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司馬遼太郎 Part12
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0004日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 00:15:12.74
【凡例】
★小説・紀行では物語の場所もしくは旅の場所を示す(余談のときは、項目を示す)。評論文では、項目を示す。
▽作品に出てくる語句・文章
▼作品には出てこないが、背景を理解するために必要だと思われる語句
【注意】
このスレッドでは、司馬作品を忠実かつリアルに画像化しているため、エログロ画像が含まれています。
18才未満の方あるいはご覧になりたくない方は、〈エログロ〉をNGワードに登録なさることを推奨いたします。
また、エログロ画像をレスされる方は、必ず〈エログロ〉の文字を添付してくださるよう、お願い申し上げます。
【注意】
多くのユーザーの方々が、現在進行中の司馬作品一作に集中して、注釈を加えたり、議論をなさっておられます。
他の司馬作品に関して議論ないしおしゃべりをなさりたい方は以下のスレッドへお引越しをお願い申し上げます。

■■司馬遼太郎症候群について語るvol.3
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1365866256/
司馬遼太郎の家康過少評価は異常
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1331922006/
0006日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 00:17:28.86
【1】〔数年後に削除予定〕http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1362974282/
【2】〔数年後に改訂予定〕http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1471228785/
【3】「街道をゆく」豊後・日田街道/大和丹生川(西吉野)街道/種子島みち/潟のみち/播州揖保川・室津みち/高野山みち
 http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1474718092/
【4】「街道をゆく」信州佐久平みち/「国盗り物語1」http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1477812018/
【5】「国盗り物語2」http://echo.2ch.net/test/read.cgi/books/1480533004/
【6】「国盗り物語3」http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1483152411/
【7】「国盗り物語4」http://mint.2ch.net/test/read.cgi/history/1488372192/
【8】「ひとびとの跫音」http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1494164526/
【9】「木曜島の夜会」「歴史と視点―私の雑記帖―」「評論随筆集−第50巻−1」
 http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1507878222/
【10】「評論随筆集−第50巻−2」「一夜官女」「権平五千石」
 http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/history/1511343401/
0008日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 00:19:30.49
前々スレにも増して前スレはエロ画像が少なすぎたように思います( ?・ω・ )ショボーン
0010翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/01/19(金) 00:41:27.58
第7章 渋谷金王町 

〔三〕川路利良
――翁はめずらしく多弁に、過去のことやら将来のことなどについて話された。
と、川路はこの日の西郷の印象についてのちにひとに語っている。
西郷は終始裸であった。夕方、陽が翳ってきたために、物干しから薩摩絣の単衣をおろさせ、それを体に纏った。着物を着る以上は、西郷は襟元などをはだけさせず、端然と着付けるほうであった。
川路は帰ってからは書斎にひきこもった。
0011日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 00:54:34.55
★下谷竜泉寺町

▽川路の自宅
第3章のおさらいをしよう。僕たち、川路利良の自宅はどこにあったかな?
あれえ、声が小さいぞ。もう忘れたのか?
うん、なんて言った。聞こえないよ。うん?そ、そうだよ。
下谷竜泉寺町の戸田様の下屋敷を川路は買ったんだよね。
樋口一葉の家のすぐ傍だったよね。思い出したかな?
0012日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 01:02:50.36
▽こしかた
司馬さんは、「過去」に「こしかた」というルビを振っているね。こういうの好きだな。
「こ」は動詞「く(来)」の未然形、「し」は過去の助動詞「き」の連体形。
そう、思い出したかな?カ行変格活用だね。この活用をするのは「来る」(文語では「来」く)一語のみだったよね。
「こ・き・く・くる・くれ・こよ」だったよね。
0013日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 01:06:55.45
▽ゆくすえ
「将来」は「ゆくすえ」。「こしかた」「ゆくすえ」はペアで覚えてね。
0014日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 01:11:32.81
ジョゼフ・フーシェは、ここまで何度も出てきたけど、この章が最も詳しく書かれている。
0015日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 01:29:23.38
>>12
辞書によっては「きしかた」としているものもあるな。「き」は動詞「く(来)」の連用形。
助動詞は用言ではないから、過去の助動詞「き」が次にくるからといって、「く(来)」が連用形でなければならないという決まりはない。
そもそも「きしかた」なんて日本語は聞いたことがないし、語感もきわめてダサい。
未然形の「こしかた」でよいと思う。
0016日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 05:15:33.06
▽ジョゼフ・フーシェ〈1759 - 1820〉
フランス革命、第一帝政、フランス復古王政の政治家。
近代警察の原型となった警察機構の組織者で、特に秘密警察を駆使して政権中枢を渡り歩いた謀略家として有名である。権力者に取り入りながら常に一定の距離を保って激動の時代を生き抜いた人物。「カメレオン(冷血動物)」の異名を持つ。オーストリアのユダヤ人作家シュテファン・ツヴァイクによる評伝が有名。
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/originals/99/24/a6/9924a6f893f6733b0eb0adc549402311.jpg
0017日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 05:18:21.87
ナント近郊のル・ペルラン出身。父は船員で、フーシェにも後を継がせるつもりだったが、体が弱く、勉学の才があったためにナントのオラトリオ教団で学ぶ。その後、僧籍には入らずに、同教会所属の学校で物理科学を教える教師となった。なお、この時期に北部の町アラスにおいて、カルノーや無名の弁護士であったロベスピエールと交わり、彼の妹と交際している。
0018日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 05:19:52.49
こうした面々とのつながりから政治運動に目覚めたフーシェは、フランス革命後にカトリック教会を否定する「非キリスト教化運動」に関わるようになって、1792年に国民公会の議員に当選しパリに向かった。当初はジロンド派に近い穏健共和派の立場であったが、国王ルイ16世の裁判の際に処刑票を投じ、それを契機にジャコバン派内の山岳派に鞍がえした。
0019日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 05:20:58.88
ロベスピエールによる恐怖政治を支持して革命運動に身を投じ、1793年には私有財産を禁じる法令をナント州などで発布し、リヨンの大虐殺を指導するなど辣腕をふるうが、その後ロベスピエールと対立した。テルミドール9日のクーデターに参加し、情報収集能力の高さを評価されて総裁政府の警察大臣を務めた。
0020日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 05:24:47.17
ブリュメール18日のクーデターでは体制側であったが、ナポレオンの政権奪取に貢献し、統領政府でも引き続いて警察大臣に就任した。
フーシェは総裁政府時代から密偵を雇い、秘密警察を使って国家のあらゆるものを監視させたといわれる。ナポレオンの妻・ジョゼフィーヌすら買収し、ナポレオンの私生活まで監視していた。ナポレオンはフーシェの情報収集力を高く評価し、用事があるときは秘書官に呼びに行かせた。
0021日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 05:26:57.78
1808年に衛星国ナポリ王国のオトラント公爵に叙されるが、タレーランと同様にナポレオン帝国の崩壊を予想して、次政権の構想を画策し始める。翌年イギリス軍がベルギーに迫ったときに独断で国民軍を編成し、ベルナドットを司令官に据えた越権行為、対英和平交渉が露見して辞職した。
しかし、百日天下では再びナポレオンを支持して警察大臣に再復帰した。
0022日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 05:29:28.68
百日天下崩壊後、退位したナポレオンに代わって臨時政府首班となり、ルイ18世をパリに迎えたが、首班の地位はタレーランに奪われた。
ブルボン復古王政でも短期間だけ警察大臣となったが、王党派は国王殺しのフーシェを忘れていなかった。両親であるルイ16世とマリー・アントワネットを殺されたマリー・テレーズは、フーシェが現れると席を蹴り、決して同席しようとしなかった。
0023日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 05:31:12.88
1815年8月、フーシェは大臣就任後わずか2ヶ月で失脚し、ザクセン王国(当時はドイツ連邦の加盟国)駐在大使としてドレスデンに左遷された。
1816年1月、百日天下の際にナポレオンに与した国王死刑賛成投票者はフランスから永遠に追放するというパリの議会の決議により国外追放される形でプラハに亡命した。その後はオーストリアのリンツ、イタリアへと渡り歩き、1820年にトリエステで死んだ。
0024日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 05:35:54.73
▽ジロンド派
この名称はジロンド県出身者のブルジョワ階級が多数を占めたボルドー・ジャコバンクラブに所属する議員(ヴェルニョーら)を中核としたことに由来する。明確な党派ではなく、中流ブルジョワ、プロテスタントなどで結びついた穏健共和派諸派閥の集合体であった。
1791年の立法議会の誕生にあわせて、同派の山岳派とともに民主派の勢力を形成した。
0025日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 05:38:48.30
国王ルイ16世と亡命貴族の画策によって、他ヨーロッパ諸国との開戦の気運が高まってくる。ジロンド派は、主戦論を展開した。ロベスピエールが反戦論を唱えるが、国王の任命により1792年3月にジロンド派内閣が組織され、同年4月20日オーストリアに対し宣戦を布告する。
しかし、貴族に取って代わる指揮命令系統のないフランス軍は、各地で敗戦を重ねた。そのため、ジロンド派は敗戦の責任を取り、政権をフイヤン派に譲り渡す。
0026日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 05:41:52.38
対外戦争において苦戦する中、立法議会に代わり国民公会が開催される。ジロンド派はこの議会において多数を占め、王政の廃止および共和国宣言を採択する。しかし、革命の一応の終結を目指すジロンド派と、急進的な革命を推し進めようとする山岳派との対立が激しくなっていった。
山岳派は、国王や王妃の裏切り行為に対し裁判を要求したが、これ以上の革命の推進を望まないジロンド派は、裁判の実施に消極的であった。しかし、ロベスピエールやサン=ジュストといった山岳派の演説により、国王裁判が開催されることになる。裁判の結果、ルイ16世の死刑が決定する。
0027日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 05:43:06.24
ルイ16世を処刑したフランスに対し、イギリスなどから経済制裁が行われた。フランスはイギリスやスペインなどに対し宣戦を布告するが、イギリスを中心としたヨーロッパ諸国は第一次対仏大同盟を結成する。
経済や軍事面でのジロンド派の失政に対し、議会は山岳派主導に傾き始めた。追い詰められたジロンド派は、さまざまな手法で山岳派を陥れようとするが、ロベスピエールの主導により、1793年6月にジロンド派の主要メンバーが捕らえられ、中央政界での基盤を失うことになった。
0028日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 05:49:26.18
▽ジャコバン派
名称の由来はパリのジャコバン修道院を本拠にしたことによる。「ジャコブ」とは、ユダヤ人の祖である「ヤコブ」のフランス語読みである。つまり「ジャコバン派」とは「ヤコブ派」である。
元々はジャコバン・クラブというさまざまな思想を持つ人々が集まる政治クラブであった〔>>24〕。この政治クラブはフランス全国に支部をもち組織的に革命を推進した。
0029日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 05:52:53.42
しかし、革命が時間を経るにつれて信念や政策によって分裂し、まず立憲君主派であるフイヤン派が〔>>25〕、ついで穏健共和派であるジロンド派がこのクラブから脱退し、最終的に山岳派(モンターニュ派)と呼ばれる急進共和派の集団がジャコバン・クラブに残り主導権を握った。
急進共和派議員の多くは、議会で議場後方の高い位置に陣取ったため、山岳派と呼ばれた。
0030日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 05:55:24.53
だから詳しすぎるんだよ。これのどこが「翔ぶが如く」なの?どこが司馬遼太郎なの?
キーワードを抜き出して詳説しているだけじゃない。
0031日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 08:10:33.35
ジャコバン派を山岳派ともいう理由がわかっただけでも役に立つ。
勉強になるぞ。
0032日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 08:21:43.41
▽ロベスピエール〈1758年 - 1794年〉
フランス北部・アルトワ州アラス(現在のパ=ド=カレー県)生まれ。ロベスピエール家は貴族風に「ド・ロベスピエール」と名乗っていたが実際には第三身分。三部会には第三身分の代表として選出された。
国民公会(1792〜95年)が成立するとその議員に選出され、最左派である山岳派(モンターニュ派)の指導者として頭角を現した。
http://www5a.biglobe.ne.jp/~french/cham/robes/img/top.jpg
0033日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 08:22:48.90
彼は革命を旧勢力との妥協に終わらせるべきではないと主張し、富裕な階層が権力を握ることを非難し、あらゆる階層の権利と富を保障しようとした。その政治政策は、彼の崇拝したルソーの精神に基づくものであった。
0034日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 08:25:32.48
ジロンド派との激しい論戦にうち勝ち、ルイ16世の処刑を実現させ、1793年6月からはジャコバン派独裁政権を樹立した。
1793年7月からは公安委員会に加わり、王党派や反革命派の策謀や外国の干渉という革命の危機から革命を防衛するためとして、厳しく反対派を粛清した。同じジャコバン派に対しても容赦なく、エベールは急進的であり、ダントンは右派と妥協的であるとしてそれぞれ処刑した。
こうして、1794年4月からは、個人独裁という色彩が強くなり、腹心のサン=ジュストとクートンだけがロベスピエールを支えるという状況になった。
0035日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 08:28:05.74
ロベスピエールが実質的な独裁権力を握ったのは、1794年4月から7月までのわずか4ヶ月であった。
封建的特権の無償廃止が行われ農奴は完全に解放されたが、かえって土地所有者となった農民は保守化し、革命のこれ以上の進行を望まなくなり、また最高価格令などの経済統制は、都市の下層民には歓迎されたが、自由な経営をしたいブルジョワジーや生産者の農民にとっては次第に不満の対象となっていった。
0036日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 08:29:36.07
また都市の大衆は、最高賃金法で賃金も抑制されていたので不満をもった。
何よりも大量の粛清という恐怖政治は、大衆を離反させた。それまでロベスピエール支持派であったサンキュロットも、エベールが処刑されたことから次第に離れていた。
1794年7月、テルミドールのクーデタで捕らえられ、翌日彼自身もギロチンにかけられて死んだ。
0037日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 08:30:37.18
ルイ16世の名前は、この作品に何度も出ているんだけど、やらないの?
0038日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 08:33:31.79
興味がない。
多くの日本人にとって今川義元が桶狭間で討ち取られただけの人であるように、筆者にとってルイ16世は、フランス革命で処刑されたブルボン朝最後の国王という認識にとどまっているが、それでよい。
0039日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 08:39:20.84
▽バルザック〈1799年 - 1850年〉
19世紀のフランスを代表する小説家。なおド・バルザックの「ド」は、貴族を気取った自称である。
バルザックの小説の特性は、社会全体を俯瞰する巨大な視点と同時に、人間の精神の内部を精密に描き、その双方を鮮烈な形で対応させていくというところにある。代表作に『ゴリオ爺さん』『谷間のゆり』など。
本章では、バルザックによるフーシェ評が紹介されている。
http://www.theparisreview.org/blog/wp-content/uploads/2014/05/hbalzac.jpg
0042日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 08:52:14.67
▽美濃紙
半紙より判が大きく、強く優良な紙質で有名。古来、美濃地方は有数の和紙生産地で、奈良時代以降の各時代の文献に美濃紙についての記述が多く見られる。江戸時代には美濃紙の障子紙が最高紙であるとの評価を受けた。
美濃市の牧谷地区で生産される本美濃紙は、伝統的な生ずき製法によるコウゾのみを用いた強靭な紙で、国の重要無形文化財に指定されており、2014年には世界無形遺産に登録された。
http://www.sotoday.fun/wp-content/uploads/2017/10/7b64a2f2138b3a84da657e3d19122fd0.jpg
0043日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 08:58:38.51
川路の妻の沢子は、西郷の印象にふさわしい文字として「悲」を選んだ。
沢子の父は郷士であるため、お由羅騒動(高崎崩れ)の際は抗争の局外にいた。しかし、彼はこの悲報を聞いたとき、声をあげて泣いた。
沢子はまだ幼女だったが、父が見せた男泣きという異様な光景を、成人後も忘れることができなかった。
0044日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 09:03:15.53
▽高崎五郎右衛門
享和元年(1801年) - 嘉永2年(1850年)。歌人として著名な高崎正風の父である。
藩の船奉行を勤めていた。藩世子の島津斉彬の襲封を画策し、それに反する家老島津久徳らお由羅派の暗殺を謀議した咎で嘉永2年(1850年)近藤隆左衛門・山田清安とともに出頭を命ぜられ、即日切腹させられた。
0045日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 09:10:00.57
大久保正助(利通)が21歳のとき、父・大久保次右衛門が「高崎崩れ」に連座して喜界島に遠島された。そのため大久保家は閉門を命じられ、利通も記録所書役を免職されている。
※大久保次右衛門 (利通の父 / 1794-1863) … 平田満
※大久保福 (利通の母 / 1803-1864) … 藤真利子
https://samurai-hi.com/wp-content/uploads/2018/01/4f25c86bb89f6fdc5802dcd02dd54559.png
0046日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 09:11:53.74
喜界島への遠島は、死罪につぐ重刑だった。それゆえ次右衛門を見送る三人の妹は、あるいは最後になるかもしれないと涙を流していた。この様子を見て、大久保は涙をこらえながら戒めている。
「おまえたちは武士の子女ではないか。父君の長途を涙で見送ってはいけない。ぜひとも心を励まして、父君に内顧の憂いを抱かせないようにせよ」
0047日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 09:17:02.35
※大久保利通の三人の妹
https://pbs.twimg.com/media/DS7q6ilVwAAKDrt.jpg
大久保キチ (利通の妹 / 1832-?) … 佐藤奈織美
https://pbs.twimg.com/media/DMKSCyYVQAA7m3u.jpg
大久保スマ (利通の妹 / 1837-?) … 日下玉巳
https://scontent.cdninstagram.com/t51.2885-15/s320x320/e35/23668281_1503820743027844_5319542975800279040_n.jpg
大久保ミネ (利通の妹 / 1840-?) … 高野友那
https://pbs.twimg.com/media/DRaYH7EV4AEpYeX.jpg
0049日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 09:25:17.65
▽赤山靱負
文政6年(1823年) - 嘉永3年(1850年)
諱は久普(ひさひろ)。父は島津氏分家・日置島津家当主の島津久風。長兄は、第29代藩主・島津忠義の主席家老・島津久徴、弟に西郷隆盛と親交を結び西南戦争で戦死した桂久武がいる。藩職は奥小姓、槍奉行を務める。
※赤山靱負 (薩摩藩重臣 / 1823-1850) … 沢村一樹
https://taigatv.net/wp-content/uploads/2018/01/ba23db1d689546cbccdf764937f901ce.jpg
0050日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 09:29:52.86
弟の桂久武も「西郷どん」に登場するようだ。
※本物 http://furusato-kirishima.com/images/osusume/katsura/katsura01.jpg
※桂久武 (靱負弟 / 1830-1877) … 井戸田潤
http://news-topics24.com/wp-content/uploads/2017/11/01-katsura_hisatake.jpg
https://scontent-lga3-1.cdninstagram.com/t51.2885-15/s640x640/sh0.08/e35/23596617_303124670186935_3053228655145648128_n.jpg
※「田原坂」では、この人だった。
https://pbs.twimg.com/media/DLPrlv0UEAACHMR.jpg
0051日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 09:32:59.42
生家の日置島津家は薩摩藩内では一門家に次ぐ名門であり、代々家老をはじめとする重役についていた。
島津斉彬の襲封を願う一派の中心的人物であったが、お由羅騒動で切腹を命ぜられた。西郷隆盛の父・西郷吉兵衛(諱は隆盛)が、御用達として出入りしており、介錯を依頼される。吉兵衛は靭負の血染めの肌着を貰いうけ、子の隆盛にこの肌着を与えその最期を伝えた。隆盛は靭負の生き様に深く共感したという。
https://d39t9tn4y25mgl.cloudfront.net/wp-content/uploads/2018/01/d25ce4afe1b0166ee95c51542e9d48c7.jpg
0052日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 09:39:07.70
当時西郷は数えで24歳。赤山靭負の血染めの肌着を終夜抱き、終夜号泣し、赤山の志を継ぐことを誓った。
川路沢子は、この話をひとから聞いた。その話を聞いたとき、父の男泣きという異様な光景の記憶と重なって、沢子も不意に泣き出した。
0053日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 12:07:05.02
>>44
高崎崩れで父親が切腹させられているにもかかわらず、司馬作品では、高崎正風は、奈良原繁・海江田信義とともに、久光派の代表的人物として挙げられるんだよな。
0054日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 12:30:46.29
政治状況というのは流動的で、高崎崩れのときのアンチ斉彬派が、そのまま久光派とイクオールではないよ。
大久保一蔵は父親が遠島の憂き目に遭っているが、久光に接近した。維新前は久光派を装っていた。そういう例もある。
0057日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 13:41:21.57
あった。その伝統は、鹿児島市のデリヘル『夜王 夜這い屋本舗』に受け継がれている。
0058翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/01/19(金) 14:05:29.32
第8章 好転

〔一〕遣韓大使
朝夕が、涼しくなった。
「西郷の遣韓大使の一件は」
という噂が消息通のあいだで喧しくなり、やがて、
「ぶじ落着。西郷の希望せるがごとくに運ぶらしい」
と、ほとんど決定したように取り沙汰されるようになった。
「三条卿が、諾といった」
というのである。
0059日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 14:09:01.26
話が脇道にそれることが多く、作中人物に狂言廻しをさせることすら難しくなってきている。
この章では司馬さん自身が、話の交通整理をしている。
0060日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 14:18:11.43
★麹町区内幸町

▽三条実美屋敷
東京市麹町区内幸町二丁目にあった。司馬さんは「麹町内幸町」とされているが、明治4年制定の戸籍法では大区小区制を採用しており、麹町は明治6年の時点では、東京市麹町区と呼ばれていたはずである。
麹町区内幸町二丁目は、現在の千代田区霞が関一丁目にあたる。
0061日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 14:23:58.67
▽お丸
品川にある旅籠桔梗屋の娘。
西郷隆盛を実際に見て「ぞっとするほどおっかない人」という談話を残しているらしい。
0062日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 14:29:34.62
▽習志野演習
これについては、前スレ〔326〕で述べた。
明治6年(1873)4月29日、明治天皇は、西郷隆盛、篠原国幹ほか多数を従えて当地に行幸され、30日には、近衛兵による天覧演習が行われた。
本章では、明治帝が西郷の大きな目玉に関してユーモアを交えたお言葉の述べられている。
0063日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 14:35:11.83
「条公に決断を求めることは、比丘尼に睾丸を求めるようなものです」
「遣韓のこと、西郷大将の申されるがように、左様に決め参らせます。そのことを帝に申しあげます」
0064日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 15:36:27.01
★箱根宮ノ下

▽宮ノ下温泉
神奈川県足柄下郡箱根町宮ノ下
室町時代に熊野神社のお宮の下から湧出する源泉が発見され、江戸時代には湯治場として栄えました。
そして19世紀に横浜が開港された後は、外国人の保養地として栄え、世界中の著名人が訪れました。 宮ノ下温泉の最大の特徴は、何といっても明治11年創業の富士屋ホテルを中心に今に残る古い街並みです。
http://www.kkrmiyanosita.com/img-kankou/kankou-map.jpg
http://www.ozmall.co.jp/onsen/search/images/hakone/ph_hakone.jpg
https://i.ytimg.com/vi/fkeHzZ6VMdE/hqdefault.jpg
0067日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 15:54:12.85
▽赤坂仮御所
現在の赤坂迎賓館(港区元赤坂二丁目)の敷地にあった。ここは元紀州藩の屋敷跡で、明治6年の宮城火災から明治21年の明治宮殿完成までの15年間、明治天皇の仮御所が置かれていた。
明治維新で天皇が京都から東京に移ると、旧江戸城「西の丸御殿」が皇居となった。しかし、明治6年5月5日、下女の失火により西の丸御殿は焼失する。
0069日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 16:02:07.45
赤坂仮御所の建物は現存している。明治神宮による結婚式場として知られる明治記念館である。
http://tokyo.beer-garden.info/sites/default/files/imagecache/ic_preview/images/shop/main_02_0.jpg
https://www.aeonwedding.com/data/holl/photo_top_86.jpg
明治宮殿が完成すると、赤坂仮御所の建物は憲法制定の功績で明治天皇から伊藤博文に下賜されることになり、大井の伊藤邸内に移築される。彼の死後、明治神宮外苑に再移築され、この時に「憲法記念館」となった。
0070日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 16:06:45.04
三条実美は箱根宮ノ下で明治帝の裁可を得た。しかし、それには岩倉右大臣の帰朝を待ち熟議した上で再び奏上するという付帯事項が加えられていた。三条にこの知恵をつけたのは、幕末以来かれの政治顧問であった土佐藩出身の土方久元であった。
0071日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 16:13:17.35
▽土方久元
天保4年(1833年) - 大正7年。通称は楠左衛門。
土佐藩郷士・土方久用の子。江戸へ遊学して儒者・大橋訥庵の門に学び、尊王攘夷思想に傾倒する。帰国後、武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加した。文久3年(1863年)の八月十八日の政変により、長州藩と三条らは失脚し京から追放される。久元は「七卿落ち」に従い、三条や澤宣嘉らと共に長州へ下った。
0072日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 16:16:02.41
幕府による第一次長州征討の際には、三条らと共に九州へ渡海し大宰府に逃れる。同じ土佐浪士の中岡慎太郎・田中光顕や坂本龍馬らとも連係し、薩長同盟の仲介に尽力した。
明治維新後は新政府に仕え、明治元年には東京府判事、ついで鎮将府弁事に任命される。その後、宮内少輔、内務大輔、太政官内閣書記官長、侍補、宮中顧問官、元老院議官などを歴任。宮中職の履歴が多く、元田永孚や佐々木高行・吉井友実らと共に皇権伸張(天皇親政)を主唱し、宮中保守派と目せられた。
http://pds.exblog.jp/pds/1/201511/13/92/a0287992_3451959.jpg
0073日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 16:23:31.24
▽佐々木高行
文政13年(1830年) - 明治43年
土佐国吾川郡瀬戸村(高知県高知市)に土佐藩士・佐々木高順(100石)の次男として生まれる。山内豊信(容堂)の側近として藩政をリードし、九州大宰府に赴き情報収集に奔走、慶応3年(1867年)には上洛して後藤象二郎・坂本龍馬と薩土盟約の吟味および大政奉還の建白について協議している。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/05/Takayuki_Sasaki_cropped.jpg/220px-Takayuki_Sasaki_cropped.jpg
0074日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 16:30:57.05
戊辰戦争がおこると長崎奉行所を支配し、明治元年には長崎府判事となった。明治3年参議、明治4年には司法大輔となり、岩倉使節団に随行して欧米の司法制度を視察して帰国した。
征韓論争、西南戦争後も政府内にとどまり、明治12年の大久保利通死後は元田永孚らとともに天皇親政運動を推進、明治14年の政変後は参議兼工部卿となり、明治21年枢密顧問官、また皇太子の御養育之任を務めるなど宮廷に近侍した。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/32/Sasaki_Takayuki.jpg/200px-Sasaki_Takayuki.jpg
0075日本@名無史さん
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2018/01/19(金) 16:47:14.38
★麹町区内幸町

▽三条実美
西郷の痛々しさは、三条実美という謹直なだけの、およそウソをつくことすらできない公卿政治家のこの程度のトリックに、幼児のように騙されてしまったことであった。
0076日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 17:00:59.22
佐々木高行〔>>73-74〕は、筆者のイメージとかなり違う人物だったので、補足しておく。
外遊中はアメリカ訪問前に乗っていた蒸気船アメリカ号で岩倉使節団員達の野蛮な振る舞いに眉を顰め、到着後は大使岩倉具視が和装から洋装に着替えたことを軽率と考え、外国通の副使伊藤博文の有頂天な振る舞いを日記に書いて憤慨している。
佐々木自身も社交界に出る必要性から洋服に着替えたが、慣れない服に戸惑い「不恰好」「窮屈」と日記に記し、表面上の文明開化を批判し、日本固有の制度・精神を保持しつつも西洋文明の取得を重視、改革の速度を緩やかにして混乱を最小限に留める漸進的な考えを持つようになっていった。
0077日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/19(金) 18:52:31.51
司馬遼太郎、負けたな。

みなもと太郎の漫画「風雲児たち」を強く推薦しておくぜよ。
司馬史観に代わって、風雲児たち史観がとってかわるだろうといわれている。
超面白いよ。
0080日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 21:30:19.39
▽内村鑑三
万延2年(1861年)- 昭和5年。日本のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。
福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。「代表的日本人」として西郷隆盛・上杉鷹山・二宮尊徳・中江藤樹・日蓮の五人をあげ、その生涯を叙述する。
http://www.yushu.co.jp/img/goods/3/120181.jpg
0081日本@名無史さん
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2018/01/20(土) 21:38:42.77
▽「推倒一世之智勇 開拓万古之心胸」
「一世の智勇を推倒し、万古の心胸を開拓す」と読む。その人一代の智恵や勇気を、頼りにするのではなく、千年、一万年の長きにわたって天下の平安を成り立たせるぐらいの大きな心胸から出た志を開拓せよ、という意味。
陳亮(陳龍川)が朱子宛に書いた手紙の一節である。陳亮〈1143ー1194〉は、南宋の思想家、文学者。字は同甫、号は龍川。
※西郷隆盛の直筆とみられる書 http://www.geocities.jp/muraihiroyukijp/saigou.jpg
0082日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 21:45:52.58
▽樺山三円
生没年未詳。諱名は資之。通名は瀬吉郎。
藩主島津斉彬の茶坊主として機密の用を務める傍ら、同時期に江戸に出た有村俊斎、大山格之助、税所篤ら藩内の改革派と親交を深める。水戸藩の藤田東湖、戸田忠太夫〈蓬軒〉らの影響を受け、安政元年(1854年)には、出府した西郷吉之助を藤田に引き合わせた。
藤田東湖については、前スレ〔929〕に述べた。
0083日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 21:52:51.52
▽水戸徳川家上屋敷
現在の文京区後楽一丁目に、水戸徳川家の江戸上屋敷が広がっていた。現在の「小石川後楽園」は、初代藩主の徳川頼房(家康の11男)が屋敷内に築いた庭園を、子の光圀が中国風の趣を取り入れて完成させ「後楽園」と命名したもの。 15代将軍となった徳川慶喜は、藩主・徳川斉昭の七男として、この江戸屋敷で誕生した。
https://blogs.c.yimg.jp/res/blog-46-c5/dougen2005/folder/1516937/32/62025232/img_3?1477231396
本章では、西郷が樺山三円に連れられて藤田東湖に面会した場所として記されている。そこに「推倒一世之智勇 開拓万古之心胸」の衝立があった。
0084日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 21:57:48.75
▽金
女真人の完顔阿骨打が1115年に満州に建国した。都は上京会寧府。金が次第に強大となったので、宋は遼を倒す好機と考え、金と同盟して、1125年に遼を滅ぼした。
ところが金は中国本土への侵出を始め、1127年にはついに宋の都開封を攻め、徽宗と欽宗の親子を捕らえて滅亡させた(靖康の変)。江南に逃れた宋は、高宗が南宋を建て、華北の金と江南の南宋の対立が続くことになる。
0085日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 22:03:14.22
1142年に南宋に多大な貢納を約束させ、淮水を国境として、華北を金、江南を南宋が統治する第二次南北朝の状況となった(紹興の和)。本文にある「屈辱的な和睦」とは、この紹興の和のことではない。陳亮〈1143ー1194〉は、これより後世の南宋の人である。
0086日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 22:06:13.02
1153年、金は都を燕京に遷す(中都。現在の北京)。するとさらに漢化が進み、逆に北辺を遊牧民から守る必要が生じた。
金に対するモンゴル帝国の攻勢はチンギス=ハンの1211年に始まり、二次にわたる戦争の結果、最終的にはオゴタイ=ハンの派遣したモンゴル軍の攻撃によって、金は1234年に滅亡する。
0087日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 22:12:32.10
▽陳亮 〈1143ー1194〉
南宋の儒学者。号は龍川。浙江省永康の人。朱熹の論敵として知られる。
南宋の第2代皇帝・孝宗の時代に、宋は金と和議を結ぶ。1165年の乾道和約である。これにより、金へ送られる歳幣負担は軽減されることとなった。
しかし、陳竜川は、世の人が安逸に流れることを恐れ、「中興五論」を皇帝に提出し、中国が蛮夷からこうむった恥辱をすすぎ中原の失地を回復しなければならないと論じ、主戦論を唱えたが容れられなかった。陳竜川は、この時から朝廷を退いて数十年間は学問に専念し、門人を多く育てた。
0088日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 22:15:47.35
ここまで調べると、司馬さんのいう「西郷と陳竜川の共通点」の意味がよくわかる。
また、西郷が陳竜川の「推倒一世之智勇 開拓万古之心胸」〔>>81〕を愛していた理由もよくわかるな。
0089日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 22:53:44.22
>>85
「屈辱的な和睦」とは、世間一般では「紹興の和」を意味するんだろうな。しかし、このとき陳竜川は、まだ生まれていない。
「乾道和約」は金へ送られる歳幣負担を軽減したのだから、南宋に有利な講和なんだよな。
それを「屈辱的な和睦」といわれると、読者は戸惑うな。
0090日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 22:54:22.96
だから……、司馬さんの時代にはセンター試験がなかった。
0091日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 22:59:55.22
>>89
おそらく司馬さんも読者も「紹興の和」をイメージしてこの箇所を読んでいるはずだ。
陳亮は有名な朱熹に比べるとマイナーだからな、著者も読者も陳亮の生没年を意識せずに、この箇所を読んでいるだよ。
0092日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 23:02:19.63
著者と読者のあいだに生じた>>91の機微は、「恋愛は互いの誤解から生ずる」に似ていなくもないな。
0093日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 23:19:37.17
>>81
司馬さんは、万古の心胸を開拓するというのは、「一個の事功によって万世ののちの人の心を耕しつづけてゆけ」という意味に解釈されている。
こっちの方が解釈としては綺麗だな。
0094日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 23:20:33.59
おっぱいを揉みながらマンコをすると、性感帯が開拓されるという意味じゃないんですか?
0096日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 23:42:39.06
▽尺寸〈せきすん〉
司馬さんは、人間の器量・度量の意味で用いているが、元来は《1尺と1寸の意から》わずかばかりのこと。
0097日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 23:47:29.01
人間の相剋は、利害にもよる。
しかし、尺寸にもよる。人間の不幸は、人によって尺度の大小が異なっていることである。
この平凡な事実が、人間と人間との関係に誤解を生み、軋轢を生ぜしめ、無数の悲劇や喜劇を歴史のなかに生み、ときには歴史を変動させてきた。日常のレベルの上ではなおさらのことである。
0099日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/20(土) 23:55:25.04
▽高松塚古墳
奈良県高市郡明日香村に存在する古墳。藤原京期(694年〜710年)に築造された終末期古墳で、下段の直径23m及び上段の直径18m、高さ5mの二段式の円墳である。「翔ぶが如く」連載中の昭和47年(1972年)に極彩色の壁画が発見されたことで一躍注目されるようになった。
http://art31.photozou.jp/pub/315/146315/photo/81771672.jpg
http://www.hakubutu.jp/wp-content/uploads/2012/12/8db745a89c3b39f34b9d5cb08ee39082.jpg
0100日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 00:02:59.45
▽高麗尺〈こま〉
701年 (大宝元年) の大宝律令は度量衡規制を明文化し、大・小尺を制定する。大尺はいわゆる東魏尺にあたる高麗尺で、小尺とされた唐尺の1.2倍の長さをもち、大尺・小尺をそれぞれ測地と常用の二様に使い分けることを規定している。
平城遷都後の713年 (和銅6年) には高麗尺を廃止し、唐尺の一本建てになった。6世紀末に造営が始まった飛鳥寺は高麗尺の完数値で設計され、法隆寺では部材寸法まで高麗尺を用いるなど、8世紀初めまでは寺院・宮城の造営尺として使用された。
0101日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 00:06:43.93
人間の尺度の場合、度量衡よりもはるかに複雑で、というより、言語というものは、その人間から出て他の人間に語られる場合、語り手の中にある情景も論理とはよほど別なものとして聞き手に受け取られることがむしろ普通である。
0102日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 00:12:16.19
とくに西郷のように度量衡の目盛がどうやら他の者とずいぶん違っている男の場合、かれが言うことも行うことも、同時代人にも後世人にも、まったく別な目盛でもって量られるのが普通であり、西郷が基本的に悲劇的な存在であるというのはそういうところにあった。
0103日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 00:31:49.46
この時期の西郷の不思議さは、堂々の議論を展開するのみで、裏にまわっての権謀術数というものをまったく用いなかったことである。
この幕末における大機略家が、明治になってその機略性を捨て、元来、かれの性格の基調であったところの正直さというものだけで生きてゆこうとしたことは、人間の現象としては奇跡のように思われる。
0104日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 00:41:08.68
余ガ「翔ぶが如く」の西郷隆盛を読んでまっさきに思い浮かべたのが、司馬の短篇「和州長者」の主人公の団平であった。「和州長者」は、短篇集『大坂侍』の冒頭に収載されている。
秘かに佐絵を思い続けてきた団平。その恋は成就することなく、更に、佐絵は彼の想いを裏切り続ける。それでも、団平は、一途に、綺麗なままにその恋を終えようとする……。
「おかしな男だったが、団平、あれが男さ。ああいうのが、どうやら、人間の中の真人間というものだろう。」と司馬は団平を肯定している。
0105日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 00:45:52.65
一途な生真面目さを貴しとするメンタリティは、日本人は特に強いかもしれないな。
仕事の成果よりも仕事に対する一途な生真面目さを貴しとするメンタリティがあったればこそ、かつて終身雇用が可能だった。
0106日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 00:48:45.08
それでなくても「翔ぶが如く」の余談が脇道にそれて複雑になってきてんだから、このスレでさらに脇道にそらすのはやめていただけませんか?
0108日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 01:12:47.21
一途な正直さをもった人物は、小説にすれば美しいだけで、現実に身近にいたら迷惑なだけだぞ。
仕事の成果が上がらないのに給料を払わなければならない雇主の身にもなってみろ。
ブスや醜男に一途に慕われたら、たまったものではないぞ。
0109日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 01:18:37.01
一途な生真面目さをもった人間は、実際には迷惑がられ避けられているんだろうな。
その申し訳に、小説・ドラマの中では尊しとされているような気がする。架空世界の正直者を褒め称えることで、心の平衡を保っている。
西郷隆盛も、そんな一人だな。リアル世界では、君たちだって大隈の冷酷さや川路の困惑でもって、正直者に対処しているはずだ。
0110日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 01:28:33.11
▽菅実秀 〈すげ〉
文政13年(1830)- 明治36年(1903)
出羽庄内藩藩士。戊辰の敗戦処理に手腕を発揮して家老にすすむ。このとき西郷隆盛の厚遇で藩の危機がすくわれたことを知る。以後西郷に師事し鹿児島藩の諸政策を参考にした。大泉藩権大参事、酒田県権参事を歴任。西南戦争後「南洲翁遺訓」を刊行〔赤沢源也編〕。明治36年(1903)2月17日死去。74歳。通称は善太右衛門。
http://www.gakushubunka.jp/yugakukan/library/great_man/img/img_2_01_l.jpg
0112日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 01:41:45.05
国が凌辱されるにおいては、たとえ国も人も斃れるといえども、正道を践み、義を尽くすのが、政府の本務である。
戦の一字を恐れ、政府の本務を貶めるようでは、政府は商法支配所であって政府ではない。
政府は正道を践み、国も人も斃れるだけの精神がなければ、外国との交際はうまくゆかない。外国から軽侮され、好親がかえって破れる。
0113日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 01:50:50.21
たれが戦を好くものか ⇔ 国も人も斃れるとも戦の一字を恐れるな
長州藩を潰して奥州に移す ⇔ 長州藩の本領安堵のために奔走する
江戸を灰燼にして慶喜の首を刎ねる ⇔ 江戸城無血開城と慶喜は水戸退去
0114日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 01:53:09.12
西郷における「戦」の矛盾は、その人格において統一されていた。
  ↑
意味がわからん。矛盾を矛盾のまま同一人格のなかで抱えているだけのように思えるがな。
0115日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 01:54:30.74
女と喧嘩して殴った後に後悔してセックスしているみたいにしか思えない。
0116日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 02:21:15.93
>>108
まあな。俺の理想の人格は御伽噺「舌切り雀」のお爺さんなんだが、そんな人はいないもんな。
0117日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 10:56:18.04
>>104
心臓に持病のあった佐絵は源右衛門とまぐわった後に死ぬ。病死ということになるが、これを語ったのは団平である。
団平が佐絵を殺害した後に、服毒自殺したという線も残されている。
余トシテハ団平が佐絵を殺したというのが真相であってほしい。でないと、団平が浮かばれない。
0118日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 10:58:37.81
>>116
雀のお宿でお爺さんが大きな葛籠を選んでいても、中身は金銀財宝だったような気がする。
反対に、お婆さんに出された葛籠は、大小ともに妖怪変化が仕込まれていた。
0119日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 10:59:38.74
>>117
こういう人こそ、現実世界では一途な正直者とのかかわりを回避している。
0120日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 11:19:49.35
>>104
「翔ぶが如く」の西郷隆盛が団平にそっくりという点は同感。もっとも西郷は物語のなかで恋愛はしていないが。
司馬さんはインタビューで、生まれ変わって再び作家になったら、恋愛小説を書きたいと言っておられた。
「和州長者」は屈折してはいるが司馬遼太郎唯一の恋愛小説なんだわな。
0121日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 11:35:16.76
西郷は「岩倉が帰国してから熟議」という付帯事項を〔>>70〕、遣韓大使派遣の「方法」に関する熟議であると解釈していた。
0122日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 11:38:21.27
三条実美には、三条の誠実を守るための政治勢力がなかった。
征韓派にも反征韓派にも会釈せざるを得なかった。
0123翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/01/21(日) 11:51:08.61
第8章 好転

