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戦国時代の始まり?享徳の乱について

0001日本@名無史さん
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2024/02/17(土) 20:10:52.65
かたれる奴はいるか
0324日本@名無史さん
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2024/05/26(日) 20:57:17.70
成氏は応仁の乱の西幕府と組むことで反乱の正当性を主張できたし全くの無関係ではあるまい
0325日本@名無史さん
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2024/05/28(火) 12:09:08.82
足利成氏、鎌倉府から古河へ

両上杉氏の仲介で、ようやく朝倉氏と和睦が成立したものの、幕府との交渉は遅延をきたし、太田道灌率いる軍勢は、成氏方の長尾景春や千葉考胤への攻撃を継続していました。成氏は景春への攻撃は内部問題として黙認できたものの、千葉自胤の復権と考胤打倒を名目とした下総侵攻については、明確な史料に基づく許可を与えたという確証はなく、道灌らの攻撃に抵抗し続けていました。
0326日本@名無史さん
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2024/05/28(火) 12:15:07.05
戦国時代:社会構造変革の激動

はじめに

戦国時代とは、15世紀後半から16世紀末にかけての約100年間、日本列島がまさに激動の時代を迎えた時期を指します。この時代は、単なる政治権力闘争の物語ではなく、社会構造そのものが大きく変革していく、まさに歴史の転換点と言えるでしょう。

気候変動と政治権力の無力化

戦国時代の到来には、深刻な自然環境の変化が大きく関わっていました。地球規模で寒冷化が進む「小氷期」の影響を受け、日本列島周辺ではM7以上の巨大地震が頻発します。こうした異常気象は、従来の農業生産システムを崩壊させ、壊滅的な飢饉を招きました。

一方、室町幕府は、こうした危機的状況に対処する力を持っていませんでした。非効率的で脆弱な統治システムは、民衆の苦難を救うことができず、その権威は急速に失墜していきます。

新たな統治システムの台頭

社会の混乱を収拾するため、新しいタイプの統治システムが各地で生まれ始めます。従来の「非実体権威依存型」から、「暴力担保型」へと移行し、在地領主たちが強大な軍事力と直接支配によって領土を掌握していくのです。

この変革を象徴するのが、「享徳の乱」です。この戦乱を通じて、古河、山内、扇谷といった有力守護大名が、戦国大名へと変貌を遂げていきます。そして、彼らの支配下に置かれた国衆たちも、新たな統治システムに組み込まれていくのです。

応仁の乱と明応の政変を超える変革

戦国時代の到来は、単なる政治権力の交代にとどまらず、社会構造全体にわたる変革をもたらしました。応仁の乱や明応の政変といった出来事も、戦国時代の重要な節目として知られていますが、社会構造変革という視点から見れば、享徳の乱の方がより大きな意味を持つと言えるでしょう。
0327日本@名無史さん
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2024/05/28(火) 12:21:53.62
関東地方を東西に分断した享徳の乱は、単なる戦乱ではなく、利根川という自然環境を巡る攻防でもありました。当時、利根川は「越河」と呼ばれ、その水位や流れが戦況を左右する重要な役割を果たしました。

歴史学者・簗瀬大輔氏は著書『対決の東国史 小田原北条氏と越後上杉氏』の中で、利根川の「越河」を北条氏と上杉氏による戦いの舞台としてだけでなく、関東における戦争の普遍的な要素として位置付けています。

平将門の乱、源頼信の乱、源頼朝の鎌倉攻防など、過去の歴史を振り返っても、利根川は常に戦いの舞台として登場してきました。享徳の乱もまた、この流れに連なる関東の歴史の一コマと言えるでしょう。

単なる戦乱史を超え、関東人の行動様式や思考様式を理解する上で、享徳の乱は重要な手がかりとなります。利根川の「越河」という視点から歴史を紐解くことで、関東の戦国時代をより深く理解することができるのです。
0328日本@名無史さん
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2024/05/28(火) 15:00:35.17
利根川と古河の地政学的重要度はあるようだね
自然の防壁になるとか
まあ関東全体が平地なので古河だけ押さえれば良いというわけにもいかず戦略は固定化してくるだろうね

