カール・マルクス 22
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>>36 でも労働者同士の対立は起こらないの? 巨悪がいれば、その間だけまとまるだろうけど 労働者主体でみんなで新しい品種を 開発するとする すっごい苦労の末に その品種を自分たちだけで管理するのは許される? 資本家はいない寄り合い集団だけど隣村には教えない 今の大企業の複雑な組織や業務を、労働者だけで どう回して質の高い商品やサービスを生むというのですか? 権力が存在しない、そして常にほぼ全会一致で 組織を運営していくって、そんな事が出来るのですか? >>39 そこでボスですよ 日本共産党だっているでしょ指導者 アレ >>37 >>38 >>39 また中学生レベルが来たか。 ここのマルクス主義者を日本の平均的マルクス主義者 とは思わないでくださいね。ROM専の方へ。 もっとすごい人たち居ます。ここには居ないだけですよ。 >>37 ビッドコインみたいなことになるだけじゃないかな? うまくまとまらなければアソシエーションが分岐して多様性を獲得していく。 可能性があるだの、アソシエーションだの、 中学生がせいいっぱい背伸びしてポモ用語を使ったりして >>33 前衛というのは、言葉のままに先頭に立ってリードしていく行動的知識人(思想家)のこと。 主体というのは、その前衛と相互に意見交換しながら行動を進める大衆のこと。 >>46 そういう意味で前衛という言葉を使ったわけじゃない。 革命の主体という意味で前衛という言葉を使った。 要するに、プロレタリアートを革命の積極的担い手とみなすのは間違いだったという議論がある。 ゑらしてるようだねwww そのでどゑらしてるようだねwww そのでどんどん■■■■■スレげていこうんどん■■■■■スレげていこう これが資本主義者の考える個人の自由らしい 876名無しさん@1周年2018/11/09(金) 00:09:57.81ID:0sybFmzy0 >>875 餓死するのは自由だから とめる必要はないだろ 餓死=不幸という価値観自体が全体主義なんだよ >>48 ケインジアンはそれに相応しいスレへ。 ケインズもゲゼルも資本主義的過重労働社会をいかにして永久に守るかに 生涯を費やした人たちだから。 ジョージ・オーウェルの『1984年』でも反体制派のパンフレットに 反乱と革命の主体はプロレタリア階級の大衆だと謳われているんだけど、 ゴールドスタインの理論は体制派が自作自演で作ったものだから 従って体制側は大衆を主体とした反体制運動は常に敗北し続けると認識しているんだよね だからこそ体制側は反体制派の人間がそっちに流れるように誘導しているわけで つまりマルクス主義は体制と資本主義を裏から支えるブラザー同盟になったということさ 日本共産党もわざと選挙に敗北をし続け、他の野党の妨害をして自民党をアシストしている >>53 カレツキがマルクス再生産表式から有効需要の原理というケインズと同じ結論を 導いたことを考えれば、ケインズとマルクスは意外と近いことがわかる。 また、ケインズは一般理論草稿の段階でマルクスの影響を間接的に受けている ことがわかっている。 参考: 『ケインズ「一般理論」形成史』(浅野栄一135~6頁)によると、1933年末には ケインズが有効需要論を新しい理論体系の中心に据えることを明示的に表明す るに至ったという。 ケインズ全集第29巻に収められた[1933年『一般理論』草稿#2]では、 ケインズはさらに、有効需要問題を処理する際の彼の新しい分析視角のひとつ を明確化している。 1933年アメリカの経済学者H.L.マクラッケンは、経済学説史に関す る著書『価値論と景気循環』を出版したが、たぶんみずからの理論の想源を調 べていたケインズはただちにこれを読み、そのなかのマルクス理論の解説部分 からヒントを得て、草稿でつぎのように書いていた。 《協同体経済と企業家経済の間の区別はカール・マルクスによってなされた意 味深長な観察と若干の関係をもっている。》 The distinction between a co-operative economy and an entrepreneur economy bears some relation to a pregnant observation made by Karl Marx,- 一部を切り取ってきて無理やり「ケインズとマルクスが意外と近い」なんてことにして、 マルクススレで延々とケインズを語る。