ジル・ドゥルーズ Gilles Deleuze 21
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ドゥルーズの用語ってなんかサイバーパンクっぽいよね
サイバーパンクとの関連だとボードリヤールがちょくちょく名前上がるみたいだけど ドゥルーズの哲学は、何よりもまずヒンドゥー的。
古今東西の哲学者を見渡しても、ドゥルーズほどヒンドゥー的な哲学者はいない。
ドゥルーズと空海が双璧。 >>55
何もかもがだよ。
>>53のリンク先の説明は読んだ? >>57
>>53に書いが、何のことなのか理解できなかったのか? >>58
なんのことか理解できないな。
ドゥルーズのどこがヒンドゥー的なのか、二つ三つ例をあげてみてくれ。 >>60
東洋にはガウディ的な建造物はないだろ。
東アジアまでを東洋とするなら、なおさら建造物は整然としている。
ガウディは、西洋バロック(歪な真珠)の究極系と見るべき様式。 >>62
意味不明。
なんでも言えばいいってものでもあるまい。
ヒンドゥー教だったりバロックだったり、ドゥルーズも忙しいことだ。 >>63
「バロックの線とは、無限にいたる襞である。(「襞」 ドゥルーズ)」
ドゥルーズはライフワークの終着点付近でバロックを論じている。
それを考えれば>>54の言ってることはガウディを東洋的と言うにも等しい。
まあ、ここまで言っても意味不明というなら仕方ない、通じないんでしょう。
ただドゥルーズをヒンドゥー的とする読みも面白いとは思う。
私はそうは感じないけど、色んな読みを見せてもらうのは楽しい、それだけ。 >>53
ネグリ/ハートは、ドゥルーズを政治的に利用してるだけにも見える。
その系譜に置いて論じるのは、あまり好きになれない。
ネグリ/ハートらのコアは活動で、その思想はマルチチュードで十分、戦える。
ドゥルーズは、もっと純粋に哲学的価値を再認されるべきだと思う。
もっとも再現前なんてやなこったと言われるかもしれないが。 ドゥルーズのインドに対するスタンスが分からないと、
ドゥルーズ哲学の核心は理解できない。 > 『ニーチェと哲学』 足立和浩訳、国文社、1974;江川隆男訳、河出文庫、2008 >>60
> ガウディを東洋的というのと似た感覚だな
西洋か東洋かで分けるのは中世。
マルクス、ニーチェ、ソシュールといった現代思想の性格はインド=ヨーロッパ祖語発見以降のもの。 ドゥルーズとバロックを分解すると、
・内在
・自然哲学
・多元主義
そうしたバロックに至る系譜を示したのが>>53だし、
そのずっと古い例がヒンドゥー。 > 近藤和敬『〈内在の哲学〉へ:カヴァイエス・ドゥルーズ・スピノザ』
> 小林卓也『ドゥルーズの自然哲学: 断絶と変遷』 >>60-61
バロックやゴシックが、哲学的に何の表れなのか分からないようでは、
西洋哲学史や西洋思想史の理解も期待できない。
この辺は、スコラ学の話ね。 >>61
> 東洋にはガウディ的な建造物はないだろ。
アンコール・ワット(ヒンドゥー)、ボロブドゥール(華厳経) >>53のプロティノスもライプニッツも間接的に華厳(インド=イラン)の影響を受けていると言われる > 『襞──ライプニッツとバロック』宇野邦一訳 河出書房新社、1998 >>68
それでドゥルーズはヒンドゥー的というのは飛躍し過ぎでしょ。「千のプラトー」をメインにイメージとして類似するものを並べてるだけだし。ヒンドゥーも思想なんだから、個々のイメージの集積としては語りきれない全体像がある。ドゥルーズにも。
確かに「千のプラトー」ではデュメジルを引いてヒンドゥー的二元論を基軸に論じてはいるけど、ヒンドゥーにはドゥルーズと合い通じるものがあるに過ぎない。
ドゥルーズ一人の大仕事、「意味と論理学」や「差異と反復」などは位置付けようがなくなってしまうし、「アンチ・オイディプス」も苦しいでしょう。これらも位置付けられるなら、また違った様相は出てくるかもしれないけど現段階では一面的過ぎる。 >>71
その辺の理解は、それこそ「襞」に書かれていることの理解で良いだろうけど。
あえて言えば、やはり「差異と反復」「意味と論理学」での、いわば前期の議論を踏まえての後期の展開てあるのに、どうも後期ドゥルーズばかりを追いかけ過ぎているように感じる。
私も後期ドゥルーズは好きだけど、前期の大仕事も、それに負けないか、それ以上に重要な仕事なので、両者を跨いで論じないとドゥルーズにはならないと思う。 >>64
通俗的な比喩で、気の利いたことを言ったつもりになるのはねぇ・・・
もう少し勉強しようよ。 >>71
具体的に書けないのは、君がなにも理解してないからだよ。
理解という言葉を、しっかりとかみしめてくれ。
>>72
どちらも整然とした構成で、ガウディとはまったく別の感性によるもの。
ガウディは等価が基準だが、それらは序列的だ。 >>77
あなた、その通俗的な比喩すらわからなかったじゃない。
なに恥ずかしいことをおっしゃいますの? >>75
> それでドゥルーズはヒンドゥー的というのは飛躍し過ぎでしょ。
そんなのは悪魔の証明だから。
反論があるなら、ドゥルーズの言葉を挙げて「ドゥルーズ哲学の特徴は〇〇的なもの」と言えるかい?
> 「アンチ・オイディプス」も苦しいでしょう。
それは残念。最たる例なのに。
『アンチ・オイディプス』を理解できなかったのか、ヒンドゥー(インド思想)を知らないのか。 >>57
具体的な説明を求めるのは、無知な奴がヒントを乞うハッタリマウントだから相手にしない。
その上で、人の説明に目も通さないのはバカの壁か?
>>79
ガウディも、アンコール・ワットも内在と自然哲学だ。
それ以上に大きな問題系が他にあるのか?
等価(=対称性)は華厳やイスラムの代名詞だ。
整然とした秩序的体系を打ち壊して領域横断するドゥルーズの主要概念は何だ?
https://tavitt.jp/wordpress/wp-content/uploads/2017/08/855-000006_img01.jpg
“そして仏陀の樹はそれ自体リゾームとなる。”
― ドゥルーズ=ガタリ 『千のプラトー』 河出書房新社 (1994) 序
>>53とそのリンク先を一字一句読むまで引っ込んでろ。 >>81
ドゥルーズと空海が並ぶ構想は面白いと思った、なるほどと。
ドゥルーズの哲学の特徴というなら、根茎=根っことしか言いようがない気がする。深く深く沈潜して表面を覆う両義性の限界を探り、同時に表面を覆おうとする、「差異と反復」からずっと変わってないと思う。
だから、この写真は非常に良いと思ったよ。
https://tavitt.jp/wordpress/wp-content/uploads/2017/08/855-000006_img01.jpg
「アンチ・オイディプス」がヒンドゥー(インド思想)的かあ。
私は仏教を基準に考えてしまうけど、距離を感じるな。たとえばフロイトが無意識の発見で仏教的と言われるくらいの距離を感じる。アプローチしたい対象の近さについては同意するけど、アプローチ方法に大きな隔絶がある。
実際、インド人がドゥルーズを読んで「なるほど!」とは思わないでしょう。インド人が納得するような体験的アプローチが致命的に欠如してる。体験科学の世界だから、「だからなに?」という反応しか返ってこない気がする。 >>80
比喩は分かるよw
比喩に内容が伴ってないと指摘してるんだよ。
>>82
そこまで自分の無能を告白しなくてもいいのにw
ドゥルーズは、秩序的体系を打ち壊したんじゃなくて、先人の業績の核が理解できずに立ち向かっていったドン・キホーテなんだよ。 >>84
そういうコジツケ>>63を言い出すならならここまでだな。
ヒマジンの妄言だと承知した。 >>85
コジツケ?
自分がコジツケてるんじゃないかw
君が、まるで哲学を理解できていないことはよくわかる。
君にはマンガとゲームがお似合いだ。 >>87
つまり東洋的≠ヒンドゥー的=バロック的だと言いたいのかね。
ドゥルーズ(資本主義と分裂症)における東洋、アジアというのは、圧倒的に中国を意識してる。
むしろ東洋やアジアと切断してヒンドゥー的なるものを独自的なものとして評価してる箇所は見当たらない。
自分で書いていて論点をずらしてることに気づかないものかな。
>>54
> ドゥルーズの哲学は、何よりもまずヒンドゥー的。
>>61
> 東洋にはガウディ的な建造物はないだろ。
> 東アジアまでを東洋とするなら、なおさら建造物は整然としている。
> ガウディは、西洋バロック(歪な真珠)の究極系と見るべき様式。
>>69
> ドゥルーズとバロックを分解 >>88
>東洋的≠ヒンドゥー的=バロック的だと言いたいのかね
だれかのレスと混同してるね。
アンカーの中で僕のレスは>>61と>>87だけ。
そもそもバロックとは、わざわざカッコ書きで補足しているように、カトリック、絶対王政などの整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ。 横からだけどカトリックはバロックを取り入れてるよね
比喩だから事実は関係ないということかな
それならなおさら比喩で語る必要性がないよね
「矛盾のあらわれ」とそのまま言えばいいのにどうしてわざわざ比喩で語る必要があるのか >>90
「カトリック、絶対王政などの整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」
比喩なんか使ってないよ?
なにが言いたいのかな?
なんであれ、レスをよく読んでね。 >>89
確かに、変な批判が混じってくるなとは感じてたけど、そのせいかもな。
バロックは矛盾というより西洋的秩序に対する抗いや反抗だと考えてる。
東洋を仮にインドと中国に大きく分ければ、混沌の度合いはインドが上ではあるだろう。
ただ「平滑空間」の概念について考えても、やはりヒンドゥー的というのはどうなんだろうか。あのヒンドゥー的(原始大地機械的 「アンチ・オイディプス」)な閉鎖性(非脱領土性)をドゥルーズが見逃したとも思えない。中国について彼が触れるとき、かなりのところ騎馬民族を意識してることもあまりにも明確に感じることだし。一方のヒンドゥーは明確に遊牧的ではない。
その意味で「ドゥルーズはヒンドゥー的」論は、やはり「面白い」に留まるな。
独自に概念を発展させることは好きだし否定する気もないけどね。
まあ議論する気はないよ、ここはドゥルーズに倣いたい(>哲学は議論を嫌悪している。「哲学とは何か」)。 >>91
「ガウディは、西洋バロック(歪な真珠)の究極系と見るべき様式」
「バロックとは、わざわざカッコ書きで補足しているように、カトリック、絶対王政などの整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」
明らかに「西洋バロック(歪な真珠)」は比喩として扱われてるでしょ >>92
せっかくレスしてくれたから、一言だけ。
ドゥルーズは、フロイトにもマルクスにもそして哲学界にも、メチャクチャ論争を挑んだよね?
ヴィトゲンシュタインに対してなんか、「哲学の暗殺者」とまで言ってる。 >>93
歪な真珠というのはバロックという言葉の意味であって比喩ではないよ。
バロック様式というのは、そのまま、「カトリック、絶対王政などの整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」だよ。 >>95
「歪な真珠」は「バロック」の比喩だとは言ってなくて「矛盾のあらわれ」を「バロック」と表現することを比喩だと言っているよね
カトリックはバロックを取り入れていたと言ったよね >>96
バロック自体が矛盾のあらわれであって、比喩ではない。
カトリックがバロックを取り入れたのは、矛盾にあらがえなくなったということに過ぎない。
プロテスタントが登場したのも、カトリック内部の矛盾が拡大したから。 >>97
「矛盾のあらわれ」を「バロック」と表現することは比喩だという指摘に対して「バロック自体が矛盾のあらわれであって、比喩ではない」は根拠も示さずに自説を繰り返してるだけで何の反論にもなってないでしょ
「カトリックがバロックを取り入れたのは、矛盾にあらがえなくなったということに過ぎない」
これ根拠あるの?
プロテスタントの登場を根拠にバロックとカトリックの関係を語れるかな?
時期がほぼ同じだから?
それ以外にプロテスタント登場とバロック関係ある?
「矛盾があったから」は論点先取りだよ? >>98
まず、バロック(様式)とはなにか、どういうものがあるのかを調べてね。
事実を並べてみると、そこには矛盾があることがわかる。
歴史は矛盾により変わっていく、というヘーゲルの指摘は、正しいと思う。
とりあえず、「バロック自体が矛盾のあらわれであって、比喩ではない」という文章を、そのまま字義のまま理解してくれればそれでいい。 内在と書いてたのはそういう意味か。
その文脈のバロックだと、ボードリヤールなら内破とでも言いそうだ。 >>99
今問題になっているのは「バロック(様式)」のいびつさや不規則性ではなくて「バロック」が「カトリック、絶対王政などの整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」であることだよ?
そもそも「バロック」は後世の人による呼称だし >>101
何回も書くが、バロック様式というのは、そのまま、カトリック、絶対王政などの整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ、だよ。
名称が後世であるかないかは関係がなく、そうした非秩序的な特徴のある様式が生まれたということが、矛盾のあらわれということ。
ものごとは、いつでも現実が先にある。 >>102
後世の人による呼称であるかどうかは重要だよ
後世の人による「位置付け」に従って命名されるんだからね
まさに「非秩序的な特徴のある様式が生まれたということが、矛盾のあらわれということ」「ものごとは、いつでも現実が先にある」というのが後世の人による「位置付け」でしょ?
「矛盾のあらわれ」を「バロック」と表現することは比喩じゃない比喩じゃないと言っているだけで何の説明にもなってないよ
「カトリックがバロックを取り入れたのは、矛盾にあらがえなくなったということに過ぎない」の根拠は示さないしプロテスタントの登場を根拠にバロックとカトリックの関係を語れるかについても説明がないし
困っちゃうな >>103
君が困るのは自由だが、とりあえず僕の書いた文章が理解できなければ、これ以上書くことはない。
せめて、比喩であるか比喩でないかの違いぐらいは理解してから、”反論”してくれ。 >>104
私は理由や根拠を求めているだけで君の主張は理解しているよ
「バロックとは、わざわざカッコ書きで補足しているように、カトリック、絶対王政などの整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」で「バロック自体が矛盾のあらわれであって、比喩ではない」んでしょ?
私はその理由や根拠を聞いているんだよ? 「バロック」のデノテーションは16世紀ころの美術様式であってそれを「カトリック、絶対王政などの整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」とするのはコノテーションでしょ? >>105
整然とした秩序的なものへの否定だよ。
バロックを見たり聞いたりしてそれがわからないなら、特に書くことはない。 >>107
「整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」≠「整然とした秩序的なものへの否定」ということ?
それだと君の主張が変わったことになるよ?
私は君を引用しているんだから >>108
違うというのならその理由や根拠を書こうよ
同じこと何回も言わせないで >>109
なぜそうなる?
「整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」=「整然とした秩序的なものへの否定」に決まってるだろ?
そこまで日本語の読解力がないのでは、なにを書いても無駄。
>>110
君の日本語能力では、すでに書いてある理由も根拠も読み取れない。 >>111
「「整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」=「整然とした秩序的なものへの否定」に決まってる」のなら>>107はおかしいでしょ >>113
>>105に「整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」とあるのに>>107で「バロックを見たり聞いたりしてそれがわからない」と言っているからですよ
御自身の読解力を疑った方がよろしいのではないでしょうか >>114
どこがおかしいの?
バロックを見たり聞いたりすればわかることだよ?
時代の現実の矛盾から生まれる、前時代あるいは同時代への否定だよ? >>115
104に「僕の書いた文章が理解できなければ」とあったから
105で私が君の主張を理解していることを示すために「君の主張は理解しているよ」「「バロックとは、わざわざカッコ書きで補足しているように、カトリック、絶対王政などの整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」で「バロック自体が矛盾のあらわれであって、比喩ではない」んでしょ?」と書いた
それに対して107で「整然とした秩序的なものへの否定だよ」「バロックを見たり聞いたりしてそれがわからないなら」と君が書いた
107「それ」とは「整然とした秩序的なものへの否定」だと私は考えた
だから109で「「整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」≠「整然とした秩序的なものへの否定」ということ?それだと君の主張が変わったことになるよ?」と書いた
そして君は111で「「整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」=「整然とした秩序的なものへの否定」に決まってる」と書いた
この時点で104の「僕の書いた文章が理解できなければ」というのは間違いで私は君の主張を理解していたことが確定した
だから112で「「「整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」=「整然とした秩序的なものへの否定」に決まってる」のなら107はおかしいでしょ」と書いた 107に「バロックを見たり聞いたりしてそれがわからないなら」とあるが私は君の主張を理解していたことが確定したから >>115
「カトリック、絶対王政などの整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」を「バロック」と表現することは比喩だという指摘への反論にはなっていないよ >>116
>「僕の書いた文章が理解できなければ」というのは間違いで私は君の主張を理解していたことが確定した
君が>>105で「私はその理由や根拠を聞いているんだよ?」と書いたから、その答えとして、「整然とした秩序的なものへの否定だよ。
バロックを見たり聞いたりしてそれがわからないなら、特に書くことはない。」と書いた。
だから、「整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」≠「整然とした秩序的なものへの否定」にはまったくならないよ。 >>117>>118
理解してないから、いまだに比喩とか書いてるんだろ?
何回も書くけど、比喩ではなくたんなる事実。 >>118
ちなみに、「バロック」と表現、しているのではなく、その事象をバロック(様式)と呼んでいる。 >>119
え?あなた>>54だよね?
> だから、「整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」≠「整然とした秩序的なものへの否定」にはまったくならないよ。
つまり「矛盾のあらわれ」=「秩序的なものへの否定」ということ??? >>118
繰り返しておくが、バロックというのは、その時代の絵画や建築や音楽などの特徴をあらわした様式名。
共通した特徴の、現実にあるものを、そう呼んでいる。 >>122
前にも>>54ではないと書いた。
コテハンをつけてないとはいえ、内容で判別してもらえるといいんだが。
「矛盾のあらわれ」=「秩序的なものへの否定」
これは、そのとおり。 >>119
「私はその理由や根拠を聞いているんだよ?」の答えとして「整然とした秩序的なものへの否定だよ。バロックを見たり聞いたりしてそれがわからないなら、特に書くことはない。」を位置付けるのはおかしいよ
後付けで理由考えてるよ
「整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」=「整然とした秩序的なものへの否定」であるなら>>107における「整然とした秩序的なものへの否定だよ」は「バロックとは、わざわざカッコ書きで補足しているように、カトリック、絶対王政などの整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」という主張を繰り返しているだけで理由にも根拠にもならないよ >>120,121,123
106で「「バロック」のデノテーションは16世紀ころの美術様式であってそれを「カトリック、絶対王政などの整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」とするのはコノテーションでしょ?」と言ってるよね? >>125
後付けもなにも、「整然とした秩序的なものへの否定」であることは、実際の「バロックを見たり聞いたり」すればわかること。
それが答え。
理解するかどうかは君しだい。 >>127
理解するも何も>>116で「107「それ」とは「整然とした秩序的なものへの否定」だと私は考えた」」と言ってるよね? >>126
間違ってる。
言葉の使い方が見当違い。
カトリック、絶対王政などの整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれとして出てきたのがバロック。
舌足らずの言葉は使うもんじゃない。 >>127
問題になっているのは「私はその理由や根拠を聞いているんだよ?」の答えとして「整然とした秩序的なものへの否定だよ。バロックを見たり聞いたりしてそれがわからないなら、特に書くことはない。」を位置付けられるかどうかだよ? >>128
繰り返しておく。
君が>>105で「私はその理由や根拠を聞いているんだよ?」と書いたから、その答えとして、「整然とした秩序的なものへの否定だよ。
バロックを見たり聞いたりしてそれがわからないなら、特に書くことはない。」と書いた。
まず、この文章が理解できてない。 >>130
繰り返すが、君が理解するかしないかは君しだいだと書いている。 >>131
>>125でも書いたけど「整然とした秩序的なものへの否定だよ。バロックを見たり聞いたりしてそれがわからないなら、特に書くことはない。」は理由や根拠になっていないから「私はその理由や根拠を聞いているんだよ?」の答えとして「整然とした秩序的なものへの否定だよ。バロックを見たり聞いたりしてそれがわからないなら、特に書くことはない。」を位置付けるのはおかしいよね? >>133
理由や根拠になっていないと思うのは、君の読解力の問題。
僕は理由や根拠になっていると考えるからそう書いた。 >>129
「カトリック、絶対王政などの整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれとして出てきた」ものを「バロック」と呼ぶことの位置付けが問題になっている
「カトリック、絶対王政などの整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれとして出てきたのがバロック」と言っただけではデノテーションだともコノテーションだとも言っていないから何の反論にもなっていない >>134
>>125で書いたけど「整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」=「整然とした秩序的なものへの否定」であるなら>>107における「整然とした秩序的なものへの否定だよ」は「バロックとは、わざわざカッコ書きで補足しているように、カトリック、絶対王政などの整然とした秩序に対する芸術による矛盾のあらわれ」という主張を繰り返しているだけで理由にも根拠にもならないよ
主張の繰り返しは理由でも根拠でもないよ >>135
君が理解してもしなくても、僕は君の質問のすべてに答えた。
それだけのこと。
繰り返しておくが、舌足らずの言葉は間違って使ってしまうから、使わないほうがいい。 >>124
あまりにも基本的なことでの勘違いが多発しているようなので混線必至というのが正直なところ。
>>54も都合の悪いことには一切反応しないので余計にわからなくなるのだが。
> 「矛盾のあらわれ」=「秩序的なものへの否定」
> これは、そのとおり。
これではドゥルーズの構想とは全く別物にしかならない。参ったな、「意味の論理学」などは読んだこともなさそうだね。あまり雑に論じたくはないが、取り敢えずパラドックスと矛盾とは同じと解してるものとさせてもらう。ドゥルーズの定義では、パラドックスとは、こういうもの。
>パラドックスこそ哲学のパトスあるいは情念である(差異と反復 下P158)
これは「秩序的なものへの否定」ということではなく「矛盾(パラドックス)のあらわれ」によって哲学が、いわば推進力を得るというような意味、そもそも秩序との関係自体も怪しい。というのも「秩序的なものへの否定」という反抗的意趣は、ドゥルーズの動機にはあるものの方法的には否定されているに等しいから(たとえばヘーゲル批判)。
この辺りの前提のニュアンスは「差異と反復」「意味の論理学」全体を通底する、重低音的なものなのでドゥルーズに触れるなら一読されたい。
ちなみに「矛盾」という訳語で説明された箇所だとこういう表現も見られる。
>矛盾は基体が存在し始めたり、し終えたりするようにさせる変化の性格を示しているに過ぎない(差異と反復 上P93)
後期のD/G本だけを取り上げて論じられてもトンデモ・ドゥルーズにしかならない。日本のポモ連中がどうしようもないと批判される一因もそこにあって、鹿野もそのくらいは強く批判してると思う。当然だ、別物になってしまう。 デノでもコノでもなんでもいいが、あまりに失笑もののどうでもいい論を延々と展開するようでは、ただの暇人としか評しようがない。私は哲学素人だから素直に耳を傾けてはいるが、ピント外れであることくらいは分かる。何よりもドゥルーズ自身の言葉に反しているのだから、そうとしか言いようがない。
あなたたちはドゥルーズについて論じているのだよね?
もし意見や反論があるのなら、せめてドゥルーズの言葉を引きながら展開して欲しい。それくらいは批判するにせよ同意するにせよ当然のことだ。
申し訳ないがドゥルーズの一言は、あなたたちの万言の愚考より数億倍、有意義なのだよ(もちろん、私なんぞの愚考など聞くには及ばない)。 >>139
>パラドックスと矛盾とは同じと解してるものとさせてもらう
パラドックスは言葉の遊び。
矛盾は現実の疎外。
僕はこういう言葉の使い方をしている。
「ドゥルーズは、秩序的体系を打ち壊したんじゃなくて、先人の業績の核が理解できずに立ち向かっていったドン・キホーテなんだよ。」
これを書いたのも僕。
「差異と反復」「意味の論理学」「アンチ・オイディプス」「千のプラトー」など、いくつかは和訳で読んだ。
「差異と反復」は歴史認識の失敗、「意味の論理学」は言葉の関連付けの失敗、「アンチ・オイディプス」は通俗的なフロイト理解による誤爆、「千のプラトー」はソ連型マルクス主義への通俗的な批判、だと読んだ。
ちなみに、リゾームというのはユングの集合的無意識の変形で、これに社会性(同時代性)を加味できればフーコー、だと読んだ。
どれも歴史性の欠如が目立つ。 >>138
主張の繰り返しは理由でも根拠でもないよ >>140
ドゥルーズについて論じていないよ
ドゥルーズなんてどうでもいいよ >>141
「矛盾のあらわれ」と「秩序的なものへの否定」との区別すらつかない人間にドゥルーズなど読めるわけがない。斜め読みしてどこぞの解説を剽窃してくるくらいが席の山。なにをどう読もうと勝手だが、ぼんやりした愚昧な印象を開陳せず、実際に「ここがおかしい」という箇所を引用して示してご覧よ。
まさかドゥルーズの一節たりとも引用、批判も出来ずに「読んだ」とゴリ押ししてシノゴノ言い続ける積もりかね?
私はドゥルージアンというわけでもないが、特に誰かを批判的に評するなら「ここがおかしい」と明示出来る程度には理解、把握して話すよ。
小学生の読書感想文なら学校に提出しなさい。
> 「矛盾のあらわれ」=「秩序的なものへの否定」
> これは、そのとおり。 話に中身がないから、言葉尻だけで取っ組み合いになる >>146
そんなに悔しがるなよw
アリスがもっと大きくなることとアリスがもっと小さくなることは、同時である。アリスは今はもっと大きい、アリスは以前はもっと小さかった。
しかし、そうであったのに比べてより大になることと、そうなるのに比べてより小となすことは、同じ時に一挙にである。
(河出文庫『意味の論理学』上15頁)
言葉と記憶としての概念が混同されてる。
だから、言葉の関連付けの失敗。 >>149
答えになっていない理由を説明したでしょ?