〔二〕西郷従道
「兄は、第二の幕府を作る野心を秘めているのではないか」
という疑念が、西郷従道にあった。
人間というのはひとたび国権主義の立場に立てばときに人格が変質し、おそるべき憂国家に化る場合がある。草木が風にゆれるのを見ても国家滅亡の前兆を予感したり、あるいは民衆の惰弱な風俗が憤ろしくなり、思想家を狐疑し、それに悪を感じ、森羅万象の動きがことごとく「国家の前途に害をもたらすのではないか」というふしぎな衝動を感ずるようになる。
西郷従動は、山県有朋の感化によってその種の「狐疑」をもった。
0124日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 12:08:59.83
▽西郷の弟妹
長女琴 (妹/1832-1913) … 栗本有規(子役)→桜庭ななみ
https://i.ytimg.com/vi/jN10tUHi8ak/maxresdefault.jpg
次男吉二郎 (弟/1833-1868) … 荒井雄斗(子役)→渡部豪太
https://pbs.twimg.com/media/DN_OQazWkAEfsQg.jpg
次女鷹 (妹/1837-1862) … 石井心咲(子役)→渡来るひか(子役)→原舞歌
http://livedoor.blogimg.jp/hassy1936-gorin/imgs/a/a/aae4ea84.jpg
0126日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 12:25:50.67
▽西郷吉二郎
天保4年(1833年) - 慶応4年(1868年)8月14日
戊辰戦争では番兵2番隊監軍となり、越後に出兵する。8月14日、越後国五十嵐川付近(現在の新潟県三条市)での戦傷がもとで戦死した。享年36。
0129日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 12:42:38.90
「田原坂」で吉二郎を演じていた平田満は、「西郷どん」では大久保利通の父。喜界島へ遠島処分。
大久保次右衛門は諱で表すと、大久保利世。
なお、次右衛門は安政元年(1854年)7月には罪を許され、翌安政2年(1855年)2月に鹿児島に戻っている。
文久3年(1863年)、70歳で没した。
0130日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 12:52:01.19
▽西郷氏
「西郷」という全国各地に所在する地名を名字とした典型的な地名姓であり、複数の家系の武家が歴史に名を残している。
肥前西郷氏は菊池氏の一族とされ、その菊池氏は藤原北家の藤原隆家流を称した。薩摩藩の西郷氏は肥後西郷氏の流れで、肥前西郷氏と同族。室町初期に惣領家の菊池氏が没落すると、薩摩国に移住した。島津家が九州をほぼ制圧した折に臣従した。
0131日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 12:58:19.68
▽郡方書役助(郡方書記)
西郷が郡方書役助の卑役に就いたのは、弘化元年(1844年)。
0132日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 13:09:41.44
《19世紀の元号》
享和:1801年……寛政11年=享和元年
文化:1804年……享和4年=文化元年
文政:1818年……文化15年=文政元年
天保:1830年……文政13年=天保元年
弘化:1844年……天保15年=弘化元年
嘉永:1848年……弘化5年=嘉永元年
安政:1854年……嘉永7年=安政元年
万延:1860年……安政7年=万延元年
文久:1861年……万延2年=文久元年
元治:1864年……文久4年=元治元年
慶応:1865年……元治2年=慶応元年
明治:1868年……慶応4年=明治元年
0133日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 13:36:47.43
▽西郷従道
天保14年(1843年) - 明治35年(1902年)
明治2年(1869年)、山縣有朋と共に渡欧し、軍制を調査する。明治3年(1870年)7月晦日、横浜に帰着。同年8月22日に兵部権大丞に任じられ、正六位に叙せられる。明治4年(1871年)7月、陸軍少将となる。
岩倉遣欧使節の蔭にかくれているが、廃藩置県→徴兵令の流れを考慮するとき、山県有朋・西郷従道の渡欧は重要である。
http://db.nichibun.ac.jp/region/d/GAI/info/GO016/item/005/image/thumb/0/thmb.001.jpeg
https://kotobank.jp/image/dictionary/daijisen/media/102707.jpg
0136日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 17:23:36.35
▽明治2年夏
山県と従道がフランスに到着したときは、プロイセンとオーストリアがドイツの主導権をかけて戦った普墺戦争(1866年)の3年後、普仏戦争のちょうど1年前である。
普仏戦争については、前スレ〔595-603〕に書いてある。大山巌が観戦武官としてフランスにいた。
0137日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 17:34:00.35
▽明治3年初夏
山県と従道が欧州を去る。セダンの戦いの敗北によってナポレオン三世がプロイセン軍の捕虜になるのは、明治3年9月2日であるから、二人がこのニュースに接するのは、帰国後である。
パリ・コミューンが起きたのは、明治4年3月26日であるから、西郷隆盛が薩長土三州の御親兵を率いて東京に入った2月13日より後になる。廃藩置県は、同年7月14日である。
0138日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 17:44:59.15
司馬さんは、ナポレオン三世がプロイセン軍の捕虜になった翌日にパリ・コミューンが起きたように書かれているが、世界史の答案用紙にこんなことを書くと誤答になります。
フランス立法院は、ナポレオン三世が捕虜になった翌々日の1870年9月4日に、レオン・ガンベタは市庁舎のバルコニーに立って共和国宣言を発しますが、これをもってパリ・コミューンとは言いません。まだ普仏戦争のパリ攻囲戦は終了していません。
0139日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 17:49:04.58
パリ・コミューンというのは、プロイセン軍がパリに入城した1871年(明治4年)に起こります。
3月18日、臨時政府側が国民軍の武装解除に当たろうとしたことに激高したパリ市民が蜂起しました。臨時政府のティエールはパリを放棄しヴェルサイユに逃走し、パリは革命派の市民が権力を握りました。これがパリ・コミューンです。
世界史の答案用紙には、このように書いてください。
0140日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 17:52:16.81
ナポレオン三世が捕虜になった翌日、パリでは民衆の要求で共和政治が宣言された。いわゆるパリ・コンミューンの成立である。
   ↑
このような選択肢には、×をつけなければなりません。
0141日本@名無史さん
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2018/01/21(日) 21:43:53.42
▽山県有朋
天保9年(1838年) - 大正11年(1922年)
明治2年6月に渡欧し、各国の軍事制度を視察する。翌年アメリカ経由で帰国。その後は大村益次郎の実質的な後継者として西郷隆盛の協力を得ることで軍制改革を断行し徴兵制を取り入れた。
明治4年、兵制統一の必要性から廃藩置県の必要性を提議し、有力者間の根回しを行った。
明治5年、陸軍出入りの政商・山城屋和助に陸軍の公金を無担保融資して焦げ付かせる。山城屋の証拠隠滅工作により山縣に司法の追及は及ばなかったが、責任を取る形で明治6年4月に陸軍大輔を辞任。しかし山縣に代わりうる人材がなく、同年6月に陸軍卿で復職した。
https://pds.exblog.jp/pds/1/201303/16/92/a0287992_1615695.jpg
0142日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 21:48:46.70
「攘夷どころではない。王政そのものがあぶない」
と、山県有朋は滞欧中、何度も気が狂ったかとおもわれるような目つきで混乱し、憂憤した。当然、西郷従道も山県と一体感をもった。
0143日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 21:58:42.39
▽ジョージ・ワシントン 〈1732年 - 1799年〉
ワシントンの一家は、バージニア州で黒人奴隷プランテーションを経営し、後には鉱山開発も手掛けた。
1775年、大陸会議において独立軍総司令官に任命され独立戦争を指導し、1783年までの戦いで独立を達成した。その後、1787年には憲法制定会議議長となり、憲法の規定に従って選挙が行われた結果、1789年、初代アメリカ合衆国大統領に就任した。
西郷隆盛はナポレオンとワシントンを尊敬していた。
https://www.compassdatacenters.com/wp-content/uploads/2012/12/dollar.jpg
0144日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 22:02:09.58
▽ロシアの南下政策
ニコライ1世は、バルカン半島・黒海方面から地中海へ進出することによってヨーロッパ列強に互していくことを目指したが、他の列強との東方問題といわれる利害の対立をもたらした。
クリミア戦争では英仏などに敗れて、バルカン半島と黒海方面での南下政策は一時頓挫し、1860年代には、その鉾先は中央アジア方面への進出と東アジアへの進出に向いていった。
0145日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 22:03:55.53
再び南下政策を強めたアレクサンドル2世は、オスマン帝国との間で露土戦争を起こして勝利した。しかし、イギリス・オーストリアなどの反対を受け、ドイツのビスマルクの調停の結果、その獲得地を放棄せざるを得ず、南下政策を一端後退させた。
その間、国内の矛盾が強まって革命運動が激化し、アレクサンドル2世自身がテロで倒されてしまった。
0146日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 22:06:03.50
露土戦争後のベルリン会議 (1878) でバルカン半島方面での南下政策をいったん収めることとなったロシアは、再び方向を変えて東アジアでの勢力拡大に転じた。
すでにウラジヴォストーク港を拠点に日本海方面、さらに満州から朝鮮半島への侵出の動きを示していたが、さらに東方進出の動脈として1891年にシベリア鉄道の建設を開始した。
0147日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/21(日) 22:17:34.40
「日本は早晩、朝鮮をもふくめ、ロシアの南下政策に併呑されてしまい、アメリカがかつてイギリスを本国としたように、ロシアをもって本国とせざるをえなくなるかもしれない」というのが、西郷の巨視的危機感であった。
0148日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 18:19:19.07
焼肉屋に来た。フランス人の彼には、朝鮮人の店員の言葉が理解しにくかった。
自分の名前を訊かれたのかと思ってしまった。
「タレーラン」
「えっ?本当によろしいのですか?」
0149日本@名無史さん
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2018/01/22(月) 18:25:40.50
▽タレーラン 〈1754年 - 1838年〉
片足に障害を持っていたため、父の職責であった連隊長の後を継ぐことができず、父の指示で聖職者の道に進んだ。
1789年に三部会の第一身分(聖職者)議員に選出され、自身が司教でありながら教会財産の国有化という反カトリック教会的な政策を推進した。なお、万国共通の単位の制定〈後のメートル法〉を国民議会に提案したのも彼であると言われている。
https://cdn.amanaimages.com/cen3tzG4fTr7Gtw1PoeRer/22040006228.jpg
0150日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 18:28:05.10
1792年に外交使節としてイギリスに派遣されるが、フランスでジャコバン派による恐怖政治が吹き荒れたのでそのまま亡命し、アメリカ合衆国に渡った。
1796年にフランスに帰国し、当時愛人だったスタール夫人の推薦により総裁政府の外務大臣となるが、1799年に辞任する。
ナポレオン・ボナパルトのブリュメール18日のクーデターの陰謀に参加し、成立した統領政府で再び外務大臣となり、ナポレオンから高い評価を得る。
0151日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 18:30:29.52
1814年にナポレオンが失脚すると、連合国に請われて臨時政府の代表となり、ルイ18世の即位後(復古王政期のブルボン朝のフランス国王)は再びフランスの外務大臣となり、ウィーン会議に出席した。
この会議では、正統主義を唱えて列強の利害対立を利用し、巧みな外交手腕でフランスの国益を守った。
1815年にナポレオンの百日天下のあと、一時首相となったが、過激王党派にフランス革命期の政治活動を非難され失脚した。
0152日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 18:32:00.87
1830年の7月革命ではルイ・フィリップの即位に貢献し、この年から1834年までイギリス大使を勤めた。1838年、肺壊疽により死亡。自らの居城だったヴァランセ城近郊にあるノートルダム礼拝堂に埋葬された。
「タレーランは、金儲けに精を出していないときは、陰謀を企んでいる」と酷評されたが、一方で敗戦国が戦勝国に要求を呑ませたことで敏腕政治家・外交家としての評価が高い。
この章では、タレーランと山県有朋の共通点が語られている。
0154日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 18:42:39.64
明治維新後に山城屋和助と名をかえ、新政府の軍政にたずさわるようになった山縣有朋の縁故で兵部省御用商人となり、横浜の南仲通り3丁目に店舗を構えた。
山城屋は山縣ら長州系の官僚に陸軍省公金15万ドルを借り、生糸市場に手を出す。しかし、普仏戦争勃発の影響でヨーロッパでの生糸相場で投機に失敗する。
0155日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 18:43:49.27
山城屋は、陸軍省から更に公金を借り出してフランス商人と直接商売をしようとフランスに渡った。ところが、パリのホテルに滞在し観劇や競馬に興じ、女優との交際や富豪令嬢との婚約話など商売そっちのけで豪遊しているという噂が現地で広まり、これを不審に思った駐仏公使鮫島尚信が日本の外務省に報告、総額約65万円にのぼる公金貸し付けが発覚した(山城屋事件)。
0156日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 18:45:50.73
山城屋と最も緊密だった山縣有朋は追い詰められ、山城屋を日本に呼び戻す。しかし、山城屋には借りた公金を返済する能力が無いことが明らかになった。山城屋と親しかった長州閥官僚は手のひらを返したように山城屋との関係を一切絶った。
窮地に立たされた山城屋は、明治5年11月29日、手紙や関係書類を処分した後、陸軍省に赴き、山縣への面会を申し入れるが拒絶される。面会を諦めた山城屋は陸軍省内部の一室で割腹自殺した。
0157日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 19:16:32.36
▽保安条例
明治20年に制定、発布され、即日施行された勅令である。自由民権運動を弾圧するための法律である。
内乱の陰謀・教唆、治安の妨害をする恐れがあるとされた自由民権派の人物が、同条例第4条の規定に従って皇居から3里(約11.8km)以外に退去させられ、3年以内の間その範囲への出入りや居住を禁止された。
これにより退去を命じられた者は、尾崎行雄、星亨、林有造、中江兆民、片岡健吉、中島信行らがいる。
0158日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 19:19:56.81
第一次伊藤博文内閣の井上馨外相の下で進められた条約改正交渉は、外国人犯罪裁判に外国人裁判官を採用するなどの条件で明治20年にいちおうの妥結をみた。しかしこれは日本の法権を侵害する屈辱的なものであるとして、自由民権派の政府攻撃が高まった。
倒閣運動へと激化するのを恐れた山県有朋内相、三島通庸警視総監の下で、同年12月25日突如公布、即日施行されたのが本法である。
0159日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 19:25:33.61
▽大村益次郎
廃藩置県の断行を目論む明治政府は独自の武力を必要としたが、国民皆兵・徴兵制の早期実施を目指し藩兵に依拠しない政府直属軍の創設を主張する大村益次郎・木戸孝允と、武士身分に固執する薩摩士族が鋭く対立した。大久保利通が士族擁護に傾き明治4年薩長土三藩供出の士族兵による御親兵が創設された。
0160日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 19:29:37.52
西洋兵学の大家である大村益次郎は、諸藩兵の廃止と鎮台兵の設置、徴兵制の導入、兵学校による職業軍人の育成、兵器工場の建設といった近代的軍事国家へのプランを明確に描いていた。
兵制論争に敗れた大村益次郎は辞表を出したが、木戸孝允に慰留され軍政のトップ(兵部大輔)に就き、愛弟子の山田顕義(兵部大丞)と共に、軍事施設の設置、火薬工場や造兵廠の建設などを着々と進めたが、急激な兵制改革に反発する長州士族に襲われ横死した(明治2年11月5日)。
0161日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 19:31:41.33
大村益次郎没後の明治6年、山縣有朋が薩摩の西郷従道を引込み、西郷隆盛を動かして徴兵制を実現した。維新の原動力であるうえ士族の数が多い薩摩が頑強に抵抗したが、徴兵令を支持する西郷隆盛が、島津久光・桐野利秋・前原一誠ら反対派を抑えた。
しかし、士族の特権剥奪は不平士族反乱の原因となり、西郷隆盛も西南戦争を起すはめになった。
0162日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 19:34:28.49
この後、兵部大輔の前原一誠は黒田清隆と衝突して辞め萩の乱を起し戦死、大村益次郎の遺志を継いだ山田顕義は軍を追われ政治家に転進、唯一の陸軍大将である西郷隆盛は西南戦争で落命した。
運よく軍のトップに立った山縣有朋は、大日本帝国憲法に統帥権を挿入して政府の干渉を受けない「天皇の軍隊」を構築し、陸軍を牛耳った。陸軍長州閥は児玉源太郎・桂太郎・寺内正毅・田中義一へと受継がれた。
0163日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 19:40:23.52
▽内務卿
征韓論がきっかけとなった明治六年政変を機に、大久保利通が主導して太政官の下にプロシア風の内務省を新設し、自ら内務卿となった。内閣制度が成立するまでは、内務卿が実質的な首相であった。
山県有朋が内務卿に就任するのは、明治16年である。内閣制度の成立後も、山県は引き続き明治23年まで内務大臣を務めた。
0165日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 20:33:46.46
山県有朋の>>142の問題意識から発して、脱線しております。
西郷従道そっちのけで、山県の話が続いております。
0166日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 21:13:20.00
▽華族
山県が内務卿になり、大久保の絶対主義を仕上げるとともに大久保も考えなかった貴族制度をつくるのである。明治十七年のことである。華族という呼称をつくった。
筆者註:この叙述に対して評論を加えるべきか否か、いままで悩んでいた。スルーしようかとも思ったが、受験シーズンなのでやはり物申す。
デタラメです。
0167日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 21:18:15.39
明治2年6月17日、版籍奉還と同日に出された行政官布達(公卿諸侯ノ称ヲ廃シ華族ト改ム)54号により、従来の身分制度の公卿・諸侯の称を廃し、これらの家は華族となることが定められた。
明治17年7月7日、華族令が制定された。これにより華族となった家の当主は「公爵」・「侯爵」・「伯爵」・「子爵」・「男爵」の五階の爵位に叙された。
0168日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 21:21:11.05
しかも、華族令の制定の中心人物は伊藤博文であって、山県有朋ではない。
0169日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 21:22:19.85
司馬史観においては、山県有朋は明治史のゴミ箱なので、仕方ないです。
0170日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 21:24:25.52
自分も小学生のときに歴史の本で山県有朋の写真を見た瞬間、山県有朋が嫌いになりました。
あの顔は他人から嫌われる顔なんです。仕方ありません。
0171日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 21:57:10.89
>>62
自ら地名姓を名乗るのではなくて、他人が本姓で呼ぶことを遠慮して地名姓を使う。
0172171
垢版 |
2018/01/22(月) 21:58:31.22
すまん。誤爆してもうた。
0173日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 22:34:00.46
平安のむかしから貴族は「皇室の藩屏」だろう。何を言っているのか、さっぱりわからん。
0174日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 22:35:28.81
「一君万民」の平等思想は、平田国学と頼山陽の『日本外史』の思想だよ。
明治維新を惹起した基礎となる思想だよ。
0175日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 22:39:05.26
大久保も将来は民権主義を育てるつもりだった。
川路のポリス思想は住民サービスを重視していた。
司馬さんによると、両者ともに山県によって否定されたようです。
0176日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/22(月) 22:40:20.76
顔って大事だよね。山県の場合、何をやっても嫌われる。
0177日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 15:44:36.05
《フランス革命》
1789年6月9日:テニスコートの誓い(第三身分は三部会を見切り、国民議会を発足させる)
1789年7月14日:バスティーユ牢獄を襲撃
1789年8月26日:フランス人権宣言を採択(国民議会)
1791年6月20日:ルイ16世一家はパリを脱出する(ヴァレンヌ事件)
1791年9月3日:1791年憲法を制定
0178日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 15:52:53.84
1791年10月1日:立法議会(1792年9月5日まで)
  立憲君主制を守ろうとするフイヤン派 vs 共和制を主張するジロンド派
1792年4月:革命政府はオーストリアに対して宣戦布告
1792年9月21日:国民公会(1795年10月26日まで)は、王政廃止とフランス第一共和政の樹立を宣言
1793年1月21日:ルイ16世はパリの革命広場(現在のコンコルド広場)でギロチンによって処刑された。
0179日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/23(火) 15:59:50.49
1793年6月2日:下層市民の支持するジャコバン派が国民公会からジロンド派を追放し、ロベスピエールが権力を掌握した。
  恐怖政治:エベール派とダントン派を粛清
1794年7月27日:テルミドールのクーデター
  翌28日、ロベスピエールら22人はギロチンで処刑された。過激な革命運動は沈静化し、ブルジョアジー勢力が復権する。
1795年10月26日:国民公会が解散されて総裁政府が成立した(テルミドール派)。
0180日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 16:07:55.71
>>179
>1795年10月26日:国民公会が解散されて総裁政府が成立した(テルミドール派)。

テルミドール派は国民公会を足場に政権を樹立した。国民公会が解散されて総裁政府が成立したということは、テルミドール派が失脚したということだよ。
総裁政府の中心人物は、ポール・バラス。
0181日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 16:16:13.63
1799年11月9日:ブリュメール18日のクーデター
  ナポレオンが総裁政府を倒した軍事クーデター。ナポレオンは統領政府を樹立、自ら第一統領となった。
  革命は1794年のテルミドール9日のクーデターによって実質的に終わっており、惰性で続いていた第一共和政が終焉した。
1804年:ナポレオン1世が皇帝に即位(第一帝政)。
1814年:ナポレオンはライプツィヒの戦いに敗れ退位。戦後処理のためにウィーン会議。
1815年:エルバ島から脱出し、パリに戻ったナポレオン1世が復位。しかしワーテルローの戦いで完敗。再び退位(百日天下)。
0182日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 16:18:57.64
フランス復古王政(1814年 - 1830年)
  ナポレオン1世の失脚後、ルイ16世の弟であるルイ18世がフランス国王に即位した。
  1824年にルイ18世が死去すると、その弟のシャルル10世が即位。
0183日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 16:21:52.73
七月王政(1830年 - 1848年)
  1830年7月、自由主義者として知られたオルレアン家のルイ・フィリップがフランス王となった。
第二共和政
  1848年の二月革命から1852年のナポレオン3世皇帝即位まで
0184日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 16:31:01.11
第二帝政
  1848年12月の選挙で圧倒的支持のもとにルイ=ナポレオンが大統領に選ばれる。
  その後ルイ=ナポレオンは議会との対立を深め、1852年12月に国民投票により皇帝に即位する。
  1870年にプロイセンに宣戦したが(普仏戦争)、セダンの戦いで惨敗し、自らがプロイセン軍に捕えられ退位へと追い込まれた。
第三共和政
  皇帝不在となったフランスでは第三共和政が誕生する一方、パリでは一時、史上初の労働者による政権パリ・コミューンが樹立された(1871年3月26日)。
0186日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 17:17:42.84
>>175
司馬さんは、山県を「僧院の陰謀家のように陰鬱で無口」と言っている。
司馬さんの頭の中では、山県とタレーランのキャラが完璧に被っているんだよな。
0187日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 17:40:37.49
《フランス革命》まとめ
フランス革命:1789年 - 1792年 国民議会(1789-91)→立法議会(1791-92)
第一共和政:1792年 - 1804年
  国民公会:ジャコバン派(1792-94)→テルミドール派(1794-95)
  総裁政府:バラス政権(1795-99)
  統領政府:ブリュメール18日のクーデター(1799-1804)
0188日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 17:47:53.90
第一帝政:1804年−1815年
復古王政:1814年−1830年 ルイ18世→シャルル10世
七月王政:1830年−1848年 ルイ・フィリップ
第二共和政:1848年−1852年 大統領ルイ・ナポレオン
第二帝政:1852年−1870年 ナポレオン3世
第三共和政:1870年−1940年
0189日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 18:13:14.50
▽ニコライ二世の戴冠式
明治29年5月14日、モスクワのクレムリンに所在するウスペンスキー大聖堂で戴冠式を行なった。日本からは明治天皇の名代として伏見宮貞愛親王(陸軍少将)、特命全権大使として山縣有朋が出席している。
http://www.saint-petersburg.com/images/famous-people/nicholas-ii/coronation-of-emperor-nicholas-ii-and-empress-alexandra-fedorovna.jpg
http://cdn.ruvr.ru/2014/07/28/1508982878/9kkk.jpg
0190日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 18:17:00.04
山県は帰国後、日本の皇室の権威的装飾を荘厳なものに改造した。
ここでも山県は、司馬さんに「愚かな男」と言われています。
0192日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 18:35:10.46
本文に紹介されたセオドア・ルーズベルトの認識でわかるとおり、世界は明治憲法を議会主義と三権分立を規定した民主主義・自由主義の憲法とみていた。少なくとも天皇専制の政体とは思っていなかった。
0193日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 18:38:38.09
▽軍人勅諭
明治15年1月4日に明治天皇が陸海軍の軍人に下賜した勅諭である。西周が起草し、福地源一郎・井上毅・山縣有朋によって加筆修正された。
当時、西南戦争・竹橋事件・自由民権運動などの社会情勢により、設立間もない軍部に動揺が広がっていたため、これを抑え、精神的支柱を確立する意図で起草された。
明治11年10月に陸軍卿山縣有朋が全陸軍将兵に印刷配布した軍人訓誡が元になっている。
0194日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 18:47:31.09
▽統帥権の独立
「夫兵馬の大権は朕が統ぶる所なれば、其司々をこそ臣下には任すなれ、其大綱は朕親之を攬り、肯て臣下に委ぬべきものにあらず」
山県有朋の意図は軍部の暴走を軍人勅諭によって抑制することにあったのだが、皮肉なことに軍部の暴走の法的根拠になってしまった。
しかし、司馬さんは、「明治憲法を事実上破壊するにいたるのは、山県であった」と書かれている。
0196日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 18:56:47.92
日本に貴族をつくって維新を逆行せしめ、天皇をツァーリのごとく荘厳し、軍隊を天皇の私兵であるがごとき存在にし、明治憲法を事実上破壊するにいたるのは、山県であった。
山県をしてそれほどの重国家をつくらしめたのは、明治二年、彼がパリで実見したコンミューンの戦慄的な動きであった。
0197日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 19:06:26.74
くどいけど、パリ・コンミューンは、明治4年3月18日だから〔>>139〕、山県は「実見」していない。
普仏戦争すら、まだ始まっていない。ナポレオン三世はピンピンしとるわい。
0198日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 19:48:54.93
やっと山県の話が終わった。ここから西郷従道の話です。
0200日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 19:58:18.66
▽海軍大臣
歴代海軍大臣は次のとおり。
西郷従道:明治18年 - 明治23年
樺山資紀:明治23年 - 明治25年
仁礼景範:明治25年 - 明治26年
西郷従道:明治26年 - 明治31年   ←日清戦争
山本権兵衛:明治31年 - 明治39年 ←日露戦争
0201日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 20:04:41.25
▽国権主義
民権論が人民の権利や自由が保障されて初めて国家の権力が強化・伸張されるとしたのに対して、国権論は国家の権力が強化されてこそ人民の権利や自由が保たれると主張するものである。
しかし、国権論と民権論は必ずしも図式的に明分した形で展開されたわけではなかった。
0202日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 20:09:57.53
▽狐疑深き慎吾
西郷隆盛は、第二の幕府を作る野心を秘めているのではないかという疑念。
従道だけが狐疑していたのではなく、この時代の非薩摩人のほとんどが濃淡の差はあれ、そのように思っていた。
0204日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 20:23:35.34
久光が西郷をいかに西郷を憎んだかということは、幕末のある時期、西郷の遠島を解除せざるをえない状況になったとき、たまたま咥えていた煙管を噛み、その銀の部分に歯形が立ったといわれているほどである。
「(;´Д⊂) 痛…。昨夜より虫歯が痛むのを忘れておったわ」
0205日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 20:46:48.43
▽高崎正風
天保7年(1836年)- 明治45年(1912年)
鹿児島近在川上村(鹿児島市川上町)出身。通称は左太郎。
嘉永2年(1849年)、お由羅騒動(高崎崩れ)によって父五郎右衛門が切腹し〔>>44〕、翌3年(1850年)に正風も連座して奄美大島に流刑となった。
0206日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 20:47:24.50
嘉永5年(1852年)に赦免され、幕末の京都で活動し、公武合体派の島津久光の意を受けて、会津藩公用方秋月悌次郎に密かに接触し、京都から長州藩の追い落としを図って、文久3年(1863年)8月18日これを成功させる(禁門の政変)。
その功により京都留守居役に任命されるが、武力討幕に反対して西郷隆盛らと対立し、維新後は不遇をかこった。
本章で高崎左太郎は久光派と紹介されているが、これが原因だと思われる。芯からの公武合体派だった。
0207日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 20:48:35.23
明治4年に新政府に出仕。翌5年に左院視察団の一員に任じられ、2年近く欧米諸国を視察。
明治8年に宮中の侍従番長、翌9年から御歌掛などを務め、同年に侍補となり、明治11年から翌12年にかけて元田永孚・佐々木高行・土方久元・吉井友実らと天皇親政運動を展開したが〔>>73-74〕、明治12年に政府に侍補を廃止され失敗した。
0208日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 20:48:56.69
明治19年に二条派家元三条西季知が死去した後を受け、御歌係長に任命される。さらに明治21年には御歌所初代所長に任命された。
明治23年、皇典講究所所長山田顕義の懇請により、初代國學院院長(明治26年まで)。明治28年、枢密顧問官を兼ねた。
明治45年2月28日死去。享年75。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4a/Takasaki_Masakaze.jpg/220px-Takasaki_Masakaze.jpg
※日テレ「白虎隊」では加納竜。禁門の政変の場面で登場した。しかし「エロスの海」とは……。
http://up.gc-img.net/post_img_web/2017/04/11373ada60c0ba40e2632e3f9a219a33_6513.jpeg
0210日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 21:04:16.49
▽奈良原繁
通称喜八郎については、前スレ〔216-218〕に書いた。寺田屋事件では鎮撫使の一人として活躍した。
禁門の政変では、高崎正風らと暗躍し、京から長州藩追放に成功している。
西郷隆盛らの討幕路線に反対していたため、戊辰戦争より帰国した下級藩士たちにより、藩政から退けられる。
公武合体派=久光派である。
0211日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 21:08:27.23
生麦事件でリチャードソンに最初の一撃をあびせたのは喜八郎の兄の奈良原喜左衛門なのかね、やっぱり。
介錯のつもりでリチャードソンにとどめをさしたのが海江田信義であったことからすると、喜八郎のような気もするが。
0212日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 21:28:29.28
▽海江田信義
天保3年(1832年)- 明治39年。幕末期は有村俊斎の名で活躍する。
嘉永2年(1849年)、お由羅騒動に巻き込まれた有村父子は、一時藩を追われ家は貧困の極みに陥るが、嘉永4年(1851年)、新藩主・島津斉彬によって藩に復帰する。
※池田優斗 http://livedoor.blogimg.jp/koyakukoyaku/imgs/a/7/a7c3f433-s.jpg
※高橋光臣https://stat.ameba.jp/user_images/20171225/21/takahashimitsuomi/73/b3/j/o0720096014098340097.jpg
0213日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 21:28:56.98
文久元年(1861年)12月、安政の大獄で捕縛され獄死した日下部伊三治の次女・まつを娶り、同時に婿養子となって海江田武次信義と改名する。海江田は日下部の旧姓である。
日下部家の後を継ぐ予定の弟有村次左衛門(桜田門外の変で自刃)の死後、その義理で日下部家を継ぐことになった。
0214日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 21:29:13.38
文久2年(1862年)、島津久光に従って上洛したが、その道中で知った西郷の京都での動静を久光に伝えて激怒させてしまい、心ならずも西郷の再遠島の原因を作った。
寺田屋事件では奈良原繁とともに、事前に有馬新七ら藩士の説得を命じられるが失敗した。鎮撫使には加わっていない。
0215日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 21:29:32.13
大村益次郎殺害犯の処刑に際して、弾正台から監視役として派遣された海江田は、直前で刑の執行を差し止めたため、政府の取調べを受け謹慎処分となった。
明治3年8月、大久保の尽力により官職に復帰し、奈良県知事に任命されるが、明治4年の廃藩置県で解任される。
0216日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 21:29:45.77
薩摩に帰り隠遁するつもりであったが、島津久光の目にとまり、新政府に不満を持つ久光と新政府の調停役となる。このことが評価されて、明治5年、左院四等議官として再度官途につく。
明治6年、勅使とともに鹿児島へ下り、久光を説いて上京せしめる。
明治23年には貴族院議員、明治24年には枢密顧問官となり、明治39年に75歳で死去。
0217日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 21:35:39.20
海江田信義のエピソードでは、大村益次郎との対立と、その暗殺事件への関与が最大のものだが、これは『花神』で詳しくやる。
それを抜きにしても、これだけネタ満載の男も珍しい。肝心なことは何もしていないが、事件の周辺でいつもチョロチョロしている稀有なキャラクター。
0219翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/01/23(火) 22:03:49.87
第8章 好転 

〔三〕廃藩置県
「御親兵を東京に置くからには毛利氏が叛けば毛利氏を討ち、島津氏が叛けば島津氏を討つ底のものでなければなりませぬ」
西郷は応諾し、明治四年三月、四個大隊の兵を率いて海路東京に入ったのである。このとき天下の不平士族はよろこび、
(西郷が何かやるのではないか)
と、期待した。
「薩摩が大兵をひきいて上洛する」ということが、天下の希望と期待を集中したことが二度あった。ひとつは安政五年に島津斉彬が幕政を匡すべく兵三千を率いて上洛しようとしたことであり、次いで島津久光が文久二年にそれを実現したことである。
0220日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 22:13:21.22
この小説を新聞連載で読んでいたら、本筋である明治6年の征韓論論争が今どのあたりまで進行していたか、忘れてしまうね。
0221日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 22:54:33.34
>>211
喜左衛門と喜八郎は、小説に出てきても、どっちがどっちだったか分からなくなることがあるね。
どっちが「繁」だったかも、思い出せないことがある。
0222日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 23:10:05.05
▽大村益次郎
一人の男が居る。
歴史が彼を必要とした時忽然として現れ、その役目を終えると大急ぎで去った。
もし維新というものが正義であるとすれば、彼の役目は津々浦々の枯れ木にその花を咲かせて回ることであった。中国では花咲爺のことを花神という。彼は花神の役目を背負ったのかも知れない。
彼、村田蔵六。後の大村益次郎である。
0223日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 23:12:36.71
「あなたは戦を知らない」
「冬は寒いのが当たり前です」
0224日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 23:22:57.05
▽「いずれ九州から足利尊氏のごとき者が興ってくる」
大村は西郷を先天的な謀叛人とみていた。
「四斤山砲をたくさん造って大坂に置いておけ」
0225日本@名無史さん
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2018/01/23(火) 23:23:23.65
▽四斤山砲
1859年にフランスで開発された前装ライフル式の青銅製山砲である。「四斤」とは、砲弾重量が4kgであることを意味する。日本でも幕末から明治初期にかけて主力野戦砲として使用された。
http://sak2-2.tok2.com/home/toshizou/aizu109.jpg
0226日本@名無史さん
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2018/01/24(水) 00:50:48.07
▽足利尊氏 〈1305年 - 1358年〉
尊氏が九州で再起した理由を探求すれば様々な論点が出てくるが、本編とのかかわりが薄いので割愛する。
肖像の話題だけ。〔画像1〕が高師直ではないかという話は、自分は40年以上前に聞いた。
試みに高校時代に使っていた教科書と参考書を紐解いてみたら、尊氏の肖像は載せられていなかった。
現在は〔画像2〕が有力なようだ。
〔画像1〕http://www12.plala.or.jp/rekisi/takauji.jpg
〔画像2〕https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20171026003429_commL.jpg
0227日本@名無史さん
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2018/01/24(水) 01:07:19.81
▽山田顕義
天保15年(1844年)- 明治25年
長州藩士で藩の海軍頭を務めた山田顕行の長男。吉田松陰門下のひとり。
幕府の長州征討では高杉晋作の下で「丙寅丸」の砲隊長として幕艦を撃破、戊辰戦争では東征大総督参謀として、越後・東北・箱館と奮戦し、小ナポレオンと称されるほどの用兵家として知られた。
明治2年、兵部大輔大村益次郎の下で兵部大丞を務め、大村の死後は遺志を継承して兵制確立に力を注いだ〔>>160〕。
0228日本@名無史さん
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2018/01/24(水) 01:09:32.10
明治4年に陸軍少将となり、岩倉遣欧使節団の一員としてヨーロッパを視察する。帰国後佐賀の乱が勃発し、その鎮圧に当たった。同じ長州出身の山県有朋とは相容れず、山県の進める徴兵制に反対し、下士官養成を先にすべきという漸進論を主張する。
明治7年の台湾出兵の閣議決定にも反対を唱えた。
0229日本@名無史さん
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2018/01/24(水) 01:20:33.94
西南戦争の際は、別働第2旅団司令長官として活躍。11年陸軍中将に進んだ。しかし、その後、軍を追われ政治家に転進する〔>>162〕。約9年間にわたり司法大臣として近代国家の骨格となる明治法典を編纂した。
民法はフランス人ボアソナード、商法はドイツ人レースラーの原案起草を得てともに明治23年の公布にこぎつけた。しかし、フランスに範をとる民法が日本の国情に合わないとの議論がやがて起こり (法典論争)、結局両法とも施行されなかった。
0231日本@名無史さん
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2018/01/24(水) 01:38:53.35
>>206
高崎左太郎は、文久3年の禁門の政変の折に、会津藩との交渉窓口になっているんだよな。
会津藩公用方の連中と飲み歩いて親密にもなっているだろう。
会津を捨て置いて「公武合体はやめて倒幕するからね」と西郷・大久保に言われても、「ええかげんにしてたもんせ」だろうな。
0233日本@名無史さん
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2018/01/25(木) 20:32:23.91
▽西郷どんの人望好み
大山巌の評語。なおフリガナは「せごどん」。
木戸孝允も西郷の人望好きを嫌っていた。以下は、木戸の言葉。
一国の政治を行う場合、八方美人式に大向うの声望を得ようとするのはむしろ易しい。進んで正を踏み、一世から嫌われるほどの勇気を持つべきである。
0234日本@名無史さん
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2018/01/25(木) 20:36:09.63
一世から嫌われて暗殺されるだけなら、まだしもたやすい。
死後に酷評されることにも耐えられるだけの勇気が必要とされる。
0235日本@名無史さん
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2018/01/25(木) 20:41:50.20
小説やドラマの場合、売れなきゃ話にならんから、どうしても大衆的人気のある歴史上のヒーローが主人公にされてしまう。
死後に大衆から酷評されている人物で、理解するために高い知性を必要とする大久保が主人公になることはないな。
0236日本@名無史さん
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2018/01/25(木) 20:45:05.91
好事家の金持ちから寄付を受けなければ維持できないクラシックのオーケストラと、AKBや乃木坂の関係のようだな。
0237日本@名無史さん
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2018/01/25(木) 20:53:41.73
>>235
しかし人望のある西郷がいなければ、薩摩藩は動かず、明治維新もなく、大久保が歴史に名を残すこともなかった。
むずかしいところですな。
明治政府の大官のなかには、大久保は除くとしても、着たきり雀の西郷が無言の批判をしていたような成金バカも確かに存在しましたから。
0239日本@名無史さん
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2018/01/25(木) 20:59:53.94
西郷は、大きな財布をとりだした。その中から銭をつかみ出し、
「手を出しやい。汝くらいの齢には銭が要るものでごわす」と、与えた。
0240日本@名無史さん
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2018/01/25(木) 21:04:55.15
▽柴山竜五郎景綱
天保6年(1835年)- 明治44年
幕末には精忠組に参加して寺田屋騒動で検挙され、薩英戦争・禁門の変・戊辰戦争に参戦した。明治時代には義弟三島通庸〔>>158〕の下で山形県東置賜郡・南置賜郡、福島県伊達郡・信夫郡郡長を務め、土木事業を推進し、故事・旧跡の顕彰に努めたが、しばしば強権的な手法を批判された。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/13/Kagetsuna_Shibayama.jpg
0241日本@名無史さん
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2018/01/25(木) 21:18:54.12
▽是枝万助
柴山竜五郎の実弟・陶蔵という名で紹介されているが、寺田屋騒動で投降した田中河内介を鹿児島に護送中に殺害した「是枝万助」の名の方が有名である。
柴山陶蔵と是枝万助は同一人物である。
0242日本@名無史さん
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2018/01/25(木) 21:35:56.55
田中河内介父子の殺害を命じたのは、三島通庸ではないかと言われている。
是枝万助は>>239で西郷から銭をもらった柴山竜五郎の実弟。これが慶応2年の挿話。
是枝万助は、戊辰戦争の頃すでに「万助・・・心経病再発シ眼ヲ抉リ股ヲ断ント」とするような有様だった。田中河内介父子殺害後、精神を病んでいたとも伝えられる。
0243日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 21:39:59.46
西郷が柴山陶蔵(是枝万助)に銭を与えたのは、単なる西郷の人気取りのエピソードとして片づけられない難しさがここにある。
西郷は久光の命によって捕縛され再遠島を命じられたから、寺田屋事件とその後の田中河内介殺害には関与していない。
しかし是枝万助の心の傷は知っていたはずである。銭を与えたのは、そのためかもしれない可能性がある。
0244日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 21:46:48.59
他人は好き勝手なことを言うよ。批判されている当人は、その人なりに、善い人になろう、立派な人になろうと必死に生きている。
0245日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 22:04:39.84
▽大迫喜左衛門貞清
文政8年 (1825年) - 明治29年
薩摩藩士山之内立幹の四男に生まれ、大迫貞邦の養子となる。万延元年以降京都守衛に当たり、明治元年鳥羽伏見の戦いでは二番遊撃隊隊長、のち東山道先鋒総督本営付として従軍した。
明治2年薩摩の藩政改革では参政、同3年権大参事を務めた。同5年陸軍少佐、ついで中佐に進むが、同7年文官に転じ、静岡県令をふりだしに明治16年警視総監、さらに元老院議官、沖縄県令を歴任し、勲功により子爵となる。
0246日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 22:09:56.53
▽壮者隊
万延元年(1864年)以降京都守衛に当たっていた大迫喜左衛門の隊を指すのだと思う。ほかに走者隊としている史料もあり、詳細は不明である。
国許から上洛してきた柴山竜五郎の弟陶蔵(是枝万助)を、西郷は大迫の壮者隊に編入した。
0247日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 22:25:06.27
この稿の小見出しは、「好転」である。西郷は遣韓大使の一件が内定したことを喜び、弟の従道の屋敷から日本橋小網町の自分の寓居に移ろうとしている。
『翔ぶが如く』という小説は、本編の進行は0.1%で、残りの99.9%が余談で構成されている。
0248日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 22:28:29.09
倒幕のあと、いちはやく新国家構想を考えたのは長州集団であった。薩摩集団は幕府を倒したあと、兵は鹿児島に帰り、一見ぼう然と世のなりゆきをながめていただけである。
0249日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 22:34:15.92
▽版籍奉還
明治2年6月から行われた諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還。発案者は姫路藩主酒井忠邦。
新政府側から見ると、次のような背景がある。新政府は徳川幕府直轄地、旗本領、および寺社領を没収した。しかし、直轄地以外の地域については、江戸時代同様の各大名による統治がおこなわれていた。
当時各大名に対する明治政府の権力は脆弱で、諸藩への命令も強制力のない太政官達で行うしかなかった。そこで、版籍奉還を行って藩統制に強力な法的根拠を持たせようとした。
0250日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 22:35:10.66
諸藩側から見ると、次のような背景がある。江戸時代、各藩主は代替わりごとに領地の所有を将軍に承認されていたが、徳川幕府の瓦解によって領地所有の法的根拠が失われていた。
また、戊辰戦争においては近代兵器を用いた戦争に藩主はほとんど指導力を発揮できず、藩内において藩主の権威が失墜していた。さらに、戦乱による被害と藩の権威の低下により、戦闘の場となった関東や東北などでは農民一揆が続発して年貢の徴収も滞りがちであった。
0251日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 22:39:41.14
版籍奉還により、藩主が非世襲の知藩事に変わり、陪臣である藩士も朝廷の家臣とされた。このため諸藩の中には「将軍による知行安堵を朝廷が代わりに行ったもの」と誤解する者もあり、大きな抵抗もなく終わった。
また、版籍奉還と同時に旧藩主の諸侯285家は、公卿142家と同時に華族に列せられた〔>>167〕。
0252日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 23:05:26.43
▽廃藩置県
司馬さんは、廃藩置県の最初の唱道者を木戸孝允としているが、これは誤りである。版籍奉還と勘違いされている。
封建制の廃止と郡県制による中央集権の必要性を認識する木戸は、まだ戊辰戦争の最中である明治元年2月、三条実美、岩倉具視に版籍奉還の建白書を提出した。しかし、三条も岩倉も時期尚早としてこの時点では賛成しなかった。
0253日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 23:06:25.63
同年9月18日、木戸は大久保利通と極秘裏に会談し、版籍奉還の実施について大久保と薩摩藩の協力を要請、大久保は「一緒尽力」を承諾した。
さらに木戸は山内容堂と会談して土佐藩の同意を取り付け、大久保の奔走により薩摩藩も同意、これに佐賀藩も同調し、明治2年1月20日、薩長土肥四藩の藩主連署による「版籍奉還の上表」が提出された。
0254日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 23:16:28.05
廃藩置県の最初の唱道者は、前スレで詐欺師スレスレの男と評された津田出である。
明治元年11月、紀州藩藩主・徳川茂承〈もちつぐ〉より藩政改革の全権を委任された津田出は、陸奥宗光に会い、郡県制度(版籍奉還および廃藩置県)と徴兵令の構想を伝える。
明治2年7月、陸奥宗光は廃藩置県の意見書を太政官に提出するが、採用されず下野し、津田出らとともに紀州藩の藩政改革に参画する。
0255日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 23:19:52.57
なお、長州藩の鳥尾小弥太は、紀州藩の改革に戊営副都督次席として参与している。この改革を西郷従道、村田新八、山田顕義が見学した。この改革が、日本の近代国家のモデルケースとなり、明治4年の廃藩置県、明治6年の徴兵令に影響を与えた。
明治3年12月、大蔵大輔・大隈重信が「全国一致之政体 」の施行を求める建議を太政官に提案して認められた。その実現には、知藩事と藩士によって治められた「藩」の異質性・自主性が「三治一致」の最大の障害となることは明らかであった。
0256日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 23:22:49.22
主に軍事面と財政面において中央集権体制を進める廃藩置県の必要性は次第に政府内で支持を増やしていた。一方で薩摩藩の島津久光などの近代化と中央集権化に反対する勢力も有力であり、これに対して大久保利通や木戸孝允などの新政府実力者は漸進的な姿勢をとらざるを得なかった。
特に圧倒的な軍事力を抱える薩摩藩の動向は、大きな懸念材料となっており、薩摩藩出身の実力者たちは慎重な姿勢を見せていた。この現状に中間官僚たちは危機感を強めた。
0257日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 23:26:28.76
明治4年7月4日、兵制の統一を求めていた山口藩出身の兵部少輔山縣有朋、および同藩出身の鳥尾小弥太〔>>255〕と野村靖が>>256の状況に対する危機感に駆られ、山縣に対して廃藩置県の即時断行を提議した。山縣は即座に賛成し、2人とともに有力者の根回しに走った。
0258日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 23:36:59.60
▽麹町富士見町
明治3年8月に欧州から帰国した山県有朋が(>>137)、当時居住していた町。昭和22年に消滅した。
現在は千代田区富士見。千代田区は、昭和22年に神田區と麹區が合併して誕生した。
http://cdn-ak.f.st-hatena.com/images/fotolife/s/so102/20111105/20111105144235.jpg
山県有朋と鳥尾小弥太および野村靖は、ここで廃藩置県の実現に向け第一歩を踏み出した。
0259日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 23:43:16.85
▽鳥尾小弥太
弘化4年(1848年)- 明治38年
萩城下川島村に長州藩士・中村宇右衛門敬義の長男として生まれる。文久3年(1863年)に奇兵隊に入隊。乱暴者なので、親から勘当され、自ら鳥尾と名を改めた。
戊辰戦争後に和歌山藩に招聘され、同藩の軍制改革に参与している〔>>255〕。
http://yugetuan.net/wp-content/uploads/2016/12/20140316_643017-192x300.png
0260日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 23:45:16.10
西南戦争では、大阪において補給や部隊編成などの後方支援を担当した。陸軍内においては、政治的立場の相違から、山縣有朋や大山巌らと対立するなど反主流派を形成した。
明治14年(1881年)の開拓使官有物払下げ事件では、反主流派の三浦梧楼・谷干城・曾我祐準と連名で、払下げ反対の建白書および憲法制定を上奏する。この事件の結果、反主流派は陸軍を追われ、鳥尾も統計院長に左遷される。
0261日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 23:50:18.66
▽野村靖
天保13年(1842年)- 明治42年
長州藩の足軽・入江嘉伝次の次男として生まれる。兄に入江九一、妹にすみ子(伊藤博文の最初の妻)がいる。兄・九一が入江氏を継いだため、親戚の野村氏を継いだ。
吉田松陰の松下村塾に入門して尊王攘夷に傾倒するが、老中・間部詮勝の暗殺計画が露見して兄と共に投獄される。文久2年(1862年)にはイギリス公使館の焼き討ちに参加。第二次長州征討でも活躍している。
http://blog-imgs-38.fc2.com/s/b/l/sblog410/20091119213233376.jpg
0262日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/25(木) 23:55:08.52
明治維新後、廃藩置県にあたって、鳥尾小弥太とともに、西郷隆盛・木戸孝允等政府有力者を周旋する活躍を見せ、その後、宮内大丞、外務大書記となり、岩倉使節団の一員として渡欧した。
明治27年には第2次伊藤内閣の内務大臣に就任し、同29年には第2次松方内閣の逓信大臣に就任している。
http://heisei-shokasonjuku.jp/kids/wp-content/uploads/sites/4/2016/03/db-photo_nomurayasushi.jpg
※「花燃ゆ」では大野拓朗 
https://d39t9tn4y25mgl.cloudfront.net/wp-content/uploads/2015/04/923305551ab182def61ae5ac9b81cdac-279x420.jpg
0263日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 01:18:28.25
実物の野村靖のブサイクな顔と、役者の顔の落差が大きすぎる。
ウケ狙いなんでしょ?
0264242
垢版 |
2018/01/26(金) 02:10:02.69
>田中河内介父子殺害後、精神を病んでいたとも伝えられる。