柄谷みたいなポモ野郎の手法だね。 ケインズスレか柄谷スレでやってくれ。 >>55 ケインズがマルクスに言及している箇所の9割9分は否定的だと思いますよ。 ごくごく例外中の例外を1分だけ持ちだして「意外と近い」と論じるのは無理があり、 知らない読者を惑わせるものだと思います。 でないと置塩氏がなぜあれほどケインズに批判的なことを書いていたのかも理解できない。 ゲゼルに至っては明らかにマルクスを最大の論敵だとはっきり意識している論者ですよ。 それらの事実をすべて覆して「意外に近い」と判断するにはケインズ自身やゲゼル自身が 自覚していたことを批判的に上回る・彼らの理解を完全に「止揚」するような新解釈を もってくる必要があります。 カレツキの再生産表おじさんっていつも同じようなことばかり書いているね 労働価値説が間違ったんだから労働価値説を前提とするマルクス経済学は全部間違ってんだろ 労働価値て意味が循環しているよな 19世紀の人ってそういうの多い 貧困ビジネス(ひんこんビジネス)とは、 「貧困層をターゲットにしていて、かつ貧困からの脱却に資することなく、貧困を固定化するビジネス」 「貧困ビジネス」の概念は、「問題がビジネスモデルそれ自体にあるということ」を指し示すためにつくられた。 それらのビジネスモデルが問題なのは、違法行為であるからだけではなく、そのシステムが非人間的な ありかたを貧困層である当事者たちに強いるからである 貧困ビジネスを行う企業や団体の多くは「社会的企業」を装っているのが特徴的である。 社会的企業は、社会問題(地球的課題)の解決をめざした社会変革を通じた社会貢献と企業の利益を 両立させることを目的としている。しかし、貧困ビジネスは、「社会問題の解決」などではなく 「社会問題の固定化」により利益を上げる、社会的企業の対極にある存在である >>58 ケインズは北一輝のパクリだぞ ケインズ=国家社会主義=ファシズム ファシズムとマルクス主義は似たようなものだがいつも争っている マルクス主義者もグーグルみたいな企業作って ヴィジョンを実行したほうがいいな 言論じゃなくて仕組みそのものを演じないと 第一インターナショナルや共産党を作っただろ これらは全部ビジネスだよ ビジネスには4つある 形のないものを売る 形のあるものを売る 転売する 無価値なものを価値あるものに変えて売る 童貞ビジネスは、童貞層のみをターゲットにしていて、その他のビッチの利益に資することがない。 マルクスが攻撃してるのが形のあるものを売るビジネス マルクスらがやったのは形のないものを売るビジネス 形があるものは在庫がたまるから大変なんだよ 形がない情報を売るだけなら原理的には在庫は少なくて済む もちろん本や絵なんかにしたら在庫は出るけど 元々は思想や言葉や情報だからな 「止揚」ってのは一見して対立している命題の間に、 新たな解釈を加えることで互換性を見出す論理手続きのことだ、 という理解でいいの? マルクス主義運動ってのは情報教材売ってるネットワークビジネスとやってることはまったく一緒 こんなこと考えたらすぐに分かること 情報売ってる組織は全部似たようなもの 別にこれはマルクス主義者だけでなく他の思想もそう ただマルクス主義者は金儲けを知りつくしてるから他の団体より数倍上手だと思う 俺だってマルクス主義者が何をやってる分かったのはここ1〜2年だ 副島が思想ってのは市場で売れられる商品なんだと言っていたがピンとは来なかった キヨサキ読んで会社の作られ方や起業のやり方や、キヨサキ自身の思想や ビジネスモデルを聞いたりネットワークビジネスの本質を聞いてやっと分かった >>66 なかなか適切なご指摘だね。もしかしてどなたかの引用? キヨサキストはなんでも金儲けに繋げることしか頭にないんじゃないの? 哲学+宗教+経済=国の根本的骨組み (そこから法律が生まれる) マルクス哲学+マルクス宗教感(宗教は毒)+マルクス経済(共産社会主義)=ソ連誕生 しかしソビエト連邦国家は、夢の国家建立から短命の歴史国家として名を残しました >>61 『数学嫌いな人のための数学』という本の中で小室直樹さんは トートロジーは数学的に問題ないんだって書いていらしたけどな。 