難い。
また、正式の国名が複合語であるケースも「(女偏に若)羌」「車師後部」など珍しくない。
◆FAQ 50
Q:纒向の大型建物群はそれほど画期的で空前絶後なものなのか?
どこにでもありそうだ。
A:建物群が大小とも中心軸を共有する規格性を有することは画期的であるが、計画的配置という点では伊勢遺跡という先行例がある。
画期的と言う意味では、建物及び囲繞柵列が作る空間が「庭院と回廊からなる朝庭」的空間を想起させる点は、接面する幹線道路の質と相俟って、柵列を伴う倉庫群と一線を画す。
纒向全体の規模と計画性を鑑みれば、必然的に比較対象は飛鳥等の宮処となろう。
勿論、箸中山・渋谷向山・行灯山の規模を考えれば誉田山・大仙に対応する未発見の宮処がより上位であることは予察されるものの、現状では飛鳥時代の宮処以前に纒向の大型建物群に比肩するような知見はない。
単に床面積のみ着目すれば時代的に後続する七尾の万行遺跡SB02(布留0併行)は大規模であるが、立地ならびに構造から見て用途が宮処ではないので、比較対象外である。 ◆FAQ 51
Q:卜骨は九州にとって不利な条件ではないのだ!
壱岐や有明海沿岸で発見事例があるではないか!
A:九州説が倭人伝に照らして不自然である、という結論しか出ない。
灼骨卜占は倭人全般の習俗として記載され、考古学的知見と合致している。
郡使往来常所駐と云われる伊都国でその習俗が見当たらないのであれば、より重要な倭人の拠点ーー例えば女王所都のようなーーで目撃されたと推察するのが自然であろう。
壱岐で目撃され、奇異ゆえ印象的で記録に残ったとするならば、一支国の条に特記されるのが順当である。
弥生時代の卜骨の発見例は20都府県50余遺跡に及ぶ。
日本海ルートで能登・佐渡に、太平洋ルートで東海・南関東に波及し、弥生社会全般に広く流布した習俗と考えられるが、東山道・南海道及び九州本島で希薄である。
卜占を系譜的に辿れば半島よりの伝播であるが、博多湾岸地域に遺存例が無い。
壱岐島から飛んで因幡の青谷上寺地と大和の唐古鍵の二遺跡に集中があることは、海上交通ルートの歴史を考察する上でも興味深く、この習俗と海上交通に従事する職能集団との関係が窺知される。
年代的に推移を見ると、弥生前・中期に壱岐ー山陰ー畿内と点在し、後期に瀬戸内ー畿内が浮上するからである。
ことに、唐古鍵で弥生後期初頭に成立したと考えられる卜占の技術体系タイプが、後期末頃までに九州を含む全国に波及していることも、興味深い。
五畿での出土例は以下の摂河和各遺跡
新方・森之宮(摂津)
雁屋・鬼虎川・亀井(河内)
唐古鍵・纒向・四分・坪井大福(大和)
ことに唐古鍵では弥生前期から後期まで連続して複数存在する。 ◆FAQ 52
Q:纒向衰退後に邪馬台国はどうなったのだ?
A:双系制社会では平穏な地位継承でも盟主地盤が地理的に移動することが有り得るので、考古学的に見た中心地の域内移動は必ずしも政権交代とは断じられない。纒向の衰退は、◆8で述べた経済基盤の変化のほか、祭祀型盟主からの質的変化を含意している可能性がある。
奈良盆地内でも有意な地域集団は、式のほか葛城と添がある。大王級古墳の消長から見て、纒向(式)につぐ次期宮都は添の平城宮下層が有力候補地となろう。南山城・近江との関係が興味深い。(参考:塚口2012)
巨大集落遺構の確認されている葛城地域は対応する大王級古墳を欠いており、河泉との関係において更なる探求を要す。
甲冑保有形態から筑紫の老司・鋤崎両古墳が畿内の前期政権に近しい旧来の地方首長で、畿内の中期政権からは寧ろ牽制対象であったとする分析(藤田2015)には、式・添と河泉・葛城の間で盟主系譜の不連続が示唆されている。
◆FAQ 53
Q:一大率は女王の膝許で、その威光の元に権勢を揮ったのだろう?
A:諸国を畏憚せしむるような勢力者が特置され、その治所が伊都国に在ることは、博多湾岸が女王の都からは直接統治の容易でない遠隔地にあることを示す。当時は最も注意すべき検察対象に治所を定めたと理解するのが自然であろう。
此の「大率」の用字や発音が「襲津彦ー沙至比跪」や「筑紫率」と通底することは興味深い。
刺史は中央が派遣して地方に駐在する勅任官であり、任地の州に治所を置き地方官人事を三公府を経ず皇帝に劾奏する刺挙の吏である。
定期上奏は東漢初に在地出身の上計掾史の職務(続漢書所引東観漢紀、続漢書百官志州郡)へと合理化(「州牧自ら還りて奏事するを断つ」光武帝紀)改革されている。
秩禄の軽重や地方行政への関与度は年代により異なるが、監察官・軍監の職能と皇帝の使者としての性格は変わりない。
この刺史に類比されることで、大率が遠隔地に赴任して来た流官であることは明瞭であろう。但し、此の様な地方転出者が容易に土着して在地首長化することは、後世の少弐氏など枚挙の例に事欠かない。 ◆FAQ 54
Q:一大率は女王国以北に置かれているんだ!
以北ってことは女王国も含むんだぞ!
A:実際の用例ではそうならない。
「從右北平以東至遼…為東部、從右北平以西至上谷為中部…從上谷以西至燉煌…為西部」
(三国志所引魏書鮮卑)
「自單單大山領以西属楽浪、自領以東七県都尉主之」
(三国志東夷伝濊)
「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡」
(同韓伝) ※屯有県は楽浪に属す。
◆FAQ 55
Q:韓は倭と「接」している。地続きだ。
狗邪韓国は倭人の国の一つだぞ!
A:「接壌」とあれば地続きであるが、「接」だけでは根拠にならない。
外接遼東、得戎馬之利(続漢書孔融)
山東省の刺史が遼東と「接」
訶陵國、在南方海中洲上居、東與婆利、西與墮婆登、北與真臘接(旧唐書南蛮)
海中の島国がカンボジアと「接」
狗邪(伽耶)は金官国、安邪(安羅)は咸安郡と、3世紀に主要な遺跡のある半島南岸は弁辰の諸韓国で占められ、3世紀前半は弁辰韓V期の文化圏である。(高久1999,久住2006,朴2007)
倭人の国ではあり得ない。 ◆FAQ 56
Q:「世有」は「代々」という意味ではない。「魏の治世に」という意味だ!
A:「世有」には「代々…」という意味と、「世間には…」「この広い世界に…」などと訳すべき用例がある。「魏の治世に」という意味はない。
「世間に…」in the world の用例
・「世有人愛假子如孤者乎?」(魏氏春秋秦朗)
・「世有仁人、吾未之見。」(先賢行状王烈)
・「世有思婦病母者、豈此謂乎!」遂不與假。吏父明日死,思無恨意。(魏略王思)
・「世有亂人而無亂法」若使法可專任、則唐虞可不須稷契之佐、
殷周無貴伊呂之輔矣(杜畿子恕)
※範囲は全世界、時代は魏朝に限らず、いつの時代にも不易
※これらは不特定者someoneの存在を示唆する例である。
「代々…」の用例:
・魏因漢法、母后之號、皆如舊制、自夫人以下、世有搗ケ。
太祖建國、始命王后、其下五等…(后妃傳第五)
※漢朝下の魏王の頃から魏朝まで代々変更を重ねている。
・世有名節、九世而生寧。(傅子管寧)
※田斉を去った管仲の子孫が、漢代に北海で家を再興してから9代目が管寧
・袁氏子孫世有名位、貴達至今。(裴註袁渙)
※袁渙の父は漢朝の司徒、渙は魏武に重んじられ、子孫も顕官に達し晋朝に至る。
・今汝先人世有冠冕(王昶)
※のち魏の司空となる王昶が子と甥に語る訓戒
昶の伯父柔は漢護匈奴中郎将、父澤は代郡太守、兄で甥の父機は魏東郡太守
当然ながら先人は王昶一人のことではなく、父祖代々を指す。
・臣没之後、而奮乎百世、雖世有知者、懷謙莫或奏正(翻別傳)
※百世に亘って代々を想定 ◆FAQ 57
Q:弥生時代に前史を持たない纒向がなぜ宮都の地に選ばれるのか?
必然性がない!
A:奈良盆地は古奈良湖の消失過程にあり、河道周辺の未乾燥地を稲作向きの農地へと、木製農具でさえ容易に開墾可能であった。
この特性により、奈良盆地は高い人口吸収力を有し、移民を誘致しやすく、首長権力の伸長(◆6参照)を可能とする立地条件を具備していた。
法隆寺付近や島の山古墳の東西に弥生遺跡が分布していることで、当時既に古奈良湖の痕跡は極めて狭隘な残存部分しか存在していなかったことは明らかである-
https://i.imgur.com/V3UEFm4.png 「大和弥生社会の展開とその特質」寺澤2016
( 奈良盆地の弥生時代の遺跡分布と基礎地域 『纏向学研究 4』 p6 図2)
-が、河合町の川合浜等の地名からも判明するとおり、奈良盆地各地を縦横に結ぶ大和川水系の水運は近世まで盛んであった。
居住に適した微高地を水稲耕作に適した低地が囲む単位集落が無数に発生し、それらが水運で結ばれることで、自然国境に局限されない国家形成を支えるインフラが予め準備されていたと言える。
加えて、三輪山麓は交通の要衝(◆4参照)である。東海S字甕の拡散ルートである東山道に依存せずに交易ルートを東に伸ばすには、初瀬街道から中勢に抜けて海路を確保するのが要諦であった。
大和川水系に属し、且つ、上つ道で淀川水系を経て摂津山背・東国・北陸・但丹狭へ通じる交通網の多重結節点である当地には、塞の神が祀られる必然性がある。
畿内及びその隣接地各地の首長が会盟し、調整の裁定を大巫女に仰ぐ場所としては、近隣首長の色が付いていない纒向の地が適切であろう。 ◆FAQ 58
Q:行程論で検証すると、畿内説は無理ではないのか!
A:行程記事には、方位・距離ともに誤情報が含まれていることが明らかなので、所在地比定には採用しないが、検証には用いる(関連:◆FAQ3)
「自郡至女王國萬二千餘里」のうち、九州本島到着までに萬餘里相当を費消済みであるので、行程解釈で伝統的な連続説或いは放射説の孰れに依拠しても、残余は1,300〜2,000里となる。
これは魏尺24cm×1,800尺=1魏里432m換算で概ね562〜864kmに相当する。
参考値として博多港より奈良県桜井市の三輪参道入口(大鳥居前)までフェリー航路と現代の道路上の通算距離を得ると、直行航路の場合概ね620km、寄港地11設定の場合概ね793kmとなり、妥当な範囲に収まり適合する。
「南至投馬國水行二十日」「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
より、連続説に依拠し所用日程を通算した場合
「大宰府海路卅日」(延喜式卷第廿四主計寮上)と照合して水行日程が妥当である。
備前が海路九日、備中海路十二日であり、内訳も整合する。
また、推古紀所載裴世清の旅程より
「六月壬寅朔丙辰、客等泊于難波津。是日以餝船卅艘迎客等于江口安置新舘」
「秋八月辛丑朔癸卯、唐客入京。是日遺餝騎七十五疋而迎唐客於海石榴市衢」
以上48日経過である。外交使節旅程の類例に照らし、陸行日程が妥当である。
さらに、里程1,300〜2,000里を日程合計60日で除すると約22〜33里@日で「師行三十里」(漢書律歴下)、「師日行三十里」(同王吉伝)等と整合性がある。
また、既知の日程から距離を逆算したと推定される類例がカローシュティ文書(楼蘭〜精絶)等に見出せる。上記通算日程60日に30里@日を乗じて1,800里が、25里@日の場合1,500里が得られる。
以上、結論として検証に耐える。但し、この試算は邪馬台国の位置比定に使用しない。 ◆FAQ 59
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
の起点は帯方郡である! 畿内に到着し得ない!
A:不合理である。
「南至」が「倭人在帶方東南大海之中」と矛盾する。
また
1「南至投馬國水行二十日」
2「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」
は構文が同じであり、「南至邪馬壹國」の起点を帯方郡とするなら「南至投馬國」の起点も帯方郡にせざるを得ないが、投馬国には水行のみで到着し得る。
よって韓地陸行説が蹉跌し、陸行日程が韓地で費消し得ないため帯方郡起点説は成立し得ない。
◆FAQ 60
Q:「南至邪馬壹國、女王之所都、水行十日陸行一月」のような日数表記が
「東行至不彌國百里」のような里程表記と混在するのはおかしいではないか!
所用日数を別に記したのだ。日数の起点は帯方郡である!
A:混在は珍しくない。単に情報の精度差と解するのが妥当であろう。
(且末國)去長安六千八百二十里。…西北至都護治所二千二百五十八里、
北接尉犂、南至小宛可三日行、…西通精絶二千里。
(精絶國)去長安八千八百二十里。…北至都護治所二千七百二十三里、
南至戎盧國四日行、…西通「手偏に于」彌四百六十里。
(ケイ賓國)去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六千八百四十里、東至烏「禾偏に宅の旁」國二千二百五十里、
東北至難兜國九日行、西北與大月氏、西南與烏弋山離接。
(烏弋山離國)王去長安萬二千二百里。不屬都護。
…東北至都護治所六十日行、東與ケイ賓、北與撲挑、
西與犂「革偏に于」・條支接。
行可百餘日、乃至條支。…自條支乘水西行、可百餘日、近日所入云。
(大月氏國)去長安萬一千六百里。不屬都護。
…東至都護治所四千七百四十里、西至安息四十九日行、南與ケイ賓接。
(姑墨國)去長安八千一百五十里。
…東至都護治所二千二十一里、南至于闐馬行十五日、北與烏孫接。
(漢書西域) ◆FAQ 61
Q:「到其北岸狗邪韓國、七千餘里」
これは実測したとしか考えられない!
誤りというなら誤りが発生した理由を明らかにせよ!
A:未知の単位系が存在すると帰納的に証明されていない以上、魏尺実寸に照らして誤りとするほかない。錯誤発生の原因特定は再発防止以外の意義を認め難い。
戦果報告は十倍にして公表する習慣があり「二郡遂滅韓」の戦果報告が誇張されていて不思議はない。 「破賊文書、舊以一為十」(国淵伝)
或いは「方四◯◯里」が「四方◯◯里」と同義に使用されることがあり、混用による錯誤も有り得る。
また、倭奴国王の朝貢が万里の遠国と顕彰された形跡が有之、これが規定値として固定され、渡海3回と按分された可能性を考慮する必要がある。FAQ58に述べた約2,000里と合算すると万二千里が得られる。
「建武之初…時遼東太守祭肜威讋北方聲行海表、於是濊貊・倭韓萬里朝獻」
(後漢書東夷)
「如墨委面、在帶方東南萬里」(如淳)
さらには、大同江河口の鎮南浦より仁川・木浦・麗水を経由して釜山に至る航路は1,296km(距離表S22)である。これを一里約400mで割り戻すと3,240里が得られる。
当時の船舶は航続距離が短かったため現代の航路より寄港地が多く迂回路分の距離縄伸びが大きいこと、江戸時代末まで対馬海峡が約3倍に誤認されていた歴史的事実等に照らせば、十分に許容範囲内の錯誤である。
このように、倭人伝所載の非現実的な里程の発生には幾らでも原因の想定が可能である。公文書に現れる両漢魏晋の度量衡に照らして其れらが間違いであると判定する以上の詮索は不要であろう。 ◆FAQ 62
Q:帯方郡や狗邪韓国をどこに比定しているのだ! 明確にせよ!
A:定説に従う。
金石文等により、楽浪郡治が平壌市楽浪区土城里、黏(虫偏に單)県が温泉郡城(山偏に見)里土城。南浦市江西区台城里は県名未詳。
帯方郡治が鳳山郡智塔里土城、郡の外港と考えられる列口県城が殷栗郡雲城里土城(南浦の対岸付近)、旧南部都尉治の昭明県城が信川郡北部面青山土城、長岑県城が信川郡信川邑、含資県城が安岳郡柳城里に比定される。
二郡は孰れも大同江水系に展開し、遺跡分布より、帯方郡は支流の瑞興江・載寧江及び西江流域流域、北を慈悲山、南を滅悪山脈の長寿山まで沙里院・鳳山郡・銀波郡・麟山郡、西を載寧郡・新院郡・銀泉郡・安岳郡・信川郡・殷栗郡・三泉郡・松禾郡の区域。
近代的道路が整備されるまで滅悪山脈は迂回せねばならず、同山脈以南で墓制も異なる碧城郡・海州市は郡の域外であろう。
以下、漢系遺物を多数出土する韓系遺跡が、伯済国とされるソウル風納洞・夢村から、月支国と目される天安清堂洞、そして泗川勒島、義昌茶戸里、馬山を経て金海まで海路で結ばれている。金海良洞里及び大成洞が弁辰狗邪(狗邪韓)国に相当する。
楽浪と濃密な交渉実績のある交易拠点遺跡が沿岸部や島嶼部に点在することから、沿海航路が重要な通交ルートであったことが明らかである。
◆FAQ 63
Q:旧唐書に「倭国者古倭奴国也」とある! 倭国は九州にあった倭奴国の後身なのだ!
A:「古○○也」は政治的連続を表さない。
同じ旧唐書に「(獣偏に奇)氏 漢縣、古郇国也」等とあるのと同じである。
唐の河東道(獣偏に奇)氏県は、周代の姫姓侯国であった郇国が戦国時代に滅び、変転を経て漢代に郡県に編入された地であり、姫姓郇国からの政治史的・系譜論的な関連は無い。
◆FAQ 64
Q:平均身長約160cmの集団で測定した歩幅が約73cmという報告がある!
径百余歩である卑弥呼冢は、100m超級の古墳ではあり得ない!
A:基礎知識の誤りである。
現代日本人のいう一歩は、古代中国ではケイ(足偏に圭)と呼ばれ、一歩は一挙足2回を指す。上記の歩幅調査資料は考古資料の魏尺6尺(=一歩)と綺麗に一致しており、その百余歩は箸中山古墳など、大王級とされる初期古墳の後円部径に合致する
ケイ、一挙足也。倍ケイ謂之歩。(小爾雅)
人践三尺法天地人、再挙足歩備隂陽也。(白虎通) ◆FAQ 65−1
Q:平原1号墓出土の八葉鏡は周長が8咫に相当する!
倭国の王権を象徴する歴史的遺物である!
A:史料的根拠、考古学的根拠ともに欠いた俗流説であろう。
考古的遺物による尺は
殷商:約16cm
西周:約20cm
戦国〜王莽新:23.1cm (安定的)
後漢初〜魏晋:24cm前後から微増傾向 (荀勗が再発見)
南北朝〜隋唐:30cm弱
と変遷しており、異民族流入の顕著だった克殷と南北朝に変動の画期がある。克殷期は女性の社会的地位下落に特徴があり、衣工尺の社会的影響力後退も首肯できる。
先秦〜両漢の中婦人は身長160cm未満、手長16cm台で殷商尺と概ね一致(岩田1995)する。後漢初時点で『説文』に周尺の8寸と表記される可能性があるのは、衣工尺として遺存した殷商尺と西周公定尺の関係であろう。
参考事例であるが、魯班尺と公定尺の関係も10:8に近い。
後漢尺の8寸を1咫と換算する史料的根拠はなく、中婦人手長の実態(男性18cm台、女性16cm台:岩田前出)とも齟齬する。まさに現行の公定尺なのであるから、「戦国時代から使用されていたので周尺である」という弁明も不合理である。
「咫」が計測単位として使用された事例も欠いており、上古の換算率のみが伝承された事例と考えるのが妥当であろう。
また、記紀に登場する「咫」は史料成立年代からみて後漢尺基準と見なす合理性がない。用字のみ共通な異根の単位系であろう。
記紀における八咫鏡は王権と関係ない使用事例も少なくなく、八咫であるから倭国の王権を象徴する歴史的遺物だ、とする根拠がない。
ましてや、鏡の大きさを周長で表記した実例もなく、現代的文学ロマンの産物と言わざるを得ない。
《古代中国の男女身長及び手長:岩田前出)
――――――――――MAN------------FRAU------
4500-3200B.C._____166.8 18.1 155.5 16.7
3000-2000B.C._____165.3 18.0 154.2 16.6
2015-1900B.C._____168.8 18.3 157.3 16.9
A.D.1979-__________170.3 18.5 159.0 17.1
(本項 続く) (承前)
◆FAQ 65−2
『禮記』王制には
「古者、以周八尺為歩、今以周尺六尺四寸為歩、
古者百畝、當今東田百四十六畝三十歩、
古者百里、當今百二十一里六十歩四尺二寸二分」
とあり、周尺のうちでも新古乃至大小の二種の存在が窺知される。
ここで、百二十一里六十歩四尺二寸二分=218,164.22尺であるので
これを古者周尺の百里(2,400尺)で割り戻すと1.10009今周尺=1秦漢尺が得られ、「今以周尺六尺四寸為歩」が「六尺六寸」の誤りであることが判明する。
この錯誤の原因は篆文の「四」と「六」の字形が類似していることに求めるのが伝統的解釈(孔広森:清朝)であり、出典の淵源の古さを暗示している。
この比率(今周尺=秦漢尺9寸)は、礼楽の主音「宮」の周波数に相当する黄鐘律管(長9寸)が秦漢度量衡の基礎――黄鐘律管が容積・重量の基準――になっていることとの符合を鑑みると、興味深い。
秦漢尺が長く安定的であった主因が、礼楽調律との関係で理解できるからである。さらに王莽以降秦漢尺が崩れ始めることとも整合性がある。
秦漢尺より逆算した古者周尺、今周尺、秦漢尺の実寸は
古者周尺 17.3cm
今周尺 21.0cm
秦漢尺 23.1cm
となり、殷商尺実寸との連続性が理解しやすい。 ◆FAQ 66
Q:魏志に先行する史料である魏略においては、行程記事は伊都国で終わっている!
本来は伊都国までの行程の記事であったのだ!
A:魏略は逸文ーーすなはち断片ーーとしてのみ存在しているため、「書かれていること」ではなく「書かれていないこと」を根拠にする利用法は原理的に不可である。
当該箇所は張楚金(唐)の『翰苑』中「分*職命官 統女王而列部」に雍公叡の付した注である。(「*職」は「職」の異体字で、偏が「耳」でなく「身」)
乃ち「皆統屬女王國」を説明するための引用であり、注者が行程記事として抜粋した文ではない。「其國王皆屬王女也」で引用が終わる所以である。
「伊都国まで」のみが抜き出して書かれている理由は以上のとおり。
なお、『翰苑』は写本が粗悪で脱字・衍字、不適切な節略多く、注自体も意図的な改変や誤りが多々見られるのみならず、出典書名誤記すら有るため、安直な利用が憚られる史料である。
◆FAQ 67
Q:末盧国を呼子付近に想定すれば伊都国への方位は東南でよい!
なぜなら、渡海に適した夏場の日の出は真東よりずっと北である!
倭人伝にある方位に間違いはないのだ!
A:その程度の熟練度の人物が記載した記録であれば、方位や距離に信頼を置くことなどできないであろう。まして、壱岐から東松浦半島付近に渡航してきたであろう時間帯を鑑みれば、夏場に真西よりずっと北寄りの日の入りを見ている可能性の方が高い。
東松浦半島突端付近からは糸島富士(可也山)が目視でき、伊都国の方位が東南でないことは十分に認識できる。
松浦川河口近辺並びに糸島三雲から可也山を目視しても、3世紀の科学技術水準による簡易的な三角測量を用いれば、伊都国中心部が東南方向に所在しないことを十分に覚知可能である。
・東松浦半島北端は北緯33.5度(基準点:呼子 尾ノ下鼻)
・伊都国は北緯33.5度(基準点:三雲 細石神社)
・奴国は仮に北緯33.5度(基準点:春日 岡本遺跡)
であり、すべて倭人伝の記載する方位と異なる。
ちなみに非現実的想定ではあるが、若し『周髀算経』一寸千里法などが天測技術として実用化されておれば、上記3地点が東西に並ぶことが判明し、倭人伝に現れる方位誤認は発生しない。
また古代の海岸線に沿っての「東南陸行」は、巨大な松浦潟に遮られて困難である。
https://i.imgur.com/qfiOJLu.png
因みに、現代の東松浦半島は北松浦半島の北東にある。
地名が実際の地勢と著しく異なる。 ◆FAQ 68
Q:ホケノ山は布留式で、箆被のある銅鏃も出ているから、3世紀末か4世紀だろう!
奈良県の三角縁はもっと新しい!
A:3世紀の古墳と考えられる桜井茶臼山古墳より正始元年銘鏡が発見されている。それより早く位置付けられる黒塚も布留0新相で、3世紀後半とされる。
ホケノ山は墓室の木製天井板が腐朽して崩落していたため、墓上の追祭祀遺物と墓壙内遺物の判別に難があった。また小型丸底土器の評価にも争点があり、帰属年代について論争があった。
しかし北周濠最深部にパックされた状態で発掘されたS字甕Aを以て完成時期を纏向3類中葉(庄内2)とする(豊岡2018)結論が最終的とみてよい。
墓上破砕祭祀に供された画文帯神獣鏡B(非完鏡)の年代観(菱雲文編年によりB.C.230〜250頃製造の魏鏡:上野2008)とも合致する。
布留0に先行する段階で三角縁を副葬しない情況は、他地域で三角縁の副葬が布留0併行に遡る情況と整合する。
箆被をもつ銅鏃は古墳時代のものというイメージで語られることが多いが、実際は
但馬(駄坂舟隠9号墓)、丹後(内和田4号墓)・近江(桜内遺跡)、尾張(朝日遺跡)、三河(下懸遺跡)などの地域にて弥生後期〜終末の弥生墳丘墓などで発見例が続いており、ホケノ山の年代と整合性がある。
◆FAQ 69
Q:建安19年馬超が祁山を包囲したとき夏侯淵が「公在鄴、反覆四千里」と言っている!
このとき夏侯淵がいたのは洛陽か許昌であるから、短里が使われていたのだ!
魏略曰「曹公置都護軍中尉、置護軍将軍。亦皆比二千石。旋軍並止罷」とあり
護軍将軍である淵の任地は都である!
A:夏侯淵が長安に屯して西部戦線を支えた最高責任者であったことは常識に属する。
「都護軍」の「都」は「都督」と同じで、首都の意ではない。「旋軍並止罷」と文章が続いており、護軍将軍が都に置かれた官でないことは明らかである。
上記の続漢志劉昭注は本文「…雑号将軍衆多、皆主征伐。事訖皆罷」に付されている。「事訖皆罷」=「旋軍並止罷」とあるとおり、護軍将軍は外征時特任の官であり、征戦より帰還すれば任が解かれる。
淵が行護軍将軍に任ぜられたのは建安「十七年太祖乃還鄴、以淵行護軍将軍、督朱霊・路招等、屯長安、擊破南山賊劉雄、降其衆、圍遂・超余党梁興於鄠、拔之斬興」。
行護軍将軍として長安に駐屯し、以降一貫して関右から涼州にかけて連戦している。漢中侵攻時は行都護将軍、征西将軍を歴任し陽平で戦死した。
長安より鄴まで往還四千里は、魏の正常な里(1,800尺)が用いられている。 ◆FAQ 70
Q:王昶伝に正始中「今屯苑、去襄陽三百余里。諸軍散屯、船在宣池、有急不足赴。
乃表徙治新野、習水軍于二州、廣農墾殖,倉穀盈積」とある!
襄陽近辺の苑池に魏の船師が駐屯していたのである! この三百余里は短里である!
A:襄陽の劉表没後、荊州は三国に分割されたが、関羽が斃れて蜀漢は後退し、当時の襄陽は孫呉と対峙する魏の重要拠点であった。
征南将軍仮節都督荊・予諸軍事の王昶は、襄陽付近で漢水と合流する清水(白河)に臨む南陽郡新野県城に治所を移し、有事に備えた。
魏太和元年(227)司馬宣王は宛に屯して督荊・予二州諸軍事を拝した。この時点で郡城は宛である。
裴註引郭沖『三事』にも「亮初屯陽平、宣帝尚為荊州都督、鎮宛城。至曹真死後、始與亮於關中相抗禦耳」とあり、王昶が上書して新野に徒する以前までは宛城が治であったことが明らかである。
銭大マ・魯弼らの考証を踏まえ、中華書局はじめ諸書で「今屯苑」は「今屯宛」と校勘されているのが現状である。
襄樊(故・襄陽)より南陽(故・宛城)まで鉄道距離135km。魏の正常な里(1,800尺)が用いられていることは言を俟たない。
◆FAQ 71
Q:倭王武上表文には「渡平海北九十五国」、唐会要倭国条には「正北抵新羅」とあるではないか! 真北に朝鮮半島があるのは九州だ! 九州倭国なのだ!
A:日本列島のどこからでも、海北に渡るには対馬より北に向かい半島南部に達する。
中国では魏志の昔から南宋代の地理書に至るまで、倭人の住む島々が、朝鮮半島から遥か南方の台湾付近まで伸びているとする誤った地理観が流布していた。
「古今華夷区域惣要図」 北宋末〜南宋初期(12世紀前半)
「東震旦地理図」 南宋(13世紀) https://i.imgur.com/nIVTpBY.png
魏志倭人伝の行程描写が中途より方位を誤って、東へ行くべき路程を南と誤認して記述した結果であろう。
当の唐会要倭国条が
大歴十二年(777)、遣大使朝楫寧(小野石根),副使総達(大神末足)来朝貢。
開成四年(838)正月、遣使薜原朝常嗣(藤原常嗣)等来朝貢。
を記録していることからも、「正北抵新羅」が倭国の位置を九州と特定し得ないことは明らかである。 ◆FAQ 72
Q:倭王武上表文には「東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国」とある!
「西服」の「服」は自動詞だから九州の民は昔から九州倭国の王の臣下なのだ!
畿内は「東征」を受けた毛人だ!
A:「以力服人者、非心服也」(孟子)
「服」は他動詞として使う。
「西服衆夷」の動詞「服」が取っている目的語は「衆夷」で、他動詞である。
「東征・・西服・・」は対句の好例で、畿内を中央とした治天下大王の小中華主義の萌芽であり、「日出処天子・・日没処天子・・」と致書した遣隋使や、中国を「諸蕃」に分類した姓氏録に繋がって行く政治思想の淵源である。
「東征毛人」の「毛人」は、「東界、北界有大山為限,山外即毛人之國」(旧唐書日本)の「毛人」にほかならず、「東征」したのは畿内に都する大王である。
◆FAQ 73
Q:安満宮山や太田南で発掘された青龍三年鏡の「龍」の字は犬龍だ!
これは北魏の頃の書体であって、魏鏡などではない!
A:「犬」は釈読の誤りで「尤」である。
「龍」字の旁を「尤」と省画することは漢代から行われている。
『魯相韓勅造孔廟禮器碑』:漢韓勅碑陰(後漢永壽二年(156)七月銘)所載の「龔」が右旁を犬状(尤)/共に作る。碑別字:https://i.imgur.com/hNdZY4a.png
能筆家の筆書き原稿を職人が忠実に模刻する石碑とは異なり、職人がヘラで直接粘土に文字を書く青銅器銘文は字画が必然的に直線的であり、犬龍などと賤む現代人の偏見は失当である。 ◆FAQ 74
Q:庄内式土器には庄内大和型甕と庄内河内型甕の別がある!
大和と河内は交流のない別の国だったのだ! 畿内が邪馬台国ではありえない!
A:庄内甕は、畿内第V様式に外来の内面ケズリ技法と尖底形態を取り込んで成立した。地域性・画一性の高かった畿内第V様式圏が他地域との接触を通じて変容し始めた点が墓制の変化とも同期しており(参考:◆6−1)、古墳時代への政治・社会的な変革の指標である。
大和東南部では播磨や河内の庄内甕が多く搬入され、その模倣またはそれらの地域の土器作り工人の定住が想定される。(米田1998) 纏向遺跡の特異性もこれあり、庄内大和型甕自体が纏向に動員された播磨の工人によって成立した可能性(米田1992)も否定できない。
畿内第V様式圏内で密接な交流が行われていた証左である。 ◆FAQ 75
Q:畿内説は邪馬台国を大和朝廷と同一視しているのだろう!
畿内説は皇国史観の徒である!
A:そのような短絡を惹起しないよう、「ヤマト政権」「ヤマト王権」等の語彙が用いられている。記紀に登場する「大和朝廷」と区別するためである。
遺伝的形質の分析から、ウヂの成立は5世紀後半を遡らない。(田中1995)
家父長制は律令期にも未定着とする見方が強い。王権についても、相続権に於て入婿と実子の区別がない時期を経て、父系の血統原理が確立するのは欽明後嗣からと考えられる。
複数の権威ある家系を母系から統合して相続原理を確定した天国排開広庭を以て、大和朝廷の開始として大過ないであろう。
◆FAQ 76
Q:前方後円墳の分布では倭国の範囲など判らない!
最北の前方後円墳は岩手の胆沢城の近くだが、多賀城碑を見よ!
8世紀でも朝廷の勢力範囲は宮城県までだ!
古墳時代の岩手県はまだ蝦夷の勢力範囲ではないか!
A:古今東西あらゆる政治的勢力の領域は、峻厳な自然国境がなければ必ず変動する。
こと前近代にあっては面的でなく、交通経路に沿って菌糸的に展開し、交錯が甚だしい。
古墳文化と前方後円墳の体制は前期古墳の段階で会津地域に達して安定的に定着し、更に山形県の最上川流域、宮城県北の鳴瀬川・江合川流域に展開する。
北上川流域にも古墳前期に水田耕作が波及し、胆沢扇状地を中心に古墳前期から中期にかけ古墳文化の集落が発展したが、周囲は宥和的な後縄文文化圏であり、孤立的状況を呈している。
更に胆沢地域には豪族居館が現れ、5世紀第3四半期には円筒埴輪・人物・動物・短甲・挂甲・家形埴輪を伴なう前方後円墳の角塚が築かれる。6世紀に入ると集落が確認されなくなるが、7世紀には激増する。
弥生〜古墳文化の北上に対し、北海道・東北の続縄文文化は後期に当たる北大式の段階で南下し、古墳文化を押し戻す勢いが見られる。7世紀における胆沢地域の中興は斉明朝の活発な軍事行動との関係で捉えることが出来よう。
概観すれば陸前は続縄文文化と対峙する古墳文化圏の最前線であり、陸中南部の胆沢地域はヤマト政権と続縄文系住民の親和的な関係を前提とした飛び地と考えることが出来る。
律令期に近づき強権的な対応を強める大和朝廷と続縄文系住民の軋轢を背景に38年戦争に至る鎮守府と諸城柵の展開を考えれば、極北の前方後円墳が後に俘囚長の拠点となる地域に存在することは理解に難くない。 ◆FAQ 77
Q:明治大学の佐々木憲一は論文「古墳出現前後における畿内型甕形土器の西方拡散に関する研究」に於て畿内系土器の拡散状況を分析し、福岡平野の在地社会が大和から独立して,自律的に機能していたと結論しているではないか!
前方後円墳体制など、夢想だ!
A:前方後円墳体制を律令下の統一国家と同列視するような謬見は、実在する畿内説とは無縁のものである。
萌芽期国家の未成熟な統治機構の下で、生活用土器の拡散を支えた集落同士のネットワークが前方後円墳や供献土器で象徴される首長間のネットワークとは別に存在したとする佐々木の見解は、何ら不自然でない。
当テンプレートも「庄内期のうちにヤマトの王権を頂点とする萌芽期国家の紐帯が醸成された」と言う視点から「領邦国家の誕生は未だ遥か先」とする立場である。共通理解の範疇内であろう。
奴国ー投馬国ー邪馬台国の関係を「那珂川地域ー足守川流域ー纒向は国内流通の大動脈を支えるトロイカ」として認識する。
前方後円墳のネットワークを「地縁的集団首長間の相対の結縁における相互承認関係を基調とした、擬制的親子或いは兄弟的政治力学関係」が「重層的に各地を網羅している状況」として把握する。
こういった本テンプレートのスタンスは、佐々木論文とさしたる乖離がない。 ◆FAQ 78
Q:投馬国までは「水行二十日」だ!
里数が書いてないではないか!
つまり投馬国は「女王国以北」ではない!
投馬国は南九州でよいのだ!