実はここは俺の創作だ。創作を加えると気分がいいな。
小説家が創作を加えたくなる気持ちがちょっぴり理解できた。
0265日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 06:18:41.06
歴史オタは基本真実ぶって持論(創作)を書きたがるもの
ネットに有る歴史の真実は全てこれ
匿名だから間違っても責められないから自分の持論を展開していく
0266日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 22:16:11.14
▽蠣殻町
現在の日本橋蛎殻町。明治4年夏、西郷は蠣殻町の薩摩の控え屋敷に住んでいたと司馬さんは述べている。
明治6年(1873)の「第壱大区沽券図」には、「蛎殻町1丁目壱番/二千六百三十三坪/金千五百八十六円/西郷隆盛」とあります。屋敷には長屋に15人ほどの書生を住まわせ、下男を7人雇い、猟犬を数頭飼っていたといわれています。
※現在の写真 http://file.tokyochuo.blog.shinobi.jp/55bf9a41.JPG
0267日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 22:22:49.26
▽春日潜庵
文化8年(1811年)- 明治11年
京都烏丸通一条上ル(現京都市上京区)で、久我家諸大夫・春日越前守仲恭の息子として生まれる。内大臣・久我通明、久我建通に仕え、讃岐守となる。朱子学を修め、さらに陽明学を修めた。
安政4年(1857年)頃から梁川星巌、西郷隆盛らと国事に奔走する。そのため安政の大獄に座し、永押込に処せられた。文久2年11月(1862年)和宮降嫁後に特赦を受けた。
※春日潜庵邸宅跡 https://www2.city.kyoto.lg.jp/somu/rekishi/fm/ishibumi/jpg/ka003b.jpg
0269日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 22:29:15.64
▽カルメラ
カルメ焼き(軽目焼)のこと。ポルトガル語の「甘いもの」(caramelo)を語源とする。
飴を発泡させた砂糖菓子で、サクサクした歯応えと濃厚な甘味、キャラメルのような焦げ砂糖の香ばしい風味がある。
※アラレちゃんのうんこのようなカルメラ
https://pds.exblog.jp/pds/1/200901/29/41/f0001841_20232832.jpg
0270日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 22:32:18.63
「私のほうはよろしゅうございます」
廃藩置県という空前の変革は、西郷の一言で済んでしまった。
山県のような男が西郷に生涯敬意をうしなわなかったのは、この一事があったからである。
0271日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 22:39:21.39
《廃藩置県》まとめ
明治3年8月:山県有朋・西郷従道、欧州より帰る。山県、兵部少輔。従道、兵部権大丞。
明治4年3月:薩長土三藩の士族兵を東京に集めるー御親兵。西郷隆盛、兵四個大隊を率い上京。
明治4年7月:廃藩置県を断行。
0272日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 22:51:42.77
▽明治3年8月の東京の兵力
前スレ〔288〕に書いた。
明治元年2月20日、鳥羽・伏見の戦い後の軍事的緊張に対応するために、御親兵が設置された。実態は長州藩の一部部隊を中心として在京諸藩の浪人を集めただけに過ぎなかった。翌年には戊辰戦争の終了を理由に、十津川郷士ら400名による組織に縮小された。
東京奠都後には長州藩部隊が東京城(現在の皇居)の警護にあたった。
0273日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 22:57:15.26
▽兵部省
王政復古によって、征夷大将軍が廃止された。明治2年7月の官制大改革により軍務官に代わって設置された。兵部卿には小松宮彰仁親王が就いたが、実務は次官である兵部大輔が執り行った。
大村益次郎:明治2年7月8日 - 11月5日
前原一誠:明治2年12月2日 - 明治3年9月2日
欠:明治3年9月2日 - 明治4年7月14日
山縣有朋:明治4年7月14日 - 明治5年2月27日
0274日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 23:22:40.76
▽前原一誠
天保5年(1834年)、長門国土原村(現・山口県萩市)にて、長州藩士・佐世彦七の長男として生まれ、前原氏を相続する。
安政4年(1857年)、久坂玄瑞や高杉晋作らと共に吉田松陰の松下村塾に入門する。
文久2年(1862年)に脱藩し、久坂らと共に直目付・長井雅楽の暗殺を計画する。
http://www.i-unic.com/contents/boucho/haginoran/image/hagi_03.jpg
0275日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/26(金) 23:24:34.55
維新後は越後府判事(次官)や参議を勤める。大村益次郎の死後は兵部大輔を兼ねたが、出仕することが少なかったため、船越衛は省務停滞を嘆いている。また、大村の方針である「国民皆兵」路線に反対して、木戸孝允と対立する。
やがて、徴兵制を支持する山縣有朋に追われるように下野し、萩へ帰郷する。
0276日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 12:47:49.12
▽大名小路
有楽町から大手町まで貫く一本通りを『大名小路』と呼びます。
江戸城築城当時この辺りは日比谷入江でしたが、順次埋め立てて江戸城域を拡張していきました。有楽町駅前辺りには南町奉行所が置かれ、大手町にかけての一体は譜代大名や旗本武家屋敷が建ち、24もの藩邸があったことから大名小路と呼ばれています。
http://oldmap.jp/j/wp-content/uploads/2014/03/1-01-1.jpg
http://www.iwabi.jp/01-X400.jpg
0277日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 12:56:31.64
▽旧因州藩邸
黒門は江戸期には旧因州鳥取藩32万石池田家上屋敷の表門だった。大名小路と呼ばれ大名屋敷が並んでいた現在の丸の内にあった。明治5年に有楽町1丁目という町名になり、現在は丸の内3丁目である。東京国際フォーラムの西側、新東京ビルがある所である。
池田家上屋敷は明治2年7月8日に兵部省〔>>273〕の用地となる。兵部省は明治5年2月に陸軍省と海軍省に分けられるが、この地は陸軍省になった。
http://taitonavi.jp/pic/db_img/166.jpg
0278日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 13:10:32.36
▽維新後の薩摩〔>>248
島津久光は維新後も薩摩藩で権力を握り続けたが、新政府が進める急進的改革に批判的立場をとり、また藩体制の改革を要求する川村純義・野津鎮雄・伊集院兼寛等の戊辰戦争の凱旋将兵と対立する。
明治2年2月、勅使・柳原前光が大久保利通を随伴して鹿児島に下向、その働きかけに応じて上京し、3月3日に参内、6日に従三位・参議兼左近衛権中将に叙任される。
0279日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/27(土) 13:13:55.66
明治3年1月から2月にかけて、島津久光と西郷隆盛に対し、上京して政府に協力することを促すため大久保が東京から帰藩するが、政府に不満をもつ久光と西郷を説得できず、両者の引き出しに失敗する。
同年12月、勅使・岩倉具視が大久保等とともに鹿児島に下向し、久光および西郷に上京を要請する。西郷は上京に同意するが、久光は病を理由にその猶予を願う。本章の叙述によると、西郷従道と山県有朋も随行している。
0280日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 13:18:27.36
「田原坂」で従道(西郷輝彦)が隆盛(里見浩太朗)を説得していたシーンだな。
「カゴンマのオナゴにゃかないもはん」
西郷と山県の会談のシーンはなかった。
0281日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 13:21:41.52
明治4年2月に薩長土三藩の兵力で編成される御親兵の設置が決定すると、出兵準備のため西郷が東京より帰藩し、久光に代わって知藩事・島津忠義が4月に西郷とともに上京する。
西郷や大久保らが主導するかたちで同年7月14日に廃藩置県が断行されると、島津久光はこれに激怒し、抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせる。旧大名層の中で廃藩置県に対してあからさまに反感を示した唯一の例になる。
http://www.geocities.jp/swingi70/inagawahanabi4.jpg
9月10日に政府から分家するよう命じられ、島津忠義の賞典禄10万石のうち5万石を家禄として分賜される(玉里島津家の創立)。
0282日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 13:31:40.11
明治四年三月、西郷が、「御親兵献納」ということで薩摩四個大隊を率い、大砲数門を曳っぱって東京に入るという報が四方に伝わると、
「西郷が大軍を率いて東京に入った。世直しをやるつもりである」
と、各地に伝わった。
西郷という存在は、維新早々、すでに「世直し」の象徴として期待されていたのである。
0284日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 13:43:43.60
薩摩は西郷が代表しているとばかり木戸は思っていたのだが、その内情は、西郷の足くびを握って放さない人物がいた。島津久光である。
薩摩という革命藩の実質的な藩主が、じつは病的な保守家で、封建制の絶対的支持者であり、できれば島津幕府でも作りたいと本気で思っているような人物であることは、すべての開明的な薩摩人がひた隠しに隠していた。
木戸は、久光の思想や野望の表れが、そのまま西郷の思想や意志であると思い、この両人の人格を一つのものと見ていたのである。
「西郷は第二の幕府を作るつもりであろう」
0285日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 17:24:58.90
西郷は明治4年3月、献納すべき御親兵を率いて東京へ上るとき、久光から「廃藩置県はまかりならぬ」と釘をさされていながら、その7月には廃藩置県をやってしまったのである。
「私のほうはよろしゅうございます」
と、山県に一諾し、他のことは一切いわなかったが、西郷はこの瞬間、久光への裏切りをやってしまっていた。
0286日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 17:30:08.07
▽明治4年7月9日
木戸孝允の屋敷で、夕刻から夜12時まで「廃藩論の順序」が論じられた。大風雨。
長州:木戸孝允・井上馨
薩州:西郷隆盛・大久保利通・西郷従道・大山巌
山県有朋は遠慮して台所にいた。
0287日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 17:39:18.25
▽毛利敬親
慶応4年(1868年)5月に上洛し、明治天皇に拝謁して左近衛権中将に任ぜられると山口へと帰った。
明治2年1月、敬親は薩摩藩・土佐藩・肥前藩と連署して版籍奉還を奉請した。6月には権大納言の位を得て、養嗣子の毛利元徳と共に10万石を下賜されている。6月4日に家督を元徳に譲って隠居した。明治4年3月、山口藩庁内殿で死去。享年53。
http://shisly.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2012/08/17/img406.jpg
※敬親は金田龍之介以外考えられない
https://stat.ameba.jp/user_images/20150619/04/khirose1944/fd/29/j/o0320024013341398909.jpg
https://stat.ameba.jp/user_images/20150619/05/khirose1944/73/79/j/o0320024013341404271.jpg
https://stat.ameba.jp/user_images/20150619/05/khirose1944/56/f3/j/o0320024013341405933.jpg
0288日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 17:55:09.00
▽毛利元徳
天保10年(1839年)、徳山藩第8代藩主・毛利広鎮の十男として生まれる。
嘉永5年(1852年)、先代藩主の毛利慶親(敬親)に嗣子がないため、その養子となる。はじめは広封(ひろあつ)と名乗る。
安政元年(1857年)、養父・慶親の嫡子となる。また、将軍・徳川家定から偏諱を受けて「定広」と名乗った。
元治元年(1864年)、幕府により官位を剥奪された。また、「定」の字を召し上げられて、広封(ひろあつ)に戻す。明治維新後に元徳と改名する。
https://bakumatsu.org/img/00140_l.jpg
0289日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 17:59:54.69
慶応4年(1868年)2月上洛し、3月議定に就任する。明治2年(1869年)6月、養父敬親の隠居で跡を継ぎ、従三位・参議となる。就任後まもなく版籍奉還で知藩事となった。明治4年(1871年)、廃藩置県で免官されて東京へ移り、第15国立銀行頭取、公爵、貴族院議員となった。
明治29年(1896年)12月23日、死去。57歳没。
http://www.i-unic.com/contents/boucho/yamaguchi/images/yama_04.jpg
※「花燃ゆ」三浦貴大
https://d39t9tn4y25mgl.cloudfront.net/wp-content/uploads/2015/07/30_04_015_0717S.jpg
※その母 http://img.mp.itc.cn/upload/20170614/0f47498388db4bd49780d633ede8e033_th.jpg
0290日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 18:12:07.61
明治5年を起点にして、明治6年8月まで物語が進んでいましたが、幕末・維新の後向きの話ばかりしていました。
ここからやっと物語が前に進みます。
0291日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 18:15:06.02
《征韓論争》おさらい
明治6年(1873年)の対朝鮮問題をめぐる政府首脳の軋轢は、6月に外務少記・森山茂が釜山から帰国した後に始まる。
李朝政府が日本の国書を拒絶したうえ、使節を侮辱し、居留民の安全が脅かされているので、朝鮮から撤退するか、武力で修好条約を締結させるかの裁決が必要であると森山茂が報告し、それを外務少輔・上野景範が内閣に議案として提出した。
この議案は6月12日から七参議により審議された。
0292日本@名無史さん
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2018/01/27(土) 18:16:07.02
議案は当初、板垣が武力による修好条約締結(征韓論)を主張したのに対し、西郷は武力を不可として、自分が旧例の服装で全権大使になる(遣韓大使論)と主張して対立した。
しかし、数度に及ぶ説得で、方法・人選で反対していた板垣と外務卿の副島が8月初めに西郷案に同意した。
西郷派遣については、16日に三条実美の同意を得て、17日の閣議で決定された。しかし、三条が天皇に報告したとき、「岩倉具視の帰朝を待って、岩倉と熟議して奏上せよ」との勅旨があったので、発表は岩倉帰国まで待つことになった。
0294日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 09:06:30.30
第九章には鈴虫は一匹も出てこないのに、なんでサブタイが鈴虫なん?
0295日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 09:13:45.58
物語の時期が明治6年の残暑のころで、ちょうど鈴虫の鳴く時期だからだよ。
遣韓の件を三条実美が承諾したのが8月16日、岩倉右大臣の帰国が9月13日。この章は、その間の話。
鈴虫の成虫の羽化は7月下旬頃より始まり、9月いっぱいまで鳴き声が聴かれる。10月初旬にはほぼ全ての野生個体が死亡する。
https://www.youtube.com/watch?v=Stbh217TM8A
0296翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/01/28(日) 09:22:56.11
第9章 鈴虫

〔一〕村田経芳
前夜来の雨があがった。
それまで弟の従道の家に居候していた西郷は、この朝、朝食を済ませるとすぐ玄関へ出た。日本橋小網町の寓居にかえって、渡韓の支度をしなければならない。
0297日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 09:33:50.98
★渋谷金王町

▽駄賃
元来は荷物や人を駄馬に乗せて運ぶ際の運賃のことをいい、運賃をとって荷物を運ぶ馬のことを、「駄賃馬」といった。 馬に乗せて運ぶだけの仕事に対する賃金の意味から転じ、江戸時代ころから、簡単な仕事に対して支払う報酬を「駄賃」というようになった。
西郷は、女中や書生に物を頼むときは、必ず駄賃を遣った。
0298日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 09:44:10.29
▽柳橋
台東区柳橋に花街が存在した。1842年(天保13年)、水野忠邦による改革で深川などの岡場所から逃れてきた芸妓が移住し、花街が形成される。やがて、明治期には新橋と並び、「柳新二橋」と称された。
芸妓の技芸も優れ、新橋演舞場や明治座に出演し披露していた。代表的な料理屋は伊藤博文が利用した「亀清楼」であった。
http://www.hotel-yanagibasi.jp/en/images/yanagibasi_small.JPG
0299日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 09:45:18.29
昭和39年の東京オリンピック以後に衰退していき、特に隅田川の護岸改修(カミソリ堤防)で景色が遮断され、花街にとって致命傷となった。それでも、花街はその伝統を守り通し、平成11年1月、最後の料亭「いな垣」が廃業し200年近くの歴史に終止符を打った。
本章では、西郷が縁側に投げ出していた俸給を従道がちょろまかし柳橋で遊んだ挿話が述べられている。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200706/10/51/e0073751_08667.jpg
0300日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 11:30:05.02
▽三尺帯
男物の帯の一種。鯨尺で三尺の長さしかないためこの名がある。略して「三尺」ともいう。 江戸時代の庶民が浴衣などを簡便に着るために用いた帯。一説に三尺手ぬぐいを折って帯に用いたのが起源ともされる。
形状は角帯のそれに倣うが、木綿などのやわらかい生地を用いて、幅細に短く仕立てている点に特色がある。長さが三尺しかないために、通常の角帯のように手に折り返しをつくらず、一重に締め、駒結びなどで結ぶ。
https://pds.exblog.jp/pds/1/201405/06/75/d0062675_1414588.jpg
0302日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 12:52:17.72
▽小牧新次郎
鹿児島城下出身の書生。前スレ第3章「鍛冶橋」で紹介ずみ。
0303日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 12:57:39.97
▽陸軍省
明治5年2月に兵部省から分離し、海軍省とともに設置される。
明治6年6月から陸軍卿は山縣有朋中将。
0305日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 13:05:56.10
▽大礼服
明治時代から太平洋戦争の終戦まで使用されていた日本におけるエンパイア・スタイルの宮廷服(Court dress)。明治初頭に導入され、その後大日本帝国憲法発布に至る立憲君主制確立の過程で整備された、いわゆる「大日本帝国の服制」における最上級の正装である。
https://auctions.c.yimg.jp/images.auctions.yahoo.co.jp/image/dr000/auc0312/users/7/0/5/4/xinka0809-img750x1000-1512824783b3xxpf22383.jpg
0306日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/28(日) 13:20:25.47
▽板垣退助
天保8年(1837年)- 大正8年
土佐藩上士は公議政体論が主流であったが、乾退助はめずらしく武力倒幕を一貫して主張していた。慶応3年(1867年)5月には上洛し、京都の料亭「近安楼」で、福岡藤次・船越洋之助らと共に中岡慎太郎と会見し武力討幕を議した。
さらに5月21日、中岡の仲介によって、京都の小松帯刀邸で、土佐藩の谷干城・毛利恭助らと共に薩摩藩の西郷吉之助らと武力討幕を議し、退助は「戦となれば、藩論の如何に拘らず、必ず土佐藩兵を率いて薩摩藩に合流する」と決意を語り、薩土密約を結んだ。
https://pds.exblog.jp/pds/1/201512/17/92/a0287992_3171554.jpg
0307日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 13:25:03.04
戊辰戦争では、土佐勤王党の流れをくむ隊士を集めた迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府の参謀として従軍した。
慶応4年(1868年)2月14日が祖先・板垣信方の没後320年にあたるため、「甲斐源氏の流れを汲む旧武田家家臣の板垣氏の末裔であることを示して甲斐国民衆の支持を得よ」との岩倉具視等の助言を得て、板垣氏に姓を復した。
この策が功を奏して甲州勝沼の戦いで近藤勇の率いる甲陽鎮撫隊を撃破したばかりではなく、旧武田家臣が多く召抱えられていた八王子千人同心たちの心を懐柔させるのにも絶大な効果があった。
0308日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 13:27:29.56
東北戦争では、三春藩を無血開城させ、二本松藩・仙台藩・会津藩などを攻略するなどの軍功によって賞典禄1,000石を賜っている。明治元年(1868年)12月には藩陸軍総督となり、家老格に進んで家禄600石に加増される。
明治2年、木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に参与に就任する。明治3年に高知藩の大参事となり「人民平均の理」を発令する。明治4年に参議となる。
0309日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 13:39:14.22
▽藩閥政治
明治維新を担った薩長土肥出身の政治家が権力を独占した政治形態。廃藩置県のころから四藩閥が明治新政府の中枢および地方官などの要職を掌握したが、征韓論で分裂し、明治十四年の政変を経て、薩長二大藩閥の権力独占が完成した。
「薩の海軍、長の陸軍」といわれたように、土佐出身の板垣は陸海軍には入れてもらえず、参議に棚上げされた。
大正13年の護憲三派内閣以降は政党内閣の慣行が生まれ、藩閥政治は終焉した。
0310日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 13:51:30.37
▽北村長兵衛
別府晋介少佐とともに朝鮮偵察をした北村長兵衛中佐については、前スレ〔651-654〕で説明した。
弘化2年(1845年)生まれの土佐藩士。戊辰戦争では、板垣退助の配下の迅衝隊士〔>>307〕として甲州勝沼の戦いや奥羽各地の戦争に参戦し、会津戦争では大いに戦功をあげた。
明治4年、御親兵設置にあたって陸軍少佐、さらに翌明治5年には陸軍中佐に任官した。
0311日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/28(日) 13:54:03.75
《朝鮮偵察》まとめ
〔1〕チーム池上
池上四郎(外務省十等出仕)+武市熊吉大尉 …… 上海 →営口 →南満州
〔2〕チーム北村
北村長兵衛中佐+別府晋介少佐 …… 朝鮮
0312日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 14:31:17.51
▽戎衣
戦争に行くときの衣服。軍服。
「戎」は、古代中国で西方の異民族の称。えびす。その「戎」が着ていた服が、漢族の戦闘服になったのか、戦闘という仕事を蔑んで戦闘服を「戎衣」と呼んだのかは不明。
0313日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 14:35:33.71
▽うど
鹿児島弁で巨漢・大柄な人。
司馬さんは、ここでは西郷を「ウートンさァ」と別府晋介に呼ばせている。
0315日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 14:42:37.38
▽別府晋介
前スレ〔655-657〕で説明ずみ。
弘化4年(1847年)、鹿児島郡吉野村実方で生まれる。母方の従兄の桐野利秋とは実の兄弟以上に仲が良かった。
明治5年、征韓論に関連して西郷が満洲・朝鮮偵察を命じた際には、北村長兵衛・河村洋与とともに外務大丞・花房義質の随員という形で釜山に赴き、韓服を着て韓帽を戴き、変装して2ヶ月近く朝鮮内地を偵察した。
0317日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 14:49:31.53
明治4年に御親兵として上京し、陸軍歩兵大尉に任官する。明治8年、射撃技術と兵器研究のため、ヨーロッパに派遣される。
明治10年、陸軍少佐。陸軍戸山学校教官として銃の改良や射的技術の向上にあたり、明治13年には最初の国産銃・十三年式村田銃を開発した。
陸軍省東京砲兵工廠御用掛、貴族院議員を歴任した。
0318日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 14:52:35.29
▽児玉勇次郎
江戸生まれの西郷の書生。前スレ第3章「鍛冶橋」で紹介ずみであるが、そこでは書生ではなく「従者」になっていた。
0319日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 14:56:08.76
▽ラシャ服
ラシャについては、前スレ〔588〕で説明した。
「ラシャ」はポルトガル語の raxa。12世紀ころセルビアの首都ラサで産した毛織物であるため、この名称で呼ばれ、南蛮貿易により日本へ渡来した。漢字表記は「羅紗」。
冬服の温かい生地である。陸軍にも警視庁にも夏服がなかった。
0320日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 14:57:32.71
夏服はあってもよいと思うが、代議士・公務員のクールビズは即刻やめろ。
半袖ワイシャツにノーネクタイ。
見苦しいにも程がある。
0321日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 15:00:25.47
▽弊衣
破れてぼろぼろになった衣服。
身なりに気を使わず粗野でむさくるしいこと。特に旧制高校の学生が好んで身につけた蛮カラな服装。
本章では、村田勇右衛門の服装は、そのように評されている。
0322日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/28(日) 15:11:56.24
▽ケイスボ
鹿児島弁でひょうきん者という意味らしい。
フジテレビ系列で1981年5月から放送されていた「オレたちひょうきん族」は、KTS鹿児島テレビでは「オレたちケイスボ族」のタイトルで放送されていた。
なお、これ以降、鹿児島弁についての解説は、覚えても意味がないので割愛する。
0323日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/28(日) 15:19:56.66
▽大山綱良
前スレ〔390-391〕で説明した。中村楼事件は、県令に就任して上京してきた大山綱良の歓迎の宴の際に起きたことを、賢明な読者は思い出すであろう。思い出せない読者は、第4章「情念」をいま一度読んでみてくれたまえ。
0324日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 15:23:50.25
▽宛然
まさにそれ自身と思われるさま。そっくりであるさま。
0325日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 15:28:44.66
鹿児島県は、廃藩以後も宛然独立国のごとし(木戸孝允)
政令 →守りませーん
県令会議 →出席しませーん
0326日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/28(日) 15:36:22.65
▼地方官会議
明治7年の地方官会議の設置は、大阪会議で木戸孝允が構想し開設が決定した。明治8年以来3回、地方民情を知るために、県令および府知事を招集した。元老院に対する下院のつもりであるが、実質は官選の事務官会議であった。
明治23年に大日本帝国憲法が施行されると、地方長官会議に名称が変更され、内務大臣の招集によって、毎年東京で開催された。
https://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/event/1209katori/image/tihoukan.JPG
0327日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 15:43:00.97
大山格之助は、困惑していた。司馬遼太郎に「綱良は県令会議にも出て来」ないと言われてしまったのである。
「木戸公、地方官会議が最初に開催されたのは、はて何年でごわしたかな?」
「明治8年でござる。前年の大阪会議で拙者が提唱しました」
「で、ござるよな。明治6年に県令会議に来いと言われても……。はて、これは一蔵めが難癖をつけておりもんすので?」
0328日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/28(日) 15:53:24.87
「戦じゃ、戦じゃ。一蔵はありもしない県令会議もわしを呼びつけて、わしを殺そうとしておりもんで」
0329日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 15:54:03.78
結局、西南戦争の原因を作ったのは、司馬遼太郎であった。
0330日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 15:59:11.24
▽宮崎八郎
1851年(嘉永4年)- 1877年(明治10年)
熊本県出身の自由民権運動家。中江兆民の仏学塾に学び、「九州のルソー」と呼ばれた。西南戦争で西郷隆盛を支援し、26歳にして志半ばで戦死した。
この物語のもう少し先で大活躍する。詳細は、そこで。
http://www.kininaru-k.jp/bns/back_doc/09202002/images/htirou.jpg
0331日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 16:01:11.15
《島津久光の視点》
民権運動家……極左
国権主義者……左翼
「すべてを徳川時代にもどせ」
0332日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 16:06:52.18
▽小倉袴
小倉織(こくらおり)は、江戸時代の豊前小倉藩の特産物で、縦縞を特徴とした良質で丈夫な木綿布である。
極めて良質で純白の生綿から紡いだ「小糸」と呼ぶ綿糸を3本または4本捻り合わせたもので織ったため、江戸時代当時の破れやすかった布地に比べて、大変丈夫であった。
http://livedoor.blogimg.jp/sendai16/imgs/b/6/b6e01603.JPG
0333日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 16:13:35.23
村田経芳の剣術の師匠が大山綱良であったというのは本当の話。
大山格之助の剣技は村田仙次郎と相性が良かったのだろう。『名家談義』 (明治30年8月号) にはこうある。
「大山氏は鹿児島第一流の剣客にして、容易に人に教えざりしが、村田氏はかねて親友であるから、強いて懇請し、ようやく教えを受くることとなりしも」他見をはばかり夜半密かに行って伝授を受けたという。
0334日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 16:15:06.96
この大山とのつながりで、村田勇右衛門は久光派とみなされていた。
0335日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 19:44:11.33
▽荻野流
砲術の一派。江戸前期、荻野六兵衛安重(1613〜1690)が家伝の砲術を大砲に応用して創始したもの。
この門流は浜松藩、岡山藩のほか、膳所藩、盛岡藩、秋田藩など全国に広がりをみせ、信州高遠の坂本天山(荻野流増補新術、天山流の祖)や幕末に活躍した高島秋帆など著名な砲術家を出している。
本章によると、薩摩藩にも師範がいたらしい。
0336日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 19:49:19.11
幕末、薩摩藩は最新式の元込め銃を大量に買い込んだが、薩摩藩士・村田経芳は国産化を見据えて元込め銃を徹底的に研究していた。
それを知った大久保は久光に頼んで、費用を工面してもらい、村田式の元込め銃を完成させている。しかし、大山流、荻野流といった旧砲術の師範家たちは、それに反発。どちらの性能が上なのか、藩主父子の前で比較試射会を行うことになった。
0337日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 20:08:50.55
▽鳥羽伏見の戦い
桐野利秋は、戊辰戦争では城下一番小隊に属して伏見の戦いで御香宮に戦い、功をもって小隊の小頭見習いを務めた。つまり、小隊司令ですらなかった。
東征大総督府下参謀・西郷隆盛が東海道先鋒隊を率いて先発東上した際、城下一番小隊司令に抜擢されて駿府・小田原を占領した。
当時、村田経芳は、野津鎮雄や市来勘兵衛とともに小隊司令であった。
0338日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 20:12:24.26
▽野津鎮雄
前スレ〔283〕で説明した。
慶応4年(1868年)、戊辰戦争では五番隊長となり鳥羽・伏見の戦い、奥羽・箱館に転戦した。明治2年(1869年)1月、藩兵四番大隊長を任ぜられる。続いて明治4年(1871年)3月、上京し御親兵大隊長となり、7月より陸軍に奉職した。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/3d/30612b3a77702e225739f045d1d5d666.png
0339日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 20:18:13.73
▽市来勘兵衛
天保10年(1839)生まれ。薩摩藩士。元治元年(1864)の蛤御門の変で斥候長として活躍した。
鳥羽・伏見の戦いに従軍し、慶応4年1月5日戦死。30歳。名は政武。
西郷の妹・琴が嫁いだ市来家ではないので注意。
0340日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 20:27:12.75
▽市助
前スレ第3章「鍛冶橋」に登場したのは、「市」ではなく「市助」であった〔267〕。
薩摩谷山出身。他に同じ谷山出身の矢太郎と、伊集院出身の与助がいる。
市助は、村田経芳来訪の際、桐野から茶うけとしてコガレを持ってくるように命じられた。
0342日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 20:55:27.20
桐野と村田の共通の話題といえば、鳥羽伏見の戦い。しばらく、その話題が続きます。
なお、桐野は市来勘兵衛〔>>339〕の小隊にいた。市来が戦死した後に、小隊の実質的な隊長として第一線の指揮を執った。
0343日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 21:02:38.76
▽相国寺
鳥羽伏見の戦いで、西郷は相国寺を本営にしていたと書かれている。薩摩藩の二本松屋敷は、相国寺の土地を借りて作られたもので、関係は深かった。
相国寺は野戦病院になっていて、ウィリアム・ウィリスはここで薩摩兵の治療にあたった。その負傷者の中に西郷従道もいた。
なお、相国寺には鳥羽・伏見の戦いで犠牲となった薩摩藩士たちが慰霊されている。
http://www.ryomaspot.com/wp-content/uploads/2015/09/20150906_630.jpg
0345日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 21:19:40.10
▽桑名兵
久松松平家。陸奥白河藩から入った松平定永が初代藩主。定永は寛政の改革を行った老中首座・松平定信(白河藩主)の嫡男である。
安政6年(1859年)、美濃高須藩から松平定敬〈さだあき〉が初姫の婿養子として第4代藩主に就任した。元治元年(1864年)に京都所司代に任命され、京都守護職の実兄松平容保(会津藩主)とともに京都の治安維持にあたる。
※宛然高田純次たる晩年の松平定敬
https://iwiz-chie.c.yimg.jp/im_siggUFvUQB8Flv1K6LHXDJkkRA---x320-y320-exp5m-n1/d/iwiz-chie/que-11175146926
0346日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 21:25:12.50
▽依台場
司馬さんは俵台場とされているが、依台場というらしい。もっとも材料は米俵に土を詰めたものである。
敵を足止めするための防御物で、多くが胸までの高さを持つ急造の銃座だ。下鳥羽にあったそれは、近隣の百姓家から持ち出した俵に土を詰めたもので、通称を依台場と称した。銃手が俵の隙間から入れ代り立ち代り出ては射撃を繰り返す。ここで初めて薩摩兵は劣勢となった。
0347日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 21:27:19.88
「この先に桑名藩の手固い台場がこわす。そン台場こそ、市来どんな敵の陣所ごわんど」
「何な?」
村田勇右衛門は額に筋を立てた。
「伝令どん、よう教えてくいやった。ここは市来どんの仇を討たねばならんの。ようし、小隊我に続け」
勇右衛門の命令で、兵たちは街道の脇道に入った。自ら尿候に立って台場に近付くと、なるほど堅固な造りになっている。
「依台場じゃな」
道の中央に大抗を隙間なく打ち、米俵に土を詰めて身の丈ほども積み上げた、手固い陣地である。
0349日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 21:47:33.78
▽W・リチャード銃
桐野が大久保からもらったという英国製の後装銃。筆者は知らない。
戊辰戦争で新政府軍の主力小銃であったのは、1866年のスナイドル銃である。スナイドル銃は、前装雷管式のミニエー銃(ライフル)であるエンフィールド銃を安価に後装式に改造した銃である。
W・リチャード銃が存在するとすれば、スナイドル銃をさらに改良した銃ということになる。
0352日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 22:23:33.74
▽小銃的射会
明治5年10月15日と16日の2日間、横浜の本牧において、外国人貿易商が小銃的射会を開催した。
これに村田経芳が自らこしらえた小銃を肩にかつぎ飛び入りで参加し、並み居る200名の外人選手をあっさりと斥けて第一等の命中を得た。
0353日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 22:35:16.70
▽大山巌
明治3年、欧州に派遣され砲術を研究。普仏戦争で勝利したプロシア軍に従ってパリ入城。帰国後、陸軍大佐兼兵部権大丞、同年に少将、陸軍少輔兼第1局長となる。
明治4年から明治7年まで再び渡欧する。パリ、ジュネーヴに住んでフランス語と砲術を学ぶ。
明治7年、フランスから急遽呼戻され、征韓論に破れた西郷の説得をまかされたが失敗する。
0354日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 22:38:22.07
▽東郷平八郎
明治4年から同11年まで、イギリスのポーツマスに官費留学する。東郷は当初鉄道技師になることを希望していた。
イギリスに官費留学する際、最初は大久保利通に「留学をさせてください」と頼み込んだが色よい返事はもらえなかった。後で東郷は大久保が自分に対して「平八郎はおしゃべりだから駄目だ」とする感想を他者に漏らしたことを伝え聞いて、自省してその後は寡黙に努めた。
大久保の次に西郷隆盛に頼み込んだところ、「任せなさい」と快諾、ほどなく東郷のイギリス留学が決定したという風説がある。しかし、小笠原長生が東郷から直接聞いた思い出話には西郷や大久保の名前はなく、選抜の成否がわからなかったので易者に占ってもらったと述べている。
0355翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/01/28(日) 22:50:11.39
第9章 鈴虫

〔二〕篠原国幹
「西郷は惜しくないが、篠原は惜しい」と、のち西南戦争がおこったとき、長州系の軍人であったか、誰かがそういって篠原を惜しんだという。というよりもその前に、
――篠原ばかりは西郷に加担すまい。
と思われていた。篠原の冷静さはそういうぐあいの評価を受けていた。
西郷は桐野の天稟やいかにも薩摩隼人らしい気性を愛した。しかし実際に秘事をうちあけて相談するのはつねに篠原であった。
西郷は同郷の後輩では篠原一人を自分と同じはらわたを持った人物とみていたし、さらには篠原が「それはちょっと」と、西郷の意見に首をかしげるときは西郷はもう一度考え直すという相談相手であった。
0356日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 22:52:00.18
と、最大限の評価を受けている篠原国幹でありますが、西南戦争がはじまると、司馬さんの評価は次第に篠原に厳しくなってゆきます。
0357日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 22:55:56.48
★日本橋小網町

村田経芳がほとんど望みを失いかけたとき篠原冬一郎が入ってきた。桐野と同じ陸軍少将である。
(アア、今日は、よか日じゃった)
と、村田経芳は篠原を仰ぎ、救われたような思いがした。
0358日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 23:24:13.85
この章では、西郷が桐野や篠原という国士を高く評価し、村田のような技術者を低く評価していた点を捉えて、司馬さんは、西郷は近代国家の認識が浅かったと述べられている。
0359日本@名無史さん
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2018/01/28(日) 23:50:42.16
西郷:中国的教養ー政治と軍事は不可分→文官が皇帝から節刀を頂戴して攘夷
木戸:西欧近代思想ー政治と軍事は分離ー軍事は政治に隷属→文官優位の思想
0360coffee break
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2018/01/29(月) 00:45:59.22
David Gatesは何を考えて"Chingo"という曲を作ったのだろうか。
0361日本@名無史さん
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2018/01/29(月) 00:51:05.00
>>356
この章で篠原を良く書きすぎたんだよ。きっと後で後悔していると思う。
0362日本@名無史さん
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2018/01/29(月) 17:26:10.37
>>295
このあと歌人の高崎正風が登場する。正風の和歌のなかに鈴虫を詠ったものがあるのかと探してみたが無かった。
物語の季節を表しただけのサブタイだね。
0363日本@名無史さん
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2018/01/29(月) 17:35:17.52
▽篠原国幹
天保7年(1837年)- 明治10年
鹿児島城下加治屋町で篠原善兵衛の子として生まれる。諱は国幹、通称は冬一郎という。
文久2年(1862年)、有馬新七らと挙兵討幕を企てたが、島津久光の鎮圧にあって失敗した(寺田屋騒動)。薩英戦争に出陣。戊辰戦争のとき、薩摩藩の城下三番小隊の隊長となって鳥羽・伏見の戦いに参戦し、その後、東征軍に従って江戸に上った。
上野の彰義隊を攻めたときは、正面の黒門口攻めを担当し、その陣頭に立っての指揮ぶりの勇猛さで世に知られた。この後、奥羽へ転戦した。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/8/86/Kunimoto_Shinohara.jpg
0364日本@名無史さん
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2018/01/29(月) 17:38:42.85
明治2年に鹿児島常備隊がつくられたとき、第二大隊の隊長となった。
明治4年、西郷隆盛が御親兵(5,000名)を率いて上京した際には、その一部を率いて従った。篠原はこのときに陸軍大佐に任じられた。後に陸軍少将に昇進し、近衛局出仕を兼ね、従五位に叙せられた。
近衛長官のとき、軍事演習を御覧になった明治天皇がその指揮ぶりに感心し、「篠原に見習うように」と、その演習地を「習志野」と名付けたという説もあるが、裏付ける確たる史料はない。
0365日本@名無史さん
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2018/01/29(月) 17:41:35.64
▽知己
自分のことをよく理解してくれている人。親友。知り合い。知人。
ここでは村田は篠原を「自分のことをよく理解してくれている人」という意味で知己と言っている。
0366日本@名無史さん
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2018/01/29(月) 17:46:49.55
「おはんを欧州へ遣わすかどうかは、ロシアン・ルーレットで決めもんそ」
西郷は、斉彬の藩主襲封の際の伝統にしたがうことにした。
0368翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/01/29(月) 18:00:55.54
第9章 鈴虫

〔三〕高崎正風
「では国家を破らんとする者に対して、貴君は相手がいかなる者であれ、その麾下の警察を率いて闘うか」
と高崎が問うたとき、川路は「闘う」と言った。
「なぜならば警察はナポレオンの私物ではなく、文明の公器であるからだ」
と言ったとき、川路にすればもし将来西郷が反乱をおこすことがあっても、自分も警察も断乎として彼に同調しないと宣言してみせたようなものであり、事実、このときの心境としてはナポレオンを暗に西郷に擬したつもりであった。
同時に高崎の来訪の目的もそれで達せられた。
0369日本@名無史さん
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2018/01/29(月) 20:05:06.58
欧米の文明に戦慄し、日本をその文明に飛躍せしめようとする外遊経験者
   vs
狐がついたような外遊経験者に反発し、攘夷気分を増幅させるドメスティック薩摩
0370日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/29(月) 20:19:12.96
▽高山彦九郎
前スレ〔293〕で述べた。
彦九郎が肥後から藩境を越えて薩摩に入ろうとして関所役人に拒絶されたのは、寛政年間のことである。
0372日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 03:51:52.56
桐野や別府が、村田経芳は久光の間者ではなかろうかと疑っていただろう。
その文脈で高崎正風が登場した。
つまり本当の久光の間者は、高崎正風ってことだ。
0373日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 03:54:01.21
間者の探る対象が、前者は征韓派、後者は反征韓派なので、違和感がある。
0374日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 04:01:08.94
▽コルシカ島
地中海西部、イタリア半島の西に位置するフランス領の島である。面積は広島県と同程度で、地中海ではシチリア島、サルデーニャ島、キプロス島に次いで4番目に大きく、人口は約30.2万人である。
フランス皇帝ナポレオン1世の出身地として知られる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/3/3c/Corsica_Island.png
http://jp.france.fr/sites/default/files/imagecache/atf_slider_contentv2/corse1.jpg
0375日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 04:07:37.50
▽プロヴァンス
ローマ帝国終焉後、プロヴァンスは536年にフランク王国に含まれ、947年にはブルグント王国内のプロヴァンス侯領となった。その後、紆余曲折を経て、1481年、プロヴァンス伯領はフランス王ルイ11世が相続した。プロヴァンスはフランスの州となった。
http://france-tourisme.net/map/map-france01_M.jpg
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/a/a1/County_of_Provence.png
0376日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 04:14:31.42
▽高崎正風〔>>205-208
>>53の問題意識は、司馬さんにも共有されていた。本章では、それについて書かれている。
しかしながら、高崎正風は明治5年に左院視察団の一員に任じられ、2年近く欧米諸国を視察しているので、この時期は日本にいない。
0377日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 04:19:57.51
▽高崎五郎右衛門〔>>44
嘉永2年(1849年)に斉彬の四男・篤之助が2歳で夭逝すると、斉彬・久光両派の対立は正に一触即発の状態となり、特に血気盛んな若手の多い斉彬派による久光派重臣襲撃の噂が絶えなかった。
その機先を制するかの様に同年12月3日、斉彬派の重鎮で町奉行兼物頭・近藤隆左衛門、同役・山田清安、船奉行・高崎五郎右衛門が久光、お由羅及びその取り巻きの重臣らの暗殺を謀議したとの咎で捕縛され、間もなく切腹を言い渡された。
0378日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 04:22:51.44
お由羅騒動の別名は高崎崩れ。あたかも正風の父・五郎右衛門が中心人物のように印象づけられているので、正風が久光派に色分けされるのは、読者にとって意外な感じがあるんだよな。
0379日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 04:26:14.10
>>376
>高崎正風は明治5年に左院視察団の一員に任じられ、2年近く欧米諸国を視察しているので、この時期は日本にいない。