地理的要害に特化した氏族は三浦氏くらいか
三浦半島に籠ればかなり孤立しても保てる
0329日本@名無史さん
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2024/05/28(火) 16:39:31.98
成氏は乱中は朝敵だったけど逃げ切ったね
ローマ教皇から破門された神聖ローマ皇帝みたい
0330日本@名無史さん
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2024/05/28(火) 21:13:09.99
>>325-327
AIに纏めさせたのか。
誤字や事実誤認まで元書込からそのまま継承しているばかりか、所々日本語が壊れている。
何のつもりか知らないが無意味な荒らしは止めろ。
 
0331日本@名無史さん
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2024/05/30(木) 11:54:53.02
野田氏
氏範は氏を偏諱したのか


野田持忠
編集
野田持忠は右馬助とも呼ばれる。生没年不詳。等忠の次の世代にあたるが、直接の後継者かは不明。野田家家系図に「等忠」の名前が見られないなど不自然な点があり、この時期に大きな断絶があったと考えられる。実名中の「持」は鎌倉公方・足利持氏の偏諱である。[4] 下総国・古河城主。古河公方・足利成氏の重臣。永享12年(1440年)の結城合戦において、結城方として古河城に立て籠もる。享徳4年(1455年)、享徳の乱のため成氏が古河城に入り「古河公方」となると、下野国・野田城(足利市)[10] に入り、上杉氏に対抗した。康生2年(1456年)以降の動静は不明である。[11] [12]

野田氏範
編集
野田氏範は蔵人大夫とも呼ばれる。生没年不詳。持忠の後継。初代古河公方・足利成氏の家臣。下野国・野田城(足利市)[10] に居たと考えられる。[13] [14]
0332日本@名無史さん
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2024/06/01(土) 21:18:31.28
そこで利根川東遷
江戸に都をおかなければ必要なかったかもしれないが
0336日本@名無史さん
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2024/06/06(木) 00:06:03.59
>>335

808 人間七七四年 age 2024/01/28(日) 03:26:15.82 ID:M8QYLg+q
上杉顕房(扇谷)と上杉房顕(山内)が同陣したら紛らわしくて困るよなと心配して調べたら、
顕房は1455年2月、分倍河原の戦に敗れて自決、
房顕は1455年3月、関東管領に任ぜられて京都から上野國に下向、
一箇月違いで在陣時期の重複は無かった。
 
0337日本@名無史さん
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2024/06/06(木) 11:45:06.74
正解
詮房の父扇ヶ谷上杉持朝伝の以下のくだりのややこしいこと

文安6年(1449年)、持氏の子の足利成氏が鎌倉公方に復帰すると、かつて持氏を滅ぼしたことを憚り、嫡男・顕房に家督を譲って出家し、道朝と号した。

享徳3年(1454年)、憲忠が成氏に暗殺されると(享徳の乱)、持朝は憲忠の弟・房顕を新たな関東管領に擁して、自身は裏で実権を牛耳った一方、康正元年(1455年)の分倍河原の戦いにおいて顕房が成氏軍に討たれ、それ以降は持朝が再び当主として活動している。これにより古河公方となった成氏と敵対関係となったため、成氏に対抗するために長禄元年(1457年)には家宰の太田道真・道灌父子に命じて河越城・江戸城、そして岩槻城の三城を築城させ、自らは河越城を居城とし、武蔵の分国化を進めた[5]。
0338日本@名無史さん
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2024/06/06(木) 11:47:15.99
漢字変換間違えた
詮房→顕房
そりゃ間部詮房(江戸時代の側用人)の方が有名だけどさ
0339日本@名無史さん
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2024/06/06(木) 21:00:33.31
>>337
> 太田道真・道灌父子に命じて河越城・江戸城、そして岩槻城の三城を築城させ
 
wikipediaが白痴の巣窟なのは知っていたが、いくら何でもこの認識は古過ぎる。
 
0340日本@名無史さん
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2024/06/07(金) 09:52:01.89
一応補足はあるようだな

