明清帝国 二
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r┤ ト::::: \___/ || 朕こそ明清体制(1368-1912)544年間の太祖ぞ。
/ \_/ ヽ:::. \/ ,ノ 賢帝の中の賢帝と呼ぶが良い。
| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__ しかし、ここは静か過ぎる・・・。
| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ
ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ >>3
政治体制の面ではそうかもしれないが
(政治体制にしても、明代における内閣制度の成立や督撫の設置で早くも変容し、
清代には八旗制や議政王大臣、軍機処や理藩院の追加でさらなる変容を遂げる)、
明清代を通底する経済・社会・文化での成熟は、
貴様が設計したシステムが変容・解体するなかで起こったものだ。
貴様一人が明清代の代表ヅラするんじゃねえよ。
貴様一人を明清代の代表として持ち上げることは、
五百数十年にも及ぶ明清代を「停滞の時代」と見なす、
かつての欧米人や日本人、および初期の中華民国・中華人民共和国の偏見にまみれた、
イデオロギー的見方に与するものだ。 >>5
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L::;;,__ ..:::ゝ フッフッフッ。
//;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;ヽ やっと人が来てくれて朕は嬉しく思う。
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/j/三三三三三三三三三三ヾ 親しかった者たちを皆殺してしまったからのう。
l::||:::: |l 朕は大きな思い違いをしておった。
/ ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′|| 朕は明清の代表ではなかった。
r┤ ト::::: \___/ || 中華人民共和国までも朕の統治方法を受け継いでおる。
/ \_/ ヽ:::. \/ ,ノ 突然の大粛清、政府見解のみを徹底、従順なる民衆教育。
| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__ 朕は明以降の現代中国の創始者だったのじゃ。
| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ
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/ ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′||
r┤ ト::::: \___/ || 坊主、ハゲ、托鉢と言う者共
/ \_/ ヽ:::. \/ ,ノ 全て凌遅。
| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__
| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ
ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ __
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/j/三三三三三三三三三三ヾ 朕ばかり注目されることに
l::||:::: |l 気に入らぬ者もおろう。
/ ̄\ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′|| 朕にもその気持は理解できる。
r┤ ト::::: \___/ || だがそれは朕の責任にあらず。
/ \_/ ヽ:::. \/ ,ノ 朕があまりに偉大過ぎる所以じゃ。
| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__
| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ
ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ 前スレより
957世界@名無史さん2018/09/12(水) 20:54:45.220>>958
明清は連結で良いんじゃない?
明単体とかレス進まなそう
958世界@名無史さん2018/09/12(水) 21:09:41.750
>>957
明単体だと、「凌遅三千刀、滅九族」の、あのお方専用のスレになるからなwww
明単体だと、朱元璋ばかりになることへの反省・懸念から、
明清連結で継続することになったというのに、
早くも朱元璋が出張りまくっていて萎える。
マジで自重しろよ。 >>13
いやいや、成祖永楽帝のアンチヒーローぶりもほぼ双璧 明は、儒教史観では「中華が恢復した時代」という位置付けだが、実際には暗黒時代だったのが周知の事実 ローマ帝国だって、帝国の歴史の中にはいくつもの王朝がある
元・明・清を、「北京帝国」と一括しても良いのではないか 元朝 北京帝国第一王朝
明朝 北京帝国第二王朝
清朝 北京帝国第三王朝
まるでエジプトみたいだぁ >>17
元と清は同じ国
明は違う国
清は元から大ハーン位を譲位されてるんよ 清は、李自成の賊軍を滅ぼして、明から中華帝国の座を継承した 永楽帝の生母は『明太祖実録』や
『皇明玉牒』では馬皇后となっているが、
いくつかの伝説ではモンゴル人の后の娘だとする。
モンゴル側資料の『黄金史』や『蒙古源流』では
ウハート・(トゴン・テムール・)ハーンの
ホンギラート部出身の妃が
洪武帝に嫁ぎ産んだとする。
明側漢籍では『南京太常寺志』で
永楽帝の生母を「石貢」妃とし
馬皇后でないとする。
弘吉刺氏(ホンギラート)を
明の成祖の生母することに繋がる。
これらの流布している伝説は
事実ではないと思われるが、
当時の世間一般で
明は元朝の宮官を愛用したり、
モンゴル人の来降を受け入れたり、
永楽帝の部下にもモンゴル人が多かったことから、
永楽帝をモンゴル王朝と繋げる認識があったと考えられる。 >>19
明初に元朝から投降した武人や官僚たちを多数採用し、
清初に辮髪令に応じた明の官僚たちを
概ね現職のまま採用している。
官僚組織としては、連続していて断絶してないのでは?