理解できなかったかな? >>151
何回も書くことになるけど、観て聴いて調べて理解できないなら、言葉を尽くすだけ無駄。
百聞は一見に如かず。
この百聞は音楽のことじゃないからね。 >>150
まったく意味不明の自説を開陳されても疑問しか出てこないがな。
1.「言葉」と「記憶としての概念」が混同されているの?
それとも「言葉としての概念」と「記憶としての概念」が混同されているの?
2.そもそも「記憶としての概念」とはなに?
3.「どれ」が「言葉(としての概念)」で、「どれ」が「記憶としての概念」に相当しているの?
4.「言葉」と「なに」の関連付けが失敗しているの? >>153
引用までして説明してあげたのに、理解できなかったの?
ほらよ。
1.「言葉」と「記憶としての概念」の混同
2.概念というのはイメージ
イメージとは記憶
3.言葉「アリスがもっと大きくなることとアリスがもっと小さくなること」
概念「そうであったのに比べて」
4.言葉と言葉及び言葉と概念の関連付けの失敗 >>152
「この百聞は音楽のことじゃないからね」ってなに?
馬鹿にしてんの?
それなら言わせてもらうけど「舌足らず」の使い方間違ってるよ
「舌足らずな表現」や「舌足らずな文章」はあっても「舌足らずな言葉」はない
「舌足らず」は「言葉足らず」という意味だよ
君は人を馬鹿にしないほうがいい
馬鹿なんだから >>155
舌足らずというのは明瞭でないこと。
君の言葉の使い方は明瞭ではない。
僕は君を馬鹿にしてる。
馬鹿に馬鹿にされる君ってw >>156
「舌足らず」が「明瞭でないこと」という意味を持つのは「舌足らず」が発声について言われるときだよ
だから文字でやり取りしているときに「明瞭でないこと」という意味は持たない
馬鹿は馬鹿だから馬鹿にしていい相手と馬鹿にしてはいけない人間の区別がつかないんだよ?
分別があれば馬鹿じゃないでしょ? >>157
なんで君のことを馬鹿にしてはいけないの? 常識的な話をすれば私だけにかぎらず人を馬鹿にしないほうがいい
私が言うのもなんだけど
人のふり見て我がふり直せってやつですね
馬鹿にしてすみませんでした >>154
一応なりとも返答があったのでどうしたものかと思ったが、これではさすがに、全然、読み取れてないとしか言いようがない、すまないが。
正直、戸惑いを隠せない。
ドゥルーズは「もっと大きくなる」という出来事と「もっと小さくなる」という出来事は相互的、つまり「同時」にしか生じ得ないということを示しただけ(つまり一つの出来事だということ)。
逆に、それ以外、「もっと大きくなる」という時の「もっと」とは何と比較しての「もっと」であり、「もっと小さくなる」という時の「もっと」とは何と比較しての「もっと」だというのだろうか?
これだけ初歩的なスタート時点で躓いていたら、当然、これ以降の本格的な論考にもついてはいけない。適当にわかる文章を拾い読みして分かった気になることくらいは出来るかもしれないが。
実際、この程度のことさえ読み取れていないから、「ほらよ」と示した内容も支離滅裂になってしまっている。
特に「3.」は、どういう思考回路から飛び出したのか、こういう哲学分野でもあるのかね…とてもじゃないが人文畑の人間が書いた文章、内容とは思えないのだが。
意味がわからないなら意味がわからないと素直に言えばいいじゃないか、それで殺されるわけでもあるまいに。 命という面では死ななくてもプライドという面では死んでしまうんだよ >>161
>「もっと大きくなる」という出来事と「もっと小さくなる」という出来事は相互的、つまり「同時」にしか生じ得ない
そんなことが”同時”に起きるわけないだろ?
ものごとの動きというのは、必ず時間差がある。
だから、”同時”にというのは、イメージとの比較に過ぎない。
要するに、言葉の使い方を間違えている。
だから言葉の関連付けの失敗。
僕が理解できないんじゃなくて、ドゥルーズの言葉の使い方が間違っている。
理解できる? 「1回で2方向」これが意味の論理学のキーワード
「1回で2方向」を「同時に生じる」と言ってるわけでしょ? >>164
それは現実の動きではなく、イメージとしての感覚。
それなのに現実としての言葉を使ってしまうのがドゥルーズ。
誤魔化そうとしているとも言えるし、自分自身がイメージを制御できていないともいえる。 >>163
ここでの「出来事」という用語の使い方すら通じないようだね、いかんともし難いな。
なぜドゥルーズのスレになんか来る気になったのだろうか。
この「意味と論理学」の冒頭エピソードでの「もっと」という表現は、「単独」では生じ得ない出来事なんだよ。
いわば、「すべてがイメージの中でしか生じ得ない世界でのみ生じている」ことだと言ったら君の理解範囲に届くのだろうか?
それともカント的に(否定的に)表現すれば良いのだろうか、「物自体」の世界においては「もっと」など存在しないということだと?
この冒頭エピソードが読み取れないようでは、もはやドゥルーズの話が無理だよ。当然、ドゥルーズの本なんぞ眺める程度に「見る」くらいしか出来ない。ドゥルーズの敵はプラトン(イデア、再現前)であり、カントなわけだけど、この種の話は当然の前提として話が進むのだから。
果ては「僕が理解できないんじゃなくて、ドゥルーズの言葉の使い方が間違っている」と言われてもね。確かに「僕の理解」など独特過ぎて理解出来るわけがない。一方のドゥルーズのスタート地点は哲学史の研究者だ。
まあ哲学の先生にでもおなじことを言ってみたら良いよ、「僕はドゥルーズの致命的な間違いを発見しました」と。
その結論は、理解できるかな? >>166
>すべてがイメージの中でしか生じ得ない世界でのみ生じている
なんだ、君は僕の理解を追従してるのかw
ドゥルーズの言葉の使い方がおかしい、間違っているというのは、分析系の哲学者の共通認識だよ。
チョムスキーなんかは言語学系の哲学者だけど、ドゥルーズなど相手にするのも愚か、ぐらいのことまで言っている。 >>166
補足しとくけど、ドゥルーズの仮想敵はろくに読んでもいないヘーゲルであり、マルクス。
このくらいのことは”常識”として知っておいたほうがいいよ。
とはいえ、実際にマルクスを読むようになってからの晩年は、マルクスに心酔してしまったみたいだけど。 ドゥルーズの主要概念も知らず、
批判をしたいが為に、考えを書かせては揚げ足取りを繰り返す
マルクス信者が常駐しているけど、エサをやらないこと >>169
ドゥルーズの主要概念も説明してあげたのに・・・w
わかっているふりはやめなよ。
ドゥルーズ信者というのがなぜか存在するのは知っている。
現実に対してはまったく無力だけど、だからこそ、現実から逃避できる詩的哲学の価値がある、のかな? >>167
なにを頓珍漢なことを言っているのだろう…?
きみの追従などしてはいないが?
そもそもドゥルーズは「現実」に何が起きるかなんてことは、まったく問題にすらしていない。
だからこそ、わざわざ「シミュラクル」についても別途、章を立ててる(このシミュラクルは、ほぼ「言葉」の世界だと言って良い)。
こんなことは基本に過ぎず、あえて言うまでもないことなんだが。
きみは、それすら勘違いをしているから、
>「言葉」と「記憶としての概念」の混同 >>154
などという「混同」をするわけだし、「記憶としての概念」という表現自体がナンセンスに過ぎる。
むしろドゥルーズは「言葉」と「記憶」「概念」をそれぞれを別個の概念として、これでもかと切り分けてゆくよ。「差異と反復」から「意味と論理学」の仕事は、特に綿密。
それと哲学者同士のケンカ言葉を、どちらの言説も大して理解しないきみが引っ張ってきても無意味。
私はあくまで「僕が理解できないんじゃなくて、ドゥルーズの言葉の使い方が間違っている」と、直に哲学の先生に言うと良いといったまでだ。きみが正しければ大層な哲学が構築出来るだろう。
あまりに醜態に醜態を重ねても、もの笑いのタネになるだけだよ。 >>169
ああ、そういうことなのか、承知したよ、ありがとう
どうりで、まともに著作を読んだとも思えない頓珍漢な話ばかりになるわけだ >>171
>そもそもドゥルーズは「現実」に何が起きるかなんてことは、まったく問題にすらしていない。
また、気の利いたデタラメを・・・w
ガタリとの共著をどうするんだよ?
>きみが正しければ大層な哲学が構築出来るだろう。
僕が正しくても正しくなくても、哲学は消滅するんだよ。
ヴィトゲンシュタインに対してドゥルーズが怖れたとおりに、ね。
醜態に醜態を重ねているのは、ドゥルーズの言葉を必死に理解しようとして、こねくり回してる君の方だということに気が付かないといけない。
いまどきドゥルーズなんて、とっくにもの笑いのタネになってるからね。 前期ドゥルーズは飛ばしてるひとが多いんだな、前期こそ面白いのに >>174
前段の指摘については訂正する必要があるな。
意味は通じてるようだが、当然ながら「差異と反復」「意味と論理学」でのドゥルーズは、だね。
後段には異論を持ってるが大した興味もないので、そう考えるんだねとしか言いようがない。
好きな本を読めばいいだけじゃんとしか。
まあ、これ以上は揚げ足取りくらいしかネタもないだろう。
せめて読んでから批判しろと言って読むわけでなし、終わりだな。 >>176
「差異と反復」も「意味と論理学」も、ドゥルーズにとっては現実との闘いだよ。
その闘いの思いが、後年ガタリと出会って爆発した。
誤爆になっちゃったけど。
そのくらいのことは、いくつかでも読んでいればわかること。
君の、あまりに昔ながらのドゥルーズ理解にあきれてしまった。
虚心に読んでから”擁護”しろ、というのが君への忠告だ。
いまでもそのドゥルーズで飯が食える人がいるのなら、他人の商売を邪魔する気はない。
でも、そうした無意味な”精読”が、自民党政権に文系廃止を叫ばれてしまう理由でもあるということぐらいは、見つめて欲しいな。 これがアドバイスにあった揚げ足取りか、一晩、考えて、よほど悔しくて仕方ないんだな。
まあ、そこまで言うならきみが「現実」という言葉をどのように使っているのか、定義してもらいたい。
きみがホクホク顔で言ってる「現実」なんて、いわば現実社会という程度の意味に過ぎず、この文脈での「現実」にはなんら関係ない。
>>176などの「現実」を、敢えてラカン的に言うなら「現実界」に相当する(もちろん厳密には違う)、「シミュラクル」という用語自体、そういう文脈で使う。
こんなことは本来、ドゥルーズのことに触れる以上、説明するまでもないことで、きみ自身が様々な概念を混同して混乱していることの証左。本当に文意が汲めてないまま大騒ぎしているから驚く、鹿野に叩かれたロートルどもと同じだよ。
そんな程度でも読んだ積りになれるよう延々と揚げ足取りを続ける虚しい精神性、そんな人間が生じるようでは文系廃止も止むなしだろうよ。それこそ、そんな愚策がどうして出てきたのか、自分を振りかえって考えてみろと言いたいね。
それに同じようなことを何度も言わせられるが、私は特段、ドゥルーズ擁護に興味はない。
もちろんドゥルーズは好きだがね、批判したければ批判すればいいし、妥当な批判なら面白いと感心するに過ぎない。
しかし、自分では読めてもいないドゥルーズについて、偉ぶりたいだけで中身のない愚かな批判を繰り返すことには当然に失笑するよ。
なんならドゥルーズを乗り越えたらしき哲学の精髄でも披露してみたまえよ、みんなで大いに慶賀しようじゃないかね。
最後に「昔ながらの理解」が何を指しているのかはわからんが、ドゥルーズの解説書なんて読めば読むほど分からなくなるよ。私はザっと目にした程度で呆れたから入手すらしていない、原典が一番だよ。 >>178
君と違って一晩考えたりしないが、せっかくレスしてくれたから、いくつか回答しておく。
>きみがホクホク顔で言ってる「現実」なんて、いわば現実社会という程度の意味に過ぎず、この文脈での「現実」にはなんら関係ない。
もちろん、僕が書いた現実とは現実社会のことだ。
普通の日本語として、それ以外の意味は無い。
君は、現実社会以外の現実があると思ってる妄想系哲学愛好家なんだね。
>こんなことは本来、ドゥルーズのことに触れる以上、説明するまでもないこと
説明はいらないが、その部分を僕は批判してるんだぜ?w
現実を捉えられないから、仮想の現実となり、そこに仮想の敵(フロイト、マルクス)を設定する。
仮想の敵が別人になってしまうのも、そのせいだろう。
>自分では読めてもいないドゥルーズについて、偉ぶりたいだけで中身のない愚かな批判を繰り返すことには当然に失笑するよ。
僕が君に対して思っていることと、まったく同じだw
とりあえず君は、”現実”とはなにかを考える必要がある。
そこにいる君自身であり、コロナに翻弄される社会であり、虐殺が続く世界が、現実だ。
君の家族も、友人からのプレゼントも、君に子供ができたことも、現実だ。
現実とは、まさにそこにある事実の集合だよ。 >>179
あえて言うなら、こんなレスの応酬という「事実」をひとつとったって「妄想」であり「仮想」である以外にはなんの「意味」もないんだがな。
>現実社会以外の現実があると思ってる妄想系哲学
要は、きみの言いたいことをまとめるとプラトン以来の西洋哲学の系譜を「妄想系哲学」として否定したいということになる。
きみが、そういう思考がお好みなら、それはそれで構わないんじゃないかね。従来、特に独観念論などに対して思弁的に過ぎるという批判はオーソドックスで目新しいものでもなんでもない。
もっとも、きみの批判方法ではドゥルーズに限らずフロイトやラカンの系統すら全て否定するしかなくなるし、存命の著名な哲学者ではドゥルーズ批判で有名なジジェクも同類だ。(さすがに小説などのフィクションまで挙げずとも良かろうかね?)
ただ近年、注目されているガブリエルの批判の基本は西洋哲学の(影響に関する)軽視だよ。
私たちの思考を規定してしまう根元的な西洋哲学の在り方から批判し、構築し直すことが必要という話だ。ひたすら「妄想系」「仮想」などと言って腐していればどうにかなるなどという軽率な楽観論は、そこにはないし、どうしたってプラトン来のイデア諸々についても批判するしかない。
>現実とは、まさにそこにある事実の集合だよ。
この手の認識を否定する気はないよ、そういう思考をする人間がいることも承知してる。
ただ「事実」とやらを、少なくとも直接的にコントロールすることの不能性こそが哲学や心理学、文学など人文系諸学の契機であり、原動力だということだと指摘するしかない。親子関係ひとつとってすら、そこには「事実」以上の「意味(の世界)」が存在するということ。
その「事実以上のこと」を重視するひとつの姿勢があるということだ。
極論、「事実の集合」としての「現実」の問題が、きみの考えるような事実(あるいは科学)的アプローチで解決され、人類がストレスフリーに生きていけると考えるのなら人文系なんて不要なんだよ。つまり、まさしくきみがいったように「自民党政権に文系廃止>>177」を主張させる有力な根拠となってしまうということ。
そもそも問題を解決し得ないのに、解決手法すら懐疑的に検討しないことは思考停止の危険な傾向だと、私は考えるがね。大体、「事実、事実」と強調する人間が有力な解決策を示した試しはないんだよ(ただし、これは私自身の経験則だから異論は好きにしてくれていい)。
それにしても目先の問題なんて、だれもが必死に取り組んでるし、それでも解決し得ないなんて自明のこと。
しかし広く観念論が苦手なひとはいるのだから、なにも無理して付き合う必要もない。 ニーチェや構造主義以降にあたるフーコー、ドゥルーズ、デリダの紹介には、
よく「反哲学」や「反形而上学」という言葉が用いられた。
西洋哲学がその頂点において自己批判をした結果、
非西洋的な東洋思想などが参照されたり、
そうしたものに似てきたりしたことも当然だろう。
この路線を徹底させたのが後期のドゥルーズ=ガタリ。 >>163-164
デリダは、プラトンの『パイドロス』に出てくる古代ギリシア語の「パルマコン」という言葉に注目した。
「パルマコン」は「毒」を意味すると同時に「薬」をも意味し、デリダはこれを脱構築に用いた。
世界の古代語には、こうした正反対の概念を同時的かつ両義的に意味する言葉が数多く見られるという。
デリダやドゥルーズの着想の多くは古代をモチーフにしている。
> そんなことが”同時”に起きるわけないだろ?
> ものごとの動きというのは、必ず時間差がある。
> だから、”同時”にというのは、イメージとの比較に過ぎない。
これが「差延」(デリダと同じ地域の生まれのアウグスティヌスが元)。
もちろん彼らが目指すのは単純な古代回帰ではなく、一周回りながら発展させたもの。
同時代のマクルーハンにも見られる螺旋階段的モデル。 >>83
フロイトは『モーセと一神教』があるからユダヤ=エジプト文明的。
仏教の唯識は、4世紀頃には既に無意識を8つの構造に分けて説明している。
同じくインド哲学に接近したデリダの場合については『Derrida and Indian Philosophy』という本があるけど、
彼やレヴィナスの哲学は外在的で、徹頭徹尾ユダヤ的なもの。
旧約の世界観というのは、一神教(一元的)で、非対称的。
その神は宇宙を創ったから、宇宙(自然)の外に外在し、非自然的。
ドゥルーズの多元的で対称的で内在的な自然哲学的な性格は、ヒンドゥーなどアニミズムの特徴に近い。(>>53リンク先)
スピノザも汎神論だけどリゾームは出てこない。
ヒンドゥーまで行かないと。
> 実際、インド人がドゥルーズを読んで「なるほど!」とは思わないでしょう。
ドラッグをやった体験がアジアやアフリカの自然哲学に似ているというのは、ヒッピーと変わらない話だから気を付けなければならないし、訂正もしていかないといけない。
中沢新一による批判なんかがその例。 筑紫「中沢さんはチベットへ行っちゃったり、ものすごいオールド・デイズにはまり込んでいるでしょう。(略)」
中沢「ぼく、ああいうの全然オールド・デイズだって感じないの。(略)
どんなにジル・ドゥルーズが現代的哲学者の中でとびぬけているといったって、
イスラム教のスーフィの書いたテキストであるとか、タントラ密教のテキストとかのグローバルさとくらべてみると、
やっぱり劣るなという感じがするのね。(略)」
― 筑紫哲也×中沢新一 『若者たちの神々:筑紫哲也対論集3』 新潮文庫 (1987) >>83
インド思想史をちゃんとやると、ヒンドゥーと仏教は全く別のものだと説明される。
仏教はヒンドゥー的風土を母体にそこから生まれた反体制派であると。
ドゥルーズは仏教を高く評価しているけど、この辺も理解して>>53の言葉になるし、>>92への回答にもなるだろう。
西洋の人の間にはインドと仏教を同一視する以下の様なイメージもあるから、ざっくりとした印象で説明してきた。
https://c.stocksy.com/a/KWR200/z9/582448.jpg
ブラックバーン 、熊野『図鑑 世界の哲学者』の「釈迦」の肖像画に使われていた
タイ、アユタヤのBuddha Head Root Tree >>88、>>92
ドゥルーズ、デリダ、マルクスも古代インドや古代中国をヨーロッパ文明の下に見ている。
反対に、ライプニッツは中国を、ニーチェはインドを、ヨーロッパ文明が見習うべきものと評価した。
それぞれにバイアスがある。
ドゥルーズのモンゴル理解(ノマド・戦争機械)は形態の評価に留まっている。
それに対して、井筒俊彦と司馬遼太郎は、モンゴルとイスラムの衝突を、東西の精神史を理解する上で欠かせないものと見る。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1495629112/422-425 何故こういう話になったのかというと、
元は>>52のドゥルーズとサイバーパンクのイメージというところから。 ネグリ=ハートは自身の概念と、ドゥルーズの「器官なき身体」(『アンチ・オイディプス』など)や
マルクスの『経哲草稿』を思想史的に紐づけている。(>>53リンク先) “「器官なき身体」の概念を展開したドゥルーズとガタリが影響を受けたマルクスの一節にはこうある。「自然とは、人間の非有機的身体である…[略]…政治的生産の時代においては、大都市がこのマルチチュードの非有機的身体としての役割をますます担うようになっていくのである。”
― ネグリ=ハート 『コモンウェルス:<帝国>を超える革命論 下』 (2012) 第4部 “自然とは、それ自体が人間の身体ではないかぎりで、人間の非有機的な肉体である。
人間が自然に依存して生きているということは、自然が人間の肉体だということであり、
人間は死なないためにはたえず自然と交流しなければならないということだ。
人間の肉体的・精神的生活が自然と結びついているということは、
自然が自然と結びついているというのと同じだ。
人間は自然の一部なのだから。”
― マルクス 『経済学・哲学草稿』 長谷川宏訳、光文社古典新訳文庫 (2010) 第1草稿 4.疎外された労働 p100-101 >>189-190に見られる人間と世界のエコノミーの一致というのは、
サイバーパンクだし、ヒンドゥーの中心原理である「梵我一如」以外の何物でもない。
人間(アートマン)と自然(ブラフマン=宇宙の根本原理)の一致。自己と他者、主客の一致。
その他の例があるだろうか。 ドゥルーズの説明では「器官なき身体」の着想の元はアントナン・アルトーとされているが、
「器官なき身体」というイメージは、仏教にも古くから数多くの例がある。
「身心脱落」とか「幻身」とか「倶胝竪指」とか。 ブッダ自身が、身体の解体を家屋に喩えて次のように言っている。
“わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、
家屋の作者(つくりて)をさがしもとめて。
あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。
家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。
汝はもはや家屋を作ることはないであろう。
汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。
心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。”(真理のことば 11:153-154)
― ブッダ 『ブッダの真理のことば・感興のことば』 中村元 訳、岩波文庫 (1978) p31 >>180
>「事実」をひとつとったって「妄想」であり「仮想」である以外にはなんの「意味」もない
それが妄想系哲学の妄想系と言われる由縁。
プラトンもアリストテレスも、現実は現実として認めていた。
実は、あのヘーゲルも現実を見つめるタイプで、ヘーゲルのカント批判もそこがポイント。
>広く観念論が苦手なひとはいるのだから、なにも無理して付き合う必要もない。
観念論はいつの時代も、支配者にとっての支配の理念的支柱だ。
それはまさに、現代の日本でこそ顕著に表れているが、それを手助けしているのも、ドゥルーズ好きなどの妄想系哲学者であるともいえる。
観念論が心理の誤用(言葉の誤用)であることは、とっくの昔にフォイエルバッハが解明済みだ。
現実を現実として見つめる以外に、現実の解決手段はない。
妄想系は現実を哲学(心理の問題)に矮小化して、現実から逃避する。
事実を妄想の中で混濁させる君の経験則は、ただ愚かというほかはない。
「事実以上のこと」などないし、あると思い込むのが妄想系哲学だ。
実存は本質に先立つ、という言葉は、遅れてきたヘーゲルではあるとしても、確かな”事実”だ。 >>182
デリダは言葉を遊ばせることで新しい概念が見つかるのではないかと考えただけの、言葉の遊び人。
なにをモチーフにしようと、言葉の模索に過ぎない。 >>194
随分ときみに都合の良い話だけに付き合ってきて、いくら、きみが気張っても、「なるほど、こういうひとがいるから観念論も精神分析学も重要なんだな」ということ以外、なにも感じないな。
「現実社会」という意味での「現実(というより事実)」さえ否定したわけでもない(ただし認識には、常に意味がつきまとう)。
ヘーゲルの方法については、むしろ現実(社会の認識)を観念論化する最たるもので、それこそ「(近現代の)支配の理念的支柱」の代表格だよ。むしろ、きみが依拠しようとするフォイエルバッハの言葉にくらい、耳を傾けたらどうかね?
(この西洋的観念論の根源にこそプラトンらがいて、そのプラトンらを批判=転覆することもドゥルーズの仕事だったわけだが)
>ヘーゲル哲学を放棄しない人は、神学を放棄しない
(将来の哲学の根本命題 フォイエルバッハ 岩波文庫P116)
>観念論が心理の誤用(言葉の誤用)であることは、とっくの昔にフォイエルバッハが解明済み
恐らくきみは、今度はフォイエルバッハについて致命的に読み違えてると思う。というか、またもや解説書の鵜呑みで原典を読んでないのではないか?それこそ観念的に自分の考えを書き散らすのではなく、原典の該当箇所を引用明示してくれ(本当ならプラトンやアリストテレスらについても一々お願いしたいくらいだ)。
>実存は本質に先立つ、という言葉は、遅れてきたヘーゲルではあるとしても、確かな”事実”だ。
私に言わせれば実存論者こそ、神学の根幹を確定させた真犯人だよ。精神的に安定していれば実存性なんぞ論ずる必要性もないこと、些末事に過ぎない。現在のキャンセルカルチャーに嬉々として乗るような手合いが実存論者のなれの果てだよ。
まあ、きみとドゥルーズとは相当に相性が悪いだろうことくらいは確定的だが、それはそれで仕方ないことだよ。 >>182
>これが「差延」(デリダと同じ地域の生まれのアウグスティヌスが元)。
横レスに近くて申し訳ない。彼はデリダの差延的な問題意識での主張をしているわけではないのではないか。デリダはほとんど読んでないのだが、一部から察することが出来る限り主張のフェイズが違う印象を受けてしまう。
><生き生きとした-現在>は、事実上は、つまり現実的、実際的等々においては、無限に差延される。この差延は、イデア性と非-イデア性のあいだの差異である。(声と現象 デリダちくま学芸文庫P223)
実際には他のレスこそ面白く読ませてもらったのだが、長文になり過ぎるので興味深く読ませて頂いたとだけ(特にヒンドゥー−仏教については承知)。 差延どころか、同時代の現象学のごく基本的な議論も知らないんだろうし、
そういう「車輪の再発明」に付き合わされるのは御免だということ >>196
>ヘーゲルの方法については、むしろ現実(社会の認識)を観念論化する最たるもので、それこそ「(近現代の)支配の理念的支柱」の代表格だよ。
もちろんその俗説は知っているw
でも、少しきちんと読めば、それが俗説に過ぎず、ヘーゲルは現実を丸ごと分析しようとした哲学者だということがわかる。
君の理解力で読み取るのは無理かもしれない。
>今度はフォイエルバッハについて致命的に読み違えてると思う。
具体性がないので反論のしようもない。
>私に言わせれば実存論者こそ、神学の根幹を確定させた真犯人だよ。
知っていると思って注釈をつけなかったが、「実存は本質に先立つ」と言ったのは、サルトルだよ。
サルトルは、本質という哲学者の議論の前に現実の存在というものがある、と言ってるんだ。
フォイエルバッハテーゼ(「哲学者たちは世界を様々に解釈してきた。大切なのはそれを変革すること」)を哲学風に言い換えたもの。
君はもう少し哲学に詳しいかと思っていたんだが、僕の誤解だった。
サルトルに限らず、マルクスはもちろん、ヘーゲルやフォイエルバッハもほとんど読んでいないようだ。
好みが違う、と言ってしまえばそれまでだが。 >>198
同時代の現象学のごく基本的な議論とはなに?