^ 道灌によって築かれたとされていた岩槻城は成氏方の成田正等の築城説が現在は主流である。
0343日本@名無史さん
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2024/06/08(土) 00:53:21.44
>>342
コピペとかAIに書かせた長文を貼る奴はただの荒らし
しかも私は自分で日本語文が書けませんという無能宣言にもなってる
0344日本@名無史さん
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2024/06/08(土) 01:43:55.80
享徳の乱は、関東の戦国大名たちが権力争いを繰り広げた内戦である。戦乱は次第に東西対立の様相を呈し、利根川が重要な戦場となった。特に中盤以降は、利根川東岸の上杉氏と西岸の古河公方・畠山氏を中心とした攻防が激化し、利根川の「越河」を巡る逸話も数多く残されている。しかし、利根川が最初から東西対立の接攘線であったわけではなく、初期段階では複雑な勢力図の中で戦いが展開されていた。また、気候変動が戦乱に影響を与えた可能性は指摘されているが、その程度や具体例については十分な論証が必要であり、戦争を自然環境条件のみで説明することはできない。

梁瀬大輔氏は、著書『対決の東国史 小田原北条氏と越後上杉氏』の中で、利根川の「越河」を関東戦争の普遍要素の一つとして位置付けている。これは興味深い指摘であり、今後の研究課題の一つと言えるだろう。しかし、関東戦争の普遍要素と断定するには更なる検証が必要であり、政治的・経済的・社会的要因も考慮する必要がある。

享徳の乱を関東人の根源的行動論で分析することは可能である。乱世を生き抜くために、関東の戦国大名たちは常に利害関係を調整し、状況に応じて敵味方を変えながら戦いを繰り広げた。これは、関東の厳しい自然環境の中で培われた適応力と生存戦略の表れと言えるだろう。しかし、このような分析はあくまでも一つの視座であり、享徳の乱の全体像を理解するには、多角的な視点から考察していくことが重要である。
0345日本@名無史さん
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2024/06/08(土) 01:52:23.42
文明三年(1471年)、室町将軍足利義政の調略を受けた宗家は、桐生氏とは別に管領方に寝返ったと考えられます。しかし、当主の実名は不明です。

翌年には再び御所方に戻りますが、その経緯も分かっていません。この間の宗家と桐生の関係も不明なままです。

「佐野伯耆守盛綱」という名前は確認できますが、乱勃発当時の驍勇「佐野伯耆守」や「佐野宮内少輔」との関係は不明です。

さらに、時代を超えて「盛綱」という実名の当主が複数人存在するため、状況はさらに複雑化しています。
0346日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/08(土) 02:00:13.94
歴史上の名門: 権力闘争と家督争いの渦

斯波氏、細川氏、足利将軍家、鎌倉公方――いずれも歴史上の有力な家系だが、栄枯盛衰の渦に翻弄された。

斯波氏: 斯波詮基と斯波詮寿の対立は有名だが、斯波義経と斯波義将、斯波義統と斯波義教など、家督争いが絶えなかった。

細川氏: 細川頼之と細川勝元、細川政元と細川藤孝など、家督争いが頻発した。

足利将軍家: 室町時代後期になると守護大名の力が強くなり、将軍権力が弱体化した。

鎌倉公方: 関東管領の力が強まるにつれて、次第に傀儡化されていった。
0347日本@名無史さん
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2024/06/08(土) 02:13:52.18
>>343
放っといてやれよ。
やってる当人は荒らしのつもりか寂しい構ってちゃんだか知らないが、
結果としてスレ保守にはなっている。
目に余るようなら通報、さもなきゃ黙ってNGにするが吉。
0348日本@名無史さん
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2024/06/08(土) 07:16:04.35
書くことあんまりないからな。
批判より自分なりのビジョンとか知りたいわ
気候変動説の人もちょっと極端な気はするが仮説ってのはそんなもんだし
0350日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/08(土) 12:28:05.01
享徳ノ乱の経緯には室町体制から戦国時代への移行が視覚的にも顕現している。

乱の初期(享徳・康正期:1454~1457頃)は激戦に次ぐ激戦だが、
戦闘の発生場所(島河原、分倍河原、穂積原、…)や有力武将の行動経路(東常縁、簗田持助、武田信長、…)など地理的には非常にランダムで流動的な動向を見せている。
ところが寛正期(1460~)に入ると利根川を接攘線とする東西対峙の形勢が固定化されてくる。