政権トップが交代しただけじゃん。
新たに北京に入城する新指導部を
旧王朝の百官が揃って、祝意を表明し、
歓呼の声と共に、新王朝が始まる。
これはペキン帝国の指導部だけの交代の儀式であって、
全く新たな帝国建設ではない気がするね。 清史稿 131巻
緑営戦功,自康熙征三藩時,用旗、緑兵至四十万,雲、貴多山地,緑営歩兵居前,旗兵継之,所向輒捷。其後平定準部、回疆、金川,咸有績。
緑営の戦功、康熙から三藩を征する時、用いた八旗、緑営の兵士は40万に至った。雲南、貴州は山地が多く、緑営兵は前衛を担い、八旗兵がこれに続いた。
向かうところ勝てない敵はいなかった。その後、ジュンガルやウイグル、金川を平定したのにもすべて功績があった。 「馬脚を現す」
語源は一般に芝居用語とされていて、
馬の足の役の人がうっかり姿を表すことから、
隠しておいたことが露見してしまうという意味になったとされる。
元代の古典劇の中の「露出馬脚来」という言葉に由来という説もある。
別の民間説話がある。
ある時、洪武帝の馬皇后の行列を
大勢の百姓たちがひれ伏しながら見物していた。
すると一陣の突風が吹き、
馬皇后の衣の裾が巻き上がった。
百姓たちはびっくり。
皇后陛下は纏足をしてない大脚だったのだ。
ファーストレディーなのに纏足してないなんて!!
馬皇后の大脚が明らかになったことから、
「馬脚を現す」となったというもの。 朝鮮史は、明代が前期朝鮮、清代が後期朝鮮に分かれる
後期は退嬰した暗黒時代と位置づけられている 清の外交使節が来ると、朝鮮国王は三叩九拝して出迎えた
清の外交使節は表門から入城し、朝鮮国王は裏門から入城した 日本も、明代は室町幕府、清代は江戸幕府と、時代区分はほぼ重なるが、これはたまたまそうなったもので、連動していたわけではない 琉球は、17世紀初頭、江戸幕府の成立からまもなく薩摩藩の侵攻を受けた
もっとも、それ以前から広東省の台頭に押され、海洋貿易の繁栄には陰りが生じていた 台湾では、清朝が鄭氏政権を倒して直接統治に乗り出した
琉球と同じく、海洋貿易での存在感は明朝の頃より薄れたが、農業生産量は増大した 通り一遍の解説もどき書くぐらいなら、出典も示してくれないと何とも言えん
あと、清史を云々するなら、少なくとも漢籍と満洲語文語くらいは多少なりとも読めるんだろうね? そこどうよ? 明と朝鮮の柵封関係は、朝鮮人にとっては理想の時代だった
清によって武力征服され、その時代は終わった 明清にとって、朝鮮は、首都北京に近く、潜在的な脅威である日本との間にある重要な地だった 明るいナショナル
明るいナショナル
みんな うちじゅう
なんでも ナショナル >>28
豊臣政権崩壊と江戸幕府成立、
明朝衰退滅亡と清朝勃興、
両者共にキッカケは秀吉の朝鮮出兵という共通項があるじゃん。 >>35
パナソニックになって明るくなったのだろうか?
明朝自体は暗黒王朝だよなぁ。 新は復古国やったし
清は汚い国で夏は寒い国で漢は女々しい国やったんかな 過去の王朝名の由来が地名のことが多いのに、
元明清は違うよね?
明は白蓮教が由来かな?