ダーウィンの学説もトートロジーだという批判を受けたことがあったらしい。 >>68 前スレでも話題になっていたけど、 寡頭制の鉄則を唱えたロベルト・ミヒェルスが ムッソリーニの支持者になったのはそれで説明できるんだろうか。 外山恒一さんの思想の変遷経緯も同様に説明できるのだろうか。 >>77 俺は金儲けの基準で物事なんて考えてない ビジネスモデルやシステムや持続可能性のことを考えてるんだよ キャッシュフローはシステムを動かす重要な部分だよ 一番重要なのは外側を支えるもので重要なのは使命・チーム・リーダーシップ 内側で稼働するのに一番重要なのはキャッシュフロー キヨサキはそれを「BIトライアングル」と呼んでいる ダーウィンの学説を循環論法だと批判したのはかのカール・ポパーさんだったな。 彼はのちにその考えを大幅に改める言明を残した。 ただし100%間違っていたとも言っていないような、微妙な言明だったようだけど。 >>77 暴走族は18歳ぐらいで卒業し ヤクザはずーっとやってられるのは何故か分かるか? 暴走族はほとんど金儲けやビジネスなんてしないからだよ カツアゲとステッカー売りぐらいしかない 関東連合があそこまで有名になったのはビジネス力があって大成功したから 暴走族でなく半グレと呼ばれるようになった マルクス主義組織だって金儲けできなきゃここまで大きくなれない 見えないところで大儲けしてるとしか考えられない 組織の原理原則としてあり得ない キヨサキストは道徳哲学以降転向したアダム・スミスの有名な命題を否定しているの? つまり、個人個人が自己利益を商業的に最大化するように動けば、 市場関係が自ずからトリクルダウンを保証してくれるんだとした市場ユートピア論。 常に金儲けを至上命題に掲げて行動指針をつくることと、 結果的に金儲けが伴うこととはまったく別のことだと思うよ。 >>80 良く分からない寡頭制の鉄則の話は適当に調べたら出てきたから 書いただけでその時までは全く知らんかった ただファシストとマルクス主義は似てると書いたけど ファシストはマルクス主義と違って弁証法をあまり使わないイメージがある 「犬は動物だ」vs「犬は動物じゃない」 ちょっと待てよ?動物という言葉の意味は複数あるんじゃないか? ということで2つの命題の動物の意味を検討してみよう 動物という言葉の意味には生物学的な意味と道徳的な意味がある 前者は多細胞で、従属栄養生物で、好気呼吸を行う生物という意味である 後者は社会性がなく、欲望に忠実で、理性的ではないものという意味である テクストを解釈するときにはそのテクストが最も合理的な意味を示すように解釈するという慣習に従って、2つの命題を見てみよう 前者の命題は2通りに解釈できる すなわち、犬は生物学的意味で動物であるとも読めるし、犬は道徳的意味で動物であるとも読める 後者の命題を見てみよう 犬は生物学的意味で動物であると解釈したとき、この命題は合理的だろうか? しかし犬は経験的に明らかに多細胞、従属栄養、好気呼吸な生物なので生物学的意味の動物の意味からしてとても合理的な命題とは言えないので一旦保留しよう 次に道徳的意味で動物だと解釈してみよう すると犬は経験的に飼い主に対して愛情を示しているように見えるし、飼い主を喜ばせるような行動を見せることもあって、社会性があるように思える さらに犬は欲望を抑えてエサを食べるのを我慢することもできるし、飼い主が泣いているときに慰めるような行動をするのは理性的なように思える するとこの解釈では「犬は動物ではない」という命題は十分合理的な命題と見て良さそうなので、この解釈を採用する ここで一見対立していたように見えた2命題に戻り、「犬は生物学的意味で動物である」vs「犬は道徳的意味で動物ではない」と解釈した場合、そもそも2つの命題は対立していなかったことになる するとこの2つの命題を総合して「犬は生物学的意味では動物であるが、道徳的意味では動物ではない」という新たな命題が生まれる このような対立する命題を最大に合理的に解釈し、さらに対立を避けて総合することが止揚ではないだろうか >>82 ポパーがバヴェルクを引用したってこと?それともポパーオリジナルの論調で循環論法だと批判したの? マルクス哲学=人間みんなが平等に暮らせるには?どうしたら良いかの正義感思想 それだけのことだよw >>88 ポパーは循環論法を見出したのはダーウィンの自然選択学説、 バヴェルクが循環論法を見出したのはマルクスの労働価値説のほうでしょ。 