これは単に戦略/戦術的な戦線整理ではなくて、
両陣営の中心諸勢力の軍事・経済基盤や権力形態そのものの変質を表す事象だろう。
即ち、
諸方に散在する小単位所領群の遠隔知行(室町体制型領主)から暴力を以て制圧した物理的一円領域の在地統治(地域権力=戦国大名)への遷移によって勢力圏が集中固定された結果、
散文的な単発戦闘勃発が減って接攘線上の拠点攻防戦が恒常化したものと捉えられる。

また丁度同時期に襲った寛正大飢饉がこの動向を更に強く規定した蓋然性も想定しておきたい。
 
0351日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/08(土) 13:07:56.70
ただ堀越公方/扇ヶ谷上杉氏が相模を領地化出来なかったことからまだ鎌倉公方方が飛び地を手放したわけでは無いように見える
過渡期と言ったところか
0352日本@名無史さん
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2024/06/08(土) 13:08:49.21
>>348
三十年の大乱、それも戦国時代開始の画期を告げた戦争で「書くことあんまりない」と云うことはないだろう。
むしろこの事案は何処に喰い付いたらいいか、喰い付き所の話柄が多過ぎて迷う。
 
ゲームやマンガが扱わないから解らない、
などと食わず嫌いを決め込むのは勿体ない。
 
0353日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/08(土) 13:38:46.00
>>351
寛正元年の御所方勢力による伊豆・小田原攻撃の件かな。
武蔵相模を突破して本軍が動いたなどとは考えられない以上、
慥かに過渡期として相模國内にも残存勢力はいたと見るのが妥当だろう。
 
実は不思議と史料も論文も無いから想像の域を出ないんだが、
乱の初期に上総安房制圧を済ませていた御所方が水軍(海賊衆)を以て相模伊豆を攻撃した可能性は無いものだろうか?
0354日本@名無史さん
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2024/06/09(日) 03:23:38.17
>>353
歴史版各地のスレに書き込まれているこのキモいスレは、上の西郷吉之助のレスも間違いだらけで、AI生成なんだろうが、何の目的があって書き込んでいるのか
0355日本@名無史さん
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2024/06/10(月) 09:54:05.98
間違っているなら具体的に指摘してスレ延命すれば良いのでは
私には岩槻城作成に太田道灌が関わっていないことについては指摘してほしかったがな
それとも他には間違いがあったのかな
0357日本@名無史さん
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2024/06/10(月) 20:41:48.03
>>355
小生(>>339)宛だと解釈して。
 
岩槻城についてはもう周知のことかと。
河越城、江戸城も「太田道真・道灌父子に命じて」と云えるほど中核的に関わったかどうかは不明というのが現時点に於ける知見水準。
0358日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/10(月) 20:44:18.29
>>356
ボケとか釣りのつもりならちったぁ笑えるようなネタを書いてみろ。
0359日本@名無史さん
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2024/06/11(火) 00:51:08.07
江戸城については享徳ノ乱の基本史料でもある『松陰私語』に
上田、三戸、荻野谷ら扇谷家の宿老が数年秘曲を尽くして築城した、と記されている由。
技術陣としては彼等が中核で太田父子も入部予定者としてプロジェクトに参画した、という所か。
0360日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/11(火) 03:34:28.31
諸侯は「大義名分を振りかざされて袋叩きに合う」ことを最も嫌う。弑逆は確かに大義名分となり得るが、必ずしも敵対者を無害にする必要はなく、むしろ権力闘争や勢力争いの手段として利用されることもあった。室町時代の抗争には様々な原因があり、対立候補を立てる以外にも、領土争い、守護同士の権力争い、将軍と守護の対立など、様々な要因があった。しかし、室町時代は貴種尊重の文化(宗教と言ってもいい)が根強く残っており、権威の正当性を血統によって担保する必要があったため、傀儡公方を立てることが有効な手段とされたのである。後北条もまず傀儡公方を立てることで、周囲の諸侯を牽制し、自らの勢力を拡大することができた。
0361日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/11(火) 03:37:53.36
長尾氏と太田道灌は、関東管領上杉氏の家宰として、大きな権力を持っていました。しかし、彼らはあくまで家臣であり、上杉氏当主の許可なしに行動することはできません。
結城合戦では、上杉氏と古河公方足利成氏の間で激しい戦いが繰り広げられました。この戦いで、長尾氏と太田道灌は、上杉氏当主上杉憲実の命を受けて戦いました。
成氏は、上杉氏に勝利し、関東管領職を奪取しました。これは、当時の権力構造を大きく覆す出来事でした。
長尾氏と太田道灌は、上杉氏当主の許可を得て結城合戦に参戦しました。しかし、成氏の勝利によって、彼らの権力は大きく失墜することになりました。
0362日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/11(火) 03:43:31.78
関東平野は、古くから干拓事業によって多くの湿地帯が農地に変貌してきた。小田原北条氏も相模湾に面した低地を干拓し、新田開発を進めた。江戸時代以降は技術の発展とともに干拓事業が加速し、20世紀前半には関東平野の大部分が農地となった。現代においても、海面上昇対策や都市開発のための干拓事業が進められている。干拓事業は食糧生産の増加や都市開発に貢献してきたが、生物多様性や自然環境の失われるなどの問題も指摘されている。
0363日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/11(火) 03:45:30.99
司馬遼太郎の歴史小説「箱根の坂」では、足利氏と後北条氏の統治について、対照的な評価が述べられている。しかし、近年では、両者とも単純な善悪で評価することはできないという見方が主流となっている。