司馬遼太郎は、史実軽視の創作が多い作家であることに、皆さんそろそろ気づきましょう。
0380日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 04:29:15.83
お由羅派の藩政府が、五郎右衛門が切腹した翌年、五郎右衛門の土葬地に鍬を入れて死骸を暴き出し、あらためて磔刑にしたというのは、史実ですか、それとも創作ですか?
0381日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 04:38:18.49
>>205
「翔ぶが如く」の方が、高崎家に科した刑罰については詳しいね。引用しておく。
家禄没収・屋敷没収・士籍剥奪・左太郎(15歳)は奄美大島へ流罪。
島津斉彬が第11代薩摩藩主になった翌年の嘉永5年(1852年)、左太郎は大赦によって鹿児島に帰される。
0382日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 04:40:51.60
お由羅派から過酷な刑を受けた反面、斉彬の恩赦によって人がましい生活ができるようになったのに、その当人が久光派であるとは何事ぞ、という気分にはなるな。
0383日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 04:50:39.77
それは、物語にどっぷり浸っているときの日本人の精神が、そうであるというにすぎない。
忠臣蔵を読んでいるときに、脱落してゆく赤穂の浪人が、つまらない人物に思えてしまうのが典型例だ。
現実世界では、親の仇であっても毎月100万円の給料をくれるなら、仇のために一所懸命はたらくはずだよ。
フィクションの世界と、現実世界では、掌を返したように精神を入れ替えるのが日本人。
0384日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 04:53:27.28
物語を通して高崎正風という人物に遭遇したがために、正風がおかしな人物に見えてしまう。
高崎正風は実在した人物であって、あんたらと同じ日本人だから、あんたらと同じことをしているだけだよ。
何の不思議もない。
0385日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 04:56:31.42
>>380
>死骸を暴き出し、あらためて磔刑にした

ここまでして両派が憎しみ合うというのは、現代人の我々には理解できないところだな。
0386日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 05:39:20.29
憎しみというよりは、反対派への見せしめの意義が大きいんじゃないかな。
0387日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 09:17:58.22
>>379
物語の現在が、明治6年8月〜9月だから、明治5年1月に渡欧して明治6年7月に帰国していれば、高崎は日本にいるんじゃないかな。1年7か月でも「2年近く」といってよいのではないかな?
0388日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 09:20:14.56
明治5年1月に渡欧したというのがそもそも仮定にすぎないし、7か月は1年よりも半年に近い。
高崎は日本にいない。
0389日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 09:49:52.22
死んでいるはずの山内容堂が登場するんだから、外国にいるはずの高崎が東京にいても驚いてはいけない。
0390日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 10:01:12.99
★下谷竜泉寺町

▽川路の自宅〔>>11
過労が積もるせいか、週に一度はかならず軽い熱が出る。そんな日は彼は役所へ出ず、縁側で終日寝そべった。写生をした。
0391日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 10:11:08.94
高崎正風の現在の身分は、税法課出仕であると司馬さんは書かれている。
なお、高崎正風は明治6年9月7日に帰国して東京にいるよ。
司馬遼太郎の史料踏査能力を侮ってはいけないよ。
0392日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 10:16:03.07
ウソつきなので>>376>>379>>388および>>389の四名に遠島を申し付ける。

明治五年任申正月十九日 為理事官欧米各国ヘ被差遺族旨被仰付置候処被免候事 左院 各国視察被仰付候事
十月八日 職制更定 廃官
十月八日 任三等議官
明治六年九月七日 帰朝
0393日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 10:17:53.50
>>391
しかし、高崎左太郎の税法課出仕は明治6年10月3日からだから、これは少し先走っているな。

十月三日 税法課被仰付仰事 事務総裁
0395日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 10:25:12.39
山内容堂の死亡日は間違っていないんだろうな。
なんちゃらペディアで調べたから不安になってきた。
0396日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 10:28:30.58
「高崎は明治五年から一年間欧米各国を巡視してこのほど帰ってきたのである」と『翔ぶが如く』にちゃんと書いてあるだろう。
0398日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 10:36:44.94
容堂公の命日は明治5年6月21日で間違いない。
『翔ぶが如く』で木戸孝允の帰国後(明治6年)、深川の「平清」に木戸を招待して酒を酌み交わしたのは、容堂公の幽霊。
前スレ〔708-709〕参照。
0400日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 11:10:22.66
▽明治5年1月26日
積雪が横浜の町を白くしている日に、高崎左太郎はフランス汽船に乗船し、欧州へむかった。
シンガポールで乗客が増えると、高崎らは一等船室から二等船室に移された。
そういう時期に、高崎は浴衣で上甲板にのぼり、浴衣のすそをあげ手足の運動をした。
その背後に英国人の乗客が近づき、高崎の肛門に勃起したペニスを挿入しようとした。
高崎は激怒して、生麦事件の再現をしようとしたが、手許に刀がなかったために、拳でその英国人を殴り倒した。
0401日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 11:15:11.32
▽八月十八日の政変
文久3年8月18日(1863年)、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿を京都から追放した事件である。
天誅組の変:政変の前日、土佐浪士の吉村虎太郎らは大和行幸の先鋒となるべく大和国五條で挙兵するも、政変による情勢の一変を受け、9月末に壊滅した。
0402日本@名無史さん
垢版 |
2018/01/30(火) 11:16:39.45
生野の変:また、10月には平野国臣や河上弥一らが七卿落ちの公家の一人澤宣嘉を擁して但馬国生野で挙兵したが、諸藩に包囲され澤らは逃亡、河上らは集めた農兵に逆に殺害されるなど無残な敗北に至った。
10月、島津久光が大兵を率いて入京、松平慶永・山内豊信ら公武合体派大名がこれに続き、翌文久4年1月にかけて久光・慶永・豊信・松平容保・一橋慶喜・伊達宗城による参預会議が成立した。このころ朝廷内においては鷹司輔煕が関白を罷免され、親幕的な二条斉敬がこれに代わった。
0404日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 11:22:43.74
▽ラテン民族
ロマンス民族ともいう。印欧語族ロマンス語派の言語を母語とする民族の総称。ヨーロッパにおいてはイタリア人、フランス人、スペイン人、ポルトガル人、ルーマニア人などが含まれる。また中南米においてスペイン語、ポルトガル語を母語とする民族を含む。
0405日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 12:21:53.13
>>392
文中に日付がしきりに出てくるときは、日記・公文書等の史料が基礎にあるからな。
こいつら四名は甘いよ。
0406日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 12:37:07.32
>>387
「2年近く」はなんちゃらペディアが勝手に言っていること。裏を取るまでなんちゃらペディアは信用してはならん。
検索するといつもトップにあるから、つい見てしまうのだろうが。
0407日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 12:47:57.57
>>383
物語のなかの悲惨な境遇の人物には、たっぷりな同情を注ぐのにな。
現実世界の悲惨な境遇の人物に対しては、なるべく俺の目の届かないところにいてくれと思っている。
0408日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 13:53:41.90
日本史より謎な金儲けできる方法とか
グーグルで検索⇒『羽山のサユレイザ』

IY391
0409翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/01/30(火) 15:05:04.94
第10章 風雨

〔一〕大久保利通
大久保は、なお遊歴の旅にある。
――いま東京へ帰れば、西郷とその徒党の火焔のなかに飛び込むようなものだ。
という気持ちがあった。
この日本史上稀代ともいうべき政治的天才は、政治現象というものは時間という触媒によって化学変化をおこすものだということをよく知っていた。
(待つことだ)
と、みずからに言いきかせている。
0410日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 15:09:08.12
大久保の旅行は、明治6年8月16日から9月21日まで。
箱根、富士登山、近江、大和、紀伊、有馬など。
0411日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 15:16:00.97
★堺県

▽堺県
和泉国の旧幕府領・旗本領を管轄するために設置された県。明治元年6月22日に大阪府から堺役所を分割して堺県が発足した。
のちに和泉国、河内国、大和国のそれぞれ全域を管轄した。しかし、明治14年に堺県は大阪府へ編入されて廃止となった。
第2代知事には税所篤が就任し、明治4年に堺県令となった。
http://www.maru21.com/gifani/sakaisi/sakaiken.gif
0412日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 15:21:16.24
▽税所篤
文政10年(1827年)- 明治43年(1910)
薩摩藩士・税所篤倫の次男として生まれる。精忠組の創設メンバーとして、西郷隆盛や大久保利通らと行動を共にする。幕府が長崎海軍伝習所をつくると、斉彬は薩摩藩から十数名の藩士を選抜して派遣しているが、税所もその内の一人に選ばれている。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/3/32/Saisho_Atsushi.jpg/200px-Saisho_Atsushi.jpg
0413日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 15:25:23.21
安政5年(1858年)11月、西郷隆盛が僧月照と共に鹿児島湾に入水した際、蘇生した西郷が意識を取り戻すまで、枕頭にて看病を行う。蛤御門の変では3発の銃弾を浴びる重傷を負いながらも、長州藩の国司信濃の部隊を退却させるなど武功をあげた。
第一次長州征伐、鳥羽伏見の戦いにおいても、西郷の片腕として活躍している。
0416日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 15:36:07.23
▽士族授産
明治新政府が旧武士層の生活救済のために行なった施策。
明治4年の廃藩置県以後、新政府では士族の俸禄を永続的に支給できないため、明治9年に秩禄処分が行われたが、政府はその経済的没落を黙視することができず、農業あるいは商業の道につかせようと種々の保護を与えた。
明治6年の官林荒蕪地払下規則をはじめ、屯田兵の奨励、起業公債発行条例などがその例である。
0417日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 15:39:49.16
高師の浜は、官林荒蕪地払下規則によって士族に払い下げられたのだろう。
士族たちは松を薪にして売って糊口をしのいだ。
「明治維新というのは、千年の名勝を荒らすだけのことなのか」
と、大久保を暗然たる気分にさせた。
0419日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 15:51:52.68
▽桂園派
江戸時代後期から明治にかけての和歌の一流派。香川景樹とその門流をいう。「調べの説」を主張し、古今風の歌風を尊重した。
明治になって、八田知紀が後進の高崎正風〔>>376〕とともに御歌所に用いられたことから、一時は歌壇の主流となった。
>>418の大久保の和歌も、桂園派らしい典雅な調べである。
0420日本@名無史さん
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2018/01/30(火) 16:28:36.77
▽税所本然
税所篤の父・税所篤倫の号。大久保利通の父・大久保次右衛門利世(号は子老)は、禅を通じて税所本然と親友であった。
税所本然は国学に熱中し、鹿児島城下で国学先生とあだ名されていた。その影響は、大久保父子、息子の税所篤にも及んでいる。
0421日本@名無史さん
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2018/02/01(木) 14:20:01.11
▽陸軍特別大演習
第一回の陸軍大演習は、清国との戦争を想定したもので、明治25年に宇都宮を中心とした地域で実施された。
第二回目の大演習は、明治31年に大阪地方で行われた。三回目は明治34年、仙台地方で実施された。それ以降は、日露両国間の軍事的緊張を背景に、毎年実施されるようになった。大正から昭和11年までは一年も欠かすことなく実施された。
0422日本@名無史さん
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2018/02/01(木) 14:26:03.53
▽八田知紀
寛政11年(1799)- 明治6年
幕末・維新の鹿児島藩士・歌人。幼名は彦太郎、通称は喜左衛門、号は桃岡 (とうこう)。
島津貞姫入輿に従って近衛家に仕え、京都詰めの間に香川景樹にまなび、桂園派の有力者となる〔>>419〕。維新後、宮内省にはいり、歌道御用掛をつとめた。明治6年9月2日死去。75歳。
http://www.library.pref.kagoshima.jp/honkan/wp-content/themes/honkan/img/shiryo/059/3.jpg
0423日本@名無史さん
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2018/02/01(木) 14:38:41.67
★大久保邸

▽島津久光
明治6年3月、勅使・勝安芳および西四辻公業が鹿児島に下向し、その要請に応じて上京する。4月23日東京着。
明治7年2月、佐賀の乱の勃発を受けて、明治六年政変により下野した西郷を慰撫するため、鹿児島に帰郷する(2月14日東京発、20日鹿児島着)。4月、勅使・万里小路博房および山岡鉄太郎(鉄舟)が鹿児島に派遣され、その命に従って帰京する(4月15日鹿児島発、21日東京着)。
同月27日に左大臣となり、5月23日には旧習復帰の建白を行うが、政府の意思決定からは実質的に排除される。
0424日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 11:37:28.86
久光は大名行列そのままの行装で東京の街路を練り歩いた。
守旧派も、ここまでやるとみっともない。
0425翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/02/04(日) 11:52:54.94
第10章 風雨

〔二〕伊藤博文
情報収集者である川路利良は、この時期、重大な人物を見おとしていた。
その人物が、いま激化しつつある征韓派と非征韓派の対立のなかにあって後者を支持し、芝居でいえば奈落で舞台をまわす陰の力業をしようとは。
「これがために西郷を没落せしめるのもやむをえない」
と、その人物は大隈重信とひそかに語らって策を練り、岩倉・木戸・大久保といった要人のあいだを奔走して彼らの力を一つにさせて征韓派に対抗しようとしていたのである。
長州人伊藤博文であった。
0426日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 12:07:38.36
▽伊藤博文
天保12年(1841年)- 明治42年。
幼名は利助、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔とし、さらに春輔と改名した。
周防国熊毛郡束荷村字野尻(現・山口県光市束荷字野尻)の百姓・林十蔵の長男として生まれる。弘化5年(1846年)に破産した父が萩へ単身赴任したため母と共に母の実家へ預けられたが、嘉永2年(1849年)に父に呼び出され萩に移住した。
0427日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 16:46:09.46
▽来原良蔵
文政12年(1829年)- 文久2年(1862年)
長門国阿武郡で、福原光茂の子として生まれる。天保12年(1841年)に藩校である明倫館に入った。翌年末に母方の伯父である大組・来原良左衛門盛郷の養子となった。
安政3年(1856年)10月には、桂小五郎の妹ハルを妻とした。つまり来原は木戸の義弟にあたる。この関係で、木戸は伊藤を来原の手付にした。
0428日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 16:47:44.06
安政5年(1858年)12月には長崎海軍伝習に加わり、翌年6月に戻った。
安政6年(1859年)9月、明倫館助教兼兵学科総督に就任する。山田亦介らと旧態依然とした長州藩の軍制改革を行い、軍制規則制定、教練の実行等、長州藩兵の近代化と強化に非常に大きな功績を挙げる。
0429日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 16:49:40.72
母方の従兄弟で「航海遠略策」を唱える開国派の重臣長井雅楽時庸を除くため久坂玄瑞らと奔走した。この長井雅楽暗殺未遂事件の際に責任を取って自害をしたいと申し出たが、それを拒否されている。
死地を求めた良蔵は文久2年(1862年)8月に江戸へ上り、横浜の外国公使館襲撃を企てるも失敗、毛利定弘に諌められ、長州藩江戸藩邸にて自害した。
0430日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 16:57:30.54
▽手付
手付御雇は、武家の従者。
「翔ぶが如く」では、伊藤俊輔は来原良蔵の手付とされているが、他の司馬作品では桂小五郎の「育み」とされていることもある。
面倒なので、調べない。
0431日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 17:00:24.13
▼育み
育み (はぐくみ) は、家柄などに関係なく、他家の優秀な子などを自分の養子にすることで、立身出世への道を拓く長州藩独特の制度。
幕末には時局対応の目的から、優秀な人材登用策としても用いられた。 足軽中間の身分だった伊藤利助が、 大組士・米原良蔵の「育み」となり、歴史の表舞台で活躍した例が有名である。
0432日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 17:03:38.58
長州藩が接待に使う豆腐代の多額なことに驚いていた利助が……、と木戸さんのいつもの愚痴が続きます。
0434日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 17:11:43.85
「竜馬がゆく」の溌溂とした木戸さんは、どこへ行っちゃったんでしょうね?
0435日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 20:20:48.81
▽工部大輔
明治3年閏10月、太政官は工部省の設置を決定したが、その部局組織化には10ヶ月を要した。明治4年8月になり、鉄道、造船、鉱山、製鉄、電信、灯台、製作、工学、勧工、土木の10寮と測量の1司が配置され、造家、工学、測量を除くと、他は民部省からの移管であった。
この設立には伊藤博文が尽力し、彼が実質的初代工部卿を勤めた。明治6年当時、工部卿は空席で、伊藤博文は工部大輔。
0436日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 20:21:30.38
▽工部卿
(当初空席)
伊藤博文(1873年 - 1878年)
井上馨(1878年 - 1879年)
山田顕義(1879年 - 1880年)
山尾庸三(1880年 - 1881年)
佐々木高行(1881年 - 1885年)
0437日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 20:22:23.42
▽工部大輔
後藤象二郎(1871年)
伊藤博文(1871年 - 1873年)←今ここ
山尾庸三(1872年 - 1880年)
吉井友実(1880年 - 1882年)
井上勝(1882年 - 1886年)
0438日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 20:31:56.29
▽牧野伸顕
文久元年 - 昭和24年
鹿児島城下加治屋町猫之薬師小路に薩摩藩士・大久保利通と妻・満寿子の次男として生れた。幼名は伸熊。生後間もなく利通の義理の従兄弟にあたる牧野吉之丞の養子となる。
明治4年、11歳にして父や兄とともに岩倉遣欧使節団に加わって渡米し、フィラデルフィアの中学を経て、明治7年に帰国し開成学校に入学する。
https://pds.exblog.jp/pds/1/201303/16/92/a0287992_1445516.jpg
0439日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 20:34:48.44
吉田茂は女婿、ェ仁親王妃信子と麻生太郎は曾孫にあたる。
昭和11年、二・二六事件の折には親英米派の代表として湯河原の伊藤屋旅館別荘「光風荘」に宿泊していたところを襲撃されるが、孫である麻生和子(吉田茂の娘)の機転によって窮地を脱した。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/66/Nobuaki_Makino_in_later_years.jpg/200px-Nobuaki_Makino_in_later_years.jpg
0440日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 20:49:49.31
ちなみに、>>439の麻生和子は、麻生太郎のおふくろさん。
もう少し詳しく書いておくか。
牧野伸顕の妻は、三島通庸〔>>158>>240>>242〕の娘・峰子。その長女が牧野雪子で、この人が吉田茂夫人。
吉田茂と雪子の娘が和子で、この人が麻生太賀吉夫人。麻生太賀吉と和子の子が元総理大臣麻生太郎。
0441日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 20:51:49.35
      、z=ニ三三ニヽ、
     ,,{{彡ニ三ニ三ニミヽ
     }仆ソ'`´''ーー'''""`ヾミi
     lミ{   ニ == 二   lミ|    
.     {ミ| , =、、 ,.=-、 ljハ
     {t! ィ・=  r・=,  !3l      
      `!、 , イ_ _ヘ    l‐'
       Y { r=、__ ` j ハ─     わかったか?
  r‐、 /)へ、`ニニ´ .イ /ヽ
  } i/ //) `ー‐´‐rく  |ヽ       
  l / / /〉、_\_ト、」ヽ!
  /|   ' /)   | \ | \
0442日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 21:04:12.19
牧野伸顕が岩倉遣欧使節団とともに渡米したときは10歳で、このとき横浜港で伊藤博文を見た印象が、
――なんと貧相な人物か。
でありました。
0443日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 21:06:01.59
伊藤の帰国は、明治6年9月13日。
伊藤は即座に征韓論つぶしの活動を始めた。
0445日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 21:38:59.44
★築地

▽築地本願寺
江戸の本願寺は、1617年に西本願寺の別院として浅草御門南の横山町に建立されていた。「浜町御坊」と呼ばれていた。
しかし明暦の大火(振袖火事)により本堂を焼失。その後、江戸幕府による区画整理のため旧地への再建が許されず、その代替地として八丁堀沖の海上が下付された。
そこで佃島の門徒が中心となり、本堂再建のために海を埋め立てて土地を築き、1679年に再建された。「築地御坊」と呼ばれる。なお、この埋め立て工事が地名「築地」の由来である。
0446日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 21:43:48.31
>>445の築地御坊が、この物語に登場する築地本願寺である。
http://www.ndl.go.jp/landmarks/details/images/d2_1304390_SIP.jpg
この本願寺は、関東大震災では地震による倒壊は免れた。しかし、すぐ後に起こった火災により再び伽藍を焼失する。
現在の本堂は昭和9年の竣工である。あまりにグロテスクな建物なので、画像は貼りたくない。
0448日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 22:38:00.97
▽戸川安宅〈やすいえ〉
安政2年(1855年)、江戸の旗本早島戸川家第12代・戸川安行の子として牛込原町に生まれた。慶応元年(1865年)2月の長州征伐は、病気がちであった兄安道の名代で出陣した。
慶応4年(1868年)、5月、彰義隊に参加。同年6月、一族と共に領地の備中国早島(現在の岡山県早島町)に移り住んだ。8月、兄の養子となり家督相続。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/ac/b4d96bdd9c281aad9b6cf8d8b6dca03e.jpg
0449日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 22:46:51.39
安宅が家督を相続したのは、領地の早島に移住した後なので、正確には父親の戸川安行という大旗本の屋敷と書くべきである。
もっともここで安宅の名が出てきたのは、安宅が文学者、プロテスタント系の日本基督教会の牧師として著名な存在だからである。
0450日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 22:50:47.38
戸川安宅が屋敷を「口の大きな書生(大隈重信)に売った」というのは、大ウソである。
明治2年6月の版籍奉還により、戸川安宅は借金地獄からは解放された。しかし、所領を失ったため、明治3年2月に江戸へ戻ったが、すでに江戸屋敷は接収されて大隈重信の屋敷となっていた。以後は新政府から与えられた代替屋敷に居住した。
0451日本@名無史さん
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2018/02/04(日) 23:02:42.49
▽大蔵大輔
物語のこの当時の大蔵大輔は大隈重信である。その前は、井上馨。このあたりを少し詳しく勉強してみよう。
井上が36歳の若さで大蔵大輔に就任したのは、明治4年7月28日のことである。折から遣外使節の議がおこり、岩倉が大使、大久保は大蔵卿のまま副使に任ぜられ11月11日に米欧回覧の壮途にのぼった。したがって、井上は大久保の留守中大輔のまま実質的には卿の実権をその手におさめたわけである。
0452日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 23:05:42.21
これよりさき7月26日に民部省が廃され、その担当業務はすべて大蔵省へ移管されたから、大蔵省は財政、民政および司法に亘る広範な業務を所管することになり、井上の掌握した権限は断然他を圧する強大なものとなった。
0453日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 23:09:25.17
明治5年2月28日に兵部省が廃止され、陸軍省と海軍省が設置された。陸軍卿は人材難で欠員のまま派閥バランス人事で山県有朋が陸軍大輔に、西郷従道が陸軍少輔に任ぜられた。
文部省は明治4年7月18日に設置され、文部卿大木喬任である。
司法省も文部省と相前後して設置されるが、司法改革の動きが活発化するのは、井上の推挙で江藤新平が明治5年4月25日に左院副議長から司法卿へ転じてから後のことである。
0454日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/04(日) 23:23:09.26
井上は緊縮財政の方針と予算制度確立を図った。そして、大木喬任の文部省が学制頒布、江藤新平の司法省が司法改革などで高い定額を要求すると、これを拒絶して予算を削った。
これが江藤らの怒りを買い、江藤らに予算問題や尾去沢銅山汚職事件を追及され、明治6年5月3日に井上は辞職した。
その後の大蔵大輔が大隈重信である。
0455日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/05(月) 06:02:12.32
▽築地梁山泊
戸川安宅の屋敷に住み始めた大隈重信は、伊藤博文と井上馨に「近所に来ないか」と誘った。前スレ〔464〕。
大隈重信は、維新早々の時期は、大久保とは距離を置いていた。大隈の近所には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで大久保利通ら薩摩閥を牽制していた。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。
0456日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/05(月) 06:08:59.36
▽井上馨
天保6年(1836年)- 大正4年(1915年)
留守政府時代の井上については、すでに>>451-454に書いてしまった。繰り返しになるが、明治維新後は木戸孝允の引き立てで大蔵省に入り、主に財政に力を入れた。
明治4年(1871年)7月に廃藩置県の秘密会議に出席、同月に大蔵大輔に昇進、大蔵卿・大久保利通が岩倉使節団に加わると、外遊中は大蔵省を預かり、「今清盛」と呼ばれるほどの権勢をふるう。
0457日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/05(月) 06:13:38.15
明治6年5月3日に井上は辞職して下野したため、征韓論争のこの時期、井上は政府内にいない。
政界から引いた後、三井組を背景に先収会社(三井物産の前身)を設立するなどして実業界にあったが、伊藤の強い要請のもと太政官に復帰した。
そして、参議を辞任していた木戸と板垣の説得に当たり、大久保との間を周旋し両者の会見にこぎつけ、明治8年の大阪会議を実現させた。
http://www.ndl.go.jp/portrait/JPEG_R/210_6-To591b2-t/s0018r.jpg
0458日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 06:14:31.34
このあたりは江藤新平を主人公にした『歳月』で詳しくやる。
0459日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 06:27:25.92
築地梁山泊の話は、岩倉使節団の外遊前の話である。明治6年のこの時期は、大隈・伊藤は、大久保の与党といってよい。
この作品の叙述は、井上馨の存在とその辞任事件が司馬さんの脳裏からすっかり抜けているため(あるいは意図的に抜いたため)、若干わかりにくくなっている。
0460日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 06:34:34.06
司馬作品は同じ時代を別の主人公で叙述することが多いので、内容的に重複する部分は、ことさらにオミットしてしまう。
この作品で江藤新平と佐賀の乱が目立たないのは、『歳月』があるためだが、必要なことは書くべきである。
留守政府時代を江藤と井上抜きで語ることは難しい。
0461日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/05(月) 06:53:09.74
それそれ。『新史太閤記』と『覇王の家』なんて凄まじい。
『国盗り物語』『関ケ原』『城塞』の部分がすっぽり抜け落ちて、最終章は唐突に臨終場面。
0463日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 16:50:59.48
▽明治6年9月14日
前日に横浜に着くや〔>>443〕、翌日には木戸松菊を訪ね、渡欧中のわだかまりを解消し和解している。
「伊藤春畝来訪。欧州一別巳来の事情を了承し、また本邦の近情を話す」
0464日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 16:52:38.53
鬱から躁への変わり身の早さが、木戸さんの良いところ( ^∀^)
0465日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 16:58:03.99
「やはり伊藤はいい」
と、十四日、伊藤が帰ったあと、木戸は息を大きく吸い込むようにして思った。
松子は、木戸の体臭のする懐紙を拾い上げ、
「そんなに伊藤さんは、よござんしたか」
と、夫に尋ねた。
「やはり伊藤はいい」
0466日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 17:00:27.38
翌9月15日、木戸松菊は伊藤春畝に長い手紙を認めている。
恋文であることは、言うまでもない。
0467日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 17:04:23.08
十六日に木戸は朝七時に家を出て福沢諭吉を訪ねたあと、午後伊藤の家まで足をのばして訪問している。
この二人の長州人の交情の濃やかさは尋常ではない。
ただし伊藤は不在だった。
「春畝……」
0468日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 17:06:11.25
ところが、木戸は発病した。
伊藤を訪ねて不在だった九月十六日の夕刻のことである。
あきらかにエイズであった。
0469日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 17:50:59.16
▽福澤諭吉
天保5年(1835年)- 明治34年(1901年)
明治6年9月4日の午後には岩倉使節団に随行していた長与専斎の紹介で木戸孝允と会談。木戸が文部卿だった期間は4か月に過ぎなかったが、「学制」を制定し、「文部省は竹橋にあり、文部卿は三田にあり。」の声があった。
「木戸は福沢に頼ることが多く」と司馬さんは書かれているが、明治6年に初めて会談したようである。
0470日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 17:58:28.23
▽勝海舟
福沢諭吉は、勝海舟の批判者であり続けました。
勝海舟も福沢を嫌っていて、「危ないときは隠れていた。それでいて、後になっていろいろ言うのさ」「相場とか金儲けの好きな男だよ」「大家になってからは挨拶にも来ません」とか無茶苦茶にこきおろしています。
ただ、福沢が亡くなる前年、勝海舟や榎本武揚を批判した『?我慢の記』を刊行する前に、「内容に誤りがあっては失礼なので、原稿をお読みになって何かあったらご指摘ください」と依頼した福沢に、勝は「自分はおのれのやったことに確信があります。批判は自由。それで自分の考えを変えることはありません。しかし、あなたのような高名な学者に批評されるのは、むしろ私の名誉かもしれません」と答えました。
0471日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 19:46:11.37
▽山尾庸三
天保8年(1837年)- 大正6年(1917年)
長州藩重臣で寄組繁沢氏の給領地庄屋であった山尾忠治郎の二男。周防国吉敷郡二島村(現・山口県山口市秋穂二島)出身。
文久元年(1861年)、幕府の船・亀田丸に乗船し、アムール川流域を査察。帰国後は箱館に滞在して武田斐三郎に師事した。文久2年(1862年)、英国公使館焼き討ち事件に参加したほか、塙忠宝を伊藤博文とふたりで暗殺した。
http://ktymtskz.my.coocan.jp/denki/yamao/yamao.jpg
0472日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 19:49:08.62
文久3年(1863年)、密航で伊藤博文・井上馨・井上勝・遠藤謹助と共にイギリスへ留学し、長州五傑と呼ばれた。ロンドンにおいて基礎科学を学んだ後、グラスゴーにおいて造船を中心とした実務訓練を受けた。
明治元年(1868年)に帰国。明治政府に出仕し、横須賀製鉄所担当権大丞となり、鉄道技師長のエドモンド・モレルの提案を受けて明治3年(1870年)工部省の設立に携わる〔>>436>>437〕。
明治31年(1898年)退官後、文墨に親しみ特に金魚の飼育を好んだ。
https://s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/petpedia/upload_by_admin/goldfish_pets_8.jpg
0473日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 19:55:44.92
▽森有礼
弘化4年(1847年)- 明治22年(1889年)
鹿児島城下春日小路町(現・鹿児島市春日町)で薩摩藩士・森喜右衛門有恕の五男として生まれた。兄に横山安武がいる。
慶応元年(1865年)、五代友厚らとともにイギリスに密航留学し(薩摩藩第一次英国留学生)、ロンドンで長州五傑と会う。
明治維新後に帰国すると福澤諭吉・西周・西村茂樹・中村正直・加藤弘之・津田真道・箕作麟祥らと共に明六社を結成する。
明治8年、東京銀座尾張町に私塾・商法講習所(一橋大学の前身)を開設する。明治18年、第1次伊藤内閣の下で初代文部大臣に就任した。
https://kotobank.jp/image/dictionary/nipponica/media/81306024000824.jpg
0474日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 20:01:58.99
躁になった木戸さんは、三田に福沢諭吉を訪ね、同日、山尾庸三、森有礼、岩倉具視を訪ねた。
その日の夜に激烈な頭痛をおぼえた。
0475日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 22:39:00.36
▽長与専斎
天保9年(1838年)- 明治35年(1902年)
肥前国大村藩(長崎県大村市)に代々仕える漢方医の家系に生まれる。安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる。福澤諭吉の後任であった。のち大村藩の侍医となった。
http://www.city.oshu.iwate.jp/shinpei/rel/img/nagayo.jpg
https://uub.jp/47/nagasaki/nagasaki_map1.png
0476日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 22:40:49.17
文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。その後、ポンペの後任マンスフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。
明治4年(1871年)、岩倉使節団の一員として渡欧し、ドイツやオランダの医学及び衛生行政を視察した。
明治6年(1873年)に帰国。明治7年(1874年)、文部省医務局長に就任。また東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務した。
本章では、木戸さんは専斎の往診をうけた(9月18日)。
0477日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 22:55:27.49
▽廃刀令
すでに明治2年頃から廃刀の議論は行われていた。明治2年3月に公議所が開かれたとき、制度寮撰修森有礼は佩刀禁止を提議した。
「早く蛮風を除くべし」というものであったが、王政復古から間もない頃であったため他の公議人は反対し、「廃刀をもって精神を削ぎ、皇国の元気を消滅させるといけない」として否決され、森は退職を命じられた。
明治3年には帯刀を一般に禁止し、明治4年8月9日には帯刀・脱刀を自由とする散髪脱刀令を発していた。そして、明治9年3月28日、廃刀令を発布した。
0478日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 23:01:32.01
明治22年2月11日の大日本帝国憲法発布式典の日、森有礼〔>>473>>477〕は、それに参加するため官邸を出た所で国粋主義者・西野文太郎に短刀で脇腹を刺された。応急手当を受けるが傷が深く、翌日午前5時に死去。43歳だった。
0479日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 23:10:39.08
▽加藤弘之
1836年(天保7年)- 1916年(大正5年)
但馬国出石藩(兵庫県豊岡市)藩士として、同藩家老をも務めた加藤正照の長男として生まれる。
1860年(万延元年)、蕃書調所教授手伝となる。この頃からドイツ語を学びはじめる。1864年(元治元年)、旗本となり開成所教授職並に任ぜられる。
明治2年に新政府へ出仕し、外務大丞などに任じられる。この年『非人穢多御廃止之儀』を公議所に提出した。
明治23年、東京帝国大学の第二代総長となる。
http://www.city.toyooka.lg.jp/www/contents/1333521065822/simple/120404154116_0.gif
0480日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 23:18:21.30
▽明六雑誌
明六社の機関誌。明治7年4月2日創刊、明治8年11月14日停刊。全43号。近代日本における学術総合雑誌、学会誌の先駆けとなり、文明開化時期の日本に大きな影響を与えた刊行物である。
明六社は、明治初期にアメリカ帰りの森有礼〔>>478〕が西村茂樹に相談して設立した結社。
http://dglb01.ninjal.ac.jp/ninjaldl/meirokuzassi/016/jpg/mrzs016-001.jpg
0481日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 23:18:33.71
同人には森、西村に誘われて津田真道、西周、中村正直、加藤弘之〔>>479〕、箕作秋坪、福澤諭吉〔>>469〕、杉亨二、箕作麟祥など、当時を代表する錚々たる知識人たちが参加した。かれらには幾つかの共通点がある。
まず西村以外は下級武士あるいは庶民といった下層出身者であったこと、次いで明治となる以前から洋学者として頭角を現し、幕府の開成所などに召し抱えられていたことである。
これと関連して、その多くが幕末明治期かいずれかに洋行の経験があって、尊皇攘夷思想に染まった経験がなかった。また福澤を除けば、明治以後は官吏として維新政府に仕えていたことも特徴といえる。
0482日本@名無史さん
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2018/02/05(月) 23:25:51.22
▽ホフマン教授〈Theodor Eduard Hoffmann〉
前スレ〔453〕で登場した西郷隆盛の主治医。この小説では木戸孝允をも診察したことになっている。
内科も精神科も何でもやれるんでしょう、きっと。
ホフマン教授の診断によると、木戸さんはノイローゼ。
0483翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/02/05(月) 23:45:44.78
第10章 風雨

〔三〕岩倉具視
三条実美が岩倉の賜暇願いの願書に接したのは九月十八日の午後である。自宅に届けられた。岩倉の自筆である。
「五十日の賜暇。……」
三条実美は目がくらむような思いがした。三条は折れに折れて「では一週間」ということにし、正式の辞令を出した。
ともあれ、岩倉は七日という政治的休幕を演出することができた。岩倉がかせぎ出した七日間が、近代日本の重大な運命を決定したといえるであろう。
0484日本@名無史さん
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2018/02/07(水) 12:05:24.93
▽岩倉具視
文政8年(1825年)- 明治16年
前スレ〔628-630〕参照。この年、48歳。
岩倉は明治4年8月に断髪令が出た後も、髷は日本人の魂であると考え、落とすことを拒んでいた。そのため訪米時も髷と和服姿であったが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに説得され、シカゴで断髪している。
9月13日、岩倉使節団、横浜に入り帰国。岩倉具視と伊藤博文、東京に入り参内、明治天皇に帰国の挨拶をする。
0485日本@名無史さん
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2018/02/07(水) 12:20:23.40
▼岩倉使節団
明治4年11月12日:横浜を「アメリカ号」で出港 →12月6日:サンフランシスコ上陸 →12月25日:ソルトレーク
明治5年1月18日:シカゴ →1月21日:ワシントン〔グラント大統領〕
7月3日:ボストンより英国汽船「オリンパス号」に乗船 →7月14日:リバプール着 →翌日:ロンドン〔ヴィクトリア女王〕
11月16日:パリ〔ティエール大統領〕
0486日本@名無史さん
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2018/02/07(水) 12:20:34.93
明治6年2月17日:ベルギー〔レオポルド二世〕 →2月24日:オランダ →3月9日:ベルリン
3月30日:ペテルブルグ〔アレクサンドル二世〕 →4月18日:デンマーク →4月24日:スウェーデン
5月11日:ローマ →6月3日:オーストリア →6月20日:スイス
7月20日:マルセーユより仏汽船「アウア号」乗船し帰国に向う →9月13日:横浜着
0487日本@名無史さん
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2018/02/07(水) 12:40:01.28
▽前田侯爵家
本章の兼六園の茶室における岩倉と大隈のエピソードについて。
加賀前田家第15代当主の前田利嗣が侯爵に叙勲されたのは明治17年である。その前年の明治16年に岩倉具視は死去しているから、正確にいうと、加賀前田家が侯爵家になる前のエピソードが書かれている。
また、明治14年の政変で大隈重信は下野しているから、それ以前のエピソードということになる。
http://file.romance.ichi-matsu.net/cf4559b4.jpeg
0488日本@名無史さん
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2018/02/07(水) 14:06:52.52
▼慶応3年(1867年)6月25日
坂本龍馬と中岡慎太郎は、岩倉具視を訪ねた。
岩倉具視は公武合体派で、和宮降嫁に尽力したため攘夷派に弾圧され、文久2年に官位剥奪、洛北の岩倉村へ蟄居を余儀なくされた。
慶応3年3月、蟄居を解かれ、同年6月25日、かねて親交のあった中岡慎太郎の紹介で龍馬と会見。以後は、大久保利通らと謀り、王政復古を画策した。
龍馬暗殺には驚愕し、犯人に対しての憎悪を大久保あての手紙に記している。
0489日本@名無史さん
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2018/02/07(水) 14:19:15.31
岩倉がかろうじて持っている思想は、「日本の皇室をゆるぎなきものにする」というだけのもので、極端にいえば岩倉には国家というものも国民もその実感としては捉えられがたいものになっていた。
おおかたの公卿がそうであろう。かれらは千数百年来京都の御所の内外に住み、とくに鎌倉幕府の成立以来政治の実権を失ったために国家と人民の安危を一身で背負うという体験から遠ざかってしまっていた。
0490日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 14:25:42.84
▽王党派
1871年2月からティエールを首班とする臨時政府が対外的のもフランスを代表したが、国内には王政復古や帝政の復活を目指す勢力も根強く安定しなかった。
また、臨時政府がプロイセンに降服したことに対して、パリの市民・労働者が反発して徹底抗戦を掲げ、3月にパリから臨時政府軍を追いだしてパリ=コミューンが樹立した。
パリ=コミューンは労働者が権力を握った最初の社会主義政権であったが、ブルジョワ勢力に支持されたティエールの臨時政府軍によって5月に鎮圧された。
ティエールは共和政を掲げて8月に大統領となったが、議会内の保守派・王党派によって失脚させられ、王党派のマクマオンが大統領となった。1875年に議会は第三共和政憲法を可決し、ようやくフランスの政体は共和政であることが確定した。
0491日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/07(水) 14:30:31.84
▽ベルツ博士〈1849年 - 1913年〉
ドイツ帝国の医師で、明治時代に日本に招かれたお雇い外国人のひとり。27年にわたって医学を教え、医学界の発展に尽くした。滞日は29年に及ぶ。
ベルツ博士は晩年の岩倉具視を診察して、日本初の癌告知をしたらしい。
http://sagarachian.jp/site_files/image/berutsuhakase.jpg
0494日本@名無史さん
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2018/02/07(水) 18:18:30.38
ついでに川路が奉職していた警視庁(明治10年頃)の写真
http://sakamichi.tokyo/wp-content/uploads/2017/04/%E5%8F%A4%E5%86%99%E7%9C%9F%EF%BC%9A%E8%AD%A6%E8%A6%96%E5%BA%81%EF%BC%88%E6%98%8E%E6%B2%BB10%E5%B9%B4%E9%A0%83%EF%BC%89.jpg
当時、東京消防庁は独立していなくて、警視庁が治安も消防も担っていました。この古写真は警視庁出初式の模様です。
http://sakamichi.tokyo/wp-content/uploads/2017/04/%E5%8F%A4%E5%86%99%E7%9C%9F%EF%BC%9A%E8%AD%A6%E8%A6%96%E5%BA%81%E6%B6%88%E9%98%B2%E5%87%BA%E5%88%9D%E3%82%81%E5%BC%8F.jpg
0495日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 16:16:34.92
▽堀河家
羽林家の家格を有する公家。藤原北家高倉流。江戸時代の家禄は180石。
高倉永家の子で水無瀬兼成の養子となっていた親具は、養父に実子が生まれた後に疎んじられて家を追われたため、出家して「西雲」と号して東国に下り、徳川家康のもとに身を寄せた。
天正13年(1585年)、家康が上洛した際に親具もこれに従って帰京したが、この時家康の計らいで親具に堀河の家号が与えられて新家創設が許された。しかし親具は出家していたため、家を長男の康胤に継がせて堀河家を起こさせた。
岩倉具視の実家である。
0496日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 16:20:48.05
▼公家の家格
五摂家 →清華家 →大臣家 →羽林家 →名家 →半家(諸大夫家)
0497日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 16:24:09.50
▽知恩院
京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院。開基は法然である。 浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。
https://project311.jp/wp-content/uploads/2014/11/chionin.jpg
岩倉具視は知恩院の宮門跡の稚児として奉公するはずであった。
0498日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 16:29:10.48
▽岩倉具慶〈ともやす〉
文化4年(1807年)- 明治6年2月13日
大原重成の子として生まれる。権大納言岩倉具集〈ともあい〉の子・具満、養子の具賢がともに早世したため、具集の養子となり岩倉家を継いだ。子は娘のみであったため、天保9年(1838年)に堀河康親の子具視を婿養子(次女の誠子と婚姻)として迎えた。
岩倉具視の養父である。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/b/b6/Iwakura_Tomoyasu.jpg/200px-Iwakura_Tomoyasu.jpg
0499日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 17:08:07.69
▽忌服
わが国では古くから忌服の制度があり、明治7年には武家の忌服制に基づいて太政官布告の「服忌令」が発布されました。
昔は、忌の期間には門を堅く閉ざして、外出することも、人に会うことも許されませんでした。
現在でも残っているしきたりとしては、結婚式や賀寿などの慶事への出席や神社への参拝は慎む。また喪中に年を越す場合は、しめなわ、門松、鏡餅などの正月飾りや、おせち料理などで祝ったり、新年回りや年賀の挨拶なども控えます。
地方によっては、忌明けまで肉や魚などを控え、茶を断って喪中の慎みを表し精進するところもあります。
0500日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 17:49:39.13
▼忌服期間
明治7年の「服忌令」による忌服期間
父母死亡時:忌/50日 服/13カ月
養父母死亡時:忌/30日 服/150日
0501翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/02/10(土) 17:58:59.44
第10章 風雨