もちろんポパーはマルクス主義の史観についても反証不可能な学説だ と批判しているようだけれども。 >>84 >>個人が自己利益を商業的に最大化するように動けば、 市場関係が自ずからトリクルダウンを保証してくれる キヨサキの本を読めばわかるけど彼の思想は人類の経済的幸福度を高める事だよ 個人の為にやってない 利己主義ではなく利他主義なんだよ (ちなみに鴨頭嘉人は自己中心的利他という生き方を広めている) マルクス主義と同じ構造になってる マルクスは持たざる者に向かって持ってる人を打倒しろと叫んで キヨサキは持たざる者に向かって持ってる人になれと言ってるだけ キヨサキはエンゲルスに似ている 近代の啓蒙思想が唱えたすべての人々に平等に自由を得る権利が与えられているということを、 ブルジョア社会は実現しようとしていない、労働者階級を前近代の状態に置き去りしていると 批判したのが社会主義思想やサンディカリズムやアナキズムやマルクス主義だったんじゃないの? だから彼らに共通の革命の目的は、民主憲法と普通選挙制度を勝ち取ることだった。 ニーチェは早くからマルクス批判してたよw あれは嫉妬思想で、国をダメにすると早くから警告する論文を書いてたよwww 近代以前の自由主義は、 個人の自由の追求が他の多くの個人の自由を犠牲にすることによって成り立つものだった。 ヴェブレンのいう略奪期。 それに対して功利主義という考え方が登場した。 簡単にいえば、より多くの個人の自由を拡大することがよりよい状態だとするもの。 これは多数決民主主義と親和性が高いね。 >>94 ニーチェの思想はナチズムと親和性が高いとしばしば見なされるよね? >>87 いや弁証法における止揚はそういうことではなくて特殊なレベルでの対立からさらに一般的な抽象的概念を見出すことじゃないかな マルクスの言う経済の弁証法的運動はそういう概念発見プロセスの弁証法からのアナロジーで、一つの社会の経済段階における階級闘争からさらに生産力が発展可能な経済段階に移行することでしょう 資本主義と社会主義は発展段階の未熟な段階では対立状態・闘争状態にあるけど、 産業が発展するにつれてそれが止揚されて調和され、ワルラスが思い描いていた 社会主義と資本主義の大調和の時代がやってくる。それが共産社会だということ? >>98 違う違う、資本主義と社会主義は異なる経済段階だから両者の対立は経済と弁証法的運動とは関係ない そうではなくて資本主義社会において生産力がこれ以上向上しなくなると資本主義社会内部の階級闘争によって生産力をさらに向上させることが可能な次の経済段階へ移行するってこと >経済と弁証法的運動 これはミスタイプ 正しくは経済の弁証法的運動 功利主義は富の偏在を問題にしないのかな? 社会全体の富が向上しさえすれば、その富が一極集中していてもなんら問題視しないという。 社会主義とか共産主義とかの生産様式にしたほうが資本主義のそれよりも 生産効率が圧倒的に上がるんだとマルクス自身が主張している箇所ってある? あるいはエンゲルスが。 功利主義は社会全体の富ではなく社会全体の快楽の最大化を命じる道徳原理でしょ、さらに苦痛を快楽を減少させるもの、すなわち負の快楽と考える では社会全体の快楽を増大しさえすれば快楽が一極集中しても問題視しないかと言うと、快楽を感じる人が少なって一方で苦痛を感じる人が多くなるなら当然社会全体の快楽は減少するわけだから、功利主義の立場では富の偏在をいくらか解消すべきということになる >>103 富を快楽に置き換えることの違いってなんでしょう? そのご主張内容から推察するに、個人の快楽量には自ずから限界があるか、 もしくは、個人の快楽は量としては決して測れず、ただ個人の人口によって測れるだけだ、 という認識があり、それこそが功利主義の最大の特徴だという話なんでしょうかね? >>102 はどこかに書かれてあったような気もするし、 いや、なかったというな気もして曖昧。 そこんところのソースの出どころをご存知の方っていらっしゃる? 快楽状態で労働に携わることは出来ない。 正負という情報が付帯された整数論的な概念である。 >>104 富は商品及びサービスだけど快楽は人間の心理的状態だから全然違う 個人の快楽量に限界があるかと言えば、快楽は経験に基づく心理状態であり、経験には当然限界があるから快楽には限界がある 個人の快楽を量として測れるかというと、快楽の単位量を設定し、さらに個人の快楽を快楽の単位量の倍数で表現できれば測定可能だが、そんなことは実際不可能なので個人の快楽は量として測れない すると快楽の量を測定しようとするならデジタル量として快楽及び苦痛を感じている人数を数え上げることになる と思ったけど個人の快楽を測定することはできないけど快楽の主観的大きさを与える条件を順序づけすることはできるね ナイフで刺されるよりもハンバーグを食べた方が快楽を感じるし アマルティア・セン氏の本を読んでみたが、マルクス以上に難解だなあ(;一_一) >>108 こういう大きさは測れないけど大きさの順序はつけられるようなものって量って呼んでいいの?量とは何か別の概念じゃないの? 人生の選択肢が5つありました。 それらの選択肢に各個人が選好する順にランクをつけ +2から-2までの加点をします。 例えば、Aさんは+1の選択肢を選ぶことができました。 Bさんは0の選択肢を選ぶことができました。 Cさんは-2の最悪の選択肢しか選べませんでした。 この3人によって構成される社会の幸福度は+1 + 0 + -2 = -1です。 これを時系列的または他の社会集団と比較することができます。 同じことを書くのはテンプレとして、基礎教養としてです 過去の書き込みと比べていただければ少しづつ表現がわかりやすくなっているはずです 弁証法に関してもやはりプルードンの以下の指摘が決定的てす。 「アンチノミーは解消されない。ヘーゲル哲学が全体として根本的にダメなところはここだ。 アンチノミーをなす二つの項は互いに、あるいは、他のアンチノミックな二項との間でバランスを とる」 (プルードン『革命と教会における正義』未邦訳、斉藤悦則氏のHPより) http://www.kagomma.net/saito/works.html 矛盾と生きる――プルードンの社会主義(91.10) http://www.kagomma.net/saito/travaux/vive.html De la justice dans la Revolution et dans l’Eglise - Tome I 1858 この言葉はベンヤミン『パサージュ論』(岩波現代文庫第4巻391頁)にも孫引きされている。 ベンヤミンが参照したのは、 CUVILLIER, Armand "Marx et Proudhon" in A la Lumiere du marxisme, obra colectiva (Tomo II), Paris, Editions sociales interna¬tionales, 1937, 240 p. ヘーゲルの欠点、つまり弁証法への過信をマルクスも受け継いでしまった… >>112 一見良さそうだけどランクづけができるのはわかるんだけどそれに整数値を対応させると選択肢間に量的関係が生じちゃうんからダメなんだよね、個人の快楽は量として測定できないから それぞれが(100,2,-380,-600,-1000000)なのか(2,1,0,-1,-2)なのか(10000000,0.01,0.0001,-1,-2)なのかどう数値を対応させればいいかわかんないから じゃあ、負の数を廃止しましょう。 人生の選択肢が5つある社会Aと人生の選択肢が10つある社会Bがあります。 社会A:人生の選択肢5つ 社会B:人生の選択肢10つ 各個人に選択肢のランク付けをしてもらい、得点を付与します。 選択肢5つの場合は4点から0点まで、 選択肢10つの場合は9点から0点までの得点があります。 このモノサシを使って>>112 と同様に計算してみましょう。 ごめん、対応させるのは整数値だったね 最後の段落は(100000,10,0,-10,-100)なのか(2,1,0,-1,-2)なのか(2543562348,35296743,5048,421,32)なのかどれなのかわかんないってことに訂正 ケインズは確かに資本論をコーランみたいなものだとバーナード・ショー宛の書簡に書いているが ただしこれは擬態で 有効需要の原理を直感的に資本論から受け取っている ケインズは階級闘争を認めなかっただけでケインズとマルクスの差はそこまでない 官僚が投資先を決めるか民間が決めるかの差だ カレツキはもっと自覚的にマルクスを再構築した点でケインズより優れていたが >>117 そうしても量は測定できないのに選択肢の間に量的関係が生じちゃうからダメだね でもランクづけができることは間違いない 富を10しか生産できない社会Aがあります。 