デリダの差延を現象学のくくりにれるの? >>199
ちょっと信じ難いんだが、きみは本当に何も読まずに「読んだ読んだ」とだけ言っているようだね。
少しでも具体的な話になると、ことごとく逃げまわって自分勝手な観念を振り回しているのは、他ならぬきみの方なんだが。
>ヘーゲルは現実を丸ごと分析しようとした哲学者
「俗説」扱いも結構だが、他ならぬきみが推したフォイエルバッハ>>194のヘーゲル批判>>196についてはどう説明するのかね?フォイエルバッハは、端的にヘーゲルを「神学(観念論)」だと言っているわけなんだが?
>具体性がないので反論のしようもない。
おいおいおい、いい加減、そんな逃げ口上を繰り返されても困るんだよ。
きみが主張する、
>観念論が心理の誤用(言葉の誤用)であることは、とっくの昔にフォイエルバッハが解明済み >>194
について、相当箇所を引用明示してくれればいいだけの話、具体性も何も、ただきみの主張を原典で裏付けてくれと言っている。
>知っていると思って注釈をつけなかった
こじつけ、難癖も、ここまで来ると、もはやコミュニケーションの不全しか感じないな。
きみの主張である、
>実存は本質に先立つ、という言葉は、遅れてきたヘーゲルではあるとしても、確かな”事実”だ。
を踏まえて「実存論者(つまり、サルトルらのことだ)こそ、神学の根幹を確定させた真犯人」と言っているに決まっているだろう。それさえ読み取れず、「サルトルは〜と言ってるんだ。」と言われても「そうですか」としか言いようがない、はっきり言って不毛だよ。
>君はもう少し哲学に詳しいかと思っていたんだが、僕の誤解だった。
そもそも私は「哲学素人」であることを隠しもしていないんだが?>>140
しかし、その哲学素人の「基本的な質問」からすら逃げ回っておいて一体、何を偉そうにのたまわっているのだろうか、このひとは。 まだこんなの読み解釈している研究者がいるんだ?
もう古くないですか? 『ドゥルーズ派の誕生』 単行本 – 2021/7/15 >>203
>フォイエルバッハ>>194のヘーゲル批判>>196についてはどう説明するのかね?フォイエルバッハは、端的にヘーゲルを「神学(観念論)」だと言っているわけなんだが?
君はヘーゲルを読んだことがないから知らないと思うが、ヘーゲルは国家を神とした。(『法の哲学』)
神学ということも可能だが、そこにいたる論理は現実の分析に基づいている。
現実を分析し、最後の価値観として国家を神とした。
だから、マルクスは、ヘーゲルを逆さにして、神を労働者に置き換えれば良い、と言った。
>相当箇所を引用明示してくれればいいだけの話、具体性も何も、ただきみの主張を原典で裏付けてくれと言っている。
引用は面倒だから書名だけあげておく。
『キリスト教の本質』
類的本質としての人間とか、人間の本質は厳密な意味での意識にあるとか、書いてあるよ。
>「実存論者(つまり、サルトルらのことだ)こそ、神学の根幹を確定させた真犯人」と言っているに決まっている
サルトルが「神学の根幹を確定させた」?
ここまで無知では議論のしようがない。
君は哲学と完全に無縁なマウンティングゴリラ君だったのかw どんなスレの何の話題であっても、
マルクス、ヘーゲル、フォイエルバッハに持ち込む
旧制中学校の図書委員みたいな奴がいるから注意 >>207
旧制中学だったら、マルクスは禁止されてたから、デカルト、カント、ショーペンハウアーじゃないかな?w >>206
これ以上は無駄、実に不毛な手間をかけてしまった。
何度も言うが、きみの駄弁を目にするくらいなら先賢の片言に触れた方が遥かに勉強になるのだよ、比較することすらバカらしい。
にも関わらず、これほど騒いで自分が持ち出した哲学者の引用一つすら満足に出来ないとは呆れる。フォイエルバッハ云々言っても、まあぞろ読んだこともないどころか所有すらしてないのだろう。知性の崩壊、ここに極まれり、惨め過ぎるとしか言いようがない。
なによりも「誠実さのかけらもない」とは、こういう輩のこと、文字通り性根が腐りきっている。
実に、あわれな痴呆性生命体だよ。
人間、こうはなりたくない。 >>209
ただの罵詈雑言かよw
一切の反論ができずに、「おまえのカーちゃんでーべそー」と言って泣きながら逃げるのか?
まあ、それでもいいけど、君がもう少し勉強したら、また相手をしてあげるよ。
『キリスト教の本質』は賛否はあるけど、フォイエルバッハの主著だし、とても優れた本だから読んでみるといいよ。 と、とても優れた本の一節も引用出来ないバカが申しております。 >>211
ほらよw
「われわれは、宗教の内容と対象とが徹頭徹尾人間的なものであることを証明し、神学の秘密は人間学であり神の本質の秘密は人間の本質であるということを証明した。」 おまけw
事物の諸々の区別は重要ではない。なぜなら、実体が自己区別と解されるからである。
あるいは、自己区別、区別するはたらき、悟性の活動が、本質的と解されるからである。
したがってヘーゲルは思弁の内部で、現実的な、事物をつかむ諸々の差別を与えたのである。
(マルクス「フォイエルバッハテーゼのノート」) >>212
ドゥルーズのキリスト教観に比べたら日の丸弁当ぐらいの世界観
恥ずかしすぎる >>215
理解できないように書かないと、フランスの学術界では認められない(笑) by フーコー >>217
フーコーは読めても、それより少し複雑なドゥルーズになると
何の話をしているのかも分からなかったんだろ?
君は哲学の議論はしたいけど、新しい本を開くのが億劫で、
人に読書体験を書かせては、それに噛みつくことが
マルクス主義革命だと思っている。 バイアスだらけの解説など当てにせず、
自ら哲学者の言葉を読んで事実を確かめるようでないと、
哲学や科学の始まりにも立てない。
自分で読んで来い。 政治的理由で決裂したとは言われてるが、そもそもフーコーのドゥルーズ評価は高かったわけで >>220
フーコーではなく君がどう読むかだ。
ドゥルーズスレで、いつまでそうやってドゥルーズを疎外するのか? >>218
フーコーの言葉を紹介しただけ。
悔し紛れに変に気を回すなよw
>>221
ひとつ聞きたいんだが、ドゥルーズのどこがいいと思うの? >>222
いいとか悪いとか、好きとか嫌いとか、
そういう情緒的な本の読み方は
高校生ぐらいまでにしておきなさいって
マルクスごっこで習わなかったのかい >>223
情緒的な本の読み方をするとなにが”悪い”の?
そもそも、「いいとか悪いとか」が情緒なの?
ドゥルーズについてなにも語れないのに、このスレにいるの?
それともなにも読んでないの? >>226
ドゥルーズ愛好家ってこんなのしかいないの? >>236
サンドウィッチのクリームサンドとフルーツグラノーラ >>227
何故、君の質問に答える人がいなくなったのかというと、
この板一のマルクス主義者といわれる君が、
唯物論のゆの字も知らないからだよ。
君は本の中で唯物論というキーワードは読んでいるかもしれない。
しかし、君自身が唯物論的な見方をする習慣が全くなさそうなことが、
あちこちの発言から垣間見える。
学業や職分の中で、そのような必要に迫られたことがないのか、
訓練を受けたことがないのか、あるいは、周りにリアルなマルクス主義者がいなかったのか。
そんなところだろう。 >>238 あなたの考えでは例えばカントなんかも「良質なポエム」
なんですか? 哲学全般を一種の文学だとする考え方は
割合ふつうだと思うんですが。あるいは、特にドゥルーズに関して
それは哲学ではないがしかしだからと言って捨てる気もない、
というような意味なんですか? その場合、哲学としての
哲学をやったのは、例えば誰なんでしょう。 >>241
あなたが何日も考えた結果のレスがこれ?
「唯物論的な見方」てどういうの? >>242
横だけど、哲学といえばヘーゲルだよね。
ドゥルーズがヘーゲルを少しでも読んでいれば、もう少し謙虚に、そのまま哲学史家として一生を終えてたかもしれないね。 >>243
そういうことを君は誰よりも説明できないといけないんだけどね。
これからの課題にするといいよ。
「マルクスの本を唯物論的に読む」とはどういうことか?
唯物論抜きのマルクスなんて、味噌の入っていない味噌汁だから。 >>245
晒しておくよw
>「マルクスの本を唯物論的に読む」とはどういうことか?
>唯物論抜きのマルクスなんて、味噌の入っていない味噌汁だから
自分がなにも反論も説明もできないからって、ここまで見当違いの質問で返してはいけないよ。
君は、フォイエルバッハもヘーゲルもマルクスもエンゲルスも、もちろんドゥルーズも読んでいない。
なぜ、このスレに来たんだ?
本を読んでいないならいないで、少しは自分の頭で考えろよ。
君の頭は、カツラの台なのか? お前ら、口角泡を飛ばすのは良いが口臭ケアしてるか?
結構、臭うぞ 初期のドゥルーズ読んでみたいんだけど、手始めとしての入門書でお勧めってあるかな
ドゥルーズに関する知識は、浅田彰の昔の著作で読んだ程度しかない >>250
ドゥルーズ(1925-1995)をポエム呼ばわりしたくなる気持ちは分かるが、
それを言ってしまっては君の負けなんだよ。
君が、ドゥルーズが哲学的に何をした人なのかまるで理解していないことの証明になる。 >>246
> ドゥルーズも読んでいない
ドゥルーズではなく、君が読めていないドゥルーズ=ガタリの問題系だ。
この話が分からなければ、20世紀フランスの現代思想が何をやっていたのかを全く説明できないだろうし、
マルクス → ドゥルーズ=ガタリ → メイヤスー という流れも分からないだろう。 >>255
差異と反復がやっぱりいいんでないかな
人が紹介するドゥルーズと本人のテキストはやっぱり違う
あと前にも書いてあったけどアベセデールは、ビデオインタビューながらいい導入になってくれると思う
より身近に感じれるというか
原著に触れる時の感じ方がずいぶん変わるんじゃないだろうか >>258
とりあえず入門・導入書と平行して『意味の論理学』と『差異と反復』は読みたいな、と考えてる。
『意味の論理学』や『アンチ・オイディプス』は訳が二つあるけど新しいほうがいいのだろうか。 “ドゥルーズ自身は、おそらくはガタリとの出会いによって精神分析への評価が一変したこともあり、(略)
『意味の論理学』には晩年になるとあまり高い評価を与えなくなった。”
― 鹿野祐嗣 『ドゥルーズ『意味の論理学』の注釈と研究:出来事、運命愛、そして永久革命』 岩波書店 (2020) p597 大学の新入生などに向けて作られた読書リストの中で、
浅田が見開きでデリダとドゥルーズの本を一冊ずつ紹介していたもの。
『必読書150』 太田出版 (2002)
柄谷行人、浅田彰、岡崎乾ニ郎、奥泉光、島田雅彦、絓秀実、渡部直己
https://seesaawiki.jp/bookguide/d/%C9%AC%C6%C9%BD%F1150
33. デリダ 『グラマトロジーについて』
34. ドゥルーズ&ガタリ 『アンチ・オイディプス』 主要作品としてよく挙げられる三点
ドゥルーズ (1925-1995)
・『差異と反復』 (1968) ドゥルーズ
・『アンチ・オイディプス:資本主義と分裂症1』 (1972) ドゥルーズ=ガタリ
・『千のプラトー:資本主義と分裂症2』 (1980) ドゥルーズ=ガタリ
デリダ (1930-2004)
・『声と現象』 (1967) 初期三部作
・『グラマトロジーについて』 (1967) 初期三部作
・『エクリチュールと差異』 (1967) 初期三部作
※書かれた順 ドゥルーズもデリダも、一冊読むだけでは理解が難しいが、
どうせ一冊しか読まないのであれば、一番有名なものを手に取って、
何が話題にされているのかだけでも知るといい。
『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』はペアで読んだ方が、
具体的なイメージも多く得られて理解がしやすい。 『差異と反復』…ドゥルーズの哲学原理
『意味の論理学』…ドゥルーズのアイデアの原型
これらが、ガタリと出会って結晶化したのがドゥルーズ=ガタリの諸作品。 ドゥルーズwikiの区分
前期
・ヒューム、ベルクソン、スピノザ、カント、ニーチェ等を自身の問題にひきつけて整理
・経験論、差異、一義性、超越論的なもの、内在性といった、ドゥルーズの主要タームに関する省察が行われる
中期1
・『差異と反復』『意味の論理学』の時期
・個々の哲学者の整理を離れ、独自の哲学を展開する
・西洋形而上学を貫く「同じもの」をめぐる悪しき「思考のイメージ」が批判される(デカルトのコギト、カントの超越論的なもの等)
・自身の方法論となる超越論的経験論の整理
・深層と表層をめぐるトポロジー
・ドクサに対するパラ‐ドクサ(パラドクス)の論理学の対置
・三つの位相で展開される時間論
中期2
・『アンチ‐オイディプス』『千のプラトー』の時期
・多くの概念群が創造される。ガタリとの共同作業。「外」へと向けて「哲学」が開かれる。
中期3
・『シネマ』二巻、『感覚の論理』の時期
・映画論、絵画論
後期
・自身の哲学の体系的叙述(特異なテーマ群)
・「襞」の概念をめぐっての、ライプニッツ、フーコー論
・あくまで「内在性」を考察する
・『哲学とは何か』における総括的記述
・「内在」と「潜在性」の再記述 >>253
『流動の哲学』は『差異と反復』『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』などの解説 ドゥルーズの専門用語が苦手な人は、『ドゥルーズキーワード89』がおすすめ。
これ自体がブックガイドにもなる。 『意味の論理学』は不思議の国のアリスの話で始まるぐらいだから、初心者が解説なしでも読める方。
第8セリーの「空虚の桝目」と、デリダの否定神学が、ポスト構造主義の記号論の最重要の問題。
そろそろ解決なり、次のフェーズなりが示されつつあるところ。 >>271
ドゥルーズが「意味」と「無-意味」を論じているのもその辺 『差異と反復』は、初めて読んだポスト構造主義の本。
その後読み直して内容は承知しているけど、今は世界を問題にした中期以降に興味があって、初期の本は手狭に感じる。
理論については、もっと現体験に近い『ニーチェと哲学』なんかが参考になっている。 >>273
ドゥルーズというのは言葉の定義が間違っているだけの無意味な思考。
はじめに言葉ありきのキリスト教思考の迷宮に入り込んでる。
マルクスを否定したいだけで、言葉を定義せず(できず)に使っているだけ。
晩年になってその根本的な誤りに気が付いたところで、気の毒な最期を迎えてしまった。 >>275
ドゥルーズもデリダも言葉遊びだというマルクス信者は、
1968年の世界革命(パリ五月革命、東大安田講堂事件など)をどう評価しているんだい? >>276
ドゥルーズなんかなんの関係もないよw
フランス哲学ならサルトルだよ。 論理的に考えるという習慣が涵養されてないんだろうな
こういうの好きな人って >>277
革命によって社会を転倒させるには、その青写真が作られるもの。
マルクスの場合には、ヘーゲルの転倒、上部構造/下部構造の転倒が御旗。
では、サルトル、デリダ、ドゥルーズはそれぞれの理論の中で何を転倒させた? 鹿野は60年代のドゥルーズに注目をしていて、
当時の永久革命の例として、ビートニク、サイケデリア、キューバ革命、ウッドストックなんかを挙げている。 ドゥルーズ、デリダのピークは68年の前後>>262 >>278
そういう問題も、>>270のようなポスト構造主義の問題と共に克服されつつあると思うし、
そのためにも、彼らの理論の設計図を理解する必要がある。 ドゥルーズとデリダは言葉遊びではないが千葉と東はいただけない >>280
サルトルは存在一般なるものはないということを証明して、ハイデガーを転倒させたとはいえる。
デリダやドゥルーズには自分の理論などない。 基本は精神分析の概念をパクった上に脱構築しただけだからな
転倒四天王
:::::::: ┌────────────────┐
:::::::: | プラトン主義の転倒 │
::::: ┌───└───────────v───-┬┘
::::: |ロゴス中心主義(話し言葉と書き言葉)の転倒│
┌──└────────v──┬───────-┘
| ヘーゲルの転倒、 .│
| 上部構造と下部構造の転倒 │
└────v─────────┘ ┌─────────────┐
|ミ, / `ヽ /! ,.──、 | ボクの実存は本質に先立つ |
|彡/二Oニニ|ノ /三三三!, |! └───v─────────-┘
`,' \、、_,|/-ャ ト `=j r=レ /ミ !彡 ●
T 爪| / / ̄|/´__,ャ |`三三‐/ |`=、|,='| _(_
/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-, 、 _!_ / ( ゚ω゚ )
/ `ー─'" |_,.イ、 | |/、 Y /| | | j / ミ`┴'彡\ ' `
マルクス デリダ ドゥルーズ サルトル
話し言葉=ギリシャ・キリスト教的ロゴス
書き言葉=エジプトのヒエログリフ(象形文字) そういうことを言っていて、サルトルは最後の形而上学者と呼ばれたんだよ。
「ほらね、君が現象学者だったらこのカクテルについて語れるんだよ、そしてそれは哲学なんだ!」 >>284
それは君が読んでいる解説書の受け売りの話だろ?
ドゥルーズは、言葉ではなく物の話をしているから自分で読んでみなさいっていうこと。
デリダとドゥルーズがやっているのが弁証法的唯物論の実践。 唯物論の実践をしたことのない君には
認識すら出来なかったのも無理はない マルクス主義者がカクテルの哲学やポエム批評をしているうちに、
世の中はすっかり変わっていたのでした もう既にドゥルーズ自体が時代遅れだけどな
称揚していたスキゾも実社会ではやはり失敗でしかなかった
ドゥルーズ自身のルサンチマンをよくもまあここまで理論武装できたもんだわ、そこだけは感心する ドゥルーズの影響を受けた次の世代が出てきているから、今もう一度読み直しているんだよ。
遡ってドゥルーズをより理解することも出来るし、問題を解決することも出来る。 非シニフィアン(A-signifiant)
“非シニフィアン的記号論。
これはシニフィアンの記号学とは区別されなければならない。
ここで問題となるのは要するにポスト・シニフィアン的記号論である。
非シニフィアンの記号論というのは、たとえば意味作用を生産する使命をおびていない
数学的記号の機械とか、科学的、音楽的、芸術的といったような類の技術−記号的複合体とか、
あるいはまた分析的な革命機械といったもののことであるといってよい。”
その他、非記号論的コード化、発生論的コード化、意味形成の記号学、前シニフィアン的記号学
― ドゥルーズ=ガタリ 『政治と精神分析』 法政大学出版局 (1994) p98 非シニフィアン的記号論の例に挙げられるのは
・音楽のエクリチュール
・数学のコーパス
・情報科学やロボット工学のシンタックス
など
― フェリックス・ガタリ 『闘走機械』 松籟社 (1996) p262 >>296-297
メイヤスーなど、現在のポスト・ポスト構造主義を生み出したのがこれ >>296の
> 意味作用を生産する使命をおびていない
というのは、"ポエムや解釈ごっこにはならない"ということ。
例えば電話帳や機械語のテクスト(電番や数字の羅列)のようなものを想像してもいい。
意味作用をする言葉ではなく、物としての言葉の世界。論理哲学さえ退ける。
だからドゥルーズの哲学がポエムであるはずがない。 『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』にも出てきた。 ポスト・ポスト構造主義
↑こんなカスみたいな概念の時点でもう哲学の役目は終わりだろ
これからは人類史の思考のアーカイブとして細々と残していくくらいでいい >>299
だからそれはもう失敗してる
統合失調症が社会を変えられなかったのと同じ >>301-302
いつまでもポエム批評をやってろよ >>303
批判はともかく、ドゥルーズの哲学の成果はなに?
具体的に書けるものが一つでもあるの? 統合失調症は悪い意味で社会を変えただろ
ネトウヨQアノンがそれ ドゥルーズの言明がポエムでないとすればば、
それは原理的どんな言明によって反証されうるわけ? >>309
>>295-299に書いたのは理解できなかった? >>310
それ全部言葉の定義の問題というだけだよ。
定義を明確にできない言葉は詩。
言いたいことはわかるが意味がない。 >>311
君が知っているポエム哲学批判の具体例を一つでも挙げてみなさい >>312
>ポエム哲学批判の具体例
>>311がそうだよw ポスト構造主義的にはある言葉を定義する言葉を定義する言葉を定義する…となってしまうから明確な定義なんて存在しないことになっている >>253 でお勧めしてもらった本買ったよ、ありがとう。
今はデリダ読んでる最中だけど、ドゥルーズも昔から読みたいと思ってたので楽しみだ。 ニンゲンの意識の根源もまだ明らかになっていないのに言葉の定義ができるというのか? そう考えればドゥルーズがデカルトにケンカを売って、スピノザを推したのも至極当然に思えるな。 >>308
ドゥルーズ本人は、ウィトゲンシュタインを哲学の暗殺者といってるね。
的確な評価だと思う。 >>317
君は定義と組み合わせで成立している数学を全否定するのかな?
新たなソーカル事件かな?w >>321
ちなみに、素数という言葉には定義があるんだよ?
A 知らなかった
B いま知った
あなたはどちら? >>323
どうも意図が伝わらないようだし、汲み取る意思もない君はもういいや >>324
数学は定義が根源的なスタートライン。
数学の定義もまた言葉。
君にはそれそら理解できないのかな? >>324
君がいくらドゥルーズが好きでも、ドゥルーズ本人もその愛読者も、社会的にはなんの役にも立っていない。
それだけは自覚しときなさいね。 >>326
少なくともドゥルーズ本人については本が売れたわけだから社会の役にたってるよ >>305
ポスト構造主義以降に出た最大の哲学者(メイヤスー)や
その思想運動(ポスト・ポスト構造主義)が、ドゥルーズの影響を受けていること。
異論がある人は、その他の哲学者や思想運動の例を挙げるように。 >>313
素人の考えなんていらない。
君たちがどこかで見聞きしたポエム哲学批判の大本は>>296-297なんだよ。
異論がある人は、別の哲学者レベルの事例と典拠を示すこと。 >>311、>>314
君の様に、作者にその意味の定義や根拠、つまりは真理を求めるのは、
中世の本の読み方だ。
君の不安を解消してくれるのは、最終的には神になるんだよ。
聖書に書かれた言葉が神の言葉であるという。
デリダの「原=エクリチュール(起源なき起源)」は、そういう原理さえも転倒させた。 マルクス信者「尊崇する作品を読む」
・作者>作品
↓
/////////// 超えられない壁 //////////
↓
ロラン・バルト「テクストを読む」(テクスト論、作者の死)
・作品>作者
↓
デリダ「エクリチュールを読む」
↓
ドゥルーズ「非シニフィアン的記号を読む」>>296
↓
メイヤスー「数学的コーパス(資料体)を読む」>>297
↓
千葉「言葉の形象を読む」
テクスト論
https://kotobank.jp/word/%E3%83%86%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%88%E8%AB%96-186000
作者の死
https://dic.nicovideo.jp/a/%E4%BD%9C%E8%80%85%E3%81%AE%E6%AD%BB
こういうのが、フランス哲学がやってきたこと マルクスの本をテクストとして読むには、一旦、作者(マルクス)を殺さなければならない しょうもない言葉遊びで呆れた😦
廃れるべくして廃れたオワコン哲学 なぜポエムと言われることをそんなに恐れるのかが謎
至上のポエムでいいじゃないかドゥルーズ ドゥルーズのこと知らないけど数学の記号が意味作用を生産する使命をおびていないというのがよくわかりません
+にしろ-にしろΣにしろ∫にしろ意味作用を生産してると思うのですが…
ドゥルーズに詳しい方教えてください >>330
思想の運動なんかじゃなくて、現実社会の成果のことを言ってるんだけど?