〔四〕ハリー・パークス
英国公使館でも、日本の政界を過熱してしまっている征韓論につよい関心をもった。
英国としてはアヘン戦争をアジアにおいて二度とやる気はなく、戦争や内乱に一方的に加担するという方式よりもむしろアジア諸国の政情の安定によって貿易を増進させるほうがはるかに利益があがるということを知っていたし、それが外相ラッセルの強い方針でもあった。
0502日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:43:16.28
★英国公使館

▼千代田区一番町一
1859年(安政6年)、ラザフォード・オールコックにより高輪東禅寺に英国総領事館が開設された。オールコックの公使昇進により、領事館は公使館となった。しかしながら、2度の東禅寺事件により公使館員が殺傷されたため、公使館は横浜に移った。
0503日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:43:49.74
その後江戸幕府により品川御殿山に公使館が建設されていたが、完成直前の文久2年12月に高杉晋作らによる焼き討ちにあってしまい、使用されることはなかった。しかし、公使館が横浜にあることは不便であるため、当時の公使ハリー・パークスは、慶応2年に公使館を横浜から江戸泉岳寺前に移転したが、これはあくまで仮のものであった。
0504日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/10(土) 20:45:33.46
明治維新後、多くの大名屋敷が空になった。このため、明治元年11月頃、パークスは公使館を三田上野沼田藩の下屋敷跡に移した。
さらに、パークスは恒久的な公使館用地を求めて、江戸城近くの複数の用地を物色した結果、明治5年、七戸藩上屋敷、櫛羅藩上屋敷、七日市藩上屋敷、および旗本水野兵部の屋敷跡を合わせた1万2306坪をほぼ永久に貸与されることとなった。
これが現在まで続く駐日英国大使館の敷地になった。
0506日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:54:10.39
▽ハリー・パークス 〈1828年 - 1885年〉
イングランドのウェスト・ミッドランズのブロックスウィッチで鉄工場主の長男として生まれる。
13歳の1841年に清のマカオに赴き、中国語の勉強をするかたわら、翌年より英国全権ヘンリー・ポティンジャーの秘書で通訳のジョン・モリソンのもとで働きはじめる。1840年に勃発したアヘン戦争を目撃、1842年のコーンウォリス号上での南京条約調印にも立ち会った。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/011/733/89/N000/000/004/128851924169516224230.jpg
0507日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:55:02.75
1843年、15歳で広東のイギリス領事館に採用され、翌1844年、廈門の領事館通訳となった。この頃から領事ラザフォード・オールコックのもとで仕事をするようになった。1854年、廈門領事に就任。1855年、全権委員として英・シャム条約締結。1856年、広東領事としてアロー号事件に介入した。
0508日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:56:51.84
1865年(慶応元年)、前年の四国艦隊下関砲撃事件に際して、オールコックは下関攻撃に対する主導的な役割を果たしたが、日本との全面戦争につながりかねないその行動は英国政府の意に沿うものではなく、オールコックは公使を解任された。
パークスは、オールコックの後任公使に任命され、横浜に到着した。
0509日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 20:59:28.32
1871年(明治4年)、賜暇のためにアメリカ経由で帰国、アダムズが代理公使となった。
1872年(明治5年)、訪英中の大使・岩倉具視、駐英公使・寺島宗則と会見し条約改正問題について話し合った。
1873年(明治6年)、日本に帰任した。1883年(明治16年)7月、滞日18年目にして清国公使となり離日した。
0510日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:09:16.04
>>508
>パークスは、オールコックの後任公使に任命され、横浜に到着した。

司馬さんは、長崎に上陸したと書かれているな。
0511日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:22:21.33
▽レオン・ロッシュ 〈1809 - 1901〉
1864年4月(元治元年3月)、初代駐日公使であったドゥシェーヌ・ド・ベルクールが、幕府にロッシュの着任を報告している。
ロッシュの最初の仕事は、前年から外国船が航行不能となっている下関問題の解決であった。ロッシュは英国公使ラザフォード・オールコック、米国公使ロバート・プルイン、オランダ領事のディルク・デ・グラーフ・ファン・ポルスブルックと共同で、幕府に下関通行および横浜鎖港に関する覚書を作成、5月30日にこれを幕府に提出した。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7f/d3/e53f58da29a5ef4bce4f7ca464b010f5.jpg
0512日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:24:54.15
司馬さんに、大した腕利きではないと評された米国公使とオランダ公使は、ロバート・プルイン(米)とポルスブルック(蘭)です。
0513日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:29:39.55
内政不干渉を建前とする英国とは異なり、フランスは積極的に幕府を支援していく。主な政策は以下の通りである。
横須賀製鉄所建設:1865年1月24日約定書提出、10月13日工事開始
横浜仏語伝習所設立:1865年4月1日開校
パリ万国博覧会への参加推薦:1865年8月15日に幕府承諾
経済使節団を来日させ、600万ドルの対日借款・武器契約の売り込み:1866年
軍事顧問団の招聘:1867年1月13日より訓練開始
0514日本@名無史さん
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2018/02/10(土) 21:31:15.57
慶応4年5月にロッシュは公使を罷免され、日本を離れて帰国の途についた。彼の後任にはマキシミリアン・ウートレーが就任した。
0515日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 16:26:58.08
▽ジョン・ラッセル 〈1792年 - 1878年〉
ホイッグ党(自由党の前身)の改革派として名を馳せ、メルバーン子爵退任後にホイッグ党首となり、1846年に首相となったが、パーマストン子爵と対立を深め、党内が分裂状態となり、1852年2月に総辞職した。
ついで1852年12月成立のピール派とホイッグ党の連立政権アバディーン伯爵内閣に外務大臣として入閣。1855年2月にパーマストン子爵が首相となるとホイッグ党首の座も彼に譲る。ホイッグ党が野党だった頃の1859年6月にパーマストンと和解して自由党結成と保守党政権打倒に貢献した。
0516日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 16:27:45.33
第二次パーマストン内閣に外務大臣として入閣し、パーマストンが1865年に死去すると代わって首相・自由党党首となったが、翌1866年に選挙法改正に失敗して総辞職した。1867年に自由党党首の座をグラッドストンに譲った。
党首退任後は文筆を主とするようになった。つまり、ラッセルは明治元年には既に外務大臣でない。
1878年に死去。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/71/Lord_John_Russell.jpg
0517日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 17:01:36.27
▽水野忠精〈ただきよ〉
天保3年(1833年)- 明治17年(1884年)
遠江浜松藩第2代藩主、出羽山形藩初代藩主。忠元系水野家第12代。天保の改革を行なった老中・水野忠邦の長男。正室は浜松藩主・井上正春の娘。
父・忠邦が天保の改革に失敗して隠居したため、家督を継いだ。弘化2年(1845年)、遠江浜松藩から出羽山形藩に移封されるが、これは父の失脚に伴う左遷である。文久2年(1862年)に老中となった。老中在任中は横須賀造船所の建設を推進した。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0d/Mizuno_Tadakiyo.jpg/200px-Mizuno_Tadakiyo.jpg
0518日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 17:02:53.52
パークスは長州征伐に反対した。しかし、老中水野忠精は、パークスの忠告をつよい態度で退けた。
0519日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 17:12:36.51
▽トーマス・グラバー〈1838年 - 1911年〉
スコットランド出身の商人。武器商人として幕末の日本で活躍した。日本で商業鉄道が開始されるよりも前に蒸気機関車の試走を行い、長崎に西洋式ドックを建設し造船の街としての礎を築くなど、日本の近代化に大きな役割を果たした。維新後も日本に留まり、高島炭鉱の経営を行った。
http://www.glover-garden.jp/bd/files/oldglover_img_03b.jpg
http://www.uchiyama.info/oriori/image/shiseki/siseki/glover/10.jpg
0521日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 22:46:39.63
▽江戸開城
西郷が徳川方の事実上の骨抜き回答という不利な条件を飲み、進撃を中止した背景には、英国公使ハリー・パークスからの徳川家温存の圧力があり、西郷が受け入れざるを得なかったとする説がある。
ただしパークスの発言が実際に、勝と交渉中の西郷に影響を与えたかどうかについては不明である。
萩原延壽は、「パークスの圧力」は勝・西郷会談の前に西郷へ影響を与えたというよりは、会談後に西郷の下にもたらされ、強硬論から寛典論に転じた西郷が、同じく強硬派だった板垣や京都の面々にその政策転換を説明する口実として利用したのではないかと述べている。
事実、板垣は総攻撃中止の決定に対して猛反対したが、パークスとのやりとりを聞くとあっさり引き下がっている。
0522日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 22:51:02.21
▽木梨精一郎
弘化2年(1845年)- 明治43年(1910年)
長州藩士・木梨彦右衛門(大組63石)の嫡男として生まれる。戊辰戦争には、東海道鎮撫総督参謀や東征大総督府参謀補助、奥羽鎮撫総督参謀、仙台追討総軍監を歴任し、戦後、軍功により永世賞典450石を受けた。
長州藩兵第1大隊長を経て明治4年に上京、兵部省に出仕して兵部少丞となる。明治5年の陸軍省創設後は陸軍少丞となるが、明治6年8月、依願免本官となり位階の返上をした。明治7年7月、内務省7等出仕となる。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/45/Kinashi_Seiichiro.jpg/200px-Kinashi_Seiichiro.jpg
0523日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 22:52:26.28
東征軍が関東へ入ると、東征軍先鋒参謀木梨精一郎(長州藩士)および渡辺清(大村藩士)は、横浜の英国公使館へ向かい、来るべき戦争で生じる傷病者の手当や、病院の手配などを申し込んだ。
しかし、パークスはナポレオンさえも処刑されずにセントヘレナ島への流刑に留まった例を持ち出して、恭順・謹慎を示している無抵抗の徳川慶喜に対して攻撃することは万国公法に反するとして激昂し、面談を中止したという。
0524日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 22:58:10.19
司馬さんは、西郷がパークスの恫喝に屈したという説を採っている。薩長土ともにグラヴァ―に武器購入の未払い債務があり、内乱が長引けばさらに武器購入の必要があるため、英国に遠慮したと書かれている。
長州の木戸さんは薩摩が英国に屈したと罵った。このころの木戸さんには攘夷魂が残っていた。
0525日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:14:36.44
▽アーネスト・サトウ 〈1843年 - 1929年〉
父デーヴィッド・サトウは、ドイツ東部のヴィスマールにルーツを持つソルブ系ドイツ人。当時はスウェーデン領だったため出生時の国籍はスウェーデン。アーネスト・サトウはロンドンで生まれた。サトウ家は非国教徒でルター派の宗教心篤い家柄であった。
文久2年8月15日、イギリスの駐日公使館の通訳生として横浜に着任した。
明治2年に1年の賜暇を得て帰国するが、明治3年11月、賜暇を終えて日本に戻った。
http://konn3563.up.n.seesaa.net/konn3563/image/satou.jpg
0526日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:17:35.58
慶応元年11月、下関戦争賠償交渉のための英仏蘭三国連合艦隊の兵庫沖派遣に同行し、神戸・大坂に上陸した。
薩摩藩船・胡蝶丸の乗組員と交わったのは、この時である。島津左仲と名乗る西郷と初めて会った。
0527日本@名無史さん
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2018/02/11(日) 23:19:25.39
西郷は平時には無用の陸軍大将にまつりあげられたため、外交官と交際する必要もなく、明治6年ごろにはサトウと疎遠になっていた。
0528翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/02/11(日) 23:29:38.11
第11章 ジャニー

伊藤博文はその個人の精神史において、「ジャニー」と呼ばれたむかしの屈辱を生涯忘れなかった。簡単に忘れてしまったのは、ジャニーズ事務所である。
英人や米人が日本人に対する侮蔑の俗語としてJapという言葉をもっていることはふつう知られている。ジャニーというのはそれ以前の蔑称であろう。安政の通商条約による横浜開港早々、上海あたりからやってくる英国や米国の下級船員の俗語としてできあがった蔑称らしく、幕末に流行し、明治になると、ジャップという言葉にとってかわられた。
0529日本@名無史さん
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2018/02/12(月) 00:38:33.57
★長州五傑

▽文久3年(1863年)5月12日
長州藩から清国経由でヨーロッパに派遣され、主にロンドン大学ユニヴァーシティ・カレッジなどに留学した、井上聞多〔>>451-454〕、遠藤謹助、山尾庸三〔>>471-472〕、伊藤俊輔、野村弥吉(井上勝)の5名の長州藩士。
11月4日、ロンドンに到着する。
https://stat.ameba.jp/user_images/20150728/04/win-win88/cf/a6/j/o0480027013378699392.jpg
0530日本@名無史さん
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2018/02/12(月) 10:49:21.25
▽ペガサス号
上海からは、井上と伊藤は525トンのペガサス号で出港し、他の3名は10日ほど後に5、915トンのホワイトアッダー号で出港した。ロンドンまでの旅程は、“航海術を学ぶ”ということと理解されていたので、水夫と同格の扱いで非常に困苦し、日本人を「ジャニー」と呼び軽蔑されていたと感じている。
便所は船体から張り出した横木につかまって用をたす方式であったから、嵐の時には身体を縄で縛って危険から保護した。さらに伊藤は下痢で苦しんだため、「実にその困難の状は筆舌の能く尽す所でなかった」という。
0531日本@名無史さん
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2018/02/12(月) 10:55:05.24
上海に到着した際、ジャーディン・マジソン商会上海支店の支店長に面会した。支社長は「お前達は何のために洋行するのか?」と聞いたが、言葉が通じず、「海軍を研究する」と言おうとして「ネイヴィー」と言うべきところを間違って「ネビゲーション」の一言を発した者がいた。この言葉を支社長は「ナビゲーション=航海術」と理解した。
これが、水夫扱いの真相である。
0532日本@名無史さん
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2018/02/12(月) 11:03:30.08
▽ヒュー・マジソン
イギリス留学中は、ジャーディン・マジソン創業者ジェームス・マジソンの甥にあたるヒュー・マセソン(ジャーディン・マジソン商会・ロンドン社長)が世話役となった。
彼らはアレキサンダー・ウィリアムソン教授の家に寄留していたという。長州五傑の留学生はウィリアムソンが属するユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン(UCL)の法文学部へ聴講生の資格で入学した。
http://www.news-digest.co.uk/news/images/tokushu/1388/ucl.jpg
http://blog-imgs-64.fc2.com/k/i/m/kimito39gmailcom/1407043535077.jpg
0533日本@名無史さん
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2018/02/12(月) 11:15:31.18
▽フリーマン=ミットフォード 〈1837 - 1916年〉
ミットフォードはイートン・カレッジとオックスフォード大学クライスト・チャーチ校で学んだ。
慶応2年10月、29歳のミットフォードは横浜に到着し、英国公使館の二等書記官として勤務を開始した。当時英国公使館は江戸ではなく横浜にあったため〔>>502>>505〕、ミットフォードも横浜外国人居留地の外れの小さな家にアーネスト・サトウ(当時23歳)、ウィリアム・ウィリス医師(当時29歳)と隣り合って住むこととなった。
約1ヶ月後の11月26日、豚屋火事で外国人居留地が焼けたこともあり、英国公使館は江戸高輪の泉岳寺前に移った〔>>503〕。
明治3年1月1日、ミットフォードは日本を離れた。
0534日本@名無史さん
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2018/02/12(月) 11:29:22.90
初代リーズデイル男爵アルジャーノン・フリーマン=ミットフォード〔>>533
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/e6/Algernon_Freeman-Mitford_%28portrait_by_Samuel_Lawrence%29.jpg/200px-Algernon_Freeman-Mitford_%28portrait_by_Samuel_Lawrence%29.jpg
https://stat.ameba.jp/user_images/20170909/12/britishhills-fukushima/90/cd/p/o1000133314023432482.png
※孫に有名なミットフォード六姉妹がいる。いずれも美人。
長女ナンシー http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/6/5/6515e93d-s.jpg
次女パメラ http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/c/8/c8296e7f-s.jpg
三女ダイアナ http://www21.tok2.com/home/tokorozawa/faq/faq08uk01h.jpg
四女ユニティ http://fusigi.jp/fusigi_4/image_1/unity_1.jpg
五女ジェシカ http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/5/b/5b8e9d63-s.jpg
六女デボラ http://livedoor.blogimg.jp/kurokihelion/imgs/e/7/e70cc8ff.jpg
0535日本@名無史さん
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2018/02/12(月) 11:43:46.37
▽タイムズ
英国の保守系高級紙。1785年創刊の世界最古の日刊新聞。発行部数は約45万部を数える。また、日本の読売新聞(発行部数は約1,000万部で世界一位)と朝日新聞(発行部数は約800万部で世界二位)と提携している。
伊藤はタイムズによって下関戦争(元治元年8月)の発生を予感した。 
http://mybigappleny.com/wp-content/uploads/2015/05/uk-election7.jpg
0536日本@名無史さん
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2018/02/12(月) 11:48:46.52
▽元治元年6月10日
元治元年3月(1864年)、日本発の「砲撃を受けた連合国は幕府に抗議するも幕府返答は煮えきらず、連合国は長州藩に対し重大な決意をするに至った」との報道に驚き、井上と伊藤は直ちに帰国を決意する。
4月中旬、井上と伊藤はロンドンを発つ。井上は当時を回想して「国家に対する憂いの思いは、国内に居る時よりも寧ろ海外に在る時が切実なのを覚えた」と言っている。
6月10日頃、2人は横浜に到着した。
0537日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 12:18:13.53
▽ポルトガル人
日本人に顔が似ているらしい。ポルトガル人の人種的起源は、主に古代ローマ時代以前のケルト人とイベリア人の混血であると考えられる。ローマ以前のイベリアの諸民族は、ルシタニアのルシタニ人、ガリシアのガリシア人、アレンテージョ、アルガルヴェのケルト人の一派などがいる。
https://pds.exblog.jp/pds/1/201306/05/92/a0287992_18461525.jpg
https://stat.ameba.jp/user_images/20170331/21/okkkkky/7a/38/j/o0620041513902832503.jpg
0539日本@名無史さん
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2018/02/12(月) 12:43:31.08
★ハリー・パークス

▽造幣局
1868年(慶応4年)に参与会計事務官三岡八郎、外国事務局判事五代才助らが同年に廃止されたイギリス帝国・香港造幣局の造幣機械を6万両で購入する契約を結び、11月1日に英国建築技師トーマス・ウォートルスが雇用され局舎設計および機器購入などを担当している。
明治3年2月2日に旧香港造幣局長キンドルが造幣寮首長に任命されている。大阪本局は明治3年11月27日に銀貨製造を開始し、明治4年2月15日に大蔵省造幣寮として創業式を挙行している。
http://weboo.link/images/articleimage/DETQ_55122aa528e111427253925.jpg
http://trip-japan6305.up.n.seesaa.net/trip-japan6305/image/E5A4A7E998AAE5B882E38080E980A0E5B9A3E5B180E58D9AE789A9E9A4A801.jpg
0540日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 13:00:56.78
前スレ〔803〕でワイングラスを握りつぶして粉々にしたパークスは、本章ではシャンペン・グラスを床に叩きつけて微塵にした。
「金貨の分量を乱せば、このシャンペン・グラスのように国家は破壊されるだろう」というのが表向きの理由だった。
しかし、パークスが不機嫌になったのは、三条実美に「Genesis Live の The Knife のギター・ソロ、なんどす、あれ?」と蔭口をたたかれたことによることは言うまでもない。
0541日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 13:16:51.00
▽駐清英国大使
パークスは、明治16年(1883年)7月、滞日18年目にして清国公使となり離日した。翌1884年からは駐朝鮮公使を兼ねた。翌1885年、任地の北京においてマラリアのため、57歳で没した。
0542日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 13:55:55.27
▽霊南坂
アメリカ大使館とホテルオークラの間にある坂。赤坂1丁目と虎ノ門2丁目の境界を為す。日向の人嶺南和尚が慶長15年ここに庵を結んだ。この嶺南和尚にちなみ霊南坂と名づけられてという。
本章では明治42年の英国大使館における晩餐会に出席した伊藤博文が、霊南坂にある官舎に戻る途中でパークスを回顧する。
http://www.uchiyama.info/oriori/image/insho/saka/toranomon/reinan/10.jpg
0543日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 14:00:30.42
▽明治3年7月
明治2年、山縣有朋と共に渡欧した西郷従道は、軍制を調査する。明治3年7月晦日、横浜に帰着した〔>>133〕。
山県と西郷従道は天皇に拝謁した後、各国公使館へあいさつ回りした。
英国公使館でパークスと会見する。
0544日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 14:12:58.67
▽アレクサンデル・シーボルト 〈1846年 - 1911年〉
アーネスト・サトウが賜暇で帰国していたため〔>>525〕、高名なシーボルト博士の子のアレクサンデルが通訳した。
1828年に日本を追放された父フィリップは、48歳になった1845年にヘレーネ・フォン・ガーゲルンと結婚、ライデンに居を構えた。1846年8月16日、長男アレクサンダーが生まれる。
シーボルト親子は安政6年(1859年)8月、長崎に到着した。父にとっては30年ぶりの日本であった。文久元年(1861年)、父が対外交渉のための幕府顧問となったため、親子は江戸に出て、芝赤羽接遇所に居住することとなった。
0545日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 14:13:09.65
直後に第一次東禅寺事件が発生し、2人は翌日に現場を見に行っている。文久2年に英国公使館特別通訳生として雇用された。このときまだ15歳の少年であった。同年に父は帰国し1866年に死去、息子アレクサンダーとの再会はなかった。
その後、明治政府にお雇い外国人として40年間雇用された。
http://siebold.co.jp/kyoukai/wp-content/uploads/Alexander.jpg
0547日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 15:18:33.65
パークスの意見はつねに極端であった。
「伊藤と大隈のいうことを聴かなければ日本は亡びるだろう」
伊藤は明治3年当時、大蔵少輔と民部少輔。
大隈は大蔵大輔で、参議になるのは明治3年9月。
0548日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 15:23:48.93
★明治6年9月

▽9月19日
雨。
やっと物語の本筋に戻ってきました。
この日午後三時すぎに、英公使パークスと同書記サトウが木戸孝允を訪ねている。
0549日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 16:00:58.65
▽つくばい〈蹲踞〉
日本庭園の添景物の一つで露地(茶庭)に設置される。茶室に入る前に、手を清めるために置かれた背の低い手水鉢に役石をおいて趣を加えたもの。手水で手を洗うとき「つくばう(しゃがむ)」ことからその名がある。
https://stat.ameba.jp/user_images/20160306/18/kd3738/1d/67/j/o0800045013585537846.jpg
https://exterior-connect.com/wp-content/uploads/2015/12/tsukubai_img_13.jpg
0550日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 16:12:35.84
古代朝鮮には馬韓・弁韓・辰韓の三つの韓国があり、最終的には676年に新羅に統一され、935年には高麗、1392年に朝鮮となる。
しかし、日本ではその後も朝鮮のことを韓国(からくに)と呼ぶ場合があった。
明治になって朝鮮征伐の議論が盛んになると、『日本書紀』の三韓征伐を引き合いに出し、征韓論という言葉が使われるようになった。
0553日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 16:34:25.48
▽オランダ
350年にわたりインドネシアの香辛料など独占的に収奪したオランダは、19世紀に入ると強制的栽培制度を導入し、耕地の5分の1(実際は半分)にわたって、コーヒー・砂糖・藍などのヨーロッパ市場向け作物を強制栽培させた。
これによる巨額な収益は国家予算の3分の1を占めた。
0554日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 16:35:27.26
▽フランス
インドシナ半島東部を支配したフランスは、無主の土地に没収令を出して申告のない土地を収奪し、フランス人らに無償で与えたため、農地を奪われた農民は小作人からさらに債務奴隷へと没落した。
0555日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 16:38:48.15
▽イギリス
産業革命でイギリスの綿製品が盛んになると、インドの綿製品には課税し、イギリスの綿製品は免税にして、インドに逆輸入させてしまった。これによりインドの紡績業は大打撃を受け、織物都市のダッカの人口は激減した。
また、中国からの茶の輸入により入超になったイギリスは、中国へ流出した多額の銀を取り戻すために、インドにけし栽培を強制し、大量のアヘンを中国に密輸して暴利を得た。財政悪化を招いた清はアヘンの密輸を取り締まったため、イギリスはこれを口実に戦争を仕掛け、香港を租借した。これが悪名高いアヘン戦争である。
0556日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 16:42:08.44
日本が朝鮮に兵を送れば、フランスは清国ないし朝鮮から頼まれたと称して朝鮮に大軍を送り、日本軍を追っ払った上で、朝鮮から利権を得るだろうというのがパークスの予想であった。
0558日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/12(月) 16:55:46.02
要するにパークスの忠告は、日本は英仏および清国の三国と戦う覚悟があるのか、西郷の独走を制止せよ、さもなくば日本は亡国の憂き目に遭わざるをえない、ということだった。
0559翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
垢版 |
2018/02/12(月) 17:05:44.87
第12章 千絵

千絵は、縁側で端座して桐野を見あげている。
千絵は、兄の新太郎のこと、双方私怨より発したことではないのですから恨みがましくは思っておりませぬ、といった。
そういったときの桐野の反応が、あとで思い出してもつい笑ってしまうほどに可笑しかった。
「そりゃそうじゃ」
といわんばかりにけろりとしてうなずくのである。自分が当事者でないみたいであり、それが少しもいやらしくなく、むしろ爽やかなほどであった。
0560日本@名無史さん
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2018/02/12(月) 17:09:19.67
この章のみは、従来の概念でいう小説らしい構成になっている。
独立させて短篇にしてもいいくらいだ。
0561日本@名無史さん
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2018/02/12(月) 17:11:04.77
千絵が登場したとき、なんだか気持ちが和みました。ここまで『翔ぶが如く』を読み進めてきて、女に飢えていたというより、小説に飢えていた自分に気づきました。
0563日本@名無史さん
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2018/02/13(火) 20:17:23.33
▽富士見馬場
富士見坂は江戸の各地にあった。新宿区市ヶ谷本村町の富士見坂は、本章の富士見馬場の近辺だと思う。
この富士見坂は旧尾張藩邸が市ヶ谷に移されたとき、その敷地に囲いこまれ、現在はその自衛隊市ヶ谷駐屯地内にあり、かって坂があったあたりにはおおきな施設のビルがあり、坂の所在は不明である。
http://www.bekkoame.ne.jp/~koguro/gif/usi_ezs2.gif
http://livedoor.blogimg.jp/kf7654/imgs/f/9/f9d41df9.jpg
0564日本@名無史さん
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2018/02/13(火) 20:21:49.67
▽片目屋敷
千石取りの旗本・芦名靱負〈F〉の屋敷。
芦名靱負は家康の関東入部のときに奥州からきて仕官した。
0565日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/13(火) 20:34:22.54
芦名靱負は架空の人物であるが、モデルは摺上原の戦いで伊達政宗に敗れた会津蘆名氏の血筋を引く芦名靱負である。
こちら芦名靱負は幕末期の仙台藩の参政である。
なお、会津蘆名氏は、鎌倉の御家人・三浦義明の七男・佐原義連を初代とする。
「翔ぶが如く」の芦名靱負は旗本であるから別人であることはいうまでもないが、「家康の関東入部のときに奥州からきて仕官した」という叙述に名残がある。
0566日本@名無史さん
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2018/02/13(火) 20:38:43.04
「何代か前に右目のつぶれた当主」がいたことが片目屋敷の名称の由来とあるが、この部分は芦名氏を没落させた伊達政宗の右目が不自由だったことの名残だな。
0567日本@名無史さん
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2018/02/13(火) 20:42:49.17
まあ、作家のお遊びだ。行間を読めば、こういうことになる。
0568日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 14:51:20.20
▽徳川家処分
関東監察使三条実美は明治元年閏4月29日、田安亀之助(後の徳川家達、6歳)による徳川宗家相続を差し許す勅旨を伝達した。ついで5月24日には駿府70万石に移封されることが発表となった。
これにより新たに静岡藩徳川家が成立したが、800万石から70万石への減封によって膨大な家臣団を養うことはできなくなり、駿府へ赴いた者は1万5千人程度だったという。
http://tokaido.canariya.net/1-rene-tokdo/2book/3bu/images/17ietatu.jpg
0569日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 14:59:54.42
▽明治6年の旱魃
北九州では雨が降らなくて、苗代〈なえしろ〉も作れないほどの早魅であった。
四国でも旱魃により稲播種の養水も得ることができない状態であり、たまたま泉水を汲んで田植えをしても成育しない状況となった。
川路の手許には「民情不安」の報告が多く集まってきた。
0570日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/14(水) 15:08:02.72
▽百姓一揆
江戸時代の百姓一揆は、278年間で3,000件余りであり、1年平均でいえば11.6件にすぎない。
これに対して、明治元年から明治10年までの10年間で起きた百姓一揆は、1年当たりでみると約50件。年平均でみて江戸時代の4倍以上もの発生数がある。
この中には、明治6年に施行された徴兵令に反対するために、農民を中心として行われた血税一揆も含まれている。
0571日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 15:18:19.38
血税は、今日では血を搾られるような苦労をして納める税金の意味で用いられているが、語源的には血税=兵役義務である。
明治5年の「徴兵告諭」の一節に兵役義務を「血税」と称したことに由来する。
「西人之ヲ称シテ血税と云フ其生血ヲ以テ国ニ報スルノ謂ナリ」
0572日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 15:20:36.05
また、学制に反対する一揆も頻発した。
無知蒙昧な農民は、子供を学校へ通わせると、そこに西洋人が待ちうけていて、子供の生血を吸うと誤解していた。
明治維新とは、天朝が唐人(西洋人)と結託して日本人の生血を吸うための革命だと思っていたのである。
相当にバカだった。
https://1gr.cz/fotky/lidovky/15/111/lnc460/ELE5f1823_dracula.jpg
0573日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 16:39:53.86
▽地租改正反対一揆
明治6年7月より明治政府によって推進されてきた地租改正に反対する農民一揆である。
基本的には「全国画一」の地租への統合を従来通りあるいはそれ以上の水準で農民に賦課しようとする明治政府と、生活の維持・改善のために生産余剰の確保を求める農民側との対立ということになる。
0574日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 16:41:44.67
▼地租改正
明治6年、地租改正が実施され、土地の所有者には地券が発行された。この地券に書かれた土地の価格の3%が地租で、納税はお金で行う金納とされた。
江戸幕府による税の制度では、年貢は米で納める現物納を原則とした。納入された米は売却して収入としたため、米価の変動により収入も変動することになり、毎年の財政収入はきわめて不安定で、予算も立てにくかった。
0575日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 16:45:30.85
▼税の歴史
明治20年、所得税が導入された。
明治32年、法人課税が実施された。
昭和15年、給与所得者に源泉徴収制度が導入された。法人税が所得税から独立した。
昭和22年、納税者が自主的に税額を計算して申告する申告納税制度が設けられた。
昭和24年、アメリカのカール・S・シャウプ博士により「シャウプ勧告」がなされ、これを基礎に戦後の税制が整備された。
平成元年、消費税が導入された。いわゆる「暗黒の平成」のはじまりである。
0576日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 16:46:52.58
▽明治6年9月
雨の日が多くなった。各地の「民情」は一応静まった。
そのころ、市ヶ谷富士見馬場の片目屋敷に、旅姿の若い婦人が入ってきた。
0577日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 17:16:23.58
▽長屋門
長屋門は近世諸大名の城郭、陣屋、武家屋敷門として発生した形式で、江戸時代に多く建てられた。諸大名は、自分の屋敷の周囲に、家臣などのための長屋を建て住まわせていたが、その一部に門を開いて、一棟とした物が長屋門の始まりである。
芦名靱負の屋敷は、かつての旗本屋敷としてはひどく珍しいことに茅ぶきであった。
※京都市上京区の街中で見つけた茅葺屋根の建物は、奥渓(おくたに)家住宅の長屋門です。
https://kyotohotelsearch.com/blog/wp-content/uploads/2015/07/okutanike.jpg
0581日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 17:42:00.92
奥村公延も出演していた『好き! すき!! 魔女先生』。主演の菊容子。
菊(24)はテレビタレントの藤沢陽二郎(23)と交際していたが、別れ話がもつれて藤沢は菊の首を絞め、さらに電話線のコードで絞めて殺害した。
http://livedoor.blogimg.jp/ns27mk1028/imgs/2/d/2d7b4cc3.jpg
http://blog-imgs-97.fc2.com/t/a/i/taikino1/071001s.jpg
https://pbs.twimg.com/media/C4ogJkiUMAIkxeE.jpg
https://pm-img.skyperfectv.co.jp/images/si/20180215/12834280/12834280_9489ebce61444565accae1346aa3edf7_R.jpg
0582日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 17:47:46.14
奥村公延は悪代官と結託した相模屋にイジメられる弱い父親役が多かったな。
娘役はどういうわけか奥村にちっとも似ていない美人で、相模屋に手籠めにされる。
そんな奥村公延が家老役や軍人役を演じていると、「おい、大丈夫か?」「戦に敗けるんじゃないか?」と心配したものだ。
0583日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 18:17:45.39
▽芦名千絵
旗本芦名靱負の娘。徳川幕府瓦解時は13歳か14歳。架空の人物。
※NHK大河ドラマ「翔ぶが如く」(平成2年)では有森也実。
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/originals/8d/cd/c5/8dcdc55514c870d6148c179d0b0d3fa1.jpg
http://anoima.info/wp-content/uploads/2015/02/arimori-narimi1.jpg
http://kpdtdb.whdpet.com/p/1702/xFt9NXPe_20170226144402.jpg
写す角度によっては乳房が大きく見える画像もあったはずなんだが、探せなかった。
0584日本@名無史さん
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2018/02/14(水) 18:28:17.79
大河ドラマでは、芦名千草という千絵の姉も登場していた。山城屋和助〔>>153〕の愛人だった。
こういう原作を膨らます創作が、かつての大河ドラマの良いところであった。
ここ数年の大河ドラマは、バカが作って、バカが観ている。
※芦名千草役は南條玲子
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/originals/65/35/8e/65358e231449baca4ee9bf8c0847bc3c.gif
※山城屋和助役は藤堂新二
https://i.pinimg.com/236x/16/f6/f2/16f6f2638b3945c31ea279558f384170.jpg
0587日本@名無史さん
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2018/02/16(金) 23:39:34.31
▽塚原渋柿園
1848年(嘉永元年)- 1917年(大正6年)
鉄砲方の与力を務める代々の幕臣・市之丞昌之の子として生まれる。本名は靖(しずむ)。明治元年、徳川家に付いて静岡藩士となって静岡に移り、沼津兵学校、静岡医学校、浅間下集学所で洋学を学ぶ。
一時小学教員となるが、1874年横浜毎日新聞に入社、1878年東京日日新聞に変わり、雑報記者として劇評が紙面の売り物になっていた。その後、多くの歴史小説、髷物小説を書いた。
http://optomo.biz/yamaji-aizan21.jpg
0588日本@名無史さん
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2018/02/16(金) 23:47:55.50
▽芦名新太郎
千絵の兄。架空の人物。彰義隊に加わり、上野で官軍と戦う。生死不明。
というのは、千絵が聞いていた話で、真相は後述する。
0590日本@名無史さん
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2018/02/17(土) 17:41:26.19
木戸松菊の数少ない趣味のひとつに、大晦日の「ゆく年くる年」の新年カウントダウンに合わせて射精するというものがある。
もちろん射精の時間的精度を高める必要から、女の膣は用いず、己の右手を用いる。
文久元年の大晦日に、松菊はカウントダウンの「ゼロ」と同時に射精した。そのときの快感が、いまも忘れられなかった。
明治五年の大晦日にも、松菊はカウントダウンに合わせて射精しようとした。
しかし、0.5秒の誤差が生じてしまった。この誤差は、松菊の心を悩まし続けている征韓論が、松菊の右手の動きに動揺を与えたものであることは言うまでもない。
「伊藤君。私は廟堂にのぼり、西郷と対決する。そして、征韓論を潰す」
伊藤春畝はあかるく頷くやいなや、その足で岩倉邸まで駆けた。
0591日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/17(土) 19:10:03.61
▽本所の親戚
千絵の父芦名靱負は瓦解のどさくさの最中に死んだ。母はそれ以前にこの世になかった。
伯父が新太郎の後見者として相続届けや朝臣願いを出した。
この伯父も死ぬが、伯父の家がおそらく「本所の親戚」なのだろう。とすると、千絵の従兄が当主ということになる。
0592日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/17(土) 19:18:49.01
▽本所
東京都墨田区のおよそ南半分を範囲とし、江戸・東京の下町を構成している地域のひとつである。本所は下谷・浅草・深川と並ぶ、東京下町の外郭をなす。名前の由来は中世の荘園制度による。この名前から中世には荘園であったということが分かる。
http://www.mnagano.net/sumida/map/sumida-map.gif
0593日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/17(土) 19:18:56.27
※本所:平安時代後期に、在地領主が国衙などによる収公から荘園を守るため、中央の貴族や寺社へ寄進してその保護を求める寄進地系荘園が急速に増加した。寄進を受けた貴族や寺社がさらに上位の有力貴族・有力寺社へ寄進を行なうケースもあった。こうして形成された荘園支配体系の中で実効的な支配権を得たものが本所と呼ばれた。本家が本所となることが多かった。
0595日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/17(土) 20:18:27.31
人多く、禄すくなし、在来の臣下をことごとく扶持することができぬから、この際『朝臣』となるか、『農商』に帰するか、また強いて藩地へ供せんというものは『無禄』の覚悟にて移住をしろ、とまずは縁切状、それを出された。そこで藩士は、この三者の一を選んで、身の処置をなさねばならぬ次第となった。
0596日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/17(土) 20:20:36.16
藩庁では、この移住者を輸送するために、米国の飛脚船を借入れたが、この時の船は『ゴールデン、エーヂ』、後に確か東京丸となった船だった。
長さ七、八十間に幅の十二、三間も有ったかと思う大船。それでもその会社の好意で、江戸の品川沖から駿州清水港まで三千両で貸切にしてくれたとかいう話。
0597日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/17(土) 20:22:05.48
その船は台場の先に碇泊している。これに乗る移住連の人数は二千五、六百もあったろう。それも当主は男子だが、あとの家族は老人に子供、婦女に病人などという多くは足弱で、とても一人で身の始末もならぬという者だから、これを艀船で本船まで送るというのが、そもそもの大ごとだった。
0598日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/17(土) 20:23:52.44
便所―――もとよりこの大勢に、五ヶ所や十ヶ所の在来の便所で間に合う理由のものではないから仕方もないのだが、かの梯子の掛るべき下方のところに、四斗樽を十四、五も並べて、それに人々が用を足すのだ。
それでも男子はまだどうにかなろう。たださへもものつましい婦人方が、この大勢の見ている面前で、そんなことのなろうわけだか。…多くは皆然るべき御旗本御家人の奥様、御新造様、御嬢様、御隠居様とも言われた人達で。中には自家の勝手元にも出た事のない、かのやんごとなき側の人もいる。
0600日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/17(土) 20:29:53.99
>>591
「本所の親戚」は、御隠居が二人ともそろっていたのだから、伯父の家ではないな。
他の親戚だ。
0601日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/17(土) 20:33:42.99
▽下田港
静岡県下田市にある港湾である。
嘉永7年(1854年)に締結された日米和親条約により下田港は函館港とともに同日開港され、外国船へ薪炭・食糧・水を供給する補給基地港となった。
しかし5年後の安政6年(1859年)の日米修好通商条約により神奈川港などが開港したことに伴い、下田港は安政6年12月12日に開港が解かれた。
https://cho-raku.jp/contents/wp-content/uploads/2016/01/2016011502m1.jpg
0603日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/17(土) 20:40:00.47
>>602
>>4
エログロ画像をレスされる方は、必ず〈エログロ〉の文字を添付してくださるよう、お願い申し上げます。
0605日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/18(日) 09:33:15.93
★片目屋敷

▽かまち
ここでは上がり框〈かまち〉のこと。土間のある古い日本の家屋には、大きな段差のある上がり框があった。
段差が大きすぎて上がりにくいときは、式台を置いてあがった。
かまちと式台は時代小説には頻出であるので、覚えておくように。
http://www5b.biglobe.ne.jp/iakot/tkm_1-1/14.jpg
なお、現代の住宅にも、かまちはある。段差が小さいだけ。
https://shukenk.jp/wp-content/uploads/2015/12/20151226_agarikamachi.jpg
0606日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/18(日) 09:52:11.33
▽さるすべり〈百日紅〉
ミソハギ科の落葉中高木。中国南部原産。比較的長い間紅色の花が咲いていることから百日紅〈ヒャクジツコウ〉ともいう。
幹の肥大成長に伴って古い樹皮のコルク層が剥がれ落ち、新しいすべすべした感触の樹皮が表面に現れて更新していくことから、猿も滑るだろうということでサルスベリの名が付けられた。
しかし、実際には猿は滑ることなく簡単に上ってしまう。猿をなめてはならない。
http://pds.exblog.jp/pds/1/200608/29/94/f0005594_11451599.jpg
http://www.shima-tamura.co.jp/blog/wp-content/uploads/2017/06/%E3%82%B5%E3%83%AB_IMG4109_20170614.jpg
0607日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/18(日) 10:01:42.61
▽小普請組
3000石以下の旗本・御家人の無役の者で編成され、旗本を小普請支配、御家人を小普請組とした。 無役無勤の者で普請があった際に家人や召使を出したのが起りである。
司馬さんは小普請組に「むやく」のルビを振られる。江戸時代のニートである。
芦名靱負は1000石の旗本なので、正確には小普請支配である。
※小普請組の娘役が多かった高樹蓉子
http://www.geocities.jp/takahajime2003/uvs071030-010.jpg
http://www.geocities.jp/takahajime2003/kodure1.jpg 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:398130fb352551638c7f2379a2b1e0e9)
0608日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/18(日) 10:06:04.36
▽土下座
『魏志倭人伝』には、邪馬台国の風習として、平民が貴人と道端で出会うと、「道端で平伏して拍手を打つ」との記載があり、古くからの日本の習慣であったと思われる。古墳時代の埴輪の中には平伏し、土下座をしているようなものも見受けられる。
また、近代まで庶民が貴人に面会するときも土下座をするのが通常であった。近世の大名行列に対し、行きあわせた庶民は土下座をしなければならないという認識もあるが、実際に土下座の義務があったのは将軍、御三家、およびその地の領主に対する場合のみであった。他方で義務がなくとも自発的に土下座をする庶民もいた。
0609日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/18(日) 10:17:21.09
▽御親兵兵舎
尾張徳川家は江戸に総坪数31万1000坪余にもなる屋敷を所持し、諸大名のなかで最大規模を誇っていた。
尾張藩上屋敷は当主の住まいで政庁も置かれた。明治4年、兵部省用地として召し上げられ、以後は一貫して陸軍用地となり、現在は防衛省の敷地となっている。
http://network2010.org/contents/files/mado/nagoya_mado_photo/2023_01.jpg
0611日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 10:28:58.27
▽前田善蔵
十津川郷士だが、現在は帰化薩摩人ともいうべき存在で、陸軍大尉。架空の人物。
なお、前田善蔵は、忠臣蔵の原惣右衛門が用いた変名のひとつである。
0612日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 10:39:02.92
前田善蔵は架空の人物だが、司馬さんは彼の略歴を紹介されている。それを読んでいると、この時代にいかにも存在しそうな人物に思える。
こういうオリジナル・キャラクターに、僕らは胸躍らせた。
現在のゲームのオリジナル・キャラクターで、歴史上の著名人や古典小説の登場人物と同姓同名を騙るものがある。
それらが画像検索の上位を独占している状況を見ると、心底腹が立つ。
平成バカは、実にくだらないものに胸躍らせている。
0613日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/18(日) 12:48:22.70
▽国樔人
大和国吉野郡および常陸国茨城郡に居住したといわれる住民。
『古事記』神武天皇の段には、国神イワオシワクノコを「吉野国巣之祖」とする。また『日本書紀』応神天皇19年の条によれば、応神天皇が吉野宮へ行幸したときに国樔人が来朝し、醴酒(こざけ)を献じて歌を歌ったと伝える。同条では人となり淳朴で山の菓やカエルを食べたという。交通不便のため古俗を残し、大和朝廷から珍しがられた。
※奈良県吉野町国栖 https://uub.jp/47/nara/nara_map1.png
0614日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/18(日) 12:52:40.51
▽十津川郷士
地域の住民は古くから朝廷に仕えており、壬申の乱の折にも村から出兵、また平治の乱にも出兵している。これらの戦功によりたびたび税減免措置を受けている。
幕末になると、上平主税などを筆頭に勤皇の志士となるものも多く、また千名を超える兵動員力を期待され、過激派公家の思惑などから薩摩、長州、土佐等と並んで宮廷警護を命ぜられた。維新後は全員士族となった。
0617日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/18(日) 13:22:05.67
▽桐野利秋
明治5年3月、鎮西鎮台の司令長官に任命され熊本に赴任したことは既述した。桐野の帰京時期はよくわからないが、明治5年11月には東京にいたようである。
既に何度か述べられている北村長兵衛〔>>310〕と別府晋介〔>>315〕の朝鮮偵察は、桐野が鎮西鎮台司令長官時代のことである。
桐野は、軍艦春日丸で倭館へ向かう外務大丞・花房義質につけて、鎮西鎮台対馬分営駐屯兵を送り出した。このとき春日丸には、花房に同行する陸軍中佐・北村長兵衛、同少佐・河村洋與、加えて偵察のため、陸軍大尉で利秋の従兄弟・別府晋介、後に評論新聞を創刊する利秋の友人・海老原穆が乗り組み、倭館に滞在した。
桐野は明治6年4月から陸軍裁判所所長を兼任している。
0618日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 13:26:47.75
桐野はこのときも蝦夷地の話などを面白くして聞かせて、ひきあげた。
明治4年7月、桐野は函館に視察を命ぜられた。帰ってきてからは札幌に鎮台を設置する必要を上申した。これがのちの屯田兵設置の嚆矢となった。
0620日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 13:39:04.27
桐野の記憶では上野総攻撃の数日前、桐野が神田橋付近を歩いているときに十人ばかりの彰義隊士に遭遇し、むこうから斬りかかってきた。
そのとき桐野が斬った彰義隊士が、千絵の兄・芦名新太郎〔>>588〕であった。
0621日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 13:44:04.86
▽河野四郎
上記の神田橋事件のとき、桐野と同行していた薩摩藩士。架空の人物。
幕末の豊前小倉藩藩士に同姓同名の河野四郎がいるが、文久3年(1863)に自刃しているから、本章の河野四郎とは別人である。
0622日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/18(日) 20:03:56.75
▽因州藩
鳥取藩32万5千石のこと。因幡国・伯耆国(現在の鳥取県)の二国を領有した大藩。藩庁は因幡の鳥取城(鳥取市東町)に置いた。
江戸時代を通し池田氏が治めた。慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いの後、池田恒興の三男の長吉(輝政の弟)が6万石で入封し、鳥取藩が立藩した。元和元年(1615年)嗣子・長幸の代に備中松山藩に転封となった。
同年播磨国姫路藩より、輝政の子・池田利隆の嫡男で池田宗家にあたる池田光政が32万石を与えられて入封した。鳥取池田家は池田家の分家筋であったが、輝政と徳川家康の二女・督姫の間に生まれた忠雄の家系であることから岡山の宗家から独立した国持大名とされ、外様大名でありながら松平姓と葵紋が下賜され親藩に準ずる家格を与えられた。
0623日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 20:07:45.42
▽仇討ち禁止令
明治6年2月7日。太政官布告第37号。
司法卿の江藤新平が仇討ち禁止令を出した。
0624翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/02/18(日) 21:47:25.37
第13章 廟堂

