0183日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/07(日) 19:28:08.43 >>181 関東は持氏期よりもむしろ成氏期や政氏期の方が実体権力としては強化された。 何度も書いてきたように、自然環境条件や社会状況に曲がりなりにも適応したからだろう。 京都の方はそもそも実体が貧弱。 直轄領や暴力装置が諸大名に比べて圧倒的に大きいわけでもないし、 在地性がゼロだから戦争についても災害についても即応機動機能が低い。 安全保障も災害対策も碌にしない権力体は信頼も威信も喪って行くしかない。
0184日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/07(日) 19:37:55.48 >>182 > 享徳の乱で足利氏の支配範囲は縮まった 実体規模としてはむしろ拡大したと見ている。 鎌倉に鎮座していた時期は制度として関東全域を所掌していただけで、 実体としては山内、扇谷、長尾一族、小山、…等の支配地域が過半を占めていた。 改めて「鎌倉殿」の支配地域は?と問えば実に稀薄なものでしかなかったろう。 古河に移ってからは 一円的に集中する直轄領、簗田や野田等の奉公衆、股肱の臣たる小山、千葉、武田、里見等の所領等、 利根川左岸一帯が実効勢力範囲として確立されたと云えるのではないか。
0185日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/08(月) 07:10:13.93 >>184 遵行を執行できずに要請レベルに留まったところに権力の低下が見られる 関東諸侯は「意見は尊重しよう」という認識はあったが紛争で利害が相反した場合は別の大義名分を使って実力で解決する選択肢を持っていた 永享の乱期は幕府/関東管領/鎌倉公方のどれかから大義名分を獲得でき、その後は内紛で分裂した各鎌倉公方から相反する大義名分を獲得できた
0186日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/09(火) 18:25:03.64 諸侯は「隣国に大義名分を振りかざされて袋叩き」になるのを最も嫌う 享徳の乱も応仁の乱も片方に付けばもう片方を攻める格好の大義名分が手に入るわけだ 乱が収まらなかったのはいつまで経っても陣営が2つに別れたままだったからである これは関東も畿内も同じ
0187日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/10(水) 14:05:48.32 足利氏に反抗する勢力は 神輿として別の足利氏の一族を担いで反抗するが 神輿として使われて内乱がおこるたびに権威に疑いを持つ人間が増えていっただろうね
0188日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/10(水) 14:37:53.32 >>187 内紛が片付いて1つになればまだ遵行も要請だけとは言えある程度の強制力はあるんだけど内紛が長期化して公方が2人になったままだと自分が有利な方に付くでしょうね
0189日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/10(水) 19:46:56.21 >>185 見解の相違かな…。 室町幕府制度下の遵行と云うシステムは「権威という虚妄のコード」を共有するサークル内に於いてのみ成立する、謂わばゴッコ遊びだろう。 落語の『だくだく』みたいなものだ。 それこそが共同幻想と云うものではあるのだが。 その虚妄のサイズが即ち権力の規模だと解釈するならば、 鎌倉殿が古河の戦国大名に遷移したことで慥かにそれは縮小した。 小生は「権力」≒「暴力」との見解を採る。 共同幻想は実体無き虚妄だ、王様は裸だと喝破してしまった者たちに対して共同幻想はもはや権力(強制力)たり得ない。 幻想が有効だろうが無効だろうが常に「対手の同意無く我が意志の達成を強要」出来るチカラは物理実体としての暴力以外には無い。 古河一帯の直轄地に蟠踞しつつ隣接地域を直臣で固めることによって、 御所の即時機動可能な暴力装置は質量とも明らかに鎌倉時代より増強された。 鎌倉殿は裸の王様であることを已めて重武装した戦士になった。 持氏期に数箇月しか闘えなかった虚妄の権力体は、成氏期には二十九年間闘い抜ける戦国大名と化した。 鎌倉放棄・古河移座によって実質ある権力の規模はむしろ拡大したと考える所以である。
0190日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/10(水) 22:21:21.64 >>189について誤解を招きかねない文言があったので訂正。 「鎌倉時代」とあるが、 これは鎌倉幕府時代のことではない。 「御所が鎌倉に在った時代」即ち基氏期から持氏期を意味する。 念の為。