元や清も宗教色がある気がする。 >>22
乾隆帝漢人説というのもある。
それを下敷きにした武侠小説が
金庸の『書剣恩仇録』。 >>39
唐・宋までは、すべて地名
金・元から地名じゃなくなった >>40
「順治帝は早死にしたのではなく、出家して寺で生きていた」
「李自成は死んだと見せかけて、じつは裏社会で暗躍していた」
・・・これらも、金庸ワールドの中では常識 >>41
明ではなく「銀」にすれば良かったのに。
銀本位経済を発展させた王朝にふさわしいじゃないか。 >>39
元は易経の「大いなるかな乾元」から取ったもの。
本来は元ではなく、大元でもって国名。 そもそも朱元璋は「呉国公」だったんだから
彼の王朝名は「呉」でも良かったはず。
何で「禿」「光」と言ったNGワードに近い「明」にしたんだ? >>45
白蓮教徒紅巾軍の大宋国の明王の称号を想起するよなぁ。
呉王は小明王の臣下に過ぎない。
小明王を推戴する形で呼び寄せながら、
途上で小明王を溺死させて、
何食わぬ顔で盛大な葬式を主催する。
2年後に明を建てて、晴れて洪武帝となる。 建国者の封地をもって王朝名とするという、春秋の世からの伝統を放棄したのは、異民族王朝の金・元
それを思うと、明はその伝統を復活させ、「呉」にしても良かったんじゃないかと思える >>40
そういえば金庸、この間亡くなったね。
中国ではこの人の本がいちばん読者が多かったんじゃないだろうか。 呉人による全土支配じゃなく
南人漢人による国家を作りたかったからじゃない? >>47
「呉」は地方名としては知られすぎていて「天下」のイメージにつながらない
「漢」も「唐」もどこそれ?っていうマイナー地名だから統一王朝に転用されても問題なかった
「宋」は先秦では名門の国名だが、地方名にもならず、
南朝で同名で復活するまで700年も経っていたから地方イメージはなかったぶん新鮮だったろう
「斉」は春秋戦国は何百年も続いたし山東半島あたりのイメージで定着
ほかに南朝、北朝、五代十国、黄巣などいくつもの広域的な王朝の名になったが、
どれも50年と続かなかった
明にあたる国が呉と名乗っていてもちぐはぐなイメージで短命だったような気がする >>47
封地もヘッタクレも無い階層の出だから無理だったんだと思う。
清が(後)遼を名乗っていれば伝統復活? 清は実際はまず後金だったな
しかも民族系統的にわりと合っているという 定住せずに移動生活を行う部族なら地名よりも出身氏族名の方が馴染みがあるだろう >>47
ところで金朝は「建国者の封地をもって王朝名とするという、春秋の世からの伝統を放棄」してなどいないと思うぞ
金の発祥地は松花江の支流「按出虎水(現・阿什河)」の流域(ハルビン市阿城区、旧名・阿勒楚喀(アルチュカ alcuka))で、川の名前の元となったalcunが女真語で”黄金”を意味する(要するに満州語のaisinの祖型だな)
であるから「金」はそこから取った地名ということになる >>51
確かにそうだな
朱元璋の場合は、山賊が呉の地を乗っ取っただけであり、呉国に封じられたわけではない 中国共産党は上海で結成されたのに国名を上海から取らんかったのはなんでや 女真人を遊牧民族だと思ってる人が多いようだが
基本狩猟・農耕民だぞ
騎馬しか合ってない
北のホロンバイルのあたりにちょっとだけ遊牧民がいたようだが
例外的にモンゴル人に同化した結果だろう 満州が中華人民共和国に編入されたのは、かえすがえすも残念
朝鮮みたいに独立していれば、東アジアはかなり変わってた 初期の中華人民共和国にとっては、日本によって工業化された満州こそが国力の基盤だった
重化学工業が斜陽化した今では、むしろ、トンデモないお荷物地域と化している
だが、国防の要衝であるこの地を、中国共産党が手放すことはあり得ない 「ソビエト連邦・極東ロシア共和国」として存続する道も考えられた
しかし、その場合は、極東におけるソ連の力が強くなりすぎてヤバかっただろう
ソ連の崩壊のあとは独立
ひょっとしたら、帝政を復活させて「大清帝国」となった可能性もある
夢物語だが(笑) 闖関東で漢人だらけでもしロシアに併合されていたらロシアが中国化してしまう 重工業がお荷物っていつの話だ
とっくに立ち直ってるよ
アメリカの航空機産業を中国東北で支えるといった大きな取引が進んでいる >>65
いや、それは夢物語だ
情報が新しいわけではない 経済成長率を水増し申告する地方が多い中、遼寧省が「マイナス20%」と発表して話題になったのは、つい最近のことだ 中国経済の強みは経済拠点が多いこと。
北京のGDPが全国の2%でしかないというのは、
一極集中型経済構造の日本などと違う。 >>67
遼寧省の発展は日本との関係が重要で
日中関係が悪化すると苦しくなるんじゃないかなぁ?