出版社が儲かったというのは現実に対する成果にならないw
現実を動かしているのは、大衆の現状維持への理念や宗教や、そしてマルクスの思想。
ドゥルーズもメイヤスーもポスト・ポスト構造主義も、1ミリも現実を動かしていない。
ドゥルーズもメイヤスーもPP構造主義も反マルクスのための哲学だが、実体はただの詩的な観念論。
19世紀からまったく進んでいない。
「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきた。重要なのはその世界を変えることだ」 >>331
哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきた。重要なのはその世界を変えることだ。
世界を変えられない哲学は、ポエム以下。 現代の世界を変えているのは、フェミニズム、多様性推進主義、プロパガンダ、地球温暖化二酸化炭素原因論、自然科学の発展、等々のきわめて現実的な理念だ。
そうした現実の理念に社会的な経済的な根拠を与えるのがマルクスの理論だし、それを押しとどめようとするのが宗教的な理念ということになる。
PP構造主義など、どこにも入る隙がない。
トランプで一躍有名になったが、アメリカの宗教的な理念は非常に強く残っている。
もちろん、日本の保守・右翼と言われる連中の天皇教=日本は偉大妄想も大衆を動かす力がある。
そうした反人間的な理念に対抗するのは、社会や経済を客観的に分析したマルクスの理論が中心となるほかはない。 反人間的理念とウエメセで批判してるっぽくボンヤリ言うけど、どの理念のどこが反人間的なの? エントロピーは人間の意志とは無関係に増大する
つまるところ持続可能な社会というのは再生産能力による一つの指針に過ぎず、それは人間が絶えず反復する過程を記述したものに過ぎない
以上を踏まえると、マルクスの唱えた進歩史観は今日の自由主義に於いてはイデオロギーとしでなくニヒリズムの一形態として見なされていると言うべきだろう >>340
こういうのもポエムだよなあ
世界を変えているのは現実的な理念だ
―「現実的な理念」の具体例は挙げられているが「現実的な理念」の定義がなされていない
現実の理念に根拠を与えるのがマルクスの理論だ
―「現実の理念」と「現実的な理論」の違いはあるのか
「マルクスの理論」とはマルクス主義のことを指すのかそれともマルクスの言ったことのうち特定の主張(たとえば上部構造下部構造図式)を指すのか
「根拠を与え」ていることの論証がなされていない
それを押しとどめようとするのが宗教的な理念だ
―「それ」とは何を指しているのか
マルクスの理論が現実の理念に根拠を与えることかそれとも現実的な理念が世界を変えることか
「宗教的な理念」の定義がなされていない
アメリカには宗教的な理念が非常に強く残っている
日本における天皇教=日本は偉大妄想も大衆を動かす力がある
―「宗教的な理念」を語る文脈で「大衆を動かす力」と言われているがこれによって「現実的な理念」の具体例として挙げられている「プロパガンダ」との違いがわからなくなる
従って「現実的な理念」と「宗教的な理念」の対立構造が揺らいでいる
そうした反人間的な理念に対抗するのは、社会や経済を客観的に分析したマルクスの理論が中心となるほかはない
―「反人間的」の定義がない
「反人間的な理念」は文脈から「宗教的な理念」を指していると思われるがどうして「反人間的」=「宗教的」と言えるのかの論証がない
何をもって「客観的」と言っているのか 横槍だが
>日本における天皇教=日本は偉大妄想も大衆を動かす力がある
↑まさに統失ネトウヨじゃん🙄
そしてあいつらは見事に空虚な言説で社会を改悪して今に至るわけだが
称揚されたスキゾフレニアも現実はパラノイアでありジャップの上級国民の解体には至らなかったどころか補強している
この「現実」を見事にスルーしているのがドゥルーズ派の限界 それと、あいつらネトウヨはポピュリズムというよりリバタリアン的な価値観で動いているところがまさに「機械」(笑)
利潤の為に生産できない弱者は切り捨てます、LGBTとか非生産的です、中国は嫌いだけどもう抜かれたし無いと困るので見下せる韓国叩きます
統失というゴミがゴミの言説を垂れ流して堀江や自民に縋って弱者を叩いて社会を壊すのが「革命」なんですかねえ?(笑) 今後評価経済社会に移行すると仮定すれば、ますますパラノ的な言説が優位になり(何故なら集客、PV、フォロワー数が至上になるが故)スキゾは社会に存在しなくなる(パラノ化するか病棟にぶち込まれる)
「ポストポスト構造主義に繋げたドゥルーズsugeeee」等というカスみたいな信者は、己自身が極めてアカデミックな読み方しかしていないことにすら気づいていないところが笑えるわ
「テーゼはテーゼだ」といったドゥルーズと真逆なことをやってるところ最高にパラノ であるが故に、
>どうして「反人間的」=「宗教的」と言えるのかの論証がない
の問いへの解は「ネトウヨが信仰している経済という宗教に依拠すればするほど【機械化】する」となるんじゃないの
ドゥルーズの言うとおりにしてたら植松になるという簡単な話 面倒だからコテハン付けるか
結局このドゥルーズ主義者は「ぼくのマンガ・アニメ・ゲームに政治を持ち込むな!」言ってるキモオタと本質的に同じなんだよな🙄
コンテンツと己を取り巻く「現実」を断絶させる、ジャップの幼稚な認識方式そのもの(ジャパニメーションが海外では幼稚と言われるのはこれ)
ならばドゥルーズを一番「ポエム」化してるのは他ならないこのドゥルーズ主義者自身である、となる🥺 >>349,350
君反出生主義の統失くんでしょ🥺
ドゥルーズ(笑) >>342
893 考える名無しさん 2021/08/21(土) 21:39:34.00 0
ニーチェは新自由主義の哲学的ルーツだとも言われている。
市場嫌いの貴族主義なんだけど、
資本主義的な市場もその帰結は新封建主義になるんじゃないかという議論がある。 >>343
いくら日本語が苦手でも、あまりに読解力がなさ過ぎるんじゃない?w
>「現実的な理念」の定義
現実にある事象(差別や気候変動など)への対応策ね。
>「マルクスの理論」とはマルクス主義のことを指すのかそれともマルクスの言ったことのうち特定の主張(たとえば上部構造下部構造図式)を指すのか
マルクスの著作のすべて、な。
> 「根拠を与え」ていることの論証がなされていない
現実にある幻想や差別が経済的な根拠を持つことを指摘してるのがマルクス。
>「それ」とは何を指しているのか
現実の理念に社会的な経済的な根拠を与えること。
> 「宗教的な理念」の定義がなされていない
それぞれの宗教の教義に決まってるだろ?w
>「現実的な理念」と「宗教的な理念」の対立構造が揺らいでいる
現実的な理念と宗教的な理念は対立するものではない。
現実的な理念の根拠を分析するのがマルクスの理論であり、その分析を妨げるのが宗教的な理念。
>どうして「反人間的」=「宗教的」と言えるのかの論証がない
人間が作り出したものでありながら人間を拘束するのが宗教だから反人間的。
フォイエルバッハでも読んでみてくれ。 >>355
現実的な理念の定義が現実にある事象への対応策
―「理念」なのに「対応策」?
「宗教的な理念」が宗教の教義と定義されていることとの違いが気にならないのだろうか
マルクスの理論が現実の理念に根拠を与えているわけだからマルクスの著作の全てが現実にある事象への対応策に根拠を与えていることになる
その論証が現実にある幻想や差別が経済的な根拠を持つことを指摘してるのがマルクスだということ
―幻想や差別が経済的な根拠を持つ?
現実にある事象への対応策(現実的な理念)についての根拠じゃなかったの?
現実的な理念の根拠を分析するのがマルクスの理論であり、その分析を妨げるのが宗教的な理念
―妨げてはいるが対立はしていない?
現実にある事象への対応策の根拠を分析するのがマルクスの理論?
マルクスの理論が現実にある事象への対応策(現実の理念)に根拠を与えていたはずでは?
人間が作り出したものでありながら人間を拘束するのが宗教だから反人間的
―普通は「反〇〇的」というのは〇〇に反するという意味(「反道徳的」等)になるから「反人間的」とは人間に反しているという意味になる
だから普通は「人間」を定義しないと「反人間的」を定義したことにはならない
加えて疎外は「人間自ら作ったものに支配されその本質を喪失すること」
「支配される」ことや「喪失すること」を「反する」とは言わないだろう
そうは言ってもあなたの用法として「反人間的」の定義が疎外のことだというのならこちらはお手上げだ 文章が読みにくい
独り善がりでセックス下手なタイプのこじらせチー牛なんだろうなと思う🥺 もはや読む気もしないが、それで統失がネトウヨ化して社会を革命するどころか上級国民の支配を盤石なものにしてる現実についての所感は?🥺 >>356
>「理念」なのに「対応策」?
理念も対応策も同じだよw
>マルクスの著作の全てが現実にある事象への対応策に根拠を与えていることになる
なんで、そうなるの?
ドルゥーズ読んでるうちに日本語が理解できなくなっちゃったの?w
>幻想や差別が経済的な根拠を持つ?
幻想や差別が経済的な根拠を持つから、現実にある事象への対応策(現実的な理念)についての根拠になるんだよw
>妨げてはいるが対立はしていない?
妨げるのも対立も同じだよw
>現実にある事象への対応策の根拠を分析するのがマルクスの理論?
>マルクスの理論が現実にある事象への対応策(現実の理念)に根拠を与えていたはずでは?
上段と下段は同じだよw
>疎外は「人間自ら作ったものに支配されその本質を喪失すること」
>「支配される」ことや「喪失すること」を「反する」とは言わないだろう
人間自らからが作り出したものに支配されることを、なぜ反人間的と言わないんだ?
ヘーゲル弁証法でも勉強しておけよw ドゥルージアンの童貞ナルシスト感の悪いところが凝縮したような文章だよね🥺
本人はカッコつけてるつもりなんだろうけど、コミュニケーションを拒否した幼児退行でしかない >>359
理念も対応策も同じだよw
―理念が対応策?
意味がわからない
なんで、そうなるの?
―現実の理念に根拠を与えるのがマルクスの理論で
現実的な理念の定義が現実にある事象への対応策で
マルクスの理論がマルクスの著作のすべてなら
マルクスの著作の全てが現実にある事象への対応策に根拠を与えていることになる
そうならない理由がわからない
幻想や差別が経済的な根拠を持つから、現実にある事象への対応策(現実的な理念)についての根拠になるんだよw
―意味がわからない
妨げるのも対立も同じだよw
―現実的な理念と宗教的な理念は対立するものではないはずでは?
現実的な理念の根拠を分析するのがマルクスの理論であり、その分析を妨げるのが宗教的な理念のはずでは?
妨げるのも対立も同じだというのなら「現実的な理念と宗教的な理念は対立するものではない」はどうなる?
意味がわからない
上段と下段は同じだよw
―根拠を分析することと根拠を与えることが同じ?
「分析する」は「与える」という意味を持ち「与える」は「分析する」という意味を持つ?
意味がわからない
なぜ反人間的と言わないんだ?
―あなたの用法がそうだというのならこちらはお手上げだ ほんでドゥルーズの「現実にある事象への対応策の根拠」は?🙄
実際は「統失がネトウヨ化して社会を革命するどころか上級国民の支配を盤石なものにしてる現実」なわけだが >>362
>理念が対応策?
理念とは考え方であり、現実に向かえば対応策でもある。
>マルクスの著作の全てが現実にある事象への対応策に根拠を与えていることになる
マルクスの著作はさまざまな事象に対する分析や指標。
見合った事象があれば、それぞれの根拠になる。
あたりまえだろ?w
>幻想や差別が経済的な根拠を持つから、現実にある事象への対応策(現実的な理念)についての根拠になるんだよw
>―意味がわからない
現実の対応策で一番重要なのは経済的な根拠。
宗教的な対立ですら、その過半は経済的な対立であることが多い。
>妨げるのも対立も同じだというのなら「現実的な理念と宗教的な理念は対立するものではない」はどうなる?
妨げるというのは、分析をすることを妨げるということ。
マルクスは現実を分析し、宗教はその分析を妨げる、つまり対立する。
>「分析する」は「与える」という意味を持ち「与える」は「分析する」という意味を持つ?
持つよw
>あなたの用法がそうだというのならこちらはお手上げだ
君の日本語理解力のなさには、こっちがお手上げだがw
でも、できるだけていねいに説明してはあげてるんだよ。 >>334-335
「柄谷行人を解体する60」というのがあるだろ。
柄谷はデリダ世代だから、柄谷スレの人たちも当然そういうのを踏襲しているんだよ。
この辺、フランス現代思想をやっているかどうかは、言葉の端々を見ればすぐ分かるもの。 >>336
君たちの理解力のなさに恐れを感じているところ >>337
意味作用(Signification)というのは記号学や記号論の用語。
「解釈」と理解していい。
言葉や定義に基づくという点で、数学的論理もまた誤謬でしかない。
メイヤスーが目指しているのは、数学的実在。 >>338
>>287をすっかり転倒させたのがメイヤスーだよ。
メイヤスーがやっているのは、コンピュータやAIの時代の弁証法的唯物論。
マルクスが原始共産制にまで遡ったのに対し、メイヤスーは人類未生以前にまで遡った。
君が唯物論を知らないだけ。
> 「哲学者たちは世界をさまざまに解釈してきた。重要なのはその世界を変えることだ」
それがマルクスの宗教的目的論といわれるところ。 >>287を古い方に遡れば、フロイトやニーチェ、ルターにエックハルトに古代転覆党の例もある。
「哲学者サッカー」ドイツ語圏代表
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1462344948/553
こういうのが階級闘争の歴史だ。 >>367-368
具体的に、メイヤスーの、どの著作の話をしてるの? 哲学者の本なんて、検索して出てくる有名な方から全部読むんだよ。
解説書も全部よむ。 >>370
ポスト現代思想、ポスト・ポスト構造主義4
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1574258779/7
カンタン・メイヤスー
『有限性の後で:偶然性の必然性についての試論』 カンタン・メイヤスー (2016)
「反復・重復・再演 意味を欠いた記号の思弁的分析」 カンタン・メイヤスー 『現代思想 2019年1月号』
『亡霊のジレンマ -思弁的唯物論の展開-』 カンタン・メイヤスー、千葉雅也 (2018)
「神は偶然にやって来る ― 思弁的実在論の展開について」 千葉雅也×東浩紀 『ゲンロン2』 (2016)
「「ポスト構造主義」以降の現代思想 カンタン・メイヤスー『有限性の後で』が切り開いた思弁的実在論をめぐって」 千葉雅也、大橋完太郎、星野太 (2016) http://dokushojin.com/article.html?i=6 『現代思想2021年6月号特集=いまなぜポストモダンか』の
「フラット化する時代に思考する――ポストモダン思想再考」の中でも、
千葉と大橋が、メイヤスーは唯物論以前を引き受ける超唯物論という話をしている。 >>372
それは著作のリストだと思うけど、それ以上は酷か、ありがとう >>368
君の唯物論を説明してごらん。
>それがマルクスの宗教的目的論といわれるところ。
どこが宗教的だと思うの? >>375
ずいぶんと面白いことをいうね、主張のエビデンスを示すのは主張する人間が負うのは当然だよ、論文の一本も書いたことないのかな?
ただの著作リストを羅列してどこかに書いてあるなんて話は普通、通じないんだが そして「甘えるな機械」になって壊れると
相変わらず概説書のリピート以外、なんの役にも立たねえな 哲学を哲学史化してるジャップにありがちなパターン🥺 俺は興味深い話を知ることができればそれで十分。
ここで攻撃的になってる人は、他人の哲学に期待しすぎじゃない?
自分には理解しがたいことだが、ここで攻撃的になっても誰も応えてくれないよ。
その期待に応えるには、結局自分で自分の哲学をつくるしかない。もし、これまでちらとでもそう考えたことがあるのなら、そもそもそこまで他者に期待することもないと思えるのだが。
しかしまあ、それができないからこうして粘着してるわけか。 カビの生えたドゥルーズの読み方してるから「でも今の時代それ失敗したよね🥺」って言ってるだけなのに
次は流行りのメイヤスー持ち上げたと思ったら中身のない哲学史的な概要垂れ流してるでビビるは
「結局自分で自分の哲学をつくるしかない」のならさっさとそれ自体で語っておくれ🥺 アンチ・オイディプス読んでみようと思ったが
新しい文庫のほうの翻訳は思ったほど評判が芳しくない印象。
両方読み比べてみた方はいらっしゃる? 哲学書は面白いから読むだけだからな
ファーブル博士みたいなもん アンチ・オイディプスより千のプラトーの方が面白かったよ 「アンチ・オイディプス」はフロイトの通俗解説書を元に書かれ、「千のプラトー」はマルクスの通俗解説書を元に書かれた。
フランス哲学界のレベルというのは、そんなもの。 >>386
どっちも興味深いし読んでみるつもりだけど、順序的にね
ドゥルーズは文庫化が進んでてありがたいね 今やっているのは、21世紀(ポスト・ポスト構造主義時代)的観点から見たドゥルーズ、特には以下の読み直し。
・初期『意味の論理学』
・中期『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』 これは、ドゥルーズ後の世界をも見た方が、遡って読みどころが分かりやすくなるということ <構造主義>
ソシュール、マルクス、フロイト、レヴィ=ストロース
↓
ラカン、ロラン・バルト
↓
<ポスト・構造主義>
デリダ、ドゥルーズ
↓
<ポスト・ポスト構造主義>
メイヤスー、マルクス・ガブリエル >>293
> ドゥルーズ自身のルサンチマンをよくもまあここまで理論武装できたもんだわ
>>287などは、今や『図説!現代思想(仮)』みたいな本にも載っているレベルの話。 >>372
メイヤスーを読んでいない人は、ひとまず『有限性の後で』だけでも読んでおくといい >>259
『意味の論理学』は小泉訳がおすすめ。
宇波・岡田訳は格調高くて解説も良いけど、小泉訳の方が言葉の意味の通りが良くて、小見出しもついていて分かりやすい。 >>391
ガブリエルはやりたいことは理解するけどクソつまらんぞな >>393
愚にもつかない観念論の焼き直しだね。
実存は本質に先立つ、の一言で終わりだ。 >>394
ありがとう、参考になります
古本だと岡田・宇波氏の単行本のほうが大分お手頃ではあるんだけど…笑 やっぱ「ピンクパンサーのように」とか言える詩心がないとだめだよな >>395
ガブリエルが面白く感じられないということは、ドイツ哲学史の理解が浅いのでは >>400
ドイツ哲学史の理解は浅いし、ガブリエルも面白くない
そして面白いと言ってる人も見かけないが、君はガブリエルの面白さを説けるのかな? ガブリエルが面白く感じられないならばドイツ哲学史の理解が浅い
の対偶は
ドイツ哲学史の理解が浅くないならばガブリエルが面白く感じられないわけではない
となるから
ドイツ哲学史の理解が浅くなくてもガブリエルを面白いと感じない人もいるんじゃないかな
とか思ったけど対偶論法を受け入れるのがおかしいのかもしれないとか思った
対偶論法が成立するのは必要十分条件になってるときだけなのかも
そうなるとヘンペルのカラスはおかしい
「全てのカラスは黒い」の対偶「全ての黒くないものはカラスでない」を考えるとき
まず「黒い」という概念が「黒いもの」という実体に変化している
これは対偶のとりかたの誤りだが
そもそもカラスという実体が黒いという概念を指すことになるから命題の意味するところを捉えていない解釈になる
次に「全てのカラスは黒い」は「全てのカラスは黒い鳥である」という文の省略形だとすると
「全ての黒くないもの」というのは対偶のとりかたの誤り
正しくは「全ての黒くない鳥はカラスでない」となる
また「全てのカラスは黒い」を「カラスは黒いという属性を持つ」と変換(be動詞だから属性)するなら
その対偶は「黒いという属性を持たないならば、カラスではない」となる
「全ての黒くない鳥はカラスでない」にしろ「黒いという属性を持たないならば、カラスではない」にしろ
「黒い鳥であること/黒いという属性を持つこと」は「カラスであること」の条件かもしれないが
「カラスであること」は「黒い鳥であること/黒いという属性を持つこと」の条件ではない
カラス以外にも黒い鳥はいるのだから >>403-405
どれもただの感想で草
自分の主張を論理的に証明しろよ
詩じゃないんだから >>406
>>402は極めて単純なことを書いてる。
別に間違ってはいない。
哲学の中には単純な間違いを犯している例が多い。 >>407
あなたは403なのか404なのか405なのか別人なのか >>412
妄想の迷宮に入り込んじゃってるんだね・・・
ドルゥーズの愛好家らしくて、それはそれでいいけどw >>414
うん、事実ではないから。
なぜ事実ではないかというと、>>407=409は僕の書き込みだから。
他は誰だか知らない。 >>402の何が気にくわなくてこんな流れになったんだ? よく見たら読点も何か所かあるな
ないのは句点だけか >>401
ガブリエルの言っていることが理解できれば目から鱗だよ。
ただ、スレチだからそれ以上はここではやらないし、最低限ドイツ哲学史ぐらいやってから出直してきなさいっていう話。 後期ポスト構造主義時代の、デリダやローティや>>402のような言語哲学(論理哲学)から、
ポスト・ポスト構造主義と呼ばれるメイヤスーやガブリエルのような実在を扱う哲学へのパラダイムシフトを実在論的転回という。
こうした流れが理解されれば、そのターニングポイントとなったドゥルーズについて、
「言葉(ポエム)」ではなく「物」を扱った側面が注目されてしかるべきだろう。 >>422
物を言葉で扱うには、物と言葉の乖離、つまり抽象性の度合いを的確に把握しないといけない。
それを延々と論じたのがフーコー。 >>423
フーコーには『言葉と物』という本があるけど、正に今説明しているのは「言葉」と「物」の間のレンジの話。
区別がつかない人が余りにも多いから。 そもそも言葉が物になるのは精神病の段階であって、健常者のドゥルーズがいくらぼやいたところでポエムにしかならないんですが🥺 >>194、>>338
君のように「言葉」と「物」の世界を完全に分離して把握するのは中高生の世界観だよ。
言葉の世界も徹底すれば物に行きつき、物の世界も徹底すれば言葉に行きつく。
(1)観念論 ⇒ 唯物論
マルクスは人間の観念や精神は元をただせば脳内物質の化学反応に過ぎないとした(『ドイツ・イデオロギー』)。
(2)唯物論 ⇒ 観念論
唯物論的にモノを眺めていった場合にも、
テーブルの上のリンゴ→ 分子 → 原子 →
この辺ぐらいまではモノの内だが、
→ 電子 → 陽子・中性子 → クォーク
の段には、観念的なものになっていく。
>>333も>>425もドゥルーズも、こうした「言葉」と「物」が交錯し不可分になった時代の哲学。 >>427の(2)を見ると、メイヤスーの登場を待たなくとも、
量子力学の時代には、既に「思弁的唯物論」の世界になっていたといえる。
この点で、科学は哲学よりずっと早かった。
ガブリエルの「なぜ世界は存在しないのか」ということの説明にも、
このようなミクロの世界の話が出てくる。 >>427
「電子 → 陽子・中性子 → クォーク」も物質だよw >>430
君は量子がなんだと思ってるの?
精神?w >>432
君が、円や球体で表されているその程度のモデル図を見て言っているのであろうことは容易に想像がついたけど、
想像を超えるレベルの低いサンプル、しかも決定的に持ってきてはダメな奴を持ってきたね。
>>431
君がスピリチュアル系観念論的マルクス信者なのは疑いもないこと。 >>433
なにをどう思いこんでるのか知らないが、量子とは物質のミクロな部分の名称。
物質であることに変わりはない。
普通の力学とは異なる法則に従うというだけのこと。
変なこと書いてると、またソーカルさんにバカにされちゃうよ?w >>434
> 普通の力学とは異なる法則に従うというだけのこと
どこがどのように異なっているんだい? >>435
知りたければ自分で調べるか物理系の板に行くかしなよw ボブ・ディランなんかよりドゥルーズにノーベル賞与えるべきだった
詩人として 哲学に量子力学なんて持ち出すから、ソーカルさんにバカにされるんだよねw 確かにドゥルーズは唯物論と言い得るかもしれないけどなんだかな
統一理論を夢見たひとという認識がある >>434、>>439
量子力学を読んだこともない君が、それを説明している人間に向かって、ソーカルを振りかざすのかい?
そういうのを毛沢東語録では「張子の虎」と呼んでいる。
21世紀のマルクス信者「量子力学は読んだことないけど、ソーカルさんならきっと、科学哲学の番人であるボクの味方をしてくれるだろう」 何を言っても理解されないと思ったら、量子力学を知らないのか… 量子力学の世界やイメージを知らないと、ドゥルーズの言ってることがポエムに聞こえるだろうね。
メイヤスーやガブリエルが何の話をしているのかも分からないだろう。 量子力学ぐらい簡単にでもやっておかないと、現代思想は理解できるようにならないよ。 むしろ科学とキッチリ棲み分けてやるくらいの動機がポスト・ポモの力学かもな
ポモでは科学の追い越しを夢見ちゃった感があって、それはそれで面白いんだけど無理がある >>441
君が量子力学の説明をしてるの?
そのレスを教えてくれ。
ぜひ読みたいと思う。
ドゥルーズと関係があってもなくても、君の量子力学の説明を読むのは面白そうだ。 高校までの学校教育で和歌や漢詩は扱うけど西洋詩は扱わないよね
なんでだろう >>447
英語の授業で扱う学校もあるだろうが、文法の規範からは外れていることが多いので授業がしにくい。
翻訳詩はすでに日本の近現代詩になってしまう。 学習指導要領読めばわかるけど文法が全てという扱いはされていないし「理解力」だけでなく「表現」も重視されている
そもそも受験に関係ない授業で扱いにくいからやらないというのは公教育の趣旨に反するよね 教師たちが学習指導要領に則った授業を行っていないと言いたいのなら話は別だけど >>450
学習指導要領がすべて、というのは公立底辺ぐらいかな?
進学校は指導要領なんか無視してる。
大学みたいに自分の研究成果を教える教師もいたりするw 学習指導要領の法的位置づけくらい知っといたほうがいい >>454
ただの告示だから、本来的な(国会審議を経た)法的根拠はない。
しかし自民党の総力を挙げての裁判の結果、法的基準を持つものとされた。
公立校では守らない教師に対する処分がでることもあるが、私立校ではよほど変な学校以外ではありえないw >>447
詩は各国語の学習と紐づけられるのでは。
井筒は、一流の文学を知らずには一流の哲学は知りえないと言って、
その精髄として各国語の詩を多く紹介している。 >>446
量子力学やソーカルなんて高校ぐらいでやる話だよ。
これまでにも沢山の説明をしてやってきたが、
君が量子力学を知らないから、何一つ理解できなかったんだよ。 量子力学について
(1)【16分解説】量子力学の世界
https://www.youtube.com/watch?v=Kh4nf9GAaBU
・確率的、偶然的な世界
(2)【量子力学】波と粒子の量子の世界。量子力学を礎を構築した学者達の軌跡。
https://www.youtube.com/watch?v=2zpaXaMqHNU
・目に見えない捉えることが難しい極小の世界
・観察者効果=主体(観察者の存在)が客体(観察対象のあり方)に及ぼす影響
(3)【量子力学】トンネル効果。人も壁をすり抜けられるのか?
https://www.youtube.com/watch?v=QUvp9YxRiz0
・例)カミオカンデ、ニュートリノ、地球貫通 マッハや現象学、相対性理論や量子力学が出てくると、
マルクス主義はその硬質で柔軟性に欠けた点が批判され、過去の哲学となった。 少なくとも波動関数を単純に物と考えると相対論に反することにはなる。
それくらいは常識として知っておいて欲しいな。 >>460
youtubeばかりだねw
君も文章が読めない3分の1の日本人のひとり?w
>・目に見えない捉えることが難しい極小の世界
>・観察者効果=主体(観察者の存在)が客体(観察対象のあり方)に及ぼす影響
主観の問題とそこにある実在を混同してるだけだよw
人間がいてもいなくても、そこにある実在は量子の世界にいたるまで変わらない。
実在同士の関係で変化することはあっても、それは人間であろうが植物であろうが同じこと。 >>458
え ドゥルーズを量子力学で批判したいの?
www 西欧世界が歴史の先端であるという価値観を強く否定したレヴィ=ストロースが構造主義の始まり。
ちなみに。それを広く適用したのが、つまり人間は特別な存在ではなく自然の一部に過ぎないと主張しているのが、環境主義。
ところがポスト構造主義になると、ニーチェやハイデガーを復権させて、人間は特別な存在だと先祖返りの主張を始める。
その一方でヘーゲル・マルクス的歴史観を否定しなければならないという使命に振り回されて、ついに人間の主観が世界を動かすことになってしまった。 >>466
それはほんとに最後の最後。
それまでは完全な反マルクスというか、それまでは読んでもいないと自分で言ってる。 マルクスを読まずに、『資本主義と分裂症』を書いたというお笑い詩人ということかな。 その「それまでは読んでいませんが」は「素人質問で恐縮ですが……」に似たものがあるな >>469
その『資本主義と分裂症』に>>460の話が出てきたのは読んだのかい?