0191日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/11(木) 07:08:09.59 >>189 こういうものには十人十色の見解があるので特に否定はしない 基本的には権威は宗教的なものなので暴力ではないことには賛成だ ならば天皇と同等に収まれば良かったのに執行機関として維持しようとしたところ、内紛は発生するは権威の失墜は発生するは逆に諸侯に大義名分を与えるだけの存在になってしまった 成氏は武勇戦略の才があったために地方権力として維持出来た それならば畠山義就も同等だろうし、後世は武勇戦略の差で後北条氏の傀儡となった
0192日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/11(木) 07:12:41.02 つまり「初めから小さい天皇になりきる」という選択肢もあった 成氏が1番嫌がる選択肢だろうけど 他の守護大名と同じく大きな権力を有しそれを維持しようとする戦略は結果だけを知る我々にとっては時勢に抗ったが時勢に乗れなかったように見える
0193日本@名無史さん垢版 | 栗砲NGNG?2BP(1000) 実力ないけど権威はあるという枠なら すでに天皇家があるからなあ 経済力、武力で成り上がった勢力の実力なくなった時点で滅びたり 他の家の家臣になったりするのは避けられないのでは 平家や鎌倉幕府や豊臣や徳川も 堯の禅譲伝説が日本にはなかったのは天皇家には幸いしたな 大国主の国譲りが実はそういう話だったのかもしれないが
0194日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/11(木) 18:36:57.01 禅譲が無いのは日本の文化的特性と思う 文化=宗教で、それがほぼ単一だから排除までする必要が無かった 既存の権威を借りるだけで良かったので殺す必要が無かった 一方大陸はユーラシアンステップの影響でカリスマだがサイコパスな君主が良く出てきており、文化的に異なる王朝は血統毎リセットするしかなかった 権威の使い回しは多文化多民族の為に出来なかった 自分が新しい「天子」になるしかなかった
0195日本@名無史さん垢版 | 栗砲NGNG?2BP(1000) 豊臣羽柴家は大阪城明け渡すか大阪城だけ領有する公家のようになれば生き残る道はあったかもしれない 足利後裔の喜連川のように有名無実だが生き残ったような形で存続する可能性も
0197日本@名無史さん垢版 | 栗砲NGNG?2BP(1000) 上杉政真の戦死の状況が気になる 野戦とかでなく一応陣で防戦中での死なんだよね けど五十子そのものが崩壊したわけでなく 実は陣中での病死とかそういう物なんじゃないの
0198日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/13(土) 21:39:29.03 扨又五十子へ御勢をむけられ合戦やむ時なかりければ文明五年十一月廿四日、上杉扇の谷の大将修理大夫政真も打死なり。行年廿四歳。 此人いまだ子なかりしかば一家の老臣ども評定して故持朝の三男定政を修理大夫に任じ扇の谷の家督となす。 『鎌倉大草紙』
0199日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/13(土) 22:35:41.93 『鎌倉大草紙』は一応は史料価値の高い文献とされている。 今の所、同書の記す扇谷政真の「打死」を疑う材料は無い。 とは云え、 政真戦死に関わる記述は上掲の如く簡素に過ぎる。 政真戦死の具体的状況は不明と云うしかない。
0200日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/13(土) 23:27:28.61 と云うわけでこの先は純然たる想像・憶測になる。 【五十子陣所の特性】 あくまでも本陣兼利根川渡河拠点として構築されたもので、 後世描かれた『五十子古城図』を見ても戦国後期の強固な城郭等とは比ぶべくもない。 攻防戦に及べば防衛側も籠城よりは出戦するのが前提だったのではないか。 文明五年十一月の戦に於いても五十子陣所前面で野戦が行われたかと思われる。 政真率いる扇谷勢は実働部隊だからその乱戦の中で…とも考えられる。 【扇谷或いは関東の戦術】 扇谷は政真の父・顕房も享徳ノ乱で戦死している(分倍河原合戦)。 享徳ノ乱から離れるが遙か後年の河越合戦では当時の当主朝定が戦死、扇谷家そのものが滅亡した。 どうも大将が激戦の最前線で実際に争闘するのが扇谷の家風だったかの如き印象を受ける。 或いは、 関東では扇谷以外にも山内顕定や小弓義明等の「大将」「貴種」が戦場で首級を挙げられている。 北條氏康にも「氏康疵」があった。 戦国時代とは云え将帥自らがこれほど前線突出する事例は関東と九州(少弐氏だけか?)以外にあまり聞かない。 関東平野という地理条件--複雑な戦術を行い難い--が育んだ地域的戦術特性があったのかもしれない。
0201日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/14(日) 16:10:23.34 城じゃなくて陣営に毎日詰めるとか、ちょっと違和感あるよね 足利義尚も陣営で過ごしたし、キャンプ的な開放感があったとか?