A:日数で表記された距離は「道里」に該当するので、投馬国は「戸数道里」の「略載」された「自女王国以北」に該当する。
『九章算術』巻第六「均輸」に
「欲以道里遠近・戸数多少、衰出之」とある。
本問には「甲県一万戸、行道八日」、術には「甲衰一百二十五」
とあるので、道里遠近と戸数多少から算出された「衰」は
甲県で 10,000 ÷ 8=1,250 (約分して一百二十五:「列衰・・重畳則可約」)
であり、「行道八日」が「道里遠近」であることが明らかである。
乃ち均輸法における距離の日数表記を「道里」と称している。
これを李淳風註して「臣淳風等謹按、
縣戸有多少之差、 行衟有遠近之異。 欲其均等、 故各令行[衟]日數 約戸爲衰。」
「道里遠近」が「行衟有遠近之異」に対応しており、「道里」が「行衟」と換言される。
本書は前漢代から知られ且つ263年に劉徽が註しているもので、倭人伝述作当時の常識的用字法を表しており、唐初の李淳風に於ても変わっていない。
三国志裴註所引謝承『後漢書』臧洪父旻に
「・・・見太尉袁逢、逢問其西域諸国土地、風俗、人物、種数。
旻具答言西域本三十六国、後分為五十五、稍散至百余国;
其国大小、道里近遠、人数多少、風俗燥濕、山川草木、鳥獣、異物名種、
不與中国同者、悉口陳其状、手画地形。
逢奇其才,歎息言『雖班固作西域伝、何以加此?』」
とあり、三国志同時代史料においても「道里近遠」の語彙が具体的距離情報群の意に用いられている。
ここで比較対象として挙げられている漢書西域伝で各国までの実距離描写に里数に日数表記が混用されていることはFAQ60に述べたとおりである。 ◆FAQ 79
Q:纏向の大型建物?
ただの倉庫だろう?
A:倉庫群は柱筋が通るなどの規則的な配置をとり、均質な建物が搬入・搬出路に直交して並ぶ特徴がある。
纏向の大型建物群は上つ道と平行に東西軸を揃えて形状・機能の異なる建物が複数並んでおり、倉庫群ではない。(FAQ38参照)
建物Bは、西側に突出部を持つ凸型柵列の突出部(馬面状構造)に存すること、低層建築であれば屋根と壁面とが干渉することより、望楼状の高床式建築物と考えられる。
建物Cは、棟持柱を有して弥生以来の倉庫形式をとり、宝物庫・神宝殿等の用途が想定される。これを唯一神明造の祖形(黒田2013)とする説がある。
建物Dは、系譜上から住居形式と呼ばれ、束柱を有する高床式建物とされる。
強い規格性を持って構築された建物群で、3世紀前半代に纏向遺跡の中心的な人物がいた居館域であったと考えてほぼ間違いない(166次)とされる。
◆FAQ 80
Q:隋書に「則魏志所謂邪馬臺者也」とあるが、魏志に邪馬臺とあったのではない!
「謂」は世間でそう言われているという意味の動詞だ!
魏志に邪馬臺と書かれていたのではない!
ただ当時の風説を書いたのだ!
A:初歩的な誤りである。
子謂顏淵曰:用之則行、舍之則蔵。 ー孔子は顏淵に向かって言っている。
子謂子賤:君子哉若人! ー孔子は子賤のことを語っている。
動詞「謂」の直前に行為主体が置かれる。
助詞「所」は後面の動詞と結合して名詞句を構成する。
よって「魏志が記載している『邪馬臺』」を意味する。 ◆FAQ 81
Q:三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属する国産鏡だ!
だから邪馬台国は畿内ではない!
A:神獣鏡は広漢西蜀で発生し、長江の南北に分化しつつ伝播した鏡種であって、その末流に位置付けられる三角縁神獣鏡は呉鏡の系譜に属さない。
後漢末〜孫呉の会稽山陰で盛行したタイプの神獣鏡は、系譜的にも材質的にも三角縁神獣鏡とは異なる系統樹枝上にあることが明確となっており、呉から渡来した鏡師が三角縁を列島で生産したという説は既に終息した。
現在は三角縁を国産と断定し得る論拠が存在していない。
三角縁神獣鏡が魏晋朝官製であれば邪馬台国九州説が終息するが、生産地の孰れかに関らず畿内説は成立するので、畿内説としては結論を急ぐ必要がない。
よって、専門的研究者が三角縁を徐州系鏡群、製作地を列島でなく対馬海峡以遠とみている傾向の強さのみ指摘するに留める。
魏景元年間に認められる芝草文様の変容や3世紀後半に特徴的な仏像意匠の登場などといった要素が、三角縁神獣鏡における文様の史的変遷の中途に発生していることは
・三角縁神獣鏡が魏晋領内で継続的に生産されているー
・生産者が魏晋領内より継続的に移動して来ているー
という条件の孰れか一方を満たす必要があろう。
三角縁神獣鏡の三角縁そのものが淮河流域から楽浪にかけて分布している斜縁神獣鏡からの派生であり、三角縁神獣鏡に分類される初期鏡群は実際には斜縁神獣鏡である。
◆FAQ 82
Q:古墳に副葬された三角縁神獣鏡は、棺外に置かれるなど、他鏡種に比べ低い扱いを受けているではないか!
このような物は威信財ではないし下賜品でもあり得ない!
A:現実に、葬具も皇帝より下賜される品に含まれる。
「東園温明」はその名称のとおり皇帝が臣下に下賜する為に制作される器物であり、大将軍霍光の薨去に当たり「黄腸題湊」等とともに下賜されたことで知られている。内側に鏡を貼り付けた箱状の器物で、遺体の頭部を覆い、暗闇を照らす辟邪の葬具である。
三角縁神獣鏡の原位置に関しては、もと棺上に伏せて置かれており、割竹式木棺の蓋部が水平でないため木棺と左右の石室側壁の間隙に滑落したことが解明されている。(豊岡2018)
初期道教における九寸鏡の効能認識や凸面鏡の形状と併せ、三角縁神獣鏡は「東園温明」の役割を継承した葬具(近藤2004)と合理的に推認できる。
黒塚では、全ての三角縁神獣鏡が絹製の袋に収められた状態で、棺外に、鏡面を内側にして遺体上半身をコ字型に囲繞している。墓壙内での位置は宝物としての扱いの軽重ではなく、その期待される機能に拠るものと考えるのが妥当である。
このように三角縁神獣鏡は、中国皇帝が倭王に下賜し、倭王が連合参加の諸君公に再下賜する器物として、適切な性格を有している。 ◆FAQ 83
Q:三角縁神獣鏡には「用青同、至海東」という銘文が見られるではないか!
鏡職人が日本列島にきて鏡を製作したと来歴が書かれているのだ!
A:寧ろ大海の中に在る倭人に下賜するために特鋳したという説の根拠とされる。
●三角縁四神二獣鏡 京目17:大阪国分茶臼山
吾作明竟大好,浮由天下,[敖]四海,用青同,至海東。
●三角縁陳氏作銘帯神獣車馬鏡 京目15:滋賀大岩山古墳
鏡陳氏作甚大工,刑暮周[刻]用青同,君宜高官至海東,保子宜孫。(京大人文科学研釈読)
大岩山鏡は先づ「鏡」が陳氏の傑作であることを述べる。
「刑暮周刻」は慣用句で「造作刑暮、周刻萬彊」などの用例でも分かるとおり刑暮(型模)を用いで青銅鏡が製作される描写であり「用青同」に続く。
「君″jッ」「保子¢キ」は鏡の効能を述べており、全て鏡の説明である。
「至海東」したのが鏡師陳氏でないことは明らかである。
国分茶臼山鏡の「浮由天下敖四海」も慣用句で
「上有神仙人不知老,渴飲玉泉飢食棗,浮游天下敖四海」などと多用されている。
本鏡で「浮由天下敖四海」するのが神仙であることも明らかである。
続く「用青同,至海東」3・3が大岩山鏡の「刑暮周刻用青同,君″jッ至海東」4・3・4・3の節略であることは理解に難くない。
両鏡とも、(青銅鏡製作)→「至海東」の記述順である。
鏡師が東渡し作鏡したという記述ではない。 ◆FAQ 84
Q:卑弥呼の墓は「冢」と書かれているではないか!
古墳とは違うのだ!
A:説文に冢を「高墳也」とあるとおり、高塚化(◆6及びFAQ 37参照)した以降の弥生墳丘墓、乃至初期古墳の描写として適切である。
本邦では少なからぬ古墳が「冢」の同字である「塚」で終わる歴史的呼称を有している。
中国では始皇帝驪山陵が冢の事例(『史記』並びに『漢書』所収高祖数項羽曰「罪三也。懷王約入秦無暴掠、羽焼秦宮室、掘始皇帝冢、私収其財物」、他に『水経注』等)である。
但し高墳が常に「冢」と呼称されるものではなく、明帝紀裴註『魏書載戊子詔』では高祖長陵並びに光武原陵が「墳」と呼ばれている。これらは大型で方形の皇帝陵である。
孝文帝霸陵が「因其山不起墳」(孝文帝紀)とあることからも、大小に拘らず人工のマウンドを築く墓は「墳」に該当することが判る。
諸葛亮の葬漢中定軍山遺命に「因山為墳、冢足容棺、斂以時服、不須器物」とあることを以て墳が大きく冢が小さいとする解釈が誤った巷説であることは言うまでもない。
因山して起墳せざれば「墳」に非ず。不起墳の指示は墳が大きいことを意味しない。
常識で高大な「冢」を敢えて小さく作れという修辞である。素より冢が小さいものであれば「足容棺」と遺命する必要はなく墳が大きく塚が小さい事例ではない。
類語を重畳する並列型合意語を修辞的に対句へと分割する修辞も常識的なものである。「天長地久」は「天地長久」に等しく、天と地の相違を述べた文ではない。
「粉骨砕肌」「亡身糜躯」「投死為国以義滅身」も然りである。亮遺命が「墳」と「冢」の差異を表さぬことは言を俟たない。
魏晋の度量衡に照らし、当時の日本列島で径百余歩の「冢」に該当するのは箸中山古墳が唯一である。
◆FAQ 85
Q:祇園山古墳は庄内期の古墳だ! 卑弥呼の墓の第一候補だ!
A:祇園山古墳は盗掘により伴出遺物皆無のため、墳丘裾の甕棺墓K1の年代で語られる。
K1墓は、発掘調査当初の70年代には共伴する画文帯神獣鏡(破鏡)の年代観から西暦250年前後の指標KVf(橋口編年)と考えられた。石野が公衆向け著述等で卑弥呼冢候補の員数に入れたのも、このような年代観に基づくものと思われる。
庄内併行期に於ける在来系の様式変化について研究が進むにつれ、柳田が凸帯から庄内併行期の特徴が既に喪なわれていることを指摘(柳田1982)した。
今世紀に入ると、久住が布留式確立以降も博多湾岸地域に残存する在地系甕棺との照合から、IIc期(布留1中・後段階併行)に編年した。(久住2006)
4世紀初頭と考えられる。 ◆FAQ 86
Q:卑弥呼冢は「冢」とあるのだから高墳であるのだ!
日本の古墳は平坦で、高くない!
卑弥呼の冢は古墳ではないのだ!
A:秦始皇陵が冢であることはFAQ84に述べたとおりである。
驪山陵墳丘の側面傾斜角は、急峻さに於いて日本の古墳と大差ない。
https://i.imgur.com/u5jP0OI.png ◆FAQ 87
Q:魏皇帝の制詔に「鄭重賜汝好物也」とある!
「好物」は「よきもの」と訓じるのが正
特鋳説の根拠にはならない!
A:銅鏡百枚は宮中保管の在庫で賄うには過大な数量と思われ、市中から雑多な鏡鑑を購入するより形大の揃った品を急遽一括生産するほうが下賜品に相応しいと思われる。
全唐文所収の王茂元「奏吐蕃族交馬事宜状」に吐蕃の馬匹下賜要望に対する諌奏が「昔魏酬倭国止于銅鏡鉗文。漢遺単于不過犀毗綺袷」と記録されている。
この「犀毗」は漢書匈奴伝に記録ある下賜品「黄金犀毗」(師古注「胡帯之鈎也」)に相当し、匈奴が要求した下賜品(町田1970)である。
このように、少なくとも唐代に於て魏帝の銅鏡下賜は倭人側の要望に応じたものと理解されていた。
また、下池山の羅張り夾紵(FAQ45)も、倭人の特注に中華世界が応じた実例である。
銅鏡百枚が倭人側の要望に応じて特鋳されたと考える根拠となろう。
◆FAQ 88
Q:箸墓を見て前方部の径だけを記録するのは不可解だ!
A:箸中山古墳が築造過程で円丘と基壇部のみの前方部から成っていた時期があることはFAQ 23に既述である。
中国人が建設途上の箸中山古墳を遠景から目視した場合、完成した陸橋部平坦面上から目視した場合、共に主体部の存する墳丘本体は円形と認識されるであろう。径百余歩という規模認識に不自然さは無い。
また、中国に於ても陵寝制度下では円形墳丘の一角に方形の寝殿が付随する。鳥瞰すれば前方後円形の土地利用状況であり、中国人が前方後円墳の円丘のみを墳冢と認識することに不自然な要素は取立てて存しない。
江戸時代の絵画に現れた箸中山古墳は5段段築の円墳として描写されており、後円部の段築描写が正確であるにも拘らず前方部が無い。
参考:大和名所図会(寛政三年)『長者屋敷』
https://i.imgur.com/LCI37Lk.png
また河村秀根は書紀集解に「道右有圓形之丘、相伝曰箸墓」と記す。
このように、後円部のみが墳冢と認識されることを不自然とする根拠は希薄である。 ◆FAQ 89
Q:「畿内」という呼称は大和朝廷の存在が前提だ!
3世紀に大和朝廷が実在した、というんだな!
A:「王畿」という用語が示すとおり、「畿内」という呼称は諸侯支配域の中枢部に存する王権の直接的影響領域と理解できる。天皇制の存否とは無関係に定義できよう。
3世紀の前半から中葉にかけ、日本列島中の有為な範囲に全国的と呼べる王権が誕生したという認識に於て、その中枢領域を「畿内」と称して支障ない。
本テンプレートでは、FAQ4で「畿内」を「概ね2世紀末葉時点の近畿第V様式分布域」と定義した。
下図に、弥生石棒文化圏と近畿式銅鐸の分布圏を示す。
・有柄磨製石剣分布域は、後の広形銅矛圏に直結している。
対して、今来の弥生文化と在来の縄文的精神文化が融合した弥生石棒文化圏は
・その中核を為す環大阪湾を中心とした近畿地域が近畿式銅鐸圏
・中西部瀬戸内が平形銅剣圏
・東辺が三遠式銅鐸圏
に分裂している。
この近畿式銅鐸圏の更に中核が近畿第V様式分布域となる。
夫々、伊都国の失速で分裂崩壊した旧倭国、邪馬台国、投馬国、狗奴国に想定される領域として有望である。
https://i.imgur.com/EXTU3lu.png
◆FAQ 90
Q:倭人伝は短里で解釈するしかない!
短里でかかれた報告を魏晋の中央が長里で解釈したため錯誤が生じたのだ!
A:中央政府が理解できない単位を用いて報告書を上げる朝臣はいない。
敢えて制式の度量衡を用いないのは帝力の否定であり、叛逆に類する行為であろう。
以下のとおり、魏の皇帝本人から陳寿同時代人まで皆な六尺一歩・三百歩一里の正常な単位を使用していることが明らかである。
「高祖・光武陵四面百歩、不得使民耕牧樵採」(魏書載明帝戊子詔)
「光武原陵 山方三百二十三步,高六丈六尺。(古今注具)
「在臨平亭之南,西望平陰,東南去雒陽十五里。
明帝顕節陵,山方三百步、高八丈」(帝王世紀)
※「古今注具」晋崔豹撰 崔豹は晋恵帝時の太傅
※「帝王世紀」晋皇甫謐(215〜282)編(黄巾鎮圧で知られる皇甫嵩の曾孫)
(始皇帝冢)「墳高五十余丈、周迴五里余」(集解引皇覽)
「漢家之葬、方中百歩。已穿築為方城…及埋車馬虎豹禽獸」(皇覽)
※「皇覽」(魏文勅撰) ◆FAQ 91
Q:「南至邪馬壹國」の「水行十日、陸行一月」は起点が帯方郡なのだ!
10日で九州北岸に来たのだ! あとは陸路なので九州内だ!
A:大同江河口に位置する鎮南浦より唐津まで、海保水路部距離表に基づけば1,561kmを数える。想定される当時の船速と日照時間を勘案すれば、物理的に不可能な日程である。
実例に即して言えば、1719年に来日した朝鮮通信使一行は、申維翰の記録によれば、釜山出港より壱岐勝本着までだけでも60日以上を費やしている。釜山を立ち南風に阻まれ絶影島に停泊してから実に31日目の夜半に佐須奈に入港している。
◆FAQ 92
Q:『周髀算経』に一寸千里法が説明されている!
周代に短里が実在したことは疑い得ない事実だ!
A:『周髀算経』の成立は後漢代初期まで遡らない。西晋代の偽作とする説にも一定の信憑性があり、短里実在説の根拠たり得ない。
六尺表を用いない『淮南子】や成立年代不明の『周髀算経』を措くと、一寸千里法の初出は後漢末の鄭玄による『周礼』注であるが、数学的算出でも天文学的考察でもなく、古来知られている禹都陽城(地中)に於ける土圭長と王畿千里思想の融合に過ぎない。
『周髀算経』は漢書芸文志に記載なく、引用者も居らず、成立は後漢代初期まで遡らないとされる。一方で円周率に3を使う古拙さから後漢末までは下らないと考えられてきた。
しかし劉徽が263年時点で一寸千里に言及した際も「説曰」として鄭注等から引用するのみで『周髀算経』には触れていない。よって同書の成立年代は更に下る可能性がある。
また『周髀算経』が記載する数値から計測地点の北緯を逆算すると、統一性がない。このことは同書が今日滅失した緯書など異なる出典から剽窃を繰り返したか、架空の測定数値を用いたかして成立していることを示す。
二十四節気の二至を除く景長、北極四游の南北、ならびに二十八宿周天歴度法については架空が確定している。
北極星の位置について計測地点が北緯37°以北にならざるを得ない異常値さを示している理由は、『尚書緯考靈曜』、『洛書甄曜度』などの緯書に現れた空想的宇宙観と整合性を取るための捏造数字であったためと推認できる。
八尺表景長が陽城で夏至尺五寸であることは再三実測されており、夏至景長尺六寸は殷都朝歌付近であることも実測されている。
よって周城景長尺六寸は、『淮南子』と整合を取って八尺:尺六寸=80寸:16寸=5:1という単純な整数比に引き寄せるための捏造であった可能性が高いといえよう。 ◆FAQ 93
Q:畿内とは何だ!
A:令制五畿や四至畿内が歴史的実体を伴うことは言を俟たない。令制五畿を改めて定義する必要はないが、改新詔の史料性に疑義があろうとも四至畿内が実態性ある自然国境で関塞の地であることを以下に明示する。
北の逢坂は南山城と近江を分かつ関塞であることが衆目に明らかである。
西の櫛淵は一ノ谷付近に比定され、播摂の自然国境である。
南の兄山は、紀の川ルートで葛城に入って来る者への防衛拠点である。
東の横河は、木津川水系ルートと宇陀川水系ルート(初瀬街道)が合流する以東、雲出川ルートと櫛田川ルートが分岐する以西で、中勢との分水嶺の内側である。大海人の吉野脱出経路でも知られる。
ただし本稿では畿内第V様式圏と吉備圏の境界を重視する立場から、FAQ4のとおり針間国/明石国間を西の疆埸と考える。
◆FAQ 94
Q:北部九州と畿内に政治的関係があったなど認められない!
畿内式土器が出るのは単なる交易の結果だ!
A:那珂・比恵遺跡群は弥生中期以来古墳前期中頃まで大規模な集落として存続しており、晩くともIB期後期頃より倭人伝に登場する三大国の一角である奴国の政治的中枢部として機能していたと考えられている。(久住2000など)
ここに畿内との密接な政治的関係の痕跡が認められる。
IB期に庄内系(庄内2〜3)が受容されて筑前型庄内甕が成立し、IIA期には在来系が激減。布留0式の影響下で北部九州型布留甕が成立したと考えられ(久住1999)、畿内系主体の遺跡となっている。
IB期新相には纏向石塚(纏向型)と箸中山古墳(定型)の中間的平面形状を呈する那珂八幡古墳が、九州最大の墳丘として、これまで在来系の地域に突然築造される。
https://i.imgur.com/zJCqyag.png
第二主体からは三角縁神獣鏡が出土する。
畿内と蜜月の関係を築くことで北部九州最大勢力の地位を確固たるものにした奴国の政治的転換を表すものといえよう。 ◆FAQ 95
Q:森井貞雄によれば西暦258の年輪年代が与えられた二口かみあれた遺跡が庄内3だ!
布留0の箸墓が3世紀中頃である筈がない!
A:布留0の実年代を西暦260〜280頃とする寺澤の見解(橿考研2002)と齟齬がない。
ただし森井が二口かみあれたを庄内3併行と判断したという点について出典がない。
森井は青龍三年(西暦235)銘鏡を出土した大田南5号墳の「庄内3」あるいは「布留0」併行を弥生終末期の終わりの一つの定点(森井1999)としており、本Qは本人の著述と齟齬がある。
科学年代西暦258をVI-3様式期(布留0古相)の年代観と対照する森岡(2014)。
上記年輪年代(光谷1995)が古墳時代初頭・布留0併行の暦年代を提出したとする河合(石川埋文2000)。
これらと突合すると、光谷の上記暦年代データは箸墓の築造年代を3世紀後半初とする見解と整合性がある。
◆FAQ 96
Q:「銅出徐州」というが銅山があるのは呉領だった徐州南部のみ!
彭城銅山県は名ばかりの存在で漢書・後漢書に銅山のあった記録もない!
A:彭城銅山県(現・徐州市銅山区)は北宋の元豊年間に宝豊監が置かれ鋳銭が行われていた。宋銭「元豊通宝」の鉛同位体比は三角縁神獣鏡に酷似している。
のち廃坑となり地名のみが今に残る。
これと別に、隣接する利国には鉄冶を主する監が置かれていた。
呉の領有した徐州南部とはもと揚州の属であった広陵郡南端の極めて限られた地域のみで、徐州の殆どは魏領である。
漢書地理志広陵国・続漢書軍国志広陵郡とも鉄を産することを記すのみで銅山があった記録がないことは彭城と同じである。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 以上テンプレ
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*前スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
前スレ終了以前及び本スレ立て作業中の書き込みは
荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
【追加・変更】 なし テンプレで抜けてるので追加宜しく。
箸墓古墳は、墳長が約278メートル、後円部の直径が約150メートルであり
「百余歩」よりも桁違いに大きい。
長里なら、「百余歩」は、180メートル強だから、後円部の直径にほぼ等しいが、
墳長としては短い。だから、箸墓古墳は、最初円墳として築造され、後に
前方部分が付け加えられたという後円部先行説がかつて唱えられた。
『三国志』魏書東夷伝倭人条を含む『三国志』では、「塚(冢)」と「墳」が
区別されていたことに注意しよう。
『三国志』には「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」という諸葛亮伝
の発言や、通常、大君公侯の墓が「墳」であったという記事があり、高さのある
人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を
「冢」というように区別していたことが窺える。 纏向古墳群とは誰の墓なのか。
私は崇神の母系の物部ではないかと思ってます。
当時は母親の実家で子供を育てたわけですから、崇神の住んだ纏向は母親のイカガノシコメが住んでいた所でしょう。
つまり物部の土地である。
また大阪交野(かたの)に箸墓の縮小サイズである雷塚古墳(森古墳群)があります。
この雷塚古墳は箸墓と同時期か少し後と言われています。
箸墓は260〜280年くらいでしょう。
つまり雷塚古墳は崇神時代より少し前です。
ところでこの森古墳群、前期古墳にしては珍しく被葬者をほぼ特定できます。
交野の語源になった肩野物部集団です。
被葬者として推定できるのは彼らしかいません、一択です。
つまり崇神の前に【物部が前方後円墳を造っていた】という事になります。
しかも彼らは箸墓とも強い関りがあることになります。
というわけで纏向古墳群は瀬戸内海洋集団・物部の墓である。
ここに卑弥呼はいないという事です。
アホの>>1
アホの>>1 長里とかいう単語を使うのは九州説な
文の中に長里という単語を目にしたら書いてある事は嘘だけだから残りは読まなくてもいい 仮に東が南だったとした場合、長里を真に受ける頭の悪い奥山は、津軽海峡で座礁するのでは、ないのかな。。。 前スレ>975
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1570239943/975
>向こうにあるのが海面から高くそびえた島ならもっと遠くから見える。
>事実、対馬海峡は目視で次の島が見えるだろ?
見えるだけでは距離なんか分からない
富士山が見えたところで、富士山までの距離は分からないだろ?
三角測量には、長さが既知の基線が必要なんだよ
そういう基本を無視した戯言だけで九州説はできている
理系の常識が最初からない 前スレ>977
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1570239943/977
>里程から日程に変わるのなら、そこで内容が途切れているだろ。
内容が途切れていると強弁したところで、邪馬台国、女王国が
戸数道里略載で女王国より以北のグループとして書かれており、
その同じ内容が投馬国にも駢儷体で揃えた語順で書いてある以上、
投馬国も女王国より以北の国であることは動かない
そもそも、不彌国、奴国、投馬国、邪馬台国と並べた後に
自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。と書かれていて、
その後の斯馬國、已百支國以下では、戸数、道里(官名)の記載がなくなることだけを見ても
この一行より前の国が全て「女王国より以北の国」なのは、まともな人が読めば当然のこと
否定するのは、まともじゃない人だけだよ
>日程を里程と言い張るから畿内説は信用されない。
また捏造しているww
日程を「里程」だと言っている人は九州説のインチキ書き込み以外にはない
日程は「道里」の表現方法として普通
道里は「日程」でも「里程」でも示せる
>まあ、そこを譲ると畿内説は完全に詰むからしょうがないけど、もう魏志倭人伝に書かれた邪馬台国は九州しかあり得ないことを認めろよ。
またミラーリングしてるww
投馬国が女王国より以北の国ってだけで、北部九州説が完全に詰んでいるから
意味のない抵抗を続けている惨めで姑息な卑怯者が、九州説なんだよw >>442
>言い訳しなければならないのは九州説<
「南→東」の言い訳をしなければならないのが、大和説。
>奴婢を埋めるのが殉葬でないなら奴婢を周りに埋めた跡があるという<
祇園山の墳裾の62人以上の成人女性を含む主体群は、殉死を希望したものを殉葬したもの。
>祇園山は卑弥呼の墓と言えるかな<
現在のところ、列島で唯一「殉葬奴婢百余人」を満たし得る墓。
>殉葬跡とは特殊器台である可能性が高く<
張政らが特殊器台を殉葬と見間違える筈がない。
>それがあり後円部が直径約140mで魏里の径百歩にも相当している箸墓の方が
はるかに魏志倭人伝が記述する卑弥呼の墓に符号する<
「南≠東「」などに拠って、×。 >>446
>魏志倭人伝には邪馬台国は会稽東治の東 <
邪馬台国なんて、存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、×。
>現代の地図で沖縄か台湾の辺りと書いてるぞ<
書いてないから、×。 >>448
>倭人は江南からやって来たから、台湾あたりにいた時代もあったろう。
その頃の記録が残っていたのかもしれない。<
陳寿らの女王國の都の位置推定は、不彌國の直ぐ南になるので、×。 >>82とか、九州説はみんな理由も言わずにただ言い張る手合いばっかりだな >>449
>魏志倭人伝に卑弥呼の墓は平地じゃない所に建てられたなんて書いてないよ
箸墓は魏里で径百歩に相当し特殊器台という殉葬跡らしきものもあり三世紀のもの
実際の被葬者は誰であっても箸墓は魏志倭人伝に書いてある卑弥呼の墓に国内で1番適合率が高い ><
「南≠東」などの拠って、×。 >>449
>奴婢を埋めた伝承があるので、 高天原は卑弥呼の墓<
「南≠東」などに拠って、×。 >>一代平均在位11年弱
>記紀を根拠にするくせに、記紀の皇統譜を否定しないと成り立たないところが
左側スロープ君のインチキ説のインチキなところなんだよw
一代11年は、方々で否定されているw <
すまんがどこで否定されてるのか言ってくれ。
あと何天皇を基点にして一代平均在位が何年なのかも具体的に言ってくれ。 >>454
>魏志倭人伝はその台湾辺りを
道里を計算すれば邪馬台国のある所と記している<
記していないから、×。 >>88
方々で否定されているってことは
ここで改めて否定してやらなくても
どうせ誰からも相手にされないってことだよな >>456
>国内の古墳を調べた結果奴婢を周りに埋めた跡のあるものはなかった<
祇園山があるから、×。 >>90
>ここで改めて否定してやらなくても
どうせ誰からも相手にされないってことだよな
はい、具体的に言えないということだね。
俺は自分で計算してるから安本さんの平均在位のいい加減さもわかる。
彼は6世紀の用明天皇を基点にしながら、5世紀の天皇(だれか不明)から計算した在位を、
用明天皇以前に充てるというイカサマをしてるわけ。
だからおまえも何天皇を基点にした何代の平均なのか具体的に答えろ。 男が乗りたくない、女体
一番は、120Kg155Cm位のおなごで、ほらほらあんただ
オマンコが太ももと、尻に挟まれ、何処にあるかわからない、
最大に股を開いてもチンポが穴に届かない
二番は、30kg160Cm位のおなごで
オマンコの幅が1cmもないようなおなごで、チンポを入れても
紙の中に入れているようで、いっこも気持ちよーねー
三番目は、黒ずんだオマンコで匂いがでーれー臭せー、糞が腐ったようなニオイを出すおなご >>461
>つまり殉葬跡は特殊器台である可能性がある<
張政らは、普通の役人らであり、特殊器台を殉葬と間違える可能性が全くないから、×。 >>91
祇園山だけにあっても無駄
殉葬は古来から行われてきた習慣と日本書紀にあるから
奴婢が周りに埋められた跡があちこちの古墳ので見つからなくてはいけない
しかし国内の古墳で周りに奴婢を埋めた跡があるものはなし
つまり奴婢を古墳周りに埋めるのは殉葬ではなし
殉葬が廃止されてだいぶ後の記紀が書かれた時代に古墳の周りに埴輪が埋まっているのを見て
昔は古墳の周りに生きた人を埋めていたと誤解のあった可能性あり >>78
>三角測量には、長さが既知の基線が必要なんだよ
>そういう基本を無視した戯言だけで九州説はできている
三角測量なんてしてないよ。
目視できるギリギリ、船で1日で渡海できるギリギリを千里としたんだよ。
これで帯方郡から博多まで水行10日と水行1万里が一致する。
見事に整合性が取れるんだよ。
信用できないと目を背け続けるよりはマシ。 >>95
つーか埴輪の起源を空想したダークファンタジーでそ >>80
>その同じ内容が投馬国にも駢儷体で揃えた語順で書いてある以上、
馬鹿だな。
駢儷体で揃えるために、通過していない投馬国まで書くことになったんだよ。 >>97
>目視できるギリギリ、船で1日で渡海できるギリギリを千里としたんだよ。
したという理由は? >>99
>駢儷体で揃えるために、通過していない投馬国まで書くことになったんだよ。
通過してないのに
なんで戸数や道里に官の名前まで判ってんの? >>80
>道里は「日程」でも「里程」でも示せる
示せるが、陳寿はそう考えなかった。
それは、文体が投馬国から切り替わっていることでわかる。
漢文は句読点がないから間違えやすいが、そこから論旨が変わっている。
里程は不弥国までで終わっている。 >>90
>方々で否定されているってことは
記紀の初期の天皇の在位が長すぎるのは事実だし、そこを補正するというのはおかしなことではない。
神武が卑弥呼と同年代かその少し前なら、神武が筑紫を去った後に筑紫で即位したのが卑弥呼だと考えられる。 >>101
そりゃ邪馬台国と投馬国に交流があったからだろ。
でも倭人は距離を日程でしか示せないから、郡使が行ったことがある範囲だけが里数を記録されている。 漢人と比較して、距離を日数でしか測れない倭人を暗にアホだと言うのが陳寿の本音。
だから投馬国に郡使が行ったなら、里数の記録があるはず。 >>95
>しかし国内の古墳で周りに奴婢を埋めた跡があるものはなし
それはそうだ。
万が一、日本に殉葬があっても、
魏志の100人余りというのはとんでもない数字だ。
つまりこれは従来の殉葬ではなく、奴婢を大量に誅殺した一つの事件。
それを行ったものは歴史上、神武しかいない。
だから卑弥呼の墓と神武は深く結びついているのだ。
卑弥呼の墓の場所は「奴婢=土蜘蛛」が大量に埋葬されている高天原(御所市高天)だ。 >>480
>帯方郡が設置された公孫康の206年?以降、郡役人は任務として倭国の地理・歴史を調査したはずなので、
倭人伝冒頭の地誌部分はそのころ(後漢末)までにまとめられた報告書が原典になったのであろう。
魏の時代になってからの1〜2の魏使の調査では、このように詳細なことはとうてい書けない。<
漢代の役人であれば、当然「秦漢朝の長里」を使っていたのであり、
それでは、東夷や韓や倭人伝の「魏朝の短里」の記録が書けないし、説明出来ない。
従って、起こった事は、逆に陳寿は、
東夷での「漢代の郡役人たちの長里の記録」は、短里に換算して書き換え、
魏代の魏の役人たちの倭人伝での里の計測記録は、そのまま踏襲記載した、という事。 >>105
ふーん?
じゃ、郡使はもっと遠くにあるコビトの国に行ったんですか?
はー、そーですか
九州説は笑えるなあ >つまり殉葬跡は特殊器台である可能性がある
箸墓の特殊器台は調査できないであろうから、
吉備や赤穂の特殊器台周辺のリン酸反応を調べればよい。
もしあるのなら特殊器台に遺体の一部を置くことが慣例化していた証拠になる。
でもそんなものあるわけないし、こんな恥ずかしい説を言ってて、俺ならもう引っ込むけどね。
特殊器台には酒か食物などなにか供養するものを置いたのだろうね。
奴婢の遺体の一部ってwww >>88
>あと何天皇を基点にして一代平均在位が何年なのかも具体的に言ってくれ。
一代平均在位は、意味のない平均値ww >>98
一応記紀と魏志倭人伝には日本で殉葬があった事が記されている
埴輪は奴婢の殉死の代わりとも
4世紀くらいから古墳に特殊器台に代わって埴輪が現れ始めるから
埴輪が殉死の代わりだとすると特殊器台に奴婢の血を捧げるような儀式は行われていたのかも知れない
通説では特殊器台に捧げたのは酒と言われてるけれど
>>107
それなら高天原は神武の墓という事になるのでは
魏志倭人伝には卑弥呼の墓に奴婢殉葬百人とあるから
神武による土蜘蛛の征伐=奴婢殉死百人とすると
神武は卑弥呼の時代まで生きてなきゃいけなくなる
土蜘蛛征伐が神武の時代なら高天原は神武の墓になるのでは >>112
>一代平均在位は、意味のない平均値ww
だから意味のある数字を言えって。
おまえは計算してないから何が意味のある事なのかもわからないのであろう。 >>113
>それなら高天原は神武の墓という事になるのでは
なんで?
神武は大和で土蜘蛛征伐をした。
そして高天原の神の娘と結婚した。
神武の墓は高天原ではない、畝傍山の丸山であろう。
神武という人物は高天原の神々の系統ではなかったからだ。 キナイコシは国内外のあらゆる史書を無視しないと成り立たない説を振り回している。 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。
その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子、伊奘諾の曽孫である三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫邇邇芸に嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、耳の娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。
この登美の鴨王家には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原から交野にやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。
古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 >>117
だからお前は消えろ。
筑紫なんて何の関係もない。 >>116
>キナイコシは国内外のあらゆる史書を無視しないと成り立たない説を振り回している。
で、w
具体的になんのことか聞くと「南」しか答えが返ってこないという
この・・・
九州説という喜劇
w で>>1は
特殊器台に奴婢の遺体の一部を乗せた、あるいは血をいれた説、
高齢の女王が死んでから慌てて墓を作って、その間10年以上殯(もがり)をしてました説 で>>1は
特殊器台に奴婢の遺体の一部を乗せた、あるいは血をいれた説、
高齢の女王が死んでから慌てて墓を作って、その間10年以上殯(もがり)をしてました説 で>>1は
特殊器台に奴婢の遺体の一部を乗せた、あるいは血をいれた説、
高齢の女王が死んでから慌てて墓を作って、その間10年以上殯(もがり)をしてました説 >>115
土蜘蛛征伐=奴婢殉葬百人?