>>446
> ドゥルーズと関係があってもなくても >>471
覚えてないな。
君の量子力学の説明はどこにあるの? >>471
この支払ー通貨の線はまったく違った局面にもつながっていく。
つまり、もはや切片を含むことなく、極、特異性、量子を含む融資ー通貨の流れにかかわっていくのだ
(流れの極とは通貨の設定と廃棄のことであり、特異性は名目流動資産に、量子はインフレーション、デフレーション、スタグフレーションに相当する)。
あとで出すと忘れた振りをしているのかと非難されてもいけないので、例として先に引用しておく。
この「量子」が量子力学となんの関係があると言いたいのかな?
君の意見を聞いておきたい。 ニーチェの言う「神の死」の時代に起きた大きな世界観=宇宙観の刷新に、
ダーウィンの進化論、それから、ニュートン力学を突き破った相対性理論や量子力学がある。
そうした知識なしに現代哲学を理解することは出来ない。 光や空気(エーテル)のレベルまで唯物論的に見ていくこと >>474
マルクス主義の唯物論や運動論は細胞レベル。
ドゥルーズの場合はミクロレベル。 >>473
(1)中島隆博 「壁を通り抜けること:ドゥルーズと中国」 『超域文化科学紀要(10)』 東京大学大学院総合文化研究科超域文化科学専攻 (2005)
(2)千葉雅也@masayachiba
佐藤良明先生の演習で作った曲。恥ずかしながら歌ってます。「壁を通り抜けること、たぶん中国人ならできる」という『千のプラトー』の一節がモチーフです。Have you heard ‘Passing the wall, becoming like Chinese(2003)’ by David Nude(Masaya Chiba) on #SoundCloud? #np
Passing the wall, becoming like Chinese(2003)
Listen to Passing the wall, becoming like Chinese(2003) by David Nude(Masaya Chiba) #np on #SoundCloud
soundcloud.com
午前0:02 ・ 2020年1月26日
https://twitter.com/masayachiba/status/1221085840752828416
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) フランス詩人ランキング
1位 ドゥルーズ
2位 ミショー
3位 アルトー >>472
> 覚えてないな。
量子力学を知らなかった君には認識できず、ポスト構造主義のあちこちを読み落としてるんだよ。
> 君の量子力学の説明はどこにあるの?
でも、今は朝永振一郎までは読まなくていいから、ドゥルーズを読みなさい。 >>284
> 2035年から届いたメールがすべての始まりだった。高度情報化社会、アリゾナの砂漠、量子脳計算機科学、35歳問題、ショッピングモール、> 幼い娘、そして世界の終わり。壊れた家族の絆を取り戻すため、並行世界を遡る量子家族の物語。
> 東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』 >>482
>>474も僕のレスなんだけど?w
僕は君の量子力学の説明を見たいんだよ。 >>479
「量子はインフレーション、デフレーション、スタグフレーションに相当する」
インフレーションもデフレーションもスタグフレーションもマクロ経済の話だけど? >>486
ミクロとマクロの構造が相似的に一致するものを自然科学では何と言う?
ドゥルーズの本にもしょっちゅう出てくる重要ワードだけど。
ヒント:
https://togetter.com/li/95313 (1)ドゥルーズにとって不協和とは何か
(2)(1)を踏まえて認知不協和について述べよ >>487
それ、ただの言葉遊びだよw
比喩としても出来が悪い。 >>487
そもそもインフレーション、デフレーション、スタグフレーションはミクロ経済では見ることができない。
ドゥルーズは理系の概念にも経済学の概念にも、あまりに無知。
君も、だけどw >>487
結局、君たちドゥルーズ好きは自分に中身がないからドゥルーズの言葉遊びに憧れちゃうんだよね。
ドゥルーズは必死になって言葉遊びをしてるんだが、君たちにはその必死さはまるでない。
君たちに必要なのは、ドゥルーズの必死さの理由(社会変革の使命感)をきちんと把握することなんだよ。 >>491
トンネル効果も知らない人が「壁を通り抜けること」というような表現を読んで、
ポエムだとか言葉遊びだと言っているんだということ。
(この話はトンネル効果だけでも足りないが)
> 社会変革の使命感
宗教的目的論の話ね。 >>474は大した話だとは思わない。
君も目が慣れてきて、今更「量子」という言葉が目についただけだろ。
同様の描写には、モル、分子、原子、微粒子、運動、速度という言葉が使われる。
そういうのがドゥルーズの言葉、ひいては「リゾーム=線」の尖端でありマテリアル性。 >>141
ドゥルーズ=ガタリにフロイトやマルクスの読み直しを期待することは見当違い。
同時代には、ラカンがフロイトを読み直し、アルチュセールがマルクスを読み直した。
そういう言い方をするなら、ドゥルーズ=ガタリがやり、他にない成果を残したのは「記号学(ソシュール)/記号論(パース)」の読み直しと刷新。 浅田の『構造と力』(1983)の副題は「記号論を超えて」だったし、
東の本は『新記号論』(2019)。
千葉はドゥルーズ=ガタリを評価しつつも、それがまだ(非シニフィアンの記号)"論"であることの限界を指摘して、その先を提示しているところ。 >>492
それでは君がトンネル効果を説明してごらん。
ボールがどうやって壁を通り抜けられるのか、ということもね。
ミクロの動きが普通の力学と違うからといって、普通の力学の法則が変わるわけではない。
君はそれを混同してるだけ。
>>493
無限定に定義もできずに言葉を使っても、なんの意味ももたらさない。
ドゥルーズは自分で「意味」を追求しようとして失敗してる。
その失敗を修正することなく、思い付きの比喩を使い始めた。
ドゥルーズの著作が詩といわれる理由だよ。 >>494
ドゥルーズ=ガタリにフロイトやマルクスの読み直しを期待したことなんかないよ?
ただマルクス理解がまるで間違ってると言ってるだけだ。
記号を融解させようとして失敗したのがドゥルーズ。
>>496
シニフィアンも非シニフィアンも言葉の定義の問題。 >>498
> ボールがどうやって壁を通り抜けられるのか
そんな出鱈目な話は知らないよ。
> 説明してごらん。
何の説明を求めいているのかが分からない。
君は、哲学の世界で量子力学が参照されている例として他にどのようなものを知っているというんだい? >>463
主観と客観の問題を量子力学以上に説明している例とはどのようなものがあるんだい? 君の説明は>>432だったね。
> このような極めて小さな世界では、私たちの身の回りにある物理法則(ニュートン力学や電磁気学)は通用せず、
> 「量子力学」というとても不思議な法則に従っています。
とても不思議な法則 >>500>>501
答えに窮して質問返しw
君はほんとに情けない人だね。 >>505
答えられないのは君w
知識も思考力もない君とでは議論にも会話にもならない。 >>507
逃げてるのは、なに一つ答えられないし考える力もない君。
君はスキゾ・キッズだが、「逃げ恥」ほどの哲学性はないw いまドゥルーズ読んでる若い人でスキゾキッズなんて知らないって多いだろうな
良くも悪くも國分千葉パラダイムの下にある >>463
> 人間がいてもいなくても、そこにある実在は量子の世界にいたるまで変わらない。
「変わらないだろう」という君の態度は、検証や観測を伴わない素朴客観主義。
それがリンゴや石の話であれば誤差として吸収されるが、
量子のレベルになると観測によって見え方が変わる不確定さを拭えないというのが量子力学。
君の見ている電子が、君のいない時にも同じ状態でいるというのであれば、
イグ・ノーベル賞ぐらいは取れるかもしれない。 >>199
君の唯物論や科学主義は、マルクスが批判するフォイエルバッハのそれだよ。
「フォイエルバッハにかんするテーゼ」は次のように始まる。
“これまでのあらゆる唯物論(フォイエルバッハのをもふくめて)の主要欠陥は
対象、現実、感性がただ客体の、または観照の形式のもとでのみとらえられて、
感性的人間的な活動、実践として、主体的にとらえられないことである。”
そして、
“哲学者たちは世界をたださまざまに解釈してきただけである。肝腎なのはそれを変えることである。(第11テーゼ)”
この世界を解釈してきただけの哲学者とは、君が愛してやまないフォイエルバッハのことなんだよ。
前段にはこうある。
“観照的唯物論、すなわち感性を実践的活動として把握することをしない唯物論が到達するところはせいぜい個々の個人と市民社会との観照である。(第9テーゼ)”
君のマルクス理解が観念論的というのはこういうところ。
参考:
マルクス「フォイエルバッハにかんするテーゼ」『マルクス=エンゲルス全集3』大月書店、1978年。 毛沢東語録の中では、弁証法的唯物論を以下のPDCAとして説明している。
(1)存在から思想(実践から認識)に至る段階
(2)思想から存在(認識から実践)に至る段階
1は、客観的外界に向き合い、身体を通じて得た感性的認識を理性的認識に変える思想的段階。
2は、1の段階で得た認識を社会生活に投入して、理論、政策、計画、方法として成功するか検証する実践的段階。 >>513
自分がいるときの映像と自分がいないときの映像を比べればわかるよ。
少なくとも現在の解析度の映像では違いはまったく分からない。
人がいるときといない時では温度などは当然違うし、気流などの他の要素の違いが出てくる場合はあるに決まってるが、それは量子の問題とは無関係w >>514
それが例えば社会経済や人間のものの見かたになんの関係があると?w >>515
社会を変革するためには、社会の構造を知らなければいけない。
社会は歴史の大きな意味で経済の動向によって動いていく。
だから経済構造を変えることで社会を変えていくことがまず必要。
それが唯物史観だよ。 結局類型体系化の詰め込んだ知識でマウント取ってるだけで何も生み出してない人たちが彼らです🥺 >>521
彼らって、507や508などの、このスレのエエカッコシイのことかwww どうでもいいけどフォイエルバッハテーゼとか量子とか、ここは懐古なの? >>523
スマホ使って自分でやってみなよw
君がいるときの映像と、いないときに撮った映像に違いがあったら教えてくれ。 >>524
故きを温ねて新しきを知る。
孔子は的確なことをたくさん言ってるね。 >>525
スマホで電子を撮影できるようになったら教えてくれる? >>517
とても量子力学を読んだことがあるとは思えない。
粒子の状態は観測されるまで特定できないというというのがボーアのコペンハーゲン解釈だし、
観察者と客体との相互作用を説いたのはハイゼンベルク。
“観察の過程とは無関係に、粒子の振る舞いについて話すことはもはやできません。
最終的な結果として、量子論で数学的に定式化された自然法則は、
もはや素粒子自体を扱うのではなく、それらに関する私たちの知識を扱います。
また、これらの粒子が時空に客観的に存在するかどうかを問うこともできなくなりました...
私たちが現代の精密科学で自??然の絵について話すとき、私たちは自然の絵を意味するのではなく、自然との関係の写真。...
科学はもはや客観的な観察者として自然に立ち向かうのではなく、人間と自然の間のこの相互作用における俳優として自分自身を見ています。”
https://ja.wikiqube.net/wiki/Werner_Heisenberg >>529の
> 量子論で数学的に定式化された自然法則は、もはや素粒子自体を扱うのではなく、それらに関する私たちの知識を扱います。
こういうのが、そのままメイヤスーの思弁的実在論の世界。
> また、これらの粒子が時空に客観的に存在するかどうかを問うこともできなくなりました...
現代思想の解説本を読んでごらん。
アインシュタインはなくとも、ハイゼンベルクの「不確定性原理」とゲーデルの「不完全性定理」が紹介されていて、
これらによって科学の客観性や数学の完全性の限界が説明される。
こういうのが現代思想の前提。 主観と客観とを切り分けて、無邪気に「客観すごい」とか言っているのは近代の科学観(>>340、>>465)。
ニュートン力学の「その時、風の抵抗や地面の摩擦は考えない」という世界の話。
現代物理学もやらずにドゥルーズに立ち向かう君は正にドン・キホーテ(>>141)。 >>529
だからさ御託並べてないで、君がいるときといないときでそこにあるものがどう変わるのか説明してごらんよ。
君の引用している文章は、定義も限定もないただの言葉の遊びだよ。 >>531
「客観すごい」とか誰が言ってるの?w
客観という言葉は実は曖昧。
自分の思考としての客観もあれば、そこにある実在としての客観もある。
そういう言葉と実在の乖離を理解しないと、哲学などやっても無駄。
君のは哲学の問題じゃなくて、日本語の理解力の問題。
ドゥルーズは言葉と現実の乖離が理解できないから、理系ぽい言葉を使って墓穴を掘ってる。
たしかに、ドゥルーズには、自然科学だけじゃなくてフロイトやマルクスといった対象を的確に把握できないというドン・キホーテみたいなところがあるね。 まだ量子力学持ち出してポエムに立ち向かってる人居着いてるのかw >>528
なんで目の前のものを撮影するのに電子を撮影する必要があるの? ドゥルーズの入門書少なくね?
おすすめあったら教えてちょ >>533
マルクス主義は科学に負けたんだよ。
“現代科学は二つのものと対決させられる。
一つは19世紀の哲学思想(ヘーゲルとマルクス)にさかのぼる教義の内容との対決であり、
もう一つは何とも折り合わない信念をもつ現象との対決である。”
― ハイゼンベルク 『現代物理学の思想』 みすず書房 (1989) >>537
マルクスはどういう科学に負けたの?
君、または引用文の人は、マルクの教義をどういうものだと考えているの? >>5
『ドゥルーズの21世紀』檜垣立哉、小泉義之、合田正人編 >>538
何度も出てきたけど、ハイゼンベルクは量子力学で一番有名な人。
内容は自分で読んで確かめること。 >>533
マルクスもフロイトも社会科学だし、ドゥルーズだって人文科学だよ。
「理系すごい、経済すごい、ボクとマルクスすごい」 >>518
これも何度も説明してきたけど、
君が量子力学を知らないから理解できなかったんだよ。
マルクス主義陣営の中でも先進的な人達は、>>461や>>537のような批判を受けて修正をしてきた。
7 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2020/12/26(土) 00:23:09.29 0
古典的マルクス主義
・一元的
・必然的
・階級的
・唯物論的
・構造主義的
↓
ポスト・マルクス主義
・複数的 ← ← ←
・偶然的 ← ← ←
・非階級的
・現象学的、存在論的
・ポスト構造主義的(ポストモダン的)
ポスト・マルクス主義3
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1608909611/1,7
> デリダも、ドゥルーズ=ガタリも、アドルノ、ボードリヤール、ネグリ=ハートも、
> 廣松、柄谷、浅田もポスト・マルクス主義世代。 >>461
特に、現代物理学や現象学、ハイデガーなどの影響も受けつつ、マルクスを現代風に読み直したのは廣松。 日本語で緻密な哲学を構築してきた人達として、井筒と廣松はやっておかないといけない。 >>543
その量子力学をまったく説明できないのが君だよ?
そもそもドゥルーズはただの哲学史家で、量子力学などまったく学んでいないし、事実、自然科学用語は定義も限定もなく雰囲気だけで使っている。
ソーカルにからかわれた現代哲学者と同じレベルだ。
ドゥルーズは、自然科学だけではなく、肝心の哲学系の著作すらろくに読まずに、概説書の受け売りしかしていない。
フロイトやマルクスの理解が驚くほど浅いことですぐにわかる。
君の類型的な分類もひどいものだが、少しは自分で読んだらどうかと思う。
自分の論理に自信が持てないから、箔付けのために聞きかじりの自然科学用語を使ってしまったのがドゥルーズたちだ。
君は論外だが、ドゥルーズもほんとうに情けない。 >>529
>観察の過程とは無関係に、粒子の振る舞いについて話すことはもはやできません。
いま説明できないから今後もわからない?
いまの知見を固定化してるだけだよ?
> 科学はもはや客観的な観察者として自然に立ち向かうのではなく、人間と自然の間のこの相互作用における俳優として自分自身を見ています。
そんなことは主観の問題。
観察者であるかどうかとは関係なく、これを書いてる自分も書かれている文章も実在としてそこにあるんだよ?
自然科学系の人はとても単純だから、つい自分がそこにいることを忘れて頭の中に世界があると思いこんでしまう。
こういう人には、デカルトもまだ必要だ。 >>530
>量子論で数学的に定式化された自然法則は、もはや素粒子自体を扱うのではなく、それらに関する私たちの知識を扱います
こういうのは、そのまま言葉の世界なんだよ。
念ずれば目の前のコップを移動させられる、と思い込んでるオカルト君と変わらない。
>これらの粒子が時空に客観的に存在するかどうかを問うこともできなくなりました
「これらの粒子」があろうとなかろうと、そこにコップはあるし、もちろん君もいる。
ハイゼンベルクの「不確定性原理」とゲーデルの「不完全性定理」が書かれていてもいなくても、そこにコップはあるし、もちろん君もいる。
君にもデカルトを読む必要がありそうだ。 >>541
量子力学で有名な人は、目の前にあるコップを消滅させることができるの?
君も現実と理論の違いぐらいは理解しなよ。 自然科学の言説に喧嘩を売り始めたらソーカル事件を他人事には
できなくなるけどその戦法でいいのかな >>551
自然科学の言説もまた言説に過ぎない。
自然科学は事実の確認だけにしか役に立たない。
ソーカル事件とは真逆の議論だよ。 ソーカルの論文のタイトルは「境界を侵犯すること:量子重力の変換解釈学に向けて」("Transgressing the Boundaries: Towards a Transformative Hermeneutics of Quantum Gravity") >>549
量子力学のどこで、そんなコップの存在を問題にしているんだい?
「量子」というのは原子を構成する要素のことで、原子より小さい世界を扱うんだ。
例えば、君は自然状態にある「電子」の姿を見たことがあるかい?画像か何かでそれを示すことが出来るかい? >>555
コップの実在を問題にできないなら、量子力学は哲学とは無縁だということだよ。 >>556
そうか、量子力学やコップって哲学と無縁なんだから哲学に疲れたときは安部公房の砂の女でも読んで一息つけばいいんだよね。 >>555
君がそんなに量子の観察をしたいなら好きにすればいいけど、一部の哲学が歴史的に量子を扱うのは物質としての量子をディファレンシエートすることではなく、量子の力学的性質を取り扱いたいことで、なので電子の足の数とかはその物質の性格をしか意味しない。
馬鹿じゃないなら知ってるよね? >>556
以下二つは哲学板内で量子力学について論じられているもの
数学を初めとした理系の学問と哲学について [無断転載禁止](c)2ch.net
https://mint.5ch.net/test/read.cgi/philo/1486963289/33,60,243,469,473,489,511,512,514,520,525,543
量子力学 [無断転載禁止](c)2ch.net
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1488800502/
コップだのデカルトだの、マルクス信者が近代的スケールの中でまどろんでいる内に、
電子や量子の実在を扱う科学や哲学が発達してもう100年になろうとしているんだよ。
素粒子物理学は君の大好きな理系の中でも特に優秀な人たちがやるわけだけど、
マルクスの原子論は読んだことないの?
マルクスが今に生きていたら、量子論までやっていたと思わない? >>559
メイヤスーの思弁的実在論というのは、言葉の類推に過ぎないんだよ。
量子力学とはまったく関係ないし、自然が偶発的な動きをすることも、例えば人間の歴史とは直接の関係はない。
歴史は歴史として、事象の間には原因も結果もある。
そこにあるコップは、なにか現実の力が働かなければ動くことはない。
思弁的実在論というのは主観(思考)と客観(実在)を混同しているだけ。
物は見かたによって変わる、というあたりまえのことをフランス風に難しく言ってるだけw >>560
電子や量子の実在を扱う科学は当然発達していくが、哲学とは関係がない。
言葉の類推で無理やり関連付けようとしているだけ。
科学は事実の確認にしか役に立たない。
マルクスの原子論てなに? >>562
「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学との差異」だよ 物理学的にはコップは存在しない
コップは道具としての用途において存在する コップに熱を加えると、コップを道具として形成しているガラスは溶融する
さて、コップは動いたのか? ポスト構造主義者って言語の構造から逃れられてないからとんだ間抜けだと思うわ
ごっこ遊びに興じてるだけっていう >>563
それはマルクスの原子論なんかじゃなくて、その二人の比較論。
一般的にはデモクリトスの方が「科学的」な見かたとされていたけど、マルクスはその単調な「科学的」な見かたより、構造的に自然を捉えるエピクロスを評価した。
マルクスの原子論なんかじゃないよ。
なんでそのマルクスが「今に生きていたら、量子論までやっていたと思」うの? >>564
コップという名称が道具としての名称。
「コップ」としての実体は、そこにたしかに実在する。
>>565
コップに熱を加えることが、「なにか現実の力が働」いたことにならないと思うの?
頭、大丈夫? >>567
「デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異」は学位論文で、マルクスの唯物論哲学の出発点。
マルクスは、物や現象の本源を見定める為に、それらを構成する最小単位である原子まで見ていっている。
唯物論を徹底するということはそういうことであり、現在なら量子まで見ていって当然だろう。
君の唯物論や科学主義が徹底されていないといったのもこの点。
今日の分子や原子の科学モデルが確率したのは19世紀初頭。
古代ギリシャからマルクスの時代ぐらいまでは、原子とはatom(それ以上不可分な実体)として考えられてきたが、
その後、電子を始めとした原子の下部構造が分かってくると、原子その物がさらに分割され、
確率論的で偶然的であるとか、内部に空を持つものとして考えられるようになってきた。
これが原子論から量子論への流れ。
同時に、マルクス主義からポスト・マルクス主義への流れとも重なる>>543。 >>568
素粒子には手も足も出せず逃走したのに>>556、コップが相手だと強気だね。
「客観すごい、ボク(コップ)とマルクス(デモクリトスとエピクロスの原子論)とソーカルさん(量子重力の変換解釈学)すごいw」 >>569
繰り返すが、マルクスはデモクリトスの原子論など問題にせずに、構造として自然をとらえるエピクロスを高く評価した。
デモクリトスはマルクスの出発点ではなく、否定の対象。
読まずに語るのは、ドゥルーズを見習ってのことなのか? >>570
相手を罵倒すれば勝ち・・・
なんでそんなところまでドルゥーズの真似をするんだ? ドゥルーズの問題は「土地」にこだわりすぎたことだろう
ノマドも「土地」で生活していることにかわりはない
このスレも「土地」の問題のあらわれなのだろうか >>573
マルクスが同論文の中で、デモクリトスとエピクロスの他にもう一人注目した古代の原子論哲学者は誰か?
ドゥルーズはデモクリトスやエピクロスより、その哲学者を繰り返し取り上げた。
デモクリトスやエピクロスは、量子力学を知らないキッズたちの読み物。 ピンクパンサーであれ!とかなかなか書けないよね
現代思潮社から詩集として出すべき >>576
読んでないことを指摘されて、照れ隠しに質問返しかよw
マルクスが二人以外に注目したギリシア哲学者はアリストテレス。
アリストテレスを軸に二人の比較をしているといってもいい。
アリストテレスは別に原子論ではないし、ドルゥーズの天敵に近い。
ドルゥーズにも登場するライプニッツは古代の哲学者ではない。
その他大勢のギリシアの哲学者の名前も出てくるが、マルクスは注目などしていない。
読んでもいない著作をシッタカするのは、やっぱりドゥルーズ譲りなんだろうな。
これは罵倒じゃなくて、事実の指摘だよ? >>582
君のおままごとのような政治生命(マルクスごっこ)も終わりだね。
左派哲学の科学主義、無神論、切断論などが依拠するルクレティウスや原子論も知らずに
マルクスやドゥルーズを読んでいるなんて、ポエムを読んでいるのと変わらないよ。
“あらゆる瞬間、
すべての部分で無限な空間が開かれる。
それは数え切れない、際限なき原子が
あらゆる方向に、永遠の運動で、飛び回るときである。”
― ルクレティウス 『物の本質について』 2巻:1048-1066 (アラン・バディウ 『推移的存在論』より)
訳本
・ルクレーティウス 『物の本質について』 岩波文庫 (1978)
・ルクレティウス 「事物の本性について」『世界古典文学全集 21』 筑摩書房 (1970)
その他
・ジル・ドゥルーズ 『原子(アトム)と分身(ドウーブル) ルクレティウス/トゥルニエ』 哲学書房 (1986)
・ジル・ドゥルーズ 『意味の論理学(下)』 「ルクレティウスとシミュラクル」 河出文庫 (2007)
・ミッシェル・セール 『ルクレティウスのテキストにおける物理学の誕生 河川と乱流』 法政大学出版局 (1996) >>584は原子論というより、その描写は量子の世界を思わせる。
ドゥルーズなら量子論として読んでいただろう。 量子力学wiki
・事象が確率的にのみ記述されるということは、ニュートン力学などで成り立っていたような強い意味での因果律が成り立たないことを意味する
↓
メイヤスー『有限性の後で』
・この世界は、まったくの偶然で、別様の世界に変化しうる
メイヤスーについては数学のことばかりが言われるが、量子力学と比較をした方がその理屈は分かりやすい。
ドゥルーズとメイヤスーが共に引用する非因果律の大本はヒューム。 メイヤスーの師がバディウ。その師がアルチュセール。
それで、マルクス、アルチュセール、ドゥルーズ、バディウ、メイヤスーは、その唯物論や原子論を通して一繋がりであるということ。 >>583
そのレスで君が論文を読んでいないことがはっきりしちゃったね。
「エピクロスはしたがって、ギリシアの最大の啓蒙家であり、ルクレティウスの賞賛は彼にふさわしい。」
こんな文章が締め括りの枕詞になっている。
しかし、その意味合いは君が聞きかじったこととは逆だ。
以下『デモクリトスの自然哲学とエピクロスの自然哲学の差異』から引用。
「エピクロスにあっては、原子論は、すべてのその矛盾をはらみながら、自己意識の自然学として、すなわち、抽象的な個別性の形式のもとで絶対的原理であることを知っているところの自己意識の自然学として、
最高の帰結にまで遂行され完成されているが、この帰結は、原子論の解消であり普遍的なものにたいする意識的な対立である。
これに反し、デモクリトスにとっては、原子はたんに経験的な自然研究、一般の普遍的に客観的な表現にすぎない。
したがって、原子は、彼にとっては純粋な抽象的なカテゴリーにとどまり、経験のエネルギーにみちた原理でほなくてその結果であるようなひとつの仮説、それゆえ、それ自身実現されることなしにとどまるとともに、実際の自然研究がそれによってさらに規定されることのないような、ひとつの仮説である。」
マルクスは古代の原子論にも精通していたが、それを否定するところから出発してる。
繰り返すが、マルクスにとって単調な原子論は否定の対象であって、依拠などまったくしていない。
君は論外だが、ドルゥーズはマルクスが心酔したヘーゲル弁証法もまったく理解していない。
まさに、ドルゥーズの議論はおままごとそのままには違いない。 >>588
理系的?な社会科学たらんとする君の科学主義が、正にマルクスが批判しているところのデモクリトスなんだよ。
例えば、>>179の
> 現実とは、まさにそこにある事実の集合だよ。
とか、>>194の
> 「事実以上のこと」などないし、あると思い込むのが妄想系哲学だ。
というところ。
君はこれまにも、あちこちのスレで"素朴実在論者"という指摘を受けてきたね。
素朴実在論とは、5歳児が机の上のリンゴに何の疑念も持たず「世界にリンゴがある」と受け取る見方。
この板で、君以上の素朴実在論者はいないというぐらい徹底されているから。 つまり、君の唯物論と科学主義は、
マルクスが批判しているところのフォイエルバッハ>>515やデモクリトスのそれであり、
マルクス、エピクロス、ドゥルーズがやっている自然科学とは、
正に君が批判しているところのポエムなんだよ。
それだから、マルクスも今日まで読まれている。 君はマルクス主義の二本柱である唯物論と科学主義を徹底しないから>>569、
あらゆるものを真逆に理解している。
君は、マルクス主義は主観を排し客観的であるというが、
マルクスは主体的>>515とか自己意識>>588ということを強調する。
反対に、ハイデガーは主観的で人間主義的>>465というが、
ハイデガーの重要ワード「放下(ゲラッセンハイト)」とは「我執を捨てる」ということであるし、
ハイデガーの追っかけであったサルトルをたしなめた本のタイトルは『ヒューマニズムを超えて』だ。
それから、>>498の
> ドゥルーズは自分で「意味」を追求しようとして失敗してる。
ドゥルーズが追求した非シニフィアン的記号論とは、「非意味」「意味しない」ということなんだよ。
意味を回避する為のものだ。 君が哲学を理解し始めたら、ドゥルーズやハイデガーを好きになって、マルクスを嫌いになるのではないかな? 野矢茂樹なんかは素朴実在論を肯定しているけれどね。 素朴実在論だけでは生きてはいけない
しかし素朴実在論無しで生きていくのもまた困難なこと 素朴実在論で十分生きていける
素朴実在論とはそもそもそういう文脈の用語 >>590
>君の科学主義
>君はこれまにも、あちこちのスレで"素朴実在論者"という指摘を受けてきた
どのレスをどう読んだらそうなるんだ?w
ドルゥーズに変な嵌まり方をするのは、言葉の理解が不自由で読解が変だからかな? >>591
概説書だけでマルクスを理解するのが到底無理なことは、他でもないドルゥーズが身をもって教えてくれてるw
君にヘーゲルは無理だが、フォイエルバッハぐらいは読んでおいた方がいい。
マルクスとフォイエルバッハの違いが理解できるかどうか知らないが。
なんにしても、概説書と雰囲気だけでレスするのは、君がバカにみられるからやめた方がいい。 >>592
マルクスの引用>>588と、レヴィ=ストロースについての>>465と、意味に関する>>498が僕のレスだ。
君が挙げたその他のレスは知らない。
>ドゥルーズが追求した非シニフィアン的記号論とは、「非意味」「意味しない」ということなんだよ。
>意味を回避する為のものだ。
『意味の論理学』は読んだのか?
著作そのものが、まったくなにも意味しない、と言ってしまっては、いくら君がドルゥーズ信奉者でも、さすがに当のドルゥーズさんが笑っちゃうんじゃないか?w >>593
言葉の遊びが哲学だ、という定義なら、そうなるかもしれないねw 泉が芸術とは何かを考えさせるという理由で20世紀を代表する作品とされるならドゥルーズも哲学とは何かを考えさせるという理由で20世紀を代表する哲学者とされるべきだ >>602
そうだね。
言葉の使い方が間違っているという意味で。 >>590
レスが遅くなったが、あらためて確認しておく。
現実とは、まさにそこにある事実の集合
「事実以上のこと」などないし、あると思い込むのが妄想系哲学
これはたしかに僕のレスだが、君がこのレスのどこが間違いだと言いたいのかわからない。
これが素朴実在論であるなら、素朴実在論は正しい、としか言いようがない。
5歳児であろうが30歳大人であろうが、机の上にリンゴがあれば、その実在を否定することはできない。
こういうことを言葉を費やして否定しようとするから、君のは妄想系哲学だということになる。
もちろん、「存在」という言葉の迷宮に閉じ込められたハイデガーは、その妄想系哲学の親分というべきだw >>599
君が読めたのはタイトルだけだろうね。
『意味の論理学』は「意味」と「無-意味」の間、つまり「非意味」を論じ始めているんだよ。
君はドゥルーズが何の話をしているのかが根本的に分かっていない。
非シニフィアン的記号論の用法については、その後の『アンチ・オイディプス』と『千のプラトー』を読んでごらん。
君の様に「意味」や「定義」を振りかざす(>>311、>>314)権力者からの逃走が書かれているから。 >>604
> 机の上にリンゴがあれば、その実在を否定することはできない。
2500年前に、そのリンゴは空であると言ったのが仏教。
素朴実在論というのも、実在に関する一つの見方でしかない。
素朴実在論wikiより
“子供などが持っている素朴な実在論である。また大人などでも、哲学を学んだことがない一般人が抱きがちな実在観である。” プラトンのイデアも、机の上ではないところのリンゴを指す実在論 >>605
『意味の論理学』は、言葉と物の乖離を実感的に説明しようと試みた論考だが、フーコーレベルにも達していない。
「非意味」なる概念を持ち出しても、ハイデガーの「存在」以上に無意味な言葉の誤用だ。
まるで「身と皮の間にこそ旨さと栄養がある」と言って胸を張るお爺さんの権威主義のようだw
サルトルの『存在と無』は、舌足らず(舌多過ぎ?)だが、その種の言葉の誤用と闘った論考だ。
ウィトゲンシュタインとは別に、哲学(なるもの)の言葉の混乱を整理正しようとした。
『アンチ・オイディプス』や『千のプラトー』で、「意味」や「定義」を振りかざす権力者からの逃走を試みた結果、空中分解したのが、ドゥルーズだ。
ガタリは図々しいから自覚的には無傷だったが、ドゥルーズはよりどころを失ってマルクスに助けを求めた(間に合わなかったが)。
ウィトゲンシュタインを「哲学の暗殺者」と呼ぶことしかできなかったのが、まさにドゥルーズポエムの敗北ということになる。 >>606
悪いが、プレミアム会員じゃないので、過去レスが読めないw >>607
>2500年前に、そのリンゴは空であると言ったのが仏教。
仏教は宗教。
フォイエルバッハぐらいは読んでからレスして欲しい。
>素朴実在論というのも、実在に関する一つの見方でしかない。
実在というのは客観的な存在のことであり、見方というのは主観の問題だから、君の主張は客観と主観の混同。
概念と言葉の使い方が間違っている。
>哲学を学んだことがない一般人が抱きがちな実在観
それなら、哲学とは学ぶ必要のない精神異常者の学問ということになるw
>>608
お次はプラトン頼み? >>609
本も読まずに妄想的な言葉遊びをするのは君の性癖のようだね。
>>611
哲学事典を読んだことはないのかな?
近くの図書館で平凡社の『哲学事典』を参照してみるといいよ。
その事典でも、素朴的実在論は“未開人や小児や科学的教養のない人間の卑俗で幼稚な前科学的態度”とある。 >>612
おいおいw
君が哲学事典頼みなのはわかる。
でも、事典も誰かが書いてるんだから、正当性はまったく保証されない。
ドゥルーズもそれで大失敗してることぐらい気が付かないとね。
wikiと事典にこう書いてあるから、それが正しいに違いない?
いまどき、そんなことは高校生でも思わないんじゃないかな?
君に必要なのは、まずきちんと本を読むことだ。
それぞれの著作をろくに読まずに、解説本すら読まずに、wikiや事典を頼っていたのでは、君が大好きそうな「はい、論破」も無理だよ。 狂人の二つの体制、っていう、短い文章を読んだ。
ドゥルーズは、きちんとした民主主義とか貨幣経済とかを言ってる感じだろう。
論語の、
子曰わく、回(かい)や其(そ)れ庶(ちか)きか、屡々(しばしば)空(むな)し。賜(し)は命を受けずして貨殖(かしょく)す。億(おもんばか)れば則(すなわ)ち屡々中(あた)る。
を思い出した。 じつ‐ざい【実在】
〔名〕
@ (━する) 実際に存在すること。現実にあること。
※西国立志編(1870‐71)〈中村正直訳〉五「物の実在の情形を精確に考察するは、緊要にして益あるの事なりと思へり」
※草枕(1906)〈夏目漱石〉三「燦爛(さんらん)たる彩光は、炳乎(へいこ)として昔から現象世界に実在して居る」 〔墨子‐非儒下〕
A 哲学で、想像・幻覚ではなく、事物・事象として存在するもの。
※物理学と感覚(1917)〈寺田寅彦〉「自分の存在に無関係な外界の実在を仮定する事は」
B 哲学で、絶えず生滅変化する現象の奥にあると考えられる、常住不変の存在。たとえば、プラトンのイデアの世界、カントの物自体の類。形而上学的実在など。〔哲学字彙(1881)〕
出典 精選版 日本国語大辞典 >>617
「実在」という言葉は重要で、かつ、哲学の世界では幅広い意味で使われているので、確認しておいてほしい。
@は、現実存在、科学的な実在
Aは、形而上学的な実在
Bは、真実在、真の実在 >>604の「机の上のリンゴ」は@科学的な実在。
>>432のリンク先の概念図や、人間の存在に関わりなくある実在>>463というのはA形而上学的な実在。
>>611
> 実在というのは客観的な存在のことであり、見方というのは主観の問題だから、君の主張は客観と主観の混同。
君は「客観的な実在」というイメージを優先する中で、科学的な実在と、形而上学的な実在を一緒くたにしてきたんだよ。
この点が君の科学主義の最大の誤謬。
君の大好きなマルクスやレヴィ=ストロースは、形而上学を離れて「具体の科学」を志向したのに、
君はしょっちゅう形而上学モデルに行き着いてしまう。
> お次はプラトン頼み?
プラトンと、君の大好きなヘーゲルは同タイプの実在論者。 >>619
>科学的な実在と、形而上学的な実在を一緒くたにしてきた
なんだか君はメチャクチャになってきたね。
形而上学的な実在ってなに?
実在とはそこにある物、事のことであり、人間が消滅してもそこにある、それだけのこと。
>プラトンと、君の大好きなヘーゲルは同タイプの実在論者
ヘーゲルも読んだことないのはわかっているけど、さすがに事典レベルでもそんなこと書いてないんじゃないのかと思うが、誰かの事典に書いてあったの?
もしかしたら、「弁証法」という言葉で二人をつなげちゃったのかな?
プラトンのは直線的な問答術、弁証術というべきであって、螺旋を描いてはじめと最後を結びつけるヘーゲル弁証法とはまるで違うけどね。 今はまだ>>389の入口のところだから、間に合ったかな >>620
> 実在とはそこにある物、事のことであり、人間が消滅してもそこにある、それだけのこと。
何度も出てきているこの説明は、どの辞書や本で言われていることなの?
典拠を示せる?
> ヘーゲルも読んだことないのはわかっているけど、さすがに事典レベルでもそんなこと書いてないんじゃないのかと思うが、誰かの事典に書いてあったの?
ヘーゲルにとっての真実在とは何か?
答えることができたら、教えてあげよう。 >>623
>典拠を示せる?
本で言われてても言われてなくても、それが言葉の定義だが、僕は、君のように自分が理解できないことを思わせぶりで隠すような真似はしないから、ついでにいくつか教えてあげる。
デカルトの「物体(身体感覚)」もカントの「物自体」もヘーゲルの「直接性」もサルトルの「存在」もウィトゲンシュタインの「言語ゲーム(の成立条件)」も、すべてその実在のこと。
他にも挙げればきりがない。
>答えることができたら、教えてあげよう
教えてくれなくていいから、『(大)論理学』の該当部分を引用してみてごらんよ。 >>624
君はこれまでにも繰り返し言葉の「意味」と「定義」を「客観的」に示すよう求めてきたのに、
いざ自分が問われると答えられないのかい?
「実在」ほど重要な言葉が他にあるかい?
今、ここでマルクス主義者らしく明晰に答えを示さないでいつやるんだい?
「実在とは何か」なんて何とでも言えるんだよ。
しかし、立場によってその答えが変わってくるから、実在の説明によって、君の立場を示すべきだと言っているんだ。
>>612や>>617のような事典類の定義をバカにする君の立場を。
> デカルトの「物体(身体感覚)」もカントの「物自体」もヘーゲルの「直接性」もサルトルの「存在」もウィトゲンシュタインの「言語ゲーム(の成立条件)」も、すべてその実在のこと。
> 他にも挙げればきりがない。
今更こういうものを挙げるのであれば、君にとっての実在とは、単なる「方便」だということ。 >>624
> 教えてくれなくていいから、『(大)論理学』の該当部分を引用してみてごらんよ。
ほう、『大論理学』を読んで理解しているのなら答えられるね。
答えてごらん、どこの部分だい? >>625
「実在」とはまさにそこにある物と事のこと。
これ以上の定義はないよ。
理解できないのは日本語に難のある君の問題。 >>626
君が読んだことのないヘーゲルの『(大)論理学』は、まさに実在とそれを把握する哲学の在り方の説明から始められてるんだよ。 >>627
ヘーゲル弁証法が三角形で表される、というのは読んだことのない人たちによる変な定型化。
そこにある物(事)の中には、その物(事)自体を否定する要素が含まれている。
否定する要素は徐々に強くなり、そこにある物(事)自体を変化させて新たな物(事)が生まれる。
この新たな物(事)にもまた、それ自体を否定する要素が含まれているので、螺旋のように繰り返される。
これがヘーゲル弁証法のもっとも簡単な説明。
とにかく、ヘーゲル本人の著作にあたってごらんなさいね。 >>628
君の実在論は、君の脳内定義ということね。
その実在が「どこ」にある「何であるか」が哲学の議論になるんだよ。 >>617では
> A 哲学で、想像・幻覚ではなく
とある。
この時代には、実在として認めなかったネルソン・グッドマンなどの立場に対して、
「月の裏に棲む一角獣」も実在であるという主張をしたのが、ガブリエルの新実在論。
Bには、ヒンドゥーの「ブラフマン」、仏教の「真如」、イスラムの「ハック(真理)」も含まれる。
実在論なんて、古代から現代まであるんだから、いつの、どういう立場のものかを示さないと話にならない。 >>629
実在をブラックボックスにして逃げこんだね。
ヘーゲルにとっての実在(あるいは真実在)とは何か?
ヘーゲル哲学の中心だよ。
分からなければ平凡社『哲学事典』を見てきなよ。>>617や>>624の何倍もの例が載っているから。 >>630
はじめと最後が結びついたら螺旋的発展にならないだろ。
それと、弁証法は方法論であって実在の問題ではないということ。 >>632
実在というのはそこにある物(事)。
それだけのこと。 >>633
哲学事典見るより、ヘーゲル本人の著作に当たってごらん。
ブラックボックスでもなんでもないから。 >>634
螺旋というのは言葉の綾だよw
そのくらいは理解してくれ。 >>635
真実在なんてどこにもないんだよ。
あるのは実在と無。
サルトルが必死になって解明したことだね。 >>638
『大論理学』の中で、ヘーゲルは何のことを真実在と呼んでいる? >>641
ヘーゲルの真実在というのはただの実在だよ。
そこに神がいると考える妄想でもある。
神がいてもいなくても、実在は実在。
だから、マルクスはヘーゲルから神を消滅させて、論理としての弁証法的唯物論を樹立した。 >>642
君にとっての実在は「そこにあるコップ」>>636。
では、ヘーゲルにとっての実在とは何か? >>644
プラトンもヘーゲルも共に観念論であると聞いたことはないかな?
だから、プラトンもヘーゲルも実在論としては同タイプのもので当然なんだよ。
それに異議を挟んだ>>620がトンチンカン。
ヘーゲルにとっての真実在は絶対精神。 >>645
観念論なら誰でも同じって?w
もっともヘーゲルが観念論かというと、むしろ唯物論なんだよね。
神を実在と考える唯物論。
ヘーゲルの絶対精神とは神のことだよ? >>647
ごめんね。
僕は根が真面目なもんだからw、変な質問にもつい答えてしまう。
スレチの質問はスレチを指摘するだけにしておきます。 >>646
> 神を実在と考える唯物論
頭悪すぎる 哲学用語については、もう少し、事典、辞書、ネットなどで調べよう >>650
哲学用語というのはジャーゴンだらけだから、それぞれの立場の表明に過ぎない。
一つ一つの用語をそれぞれの哲学者の思考に合わせて確認するしかない。
そこではじめて言語ゲームの規則が特定されて、普通の言葉としての意味が生じるようになる。 Aという人の唯物論とBという人の唯物論は違うし、Cという人の観念論とDという人の観念論は違う。
「存在」に至っては一人一説の様相を呈している。
ドゥルーズは既存のジャーゴンに塗れながら、自分(たち)のジャーゴンを作ったが、言語ゲームの規則を確定できずに空中分解した。
だからウィトゲンシュタインの話が出てくると、顔を背けて罵倒することしかできなかった。 差異と反復の単行本買ったが、分厚い上に小さい印字が二段組み構成のページに
びっしり敷き詰められていてすごい威圧感だな…読破できるか不安になってきた笑 >>655
熱心ではない読者の僕からすると、1行で纏めたくなっちゃうんだよね。
ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。 >>653
"語りえぬもの"に向かって、、
「沈黙せねばならない」としたのがウィトゲンシュタインの言語哲学。
「線を作れ、足りなければピンクパンサーでも丸めて投げつけろ」がドゥルーズのリゾームであり、非シニフィアン的記号論。
「数学によって再アクセスせよ」がメイヤスーの思弁的実在論。
ドゥルーズやメイヤスーの哲学は、ウィトゲンシュタインが手を出せなかった領域を舞台にしているんだよ。
言葉では辿り着けないものの一つが楽譜>>297。
http://www.paalabres.org/wp-content/uploads/2017/10/DGFig4-1024x716.jpeg >>646
> ヘーゲルの絶対精神とは神のことだよ?
それを神で理解してしまっていては、ドイツ観念論の歴史も精神現象学もまるで理解していないものと思われる。
『精神現象学』wikiより
“本書は、観念論の立場にたって意識から出発し、弁証法によって次々と発展を続けることによって
現象の背後にある物自体を認識し、主観と客観が統合された絶対的精神になるまでの過程を段階的に記述したもの。
カントの認識と物自体との不一致という思想を超克”
以下のような見方は、世界を二つに分けてしまうわけだね。
・主観/客観
・シニフィアン/シニフィエ
・物自体/現象
こうした二元論の問題を、一元論的あるいは実在論的に克服した例が、
・ヘーゲルの絶対精神
・ドゥルーズの非シニフィアン的記号論
・メイヤスーの思弁的実在論
・ヒンドゥーの「ブラフマンとアートマンの一致」、シャンカラの不二一元論 >非シニフィアン的記号論
wwww
どんな記号も所詮シニフェ、シニフィアンに過ぎませんよw >>659
語りえぬもの、というのは説明できないもの、言語ゲーム(規範)を形成できない物、という意味だよ。
その解釈がまるで逆。
楽譜は記号ではあっても言葉ではないよ。 >>660
人間が物や事を捉える以上、客体としての物や事と、捉える主観の区別は必ずある。
人間が思考する以上、二元論でしかありえない。
ちなみに、ヘーゲルは完全な二元論だが、精神や物を神になぞらえただけ。
それが、ヘーゲル弁証法の、始めと終わりの、いわば合体ということ。 >>660
参考までにだが、西欧(特にフランス)の言語観は声(音)としての言葉を基準に考えている。
日本などは文字としての言葉が研究の中心だ。
声はシニフィアンとシニフィエが近く、文字はシニフィアンとシニフィエにもう少し距離がある。
言葉を理解するためには、どちらであっても神経や脳の信号が働き、「記憶」との照合がなされることによって理解される。
声の理解はそのときだけの照合だが、文字の理解は繰り返しの照合だという点が違う。
いわば、声は直接的な情報に近く、文字は複合的な情報であるということになる。
これが、時枝とソシュールの話がかみ合わない理由だと思ってる。 >>661
「シニフィアン/シニフィエ」はソシュールの記号学(Semiology)の要素。
パースの記号論(Semiotics)に「シニフィアン/シニフィエ」はあるかい?
調べてごらん。
>>662-666
どうでもいい >>667
どうでもいいなら、はじめからデタラメなスレチの話題を持ち出すなよw >>667
wikiと事典で哲学の話をするのは無理だ、ということに気が付いてくれれば、それでいいよ。 >>669
デリダとドゥルーズが共にやったことは、
ソシュールの記号学を批判して、パースの記号論で哲学を捉え直した点。
・構造主義…記号学的
・ポスト構造主義…記号論的
>>496の中に、一言でも「記号学」とあるかい?
パースを知らず、ソシュールの「シニフィアン/シニフィエ」しか知らないようでは、
ポスト構造主義やポストモダンを読んでもチンプンカンプンのポエムにしか見えないだろう。
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
辞書も引かずに哲学をやっていると、何千時間と無駄にするよ。 >>670
なんでも名前を出せばいいってもんじゃないねw
パースの三角形って、ヘーゲル弁証法の通俗解説と同じなんだよね。
おまけに、言ってることは、君がどうでもいいと言った >>665 と >>666 を超えるところはまったくないんだよね ┓( ̄∀ ̄)┏ どのスレも基本自分は馬鹿じゃないと思ってる馬鹿が同族を叩いて知識のマウント取りに走るだけの言論空間だな🙄
動物園の猿山から何も進歩してない人たち
これが哲学系左派がネトウヨに駆逐され瓦解する遠因だろ🥺 頑張って難しい本読んでやれる事がこの猿の延長じゃそら人文もオワコンになりますわ🥺 >>672
そのとおりだね。
古来西欧では哲学が学問の王者だったが、現代の哲学は学問ですらなくなってしまった。
潔く退場するべきなのか、悪足?きしながら飢え死にしていくべきなのか、難しい判断が迫られているのは間違いない。 >>667
そんなの知ってるよw
最近覚えた大学生かなんか?
いやだから「シニフィアン」を持たない記号ってなにw >>674
ごめん文字化けしてた。
悪足?きしながら ー> 悪あがきしながら >>670
辞書じゃなくて原典と解説本引けよw翻訳も死ぬほどあるんだからw >>675
横槍だけど、シニフィアンって連鎖する因子のことで特権的シニフィアンとかがメタレベルにあるよね
しかし千葉もツイートしてるけど、またここから話さなきゃなんないのかってのが定期的に来るよな。675みたいなのが哲学の初心者なのか5ちゃんの初心者なのかでなんのサイクルなのかは違うだろうけど。 >>679
しかしここドゥルーズ板なんだよなw
千葉はだから食いっぱぐれないって言うけど、定期的にソシュールとかパースからドゥルーズまで持ってくって、俺ならちにたくなるわ。 >>674
つくづく人間は自分の頭で考えるという事をしなくなったね
やはり検索エンジンみたく何でも自動化される弊害かな >>681
自分の頭で考えない以上発見も気づきもないからね >>682
これだけは言っとくが、自分の頭も疑わしいってのはパースからD&Gに至るまでの二丁目くらいで語られてるからな。 >>683
そんなアナロジーで語られてもね
一般論を言ってるだけだが >>675
> いやだから「シニフィアン」を持たない記号ってなにw
だから、それが何度も説明してきたドゥルーズ=ガタリの「非シニフィアン的記号論」だって。
このスレを「非シニフィアン的記号論」で検索して読み直せ!
>>296,297,592,605,659-660
自分で用語集を調べろ! 大きな特徴としては、
ソシュールの記号学(Semiology)
・音声言語の日常言語に基づいている
パースの記号論(Semiotics)
・言語の他にも、音楽、芸術、生命科学、物理学などの非言語的なものも対象となる
時枝>>666だの言語ゲーム>>653だの、言語の話ばかりしているわ、
意味や定義を持たない記号論を語るドゥルーズについて「イミガナイ」「テイギガハッキリシテナイ」とか、
発達障害みたいに「ポエムダ」「コトバアソビダ」などと繰り返していると思ったら、、、
パースも知らなかったという。 >>672
「左派」とか「右派」とか、そういう思考は非シニフィアン的記号論以前 >>668
マルクス土人の金精神信仰みたいなヘーゲル論>>649はもういいよ >>688
しかしおれもこのまま年をとって、年金受けとる歳まで一応、たまに5ちゃんの哲学板を定期的に観て、イラッとして書き込みとかするんかな? だから
「良い線史観」という言葉が流行ってるのか? さて、ソシュールのほとんど同時期にアメリカで記号論を形成したのは、チャールズ・サンダース・パース(Charles Sanders Peirce 1839年 – 1914年)です。パースも記号論の祖として有名です。
ソシュールから影響を受けずに形成されたパースの理論は、ソシュールの主張を別の用語で説明したようなものとなっています。ですからここでは簡潔にみていきましょう
命名行為からわかるのは、人間はある存在を想定してそれを自分の関連で世界を位置づけようとすることです。そのとき、使われるのが「記号=ことば」です。
記号ってことばなんじゃないの? >>679
単に知らないから質問しているのか相手の無知を暴くためソクラテス的に質問しているのかは大抵の人は区別できるから「ここから話さなきゃなんないのか」っていう相手に無知のレッテルを貼る戦略は大抵失敗する >>687
でもそれを語る言葉はしっかりシニフィエとシニフィアンがあるじゃん 「記号」は"sign"に当てられた訳語で、"sign"は「合図」 「記号」で"sign"を表し、"sign"が「合図」を表すとすると、
何がシニフィアンで、何がシニフィエなのですか? 長引く咳は、コロナ感染の赤信号
高熱は、ワクチン接種の副作用の赤信号 >>679
そういうジャーゴンでわかったような気になるのがバカ哲学愛好家。
言葉の定義もできず、でたらめな言葉を使って新しい考え方だと言い張ってる。
デリダは、でたらめな言葉を使うことで違うイメージを獲得するためのブレーンストーミングだと正直に言ってる。 >>683
せめて、デカルトまで遡った方がいいよw >>685
横だけどそれがどこにも説明されてないから、「身と皮の間の栄養」みたいなお爺さんの戯言になってるんだよ。 >>686
意味や定義を持たない記号論を語ることになんの意味がある?
いくら言葉を積み重ねても、ただ自動筆記のように無意味な言葉が並ぶだけ。
たしかに、ポエムというより統合失調症にときどきみられる症例といった方がいいのかも知れない。
ちなみに、パースは文学理論のおまけで出てくるから、文学事典でも読んでごらんよw その話本当なら面白いな
デリダのどこに出てくるんだ? >>702
なにかのインタビューだよ。
でも、フランス哲学を少しでもかじったことがあるほとんどの人が知ってる話だと思うよ? 肩たたきは、言葉の代わりをする合図だが、
「肩たたき」は、言葉の代わりをする合図を表現する言葉だ。 とくにポストヒューマニズムはドゥルーズの影響をうけてる。
ポストヒューマニズムは、過激な人間強化と自然な人類の進化の組合せによって生み出されると説明されることもある。この場合、ポストヒューマンと他の仮説上の(人間ではない)新たな種との違いは、ポストヒューマン自身かその先祖が人間であったという事実だけである。従って、ポストヒューマンの前提条件としてトランスヒューマンがある。トランスヒューマンは人間の限界を超える強化をしたものであるが、同時に人間と認識されるものである。
ポストヒューマニズムを人間中心主義としてではなくジル・ドゥルーズの超越論的経験論的な観点からロージ・ブライドッティ(Rosi Braidotti)、松本良多 (Ryota Matsumoto)、ステファン・ハーブレクター (Stefan Herbrechter)はクリティカルな人間と機械の共生する哲学としてとらえている。
どこまで変化(進化)したら人間はポストヒューマンになるのか? 『心の仕組み』を書いたスティーブン・ピンカー(Steven Pinker) は、テセウスの船のパラドックスの例でもある次のような仮説を提唱した: >>705
優生思考と超人志向の組み合わせかな?w デタラメを寿ぐ現代思想なんて昔のことになりにけりなんだあね
ドゥルーズ研究はいまじゃ御本尊と大違いの明晰判明で理路整然とした本がポンポン出てくる
ヴィトゲンシュタイン業界の方がまだ蒙昧主義を脱してないのでわと思ってしまう 知のファルス化を恥ずかしげもなく吐露してる馬鹿が「非シニフィアン的記号」などとのたまう自己矛盾を呈しているのが限界地点なんだよな🥺
結局ドゥルーズ(ガタリ)の言葉を隠れ蓑にして自身の強迫神経症を補強してるだけのナルシストばかりなのがほんとにキショい 千のプラトーとどいた。
鈍器としてつかえそうなほどの重圧感。
寝転んで読むのはしんどそうだ。 >>698
言葉の定義だとさ。
じゃさ、上ででアホみたいに繰り返されてるシニフィアンって書き文字の他に音声はどう関わるのかをデリダはどうまとめたんだっけ? >>699
なんでデカルト?記号論の手応えすら掴めない馬鹿の頭に西洋の政治とか神学からの視点からコギトをぶっこんでさらに混乱させる作戦? >>712
あれ読めてるなら当然、連合説や象徴界への参照もしてるはずでなんで今さらシニフィアンどうこういってるんすか? >>713
そうだね。
彼らにはデカルトで頭を洗う必要があるねw >>714
シニフィアンどうこういってるのは僕じゃないよw >>708
これはそのとおりなんだけど、一方で消尽とかリトルネロは現在のモノの哲学に繋がる線で、知に限らずシニフィアンが主体とは関係なく絶えず連鎖してるのって、鑑別的にも普通な言語感覚的にも強迫神経症には該当しないのでは? >>717
妄想系だから普通な言語感覚ではないし、強迫神経症に該当するよw このスレ読んでるとパース読んでるふりしてるひといるけど、パースの記号論って神でもファルスでもいいけど対象の気配を主体がどう認知するかを扱うもので、当たり前の話だけどパースが生前イコンやインデックスに見出だした気配をそのまま現代に持ってくるのって、意味論としてナンセンスでしかない。 >>720
意味ではなく非意味だ by ドゥルーズ愛好家 >>719
脅迫神経症って、ある意味、普通を極めちゃったゆえの症状だよね?デリダを踏襲した話だけど秩序の連鎖の中でどこかのブロックが化膿しちゃってそれに対処するために、過度に手を洗ったり数字を偶数に合わせたがるんだよね。 >>722
強迫神経症というのは、自分が自分の思考や行動の禁止事項の創造者になること。
その原因にはさまざまな心理的なものがあるが、中心には自分を神としたいという欲求がある。
フロイト的には、抑圧された母子相姦の補償行為。 >>722
俺はデリダアンチだから不本意だが、因果関係から言うとデリダ的には、なぜ人は同じ行動を繰り返すのかって、かつてそうなるように何らかの刺激を与えられたからでしかなくて、それこそフェティズムと脅迫症が表裏一体なのはなぜかの、一つの解だなんやよ >>723
つまりだけど、シニフィアンの連鎖の中に入るってことは物理的に矛盾を抱えることと同時に起こる。というかせっかくシニフィアンの連鎖のなかに入っても何らかの無意味がない限り意味が駆動しなくて、駆動しない静止画こそがデカルトが発見した我で、これじゃ動かねぇじゃんって保守したのが神学で、科学的に発展したのが構造主義なんやよ >>726
普通のあたりまえの話、海も山も株価も為替も皮膚も思考も、何かが動くのは動く力が過去から働いているからで >>723
そうか、自分が新しい神になるんだw
神になるって、つまり世界のあらゆる秩序を編纂できるんだよね。神が何をどうしたいのかは謎だけどw そして神は他の神(他者)を認めてしまうとそれ自体が瓦解するので、他者をいかに否定することが強迫神経症者の命題なのです🥺
このスレの猿山はそんな症例で満ち溢れているだろ😭 >>708
非シニフィアン的記号論について読んだ上でそう言ってるの? >>731
今ここで問題にしてるのは知の内容ではなく、知をどう扱っているかというお前の症例の話だよ🥺 >>730
宗教学なら神と神経症を線で繋いでもいいけど、我々哲学民だし、神とかいないじゃん?
宗教なき信仰のメカニズムの暴かれた姿こそ記号論だったはずで >>732
知は知で独立してるとでも思ってるの?
童貞? >>734
これを「我々日本人だし神とかいないじゃん?」とするならもうそれがアンサーなんだよな🤔
否定神学にしろ向こうの人たちが勝手に内省してるだけでジャップにはそもそも関係ない話 >宗教なき信仰のメカニズムの暴かれた姿こそ記号論だったはずで
で、これ↑まさにジャップじゃん🙄
この社会では責任を取るという概念が発生しないので、政治は腐敗し、国民は「空気」というその場限りでの記号を読むことに特化して堕落する
これが「非シニフィアン的記号論」的あり方の社会なわけで、そしてそれが失敗だったことは2021年の今明白なわけだろ🤔 >>738
君は「非シニフィアン的記号論」をどこで読んだんだい? >>739
お前はそこに固着してるみたいだけど、そこになんかあるんですか🤔 >>740
読みもしない本について云々するのは100%中卒 >>741
シニフィアンはシニフィアンでしかないだろ🤔
お前のファルス汁が着いてないテクストだと認めないというならそれはお前の症状だ🥺 >>738
これ結構的を射てると思うんだけどな🤔
ポストモダン的価値観は日本というモデルケースによって終焉する 辞書も本も読まない自称「哲学系左派」などは終わるも何もゴミ >>744
神経症のように一言一句辞書引きながら本読んだ結果がこの猿山の有様じゃ、はっきり言って「時間無駄にしたね」の一言で終わりだよお前ら🥺 辞書も本も自分で読んで確かめないから分からないんだよ まあフロイトも書いてるだろ
「我々が必死に構築した理屈を、詩人はいとも容易く越えていく」みたいな事を
哲学というのは常に後追いであって、そこに固着していると時代について行けないバカになる、それがこのスレの人たちな🥺 で、
この社会では責任を取るという概念が発生しないので、政治は腐敗し、国民は「空気」というその場限りでの記号を読むことに特化して堕落する
これが「非シニフィアン的記号論」的あり方の社会なわけで、そしてそれが失敗だったことは2021年の今明白なわけだろ🤔
この現実についてなんか理論武装で反論しないんすか?🙄 >>750
それは現実に対する抑圧か否認というお前の防衛である、となる🙄 なんかあれだな、学生運動が失敗に終わった事を認められないマルクス主義者と同じ顛末なんだよなこの状況
それは一言一句辞書を引いて魂を削って学んできたコストと採算が合わないが故の態度なんだろうけど🥺 ここはポスト68年という話をしているんだから、子供は寝ろよ >>737
デリダが取り組んだ「否定神学」というのは西洋の神学用語だが、
世界レベルでその最も古い例に挙げられるのは、ヤージュニャバルキヤ(前750頃〜前700頃)による
「そうではない、そうではない(neti-neti ネティ・ネティ)」(『ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド』2:3:6)という表現。
ヤージュニャバルキヤはヨーガ哲学の祖と呼ばれるが、こうした身体知を哲学に組み入れると、
古代ギリシャのいかなる哲学者よりも古くなる。
インド文明には、アーリア人によって持込まれた文化も多いが、
ヨーガは有色人種が始めたものと言われる。
だから、デリダ以降の否定神学の問題などは西洋人任せにせず、
インド以東の人たちが関心を持ってやっていかないといけない。 ジャック・デリダ 『名を救う:否定神学をめぐる複数の声』 小林康夫 訳、未来社 (2005)
で扱われている否定神学の例(広義のものも含める)
・アンゲルス・シレジウス(1624-1677)
・ニコラウス・クザーヌス(1401-1464)
・マイスター・エックハルト(1260-1328)
・ディオニュシオス・アレオパギテス(5-6世紀頃)
・アウグスティヌス(354-430)
・プロティノス(205-270) プロティノスの弟子ポルピュリオスは、アレクサンドリアで学んだプロティノスが
“ついにはペルシアで行われている哲学とインドで盛んな哲学にも接してみたいと希求するにいたった”
ということを伝えている。
ポルピュリオス 「プロティノス伝」 『プロティノス全集 第1巻』 中央公論社 (1987) p100 非シニフィアン的記号論 って
非言語的表現を言語との対立でしか見てない
言語のエミュレーターで無理やり芸術とかダンスを理解してる感じ >>750
いや、>>749 は十分に非シニフィアン的記号を理解してるよ。
それを認められない君がおかしい。 >>757
語りえぬものは語ってはならない、ということだね。
ドゥルーズが忌み嫌った哲学の崩壊への言葉。 >>691
そんな誰が書いたか分からないネットの書き込みを参考にしていてはいけない。
ソシュールの記号学は「言語=記号学」。
パースの記号論において、言語は取り扱ういくつかの記号の内の一つに過ぎない。 >>705
非シニフィアン的記号論からポストヒューマン(非人間主義)的転回が起こったのは正解 >>758
ドゥルーズ=ガタリが、どこでそんなことを言っている?
彼らは図と用語集でもって、非シニフィアン的記号論をしっかりと定義している。
哲学は妄想で何千時間やっても何にも残らない。
百聞は一見に如かず。
自分の目で確かめないと。 >>763
ドゥルーズ=ガタリの図と用語集ってどれ? >>763
ドゥールズよりダンサーとか芸術家のほうが非シニフィアン記号を理解してると思う ほぼその時代の芸術の後追いだからな🙄
それをなにかの経典として大事に抱えている有様は、非シニフィアンを特権的シニフィアン化していると言わざるを得ない矛盾😅 >>764
何度も説明した
>>765
妄想
>>766
言葉遊び >>767
>何度も説明した
説明じゃなくて、どの本に書いてあるのか教えて欲しいんだけど? >>767
横だけど、ドゥルーズ愛好家に妄想だとか言葉遊びだとか言われるとは、誰も思ってないだろうね。
ドゥルーズは妄想と言葉遊びの発信元みたいなもんだからねw そもそも主体集団って固定化せず(西洋的)自我すらも解体するものだが、これってまんま自我のないジャップそのものだろ、ジャップの場合は隷属というネガだが🙄
役割を固定化せず能力差異を均一化させたゆとり教育で頂点に達したあのKYという空気概念が「決断できないジャパン」という失態をコロナで世界に晒したわけじゃん
まさに現実によって遡及的に変化するこの地点から読まなければならないわけで、後生大事に80年代の空気感のテクストをそのまま経典化して拝み祀ってるのがもうドゥルーズの哲学性から最も遠いところにいるわけだが🙄 >>779
この問いを発するのが既にもう経典化なんだよなぁ🙄 >>770
やっぱり逃げるのかw
ドゥルーズ愛好家なんてその程度。
♪ ∩.∧__,∧
_ ヽ( ^ω^ )7 相手は引用だけして逃げたぞw
/`ヽJ ,‐┘ また本を読まずに勝ってしまったw
`) ) ♪ マルクス主義の大〜勝〜利w >>782
そうやって踊り踊ってれば、非シニフィアン記号が言霊となって社会に浸透するね。
歌って踊って現状肯定。 これ書き込むのも何回目かなんだが、記号論も意味も哲学初心者には衝撃的な大発見なんだろうけど、普通にそれより上段に存在論がある。実在論以降の哲学ってなんかのサイクルで周期的に振り出しに戻った形から流行るんだけど、主体の特権性を揺さぶられるインパクトを経験しないと記号論とかからは抜け出せないよね。
それこそ、セカイ系がテーマにしてたのってメタへの導きだったんじゃないの?よく知らないけど。 何回も周期的に繰り返される記号論ブームってシニフィエ、シニフィアンってワードに痛く感動したのはいいけどなんでパロール、エクリチュール、デリダの郵便説に行く前に、何度も振り出しに戻っちゃうの?ほんと素朴な疑問なんだけど。 >>785
あずまんがセカイ系をやってた頃から実生活において、頭の片隅でちょっと考えてたんだけど、メタに行くってもしかして、メチャクチャ怖いことなのかもな。
メタに行っちゃうのって、価値記号でガチガチの神経症であることから抜けちゃうことで、実はこれは世の中のほとんどの人とって、単に怖いことなのかもな。 哲学をやらざるをえないときに、まず覚悟しなきゃならないのって、あらゆる私財を担保にだすかもしれないことで >>783
非シニフィアン的記号論の定義には「意味作用を生産する使命をおびていない」とある。
だから、歌って踊れる踊りや言霊は対象ではないんだ。 >>784-785
日本語でおk
非シニフィアン的記号論の影響を受けて出てきたのがメイヤスーの思弁的実在論で、
21世紀にそれより大きな哲学のブームはあったかい? >>786
これは翻して言えばメタに行きさえしなければシニフィアンでガチガチの神経症的なサイクルの中に安住可能ってことで、相当の好奇心がない限り、大体の人は安住を選ぶわな。 >>790
メイヤスーって非シニフィアン的記号論の影響を受けたんだw
絵を描くためには絵の具の調合の影響を受けなきゃないし、音楽を作るためには和製理論の影響を受けなきゃならないから、メイヤスーがシニフィアンから影響を受けているってのは間違いではないよねw
俺も幼少期に日本国教わったので、日本語の影響受けてるしね(呆) >>790
でもね、俺の思い違いだったらすまないが、多分だよ?多分だけど、メイヤスーは存在論もとっくに経験してると思うんだ。多分だよ?違ったらごめんね? >>792
そうですかwネット人生楽しんでください。 例えば、「たま(玉)の小櫛(をぐし)」という表現を解釈させてみれば、
その人の理解が及ぶのが言語学や記号学までであるのか、
それとも記号論までに及ぶのか、その違いが明確に表れる。
リンクとして以下に引用するサイトでは、見出しで「をぐし」を
「おぐし」に書き換えてしまっているので、その時点で既に論外だ。
https://kotobank.jp/word/玉の小櫛-562853
源氏(1001‐14頃)若菜上
「さしながらむかしを今に伝ふればたまのをくしぞかみさびにける」 この歌は、その言葉の表現を素直(/直毘)に受けとめるなら、
特に理解することが難しいものではないが、この歌が伝へて
いる心を明確に現代の日本語に言い換えて解釈できる人は、
そう多くないだろう。 「かみ(/む)さび」という"In-der-Welt-sein" 「かみ(/む)さび」が、すなはち、"In-der-Welt-sein"であることを
感じ取れる感性がなければ、記号論を理解することは難しい。 さてね、この歌そのものの解釈は提示していないものの、
この歌で用いられている言語表現の解釈を可能にする「中間言語」は
既に提示してきたはずだが? 「をぐしをさす」とはどのようなことか、何に「をぐし」を「さす」のか。 なぜ「をぐしをさす」ことが「むかしを今に伝ふる」ことになるのか。
また、そうすることがどのように「かみ(/む)さび」と関係するのか。 >>802
“非シニフィアン的記号論。
これはシニフィアンの記号学とは区別されなければならない。”
言語表現の記号学ではない。
“非シニフィアンの記号論というのは、たとえば意味作用を生産する使命をおびていない
数学的記号の機械とか、科学的、音楽的、芸術的といったような類の技術”
・音楽のエクリチュール
・数学のコーパス
・情報科学やロボット工学のシンタックス
など
ただの記号論でもない。
"非シニフィアン"の記号論であることに意味がある。
本を読んでこい。
慣れ親しんだ涎まみれの類推から離れろ。 >さしながらむかしを今に伝ふればたまのをくしぞかみさびにける
「たま」、「を」、「さす」、「くし」、「むかし」、「つたふ」、
「かみ(/む)」、「さび」とは、それぞれ、どのような表現なのか。 年代物のスコッチ・ウヰスキーの奥深い芳醇さに「かみ(/む)さび」を
覚えることは、錯覚であるどころか、むしろ、自然なことであると言えるだろう。
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jbrewsocjapan1915/80/2/80_2_119/_pdf/-char/ja
>古歌の中に"味酒(う まざけ)の三輪の神杉かみながら、
神さび立てり三輪の神杉"と詠われている。< 言葉の表現の「こころ(心)」がみずから(身づ柄/自ら)に伝はるなら、
つまり、コモンセンスが働くなら、その「こころ(心)」を伝へるのに
好都合な表現の実例は、今の時代、インターネットを検索するだけで
容易に見つけることができる。 >>805
芸術が意味作用を生産していない?
言語とは種類が違う意味を生産しているだけだ
非シニフィアン記号論はシニフィアンの特権性を突き崩すためのものだと書かれているぞ
どこまでも言語のための概念でしかない
「記号」という概念自体が言葉の枠で何かを理解するためのエミュレーターでしかない ほんだらイメージ学も美学もドゥールズの非シニフィアンなんたらの範疇だから
「20世紀の哲学者の焼き直し」になるのか?
どんだけイメージやらがそんな薄っぺらだと思っとるんよ? >>810
イメージについては『ハイ・イメージ論』(吉本隆明=千葉さんの天敵?)が秀逸。 そもそもポエムを事実言明として読んでるから
こういう空疎なやり取りに発展する >>809
>言語とは種類が違う意味
感情であったりイメージであったりするものも「意味」と呼ぶなら、人間の活動はすべて「意味」ということになる。
すべての人間の行為には意味がある。
そんなことは言っても言わなくても同じことじゃないか? >>806-816
「数学、科学、情報、ロボット、機械、工学」>>805
の話が一切ない。 >>810
21世紀の哲学の代表はメイヤスーで、コンピュータやAIの時代の哲学。
言語やイメージなどの身体性から一切距離を置くもの。 >>809
> 芸術が意味作用を生産していない?
> 言語とは種類が違う意味を生産しているだけだ
勝ってに意味を読み取っているのは君だ。
意味の実体が芸術に付随しているわけではない。
> 「記号」という概念自体が言葉の枠で何かを理解するためのエミュレーターでしかない
言葉や意味の記号学から離れろという話。 >>812
踊りは意味(音楽的構造)の身体的解釈。
非シニフィアン的記号論の例は機械芸術など。 >>818
そのAIを作ったのは意味やイメージだろ >>815
人間の全ての活動は芸術になり得るが
芸術は独特の内容の生成方法を持つのは事実 あらゆる記号は言語的に(指示対象を持つものとして)理解されるわけではないことの証拠として非シニフィアン的記号論が出てくるわけだから「言葉」を連呼しても何の反論にもならない
わかってるのかわかってないのかわからないから一応言っとく >>823
非シニフィアンって「対言語」のものすごい狭いフィルターでしかない
言語がないとそもそも存在しない陰の存在
言語のための概念でしかない
芸術や、歌や踊りそのものではない >>825
記号について話すとき「そのもの」というのがありえるのか
シニフィアン的と非シニフィアン的という二項対立のどちらが主でどちらが従かを決定できるか
といった点はさておき
「言葉」を連呼してたのを言い方変えただけでは?
記号には指示対象を持つものと指示対象を持たないものがあるという区別の適否
その区別を認める場合は指示対象を持たない記号もまた指示対象を持つものと同じように理解することができること
こういったことを論証しないといけない
少なくとも「対言語」や「言語がないとそもそも存在しない陰の存在」と言ってるので上記区別を肯定している考えられるから
指示対象を持たない記号もまた指示対象を持つものと同じように理解することができることを論証しないといけない なんか話が変だと思ってたら
私が途中からあらすじ読まないで入ってきたからだった
ドゥールズ以降のイメージや非言語の記号論以外の理論は無意味であると話している人がいるのかと思った >>818
メイヤスーはただの観念論だから、なんの成果も生み出すことはない。 >>820
それを意味というなら、人間のすべての活動が意味ということになる。 >>822
>芸術は独特の内容の生成方法を持つ
詩的な表現過ぎて意味不明なんだけど? メイヤスーはドゥルーズを乗り越えたの?
どんな地平を開いたの? >強度において理解すべきだったのだ??狼とは群れなのだ。つまりあるがままに一瞬にして把握される多様体、ゼロへの接近と遠ざかりによって、そのたびに分解不可能な距離によって把握される多様体なのだ。ゼロとは<狼男>の器官なき身体である。
こんなカッコいいポエムないだろ
20世紀最大の詩人だよ >>832
ドゥルーズがドラッグの力を借りてようやく到達したところに
メイヤスーはドラッグなしで到達した >>833
散々連呼>>250,424,478,578してやっと示したのがそんなつまらない話か
君は頭が悪いね >>835
相手の悪口を書いた時点で、君の負け。
ドゥルーズ愛好家は、もう批判者を罵ることしか術がなくなってるんだろうが。
どうせなら、「おまえのかーちゃん、でーべそー」の方がまだ潔い。 なんで国内外の大物研究者に噛みつかないで愛好ボーイズをなぶってるの?っていうのが傍観者の印象 >>837
その大物研究者がこのスレに書きこんでくれれば、いくらでも相手をするよ。
実際に、以前は論文書いたり翻訳したりしてる研究者らしき人とやり取りしたことはある。
大物かどうかは知らないし、自称研究者だったのかもしれないけど。 実名アカウントのSNSがたくさんあるのに2chで何言ってるの >>839
匿名だからこそ、おたがいに自由な考えを披露できるということもある。
実名のSNSだと生活がかかってしまうから、相手の批判は絶対受け入れない。
それは不毛な議論なんだよ。 うーん見ている光景があまりに違っていて分からない
物分かりのいい人でも匿名ネットでは狂信者になってしまうというのがここ20年の平均的な結論 >>841
哲学の場合は、SNSなどはまさに生活がかかってる。
本の売れ行きにも影響が出る。
ネットで狂信的になるのは、知識も思考力もない承認欲求だけが強い人がほとんど。
もちろん、業者からの委託で仕事として書き込んでいるから狂信的に見える、というレスも数多い。 そうですか
自分の経験していることからするとリアリティを感じられない話と言うしかなく
それこそこれ以上続けても不毛な水掛け論に終始するスレチトークなんであとはご随意に >>843
君の経験がどういうものなのか知らないけど、曖昧に誤魔化して逃げるところは、ドゥルーズ愛好家の特徴かもしれないね。 たいしてドゥルーズを読んでもいないのだけど愛好家認定してくれてありがとうございます >>845
なんだ読んでないのか。
でもこんなスレに来たくらいだから、雰囲気ドゥルーズ愛好家なんだろうねw スレに来る理由なんて千差万別あるんだから
ご自身が一番分かってるでしょうに >>847
なんだ、知識も思考力もないのに(ないから?)絡みたかったのか。
僕は真面目だから、つい相手をしてしまう。
君のような人のレスはスルーしないといけないんだけど。 >>833
ドゥルーズもデリダも元々難解な文章を書くが、
原文も読まず、訳文だけを見てその意味が通らない箇所を
ポエムと呼んでいる奴なんて、どれだけ頭が悪いのか >>850
原文を読んでわかるなら、フランス人誰でもわかるはず。
日本人でも、翻訳書を出すような語学力があれば、やっぱりわかるはず。
ところが、フランスでも難解といわれ、日本の翻訳者も「正直わからないところが多々ある」と告白してる。
それとは別に、フーコーは「フランスでは難解に書かないと出版してもらえない」と笑っていた。 >>839
>実名アカウントのSNSがたくさんあるのに2chで何言ってるの
SNSや実名のツイッターが事件の原因になることが非常に多くなってるね。
学校や職場でのイジメから殺人事件まで、SNSやツイッターが原因の報道されない日がないくらいだ。
匿名なら恨みも辛みも自分の中で解消するしかないが、実名だと現実の相手に危害を加えることに繋がる。
>>841
>物分かりのいい人でも匿名ネットでは狂信者になってしまう
報道されているのは、久しぶりに会ったら親や子供などが現実の狂信者になっていた、というものだね。
安倍政権が育てたネトウヨとJアノンがじわじわと現実に入り込みだしている。
将来の生活を見通せない国民の不安が、ネトウヨや陰謀論者という形で滲み出てきている。 >>855
原因の報道されない ー> 原因の事件が報道されない
失礼。 「現実」と食い違う詭弁を一度作り始めると辻褄合わせが大変だね >>857
どのレスに対する批判?
なんでいつも相手を特定せずに逃げまくるの? >>855
ネット上のアカウンタビリティの話って、リアルとネットって対極に二分できなくなって久しいんじゃねぇなか。
リアル社会ってバーチャル空間だから息が詰まりそうになってネットで匿名で吐き出す、ってのがおそらく現状で、そのアカウントってビッグデータへの奉仕しかしてないんだけど、ネトウヨとかはテック側の問題じゃなく心理的な問題点じゃないかな? >>859
本音を吐き出すのには本来リスクを伴う、ってパレーシア論以前の、ネットがなかった時代から共通のことで、それよりかネトウヨや陰謀論の問題は、理想自我の無化と寂しさの問題にしかならないよね。 『差異と反復』まだ序論読んだだけなんだけど、ドゥルーズのいう「反復」って
デリダでいうところの差延とか散種なんかの作用・運動と共通する辺りを扱ってるような
印象なんだけど、全然違うのかな? >>862
すべて言葉の問題。
「ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」
この一行で終わってる話。 後期はそうかもしれないが、最初からそうだったのかな? 差違と反復はまさにそれでしょう?
潜在態に差違が孕まれていて、それが反復するという
そうすると差違の前に同一性を想定せざるをえなくなり、第一原因へと無限背進的に遡行していくという
デリダの声と現象と同じモチーフでは? 発表年の前後関係とかどうなってるんだろう?
それからそこに至る経緯が違うだろうしね
パラフレーズだったとしても 差異と反復とかかっこいいよなタイトル
ちょうど当時出てきたミニマルニュージックにも対応してるし
やっぱ20世紀最大の詩人と言っていい >>866
は?ドゥルーズは第一原因を否定してるだろ🙄
裸の反覆は遡及的に決められるものでしかなく、オリジナルと偽物の優位関係は転倒する 書き方が悪かった(というかカントのひそみに倣ったから)けど、無限背進といったことから第一原因は便宜上の仮象だと読みとれるだろ コテつけてるから承認欲求と自己顕示欲の塊なのはわかるけど そもそもシミュラクルと関連できない程度の観念連合なら哲学の才能無いんじゃね そもそも、フランス現代思想はグループで思考してて、互いにパラフレーズしあってるてことを言いたいのが文意で、
デリダとドゥルーズの相関性を簡明に伝えるのに必要でもないだろ
お前はただたんにイチャモンつけて承認欲求を満たしたいだけなんだから、ここでドゥルーズ論でもぶってろ お前褒められるために哲学をやってるのか🥺
しゅごーい🤗 お前のことを言ってるんだろうが
こんなとこでコテつけて自己顕示欲丸出し なるほど、褒められたいがために哲学をやっているので、ちょっとしたツッコミにも「ぼくちんの文意ではない!イチャモン!」と過剰に言い出すわけだな🥺
お前の読解がカチコチに固まってて柔軟性がないのも、お前のその症状(文意)に起因するものではなかろうか 哲学なんて難しいものをとりあえずわかった気になる瞬間があるだけなので、あとは自分の中で繋いでいくしないもの
褒められる正解などないし仮に褒められたとしても「はあ…」でしかないわ🥺
彼はマーク式のテストで与えてくれる点数(承認)の延長で哲学をやってる感ある >>869
ミニマルミュージックというのは、最も詩情を排した音楽の様式だって。
Steve Reich - Music for 18 Musicians
https://www.youtube.com/watch?v=ILpCKQlDmhc&t=335s
Clicks & Cuts 2(レーベル:Mille Plateaux、ドイツ、2001年)
https://www.youtube.com/watch?v=ADV3ze1Ngvo
Mille Plateaux(千のプラトー)なんかは、正にメイヤスー登場前夜。
日本でこういう音楽を紹介していたのが、井筒俊彦と並ぶ日本の原始ポスト・ポスト構造主義者である佐々木敦。 「詩情を排した」と留保なく言い切っちゃうと語弊があるから、いわゆる「詩情」とカッコに括った方がいいと思うけどね。
自分はライヒとか一日中聴いてることもあるくらいミニマルミュージック大好きだけど普通にグッとくるしね。
ただそれはいわゆるポップスの文脈における「内面」を想定した「詩情」とはなんらかの差異があるというだけで。 >>888
ミニマルミュージックというのは、単調な繰り返しによって人をトランス状態に陥れるを原始的な宗教音楽を目指したもの。
ご参考まで。 >>888
【ミニマル・ミュージック Minimal Music】
ある音型の反復や引き延ばしから成り、その際に生じる音響の微細な差異や変化に焦点を当てた音楽。 ライヒは、>>888の直前にアフリカのドラミングやバリ(インドネシア)のガムランの研究を行っている。
「千のプラトー(ミル・プラトー)」の元になったグレゴリー・ベイトソンが研究していたのもバリ。
話題の中心はインド=ヨーロッパのインドよりも更に東のこと。 ドゥルーズやその他の「プラトー」まとめ
http://ds.cc.yamaguchi-u.ac.jp/~fujikawa/06/sl/sl0612.htm プラトンからヘーゲルに至る同一性の哲学に対して、
差異の哲学の代表は仏教の「縁起」で、これと同じ関係主義の形をとるのが、
ソシュール(言語)やマルクス(経済)の「価値形態論」や、ベルタランフィの「一般システム理論」。
ソシュールの学位論文は「サンスクリットにおける絶対属格の用法について」。 仏教では、差異と同一性はその概念がなくなるまで消融する。
それに対し、ドゥルーズやデリダの差異は同一性に回収されない絶対的な差異の産出。
この辺が、ユダヤ的なエーン・ソーフ(無限)のイメージ。 ・ヘーゲル「同一性と差異」
・ドゥルーズ「差異と反復」
・仏教「不一不異(同一でもないが、異なっているのでもない=差異がありながら一である)」 >>833
> つまりあるがままに一瞬にして把握される多様体、ゼロへの接近と遠ざかりによって、そのたびに分解不可能な距離によって把握される多様体なのだ。
これは東洋哲学の特徴。
ドゥルーズには「多様体」のイメージと同時に、ドン・ストコトゥスの「存在の一義性」への注目がある。
アリストテレスの排中律以降西洋哲学では、これらがバラバラに捉えられるのだが、
それ以前の哲学の性格を残すインドからイスラムや中国に至るまでの東洋哲学では「一と多」を同時に捉える。
「不一不異」や、多民族多言語の差異性をそのままに全体を統一的に捉えるイスラムの「タウヒード(斉一性)」など。「あるがままに〜」というのは仏教の「真如」。
こういうのを誤訳の隙間で勃起しながら「ポエム」とか言っているのは教養がなさ過ぎる。 >>898
宗教も正義も、敵を作るね。
ドゥルーズなんかマルクス主義とフロイトを徹底的に敵とした。
敵を設定しないと自分の”正義”を成立させられないところは、イスラム教やキリスト教だけじゃなくて、トランプや安倍に象徴される資本主義右派とまるで同じだ。 >>895
「価値形態論」というのは、商品と商品の交換過程において使用価値から交換価値に変わる変化を言ってる。
交換価値だけの商品としての貨幣の発生についての考察でもある。
ソシュールの言語論は、言語にはあらかじめ規則があるというもの。
それを構造と呼びたければ呼ぶというだけのもの。
どちらも宗教とは関係がない。
そしてドゥルーズとも関係がない。 >>901
価値形態論の、商品の価値は他の商品の使用価値との関係でしか表現できないというメカニズム。
ジャガイモの値段はジャガイモだけによって決められるのではなく、その時のニンジンやカボチャの価値との差異から決められる。
ソシュールの言語学においては、「イヌ」という言葉の意味は、イヌ以外のすべての意味(ネコ、ネズミ、太陽、工場、川、地球…)との差異から存立している。 仏教の「縁起」とは、それがあるから、「空」があるというもの。 【縁起 えんぎ pratītyasamutpāda】
他との関係が縁となって生起すること。自己や仏を含む一切の存在は縁起によって成立しており、
したがってそれ自身の本性、本質または実体といったものは存在せず、空である。(ブリタニカ国際大百科事典) >>903における
ジャガイモそれ自体の価値は「空」である。
イヌそれ自体の意味は「空」である。
このようにして「価値の差異の体系」、「意味の差異の体系」ができ上がる。
ソシュールのこの「体系」という語が後に「構造」と呼ばれるようになった。 “弁証法的思考は――まさにそれが概念そのものの本性の研究を前提としているがゆえに――人間にだけ可能である。
そして人間にとっても、それは比較的高い発展段階(仏教徒とギリシア人たち)ではじめて可能となり、
またさらにずっとあとに近代哲学によってその十分な発展を見るのである”
― エンゲルス 「自然の弁証法」 『マルクス=エンゲルス全集 20』 大月書店 (1968) p531 >>903
それ、価値形態論の説明になってないよw
流通過程における商品Aと商品Bの交換価値は等価。
ソシュールの言語論を語るなら、せめて読んでからにしてくれ。
君の説明ではまるで意味が成立しない。 >>906
ジャガイモそれ自体に、使用価値がある。
「空」ではないw
使用価値があるから、交換価値が生じる。
イヌそれ自体の意味はそこにいる犬やその他多数の犬の存在だ。
「空」ではない。
言葉があるから実体があるのではなく、実体があり、人間が舐めをつける必要があるから言葉がある。
それぞれ「価値の差異の体系」、「意味の差異の体系」などではない
価値はそれぞれの使用価値の体系であり、意味は人間にとっての必要性(文法)の体系ということになる。
構造とは、関係を言い表したもので、差異とは無関係。 >>909
人間が舐めをつける必要
ー> 人間が名前をつける必要 >>908
AとBの話ではなく、Aと非Aという話。
>>909
君のそのジャガイモやイヌの見立ては、「差異の哲学」以前の近代までの西洋の中心にあった実体性と同一性に基づいた見方。
「空」というのは有無の「無(い)」ではないし、「空である」とは「空である(と観よ)」ということ。
結節点が空となって、ノードが強調される見方。
> 構造とは、関係を言い表したもので、差異とは無関係。
いやいやいや。構造とは、差異による関係性の体系なんだって。 >>465
> 西欧世界が歴史の先端であるという価値観を強く否定したレヴィ=ストロースが構造主義の始まり。
レヴィ=ストロースの時代に「構造主義」という言葉が出来ただけで、レヴィ=ストロースの構造主義は二次的なんだ。
レヴィ=ストロースは、未開の社会にも西洋と同じような「構造」、つまり「親族の構造」の様な記号の体系があることを見つけたんだから。
そうした記号の体系を先に示したのがソシュールの言語記号学。 構造主義をレヴィ=ストロースの線で読んでいても、分かるようにはならない。
何度も言っている通り、ドゥルーズ/デリダのポスト構造主義やメイヤスーのポスト・ポスト構造主義までが問題にしているのは
ソシュール由来の構造主義の限界と乗り越えなんだから。 >>908
> ソシュールの言語論を語るなら、せめて読んでからにしてくれ。
これまでにも何度も出てきたシニフィアンとシニフィエの間には何がある?
つまり、シニフィアンとシニフィエを結び付けているものは何であったか?
それがソシュール記号学の中心であり、構造主義(以降)やドゥルーズの話題の中心なんだよ。 おれ構造主義、大して知ってるわけじゃないけどさ、
>これまでにも何度も出てきたシニフィアンとシニフィエの間には何がある?
>つまり、シニフィアンとシニフィエを結び付けているものは何であったか?
っていうの、ソシュールはシニフィアン(言葉?)とシニフィエ(もの?)の対応は、なんだっていいって立場だろ。生の世界っていうより、その言語体型の構造を見てる感じじゃないか。ドゥルーズはもうちょっと違う感じがする。
構造主義って、結局、クーラーのきいた部屋の中の感じだろ。 >>911
>AとBの話ではなく、Aと非Aという話
A以外はすべて非Aだよw
非Aなどを設定しても、Aだけを設定するのと同じこと。
君ってバカなの?
>「空である」とは「空である(と観よ)」ということ
それだとフッサールのアポケーと同じで、ただの主観に過ぎないよw
ポモは、主観と客体の区別ができないところから始まってるから、哲学としての存在価値はないんだけど。
>構造とは、差異による関係性の体系
すべての物事には差異がある。
あたりまえだろ?
それのどこが構造なんだ?w >>912>>913
もともと構造主義というのは反歴史主義のこと。
時間(歴史の進化)を否定して、世界を空間(地域の独自性)として捉えようとする試み。
だから、時間(言葉の成り立ち)を重視せず、空間(現在ある言語規範)を重視したソシュールが構造主義と呼ばれる。
PP構造主義というのは、一度否定した時間(歴史)を空間(地域ごとの歴史)の中に復活させようとする試み。
なんのことはない、ヘーゲル(マルクス)の復活に過ぎない。
だからドゥルーズは、それまで全否定していたマルクスに縋りつこうとした。 >>914
>シニフィアンとシニフィエを結び付けているもの
受容と言語規範の単純な関係と見たのがソシュール。
そんなものが構造主義?w そう単純でもないと思うが🤔
構造主義(と勝手に外野が言ってる)の人たちでも、ラカンは共時性としての想像界ではなく通時的な象徴界優位だし
フーコーはまんま「歴史」を読んでいる
そもそもソシュールの言い分ってそんな意味じゃなくて、通時と共時がごっちゃになってたそれまでの言語学に「分けて考えましょうね」って話だったと思うが🤔 >>921
フーコーの歴史否定については「知の考古学」参照。 >>921
ソシュールについてはまるで見当違い。
通時とか共時とかわざわざ歴史と地域を変な言い方にする必要もない。 監獄の誕生にしろ性の歴史にしろ、書かれてる内容は「歴史」がまず前提だろ
言葉遊びはいい加減にしろ🙄 >>923
見当違いはお前だろ🥺
私が勝手に言ってるわけじゃなくて、一般言語学講義にそう書かれてあるんだが >>924
監獄の誕生や性の歴史は「知の考古学」が前提となっている。
それぞれの時代的な共通性をとり上げる。
歴史というより、時間を輪切りにした変化の積み重ね。 >>925
それは君の読んだ翻訳が悪いんだなw
無意味な造語は極力避けるべき。 >>927
あーあ🤭
「君」とか「僕」とかほざいてるキショいドゥルージアンの底の浅さが見えちゃったね >>928
なんだ、悪口しか言えないいつものハチ君かw
少しは勉強しろよ。 通時と共時の概念は精神分析における隠喩と換喩の理解に不可欠
これを知らずにアンチ・オイディプス読んでたのかと思うと笑える >>926
監獄の誕生も性の歴史も17世紀以降にどう構造が変遷していったかをちゃんと記述している🙄
時間に沿った変化を記述しているのだからフーコーが何をほざこうがそれは「歴史」だ🙄 >>931
歴史というのは原因と結果を考える学問。
時代ごとの特徴を輪切りにしたものは歴史ではない。 >>932
過去を前提としているのだからそれは既に歴史だ🙄
なんでこんな単純なことが理解できないのか🙄 >>918-919
押し入れから押収された偽ブランド品みたいなソシュールだね。ソシェール。
>>908
> ソシュールの言語論を語るなら、せめて読んでからにしてくれ。
毎回毎回、君自身が本を読んでいない時に使うブラフだ。
>>917
> すべての物事には差異がある。
ソシュールは「言語には差異しかない」とまで言っている。 >>915
かろうじてソシュールを理解しているのはこちら。
「シニフィアンとシニフィエを結び付けているもの」は「恣意性 arbitraire」(思いついたままの考えで、必然的な結びつきはないこと)。
犬が何故イヌという音で呼ばれるのかは誰も分からないという話。 だから、構造主義とか、分析哲学とか、>>402のような話を仮に「論理的」な構築物と言ったところで、
その根本のところで、カラスがなぜカラスと呼ばれるのかも分からないという砂上の楼閣なわけ。
こうした恣意性の曖昧さを回避するために提案されたのが、ドゥルーズの非シニフィアン的記号論>>296-297。(ポスト構造主義)
後継のメイヤスーは、言語を排除して数学による実在へのアプローチをとった。(ポスト・ポスト構造主義) 同時に、ソシュールの言語記号学が、実体を扱わないものであったことへの反動として、言語論的転回からモノや実在論への転回が起こっている。 菅野盾樹 『恣意性の神話:記号論を新たに構想する』 勁草書房 (1999)
日本で、ポスト構造主義とポスト・ポスト構造主義の間の時期に書かれた本。 “言語には差異しかない” p168
“観念と音との連結は徹底的に恣意的なのである” p159
“言語は形態であって、実体ではない”p171
― ソシュール 『一般言語学講義』 小林英夫訳、岩波書店 (1972) 第2部 共時言語学 第4章 言語価値 >>917
仲正の『ドゥルーズ+ガタリ〈アンチ・オイディプス〉入門講義 』(2018)は読んだかい?
そのあとがきのタイトルは、「安易な「反ポモ」を唱える前に」。
“テクストも読みもしないで”“ソーカル事件について生半可に聞きかじった”ネットのクズについて言及してるけど、
君のことではないかな? >>934
>ソシュールは「言語には差異しかない」とまで言っている
言葉として成立するためには、それぞれの間に物理的な違いがあるに決まってる。
それでも全く同じ音(字)による言葉というものもある。
そんなこともわからない君って、バカなの? >>940
御託を並べる前に、自分の頭で考えてごらん。
他人(著名人)の言葉を真に受けても、それが正しいという保証などどこにもない。
君の頭はカツラの台なのか? ドゥルーズだのソシュールだの
おっさんには懐かしい名前だおyなw >>948
ドゥルーズに解釈は不要だからね。
読め、感じろ、それでおしまい。 政治家の二つの体制。
一つの体制を生きてるのは市民。だと思う。 ちびまる子とかの日常もののアニメとかで、
狂人の二つの体制とか、自分には関係ない難しい話だと思う気がする。
日常もののアニメとかには、精神病の人は出ない。 >>953
疑問なく日常を送っているのは狂人だと言いたいんだろう。 消費社会の神話と構造、ボードリアールとアンチオイディプス、資本主義と分裂病
ジルドゥルーズなどから賞品生活信仰で精神病の予後が変わるだろう。
DJみたいに重ねて読んでみてね。 いや、その通りにrewardと含意させたいんじゃないか アンチ・オイディプス買ったぜ。古本だけど。
読めるのはもうちょっと先になりそうだけど楽しみ。 >>962
感情的で不愉快な言い回しが多い本だけどね。 >>954
疑問なく日常をおくっている人は、特に狂人ではないと思う。
それは市民と言えると思う。
日本では、たぶんオタクの人が、日本あんまり好きじゃないけど、平和憲法、みたいに思っている。
それはたぶん戦後の新憲法の手塚治虫の感じだと思う。
狂人の二つの体制の狂人とは、要するに、法律や病院制度の中にあって、別コミュニティの思考も持っている人のこと。
そうではなく、日本は超金持ちのところだから、政治家みたいな人が多い。
政治家というのは基本法律を守らないから、二つの体制を生きている。
そういう人が、狂人の二つの体制に書かれた、マトモな人(政治家)、精神病の人、という精神の差別を生み出している。
主に教育とかで。他には文化とか、いろいろ。
あと、精神病の人は、アニメなんかで出てきても、名探偵コナンみたいな、異常な殺人者みたいでしか出ない。 あと、知的障害の人だったと思うけど、少し話したことがあって、
ああいった人は、顔で差別されて、きちんと勉強できなかった気がした。 >>966
いまは様々な障害の度合いに合わせて、ていねいな教育が受けられる。
ただ、そういう専門の学校は少ないから、住所地によって差ができてしまうとは思う。 ドゥルーズなんか読むより分析形而上学の本読んだほうが面白いよ 私にドゥルーズの面白さを教えてくれた人はいまだかつていない
読んでる人も面白いと思って読んでるわけじゃないような気がする >>969
わかった。
では僕が教えてあげよう。
まず、白い犬を飼うんだ。
その犬に「ドゥルーズ」という名前を付ける。
そうすれば、ドゥルーズは、尾も白い、面白い・・・
失礼しました。 【悲報】千葉県松戸市の地下カジノに捜査員100人が突入 グエン29人を逮捕。これ日本の話だよな? [511335184]
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1637582237/ フェリックス・ガタリは最近まで生きていたという噂が 統失VS主体集団のタイトルマッチです
アンチ・オイディプス的に大変興味深いのではないのでしょうか🥺
【悲報】岩間(aiueo700)さんの隣の売りに出されていた宇宙家をベトナム人が買う [706917716]
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1637867415/ ポゥポゥキャーッ!™ポゥキャーッ!™ポゥキャーッ!™
キャーッ!™ポポゥキャーッ!™ポゥキャーッ!™ポゥキャーッ!™
ゥキャーッ!™ポゥキャーッ!™ だれか、簡潔に さるにも分かるように説明してくれない。 さるの前で、>>975を声に出して叫んでみればなにか反応があるだろう。
冷ややかな眼差しを向けられるだけかもしれないが。 このスレで確認してきたことは、ドゥルーズの読みどころである以下の2点。
構造主義からポスト構造主義への転換点も、
ポスト構造主義からポスト・ポスト構造主義への転換点も、ドゥルーズの著作の中にあるということ。
・構造主義(レヴィ=ストロース、ラカン)
↓ 『意味の論理学』の「空虚の桝目」(>>270)
・ポスト構造主義(ドゥルーズ、デリダ)
↓ 非シニフィアン的記号論(>>296-297)
・ポスト・ポスト構造主義(メイヤスー) しかし、ドゥルーズスレ1-20の中では、この「空虚の桝目」と「非シニフィアン的記号論」が全く議論されてこなかった。
このスレはドゥルーズの哲学の核心に全く触れてこなかったという訳。
このスレがドゥルーズを扱っているスレだと思い込んでいる方>>457が間違い。 >>979
「空虚の桝目」も「非シニフィアン的記号論」も、言葉の錯誤。
言い換えれば言葉の定義の錯綜。
つまり無意味な言葉の遊び。 >>980
「錯誤」という言葉の意味は分かるかい?
言い換える意味ある?
こんな簡単な言葉のどこに「遊び」なんてやっている余地がある?
惨めな言葉遊びだね。 ドゥルーズって、ソーカル事件で終わった人だったはずでしょう。
ほとぼりが冷めて、またのこのこと出てきたみたいだね。 エヴァンゲリオンとは何か?
1名無しが氏んでも代わりはいるもの2021/11/25(木) 09:15:16.66ID:Qb9F2bYw
シンジ君が世界を滅ぼす話。
さらにアスカも殺そうとする話。
10名無しが氏んでも代わりはいるもの2021/12/04(土) 06:00:58.97ID:JMQsDGql
フェリックス・ガタリが碇ゲンドウみたいな話を
11名無しが氏んでも代わりはいるもの2021/12/04(土) 06:02:41.57ID:JMQsDGql
さっきのはきちんと言えないけど、シンジが一番悪いみたいな話ではある >>981
空虚であれば桝目もない。
非シニフィアンは、すべての存在を指し示す。
理解できるかい? >>984
君の脳内言葉遊びは言語ゲシュタルトが崩壊してるだけだね。
> 空虚であれば桝目もない。
いや、枡目があって、その中身が空虚(空白)であるという話だよ。
元々は、君の大好きなレヴィ=ストロースの話だけど、読んだことないだろうね。
> 非シニフィアンは、すべての存在を指し示す。
そんな頓珍漢な話、どの本に書かれている?
非シニフィアンの定義は読んだことある? >>982
ドゥルーズとソーカルに関する最新の話は>>940 今時ソーカルとか言っている人達は、
ドゥルーズ/デリダ以後、最もセンセーショナルな哲学者であるメイヤスーが理系で、
それがドゥルーズの流れを汲んでいることの意味が理解できない人が多そう。 ポゥポゥキャーッ!™ポゥキャーッ!™ポゥキャーッ!™
キャーッ!™ポポゥキャーッ!™ポゥキャーッ!™ポゥキャーッ!™
ゥキャーッ!™ポゥキャーッ!™
君には難しいかもね >>988
>レヴィ=ストロースの話だけど、読んだことないだろうね
ないから教えてくれ。
>非シニフィアンの定義は読んだことある?
これもないから教えてくれ。 >>989
最新でもなんでもないし、ただ感情的にドゥルーズ擁護しても意味がない。
ドゥルーズは自然科学について深入りしなかっただけのこと。
ネットのクズは、君を含めてどこにでもいるけど。
本を書くクズも、実はたくさんいるんだよw >>996
なぜ、読んだことがないと、張り合うことができないと思うの? 未だに哲学書を読むことを、何か高尚なものだと勘違いしてる馬鹿って感じ🥺 このスレッドは1000を超えました。
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