富を100生産できる社会Bがあります。 マルクスによれば、これらの社会で実現できる生産様式または分配様式が異なります。 富を10しか生産できない社会Aでは対立関係を生み出したゼロサムゲームが、 富を100生産できる社会Bでは解消されてしまうかもしれません。 選択肢が5つの社会よりは選択肢が10つの社会のほうが より高得点を得られます。 なぜなら選択肢が多い社会のほうが相対的によりよいと考えられるからです。 ここでは得点の相対性が問題です。数というのは順序的なものです。 AはBよりも良い、CはDよりも悪いということはできるけどどれくらい良いか悪いかを答えることはできない >>122 選択肢の快さの相対性の問題としては考えられるけど、得点を付与することはできないし、得点が順序を示すものだったらその総和を快さの大きさとして計算することはできないよ 快楽ではなく物質的富と考えれば計算できるのでは? 功利主義を快楽最大化原理と捉えずに富の最大化原理と捉えれば計算できるようになる ただし意味は全然違ってくるけど 近代ミクロ経済学の標準的な教科書にそう書かれてあるけど、 そのあたり、説明が充分じゃないと思うんだなあ。もう少し突き詰めないと。 >>125 快楽の大きさが測定不能なら快楽を最大化せよという規範はナンセンスなのでは? けっきょく「快楽」という概念が基準として恣意的だから、 個人個人の範疇を越えて測定できないんでしょ。 量か数かという以前に。 それに対して貨幣はなんらかの客観性を社会に与えた。 貨幣は個人を越えて測定できる。 「カレーライスとハヤシライスどっちが好き?」という質問にAさんとBさんが違う回答をしたらカレーライスとハヤシライスどちらが一般に大きな快楽をもたらすか決定できないからね ましてや「カレーライスはハヤシライスの何倍好き?」なんて回答不能 数と量を哲学的に分けよう。 数はどこまで細かくしても離散的、無限に離散的だと定義しよう。 それに対して量は連続的、無限に連続的だと定義しよう。 連続的だというのはつまりこういうこと。 数直線(モノサシ)を想像してみて。 モノサシには目盛りが振られている。++++++++++++++++++++++++こんな感じ。 このモノサシは目盛りと目盛りの間が均等であることに注目して。 これは量を測るモノサシだからだ。 他方、1 2 3 4 5 6 7 8 9 10という数列を見てみて。数と数の間がバラバラ。 でも順序だけはちゃんと並んでいるよね。これは離散的な数。 >>131 量にはアナログ量だけではなくデジタル量もある 例えば個数や金額は最小単位が存在するからその最小単位の整数値しかとらない 平和が意図的なら幸運は偶然的、では恣意的の意味は? 快楽を基準にすると、 一人あたりのGDPで国ごとの豊かさを測っても それはなんの意味もなさないことになるね。 日本人がブータン人よりも幸福だなんて絶対に言えない。 >>132 うん、>>131 ではアナログ量を「量」と名づけ、デジタル量を「数」と名づけたつもり。 間違っているかなあ。 >>135 デジタル量は数とは異なる概念なのでデジタル量を数と名付けることは不適切 デジタル量は数と単位の積だから数と同義とすることはできない 量というのは数と数の間の距離を問題にする。 しかし 数というのは数と数の間の距離は問題にしなくていい。 順番だけが問題。...0 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10...と並んでいてくれればいい。 量というのは本質的に数じゃない。 数というのはどこまで細かくしても離散的。順番だけが意味をもつ。 0.00000000000001よりも0.0000000001のほうが相対的に大きいと定義されていればいい。 量は数が測ろうとする対象物で、数というのは人工物。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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