魏志倭人伝などから神武は2世紀の人物で卑弥呼は3世紀
奴婢殉葬百人は卑弥呼の死の3世紀中ごろになるだろうから神武の土蜘蛛征伐とは年代が合わないと思うなあ で>>1は
特殊器台に奴婢の遺体の一部を乗せた、あるいは血をいれた説、
高齢の女王が死んでから慌てて墓を作って、その間10年以上殯(もがり)をしてました説
この二つの恥ずかしい説で撃沈したようだwww
もう。君は畿内説を名乗らないでくれ。 >>124
だ絵が誰だか分かってないチエオク君こんばんわ >>123
時代は合うよ、2世紀末で神武が年上。
そして中国側は卑弥呼の墓を直接見ていないだろうから、
墓のの大きさを聞いた、そしてその様相を聞いた、
そしてそれを書いた、で説明がつく。
百余歩の大きさ、百人余の奴婢が埋まってる、それを殉葬と書いたで説明がつく。 >>124
あいかわらずアナタ、発狂してますね
誰と会話してるの? >>126
つまりどういう事
百人の奴婢は征伐された土蜘蛛じゃなくていいんだな? 元の情報がいい加減なので俺様の説とピッタリ合います
だから俺様が正解なのです
こういうバカのさぞや間抜けた顔が見てみた・・くない >>127
ごまかすな、おまえが>>1だろ。
とっくにお見通しだ。 奴婢百人=征伐された土蜘蛛ではないなら
土雲が埋まっているという高天原は卑弥呼の墓ではなく
神武とかの墓に関連が強いという事になる >>92
それ、安本美典氏が言い出してすぐに、方々からけちょんけちょんに叩かれてるw
左側スロープ君は、態度も悪いし頭も悪い
自分のスレで「誰にも相手にされない」or「コピペの人だけ来てくれる」状態で
遊んでいればいいよ
http://www.torashichi.sak ura.ne.jp/yasumototennouzaiiron.html
http://www2.od n.ne.jp/~cbe66980/Main/zaii02.htm
URLはNGワードに引っかかるからスペースが入れてあるよ
批判否定は、いくらでもある 土蜘蛛って討伐したとこに埋めたんだろ
なら葛城は土蜘蛛のスクツだ
そんなとこ都でもないし女王の墓もない 今イキっている人は、九州説ではなく左側スロープ君ww
勝手に記紀の皇統譜をいじくって、自分に都合のいい年代を創作している人
土蜘蛛と蜘蛛塚の「蜘蛛」の二文字が一致することが、最大の根拠ww >>135
面倒くさい奴だな、コピペしろや。
平均在位で神武の時代を探る事は一つの方法、しかし安本さんの平均在位の計算はおかしい。
しかし俺の平均在位11年弱説では他に考古学的根拠・中平銘鉄刀の和邇氏の系譜のヒミコやトヨとも合致する。
異なる二つの方法が一人のヒミコを指し示している。 >>137
>勝手に記紀の皇統譜をいじくって
ならば神武の年齢もいじくれないのか、
おまえは神武127歳をそのまま受け入れてるのか。 >>133
なら神武の土蜘蛛討伐は卑弥呼の死そして墓が作られた250年ごろというのかな
さすがに時代が合わないだろう
それに卑弥呼が死んだから神武が土蜘蛛討伐して卑弥呼の墓の周りに百人埋めるというのもおかしな話
そしてそうなれば高天原の土蜘蛛碑は卑弥呼の殉死奴婢百人とは何の関係もない事になり
高天原は卑弥呼の墓というのは根拠を失う事になる
奴婢殉葬≠土蜘蛛討伐 >>136
女王の墓に奴婢が殉葬という記事に合うのか高天原だけ。 >>141
討伐した土蜘蛛埋めただけやろ
なにも合わん >>140
>なら神武の土蜘蛛討伐は卑弥呼の死そして墓が作られた250年ごろというのかな
いや大量の奴婢が殺されたのはおそらく200年ごろ。
そのあと神武はヒメ后と結婚、先に死ぬ。
>>126に書いたように、
中国側は卑弥呼の墓を直接見ていないだろうから、
墓の大きさを聞いた、そしてその様相を聞いた、
そしてそれを書いた、で説明がつく。
百余歩の大きさ、百人余の奴婢が埋まってる、それを殉葬と書いたで説明がつく。 >>143
つまり倭人伝の記事とは
ぜんぜん合ってないわけだね? >>143
卑弥呼の死は推定250年だぞ
さすがに50年も前の土蜘蛛討伐話を卑弥呼の墓に奴婢殉葬百人とは書かんだろ どうやら高天原卑弥呼の墓説は大ピンチを迎えたようだな >>144
ほとんどあってるよ。
全然合わないのは箸墓古墳。 奴婢殉葬百人≠神武の土蜘蛛討伐
よって卑弥呼の墓高天原説は死亡
墓を建てる場所は高天原でいいか >>145
中国側は卑弥呼の墓を直接見ていないであろうから、日本側から聞いたことを書いた。
それで何も問題はない。 >>147
具体的に説明してみ
出来ないだろ
ばかだから 言っておくけど高天原は集団墓だからね。
卑弥呼のお父さん、お母さん、叔父さん叔母さん、一族の集団墓。
勿論トヨもそこに眠っている。
日本神話の原点で日本最古の神社の境内だ、これほど謂れの深い場所はあるまい。 >>149
いや問題あるねえ
卑弥呼の死は推定250年ごろ
50年も前の土蜘蛛討伐話を卑弥呼の墓に奴婢殉葬百人と書きますかねえ
魏志倭人伝の時代より50年前の話を >>151
>具体的に説明してみ
http://bbs10.aimix-z.com/mtpt.cgi?room=e_asia
【国宝】中平銘鉄刀とヒミコの系図
高天原にある卑弥呼の墓
ここに書いている。
5ちゃんごときで偉そうにしてるんじゃないぞ、ボンクラ。 >>153
先にまず、卑弥呼が誰なのか、
http://bbs10.aimix-z.com/mtpt.cgi?room=e_asia
【国宝】中平銘鉄刀とヒミコの系図
に書いてるから、そこから反論してもらおうか。
いつでも反論を待ってるのでね。 >>156
それよりもまず200年という土蜘蛛討伐と
250年ごろと思われる卑弥呼の死と奴婢殉死百人の年代の矛盾を説明してもらおうか >>157
矛盾などない。
>>126に書いたように、
中国側は卑弥呼の墓を直接見ていないだろうから、
墓の大きさを聞いた、そしてその様相を聞いた、
そしてそれを書いた、で説明がつく。
百余歩の大きさ、百人余の奴婢が埋まってる、それを殉葬と書いたで説明がつく。
これで3回目だ。
で卑弥呼はヒメ后でいいね? >>484
「南→東」などの嘘付き騙しや、
「畿内」や「邪馬台国」などのような、
存在もしなかった嘘つき騙し文言を使い続ける大和説者には、
果たして人類の常識とやらは備わっているのだろうか バンビシャスは、金曜日に邪馬台国の者達を叩き潰すことが、出来るのだろうか。 >>162
僕達は、僕達の故郷のチームではなく、僕達の娘や友人や同僚が熱狂的に応援しているバンビシャスを、応援すれば良いな。 >>158
土蜘蛛は奴婢ではないし
神武の土蜘蛛討伐は200年で卑弥呼の死は250年
これを卑弥呼の墓に奴婢殉葬百人とするのは非常に苦しいように思えるけれど
土蜘蛛=奴婢でそっちが納得していても
これを見た第3者はどう思うかな
開き直っても無駄だぞ >>505
>魏や陳寿の認識は邪馬台国は会稽東治の東
沖縄か台湾辺り<
会稽東治之東には、沖縄や台湾がないから、×。 >>163
僕達も、本当は、バンビシャスを最初から応援していたのだったな。 奥山氏も、金曜日には、邪馬台国に行き、バンビシャスを応援すれば良いのではないのかな、、、 >>522
>じゃあ逆に南→東だから魏志倭人伝の邪馬台国までの道里は畿内と言われたら九州説はどうするの?
魏里で不彌国から東に千里ほど水行すれば丁度畿内あたりに着く事になるなあ<
「畿内」も「邪馬台国」も存在もしない嘘つき騙し文言であるし、
「南≠東」だから、大和は×だ、という。 >>165
>会稽東治之東には、沖縄や台湾がないから、×。
ないって理由も言えない主張は、×。 >>164
神武は葛で編んだ網で土蜘蛛を討ったとある。
これは生け捕りで有ろう。
その神武が住んだのは今の橿原神宮ではなく御所市柏原。
その柏原で、生け捕りにされた土蜘蛛の末裔が1700年後に声を上げる。
「人の世に熱あれ 人間に光あれ」
この地が水平社運動及び部落解放運動の原点になる。
土蜘蛛とは奴婢なのだ。 飼い犬が、死去してしまったので、僕達は、久しぶに、誰の助けもなしに、遠くの邪馬台国に行けるようになり、行こうとしているのだったね。 >>126
>時代は合うよ、2世紀末で神武が年上。
じゃあ倭国大乱で神武が筑紫を出た後に筑紫の主になったのは誰なんだ? >>171
飼い犬が、死去してしまったので、僕達は、久しぶに、誰の助けもなしに、遠くの邪馬台国に行けるようになり、行こうとしているのだったね、、、
という文章は、
飼い犬が、死去してしまったので、僕達は、久しぶりに、誰の助けもなしに、遠くの邪馬台国に行けるようになり、行こうとしているのだったね。。。
と、タイピングしたかったのではないのかな。 >>158
>中国側は卑弥呼の墓を直接見ていないだろうから、
>墓の大きさを聞いた、そしてその様相を聞いた、
>そしてそれを書いた、で説明がつく。
それって・・・
高天とやらが倭人伝と違うのは魏使の聞いた説明がカスだだたからデース
だから高天は倭人伝とピッタリなので卑弥呼の墓デース
って説明なんだよね?
説明がつくと言われて納得するのは知能たんない人だけだろ、それ >>524
>「不明」ってあんた・・w 史家がだよ、呼んでるに決まってるだろ
大将軍霍光の墓の「槨」とか知らんわけないだろう
知らなきゃ史書が書ける人材じゃない
むしろ陳寿が知らないのは、自分の目で見たこともない、東夷の国に行った誰かの見てきた「槨」なるものだ<
「有棺無槨、封土作冢」という記録を起こしたのは、
当然(陳寿ではなく)魏使らの魏の役人たちだ。
そして、魏の役人たちは、
周制の墓での「槨」を知っていて、それを使って「有棺無槨」と書いた。
また、後漢代の皇帝や諸侯の(槨ではなく)「墓室」という実態も知っている、
「槨」は「墓室ではない」という事も知っていて、東夷に墓も「槨」で区別して記録した。
当たり前の事だ。 >>173
>じゃあ倭国大乱で神武が筑紫を出た後に筑紫の主になったのは誰なんだ?
逆に聞くが、2世紀末から3世紀初頭の筑紫の有力墓はどこなの。 >>177
女王の遺体を10年間殯(もがり)説、
特殊器台に奴婢の一部を置いた説のおまえほど知能たんない人はいないだろうな。 >>530
>そんなに九州説が優勢と思うなら
畿内説スレに書き込みしなくてもいいんじゃないかなあ
放っとけばそのうち無くなるだろうからさ <
いや、教授らも学会も阿部文部省も、
7割の国民や中国学者や人類の常識に反して、
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説を宣伝し続けている、という事が黙過し難く、
その目的は、日本を「キョクウの国粋戦争の皇国史観宗教国にする事」であり、
憲法違反であり、日本国憲法の平和協調共存のためにもならず、
国民や子や孫らや人類の安全発展のためにもならず、
黙過し難い。 >>535
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は唱えてるうちに、
その妄念が本当になると、脳や精神もその妄念に支配され
毎日執念深くひたすらウソだけを繰り返して、
虚しい人生を送る 会話の相手をいつも混同して会話が成り立たない>>180は
明らかに人並みの知能が足りてないコミュ障 >>539
「南≠東」などの嘘付き騙しの指摘に反論するわけでもなく
そうやって中傷してるだけでは
大和説はどんどん堕落して
世間の人からも、ますます蔑まれるようになるんだよ 九州説のオウム返しのお題目が始まった
やはり九州説はオウム真理教 >>178
>そして、魏の役人たちは、
>周制の墓での「槨」を知っていて、それを使って「有棺無槨」と書いた。
こんなこと決め付ける根拠は?
辺境の小役人が、なんでそんな古代のこと知ってんの? >>543
>じゃあ今すぐその九州の卑弥呼の墓とやらを掘って
親魏倭王の金印でも見つけてくるんだな
見つけてこれなかったら九州に卑弥呼の墓があるというのは嘘つき騙しと決定<
祇園山の墳頂の巨大な箱式石棺は、盗掘を受けてしまって、
金印があったとしてももう無くなってしまっているが、
漢委奴國王印が細石神社に保管されていたように、
卑弥呼は「姫氏の女性」であったから、姫氏系の神社(例えば高良大社)や、
印ヤク神社などに残っている可能性もある。 >>187
>漢委奴國王印が細石神社に保管されていたように、
それ、なんか証拠あんの? >>187
>祇園山の墳頂の巨大な箱式石棺は、盗掘を受けてしまって、
それ、槨だろ 前ページ831さんへ
小伽耶の固城の松鶴洞1号古墳は韓国の学者によって最初二つの丘の墓、双丘墓とされた。
それが別の韓国の学者によって前方後円墳だとされて、韓国では日本の前方後円墳のルーツだと騒がれた。
しかしその後の調査で5世紀代の前方後円墳とみられるようになると、日本の前方後円墳のルーツでないことが分かったために、韓国の学者たちは一転して韓国の三丘墓だと唱えだした。
で、調査が終わった頃には、その前方後円墳は削られて三つの丘に形を変えていた。
今、韓国では前方後円墳ではなく三丘墓だと確定したと説明されているそうだ。
元々、この地方など朝鮮半島南端部には縄文人が進出しており、その後この固城の地方は、中国の史書では漢代には「倭」と呼ばれており、日本の倭人と同系の者たちが住んでいたようだ。
この地方は後には任那と呼ばれている。
九州呼子加部島を発って朝鮮半島に渡る海路の到着地はこの固城だった可能性が極めて高い。
なので、魏の使節団が卑弥呼の倭国に渡海するについて、この固城港が出発地だったことはごく自然だ。
というわけで、この固城湾から外洋に出てそこから呼子加部島に至る海上ルートの方位がぴったりと東南に当たることから、魏略や魏志倭人伝に書かれている帯方東南の東南はまさにこの固城からの海上渡海ルートの東南の方位が採用されていると考えることができる。
固城の松鶴洞前方後円墳は、固城忌部氏が造ったものだとの唱えが聞こえてきそうだな。 >>545
>>だから、女王之所都や侏儒國付近までは、魏の役人たちが通ったから、
「道里の略載」が出来た。<
>あのね 「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種」 これも魏の役人が行ったの?<
一般倭人は、夷人であるから「里」を知らず、
だから「里」記載は、ほぼ「魏の役人らに拠る計測値」だ。
>何しに?<
最終的には、裸國と黒歯國のような「南や東の極」を知り極めるためだ。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、どこまでデタラメに堕ちていくんだろうね
警察で取り調べを受けてる窃盗犯が保身のウソを一つつくと
続けて二つ三つとウソをどんどん重ねるハメになるって
アレじゃないの? >>548
もう「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、妄想漬けなんだね
かわいそうだね >>549
じゃあ「南→東」はないし、長里はないし、
邪馬台国も畿内もなく、大和説はなかった、
と言って歩かなきゃ >>551
>畿内には<
畿内なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし。
>3世紀から箸墓などの前方後円墳があって <
箸墓は、4世紀だし。
>倭を代表して魏と交流していた証拠の魏年号入りの三角縁神獣鏡や画文帯神獣鏡が見つかっているよ<
景初二年以後の紀年鏡は、魏の明帝鏡にならないし、
大和の△は4世紀以後だし、
神獣鏡も揚子江〜呉の鏡であって、魏の鏡ではないし。 >>557
「南→東」などの嘘吐き騙しがバレた大和説は、
そろそろ九州説に勝とうとしても無駄、
という事を学習してはどうかな >>189
だから、卑弥呼の墓は祇園山より1世代古く、槨がない平原遺跡だよ。 >>568
なるべくザラコクの反論を受けないように、反論が遅れるように、
無駄で無意味な投稿を増やして差を広げよう、
という姑息な事しか出来なくなったという事実が
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説が今いかにみじめな立場にあるか、
という事を物語る >>571
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は、
議論すれば負け
嘘をつけば証拠出されて負け
荒らせば「キョクウ国粋殺人戦争の皇国史観宗教」と正体をバラされ
オウム返しをすれば九州説に負けてそんな事しか出来ないと周囲に知らしめられる
詰んでいる大和説 >>581
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説さん
どうしてそんなウソつくの?
罵倒ってどれのこと? >>590
>実際、鉄が潤沢に使える社会の指標である石庖丁の消失は畿内の方が
北部九州より早い<
これまた、大和説に特有の年代詐欺さろうね。
大和での石包丁の消失は当然大和に鉄使用が広まってからであり、
だから、鉄族の大量副葬のホケノが境界であり、3世紀末の筈。
しかし、筑紫の鉄鏃は卑弥呼の3世紀前半。
>そして、北部九州での鉄器の出土は2世紀後半〜3世紀には激減する<
317年頃に、筑前地域から筑後〜久留米への遷宮があったし、
東征毛人五十五国の征服軍が、鉄武器を大量に持ち出して使ったから。 >>199
>議論すれば負け
>嘘をつけば証拠出されて負け
はい、九州説さぁん
その証拠だしてね
w
w
w >>591
このインチキコピペを何度貼っても無駄
「(倭国のことだが、ここではその王都がある邪馬台国を指すと考えられる」
これで正しい
其国は「倭國であり、邪馬臺國」!
>そして、萬二千里は淮南子からの観念的な距離で現実の地理とは無関係な数字<
魏の役人らは、淮南子の数字の借用で誤魔化した事がバレれば、
当然首が飛ぶから、そんなアホな事はしない。 >>599
>尾崎花地区の、この柵列が囲む範囲が推定できるようになれば、それがおそらく
遣使をした頃の卑弥呼の宮殿の範囲になる
https://i.imgur.com/DoW0DbB.jpg
辻地区の建物は、それより前の時期のもの <
どっち道「南≠東」などに拠って、×ね。 >>187
>印ヤク神社などに残っている可能性もある。
え?
このズバリの名前の神社は何? 印鑰神社
国府の国璽と倉の鍵を保管していた神社(宮)
なるほど。
やはり印は神社に保管するものなのだな。
『高良玉垂宮神秘書』
神璽(皇位のしるし・天子の印)は高良大明神が預かっていたと。
皇宮で神璽を持っていた間、鳥居に玉垂宮と書いた。
ザラコク氏が言っているのはこれか。
彼は出典を説明しないからわかりにくいが、探すと根拠があるのだな。
高良玉垂宮の王が誰なのかよくわからないが、筑後が王都だった時代があったわけだ。 >>199
畿内説はスレ荒らしもしないしオウム返しもしないんだよなあ >>190
>九州呼子加部島を発って朝鮮半島に渡る海路の到着地はこの固城
対馬海流に流されて、絶対無理! @阿波 >>190
>なので、魏の使節団が卑弥呼の倭国に渡海するについて、この固城港が出発地だった
可能性はあるが、もっと西の狗邪韓国(順天)だろう。 @阿波 >>190
>固城の松鶴洞前方後円墳は、固城忌部氏が造ったものだとの唱えが聞こえてきそうだな。
その通り。 @阿波 >>206
大和の大神神社は、倭国(阿波)の「大御和神社」が本家本元である。
徳島市国府町府中の式内社 「大御和神社」は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されている。
(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの)
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
http://www.genbu.net/data/awa2/oomiwa_title.htm >>606
>祇園山古墳周辺のものは、古墳時代よりも古い弥生墓地で祇園山古墳の基盤整備で
地山成形を行うときに上部を破壊された墓が複数ある
つまり、祇園山古墳よりもはるか昔に作られたものであり、殉葬ではありえない <
ダメだ。
1号甕棺の成人女性は、卑弥呼からの下賜の鏡片や剣も副葬されており、
という事は、卑弥呼を支えた腹心の奴婢の長であり、
おそらく、卑弥呼の墓の位置も自分の甕棺の位置も彼女が決め、
殉死奴婢を募ったのも彼女であり、自分らは先に殉葬され、
冢の地山形成の時に、甕棺の上面が削られた。
だから、墳裾の小型埋葬施設は、墳頂の主体と相前後して造られた事になり、
だから、冢の造成とほぼ「同時期埋葬」だ。 >>609
>女王国は、基本的に倭国の中で卑弥呼を女王と仰ぐ共立した各国の範囲、つまり
女王国連合を指す<
ダメだ。
陳寿は、部分行程説明での「計測の出発地点」も、原則は居住外縁部からであり、
到着地点も居住外縁部まで、という書き方だ。
という事は、
「女王國東渡海千餘里、復有國、皆倭種。又有侏儒國在其南、人長三四尺、去女王四千餘里」の、
出発地点は、女王國の範囲の東端の居住外縁部の宇佐付近〜国東半島であり、
「東渡海千餘里」の到着地点は、(その後、南に陸行出来る)松山付近だ。
また「去女王四千餘里」の到着地点は、侏儒國の外縁部付近だ。 >>207
キナイコシがあちこちに絨毯爆撃で荒らし行為を行っているぞ。 >>614
それだと、大和説の頼りの綱の長里が崩壊、爆死しますが?
https://i.imgur.com/ihiyGSO.jpg
現実の地理に合わせても、長里では全く合わない、
って言うのはなんだったんだろうね >>215
このフレの現状を見れば
荒らしているのは九州説 >>617
>>「小型の土器棺墓」も、甕棺として造られた<
>甕棺用の特製大型甕の製造が終わっているんだから、甕棺墓時代とは言わない<
これが、「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者や、
「自衛隊は軍隊ではない」という安部自民らと同じような、
呼称を変えて「合憲合法だ」として、
国民を騙す人種の常套手段ね。 >>657
>>平原遺跡の副葬品の豪華さは弥生時代最高峰といってよい。<
>鉄剣でもガラス器でも丹波の弥生応募の方が豪華だ <
大量の「玉」や、明帝の下賜鏡を示す21枚の「尚方作」方格規矩鏡や、
世界最大の内行花文鏡などは、「魏の薄葬令の制約下の女王墓としては、十分だ。
>結局平原1号墓は、単に打ち割りされた仿製鏡がやたらたくさん出るというだけ<
「打ち割られ」は鏡片祭祀を示すものだし、
仿製鏡ではなく、渡来の呉系楽浪鏡師らの関与鏡だ。 >>628
>纏向遺跡の範囲内でも出てる
「ほとんどは纒向遺跡の最盛期である3世紀代のものです。<
纒向遺跡の最盛期は、掘立柱建築横の「土坑」が庄内3であったから、
3世紀最末期〜4世紀。
>それらの遺物の中には、近辺で鉄器生産がおこなわれていたことを
示す鞴(炉に空気を送り込む道具)の羽口や鉄滓、鉄片など特筆すべきものがありました。」<
その「近辺で鉄器生産」の発掘も生産品も見つからないから、
存在しなかった可能性が高い。
>「調査地は纒向石塚古墳の北東200m、
居館域の発掘調査地点からは北西に約400mの地点」<
これじゃますます「近辺で鉄器生産」の発掘も生産品も、
存在しなかった可能性が高い。 卑劣な奥山氏が、嘘を言い放ったな。。。
207日本@名無史さん2019/10/08(火) 01:11:47.95
>>199
畿内説はスレ荒らしもしないしオウム返しもしないんだよなあ 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人は、卑劣だな。。。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人は、卑劣な嘘をつくのだったな。。。
217日本@名無史さん2019/10/08(火) 07:45:52.36
>>215
このフレの現状を見れば
荒らしているのは九州説 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人は、卑劣だな。。。 >>631
>>王が即位しないことと、王統が続いていないことは、同義ではない。<
>では3世紀時点で、王統が固定され、続いていたことを具体的に論証してくださいね!ww<
倭奴國系王統としては、阿毎氏や姫氏系があり、伊都国や奴國や邪馬壹國の王統があり、
その他に、肥前付近に徐福系王統があり、
また「火の国」には姫氏系の狗奴國王統があり、
その他に、志賀島や宗像や宇佐や、阿毎氏の分家の宮崎や、
東テイ人からの上野原遺跡の投馬國も、王統を残した。
>雄略天皇の頃まで、有力豪族の寄り合い所帯で固定した王統はなかったというのが
通説なんだが?<
東の倭種は、九州倭国の「自昔・・・東征毛人五十五國」の支配地であった、というだけ。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝する朝鮮人は、卑劣だな。。。 奥山は自身のDNA分析を受けて朝鮮人である事実を認識するべきだな。 バンビシャスは、金曜日に邪馬台国の者達を叩き潰すことが、出来るのだろうか。 >>633
>これがまず間違いで、鉄器が普及したから石庖丁がなくなったんだよ
これが、合理的な考え方<
大和の鉄器は、3世紀後半以後に九州倭國の「東征毛人五十五國」が征服してから。
これが合理的な考え方。
合理的な前提をご都合主義で否定すると、
こういうどこまでも不合理なことを主張する羽目になる
こういうところが、
「南→東」や「冢=前方後円墳」などの嘘付き騙しの大和説の惨めさだよね やっぱ水行は有明海じゃないのかな?
伊都国が吉野ケ里で、長崎側に水行して投馬国、久留米側に水行して邪馬台国。
熊本以南のような気がする。
https://i.imgur.com/WRATyrS.png >>232
@阿波様、遥か遠き阿波より、ご声援ありがとうございます。 ついに「南水行十日陸行一月」の謎が解けたyo!
魏志倭人伝の核心は、「計其道里 當在会稽東冶之東(その道里を計るに、まさに会稽東冶の東にあるべし)」の一文。
1.西晋初代・武帝司馬炎は、祖父・司馬懿仲達(秀吉)を後見人に指名してくれた大恩人・曹叡(信長)の、(実は呉より北にいた)卑弥呼を特別待遇してしまった判断ミスを正当化し、呉を滅ぼす先鞭を付けた賢帝に仕立てる必要があった。
→曹魏の帝都・洛陽から見て東南にある孫呉との戦いにおいて、その背後に倭国「女王之所都」があれば、最高の牽制となる。
→孫権の帝都・建業とほぼ同緯度の会稽郡「東治(シ・さんずい)」ではなく、そこから更に約580km南で、帯方郡から12,000里の「東冶(ン・にすい)」の東にあると思わせたい。
2.しかし本当の位置も残さなければならない。
3.ところで倭国の気候&風俗(服装、産物、動物、武器)は、南越(ベトナム)国境にある海南島の大陸側、儋耳朱崖に似ている。
そこで陳寿が行った忖度が、女王国(九州)島が、狗邪韓国(伽耶)の南から儋耳朱崖(ベトナム国境)まで届く、中国大陸をすっぽり包み込む「南北に」長大な2つの列島であるように思わせるテクニック。
まず、正解の【奴国@】と、「當在会稽【東冶】之東」となる幻の【奴国A】を設定。
「奴国」を2回使って「女王之所都」が「奴国だよ、奴国だよ」と正解の【奴国@】を暗示(ダチョウ倶楽部「押すなよ、押すなよ」→2回目の念押しがポイント)。
次に、投馬国(宮崎)から南水行十日にある奄美大島を南にグィ〜ンと引き伸ばして、女王国島のパラレルワールド「邪馬台国島」を、そこに東治⇔東冶間の「陸行(徒歩)一月」を転用して幻の【奴国A】を創り、「東冶(ン・にすい)」の東に「女王之所都」を合わせた。
同時に倭国に行ったことがある中国知識人には「陸行一日(奴国)」の間違いとすぐに気が付くようにもした(「日」の両端の棒を下に延ばし日+Л→「月」)。
卑弥呼は、漢委奴国王以来の奴国王・帥升「其國本亦以男子為王 住七八十年」の男系女子(孫娘)で、先祖である歴代倭王(死者=鬼)の神託を聞くイタコとして(鬼道政治)、北部九州30カ国から共立された巫女(斎王)。
邪馬台国七万戸=奴国二万戸(福岡平野)+(南の狗奴国に狙われた)後背地・筑紫平野五万戸。 >>234の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│↓「陸行1月」(幻).│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│↓〜▲(沖縄)〜〜.│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲(台湾)〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」 >>638
>(北部九州の)「大型甕棺墓は弥生時代後期前半(1世紀)に基本的には終焉し、
その後は箱式石棺墓に取って代わられ、土坑墓も多くなる」<
www.yoshinogari.jp/contents3/?categoryId=26
の検索で、
吉野ヶ里遺跡の終焉
3世紀後半頃、吉野ヶ里遺跡全体を取り囲む環壕は、ほぼ埋没し、
北内郭、南内郭とともにその機能が失われてしまったと考えられています。
それと前後して、南内郭付近の丘陵部には4基の前方後方墳が築かれます。
吉野ヶ里丘陵の南部一帯は、人々の生活する集落から、人が葬られる埋葬の地へと変化したようです。
のであるから、
吉野ケ里のあの大量の甕棺は、3世紀半ば頃までは続いていたようで、
3世紀後半に前方後円墳部族に変わったようだ。
これは、那珂八幡などと同じ頃だな。 >>233
君のご先祖のふるさとだよ、阿波は。 阿波に拝礼! わははははは @阿波 >>648
>(ホケノ、椿井大塚山、黒塚)三世紀の古墳三基だけで<
4世紀頃の古墳だな。
>700点は見つかっている なら人が沢山いた証拠だな<
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らが、
九州から持って来た「鉄製武器のお宝」であったから、
征服民には分け与えず、
自分等の墓のお宝として、副葬用に使ったのだな。 >>652
>短里は空想が生み出した古田教のシンボルだよ。
1里70m程度の公の単位は古代中国には存在しなかった。<
魏志の「里」記録に存在し、
1寸千里や淮南子や漢書注や魏略や後漢書や梁書や江表伝や書紀などにも存在した。
>呼子加部島に船が着いて対馬海峡の渡海が一応終わり、その加部島から唐津湾に入り松浦川の河口まで南下する。
その松浦川の河口の少し上流あたりが末盧だろうね。<
その行程距離を計算して、魏志の「千余里」と比べて見ろ。
「1里≒76.5m」の短里に大体ぴったしだよ。 >>206
>印鑰神社
>国府の国璽と倉の鍵を保管していた神社(宮)
つまり、大和朝廷から国府に配された国璽を保管する神社で
大和朝廷が全国組織を整えてから作られたものだなww >>234
>>235
卑弥呼の魏帝への朝貢目的は、蜀の牽制として西のインド・クシャーナ朝「親魏大月氏王」同様、呉の牽制として東の「親魏倭王」号を取得し、帯方郡が管理している「伽耶の鉄」の倭国における輸入独占権の確保(郡宛て書簡封泥用の金印「親魏倭王」)。
つまり狗奴国戦争における後方支援(後に援軍)要請だったわけで、南の狗奴国の位置が決まれば、自動的に北の邪馬台国の位置も決まることになる。
長年続く邪馬台国所在地論争の核心は、実は狗奴国の位置であることに留意されたい。
そこで九州説、畿内説における狗奴国を検討すると、以下のようになる。
−女王国 東渡「海A」千余里 複有「国B」皆倭種(〇九州説…A関門海峡・B本州、✖畿内説…A鈴鹿山脈・B北海道)
−其南有狗奴國 不属女王(〇九州説…熊本もしくは薩摩、✖畿内説…仲良し東海)
畿内説はいずれも当てはまらない上「複有国(東)」と「狗奴国(南⤴東)」が重複し、矛盾する。
また、軍事力(鉄製武器)も通信手段(文字・駅伝制=早馬)もない3世紀の畿内にいて、遠隔の北部九州を安定支配するのは物理的に不可能。
魏志倭人伝を史料として採用する以上、消去法によって九州説が正しいことになる。
では、狗奴国が熊本平野か鹿児島川内(せんだい)平野かだが、邪馬台国七万戸を統治している女王卑弥呼をして、魏の明帝曹叡に援軍要請させるほど窮地に陥れる(狗奴)国の国力を考えると、
その人口は邪馬台国と同等(七万戸)もしくはそれ以上の人口(八万戸)と想定。
面積から見て、狗奴国が川内(せんだい)平野でゎ3世紀の開墾能力では限界があると思われ、狗奴国は菊地平野(狗古智比狗の本拠)+熊本平野+八代平野の3平野を合わせた超大国と考定して、
北の邪馬台国は、吉野ヶ里遺跡を始め弥生拠点集落の宝庫「筑後(川)の賜物」筑紫平野、卑弥呼王宮はその最高所・甘木朝倉と確定。
卑弥呼の冢「大作冢径百余歩(尺)=0.25m×100歩=直径25m」は、3世紀中頃の築造で、筑紫平野を一望でき、同時期の殉葬者が少なくとも66人以上確認されている「有棺無槨」祇園山古墳(リンク参照)を比定。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3 >>224
自分の悪事を得意気にさらすっていうのは、日本人の感覚では理解できないな
連続句読点は日本の学校教育をまともに受けていないんだろう >>241すると、欽明(現皇室の開祖)の父にして、古代史の謎である継体の正体(呉の南の「越」王の分家>狗奴国・卑弥弓呼末裔/八代淡海→「近江」)も判明!古代史は以下のように一挙に解明できるのである!
漢委奴国王=1世紀(弥生後期)
帥升=2世紀(倭国大乱)
卑弥呼=3世紀(弥生終末)邪馬台国(帯方郡張政の仲介で狗奴国を併合)…伊都国王神武「更立男王国中不服」を派遣し、紀伊半島西部水銀鉱床で栄えていた大和纏向を征服させ、奥津城(王家の谷)として隠蔽&独占。
崇神朝=4世紀(前期古墳)伊都国(台与死後「複立男王並受中国爵命」)…垂仁、伊勢神宮を創建し紀伊半島東部も聖域化。紀伊半島の水銀鉱床完全独占。
応神朝=5世紀(中期古墳)邪馬台国(仲哀を武内宿彌&神功が暗殺)…魏晋>【宋>斉>梁】南朝へ朝貢再開。479年「武」上表「安東大将軍倭王」に任官(悲願達成)。
継体朝=6世紀(後期古墳)狗奴国(武烈死後、倭王磐井を暗殺「百済本紀531年、日本の天皇・皇太子・皇子共に薨去」、筑紫君と矮小)…阿蘇邪靡堆へ遷都。倭国独自(九州)年号創設。
日出処「天子」倭王阿毎多利思比孤、新羅の朝貢を契機に隋煬帝に対し対等外交宣言607年
欽明朝=7世紀(飛鳥時代)…仏教伝来による墓制(国家祭祀)変更のため、欽明皇子、蘇我稲目と共に奥津城(王家の谷)に下向。大和分家として飛鳥疎開宮造営。
用明&厩戸…物部守屋を誅殺し前方後円墳廃止。大和分家を乗っ取ろうとした蘇我氏を九州本家の天智が誅殺し、近江大津京へ東遷(大化の改新)。
天武朝=8世紀(奈良時代)記紀編纂→唐外交の火種【九州年号&多利思比孤】を抹消すべく、崇神朝〜応神朝〜継体朝の歴代倭王権@九州本家の交代が、すべて大和分家で起こっていたように史実歪曲。
畿内を記紀の歴史テーマパーク化(九州の地名を移植。朝倉&阿蘇外輪山→三輪山、八代淡海→近江琵琶湖など)
桓武朝=9世紀(平安時代)
まとめると、
九州本家…卑弥呼台与(邪馬台国)→崇神朝(伊都国)→応神朝(邪馬台国)→継体朝(狗奴国/阿毎多利思比孤)→天智東遷(難波宮大津宮)→桓武(平安京)
大和分家…神武朝(伊都国)東征→崇神朝奥津城造営(紀伊半島の水銀鉱床目的)↘欽明朝(推古摂政厩戸)→天武持統(飛鳥宮藤原京)→元明(平城京) >>231
>やっぱ水行は有明海じゃないのかな?
そこには投馬国五万戸に比定できる遺跡も、
邪馬台国七万戸に比定できる遺跡もないんだ
行程パズルでここに違いないという論立ては、
遺跡の裏打ちがなければ絵に描いた餅以下なんだ >>243
邪馬台国女王・台与の死後、倭王となった伊都国王・崇神朝「複立男王並受中国爵命」の玄孫(4世孫)・仲哀から王権を相続(奪還)した応神(胎中天皇)は、仲哀の実子ではなく、
筑紫女王・神功皇后(記紀が邪馬台国女王「卑弥呼」と混同させられる理由)と大臣・武内宿彌の子供説(リンク参照)がある(仲哀崩御の十月十日後に筑紫で出生)。
仲哀の息子(応神の異母兄)たち(籠坂かごさか&忍熊おしくま皇子)の反乱もこれが原因である。
ここに武内宿彌の正体も明らかになるのである!
崇神朝(伊都国系)の@景行A成務B仲哀、続くC応神(息子)D仁徳(孫)の5人の大王に仕えた彼は、筑紫邪馬台国女王・卑弥呼の男弟の末裔なのである!