0202日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/17(水) 03:54:36.47 鎌倉を占領して 大きな転換をもたらしたのは今川だが そのまま今川に鎌倉を恩賞として与え 斯波が守護となっていた遠江はあきらめさせて 公方領はもちろん太田や長尾が仕掛けて始まったのだから開戦責任を取らせて 上杉の領地も少し恩賞として今川に与えてそのまま東国にとどまらせて今川に 関東戦線ずっと担当させれば公方方に勝てたかもな
0204日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/17(水) 21:54:00.46 >>203 > 終始上杉方が有利だったような とてもそうは思えないが…。 慥かに状況構造としては常に管領方有利であって不思議の無い筈が、 戦争運営体制の欠陥と度重なる戦略ミスでそれを全く活かせなかったように見える。 現に最終決戦(未遂)の広馬場段階ではむしろ御所方有利の戦況を招いてしまっていた。
0205日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/17(水) 22:00:29.50 >>202 鎌倉占領は明らかに「今川の無駄遣い」だろう。 古河の戦争体制は全く打撃を受けていない。 戦略的には殆ど意味が無かった。 北條氏康ではないが、 東常縁を無理矢理にでも引き留めた上で今川も投入して関宿に向かわなければならなかった。
0207日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/18(木) 08:27:23.24 一時古河まで落とされたからなぁ 結局白紙和平だし公方の粘り勝ちだけど 粘り勝ったということなら畠山総州家も同じような気がする
0209日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/20(土) 16:44:28.25 >>208 足りないことはないだろう。 関東の全上杉勢に加えて三浦、越後上杉、今川、東常縁、…、 御所方の戦力が減ることはあっても増えることはないのを考えたら、 管領方は申し分の無い巨大戦力。 その戦力の運用を、或いは戦略そのものを間違えたのが管領方苦戦の(軍事面の)原因。 管領方は後年の古河占拠の時もそうだが(>>58)、 享徳四年(1455)後半から翌年にかけての総反攻期に一気に御所方を攻め潰さなければならなかった。 北方戦線に於ける穂積原合戦他の勝利、 南方戦線に於ける東常縁や扇谷持朝の「越河」による上総蹂躙、 この優勢を駆って最低でも地政的焦点の関宿を獲って古河を干し上げるのは戦争の常套だろうと思うんだが…。 孫子曰く「激水ノ疾クシテ石ヲ漂ハスニ至ルハ勢ナリ」。 逆に云えば「勢」を活かさなければ大敵を破ることは難しい。 管領方が勝機をみすみす逃したことで戦況は混迷の一途を辿って行く。 管領方は山内が総帥とは云いながら戦争指導体制の不備から全軍の戦略意志統一を欠いていた。 充実した戦力を誇りながら各軍がそれぞれ場当たり的に戦うだけだった。 それがこの不始末の原因だったと愚考する。
0210日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/20(土) 16:54:35.12 ついでに云うと、 御所方も享徳四年(1455)前半までの圧倒的優勢期に「やらかして」いる。 山内は房顕が着任するかしないかでガタガタ。 扇谷も顕房戦死で政真はガキ、持朝も伊豆に逃げて不在。 江戸城も未だ構築されていない。 ここで全戦力を投入して上野・武蔵を総攻撃すべき所、 肝腎の古河成氏直率軍は奇怪な経路で逃げ惑う長尾景仲を追うことに血道を上げるだけだった。 これもまた絶好の勝機を逃す行動だったと云える。
0212日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/21(日) 22:24:50.81 日本では圧倒的戦術勝利は首を絞める 何故なら情勢がコロコロ変わり敵対方と手を組むのも頻繁にある 後年上杉も公方と組んでもう片方の上杉と戦ってたりするし 公方殺しの悪名を背負った場合必ず後に降り掛かってくる 逆に言えば血筋に宗教的権威が残されていた
0213日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/21(日) 22:45:13.29 >>212 > 公方殺しの悪名を背負った場合 いや、後に降り掛かるも何も、 既に管領が御所を殺し御所が管領を殺して享徳ノ乱が始まったわけだが。 戦国争乱は縮減して行くパイを奪い合う文字通りの「生存」闘争だ。 ただその為に利有れば組んで害有れば叛く。 「権威」とやらも使えれば崇め奉るが使えなければ地に棄てて踏み躙る。 長享ノ乱から永正ノ乱にかけての無節操な離合は正にそれだけのリアリズムだろう。 そこに宗教的などと云うロマンは無い。
0214日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/22(月) 09:08:16.72 それは現代だから言える理論だと思うよ 血統>法律の時代、 戦っている貴族たちも足利氏の貴種性を利用して地位に付いていることを考えた方が良いかと 上杉憲実の頃でも相当逡巡したようだし 足利氏の貴種性は利用した方が遥かに有益だろうと思う 織田信長でさえ追放に留めた
0215日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/22(月) 21:34:03.70 >>214 「血統>法律の時代」ではあるが、 「『喰うこと』>血統>法律の時代」であることを忘れてはいけない。 > 足利氏の貴種性は利用した方が遥かに有益だろうと思う > 織田信長でさえ追放に留めた 北條氏康は古河義氏を利用するだけし尽くした果て、 もはや利無しと見るや殺害したとも謂われている。