足利氏は血統による支配という限界があったものの、守護職制度や御家人制度などを整備し、積極的に統治に力を注いでいた。一方、後北条氏は商業の発展を奨励し、法整備や裁判制度の整備などを行ったが、年貢や兵役などの負担を課すなど、民衆を搾取する側面もあった。

現代的な視点から歴史を捉えるためには、それぞれの時代背景や社会情勢を考慮し、単純な善悪の判断ではなく、より多角的な分析を行うことが重要である。
0364日本@名無史さん
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2024/06/11(火) 03:50:37.09
室町時代の人口は、約1000万人だったと考えられています。
この推定は、兵士の人数と当時の兵士人口比に基づいています。当時の守護大名の軍隊規模や足利将軍家の軍隊規模、守護大名の数などを考慮すると、日本全土の兵士の総数は約13万2775人〜19万7750人だったと推定されます。
律令時代の兵士人口比(56人で兵士1人)を基に地方の人口を推定すると、約920万人(740万〜1100万人)となります。都市人口率を4%(40万人)と仮定すると、都市人口は約40万人となり、合計人口は約960万人となります。
一方、ファリス氏は長期的な人口増加率(0.4%/年)を仮定した研究結果(2000年)を引用し、上限推定人口を1050万人としています。
これらの推定値はあくまで目安であり、実際の正確な人口は不明です。しかし、当時の社会情勢や経済状況などを考慮すると、約1000万人という推定値は妥当と考えられます。
0365日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/11(火) 10:04:51.90
>>358
いやアンタ荒らしだろ
他のスレにもほぼコピペじみた文章かいてるやん
自分がコピペだろうが
0366日本@名無史さん
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2024/06/11(火) 17:45:35.80
>>361
流石にアラが有りすぎる
太田道灌は結城合戦の時に存在感ないし山内上杉氏の家来でもない
0367日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/11(火) 17:49:31.69
>>357
あなたと同等レベルの知見水準の人はここにはいないよ
私は教科書レベルの知見しか無いし
0368日本@名無史さん
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2024/06/11(火) 22:03:29.46
>>367
当方>>357
ここの住人云々ではなくてwikipediaの愚劣を嗤っただけ。
 
0369日本@名無史さん
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2024/06/12(水) 07:24:24.70
>>368
教科書レベルということはWikiレベルですよ
あとは動画見たり
流石に享徳の乱を扱った動画は1本だけです
0370日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/12(水) 18:17:40.83
斯波氏の本当の没落は応仁の乱ではなく明応の政変だと指摘していたりWikiも興味深い
0373日本@名無史さん
垢版 |
2024/06/16(日) 20:08:49.38
>>370
ウィキがというか
ウィキが引用する学者の説
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