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A6%E5%86%85%E5%AE%BF%E7%A6%B0
その応神朝@筑紫(邪馬台国系の♂武内宿彌&♀神功皇后)を筑紫君磐井の乱で下剋上した狗奴国王・継体@阿蘇は、仁賢皇女・手白香姫を娶って欽明皇子を産ませることで、歴代倭王統の維持を図った(倭国大乱の再発予防)。
この欽明皇子が義理の父・蘇我稲目とともに、古代東アジア標準の中央集権強化手段=仏教への国家祭祀(墓制)変更のため、奥津城(王家の谷)大和に下向して大和分家(飛鳥)を築き、
その次男・用明の代で、ついに強硬な廃仏派である大連・物部守屋を滅ぼして前方後円墳築造を廃止。その妹推古が仏教の国教化に成功。
しかし、全国の官寺建設で国家予算を恣にした蘇我蝦夷・入鹿父子が大和分家の皇族を次々に粛正し、乗っ取ろうとしたため、九州本家の天智@太宰府(瓦葺き)が飛鳥(板葺)宮に下向。三韓大使の目の前で誅殺(乙巳の変)。
その後、663年に白村江海戦での惨敗により、唐・新羅の連合艦隊による倭王征伐がいよいよ現実味を帯びたため、〔倭国独自(九州)元号を創設した継体朝の、「天子」を名乗ってしまったため、記紀に消された〕多利思比孤系統の九州本家・天智が、近江大津京に東遷。
ここに倭王権は史上初めて九州島を出て、近江大津京→飛鳥浄御原宮→新益藤原京→平城京→平安京へと続く畿内中心の歴史が始まるのである!
欽明以前の古墳時代の畿内には、継体朝ですら記紀伝承地に大王宮が一つも出土せず(明治以降設置の石碑のみ)、巨大王墓と倉庫しか出土しないのは、そのためである。 >>240
その通り。
大和の大神神社は、倭国(阿波)の「大御和神社」が本家本元である。
徳島市国府町府中の式内社 「大御和神社」は神社拝殿上に「文武天皇(七〇二年)の御宇、この閤宮(こうのみや)より、国璽の印と国庫の鍵を差し出した」と記されている。
(国璽の印とは国家の表章として押す宮印で、帝都が阿波にあったことを証明するもの)
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波
http://www.genbu.net/data/awa2/oomiwa_title.htm >>245
ダイワとしか読めない大倭(大和)を「ヤマト」と読ませるのはなぜか?
邪馬台国があったからではなく、その逆で、国内外(特に唐)に対し、新益藤原京を新設した畿内に筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆があったと思わせたかったからなのである!
白村江海戦惨敗で九州本家の天智が東遷した後、大和分家の天武が(確実に唐を刺激する、継体創設の倭国独自年号&日出処「天子」多利思比孤を抹消するための)歴史改ざん書である記紀を書かせ、
九州の地名をそっくり移植し、畿内を記紀の歴史テーマパーク化していったからで、そのテーマパークの名前が「大倭」(ヤマト)なのである!
また7世紀の隋・唐までの中国歴代王朝には、倭国は九州島のみと認識されていたことが判る。
魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)又有侏儒国在其南(四国)」
旧唐書(原文略)
日本の使者Aは「日本国(本州)は昔の倭国(九州)とは別の国だったが、日辺(東)にあったので、日本と名付けた」
別の使者Bは「倭(九州)と言う名前が優雅でないから日本(本州)と改名した」と言い、
また別の使者Cは「日本(本州)は昔小国だったが、倭地(九州)を併せた」と言った。
来朝した使者ABCの態度が尊大で、真実を言っている様子がなかったので、中国は彼らを疑った。
事実は逆で、白村江海戦惨敗で九州本家が大和分家(近江大津京)に東遷後、実際はすべて北部九州で展開していた記紀の歴史テーマパークにするため大倭(>後漢書東夷伝)と書かせ、
発音だけ九州時代の都であった筑紫邪馬台&阿蘇邪靡堆(ヤマト)としたということなのである!
ゆえに「魏志倭人伝」の年代記述に合わせて箸墓の築造年代を繰り下げて生まれた畿内説(他人の褌)、ならびに教科書に載っている古墳時代にあったとされるヤマト王権(定説)は、
超大国・唐(アメリカ・トルーマン大統領)との外交を最優先課題とせざるを得なかった天武・持統朝が国家事業として遂行した、この複雑なからくりに惑わされて生まれた電波(幻想)で、
特に前者は、記紀(定説・ヤマト王権)というゴール地点から、考古学と魏志倭人伝という他人の褌で、どこまで史実(スタート地点)歪曲&洗脳を定着させられるのか?という、社会実験に過ぎないのである。 >>244
> >>231
> そこには投馬国五万戸に比定できる遺跡も、
> 邪馬台国七万戸に比定できる遺跡もないんだ
じゃあ生活痕の乏しい纏向説は完全消滅だなw >>247
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、https://youtu.be/dTk54jNZtnE?t=3404
その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲し、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて九州島を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)が北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの畿内にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子「以和為貴」より)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
@(武寧王の百済を完全属国化した)継体@阿蘇邪靡堆が創設した(時間の支配者=中国皇帝からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号の創設
→天智の倭京(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
A鉄の産出により高句麗・百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗って、宇宙の支配者「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
B白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に恐れ慄いた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男&斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚・天智天武兄弟の秘密)
-継体による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居【倭京】仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html >>248
纏向遺跡だけでなく、崇神朝、応神朝、継体朝、すべての記紀伝承地において、現地の教育委員会が、大王宮を発掘しても何も出てこない。
唐古鍵ですらあれだけの出土物があるというのにw
雄略天皇の円大臣の邸宅(奥津城・大和における墓参り用の別荘)とされる極楽寺ヒビキ遺跡くらいのもの。 今城塚古墳に眠る大王の、ピンクの石は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。 >>251
それ毎日新聞もグルだぞ。
アカヒは知らね。 >>667
>おう古墳の周りに奴婢を埋めた跡は考古学的にどの古墳にも見つかってないよ<
列島で、
「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」に当てはまる墓としては、
唯一祇園山古墳が存在し、
列島の公的大和説考古学者は、
全員「南→東」などの嘘付き騙しである事が確定しているから、根拠にならない。 >>252
異人コマビトがヤマト王権に併合されたから 翡翠の勾玉や銅鐸の鋳型が出ている唐古鍵遺跡…土器と木製仮面と桃の種とカエルの骨の纏向遺跡。
出土品で言えば、纏向遺跡は、唐古鍵以下w
それが卑弥呼の王宮跡?
w >>256
どのみち、「忌部はん」 の残滓だよ。 @阿波 >>256
文明(弥生)の唐古鍵 vs 呪術(縄文)の纏向 奈良盆地は弥生文化の浸透が遅れた随分と後から開拓された土地だな。
それまではただの墓置き場だ。
纏向は墓地管理会社の跡地。 >>673
>倭国と日本国の混乱があったあとは<
混乱などない。
大和日本国は、九州倭国から別れた別種の旧小国の、別の国になっていたのであって、
白村江で大敗した九州倭国を、大和日本国が併合吸収継承した、という事。
>日本国に統一されているから、倭国=日本国で問題ない。<
倭国は開成4年まで、大和とは別の国だ、
という残映を持っていた。 漢委倭奴国の金印は福岡で発見された。
後漢書「倭奴国は倭の南極界である」
旧唐書「倭国はかつての倭奴国である」
<旧唐書より>
倭国と日本(ヤマト政権)が別記されている。
https://i.imgur.com/LMs5IbV.png
■倭國条 〜631年 (倭国時代末期)
「倭國者,古倭奴國也。」
(倭国はいにしえの倭奴国である。)
■日本条 701年〜 (ヤマト政権時代)
「日本國者,倭國之別種也。」
(日本国は倭国とは別種である)
そして古代倭国との関係について
日本国使者があれこれ言い訳をする。
「日本舊小國,併倭國之地。」
(小国だった日本国が倭国を併合した)
↑
※日本の使者に、倭国と日本は別国という認識がある事がわかる >>259
不便な山に囲まれて、ジメジメした湿地帯だったからね、開拓が後回しになったんだよ。 @「忌部はん」 >>678
「南→東」などの嘘付き騙しで、論争に負けた大和説さん
どうしてそんな、ウソまみれの醜悪な罵倒しか出来ないの? >>680
大和説者は、
「南→東」などのような史料事実の否定曲解をするように、
心が醜悪だからだよ
みんなが知ってる >>687
>短里は幻想よ。<
短里が、魏志などの史料実態であり、
倭人伝の「長里」説は幻想よ。 それにしても・・・?
あの写真なんだよな〜、
軍人などではないと言っているんだけど、何なんだろう 僕達の孫娘が楽しみにしているジャパンゲームというゲームは、金曜日のバンビシャス対邪馬台国の闘いと、どの程度のレベルの差があるのだろうか。。。 卑劣な奥山氏が、嘘を言い放ったな。。。
242日本@名無史さん2019/10/08(火) 10:26:21.64
>>224
自分の悪事を得意気にさらすっていうのは、日本人の感覚では理解できないな
連続句読点は日本の学校教育をまともに受けていないんだろう 反論を受けないよう前スレへオウム返しして
何となく論破した気分を味わうしかないみじめな九州説 川俣町(伊達郡)というところの掲示板、
同じ話をしているでしょ? 驚いたな。。。
カナダからNBAチャンピオンが来日しているのだな。。。 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神橿日姫(神夏磯姫)の時、外部勢力である景行天皇とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清している。
景行天皇の孫の仲哀天皇が息長帯姫(神功皇后)とともに神橿日姫ゆかりの筑紫橿日宮(香椎宮)に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、仲哀天皇は筑紫橿日宮で急死してしまう。
景行は神橿日姫と共闘していたが、仲哀の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神橿日姫の末裔とされる田油津姫を殺し、武内宿禰とともに筑紫の全権を掌握し、朝鮮半島に出兵する。
倒された側の耳垂や田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫も八咫の鏡を保有していた神橿日姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国すなわち邪馬台国の末裔による内紛に他ならない。
その中でも、筑後・筑豊・肥前に拠点を持つ肥国邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神橿日姫、田油津姫までで終わりとなる。
仲哀の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は、仲哀の本来の皇后(大中津姫、仲哀と同じく景行の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人も殺害し、仲哀の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である応神を天皇にした。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、後世の天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め、政治的権威も強かった(宇佐神託事件など)。y 【筑紫の日向】
筑紫の日向は、しばしば宮崎県のことだと誤解されるが、福岡県のことである。
筑紫の日向の小戸の阿波木原はイザナギが禊をしたところとされており、福岡市西区小戸に比定されている。
この禊で生まれたのが博多に祭られる住吉三神や志賀島に祭られる綿津見三神である。
博多湾沿岸は、倭国の王権の発祥の地として知られている。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とある。
福岡県の高祖山の南側は、別名をクシフル山とも言う。
「高祖村、椚 二十四戸。慶長の頃、黒田長政、村の南の、野地を開き、田地とすべしと、手塚水雪に命ぜられし書状、今も、農民、田中が家にあり。
其書に、五郎丸の内、日向山に、新村押立とあれば、椚村は、此時立しなるべし。
民家の後にあるを、くしふる山と云、故に、くしふると、云ひしを訛りて、[木毛]と云とぞ。
田中は、元亀天正の間は、原田家より与へし文書、三通を蔵す」
(福岡県地理全誌抜萃目録、恰土郡之部)
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生王墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、その中に高祖神社がある。その原型が記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。 誰の家なのかわからないけど、夫妻がいるでしょ、
それと子供がいて・・・、その子供というのは兄妹だったのかな?
むかしは何やら〜、良かったんだけどね〜。
裕福な暮らしをしていた。とかw
あのガンダムの話と同じ NBAチャンピオンは、どれほどの闘いの力を持っているのだろうか。。。 NBAチャンピオンは、どれほどの観客を力を持っているのだろうか。。。 >>279
NBAチャンピオンは、どれほどの観客を力を持っているのだろうか。。。
という文章は、
NBAチャンピオンは、どれほどの数の観客を集める力を持っているのだろうか。。。
と、タイピングしたかったのではないのかな。。。 邪馬台国の話をすると論破されるので
仕方なくバスケの話をし出す九州説 >>248
>じゃあ生活痕の乏しい纏向説は完全消滅だなw
なぜ、統一祭祀王の国家祭祀の中枢施設に生活痕を求めるんだ?
邪馬台国七万戸は畿内第V様式どきの出土範囲と何度教えれば覚えるんだ?wwww
唐子鍵遺跡にも芝遺跡にも、生活痕は山ほどあるだろ?w というか家の写真なんだけど、
ほんとーにwどういう話なんだろう
川崎に住んでいるとか さいたまスーパーアリーナというアリーナのチケットが、売り切れてしまっている可能性が高いな。。。 邪馬台国畿内説は、完全に破綻してしまったので、このスレッドでの話題は、バンビシャスと関係性の高い話題に、話題は変換されてしまったのだったね。。。 奈良にも、5000人収容できる、ならスーパーアリーナというアリーナを建設し、満員にすれば、儲かるのではないのかな。。。 さいたまスーパーアリーナというアリーナは、どのようなモードで、バスケットボールの試合を開催するのだろうか。。。 >>283
>なぜ、統一祭祀王の国家祭祀の中枢施設に生活痕を求めるんだ?
伊都国への批判とだいぶスタンスが違うな。
ダブルスタンダードか?
これだから畿内説は信用されない。 天女〜天帝〜ほとんど合致しているし、
河童(キュウリのような葉)とb「うわけではなb「んだけど、
寺院に通っていたとか >>283
唐古は無関係と諦めたくせ纏向の不足を唐古で補おうとする朝鮮式畿内説w 信オンというゲームがあったんだけど
こんな、くそゲー!(企業)
みたいなことを言っている人がいたとか、いないとか
何があったんだろう >>291
>唐古は無関係と諦めたくせ
九州説の特徴
いつも言うこと出所不明情報ばかり
つまり、言ってることがいいからかん コウ・ツブサワ(しぶさわ)?
『紙幣』
・・・どういう事なんだろう NBAチャンピオンは、どれほどの数の観客を集める力を持っているのだろうか。。。 >>289
>伊都国への批判とだいぶスタンスが違うな。
>ダブルスタンダードか?
九州説の特徴
いつも言うこと出所不明情報ばかり
つまり、言ってることがいいからかん
言い換えれば
その投稿はゴミ 邪馬台国畿内説の立場の者の講演会は、どれほどの数の観客を集める力を持っているのだろうか。。。 邪馬台国畿内説の立場の者の講演会は、言ってることがいいからかんのではないのかな。。。 バンビシャスの力だけではなく、アリーナの力があれば、観客数が伸びる可能性が高いな。。。 奥山氏は、山梨の出身の可能性が高まってきたな。。。
296日本@名無史さん2019/10/08(火) 13:29:26.50
つまり、言ってることがいいからかん >>293
当時学者連中がそう言ってただろ?
何も知らないのか記憶喪失なのか認知症か?w >>299
橿原の体育館が、県立の体育館だったな。。。 2時から、NHKが、また、邪馬台国畿内説に具体的な証拠が無いことを発表するのだったね。。。 >>304
繰り返し、何度でも放送するのだったね。。。 >>259
>奈良盆地は弥生文化の浸透が遅れた随分と後から開拓された土地だな。
そういう現実から乖離した妄想の世界に浸ってるから、九州説は学説にならないんだよ
というか、既に学説としては死んでる
奈良盆地の最低部に、縄文晩期の突帯文土器が出る遺跡が出ている
弥生時代の最初期から奈良盆地には人が入って弥生社会(水稲、金属器、階層分化)に
なっているし、弥生後期には近畿地方の中心の一つ(唐子鍵)になっている
https://i.imgur.com/6rXI0OP.jpg
でたらめをいくら並べても意味ないって
現実に対して論証しないと! それと本当に謎の『姥清水』
1980年?には語られていたみたいだしな、
謎の老婆がいて、よくわからないけど偉そうにしていたり、
そういう話?
その子供の母親がいるでしょ? 奈良にも、20000人収容できる、ならスーパーアリーナというアリーナを建設し、満員にすれば、儲かるのではないのかな。。。 >>266
「長里」なんて古田派が作り出した語彙。
そんな呼び名は古代中国になかった。
魏の時代は1里430mが公定単位。
それ以外にない。
対馬海峡だけで使う非公式距離単位があったのか。 >>309
バンビシャスが闘わないときには、音楽会や自動車の販売会を開催すれば良いのだったね。。。 >>289
>伊都国への批判とだいぶスタンスが違うな。
伊都国のどこに、国家祭祀の周数施設があるんだ?ww
あるのは、割るためだけに作った手抜き鏡を割ってばら撒いた小さな周溝墓だけだろ?
しかも、平原1号墓推しの人が鳥居って言っているやつ、
あれ、平原5号墓の付帯設備だぞ
そういうのも理解してないくせに、平原1号墓くらいしか
めぼしい厚葬墓がないから無理に持ち上げざるを得ない九州説の惨めさww
サキゾノ地区の住居跡と呼ばれる遺跡は、一大率の祭祀跡かもしれないけれど わかりやすく言うと
老婆と、老婆の息子(兄弟姉妹など)などがいるでしょ?
嫁(あと子供)のことを〜みたいな話?殺そうとしたり >>291
>唐古は無関係と諦めたくせ
唐子鍵も無関係じゃないよ?
纏向の崇神の宮に八咫鏡のレプリカ(というかおそらく八咫鏡自体も)を作って
納めたのは、唐子鍵の青銅器鋳造集団だぞ
それが、鏡作神社だ 高校生が、魏志倭人伝についても学習しているのではないのかな。。。 >>314
まるで当時の録画ビデオでも見たかのように幻覚について語る畿内信者w 高校生は、魏志倭人伝よりも、バスケットボールが好きなのではないのかな。。。 奈良の高校生には、学芸の博物館よりも、大規模なアリーナが必要なのではないのかな。。 >>260
その大和日本国はいつ九州倭国から別れたんよ。 >>307
>弥生時代の最初期から奈良盆地には人が入って
それもともと居た縄文人だろ。 やはり、NHKは、魏志倭人伝の3つの条件を満たす九州の城を、力を込めて紹介したな。。。 魏志倭人伝の3つの条件を満たす九州の城は、九州には当たり前のように、たくさんあった可能性が、そうではない可能性より、高いな。。。 >>239
その76.5mは対馬海峡でしか通用せんのじゃね。 76.5mというのは、淮南子にも規定されている、一寸千里の法の計算結果なのではないのかな。。。 緯度34度と緯度35度と緯度36度の夏至の時の正午の、ある長さの棒の影の長さの差だったな。。。 2019年度で畿内説を支持する解説番組は全く無かったな。
調査予算も打切られたらしい。
急になくなったな。
レーダー照射事件が致命的だったんだな。
朝鮮式畿内説なだけに。。。 >>327
去年の今頃、僕達は実際に計算したのだったな。。。 >>331
奥山氏が計算に繰り返し失敗し、分度器の使い方や、三角の関数のことを知らないことが、バレてしまったのだったな。。。 >>210
日本関連のものは、順天には秀吉の倭城だけ。
しかも海は遠浅。
定期航路の港としては不向き。^^ 清正公が満州から凱旋するときに利用した港は、どの港なのだろうか。。。 魏志倭人伝の3つの条件を満たす九州の城は、九州には当たり前のように、たくさんあった可能性が、そうではない可能性より、高いな。。。 >>209
韓国から対馬に漕ぎ渡るのは、まず南に向けて漕いで、潮流のあるところから東南東へ漕ぐ。
そうすると対馬の南岸神崎に着く。
対馬から壱岐へ行くのも同じ。
壱岐から呼子加部島間はあまり潮流はないかも。^^ >>307
他の地域と相対的に評価しないと、井の中の蛙だよ。
弥生文化そのものが九州北部から伝播したことは確実で、誰かが畿内に入植したんだよ。
唐子鍵を誰も否定していない。
ただ、畿内説が無理に持ち上げすぎているからイロモノ扱いされているけどね。 >>312
>伊都国のどこに、国家祭祀の周数施設があるんだ?ww
>あるのは、割るためだけに作った手抜き鏡を割ってばら撒いた小さな周溝墓だけだろ?
考古学と真摯に向き合わない畿内説が衰退したのは当然の結末だな。 >>314
>纏向の崇神の宮に八咫鏡のレプリカ(というかおそらく八咫鏡自体も)を作って
>納めたのは、唐子鍵の青銅器鋳造集団だぞ
高天原から筑紫に移された八咫の鏡が巡り巡って纒向に来ていたわけだろ?
筑紫からの入植の証じゃん。 崇神が八咫の鏡を纒向から伊勢に追い出した後、景行の時に筑紫の神夏磯姫が(おそらく別の)八咫の鏡を持って登場するんだよな。
不思議だ。 >>340
反論する代わりに悪口を言う九州説
もはや学説でないのだから仕方ないか バンビシャスの力だけではなく、アリーナの力があれば、観客数が伸びる可能性が高いな。。。 バンビシャスは、金曜日に邪馬台国の者達を叩き潰すことが、出来るのだろうか。 >>340
日本の考古学者は畿内説
考古学を拒絶してる異人種が九州説 「。。。氏」は、
もしかして近所に住んでいる人なのかな?
家の近所にある保育園、なぜかバンビと言われていたり 川崎区に浜町というところがあるんだけどw
観音寺の近くにある、あの保育園、なぜか通称バンビ
もれ(仮)はそこに通っていたわけではないんだけど、
兄も妹もw メディアが畿内説を支持しなくなったのはこの発見からだな。
もう作り話の繋げようが無くなってきたから。
産経新聞(2018.11.28)
最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
https://www.sankei.com/west/news/181128/wst1811280010-n1.html
〜 大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の 〜
建築年代は4世紀末〜5世紀初めと推定され、最古の大壁建物跡の可能性もある。
渡来人が入植を開始したのは5世紀後半と考えられていたが、大幅に早まる可能性が出てきた。
〜 省略
白石太一郎・大阪府立近つ飛鳥博物館名誉館長(考古学)は、建物の時期についてはさらに
検討が必要としながらも、「(現場に)居館や祭祀施設など渡来系の人たちが営んだ重要な
施設があったことは間違いない」とみている。 >>341
高天原から出雲を制して出雲が支配していた筑紫に入植したわけだな >>339
>弥生文化そのものが九州北部から伝播したことは確実で、誰かが畿内に入植したんだよ。
九州説は
「文化の伝播」という周知の概念を
まるで理解できていないので
騎馬民族説と同じ末路を辿るのは
当然 とあるスレなどでも、
うりすと教〜?そのような話ばかりしているし >>350
渡来人の到来を50年以上遅く見積もっていたんだね。
奈良の遺跡や古墳の築造時期を50年以上古く見積もってるんだね。
そして出来た100年ほどのスペースにヤマトの歴史を詰め込もうと考えたのかな? >>350
>最古の大壁建物跡か 奈良・高取の遺跡で発見
これを畿内説の否定だと思っちゃう脳は
明らかにヒトでなく
サルのものだよ
理路が何もないもん
サルだよ >>353
韓国側の調査によると、弥生時代後期に半島南部に騎馬民族が集結していた痕跡があるそうだ。
それが山陰を経て畿内へ入植した可能性は否定できない。 >>357
>こういうのは悪口とは言わないのか?
言わないよ
単なる酷評だね
事実の摘示と評価結果が論理的に繋がってるから 私どもが行った現代日本人頭骨の分析から見ても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で『特殊な日本人』ともいえる
(埴原和郎・国際日本文化研究センター名誉教授)
畿内古代人は韓国朝鮮現代人に類似する畿内現代人と同じグループに属している
(池田次郎・京都大学名誉教授)
大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い
(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)
関西人には細い目をした髭の薄いのっぺり顔が多いが、沖縄の人は眉や髭が濃く、ぱっちりした二重まぶたの人が多い
(中橋孝博・九州大学大学院教授)
熊本は古来より北からの流れと南からの流れが見事に交錯してきた美人の産地
(松下孝幸・土井ヶ浜人類学ミュージアム館長) それにも、家の話?本当に、おかしな話ばかり
歌舞伎、芝居が好きだったとか、
〜保存されていたり >>358
強がり言ってるけど、それ畿内説にとってのボディーブローだぞ。
将棋なら詰み確定状態w >>359
その痕跡とやらの情報源の信憑性が否定されると
可能性も否定されるんだがな 畿内の多くの神社や地名が九州北部に所縁あるものなんだよな。
そして多くの古代氏族が九州北部に祖先がいたとする。
その代表が天皇家であり、筑紫の日向から来たと明言している。 どういう事なんだろう
『桜本 保育園』
うりすと教?うりすと教?と叩かれていたり、
なぜか、この辺りの話のような? 【葛城鴨王家の系譜】
大和国葛城にいた古代氏族の系譜。三輪高宮家系譜などに資料が残されている。
その祖は博多湾沿岸の倭王である大山祇の子、伊奘諾の曽孫である三島溝杙耳(陶津耳、賀茂建角身)である。
大山祇の娘の木花咲夜姫は天孫邇邇芸に嫁入りしていて、その実家は志賀島の綿津見神社とされるが、遠賀川沿岸に広がる豊国が支配地域であり、後世の筑紫岡田宮の一族である。
三島溝杙耳は瀬戸内海を通じて大阪湾から畿内に鎮座し、後に神武の東征を助けたとされている。
この一族を祭るのが、伊予国大三島の大山祇神社、土佐の溝咋神社、摂津の三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などである。
神武と戦った長髄彦は三島溝杙耳の息子とされていて、耳の娘は活玉依姫(勢夜陀多良比売、玉櫛媛)である。
出雲の国譲りの後に大和に移住していた事代主は三輪山の神となっていたが、活玉依姫に娘と息子を生ませる(丹塗矢説話)。
この娘は後に神武の妃となるイスケヨリ姫(媛蹈鞴五十鈴姫)であり、息子は天日方奇日方(櫛御方)である。天日方奇日方はまたの名を鴨主という。
天日方奇日方の曾孫が太田多根子である。
この登美の鴨王家には別の伝承がある。
飛鳥大神の娘である登美夜姫が、高天原から交野にやってきた天照の孫であるニギハヤヒとの間に生んだ子が、物部氏の祖であるウマシマジである。
登美の長髄彦は、神武との戦いの中で「自分は天神の子であるニギハヤヒに仕えて妹をニギハヤヒに娶らせたが、どうしてまた天神の子と称するものが来て土地を取ろうとするのか」と言っている。
とすると、登美夜姫と活玉依姫はともに長髄彦の妹ということになり、異同が論じられるところである。
古事記では大物主は大国主や事代主と別神であり、勢夜陀多良比売と活玉依姫も別神としているが、勢夜陀多良比売と活玉依姫はいずれも丹塗矢説話が共通している。
いずれにしても、大和国の主だった勢力はいずれも筑紫か出雲、高天原にその起源があることになる。 【八咫鏡】
天皇位の象徴である三種の神器の一つ。
径1尺の円の円周が4咫であり、八咫の鏡は直径2尺(46cm)、円周が8咫の銅鏡と考えられる。
延喜式伊勢大神宮式や皇大神宮儀式帳では八咫鏡を入れる桶代は径49cmである。
http://yamatai.cside.com/katudou/image/330-02_2.gif
平原遺跡から出土した史上最大の銅鏡である超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、これらに一致する。
神道五部書等によれば八咫鏡は八葉という。
伊勢二所皇御大神御鎮座傳記は伊勢太神宮の宝鏡について「八頭花崎八葉形、圓外日天八座」とある。
八葉とは、鈕孔を巡る八葉座のことであるが、通常の内行花文鏡は四葉座であり、平原から出土した超大型内行花文鏡の八葉座は他に例がないことから、これが伊勢にある八咫鏡と同汎鏡と考えられる。
内行花文鏡は、前漢時代の日光鏡や清白鏡の系譜上にある太陽を象った太陽信仰の象徴である。
伊都にある王墓の代表である三雲南小路遺跡の甕棺墓から発見された内行花文鏡には「見日之光天下大明」という銘文があり、内行花文鏡が太陽光を象った鏡であることがわかる。
内行花文鏡は中国で王侯に下賜されていた形式であり、倭国は内行花文鏡を王権の象徴として漢王朝の冊封の元での祭政一致王権をとっていたことになる。
八咫鏡は天孫ニニギら日向王家の象徴であり、伊都が記紀に伝えられる倭国の旧都、筑紫の日向であったことがわかる。
石凝姥命が八咫鏡に先立って鋳造した同等の鏡として、紀国一宮である日前宮(ひのくまみや)の日像鏡、國懸宮(くにかかすみや)の日矛鏡がある。
伊勢が大和の東の出口、日前は西の出口にあり、伊勢とほぼ同等の力を持っていたといわれている。
筑前国風土記逸文では、宗像大社邊津宮の神宝も八咫鏡と記録されている。
これらを含めると、八咫鏡の総数は、伊都に5枚、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、宗像邊津宮と、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、消息は記録されていない(上記のいずれかと重複しているか?)。 奈良県高取町の大壁建物が4世紀末から
オンドルを持つものを含めて約40棟
宗像のオンドル住居が5世紀中頃 >>316
>学者も言ってない超妄想w
本当に、もの知らずの情弱しか九州説にはいないんだな
縄文晩期から奈良盆地に集落がある
「縄文時代晩期後半の突帯文土器様式のうち、後半期の
船橋式と長原式段階の遺跡を取り上げる。長原式は奈良
盆地や河内平野では第T –2 様式までの共伴が確認され
ているから、前期1段階での伴出資料は共存資料として
積極的に評価した。
突帯文様式の遺跡は一見して、菩提山川と大和川を結
ぶ盆地の南部に集中する様子がわかる。とくに突帯文様
式単純の遺跡(J 型)は、唯一、秋篠川上流の西隆寺下
層を除けば、大和川本流(初瀬川水系)以南にほぼ限ら
れており」
大和弥生社会の展開とその特質(再論) 寺沢薫
唐子鍵は青銅器生産の中心地のひとつ
「弥生時代の青銅器鋳造 唐古・鍵遺跡の鋳造遺物を中心に」
唐古・鍵考古学ミュージアム
平成18年度秋季企画展 「オンドル」
畿内の人達がどこから来たかわかりまちたか? 伝説のウラシマのテーマ?
山の上でも魚が泳ぐ、なぜのアニメなども、未来から〜設定とか >>371
その唐子鍵の「青銅器」が銅鐸であることをあえて隠しているのかな?
「聞かれなかったから書かなかった」
詐欺師の論法ですね。 >>363
>強がり言ってるけど、それ畿内説にとってのボディーブローだぞ。
強がり?
なんで????
理由がまったくわからない 唐子鍵の銅鐸文化は消滅して、筑紫から運ばれた八咫鏡のエピソードで知られる崇神の纒向宮が成立した。
征服されたんだな。 >>318
>まるで当時の録画ビデオでも見たかのように幻覚について語る畿内信者w
八咫鏡の鋳造を行った神、石凝姥命の後裔氏族が作鏡連で、唐子鍵の鏡作神社の奉祭氏族
また、八咫鏡の鋳造の先立って作った日像鏡・日矛鏡は、紀伊の日前神宮・國懸神宮の
ご神体で、また鏡作神社にも八咫鏡の前に作った失敗鏡が伝世されている
その失敗鏡が三角縁神獣鏡の内区のみのもの
こうした点を考えると、八咫鏡は弥生末期から古墳時代初期頃に畿内で作られたと
考えるのが妥当
北部九州には、八咫鏡に関する逸話がほぼ残っていない
一応、西海道風土記に宗像神社のご神鏡が八咫鏡という記述があるが、
これは雄略紀に見られる普通名詞としての八咫鏡(大きな鏡という形容)と同類 大和弥生社会の展開とその特質
寺沢薫
(纒向学研究 第4号より抜粋・引用)
もともと第一の道論(注釈:奈良盆地の独自の発展によるヤマト王権の誕生)は、奈良盆地の自然環境の卓越性を根拠に、生産力の先進性をことさらに高く見積もり、
前期古墳に見る隔絶性から前段階の強力な権力の存在を推定するという本末転倒の論理によって説明されてきた感が強い。
以降、第一の道論は吉備連合論、河内(大和川水系)連合論、鉄ルート開発 ・ 確保論、倭国乱での巻き返し論等々を巻き込み、修復を繰りかえしながら多くの論者によって支持され続けてきた。
しかし証明のための論理や手法に根本的な改善は見られない。
私は第一の道を否定する立場である。
第二の道は多様である。
私は北部九州や2世紀以降とくに強大な勢力として新興してきた吉備を中心とした瀬戸内海勢力を維新主要勢力とした政治的談合による倭国の再編成(私の言う「新生倭国」の誕生)と考えている。
畿内や大和ではその直前まで首長墓を含む一般的墓制は方形墓なのであって、しかも王権を構成した主要地域に比べると、
墓に反映されるほどの階級的に隔絶した首長権力が存在した形跡は微塵もないのである。
ttp://www.makimukugaku.jp/pdf/kiyou-4.pdf 偶然にしては・・・・・・・・・・・・?話ばかり、
河伯(?)・・・観音寺というところがあるんだけど、
そこに〜と言っていたり >>338
>壱岐から呼子加部島間はあまり潮流はないかも。^^
対馬海流は、手漕ぎでもそこまで大きな影響はないよ
https://i.imgur.com/BO8F1We.jpg つまり、3世紀の終わりごろ、銅鐸王国が九州倭国に滅ぼされた時、銅鐸王国の最後の中心地は、唐古鍵だったのだな。。。 倭国が、新羅で馬主を捕獲したのは、4世紀だったな。。。 >>378
>その失敗鏡が三角縁神獣鏡の内区のみのもの
根拠のない嘘をつくな。 >>340
>考古学と真摯に向き合わない畿内説が衰退したのは当然の結末だな。
それ、九州説のブーメランすぎw
吉野ヶ里の北墳丘墓
平原遺跡 五号墓
平原遺跡 一号墓
が同じ葬送分化だということをきちんと理解しなさい 「でよい」
「とするのが妥当」
「とみることができよう」
「余地があろう」
「みなしてよい」
「不自然ではない」
などの主観的な判断の表現を疑え。
少なくともそれらは仮説に過ぎず、確認された事実とは区別しなくてはいけない。
それらの仮説を除くと、テンプレも、キナイコシの主張も、畿内説と呼べるものは全く空っぽになってしまう。
畿内説は客観的根拠が不足しており、仮説の上に仮説を積み上げただけの、砂上の楼閣に過ぎない。 吉武高木遺跡から始まる多数の王墓、玄界灘沿岸の稲作文化、金印や八咫の鏡をはじめとする王権を示す威信材の数々について、畿内説は何も説明することができない。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
金印をもって倭国の代表に冊封された王たちは、博多湾沿岸にいた。
それには卑弥呼も含まれる。
邪馬台国は、魏志伝倭人だけではなく、後漢書などもあわせて理解しなくてはいけない。
西暦57年に博多湾沿岸の倭王が漢委奴国王印をもらい、107年に倭王帥升も朝貢しているが、190年頃とされる卑弥呼の即位までの間に倭が大和に東遷でもしたのだろうか?
魏志倭人伝にも後漢書にも、倭が東遷したとはまったく書かれていないし、考古学的な裏づけもまったくない。 あのw山の上のほうの話をしていて、
家は戦争などには行っていないとか、軍人でもない?
誰が知っているんだろう >>339
>弥生文化そのものが九州北部から伝播したことは確実で、誰かが畿内に入植したんだよ。
それが、今問題にしている3世紀から見て500年以上前
北部九州の文化的優位は2世紀後半から3世紀にはまったく存在しない
九州説が考古学無視、時系列無視ってのが、こういうところで露呈する 4世紀の終わりごろ、九州倭国に捕獲された、朝鮮半島出身の奴隷や馬主が、奈良盆地に連行されたので、馬飼いやオンドルの技術が伝わった可能性が高いな。 >>341
>高天原から筑紫に移された八咫の鏡
高天原には青銅器の鋳造技術がないから、
実際には弥生後期〜晩期・古墳時代初期に畿内で作られたと考えるのが妥当 >>385
そりゃ同じ文化圏だものな。
それより、平原遺跡の主は伊都国だけの小さな家系だという主張はもういいのかい?
佐賀の吉野ヶ里まで同じ系列だと、まさしく九州北部説の想定する邪馬台国そのままになってしまうけどw >>389
>それが、今問題にしている3世紀から見て500年以上前
>北部九州の文化的優位は2世紀後半から3世紀にはまったく存在しない
おや?
東遷説だったのかなw 奥山氏は、時間を少しでも、古く捏造しようとしてきたが、もう、年代捏造が失敗したことは、常識になってしまっているのだったな。。。 >>342
>韓国方4千里もほぼ同じ縮尺です。
それ、循海岸七千里に合わせて作った数字
そして、七千里は万里の修交という修辞から、渡海一声千里×3を引いた単純計算
実際に測っていないものを、実際の単位系の根拠にするのが滑稽ww >>396
無知な奥山氏は、コウヤマキが伐採と同時に年輪とは無関係に個体内全体で一斉に、閉鎖系になると勘違いしているのだったね。 >>398
無知な奥山氏は、コウヤマキが伐採と同時に年輪とは無関係に個体内全体で一斉に、閉鎖系になると勘違いしていただけではなく、空気シャワーのことも知らないのだったね。 >>397
韓伝と倭人伝で共通の尺度が使われているわけだ。
認めたくないと騒いでも、誰の目から見ても短里が使われていたのは明白だよ。
そして帯方郡から邪馬台国まで一万二千里では、邪馬台国は九州ところか福岡県の中に収まってしまう。 糸島は吉野ヶ里のような空環壕はない
空環壕はツングース民族地域に分布する 宇宙、天帝の守護をしている〜、
たしか寺院とか、そういう話 >>343
雄略紀では畿内豪族が、詫びの品として八咫鏡を持って登場するぞww
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連(連、未詳何姓人)
奉八咫鏡於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」
現代でいうところの八咫鏡は、伊勢の御神体であり三種の神器だが、
古い記録の八咫鏡は、単に大きな鏡という表現で普通名詞
八尋鰐と同様の表現だよ 列島統一していたヤマト王権がのこのこと現れた渡来豪族に安安と土地を取られて何も文句は言えなかったのか?w
どう考えても畿内政権と渡来豪族は身内だよなw >>398
今では、もう、邪馬台国畿内説を宣伝している闇の勢力の者達が捏造した年代の詐欺が知れ渡ったので、NHKも高校生に、邪馬台国畿内説には具体的な証拠が無いと発表してしまったのだったな。。。 >>401
すまん、何を言いたいのかわからない。
誰もここまでツングース族の話はしていなかったと思うのだが? >>403
延喜式伊勢大神宮式や皇大神宮儀式帳では八咫鏡を入れる桶代は径49cmである。
http://yamatai.cside.com/katudou/image/330-02_2.gif
平原遺跡から出土した史上最大の銅鏡である超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、これらに一致する。 >>406
異人コマビト地域にある吉野ヶ里の空環壕は
ツングース民族地域に分布すると言っている
長江流域に由来する環濠集落は近畿に多く分布する 本当に家の話みたいでしょ?