〔一〕征韓派
大久保が近畿方面の遊覧を終えて東京にもどっているということは、桐野利秋らはよく知っていた。
が、大久保の帰京を桐野らは重視しなかった。どころか、意にも介さなかったといってよかった。
「一蔵どんに、もはや何ができるか」
と、すでに西郷の征韓策が三条実美の了承するところとなっていることに気をよくし、あとは西郷をして玄界灘を渡らしめることしか考えていなかった。
0625日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 21:53:49.34
▽純粋防衛論
「征韓論から三十年後、なお資本主義がいたって未熟の段階にありながら、朝鮮を侵略してこれを支配した。旗としてかかげるところは、朝鮮ととらねばロシアの南下がふせげない、というにあり、ここには資本主義的な現実感覚はすこしも作動していない。
満州を独立させてその支配下においたのも資本主義の歴史的発達というようなものではなく、朝鮮の場合と同様、帝国主義の形跡だけを模倣したにすぎない。要するに生命線主義であり、現実とは無縁の純粋防衛論にすぎない」
司馬遼太郎は、産業資本による市場獲得を伴わない海外進出を、帝国主義から区別して、純粋防衛論と呼んでいる。
0626日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 22:12:30.85
▽ロシアの南下政策
1689年のネルチンスク条約以来、18世紀にまでに中国との国境協定が続いた。19世紀になると積極的なロシアの東アジア侵出がはかられ、東シベリア総督ムラヴィヨフのもとで、中国への圧力を強め、1858年のアイグン条約、ついで1860年の北京条約で領土を拡張した。
ついで日本海方面へ進出して1860年にウラジヴォストーク港の建設を開始、さらに1891年にシベリア鉄道の建設に着手して東アジアへの野心を強めた。
0627日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 22:14:48.67
1894年の日清戦争に際しては、いわゆる三国干渉を行って遼東半島を清国に返還させたことによって清朝との関係を深め、1900年の義和団事件で満州に出兵、戦後も撤退せず、同じく大陸進出を目指した日本との対立を深めていった。
このような動きを警戒したイギリスは、それまでの光栄ある孤立という姿勢を転換させて1902年に日英同盟を締結する。この20世紀初頭の満州進出なども広くロシアの南下政策に含まれ、1904年の日露戦争の要因となった。
0628日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 22:29:27.67
▽イギリスの中国進出
18世紀になると、ヨーロッパ人の生活にもう一つの変化がおこった。それは紅茶を飲む習慣が広まったことで、とくにイギリスでは、清国から輸入する茶は生活必需品となり、多額の費用がかかった。茶は高価な商品だったので、イギリスは、植民地のインド人に麻薬であるアヘンをつくらせ、これを茶の代金として清に売りつれた(三角貿易)。
0629日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 22:30:55.93
清がアヘンの輸入を禁止すると、イギリスは、自由貿易をさまたげたとして軍艦を派遣して戦争をしかけ、1840年、アヘン戦争が始まった。戦争は2年あまりも続き、圧倒的な力をもつイギリスの海軍が海上を封鎖して、1842年、清は不平等な南京条約に調印した。こうして、中国はしだいに半植民地の状態に置かれるようになった〔>>555〕。
この情報は日本にもたらされ、大きな衝撃をあたえた。
0630日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 22:35:11.67
以上の二つの要因に、ペリー艦隊の開国要求が加わって、日本国内の緊張はヒステリー状態に達した。
海岸線が長く、内陸戦が可能な内懐ろがないという地理的悪条件の下で、大陸に防衛拠点を求めるという純粋防衛論が生まれた〔>>625〕。
0631日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 22:45:21.78
▽大久保利通
大久保には人間としての面白みは、皆目なかった。日本人が他人を敬愛する場合、その人物の弱点の部分をむしろそれが人間味であるとして惹かれたりするが、大久保にはまるでそれがないようであり、たとえば酒でも女でも失敗することがなかった。
0632日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 22:48:40.80
大久保利通には京都に愛人「おゆう」がいて、4人の子どもを生ませている。
0633日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 22:57:57.93
大久保は、版籍奉還のとき、藩知事は世襲でなければならないと主張して、長州人を驚かせた。
木戸をはじめとする長州人は、大久保の後ろ髪をつかんでいる島津久光という超保守家の存在を過少評価していた。
0634日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 23:01:29.95
大久保は徳川東照公を尊敬していると公言していた。
これも封建主義者ともいうべき島津久光向けの言葉であった。
0635日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 23:17:46.34
▽高橋新吉
天保14年 (1843) - 大正7年 (1918)
薩摩藩士。長崎に遊学して英学者何礼之の塾に学び、洋行費と学資を得るために英和辞書編纂に着手した。フルベッキの援助を得、明治元年戊辰戦争前後に脱稿、同2年「和訳英辞林」として上海の米国長老派教会美華書院の印刷で初版を発行、同6年東京版を刊行した。
この間明治3年米国に留学。同4年帰国し、大蔵省租税寮に出仕、以後大蔵権少書記官、長崎税関長、長崎県権大書記官など財政の局に当り、明治20年九州鉄道創立と共に社長、同31年日本勧業銀行総裁に就任。また明治30年より貴族院勅選議員、大正7年男爵となった。
0636日本@名無史さん
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2018/02/18(日) 23:25:43.71
▽“過ぎたるは猶及ばざるが如し”
良いと言われることでも、やり過ぎは害になるということ。『論語・先進』
本章では、大久保が高橋新吉にこの言葉を語ったと述べられている。
0637翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/02/18(日) 23:35:13.38
第13章 廟堂

〔二〕反征韓派
岩倉がようやく自信を得たのは、十月一日の夜である。
(木戸も大久保も軟化した。廟堂に立つ気になったらしい)
という安堵が、岩倉を勢いづけた。大久保も木戸もたがいに相手の名をあげ「彼が出れば自分も出る」と言いだすところまで態度をやわらげてくれたのである。
0638日本@名無史さん
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2018/02/19(月) 17:41:06.44
▽参議
明治2年7月の太政官制の復活により、「大臣」「納言」とともに「参議」が置かれた。
明治3年には、肥前佐賀藩出身の大隈重信の参議昇格を巡り、賛成派の木戸孝允と反対派の大久保利通・副島種臣・広沢真臣が対立し、大久保らが一時辞表を出す騒動となった。結局木戸が譲歩し、大隈の参議昇格と引き換えに、大隈は民部大輔と大蔵大輔との兼任を解かれ、民部省の職務は大久保らが関与することになる。
0639日本@名無史さん
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2018/02/19(月) 17:48:38.24
明治4年、西郷隆盛は、木戸孝允一人を参議とし他の者は省庁に下ることを提案し、大久保らの賛同を得た。しかし、木戸本人に固辞されたため、西郷自身も参議に就任するという妥協に応じて共に参議に就任した。
その後、藩閥勢力の均衡を図るため、大隈と板垣退助が参議に就任している。藩の勢力が温存されることを嫌った大蔵卿大久保は、有司専制体制の確立のため、大蔵省と民部省を統合し、自身が長官を務める大蔵省の権限を強大なものとした。
しかし、直後に岩倉使節団の一員として大久保は洋行したため、大蔵省は留守を守る大蔵大輔井上馨によって牛耳られることになる。井上は「今清盛」と呼ばれるほどの権勢で新政府全体をもリードした。
0640日本@名無史さん
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2018/02/19(月) 17:52:33.35
職制上は次席にすぎない大蔵大輔の井上が大きな権力を持つことになったのは、大蔵省に膨大な権限が集中していたためである。
また、実力者である大久保はこの時期参議を辞して大蔵卿専任となっており、参議、省卿、大輔の間の序列が非常に曖昧になっていた。
大隈が民部大輔、大蔵大輔から参議へ、卿を経ずにいわば二階級特進したのも同様の事情であり、しかも当初は大輔と参議を兼任する予定すらあった。
明治6年には、大蔵省の強大な権限が問題とされ、江藤新平ら反大蔵省派が勝利し、井上が辞任することとなる。そして制度改革により正院における参議の地位向上が明確なものとなった。
0641日本@名無史さん
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2018/02/19(月) 17:54:44.77
明治六年政変においては、西郷や板垣、江藤新平といった有力者が参議を辞任して政府の求心力が低下するなか、大久保利通は内務省を創設し自身が内務卿となると共に、参議と各省長官を兼任する制度を導入し、政府意思の一体化による政治の引き締めを図った。
この時点で大幅な権力が内務省に移管され、その長官である大久保を以後の政府の実質的な単独首班とする見方が強い。
0642日本@名無史さん
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2018/02/19(月) 18:01:55.75
司馬さんは、「大久保は外遊中、参議大隈重信に大蔵省をあずけて行った」と、ここでも繰り返されている〔>>451-454〕。
しかし、明治の歴史は上記したとおりである。
明治3年に大隈重信の参議昇格に反対して辞表まで提出した大久保が、「大隈重信に大蔵省をあずけた」と述べられると、違和感が強い。
また、司馬さんの眼中には、大蔵大輔井上馨はないのであろうか?大隈を大蔵大輔から外したのは、ほかならぬ大久保利通である。
0643日本@名無史さん
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2018/02/19(月) 18:07:35.79
井上馨の大蔵大輔辞任・下野後は、大隈重信は大蔵大輔に返り咲いたし、大久保とも親密になったので、結果オーライということで許して。
0644日本@名無史さん
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2018/02/19(月) 18:34:10.95
★大久保邸

▽明治6年9月28日
岩倉が大久保邸を訪ね、大久保の参議就任を要請する。
大久保は島津久光を敵に回すこと、並びに桐野らに暗殺されることを恐れて、参議就任を固辞した。
「桜田門外の井伊直弼の二の舞ではないか」
0645日本@名無史さん
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2018/02/20(火) 17:43:23.99
▽円了無参
鹿児島市草牟田にある誓光寺の住職。城下南林寺や島津菩提寺である福昌寺の住職も務めた名僧。
護国神社から城山団地の坂道を約200mのぼった所に座禅の森があり、西郷隆盛や大久保利通が青年時代、座禅をくみ、修養をつんだという座禅石が残っている。当時の若き志士たちは、誓光寺の住職であった円了無参の教えを受け、日夜座禅し、修行に励んだ。
http://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/02/f34704039194b9bcc6534bc850dd78af.jpg
0646日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 05:28:45.29
▽“静定工夫試忙裡 和平気象看怒中”
欧陽脩の言葉。「静定の工夫を忙裡に試み、和平の気象を怒中に看る」
「如何なる多忙の時でも、静定の工夫を積んで、狼狽せず綽々の余裕を持つべし」
「怒気心頭を衝き渾身血熱する時、反って平然居常の如くし、和平の気象を保つべし」
0648日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 05:37:29.44
▽清興寺
誓光寺〔>>645〕の誤り。あるいは故意に当て字を用いたのかもしれない。
大久保利世〔>>129〕は、無参禅師について禅を学び、親しく交わっていた。こうした関係から、自然と大久保利通も参禅するようになり、毎朝未明に起きて、西郷隆盛とともに歩いて草牟田まで通っていたという。
0649日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 05:38:59.81
>>645
無参禅師は吉井友実の叔父。家禄を召し上げられて出家したと伝えられる。
0650日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 05:44:18.68
清興寺の庭にあった平坦な岩が、>>645の誓光寺の座禅岩。
>>645では、後に精忠組のメンバーになる多くの志士が無参禅師の薫陶を受けたように書いているが、
司馬さんのいわれるとおり、大久保と西郷の二人だろう。
岩の大きさからして、三人以上が座禅をするのは無理だ。
0651日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 05:58:00.84
木戸は長州藩という書生の暴走が政治だった藩の出身で、大久保のように権力を把握したという体験も持っておらねば、西郷のように藩大衆をよろこんで死地におもむかしめるという体験も持っていない。
0652日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 06:52:36.35
大久保が参議就任を固辞する理由は、久光派から不忠者呼ばわりされているのが辛かったからである。もっともその久光の弾劾を大久保や西郷がどれほど辛がっているかは、封建の武士道徳の世界に育たなかった岩倉にはよくわからない。
「国に事情がござる」
とのみ言う大久保の辛さは、政友の岩倉よりも、いまは政敵になった西郷だけが理解できる気持ちであった。
0654日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 07:05:08.09
▽9月24日
伊藤博文より手紙がくる。翌25日にも、伊藤から手紙が着ている。
木戸も参議就任を固辞している。
0657日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 07:16:28.58
★日本橋小網町

▽9月30日
岩倉が木戸邸を訪ねた前日、岩倉は西郷に直接会っている。
西郷は廟議が再開されないことを憤っていた。
遣韓大使の一件が内定したのが8月17日、岩倉の帰国が9月13日、岩倉は9月23日から7日間の賜暇をとっている。
0658日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 07:44:09.23
★岩倉邸

▽10月2日〔>>492
岩倉は、征韓論強硬派の西郷・板垣・江藤を除く参議を説得すべく、大木喬任・後藤象二郎・大隈重信を自邸に呼んだ。
大隈は、伊藤とともに征韓論潰しに奔走している自分を中立派と勘違いしている岩倉に呆れた。
0659日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 07:56:08.81
▽神戸運上所
慶応4年1月25日、伊藤博文(27歳)は兵庫鎮台外国事務総督・東久世通禧(36歳)の下で参与兼外国事務掛となり、2月3日、政府の職制改革に伴って兵庫裁判所外国事務局判事に任ぜられた。
このとき兵庫の商人である北風荘右衛門や畠山助右衛門も、外国事務局の運上所用掛に就けられる。
5月23日、兵庫県設置。伊藤が初代知事になった。
0660日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 08:47:07.68
慶応4年1月15日、成立早々の新政府は神戸の運上所において六ヵ国の公使を集め、
「ただいま天皇の政府が成立しました」
と宣言した。
0661日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 08:49:41.60
▽新参議馘首案
伊藤博文が考案し、三条実美に一蹴された案。
外遊組の留守を預かるために任命された新参議を退陣させて、西郷の手足を切り払ってしまうというもの。
0662翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/02/21(水) 09:00:33.54
第13章 廟堂

〔三〕桐野利秋
西郷の場合、もし伊藤のような政治達者がその配下にいれば事態がどうなったかわからないが、しかしたとえ居ても西郷はすでにそういう政治的機略家を近づけない雰囲気を持っていたし、自分の徳望と誠実でもって世の中が動くものと信じていた。
桐野は政治秘書には適かなかった。しかし不幸なことに桐野は自分が西郷の無二の政治秘書であると思っていた。
0663日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 09:16:48.31
★日本橋小網町

▽鉄砲射ち
西郷は、懸命にやっていて大きな暗礁にぶつかると、なにもかも嫌になって投げだしてしまう癖があった。
反対派の暗躍を阻止すべき策もなく、手も打たなかった。
0665日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 09:29:33.95
★向島

▽業平橋
大横川に架かる橋で、墨田区業平1丁目より吾妻橋3丁目を結ぶ浅草通りを通す。創架は寛文2年(1662年)。現在の橋は昭和5年(1930年)に架設されたもの。現在、大横川はほとんどが埋め立てられて親水公園となり、昔の面影はない。
この橋の名の由来となった業平天神社は、在原業平が亡くなった場所に建てられた業平塚に由来する。
なお、東武鉄道伊勢崎線のとうきょうスカイツリー駅の旧称は、業平橋駅であった。
http://www.dagashi.org/tokyo/tokyopic/oshiage08b.jpg
0666日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 09:34:09.30
▽向島小梅村
小梅村は、明治22年の市町村合併で本所区に組み込まれ、向島小梅町、新小梅町、小梅瓦町に姿を変えた。さらに昭和6年に小梅1〜3丁目に改変され、ついに昭和39年に向島と押上に名前を変え「小梅」の文字は地図から消えた。
とはいえ、町中には「小梅小学校」「小梅稲荷」など、小梅の文字が数多く残っている。
0670日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 09:59:52.67
▽越後屋の寮
越後屋とは三越のこと。商号の「三越」は、三井家の「三井」と創業時の「越後屋」からとったもの。
江戸時代の1673年(延宝元年)に「店前現銀売り」や「現銀掛値無し」など、当時では画期的な商法を次々と打ち出して名を馳せた呉服店の「越後屋」として創業する。
現在では当たり前になっている正札販売を世界で初めて実現し、当時富裕層だけのものだった呉服を、ひろく一般市民のものにした。1928年には「株式会社三越」となった。
0671日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 10:14:41.26
桐野の政治情報は粗雑なものであった。かれは征韓論つぶしの恐るべき破壊工作者は伊藤博文であるなどということは夢にも知らない。すべて大久保が元凶であるという予断があったため、情報もそういうぐあいに着色された。
大久保が、善玉の西郷にとって赤っ面の悪玉であるという薩摩人の神話ができあがるのは、この時期からであろう。
0672日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 10:22:58.02
▽樽俎折衝 〈そんそ〉
宴席のなごやかな談笑のうちに話し合いを進め、交渉を有利に展開させること。
「樽」は酒だる、「俎」は肉料理をのせる台。転じて、「樽俎」は宴会のごちそうのこと。
0673日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 10:26:36.68
板垣退助と西郷従道の挿話で、桐野利秋が同時代の政府高官から高く評価されていなかったことが述べられている。
0674日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 10:40:00.39
▽アイグン条約 〈1858年〉
1689年のネルチンスク条約以来、清国領とされてきたアムール川左岸をロシアが獲得し、ウスリー川以東の外満州(現在の沿海州)は両国の共同管理地とされた。また、清はロシアにアムール川の航行権を認めた。
太平天国の乱やアロー戦争による清国内の混乱に乗じたロシア帝国東シベリア総督ムラヴィヨフが、停泊中のロシア軍艦から銃砲を乱射して、調印しなければ武力をもって黒竜江左岸の満洲人を追い払うと脅迫し、清国全権・奕山に認めさせた。
http://net1010.net/kujoyama/wp-content/uploads/2015/03/p150312-7.png
0675日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 10:45:00.95
▼北京条約 〈1860年〉
太平洋側のウスリー川の東側の沿海洲をロシア領土に編入した〔>>626〕。
これにより日本海方面へ進出して1860年にウラジオストック港の建設を開始、さらにウラジオストックと首都を結ぶシベリア鉄道建設計画が生まれ、東アジアへの野心を強めた。
http://nekonote.jp/china/old/tr/aigun-pekin.jpg
0676日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 10:49:43.48
▽ムラヴィヨフ 〈1809年 - 1881年〉
1847年東シベリア総督に就任後、ロシアの極東政策に深く関わり、1858年のアイグン条約によるロシア領土の大幅な拡大を成し遂げた人物である。また日本と交渉し、樺太の国境線を確定させた。
http://photos.wikimapia.org/p/00/04/80/64/40_big.jpg
0677日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 10:52:47.84
アイグン条約が締結された安政5年(1858年)は、日米修好通商条約の締結された年でもある。
0678日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 10:59:08.08
▽彭城中平 〈さかき〉
明治時代の探検家。
天保3年(1832)生まれ。生家は長崎の唐通事。明治5年、池上四郎・武市熊吉らとともに満州に派遣され、翌年に帰国した〔>>311〕。その視察報告書「清国滞在中見聞事件」は当時有力な参考資料とされた。明治7年(1874)9月27日死去。43歳。
0679翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/02/21(水) 11:16:42.49
第13章 廟堂

〔四〕海老原穆
「海老原さァは、さしあたって何をなさる」
と桐野が訊いたとき、海老原は意外なことを言いだした。
「新聞を起こしたい」
と、いった。
「新聞?」
桐野は、外国語でも聞くような変な顔をした。
「去年の『日新真事誌』のような新聞を出す」
と、海老原は言った。政府からの弾圧や妨害を受けぬように島津久光を後ろ楯にしたい、と海老原は言うのである。
0680日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 16:46:38.49
★陸軍裁判所

▽陸軍裁判所
明治2年に兵部省の一局として糺問司を設け、軍法会議の事を行わせようとしたが、結局明治5年の陸軍裁判所の設置がその発端となった。日本の軍法会議制度はフランスの制度にならったもので、フランス語のコンセイユ・ド・ゲール conseil de guerre を軍法会議と訳したものである。
0681日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/21(水) 16:53:22.93
▽海老原穆
天保元年(1830年)- 明治34年(1901年)
薩摩藩出身。父は島津家に仕える海老原宗之進。明治4年、西郷隆盛とともに上京し、陸軍大尉を拝命する。しかし、西郷が明治六年の政変で下野したことに呼応して軍職を辞する。
明治8年3月、集思社を設立。「評論新聞」を創刊し、大久保利通の太政官政府に対する痛烈な批判を展開した。これに対し、言論出版を取締る法令である讒謗律に違反するとして逮捕・収監される。
しばらくして保釈され、大久保から親友・西郷の墓誌、伝記を記すように命を受けた。横浜で没、享年73歳。
※大河ドラマ「翔ぶが如く」では草野大悟 https://www.nippon-kino.net/uploads/1/3/0/0/13009758/1352995413.jpg
0683日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 17:01:33.35
>>682
明治4年に上京し陸軍大尉を拝命したのはそのとおりであるが、すぐに官を辞している。
明治5年には愛知県官吏となったが、これもすぐに辞職。
その後は国許にいて、明治6年のこの時期に再び上京した。
0684日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 17:06:37.44
海老原穆の父宗之進は薩藩財政をたてなおした家老調所笑左衛門の部下としてはたらいた。そのため海老原家は尋常の士族などは遠く及ばない豪富をたくわえていたといわれた。
海老原穆は戊辰の役では奥羽に戦い、明治四年には桐野利秋の指揮下で親兵隊に属し、陸軍大尉となった。
明治五年八月には愛知県七等出仕となったが、明治六年の隆盛下野の際に官職を辞した。
0685日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 17:19:10.90
★島津久光

▽明治6年4月23日
明治6年3月に勅使・勝安芳および西四辻公業が鹿児島に下向、その要請に応じて上京する。4月23日東京着。12月25日、内閣顧問に任じられる。明治7年2月、佐賀の乱の勃発を受けて、西郷を慰撫するため鹿児島に帰郷する。
0686日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 17:26:18.07
▽第一回勅使〔>>278
明治2年2月、勅使・柳原前光が大久保利通を随伴して鹿児島に下向する。
「翔ぶが如く」では、久光は仮病をつかって勅使に会わなかったことになっているが、実際には3月2日に京都に赴き、3月3日に参内、6日に従三位・参議兼左近衛権中将に叙任されている。
0687日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 17:31:02.33
▽柳原前光
嘉永3年生まれ。柳原愛子 (なるこ) の兄。柳原白蓮の父。戊辰戦争で東海道先鋒副総督として江戸開城にたちあう。
維新後は外務省にはいり、駐清公使となって、日清修好条規の予備交渉を行うなど初期の対清国問題で活躍した。
明治27年9月2日死去。45歳。
https://celeb-info.com/wp-content/uploads/2014/07/yanagihara_maemitsu_2_20140719.jpg
0688日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 17:32:44.27
▽第二回勅使〔>>279
明治3年12月、勅使・岩倉具視が大久保利通等とともに鹿児島に下向し、久光および西郷に上京を要請する。西郷は上京に同意するが、久光は病を理由にその猶予を願う。
0689日本@名無史さん
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2018/02/21(水) 17:36:53.08
司馬さんも、翌日の連載には「久光はかつて明治二年に上京したことがあり」と述べられている。
その上京とは、第一回勅使の柳原前光の要請に応じたものである〔>>686〕。
第二回勅使の岩倉のときは、上京の猶予を願った。
0690日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 13:34:01.85
▽鹿児島行幸
明治5年6月のこと。この行幸の前の明治4年に廃藩置県が行われた。
島津久光はこれに激怒し、抗議の意を込めて自邸の庭で一晩中花火を打ち上げさせる〔>>281〕。
久光の怒りを鎮め上京を促すための行幸であった。
0691日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/22(木) 13:37:49.60
▽龍驤
日本海軍の軍艦で木造鉄帯の装甲コルベットに類別された。
熊本藩から明治新政府に献上され、装甲艦扶桑の就役まで日本海軍の旗艦としての役割を果たし、明治5年には明治天皇の座乗艦として西国巡幸に使われた。佐賀の乱、台湾出兵、西南戦争に従軍した。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/1/12/Japanese_Ironclad_warship_Ryujo.jpg
0692日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/22(木) 13:42:15.74
▽十四箇条の建白書
島津久光は衣冠束帯の姿を整えて天皇の行在所に赴き、徳大寺宮内卿を通じ天皇に「14箇条の建白書」を奉呈した。
その内容は、当時明治政府が進めつつあった各種の改革を強く非難するものであった。
改革を否定する「14箇条の建白書」は、当然のことながら政府首脳からは全く相手にされなかった。
0693日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/22(木) 13:45:34.45
*天皇の衣装を洋服に改めた。
*西洋の暦(太陽暦)を導入した。
*皇室までも全て洋風に倣うようになった。
*各省が外国人を雇って彼らの指導を受けている。
*学校の規則を洋風にしている。
*軍隊を洋式にしている。
*邪宗(キリスト教)の蔓延を防がない。
*外国人との婚姻を許した。
*散髪脱刀して洋風になり、国風の衣装風俗を軽んじている。
0694日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/22(木) 13:49:37.08
>>693
>西洋の暦(太陽暦)を導入した。

太陽暦の導入は、明治5年11月9日で、久光の「14箇条の建白書」はそれ以前の提出だよ。
0695日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/22(木) 13:54:03.60
失礼いたしました。
「14箇条の建白書」の内容を記した資料がなかったので、おなじく島津久光が明治7年に提出した「20箇条の建白書」の内容を引用しました。
0696日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/22(木) 14:05:49.52
▽太陽暦の採用
「明治5年12月3日を以って、明治6年1月1日とする」
明治政府は明治5年11月9日に改暦詔書を出し、時刻法も従来の一日十二辰刻制から一日24時間の定刻制に替えることを布達した。布告から施行までわずか23日というスピード実施であり、しかも12月(師走)がわずか2日で終わってしまった。
その背景には、翌年の明治6年は旧暦で閏月があり一年が13カ月になり、官吏の給料を13回支払わなければならず、その他の出費もかさむ、いっそ太陽暦を採用すればその心配もなくなり、その上明治5年の12月も2日しかなければ、12月の給料までもまるまる節約できると考えたのです。
0697日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/22(木) 14:12:42.93
▽第三回勅使〔>>685
明治6年3月に勅使・勝安芳および西四辻公業が鹿児島に下向、その要請に応じて久光は上京する。4月23日東京着。
新政府は、久光のために内幸町に屋敷を用意しておいた。
海老原が久光に謁したのは、この屋敷においてである。
0698日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/22(木) 17:14:01.81
★大石弥太郎

▽大石圓
文政12年(1830)土佐国香美郡野市村横井(現・高知県香南市)に生まれる。土佐高知藩の郷士。坂本龍馬より6歳年長。
文久元年(1861年)洋学研究のため江戸で勝海舟の門にはいる。同年武市瑞山らと土佐勤王党を結成し、盟文を起草する。戊辰戦争では参謀、小目付として従軍した。
維新後、軍務局幹事、監察、小参事、軍務司権大属などを歴任し、明治4年1月に兵務司権大属となったが、同年の御親兵の編成にあたってこれに加わることを好まず、官を辞した。その後は一貫して在野の立場から行動することとなった。
大正5年10月30日死去。88歳。名は元敬。のちに圓(円)に改める。通称は弥太郎。
http://img-cdn.jg.jugem.jp/a56/1651172/20100408_789404.jpg
0699日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/22(木) 17:17:06.78
大石弥太郎は、明治6年当時、島津久光から世間からどのように見られ、どのように期待されていたかの具体例として叙述されている。
海老原穆について書くつもりで、島津久光に脱線し、さらに大石弥太郎まで脱線しているのが現状です。
0700日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/22(木) 17:20:51.31
各地の国粋主義者たちは、西郷よりも久光に期待していた。
0702日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 17:39:18.18
▽藤森弘庵
寛政11年(1799年)- 文久2年(1862年)
幕末の儒者・勤王家。江戸生。字は淳風、名は大雅、通称を恭助、別号に天山。『海防論』『芻言』を著し、安政6年(1859年)人心を鼓動するという理由で追放刑となり下総国行徳に移る。文久2年(1862年)赦免され、江戸の次男光吉邸に移り、同年同地で死去した。64才。
大石弥太郎は、藤森弘庵が下総国行徳にいたころに、その門を叩いている。
0703日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/22(木) 17:48:17.42
▽行徳
千葉県市川市の南部の江戸川放水路以南の地域名である。江戸時代には行徳塩田が設置され、水上交通の要所でもあった。
https://uub.jp/47/chiba/chiba_map1.png
https://smtrc.jp/town-archives/city/ichikawa/images/original/05-02-01.jpg
東京都と境を接する千葉県の都市は、東京湾から北にむかって、浦安市→市川市→松戸市→流山市→野田市と続く。
市川市から東に船橋市→習志野市→千葉市→市原市(南というべきだが)
0704日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/22(木) 17:55:24.16
大石弥太郎は、行徳の藤森弘庵の屋敷で、ふたりの長州人と懇意になる。
佐々木男也と木梨平之進である。
0705日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/22(木) 18:03:40.19
▽佐々木男也
天保7年(1836年)- 明治26年(1893年)
長州藩遠近附士・佐々木五郎兵衛の子として、長門国萩で生まれる。文久2年(1862年)右筆となり、文久3年(1863年)学習院用掛となって以降、京都で国事に奔走する。
元治元年(1864年)の蛤御門の変では福原越後隊に所属して戦うが、敗戦とともに潜伏。桂小五郎とともに鳥取藩邸への援助を求めるも断られたために長州へ逃れた。同年の内に八重垣隊を結成し、間もなく南園隊と改称して自身はその総督となる。
維新後は山口藩国政方、施政司試補を歴任したのち、第百十国立銀行支配人、共同運輸会社支配人、日本郵船支配人を務めた。
0706日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/22(木) 18:21:38.26
▽木梨平之進(信一)
天保11年(1840)− 明治33年(1900)
安政5年(1858)、松下村塾に入り、吉田松陰から「近来の勉強家」と評される。万延元年(1860)江戸へ出て桜田藩邸内の有備館の館長となる。四境戦争では津和野藩へ使者として派遣された。  
明治2年、権大参事となり、藩政中枢を担う。明治3年、財政研究のため渡米する伊藤博文に従い、米国財務省で国立銀行制度、租税紙幣、出納、造幣法などを学ぶ。翌年帰国し、山口県や政府に出仕した。
明治11年に依願退官し、士族授産事業の一環として計画された第百十国立銀行(現在の山口銀行)の創設に携わる。明治14年には同銀行取締役、明治23年に三代目頭取となった。明治25年、第2回衆議院議員選挙に当選した。
https://lh3.googleusercontent.com/-MoYrvL6UgEQ/Trh-oPoOtQI/AAAAAAAABJk/q-M3WUbKIM0/s472/%2525E6%25259C%2525A8%2525E6%2525A2%2525A8%2525E4%2525BF%2525A1%2525E4%2525B8%252580.jpg
0707日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/22(木) 22:35:31.24
「世界基準の簡単な日本史だよ!」 

1492年のアメリカ大陸の発見の結果、 
スペインがアメリカ大陸の多くを植民地化し、 
多大な富を奪いヨーロッパで強国となりました。 
スペインだけが強くなるのは困るので 
他のヨーロッパ諸国も植民地の拡大に乗り出しました。 
当時ヨーロッパはオスマントルコには勝てなかったので、 
中東は避け、アフリカ大陸を南下しながら、 
アフリカ、インドに植民地を作っていきました。 
スペインも負けずと1521年フィリピンを植民地化します。 
列強の植民地化の動きは、この時点でジャップのすぐ近くまで来ていたのです。 
戦国時代にイエズス会が沢山ジャップに乗り込んできた理由は明白でしょう。 
そしてとうとう幕末には、その手がジャップまで伸び、 
ジャップも植民地化されました。 
ジャップではこれを「明治維新」と呼んでいます wwwWWW 馬鹿だね〜 w 
しかし宗主国は、ジャップには「明治維新で独立を保った」と 
嘘を教え、馬鹿なジャップ民はこれを信じ、 
今だに植民地化されたことに気づいていません w 
植民地化され急激にジャップも近代化しましたが、 
いままでアジアの3流国家に過ぎなかったジャップが 
急に他のアジアの国よりも近代化した現実を 
ジャップはどう理解したらいいのか分かりませんでした。?(^o^)? 
倭猿にも多少は思考力があったようです w 
そこでジャップの飼い主様はジャップに教えてあげました。 
「ジャップはすごいからだよ!自分たちのすごさにジャップも気づいていないんだよ!」 
土人ジャップはもちろん、このお世辞を喜んで信じました www 
それ以降ジャップのオナニーは止まることを知りません。馬鹿ですね。 
0708日本@名無史さん
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2018/02/22(木) 22:36:00.55
さて植民地化されたにもかかわらず。 
猿ジャップは、人間以下のケダモノの分際で、 
覇権国家になろうと、世界にケンカをうり、コテンパンに負けました。 
しかしアジア各地で狂気に満ちた悪行の限りを尽くし、 
にもかかわらず、謝罪どころか事実の認定さえしないので、 
今だに周辺国からは悪魔のように憎悪されています。 
さらにアメリカに噛み付いたために、 
米軍に国土特に首都圏を占拠され、 
独立国家としての資格を最終的にほぼ全て失ってしまいました。 
ここでジャップの歴史はおしまいw 
その後、売国奴の王・岸信介(ハーフかクオーター)が、 
微かに残っていたジャップの主権を完全にアメリカに売り渡しました(安保改定)。 
今はその孫らしい下痢晋三が、なんと長期政権を担っており、 
最終的にジャップをどこまで地獄に落としてくれるのか、楽しみですね! wwwWWWW
0709日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 10:34:13.43
幕末の反幕運動の世界に土佐郷士がむらがって出てくるが、土佐のような僻遠の地から大量にそういう運動者を出したことについては、端緒をなす者に有力な男が存在しなければならなかった。大石がそうであった。
江戸では、すでに武市の到着する前に、同志の大石弥太郎が、長藩の佐々木男也、時山直八、木梨平之進などと往来していた。
0710日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 10:37:52.40
▽樺山三円
>>82〕で紹介済み。ここでは、大石弥太郎が勝海舟の私塾で知己になった薩摩人の一人として紹介されている。
0711日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 10:51:43.30
▽町田直五郎
白石正一郎日記にもその名が記されている幕末の志士であるが、白石正一郎日記と大石弥太郎関係の文書以外では存在が確認できない。
小松帯刀の女婿で維新後東京国立博物館の初代館長となる町田久成は、幼名を五郎太郎というのだが、同一人物かというと、違うような気がする。
0712日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 10:54:32.63
町田氏は島津氏庶流。幕末もおしつまった頃に名前が出てくるならわかるが、安政の頃に尊王だ攘夷だと叫んでいる下級武士や郷士と交際があるとは思えない。家柄が違う。
0713日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 10:55:46.86
治安維持法により地下に潜伏していた時期の共産党のシンパには、金持ちが多かったぞ。
0714日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 10:57:05.67
その手の金持ちは明治後に成り上がった金持ちの子弟が多い。元は貧乏人。
鎌倉以来の名家の子弟ではない。
0715日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 11:01:40.40
>>711
町田といえば一聴して薩摩人だとわかるから、薩摩の志士の誰かが使った変名かもしれないな。
0716日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 11:05:41.17
幕末をゆるがした反幕運動者の思想は個々にみればまちまちで、反幕という目的では一致し、それが一大エネルギーになった。
が、維新成立と同時に、「こういう政権をつくるために働いたのではない」という不満が思想家ごとにおこった。大石の場合はかつての洋楽志向者から国粋家に変わっていた。
0717日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 11:15:25.26
明治六年政変以後、高知においても不平士族らによる政治活動が盛んとなるが、大石は郷士層を中心に勤王党の流れを汲む「古勤王党派」の中心人物として活動した。大石は萩の乱を起こした前原一誠と親交があったほか、立志社とも挙兵の協議を行っており、西南戦争など一連の士族反乱に呼応する動きがあるとして政府より警戒されていた。
大石が上京して久光と面談したのは、この時期であろう。
0718日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 11:18:09.57
明治11年、山口で脱隊騒動を起こし逃亡中の富永有隣を隠避したかどで逮捕され、2月に松山監獄に投獄された。しかし9月には証拠不十分により釈放され、帰郷後には家督を長男に譲って隠棲した。
ちなみに、富永有隣は明治33年まで生きながらえている。
http://heisei-shokasonjuku.jp/senjindb/wp-content/uploads/sites/2/2013/10/db-photo-tominagayurin.jpg
http://img01.dosugoi.net/usr/i/e/k/iekou/IMGP2459.JPG
0719日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 11:21:53.82
司馬さんが島津久光と大石円の話に脱線していたら、荒らしまで来てしまった〔>>707-708〕。
ここから、やっと海老原穆の話に戻ります。
0720日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 17:19:23.43
★陸軍裁判所