0216日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/23(火) 00:35:08.03 諸侯は「大義名分を振りかざされて袋叩きに合う」ことを最も嫌う 弑逆は絶好の大義名分を与えてしまう故、もはや敵対者が無害にならないと殺害には至らない 室町時代の抗争は大体は対立候補を立てる 逆に言えば傀儡を立てないといけない 何故か 貴種尊重の文化(宗教と言っていい)があるからである 後北条も先ずは傀儡公方を立てた
0217日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/23(火) 15:56:34.79 >>193 禅譲は日本に存在するよ。上皇は皇位を禅譲して新しい天皇から任命される形式になったのは堯舜の禅譲の影響だよ。続日本後紀に載ってる。
0218日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/23(火) 21:23:52.26 >>216 特に大義名分=京都の支持も未だ無し、対立候補のアテも全く無し--という段階の江ノ島合戦で、 長尾景仲と太田道真は明確に「鎌倉殿」足利成氏を殺りに行っている。 せっかく永享ノ乱と結城合戦で「縮減するパイの共有者(≒争奪者)」の数が半減したと云うのに鎌倉御所の復活で元の黙阿弥、 下手をすればまさかの逆転で管領方勢力が潰されて飢餓困窮の身に堕とされる、 自家だけに非ず、長尾も太田も御所も被官多数の権益や生死の責任を負っている。 今更そんなことが呑めるかよ!と云うだけの明快な動機だ。 ましてやこの時期、事態は年毎に悪化していた(>>171)。 宗教は飯を喰わせてはくれない。 享徳ノ乱はその延長線上に在る戦争だった。
0219日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/24(水) 11:54:49.62 長尾と太田は家宰に過ぎん 結城合戦もあった時流もある いざとなれば上杉氏当主に許してもらえば良かろう 或いは幕府に許可を貰ったとの言い訳もできる(細川の時代) それなりに世間的に勝算があったのだろう それを全部覆した成氏の方が型破りだ
0220日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/24(水) 12:02:27.99 何より幕府が真っ先に堀越公方を立てている これは足利の貴種性が保たれていないとこうはならない まあ対立候補を立て過ぎた結果権威がどんどん落ち込んでいくことになったんだが
0221日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/24(水) 14:01:27.14 後の足利将軍は義政、義視の子孫から続かず 最後の将軍まで続いていったのは政知の子孫だったということからも 応仁の乱の不毛さがわかる
0222日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/24(水) 14:54:31.02 権威はある だけど乱がおきて担がれたり 乱で自害とかしたりするのが続いて 権威はあるが神聖ニシテ冒スベカラズと言うほどでもなくなっていく
0223日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/24(水) 16:40:20.41 基本関東も関西も権威が2つに分かれたからなぁ(管領の内紛も絡むから4つか) 有難みも1/2になるだろう 情勢によって有利不利がコロコロと変わるし
0224日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/25(木) 15:40:43.97 結城合戦で負けた側の家や関係者が新しくできた公方に近づいたり そもそも一族の後継者争いで分裂してるところもいて 乱がおきたら即戦いが起きるという不安定な状況な家も多かった
0228日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/26(金) 20:22:34.78 >>226 余所の地域は詳らかにしないが、 関東は各々の家中の「縮減して行くパイの奪い合い」即ち分裂内訌に上位権力体の対立図式を引き込むと云う構造があった。 南北朝、観応擾乱、犬懸禅秀ノ乱、永享ノ乱、結城合戦、そして享徳ノ大乱まで全てこの構造。 従って何れが勝利した場合でも族滅は生じ難い。 戦国末期の真田でもあるまいに、彼等がそこまで計算していた筈も無いが結果として家は生き残って行くことになる。 個人の意志を超えた生物種ヒトとしての系統遺伝子保存本能か。
0229 警備員[Lv.14(前25)][被]:0.00716189垢版 | 栗砲2024/04/26(金) 23:33:37.11 >>226 そりゃ、御家ファースト主義だからな 家格がすべて その辺を狙った徳川幕府の方が上手なだけ
0230日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/27(土) 05:14:55.69 養子相続を繰り返して家は残すからな 斯波武衛家も庶流や渋川氏から拝借してたり 享徳の乱の頃は扇ヶ谷上杉氏と対立したり
0231日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/27(土) 19:12:46.60 >>230 > 養子相続を繰り返して家は残す 養子を取る側の「家名を残したい」需要と、 養子に出す側の「口を減らしたい」必要と。 両者が上手くマッチしていたんだろう。 どの家も部屋住みを飼う余裕など無い、 かと云って不用意に分家や庶家を興させたら宗家ともども喰えなくなって共倒れか、 さもなくば陰惨な骨肉の争いという未来が待っている。 中世小氷期とは、そういう時代。
0233日本@名無史さん垢版 | 栗砲2024/04/27(土) 19:21:23.04 >>232 それで一方が管領方に就いたら他方は御所方に、と。 しかも敗者は飢民に転落。 享徳ノ乱、いつまでも終わらないわけだな。