銀〜〜という親戚がいて、
当時住んでいた家に、凄い刀(謎の刀、剣?)が飾ってあって 3世紀の終わりごろ、銅鐸王国が九州倭国に滅ぼされた時、銅鐸王国の最後の中心地は、唐古鍵だったのだな。
そして、倭国が、新羅で馬主を捕獲したのは、4世紀だったので、4世紀の終わりごろ、九州倭国に捕獲された、朝鮮半島出身の奴隷や馬主が、奈良盆地に連行されたので、馬飼いやオンドルの技術が伝わった可能性が高いな。 長江流域に由来する民族は、南西諸島から、九州に渡来したという真実を隠そうとしている朝鮮人が出現し、訳の分からない宣伝をしているな。。。
408日本@名無史さん2019/10/08(火) 16:12:58.73
>>406
異人コマビト地域にある吉野ヶ里の空環壕は
ツングース民族地域に分布すると言っている
長江流域に由来する環濠集落は近畿に多く分布する >>411
九州の倭人に捕獲され、奈良に連行された朝鮮人の末裔が、嘘の宣伝をしている可能性が高いな。。。 年代を大幅に古く報告するという非常識が、畿内では常識になってしまっているのでは、ないのかな。。。
”100年以上後の室町期か江戸期の旗と判明。”
毎日新聞(2019/8/17)
“最古の日の丸”に新たな謎 室町〜江戸期の旗と判明 奈良・五條
『“最古の日の丸”の有力候補、奈良県五條市西吉野町賀名生(あのう)の
堀家に伝わる旗の年代測定が行われ、1463〜1528年か1553〜1634年に作られた
絹製であることが分かった。NPO法人大和社中が16日発表した。
後醍醐天皇(在位1318〜39年)から下賜されたとの伝承があるが、
100年以上後の室町期か江戸期の旗と判明。
旗は新たな謎に包まれた。』
https://mainichi.jp/articles/20190817/k00/00m/040/044000c 当時家にあった本や書なども誰かにあげたのかな?
とか、そういう話ばかり、
とあるコトバについて調べてみた?
もう学ぶこともない?みたいなことが書いてあるし >>710
>たしかに平原遺跡などは周囲からも鉄器が出土しておるな<
ふーん。 >>412
北朝鮮の工作員である可能性も、否定できないのではないのかな。。。 >>408
九州にだって環濠集落はたくさんあるだろ? そもそも、九州北部玄界灘沿岸に始まる稲作そのものが江南の文化なので、九州北部にはツングース族も江南人も来ていたということだな。 >>716
>ウソとけ九州説涙目になっとるやないけ <
「南→東」や「鉄鏃」や「冢」や「甕棺」などで、
大和説学者は、涙目になっとるやないか。 ツングースというのは、倭人に朝鮮半島で捕獲されて連行された者達の人種のことなのではないのかな。。。 >>717
>畿内は鉄や殉葬者の骨も溶ける土壌だと言ってたが、
纒向で出土したカエルの骨はほんの数ミリのほっそい骨なんだよなw<
成程。 >>375
何が言いたいのか
まるでわからない
コミュ障のひと? 弥生時代前期後半〜中期初頭(板付U〜城ノ越)、
いわゆる環濠集落は爆発的に増加するとされ、
その分布も九州から中国、四国、近畿、東海まで拡大するとされてきた。
しかし北部九州の福岡県葛川遺跡、大井三倉遺跡、光岡長尾遺跡、
横隈北田遺跡、横隈山遺跡、彼坪遺跡、神手遺跡、大碇遺跡、
佐賀県八ツ並金丸遺跡、山口県綾羅木郷遺跡、吉永遺跡、下東遺跡、
広島県大宮遺跡、愛媛県岩崎遺跡などの環濠内部での発掘成果からすれば、
環濠内に同時期の住居が見られる例、
すなわち溝が集落をめぐるという環濠集落の景観を復元できる事例はほとんどない。
環濠内には住居がみられず、貯蔵穴群のみが検出される事例が圧倒的に多いのである。
確実な環濠集落、集落域を溝が巡っていると考えられる遺跡を
まとまって認めることができるのは瀬戸内東部〜近畿地方にかけてである。(藤原哲) >>718
>そもそも九州の遺跡では逆になぜ住居跡から鉄製品が出るのか
これは通常の遺跡ならあまり見られないこと<
九州では、極端な貴重品ではなく、沢山あったから。 >>413
なんと測定年代幅の広い事よw
わずか数十年の違いも識別出来るなどと理系音痴な発言を垂れ流す畿内説学者どもの虚言癖を証明するかのようなSpring 8の分析精度w ツングースの文化は、前方後円墳だった可能性が高いのだったな。。。
そして、銅鐸王国の者の魂を封印するために、後に崇神天皇と名付けられた倭国の祭祀係長にツングースの文化が採用されたのではないのかな。。。 弥生時代早期〜前期前半
日本列島において弥生時代早期(夜臼)〜前期前半(板付T)で
環濠と考えられる遺構が検出されたものは福岡県江辻遺跡、那珂遺跡群、有田遺跡群、
板付遺跡、上岩田遺跡、東郷登り田遺跡、今川遺跡、佐賀県小楠遺跡などである。
しかし江辻遺跡の溝は非常に小規模で集落の周りを全周しないことも明らかになっており、
環濠集落でない可能性が高い。
その他の遺跡で集落構造の明確なものはほとんど存在せず、
現在の発掘成果では弥生時代早期〜前期初頭の環濠集落はほぼ皆無であるか、
非常に少数であったと評価することができるだろう。 『遅れてやって来た 倭人』の話?
実際は〜〜〜〜大陸のほうの話でしょ、
大陸のほうに本家のようなものがあるとか、そういうことにもなる >>520
>1の伊都国の所では魏志では女王国となっているが、魏略では女王となっている。
5の狗奴国の所では魏志では不属女王となっており、魏略でも女王となっている。
このことからみると、5の「女王」は魏略の女王がそのままに書き写されたものと考えることができる。
魏志は1で魏略の女王を女王国と国を書き加えているのだから、5の魏志の女王も国を付け加えるべきところであるが、5では国を付け加えるのを忘れた状態になっていると理解するのがよいと思う。
そして、6では魏略、魏志ともに女国、女王国と国を付けてあるので、魏略が女王としているのは女王国であるとみなすのがよいのではないか。
このようにみると女王国は一つであり、この女王国は邪馬台国であると考えるべきであると思う。<
このお方の意図が不明。
「邪馬台国」なんて存在もしなかったし、
魏略逸文は証拠価値が少し落ちるし、
魏志は、邪馬壹國と、女王之所都や女王國とを、書き分けているのが実態。 NBAチャンピオンは、どれほどの数の観客を集める力を持っているのだろうか。。。 さいたまスーパーアリーナというアリーナのチケットが、売り切れてしまっている可能性が高いな。。。 最終的には日本(倭でも良い)に渡って来ている、
国(その地)も滅ぼされている?とか >>423
環濠集落は筑紫倭国からの攻勢に対抗するためのものだったのだろうか? >>721
しかし、長里論者が、
これまでに、魏志などでの長里の証拠だと出してきた例は、
殆ど皆、出発地点と到着地点の誤認や、
「南→東」などの同じような、史料事実や史料実態の否定曲解の部類だったけどな。 >>425
>わずか数十年の違いも識別出来るなどと理系音痴な発言を垂れ流す畿内説学者どもの虚言癖を証明するかのようなSpring 8の分析精度w
年代がSpring 8の分析結果じゃないのは明らかなのに
異常なまでに理系音痴な発言を垂れ流す九州説
病的な虚言癖のある人なのかな >>435
北部九州で盛行した朝鮮の支石墓や甕棺造墓集団は
弥生後期までにど没落して日本には拡がらなかった
甕棺時代の首狩の風習も拡がらなかった 小椋佳『君はそれ以上』という曲と同じ、
遅れてやって来た〜のほうが・・・、あのアニメなども同じような設定 >>724
>なら住居跡に鉄器が散らばってる遺跡を挙げてみい
九州にしかないから<
九州説の応援をしてくれて、有難う。
>魏志倭人伝には邪馬台国では住居に鉄器が散らばると書かれてないから<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
魏使らは、「兵用矛、楯、木弓。木弓短下長上、竹箭或鐵鏃或骨鏃」という記録を残しているから、
鉄器が既に使われていた、という事の証拠。
邪馬壹國は九州にあって大和になかった証拠 >>436
このように
なにがあろうと絶対に絶対に
頑ななまでに
証拠を出さないのが
九州説のスタイル
つまり詐欺師なのだよ 邪馬台国畿内説には、証拠が見つかっていないのだったな。。。 >>725
>律歴志と<
律歴志は、魏朝の度量衡で書いたのではなく、秦漢朝の度量衡で書いているから、
全面的な信頼性がないの。
>出土した魏のモノサシから見て<
尺定規の寸法は、秦漢代から魏代には、殆ど変化がないの。
>魏では一里約437mの普通の里が使われていた事が明らかなんだけど<
魏朝では、一里約25・5cmの普通の里が使われていた、
という事は明らかなんだけど。 >>437
頭の悪い奥山が、真の畿内説であるならば、毎日新聞の会員のはずなので、続きを読めるのでは、ないのかな。。。
『調査は、染織史家の吉岡幸雄さん、京都大の化学研究所と総合博物館などが、大型放射光施設スプリングエイ…』
https://mainichi.jp/articles/20190817/k00/00m/040/044000c 本当の「えびす」の話と同じ、
父親と母親、あと出身も、〜朝鮮半島〜中国〜大陸のほう。
その後に産まれた弟や妹などがいたとして・・・。 京都大の化学研究所という研究所があるのだったな。。。 >>728
鉄器は、3世紀の九州には、住居跡にもゴロゴロ
大和では、住居跡にはなく、
4世紀頃の九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らの墓の副葬にどっさり。 >>733
>東夷は里を知らず <
東夷の「里」の計測記録は、魏の役人らの計測記録が元になったもの。 父親と母親
えびす、ひるこ?
生まれてすぐに死んだようなことが書いてあるでしょ?
かなり経ってから死んだの?
婿や嫁がいなかったんだろう、
いたとしても自分の両親や弟や妹だけとか、
実際はw その後に生まれた弟や妹なども同じ、
実際は〜〜〜〜〜死んだんだろう?
断絶 氷の世界? >>445
年代をSpring 8で出したとか
真っ赤な嘘を流し続ける
頭が異常に悪くて理系音痴な九州説オジジは
病的な虚言癖なんだろうな 父親母親(夫妻神)と子供たちがいて
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
その後、異民族?などと結婚したと創作しているけど、
実際は断絶 ドラクエなどで言うと?
成長して旅に出たんだけど・・・誰もいなかった、
自分の両親以外、誰もいなかった
本当は、そういう話でしょ?断絶 えびすの後に誕生した弟や妹?
・・・・・・・・・・・・・。
断絶 >>734
>以前九州説は九州全体で鉄器1500点!とかさんざんいい散らかしてたのに
畿内の古墳三基だけで700点ほど鉄器が出てることが判明してからめっきり言わなくなったな<
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であり、
椿井大塚山は4世紀で山城であるし、ホケノも黒塚も4世紀の古墳であるし、
いずれも、九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らの墓だから、
鉄鏃や鉄武器が多く副葬されたのだから。 漫画で例えると飛影の両親(実際は両親ではないんだけど)
母親自身も一人で子供を産む、
異種族と婚姻・・・すべて創作
実際は氷の世界、断絶 >>735
大和説って、「南→東」などの嘘付き騙しと、鉄だけでゴリ押ししてたけど
両方とも論破されて、完全に詰み >>737
>その時点で卑弥呼もトヨも決定なのだ、その住処は葛城だ。<
「南≠東」などに拠って、×だ。 よく、このような曲があるでしょ
きみはひとりじゃない〜とか、
実際は断絶
何やらというのも偽書だぞと言っている人がいたり もう罵声を返すのが精一杯な奥山には、馬声の響き渡る畿内邪馬台国が、存在したはずだという幻覚が、見えているのであろうか。。。 >>740
>地理と短里が合うのは朝鮮半島と対馬の間だけ?<
魏志の「里」記録の殆どで合っているし、東夷伝でもほぼ合っている。
>古田が地図みて自分で計った距離を千里で割って得た値がそれじゃん。
短里は古田が勝手に唱えたもので、中国の公定の距離単位とはまったく関係なし。<
魏の役人たちが計測記録した「里」は、魏朝の度量衡。 頭の悪い奥山が、誇らしげに春8を活用した話をしていた頃、春8が年代測定器では無い事を、僕たちに教えられ、ようやく意味が分かってきたのでは、ないのかな。。。 >>743
>リンの分 析による動物遺体の検出
考古学的遺跡や遣構(墳 墓,住 居跡)な どで,人 類や
他 の動物 の存在を検出す るための リンの分析が
土壌学者に よ り試み られている.
リ ンは作物 の必須養分 であ り, 土壌中の リンの分析 は土壌学者 に とってルーチンワー ク
だか らである.
竹迫 ら(14)は八王子市神谷原遺 跡の 円形 周溝墓中の 土壌 中の全 リン酸 を分析 し,
図2に 示す ように,
上 部層約150cmに 及ぶ高含量 部位 を見 いだ し,
埋 葬 された 人間の身長に相当す る部位 を 検 出 している. <
ふーん、成程。 かなり頭の良い人がいるのかも、
『人類は衰退しました』
こういう作品も偽書の世界の話でしょ、偽書をテーマとした作品、
読んだことも、観たこともないから、わからないんだけどw >>744
>渡海千里は魏志倭人伝にも書かれており、唐代になって挿入された文章だとは思えない。
転写挿入したのは陳寿だろう。
魏略と魏志倭人伝の編集目的が異なると思われるので、
魏の役人がまとめた報告書の文書の形に近いのは魏略だと思われる。<
魏略逸文は、はるか後代の学者の「自己解釈による書き換え」が存在する可能性が高く、
陳寿の魏志は、同時代の魏の役人たちの記録を元にした直接的同時代文書であり、
だから、魏志の方が、魏の役人たちの見聞計測記録に近い確率が高い。 >>469
魏の役人たちの記録だって
どうして決めつけるの
理由もなしに 『サイコ ソルジャー』も同じでしょ
いつ頃からなのか、わからないんだけど・・・、
偽書だと知っている人がいるとか? >>359
>韓国側の調査によると、弥生時代後期に半島南部に騎馬民族が集結していた痕跡があるそうだ。
またでまかせをww
ソース出してみ?
根拠のないのはハマグリの欠伸以下だってばさw >>765
「南→東」などの史料事実や史料実態の否定曲解の嘘つき騙しの、
スレ主や、類スレ主や、、通説大和説学者や、キョクウの安部文部省らは、
国民の生存のためにならないから、5chに来ない方がよい、に決まっている。 >>368
>径1尺の円の円周が4咫であり、八咫の鏡は直径2尺(46cm)、
これ、さんざん否定されているのにまだ言うかww
それ、原田大六氏の思い付きだよ
それ以上のものではない
原田氏が自分が発掘した平原1号墓の意味合いを最大限大きく
見せるための大風呂敷だと思えばいい 頭の悪い奥山が、認知症であることを、かつてのトリップのように、カミングアウトしてしまったのでは、ないのかな。。。。
471 名前:日本@名無史さん[] 投稿日:2019/10/08(火) 18:04:45.99
>>466
赤恥かいた連続句点がまた発狂したな ポケモソ?も旅に出て〜、
(仲間たちと出会い)というストーリーになっているけど
・・・・・・・・・・・・・・自分の家に戻ってきたり >>461
こういう露骨な嘘を書く九州説の神経がわからない >>375
>その唐子鍵の「青銅器」が銅鐸であることをあえて隠しているのかな?
その銅鐸が作られなくなった後も、鏡作神社のある銅鏡生産の中心地であることを
あえて隠しているのかな?ww
平原1号墓の手抜き46センチ鏡よりも、高度な青銅器鋳造技術があったのが畿内であり
その中心に唐子鍵がある
三角縁神獣鏡のような半肉彫りの大型鏡を大量生産する工房を主宰した一族が
作鏡連となっていき、石凝姥命の八咫鏡作鏡説話を伝えることになる >>476
自分の失敗を指摘されると過敏に反応する打たれ弱さが連句点の性格だね 奥山という認知症が分裂症を発症しているスレは、ここでつか? >>384
>根拠のない嘘をつくな。
ほらよ
鏡作座天照御魂神社のご神鏡、唐草文帯三神二獣鏡
http://yamatai.cside.com/katudou/image/330-10.gif
九州説の大好きな邪馬台国の会のウェブサイトからの引用 >>476
泥棒が何か呟いてるな
たわごとだろうけど >>480
頭の悪い奥山は、認知症なので、連続句読点が、見分けられなくなったのでは、ないのかな。。。 >>392
>それより、平原遺跡の主は伊都国だけの小さな家系だという主張はもういいのかい?
>佐賀の吉野ヶ里まで同じ系列だと、まさしく九州北部説の想定する邪馬台国そのままになってしまうけどw
それ、奴国だろ?ww
邪馬台国ではないことが確定している場所だw >>777
大和説こそ、「南≠東」の議論の隠蔽と同じように、
三角縁神獣鏡や前方後円墳や土器編年や古墳から発掘された鉄器や炭素14c測定法や蛍光X線分析法などのような、
史料事実や史料実態の中の「都合の悪い話」はこっそり隠して、
それを「都合が良くなるように改竄」して、
「都合の良い事だけをチェリーピッキング」して、
国民や世間の人々を騙すのに必死 頭の悪い奥山は、僕たちの記憶量の、700分の1しかないので、自らの頭の悪い発言を、他人の発言として、認識してしまうのでは、ないのかな。。。 >>400
>韓伝と倭人伝で共通の尺度が使われているわけだ。
共通の「尺度」なんて存在しないって何度言えば分かるんだろうね?
おバカさんw
倭人伝の倭国上陸まで万里に、韓伝も整合性があるように数字が作ってあるだけだよ
方「可」四千里ってのは確認してみたかい?
これも測ってないんだよww
測ってもいないものの「尺度」とか言い出すのが、大笑いw ・・・夢芝居?dead end?
なぜか同じようなことを言っていたり >>407
>延喜式伊勢大神宮式や皇大神宮儀式帳では八咫鏡を入れる桶代は径49cmである。
>平原遺跡から出土した史上最大の銅鏡である超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、これらに一致する。
これ、実は平原1号墓出土の46センチ鏡が、現存の伊勢のご神鏡とは大きさがまったく異なることの
証拠なんだよねww
伊勢のご神鏡は誰も見てはいけない鏡だけれど、その入れ物に関してはいくつか実見記録がある
神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文には、その桶の中に 「黄金の樋代」があり、その大きさは高一尺七寸八分、口径一尺、 蓋口径九寸であると記録されている
また、明治期の国学者で「日本書紀通釈」を書いた飯田武郷氏も、明治四年の遷宮行事のとき、神体の容器を見た実見記録を残しており、
神鏡は舟形の「御舟代(みふねしろ)」の中に「御桶代(みおけしろ)」があって、 その中の「黄金鑵」のなかに納入されており、黄金鑵の高さは一尺三寸、円の直径は九寸としている。
この黄金鑵が、文永三年御遷宮沙汰文の「黄金の樋代」と同じものだろう
どちらも、口径9寸とあるから、平原1号墓の内向花文鏡は入らないな
八咫鏡は大鏡ではあるだろうが、直径2尺はない
八咫厨のいう「オケ」は、「黄金鑵」の外側の御桶代のことだろう
まあ、聞きかじりだと、いい加減なことを考えるってことだな
本物の伊勢の八咫鏡と、平原1号墓出土鏡は大きさが異なることが明らかであり、
その意味で平原遺跡出土の大型内行花文鏡は記紀において八咫鏡と呼ばれる鏡ではない >>342
計算してみた。
釜山〜対馬北岸=50km 50000m÷1000里=1里50m
仁川〜木浦の南の下鳥島=350km 350000m÷7000里=1里50m
7000里に対する4000里の割合は0.57%なので、仁川〜下鳥島350kmの0.57%は=200kmとなり、
200000mを4000里で割ると1里=50mとなる。
一方、巨済島〜対馬浅地湾烏帽子崎=70km 70000m÷1000里=1里70m
沙里院〜木浦南の下鳥島=500km 500000m÷7000里=1里71m
7000里に対する4000里の割合は0.57%なので、沙里院〜下鳥島500kmの0.57%は285kmとなり、
285000mを4000里で割ると1里71mとなる。
倭人伝の記述する距離と地図上の距離を上のように計算すると、1里の長さはそれぞれ確かに合致している。
しかしながら、上の計算のように場所により1里の長さが異なっている。
物差しの単位は一つであって、二つあっては困る。
いずれかに決めてから、短里の話をすべきである。 >>778
>夜に北極を確認すれば異境の地でも方角はきちんと分かるぞw <
いや、勿論ほぼ大体の方向しか分からない。
>適当にずれた方角が東南になるなんていうのはインチキ以外の何ものでもない<
大体「東南」だという記載を、100%絶対東南である、と曲解断定したり、
東南からのズレ方に差があるものを「差がない」かのように嘘つき騙しをしたりするのは、
インチキ詐欺以外の何ものでもない。
>容易に確認できる方角が間違っているのだから、魏志倭人伝の方位はいい加減であてにならないと
考えるよりないw<
大体の方向で間違っていたり、
明確な差異があるものを「差異がない」と言いくるめるような大和説者は、
まともな人間ではなく、凶悪な・・・・詐欺師だ、と言ってもよいな。 頭の悪い奥山の、分裂症による分裂先が、キナイコシや松傾であることを、僕たちが知っていることが、頭の悪い奥山には、理解できないのでは、ないのかな。。。 相変わらず、ここはゴミ捨て場だね。 わははははは @阿波 >>784
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説は、
自分が捏造をしながら相手に捏造はやめろと言うから
すぐに揚げ足を取られる >>786
>>(里の距離?)それは魏志を読めばわかる。<
>結局、循環論法w<
いや、史料事実や史料実態からの帰納的確率的推論。
>漢土の外のことはバイアスがかかって誇張される<
魏の役人たちは、バイアスをかけたインチキ報告をしてバレれば、首が危ない。
>誇張だから区間ごとに倍率が異なる<
「区間ごとに倍率を異なる」ようなインチキをしても、首が危ない。
>決まった短里という計測単位があったと考えることはできない<
魏の役人たちは、当然魏の天子や魏朝の「里」規定に従った計測をする。 >>788
>>対馬海峡の幅と三千里という数字を比較するだけでも短里だけど<
>海峡の渡海距離を計測する手段がないという正しい知識があれば、
対馬海峡の幅を根拠にはできないってのが、まともな思考能力のある人には自明なんだがな<
対馬海峡なら、一寸千里でも簡易三角測量でも計測出来る。 >>497-498
九州説は意地でも根拠を言わないようだな 『ポケモソ 家』ググると
なぜか『エヴァンゲリヲン』の画像なども出てきたりw >>493
訂正
これはこれは半島の陸上を対角線的に歩いたことを前提とするものであるので、海路の場合は当然結果が異なってくる。
あらためて、海路で計算してみる。 >>464
罵声を返すのが精一杯なのは九州説のようにも見えるけど 驚いたな。。
ジャパンゲームというゲームは、1ゲームで、数億円売り上げがあるのだな。。。 >>502
人外魔境を歩いて距離を測るなんてできないよw >>503
いや、のように「しか」見えないんだけど >>504
バンビシャスの年間目標を、1ゲームで達成しまう可能性があるのだな。。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、連続句読点を使用することが、誰にでも可能なことが理解できないのだったな。。 連続句読点を使用していたローガン氏は、死体になってしまったのだろうか。。 >>497
そもそも魏志倭人伝の南に水行20日を東に変えれば畿内にはなるんだけれども
それを嘘つき騙しと言う九州説が嘘つき騙しをしているじゃあないか 驚いたな。。
ジャパンゲームは、公式の試合では、ないのだな、、 バンビシャスは、公式の試合でも、中央体育館を観客で充満させることが出来ないのだが、NBAチャンピオンは、さいたまスーパーアリーナというアリーナを充満させてしまえるのだな。 『川崎区 浜町 保育園 ばんび』
バンビは、この辺りの話だったか・・・、
観音寺の近所だしな・・・本当に、どういう事になっているんだろう。
そもそも・・・なぎ・なみ夫妻と子供たちの話?どらごんぼーる? 朝鮮系特有の心理
どんな事にでも何かしらの嘘イカサマを紛れ込ませておかないと不安で仕方なくなる病的な特徴がある 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏が、バンビシャスに興味を示した可能性が、高いな。。
513日本@名無史さん2019/10/08(火) 19:53:50.52
『川崎区 浜町 保育園 ばんび』
バンビは、この辺りの話だったか・・・、
観音寺の近所だしな・・・本当に、どういう事になっているんだろう。
そもそも・・・なぎ・なみ夫妻と子供たちの話?どらごんぼーる? 偶然にしては・・・話ばかり?
うらしまんの話とか、(つぼ?)押せば 『姥清水』
耳をすませば 湧き水誕生、小椋佳?
河伯かっぱ?何なのか、わからないけど、家の写真とか >>502
海路での計算
仁川〜釜山 650km 650000m÷7000里=1里92m
仁川〜巨済島 600km 600000m÷7000里=1里86m
このように1里の数値がでるので、これを4000里に掛けると
仁川〜釜山間1里92mの場合、4000里×92m=368kmとなる。
地図上の韓国の東西の距離は280kmなので、倭人伝の4000里368kmと100kmほど合わない。
同じように仁川〜巨済島間1里86mの場合は4000里×86m=344kmとなり、地図上の280kmと60kmほど合わない。
一方、沙里院〜釜山 800km 800000÷7000里=1里114m
沙里院〜巨済島 750km 750km÷7000里=1里107m
となり、沙里院〜釜山までの1里114m×4000里=450kmで、地図上の韓国の東西距離の280kmより130kmも多くなり合わない。
沙里〜巨済島までの1里107m×4000里=428kmで、地図上の東西距離280kmとやはり合わない。
このように、海上を移動した場合は、釜山から対馬、あるいは巨済島から対馬までの距離とは1里の距離がまったく合致しない。
したがって、海上の場合は整った単位のような数値を求めるのは無理ということになる。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏が、発狂したまま、正気に戻らなくなってしまったな。 老婆談と同じような、家の父親の話・・・?
なんで、こんなふう(性格)に育ったんだろうとも言っているし、
子供のころは〜〜〜〜だったのにとか
近所に他の国の人間(不明?)が住んでいるからなのかな?
民族自体違うとか 九州説がすでに定説になってる畿内説にとっくに負けて書き込んでる本人もいいかげん飽きてるのに
毛すじほどでもアヤつかないかなと毎日朝から晩まで書き込みするのは
真実真理は朝鮮脳の九州説にとって敵だからに他ならない >>519
帯方郡(平壌)
↓【南】海岸水行7000里(直線距離 500km)1里=71m
狗邪韓国(順天)
↓【南】海渡1000里 (70km)1里=70m
津島国(方400里、千戸)(対馬上対馬か)
↓海渡1000里 (50キロ)(50km)1里=50m
一支国(方300里、三千家)(壱岐郷ノ浦か)
↓海渡1000里 (対馬→壱岐と近似)(70km)1里=70m
末盧国(四千戸)(福津市辺り・万津浦)
帯方郡(平壌)→女王国(阿波)万二千里(直線距離 900km)1里=75m
∴1里=70mは、概ね妥当。
狗邪韓国(順天)は、豊臣秀吉の死後、小西行長らが朝鮮脱出の出航地でもある。
因みに、釜山は対馬海流を利用して渡った、対馬からの着岸地である。 @阿波 謎の人物が、12000里の計算を実行しているのだな。 >>438
九州には多種多様な部族がいたから、その一部だけ取り上げても無駄。
畿内説のチェリーピックぶりが強調されるだけ。 >>523
>帯方郡(平壌)
出だしから間違いな九州説の悲惨 恵比寿というのは磯良恵比寿といい、志賀島の海神である安曇磯良が神仏習合されたもの。
蛭子というのは、能古島で国産みしたイザナギイザナミの最初の子で、障害児のこと。
みんな九州北部、博多湾沿岸の伝承だね。
日本神話の舞台は筑紫。
例外的に出雲がある。 >>524
僕達は、優れた人物に、
7000+1000+400+400+1000+300+300+1000+500+100=12000
という計算を、教えて貰ったのだったな。 当時の父親の仕事場にも、
よくわからない事ばかり言っているのがいて、
日本くらい乗っ取ることが出来る〜何やら〜。
そういう人がいたから、そこの会社も辞めたとかw >>526
すいません九州説さん
ばかは阿波でした >>479
>その銅鐸が作られなくなった後も、鏡作神社のある銅鏡生産の中心地であることを
>あえて隠しているのかな?ww
九州から来た銅鏡文化の人達が生産設備と工人を接収したんだね。
わかりやすい。
列島は最後には九州北部の文化に塗りつぶされた。 >>525
>畿内説のチェリーピックぶりが強調されるだけ。
畿内説がチェリーピックした形跡ないんだけど? >>489
>倭人伝の倭国上陸まで万里に、韓伝も整合性があるように数字が作ってあるだけだよ
その数字で邪馬台国は福岡県を出ない。 そういう事を言っていたのも在日の朝鮮人、韓国人だとかw >>528
つまり、1里が何メートルかは、本当は、帯方郡から女王国の境界への距離にとっては、どうでも良いのだったな。
そして、奴国からが女王国の内部なのだったな。 ちゃんと引用先を読めよ。
>>491
>>延喜式伊勢大神宮式や皇大神宮儀式帳では八咫鏡を入れる桶代は径49cmである。
>>平原遺跡から出土した史上最大の銅鏡である超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、これらに一致する。
>
>これ、実は平原1号墓出土の46センチ鏡が、現存の伊勢のご神鏡とは大きさがまったく異なることの
伊勢の鏡も本来は平原の鏡と同じくらいの大きさだった。 >>531
背広は英国発祥だから政治家からビジネスマンまで背広着てる日本はもと英領とか言い出しそうな
脳のグラム数たりない九州説後期高齢者 >>493
>物差しの単位は一つであって、二つあっては困る。
>いずれかに決めてから、短里の話をすべきである。
弥生時代なんだから、それくらいの誤差は許してやれよ。 まさか・・・w
本当に、現実の世界で、
そんな事を言っている人がいたとは?となるでしょ >>528
正方形だと認識されていた対馬や壱岐が、ちょうど、緯線に平行な辺が無い限り、北端の角から南端の角へ移動するためには、正方形の2辺を移動する必要性があるのだったね。。 >>540
邪馬台国畿内説を宣伝する者達は、頭が悪すぎるので、理解できないのだったね。 九州説が少しでも誰かが騙されるよう念仏祈祷のたぐいのごとく嘘つきまくるのは
自分の嘘で騙されてる相手は自分のコントロール下という
一種の歪んだ信仰のようなものが根底にあるからだろう
九州説のこの認識の歪みは李氏朝鮮のいびつな社会で形成されたもの
儒教朱子学で朝鮮を治め始めた李氏朝鮮支配層は
民を強権統治するだけではなくなるべく苦痛と腐敗に満ちた社会を築き
意味なく民をイビって遊んでいた狂った頭の持ち主だったらしい >>536
見たまえ
九州説の者は文献を読まないだろう
他人の投稿もちゃんと読まないだろう
昔から頭の中にこびり付いた結論を連呼する
鍋底オコゲ
それが九州説だ >>538
>弥生時代なんだから、それくらいの誤差は許してやれよ。
弥生時代なのは日本だけで
中国は高度な文明を有する後漢代だぞ >>519
>したがって、海上の場合は整った単位のような数値を求めるのは無理ということになる。
海上は目視で大まかに距離を述べたのだろうね。
だから誤差が大きい。 >>539
いるんだよ九州説には
常識超えておばかでしょ? 天皇家の場合は、九州の文化が伝播しました、ではなくて、初代は九州から来ましたと明言しているんだぞ。 >>546
>だから誤差が大きい。
そんなもの逆算して出す「短里」とか
話にならないな
歴史学で見向きもされないのは当然だ
「短里」説とか呼ぶのはやめて
「短慮」説とか呼べばいいんではないのか? >>549
九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、
分かりやすいのが、斉明天皇(第37代)はおろか、明治天皇以前には、一人も九州行幸が無いこと。
九州に倭王権があれば、有り得ない話である。 @阿波 >>548
いつ、どこで誰に?
証拠ださない九州説の言うことは
大体ウソってことで、でいいね? >>525
瀬戸内東部〜近畿で環濠集落が造営される前中期に
九州は甕棺墓以外はたいしたもの持ってない 九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、
わかりやすいのは、其の山から丹が採れてなかったことだ >>525
>九州には多種多様な部族がいたから、その一部だけ取り上げても無駄。
つまり、七万戸の大きな国などなかった、と言いたいのですね?
奴国後裔の筑紫君磐井が、北部九州の最高到達点なので、倭国の中央政権が
北部九州にあったとするのはまったくもって無理だ、とそうお考えなのですね
まったく同意です!