▽太尉
中国古代の軍事長官。秦はこれを三公の一つとし、漢もその制を踏襲したが常置の官ではなかった。前漢の武帝のとき大司馬と改めたが、後漢ではまた太尉と称した。隋・唐以後も三公の一つとして設置されたが、実権はなくなった。
海老原穆は、明治4年、西郷隆盛とともに上京し、陸軍大尉を拝命する。海老原は、これを中国古代の「太尉」と勘違いして喜んだ。あとで尉官の上に佐官と将官があることを知り、「人を虚仮にするにも程がある」といって、官を捨てて国に帰ってしまった。
0721日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 17:26:25.98
▽調所笑左衛門
安永5年(1776年)- 嘉永元年(1849年)
城下士・川崎基明の子として生まれ、天明8年(1788年)に城下士・調所清悦の養子となる。茶道職として出仕し、寛政10年(1798年)に江戸へ出府し、隠居していた前藩主・島津重豪にその才能を見出されて登用される。
天保3年(1832年)には家老格に、天保9年(1838年)には家老に出世し、藩の財政・農政・軍制改革に取り組んだ。
※竜雷太(『西郷どん』:2018年・NHK大河ドラマ)
https://taigatv.net/wp-content/uploads/2018/01/d84bd15e2217426a6b659e82913cd67e.jpg
0722日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 17:31:23.68
当時、薩摩藩は500万両の借金を抱えて財政破綻寸前となっていた。これに対して笑左衛門は商人を脅迫して借金を無利子で250年の分割払いにし、さらに行政改革、農政改革、財政改革を行った。これにより天保11年(1840年)には薩摩藩の金蔵に200万両の蓄えが出来る程にまで財政が回復した。
この改革の取組みとして、琉球を通じた清との密貿易、大島・徳之島などから取れる砂糖の生産において、大坂の砂糖問屋の関与の排除を図った専売制や、商品作物の開発などがあった。
0723日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 17:34:13.62
やがて、斉興の後継を巡る争いがお家騒動に発展すると、笑左衛門は斉興・久光派に与する。これは、重豪に似た蘭癖の斉彬が藩主になることで再び財政が悪化するのを懸念してのことであるといわれている。
斉彬は幕府老中・阿部正弘らと協力し、薩摩藩の密貿易に関する情報を幕府に流し、斉興および調所の失脚を図る。
嘉永元年(1848年)、調所が江戸に出仕した際、阿部に密貿易の件を糾問される。同年12月、薩摩藩上屋敷芝藩邸にて急死、享年73。死因は責任追及が斉興にまで及ぶのを防ごうとした服毒自殺ともいわれる。死後、笑左衛門の遺族は斉彬によって家禄と屋敷を召し上げられ、家格も下げられた。
0724日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 17:45:12.80
司馬さんは、調所広郷の遺産を海老原家が相続したと書かれているが、意味不明。
なお、調所広郷の三男・調所広丈は、札幌農学校初代校長・札幌県令・高知県知事・鳥取県知事・貴族院議員などを歴任し、男爵に叙されて華族となっている。
0725日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 17:46:32.90
海老原穆の父宗之進は薩藩財政をたてなおした家老調所笑左衛門の部下としてはたらいた。そのため海老原家は尋常の士族などは遠く及ばない豪富をたくわえていたといわれた〔>>684〕。
0726日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 17:54:03.65
▽民権運動
民権運動は国会開設運動をふくめてこの明治六年秋の段階ではまだ思想として日本に入っているとはいえない。
0727日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 18:04:19.76
▽古沢滋
弘化4年 (1847) - 明治44年
土佐藩士・古沢南洋の二男として生まれる。上洛し尊王攘夷運動に加わるが、帰郷時に投獄された。
明治2年、石巻県に出仕。明治3年2月、大蔵省に転じ十等出仕となる。同年7月、イギリスへ留学のため派遣され政治経済学を学ぶ。明治6年12月に帰国する。
翌明治7年正月に板垣退助の依頼で民撰議院設立建白書の起草に携わる。本章にいう「建白書」とは、受験日本史頻出の民撰議院設立建白書のことである。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/0/0a/Furusawa_Uro.jpg/220px-Furusawa_Uro.jpg
http://img-cdn.jg.jugem.jp/ca1/736978/20080624_255983.png
0728日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 18:58:15.30
▽中江兆民
弘化4年(1847年)- 明治34年
高知城下の山田町(現・高知市はりまや町三丁目)に生まれる。文久元年(1861年)2月に父が死去し、5月には家督を相続して足軽身分となる。
明治4年11月に横浜を出発し、アメリカから第三共和政時代のフランスへ渡る。フランスではパリとリヨンに滞在し、西園寺公望とも知り合う。
明治7年6月に帰国し、帰国後は東京麹町に住み、ジャン=ジャック・ルソーの『社会契約論』の部分訳である漢字カタカナ混じり文の『民約論』の校訂に携わっている。
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/021/490/98/N000/000/000/129219411008116305507_p_nakae-cyoumin.jpg
https://image.middle-edge.jp/medium/6fd47484e1043253d428ffa1f4a43592.png
0729日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 19:10:35.33
「江戸封建制を復活せよ」
という島津久光が、反政府主義者にとっての光芒であった。
0730日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 19:15:04.61
▽新聞
明治時代に入ると、文明開化の流れに乗って新聞が多数創刊された。明治元年に小冊子形態の新聞が刊行され、佐幕色の『中外新聞』、『江湖新聞』が、明治3年には日本最初の日刊紙である『横浜毎日新聞』が創刊される。
明治5年には『東京日日新聞』(現在の毎日新聞)、『郵便報知新聞』などがそれぞれ創刊された。明治政府は新聞の普及が国民の啓蒙に役立つという認識から、新聞を積極的に保護する政策を取った。
0731日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 19:19:09.34
▽大観堂
日本橋の本屋。各種新聞を取り揃えて、一時間の閲覧料を一銭で客に読ませていた。
ウソか本当かは知らない。
0732日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 19:27:01.95
▽日新真事誌
イギリス人 J.R.ブラックが明治5年3月に東京で創刊した日本語の新聞。初めは左院の議事・議案、建白書を掲載する「左院御用」の新聞であったが、治外法権をもつ外人経営だったところから次第に政府批判の色を濃くした。
明治6年5月には井上馨・渋沢栄一の財政意見書を、また明治7年1月には板垣退助らの民撰議院設立建白書をいちはやく掲載し、その頃から民権派の新聞の代表格になった。
政府は、明治8年1月に新聞経営の放棄を条件にしてブラックを左院に雇い、6月に新聞紙条例を公布して外人による新聞経営を禁止したうえで、その直後にブラックを解雇した。ブラックが手をひいたのちの『日新真事誌』はたちまち勢力を失い、明治8年末に265号で廃刊した。
0733日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 19:33:21.49
司馬さんは勘違いしておられるのか、小説のために敢えて史実を枉げられたのかは知らないが、政府が『日新真事誌』を目の敵にしはじめたのは、明治8年からである。
『日新真事誌』が「左院御用」であるために精彩を欠いたのではなく、「日新真事誌」はそもそも「左院御用」として出発し、その後、民権派の新聞に変貌した(明治7年)。
したがって、海老原穆にわざわざ「去年の『日新真事誌』のような新聞を出す」と言わせる必要はなかった。海老原は現在の『日新真事誌』のような新聞を出せば政府批判ができるのである。
0734日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 19:36:20.70
良いところに目を付けるが、肝心なところで間違えてしまうのが司馬史観(・∀・)ニヤニヤ
0735日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 19:41:17.74
「よか女はおらんどかい?」
と、海老原はいった。
美人で気の利いた女がおれば情報収集に案外な役に立つかもしれない、というのである。
「くノ一でごわすな」
桐野はわざと眠そうな顔になった。
0736日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 19:42:32.26
ここで前章で登場した元旗本の娘・千絵が桐野の脳裏に浮かぶ。
史実とフィクションが上手く繋がりました。
0737日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 19:44:50.23
史実に縛られて小説が思うように書けなくなった司馬さんの悲鳴が聞こえてきそうな叙述になっているな。
0738日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 20:33:36.51
▽東学党
1860年に両班出身で没落した崔済愚が創始した宗教。儒教・仏教・道教を融合させ、西学(カトリック教)に対抗する意味で東学と名付けられた。東学の教徒となって真心込めて呪文を唱え、霊符をを飲めば、天と人間が一体となり、現世において神仙となることができると説いた。
大院君政権は思想統制を強め、東学を弾圧、1863年崔済愚を逮捕し死刑にした。
http://last-sword-legend.up.seesaa.net/image/9BC18DCF8BF01.jpg
0739日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 20:34:37.33
1880年代には、外国貿易による物価高などもあって排外思想が強まる中で、東学は再び活発となり、第二代教主の崔時亨のもとで組織化が進み、「斥倭洋」をかかげ、日本と西洋諸国の排斥を激しく求めるようになった。
1894年、東学の地方幹部が農民の蜂起を指導し、甲午農民戦争(東学党の乱)を起こし、それが導火線となって日清戦争が起こった。
https://www.worldwide-transition.info/img/nissin1001.jpg
0740日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 20:55:32.43
島津久光の建白書より〔>>692
「貴賤ノ分ヲ明ラカニシ、四民ノ別ヲ厳明ニスベキナリ」
士農工商の間の無階級通婚を許すことは、淫乱である。
若い娘を新聞編集の社中に入れることは、淫乱である。
0741翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/02/23(金) 21:49:00.43
第14章 秋の霜 

〔一〕反征韓派
大久保は十月八日から十日すぎまでの間に、反征韓論についての自分の考えを、あらためて踏みかためている。
西郷のいう理由も、大久保にはよくわかっていた。西郷の征韓論の巨視的展望には、朝鮮そのものに最終目標はなかった。それはロシアにあった。ロシアの南下策のすさまじさを見ていて、早晩、これが日本の独立を脅かすことを西郷は予見していた。
大久保もこの恐怖については西郷と同量にもっていた。しかし西郷がそれを純戦略的に観察し、ロシアの南下による被害を未然に防ぐためにいちはやく足場を韓国に設けようという西郷の戦略構想に対し、大久保はそれを不可能とした。
0742日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 21:56:53.12
★麹町区内幸町

▽伊藤博文
10月4日の夜、伊藤は雨滴を髪から頬にしたたらせて、麹町区内幸町にある三条実美の屋敷を訪ねた。
「あなたは、慶喜ですら怖れなかったお方ではありませんか。西郷ごときが何でありましょう」
0743日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:06:42.60
▽10月5日
三条は岩倉に、征韓論を弾劾する手紙を書いた。その内容は、遣韓使節の目的が不明確というものであった。
1.朝鮮の頑陋を除き、旧交を再開せしめ、善隣の誼を結ばしめようとする目的
2.朝鮮を日本の属国にしてしまう目的
3.国内の政情不安を、外征によって他に逸らし、国内の人心統一の実を図ろうとする目的
以上のいずれであるかを、西郷参議より文書で提出させるべきである。
0744日本@名無史さん
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2018/02/23(金) 22:08:37.66
と、遣韓使節の件について勅許まで得た条公が申しております(゚Д゚)ゴルァ!!
0746日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:18:37.83
▽赤誠
偽りや飾りのない心。まごころ。
「赤」という文字には、色彩の赤のほかに、次のような意味があります。
「まじりけがなく熱っぽい」「はだかの」「なにもないむき出しの」
これらの意味から生まれた言葉には、「赤裸々」「赤心」「赤誠」などがあります。
「赤子(せきし)」もその一つで、生まれて間もない子のことです。
0747日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:23:20.01
▽征韓論の政策案としての弱点
西郷の渡韓目的の内容は曖昧である。
1.戦争を期せざるのか …… 朝鮮の頑陋を除き、旧交を再開せしめ、善隣の誼を結ばしめようとする目的
2.戦争を期するのか …… 朝鮮を日本の属国にしてしまう目的
3.戦争を期せざるも已むを得ざるときは戦争を開くのか …… 国内の政情不安を、外征によって他に逸らし、国内の人心統一の実を図ろうとする目的
0748日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:26:44.15
三条は、第一回の征韓論廟議を「あいまいな決定」と規定し、再度くわしく議論すべきであると、手紙の中で述べている。
0749日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:27:10.48
と、遣韓使節の件について勅許まで得た条公が申しております(゚Д゚)ゴルァ!!
0750日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:34:55.53
★大久保邸

▽参議
大久保は明治2年7月に参議に就任している。しかし、明治4年6月に大蔵省と民部省が再度統合されると、大久保は参議より格下の大蔵卿に就任した。
0751日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:38:43.72
司馬さんは、大蔵省が明治4年に制度化されたと述べられているが、慶応4年1月に設置された金穀出納所は、何度か名称を変更された後、明治2年8月、二官六省制になったのを機に、大蔵省と改名されている。
同年9月に民部省と合併し、過去に例のない大型官庁となった。初代大蔵卿には松平慶永が就任した。
0752日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:44:44.73
この合併は、徴税(民部省)と財政(大蔵省)機構の一体化による中央集権体制の確立を主張する長州閥の官吏が強く推進した結果である。
一方、大久保利通・広沢真臣・副島種臣・佐々木高行の四参議が地方官の支持を受けて再分離を求めた。その結果、明治3年7月に大久保が主導して両省の再分離が決定された。
0753日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:49:37.80
再分離は、大蔵省の所管事項があまりにも広くなりすぎて、杜撰な地方行政が行われることを危惧した勢力(主として地方官)に乗った大久保が、長州閥による権力の独占を排除した結果である。
しかし、徴税については一括して大蔵省が担当することになったために、統合派と分離派の対立が続いた。
0754日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:53:24.74
その後、明治3年閏10月に工部省が民部省から分離され、民部省の権限を縮小した後に、明治4年7月、改めて民部省は大蔵省に合併されて廃止された。このときの大蔵卿が大久保利通である〔>>750〕。
0755日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/23(金) 22:53:38.47
だが、「巨大官庁・大蔵省」誕生に対する政府内の反発は収まらず、明治6年11月に徴税以外の国内行政部門は再度分離されて、新しく内務省が創設されることとなった。初代内務卿は、大久保利通である。
0756日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/24(土) 18:55:22.78
>>746
中国では生まれて間もない子を交換して食用にしていたからな。
皮膚を剥いだ赤ん坊の赤い肉のイメージから、赤子と呼んだのだろうな。
0757日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/24(土) 18:59:38.31
>>751-754
司馬さんは、木戸孝允と大久保利通の仲の悪さを、性格の違いに帰しているけど、大蔵省と民部省の統廃合をめぐる長州閥と薩摩閥の権力闘争が背景にあるよね。ここはスルーしている。大蔵大輔・井上馨がスルーされているのも、この関係からだろうね。
0758日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/24(土) 19:01:39.37
▽大久保の決断
10月5日から7日にかけて、大久保は熟慮を重ねた上、参議になり廟堂で西郷と対決することを決意した。
0759日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/24(土) 19:14:25.11
▽薩摩系近衛士官によるクーデターの危惧
「賊」の烙印を押されることを避ける方法を、大久保は二通り考えていた。
1.警視庁の兵力をもって宮門を死守し、薩摩系近衛士官の手に帝が奪われることを阻止する方法
2.三条・岩倉が変節しないように証文をとっておく方法
0760日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/24(土) 20:04:39.03
★岩倉邸

▽10月8日朝
三条・岩倉・大久保の三人会議。大久保は三条・岩倉から、反征韓論の意見を変節しないという証文をとった。
0761日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/24(土) 20:18:04.87
★新参議

▽副島種臣
前スレ〔684-686〕で述べた。
副島は、明治2年に参議、同4年に外務卿となった。大久保が大蔵卿になった際に参議からはずれたのと同じように、副島も外務卿に専務するため参議からはずれていた。
明治6年2月には、明治4年に台湾で起きた宮古島島民遭難事件の処理交渉の特命全権公使として清の首都北京へ派遣され交渉にあたった。この間、清朝高官との詩文交換でその博学ぶりを評価をされている。
0762日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/24(土) 20:36:09.16
副島は西郷よりも早い時期から征韓論者であった。征韓論といっても、西郷と同じく遣韓論であった。
「翔ぶが如く」で繰り返し述べられているように、廟議において居留民保護を理由に派兵を主張したのは、板垣退助である。
西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。後藤象二郎、江藤新平らもこれに賛成した。
中国から帰国した副島種臣は、西郷の主張に賛成はしたが西郷ではなく自らが赴くと主張した。
西郷隆盛の死後、板垣退助らの自由民権運動の中で、板垣の推進する征韓論は西郷の主張として流布され、板垣ではなく西郷が征韓論の首魁であることが定着した。
0763日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/24(土) 21:13:32.20
「翔ぶが如く」によると、副島の参議再就任は、伊藤博文の発案で、大久保・西郷ともに賛成した。
0764日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/24(土) 21:32:51.74
▽伊藤博文案
三条実美は、伊藤博文の参議就任を考えた。しかし、これは大久保に一蹴された。
0765日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/24(土) 21:48:56.62
★大久保邸

▽反征韓論 ー 大衆感覚の欠如
征韓論は愚である。日本は生産性が低いうえに政府費用は莫大で、しかも外債が五百万円以上もあり、それを返済するめどもない。この状態のなかで戦争という途方もない濫費をすれば、ついに国家を破るにいたる。
さらに日本は安政不平等条約によって関税の自主権がなく、国内に治外法権があるという半独立国の状態にありながら、それを解決せずに朝鮮の蒙昧を責めるというのは滑稽以外の何ものでもない。
0766日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/24(土) 21:49:29.32
▽殺されるべき人物
大衆は政治について大久保のような生真面目な明晰者を好まないという恐るべき性格をもっている。大衆は明晰よりも温情を愛し、拒否よりも陽気で放漫な大きさを好み、正論よりも悲壮にあこがれる。
さらに大衆というものの厄介さは、明晰と拒否と正論をやがては悪として見ることであり、この大衆の中からいずれは一個の異常者が出現し、匕首を握るかもしれなかった。
0767日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/25(日) 19:32:30.42
大久保は参議に就任することを受諾した夜、自分でランプの吊り紐を長くし、机上を明るくして遺言のようなものを書いている。
とくに米国に留学させてある伸顕については文中わざわざ指名し、
「外国にあって自分の変を聞くのはさぞ驚くべきことであろうが……」
と、書いている。変がおこることを大久保は予期という以上に確信していたことが、この一事でも察せられる。
0769翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
垢版 |
2018/02/25(日) 19:59:25.43
第14章 秋の霜

〔二〕征韓派
日本橋小網町の西郷は、十月に入ってから不愉快な日がつづいている。
「いっちょん、廟議が開かれもさんな」
と問う者があると、最初のころは、
「諸公も忙しかとごわンそ」
といっていたが、日が過ぎてゆくにつれて、そういう質問があると、そっぽを向いて答えなかった。
0770日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/25(日) 20:05:52.93
★日本橋小網町

▽10月11日
西郷の督促に応じて、三条は10月11日に廟議を開くことを西郷に約束した。
しかし、大久保が準備の都合で時間が必要な旨を三条に申しやると、三条は廟議の日を10月14日に変更した。
その旨を三条が西郷に申し伝えたのが10月11日だった。
0771日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 07:29:00.34
★山県有朋

▽陸軍卿
明治5年、34歳で陸軍中将になる。
ロシアの南下政策に強い懸念を抱いている点では西郷と同じであるが、征韓論には批判的であった。
山県は明治6年1月の徴兵令の将来に期待をかけていた。つまり、時期尚早論。
0772日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 07:37:22.00
▽山城屋和助事件〔>>153-156
明治5年11月29日、山県への面会を諦めた山城屋は陸軍省内部の一室で割腹自殺した。
大河ドラマでは、芦名千草という千絵〔>>583〕の姉も登場していた。山城屋和助の愛人だった。
※芦名千草役は南條玲子
https://s-media-cache-ak0.pinimg.com/originals/65/35/8e/65358e231449baca4ee9bf8c0847bc3c.gif
※山城屋和助役は藤堂新二
https://i.pinimg.com/236x/16/f6/f2/16f6f2638b3945c31ea279558f384170.jpg
0773日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 07:46:07.89
▽近衛都督
明治5年2月に近衛条例が制定され、御親兵〔>>271〕が近衛と改称された。各地の鎮台が陸軍卿の権能内におかれた政府軍であるのと異なり、近衛の総指揮官である近衛都督(初代山県有朋、二代西郷隆盛)は天皇に直隷した。また近衛兵は壮兵つまり職業兵制をとることになった。
0774日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 07:51:11.11
近衛の薩摩系将校らは、上司である近衛都督山県有朋の辞職を要求した。
明治6年4月、山県有朋は陸軍大輔および近衛都督を辞任する。
西郷が第二代近衛都督になるのは、山県の辞職後である。
0775日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 08:04:01.55
▽三浦梧楼
弘化3年(1847年)- 大正15年
萩藩士の陪臣五十部吉平の五男として生まれる。明倫館で学んだ後、奇兵隊に入隊して第二次長州征伐や戊辰戦争に従軍する。
維新後は兵部省に出仕、明治7年には陸軍省第3局長として台湾出兵に反対。明治9年、萩の乱の鎮定に赴き、翌年の西南戦争では第三旅団長として各地を転戦、城山を陥落させた。明治11年に陸軍中将となり、西部監軍部長。
長州出身ながら藩閥政治に反対する立場をとり、また山縣有朋とは奇兵隊時代から不仲であったこともあり、谷干城・鳥尾小弥太・曾我祐準らとともに反主流派を形成し、月曜会の中心人物として山縣有朋・大山巌らと対立した。
https://jpreki.com/wp-content/uploads/2015/08/miura-ro.jpg
0776日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 08:12:09.45
三浦梧楼の山城屋和助事件への関与については、筆者は詳しく知らない。
鳥尾小弥太〔>>259-260〕は、深く関与している。当時の鳥尾と山縣の仲はまだ険悪ではなかった。
0777日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 08:21:46.10
桐野利秋ら薩摩系近衛士官は、長州系の高級将校の辞任をも追及した。
西郷は、この事件を契機に薩長間に激烈な闘争が生じることを怖れ、桐野らを抑えた。
山県は2ヶ月後に陸軍卿に昇格して復職した。
0778日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 10:06:34.76
▽徴兵令
前スレ〔859-863〕で詳述した。
明治6年1月10日(新暦)に施行された徴兵令で、士族および農民の明治新政府に対する不満が一挙にヴォルテージを上げた。
士族にしてみれば、明治5年の国民皆兵をうたう徴兵告諭でプライドを傷つけられ、翌明治6年には征韓中止で活躍の場を奪われた。
農民にしてみれば、江戸時代260年のあいだ兵士にとられることがなかったのに、維新によって若い労働力を鎮台に奪われることになった。
0779日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 10:10:00.08
▽鎮台
鎮台についても、前スレ〔638-639〕に述べた。
明治4年8月に、東北鎮台(仙台)、東京鎮台、大阪鎮台、鎮西鎮台(熊本)の4鎮台が設置された。
明治6年に名古屋鎮台と広島鎮台が増設された。同年の徴兵令施行とともに、徴兵された兵士が鎮台に入隊するようになった。
0780日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 10:12:41.13
鎮台の平時兵力ー3万1,680人
歩兵14個連隊
騎兵3個大隊
砲兵18個小隊
工兵10個小隊
0781日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 10:17:31.13
▽師管
師管が設けられたのは、鎮台条例改定により6鎮台が設置された明治6年1月である。このとき鎮台の管轄が軍管、連隊の管轄が師管と定められた。6鎮台・14師管の体制。
0782日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 10:20:04.42
第1軍管:東京鎮台
  第1師管(東京) 第2師管(佐倉) 第3師管(新潟のち高崎)
第2軍管:仙台鎮台
  第4師管(仙台) 第5師管(青森)
第3軍管:名古屋鎮台
  第6師管(名古屋) 第7師管(金沢)
0783日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 10:21:38.39
第4軍管:大阪鎮台
  第8師管(大阪) 第9師管(大津) 第10師管(姫路)
第5軍管:広島鎮台
  第11師管(広島) 第12師管(丸亀)
第6軍管:熊本鎮台
  第13師管(熊本) 第14師管(小倉)
0784日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 10:27:52.65
▽陸軍戸山学校
明治6年6月、旧尾張藩下屋敷跡に陸軍兵学寮戸山出張所が設置され、上下士官の訓練事務を始めた。翌明治7年2月、陸軍戸山学校と改称した。
歩兵戦技(射撃、銃剣術、剣術など)、歩兵部隊の戦術、体育、軍楽の教官・生徒育成と研究を行った。早稲田大学から5分ほど歩いた戸山公園は、都心で最も標高が高い。そこにはかつて陸軍戸山学校があった。
http://toyamaryuiaido.jp/images/toyamaryu/rikuguntoyama.jpg
http://livedoor.blogimg.jp/noraneco711/imgs/3/1/316dc174.jpg
0785日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 10:36:16.79
▽陸軍士官学校
日本陸軍の現役将校養成補充機関。前身は明治元年京都に設けられた兵学校で、これが兵学所、兵学寮を経て、明治7年に陸軍士官学校と改称され、東京の市ヶ谷に移転した。
司馬さんは、「士官学校を兵学寮の中に置く」と述べられているが、意味不明である。単純に兵学寮を改称して陸軍士官学校としたと覚えておけばよい。
http://blog-imgs-16.fc2.com/b/e/s/besankosyashin/20071125191053.jpg
0786日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 11:17:09.62
▽兵部卿・陸軍卿
仁和寺宮嘉彰親王:明治2年7月 - 12月
欠:明治2年12月 - 明治3年4月
有栖川宮熾仁親王:明治3年4月 - 明治4年6月
欠:明治4年6月 - 明治6年6月……陸軍省設置は明治5年2月〔>>303
0787日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 11:20:38.82
▽兵部大輔・陸軍大輔
大村益次郎:明治2年7月 - 11月(同年12月7日に死去)
前原一誠:明治2年12月 - 明治3年9月
欠:明治3年9月 - 明治4年7月
山縣有朋:明治4年7月 - 明治5年2月……山県は明治6年4月まで陸軍卿代理(陸軍大輔)
0788日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 11:21:40.97
★日本橋小網町

▽出張の挨拶
山県は国内各地の鎮台を視察するため、東京を離れる。その挨拶のために、西郷を訪ねた。
0789日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 11:24:18.10
「もう一両年経てば兵制の基礎が立ちましょう。そうすれば兵を海外に出すことも出来ましょうが、いまならばよほど困難します」
0790翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/02/26(月) 11:31:24.44
第14章 秋の霜

〔三〕板垣退助
裏切った、という表現が成りたつとすれば、この場の板垣退助と副島種臣は、ごくあっさりと西郷を裏切ってしまったのである。
「海軍の兵備が整わぬとあれば仕方がありませんな」
と、板垣が言い、副島がうなずいた。
板垣などは、
「当日、西郷君を欠席させてはどうでしょう」
とまで言いだしたのである。
0791日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 12:22:45.37
★麹町区内幸町

▽10月13日
廟議の日の前日になって、三条と岩倉は、征韓派の板垣退助と副島種臣に翻意を促すことを思いたった。
二人は大久保の了承を得て、10月13日午後、板垣と副島を麹町区内幸町にある三条邸に呼んだ。
0792日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 12:34:35.26
▽“古池や買わず飛び込む御簾の内”
太政官の大官が無料で広大な旧大名屋敷を手に入れたことを皮肉った川柳。
当時の東京の庶民が三条家の門前に落首したと書かれているが、もしかすると司馬さんの創作かもしれない。
0793日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 12:41:28.40
▽勝海舟
文政6年〈1823年〉 - 明治32年
明治5年5月に海軍大輔に任じられ、明治6年3月には勅使として西四辻公業と共に鹿児島へ下向し、4月に島津久光を東京へ上京させた〔>>685〕。
明治六年政変で西郷らが下野した後の10月に海軍卿に任じられたが、翌7年の台湾出兵に反対して引き籠り、欠席したまま明治8年4月に元老院議官へ転属したが、11月に辞職して下野した。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/7/7a/Yoshiyasu_Katsu_in_Meiji.jpg
0794日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 12:44:36.34
海軍には雄藩が献上した商船まがいの小軍艦と東艦があるぐらいで、朝鮮の沿岸砲を打ち砕いて陸兵を上陸せしめる戦力はないと、海軍大輔勝安芳は言った。
0795日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 12:49:30.32
 
  ∧_∧     ∧∧
 ( ´∀`)∬ ∬ (゚Д゚)  「勝先生がそうおっしゃるようなら、仕方がありません」
 (__   ⊃目 目⊂ ノ
  し__)┳━┳ (_っ
0796日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 12:58:53.48
革命家というのは、やはり特異な精神体質をもつものであるかもしれない。
同時代にかれらよりもはるかに学殖があった者や志の高かった者もいたし、あるいは徳望をもった者もいたが、しかしそれらの人々が日常の常識的世界の安らかさの中で過ごしているときに、この連中のみは、誰に頼まれたわけでもなくまるで天命を受けているがごとくして異常の行動をしつづけてきた。
0797日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 13:04:21.71
この連中が、常識的世界から出てきた連中と交わるのは明治後である。交わりつつも、ついには交わりきれないものがあるのは、この連中の過去を動かしてきた志、あるいは精神の肉腫のようなものが邪魔をするのかもしれない。
0798日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 13:06:29.38
以上は、革命家としての履歴の浅い板垣と副島が、常識的世界の人間として、簡単に説得に応じたことへの感想として司馬さんが述べている。
0799日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 14:14:31.99
▽事実上の宰相
この時期になると、大久保利通は事実上の宰相であるという翳が濃くなる。
参議の地位についてまだ数日でしかないのに、上位の太政大臣三条実美と右大臣岩倉具視がいちいち大久保の意向をうかがうという、一見常識では信じがたい態度をとりはじめ、そのことが大久保利通という廟堂では最新参にすぎないこの参議を、就任早々事実上の宰相に仕立てあげた。
0800日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 14:24:12.00
★日本橋小網町

▽勝ち目
西郷は自分の上程案に勝ち目が薄くなっていることまで気付きはじめている。陸軍卿山県有朋が、「地方の鎮台を巡視しますので」といって暇乞いにきたことでもわかる。山県は一ヵ月以上東京を留守にするであろう。西郷が決死の覚悟で渡韓するという時期に、陸軍卿が不在というのは疎漏なことであった。
0801日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 14:44:10.08
▽10月14日朝
三条実美からの使いがくる。
「欠席されたい」との文面であった。
西郷は、使いである三条家の老家令とともに、三条邸にむかった。
0802日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 14:50:00.49
★麹町区内幸町

▽朝七時すぎ
「拙者のみを除外なさるとは、公平を失した御沙汰ではござらんか」
西郷の勢いに怒りがこもっていて、三条は応答もしどろもどろになり、じつは板垣がそう言ったのだ、と、簡単に人名を出してしまった。
西郷は一瞬、息を小さくした。板垣も裏切ったか、と思った。この一事は西郷に悲痛の思いを持たせた。
0803翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
垢版 |
2018/02/26(月) 16:08:11.31
第15章 激突

〔一〕十月十四日
「拙者の意見が行われぬとすれば、もはや已むをえませぬ。職を辞するのみでござる」
この発言がおこなわれたとき、一座が一瞬、凝然としたように空気が重くなった。西郷がその提案に死を賭しているらしいということは諸参議にとって周知のことなのだが、しかし西郷自身の口から進退についての決意を公言されたのは最初で、しかもこれは単におどし言葉ではない。
この会議では二人の公卿をのぞいてみな武士のあがりである。
この一言に天下瓦解という戦慄的な予感をもったのは、三条実美と岩倉具視であった。西郷が太政官を去るとなれば近衛将校団や国もとの薩摩人が黙っていないであろう。かれらが蜂起すれば、鬱勃として天下の乱を待っている日本中の不平士族がいっせいに立ち上がるに相違ない。
0804日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 16:32:38.47
★太政官代

▽太政官代
明治6年10月当時は、馬場先門内の旧教部省庁舎が仮の太政官庁舎。
明治5年3月に西の丸下に太政官庁舎を造営したが、明治6年5月5日に皇城火災に遭い、太政官庁舎は焼失していた。
即日、赤坂離宮が仮皇居と定められたが、太政官については、馬場先門内の旧教部省庁舎を活用することとなり、同庁舎に太政官代が設置された。
※太政官正院の庁舎があった馬場先門内の皇居外苑
http://www.sankei.com/images/news/160501/prm1605010020-p1.jpg
0805日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 16:43:04.75
明治10年8月、太政官を赤坂仮皇居〔>>67〕内に移転、翌11年6月、木造西洋式2階建ての太政官庁舎が仮皇居内に新築された。
内閣制度発足の明治18年12月までは太政官庁舎として、発足後明治22年1月まで内閣庁舎として使用された。
※明治21年の枢密院憲法会議が開かれたのは、赤坂仮御所内の別殿「ご会食所」であって、仮皇居内の太政官庁舎ではない〔>>68〕。
http://www.tanken.com/meijikyuden2.jpg
0806日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 16:52:12.65
▽木戸孝允
参議の身分のままで外遊したのは、木戸孝允一人であった。帰国後も木戸は参議のままである。
この日の廟議には、欠席した。
0807日本@名無史さん
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2018/02/26(月) 16:59:39.22
▼木戸孝允と大久保利通
〔1〕版籍奉還〔>>252-253
封建制の廃止と郡県制による中央集権の必要性を認識する木戸は、まだ戊辰戦争の最中である明治元年1868年2月、三条実美・岩倉具視に版籍奉還の建白書を提出した。しかし、三条も岩倉も時期尚早としてこの時点では賛成しなかった。
同年9月、木戸は大久保利通と極秘裏に会談し、版籍奉還の実施について大久保と薩摩藩の協力を要請、大久保は「一緒尽力」を承諾した。さらに木戸は山内容堂と会談して土佐藩の同意を取り付け、大久保の奔走により薩摩藩も同意、これに佐賀藩も同調し、明治2年1月20日、薩長土肥四藩の藩主連署による「版籍奉還の上表」が提出された。その後、大半の諸藩が同様に版籍奉還の上表を提出した。
この時点では、旧藩主がそのまま知藩事として任命された形となり、木戸の念願である郡県制の実現は廃藩置県を待たねばならなかった。また、当初の廟議案では知藩事は世襲とする旨の文案であったが〔>>633〕、木戸はこれに反対し、「世襲」の2字は削除された。
0808日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 17:03:09.94
〔2〕兵制論争
版籍奉還においては一致協力した木戸と大久保であったが、兵制改革においては対立した。
徴兵制による国民皆兵を唱える大村・木戸に対して、薩長を中心にした士族兵の必要性を唱える大久保が反発した。結果的には、大村と木戸はこの論争に敗れ、薩長土三藩による御親兵が設置された。
0809日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 17:09:18.96
〔3〕官制改革
明治2年7月の官制改革により参議が任命された。副島種臣(肥前)、前原一誠(長州)、大久保利通(薩摩)、広沢真臣(長州)の4名。
当初、大久保は、木戸を自身と共に参議から外して、実権のない待詔院学士に祭り上げようとした。しかし、木戸・大隈ら木戸派の反発に遭い、また木戸と大久保が2人とも参議から外れる不自然さは「世論紛々、諸官解体」という混乱を呈し、結局は三条実美と岩倉が収拾に乗り出す形となった。
結局、大久保、木戸の盟友である広沢真臣、副島種臣の3人が改めて参議に任じられた。
0810日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 17:13:02.02
〔4〕参議内閣制
明治政府草創期の朝令暮改や百家争鳴状態を解消するため、廃藩置県の断行を控えた明治4年6月、西郷隆盛・大久保利通・岩倉具視・三条実美から、木戸がただ1人の参議となるように求められる。
木戸は、西郷と同時に参議になることを了承するが、翌7月には、肥前の大隈重信を参議入りさせることを西郷に提案し、西郷も「それでは土佐の板垣退助も参議にすべきだ」と応じ、薩長土肥1人ずつの共和制的な参議内閣制が確立される。しかしこの体制は、それを打ち立てた木戸自身が海外視察の全権副使として留守にしたため、長くは続かなかった。
0811日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 17:20:14.68
大隈重信は長州閥に接近しており、大久保利通とは対立していた。
大隈を大久保の傀儡とする「翔ぶが如く」には、なじめないな。
0812日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/26(月) 17:22:44.49
木戸さんが鬱病っぽくなったので、大隈は、木戸から大久保に乗りかえたんだろうよ。
0813日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 13:31:12.00
▽午後一時すぎ
三条実美(37歳)・岩倉具視(49歳)
西郷隆盛(48歳)・副島種臣(46歳)・大久保利通(44歳)・大木喬任(42歳)・江藤新平(40歳)
板垣退助・大隈重信・後藤象二郎(いずれも30代)
0814日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 13:47:26.96
▽明治初年の樺太問題
前スレ〔801-804〕に詳述した。
ロシアは、明治2年に樺太を流刑地にした。つまり南樺太に暮らす日本人は、ロシア人の犯罪者とロシア軍人に囲まれていた。そのため、樺太の日本人は、悲惨な事件に遭遇し続けた。
ロシア人は日本人の漁場を荒らし、強盗殺人を働き、そして日本人女性を強姦するなどの事件が多発した。明治6年2月には、ロシア人多数が大泊(コルサコフ)の日本人の漁場と建物を焼き払うという事件も起きた。
0815日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 13:52:56.37
▽宮古島島民遭難事件
明治4年10月18日、琉球王府への納税を終えた宮古島の船1隻が、那覇からの帰途に強風に遭い、11月6日、台湾東南海岸に漂着した。漂着した69人のうち54名が台湾原住民によって殺害された事件。54名は衣服を剥ぎ取られた上で、首を取られた。
※この川のほとりには、首の無い死体がごろごろしていた。
http://m-mikio.world.coocan.jp/5X1A46891.JPG
0816日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 13:56:14.88
岩倉具視は、遣韓使節よりも、樺太問題を優先する外交問題とすべきであると説いた。
「それほど急務なら拙者を露都へやってもらいたい」というのが、西郷の返答であった。
0817日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 14:00:11.81
大久保は財政問題、とくに多額の外債を指摘し、戦争によってさらに外債が増えれば、日本政府は財政が破綻し、インドのように英国の植民地になってしまうとして、征韓論に反対した。
0818日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 14:05:19.92
大久保と西郷の議論は、「翔ぶが如く」序盤の最大のヤマ場なので内容の引用はしない。
同席した板垣退助の感想だけを記しておく。
「西郷と大久保の議論は、感情に馳せてややもすれば道理の外に出で、一座、呆然として喙を容るるに由なき光景であった」
0819日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 14:10:38.39
西郷は国家の基盤は財政でも軍事力でもなく、民族がもつ颯爽とした士魂にありと思っていた。そういう精神像が、維新によって崩れた。
というよりそういう精神像を陶冶してきた士族のいかにも士族らしい理想像をもって新国家の原理にしようとしていた。
0820日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 14:16:39.40
しかしながら出来あがった新国家は、立身出世主義の官員と、利権と投機だけに目の色を変えている新興資本家を骨格とし、そして国民なるものが成立したものの、その国民たるや、精神の面でいえば愧ずべき土百姓や素町人にすぎず、新国家はかれらに対し国家的な陶冶をおこなおうとはしない。
こういう新国家というものが、いかに将来国庫が満ち、軍器が精巧になろうとも、この地球において存在するだけの価値のある国家とはいえない、と西郷は思っている。
0821日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 14:28:07.28
外征することによって逆に攻められてもよい。国土が焦土に化すのも、あるいは可である。朝鮮を触ることによって逆にロシアや清国が日本に攻めてくることがあるとしても、それはむしろ歓迎すべきである。
百戦百敗するとも真の日本人は焦土のなかから誕生するに違いない。国家にとって必要なのは片々たる財政の収支表や、小ざかしい国際知識ではない。
0822日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 14:50:09.89
    人
   (_)
   (__)
   ( ・∀・)つ   土百姓ー♪
 (( (⊃  (⌒) ))
    (__ノ
     人
    (_)
    (__)    素町人ー♪
    (・∀・ )__ 
 (( ⊂⊂   _)
     (__ノ ̄ 彡
0823日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 14:56:09.12
▽伊予牛の闘い
伊予の闘牛の起源については諸説あるが、起源はともかく享和年間 (1800年頃) には土俵を設け、本格的な闘牛が行われていた様子が、伊達家の藩政時代の古文書にも記されている。
現在は、JR駅前の小高い丘の上に建てられたドーム型の屋内闘牛場を会場に、年5回の定期大会と観光闘牛を開催している。地元では闘牛のことを「突きあい」と称する。
http://www.pikara.net/img/upload/image201304221813241.jpg
https://image.jimcdn.com/app/cms/image/transf/none/path/sccfe36b509eac439/image/i4a14460af7016373/version/1499737763/image.jpg
0824日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 14:59:21.35
▽大木喬任……ほとんどうつむいたきり
▽大隈重信……たえずそわそわしていた
▽後藤象二郎……あるいは眠っているのかもしれない
0827日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 15:31:45.86
西郷の征韓論は、革命の輸出であった。革命そのものの輸出というより、かれが高度なものとして懸命に評価したがっている明治維新の精神の朝鮮への輸出であった。この輸出が朝鮮において成功すれば清国に及ぼし、それでもって三国同盟を結び、欧米の進出を防ごうというのである。
が、これに対する大久保の応答は冷然としている。
「そりゃ貴公、正気の一言か?わが国の士族の颯爽とした士魂が、チョンやチャンコロに理解できるとお思いか?」
0828日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 15:37:46.58
「朝鮮は経済が貧しい。出兵の経費を朝鮮において得ようとしても、そうは問屋が卸しませぬ」
0829日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 15:40:06.23
>>826
会議終了後、三条が今日の議事を上奏するために席を外すと、弁当をとりながら冗談を言っているよ。
0830日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 15:46:28.43
「条公に決断を求めるのは、比丘尼にフグリを求むるがごとし」というチャリ(冗談)は、西郷が言ったことになっているけど、この場で江藤新平に言わせた方が面白かったね。
0831日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 15:47:28.95
西郷は他の場所で江藤のチャリをパクったのよ。
よくあるでしょう、こういうの。
0832日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 16:09:14.88
★閉会後の隣室

▽板垣と副島
西郷が参議を辞職すれば、板垣と副島も袂を連ねて辞職すると西郷に告げた。
板垣にすれば西郷の辞職だけは思い止まらせたかった。西郷の辞職が天下の大乱を招くおそれがあることは、板垣も承知していた。
0833日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 16:10:28.80
▽西郷
「あすは拙者は出ません」
これ以上は、廟堂の採否に任せたい。
0834翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
垢版 |
2018/02/27(火) 16:17:14.20
第15章 激突

〔二〕十月十五日
大久保ら反征韓派にとって信じがたいほどの逆転が、十五日の廟議の午後になって起こった。
廟議が、にわかに逆転した。征韓論に決定した。具体的にいえば西郷を大使として韓都ソウルに派遣するということであった。大久保は敗退した。
0835日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 16:20:39.32
日本人の集団の意思決定が、外国人からみて理解しにくいというのは、明治六年の政変に典型的に表れているな。
自分もこの小説を初読したとき、この逆転劇に大いに驚いた。
物語の流れからして、征韓論に決定するなど、思いもよらなかった。
0837日本@名無史さん
垢版 |
2018/02/27(火) 16:31:23.82
>>819-821
西郷の言わんとすることには大賛成なのだが、成果を数値化できない事柄は、成功したのか失敗したのかが客観的に把握できないんだよね。
政治の成果も、学業の成績も、結局、数値化が可能なもので判断せざるをえないんだよ。
そうしないと、とんでもない暴政が、主観的判断によって正当化されてしまう。
0838日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/01(木) 18:36:45.21
【UFO対応「検討せず」】 右翼は土下座しろ、山本太郎に非礼を詫びろ、宇宙人にビビッて改心しても遅い
http://rosie.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1519871824/l50


サヨクは放棄せよ!