大連のホテルに3泊したが
外国人宿泊者の半分が日本人で、
残りの半分がロシア人みたいな感じ。
日露戦争時と変わらないかも。 日中関係が悪化すると困るのは我々の方なんだが
メイドインジャパンの家電や衣服、今こうして使ってるパソコンも生産拠点のほとんどは中国やベトナム等で
企業間輸出という形で日本に入って来てるのだから
いわゆる産業の空洞化ってやつだよ 中国の生産力は確かに凄い。
インフラ建設のスピードも目を見張る。
高速鉄道網総距離数、
高速道路総距離数、
自動車販売数、
地下鉄路線総距離数、
空港や高層ビル建設数のどれも世界を圧倒している。
GDP統計は水増しが疑われるが、
貿易統計は相手国があることなので、確かだろう。
中国のポテンシャルはもともと大きかった。
しかし、明らかに明清期間では低下した。
世界経済に占めるGDPの割合は人口の多さでカバーしていたが、
一人あたりGDPは1400年頃より既に西洋に抜かれている。 一人当たりなら明治頃には日本にも抜かれてる
文革時には総額でも日本に抜かれた 世界の工場というか実質、日本の工場だからな。
もはや日中は一蓮托生よ。 明清時代は銀本位経済が回って好景気で物産に溢れた時代。
明清時代は飢餓水準の所得に苦しむ人で溢れ、
生きるために海外を含めて移住者が大量発生した時代。
どれが本当なのか?
ポメランツあたりは18世紀半ばが人口増加による制約の始まりとするらしいが、
1400年頃に既に一人あたりGDPが低下という学者もいる。
だとすると明清期間を通じて、
人口増加+生活水準低下の長期衰退期ということになる。 オドリコ『東洋旅行記』
このマンジ州にはゆうに二千の大都市があり、それ等の大都市は非常に巨大なため、トレヴィソもヴィチェンツアもその数に入れられぬほどであり、
またこの地方の人口は非常に多くて、我等には信じ難い程である。
〔そして多くの場所で我々がヴェネチアの昇天祭で見かける群衆よりも多い人出を見ることが出来た。〕この地には大量のパン・ぶどう酒・肉・魚・米その他世界の人々が
用いるあらゆる種類の食糧があり、またこの州のすべての人々は技芸や商業を営み、どんな貧困者でも手足でおのれを助けうる間は、決して施与をうけようとはしない。
マッテーオ・リッチ『中国キリスト教布教史』
この王国は非常に広大で人口も多く、食糧もあり、船、大砲、その他の武器をつくる材料もあるので、それを用いれば、少なくともすべての近隣諸国を容易に支配下におくこ
ともできるのだが、それにもかかわらず国王も国民もそれにこだわることもそれを論議することもなく、自国に満足して他国を欲しがるということがない。
アルヴァーロ・セメード『チナ帝国誌』
つぎにこの国の物資の豊かさについて語ろう。国土が非常に広大で、いくつもの緯度にまたがっていて、気候がいたって変化に富んでいるために、この国ではさまざまな産物が
収穫され、消費されており、まるで神が世界の他の国々にお分けになる一切のものをここに集中なさったかのように思えるのである。 砂漠化が進んだとはいえ、今でもアメリカ合衆国と並んで、地球上で最良の地を占めていることに変わりはない
インドやブラジルは暑すぎるし、ロシアは寒すぎるし、日本と西欧は狭い インドを訪れたイギリス人も、「ここにはロンドンくらいの都市が至るところにある」といって驚倒した 中国の人口は多いが、国土も広い
だが、欧州のように人口が散らばっているのとは違って、一部の地域、とくに黄河下流の華北平原に偏っている
華北平原は、日本より少し広いが、フランスよりはだいぶ狭い
フランスの人口は六千万人だが、華北平原の人口は四億人
日本で「一極集中」といわれる関東平野の、広さも人口も約10倍 中国の人口は、上海あたりの長江下流に集中していると思っている人が世間には多くて、それも事実ではあるのだが、本当に過剰人口が深刻なのは黄河下流の地域
ここは黄河の水が涸れていることもあって、かなりヤバい状況 インドも同じで、ガンジス川の中流・下流に極端に人口が集中している
欧州にも、合計すれば何億もの人口があるが、各国にうまく分散されている
人口が多いということにかけては、じつは欧州も大差ないのだが、そこが中印との違い >>74
その両方だろうな
北京や上海は、極盛期を迎えた
(まあ、明代に上海はまだないが)
しかし、農村の過剰人口と貧困問題もまた、この時期に始まった 人口の増加が凄いよな。
人への課税をやめるとそんなに増えちゃうものなのか。
明清の研究から少子化対策の決め手が見つかるんじゃないか。 >>74
支配者が善政を布くと生産力以上に人口が増えて貧乏になるのが中国のお決まりの歴史ですな そういえば、ベトナム黎朝が明朝から独立したときに「平呉大誥」という宣言文をだしたんだが、
この「呉」って、もしかして明朝のこと?