>畿内説のチェリーピックぶりが強調されるだけ。
そのいろいろな部族のことをつまみ食いして、畿内説に言いがかりをつけるのが
九州説のやり方なので、チェリーピッキングは九州説の方なのでは? 本当に、まさか・・・?となるでしょ。
松の木が立てられていて、
あとオジギソウ、シダ類、灯篭など
それが・・・家w
むかーし住んでいたというところも? >>531
>九州から来た銅鏡文化の人達が生産設備と工人を接収したんだね。
バカだなぁww
北部九州には、平原1号墓出土の46センチ鏡のような手抜きの内行花文鏡を
作るのがやっとというような低いレベルの鋳造技術しかないのに何を言ってるんだww
北部九州で作った半肉彫りの銅鏡なんて一枚もないじゃないかw そもそも九州に博多と糸島を両方押さえられる国などない
つまり邪馬台国は九州には無い そもそも九州という括りがおかしい
漢代に九州で豊富に舶載品を持ってるのは北部九州の甕棺墓地域で
中南部とはほとんど交流がない >>536
>ちゃんと引用先を読めよ。
ちゃんと読め!はこっちの台詞ww
伊勢の遷宮の時のご神鏡の容れ物は、外側から
1.御舟代(みふねしろ)
2.御桶代(みおけしろ)
3.黄金鑵
があって、その中に布で包んで納められているとされている
九州説の捏造主義者たちが言うのは、
2.の御桶代の大きさが一尺六寸三分(約49センチ)で、
平原1号墓の46センチ鏡を入れるのにちょうどいいという話
しかし、実際の伊勢のご神鏡はその中の
3.黄金鑵の中に入れられていて、それは口径が9寸と実見記録にある
1寸を3センチとすれば、口径27センチで面径20センチちょいくらいの鏡を入れるのに
ちょうどいい大きさだ
平原の鏡は割るためにただ大きく作ったものだから、入らないよ 『皇太神宮儀式帳』は、遷宮のときに新しく用意する御道具が記載されていて
黄金鑵は遷宮のたびに作ったりしないから、載っていない
原本引用しておくから確認してみて
『皇太神宮儀式帳』
https://edb.kulib.kyoto-u.ac.jp/exhibit/h248/image/01/h248s0016.html
御樋代一具 深一尺四寸 内八寸三分
径2尺 内一尺六寸三分
『延喜式』は電子テキストで参照できる
『延喜式』4(伊勢大神宮)・造備雑物条〔24〕
http://21coe.kokugakuin.ac.jp/db/jinja/000008.html
樋代一具。正宮料。高二尺一寸。深一尺四寸。内径一尺六寸三分。外径二尺。 上の人間ほどふんぞり返って何もしない位高ければ義務ナシ
金品が必要になればそこらの民草からふんだくる強盗経済の確立
たまに権力誇示のため無意味に処刑
そこで形成された社会観は倫理観もへったくれもなし
後先考えずに嘘でも何でもついてとにかく目先の事をやり過ごすことに特化
そして嘘が暴かれるのは死を意味する
李氏朝鮮社会は人間性に対する力の限りの憎悪が込められた一種の呪い
そこで形成されたのは真理が憎まれ嘘が崇められる反人間性
なぜこのような社会が恐らく意図的に築き上げられたのかは歴史上の謎 >>533
>その数字で邪馬台国は福岡県を出ない。
短里なんてないんだから、2000里もあれば軽く畿内まで届くぞww
まあ、萬二千里も観念的な数字で当てにはできないけどね
北部九州から、十日単位(原資料が旬表記?)に丸めた日数で、
水行20+10日、陸行1月進むんだから、九州の中では厳しいよなw
少なくとも北部九州ではないwwww 「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう。
ただ、「伊勢大神」というのは「天照大神」を指していて、
穀物神である豊受大神を祭神とする外宮「豊受大神宮」の記録『豊受皇太神御鎮座本記』に、この「伊勢大神」=「天照大神」の記述があるのは、非常に不自然である。
つまり、「豊受大神」(外宮)=「伊勢大神」=「天照大神」(内宮)ということか。 @阿波 九州説は学問の定説のような真実真理を見れば
ある種本能的に殺されそうな感覚に陥るのだろう >>568
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、論破されてしまったときは、嘘や悪口を繰り返すだけになるので、分かり易いのだったな。 >>493
493の計算式は間違っていたのでやり直し。
釜山〜対馬北岸=50km 50000m÷1000里=1里50m
仁川〜木浦南の下鳥島〜釜山=650km 650000m÷7000里=1里93m
仁川〜木浦南の下鳥島〜巨済=600km 600000m÷7000里=1里86m
木浦南の下鳥島〜釜山の距離300kmが韓国の東西の距離と等しいので、300km=4000里とすると1里75mとなる。
上の計算では1里の距離が整わない。
巨済島〜対馬浅地湾烏帽子崎=70km 70000m÷1000里=1里70m
沙里院〜木浦南の下鳥島〜釜山=800km 800000m÷7000里=1里114m
沙里院〜木浦南の下鳥島〜巨済島=750km 750000m÷7000里=1里107m
木浦南の下鳥島〜釜山の距離300kmが韓国の東西の距離に等しいので、300km=4000里とすると1里75mとなる。
上野計算では1里の距離が整わない。
巨済島〜対馬までの1里70mと韓国の東西の距離でみる1里75mが近似するようにみえる。
この計算では1里の数値がまったく整わない。
493での計算は間違いであるので、訂正する。
陸上の場合の計算を示してもらえると有難い。 多分だけど九州説を説得するのは理論的には不可能なのかも知れない
九州説の嘘は歪められた本能による防衛反応なのだから
いわゆる愛ある説得というヤツの方が実際に効果を発揮するのかも知れない >>571
そもそも三世紀にそんな長距離の直線距離を測る科学技術ないわ >>573
すでに憎悪にそり固まってる九州老人に愛を説いても
カラハリ砂漠に水撒きだ 九州説よ
大丈夫大丈夫怖がらなくても
畿内説は君達九州説を殺したりはしないから
さあ もう嘘はつかなくてもいいんだよ誰も罰しないから >>571
>巨済島〜対馬までの1里70mと韓国の東西の距離でみる1里75mが近似するようにみえる。
九州説の言う、魏志倭人伝は短里で読めば距離ぴったり、というのは
実は単にこの二ヶ所だけ見ると70メートル前後で近い数字が出る、という「だけ」ww
これと、周髀算経の夏至の正午の影の長さの差が1寸になるところの距離が
「たまたま近い」のを根拠にしている
しかし、周髀算経の一寸千里は、「八尺」棒と天地の距離「八万里」の比が
一寸対千里になっているだけで「冬至の影の長さも1寸の差」にならなければならない
つまり、現実とは関係ない机上の計算でしかない
短里なんてないんだよ
短里の全ての論拠は否定されているし、短里を使う人が3世紀世界のどこにもいない >>575
>カラハリ砂漠に水撒きだ
世界で一番乾燥している砂漠は「ナミブ砂漠」だそうだw なぜ、邪馬台国畿内説は、必ず、論破されてしまうのだろうか、、、 「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう。
ただ、「伊勢大神」というのは「天照大神」を指していて、
穀物神である豊受大神を祭神とする外宮「豊受大神宮」の記録『豊受皇太神御鎮座本記』に、この「伊勢大神」=「天照大神」の記述があるのは、非常に不自然である。
つまり、「豊受大神」(外宮)=「伊勢大神」=「天照大神」(内宮)ということか。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>579
それはね、お前の脳が破綻してるからだよ >>579
特に、このスレッドでは、邪馬台国畿内説を宣伝している者達は、どのような意見を発表しても、瞬時に、論破され、発表した全ての意見がゴキブリが叩き潰されるようにして、叩き潰されてしまいますね。。。 九州説は
末盧国から伊都国が北東なので死亡
伊都国から奴国が真東なので死亡
投馬国が女王国以北なので死亡
山に丹が出てないので死亡
ヒスイとれないので死亡
卜骨の習慣希薄で死亡
会稽東治の東だから死亡
三世紀中頃にはもう古墳時代なので死亡
あと、なに?
まだあるよね やはり、邪馬台国畿内説が、完全に論破されてしまい、嘘しか言わなくなってしまったな。 お前たちの書き込みなどは信用されないんだよ、
なぜだと思う?
蚕を飼い、機織りをしている家があって、
河童というわけではないんだけど、寺院などに通っていたとか 当時、家に飾ってあったという謎の刀(劔?)
というのも誰かにあげたのかな〜・・・・・。
なぜか伊達郡というほうの話。 >>585
いつ、いかなる時も反論できない敗者九州説 >>584
末盧国が福津(万津浦)なので死亡 @阿波 >>585
なにがウソだと?
ウソだという証拠は? >>584
末盧国が福津(万津浦)なので死亡 @阿波 偶然でも何でも良い、なぜアニメなのか、わからないんだけどw
『ガンダム アプサラス 兄妹』 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、壊れてしまったな。 キュウリの葉、葱の華w
子供がいるんだけど、兄と妹だと言っているし >>827
>>韓伝、倭人伝のすべてが短里 <
>それ全部、「漢土の外は王朝の徳の高さを示すために遠くになるよう誇張して描かれる」で
説明できる<
魏の役人たちが、「遠くなるように誇張」した事がバレれば、首が飛ぶから、
そんな事はしない。
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学者なら、
指導教官も・・・・だから、やりかねない。 でも・・・家は軍人ではない、
戦争にも行っていないと言っていたり >>830
>見えたところで、距離は分からないよ<
対馬の海岸縁から壱岐は見えない。
後ろの山に登れば見えるが、魏の役人たちはおそらく登らない。
そして、見えなければ、一寸千里。
>そもそも、千里先は地球が丸くなっているので基本的には見えないw<
後ろの山に登れば、年に数回見える事がある。
>一日で漕ぎ渡れる海峡を一律千里としている時点で「測っていない」ことが確定ww<
一日ではまず無理。
おそらく二日かかった。 >>832
>「甕棺墓が、祇園山古墳の本体から出ましたか?」ww<
殉葬があった墳裾は、祇園山古墳の本体だよ。
>祇園山は葺き石、団築を備えた定形化以降の完全に古墳時代に入ってからの古墳<
祇園山が「葺き石、団築」の墓の最古クラス。
>その周囲にある墓群は、祇園山本体とは年代が離れた古い弥生墓地<
殆どが地山造成以後だから、墳裾の主体群は、祇園山本隊とほぼ同時期。
誰が祇園山古墳が1世紀だbニ言ったんだ?
本当に、捏造しかしやがらねぇ
惨めで姑息、かつ卑劣なのがんだ大和説だ >>839
>邪馬台国が戸数道里略載の女王国より以北の国なのは確実<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
不彌國で、女王國の入り口までの萬二千余里がほぼ終わっていて、
投馬國は、その不彌國から南に水行二十日の位置にある、と側副傍線国説明を書いており、
だから、不彌國の次に「南至邪馬壹國女王之所都」であるから、
「邪馬壹國の中に戸数道里略載の女王国があるが」事が確実。 >>843
大和説は、これだけでも死亡する、から、、文字通り必死だな
魏志倭人伝を普通にそのままに読める知識、知能のある人には、
投馬国は、不彌國や邪馬壹國女王之所都より以南の国というのは、確実なこと >>848
>陳寿が書きたかったのは倭人伝なのもその字数、内容から確実
韓伝をそれに合わせて書いてるのも当然 <
倭人伝の情報は、魏の使節の見聞計測の記録が元。
韓伝の情報は、郡の役人たちの実地の記録や計測記録が元であり、
記録者が違う。
韓地は方「可」四千里と書かれている
確実な測定値ではなく、循海岸水行が七千里なら方四千里で「可」なんだよ >>852
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説は基本、寝言。
ネゴトワ・ネティエ[Negtva Netie] (ルーマニア.1935〜54)?。 >>562
以前にも書かれていたことだけど、黄金鑵に鏡を入れるのはおかしくないか?
金属を金属の入れ物に入れるようなことは普通はしない。
考えられるのは、本来は御桶代にそのまま鏡を入れるか、布に包んで入れていたが、ある時に鏡が灰になってしまったので鑵に入れてから御桶代に入れるようになったのではないか?
つまり本来の鏡はやはり約46センチ程度だったと考えるのが「妥当」。 >>613
>倭人伝の情報は、魏の使節の見聞計測の記録が元。
>韓伝の情報は、郡の役人たちの実地の記録や計測記録が元であり、
根拠をまったく言わない断定九州説
ネゴトワ・ネティエ[Negtva Netie] (ルーマニア.1935〜54)?。 >>894
>学術調査成果が進んで考古学者がほぼ畿内説になったので
九州説はヤケになって考古学を拒絶するようになった<
いや、考古発掘の事実や実態は、参考にさせてもらうが、
「南→東」などの嘘吐き騙しである事がバレている大和説者の、
「発掘事実に対する解釈」は、信頼性が全くなく、信用しない。 >>905
>考古学では3世紀は博多湾貿易と呼んでいる
外港である博多湾沿岸が影響を受けているのは畿内と山陰< >>620の訂正(また途中で投稿ボタンを押した事になってしまった)
>考古学では3世紀は博多湾貿易と呼んでいる
外港である博多湾沿岸が影響を受けているのは畿内と山陰<
「畿内」なんて存在もせず、
大和が博多湾岸の影響を受けたのは、
九州倭国の「東征毛人五十五國」が征服した3世紀末以後。 >>912
考古学者の殆どは「南→東」などの嘘吐き騙しの・・・・詐欺師であるから、
学術調査とか情報交換とかそのものに信頼性がなく、
我々国民が考古学情報を根拠にするのは、殆ど無意味で無駄。 >>913
>博多湾貿易は3世紀〜4世紀中頃
金海貿易が4世紀中頃〜 <
ふーん。 >>921
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説学者?は、
学術調査して研究論文書いてるまともな学者ではなく、
キョクウ殺戮戦争の国粋皇国史観宗教の・・・・詐欺師。
大和説は作り話 >>933
2chでもYahooでも、「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説も、
10年くらい前まではまだいくらかまともな論者がいた
スレ主や類スレ主みたいなのが大和説に入り込んでしまったらもう完全に終り >>955
>その職能集団が、北部九州の弥生時代全期間に匹敵する大量の鉄器を持ち歩き、
古墳をひとつ作るごとに、大量に死蔵して事実上捨て積みしていったってww<
関係がない。鉄鏃や鉄器は、
九州倭国の「東征毛人五十五國」の将軍らの墓に、副葬された。 >>616
後漢書は拘奴國が女王國の東に度海千餘里になっている >>571
仮に陸上のルートを考えた場合。
ソウル〜釜山=1里50m、釜山〜対馬北岸=1里50m
沙里院〜巨済島=1里71km、巨済島〜対馬浅地湾烏帽子崎=1里70m
陸上ではこのような結果が出る。しかし、先に述べたように物差しの単位が二つあっては困る。
そこで韓伝の方四千里についてみてみると、
木浦南の下鳥島〜釜山までの300kmが朝鮮半島の東西の距離に等しいので、
この300000mを4000里で割ると1里75里となり、この1里75mと似ているのは
沙里院〜巨済島=71km、巨済島〜対馬浅地湾烏帽子崎=70mである。
このように、陸上の場合、韓伝の方四千里の理数と行程の里数がよく似ているのは
沙里院〜巨済島〜対馬浅地湾烏帽子崎のルートということになる。
しかしながら、倭人伝は陸上を歩いたことは記述していず、海上のルートについて書いてあって、
その海上のルートでは朝鮮半島での行程の里数は方四千里や対馬烏帽子崎までの里数と合わない結果になっている。
このようにみると、陸上の沙里院〜巨済島と巨済島〜対馬烏帽子崎の距離と方四千里の距離はよく似た数字になるものの、
偶然と考えるのがよいと思われる。
実際、陸上を進んだ場合、
続く
続く 中国の学者はほとんど九州だな
先に九州で後に機内が正解なんだが 中国の学者はほとんど九州だな
先に九州で後に機内が正解なんだが >>628
実際、陸上を進んだ場合、全行程の1万2000里を最も値の低い1里70mで計算すると840kmになり、
この840mは沙里院を出て陸上を進み末盧から有明海を南下した場合、熊本県南部の水俣市あたりに、
直進した場合は宮崎県椎葉村に、もう少し北なら大分市に到着することになるもので、この付近に邪馬台国を想定することは無理がある。
全体の1万2000里が整合性をもつことが大事だ。
陸上の場合、沙里院〜巨済島、巨済島〜対馬烏帽子崎、方四千里の距離が1里70m、71m、75mとよく似ているといっても、
その単位で全体の距離を計算してみると、目的地の邪馬台国とは考えにくい場所に至ってしまうのは問題だ。
1里の長さがよく似ることになるのは偶然だろう。
偶然と考えるのがよいのではないか。 九州上陸から二千里だとどうなる?
確実な定点を通過するのだから、そこで補正するべき。 >>632
陳寿本人がそれでちょうど会稽東治の東にあると思ってるんだから、晋の史官すら知らないような
そんな変な単位はないんだよ >>633
補正もなにもないな。
陸路1里70mで計算すると、沙里院から1万里でちょうど末盧あたりになる。
そこから2000里、140kmの同心円を描くと水俣市、宮崎県椎葉村、大分市、宇佐市、宇部市を通る。
その末盧から道筋をたどると、東南500里35kmは小城市役所あたり、東南100里7kmは早津江川中流近くの川副町大字小々森付近、東へ100里7kmは柳川市役所の少し北あたり。
末盧から東北の場合は東北500里35kmは室見川の手前の姪浜駅あたり、東北100里7kmは福岡空港あたり、東へ100里7kmは宇美町山場あたり。
補正しておったら、なんの2000里かわからんようになるな。
だから、短里は無理よ。 >>965
>対で文体が変化すること 対で日数表記になること
この2点から、投馬国と邪馬台国は北部九州から遠く離れた遠地であることが伺える<
自然や歴史の現象が、3次元空間で全く同じ状態であるとか、類似状態のみを呈する、
という事はあり得ない、という事は人類の共通の常識であり、
陳寿も当然その事を知っているから、個々の事象を書き分けているもの。
>そして、FAQ68で見るように、道里の表記が日数表記となることはごく普通の当たり前のこと<
FAQ68なんかめんどうだから読まないが、「道里」は「道の里」であって、
「日数表記」ではない、という事も人類の常識であり、だから、類スレ主が×。
>邪馬台国が戸数道里(官名)略載の、女王国より以北の国であるのは当然
同じ表記の投馬国も、女王国より以北の国であるのは当然<
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘吐き騙し文言であるし、
陳寿は、投馬國や女王國や邪馬壹國女王之所都とを書き分けている、という事が実態である、
という事も、史料事実であり、当然の理解。
まったく何の脈略も、根拠もなく、挿入だから南じゃないとか言うのは
胡散くさいを通り越して、単なる・・・・詐欺師のでたらめでしかない
寝言は寝て言え。 >>968
>>考古学では3世紀は博多湾貿易と呼んでいる<
「南→東などの大和説という結論先にありき」という嘘吐き騙しをしている考古学が、
その事を反省もせずに、いくら「呼んで」いても、信頼性が全くない。
>博多が対外貿易、外交の主役だろ。
纒向から博多や楽浪の土器が出ないのだから、その対外交渉に纏向は参加していない。
つまり纒向は魏と交渉していない。
魏と交渉していたのは博多の倭王。<
賛成です。 >>979
>素人の爺の感想なんかはいらん<
「南→東」などの嘘吐き騙しの、自称考古学者や大和説者や、
キョクウ皇国史観の・・・・アホ詐欺師の感想なんて、いらん。 >>982
投馬国が女王国より以南の国、という事に反論できると思っているやつは、
女王國論争に参加するだけ無駄だぞ >>984
>九州説こそ言われて嫌だった事をオウム返しばかりしているオウム真理教だろ<
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説こそ、
言われて嫌だった事をオウム返しされてばかりしているキョクウの、
国粋殺戮戦争の皇国史観真理教だろ >>989
キョクウ殺戮テロや戦争を狙う組織の疑いがある大和説人種 >>991
つーか、「南→東」などの嘘吐き騙しの荒らしは、
一種のテロだし >>1000
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説、また惨敗 >>75
「畿内」とか「邪馬台国」とかいう単語を使うのは、
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者に非常に多いな
文の中に「畿内とか邪馬台国」という単語を目にしたら
書いてある事は嘘だけだから
残りは読まなくてもいい 黄金鑵ガーって言ってるバカは
何を根拠にいってるの?? >>634
長里だともっと南になるから、長里ではないとは思っていたのだろう。 夜を徹し、コピペ業者による釣りコピペばかり・・・・・・、 >>635
>そこから2000里、140kmの同心円を描くと水俣市、宮崎県椎葉村、大分市、宇佐市、宇部市を通る。
まさかの宇佐説が勝利か? >>645
金属と金属が接触したままだと劣化するんだよ。
黄金鑵に入っているなら、それはすでに酸化した灰を集めて入れてある可能性が高い。
金属製品は木製の容器に保管するのが普通なので、御桶代の大きさが神鏡の大きさに近いはず。
つまり八咫の鏡の本来の大きさは平原遺跡の鏡と同じ46センチほど。 >>650
レスありがとう。
こっちが聞きたいのは、「黄金鑵」に入っているという実見録なるものの詳細。 >>128
末盧国が福津(万津浦)なので九州説死亡 @阿波 >>647
>長里だともっと南になるから
九州説はいつも根拠が言えないね
学説じゃないからだろう >>654
少しは自分で頭を使って計算してごらん。 >>80
>内容が途切れていると強弁したところで、邪馬台国、女王国が
戸数道里略載で女王国より以北のグループとして書かれており、<
邪馬台国なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
邪馬壹國は「女王之所都」であると書かれ、「女王国より北」と書かれている訳ではない。
>その同じ内容が投馬国にも駢儷体で揃えた語順で書いてある以上、
投馬国も女王国より以北の国であることは動かない<
投馬國の説明が、邪馬壹國女王之所都の国と同じ説明である事になっていない。
>そもそも、不彌国、奴国、投馬国、邪馬台国と並べた後に
自女王國以北、其戶數道里可得略載。其餘旁國遠絕、不可得詳。と書かれていて、
その後の斯馬國、已百支國以下では、戸数、道里(官名)の記載がなくなることだけを見ても
この一行より前の国が全て「女王国より以北の国」なのは、まともな人が読めば当然のこと <
関係がない。
投馬國は、不彌國からの側副傍線行程国としての説明であるから、主行程ではなく、
主行程は、不彌國で萬二千余里がほぼ終わって、「南至邪馬壹國女王之所都」で、終点だ。
「南→東」などの嘘付き騙しをし、
「投馬國と邪馬壹國を女王國より北の国だ」とするのは、
皇国史観大和説にクルった・・・・アホ詐欺師であり、まともじゃない人だけだよ >>80
>>日程を里程と言い張るから畿内説は信用されない。<
>また捏造しているww
日程を「里程」だと言っている人は九州説のインチキ書き込み以外にはない
日程は「道里」の表現方法として普通<
また捏造している。
陳寿は、(九章算術のアホとは違って)、「道里」は「「道の里(数)」とした記載をし、
「日数」記載とはきちんと書き分けている。
>投馬国が女王国より以北の国ってだけで、北部九州説が完全に詰んでいるから
意味のない抵抗を続けている惨めで姑息な卑怯者が、九州説なんだよw<
投馬国が女王国より以南の国ってだけでも、
「南≠東」などに拠っても大和説が完全に詰んでいるから
意味のない抵抗を続けている惨めで姑息な卑怯者が、大和説者なんだよ >>234の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
会稽┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
┃〜〜┌┌←←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│↓「陸行1月」(幻).│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│↓〜▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国(幻)遠絶 不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」 >>658
本当の女王国@(奴国=博多)は、投馬国(宮崎)より北だけど、
会稽東冶の東(沖縄と台湾の中間)に創作した、幻の女王国A(奴国=博多)は、投馬国(宮崎)より南ってことか(やっと解った)! >>660
そういうこつ。女王国は2つある。だから魏志倭人伝は長年解読できず、場所も特定できずで、そうこうするうちに、
京大を中心とした関西考古学界が箸墓の築造年代を卑弥呼の没年までゴッドハンドで繰り下げて、虚構の物議を醸して部数売上を伸ばしたいマスコミとグルになって名乗りを上げ、畿内説という世紀の鬼っ子を産んでしまったワケ。 >>85
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者はみんな、
九州説者らの説明の都合の悪い話には知らん振りして、言っていなかった事にして、
理由も言わずにただチェリーピッキングを言い張る手合いばっかりだな >>95
》祇園山だけにあっても無駄
殉葬は古来から行われてきた習慣と日本書紀にあるから
奴婢が周りに埋められた跡があちこちの古墳ので見つからなくてはいけない
しかし国内の古墳で周りに奴婢を埋めた跡があるものはなし
つまり奴婢を古墳周りに埋めるのは殉葬ではなし<
関係がない。
張政らは、「卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、jun葬者奴婢百餘人」を、
実際に見たから、記録した。 >>655
このように
九州説はデタラメばかり言っていて
自分の説を説明することもできない >>96
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、下品よのォ >>661
女王国が投馬国以南北の虚実2つあったとゎ…どうりで不毛な論争が延々と続いちゃうわけやね…orz
そういえば、別スレでこんなレスを見たことがあるyo!
幕末の足利三代木像梟首事件、大正時代の足利尊氏(再評価)論(中島久万吉)など、幕末〜戦前の日本でゎ「記紀=聖書」だったから、それを真っ向から否定する九州説は、右翼の襲撃対象だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A9%A9
本居宣長の「卑弥呼=神武東征後の九州の女酋長」説は、右翼からの襲撃を予防するため、九州説が再利用していた自衛手段。
畿内説は、言論が自由になった戦後に、ゴッドハンドで理論武装し出した皇国史観。 >>663
つまり、どこに埋めたかは書いてないんだよ
九州説っておさるさんだね >>666
聖書というより高蘭か、恐いな。。。
東条内閣、特に昭和12年盧溝橋事件で日中戦争が始まってからは「魏帝>>>>大月氏王&倭王>>241」になるし、昭和3年の3.15事件で折角抑え込んだ共産主義も勢い付かせる恐れありで、不敬罪が厳しく適用された。
特高警察による賞罰の対象→履歴書に書く→就職を諦める→村八分状態→野垂れ死に、だからな。
九州説>>245なんかウッカリ唱えられなかっただろう。 >>670 >>245
「卑弥呼=神功皇后」説は筑紫繋がりか!
じゃ、九州説が正しいってことね(納得)。 九州説は民族的に自己絶対正義なので一人一説
だから邪馬台国が人数分ある >>101
>なんで戸数や道里に官の名前まで判ってんの?<
魏使らは、倭人から所要日数や戸数や官の名前を聞いた。 >>243
古代では、琵琶湖(淡水)に鯨魚(イルカ)が泳いでた???(熊本県八代)淡海(海水)説は有名
http://www7.torichu.ne.jp/~landp21/may-31.html 淡海は阿波の海! 淡路は阿波の路! これ、常識! @阿波 >>107
>卑弥呼の墓の場所は「奴婢=土蜘蛛」が大量に埋葬されている高天原(御所市高天)だ<
「南≠東」などに拠って、×だ。 >>645
>黄金鑵ガーって言ってるバカは
>何を根拠にいってるの??
典拠もちゃんと示してあるだろ?
・神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文
・明治期の国学者で「日本書紀通釈」を書いた飯田武郷氏の
明治四年の遷宮行事のときにご神体の容器を見た実見記録 >>109
>ふーん? じゃ、郡使はもっと遠くにあるコビトの国に行ったんですか?
はー、そーですか 九州説は笑えるなあ <
魏使は行っても行かなくてもよい。
魏の見聞計測役人が、侏儒國の近くまで行っておれば十分。 >>650
>金属と金属が接触したままだと劣化するんだよ。
金は、ほかの金属と触れていても、金自身も劣化しないし相手も劣化させないぞ
それに、御神鏡は白い布に包まれて納められていると伝えられている
金属同士は接触していない
>黄金鑵に入っているなら、それはすでに酸化した灰を集めて入れてある可能性が高い。
ごっちゃにしている人が多いけれど、焼損の記録があるのは皇居にあるレプリカの
八咫鏡の方で、伊勢の御神鏡に焼損の記録はない
また、おそらくは青銅鏡のはずだが、籠神社の伝世鏡を見て分かるように
青銅鏡は空気酸化で灰になるようなことはない
全て意味のないイチャモンだったなw
平原1号墓の46センチ鏡は、伊勢の御神鏡とは無関係だよ
そもそも破鏡鏡献のためだけに作ってバキバキに割った鏡が、
王権のレガリアになるはずがない >>683
>古墳って韓国にあるよな、
そりゃ、「忌部はん」 が鍛冶材料取りに行ってたんだから。 @阿波 >>681
>魏の見聞計測役人が、侏儒國の近くまで行っておれば十分。
魏の見聞計測役人?
九州説さん、また新発明ですか
冊封や告諭の使者以外に
別行動する計測屋さんも派遣してたんですか
でも、第二の大国である投馬国に行かないで、なんで侏儒国なんて行ったの?
九州説っていつも笑えるね コピペ用
■魏が見た弥生時代の倭国
<魏志韓伝>
・「國出鐵韓?倭皆従取之,諸市買皆用鐵如中国用銭,又以供給二郡」
国には鉄が出て、韓、?(ワイ)、倭がみな、従ってこれを取っている。
諸の市買ではみな、中国が銭を用いるように、鉄を用いる。
また、楽浪、帯方の二郡にも供給している。
<魏志倭人伝>
・「兵用矛楯木弓、木弓短下長上、竹箭或鐵鏃、或骨鏃」
倭の兵士の武器は、矛・楯・木弓、木弓は上が長く下は短い、
箭には竹を用いる。鏃 (やじり) には、鉄や骨を使用している。
■九州の弥生時代
・吉野ヶ里出土の鉄器
http://material.miyazaki-c.ed.jp/ipa/yosinogariiseki/ibutu_tetu_isi/tekki/IPA-yos600.htm
・富の原遺跡/長崎県大村市
(弥生中期初頭〜後期前半)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E3%81%AE%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1
特に鉄戈の分析から得られた情報は大きく、原料鉱石として磁鉄鉱が用いられ、
錆分析から推定される鋼の炭素量は0.5から0.6パーセントで、刃部には真鍮を
削れる程度の硬度があり、別の鉄戈の棟部の錆びから調べられた炭素含量は
0.1から0.2パーセントであり、棟部が軟鋼であることが確認されている。
すなわち刃部に高炭素の硬鋼を使用し、棟部に低炭素の軟鋼を組み合わせる
「合わせ鍛え」の技法(日本刀や農工具に用いられる技法)が弥生期から確認された
■奈良の弥生時代(纏向) ← とても同じ倭国とは思えない遺物続出
・木製の土木用具
・古墳建造時のドカタ専用ホテル跡(畿内説は宮殿と呼ぶ)
・かじり痕の無い桃の種
・かじり痕のある蛙の骨
・東海・伊勢産の土器 ← 畿内説曰く東海は狗奴国だったはずだが??? 纏向に居たのは縄文人?
■纏向出土の木製仮面について
『これまで日本列島における木製仮面の最古の事例としては、7世紀初頭頃の神戸市宅原遺跡出土例が知られていたが、今回の事例はそれを大きく遡る時期に位置付けられるものである。
考古資料に見られる仮面としては、縄文時代では土製仮面が知られており、このほか鼻・口・耳などの土製品の存在から、木製・皮製などの仮面が存在したと推定されている。
また奈良時代以降では、大陸より伝わった舞楽で使用されたと考えられる仮面が複数知られている。(←関係無い話なのに関連付けようとする印象操作w)
弥生時代においては、東日本を中心に存在する土偶形容器に仮面状の表現が見られ、土器絵画にも仮面を装着していると見られる人物が描かれる例が存在する。(←やはり東日本勢力傘下だった痕跡かw)
しかし弥生時代の仮面の実例はほとんど知られておらず、古墳時代においても確認されていなかった。』 鉄器が流入するのは日本より朝鮮半島のほうが早いので
北部九州のように遺伝子が隔絶して朝鮮人に近い地域では
早い時期から古鉄を石器研磨技術で再利用しているが
木弓短下長上は朝鮮半島には見られない倭国特有
唐古鍵遺跡出土では短下長上の木弓が出ている >>690
自分のDNAをしらべてみ。
思考が明らかにチョンだからもしかするともしかするぞw >>651
>こっちが聞きたいのは、「黄金鑵」に入っているという実見録なるものの詳細。
「神宮遷宮記文永三年御遷宮沙汰文」は国立国会図書館デジタルコレクションで、
画像で読める
神宮遷宮記. 第1巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174421/215?tocOpened=1
これの文永三年御遷宮沙汰文の「コマ番号279」に
御桶代の大きさが書いてある
飯田武郷氏の実見記録は、日本書紀通釈にあり
これも国立国会図書館デジタルコレクションで画像で読める
日本書紀通釈:70巻 第1
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992400
これの454ページ「コマ番号233」454ページの右ページ中ほどで確認できる
「御樋代(みひしろ)内の御形容は黄金の函ありて,御正体は往古より錦袋に納め
安置し奉れるを,遷宮の度ごとに新しき袋を調りて旧の袋のままにて納奉る例なり。
されどあまりに重の高くなり給へば,近ごろは,已然(さき)の一つと取替奉ることと
為れりと聞けり。其(その)黄金函の寸法は,高さ一尺三寸,径九寸。
覆蓋にて,黄金の合せ目は,鋲と云ふものにてつなぎたり。さて蓋にも身にも
處々に屋形の図を鐫(き)り付けたり。此は明治六年四月に宮中にて親しく
写したる図を以つて記せるなり」 長崎選出の議員が佐賀県知事の発言に対して朝鮮人と話している気分だ
と発言したが、福岡では言わないようにしている >>186
>>そして、魏の役人たちは、
周制の墓での「槨」を知っていて、それを使って「有棺無槨」と書いた。<
>こんなこと決め付ける根拠は?
辺境の小役人が、なんでそんな古代のこと知ってんの?<
魏や郡の役人たちは、漢代の皇帝や諸侯の「墓室」の存在を知っているのに、
あえて、「室」の文字を使わず、
周代の墓の「槨」の文字を使って、その有無を記録したから。 >>687
>・東海・伊勢産の土器 ← 畿内説曰く東海は狗奴国だったはずだが???
畿内説の誰が言った?
九州説は大雑把すぎ >>695
人に教えてもらうのに、相変わらず九州説のやつは態度が悪いな
「コマ番号」が書いてあるだろ?
コマ番号を入れて飛べば、そこに書いてあるよ
こういうのがすっと理解できないあたりが、情報リテラシーの低さだな >>697
何コマ目にどう書いてる??
お前に説明責任あるぞ
グダグダ行ってないで責任果たせよ 何にしても、平原1号墓の46センチ鏡は、
伊勢の御神鏡が入っている、御桶代の中の黄金鑵(函)には入らない
つまり大きさが全然異なる、無縁のものってこと
平原1号墓出土の46センチ鏡を八咫鏡と読んだのは、
単に原田大六氏の思いつきに過ぎないんだよ >>699
お前、バカだろ?
>>692に既に書いてある
神宮遷宮記. 第1巻
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1174421/215?tocOpened=1
これの文永三年御遷宮沙汰文の「コマ番号279」に
御桶代の大きさが書いてある
飯田武郷氏の実見記録は、日本書紀通釈
日本書紀通釈:70巻 第1
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992400
これの454ページ「コマ番号233」 >>701
バカはお前だろ。
黄金函は、遷宮記と関係ないじゃん。
関係あるのは、新しい怪しい実見記録だけ
www >>682
>八咫鏡の方で、伊勢の御神鏡に焼損の記録はない
記録はないが、状況からはいつかの時点で損傷していると考えられる。 不思議なことに九州説を提唱した新井白石は高天原が九州にあるとは言わなかった。
突然、常陸国説など言われても意味が分からない。
これは逆に考えるべきだ。
新井白石は邪馬台国や高天原が「大和ではない」ということを強調したかった。
邪馬台国も高天原も大和にあった事を知ってたからだ。
高天原や邪馬台国が大和にあったなら、大和朝廷や古代天皇が中華へ朝貢してた事を意味する。
国学者としてこれほど辛い事はない。
つまり邪馬台国は九州、高天原は常陸と発表することで大和に焦点があたることを避けたのだ。
九州説とは新井白石が創ったデマである。 明治天皇になるまで1500年間、天皇は伊勢神宮を参拝しなかった。
壬申の乱の際、伊勢になだれ込んだ天武天皇でさえ、遠くから望拝したに過ぎない。
何故だろうか。
天皇は伊勢神宮が怖かったからである。
4世紀前半、ミマキイリヒコ(後の崇神)が易姓革命をおこし、大物主を殺した。
殺された大物主とはモモソ媛の夫であり、太古から続くイズモ最後の王・阿田賀田須である。
崇神は阿田賀田須の怨霊を怖れ、大神神社を建て鎮魂する。
それでもまだ怨霊が恐い崇神は、神殺しの自分の姿が映ったのであろうか、祭器の鏡を手元から放逐した。
その鏡が今は伊勢神宮にある。
その鏡は今も居場所がなく、20年に一度「式年遷宮」という形で伊勢神宮境内を彷徨う。
だから「天皇」は1500年間、伊勢神宮を怖れ、参拝しなかったのだ。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏が、完全に論破されてしまったので、コマを回すゲームを開始した可能性があるな。。。 279番のコマと233番のコマは、どちらが良く回るのだろうか。。。 奥山氏には、ベクトルとベクトルを掛け合わせると、ベクトルになることがあることを理解できないのではないのかな。。。 遷宮記 ー 黄金函と関係ありませんでした(笑)
飯田武郷 ー 黄金函については明治六年四月に宮中の図を書き写しました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/992400
全然実見でもねーし、シネよ
部外者が伊勢神宮のご神宝を実見できるわけねーだろ。 計算結果がベクトルになる、ベクトルとベクトルを掛け合わさす方法の記号は✕だったな。。。 そもそもなぜ御樋代の大きさが49センチなのかが説明されていない。
やはりもともとは平原遺跡にの鏡と同じ大きさだったのではないか。
袋を入れ替えず、新しい袋にそのまま入れ替えるのもおかしい。
やはり中身は灰なのではないか。
灰だと入れ替えるたびに古い袋に少し残って減ってしまうからね。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝するために、発表される意見の正しいか、正しくないかを、表現する方法の記号は、✕だったな。。。 >>696
>畿内説の誰が言った?
以前にここに出入りしていた孝霊とか言ってなかったかな? >>708
コマの運動量の話ではなく、誰かが天皇であることを証明するための、独立した3つの根拠の内の1つの話題なのでは、ないのかな。。。 >>704
>記録はないが、状況からはいつかの時点で損傷していると考えられる。
記録もないし根拠もないが、日本の皇室の神器を既に損なわれているはずだと貶めるのが
九州説の生き方
正体が丸分かりw >>719
宮中の方の鏡は3度の火災で灰になっていることが明らかだよ。
今度の即位式で使うものだけど。 左利きが回したベーゴマと、右利きが回したベーゴマが、衝突すると、勝負が死闘になるのだったな。。。 古代は新聞、テレビ、ネットなどはない。
だから魏志倭人伝の卑弥呼墓の記事に書かれてる様な
奴婢が大量に殺された大事件などは、当然、後の時代まで語られ伝承されていたはずだ。
したがって奴婢埋葬伝承のないような場所は卑弥呼の墓ではない
箸墓、平原、祇園山、には奴婢大量殺害の伝承はない。
だから卑弥呼の墓ではない。
日本で唯一、奴婢大量殺害の伝承がある場所は一地域、二カ所。
その地域とは葛城、場所は一言主神社境内ではなく、
高尾張邑伝承のある高天原だ。
http://bbs10.aimix-z.com/gbbsimg/e_asia/87_119_2.jpg 279番のコマと233番のコマは、どちらが良く回るのだろうか。。。 皇居の八咫鏡は、過去、宮中の内裏(だいり)からの失火によって、960年(天徳4年)、980年(天元3年)、1005年(寛弘2年)の3度に渡って火災に見舞われ、現在では神鏡としての形を留めていないとも云われます。 お互いに100点以上取り合うゲームは、やはり、死闘だったのだろうか。。。 >>725
孫娘たちが楽しんだのでは、ないのかな。。。 奥山氏には、ベクトルとベクトルを掛け合わせると、ベクトルになることがあることを理解できないのではないのかな。。。 ベクトルとベクトルを掛け合わさす方法には、2種類あるのだったな。。。 最近、頭の悪い奥山の、記憶が薄れていくのが早まってきたのでは、ないのかな。。。 >>694
>魏や郡の役人たちは、漢代の皇帝や諸侯の「墓室」の存在を知っているのに、
>あえて、「室」の文字を使わず、
>周代の墓の「槨」の文字を使って、その有無を記録したから。
はあ?
なにメチャクチャ言ってんの
漢代の墓に槨あるよ 黄金函の話は、宮中の 焼失した残骸がはいっているこということでFA 朝鮮人達が宣伝している邪馬台国畿内説にとっての狗奴国は、どこなのだろうか。。。 >>734
朝鮮人の奥山氏にとっては、4世紀頃までの朝鮮半島が倭人の支配下にあったという真実を隠すために、邪馬台国も狗奴国も、朝鮮半島から遠ければ遠いほど都合が良いのではないのかな。。。 左利きが回したベーゴマと、右利きが回したベーゴマが、衝突すると、勝負が死闘になるのだったな。。。 >>724
いつもソースのない九州説
とんかつは食べないのかな 時間の無駄。 三種の神器(八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣)は、倭国(阿波)の専売特許品。 @阿波 左利きが回したベーゴマとが1つ、右利きが回したベーゴマが2つ、勝負したとき、左利きが回した駒が1人勝ちするのだったな。。。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している朝鮮人の奥山氏は、脂っこいものが好きなのだな。。。
737日本@名無史さん2019/10/09(水) 13:19:54.33
>>724
いつもソースのない九州説
とんかつは食べないのかな 時間の無駄。 三種の神器(八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣)は、倭国(阿波)の専売特許品。 @阿波 神戸市教育委員会という委員会の他にも、桜井市教育委員会という委員会が、あるのではないのかな。。。 >>713
じゃあ、別口から行こうか?
扶桑略記 第二十六 村上天皇
国立国会図書館デジタルコレクション
国史大系. 第6巻 日本逸史 扶桑略記
コマ番号371
「瓦上在鏡一面。徑八寸許。頭雖有小瑕。専無損。圓規幷帶等甚以分明」
村上天皇の天徳四年の内裏消亡のときに、内裏の八咫鏡が奇跡的に見つかったという記事
瓦上に、鏡一面在す。その徑八寸許り、頭に小瑕ありと雖も、
専ら圓規並びに蔕等を損することなく、いと分明なり。
この記事からも、八咫鏡は径八寸ばかりのものということが分かるし、
これは口径九寸の御桶代に入れるのにちょうどいい大きさだ
そして、三角縁神獣鏡の大きい方とほぼ同じ大きさ
平原1号墓出土の46センチ鏡はお呼びじゃないんだよw >>720
>宮中の方の鏡は3度の火災で灰になっていることが明らかだよ。
ごまかすな
今、話をしている伊勢の御神鏡は、焼損の記録はない
それを貶めるようなことを日本人はしない >>733
>宮中の 焼失した残骸がはいっている
ほら、正体丸分かりww コピペ用
■三角縁神獣鏡は卑弥呼とは無関係
・三角縁神獣鏡は中国(華北)から一枚も出土していない。
・畿内では4世紀の古墳からのみ出土し、3世紀の墓からは全く出土しない
・鏡の径が22cmと後漢〜三国時代の鏡よりはるかに大きい
■畿内説の反論
・『三角縁神獣鏡に「銅は徐州に出ず」「師は洛陽に出ず」の銘文を持つものがある。』
→ 当時、徐州は魏の敵対国である呉の領土だったので、魏鏡ではなく呉鏡であるという自爆発言。
・「卑弥呼が魏に使いを送った景初3年の年号が記された三角縁神獣鏡が出土している。」
→ 出土したのは島根県であり、畿内説と結びつけるのは無理がある。吉備説ならまだ理解できる。
ちなみに魏が滅びた後の架空の年号「景初四年」を記した三角縁神獣鏡が京都、宮崎で出土している。
このことから、全国的に国産の模造品が出回っていたのではないかと思われる。
>>737
>いつもソースのない九州説
宮中の鏡の焼損記録は、文字の書ける貴族がたくさんいる京でのことなので
きちんと記録があるよ
寛弘2年(1005年)の火事で完全に焼けたときに、金の粒が残ったとされているので、
八咫鏡は鏡背に貼金・鍍金した宝飾鏡とも考えられる 時間の無駄。 三種の神器(八咫鏡・八尺瓊勾玉・天叢雲剣)は、倭国(阿波)の専売特許品。 @阿波 >>747
>それ、宮中の鏡の話だろ
宮中の鏡は、伊勢の御神鏡の形代・レプリカとして作られているので、
大きさも同じ
先の扶桑略記の記事で「頭雖有小瑕」とあるのも、日本書紀の
日~、方開磐戸而出焉。是時、以鏡入其石窟者、觸戸小瑕、其瑕於秡今猶存、此卽伊勢崇祕之大~也。
の「小瑕」を、崇神天皇のときのレプリカ製作でも再現したものと考えられているくらい >>750
崇神朝でレプリカ作ったなんてお前の妄想じゃねーか
www >>746
いまだにこんなのコピペしているのかww
>・三角縁神獣鏡は中国(華北)から一枚も出土していない。
三角縁神獣鏡と呼ばれているものには、斜縁と三角縁と両方が含まれており
>・畿内では4世紀の古墳からのみ出土し、3世紀の墓からは全く出土しない
三角縁神獣鏡の編年が正しいなら、古墳の編年の方を正す方がおそらく正解
U字型鉄製品の出た黒塚古墳は黄幢を受け取った難升米の墓の可能性があり、
三角縁神獣鏡も多数出ている
現状では黒塚古墳は4世紀初頭とされているけれど
最初期の舶載鏡とされるものは斜縁神獣鏡
斜縁神獣鏡は、画文帯神獣鏡とともに中国(華北)から普通に多数出土している
>・鏡の径が22cmと後漢〜三国時代の鏡よりはるかに大きい
特注品だから、ある意味大きいのが当たり前
また中国出土鏡でも、三角縁神人車馬画像鏡や方格規矩四神鏡では
面径20センチを超えるものも出ている
http://www.ne.jp/asahi/isshun/original/mater10.html
主要紀年・銘文鏡 一覧 >>753
>U字型鉄製品の出た黒塚古墳は黄幢
曲がった針金を見ての想像
>斜縁神獣鏡は、画文帯神獣鏡とともに中国(華北)から普通に多数出土している
「画文帯神獣鏡」は呼び名は一緒だが、中国のものと国内出土のものは同一ではない。
>特注品だから、ある意味大きいのが当たり前
また勝手な妄想で脳内完結してるのかw >>752
>崇神朝でレプリカ作ったなんてお前の妄想じゃねーか
鏡作神社 社伝
崇神天皇六年九月三日、この地において日御像の鏡を鋳造し、
天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。
もの知らずはこれだからww >>754とかの、態度の悪い、人間として低レベルの九州説は
呼子上陸バカ君かな? >>755
社伝だってよwww
後付けの妄想だろwww 社伝を根拠にするぐらいなら、
史書にある東征は真実に間違いないな! >>746
>→ 当時、徐州は魏の敵対国である呉の領土だったので、魏鏡ではなく呉鏡であるという自爆発言。
・・・
>ちなみに魏が滅びた後の架空の年号「景初四年」を・・・
九州説はこういった基礎知識不足で
いつも自滅する >>758
どこに黄色い旗が付いてるんだ?
奥山はまず、幻覚は他人には見えないという事を理解しようね。 効いてる効いてるww
結局、北部九州説は平原1号墓に事実上全賭けしてるから、
46センチ鏡が八咫鏡ではなくなると、それでもう死亡だから必死だなww
でも、吉野ヶ里遺跡の北墳丘墓と比べてもショボイ
伊都国ローカルの有力者の墓でしかないんだよ
まあ、その前に、女王国より以北の投馬国五万戸が比定できない時点で
北部九州説は壊滅してるんだけどね 左利きが回したベーゴマと、右利きが回したベーゴマが、衝突すると、勝負が死闘になるのだったな。。。 邪馬台国熊本城説の立場の者と、邪馬台国畿内説の立場の者が討論すると、討論は瞬時に決着し、邪馬台国畿内説は完全に叩き潰されてしまうのだったな。。。 効いてる奥山は、いつものようにキナイコシに化け、WTOで韓国勝訴と報じているメディアを、再現するので、あったな。。。 >>762
鏡作神社の社伝が何に効くんだ?
頭狂ったのか???? >>764
邪馬台国畿内説は、頼みの纏向遺蹟を数十年かけて、莫大な国からの税金を投入し、200回も発掘したのだが、人民の住居の代わりに、桃の種や木の仮面やカエルの骨しか発見されなかったので、勝手に自滅し、討論の前に破綻してしてしまったのだったな。。。 >>767
邪馬台国畿内説は、頼みの纏向遺蹟を数十年かけて、莫大な国からの税金を投入し、200回も発掘したのだが、人民の住居の代わりに、桃の種や木の仮面やカエルの骨しか発見されなかったので、勝手に自滅し、討論の前に破綻してしてしまったのだったな。。。
という文章は、
邪馬台国畿内説は、頼みの纏向遺蹟を数十年かけて、莫大な国からの税金を投入し、200回も発掘したのだが、人民の住居の代わりに、桃の種や木の仮面やカエルの骨しか発見されなかったので、勝手に自滅し、討論の前に破綻してしまったのだったな。。。
と、タイピングしたかったのではないのかな。。。 邪馬台国畿内説は、頼みの纏向遺蹟を数十年かけて、莫大な国からの税金を投入し、200回も発掘したのだが、人民の住居の代わりに、桃の種や木の仮面やカエルの骨しか発見されなかったので、勝手に自滅し、討論の前に破綻してしまったのだったな。。。 左利きが回したベーゴマと、右利きが回したベーゴマが、衝突すると、勝負が死闘になるのだったな。。。 神戸市教育委員会という委員会の他にも、桜井市教育委員会という委員会が、あるのではないのかな。。。 >>206
>印鑰神社
国府の国璽と倉の鍵を保管していた神社(宮)
なるほど。 やはり印は神社に保管するものなのだな。
『高良玉垂宮神秘書』
神璽(皇位のしるし・天子の印)は高良大明神が預かっていたと。
皇宮で神璽を持っていた間、鳥居に玉垂宮と書いた。
ザラコク氏が言っているのはこれか。
彼は出典を説明しないからわかりにくいが、探すと根拠があるのだな。
高良玉垂宮の王が誰なのかよくわからないが、筑後が王都だった時代があったわけだ。<
成程。
ご紹介、有難う御座います。 >>761
>どこに黄色い旗が付いてるんだ?
九州説は、全体の整合性を考えるってことができないからねw
三角縁神獣鏡の笠松文様と呼ばれるものが、黃幢という説があり、
その形状と合わせて考えるんだ
>>758で示した写真でも分かるように、U字型鉄製品単体で使うものではないし
笠松文様となるような復元図が描ける訳だ >>755
>崇神天皇六年九月三日、この地において日御像の鏡を鋳造し、
>天照大神の御魂となす。今の内侍所の神鏡是なり。
うーん、複製したとも書いてないなあ。
伊勢の鏡より小さいものを作ってしまったのではないかな? >>766
>鏡作神社の社伝が何に効くんだ?
>頭狂ったのか????
平原1号墓の46センチ鏡は八咫鏡ではないし、
平原1号墓は伊都国ローカルの有力家系の家族墓地の一つの墓であって
卑弥呼の墓でも倭女王の墓でもない
これが、明らかにされて、北部九州説死亡という効果が出ておりますww >>762
>46センチ鏡が八咫鏡ではなくなると、それでもう死亡だから必死だなww
大きさが八咫の鏡だからね。
それ以後でもし小さい鏡を八咫の鏡と呼ぶようであれば、八咫は大きいことを示すという謎解釈だとか、八咫の具体的な大きさがわからないだとかの理由により小さくされてしまったのだろう。 >>774
>伊勢の鏡より小さいものを作ってしまったのではないかな?
形代を作るときに、わざわざ小さいものを作るかね? >>215
このフレの「南→東」などの嘘付き騙しの現状を見れば
荒らしているのは大和説 >>775
>平原1号墓は伊都国ローカルの有力家系の家族墓地の一つの墓であって
根拠のない想像だよね。 今年一番の妄想を聞いてしまったwww
773 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2019/10/09(水) 15:56:56.26
>>761
>どこに黄色い旗が付いてるんだ?
九州説は、全体の整合性を考えるってことができないからねw
三角縁神獣鏡の笠松文様と呼ばれるものが、黃幢という説があり、
その形状と合わせて考えるんだ
>>758で示した写真でも分かるように、U字型鉄製品単体で使うものではないし
笠松文様となるような復元図が描ける訳だ 邪馬台国畿内説は、頼みの纏向遺蹟を数十年かけて、莫大な国からの税金を投入し、200回も発掘したのだが、人民の住居の代わりに、桃の種や木の仮面やカエルの骨しか発見されなかったので、勝手に自滅し、討論の前に破綻してしまったのだったな。。。 左利きが回したベーゴマと、右利きが回したベーゴマが、衝突すると、勝負が死闘になるのだったな。。。 >>776
>大きさが八咫の鏡だからね。
これがインチキww
円周長を、円形物の大きさの表現に使う例は絶無w
そもそも径一尺の円の円周長は四咫にならない
平原1号墓の46センチ鏡を径二尺と主張するの「なら」、その尺は魏尺になる
そして、魏代に「咫」という単位は実用単位として使われていないし、
文献等に見られる場合でも、二咫、三咫のような、複数形の用例はないww
平原1号墓の46センチ鏡を八咫鏡と呼んだのは、原田大六氏の単なる思い付きに過ぎない 右向きの者達と、左向きの者達が、衝突すると、勝負が死闘になるのだったな。。。 教育委員会という委員会は、左利きの者が多いのだろうか、、、 「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう。
ただ、「伊勢大神」というのは「天照大神」を指していて、
穀物神である豊受大神を祭神とする外宮「豊受大神宮」の記録『豊受皇太神御鎮座本記』に、この「伊勢大神」=「天照大神」の記述があるのは、非常に不自然である。
つまり、「豊受大神」(外宮)=「伊勢大神」=「天照大神」(内宮)ということか。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 教育委員会という委員会は、真実を隠蔽をする体質がある可能性が、そうではない可能性よりも高いのだったな。。。 >>704
>記録はないが、状況からはいつかの時点で損傷していると考えられる。
どんな状況?
理由もなく「考えられる」わけないよね?
飯田の454頁に、神鏡は「広皆方尺而已」って神宮記を引用してるから
当然もともと46cmもないよね 「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡や文献のまえに、ぐうの音も出ない九州説や畿内説。 @阿波 「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡や文献・古神社とは、雲泥の差。 @阿波 そもそも円周長で鏡の大きさを表した類例なんてあるのか? 二尺より八咫の方がいいだろ?
吉祥縁起を担いだんだよ。 日本人は海外の技術の活用に長けている。
本国よりも大きい鏡を作り上げたのもその一つ。
ならば呼び名も本国より優れた名前をつけてもいいだろう。
そうでないと記紀の八咫の鏡の名称が意味不明になってしまう。 記紀の神鏡を矮小化しようとしているキナイコシは何者?
世界最大の銅鏡の何が不満なんだ? >>795
>世界最大の銅鏡の何が不満なんだ?
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡や文献・古神社とは、雲泥の差。 @阿波 >>271
反論を受けないように、無意味な「南→東」などの嘘付き騙しの大量投稿をして、
何となく論破した気分を味わうしかないみじめな大和説 >>794
なら実質、デカイってだけの意味でいいよね >276
「南→東」などの嘘付き騙しの理由言わずに、
史料事実や史料実態の否定抹殺を断定する大和説者らは
脳たりん >>282
「南→東」などの嘘付き騙しや、卑弥呼の話などの倭人伝の話をすると、
直ちに反論されてしまうので、仕方なく、
記紀などの話でお茶を濁すしかない大和説者。 >>283
>>じゃあ生活痕の乏しい纏向説は完全消滅だなw<
>なぜ、統一祭祀王の国家祭祀の中枢施設に生活痕を求めるんだ?
邪馬台国七万戸は畿内第V様式どきの出土範囲と何度教えれば覚えるんだ?wwww
唐子鍵遺跡にも芝遺跡にも、生活痕は山ほどあるだろ?w<
邪馬台国や畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
従って「畿内第五様式」なんても存在もせず、
唐子鍵遺跡などは、九州倭国の別種分家の旧小国ではなく、
出雲系銅鐸祭祀部族が中心となっていた遺跡だし、
纏向は、九州倭国の「東征毛人五十五國」の中の一国に過ぎないから。 畿内説は墓の大きさの件もあやふやだったなw
行きあたりばったりで円墳説なんか出すから信用無くすんだよなw
藁をも掴む思いで藁を掴んで沈んでゆく畿内説w >>293
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の特徴
いつも、言うことは、史料事実の否定曲解?の出所不明情報ばかり
つまり、言ってることがいいからかん 畿内説は魏志倭人伝も記紀も無視しないと成り立たない。
もはや説ですらない。
妄想の類。 >>802
箸墓が江戸時代まで円墳だとテンプレが主張してるとか
バレバレのデマを流してるパクチーくんかな? 北部九州の共通の葬送文化
墳丘墓ー柱ー小型建物 を軸線上に並べる
吉野ヶ里遺跡北墳丘墓
https://i.imgur.com/JSJDpOZ.jpg
平原遺跡 1号墓と5号墓
https://i.imgur.com/EDURbnh.jpg
同じ文化だということが分かると同時に、
軸線と太陽の夜明け方向は無関係なことが分かる
平原1号墓の軸線が日向峠を向いているのは偶然
5号墓と方角が揃っていないことで分かる >>307
>>奈良盆地は弥生文化の浸透が遅れた随分と後から開拓された土地だな。<
>そういう現実から乖離した妄想の世界に浸ってるから、九州説は学説にならないんだよ
というか、既に学説としては死んでる
奈良盆地の最低部に、縄文晩期の突帯文土器が出る遺跡が出ている
弥生時代の最初期から奈良盆地には人が入って弥生社会(水稲、金属器、階層分化)に
なっているし、弥生後期には近畿地方の中心の一つ(唐子鍵)になっている
https://i.imgur.com/6rXI0OP.jpg
でたらめをいくら並べても意味ないって 現実に対して論証しないと! <
弥生の奈良盆地は、出雲系の銅鐸祭祀部族と毛人蝦夷の共存部族が中心であり、
東征の神武の後裔の欠史八代は「市を監督する大倭職」程度の小部族的な存在。 同一縮尺で並べるとこんな感じ
https://i.imgur.com/TV2qJ6M.jpg
平原1号墓がいかにショボイか、一目見て分かると思う
一時代前の墓より、倭王墓の方が小さくていいとか、九州説は本当にいい加減
まあ、平原1号墓を持ち上げる以外にできることがないから
仕方がないのは分かるけれどww >>809
「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡や文献・古神社のまえに、ぐうの音も出ない九州説や畿内説。 @阿波 >>795
>記紀の神鏡を矮小化しようとしているキナイコシは何者?
>世界最大の銅鏡の何が不満なんだ?
でかいだけなんていうのは、大して価値がないんだよww
平原1号墓の46センチ鏡は、図像を見ても明らかな手抜き鏡
同じ内行花文鏡で比べても、畿内の大王級古墳出土のものと比べて
ものすごく見劣りする
https://i.imgur.com/P9ZIvtJ.jpg
こんなのがただ大きいだけで、日本の最重要、最高貴の鏡に擦り寄ってくるのが
だめだって話 >>808
>>でたらめをいくら並べても意味ないって 現実に対して論証しないと!
>弥生の奈良盆地は、出雲系の銅鐸祭祀部族と毛人蝦夷の共存部族が中心であり、
>東征の神武の後裔の欠史八代は「市を監督する大倭職」程度の小部族的な存在。
だから意味ないと言われてるのに >>793
>二尺より八咫の方がいいだろ?
二尺と八咫を「比較する、選ぶ」というのがそもそもあり得ない
記紀における「八咫鏡」は、単に大きな鏡を示す普通名詞
「八尋鰐」と同じ、具体的な大きさではなく、単に大きいことを示す修辞に過ぎない >>805
>畿内説は魏志倭人伝も記紀も無視しないと成り立たない。
だから、なにを無視したというのか
具体的に言ってみ
また「南」だけ? >>811
>でかいだけなんていうのは、大して価値がないんだよww
意味のない主観。 >>813
>記紀における「八咫鏡」は、単に大きな鏡を示す普通名詞
根拠のない主観を振り回しても、何も論証したことにはなっていない。
その意見は実際に円周八咫の鏡が出土した時点で崩れている。 >>816
>まず、原典ね。^^
どういう意味かね? @阿波 >>815
>意味のない主観。
ブーメランww
つ「世界最大の銅鏡の何が不満なんだ?」>>811 >>818
土器や鏡も結構だけど、やっぱその時代の社会を知るには典籍にまさるものなしね。^^ >>817
>根拠のない主観を振り回しても、何も論証したことにはなっていない。
つ 根拠
雄略紀
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連(連、未詳何姓人)
奉「八咫鏡」於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」
是以、大連爲奏於天皇使留居于角國。
是、角臣等初居角國而名角臣、自此始也。
小鹿火宿禰も大伴大連も皇族でも皇統でもないだろ?
その間で、詫び証文的に送られているのが「八咫鏡」と呼ばれている
これは三種の神器とは無関係
つまり、普通名詞としての「八咫鏡」だよ
これまでにも何度も紹介してるんだけど、情弱さんは見て見ぬふりww >>310
>「長里」なんて古田派が作り出した語彙。
そんな呼び名は古代中国になかった。<
当たり前。
長里という文言も短里という文言など、始めからなく、
いずれも現代人が、
古代中国での使用された「里」の長さに長短二種類がある事から、
造語された説明文言。
>魏の時代は1里430mが公定単位。それ以外にない。<
魏朝は、文帝の即位の「受命改制」の詔書で、秦漢代の度量衡の混乱の統一を指示し、
重臣たちが「周制への復古」を上表し、周代の周髀算経の度量衡を採用した。
それが、1里≒76.5m」の里であった。 年代を大幅に古く報告するという非常識が、畿内では常識になってしまっているのでは、ないのかな。。。
毎日新聞(2019/8/17)
“最古の日の丸”に新たな謎 室町〜江戸期の旗と判明 奈良・五條
『“最古の日の丸”の有力候補、奈良県五條市西吉野町賀名生(あのう)の
堀家に伝わる旗の年代測定が行われ、1463〜1528年か1553〜1634年に作られた
絹製であることが分かった。NPO法人大和社中が16日発表した。
後醍醐天皇(在位1318〜39年)から下賜されたとの伝承があるが、
100年以上後の室町期か江戸期の旗と判明。
旗は新たな謎に包まれた。』 >>821
>土器や鏡も結構だけど、やっぱその時代の社会を知るには典籍にまさるものなしね。^^
その通り。
「神道五部書」の『豊受皇太神御鎮座本記』の内容を「国史大系」の第七巻から見てみると
「天村雲命伊勢大神主上祖也。神皇産霊神六世之孫也。阿波國麻植郡座忌部神社、天村雲神社、二座是也」
阿波國に座す二社(忌部神社、天村雲神社)が皇祖皇統の正統なる末裔であると記している。
阿波忌部が伊勢神宮(少なくとも外宮の)の正統なる祭祀者であり、伊勢神宮は阿波忌部の上祖(天日鷲命)を祀っているのである。
内宮、外宮、両宮の御鎮座当初より忌部氏が祭祀を司っていたのはまぎれもない事実であり、6世紀に中臣氏に取って代わられるまでその地位は安泰だった。
その御鎮座時を記録するために度会氏が14世紀になってこの『豊受皇太神御鎮座本記』を記したのであろう。
ただ、「伊勢大神」というのは「天照大神」を指していて、
穀物神である豊受大神を祭神とする外宮「豊受大神宮」の記録『豊受皇太神御鎮座本記』に、この「伊勢大神」=「天照大神」の記述があるのは、非常に不自然である。
つまり、「豊受大神」(外宮)=「伊勢大神」=「天照大神」(内宮)ということか。
こういう事実を示せるのは、倭国(阿波)以外には存在しない。 @阿波 >>819
>夏至線重視は縄文時代からあるけどね。
吉野ヶ里の北内郭の軸線が夏至線だし、畿内でも東田大塚古墳や箸墓古墳の軸線が
夏至の日の出方向に合わせてある
弥生中期以降は、倭国にも暦概念はあったのだろう
でも、平原1号墓の軸線は夏至どころが二至二分のどれとも関係ないし、
吉野ヶ里でも北墳丘墓の軸線は、特に年暦的なものとは無関係 魏志倭人伝には、倭人は暦の概念が無いと記されているんだが。。。 >>817
>その意見は実際に円周八咫の鏡が出土した時点で崩れている。
それがウソなんだよww
魏尺と咫は、同時に使われたことがない別々の単位系
面径が魏尺で二尺なら、円周は八咫ではあり得ない
きちんと計算すると、8.63咫になるww >>827
>魏志倭人伝には、倭人は暦の概念が無いと記されているんだが。。。
大陸の進んだ暦法とは無縁の、盆と正月に一つずつ年を数えるやり方だったんだろう
魏志倭人伝本文にはなくて、注に
魏略曰。其俗不知正歲四節、但計春耕秋收爲年紀
とあるだけだね
倭人が知らないのは暦の概念ではなく「正歳四節」を知らず、と書いてある 平原の鏡は縁が広いだけだからな
凹凸がある鏡を大きく作ると冷える時に割れやすいんで
文様を小さくしたんだろうが
棺に入れても無いから失敗作だろ >>321
>その大和日本国はいつ九州倭国から別れたんよ。<
大和が独立的になったのは、
梁書扶桑國に書かれた5世紀の「顯宗、仁賢」の「ヲケ」の頃からであり、
6世紀の継体の反乱で九州倭國内の王家に参画出来るようになり、
「次欽明。欽明之十一年、直梁承聖元年」で、中国にコンタクトを求め、
「次用明、亦曰目多利思比孤、直隋開皇末、始與中國通」で、
小野妹子が文帝に「日本國」を称して認められず、
唐の武徳中になって認められたが、尚「九州倭國内の国」としか見られず、
九州倭国が白村江で大敗した後で、大和日本国が倭国を併合吸収継承して、
701年の大宝元年から、大和が列島盟主である、と認められたもの。 「鏡」や「お墓」や「土器」ごときに頼らざるを得ない、九州説や畿内説。
圧倒的な倭国(阿波)の遺跡や文献・古神社のまえに、ひれ伏すばかりなり。 @阿波 >>344
「南≠東」などの指摘に反論する代わりに悪口を言う大和説
もはや学説でないのだから仕方ないか >>347
日本の考古学者はほぼ全員が、「南→東」などの嘘付き騙しや、
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙しを使う・・・・詐欺師の似非学者。
文献考古の史料事実や史料実態を、拒絶し、否定曲解してる異人種がし大和説者。 >>353
>>弥生文化そのものが九州北部から伝播したことは確実で、誰かが畿内に入植したんだよ。<
>九州説は 「文化の伝播」という周知の概念を まるで理解できていないので
騎馬民族説と同じ末路を辿るのは 当然<
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説学者は、
人類の常識や「文化の伝播」という周知の概念をまるで理解できていないので
騎馬民族説と同じ末路を辿るのは 当然 >>833
>連句点がそんなに怖いのか?w
横レスだが、怖い訳ないだろ?
ただのバカだぞw
ただ、うっとうしいだけ >>826
中国の夏暦が入ってきたのは6世紀頃とされているな。
それまでは二十四節気が主だろう。これは弥生後期にはもたらされていたようにみえる。
ただ、中国に太陰太陽暦があることは、知っていたはずだけどね。 国立の難関の学部を卒業した者が、ノーベル賞という賞を獲得したのではないのかな。。。 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏は、国立の難関の学部の病院を、卒院したことを自慢していたのだったな。。。 <今日のまとめ>
キナイコシが伊勢の八咫鏡が「八咫ではない」との根拠として得意になっていた
「黄金函」が、実は宮中の形代の残骸を入れるための容器であったことが判明。
>>562 から >> 680 、>>713 のあたり
ヤブレカブレになったキナイコシが、厚顔無恥にも鏡作神社の社伝を根拠として持ち出す
>>755
wwww
次回からテンプレにたしとけよ、オクムラ 破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏の所属している民族が、ノーベル賞という賞を獲得したのは、平和に対しての賞だったな。。。 >>845
破綻した邪馬台国畿内説を宣伝している奥山氏の所属している民族が、ノーベル賞という賞を獲得したのは、平和に対しての賞だけだったのではないのかな。。。 >>838
>平原のは倭鏡だから漢尺と咫だろうね
漢尺なら尺=約23.1センチ
魏尺なら尺=約24.2センチ
平原1号墓出土鏡は面径46.5センチだから、漢尺の方が近いかな程度
そして、後漢代は既に秦の始皇帝による度量衡の統一、つまり身体尺の廃止から
何百年も経っている
咫は身体尺であり、度量衡の統一時に公定尺の体系に採られなかった
後漢朝、魏朝で使っていない単位・咫が倭国に伝えられたと考えるのは
ナンセンスだし、3世紀時点で八咫鏡という名称はあり得ない
そして、平原1号墓出土鏡は2世紀後半に破鏡されて墓坑にばら負かれたものであり
昭和になって原田大六氏が発掘するまで、その大きさ(面径・円周長)を知っている人は
一人もいない
平原1号墓出土の46センチ鏡を八咫鏡と言いたがるのは、
皇室の権威に対する背乗りに相当するから、嫌いなんだよ LiCoO2からCの間にはどのような物事が、出現するのだろうか。。。 >>378
>八咫鏡の鋳造を行った神、石凝姥命の後裔氏族が作鏡連で、唐子鍵の鏡作神社の奉祭氏族
また、八咫鏡の鋳造の先立って作った日像鏡・日矛鏡は、紀伊の日前神宮・國懸神宮の
ご神体で、また鏡作神社にも八咫鏡の前に作った失敗鏡が伝世されている
その失敗鏡が三角縁神獣鏡の内区のみのもの
こうした点を考えると、八咫鏡は弥生末期から古墳時代初期頃に畿内で作られたと
考えるのが妥当
北部九州には、八咫鏡に関する逸話がほぼ残っていない
一応、西海道風土記に宗像神社のご神鏡が八咫鏡という記述があるが、
これは雄略紀に見られる普通名詞としての八咫鏡(大きな鏡という形容)と同類<
「八咫」という寸法信仰は、縄文〜弥生の出雲時代からあったようで、
越にも九州にもあり、
九州倭國の「東征」に拠って、近畿などにも伝わった。
紀伊は、九州倭國の王家であった「姫氏=紀氏」と「アマの伊」氏との、
合同東征軍が建国した国であった、という事になる。 僕達は、箸墓古墳に埋まっている者の真実の正体が、最後の銅鐸王の妻である倭迹迹日百襲姫命であることを知ったので、最後の銅鐸王の妻への礼儀が悪い、邪馬台国畿内説が嫌いなのだったな。。。 邪馬台国畿内説を捏造した者達が出身した、難関でない学部の分野は、ノーベル文学賞を獲得できるだろうか。。。 >>851
箸墓が倭迹迹日百襲姫命だとすると4世紀後半から5世紀になるので、
同時代の崇神もそこになるけど >>825
外宮の祭神の両脇に中臣氏と忌部氏の祖神が祀られているらしいが、元々はこの外宮の地に祀られていたのは日神であったと思われる。
後に丹後から豊受比売神を遷座することになり、元々の日神は今の内宮の地に移り、外宮のその跡地に豊受比売神が祀られるようになったのだろう。
その際に、日神を祀る神である中臣氏と忌部氏の祖神はそのままに残ったということだろう。
このことには、豊受比売神を丹後から伊勢に移した勢力の思惑があったということになる。
そして、今の内宮の地に移った日神は後に天照大神とされるようになる。
こういうことが考えられるので、今の伊勢神宮の神々の配置はその日神と豊受比売神の遷座とともにガラリと変わったことが考えられる。 >>817
>その意見は実際に円周八咫の鏡が出土した時点で崩れている。
実際に円周八咫の鏡が出土した
という証拠がなにも無いんだよね >>853
ホケノが4世紀後半だから箸墓は5世紀だろう
倭迹迹日百襲姫命は3世紀の人で、箸墓は後世の子孫が建てたモニュメント >>854
>このことには、豊受比売神を丹後から伊勢に移した勢力の思惑があったということになる。
君の考えはどうでもいいから。 @阿波 >>389
>北部九州の文化的優位は2世紀後半から3世紀にはまったく存在しない<
北部九州に対する大和の文化的優位は、7世紀の白村江や筑紫の大地震の以後。 >>391
>>高天原から筑紫に移された八咫の鏡<
>高天原には青銅器の鋳造技術がないから、
実際には弥生後期〜晩期・古墳時代初期に畿内で作られたと考えるのが妥当<
大和の△は、4世紀以後。 >>393
>銅鐸の祖形は長江流域の銅鎛<
ふーん。 >>397
>それ、循海岸七千里に合わせて作った数字
そして、七千里は万里の修交という修辞から、渡海一声千里×3を引いた単純計算<
魏使らは、「合せて作った数字」をでっち上げた事がバレれば、首が危ないから、
そんなインチキをせず、きちんと計測し、近似値的に記録した。 八咫烏は、宗像三神という三神と関係性があるのだったね。 >>401
>糸島は吉野ヶ里のような空環壕はない
空環壕はツングース民族地域に分布する <
ふーん。 仲哀天皇の宮は、なぜ、畿内ではないのだろうか、、、 倭国王帥升(Shuai sheng )スサノオ(107年)━━アマテラス
┃
オシホミミ
┃
ニニギ
┃
ホオリ
┃
事代主 フキアエズ
┣━━━━━━━━━━━━┓ ┃
天日方奇日方(鴨王) ヒメ(踏鞴五十鈴)后 ━━神武
┣━━━━━━━━┓
建飯勝 渟名底仲媛━━ 安寧
┃ ┃
建甕尻 息石耳 ※ヒメ后(248年没)
┃ ┃
豊御気主 トヨ津媛━━ 懿徳
┃ ┃
大御気主 孝昭
┃ ┃
阿田賀田須 天足彦国押人命
┃
和邇日子押人命
高齢で亡くなった卑弥呼の後、いったん男王が立つも国が乱れ、13歳のトヨが即位、卑弥呼とトヨの世代差は母子(1世代)はもちろん、祖母と孫(2世代)あたりでも説明がつかない。
ヒメ后の姪っ子・ヌナソコナカツ媛の孫がトヨ、つまり曾祖母と曾孫世代(3世代)である。
そして鴨族の墓は聖地・高天原(奈良県御所市高天)にある。
女王の婿であった神武の墓は畝傍山、彼は高天原には埋葬されていない。
また神武は大王(おおきみ)ではなかった。
また上記系図、左側が大王(おおきみ)である。
彼らの役職名は今日では「大物主」と呼ばれている。 >>856
>ホケノが4世紀後半だから箸墓は5世紀だろう
「ホケノが4世紀後半だから」
こういうデタラメが平気で書けないと九州説はできないww >>403
>雄略紀では畿内豪族が、詫びの品として八咫鏡を持って登場するぞww
別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連(連、未詳何姓人)
奉八咫鏡於大伴大連而祈請曰「僕、不堪共紀卿奉事天朝。故、請留住角國。」
紀小弓という人物自体が「紀」氏(=姫氏)であるから、
東海姫氏國(九州倭国)の人物であり、そうすると、「倭子連」も九州倭國の人物であり、
この話自体が、九州倭国の話を書紀が盗用した、という可能性がある。 >>407
>延喜式伊勢大神宮式や皇大神宮儀式帳では八咫鏡を入れる桶代は径49cmである。
http://yamatai.cside.com/katudou/image/330-02_2.gif
平原遺跡から出土した史上最大の銅鏡である超大型内行花文鏡の直径は46.5cmであり、
これらに一致する。<
ふーん。 >>408
>異人コマビト地域にある吉野ヶ里の空環壕は
ツングース民族地域に分布すると言っている
長江流域に由来する環濠集落は近畿に多く分布する <
ふーん。 4世紀後半に出現したホケノ山古墳には、コウヤマキの年輪があったのだったな。 邪馬台国畿内説を捏造した者達が出身した、難関でない学部の分野は、ノーベル文学賞を獲得できるだろうか。。。 >>423
>弥生時代前期後半〜中期初頭(板付U〜城ノ越)いわゆる環濠集落は爆発的に増加するとされ、
その分布も九州から中国、四国、近畿、東海まで拡大するとされてきた。
しかし北部九州の福岡県葛川遺跡、大井三倉遺跡、光岡長尾遺跡、
横隈北田遺跡、横隈山遺跡、彼坪遺跡、神手遺跡、大碇遺跡、
佐賀県八ツ並金丸遺跡、山口県綾羅木郷遺跡、吉永遺跡、下東遺跡、
広島県大宮遺跡、愛媛県岩崎遺跡などの環濠内部での発掘成果からすれば、
環濠内に同時期の住居が見られる例、
すなわち溝が集落をめぐるという環濠集落の景観を復元できる事例はほとんどない。
環濠内には住居がみられず、貯蔵穴群のみが検出される事例が圧倒的に多いのである。
確実な環濠集落、集落域を溝が巡っていると考えられる遺跡を
まとまって認めることができるのは瀬戸内東部〜近畿地方にかけてである。(藤原哲)<
ふーん。 やはり、八咫烏は、九州北東部の投馬国のシンボルだったのだな。。 6世紀、蘇我が台頭し天皇陵を非前方後円墳に変える。
大和では前方後円墳が2世紀末から6世紀末まで、そのまま物部の興亡時期と符合する。
だからこそ蘇我は天皇陵を非前方後円墳にしたのだ。
ホケノ山は建造時期の地層は纏向石塚に次いで古い。
3世紀初頭あたりであろう。
埋葬部の布留式土器が議論を呼んだが、布留0式だとして3世紀第3四半期。
建造時期の3世紀初頭からかなりタイムラグがある。
また埋葬部の構造は出雲の西谷3号とも共通部分がある。
これらを考慮すれば、物部の3世紀初頭あたりの人物、
そして出雲で亡くなった人物が被葬者として浮かび上がる。
それは物部の祖・ウマシマジである。 >>234の図解(模式図)だyo!【魏志倭人伝の倭国観】
┏━━┓帯方郡 ┏┛〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
←┐┃黄海┗狗邪韓国┛(伽耶)〜〜〜日本海〜〜
洛陽┃〜〜〜↓↓〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜┏━━━━━━━━━━━━━━━━
【魏】┃〜対馬▲↓南「水行10日」〜〜〜〜┃「女王国東渡海1,000里 複有国 皆倭種」
↓ ┃「瀚海」↓↓玄界灘〜〜〜〜〜〜〜┗━━━━━━━━━━━┓
┃〜壱岐▲↓〜〜〜〜┌南「水行10日」┐関門海峡〜瀬戸内海▲┃
v✖s┃〜〜┏末盧━━━━↑━━━━━┓↓〜〜〜〜┏━━━┓〜┃
┃〜〜┃伊都国→不弥国▲▲▲▲▲┃↓〜〜〜〜┃侏儒国┃〜┗━━━┛
↑ ┃〜〜┃▲↘「陸行1日」(正)‗▲▲▲▲↓国東半島┗━━━┛「在其南 人長3〜4尺
【呉】┃〜〜┃♀奴国@【女王之所都】▲▲┃↓豊後水道〜〜〜〜〜去女王4,000里」
建業┃〜〜┃狗奴国▲▲▲▲▲▲投馬国←┘宮崎平野=南「水行20日」
┃〜〜┗━━女王国島━━┛↓〜〜〜〜〜〜〜〜
会稽┃〜東シナ海〜┌南「水行10日」〜〜〜〜〜〜〜〜
東治┃〜〜┌─┌←▲奄美大島┐↙陳寿の創作(女王国島のパラレルワールド)↓
↓ ┃〜〜│〜↓「陸行1月」‗〜│←「自女王國以北其戸数道里可得略載※」(北部九州30カ国)
┃〜〜│〜↓▲沖縄〜〜〜│〜〜↓「自郡至女王国 12,000里」
東冶┃〜〜│♀奴国A(幻)〜〜│←『【女王之所都】計其道里 當在会稽「東冶」之東』(魏<西晋のプロパガンダ)
┃〜〜│▲台湾〜〜〜〜〜│〜〜↑「此女王境界所尽 其南有狗奴國 不属女王」
香港┃〜〜└┐〜〜〜〜〜〜〜│←「※其余旁国遠絶(幻)不可得詳」
┏▲海南島〜└邪馬台国島(幻)┘〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
┃↖儋耳朱崖〜〜南シナ海〜〜「所有無與儋耳朱崖同(服装・産物・動物・武器)倭地温暖冬夏食生菜」
┛←南越(ベトナム)〜〜〜〜〜↘▲裸国フィリピン〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
〜〜〜〜〜〜〜↘▲黒歯国インドネシア▲パプアニューギニア「複在其(奴国A)東南 船行1年」 279番のコマと233番のコマは、どちらが良く回るのだろうか。。 >>441
「南→東」などの嘘つきだましのように
なにがあろうと絶対に絶対に
頑ななまでに
証拠を出さないのが
大和説のスタイル
つまり詐欺師なのだよ >>459
大和説=理由を言われてあっても知らん振りして「理由なき」と断定=脳停止 巴紋を掲げて、東征した者達は、何者達だったのだろうか。 >>478
「南→東」などの嘘吐き騙しのような、
こういう露骨な嘘を付く大和説者の神経がわからない 三つの翡翠の巴紋を掲げて東征した者達は、ヤハタの烏に導かれ、ヤハタの鏡を奉じて闘うのだったな。 >>882
>だからこそ蘇我は天皇陵を非前方後円墳にしたのだ。
前方後円墳を天皇陵に比定するのは誤りということか。 >>892
つまり、神器の二つは、宇佐の印だったのだな。 >>479
>その銅鐸が作られなくなった後も、鏡作神社のある銅鏡生産の中心地であることを
あえて隠しているのかな?ww <
鏡作神社の△は4世紀以後なの。
>平原1号墓の手抜き46センチ鏡よりも、高度な青銅器鋳造技術があったのが畿内であり
その中心に唐子鍵がある<
唐古鍵では、△は造っていなかったの。
>三角縁神獣鏡のような半肉彫りの大型鏡を大量生産する工房を主宰した一族が
作鏡連となっていき、石凝姥命の八咫鏡作鏡説話を伝えることになる<
筑紫の△の最初は、3世紀前半の志登や祇園山などになり、
大和の鏡作神社の△よりもずっと早いの。 ヤタガラスの正体は、畿内開拓の祖であり、博多湾の倭王大ヤマツミの子である三島溝杭耳とされる。
三島溝杭耳を祭る神社は瀬戸内ルートの大山神社、摂津三島神社、京都の上賀茂下鴨神社などである
つまりは九州北部勢力がよってたかって畿内を開拓した。
そのような日本史の枠組みを無視した畿内説なる妄言に価値はない。 >>895
ヤマタノオロチから出現した剣も、神器だったな。 >>481
「南→東」などの嘘吐き騙しの大和説者の脳が、やばい >>872
>>雄略紀では畿内豪族が、詫びの品として八咫鏡を持って登場するぞww
>別小鹿火宿禰、從紀小弓宿禰喪來、時獨留角國、使倭子連(連、未詳何姓人)
>
>紀小弓という人物自体が「紀」氏(=姫氏)であるから、
>東海姫氏國(九州倭国)の人物であり、そうすると、「倭子連」も九州倭國の人物であり、
なんだ。
その人物は卑弥呼に連なる倭王の家系ではないか。
それなら八咫の鏡を所有していて当然だな。
またキナイコシの主張がかえって九州説を補強してしまったようだ。 279番のコマと233番のコマは、どちらが良く回るかは、ベクトル同士の外積という物事と関係性が深いのだったな。 >>855
>>>817
>>その意見は実際に円周八咫の鏡が出土した時点で崩れている。
>
>実際に円周八咫の鏡が出土した
>という証拠がなにも無いんだよね
平原遺跡という考古学的証拠と真摯に向き合わないなら、キナイコシは非学問的という烙印を押されても仕方がないぞ。 なんで韓人が倭人の八咫鏡にモノ申してんの?
金印にもフェイクニュース流しまくってるし ヤハタの鏡とは、曹操という者と関係性がある金銀錯嵌珠龍文鉄鏡と関係性がある可能性が、高いな。。 >>847
>後漢朝、魏朝で使っていない単位・咫が倭国に伝えられたと考えるのは
>ナンセンスだし、3世紀時点で八咫鏡という名称はあり得ない
倭は呉の太白の末裔なので、後漢の制度に縛られず、周時代の尺度を用いていたのだね。
古典の史書を無視した議論は不毛だよ。
畿内説の負けが確定する。 >>828
咫は円周率を用いることなく、端数を出さないように計算するための工夫なんだよ。
鯨尺と同じようなもの。
径一尺の円の円周を四咫とするのが原義なんだよ。
そうでないなら改めて咫という尺度を作る意味がない。 >>821
>>>818
>土器や鏡も結構だけど、やっぱその時代の社会を知るには典籍にまさるものなしね。^^
土器や鏡を無視するために方便ならよろしくないが、典籍そのものは重要だ。
姫氏の家系が倭王統だとすれば、八咫の鏡の話はなんの矛盾もなくなるではないか。 日本書記では、神武天皇は、投馬国の九州北東部で歓迎されたのだったな。 >>812
>>東征の神武の後裔の欠史八代は「市を監督する大倭職」程度の小部族的な存在。
欠史八代は実権がない地方勢力だったのだろう。
実権があったのはもう一つの天孫族の王統である饒速日を祖とする物部氏や尾張氏だろう。
纒向宮はその分家の崇神や景行の纒向宮そのものではないか。
土器の流通が、纒向宮が尾張氏の勢力下つまりは饒速日の配下であることを明らかにしている。 >>807
>平原1号墓の軸線が日向峠を向いているのは偶然
実際には軸線上に日向峠はない。
その北側の高祖山の一部である日向山、おそらくは高千穂宮の方角を向いている。
記紀にある筑紫の日向の高千穂宮である。 >>901
ベクトルの外積なら任せとけ。
論文を持っている。 >>898
その神剣がどこにあるか知っているか?
尾張の熱田神宮だぞ。
西日本の中心がどこにあったかもうわかるよね。
土器の流通の中心が尾張であり、尾張氏の祖が天照の孫である饒速日。
その称号は、先代旧事本紀によると天照国照だ。
出雲の国譲りにより天津神(海の王)と国津神(オオクニヌシ、陸の王)の権威を統合した王が饒速日。 >>857
まあ、なんで豊受比売神が天照大神よりも神格の高い神様になっていくのか。
暗躍する勢力があったから、と考えるのが自然。
ただ、ちょっと、このあたりに関心があるもんでね。 >>906
>そうでないなら改めて咫という尺度を作る意味がない。
咫という尺度がない 八幡といえば豊前一宮宇佐神宮。
八幡神社は末社の数が全国最大であり、それこそ九州北部勢力が全国支配を行なった証拠のようなもの。
そして現在の皇室の直接の祖は応神天皇だが、神功皇后の三韓征伐の帰途に筑紫の宇瀰(神功皇后紀。うみ:福岡県糟屋郡宇美町)、または蚊田(応神天皇紀。かだ:筑後国御井郡賀駄郷あるいは筑前国怡土郡長野村蚊田)で生まれたとされる。
つまりは伊都国生まれの倭王が現在の天皇家そのもの(当時はまだ天皇制がないので国際的な称号は倭王)。 >>913
つまりは平原遺跡は卑弥呼の治世の築造。
そして平原女王は倭国大乱後の最初の倭国女王であったことになる。
その名は卑弥呼。 平原遺跡の鏡は日本にも中国にもない製作工程途中で錆色に塗装している
本州で多く出土する倭人特有の卜骨が糸島からはまったく出ていない
TA期をピークとする楽浪土器は糸島の限られた地点に非常に多い
1号墓は200年頃の築造で王墓域や楽浪土器が出る三雲からは見えない
曽根丘陵西側斜面であるので渡来系商人の墓であろうが
糸島地域は倭の女王とは別の王がおり女王國に
従属している僅か千餘戸の伊都國の記述とよく合っている >>920
>平原遺跡の鏡は日本にも中国にもない製作工程途中で錆色に塗装している
平原遺跡の鏡が技術的に劣るという話はこれで否定されるねw
>1号墓は200年頃の築造で王墓域や楽浪土器が出る三雲からは見えない
三雲の王墓群と、卑弥呼の王統が異なっているなら、むしろその事情をうまく説明できるんだよ。
卑弥呼は肥国から共立された姫氏の女王だったんだよ。
もとの天孫族の支配地域を監督するために伊都に置かれたのが大率であり、その役目は女王国から北の玄界灘(沖ノ島を含む)すなわち天津神の領域を支配することだった。 平原の鏡は、
鋳造技術が未熟なために鋳びけが発生して
文様が不鮮明なものがあり、
これに伴なって全部の鏡面や縁側面に無数の気泡である
巣が生じているものなど鏡鋳造技術の稚拙さが目立つ(柳田) そんな事よりもポケモソ・・・、
あの人物(キャラ?)の画像が出てくるんだろう
アテナ? やはり原作者、原案者の話ではないだろ?
キュウリのような葉、ペンギン?
なぜか家の写真・・・・、電気、発電(雷?)〜という話も同じだし。 ポケモソ・・・w『ガンダム エルメス』
アプサラス、インドラ〜、同じコンセプトでしょ
仏教、寺院とか、ほとんど同じ話、
なぜか兄と妹、あの写真の当時の某(不明?)の子供? 親がいて子供(男の子と女の子)
本家とか、そう話なのかな?
同じ名前の家なども(あの写真)その家から分かれたとか なぜか伊達郡というところの、
山のほうの話をしていたり 八幡神は、聖武天皇発願の東大寺の大仏の建造に宇佐の銅を献上したので
八幡大菩薩の神号が贈られ、全国の寺の鎮守神として八幡神が勧請されるようになった
清和源氏の源義家が元服した石清水八幡宮は、大安寺の僧で紀氏の行教が
藤原良房の命で宇佐八幡宮に参籠し平安京近くに八幡神を勧請した
八幡神を応神天皇とした記述は古事記、日本書紀、続日本紀には見られない 新スレ立てました。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1570646047/
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
注意*本スレが終了してから書き込んでください。
なお、書き込みは
邪馬台国畿内説に関係が有って
根拠のある内容をお願いします。
畿内説以外の独自説を単独で開陳することはご遠慮ください。
本スレ終了以前の書き込みは荒らし行為と看做させて頂きます。
★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★ 八咫は円周
八咫烏のどこが円周か、目玉か・・・。 世間をバカにするな。 >>920
>曽根丘陵西側斜面であるので渡来系商人の墓であろう・・
出土したのは、紛い物商品やその割れ物・売れ残り >>489
>>韓伝と倭人伝で共通の尺度が使われているわけだ。<
>共通の「尺度」なんて存在しないって何度言えば分かるんだろうね? おバカさんw
倭人伝の倭国上陸まで万里に、韓伝も整合性があるように数字が作ってあるだけだよ
方「可」四千里ってのは確認してみたかい? これも測ってないんだよww
測ってもいないものの「尺度」とか言い出すのが、大笑いw<
まあ、類スレ主は、皇国史観大和説宗教に狂った・・・・詐欺師だなあ。
郡や魏の役人たちは、
ズボラして淮南子の短里記載を借用する筈も出来る筈もないし、
自分で計測もせずに部分里数を割り振りでっち上げる筈もないし、
(関電社長らのように)バレたら首が危ない事も知っているもの。
それが判らないらしい類スレ主や、スレ主や、大和説学者らは、
やはり、・・・・アホ。 >高天原にいるアマテラスとスサノオは海ではなく天之安河を隔てて対峙している
その「天之安河」がまさに「鮎喰川」なんだよ。
邪馬台国と狗奴国は激しい戦闘を繰り広げている。
狗奴国の軍勢は、鮎喰川下流の邪馬台国王都に攻め込み、鮎喰川上流の神山まで押し寄せている。
そこで、邪馬台国側は吉野川流域の勢力を味方につけ、狗奴国軍を押し戻し、打ち破った大戦争。 @阿波 むしろ、八咫烏になぜ八咫という円周の長さが名付けられているのかを考えるべき。
まあ、太陽信仰つながりなのだろうけど。 >>491
>本物の伊勢の八咫鏡と、平原1号墓出土鏡は大きさが異なることが明らかであり、
その意味で平原遺跡出土の大型内行花文鏡は記紀において八咫鏡と呼ばれる鏡ではない <
「八咫」というのは、当初は実寸法を示したのかも知れないが、
後代になれば、あくまで、
「八尺近くになる巨大な大きさ」という形容詞的文言であり、
絶対的な実寸法を示すものではなく、
また平原の内行花文鏡は九州倭国の副葬用の鏡片使用済みの鏡であり、
伊勢神宮の内行花文鏡は、九州倭国の別種分家の旧小国の大和政権の使用中の鏡であり、
当然同じ寸法である筈もなく、
また、「八咫」の寸法をどの部分の寸法を測ったものなのか?も不明であり、
鏡全体の直径なのか?、外縁の円周なのか?、
「花文」が8つあるから、その「花文」部分の直径なのか?、中心部円周なのか?、
各「花文」部分の半周の8つ分の合計なのか?、なども全く不明であり、
発注者や製作者の考えに拠って、沢山のケースが起こり得るもの。 >高天原にいるアマテラスとスサノオは海ではなく天之安河を隔てて対峙している
その「天之安河」がまさに「鮎喰川」なんだよ。 そして、「高天原」が神山一帯の四国山地。
邪馬台国と狗奴国は激しい戦闘を繰り広げている。
狗奴国の軍勢は、鮎喰川下流の邪馬台国王都に攻め込み、鮎喰川上流の神山まで押し寄せている。
そこで、邪馬台国側は吉野川流域の勢力を味方につけ、狗奴国軍を押し戻し、打ち破った大戦争。 @阿波 >>493
>・・・しかしながら、上の計算のように場所により1里の長さが異なっている。
物差しの単位は一つであって、二つあっては困る。
いずれかに決めてから、短里の話をすべきである。<
倭人伝での里の計測記録は、始めから有効数字1桁程度の近似値的概数であり、
だから、各記載里数は10〜50%位の範囲内の誤差がある可能性がある、として、
更に、その里記載例数が例えば5例あれば、誤差範囲が5分の1位ずつ減っていく、
として置く必要があり、
問題の長里か?短里か?の場合では、長里の1里≒434mの誤差範囲との比較をする必要がある。
ちなみに、古田さんは、倭人伝の里記載からは、当初は、
「1里は90〜75m位で、75mに限りなく近い距離だろう」とされ、
それで長里を否定された。 >>500
大和説者は意地でも、「南→東」の根拠を言わないようだな >>503
罵声を返すのが精一杯なのは、
「南→東」などの史料事実や史料実態の否定曲解の、
嘘付き騙しの大和説者の方、
というようにも見えるけど >>510
>そもそも魏志倭人伝の南に水行20日を東に変えれば畿内にはなるんだけれども<
そもそも「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙しの文言を使う事が、
嘘つき騙しをしている事になるし、
>それを嘘つき騙しと言う九州説が嘘つき騙しをしているじゃあないか<
「南を東だ」という史料事実の否定曲解をしている大和説者が、
嘘つき騙しである事になるんじゃないか。 >>519
おい、大和説。
いつまで「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しで、
発狂してんだ?。 >>522
大和説者が、
すでに国民や中国学者らや世界での定説になってる九州説にとっくに負けて
書き込んでる本人もいいかげん飽きてるのに
毛すじほどでもアヤつかないかなでの?と?、
毎日朝から晩まで書き込みするのは
真実真理がが大和説者にとって敵だから、
に他ならない >>900
さらにその卑弥呼自身も、漢委奴国王(後漢光武帝)の孫・帥升(後漢安帝)の孫娘(魏明帝)>>234 八咫は円周 ・・
八咫烏のどこが円周か、目玉か、、、。 世間をバカにするな。 >高天原にいるアマテラスとスサノオは海ではなく天之安河を隔てて対峙している
その「天之安河」がまさに「鮎喰川」なんだよ。 そして、「高天原」が神山一帯の四国山地。
邪馬台国と狗奴国は激しい戦闘を繰り広げている。
狗奴国の軍勢は、鮎喰川下流の邪馬台国王都に攻め込み、鮎喰川上流の神山まで押し寄せている。
そこで、邪馬台国側は吉野川流域の勢力を味方につけ、狗奴国軍を押し戻し、打ち破った大戦争。 @阿波 >>936
>むしろ、八咫烏になぜ八咫という円周の長さが名付けられているのかを考えるべき。
八咫が円周の長さだって決めつけるなら
理由を言えよ
理由がない考えを妄想というんだ 1尺(24cm)=4×咫(6cm) だから、 8咫=8×6cm=48cm
平原女王墓から出た国内最大(つまり倭王)の内向花紋鏡が46cmだから、直径の誤差の範囲内だね。 >>949
なお
咫(6cm)は絶賛にせ情報である
九州説万歳 1咫は6p ・・
八咫烏のどこが48pか、目玉か、翼か、足か、。 世間を小バカにするな。 >>527
>恵比寿というのは磯良恵比寿といい、志賀島の海神である安曇磯良が神仏習合されたもの。
蛭子というのは、能古島で国産みしたイザナギイザナミの最初の子で、障害児のこと。
みんな九州北部、博多湾沿岸の伝承だね。 日本神話の舞台は筑紫。 例外的に出雲がある。<
ふーん、成程。 >>537
未だに「南→東」などの史料事実の否定曲解の嘘つき騙しをしている、
脳のグラム数たりない大和説後期高齢者 >>542
「南→東」などの嘘付き騙しのように、大和説が、
少しでも誰かが騙されるように、念仏祈祷のたぐいのごとく嘘つきまくるのは
自分の嘘で騙されてる相手は、自分のコントロール下という
一種の歪んだ信仰のようなものが根底にあるからだろう
大和説のこの認識の歪みは、国粋皇国史観宗教のいびつな戦後社会で形成されたもの
戦後日本の自民やキョクウマスコミや学会教育界の支配層は、
民を強権統治するだけではなく、
なるべく唯我独尊のタカ派の自己愛に満ちた社会を築き
意味なく国民をイビって遊んでいたい、狂った頭の持ち主だったらしい >>543
見たまえ
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者は、文献をまともに読まないだろう
他人の投稿もちゃんと読まないだろう
昔から頭の中にこびり付いた結論を連呼する
鍋底オコゲ
それがまともに大和説だ >>547
いるんだよ「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者には。
常識超えておばかさんでしょ? >>549
>天皇家の場合は、九州の文化が伝播しました、ではなくて、
初代は九州から来ましたと明言しているんだぞ。<
九州倭国の場合は、大和の文化が伝播しました、ではなくて、
「東征毛人五十五國」をした、と明言しているんだぞ。 >>957
おばかさんが明言すると信頼性が激おちします >>551
大和説者の、淮南子から逆算して出す「里」とか
そんなもの、話にならないな
歴史学で見向きもされないのは当然だ
「長里」説とか呼ぶのはやめて
「嘘つき騙しの詐欺」説とか呼べばいいんではないのか? >>553
いつ、どこで誰に?
「南→東」などの嘘付き騙しの大和説者の、
証拠ださないで言うことは大体ウソ、
ってことで、いいね? >>951
咫という字をよく見ろよ。
もともと尺から派生した長さの単位なんだよ。 >>900
>その人物は卑弥呼に連なる倭王の家系ではないか。
>それなら八咫の鏡を所有していて当然だな。
分家の分家の小物が、八咫鏡を持っているなら八咫鏡が何枚要るんだ?って話
九州説はこうやって、皇室のレガリア、神器を矮小化しようとする
最初から九州倭国なんてのは破綻した話だし、八咫鏡を「八咫の鏡」と書くのも
基本的な崇敬の念が足りないことの現われだ
お里が知れるぞww
九州説は、政治的なイデオロギーを背景に工作として指示しているふりの奴が
多すぎる
まあ、それ以外のやつでも科学的な議論のできるやつは一人も残っていないんだがな 八咫烏は太陽に住むと言われる鳥。
そして八咫の鏡は太陽神アマテラスの依代。
アマテラスのモデルは卑弥呼。
卑弥呼の墓と言われる平原遺跡に八咫の鏡と同じ大型鏡。 >>902
>平原遺跡という考古学的証拠と真摯に向き合わないなら
平原遺跡が「何に対する」考古学証拠なんだ?
日本の古代史を考える上では、大量の青銅器(彷製鏡)を一括製作していることから
出雲の荒神谷遺跡の銅剣大量埋納と比較して考察するのに重要な遺跡だけれど、
邪馬台国を考えるには時代がずれてるし、伊都国の有力家計の家族墓地以上のものでは
ないから、そこまで重要でもないぞ 八咫鏡の総数は、伊都に5枚、伊勢内宮、宮中賢所、日前宮、國懸宮、宗像邊津宮と、最低でも10枚は存在していたことになる。
この他に日本書紀では筑紫の帥である神夏磯姫が所有していたことが記録されているが、消息は記録されていない(上記のいずれかと重複しているか?)。
そもそも天孫が筑紫に降臨した時に持っていったはずの八咫の鏡がどのようにして畿内にもたらされたのかは不明。
神武は身の証に天羽羽矢を用いていたので、おそらく八咫の鏡は所持していなかったと考えられる。
崇神の時にはすでに畿内に八咫の鏡はあった。 >>905
>倭は呉の太白の末裔なので、後漢の制度に縛られず、周時代の尺度を用いていたのだね。
>古典の史書を無視した議論は不毛だよ。
>畿内説の負けが確定する。
では、古典の史書における咫の用例を確認しよう
史記での「咫」の字の使用全例
矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫は、尺(10寸)+咫(8寸)で、18寸の長さ
八寸曰咫
咫尺,八寸
咫は8寸である
徒欲日夜望咫尺之地
舜無咫尺之地
奉咫尺之書
今拘學或抱咫尺之義
言拘學守義之士或抱咫尺纖微之事
咫尺で、「少しの(ながさ)」程度の意味
日本語で「ちょっと」を「一寸」と書くのと同じ発想
咫を円周を測るのに使っている例はない 三国志での「咫」の字の使用全例
未能進咫尺之地
終日行不離咫尺
加咫尺之書
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない 後漢書での「咫」の字の使用全例
其長尺有咫
石砮矢長尺有咫
長尺有咫
尺有咫で18寸
八寸曰咫
八寸為咫
咫は8寸
舜無咫尺之地
今拘學或抱咫尺之義
咫尺天儀
咫尺龍沙
咫尺言不以為遠也
夫欲千里而咫尺未發
去營咫尺
今以曲俗咫尺之羞
咫尺は、一咫か一尺程度の少しの長さの意味
咫を円周を測るのに使っている例はない 史記、漢書、三国志、後漢書での「咫」の字の使用例を全例検索
史記9件、漢書12件、三国志3件、後漢書13件 の、全37件
うち、咫尺 で使われているのが23件
尺有咫 で使われているのが 7件
八寸曰咫 で使われているのが 6件
「咫尺」は三国志の「未能進咫尺之地」(未だ咫尺の地を進むに能わず)のように、「一咫あるいは一尺程度のわずかな(距離)」程度の意味で、慣用句的に使われている
「尺有咫」は、矢の長さなどを表すのに用いられ、史記では「矢長尺有咫」(矢の長さ、尺あまり咫(=18寸))のような使われ方になる
「八寸曰咫」は、「咫」の長さの説明、つまり 咫=八寸
ここまでで、全37件中36件
残りの1件は「咫尺」の説明中に使われているもので、漢書の「咫尺者,言其簡牘或長咫,或長尺、喩輕率也。」
咫尺は「あるいは長さが咫あるいは長さが尺」を簡単に言うもので、軽率の喩えなり
というものだ
要するに「咫」は、
「尺とあまり変わらないわずかな長さ」 咫尺という熟語として使う
「具体的な八寸という長さ」 長さの単位として使う
という二つの意味での使い方しかない
そして、円形のものの周囲を測るために使われている用例は「一つもない」
咫を丸いものを計る単位に使った例は、邪馬台国前後にはない
咫を使っていたとされる周代を記録した大陸史書は史記しかないが、もちろん、史記にも咫を丸いものを計る単位に使った例はない
これによって、「咫は、円周率を3.2で近似するための便利な単位」という平原出土鏡を「八咫鏡」に『する』ための戯れ言は、完全に否定されたね
つまり、平原出土鏡は「八咫鏡」ではない >>964
>邪馬台国を考えるには時代がずれてるし、伊都国の有力家計の家族墓地以上のものでは
>ないから、そこまで重要でもないぞ
勝手に矮小化するなよ。
その家族のことはどの文献に出ているんだ?
何という氏族だ?
全部妄想だろ? >>905
>>古典の史書を無視した議論は不毛だよ。
古典の史書からは、「咫」を長さの実用単位として使う用例が皆無だと分かるし
円周長を測るのに使った例も絶無だ
>畿内説の負けが確定する。
古典の史書から分かることは、平原1号墓出土の46センチ鏡が3世紀に
八咫鏡と呼ばれる可能性がないことと、その大きさが八咫であると伝えられる可能性が
絶無であることだww
九州説のでたらめが、ここでも明確になる訳だww ではなぜ八寸を咫と呼んだのか?
円周率に近似するためというのが合理的解釈なんだが? >>906
>径一尺の円の円周を四咫とするのが原義なんだよ。
>そうでないなら改めて咫という尺度を作る意味がない。
どこまでもでたらめだなww
周代の、身体尺を使っていた時代に、
男の手の大きさが「尺」で
女の手の大きさが「咫」だったんだよ
ここで言う「手の大きさ」は、「手を開いたときの親指から人差し指までの長さ」だ
円周と「咫」を結びつけるのは、昭和時代の日本人の思い付きであり
「まったく根拠のないもの」だ
その意味で、悪しき妄想だなww >>554
>瀬戸内東部〜近畿で環濠集落が造営される前中期に
九州は甕棺墓以外はたいしたもの持ってない<
瀬戸内東部〜近畿は、甕棺すらないし、
九州は環濠が必要ではなかったが、
東征毛人五十五國で攻撃された瀬戸内東部〜近畿は、
環濠や高地性集落で守らなければならなかった。 『説文解字』九、尺部「咫」に、「中婦人手長八寸、謂之咫。周尺也。」とある。
上記『説文解字』にいう「周」を円周と解釈して、咫とは円周の単位であり、円周率は約 3.14 であるが、これを 3.2 で近似すると、径 1 尺の円の円周は 3.2 尺となり、これを 4 咫としたという説がある。
この説によれば、日本の八咫鏡は円周 8 咫、すなわち径 2 尺という意味である。
後漢の尺は 23.04cm であるから、直径 46cm 前後の円鏡を指し、福岡県糸島市の平原遺跡から現在5面の大型内行花文鏡が出土している。 >>912
>その北側の高祖山の一部である日向山、おそらくは高千穂宮の方角を向いている。
>記紀にある筑紫の日向の高千穂宮である。
また嘘ついてやがるww
平原1号墓の軸線が日向峠からずれているのは正しいが、
九州説の主張する日向山はもっと北だし、軸線からさらに大きくずれるww
弥生時代に、山中に宮を設けた事例はない
どこまでも妄想デタラメ >>974
>男の手の大きさが「尺」で
>女の手の大きさが「咫」だったんだよ
なぜ男女別の単位を用意しなければいけなかったのか?
答えてみろよ。
咫が周尺から定義され、それが八寸であったため婦人の手の大きさに一致するとあとから紐づけられたと考えるのが「妥当」。 >>555
>九州説の致命的な欠陥はいろいろあるが、
わかりやすいのは、其の山から丹が採れてなかったことだ<
「丹」は「顔料」であり、
九州にはベンガラがあり、丹木があったようで、
水銀朱は松浦川上流にあったようだし、地方の市から搬入されたし、
明帝の「鉛丹」のように、大陸からの搬入もあった可能性がある。 >>919
>そして平原女王は倭国大乱後の最初の倭国女王であったことになる。
>その名は卑弥呼。
だから、平原1号墓は卑弥呼が生きているうちに完成、埋葬されてるんだってば!
九州説の時系列無視はすごいなww
この、平原は卑弥呼の墓って嘘を繰り返し書く人を、亜原田さんと呼ぶことにするよ
原田大六氏の、亜流の劣化版だ >>977
>弥生時代に、山中に宮を設けた事例はない
後世に宮と呼んだだけで、実態は山城もしくは高地性集落であっただろう。 >>921
>卑弥呼は肥国から共立された姫氏の女王だったんだよ。
3世紀に姫氏なんていない
ここから既にトンデモ >>980
>だから、平原1号墓は卑弥呼が生きているうちに完成、埋葬されてるんだってば!
根拠のない年代を振り回すな。
50年以内の誤差をもって年代を確定できる技術はない。
この大嘘つきめ。 >>922
横からだけれど、一部修正
× 巣が生じているものなど鏡鋳造技術の稚拙さが目立つ(柳田)
○ 鬆が生じているものなど鏡鋳造技術の稚拙さが目立つ(柳田) >>938
>その「天之安河」がまさに「鮎喰川」なんだよ。
ヤスカワは、伊勢遺跡のある野洲川だろう >>557
>つまり、七万戸の大きな国などなかった、と言いたいのですね?<
不彌國付近で萬二千余里がほぼ終わっているから、邪馬壹國は九州島にあった。
>そのいろいろな部族のことをつまみ食いして、畿内説に言いがかりをつけるのが
九州説のやり方なので、チェリーピッキングは九州説の方なのでは?<
「畿内」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
大和以外の近畿付近の「九州倭国の東征毛人五十五國」の小国をいろいろつまみ食いして、
九州説に言いがかりを付けるのが大和説のやり方なので、
チェリーピッキングは大和説の方なのでは? >>983
そんな断定をする根拠は?
九州説さん、毎度いいかげんなこと言ってますね 妄想だと言っているんだよwほとんど家の話でしょ?
神話でも何でも良い、そういう話などを知った後に、真似をしている人間がいるだけ。
ムーなども、どう考えても家の話だしな >>965
>神武は身の証に天羽羽矢を用いていたので、おそらく八咫の鏡は所持していなかったと考えられる。
>崇神の時にはすでに畿内に八咫の鏡はあった。
つまり、神武から崇神までの間に、畿内で作ったんだよ >>978
>咫が周尺から定義され、それが八寸であったため婦人の手の大きさに一致すると
平均的な女の手はそんなに大きくないので
九州説がまたインチキであることを自ら暴露した >>986
>
咫が周尺から定義され、それが八寸であったため婦人の手の大きさに一致すると
理由なき断定
それが九州説 旅?などをしたりして、教えてあげたりした家なのかな?
沢山あったという本や書などの話しとか >>559
>バカだなぁ
北部九州には、平原1号墓出土の46センチ鏡のような手抜きの内行花文鏡を
作るのがやっとというような低いレベルの鋳造技術しかないのに何を言ってるんだww
北部九州で作った半肉彫りの銅鏡なんて一枚もないじゃないかw <
バカだなあ。
大和は、4世紀になって、
九州倭国に来ていた渡来の呉系楽浪鏡師の一部がやって来て、
その鏡師が良き鏡を造り、
鏡作り神社で大和の子弟が教わって、
大量の粗悪な副葬用の△を造ったにきまっているではないか。 >>970
>その家族のことはどの文献に出ているんだ?
伊都県主の奥さんの家系だな
伊都県主は日本書紀に伊覩縣主祖五十迹手として出てくる
ローカル家系がそんなに中央の文献に出てくるはずがないだろ?ww
考古学的には、三雲遺跡群に墓を作るのが伊都国首長の第一家系
古墳時代に入っても、端山古墳、築山古墳を作っている
そして、平原遺跡を含む曽根遺跡群が、伊都国の第二家系とみなせる
古墳時代に入っても、ワレ塚古墳、銭瓶塚古墳、狐塚古墳を作っている ガンダムではないんだけどw白い服の写真もあったり、
・・・・あと謎のキュウリの葉、葱の華、親?と子供がいてw >>560
>そもそも九州に博多と糸島を両方押さえられる国などない
つまり邪馬台国は九州には無い <
「邪馬台国」なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるし、
不彌國付近で萬二千余里がほぼ終わってしまっているから、
邪馬壹國女王之所都は、九州にあった。 >>973
>ではなぜ八寸を咫と呼んだのか?
>円周率に近似するためというのが合理的解釈なんだが?
どこまでもバカだな
尺も咫も本来は身体尺
男の手で測ると尺で、女の手で測ると咫だ
男女の体格差を示しているだけ
それが、個人ごとに長さの異なる身体尺を離れて、公定尺の体系となるときに
尺に決まった値が付与されて基準となり咫は使われなくなった
ただ、咫の長さの換算の目安として、咫=八寸が「与えられた」だけ
円周を測るためなんていう使い道の少ない用途のために、
「わざわざ」単位を作るなどというのは妄想にしか過ぎない
>円周率に近似するため
円周率は、かなり後代まで3で通用していた
3.14を知らない人が円周率に便利だからなどと考える余地はない 今回のスレッドでも、朝鮮人達が宣伝している邪馬台国畿内説が、完全に論破され、叩き潰されてしまったな。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
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