天皇の首をはねよ!
0839日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/02(金) 06:12:09.17
日本が敗戦していく様をニヤニヤしながらしながら見てたのって司馬遼太郎だっけ?
0841日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/03(土) 23:39:51.16
★太政官代

▽10月15日朝10時
欠席者は、木戸と西郷。木戸の欠席は、征韓論をめぐる論争が長州と薩摩の対立の図式に転換されることを避けるためであった。
議論は、西郷案に賛成する板垣・副島・江藤 vs 大久保の対立で進行した。
0842日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/03(土) 23:42:34.40
廟議は、征韓論に決定した。
この時期、多数決の法則は確立していなかったが、たとえ多数決によったとしても、征韓・反征韓は同数であった。
0843日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/03(土) 23:48:20.62
可否同数のときは、太政大臣と右大臣の二人で採否を決する他なかった。
あたかも日本国憲法第56条第2項後段と同じ扱いがなされた。
「両議院の議事は、この憲法に特別の定めのある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる」
0844日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/03(土) 23:53:05.80
▽正午前
岩倉には、三条がなぜ表情をひきつらせて万策つきたと言ったかという意味がよくわかっていた。
征韓論はもはや回避しがたい。西郷の背後勢力が暴発すれば政府そのものが潰れてしまうのである。
(それよりも大久保を捨てよう)
と、三条の表情が、いまにも泣きだしそうな緊張でもって岩倉に語りかけているのである。
0845日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/03(土) 23:55:58.12
      ry *‘ω‘ *ヽっ  西郷参議を韓都に派遣ということに相決まりましたゆえ、
      `!       i
      ゝ c_c_,.ノ  
         (
          )
     .∧ ∧.(
     (*‘ω‘ ∩   左様お心得くださるように
     o   ,ノ  
    O_ .ノ
      .(ノ
0846日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 00:25:49.78
★麹町区内幸町

▽三条実美ー37歳
みごとに大久保を裏切ったな。
大久保への自責の念を吐露した手紙を岩倉に認めている。
「自分は陸海軍総裁になろうと思う」
0847日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 09:38:29.74
留保事項が附帯しているとはいえ、勅許まで得ているという点も見逃せないな。
0848日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 09:43:33.90
★岩倉邸

▽風呂
留守内閣時代に三条がまいた種であるので、三条よりは気分が楽であった。
風呂にはいって酒を飲み、三条の手紙を大久保へ回送した。
0850日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 09:54:56.32
▽伊藤博文の来訪
伊藤は、三条を外し、岩倉を主軸にして政局を回転させる企図を、岩倉に打ち明けた。
その上で、岩倉にも仮病をつかい、明日は登庁しないことを勧めた。
登庁すれば、西郷渡韓の準備をせざるをえないからである。
0851日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 12:49:05.30
▽招集さるべき関係諸卿
・外務卿……副島種臣
・陸軍卿……山県有朋〈無期出張中ー時期尚早論〉
・海軍大輔……勝海舟〈朝鮮へ出兵すれば辞職するー時期尚早論〉
・大蔵総裁……大隈重信
0852翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/03/04(日) 12:56:57.49
第16章 分裂

――奏上については、一日だけ猶予されよ。
と、太政大臣三条実美が、廟議の席で泣かんばかりに懇請したことに西郷がついに折れ、廟議は奏上を一日待つことになった。ということは、翌十八日に奏上されることになった。
ところがその運命的な十八日、それも早暁において三条は自宅で昏倒した。三条は太政大臣としての執務ができなくなった。
0853日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 13:03:39.35
★岩倉邸

▽10月16日
伊藤と大隈が、岩倉邸を訪れる。仮病で登庁しなかった岩倉を見舞うためであった。
征韓派の江藤新平について語り合う。
0854日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 13:08:11.94
★大久保邸

▽10月16日
黒田清隆と西郷従道が、大久保邸を訪ねている。
午後、大久保は外出し、伊地知正治のもとで囲碁を打っている。
0855日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 13:12:48.61
▽伊地知正治
文政11年(1828年)- 明治19年(1886年)
薩摩藩士伊地知季平の次男として鹿児島城下千石馬場町に生まれる。安政6年(1859年)には精忠組に参加。
文久2年(1862年)、島津久光の上洛に従って京都に上った功績により軍奉行となる。伊地知は類稀な軍略家であり、禁門の変や戊辰戦争で大きな功績を挙げた。
https://bakumatsu.org/img/00082_l.jpg
0856日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 13:14:46.26
戊辰戦後は薩摩藩の藩政改革に臨んだが、中央の太政官政府と海軍予算拠出を巡って対立し、勝手に帰郷するなど騒動を起こしてもいる。廃藩置県後は薩閥の有力者として太政官政府に入った。
征韓論争では征韓側につく。板垣とともに派兵計画を立てるが、明治六年政変では下野しなかった。対立していた左院議長の後藤象二郎が下野したことで、同副議長の伊地知が代わって議長に就任したためである。
のちに参議を兼任し、修史館総裁、一等侍講、宮中顧問官などを歴任。西南戦争では早々に薩軍の敗北を予見したが、戦後は帰郷して郷里の復興に尽力し、明治19年(1886年)に59歳で死去。
激烈な性格で頭脳は優れていたというが、奇人としての逸話も多い。
0857日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 13:19:16.89
▽10月17日
16日夜に岩倉へ、17日に三条へ手紙を書く。
手紙原文の清々しさからみて、16日から翌17日にかけての大久保の心境にはもはや寝技の政略を試みて頽勢を回復しようというような気持ちはなかったとみていい。
0858日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 13:24:31.85
★麹町区内幸町

▽大久保の辞表
10月17日朝8時、大久保は三条邸を訪れ、辞表を三条に直接手渡した。
0859日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 13:25:51.95
▽岩倉の辞表
大久保の辞表が提出された10月17日、岩倉の辞表も三条邸に届いた。
0860日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 13:53:56.98
★太政官代

▽10月17日
西郷は朝早くから登庁した。やがて江藤、後藤、副島、板垣といった征韓派の諸参議が登庁してきた。
三条の登庁は、昼ちかくになってであった。
0861日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 13:56:22.07
▽岩倉は病欠
三条は岩倉の辞表については口外しなかった。
大久保の辞表については、三条は一同に報告した。
0862日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 14:02:20.42
▽勅裁
西郷は、15日の廟議決定事項について直ちに勅裁を得ることを要求する。
これに対して、三条は、勅裁は三職がそろっているときに参内し奏上してそれを仰ぐべきだと反論した。
0863日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 14:06:57.03
▽一日の猶予
三条は明日一日だけ岩倉右大臣の登庁を待っていただきたいと西郷に願うが、両者の意見はいたずらに並行した。
ここで後藤象二郎が余計な一言。
「たかが一日のことです。待っても不都合はござるまい」
西郷は承諾せざるをえなくなった。
0864日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 14:15:57.20
西郷の征韓論は、巨視的にいえば維新という革命の朝鮮への輸出であった。
その西郷の正義は、かならずしも現実性をともなっていない。ナポレオンの軍隊が強かったのは、徴兵による国民軍であったからだということはたれもが否定できないが、西郷はむしろ維新以前の士族軍の再編成に執着していた。
士族が、密集と没我を必要とする近代軍隊の兵に適しないことは、日本では長州人のみが幕末に経験しているところであった。
0867日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 17:32:06.68
10月18日早暁に>>852で述べたような事故が生ずるのであるが、次章では、三条の昏倒にいたる10月17日の詳しい事情が述べられている。時系列に従って述べた方が理解しやすいので、ここから次章に移して語る。
0868日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 17:37:06.29
三条は十七日、西郷らとの廟議が終わったあと、逃げるようにして太政官を出た。
三条の馬車は、味方をもとめて走った。岩倉のもとへであった。岩倉もすでに三条を見捨てていたのだが、三条としては岩倉の膝に這いあがって自分の窮状を訴えるしかない。
0869翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/03/04(日) 17:59:23.18
第17章 右大臣

岩倉はよく堪えた。
江藤の論鋒にも堪え、桐野利秋の弄剣のしぐさによる脅迫にも堪えた。桐野はむろんそこまでしなかったが、かれのやったことは大剣を引っこぬいて岩倉の頸筋に氷のような刃を当てつづけているのと効果は変わらない。
さらには板垣という維新の戦功における第一級の功労者や、副島というこの時代の気概と良心の代表者のような男も犇と岩倉をとりまいているのである。
こういう条件下ではふつうならどこかで妥協するはずであったが、岩倉はついに屈せず、その上この圧力に対してよほどの憤りがあったせいか、話が尽きたころ一座を睨みまわし、
「わしのこの両眼の黒いうちは、おぬしたちが勝手なことをしたいと思うても、そうはさせんぞ」
と、岩倉の生涯のなかでももっとも凄みのある一言を吐くにいたるのである。
0870日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 18:50:54.38
>>865
司馬さんと新選組の出会いについては、司馬遼太郎 Part10の「綱淵謙錠氏のこと」の中で書いている。
〔465-466〕を参照してみてくれたまえ。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1511343401/
465 自分返信:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 20:34:26.46
昭和37年頃、司馬遼太郎は新撰組について調べたことも考えたこともなかった。
その年の5月に「新選組血風録」、11月に「燃えよ剣」の連載を始めている。
したがって、第一ホテルで綱淵謙錠と会ったのは、昭和37年の1〜3月の頃だと思われる。
なお、綱淵謙錠は、子母澤寛の「新選組始末記」を読んで、歴史小説にのめり込んでいた時期である〔460〕。
466 名前:日本@名無史さん[sage] 投稿日:2017/12/07(木) 20:41:50.86
綱淵さんは、中央公論編集部の次長として司馬さんに新選組について随筆を書いてくれと依頼した。
その結果が、「小説中央公論」に連載された『新選組血風録』である。
0871日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 19:26:59.17
★岩倉邸

▽10月17日午後
三条が飛び込むようにして岩倉の病室に入ってきた。
岩倉は三条にも仮病をつかえとは言わなかった。
反対に、西郷を説得せよ、と諭した。
0872日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 19:30:42.38
★麹町区内幸町

▽西郷の訪問
三条邸で国家財政を基礎とした反征韓論と再び論争するはめになった西郷。
しかし西郷も譲らなかった。
0873日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 19:34:15.84
▽人事不省
西郷が辞去したあと、三条の懊悩が深くなり、翌18日早暁、三条は人事不省に陥った。
意識回復後には、はげしい痙攣が起きた。婦人のヒステリー症状に酷似している。
0874日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 19:37:28.72
大久保にも岩倉にも見捨てられた三条。
自ら撒いた種とはいえ、孤立無援で西郷と相対する。
西郷には背景に近衛師団が控えている。そりゃ狂いますわ。
0875日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 19:56:07.29
幕末においては攘夷派公卿の筆頭とされた三条実美も、本物の攘夷家(征韓派参議)の前ではヒステリー症状に陥るしかないんですな。
0876日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 20:04:08.75
昭和の庶民は戦闘機の肚に爆弾を抱えて敵戦艦に特攻したというのに、公卿は糞だな。
0877日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 20:07:58.08
▽ヒステリー〈hysteria〉
ギリシア語で子宮を意味する言葉で,古代には婦人病と結びつけられていた。
マンコにからっ風が吹くと、怒りっぽくなる。
0878日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 20:17:51.11
▽ホフマン〈Theodor Eduard Hoffmann〉
10月18日午前9時、往診にくる。ホフマンは当時、大学東校〈とうこう〉の教授。
本来は明治3年に来日する予定であったが、普仏戦争の影響で遅れたため、大学東校では大阪医学校教師の任期を終えたボードウィン(オランダ)に講義を委嘱していた。
明治4年8月にミュルレルとホフマンが来任し、外科学と内科学の講義を行う。しかし、日本の医学教育制度構築の全権を託されたのはミュルレルで、ホフマンではなかった。残念。
0879日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 21:25:52.68
▽佐藤尚中
文政10年 (1827) - 明治15年
下総国小見川(現・千葉県香取市)出身。
蘭方医。佐藤泰然の弟子でのちに養子となる。本名は山口舜海。文久2 (1861) 年、長崎に行き J.L.C.ポンペに西洋医学を学ぶ。明治2 (69) 年、大学東校に出仕して大学大博士 (学長) となり、明治5年まで同校を主宰。また明治天皇の侍医をつとめる。
同年、日本橋に博愛社を開き、翌年、下谷練塀町に順天堂を開く。 75年にそれを御茶の水に移した。順天堂医院の初代院長。順天堂大学の創始者。
https://www.city.katori.lg.jp/culture_sport/bunkazai/isan/isan_vol001-010.images/b05_vol08_01.jpg
https://uub.jp/47/chiba/chiba_map1.png
0881日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 21:34:50.74
子供の頃は平気でカエルを殺せたのに、歳をとるとカエルが哀れで、解剖の画像すら見たくなくなる。
0883日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 21:48:05.75
三条が意識をやや鮮明にさせたのは、この日の午後10時ごろである。はじめて粥を一椀とり、そのあと眠った。この間、大事は去った。
三条が西郷の渡韓を奏上すべき日は、この日だったのである。
0884日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 21:55:28.44
★伊藤と大久保

▽10月18日
伊藤は、三条を外しての岩倉体制を考えていた。なにぶん三条はかつて八月の廟議で西郷案に賛同したという負い目があり、このため諸事西郷に対して弱腰にならざるを得なかった。
0885日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 21:59:25.51
▽大久保の出馬
伊藤は、大久保に腰をあげさせるために、木戸から説かせる方法をとった。これによって大久保は承知し、かるがると腰をあげた。
大久保にすれば長州派が参加するかどうかを見ていたのである。
0886日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 22:06:38.19
▽天皇の側近
王朝以来の日本の天皇家の習慣として、天皇の側近は女官でもってとり固めていたが、西郷は宮中の柔弱の風をきらい、むしろ逆にもっとも武士らしい武士をもって側近団を形成することを提案した(明治4年)。
0887日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 22:23:40.77
▽島義勇
文政5年(1822年)- 明治7年
肥前国佐賀城下の精小路(現・佐賀県佐賀市精町)に、佐賀藩士・島市郎右衛門の長男として生まれる。通称は団右衛門。
安政3年〜4年(1856年〜1857年)に藩主・鍋島直正の命で、箱館奉行堀利煕の近習となり、蝦夷地と樺太を探検調査し、『入北記』という記録を残した。
慶応4年(1868年)3月、佐賀藩の海軍軍監、ついで東上し下野鎮圧軍大総督軍監となり、新政府の東北征討に従う。
http://www.pref.saga.lg.jp/kids/kiji00318828/3_18828_5_pht03.jpg
0888日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 22:28:41.16
明治2年6月、新政府において藩主・鍋島直正が蝦夷開拓督務になると、蝦夷開拓御用掛に任命され、同年7月、開拓使判官に就任した。場所請負制の廃止をめぐり岩村通俊と対立し、明治3年1月、島は志半ばで解任された。後任は岩村であった。
島は同年3月に帰京すると、4月に大学少監に昇任。さらに侍従を務め、明治5年1月に秋田県の初代権令(知事)となり八郎潟干拓施策を打ち出すが、同年6月に退官となった。
0889日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 22:29:24.90
明治7年(1874年)に郷里・佐賀において憂国党の党首に担がれ、江藤新平と共に佐賀の乱を起こすが敗れ、鹿児島まで逃亡。島津久光を頼り、大久保利通に助命の旨を取り次いでもらうが受け入れられず、同年3月7日捕らえられ、4月13日に斬罪梟首となった。
0890日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 22:36:07.17
▽高島鞆之助
弘化元年(1844年)- 大正5年
陸軍軍人。明治維新後、侍従番長・教導団長をつとめ、西南戦争に別働第1旅団司令長官として出征。その後熊本鎮台、大阪鎮台各司令長官を歴任し、明治24年、松方正義内閣の陸相となった。
その後第2次伊藤博文内閣の拓相、第2次松方内閣の拓相兼陸相となり薩閥の巨頭として活躍、明治26年予備役に入り枢密顧問官となった。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/f/fc/Takashima_Tomonosuke.jpg
0891日本@名無史さん
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2018/03/04(日) 22:45:23.07
▽吉井友実
文政11年(1828年)- 明治24年(1891年)。別名は幸輔。
前スレ〔247〕で登場済。
司馬さんは、西郷が吉井を宮内大丞にしたように述べられているが、明治4年に大久保の推挙で宮内大丞、宮内少輔に就任、宮中の改革に尽力し明治天皇の輔導に努める一方、明治6年の政変で大久保に協力して西郷と袂を分かった。
https://bakumatsu.org/img/00081_m.jpg
0892日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 22:53:23.03
吉井友実の叔父が無参禅師で〔>>645〕、最初に無参の下で禅を学んだのは、大久保利通の父の利世〔>>648〕。
吉井は下加治屋町郷中の出身だから西郷・大久保ともに親しいわけだが、禅のこと、西郷が島流しになっていた期間を考えると、壮年期は大久保とともに活動することが多かったかもね。
0893日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/04(日) 22:57:36.68
司馬さんは、大久保と吉井が急速に接近するのは、西郷が征韓論を唱え始めて以降だと言われているね。
それはともかく、大久保は宮内大丞吉井友実を通じて、天皇を政局に引き出した。
0894日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/05(月) 17:15:21.85
▽10月20日
天皇が三条実美を見舞う。
これにより三条の病気が容易ならざる重体という印象を世間に与え、三条は再び廟堂に立つ必要がなくなった。
0895日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/05(月) 17:17:50.23
▽太政大臣代理
同日、天皇は岩倉邸をも訪問する。
供奉していた吉井友実による勅語朗読。
0896日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/05(月) 18:03:34.82
★日本橋小網町

▽天皇の三条邸・岩倉邸訪問
10月20日の天皇による三条邸・岩倉邸訪問が、明治6年政変の天王山だった。
西郷が岩倉卿に太政大臣代理職の勅命がくだったという重要情報を知ったのは、翌21日、訪ねてきた副島から聞いてからだった。
0897日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/05(月) 18:11:28.30
この事態の急変を、西郷が桐野・別府に知らせるというていたらく。
0898日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 20:29:44.93
★売茶亭

▽10月21日
大久保派の作戦会議。大久保利通、伊藤博文、西郷従道、黒田清隆、吉井友実の五人が来会する。
場所は、芝西久保の売茶亭。
0899日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 20:40:39.31
▽売茶亭
橋のかたわらに桟橋があり、そこから平清の玄関につうじていた。 平清といえば、山谷の八百善、芝の売茶亭とならぶ著名の料理茶屋である。――南原幹雄『付き馬屋おえん暗闇始末』
時代小説には頻出する「芝の売茶亭」であるが、実在を裏付ける史料は見つけられなかった。芝以外の場所にも「売茶亭」はあったようである。店名は“茶を売る店”であり、一般名詞に近いものがる。当時のポピュラーな店名なのかもしれない。
0900日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 20:44:43.24
▽芝西久保
西久保は東京都港区にあった地名。およそ現在の虎ノ門二〜五丁目に当たる。愛宕山西側にって窪地を形成する。
※桜田通りに面した芝西久保巴町の町並み=東京都港区芝西久保巴町(後の虎ノ門3丁目)で昭和37年4月7日、池田信さん撮影
http://showa.mainichi.jp/photos/ikeda1960/ik029200.jpg
0901日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/06(火) 20:49:37.75
岩倉の最期とベルツ博士による癌告知の話は、前にもこの小説に出てきた〔>>491〕。
伊藤博文に代わって井上馨が岩倉の遺言を聞いた話も、そこに書かれていたと思う。
この挿話に限らず、このあたりの数章には、重複する挿話が多い。
0902日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 18:12:59.51
▽伊藤案
この先廟議を開かず、岩倉卿の責任において決する。岩倉が参内し、両論の得失を奏上し、しかるのちに岩倉の意見を述べ、一挙に事を片付ける。形式だけを天皇親政に近づけ、実質は閣議決定を反故にする策略。
0903日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 19:58:51.58
>>901
物語が遅々として進まなかった頃の挿話は読みごたえがあったが、物語が時系列にしたがってテンポよく進行しはじめると、挿話は一度語られたものの繰り返しになっているな。
同じ小説の中で二度やられると、さすがに飽きる。
0904日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 20:04:58.53
ここから盛り上がるのよ。ここから征韓論争のクライマックス。
主役は岩倉具視。
0905日本@名無史さん
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2018/03/08(木) 20:10:16.63
★岩倉邸

▽10月22日
副島、板垣、江藤に誘われて、西郷は岩倉邸に乗り込んだ。
廟議の再開を翌23日に控えて、岩倉が渡韓論から変心しないように釘を刺すためであった。
西郷は桐野少将を伴った。
0907日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:41:55.44
一団のうち、江藤新平が主として論じた。
江藤のいうところは、明治22年以後の立憲君主制の基礎的な思想に通うものであり、国事は君主に判断を委ねるべきものではないというものである。
※江藤新平:浜田晃
https://pbs.twimg.com/media/CkHBJJFVAAEUabK.jpg
0908日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/08(木) 21:49:53.40
「両説のいずれを主とされるか」
と、副島種臣が言った。
岩倉は即座に、
「わが説である」
と言い放った。
0909日本@名無史さん
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2018/03/08(木) 21:59:12.30
▽代理
江藤司法卿は、代理行為の本質に関する本人行為説を採っている。
「代理である以上、渡韓問題について太政大臣三条実美が在来決めてきた事項や態度をすべて承継しなければならない」というのがそれである。
本人行為説は19世紀のドイツ普通法時代の学説で、ドイツ民法も日本民法も、代理人行為説を採っている。
0910日本@名無史さん
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2018/03/08(木) 22:05:15.05
岩倉は通説である代理人行為説によって江藤に反論すれば楽であったはずだが、代理人行為説を採っていない。
むしろ本人行為説を前提にした上で、三条卿から代理権を授権されたのではなく、君主から授権されたから、代理といっても三条太政大臣の権能から独立した権能であると言っている。
0911日本@名無史さん
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2018/03/08(木) 22:06:37.92
>>909-910
行政法上の代理の話なので、民法の本人行為説・代理人行為説に引き付けて考えない方がよいのでは……。
0912日本@名無史さん
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2018/03/08(木) 22:08:04.76
結局、岩倉は、征韓論には賛成であるが時期尚早という論旨に逃げた。
0913日本@名無史さん
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2018/03/08(木) 22:15:09.03
▽無言の脅威
次室で、桐野利秋に剣を弄させることによって、岩倉に対し、たえず無言の脅威を与え続けたということは、西郷の終生の失敗である。
ここは重要な指摘であるのだが、直後に西郷を弁護している。年少のころ関節を故障して剣術を学んでいないという理由と、幕末の頃から護衛者をつける習慣があったという理由を挙げている。
この弁護が長すぎるために、上記の指摘がぼやけてしまっている。
0914日本@名無史さん
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2018/03/08(木) 22:17:42.18
この小説は全体に>>913のような感じなんだわな。
ある主張を書くと、直後に反論なり修正なりを入れるのだが、両者のバランスが悪いために、結局、何が言いたいの?という読者の感想になってしまう。
0915日本@名無史さん
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2018/03/09(金) 18:38:25.30
>>913
司馬さんによると、「西郷にはあきらかに脅迫的意図があったのであろう」とされているな。
0916日本@名無史さん
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2018/03/09(金) 18:42:14.71
▽油然〈ゆうぜん〉
盛んにわき起こるさま。また、心に浮かぶさま。
「油然と雲がわきたつ」「油然として詩情がわく」
0917日本@名無史さん
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2018/03/09(金) 18:48:02.92
油然として岩倉の肚の底から湧きあがってきたのは「愛国の感情」。
脅迫的意図のあった西郷に対して〔>>915〕、岩倉は「愛国の感情」に基づいて>>869の一言を発している。
この長い物語の4分の1を費やした征韓論争のオチは、主役は大久保でも西郷でもなく、岩倉さんでしたということですか?
0918翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
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2018/03/09(金) 19:06:30.24
第18章 挿話

西郷には、幕末において自殺の衝動がすくなくとも二度おこっている。
幕末の早い時期、井伊直弼の安政ノ大獄の進行に絶望し、かれが京都から保護してきた僧月照と薩摩潟に投身したことはよく知られている。
幕末のあとの段階で、西郷ぎらいの島津久光が西郷のやったことを非とし、西郷の活動を執拗に封じたとき、大久保でさえこの薩摩藩の特殊事情に絶望し、西郷と刺し違えて共に死のうとしたほどであった。
0919日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:10:34.71
後者については、大久保の自殺願望であって、西郷は大久保の自殺を押し止めたんだけどな。
「もし今にして、われら二人とも刺し違えて死せば、天下の大事去らん。かくまでに推し進み来れる例の画策は、誰がこれを継承すべき。男子忍耐、事に当るはこの時ならずや。吾人二人なくしては、皇室を如何んかすべき、国家を如何んかすべき。辱を忍び、事に耐えるは只この時なり。勉むべし、勉むべし」
0920日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:12:38.42
読点の打ち方をみれば一目瞭然だけど、「翔ぶが如く」の推敲時間は短いよな。
司馬さん、いつもは、こんな読点の打ち方しないよな、というところがいっぱいある。
0921日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:13:34.23
>こんな読点の打ち方しないよな、というところがいっぱいある。

いつもの司馬なら、「こんな読点の打ち方しないよなというところがいっぱいある」となる。
0922日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 19:20:27.67
>>920
「翔ぶが如く」の連載は、週刊朝日の「街道をゆく」の連載開始とほぼ重なっているからな。
「街道をゆく」の取材旅行にゆけば、ドライブインで大好きなトンカツ定食が食べられるわけよ。
「翔ぶが如く」の推敲なんてほったらかしで、トンカツ定食を食べにいってたわけだな。
0923日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/09(金) 23:19:15.80
司馬の竜馬像は本当に気持ち悪いよな
ただのチンピラだろ、無論チンピラにしては上等だったってだけで
0924日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 19:39:46.85
ただのチンピラを長編小説にしてもつまらんだろ
むしろそれをあれだけの娯楽巨編にした創作性は称賛に値するだろ
それが気持ち悪いなら大衆小説なんて読むのやめて一次資料や学術論文だけ読みなされ
0926日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:01:52.19
ええ?
最後の会議で大久保がキレるシーンなんての自分はのたうち回って笑ったけど
0928日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:37:09.42
▽10月23日
「向島へ鉄砲を打ちにゆく。熊吉と新次郎、供せいや」
鉄砲を金槌で叩くため向島へ行くのかね。鉄砲は「撃つ」。
0929日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:40:02.57
下僕を全員集合させた。下僕は「五、六人でしかない」と書かれているが、少人数なんだから、きっちり五人か六人か明確に書けるだろうよ。
0930日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:47:58.36
第3章「鍛冶橋」の頃は、六人いた。
熊吉。薩摩伊集院出身の与助。薩摩谷山出身の市助。薩摩谷山出身の「若い下僕」竹内弥太郎。鹿児島城下出身の小牧新次郎。
江戸生まれの児玉勇次郎。
本章に登場する「田中」という下僕は、与助か市助のいずれかであろうか?
0931日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 21:51:31.12
どっちでもいい。
司馬は下僕や書生の名前を書かないで、「下僕」「書生」という普通名詞で書いていた。
「下僕」「書生」の固有名詞が出てきたのは、久しぶりだわ。
0932日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/10(土) 23:33:52.92
★大久保邸

▽永遠の別れ
「今後の国事は、よろしゅう頼ンみやげ申す」
「それは吉之助どん、俺の知った事か。いっでんこいじゃ。いまはちゅう大事なときにお前さァ、逃げなさる。後始末は俺せなならん。もう知った事か」
0933日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 08:24:10.22
大久保の参謀が伊藤博文ひとりのような感じなんだけど、実際には薩摩出身の官僚と謀議していたんじゃないのかね?
0934日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 08:31:13.22
▽酒井了恒〈のりつね〉
天保13年(1843年)- 明治9年
出羽庄内藩家老酒井了明の長男。慶應3年に家督をついでから父祖代々の通称である玄蕃を襲名した。
戊辰戦争において庄内藩二番大隊を指揮し、秋田方面の戦いで連戦連勝の活躍を遂げ、新政府軍から「鬼玄蕃」と呼ばれ恐れられた名将として知られている。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/a8/Sakai_Noritsune.jpg/1200px-Sakai_Noritsune.jpg
0935日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 08:38:46.58
酒井玄蕃は、西郷が帰郷後に、西郷の言葉を記した人物として登場する。
酒井は鹿児島の西郷を訪ねただけで、西南戦争には従軍していない。
西郷の言葉は、「政治は天道」「公正無私」等々ありふれたもの。
0936日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 08:40:49.34
「政治は天道」「公正無私」の基準に照らすと、大隈重信などは、西郷の最も嫌う政治家であった。
0937日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 08:41:55.74
西郷は、次の言葉も残している。
「大隈に教育だけは任せてはならぬ」
0938日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 08:49:48.97
▽東京専門学校
明治15年、大隈重信により東京府に設立された私立学校。
明治十四年の政変により下野した大隈重信は、河野敏鎌、小野梓らとともに立憲改進党を結党した。やがて樹立されるであろう立憲政治の指導的人材の養成を主たる目的として学校の設立を構想したものが、東京専門学校である。
明治35年9月に「早稲田大学」への改称が認可された。慶應義塾大学と共に大学令による大学となったのは、大正9年である。
0939日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 08:55:51.87
さらに西郷の政治観を示す言葉
「財政を井上馨に任せてはいけない」
0940日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 09:00:20.68
西郷は、政治家の中では、大久保利通と岩倉具視を買っていた。
明治6年に下野した後も、この気持ちは変わらなかった。
0942日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 09:27:52.37
高度成長期以前の農業国家の時代は、親戚つきあいが濃厚だった。
近所に居住していることが多かったので、近所=親戚、友人=親戚の場合も多かった。
時代が遡るほど、この傾向が濃くなる。
0943日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 09:35:39.89
近世から近代にかけて人つきあいが全国に及ぶことになるが、人間関係の濃淡の差は、本文に書かれている大久保と板垣の例がわかりやすい。親戚の拡大としての同郷人と、成人してから付き合うようになった他国人とでは、親密の濃淡に違いがあるのは当然。
0944日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 09:38:16.16
公正の我々は、活字を通じて歴史上の人物を一挙に知る。
西郷と大久保が敵対し、西郷と板垣が同時に参議を辞職したという知識を得ると、西郷は板垣と親しく、大久保とは仲が悪いと誤解しがちであるが、そんなことはない。
0946日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 09:41:45.32
司馬さんは郷土主義という語彙を用いているが、それほど大げさなものではない。
0947日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 09:43:43.36
戦前は今よりも方言がどぎつかったろうから、他郷人の感触は、現代の我々の外国人への感触に近かったかもな。
0948日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:04:58.84
★岩倉邸

▽10月22日
物語は、副島、板垣、江藤に誘われて、西郷が岩倉邸に乗り込んだ後、岩倉邸を辞去した時にさかのぼる〔>>905〕。
板垣は爾後も西郷と手を組み、倶に政治活動をしてゆこうと誘う。
西郷の答えは、「私は君に扶けてもらいたいという希望はもっていない」であった。
0949日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:06:35.67
西郷の答えに対する板垣の感想は、「西郷の慢心、ついにここに至るか」であった。
0950日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:10:18.54
板垣、副島は、廟議の前日の10月13日に、三条と岩倉の説得に応じて、西郷を裏切っているからな〔>>790-791〕。
0951日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:15:25.13
反征韓派の薩摩人のなかでは、黒田清隆と西郷従道が、征韓策防止のために積極的に動き回ったと書かれているが、10月21日に売茶亭で作戦会議に集まった話しか出ていないんだよな。
ほぼすべて伊藤博文の手柄にされている。
0952翔ぶが如く ◆Tzc/WZHhyt23
垢版 |
2018/03/13(火) 10:34:29.19
第19章 退去

〔一〕黒田清隆
――故郷に帰られますか。
と黒田は問いたかったが、水面の魚をすかし見ることに熱中している西郷に問うことは、なにやら憚られるものがあった。維新第一等の功労者が、官職をすてて栄華の都府をあとにして故郷の山林に隠れようとしているのである。
黒田が何を問い、どう諫めようとも、自分の吐く息が生ぐさすぎるような気がして、物を言う気力も失せてしまったのである。
西郷はこのあと、何度か網を打った。黒田はそれを葦のあいだから眺めていただけで、結局はすべての思いを一礼に籠めて立ち去らざるを得なかった。
0953日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:35:54.20
西郷は「向島へ鉄砲を打ちにゆく」と言って出かけたのに、どうして投網を打っているんだろうな。
0954日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:41:37.74
>>951
天皇に三条の見舞いをさせたり、岩倉を太政大臣代理にすることは大久保の発案とされていたから、黒田と従道が征韓論つぶしのために何をしたのかが、いまいちよくわからい。
だから、黒田と従道が向島に西郷を訪ねた本章は、どうもピンとこないんだよね。
0955日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:47:49.56
黒田については、木戸孝允の帰国直後の章で、征韓論より樺太問題を優先すべきだと木戸に述べている叙述があったな。
樺太問題は、10月14日の廟議で、岩倉が力説していた。
0956日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:48:51.99
従道の場合、実弟でありながら反征韓論であったことそのものが、重要なんじゃない?
0957日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/13(火) 10:59:11.94
>>932
西郷は、風土病のためにキン玉が頭と同じ大きさにまで腫れあがっていたんだ。
歩くのにも難渋すると思うぞ。
なにもかも嫌になって退隠願望をもつのも、やむをえないかなと同情するよ。
0958日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/14(水) 20:06:11.32
★向島

▽10月23日
小網町の寓居を出たのは午前8時。西郷はすぐに向島に向かったのではなく、その前に大久保利通を訪ねている〔>>932〕。
その後、向島に向かった。肩には猟銃をかついでいた。投網ではない〔>>953〕。
越後屋の寮に着いたのは、午後の陽がすこし傾いてからである。
0959日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/14(水) 20:13:46.05
▽小牧新次郎
辞職した西郷は、従者小牧新次郎と下僕熊吉を伴って日本橋の自宅を出、庄内藩用達の米問屋越後屋の別荘にしばらく身を寄せ、10月末、横浜を出帆し、11月初めに鹿児島の屋敷に着いた。
>>670に、大うそを書いていた。西郷が逗留した越後屋は、三井の越後屋ではなかった。
0960日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/14(水) 20:15:00.77
三井は呉服屋として発足し、両替商を営んだ。米問屋ではない。
0961日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/14(水) 20:15:54.79
三井に世話になりながら、「三井の番頭さん」と井上馨を揶揄しないよな。
0962日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/14(水) 22:30:13.99
▽法界坊
歌舞伎狂言「隅田川続俤(ごにちのおもかげ)」の主人公。
歌舞伎のなかでは喜劇味の強い世話物の芝居で、主役法界坊の悪と滑稽さが喜ばれ、人気を博す。極悪人だがどこか憎めない法界坊の演技が眼目である。
http://www.shochiku.co.jp/cinemakabuki/lineup/images/flier/no10_hokaibo.jpg
西郷の頭髪が法界坊のようだと書かれている。
0963日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/14(水) 22:53:39.65
▽黒田清隆
前スレ〔781-784〕で述べた。
明治2年8月、二官六省制が施行されたときは、黒田は寺島宗則外務大輔の下で外務大丞となった。
しかし、同年9月に大村益次郎暗殺事件ののち、黒田は外務省から兵部省に移籍した。黒田が兵部大輔の前原一誠と衝突したのは、明治3年4月である〔>>162〕。
大久保利通は辞表を提出した前原を慰留する一方、明治3年5月、黒田を開拓使に移籍させた。
0964日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/14(水) 23:13:51.87
▽グラント大統領〈1822−1885〉
南北戦争北軍の将軍および第18代アメリカ合衆国大統領。
軍人としては成功したが、大統領在任中の「クレディ・モビリエ事件」を始めとする多くのスキャンダルおよび汚職により、歴史家からアメリカ最悪の大統領のうちの一人と考えられている。岩倉使節団が渡米したときの米国大統領である〔>>485〕。
本章では黒田が渡米した際、グラントに直談判してケプロンを日本に連れてきたとある。
http://static.tvtropes.org/pmwiki/pub/images/70724-004-4CB8AA9B.jpg
0965日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/15(木) 00:11:55.05
▽ホーレス・ケプロン〈1804−1885〉
南北戦争に北軍義勇兵として従軍後、アメリカ合衆国政府で農務局長となった。明治4年、渡米していた黒田清隆に懇願され、職を辞し、同年7月訪日。開拓使御雇教師頭取兼開拓顧問となる。明治8年5月帰国。
日本では積極的に北海道の視察を行い、多くの事業を推進した。札幌農学校開学までのお膳立てをしたのもケプロンである。また、明治5年、開拓使東京事務所で、ケプロン用の食事にライスカレー(当時の表記はタイスカリイ)が提供されていることが分かっており、これはライスカレーという単語が使われた最初期の例である。
http://guzurabo.my.coocan.jp/m-dozo/hokudozo/kepron2868.jpg
0966日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/15(木) 00:13:12.16
ケプロンの仕事は多岐に渡り、北海道の道路建設、鉱業、工業、農業、水産業など、開拓のほぼ全領域に渡っている。特に著名で重要なものを次に記載する。
北海道は寒く、イネが育たないため、麦をつくることを奨励。北海道ではパン食を推進すべきだと主張した。ケプロンが麦作を奨励したことは、後に開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)が設立される遠因になった。
単に魚をとるだけでなく、塩漬けなどに加工すれば重要な輸出品になると進言。ケプロンの進言に従い、明治10年10月10日(ケプロン離日後)、日本初の缶詰量産工場である石狩缶詰所が作られた。
0967日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 21:41:42.05
▽クラーク〈1826-1886〉
マサチューセッツ州アッシュフィールドで生まれる。マサチューセッツ農科大学(現マサチューセッツ大学アマースト校)第3代学長。
アマースト大学で教えていた時期、学生の中に同大学初の日本人留学生がいたが、それは新島襄(同志社大学の創始者)である。任期中には新島襄の紹介により、日本政府の熱烈な要請を受けて、明治9年7月に札幌農学校教頭に赴任する。
https://www.photock.jp/photo/middle/photo0000-0322.jpg
0968日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 21:42:01.60
8ヶ月の札幌滞在の後、翌年の1877年5月に離日した。失敗。その後、知人と共に鉱山会社を設立し、当初は大きな利益を上げたが、やがて会社は破産。その後破産をめぐる裁判に訴えられて悩まされた。
晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日、失意のうちに59歳でこの世を去った。
諸君、「Boys, be ambitious like this old man」じゃよ。
0970日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 21:53:59.69
クラーク博士〔破産者〕が就けない職業・資格一覧

卸売業者、貸金業者、教育委員会委員、行政書士、警備員、警備業者、建築士事務所開設者、建設業、公証人、公認会計士
質屋、司法書士、社会保険労務士、商工会議者会員、人事官、生命保険募集人、税理士、損害保険代理店、宅地建物取扱主任者
宅地建物取扱業、中小企業診断士、通関士、土地家屋調査士、廃棄物処理業者、不動産鑑定士、弁護士、弁理士、旅行業務取扱主任者、旅行業者
0971日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 21:55:56.21
        Boys, be ambitious!!           
     \\ Boys, be ambitious!!//
 +   + \\ うんこ ワッショイ!!/+
                 +    ブリブリ
   +     人      人      人     +
         (__)    (__)    (__)
  +    (__)   (__)   (__)     +   
.   +   ( __ )  ( __ )  ( __ )  +      
      ( ´∀`∩ (´∀`∩) ( ´∀`)          
 +  (( (つ   ノ (つ  丿 (つ  つ ))  +
       ヽ  ( ノ  ( ヽノ   ) ) )
       (_)し'  し(_)  (_)_)
0972日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 21:59:29.70
          ____
       / \  /\ キリッ
.     / (ー)  (ー)\    <「聖書によらざれば人間教育の完成なるものは望めない」
    /   ⌒(__人__)⌒ \
    |      |r┬-|    |
     \     `ー’´   /
    ノ            \
  /´               ヽ
 |    l              \
 ヽ    -一””””~~``’ー?、   -一”””’ー-、.
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))

          ____
        /_ノ  ヽ、_\
 ミ ミ ミ  o゚((●)) ((●))゚o      ミ ミ ミ   <破産したけどよう〜www
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\   /⌒)⌒)⌒)   
| / / /     |r┬-|    | (⌒)/ / / //       
| :::::::::::(⌒)    | |  |   /  ゝ  :::::::::::/      
|     ノ     | |  |   \  /  )  /
ヽ    /     `ー’´      ヽ /    /
 |    |   l||l 从人 l||l      l||l 从人 l||l  バンバン
 ヽ    -一””””~~``’ー?、   -一”””’ー-、
  ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) )  (⌒_(⌒)⌒)⌒))
0973日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 22:11:23.65
▽玄武丸
クラーク一行は、開拓使長官黒田清隆と共に開拓使御用船「玄武丸」に乗船して品川沖を出帆、一路北海道へ向かった。
この船、じつは「ゴロタマル」と渾名される小汽船であった。
後述するが、酒乱の黒田清隆が起こした大砲発砲事件は、このときの航海である。
http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_02/g-tsuusetsu_02/t2-0832.jpg
0974日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 22:34:40.63
▽札幌農学校
北海道大学の前身。明治5年(1872)東京芝増上寺内に開設された開拓使仮学校が、明治8年に札幌に移転、同9年に札幌農学校と改称した。米国人教頭クラークが邪宗門を広めたため、内村鑑三・新渡戸稲造ら多くの隠れキリシタンを産みおとした。
※旧札幌農学校演武場(札幌時計台)
http://www.city.sapporo.jp/ncms/shimin/bunkazai/bunkazai/syousai/tokeidai.jpg
0975日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 22:48:11.08
クラークはわずか八ヵ月の滞日後に帰国しているから、新渡戸稲造、内村鑑三ら二期生とは入れ違いなんだよね。
新渡戸・内村の恩師は、二代目のホイーラー教頭。
0976日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 22:49:02.15
クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員が邪宗門に入信していた。
0977日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 22:51:29.93
邪宗門に入信した新渡戸稲造は目を悪くし、眼鏡をかけるようになった。やがて眼病を患い、それが悪化して勉強への焦りから鬱病までもを患ってしまう。天津神の祟りであることは、いうまでもない。
0978日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 22:54:12.24
『翔ぶが如く』から脱線しすぎだよ。
黒田清隆が有能な官僚であったことを論証するために、ケプロンとクラークが例に引かれているだけだろう。
そろそろ本筋にもどろうぜ。
0979日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/16(金) 23:35:45.17
▽アルコール性痴呆症
・料亭「紅葉館」では、黒田に水ましの酒を飲ませていた。
・三条実美・伊藤博文・井上馨は、罵倒されたり、ピストルで脅されていた。
・刀剣屋のもってきた刀で古株を斬り、飛んできた刀身が黒田の肩を傷つけ血まみれになった。
0980日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 16:07:59.43
▽黒田清〈せい〉
黒田は28歳で明治維新を迎え、翌明治2年に中山清〈14歳〉と結婚した。
旧旗本の娘。
結婚9年目のある日、黒田がしたたかに飲んで帰宅すると、妻から文句を言われた。黒田はカッとなって妻を斬殺した。
※黒田清ではありません。名無し御殿女中。
https://stat.ameba.jp/user_images/20150911/09/fumiakityan/ec/f9/j/t01660304_0166030413421613275.jpg
0981日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 16:17:09.56
黒田参議夫人斬殺事件が、明治11年3月。その2年前の明治9年7月31日に、黒田長官は玄武丸大砲発砲事件〔>>973〕を起こしている。
0982日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 16:30:24.84
▽黒田長官大砲事件
明治9年7月30日、祝津〈しゅくづ〉沖合を航行中の黒田清隆が乗った開拓使船「玄武丸」が、実弾の射撃試験を行った。
ところが、その標的である赤岩の岩頭を外れ、祝津村民・斎藤清之介氏の漁舎(現在の祝津3丁目178番地)を直撃し、この家の娘 「多津与」の両足に重傷を負わせ、ついに、死亡させてしまったという事件。発砲したのは、もちろん酒乱の黒田長官です。
※画像は戦艦武蔵の主砲46サンチ砲発砲の瞬間
http://ironna.jp/file/w480/h360/3220c67685d272c9ad41170f71b4c877.jpg
0985日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 16:57:07.24
黒田清隆は明治11年3月のある日、泥酔して帰宅し、妻の出迎えが遅いとかなんとかいう、つまらないことから逆上し、病みがちの妻せいを斬り殺したのだと巷間に広められてしまった。この事件は「団々珍聞」4月13日号に痛烈な1ページ大の風刺画を掲げスッパぬかれた。
警視庁はすぐ「団々珍聞」を処罰したが、口から口へとひろがる世論にはふたはできない。ついに黒田は辞表を出して家にひきこもった。
0986日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 16:57:15.11
伊藤博文と大隈重信は黒田の処罰を迫ったが、大久保は黒田を弁護して「黒田は断じてさようなことをする無慈悲な人間ではない。拙者がそれを保証するから、しばらく拙者にまかされたい」といいきって、腹心の川路利良に検視を命じた。
川路は夫人の墓を掘り起こして、医師は病死と診断した。こうして、黒田は大久保に説得されて、辞表を撤回した。
0987日本@名無史さん
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2018/03/17(土) 16:58:19.30
紀尾井坂の兇変はそれから数日後の5月14日に起こったのである。黒田のスキャンダルが罪に問われなかったことも、ひとつの引き金となって、大久保利通が島田一良に斬殺されたのだともいわれている。
0988日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 17:00:59.69
黒田は、結果としては彼が師と仰いだ西郷と大久保をともに殺したということになる。
0989日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 17:08:28.28
明治14年に開拓使の廃止方針が固まると、黒田は開拓使の官営事業の継続のため官吏を退職させて企業を起こし、これに官営事業の設備を払い下げる計画を立てた。このときその官営事業に非常な安値を付けた。
しかし、払い下げの規則を作った大隈重信が反対した。黒田の払い下げ計画が新聞報道されると、在野はこれを薩摩出身の政商・五代友厚の企みによるものだとして激しく非難した(開拓使官有物払下げ事件)。
大隈が情報を流したせいだと考えた伊藤・黒田ら薩長閥は、明治十四年の政変で大隈を失脚させた。しかし払い下げは中止になり、黒田は開拓長官を辞めて内閣顧問の閑職に退いた。
0990日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 17:11:00.91
醜聞と疑獄事件は後々まで世人に記憶され、黒田の名声を傷つけた。しかし薩摩閥の重鎮たることは変わらず、明治20年に第1次伊藤内閣の農商務大臣となり、伊藤の後をうけて同21年4月に第2代内閣総理大臣となった。
在任中もっとも大きな事件は、大日本帝国憲法の発布であったが(明治22年)、黒田自身は憲法制定に深く関与しなかった。
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/2b/b8/cdccb674233176bb005de7c2483a65f1.jpg
0991日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 17:18:32.09
▼開拓使官有物払下げ事件
北海道開拓使長官の黒田清隆が開拓使官有物を同郷薩摩の政商五代友厚らの関西貿易商会に安値・無利子で払下げることを決定したところ、世論の厳しい批判を浴び、払下げ中止となった事件を指す。
明治十四年の政変〔>>938〕のきっかけとなり、伊藤博文が大隈重信を政府から追放した。
0993日本@名無史さん
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2018/03/17(土) 17:21:15.19
払下げ官営事業に安値を付けるわ、冗談半分で大砲をぶっ放すわ、挙句の果てに嫁は殺すわ、黒田サイテー。
0994日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 17:23:14.32
平生はその手腕を買われていた黒田だが、一度酒を飲むと必ず大暴れする酒乱であった。
ある時、酒席で暴れ、武術家としても知られていた木戸孝允に取り押さえられ、毛布でくるまれたうえ紐で縛られてそのまま自宅へ送り返された。
以来、「木戸が来た」というと大人しくなったという。
0998日本@名無史さん
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2018/03/17(土) 17:30:23.14
第19章 退去 〔一〕黒田清隆 の全部は収まらなかったな。
次スレも、黒田清隆の話の続きだ。
0999日本@名無史さん
垢版 |
2018/03/17(土) 17:32:15.45
全集の各巻が、スレッド二つでは消化しきれなくなったな。
10011001
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