「『凌遅三千刀、滅九族』のキチガイが初代のくせに何が『明』だ。おまいらは『呉』で充分wwww」という底意か? 欧州の場合は、新大陸からジャガイモがもたらされたおかげで、それまでの慢性的な飢餓状態から脱却し、人口が爆発的に増えたと言われているけどな >>84
それについては確かに、『呉(明の蔑称)を平らげる』と書いてある本もあった 「呉」が蔑称というより、「明」が美称だから使わなかったんだろうな
朝鮮人が、「日本」を「倭」と言ってたのと同じ 永楽帝は、ベトナムに内地と同様の郡県制を敷いた。
このままでは、広東省と同じく「中国」に組み込まれ、埋没することになる。
ベトナム千年の歴史の中で、このときが最大の危機だった。
リ・ロイとグエン・チャイの将軍・軍師コンビで、見事に明を撃退した。20年に渡る支配は終わった。
永楽帝の時代だから「燕」というべきと思うのだが、ベトナム人にとっては「呉」だったのだろう。 「盛世慈生人丁」以後、人口が急増したってのは確かにあるんだけども、
その康煕帝即位50年時点でおおよそ推測される(戸籍外を含めた)人口が既に、
明代までにおいて維持しえた人口を大幅に上回った水準であったことは間違いない。
トウモロコシ・サツマイモなどの救荒作物が新大陸からもたらされた恩恵は、中国にも当然及んでいる。 ヨーロッパも、ジャガイモが導入されて寒冷地が飢餓から解放されたことが、人口の爆発的な増加につながった だが、明清には、新大陸への移民というハケグチがなかった
国内の森林の大規模な伐採と農地化が進んだ
これは徹底的に根こそぎ行われた つまり、明清期は、大規模な食糧の増産により経済が大きく成長した 過剰人口と環境破壊
社会の腐敗が進み、それに対する汚職の取り締まりが過激化
皇帝の独裁体制と、言論統制・人民管理社会
明はまさに、現代中国が抱える諸問題を先取りしていた やっぱり錦衣衛だよな。
東廠だよな。
文字の獄だよな。 明代はなぜ空前の自宮ブームが起こるほど宦官がはびこってしまったのでしょうか。
初代皇帝の洪武帝は歴代王朝における宦官の弊害を知っていましたので、厳しい制限を掛けました。ところが時代がくだると、状況が変わります。
三代目の皇帝である永楽帝は、甥である二代目建文帝を打倒し、皇位を奪いました(1399-1402、靖難の変)。
しかし、燃えさかる宮廷に永楽帝が入った時、そこには建文帝の姿はありません。
脱出してどこかに逃れているのではないか? そんな不安に駆られた永楽帝は「東廠」という宦官による秘密警察組織を作り、権力に反する者を監視するようになります。 明代は皇帝の権力が絶大であることも災いしました。例えば洪武帝は政治力や実行力にあふれ、かつ猜疑心が強い性格でした。
何が何でも自分で決めたい、建国の功臣すら大勢粛清してしまっていた状況では、皇帝の独裁に近い政治形態になります。
そうなると、「なんでもかんでも皇帝である朕が決めるなんて面倒で嫌だ」と思う者も当然出てくるわけです。
皇帝は宦官に政務を丸投げしてしまいます。
宦官にとっては皇帝が愚かであればあるほど、また政務から遠ざければ遠ざけるほど、権力に近づくことができますから、様々な手段を使います。
わざと皇帝が遊んでいるところに政務を持ち込んだり、ハーレムのような美女だらけのいかがわしい施設を作ってそこに皇帝を入り浸りにさせたり、健康によいと騙してあやしい薬を飲ませ中毒にしてしまったり。
明朝の皇帝は、趣味にかまけて政務丸投げ、引きこもり、遊び過ぎて早死に、あやしい宗教にハマる、薬物中毒、薬物を飲んだ途端に頓死など、尋常ではないレベルの暗君揃いです。 >>96
官僚機構が整備された結果、皇帝が官僚機構に対するカウンターパートを欲し
宦官を第二の官僚機構として官僚対宦官の形を作ったから
清代にこの形にならないのは満洲大臣が皇帝の手足として官僚機構に相対したため
雍正帝はさらにスパイ網を構築して満洲系官僚、漢人官僚に対してサードオピニオンとしていた ヒトラー 官僚機構 ナチ党(リッペントロップ機関)
ヒトラー ドイツ陸軍 突撃隊(後に親衛隊)
共産党書記長 官僚機構 共産党員
時代や地域が違っても似たような問題はあるもんだな。
中央集権が行き詰まると、次は分権化の流れになるんかな? それにしても、近代ヨーロッパの進んだ統治機構の一形態であるフランス・ブルボン王朝の絶対王政と比べても、明代の皇帝専制と官僚制度はすでに、なんら遜色ないように思われる。
比較すると、どうなるんだろ? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています