邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
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邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
邪馬壹國とは26か国の国邑で構成されており
その26か国の国邑とは對馬國、一大國、末廬國、伊都國、奴国、不彌國と旁國20か国(斯馬國、已百支國、
伊邪國、都支國、彌奴國、 好古都國、不呼國、姐奴國、對蘇國、蘇奴國、 呼邑國、華奴蘇奴國、
鬼國、爲吾國、鬼奴國、 邪馬國、躬臣國、巴利國、支惟國、烏奴國)
魏志倭人伝には伊都国に卑弥呼が居たとの記述が2か所あり、その一つが 「世有王皆統屬女王國」である。
「世有王皆統屬女王國」の「A統屬B」は「AはBに統屬する」の意味であり
Aについて「伊都国の代々の王は皆」と理解されていたが、
ここでは「世有王」としかなく「世世有王」ではない。
「世有王」の「世有」について『三国志』内で用例を調べると魏書に4例、呉書に1例有る。
「三世有」(魏書)、「當世有」(呉書)等の特殊な事例を除き『三国志』内では「世有」は魏の世を示している。
「世有」を代々と訳してよい場合でも親子二代程度で何代も続いたとの意味ではなく
「世有」は魏代内の世である。即ち「世有王」は「代々の王」の意味ではなく、
「世(魏の世)は王が居た」の意味なのである。
そして文はここで一旦切れて、次に続く「皆」は「世有王」ではなく別のものを指しているのであり、
それは倭の国々のことである。
「皆統屬女王國」の「皆」は倭国の国々を指していると考えられる。
「皆統屬女王國」とは「倭の国々は皆、女王国に統屬していた」の意味なのである。
すると前文の「世(魏の世)に王が居た」の王とは女王国の王である卑弥呼や壹與のことを指していると判明する。
また「世有王」とは「魏の時代に王(卑弥呼、壹與)が伊都国に居た」こと指すと結論される。 世有王
@ 三国志魏書后妃傳第五
>自夫人以下、世有搗ケ。
夫人以下の妃の扱いについては、「それぞれの帝によって」増減があった。(以下、各帝ごとの変化について記載) 魏の世には増減があったの意味
A 三国志魏書任蘇杜鄭倉傳第十六
>語曰「世有亂人而無亂法」
「世の中に、世を乱す人はいても、世を乱す法律はない」と言います。
B 三国志魏書徐胡二王傳第二十七
>今汝先人、世有冠冕、
現在、貴方たちの先祖は、「代々」冠をつける役職についている、つまりこれも魏の世には冠をつける役職についているの意味
C 三国志魏書烏丸鮮卑東夷傳第三十
>而公孫淵、仍父祖三世有遼東。
父祖三代に渡って遼東を領有した。(189〜238)
D 三国志蜀書黃李呂馬王張傳第十三
>當世有聲名
当時は名声が高かった。
C は三世(三代)の意味、Dは当世(当時)の意味で、世有の用例ではない。
@ は代々の意だが、魏代ではある。Bも代々の意だが、魏代ではある。Aは一般的な言葉を引用しているのでこの世の中の意、用例としては不適切
以上からは、世有王は、特別な使用でない限り魏の世の王が、と訳すのが妥当である。 2か所目は「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」の文である。
「自女王國以北 特置一大率」・・・一大率が置かれたのは伊都国ではなく女王国の北の諸国
「於國中有如刺史」・・・刺史は各地の行政機関内に常駐してる監察官
「常治伊都国」・・・女王国の北の各諸国の置かれた一大率を治め(統率)ていた 。
つまり
「自女王國以北 特置一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史」では、「女王国の北の各諸国には、特別に一大率を配置して検察させており、畏れ憚られている。
常に一大率は伊都国で統率されている。
これは魏で皇帝が刺史を州に派遣し検察させて洛陽で統率しているのと同じようだ。」の意味となる。
全て伊都国についての説明だから「皆統屬女王國」も伊都国についての説明
伊都国を首都とする女王國は倭の国々を統屬していた。
皆とは倭の国々を指しているのであって、皆が絶対に伊都国を指さなければならない理由はない。
だいたい皆と呼べるほど多くの王が魏代に伊都国にいたとは考えられないし、伊都国に付いては特に詳しく説明されているにも関わらずそれらし記述も一人の王名ない。
伊都国は郡使が滞在するところで、伊都国に付いては特に詳しく記されている
「官曰爾支 副曰泄謨觚 柄渠觚」と官、副官の名前は記されているのに、伊都国の王の名前は一人も記されていない
また倭人伝は張政が持ち帰った情報を最新として張政が帰国した時点で書かれていて
既に倭王が魏より任命されているのに、伊都国の首長を王と呼ぶこと事態がおかしい
伊都国の王は伊都国には居なかった、伊都国に居た王は伊都国の王ではなく、倭王の卑弥呼や壹與としか考えられない。
水行十日陸行一月が水行十日陸行一日の誤りであり、魏志倭人伝は全て矛盾なく解読することができます。 →移動方向
・海─┼─對馬國─┼─海─┼─一大國─┼─海─┼─末廬國─┼─伊都國─┼─奴國─┼─不彌國
・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・・・国境
1000里・・方400里・・・・1000里・・・方300里・・・・1000里・・・・・500里・・・・・・・100里・・・・・・100里
・・・・・・・・・(800里)・・・・・・・・・・・・・(600里)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・合計12000里┼
魏使の旅は帯方郡の海岸から始まり狗邪韓国の南岸へ(7000里)
狗邪韓国の南岸から対馬国の北岸(1000里)
対馬国の北岸から対馬国の南岸(800里)
対馬国の南岸から一支国の北岸(1000里)
一支国の北岸から一支国の南岸(600里)
一支国の南岸から末盧国の北岸(1000里)・・・呼子、名護屋浦付近が末盧国への上陸地点
末盧国の北岸から末盧国と伊都国の国境(500里)・・・糸島市中央部
末盧国と伊都国の国境から伊都国と奴国の国境(100里)・・・ここまでで12000里になり日向峠付近、女王国の中心地
1里は80mくらいで計算が合う。 ・・・・・・・・・・・狗邪韓国
帯方郡├─海─┼─海─┼─對馬國─┼─海─┼─一大國─┼─海─┼─末廬國─┼─伊都國─┼─奴國─┤不彌國
・・・・・国境・・・・国境・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・・・・・国境・・・・・・国境
・・・・・・・・7000里・・1000里・・・・・800里・・・・1000里・・・・・600里・・・・1000里・・・・・500里・・・・・・・100里・・・・・・・100里
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(方400里)・・・・・・・・・・(方300里)・・・伊都国と奴国の国境で合計12000里┼ これは基本正しいと思う。
卑弥呼の宮廷=伊都国内
卑弥呼の墓所=とこか彼方(たぶん南?)
また、魏略では伊都国の人口は「戸万余」となっていてこちらが正しいと思える。
「東南五百里 到伊都国 戸万余 置曰爾支 副曰洩渓觚 柄渠觚
其国王皆属女王也」
ただ自分の中では
伊都国が吉野ヶ里近辺の方が受け入れやすいが、、、 魏志倭人伝には環濠については書かれていないからね。
宮殿の「城柵」を勝手に環濠に読み替えてるだけ。
船着き場があるから必ず目にしたであろう壱岐原の辻の三重環濠ですら記載されてないから、
戦争中の邪馬台国を訪れるのだから環濠など当たり前と思われたのか、
大陸や半島の大戦争を知る魏使の目には環濠など特に記すべき防御設備と映らなかったのか。
吉野ヶ里の空堀ならギリギリ城柵かもしれんが、
水堀はアウトだろうね。 >>8
>宮殿の「城柵」を勝手に環濠に読み替えてるだけ。
⤴ この環濠というのはどこに登場してるのか 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 筑前・高祖城 (別名:高祖山城,原田城)
>形態・朝鮮式山城(416m/380m)
>建長元年(1249年)に原田種継によって築かれた。 高祖山城は元・怡土城の一部を利用して築かれている。
>原田氏の祖は、古処山城秋月氏と同じく藤原純友の乱で名を馳せた大蔵春実であり、大蔵氏は漢の高祖の子孫で阿知使主の末裔と伝わる。
>原田氏ははじめ大内氏、陶晴賢謀反後は毛利氏、ついで島津氏と結び反大友勢力としてこの地に根付いていた。
>しかし、豊臣秀吉の九州征伐によって落城し、廃城となった。 元・怡土城 (国指定史跡)
>形態:朝鮮式山城(400m/380m)
>天平勝宝8年(756年)大宰大弐の吉備真備によって築城がはじめられ、
>工事の途中で佐伯今毛人に引き継がれ、神護景雲2年(768年)に完成した。
>朝鮮半島の新羅への備えとして築かれた古代山城であるが、実戦では使用されることなく荒廃し、
>中世には、原田氏の居城となる前述の高祖山城が築かれた。
>怡土城は高祖山から北へ伸びた尾根から西麓に至る部分を城域としており、
>遺構は山上にある第一望楼から第五望楼、一の坂礎石群、麓の土塁、門跡などである。
>第一望楼は高祖山から北へ伸びた標高300m付近にあり、
>そこから西の尾根伝いに第二望楼、第三望楼、第四望楼、第五望楼と続き、礎石などが残る。
>高祖山山頂は中世高祖山城であるが、この辺りからも古代瓦が出土しており、怡土城の望楼があったと考えられている。
>城主は、大和朝廷 この古代山城の怡土城廃城を利用し、
中世に高祖城を築いた城主の原田氏というのは、今でも糸島地方の旧家・名士らしい。
思うに、昭和の中頃、箸墓卑弥呼/糸島伊都国説を引っ提げて、華々しく出版デビューし、
今の畿内大和説の先陣を切った原田大六も、この一族だったのだろうな。 漢の高祖 (中国の漢王朝の初代皇帝。劉邦の廟号)
>項羽を滅ぼして天下を統一した漢王劉邦は、前202年、漢王朝の皇帝の位についた。
>同時に夫人を皇后、長子を皇太子とした。皇后、皇太子の語はこれが最初である。>高祖は漢帝国の初代皇帝であるが、その死後はしばらく不安定な状況が続く。
>高祖の皇后で2代恵帝の母の呂后が実権を握り、その一族が進出したからである。>しかし呂后の死後、劉王室と功臣周勃、陳平らが呂氏一族を倒し、第5代の文帝が即位してようやく安定した(前180年の呂氏の乱)。 漢の高祖の政策
>漢の高祖(劉邦)は、皇帝になると一族・功臣を諸侯王とし、その地の支配権を与えた。
>また直轄地には、秦と同じく郡・県を置いて官吏を派遣して支配した。これが郡国制である。
>このように高祖は、秦の始皇帝のような中央集権体制をとることはせず、
>それ以前の封建制を残して妥協をはかり、現実的な統治策をとったといえる。
>なお北方匈奴に対しては、前201〜200年の作戦に失敗し、
>高祖自身が平城(現在の大同市)付近で冒頓単于の軍に7日間にわたって包囲され、屈辱的な和約で解放された。
ふーん、古代我国の郡県制というのは、実は漢の皇祖の政策のコピーだったのか、、、 そりゃそうだ。
ほとんどの政策、制度、文化は中華の猿真似。
漢字そのものが漢からの輸入文化。 >>11(続き)
筑前・高祖城 (別名:高祖山城,原田城)
城主原田氏の祖は、藤原純友の乱で名を馳せた大蔵春実であり、大蔵氏は漢の高祖の子孫で阿知使主(あちのおみ)の末裔と伝わる。
この阿知使主(3世紀ー4世紀頃、又は5世紀前半)は、応神天皇時代の漢人系渡来人で、東漢氏の祖と言われている。
なお、続日本紀・延暦四年(785)六月の条によれば、東漢氏の祖の阿智王は後漢の霊帝の曾孫であり、
「東方の国(日本)に聖人君子がいると聞いたので、帯方郡から「七姓民」とともにやってきた」と、
阿智王の末裔の東漢氏出自の下総守・坂上苅田麻呂が述べたという。 高祖山山頂から南側には怡土城の遺構が見つかっていないというが、南側の日向峠を封鎖しなくては伊都の防衛にならない。
当然、南側にも望楼や柵は有ったろう。
怡土城は、高祖山の西側半分が城域となる中国式山城だったと考えられる。
その起源は8世紀までしか遡れないが、これは九州の古跡の常であり、7世紀以前の史料が失われているのであろう。
伊都が要所であったのは1世紀から5世紀くらいまでの期間であり、8世紀になってから築城するというのは筋が通らない。
怡土城の中にある高祖宮の祭神は日向三代の倭王であるヒコホホデミであり、高祖宮と怡土城全体が王城だったのだろう。
記紀に曰く筑紫の日向の高千穂宮とあり、クシフル山(椚集落の上にある高祖山南部)にあったとされている。
これが倭国の王城であり、卑弥呼の宮でもあるのだろう。 学術発表ならともかくネットでの話題提供なんだからいいじゃない。 良くも悪くも弥生の主要拠点はそのまんま神社になってるからね。
遺構があるとしても発掘されることはなかなか無い。
逆に言えば保存が効いているともいえるが。
ただ一つ言えることは、銅鏡はもちろんだが、銅矛銅戈も神社から見つかる。
銅矛が出土したり伝世したりしていて矛祭りまで残っているのだから
どこの勢力が起源かは見れば明らかだろう。
銅鐸は見つからない。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 筑前・高祖城 (別名:高祖山城,原田城)
古代山城の怡土城廃城を利用し、中世に高祖城を築いた城主の原田氏の祖先は、
漢の高祖の子孫で阿知使主(あちのおみ)・・。
この阿知使主(3世紀ー4世紀頃、又は5世紀前半)は、応神天皇時代の漢人系渡来人・・。
ということは、高祖山の命名も高祖城とセットで、原田一族は漢系の渡来人の末裔ということか・・。 徳島県吉野川市山川町忌部山字峯石
「稚宮(わかみや)神社」
祭神は、思兼尊・長白羽命です。長白羽命? と調べたら荒妙を織った神麻績部の祖神
https://sueyasumas.exblog.jp/16991385/ @阿波 徳島県吉野川市山川町忌部山字白山
「白山(しらやま)比売神社」
石碑には「忌部社摂社 志良夜末比賣神社」とあります!!
「忌部神社」の七摂社の一つで、祭神は「伊佐奈美尊」です(*^_^*)♪
イザナミ命の「遥拝所」・・・。
この「白山比売神社」の南西には「高越山」があり、山頂に「イザナミ」が祀られていると言われています♪
イザナミ命・イザナギ命の神号は海の霊物「イナサ(雄魚)」より名付けられたという説があり、イザナミ命の生前の名は「白山比売」であったという伝承があるそうです!!
https://sueyasumas.exblog.jp/17016171/ @阿波 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>23
応神天皇の時代なら5世紀くらいか。
ただ、3世紀の状況を考慮すると、伊都と奴国という最重要地域の防衛の要を誰がどのように運用していたかは気になる。
伊都の天孫族も渡来人だろと言われればそれまでなのだが。 >>27
>ただ、3世紀の状況を考慮すると、伊都と奴国という最重要地域の防衛の要を誰がどのように運用していたかは気になる。
筑紫忌部 と、何度言えばw @阿波 神道、鳥居と言えばやっぱり忌部の郷でしょう。
忌部の郷 徳島県吉野川市山川町忌部山字黒岩
「忌部神社旧社地 真立石(上古神社鳥居)」
http://i.imgur.com/aaVKHYN.jpg @阿波 じゃあ3世紀の伊都にあった怡土城が天孫族の王城、いわゆる筑紫の日向の高千穂宮ということで。 伝記通り、
ウガヤフキアエズの母方の32世の先祖の阿毎氏の筑紫城(筑紫の日向の高千穂宮)だった、でいいんじゃないの 糸島平原・高祖城主の原田一族は、中国人の血筋だったのか、
(うーむ) 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 高祖の子孫がはるばる辺境の日本に来なくちゃいけない事件とか起きてないし 黄巾の乱は184年だから遅すぎでしょ。
その頃にはとっくに卑弥呼様がいらっしゃいますよ。 そういうことだな、
だから、伊都国もとっくにできていたことになる そうすると、
伊都国と高祖は無関係ということになる 天神族か天孫族かが伊都国の高千穂宮を出た数世紀後に入った原田氏がたまたま高祖の子孫だから高祖宮になったって話でしょ? そもそも「高祖」って、初代様とか開祖様って程度の意味なんで、その子孫が名跡を引き継ぐような種類じゃない名前だろ
漢王朝に、初代高祖の他に高祖を名乗る皇帝がいないことを考えたら普通は分かる。 天皇家の高祖(日向王家)がいたということでしょう。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>48
いつの時代からというよりも、名付けた時にはここに高祖がいたという認識が明確だったのでしょう。
今でも高祖宮の祭神は皇祖のヒコホホデミなのです。 高祖は漢王
高祖宮は漢系渡来人の末裔の宮で中華の血筋だな(だから、あえて皇祖を祀った) ヒコホホデミ(天津彦彦)
>天孫・火瓊瓊杵尊の第2子。
>神武天皇(初代天皇)の祖父である。山幸彦として知られ、兄に海幸彦がいる。
>名は彦火火出見尊(ひこほほでみ)、あるいは火折尊(ほおり)。
天孫・瓊瓊杵尊の第2子だから、皇祖の一人ではあるが、次男ではねえ・・・、 高祖神社
「日本三代実録」に見える「高礒比盗_(高磯比盗_)」に比定されている。
>この神を巡って、これまでに諸説が挙げられている。
>一説には、新羅渡来のアメノヒボコ(天日槍/天之日矛/天日桙)伝説と関連づけられ、特に高礒比盗_はその妻神に比定される。
>その根拠として、長野宇美八幡宮(糸島市川付)の社伝に関連伝承が見えるほか、
>「筑前国風土記」逸文では、怡土県主祖の五十迹手は日桙の末裔と見える点、
>「筑陽記」では、高祖を怡土県主の本貫地とする所伝が見える点、
>「日本書紀」の渡来系伝承では、「伊都都比古」という人物名が見える点が、関連づけられる。 >>54
兄(海幸彦)と争いとなり、兄は追い出してしまった。
兄は海路を南に進み、都万にたどり着いた。
だから福岡の邪馬台国と宮崎の投馬国は兄弟国になる。
神武の祖父なのだから、間違いなく皇祖。
あと、当時は兄弟相続も多かった。
神武も四男。 高祖神社
>創建は不詳。
伝承では、古くは大下の地に鎮座した。
建久8年(1197年)に原田種直が当地に入るに際して、高祖神社宮司の上原氏と姻戚関係を結ぶとともに、
高祖山の怡土城跡に高祖城を築城して、その麓に高祖神社を移したという。 古代は末子相続でしょ。
長子相続だと大王が健在の間に成人して争いになる。
末子以外には兵を与えて新規領土拡大させたんじゃないかな。
ニギハヤヒとかも。 まあ、そうかもしれない。
とにかくそんなわけで、福岡県は山幸彦が倭王として継承し、宮崎県に海幸彦が行った。
福岡県が邪馬台国、宮崎県が投馬国。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 山幸彦と海幸彦で、邪馬台国と投馬国が決まるなら、こりゃまったく世話いらず 山幸彦や海幸彦、神武も500年後の記紀の中の話だからな
邪馬台国や投馬国とは関係ないでしょうね。 海幸山幸神話は喜界島やパラオ、インドネシアからミクロネシアにかけて
の神話との類似が指摘されてるからな 神武の実年代が卑弥呼と近いなら、海幸山幸の時代もせいぜい1世紀から2世紀の初めくらいで、伊都の日向王家の男王70〜80年の間になる。
まさか神武が2600年も前に大和で即位したなんて思っていないよね? >>65
神話モチーフの類似性・類縁性・相違性の研究が進んだので、世界的に広く見られる普遍性要素がいろいろと知られるようになり、東南アジア方面との類似性に特別な意味を見いだす論は衰退した 川もあれば海もある。
イザナギが禊をした筑紫の日向の小戸は高祖山のヨットハーバーになっているね。
日向川は高祖山の東側にある。
日向峠は高祖山の南側。
高祖山周辺全体が筑紫の日向という土地であったわけだ。
高祖山の西側は全て怡土城の城域になっている。 高祖山南部のピークがクシフル山と呼ばれていて、筑紫の日向のクシフル山、そこにある伊都の王宮こそ、高千穂宮だよね。
女王の都である伊都と奴国に睨みを効かせる倭の王城は山頂と山麓を囲むように構成され、魏志倭人伝にあるようにまさに楼閣高い王城だったわけだ。 糸島の糸島の高祖は朝鮮から来たおっさんが住んでたんだよ
怡土城は756年から大宰大弐の吉備真備と佐伯今毛人が築城した
日向(ひなた)峠の名は後世だな じゃあかわりの高千穂宮と卑弥呼の王城の場所を示してよ。 トドメが伊都にある女王墓から出土した八咫の鏡だね。
記紀では天照が造らせたことになっているが、天照のモデルは卑弥呼だもんな。
もっとも、天孫族がいたならその名前の元となった天照もいたはずなんだけどな。
天孫族が海の向こうの高天原から来たというなら、高天原がどこか探すのは困難だ。 どデカい鏡が捨ててあった平原は墳丘も削られ
祠も拝殿も伝承もなかった
糸島の民にとって迷惑な墓だったんだよ >>75
その平原の頃、他の墓の多くは破鏡や破片しか副葬されなかったんだよね
その頃に超大型鏡も凄いが、この数の破砕鏡で元鏡近くまで復元できる鏡も多くあること自体、凄い事
鏡の占有率が半端ない
海外製品も豊富な事から、外交に関わった相当権力のある女性だろうね 〇〇にとって迷惑な墓だったんだよ
ある意味正鵠を射てる? 平原遺跡の女王は、当時輸入された贅沢品のほぼ全てを独占するような立場だったろうね。
膨大な数の玉、鏡がそれを物語っている。
そしてその年代はおそらく倭国大乱より後だ。
卑弥呼の墓って、もう見つかっているのではないかな? 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 中国は先進国だったから分業が進んでたわけでしょ。
職人も含んだ多職種の集団で渡来してきたらまだしも、
武人だけとか、貴族だけとか、とかが亡命してきたら、
そのまま日本の竪穴住居にでも住んで、住めば都で馴染んだのでは?
わざわざ自分で瓦や土壁を作る技術も無く。 >>81
武人や貴族が一人でやって来ると思う?
それに漢服と木沓を捨てて、布を体に巻き付けて結ぶだけの半裸で裸足の生活ができると思う?
それに中国系の武器や武具がどこにあるの? それに漢字の金石文や木簡、渡来時に伝わった中国系言語の単語は? まさかと思うが、渡来人のだれもが徐福のように平時に準備万端でやってくるわけではあるまい。
中国では何度も動乱があって国家が消滅しているのだから、
大慌てで貴人一家のみで脱出してくるケースなどいくらでもあった。
職人一式などむしろ連れてこれないだろ。
中国では分業が進んでいるのだから、
中国のものが一切合切入ってくるわけではない。
あれがないこれがないから、渡来人はいなかった、ではなく、
あれがあるこれがあるから、渡来人はいた、と考える方が正しい。 >それに漢服と木沓を捨てて、布を体に巻き付けて結ぶだけの半裸で裸足の生活ができると思う?
温暖な倭地なら現地の服でじゅうぶん
漢服が伝わって一時期流行ったとしても残らない。日本側に同化したのかもしれん。
>それに中国系の武器や武具がどこにあるの?
木沓なども職人がいないと作れない。
武器も職人が必要。
平原での戦いが多い大陸の武器が、泥地や海での戦いが多い日本で有効だったとは限らない。
養蚕や機織の技法、金属器の加工技法など、技術革新が痕跡であるかもしれん。
>それに漢字の金石文や木簡、渡来時に伝わった中国系言語の単語は?
大量の仿製鏡が出土している。
硯と漢字。 >大量の仿製鏡が出土
なるほど畿内説にとっては渡来人がいたら困るわけだ。
洛陽生まれで、呉で鏡職人として修業した、陳さんw 呉では神獣鏡系の銅鏡が盛んだった。
魏では鉄鏡の時代に入っていた。
魏が勝って、呉が滅びた。
鏡専門の陳さん一家が来日して、さあ、伝わるものは? >>84
で、徐福が渡来定着した証拠遺跡はどこ?
そして、その証拠文物は?
で、貴人一家で渡来定着した証拠遺跡はどこ?
何らの考古立証も出来ない願望詭弁乙
縄文弥生を通して、日本には中国から渡来定着した事を考古立証できる痕跡遺構など一つたりとて無い! >>85
>木沓なども職人がいないと作れない。
8000年前から丸木舟を作っていた脈々と続く木器文化があるのに作れねえわきゃねえだろがカス。
>平原での戦いが多い大陸の武器が、泥地や海での戦いが多い日本で有効だったとは限らない。
平原での戦いが多い大陸の武器が、泥地や海での戦いが多い日本で有効だったとは限らないとどうして分かったんた?
何で分かったんだ?
実際に作ってしばらく試さないと分からないじゃないか。
ハイ、詐欺師の詭弁!
>大量の仿製鏡が出土している。
で、在地産の在地で書かれたオリジナルの漢文の鏡は?
詭弁の塊だろおまえ! 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >なるほど畿内説にとっては渡来人がいたら困るわけだ。
当に、ご明察!! >>85
あらら。図星だったんだね。。
文化というのは上下関係だけじゃなくて、その土地の風土との相性があるでしょ?
数千年先行してて路面が綺麗な中国だと木沓が使えても
倭人伝にある通りの田舎日本の泥道だと木沓なんて歩けたもんじゃない。
武器なんて先端技術の塊なんだから、
例えば鉄製武器を知っている武人が例えば弥生畿内へやって来ても、
原料すらないんだから作りようもない。 >で、在地産の在地で書かれたオリジナルの漢文の鏡は?
>詭弁の塊だろおまえ!
え、、、と、、、
大量の仿製鏡の漢文はどうするのさ?
例えば平原女王墓から出土する大量の方格規矩鏡。
日本で出土する方格規矩鏡はいきなり完成度が高いから、
これが仿製鏡とするなら、渡来人が関与したとしか考えられない。
これが舶載鏡とするなら、魏から貰った百枚は方格規矩鏡となる。
どっちがいい? 青龍三年銘鏡があるからのう
董卓によって壊滅消滅した洛陽(190)
その洛陽に魏が首都を戻したのが220年で、そこから復興が始まる
各地に散った鏡師の弟子が洛陽にぽつぽつと戻り、
漢代方格規矩鏡を手本に作った方格規矩鏡は
鏡面お手本の手法といい、つたない字体といい、まさに平原の方格規矩鏡そのもの
青龍三年235の方格規矩鏡まで来日しているとあっては、
卑弥呼が貰った銅鏡百枚 >>87
それだと、倭で新たに書かれたオリジナル漢文の倭産の鏡が何種類もあるはずじゃないの。 >>96
鏡なんてどうでもいいじゃん
日常生活では
>倭で新たに書かれたオリジナル漢文
が大量にあって
その一部が万葉集に 鏡は渡来人が作るんだから故郷の漢文を鋳込めたんだなあ
残ってる
倭人知識層は木簡竹簡に倭歌を詠んだけど
残念!
残ってないや
硯(筆記用具)や鉄刀子(消しゴム)は残ってるけどね >>98
で、倭で新たに書かれた倭オリジナル漢文の倭産の鏡は?
. >>99
三角縁神獣鏡の銘文はなんでオリジナルすぎるの? FAQ10000
倭で新たに書かれた倭オリジナル漢文の倭産の鏡は?
三角縁神獣鏡の銘文 >>100-101
違う。
男王や台与の即位を祝うとか、もっと徹底して内容の異なる漢文の鏡は? >>102
男王はすぐ失脚
台与は活躍はしとらんよ
同時代に活躍したのはワカタケル
鏡じゃないけどねー >>103
何か誤魔化そうとしてる臭がプンプンしてるな。
失脚する前に即位があるだろ。
何でそれを祝う漢文の鏡がねえんだ?
台与の即位時には張政たちが檄文で祝賀してるし、台与は晋に朝貢を成し遂げた。
何でそれらを祝う漢文の鏡がねえんだ? >>104
弥生の大王が即位するたびに漢文の鏡が作られたのか?
無い。
つまりお前さんのマイルールにすぎないということだな。 FAQ10000
倭で新たに書かれた倭オリジナル漢文の倭産の鏡は?
三角縁神獣鏡の銘文 >>102
卑弥呼の即位を祝うとか、もっと徹底して内容の異なる漢文の鏡は? 【倭国兵がやってきた!】
愛しのあの娘と浜辺で初デート
あの娘の作ってくれたおにぎりをアーんしてると
沖合に倭国水軍が大挙しておしよせてきました!
さあ、あなたの取る行動は?
1キナイコシ:集落へ逃げかえる
2キナイコシ:木の棒を構える
3キナイコシ:石鏃の弓矢で先制攻撃!
4キナイコシ:土下座して、集落の情報を伝える007になる >>107
呉のミラーマンが来たのは魏への朝貢以降なんだろ?
本当に呉のミラーマンが来てるなら、それ以降の倭オリジナル漢文の鏡が何種類も
何種類もあるはずだろうに。 >呉のミラーマンが来たのは魏への朝貢以降なんだろ?
方格規矩鏡は呉領域の鏡だから後漢末期の動乱で亡命してきたんだろうね >それ以降の倭オリジナル漢文の鏡が何種類も何種類もあるはずだろうに。
え?△ブチ? >>112
なら、卑弥呼の即位の祝賀鏡があるはずだわな。
それに呉の漢服や木沓や土壁の住居や呉の炊飯竈なんかも伝わるはずだろ。 >>114
全部あんたのマイルール
議論以前に失格 畿内からあまりに何も出ない
→あれもこれもある九州に、無いものを要求してやれ
>卑弥呼の即位の祝賀鏡があるはずだわな。
>それに呉の漢服や木沓や土壁の住居や呉の炊飯竈なんかも伝わるはずだろ。
物質が貧しいからといって
心までもが貧しくなるのは
哀しいね。。。 【筑紫日向の倭国兵がやってきた!】
愛しのあの娘と浜辺で初デート
あの娘の作ってくれたおにぎりをアーんしてると
沖合に倭国水軍が大挙しておしよせてきました!
さあ、あなたの取る行動は?
1キナイコシ:集落へ逃げかえる
2キナイコシ:木の棒を構える
3キナイコシ:石鏃の弓矢で先制攻撃!
4キナイコシ:土下座して、集落の情報を伝える007になる 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>116
>2キナイコシ:木の棒を構える で、お願いします。
あなたは木の棒を構えました。
幼い頃の冬の朝の修練の時間、長兄から指導された言葉が脳裏に甦ります。
「敵の正面から少し視線をずらして構えるんだ」
ぞろぞろと上陸して雑談しながら歩いてくる倭国兵に向かって
あなたはただ一人、
奈良湖の湖面の如き無心の境地で木の棒を正心に構えます。
『ピウッ』
あれ?
首のない体と
それに向かって鉄刀で斬撃を振り下ろした倭国兵の姿
浜辺に一人
へなへなと へたりこんでいるあの娘の姿が
あなたの見た最期の >大量の仿製鏡が出土
なるほど畿内説にとっては渡来人がいたら困るわけだ。
洛陽生まれで、呉で鏡職人として修業した、陳さんw
呉では神獣鏡系の銅鏡が盛んだった。
魏では鉄鏡の時代に入っていた。
魏が勝って、呉が滅びた。
銅鏡専門の陳さんが失職して一家で来日、さあ、伝わるものは? ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>122
土壁の中国系住居、漢服、木沓、中国系炊飯竈、漢字、中国系言語の単語 最近思うのだが、こういうキナイコシ系の大量コピペってのは嘘だな。。。 >邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)
定説ですね。 >>126
スレ主の伊都としては、定「説」じゃなくて、
結論って言いたいんでしょうね、説ってつけてないし。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 不彌國は距離や方角から考えて那珂川町の不入道で
フミ→フミュウ→フニュウ
那珂川町から春日市付近が不彌國ですね。 内陸の不彌國から水行は出来ない
水行二十日は帯方郡の海岸からですね。 不入地は鎌倉時代・室町時代において幕府によって設定された
特定の公領や荘園などに立ち入る事を禁じた地域
「不入道」の名の起源について『筑前國続風土記』では
「此所より上すべて守護不入」によると記されてい >>130
それだと
「南至投馬國水行二十日〜」
「南至邪馬壹(臺)國 女王之所都 水行十日陸行一月
と
「倭人在帶方東南大海之中〜」
の方位が合わない。 >>130
細かいことを聞くけど、
水行20日で投馬国で、
翌日から水行10日が始まるの?
それとも投馬国での滞在や投馬国内での移動日数は別? 帯方郡から水行10日で福岡県
帯方郡から水行20日で宮崎県
半島西岸を南下、半島南岸を東行
あわせて東南
水行1日が千里、帯方郡から九州北岸まで一万里 >>136
投馬國での滞在や投馬國内での移動日数は0日
狗邪韓國が投馬國の中心であり七千餘里に水行二十日掛かる
狗邪韓國には上陸せずにそのまま次へ水行
水行十日で朝鮮海峡を渡り陸行一月(日)で伊都國(邪馬壹國)へ。 >>137
それなら
「東南至投馬國水行二十日〜」
「東南至邪馬壹(臺)國 女王之所都 水行十日陸行一月〜」
と書かれるはずだね。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>138
ありがとうございます
投馬国での滞在日数がゼロだと、南行が連続することがどうかということになりますが、投馬国の描写がゼロなので、
>狗邪韓國には上陸せずにそのまま次へ水行
は魏志倭人伝に忠実な解釈ですね 対馬海峡の海上で宿泊したとは考えにくく、3日で島伝いに渡ったはず。
つまり1日分の船の行程が千里。
帯方郡から九州北岸まで一万里だが、おそらく水行10日から割り出したもの。
そして水行20日は帯方郡から投馬国(宮崎県)まで。
投馬国が半島南部だなどと、根拠のない妄想。 >邪馬壹國は北部九州5県(福岡、佐賀、長崎、熊本、大分)に跨って存在し、
>卑弥呼は伊都國を都として邪馬壹國を統治していた。
ここで >>1 がイメージしている邪馬壹國とは、倭人伝の云う倭国とほぼ同じで、
又フルタが夢見た九州王朝ともほぼ同じ....
そしてそのココロは、
邪馬壹國(倭国≒九州王朝)の王都は伊都国博物館の有る糸島市であり、今自分は其の王である・・・、といいたいのだろうな(哀.... >>143
倭国ならその範囲でいいが、邪馬台国ならば熊本を外すか、福岡だけを邪馬台国と呼ぶべきだと思う。 朝鮮通信使の記録を見ればわかるけど、対馬海峡の渡海部分はもちろん1日だが、
案外随行員の病気や天候不順で足止め喰らってるんだよね。
あと通信使の場合は対馬が接待役だったから、対馬で連日の宴会を繰り返して30日ほどとどまっている。
1日千里はあくまで晴天で順調に進めた場合のことであって、
実所要日数は、郡から投馬国まで7千里が20日。投馬国から邪馬台国が10日だよ。 >>144
けっきょくのところ >1 九州王 は、
邪馬壹國と邪馬台国を使い分けているということになる。
「邪馬台国はなかった、俺が言ってるのは邪馬壹國である」、....つまりは、古田の晩年と同じ道。 倭国乱から考えれば百年ほど戦い続けているのだから邪馬壹國の領土も刻々と変わるでしょ。最後に勝ったのだとしたら最大領域はほぼ倭国と同じでかまわん。女王共立に最初から参加したコアな親藩譜代の部分となると別だが。 壱岐と対馬の外寸1400里を行程に加えるべきですね、でないと呼子付近に上陸した後の距離が合わない
じゃないと距離も方角もデタラメと言い張るか伊都国を佐賀とか変なこと言うしかなくなるね。 >>149
>でないと呼子付近に上陸した後の距離が合わない
だから、対馬海流に流されて「呼子付近に上陸」出来ない と、何度言えばw @阿波 >>149
>じゃないと距離も方角もデタラメと言い張るか伊都国を佐賀とか変なこと言うしかなくなるね。
ほほう、佐賀がナントカ、意味深なことを云うわい。 歴史は全時代通じる概念だし、歴史を人に送り届けようと思ったら板も編集しないと。 >>145
>実所要日数は、郡から投馬国まで7千里が20日。投馬国から邪馬台国が10日だよ。
倭の領域の外、つまり半島沿岸では接待はしないし、潮待ちもそれほど必要ない。
日数がかかりすぎ。 >>149
>壱岐と対馬の外寸1400里を行程に加えるべきですね、でないと呼子付近に上陸した後の距離が合わない
これってまさかの、古田説。
でも糸島市の伊都国まできっちり一万二千里になるんだよね。 渡海1000里で島が10里とかなら無視してもいいが、
島が300とか400とかあるんだから無視できないだろ。 島を巡るというのは現実的ではない。
渡海も港から港へ移動するわけだからね。 伊都まで五百里はいいとして、伊都と奴国の間がたったの百里ってどうなのよ?
峠道だから見かけの距離より長くてけっこう大変だぞ。 全部千里ならともかく陸上は百里単位で書かれてるんだから島の百里も足すべきだろうな。渡海3000島沿岸航海1400だ。ほぼ2対1で無視できん。 そして島の沿岸航海を足すのであれば、
呼子より先唐津湾より先までの沿岸航海も足すことになって壱岐から末蘆上陸地点までは渡海+沿岸航海で千里となるのであった。 朝鮮半島だってちゃんと南行して東行してるだろ。
幅四千里なのに二辺で七千里きっちり沿岸航海。 一)考古学的に判明している弥生奴国の描写が無いから魏使は奴国に行ってない。
二)魏使は伊都までで、しかも倭人は里を知らないのに、
不弥国までの里程を歴史学者の陳寿が採用していることから、信頼できる里程情報供給者は漢代の楽浪郡官吏の可能性が高い。
考古学的にも楽浪土器の裏付けあり。
三)考古学的に判明している弥生唐津は十分に発展しているのに、魏使は藪の中を進んでいるので、
末蘆國の上陸地点は唐津よりも東であり、かつ末蘆國の他の集落も通っていない。
つまり伊都にかなり近い地点で上陸している。
四)東夷伝里の最も正確な値は、楽浪郡に最も近い、韓人エリア部分における朝鮮半島の横幅。
260km=四千里、東夷伝里=65m、が最も正確。 ・正始元年、太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬「詣倭国拝假倭王」
郡の使いは、倭王卑弥呼に詣でている。
古田の亡霊に取りつかれた九州王は、これを認めないのか・・・
、 卑弥呼がいたのが伊都国か不弥国ならば万事解決する。 というより、
卑弥呼がいたのは伊都国(か不弥国)だったとして、矛盾を隠ぺいしてるわけだな
長続きしないが、ま、古田と同じ運命でいいんだろうな。 >>162
末廬國と伊都國の国境から伊都國と奴國の国境までが100里です
伊都國の東西の幅が100里ってことだね。 >>175
倭人伝の内容と現実が合うように解釈してるだけですよ。 九州説は、自説に合うように「新解釈」を「発見」するんだよ
それで、記述と合うから正しいと言い張るww
ただの循環論法でしかないのにねw 文章の解釈を補正するのはやむを得ないが、
現実のほうの制約を捻じ曲げてはイカンな。 >>181
コミュ障はROMっているといいと思うよ。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 循環論法を理解できてないのがどちらなのかは知らんけど、その意味って
議論の出発点となる仮定・前提条件が結論を流用・転用してるヤツのことだよ
背理法を勘違いして転用しようとしたやつがよく使うんじゃないか
あれは厳格な論理の場合以外には使えない特殊な論法なんで、文献の読解とか考古学とかでは使えないのに、その辺を理解できてないヤツだよな >>155
1里80mとして7000里は560km、20日で割ると1日28km
4400里は352km、10日で割ると1日35.2km
妥当でしょうね。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 どこかのスレに九州王は岡上って書いてあったんだけど、ここのスレ主は岡上なの? 違いますよ。
それは全岡上病と言って、キナイコシの持病です。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 全スレ網羅爆撃してる嵐までキナイコシと呼んでるアフォは、自説と反するヤツ全員をキナイコシと思ってるんだろうかね 全キナイコシ病
岡上=伊都クズ=九州王=連続句読点が罹患する心の病気 >>187
全くの別人ですよw
私は岡上さんの主張内容を知らないけど
似てるのかな。 畿内説に対するアンチは、何説かに関わらず「岡上」と呼ばれるようだよ。 >>194
>畿内説に対するアンチは、何説かに関わらず「岡上」と呼ばれるようだよ。
倭国(阿波)に関しては、さすがにそれはないね。 @阿波 >>196
>@阿波は全く問題にされてないなw
「岡上」と呼ばれるような、トンデモ説じゃないからね。 @阿波 阿波の空レスは、二度とない人生をムダ〜に過ごしてるだけ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>168
なーるほど
里程は漢時代にゆっくりと時間をかけて測定したもの。
そして伊都は福岡側にあったわけですね。 西から順に、こういうことでしょう。
『邪馬壹國』
糸島平野。三雲遺跡が中心。千戸。
三雲南小路王から七八十年は男王が所在。
倭国乱を経て、卑弥呼も所在。平原女王墓。
『伊都國』
早良平野。吉武遺跡が中心。一万戸。
最古の三種神器が出土した、天神族=倭国王の故郷。
三雲南小路王から七八十年は邪馬壹國へ遷都していたが、
倭国乱以後は魏代も含めて倭国王は伊都國に所在。世有王。
『奴國』
福岡平野。比恵那珂須久遺跡。二万戸。
『不弥國』
福岡空港。雀居遺跡。千余戸。
委奴国王の拠点。 米国はアメリカ国のことで、
米国人の本人たちもアメリカ人と呼びますが、
日本人は米国を「べいこく」、と読みますよね。
倭国はヤマト国のことで、
倭国人の本人たちもヤマト人と呼びますが、
漢魏人は倭国を「わこく」、としか読めなかったわけです。
ですから、
倭人がやって来て、自分たちをヤマト国、ヤマト人、というので、
それを表現するのに、
倭面土国、とか、邪馬臺国、とかの表音文字をあてたわけです。 千数百年にわたって大混乱しているのは、
木簡に書いた文字が滲んでぼやけてしまうからだったわけです。
水行二十日→水行十日陸行一日が、
水行二十日→水行十日陸行一月に。
同じように、
邪馬壹(一)國と
邪馬臺(台)國が、
なんと陳寿の手元にあった、張政の報告書の写しでぼやけていたわけです。
陳寿は、邪馬壹(一)國と邪馬臺(台)國の2つが存在することを認識できず、
邪馬壹(一)國ただ一つについての記録と誤認したわけですね。 邪馬壹(一)國≠邪馬臺(台)國
北部九州に、広域国家の邪馬臺(台)國があり、
その中に、
旧首都の伊都國や、(倭国王が続いているし、一大率も残っています)
新首都の邪馬壹國や、(卑弥呼が政務をとっています)
最大経済中心の奴國など、数十国があるわけですね。
北部九州説者の理論自体は正しいけれども、
陳寿の誤認に引きずられて、国名の意味がずれていたわけです。 陳寿の手元にある、張政の報告書には、
様々な文章の合間に、このような情報があったわけですね。
・投馬国から水行十日陸行一日で、邪馬壹(一)國へ至った。
・〇〇〇
・都の人口は、千戸
・●●●
・邪馬壹(一)國は、七万戸 (張政の原本は、邪馬臺(台)國七万戸だった)
・○○○
・都には一大率がある
・●●●
陳寿は、腕組みをして悩みます。
邪馬壹(一)國が首都なのに、なんで千戸と七万戸?
投馬国から水行一日で対馬國に着いて、邪馬壹(一)國に着いているのでは?
広域国家で、狗奴国と対峙している、邪馬臺(台)國と、
糸島市の小さな首都、邪馬壹(一)國が、
文字が滲んで邪馬壹(一)國だけになっているから混乱したわけです。 ここまで書いて気づきましたが、上のレスを少し訂正します。
陳寿は悩んだ末に、
都とだけ書いてある情報を、古の首都である伊都國のことだろうと考えて、
本当は邪馬壹(一)國の情報なのに、
伊都國のことに置き換えたわけですね。
陳寿も賢いので、
邪馬壹(一)國だけではなくて、
どうも邪馬臺(台)國に相当する広域国家もあるはずだ、
ということに気づいたわけです。 『邪馬壹國』
糸島平野。三雲遺跡が中心。千戸。
三雲南小路王から七八十年は男王が所在。
倭国乱を経て、卑弥呼も所在。平原女王墓。
倭国乱以後は魏代も含めて倭国王は伊都國に所在。世有王。卑弥呼期におそらく七代。
一大率もここにあったが、陳寿が伊都と誤認。
『伊都國』
早良平野。吉武遺跡が中心。一万戸。
最古の三種神器が出土した、天神族=倭国王の故郷。
三雲南小路王が邪馬壹國へ遷都した。
『奴國』
福岡平野。比恵那珂須久遺跡。二万戸。
『不弥國』
福岡空港。雀居遺跡。千余戸。
委奴国王の拠点。 邪馬臺(台)國の魏代の首都が邪馬壹(一)國で、
邪馬壹(一)國の中に、東部山地に高千穂宮、西部平地に日向があったわけです。
ですから、記紀にある、怡土の記事はまやかしでもなんでもない事実で、
たまたま読みが似ていただけなわけですね。
倭国王家=ヤマト国王家=天孫族は、
もともと伊都國=吉武遺跡を中心とする早良平野を首都としていた。
不弥國の委奴国王がそれに対抗しようとして、
足利義満のごとく、漢の威を借りようと金印を貰った。
そこでいろいろあって、
三雲南小路王が邪馬壹(一)國へ遷都して
天孫族となったわけです。
王家内の内紛によって倭国が混乱して、
一次的に天孫族が弱体化し、
倭国と対抗する狗奴国が台頭してきたため、
やむにやまれず
おそらく天神族の女性である卑弥呼を共立して、
天神族が一致団結して狗奴国に相対したのでしょう。
その間も、都=邪馬壹(一)國には天孫族の大王はいた。
その都を、陳寿は伊都國と誤認したわけですね。 郡使が滞在したのが伊都国というのと矛盾しないか?
あと天孫族の扱いが雑。
天孫族とは天孫ニニギから始まる日向三代の男王(70〜80年?)だけを指す。
それ以前は高天原と出雲が二大勢力だが、早良とは関係なさそうだぞ?
その時代は「ヤマト」などカケラほども出てこないし。 倭国倭人の読みは、
弥生時代に九州にいた、当の倭国倭人にとっては、
ヤマト国ヤマト人だったのですから、
カケラもなにも最初からヤマトだったわけです。
要するに、訓読みと音読みですよ。
中国史書に出てくる倭は全て、
当時の倭人にとっての読みは、ヤマト。
天孫族うんぬんが引っかかるのなら、
考古学だけで見てください。
吉武遺跡群がまず勃興。
次に三雲遺跡群と須久遺跡とその周囲がほぼ同時期に勃興して、
三雲遺跡群の方に王墓が続きます。
文化的には連続しています。 北部九州説の人にとっては、
伊都こそが至高で、
ヤマトなるものは畿内説の回し者、というイメージでしょうけれども、
その偏見を捨てて、考えてみてください。
言葉だけの問題であって、
今まで伊都と思っていたのが、魏志倭人伝の邪馬壹(一)國だった。
邪馬臺(台)國はそのままですが、訓読みはヤマト國。
これだけで、
漢代里程も戸数も魏代にもそのまま変化なし。
日程についても、水行十日陸行一日で至るのは、
壱岐対馬末蘆國も含む邪馬臺(台)國ではなくて、
糸島の首都、邪馬壹(一)國なのだから、
壱岐対馬末蘆國を邪馬臺(台)國から省かずにすむわけです。 >>202
『邪馬壹國』 は北部九州地域全体で糸島平野。三雲遺跡が中心。総数七萬戸。
『伊都國』 邪馬壹國の都で女王卑弥呼が住んでいる。千戸。
『奴國』 福岡市周辺。二萬戸。
『不弥國』那珂川町、春日市付近。千戸。須玖岡本遺跡。 >>213
それだと里程がおかしくなるのです。
短里で五百里だと、
伊都國が三雲遺跡だと魏使は唐津をもろに通過したことになります。
>>168
三)考古学的に判明している弥生唐津は十分に発展しているのに、魏使は藪の中を進んでいるので、
末蘆國の上陸地点は唐津よりも東であり、かつ末蘆國の他の集落も通っていない。
つまり伊都にかなり近い地点で上陸している。 「自女王國以北 其戸數道里可得略載」とあるが
「南至投馬國 水行二十日 官曰彌彌 副曰彌彌那利 可五萬餘戸
南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月 官有伊支馬 次曰彌馬升 次曰彌馬獲支 次曰奴佳鞮 可七萬餘戸」
の部分は里数ではなく日数で道日であり、当初は書かれていなかった
この部分は道里が書かれた後に別情報を基に追加で加執されたもである
道里を補足説明するもので、道里に掛かる日数を書き加えたものである。 >>214
末廬國への上陸場所は呼子や名護屋浦など末廬國の北の端である
魏志倭人伝では国の端に着けば至るとしているのである
對馬國や一大國に方可〇百里と書かれているのも国の端から端までを通過する距離を示している。 >>216
呼子や名護屋浦に上陸したのなら、
弥生唐津の集落ことが書かれているはずです。
そもそも、遥か航海してやってきたのに、
呼子や名護屋浦に上陸して歩くというのが不自然です。
魏使は、末蘆國の東端に上陸して、
末蘆國の東端の藪道を短時間かきわけてすぐに、
邪馬壹(一)國千戸へと至った。糸島市の三雲遺跡群です。
漢使は、
壱岐から短里千里で末蘆國東部に上陸して、
末蘆國東部から短里五百里で伊都國一万戸の中心部へ到着した。吉武遺跡群です。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>212
つまり早良王家がヤマトだと言いたいのだな。
それにしても吉武と三雲ではかなり年代に開きがあるはず。
そして漢代はもう三雲の時代だと考えられている。
(年代比定にまで踏み込まないといろいろおかしい) 北部九州説は正しいですし、三雲遺跡群が首都で、卑弥呼の墓は平原遺跡です。
ただ、地名の比定だけが違うわけです。
陳寿の手元にある木簡の字がにじんでいて、
糸島市にあった邪馬壹(一)國と、
広域国家の邪馬臺(台)國=倭国=倭面土国=ヤマト国、
の二つがあったのに、
邪馬壹(一)國だけになってしまった。
しょうがないから、
張政の原文では、
邪馬臺(台)國は狗奴国と対峙する広域国家、
邪馬臺(台)國の都が邪馬壹(一)國で、
都は〇〇、という記事は全て邪馬壹(一)國のことだったのに、
陳寿は、
邪馬壹(一)國しか認識できなかったから、
都は〇〇、という記事をほぼ全て、
漢代の首都である、伊都國へと振り向けた。
糸島市にあったのは、邪馬壹(一)國だったけれども、
後世に怡土という地名がついた。
たまたま伊都と読みが似ていただけ。 >>219
まず吉武=伊都(倭国王家=ヤマト王家に実権)
57年前後に須久+雀居=奴+不弥(吉武伊都が首都のままだが、ヤマト王家は象徴)
↓↓遷都
三雲=邪馬壹(一)(倭国王家=ヤマト王家に実権)
倭国乱〜平原(三雲邪馬壹(一)が首都のままだが、ヤマト王家は象徴) >>217
主に海岸沿いに歩き弥生唐津の集落とか通らなかったんだろ
遥か航海してやってきたから早く上陸したかったんだよ
魏志倭人伝は国邑から国邑への行程の説明で国邑の中心部へ到着したのではなく
国邑の端に着けば至るなんだよ。 弥生唐津の集落は海岸沿いですよ。
唐津湾は大きく南へ入りこんでいましたから、ますます歩いて通過するのはおかしいですね。
対馬海峡を渡って来たその船でさっさと唐津湾を横切って、末蘆國東部東端へ上陸するのが楽なわけです。 >>223
末蘆國東部は砂浜だから大きな船は接岸出来なかったんだよ
東松浦半島北部の入り江が船を停泊させるのに適していたんだ。 呼子や名護屋浦など末廬國の北の端から500里(40km)で伊都國
伊都國は糸島市東部であり呼子や名護屋浦など末廬國の北の端から600里で奴國
伊都國と奴國の境が日向峠のライン。 伊都國と奴國の境が日向峠のライン
これだと東南100里で奴國には着けない >>226
伊都國と奴國の南の方の国境に進んだんですよ
県道56号線方面へ。 奴国の一部(早良区南部)を100里で通過して不弥国(那珂川町、春日市)へ。 壹にもタ行の音があるから、邪馬壹国でもヤマトの音は当てることができるらしい。
だから邪馬臺国と区別する意味はない。
あと、奴国は入り口と中心が違うかもしれないが、伊都国は小さいから、入り口まで測ろうが中心まで測ろうが、大きな違いはないだろうね。 県道56号線方面へ進んだらそれこそ百里では着けない。
邪馬壹国と邪馬臺国は読みが異なるから、後漢書では読みの注までついている。
伊都が糸島だと畿内説者が指摘する問題点が解消されない。
邪馬壹国が糸島。
伊都は早良。
広域国家の邪馬台国とは邪馬臺国でヤマト国。
倭国=訓読みでヤマト国。
その首都が早良の伊都吉武だった頃に、委奴国が反旗。
その首都が糸島の邪馬壹三雲だった頃に、狗奴国が反旗。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 「倭国(阿波)への北部九州ルート」 @阿波
末盧国(四千戸)(福津市辺り万津浦)
↓【東南】陸行500里 福津市→八木山峠越え(草木茂盛行不見前人)
伊都国(千戸)※大率が置かれる (直方辺り)
↓【東南】100里
奴国(二万戸)(田川辺り)
↓【東】100里
不弥国(千戸)(築上町辺り) >>230
>県道56号線方面へ進んだらそれこそ百里では着けない。
グーグルマップで測定すると8q弱で糸島市から那珂川町へ早良区を通過して着きますよ
1里=80mとしてピッタリです。 >>230
>広域国家の邪馬台国とは邪馬臺国でヤマト国。
>倭国=訓読みでヤマト国。
>その首都が早良の伊都吉武だった頃に、委奴国が反旗。
>その首都が糸島の邪馬壹三雲だった頃に、狗奴国が反旗。
意味不明の妄想だな。 じゃあ郡使は早良に滞在したのか?
考古学的に見ても三雲だろ? >>237
郡使が滞在したのは伊都国だから三雲等だな
首都が早良の伊都吉武だったって何だよw 伊都も志摩も早良も当時の小国で
集落もそれなりにあるから
区別をつけることは事実上不可能ではないかと。 郡使が区別して記録しているのだから、境界を引かないといけない。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 国邑が在ったのだから国邑の国境は存在していた
農耕社会だから土地の管理は厳しく国境線はキッチリ決められていたはずだよな。 >>242
間に誰のものでもない土地があったんだよ。
国境線なんかなかったと思うね。 >>243
そんな訳ないよw
国邑同士の力関係で決まってますよ。 少なくとも、間の無属性の領域があったら、国邑への到着はそこを抜けたところだ。 魏志倭人伝の旅程が「とにかく正しい」というのを前提にするのはやめにしないか?
意味ないだろ? 魏志倭人伝を無視したら畿内説と同じになってしまう。 なら、魏志倭人伝も卑弥呼も邪馬台国も関係なくにじょんの古代史を研究するわけだね。 >>246
>魏志倭人伝の旅程が「とにかく正しい」というのを前提にするのはやめにしないか?
魏志倭人伝の旅程は「とにかく正しい」。 @阿波 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>243
国境線が決まってないと
力の強い国が勝手に弱い国にドンドン侵入して来るからね
農耕社会なんだから自然と明確な国境線が決まるな
間に未利用地があっても所属は決まってるな。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 魏志倭人伝は主に九州北部地域と朝鮮半島南岸に付いて記されている。 >>257
>魏志倭人伝は主に九州北部地域と朝鮮半島南岸に付いて記されている。
朝鮮半島南岸のことは狗邪韓国の記述だけ
九州北部地域は確実なのは伊都国まで
投馬国と邪馬台国は未確定、九州南部かも知れないし、四国や畿内と言ってる人もいる状況 魏志倭人伝にある「橘」。 これ一つでも、北部九州・畿内が脱落しているのが分かる。 @阿波 魏志倭人伝にある「其山有丹」。 これ一つで、九州説・畿内説が脱落しているのが分かる。 @阿波 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 >>258
投馬国と邪馬台国は韓での馬韓、辰韓、弁韓のようなもので
朝鮮半島南岸の狗邪韓国が投馬国の中心地
九州北部の伊都国が邪馬台国の中心地。 魏志倭人伝の文面をオレ式に解釈したらこうなる、という意味に過ぎないデムパ発言だがな>「そう書いてある」 >国境線が決まってないと
>力の強い国が勝手に弱い国にドンドン侵入して来るからね
そうなったら、一つの国になるんだよ
一つの平野で国境を接していて、二つの国として存在するのは無理だ 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. >>272
一つの平野ではなく西が二丈平野で東が糸島平野
間に丘陵地帯がある。 弥生時代だと平野単位じゃなく水系単位がクニとしてのまとまりだぞ 稲作が普及して次の段階で
真っ先に水系の上下で喧嘩が起きて統一されますからな。 >>国境線が決まってないと
>>力の強い国が勝手に弱い国にドンドン侵入して来るからね
>そうなったら、一つの国になるんだよ
>一つの平野で国境を接していて、二つの国として存在するのは無理だ
その通り。
だから環濠で守ることなく面として弥生遺跡が密集する福岡県は既に統一されていた。 裏返すと、福岡県北部以外はまだ群雄割拠であり、特に肥後狗奴国とは筑後平野を巡って争っていたのかもしれないね。 吉野ヶ里の環濠は謎やなー。
どう考えても外から攻める方が有利やん。 弥生集落の環壕は地下水を抜くためのもの。
ついでに防衛に使ってもおかしくはないが。 >>282
佐賀は台与のあとに開発されたって言ってんのに
おじいちゃんがきいてくれないのよw 頭でっかちの戦術家が理論武装だけで作って実戦ゼロで使われなかったんじゃないの? 吉野ヶ里側は、最新鋭の鉄製長槍を用い、
敵が柵を乗り越えようとするときに下から槍襖で対抗したと考えれば、この形式も成り立つ。
ま、モズの早にえ状態だな。 ブラタモリの正月特番で、太宰府政庁と条坊都市を囲む巨大城壁の存在を紹介していたぞ。
その大きさは平城京の3倍だとか。
これこそ筑紫倭国の王都だろうね。 長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. 太宰府は条坊の痕跡である大溝や
部分的な道の跡などはあるが
東側ではほとんど確認されておらず
不完全なものだと考えられている。 平安京だって南の方は荒れ放題だったろ。
それに開発が進みすぎて見つかっていないだけで、計画都市であったことは確実なわけだし。 太宰府の条坊って、いざ研究が始まってみたら中央の大通り(朱雀大路に相当?)が平安末か鎌倉初期頃にできて、以後100年以上かけてゆっくりと整備されていったシロモノで、
古代どころか中世の産物だったと判明したヤツだろ
掘っても掘ってもそれ以前の古い遺構はなくて古代の条坊は夢幻でしかなかったと判明しちゃった >>285
そんな最新鋭の防柵がなんで吉野ヶ里にあんのさ? >>290
なんで中世にそんな大規模なものを大宰府に作ったの? 発掘調査の結果、推定朱雀大路(政庁中軸線上に伸びる南北2kmのメインストリート)は、
路面幅約35?36m、それ以外の道路は路面幅約3mで、朱雀大路をはじめとする右郭に
位置するいくつかの南北の道路は8世紀代に成立し、
その後、縮小を続けながらも11世紀後半ごろまで掘り替えられていました。
その一方で、その他の道路の多くは、10世紀後半、すなわち藤原純友の乱の後、
大宰府政庁V期の建物が築造された時期とほぼ同時期に造営され、
11世紀後半から12世紀前半に廃絶したことがわかりました。
大宰府政庁の成立当時から条坊の完全な姿が存在したわけではないようです。
『太宰府市史 考古資料編』 >>290
>中央の大通り(朱雀大路に相当?)が平安末か鎌倉初期頃にできて
誰が何の為に平安末か鎌倉初期頃に整備したの?
>以後100年以上かけてゆっくりと
平安末か鎌倉初期まで太宰府を100年以上も整備した勢力って???
>>293
>位置するいくつかの南北の道路は8世紀代に成立し、
これの根拠は太宰府は藤原京より遅いはずだからw ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>295
>これの根拠は太宰府は藤原京より遅いはずだからw
そもそも藤原京より遅いという根拠がないよね。 太宰府は8世紀かそれより少し前から
条坊都市として整備され始め
12世紀前後まで修復と縮小を続けながら
利用され続けた。 太宰府周辺地域は縄文、弥生、古墳
時代の遺跡も多く発掘され
北部九州における人口密集地と言って良い。
すでに多くの住民のいる地域を
新たな都市計画で開発するのは困難を極め
すでに住んでいる有力豪族などは
追い出せないこともあっただろう。
これが太宰府の条坊都市が不完全
だった理由だと思われる。
これらの反省により藤原京や平城京は
ほとんど先住民のいない地域を
選択したのだろうと推測する。 つまり、藤原京に先行する、白村江の戦いより前の倭国の王都だよね。 >>299
>太宰府は8世紀かそれより少し前から
それがいつからかが問題だよ。
水城などの周辺構造が白村江の直後とされているが、建設に何年もかかるはずのものだからね。
数年ズレただけで白村江の前から建設されていたということになる。
結局、7世紀前半に畿内よりはるかに大きな都市が建設されたことに変わりがない。 記紀では白村江後に水城が修復されたとあるので
水城の原型はさらにその前だろう。
そして水城が守る対象である太宰府は、
水城の原型のときにはすでに存在
していると見るべきである。
ただしその頃はまだ条坊都市ではなく
8世紀以前頃に再編され始めたのが
太宰府の条坊都市だと考える。 >>290
都市を100年以上掛けて整備とか訳が分からん絶対嘘だよな
藤原京、平城京、長岡京、平安京全部短期間で造られてる
政庁と同時に道路も整備されたと見るのが妥当で城壁も始から在った。 >>303
水城の原型は3世紀には存在していたそうだよ。 まあ、条坊制は唐の影響だから、敗戦後という考え方もできるかもね。
水城を含む巨大な環濠と城柵が倭国の王都、太宰府の防衛設備だったと。
すると都督府も敗戦後となるけれど、その前の王宮は太宰府のどこにあったのかな? 太宰府天満宮は菅原道真の時代だが
太宰府政庁や観世音寺のある
御笠川より北側が政治の中心地域だろう。
この西側に都府楼という地域が
政庁時代やそれ以前の中心地域だと思われる。 536年日本書紀に福岡県博多に官家を造るとの記事あり >>305
水城の原型は少なくとも5世紀には存在したと
推測されており、水城から発掘された
木樋が
小郡の九州歴史資料館に展示されている。
まだ、木の匂いが残っていた。 >>304
計画的に整備されたのではないと考えられている
そのときそのときの必要に応じて少しずつ整備されただけの、
場当たり的な整備が続いてただけ 中世の条坊型遺構は諸国の政庁まわりに作られた条坊風の遺構と同種のもの
どれも計画的に作られたものではないし、時期も近接してる >>303
水城は3層に分かれており一番上部の最も新し部分が白村江後に修復されたもの
3、5、7世紀。 水城の堤の下には地盤固め用の木の枝「敷きソダ」が幾重にも施されている。
九州歴史資料館が一昨年、この木の枝の14C測定をした。
場所は水城を貫く三笠川の東側である。結果は上層部が六六〇年、中層が四三〇年、下層が二四〇年であった。
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaihou63/kai06301.html 邪馬台国が水城の北にあったのか南にあったのかでだいぶ話が変わるが、伊都国が邪馬台国側なら水城を作る意味がない。
とすると、3世紀の時点ではむしろ邪馬台国と狗奴国の国境だったのではないか。
卑弥呼の死後に統一されて南側が倭の王都となり、最終的に大宰府が作られたのかもしれないな。 二世紀末から三世紀にっけては倭国大乱のころだった。
だから、南の筑紫平野側の火国王家の進攻に備えて、北の博多平野の那国勢力が水城を築いたと考えるべきではないか。
但し主戦場は、吉野ヶ里・基山・甘木辺りであり、水城そのものは使われなかったのではないか。
なお、三世紀当時の狗奴国は、火国に追っ払われて球磨地方に下がっていた。 そんな場所に3世紀に水城を作ったのならそこが最前線だったんだろ。
環濠集落もそのあたりに集中しているからな。
数百回掘ってなんも出なかった説が壮絶に自爆したから
九州説は確定として、九州説の中では筑後とか吉野ケ里とかが幅を利かせてるから
邪馬台国論争はまだまだゴネて盛り上がりそうだなw 秀吉の一夜城じゃあるまいし最前線には作れないだろ。
建設中に襲われる。
3世紀に水城を作ったのなら、そこは邪馬台国領内で、
最前線の一列手前だな。
重要地域である奴国の防備を固めたことに変わりはないが。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 相手が小人数の久米の狗奴国ごときだったなら、あの巨大な水城なんか作るまでもないこと。
チンケな狗奴国ではなく、敵は巨大な鉄武装集団の邪馬国勢力だったと考えるべきだろう。 >>313 >>317
敷粗朶の測定資料の上層・中層・下層っていうのは
1.5mほどの厚さの中で11回繰り返えされている敷粗朶のうち
資料採取位置の上下関係を現しているだけだ
水城の構築が3層に別れているのではない
測定値を信じるならば、考古学的には一連の工事にしか見えないものが
300年以上の時間差をもって行われたことになる
一方、敷粗朶は自然流路を埋め立てた地盤が軟弱なところで行われていて
流木が混入した疑いをぬぐいきれない
また、中層、下層の測定資料は各1点のみだ
つまり、資料の信頼性が足りない
まともな判断力があるならば結論は明らかだろう >>324
しかもそれ、暦年代較正してないナマのyBP値だから使うとインチキになるやつだよ >まともな判断力があるならば結論は明らかだろう
水城が3世紀にあったかどうかは現時点では不明、ということだな
巨大な鉄武装集団の邪馬台国勢力が北部九州だったのは確定だが >>319
>なお、三世紀当時の狗奴国は、火国に追っ払われて球磨地方に下がっていた。
狗奴国って肥国にあるんだから、肥国王家だろ。 >>327
肥国には違いないが、卑弥呼とはちと仲たがいしていたので、
三世紀には南部の球磨地方に別居していた卑弥弓呼。その名に弓がある通り、弓矢に優れた久米一族。 >>282
>弥生集落の環壕は地下水を抜くためのもの。
>ついでに防衛に使ってもおかしくはないが。
前もこれを書いてたけど、地下水はそんなに簡単に移動しないってば!
何十ヘクタールも中にある範囲の外側に溝を掘っても、地下水は抜けません
10メートル間隔で縦横無尽に溝を掘ったら地下水抜きと言ってもいいけど、
外側の環濠では水は抜けない
逆に平塚川添遺跡のように、環濠と川をつないで水堀にしているところもある
環濠が水抜きというのは、誰かの単なる思い付きで、現実には合わない >>330
いい加減なこと言うなよ
環濠で水が抜けないなら、弥生奈良湖の人たちは水中で暮らしてたと言うのか? >>325
いや、「δ13Cの値を基に同位体効果による年代誤差の補正」が行われ、
それを用いて暦年較正曲線で暦年代を求めてるよ >>332
それなら較正前のyBP値を書いてごらん ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 >>331
>環濠で水が抜けないなら、弥生奈良湖の人たちは水中で暮らしてたと言うのか?
そんなところに人は住んでいませんよ。 >>329
ヒミコが日ミコではなく火ミコだというわけか >>333
ここで上層とされてるやつ
測定年代:1420±110BP
補正年代:1380±110BP
歴 年 代:600-660-770
おなじく中層
測定年代:1700±100BP
補正年代:1600±100BP
歴 年 代:345-430-595
おなじく下層
測定年代:1850±100BP
補正年代:1800±100BP
歴 年 代:85-240-380 >>337
日も火も同じだろう。
平原遺跡の内行花文鏡などを見ていると、太陽を信仰の対象とするようになっていたことがわかる。 >平原遺跡の内行花文鏡などを見ていると、太陽を信仰の対象とするようになっていたことがわかる。
同意。
内行花文鏡については、北部九州ではかなり早い時期から国産鏡が出現して、
祭祀と密接に関わりながら普及しているね。
内行花文鏡が小さく稚拙な国産鏡から次第に成長していくのに対して、
方格規矩鏡はいきなり完成形の国産鏡が出現する。
つまり渡来の工人がいたことを明白に示している。平原の超大型もその助けがあってのことだろうね。 >>341
>内行花文鏡が小さく稚拙な国産鏡から次第に成長していく
それは、後進の発展途上国だったことを示している。 @阿波 内行花文鏡は、前漢以前からあるけど
方格規矩鏡は、後漢以降に作られ始めたわけで
伝わった年代が違うだけじゃぁ... >小さく稚拙な国産鏡から次第に成長
平原の大型内行花文鏡には、剥離がみられるし
やっつけで作ってるとしか思えない 内行花文鏡だって初期から中期の仿製鏡はオモチャかいなってくらいショボいからな
系統で言うと後漢期くらいで突然の技術革新が認められる 三国志ってのは三国が戦争していた時代の記録だぞ。
んでもって南方の呉が滅亡したんだから、
呉の方格規矩鏡&神獣鏡専門の銅鏡職人が亡命してきたんだろうな。
と、考えるのが学術的には当たり前なのだが、それだと崩壊する学説が居直ってるので捻じれまくっているというw 呉の方格規矩鏡?
方格規矩鏡は、北方のものだが... ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>347
捩れてるのはね、あなたみたいな迷信もちのせいだよ
でもアマチュアの世界だけのことだから
問題ない >>347
呉の職人が魏(は滅んでるから晋)に接収されずに亡命する必然性がどこにあるのか
普通に考えたら晋に接収されてそっちで働くだろ
亡命する意味が分からん 魏で神獣鏡は売れないから青銅も買えないし
商売あがったり
陳さんは子供を食べさせなくちゃいけないだろ >>347 は、中国の考古学者:王仲殊氏の本でも読んだんじゃね
彼も同じことを言ってるから 呉が滅んだとき、そこの豪族たちの大多数は晋に降伏して生きながらえてるし呉の皇族でさえ諸侯として遇されて生きながらえてるのに、なぜ職人集団だけ亡命するのか、という根本的な謎を解決しないと成立しない奇論を盲信してるのかよ >>356
>40年前から気づいてたのにどこで狂ったんだろうね
40年前に発表されて、それなりに多くの人も読んでいるのに
相手にされてないってことだよ
素人が思い付きを書いただけで、合理性がない >>341
>内行花文鏡などを見ていると、太陽を信仰の対象とするようになっていたことがわかる。
内行花文鏡のどこをどう見ると太陽信仰につながるんだ?
説明してみて? ああいう幾何学模様は、春秋戦国時代の青銅鏡にみることができる
他のデザインは、漢王朝になってすたれてしまったけど
何故か内行花文鏡は、そのまま飽きられずに残っただけだなw >何故か内行花文鏡は、そのまま飽きられずに残っただけだなw
内行花文鏡が残ったことは認識しているんだなw >>341
>内行花文鏡が小さく稚拙な国産鏡から次第に成長していく
それは、後進の発展途上国だったことを示している。 @阿波 簡単なことだね。筑紫の文化というのが神代だったわけだな。
筑紫の日向三代=伊都男王七八十年
プラスの
卑弥呼は摂政で、長期政権とその前の倭国乱のあいだに伊都王ニギが八代いた。
でもってその次が東征したから畿内にいる。
これで倭人伝も記紀も考古学も全回収。 他説だと考古学を無視して筑紫を矮小化するしかないから、
倭人伝の北部九州だけ詳述はなんで?
記紀の神代はどこ?
日本人と別個に北部九州に金印もらう先進的民族がいたの?
なんにも回収できない。 八代ってのは事績がない=倭国乱と卑弥呼治世だから当然
宮のみあちこち移動している=糸島市のなかでの住所? >>364
>簡単なことだね。筑紫の文化というのが神代だったわけだな。
>筑紫の日向三代=伊都男王七八十年
同意する。
これで魏志倭人伝と記紀のすり合わせができ、記紀の神代に実年代を与えることができる。
日向三代の後の倭国大乱で神武が筑紫を出たのなら
卑弥呼が記紀に登場しない理由がわかる。
そして鴨氏の言う通りに神武と卑弥呼は同年代となる。 何が何でも、「‥は」、「‥を」で読みたがる北部九州の小学生。
「菜の花や 月は東に 日は西に」→→→ 菜は花を、月は東を 日は西を
「京の五条の橋の上、大の男の弁慶は、」→→→ 京は五条を、橋は上を、大(便)は男を、(小)弁は慶を、、、 >>341
>内行花文鏡が小さく稚拙な国産鏡から次第に成長していく
誤認識ですよ
雲雷文帯系の連弧文鏡は侯王墓に副葬される代表的なアイテムのひとつで
小さくて稚拙な国産鏡は
正規の鏡種を所持できない首長層のその代用品 後漢が滅びたら自前で作るしかなくなるから、平原遺跡は卑弥呼の時代の王墓になる。 青龍三年銘の方格規矩鏡は100%卑弥呼への銅鏡百枚の中に入ってる。
方格規矩鏡の国産はそのだいぶ前から開始されていたのに
んなもんをわざわざ貰ったということは
やはり溶かして国産鏡(超大型内行花文鏡)を作る材料としてもらったのかもな。
最初聞いたときはんな馬鹿なと思ったものだが。 青龍三年銘の方格規矩鏡は100%4世紀以降の模倣作品
正規の規格からわざとはずして模倣作品であることを主張している 4世紀になんで青龍三年銘の方格規矩鏡を作るんだね?
どうせ模倣するなら景初三年を模倣するのではないかね?
レーダー照射くん?w pb同位体分析でばれちゃってる
ttps://goo.gl/3QrT8h.info >>373
平原遺跡の超大型内行花文鏡を作るには、小さい鏡が何枚もいる。
しかし原材料は漢や魏からしか手に入らない。 >>378
魏から銅鏡百枚もらった記念にそれらを溶かして作ったのが
超大型内行花文鏡だった、というわけですな。 内心では魏の権威なんて認めていなかったのかもしれないね。
攻めて来られると困るから朝貢したけれど。
結果的には親魏倭王の称号までもらったけれど、きっちりと使節が王都まで視察に来ちゃったし。 畿内にあったわずかな鉄器は溶かされて
狗奴国軍の鉄鏃として九州や瀬戸内海で使用された。
卑弥呼が貰った銅鏡百枚は溶かされて
平原遺跡の超大型内行花文鏡となった。
畿内説の大好きなリサイクル論で全て解決。 妄想だったら雄弁な九州脳
証拠や根拠になるととたんに… >>380
攻めてこられると困るのは魏のほうだったのかもな。
卑弥呼からの最初の贈物がいくらなんでもショボすぎる。
やる気が感じられない。
公孫氏絡みのごたごたで朝鮮半島が大混乱している隙に
投馬国5万戸を支配下におさめた倭人としては、その勢いでもっと版図を広げようとしていたはず。
むしろ魏のほうが倭を牽制するために金印をあげるから朝貢してくれ、って感じ。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 なるほどよくまとめてある。
長江地域から古代日本へ稲作が伝わったのだな。 神獣鏡専門の陳さんも来たルードだからね。
戦乱の中国大陸から
温暖な日本へIターン移住。
古代からメジャーだったんだろう。 具体的には、
学術的出土は全て日本で
しかも発展段階も系統的に追える三角縁神獣鏡は
3世紀後半以降の国産鏡
反論どーぞ(鼻ホジ キナイコシさんの言う、
ショボい平原遺跡女王の
ショボい内行花文鏡や
ショボい方格規矩鏡は
国産なんでしょ?w
そしてそんなショボい北部九州は畿内の支配下だったんでしょ?
で、それらよりも副葬位置がショボい三角縁神獣鏡さんは、どこで国産されたの?w >>390
発展過程は追えても出現過程は追えないよ >>391
僻邪の効果を求められていたと考えれば副葬位置は妥当 【出現過程を追う】
神獣鏡は呉の鏡
呉の陳さんが来日してくれました!
よ!弥生の鑑真!!! >>396
お前が反日キナイコシと判明した時点で、
「本当に意味のある事」以外何を言おうが無駄だw
スパイは潜んでこそのスパイ
バレたらただの道化師なんだよ 思想信条で目の前の事実を歪めるバカにはなりたくないな
それじゃ連中と同じこと 伊都クズも連続句読点もレイシスト
ザラコクさ〜ん、何かコメントないの? レイシストって出せば優位に立てるのかね?
根拠もないしょーもない荒らしを続けているクズが ちょっと待てよ
金印がニセモノとか
九州説がサルとか
暴言吐きまくってるレイシストに対して、
本当のことを指摘したらいけないのか? 根拠ない→伊都説のことだよね
荒らし→連続句読点のことだよね >>403
根拠は、
文献では伊都国のことが詳しく書かれているし
考古学では伊都国に3世紀遺物が大量に出土している。
だから根拠はあるわけだ。
あんたがただの荒らしだなキナイコシ。 >>405
主観を語っても学問的には説得力が全くない あれで国産の根拠になるなら考古学者はいらなくなるだろうな 俺様偉いとか勘違いしてるバカに学問は無理だからねぇ >>397
さすが皇国史観の正道たる邪馬台国九州説の人の言葉は違うなあ >>411
韓って書いてあって倭人伝では説明なし
これを理解できないんだから終わってる >>413
自分は皇国史観がどういうものか正確にはわからん
よくわからんから、判定のしようがない
だけどだけど、まさかさあ
キナイコシさん
皇国史観って言葉が
悪ということで使ってるの????
キンモー―――!!! これだけ格好つけといてザラコクに対してはスルーなんだぜ?
とんだ風見鶏野郎だ >>414
キナイコシの解答
やっぱり祖国は裏切れないんだな 989: 01/08(火)22:31 AAS
古代史を研究しているはずなのにかの国の研究者はすぐに現代史をからめてくるそうだ
誰かさんたちと思考パターンが同じで笑える 現代史を絡めてくるのは古代史の事実が自分達に都合が悪いってこと
つまり論点ずらし
それはここでも同じようだぞ 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土するイネは、
中粒種と短粒種が約半々の割合で混交したもの。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古のイネの現物は短粒種のみ。
そして、日本の最古水田と同期する中国の稲作遺構から出土する耕作用農具は、
石耜という石刃のスキと、石鋤という日本には存在しない石刃の除草用農具と、
石犂という石刃の牛耕用の農具、この3つだけ。
ところが、日本の最古水田から出土した日本最古の耕作用農具は、
木製のエブリという地をならす農具と、木製のクワだけ。
石刃が伝わっていない上に、同期する中国と同じ耕作用農具が一つも
伝わっていないのだ。
それどころか、同期する中国には存在しない耕作用農具が日本最古の
耕作用農具として日本の最古水田には伝わってしまっている。
オール木製で。
しかも、鬲や鼎といった、三足や耳の付いた同期する中国系炊飯器も
日本の最古水田には一切伝わっていない。
日本稲作が中国から伝わったというような話は、太陽が西から昇って東に沈むと
言っているのと同じレヴェルの話である。
ちなみに、スキという耕作用農具が伝わったのは、最古水田から200年以上も
経ってからの事で、やはり木製であった。
石犂は5C頃に鉄刃のものが朝鮮経由で伝わるが、石鋤に至っては、木製でさえ
永遠に日本に伝わる事はなかったのである。 >>414
狗邪韓国は倭人伝には書かれているけど韓伝には書かれていないんでしょ。 古来より日本列島の覇者はヤマト王権しかないという妄想に囚われて成り立っている畿内説は皇国史観そのものだろう。
筑紫に倭国という別の王朝が存在して後漢や魏に朝貢していた事実から目を背けている。 >>415
悪ではない。単なる邪教、おかしな信仰とだけ思ってるよ 邪馬台国が連合国ならば、その範囲はどう考えますか?
日程記述が帯方郡始点で邪馬台国までの日数ならば、その国境までの場合もあるかと思って
例えば、狗邪韓国も邪馬台国連合に加えるならば、その国境までの説明であり、水行10日または陸行1月に相当しそうだなぁ…と
ちょっと無理やりだけどね
投馬国の南に水行20日ならばおおまかにその倍の距離の所…
方向がちょっと厳しいが出雲か、素直に南で宮崎か…
考古学的には出雲あたりの方が妥当か?と思う ・女王国から渡海千里で倭種の国
・その南に侏儒國があって女王国から四千里
はてさて、倭人は里を知らないのに誰が測ったんでしょうね?
もし里程と日程が直列するなら、
北部九州の不弥國まで里程で、次に邪馬台国まで日程、
でもってまたまたそのはるか先が里程となって意味不明なわけです。 やはり北部九州説が正しく、
里程と日程は並列なわけですね。
里程は、北部九州の不弥國までと、おまけで東方倭種や侏儒國までの里程。
日程は、北部九州の伊都までが並列ですね。
奴国の描写がありませんから、魏使は伊都までしか到達しておらず、
日程は魏使が魏代に記録したもの。
一方の里程は漢代に楽浪郡使が測定したものですね。
不弥國の福岡湾に面した港から出港して、
舟で東に千里進んだら、日本海沿岸の倭種の国が広がる。
その南、つまり瀬戸内海沿岸にあるのが侏儒國で、
不弥國の港から出て四千里。
東夷伝里だと四千里は約300km弱ですから、ちょうど瀬戸内東部に侏儒國があるわけです。
北部九州の国々は倭語を表音文字で示したものですが、
侏儒國は表意文字ですから、朱を産出する阿波を含むわけですね。
さらに、渡来人が多くて長身長の北部九州倭人から見れば、
東に行けば行くほど、低身長の人々の国に見えるわけです。 >>426
>女王国から四千里
「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種」は伊都国・奴国から1000里で倭種の国があるですけど
「去女王四千餘里」は侏儒國か裸國、黒齒國かどちらが女王を去る4000里に在るのかいまいちよく判らない
女王国でなく女王なので伊都国・奴国からではなく女王の勢力圏(邪馬台国)の端から4000里?
「復在其東南 船行一年可至」は元々は12日で12月の誤記とすると4000里に12日? 何れにしても伊都国、奴国の先の里程が数千里も書かれてる訳ですから
日程を里程の後に続けて直列に読むのは無理があるんですね。 >>429
まったく、その通りだ
倭人伝のつまみ食いではすぐ破綻する。全文を頭に入れ、高所から論じなくてはならぬ 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>428
>>426 の倭人は里程を知らないのに は良い読み。
女王去る4千里は、九州島の南北3月行 から、薩摩、種子島
侏儒國と言う表意文字によって、種子島説が有力になっている。
しかし、その内容の奇譚や船行一年と言った、信憑性によって
所詮ソースは漢代の山海経のような伝奇モノであると見るべき。
東渡海1000里の地理も間違っているが
九州島が、絶在海中洲㠀 で
東の倭種の国は、海峡が千里で四国と本州の別は無く
瀬戸内海が無い、東夷倭地の概念図が存在したことが推測できる。
この漢からそれ以前の概念図によって、
謎の○月行という、里程が示された可能性が高い。
一月行は、九州島3月行、京畿湾から済州島3月行によって、2千里である。 >>432
>九州島の南北3月行
これは、逆だな。当時の書き方では、
九州島の東端と西端に沿うよう、南北に引いた2本の基準線のあいだが3月行なので、今風に言うと東西の(距離)日数となる。
女王国東渡海千余里、復有国、皆倭種。
又有侏儒国在其南、人長三四尺、去女王四千余里。
又有裸国、黒歯国、復在其東南、船行一年可至。・・・この国は、九州島の東南大海の中にある八丈諸島のこと >>432
隋書の南北3月行は南北3日行の誤記ですよw
南北3月行なんてあり得ない距離www >>433
船行一年可至も
船行十二日可至→船行十二月可至→船行一年可至
でしょうね。 >>426
公孫氏時代に帯方郡の郡使が裸国、黒歯国まで行ったんですね。 >>430
「去女王四千餘里」は伊都国、奴国の先ではなく、邪馬壹國全体の東の端から4000里だな
「女王境界所盡」のように女王とは女王の北部九州の勢力圏である邪馬壹國全体を指している
女王国場合が伊都国、奴国だな。 魏志倭人伝の記述の構成
・倭國(倭王卑彌呼の支配下)
・・・投馬國(朝鮮半島南岸地域)
・・・・・狗邪韓國
・・倭人(日本列島に住む)
・・・邪馬壹國(北部九州地域)・・・女王と書かれる場合もある。
・・・・・對馬國、一大國、末廬國(自女王國以北の地域)
・・・・・不彌國
・・・・女王國(卑彌呼を共立した中心国)
・・・・・伊都國、奴國
・・・・傍國(斯馬國〜烏奴國の20か国)
・・倭種(中国地方)
・・侏儒國、裸國 黒齒國(四国、関西地方)
・狗奴國(南九州の卑彌弓呼の支配下) >>434
『隋書』俀國伝
魏時譯通中國 三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數 但計以日
其國境 東西五月行 南北三月行各至於海 其地勢東西下
都於邪靡堆 則魏志所謂 邪馬臺 者也 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里
遣隋使によって斑鳩を訪れた、裴世清の報告が有ったので、
九州の南北3月行と東西は奈良までの5月行と領土は広がっている。
月行で座標距離が示される 東夷概念図は隋唐時にも伝承していると考えられる。 >>439
>九州の南北3月行と東西は奈良までの5月行と領土は広がっている。
東西五月行も行ったら世界を半周できるよw >>439
1月の距離に比例で考えれば、九州の3分1の距離に相当する事になるな
直線的に約70キロぐらい?
日程記述が、帯方郡始点の同行程でのかかった日数であればだが、名護屋城あたりに上陸→筑紫平野あたりの距離が妥当かもね
かなりおおまかだが >>441
日程記述は、240年に印綬の為、女王宮まで行った
建中校尉梯儁の魏船による行軍の行程。
名護屋城なんて、僻地から歩くなんて馬鹿なことはない。
潮加減で当面、呼子に着いても、王宮を目指すなら沿岸を博多湾に廻って上陸する。
宿営地の名や里程が無いのは、決まった寄港地が無いから。 >>426
>はてさて、倭人は里を知らないのに誰が測ったんでしょうね?
答えは、測ってないんだよ、誰も
裸国、黒歯国は、淮南子にも乗ってる「伝説の国」
架空の国で、そこまでの里程も「伝説」だから、誰も測ってない >>422
>狗邪韓国は倭人伝には書かれているけど韓伝には書かれていないんでしょ。
韓伝には弁辰狗邪國が書かれているよ
世界大百科事典(コトバンクから引用)では
「《魏志倭人伝》に〈韓国を歴て,乍(あるい)は南し乍は東し,其の北岸,
狗邪韓国に到る七千余里〉とみえる。《魏志韓伝》には弁辰狗邪国とある。」 >>444
魏志倭人伝の狗邪韓国と魏志韓伝の弁辰狗邪国は名前が違いますから別の国邑ですよ。 >>442
>名護屋城なんて、僻地から歩くなんて馬鹿なことはない。
「濱山海居 草木茂盛 行不見前人 好捕魚鰒 水無深淺 皆沈没取之」
僻地から歩いてるじゃんw 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>449
だったら不弥国から投馬国は二万里。
そこから邪馬台国までは一万里と陸行一月。
どこに行くのだね? >>451
投馬国が帯方郡から南に水行二万里。
邪馬台国が帯方郡から南に水行一万里と陸行一月。
邪馬台国はちょうど北部九州になるぞ? >>452
それでいいんじゃない?
邪馬台国が福岡県、投馬国が宮崎県、狗奴国が熊本県で、九州の主な遺跡と伝承をきっちりカバーできる。 >>447
247年政帳は
其八年 太守王頎到官
倭女王卑弥呼 與狗奴國男王卑弥弓呼 素不和 遣倭載斯烏越等詣郡 説相攻撃状
遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢拝假難升米 為檄告喩之
の為に、この倭人船に便乗し、女王国の視察に来た。
伊都国には、一大卒が有りここに駐留させられた。
伊都国は港が隣接し、入国管理が可能なのに張政は500里を歩かされた。
一つはそこに卑弥呼の墓が有ったから。
一つは日本が、伊都の港を軍事的敵国に見せたくなかったから。
日本は魏からの 245年の 黄幢 檄 を無視した。
これに対する査察が、張政の査察である。
この報告は
使大倭監之 自女王國以北 特置 一大率 檢察諸國畏憚之 常治伊都國 於國中有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國 皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯
である。
帯方郡は239年から246年で、
日本の友好国公孫氏を追討し韓王朝を滅ぼした。
247年で魏と九州筑紫の外交は終わり
日本は半島進出と富国強兵に政策転換した。
これが、倭人伝の歴史的意義である。 >>452
>邪馬台国はちょうど北部九州になるぞ?
無理。 「其山有丹」でも無理。 「橘」でも無理。 「楠」でも無理。 なにがどう転んでも、無理。 @阿波 >>456
13歳の娘が戦国、三国志の辺境の王か?
戦国覇権国の傀儡か、調略にきまってんでしょwww
一大卒は 王の文書や 賜遺之物詣女王 を検閲している。
壹與の王権とは、それ以下に有る。 >>457
王の文書や賜遺之物詣女王を検閲しているのは一大率ではなく
港に集合した女王の家臣ですよ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 詳細は過去スレで書きましたが、一つの考え方としてです。
弥生時代の鉄原料は全て朝鮮半島から入手するのですから、
大規模鉄器工房が百年ほど運営されたということは、
壱岐対馬からその遺跡までは同一勢力によって安定支配されていたわけです。
完成品の鉄器は北部九州から集中出土するのですから、
北部九州倭国の王達が、
紀元前には日本海沿岸を(丹後半島の扇谷遺跡)
紀元後には瀬戸内沿岸を(淡路島の舟木遺跡・五斗長垣内遺跡)
それぞれ支配下に治めていたことが、考古学的に確定しているわけですね。
紀元後の高地性集落の東征は、淡路島鉄工房を稼働する燃料=炭を求めての
倭国軍の東征の結果だったわけですね。 何度か書いたので要約しますと、
イザナミとは、遠賀川流域の山鹿貝塚女王から連綿と続く、
豊国女王国の系列で、遠賀式土器と共に日本全国に稲作を普及させた。
まさに日本人の母と言えるでしょう。
イザナギとは、壱岐対馬ルートを起点に、菜畑遺跡を開始した開明部族。
筑紫王家の祖で男系ですね。
イザナギとイザナミが血縁同盟を組んで、福岡市の王達を挟撃したわけです。
弥生時代ですから水軍ですね。
能古島に集結します。
最初はイザナギ軍が反時計回り、イザナミ軍が時計回りに攻めます。
しかしそれぞれ自領の菜畑遺跡、豊国に近いので、血縁親類や友人が多く、
攻め切れないわけです。
ですから、次にイザナギ軍が時計回り、イザナミ軍が反時計回りに攻めることで、
それぞれがしがらみの薄い相手を攻略して、博多湾を統一したわけですね。
東と西から挟撃して博多湾を征服したので、
板付遺跡には渡来土器と縄文土器が混在しますし、
敵地だから環濠が必要だったわけです。 筑紫王家と豊国女王家が婚姻して、北部九州に広域国家が萌芽し、
統一王の吉武高木王が誕生します。
しかし博多湾を統一した次には、
豊国イザナミ系列の強敵が、日本海沿岸にいたわけです。
若狭湾の八岐大蛇勢力ですね。
ちなみに、筑紫王家の縁者となった豊国女王家とは、八雷神ですね。
イザナミ女王を戴きながらも、8部族それぞれは独立していたのが、
吉武高木王による統一によって、整理されて、
軍事は建御雷=豊国軍に統合、
行政は8山津見として吉武高木王の支配下に入ったのでしょう。
八雷神のみでは、若狭湾を保有する八岐大蛇には勝てませんでしたが、
イザナギと組んで北部九州倭国に参加することで、
鉄器と博多湾水軍をもって、八岐大蛇を倒します。
そして丹後半島に扇谷遺跡を建設し、
八岐大蛇の領土だった日本海沿岸の森林から炭を作って
鉄工房の燃料にしたわけです。 八岐大蛇を倒して北部九州倭国の主要メンバーとなった豊国山津見女王達ですが、
倭国内の政治力では、
壱岐対馬ルートを保有する筑紫イザナギ族の後塵を拝することになります。
東方監視の名目で、東征将軍スサノオの基地として田熊石畑遺跡を設置され、
筑紫王族の支配下に入ってしまいます。
そのため山津見女王達は、日本海沿岸以外に発展の活路を求め、
一つは、琵琶湖に下之郷遺跡を作って、現地人と激しく戦います。
もう一つは、瀬戸内海に侵入し、新たに銅剣女王国を作るわけです。
守りの手薄な地域は環濠集落を形成して、弥生のJアラート銅鐸を配備。
収穫期に銅鐸を高台に設置して、現地人の襲撃があれば銅鐸を鳴らして
環濠集落の中に逃げ込むわけですね。
逆に言うと、銅鐸の少ない愛媛や岡山には、銅剣女王国の軍隊が常駐しており、
守る必要が無かったということです。 出だしは良かったのに、途中からぐちゃぐちゃ。
>>464
>イザナギとイザナミが血縁同盟を組んで、福岡市の王達を挟撃したわけです。
特にここからおかしい。
福岡市の王たちというのがそもそもイザナギとその祖先だろ。 >>467
ちがいます。
イザナギは壱岐出身で、唐津→糸島(日向)と勢力をのばし、
イザナミと同盟して博多湾を制圧したわけです。
勝者となったイザナギが最初から福岡市出身なら、
板付遺跡に環濠は必要ありません。 イザナギとイザナミというのは
記紀の先祖騙りでがむしゃらに取り込まれた
委な奴國王夫妻 イザナギより前の博多湾沿岸の王って誰だ?
高木の神とかか? 島根で瀬戸内銅剣女王国の降伏儀式が行われます。
銅剣を差し出して武装解除。
銅鐸を差し出して銅矛軍の駐留保護を受け入れます。
荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡で合計45個の銅鐸が差し出されていますから、
45集落の45人の地域女王が銅矛王の後宮に入り、そこで生まれた息子たちが、
それぞれの集落の支配官となったわけです。 >>471の先にこちらでした
一世紀に1人の英雄が現れます。
中広形銅矛を旗印に主に瀬戸内海を東征した銅矛王、のちの委奴国王ですね。
奴国の大規模工房群を稼働するための燃料=炭を入手するため、
銅剣女王国の八上姫に兄弟で求愛競争して、若き銅矛王が結婚するわけです。
過去スレに書いたので、詳しくは省略します。
八上姫が子供を置いて去る。
これは、瀬戸内銅剣女王国の王位を、銅矛王との間の息子へ譲れ、という要求を八上姫が断った、
ということですね。
瀬戸内海の森林資源を狙った、愛情もへったくれも無い、政治的な要求です。
まあ、最初から資産狙いの求愛だったわけですけれども。
ここに筑紫王家も加担します。同じく瀬戸内海の森林資源を狙ってです。
奴国工房群を従える銅矛王と、東征王族将軍の娘が政略結婚して、
銅矛王は晴れて倭国軍東征将軍となり、かわいそうな瀬戸内銅剣女王国に攻め込みます。
銅剣のほうは最後は青銅器が枯渇して、土製の祭祀銅剣を使う羽目になり、
中広形銅矛が淡路島に上陸=瀬戸内海の制海権を銅矛が制圧
した時点で、全面降伏します。 奴国と筑紫王家が別というのも訳がわからないし、瀬戸内が女性首長のいるところというのも根拠が不明。
いろいろ無理がある。 銅矛王は瀬戸内銅剣女王国の領土を丸ごと手に入れます。
徳島には銅剣は出るが、銅矛銅戈は出ない。
これはつまり、銅剣女王国が徳島を既に支配地にしていたからですね。
畿内と離れているから銅剣女王国が楽に制圧できたわけです。
九州からも一番遠いから、銅矛銅剣戦争中も一番最後まで攻められない。
銅矛銅戈が新規に攻め落とすまでもなく、
銅剣女王が降伏したら、自動的にその支配地の徳島は銅矛の支配下に入ったわけです。 奴國の発祥地は三雲で
高木と三雲のコラボ
須玖のほうは出店だから
奴國を専売のように詐称するのはよしにすべきところ >>473
奴国とその周囲には大量の渡来人がいます。
技術者集団が商業的に力をつけて
一方の筑紫王家は5王家が争い一時的に力が落ちた。
吉武遺跡の王墓を見ればわかります。 奴国はあくまでも筑紫王家の支配下の工房だと思うよ。
倭奴国の王とは筑紫王家の王だよ。
そんなに狭いところにたくさんの王がひしめき合ってもなあ。 筑紫王家は紀元前から日本海沿岸を支配しており、
日本海沿岸は既にそれぞれの王家の荘園となっており、
自分の荘園の森林資源を倭国のために供出したくない。
よって、筑紫王家も銅矛王もともに、瀬戸内沿岸に高地性集落を建設し、
そこで作った炭を淡路島に運び込んで、鉄器を作り、
完成品の鉄器を北部九州へと輸送したわけです。
私の考えでは、倭国王となれるのは筑紫王家=早良王家のみ。
銅矛王は東征将軍にはなれても倭国王にはなれなかった。
そこで漢に誼を通じて、自ら委奴国を立ち上げて大王になろうとしたわけです。
漢に金印を貰う交換条件の一つが、倭国内の里程測定だったわけです。 金印漢使が来日したのは、もちろん楽浪官吏や倭人官吏による案内です。
狗邪韓国に到着する必要があるのは、沿岸航海の貴族舟から、
対馬海峡渡海の渡海専用舟(漕ぎ手も船頭も渡海専門のベテラン)に
移乗するのに必ず立ち寄る必要があるから。
漢代伊都に到着する必要があるのは、吉武宮殿での金印授与式がそもそもの目的だから。
楽浪官吏が測定した里程はもちろん、漢使がその里程を用いて航海するのではなく、
高級官僚である漢使が、出張ルートが正しいかどうか確認するためのもの。
朝出発する時に方角を見定めるわけです。
羅針盤もない時代だから、夏の太陽の午前の方角で記載されているわけですね。 これも以前書きましたが、
金印漢使を迎えるために、沿道その他の施設を大規模に改修します。
特別支出ですから、銅矛王は自分の本拠である奴国周辺の森林を大量伐採してしまいます。
ただでさえ大規模工房群や奴国二万戸のために燃料や建材として森林が伐採されていたのに、
金印授与のための伐採で環境が破壊され、大規模洪水を起こして
銅矛王=委奴王は失脚したわけです。
だから銅矛が消えて、銅戈の時代になったわけです。 筑紫5王家内での勢力争いで筑紫王家が弱体化し、委奴国王の伸張を許した。
奴国弥生銀座に工房と住居が密集しすぎて、環境破壊を招いた。
失敗を教訓に変えて、
筑紫王家は漢代伊都=吉武から高祖山を越えた、
本来の本拠地である糸島日向へと遷都するわけです。
また王家も結束して、オシホミミを中心に立てて、
大王はオシホミミ家出身者に限るとしたわけですね。
ここで政治権力の移動があったから、銅矛→銅戈の変化が説明できるわけです。 >>478
>銅矛王は東征将軍にはなれても倭国王にはなれなかった。
紛らわしいから王と書くなよ。
イザナミが矛を使ったのだから、イザナミの筑紫王家が銅矛王、倭奴国王だよ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 ここまでで、
北部九州倭国は、
紀元前に日本海沿岸を(扇谷遺跡で確定)
一世紀に瀬戸内沿岸を(舟木遺跡・五斗長垣内遺跡で確定)
それぞれ支配しています。
そこから銅戈将軍が、大阪湾上陸を果たすわけですね。
ちなみに銅矛王の子孫は、一部は投降し、(〇奴国)
一部は抗戦し、(越後諏訪タケミナカタ・長崎タケミナカタ)
一部は落ちのびます。(中国山地内と、越後諏訪タケミナカタの向こう=東日本へ) 銅戈将軍は畿内を制圧し、そのまま東進して朝日遺跡で銅矛王の子孫と対峙します。
詳細は銅鐸二系統の考察で書いたので省略します。
銅戈将軍が勝利しますね。
さらに日本海側へ転戦して越後諏訪タケミナカタを鎮圧。
これにて日本国内に銅戈将軍とまともに戦える敵はいなくなり、
鉄製武器を作る五斗長垣内遺跡はお役御免。
鉄製生活用具を作る舟木遺跡はもうしばらく稼働します。 倭国乱にて
邪馬台国=筑前肥前豊前+日本海沿岸(越前まで)
狗奴国=筑後肥後豊後+瀬戸内沿岸+畿内+越後
免田式土器の分布圏が狗奴国の経済圏ですね。
壱岐対馬ルートを邪馬台国に押さえられて、淡路島舟木遺跡は操業停止します。
狗奴国は鉄工房はあるが鉄原料が無い。
一方の邪馬台国は鉄原料は手に入るが鉄工房が無いので、
若狭湾水軍の影響下にある琵琶湖のほとりに稲部遺跡を建設したわけです。 ここからが言いたいことで、侏儒國です。
魏使の見聞録に奴国の描写が無いので、
魏使は(魏代)伊都までしか来ていません。
戦時中だし伊都に卑弥呼がいるのだから当たり前ですが。
しかも倭人は里程を知らないのに、
不弥國どころかはるか侏儒國までの里程が記録されている。
倭国乱で瀬戸内は狗奴国側だったのですから、
瀬戸内東部の侏儒國への里程を測定できるのがいつかというと、
「倭国乱よりも前」ということになるわけです。 倭国乱前の平時に楽浪官吏が勝手に調べた、など
様々な状況が考えられますが、
漢配下の官吏が弥生時代に里程を測定するのなら、
警護や宿泊地・食料の提供など、やはり最高権力者の許可と協力を得ていた可能性が高く、
57年金印の委奴国王か、107年遣使の倭国王師升か、という話になってきます。
ここでもう一つの条件が、
侏儒國よりもさらに東南にある裸國と黒歯國については、
船で約1年という、それまでとは全く異なる尺度になっていて、
里程が示されていない、という点です。
つまり、楽浪官吏が瀬戸内海で里程を測定した時には、侏儒國が東端で、
それより先には行けなかったことになります。
つまり、銅戈将軍が大阪湾上陸作戦を成功させる前。
銅矛王の時代、ということになります。 漢代であろうと、伊都に到着したら目的は達成されているはずなのに、
その先の奴國不弥國までの里程が記されている。
倭国の紀元前からの支配地である倭種日本海沿岸へ行かずに、
瀬戸内海を東進して、四千里先の侏儒國へ向かっている。
つまり、
倭国王が、紀元前からの日本海沿岸の自領荘園を案内したのではなく、
委奴国王が、自分が切り開いた瀬戸内沿岸の東にある、淡路島の鉄工房群を案内して、
金印拝受にふさわしい東アジア強国であることをアピールしたわけですね。
楽浪官吏を乗せた舟が、不弥國の港を出発し、東に渡海千里で関門海峡に入ります。
案内役の倭人が下関を指さしながら、
「あちらの日本海沿岸には倭種がおりまする」と説明します。
舟は関門海峡を抜けて瀬戸内海に入ります。
瀬戸内海両岸の山々の高地性集落からは、炭を作る煙がたなびいている。
周囲の、東へ向かう舟々には、鉄原料や炭が積まれています。
西へ向かう舟々には、完成品の鉄器や、生口、稲荷が積まれています。
多くの輸送船が行き交う賑やかな瀬戸内海を東に進み、
不弥國から四千里、関門海峡から三千里で侏儒國です。
旧銅剣女王国ですね。 >>482
銅矛祭祀ですよ。
武器としての銅矛は昔からありましたが、
祭祀型銅矛を埋納するのは中広形銅矛からです。
明らかに新しい祭祀文化が入っている。
さらに、それが一旦銅戈に置き換わる=中広形銅矛は失脚しているわけです。
例えば内行花文鏡などは連綿と続いているわけですよね。
荒神谷遺跡の荘厳な感じの中広形銅矛が無くなるわけですから、
失脚したのではないでしょうかね。 なるほど豊国銅剣女王国を征服した中広形銅矛王が失脚した際には
筑紫の軍勢と共に、豊国軍=建御雷が銅剣を持って逆襲してきたわけだな。 女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種 又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里 又有裸國 黒齒國 復在其東南 船行一年可至
女王国(博多)の東、海(関門海峡)を渡ること千余里(80km)。復(また)国(山口県)有りて、皆、倭種。
又、侏儒国有りて、その南(関門海峡を南に抜ける)に在り。人長は三、四尺。
女王(邪馬壹國)を去ること四千余里(320km)。又、裸国、黒歯国(瀬戸内海東部地域)有りて、復、その東南に在り。船行一年(船行十二日)にして至るべし。
四千余里(320km)は女王(邪馬壹國)の東海岸から裸国、黒歯国(瀬戸内海東部地域)までの距離でその4000里に12日掛かると言ってる。 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 「あいだに入って協力する」「上手くいくように協力する」などは全部詐欺
ある日突然、就職・昇進・恋愛などであいだに入って協力するという親切な人が登場し、
時には親身に話を聞いたり、時には盛り上がって一緒に酒を飲み、おごってくれたりもします。
警察官や公務員のケースもあります。
しかし、実際には何も協力などせず、勝手にその人の人生が上手くいくのを待っているだけです。
そして、ターゲットが自力で人生を切り開いた時から、本格的な詐欺が始まります。
あいだに入って協力したとして、「御礼」を要求されるのです。
不法行為に協力させられると、泥沼にはまって経費流用や情報漏洩も要求されます。
上手くいかない時には、適当な人物の名前をあげ、○○が政治的な動きをしたから駄目になった、
○○がいなければ上手くいったのに、あいつのせいだと言い逃れをするのも特徴です。
皆さんも、詐欺にだまされないよう気を付けて! 日本が1600年前の古墳期にようやく竪穴式住居から抜け出したのに対し、
中国では8000年前にはすでに高床式住居が登場し、早くも竪穴式住居から抜け出していた。
その時代差、約6500年。
その後、中国では6000年前に木骨泥墻が登場し、早くも土壁の住居の時代に入り、
4000年前にはすでに戸建ての時代である。
商周より前の3500年前の王朝では宮殿建築なるものが花開き、2800年前には
瓦が登場し、早くも瓦屋根の戸建ての時代に入るのである。
縄文弥生を通して、日本にはこれら中国の住居が一切伝わっていない。
中国から渡来人があったなんてあり得ないのである。 漢使は目をつぶっていても、北部九州倭国に到達できたわけです。
狗邪韓国までは、楽浪官吏の案内。
対馬海峡渡海は、倭人の案内。
けれども、漢使は観光に来たわけではなく、
金印を授与するという外交職務のために来たわけです。
自分が連れていかれている場所が、本当に倭国なのかどうか、
確認しておく必要がある。
そのために、倭地にいる楽浪官吏に命じて
先んじて送らせておいたのが、里程。
漢使が来倭する、7月後半の太陽の方角を起点にして書かれていたわけですね。 その里程を忠実に辿ると、漢代伊都は吉武高木遺跡。
そして倭国内での最終地点が不弥国=雀居遺跡であることがわかります。
渡来人。環濠で囲まれた高級住宅地。
一世紀に外交文書を何度もやりとりした証の机が出土しています。
硯で書いて、
鉄製刀子で削り取る=消しゴム。
削り取る時に机にキズがつくわけですね。
外交文書を仕上げる時は、必ず委奴国王が立ちあったことでしょう。
かなり高い確率で委奴国王自身が文書作成したでしょうし、
そうでなくても、書記官の傍らに立って、ここを直せ、バランスが悪いからここを削れ、
と、あれこれ指示を出したことでしょう。
つまり、机についたキズは、委奴国王=大国主が、自らの手でつけたキズ、
である可能性が非常に高いことになり、
もはやとんでもなく貴重な超一級の考古学資料、ということになります。
神話の登場人物の生きた痕跡が、21世紀の現代に突然ありのまま登場しているのです。 三国志によると、沃沮、高句麗、濊、は同じ源流を持つそうです。
読めば一目瞭然なのでいちいち書きませんが、
古代日本と共通する風習が非常に多い。
さらに積石墓や、〇〇壁画など、考古学的な裏付けもあるわけです。
〇奴国、委奴国、というのは、源流が同じ委奴国王だからこそ
つけた国名なわけです。
雀居遺跡は洪水で流されていますが、
その出土品の中に、国産の内行花文鏡(連弧文鏡)があります。
これは、後の狗奴国領域で流通していた銅鏡の祖。
倭国を乗っ取るのに失敗して、国譲りで失脚した委奴国の末裔が、
捲土重来を期して、狗奴国を立ち上げた、という推論も十分に成り立ちます。 過去スレで書きましたが、
国津神のもう一人の重要人物、猿田彦。
これは、サルマトイの出自ですね。
それが沿海州まで来て、さらに北部九州までやってきた。
大山祇の支配下の工人となったのか、
あるいは委奴国王の片腕として、大山祇の地方女王を娶ったのか、
は、わかりませんが、
オンドル式短剣です。
柏崎遺跡の天神族五王家に嫁いだ、大山祇系女王国の女性=木花開耶姫の母
の一族が所有する、琵琶湖沿岸の現高島市の荘園、
にささやかな鉄工房を作ります。
天孫降臨に関わり、倭国の銅鏡製作技術を飛躍的に向上させます。
同じ渡来系技術者でも、時代が違うので、
大国主は小形仿製鏡止まり。
猿田彦はほとんど舶載鏡と見紛うばかりの高いレベルを持っていたのですね。 大国主=委奴国王については、
三国志東夷伝における、沃沮、高句麗、濊、との共通点。
東夷伝里だと、不弥国が雀居遺跡を指している。
そこに鉄製刀子キズがいっぱいついた机が出土。
金印とも陸続き。
中広形銅矛。
猿田彦については、
オンドル式土器
比良山高島市
熊野本遺跡の鉄器
などの根拠があるわけです。
本来は倭国の、むしろ縄文から続く大山祇も、
銅矛銅剣戦争で敗北した際に、
各地大山祇女王が大国主の後宮に入ったため、
大国主の血が色濃く入っています。 北部九州のみに、数多くの弥生王墓があるわけですが、
時代を経て続く王墓群となると、
実は吉武遺跡群と、三雲遺跡群しかありません。
三種の神器の発祥地であり、宮殿が維持され続けた吉武遺跡。
紀元後に始まる三雲遺跡。
倭人伝の記載と合致しますね。
漢代伊都と、魏代の首都です。
彼らが天神族と天孫族。
では、国津神とは、実は、土着のようでいて・・・ 漢代倭奴国と魏代伊都国だろ。
その筑紫の日向の伊都への天孫降臨の最後の案内役が猿田彦であり、陸海を照らす(支配する)施政者として登場する。
おそらく博多湾沿岸の将軍職であったのだろう。 ◆ペテン師・佐藤洋一郎がなぜダメなのか
経年変化や環境変化で短期間のうちに著しく頻度を変えてしまう遺伝子の調査において、
佐藤洋一郎が調査に使ったイネの調査サンプルは、
日本のイネの調査サンプルが稲作が伝わってから800年以上も経ってしまった鍵・唐古遺跡の炭化米、
朝鮮半島のイネの調査サンプルにおいてはいつの時代のイネを使ったのかさえ全く公表していない。
このように調査サンプルから疑わしい、欠陥ありありの、お遊び程度でやったペテン調査での捏造である。
この場合、BC10Cの稲作開始時の最古水田である菜畑遺跡の炭化米とそれ以前の朝鮮の炭化米で
比較調査しない限り、まともな調査結果など得られるはずがない。
ちなみに佐藤洋一郎はこの件で京大考古学陣に全面否定されている。
日本稲作が長江・江南から伝わったなんて言ってる頭のおかしな考古学者など一人もおりません。 以上、古田原田の北部九州王朝安物説は,,, これでおしまい! >>501
>では、国津神とは、実は、土着のようでいて・・・
うん、国津神は天津神より先行して渡来した部族ということだね。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 雀居遺跡にはなぜか縄文系の女性が何人か埋葬されています。
銅矛銅剣戦争で敗北した銅剣女王国からの、各地の地域女王たちの一部でしょう。
ここが王だとまずいなら、書記官ということでいいでしょうが、
いずれにせよ、
一世紀の木簡が見つかる可能性が最も高い遺跡、ということになるでしょうね。
なにしろ洪水で流されているのですから、
書庫(木簡庫)が流されていて回収されないままになっている可能性があるわけです。
お宝の山ですよ。 雀居遺跡
ふりがな:ささいいせき
時代:縄文/弥生/古墳/古代細分不明
所在地:福岡県福岡市博多区雀居(福岡空港西側整備地区) そう言えば、伊都国の官の禰宜って、伊都国の先代の王家の初代の邇邇芸の末裔だよね。
倭王を祭る立場に格下げされたんだね。
それが嫌で磐余彦は筑紫を飛び出したんだ。 何をもって格下げと言うかによる。
天皇だって、実権を握っていた時代の方が少ないからね。
藤原氏とか幕府とかが政治を行っていたし、
外交だって彼らが日本代表として意思決定していた。
国家元首 天皇、国王、大統領 と、
政治代表 首相 のような関係だったのではないかな。
だとしたら、我々の祖先は、
超高度な政治感覚を既に古代から持ち合わせていたことになるけどね。 確かに倭王と大宰率と禰宜が全員伊都にいたなら、かなり高度に外交、内政、祖先(天孫族)の祭祀を分担していたことになるね。
そしてそこには後世の制度の下地があったことになる。 >そしてそこには後世の制度の下地があったことになる。
ですね。
私は、禰宜=倭国王=邪馬台国王(8代)、卑弥呼=摂政、だと思っていますが。
記紀があえて無視したのは、
卑弥呼に金印を渡したことと、倭国王を官よばわりしたことでしょうね。
官よばわりは、委奴国王の放った言霊でしょうね。
さらに問題があるとすれば、その時の倭国王がうっかり者で、
うっかり銀印をもらってしまったのかもしれません。 外交の一大拠点でもあった伊都国には、
倭の渡航船や外国船が出入りする、立派な港があったことだろう。
やはり那の津という良港の存在は大きかったと思うな。 那の津は福岡市のほうで、国内船の荷揚げ港ですね。
那珂遺跡に集まる土器を見れば、
北部九州倭国が次第に領土を広げていく様が手に取るようにわかります。
外国船は、唐津湾を経ての船越湾(糸島)着ですね。 船越湾というのは
東の今津湾から入った一番西の奥と、西の深江湾から入った一番東の奥が背中合わせになってるところだな。
昔は、小さな船なら、その間を引っ張って越したから船越というのだろうな。
ほう、そんな外国船対応の良港が、糸島中央のしかも前原の目の前にあったのか・・・。 前原(船越)で上陸、東南500里で三雲(平原)...
うーん、500里というより、せいぜい50里だけどな,,,, 末廬国の港は呼子か名護屋浦付近(呼子か名護屋浦付近〜伊都GC付近が末廬国)
東南500里で伊都GC付近(伊都GC付近〜飯場峠が伊都国)
東南100里で飯場峠(飯場峠〜セブンミリオンCC付近が奴国)
東100百里でセブンミリオンCC付近(セブンミリオンCC付近より先が不彌国) うーん、伊都国の素晴らしい港までは、
500里というより、せいぜい50里なんだけどな,,,, 伊都国にはいい港が無かったんだよ
海外使節には末廬国の呼子か名護屋浦を使い
国内へは奴国の港を使っていた。 >>524
>海外使節には末廬国の呼子か名護屋浦を使い
対馬海流に流されて、「末廬国の呼子か名護屋浦」は有り得ない と、何度言えばw @阿波 糸島市前原の北に、泊という地名がある。泊保育所という現在施設もある。
南の山地から流れ出した雷山川?が北の糸島半島に突き当たり、大きく西へ転ずるところだ。
この辺りはかって深い入り江であり、周辺には多くの古代遺跡もある。
泊という地名は、この入り江の一番奥に、泊という良港があったことを伝えているのであろう。
原田大六は、西端の深江という小さな港のことは詳しく述べていたが、この前原の泊のことはまるきりスルーしている。
江戸時代にはすでに開拓されて一帯は水田になっていたので、
糸島・前原地先に良港があったことには気づかなかったのであろうか・・。 >>526
>江戸時代にはすでに開拓されて一帯は水田になっていたので、
>糸島・前原地先に良港があったことには気づかなかったのであろうか・・。
良港を水田にしてしまうほど愚かな妄想。 @阿波 >>527
弥生時代の中頃までは、西の深江から東の今宿迄、海が通じており、
糸島水道といった光景だったのだろう。
それが、弥生農耕社会になり、流出した土砂で順次埋まっていき、弥生末には泊付近は天橋立状態だったとみられる。
同様に出雲の国も、弥生時代の差鉄採取の土砂で、出雲ー松江ー米子間の水道が埋まった。
これを、大国主のくにびきという。 >>528
>それが、弥生農耕社会になり、流出した土砂で順次埋まっていき、弥生末には泊付近は天橋立状態だったとみられる。
そんな「流出した土砂で順次埋まっていく」ような不良な場所が「良港」などと妄想も甚だしい。 @阿波 >>529
なかなかのツッコミをするじゃないか。
阿波も、昔は良港だらけだったのだが、土砂の流出で不良ばかりになってしまった。。。 >>530
糸島の寒村と一緒にされると迷惑。 @阿波 糸島寒村説は、当たらずといえども遠からず、、、
三世紀の糸島地方は博多奴国の王や諸侯の墓場地帯だった。
大古墳ができるようになったのは4世紀以降のことだから、三世紀の倭人伝の伊都国とは何の関係もなかった。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 古墳は関係ないよ。
行政事務も鏡の製作などの工業も、糸島平野に集中していた。 そして糸島には、近くて便利な前原に「泊」という良い港があった。 >>533
>三世紀の糸島地方は博多奴国の王や諸侯の墓場地帯だった。
筑紫「忌部はん」 のね。 @阿波 >>537
阿波のレスは芸がない。いわく無芸大食。 >>536
>そして糸島には、近くて便利な前原に「泊」という良い港があった。
そんな「流出した土砂で順次埋まっていく」ような不良な場所が「良港」などと妄想も甚だしい。 @阿波 木を伐り、畑にしてアワをつくり、泥土を海に流した@阿波の先祖が悪い。 >>541
>木を伐り、畑にしてアワをつくり、泥土を海に流した@阿波の先祖が悪い。
筑紫「忌部はん」 だね。 君のご先祖だよ。 @阿波 阿波のレスには、相変わらず芸がないな。
無芸大食の忌部飯は、
アワ入り麦飯は食っても、コメの飯など食ったことがないのだろう。頭の回転がイマイチ。 >>540
小型船が主体だった中世までは砂浜を港にする方が多かっただろ
舟を引きずって浜に押し上げるんだ
流出した土砂で埋まることのデメリットは近現代ほど深刻じゃない
といっても、流出土砂で大阪湾が埋まって住吉あたりに存在していたナニワ津が廃止されたように、影響ナシとは言えないな >>544
>小型船が主体だった中世までは砂浜を港にする方が多かっただろ
そうだね。 どう転んでも末盧国は「砂浜を港にする」福津辺りだね。 @阿波 中国の船が関西方面に来れるようになったのは
平清盛が瀬戸内海航路を整備し神戸港を築いて以後のこと
それまでは九州止まり。 >>546
>それまでは九州止まり。
福津辺りに着船・上陸・陸行して、築上町辺りからまたまた出航するんだよ。 @阿波 そもそも関門海峡を船が通過できるようになったのが仲哀天皇による開削からだから。 >>544
小型船かどうかわからない
中国船だったらすでに帆船だよね?
小型船に乗り換えた後に入港ならわかるがね >>549
だから、対馬海流でも遠浅の砂浜でも、どうやっても末盧国は福津辺りとなる。 @阿波 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. >>552
>あら、呼子だったらいいわよ
呼子は対馬海流でも、遠浅の砂浜でも、即刻アウト! @阿波 >>548
冗談だと思うけど関門海峡自然に出来たものですよw >>554
まさかとは思うけど、いちおう日本書紀にはそのように書かれており、それ以前の地名は穴門と呼ばれていた。
仲哀天皇の宮は穴門豊浦宮。 本居宣長の「古事記伝」によると、「上代には長門と豊前は続いた山で、その下に洞があって、潮の通う道があり、船も往来できないので穴戸と云った。」とある。
それを神功皇后(321年-389年)が開削して関門海峡ができた。その時にできた小島が船島であると云う。
平田篤胤によると、本州と九州の間は陸続きで、その下に潮の流れる穴があった。長年の侵食と地殻変動により陥没、その流れた土壌が船島となったという。 伝説ですね
阿蘇の立野を健磐龍命が蹴破ったみたいな 瀬戸内海ができたのが7000年前
縄文海進で関門海峡が貫通したのが5000年前らしい
その貫通が最初は地下の穴から始まったんだろね >>556
解読とか解釈とか称するけど実態は創作でしょ ポスポラス海峡はアレクサンダー大王が掘った運河だそうだよ
伝説なんてそんなもんだ 縄文人の関門穴門伝説を仲哀天皇がパクった。
出雲にもあるな、向かいの島根半島を、新羅から大国主命が引っぱってきた。
伝説なんてそんなもんだよ。 >>544
>といっても、流出土砂で大阪湾が埋まって住吉あたりに存在していたナニワ津が廃止されたように、影響ナシとは言えないな
糸島も、まったくその通り。
その昔、糸島半島とのあいだは海で、糸島水道だった。そしてちょうど中間の泊地区に良い港があった。
しかしその東西各4km、全体で8qほどの水道が、ほとんど流砂・泥土で埋まり、
西は加布里の船越湾として残り、東は今津の今津湾として残っている。 ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 泊地区に良い港があったなら何で魏使は末廬國に上陸したの? >>565
そうだね・・、 なんでだろ? なんでだろ? 泊【とまり】
>船舶が寄港・停泊するところで,風波を防ぐ海岸地形や防波堤などの施設,ひいては港湾全体をいう。
>海岸に沿って航行した古代・中世において,風待ち・潮待ちなどのため泊を設置した。
>中世までは〈津泊〉とも史料にみえる。
>奈良時代,行基によって創設されたという五泊(河尻・大輪田・魚住・韓・室)は,船で1日行程の距離をおいて設置されていたという。
>五泊では防波堤・石椋(いしくら)の維持のため,勝載(しょうさい)料と称する津料が徴収されていた。 港は深くないと大きな船は着けない
土砂で埋まるような港は浅くて小舟しか利用できない。 泊【とまり】
>船舶が寄港・停泊するところで,風波を防ぐ海岸地形や防波堤などの施設,ひいては港湾全体をいう。
>海岸に沿って航行した古代・中世において,風待ち・潮待ちなどのため泊を設置した。 「泊」の名が示す如く、古代には糸島・前原に立派な港があった。
埋め立てられ、水田にされたのは、後世である。 >>572
>港は深くないと大きな船は着けない
それは、現代の大型タンカーの事を言ってるんだね。 @阿波 >>574
>埋め立てられ、水田にされたのは、後世である。
後世に埋め立てられるような不良な場所に「立派な港」がある訳が無い。 @阿波 「泊」という名が、その立派さを物語っている。
阿波にそのような立派な名前の港があるのか。ないだろう。 >>577
>阿波にそのような立派な名前の港があるのか。ないだろう。
立派な名前??? なにをとぼけたこと言ってんの? よっぽど根拠が無いんだね。 @阿波 アワすとーりぃ?
それにしても、どういう話なんだろう、
小泉じゅんいちろーの話(老婆談)をしていた事があったり 家は『松傾』・・・こういう名前の家なんだけどw
住んでいるところは神奈川県の川崎というところ なんだ、阿波には「泊」と名の付く立派な港はないのか。
そうだろうな、有るとすれば、せいぜい素泊り一泊・・・円とかの88か所めぐり木賃宿、、、 >>581
>なんだ、阿波には「泊」と名の付く立派な港はないのか。
椿泊など。 そんなこと、本気で言ってんの? まじ、顔を見てみたい。 @阿波 どこだったかな?
一緒にビール工場に行ったりもしたとか、たしか横浜のほうの工場w
『松傾』? 徳島県阿南市 椿泊小学校という立派な小学校と、椿泊漁協もあるな。
南端の岬の和歌山に向いたところだが、ふか〜い入り江の中に在って、波にも風にも強そうな超優良港のようだ。
「泊」と名がつけば、立派間違いなしなのだよ!!、 >>560
文献ってのは執筆時点での、執筆者が知る情報と執筆者の考えが分かるだけで、それより以前のことについては分からないんだよ
古事記伝は本居の考えを記した物であって古代の事実を明らかにしたものではない。 本当に、テレビ(漫画なども同じ)とか、そういうのがあるでしょ、
何がしたいのか理解できないんだけど、必要ないだろう。
家の話ばかりしていたり、悪く言うと寄生。
出演している人々の給料?どこから出ているんだ? >>584
>徳島県阿南市 椿泊小学校という立派な小学校と、椿泊漁協もあるな。
>「泊」と名がつけば、立派間違いなしなのだよ!!、
どうしようもない人だね。 「泊」など全国津々浦々あるよ。 恥ずかしいからもう止めなさい。 @阿波
http://kakijun.com/kanji/chimei/6cca.html 311なども人工地震だと言っているのに、
それ以前の大震災も、そうなの? 数年前の、とあるスレ
誰々さんの家は、なぜ収入がないのですか?
と言ってる人がいたんだけど、家の話、家のことを言っているんだろう
あと人権侵害ばかりだし、調べてみた?
おそらくチンピラか何かが関係しているんだろう 数年前の、とあるスレ
誰々さんの家は、なぜ収入がないのですか?
と言ってる人がいたんだけど、家の話、家のことを言っているんだろう
あと人権侵害ばかりだし、調べてみた?
おそらくチンピラか何かが関係しているんだろう テレビなどの話
家は川崎(神奈川県)に住んでいるんだから、
TVKを中心にしないと、本来ならそうなんだよ
だから何もわかっていないという意味 『TVK』
ワニ(さめ)さん、ワニ(さめ)さん・・・
みたいなイラストが出てきたり 「泊」の名が示す如く、
古代には、糸島前原の平原遺跡近くに立派な港があった。
埋め立てられ、水田にされたのは、後世である。 >593
どうしようもない人だね。 「泊」など全国津々浦々あるよ。 恥ずかしいからもう止めなさい。 @阿波
http://kakijun.com/kanji/chimei/6cca.html うらしまマリンというキャラがいるでしょ・・・、
なぜかサメ(わに)と一緒にいたり
あとワンピースという作品にも出てきたでしょ、
どういう事なんだろう >>565、>>566
>そうだね・・、 なんでだろ? なんでだろ?
末盧国には寄ってないんだよ
末盧国と、そこからの東南陸行五百里は、
末盧国に上陸して佐賀平野に抜けた古い記録の混入
郡使は、伊都国直行が普通
だから伊都国に郡使往來常所駐と記される そうだよねえ
平原王墓のすぐ近くに港があったのだから、郡使直行は当然、、、 伊都国、世有王、郡使往來常所駐
王もおり郡使の往來常所駐でもあったのだから、郡使は前原港まで直行した 田油津姫は山門にいて神功皇后に討ち取られた
この山門は倭人伝でのどこだろう 魏使が上陸した地点は呼子か名護屋浦で
そこから500里(40q)で伊都国
伊都国には倭王卑弥呼が居て郡使の往來常所駐でもあった。 >>603その山門は福岡のみやま市
田油津姫は女王
福岡には女王や姫様の塚と云われている場所が
他にもあるんだよ
古事記日本書紀には載ってないけどね 福岡平野の守り神とされてきた東の三笠山(宝満山)と西の飯盛山を結ぶ直線上には、
須玖岡本王墓遺跡と、吉武高木王墓遺跡の二つの有名な大王墓がある。
弥生時代、この直線は、この地の聖なるラインであったのである。
更にこの直線を西に延ばすと、四世紀後半に造営された糸島平野西端の一貴山銚子塚古墳に届く。
この古墳は、糸島地方で一番大きい前方後円墳(103m)である。
即ち、三笠山−飯盛山を結ぶ直線はさらに西に延び、福岡平野から糸島平野までを貫く王墓ラインであった。
このことから、福岡〜糸島平野一帯は、漢倭奴国王の金印を拝した博多奴国の固有領土であり、
北部九州説のいう伊都国などが存立できる余地はなかったことがわかる。
<三笠山>→ 須玖岡本王墓遺跡 → 吉武高木王墓遺跡 →<飯盛山>→ 三雲南小路王墓胃液 → 一貴山銚子塚王墓 >>607
> <三笠山>→ 須玖岡本王墓遺跡 → 吉武高木王墓遺跡 →<飯盛山>→ 三雲南小路王墓胃液 → 一貴山銚子塚王墓
これといった弥生後期集落遺跡群がないから、提示できるのはお墓ばっかり。 お粗末。 @阿波 福岡平野の守り神とされてきた東の三笠山(宝満山)と西の飯盛山を結ぶ直線上には、
須玖岡本王墓遺跡と、吉武高木王墓遺跡がある。
更にこの直線を西に延ばすと、三雲南小路王墓遺跡を経て、四世紀後半に造営された糸島平野西端の一貴山銚子塚古墳に届く。
聖なる東西の直線ラインで結ばれた博多・大奴国の王墓4世代は、雄大で豪華絢爛そのものだ。。 >>609
>聖なる東西の直線ラインで結ばれた博多・大奴国の王墓4世代は、雄大で豪華絢爛そのものだ。。
これといった弥生後期集落遺跡群がないから、提示できるのはお墓ばっかり。 お粗末。 @阿波 墓は、現世における王たちの権勢の豪華さあってこそのものであり、
それを反映し、死せる王たちのあの世での王宮を豪華に再現構築したものである。阿波にはないだろうな。 >>611
>それを反映し、死せる王たちのあの世での王宮を豪華に再現構築したものである。阿波にはないだろうな。
お墓? なにがいい? 倭国(阿波)は選り取り見取りだよ。
「土壙墓」も「甕棺墓」も「木棺墓」も「石棺墓」も「配石墓」も「方形周溝墓」も「円形周溝墓」も「円墳」も「前方後方墳」も「前方後円墳」も
何故か、すべて在るのは倭国(阿波)だけ。 @阿波 福岡平野の東端の三笠山(宝満山)から、西端の糸島一貴山までは、40qほどもある。
両聖山を結ぶ直線ライン上に、奴国王の4世代(4時代)の王墓をおよそ10qごとに配した雄大さ・時代観は、見事というほかない。
博多奴国王家の感性のすごさを、敬意を以て知るべし。 >>613
どうやら福岡平野も人が少ない寒村らしいね。 @阿波 阿波は道端ウンコなので無視してかまわない
でも道端にウンコが多いと歩きにくい >>616
それに比べて、福岡平野は人が少ない寒村のようだね。 @阿波 古墳時代の鍛冶工房から砂鉄の小瓶が出たからって
無意味な妄想に誘導しようとしているところがうんこ >>621
鳴門・板野古墳群について 「徳島県の歴史散歩(山川出版社)」から抜粋
鳴門市大麻町の山地の麓には、弥生時代終末期から古墳時代前期にかけて、前方後円墳を核とした首長墳が集中する。総称して鳴門・板野古墳群と呼んでいる。
主な古墳は、西山谷2号墳 池谷宝幢寺古墳(県史跡) 天河別神社古墳群(6基・県史跡) 萩原1号墓(消滅)・2号墓 大代古墳(県史跡) 板野の愛宕山古墳(県史跡)
発掘調査で埋葬施設が判明した西山谷2号墳、天河別神社1・2号墳、愛宕山古墳、大代古墳は、いずれも結晶片岩板石積みの竪穴式石室を構築しており、
鮎喰川産の土器を供献するなど、気延山古墳群との親縁性を示している。
西山谷2号墳は全国最古級の竪穴式石室で、石室外周に萩原1・2号墓に類似した一種の囲み壁をつくっている。 積石木槨から竪穴式石室の成立を考える上で興味深い。
近年、東阿波型土器が大和・河内地域の遺跡から相当量出土することをふまえ、大阪府茨木市の将軍山古墳や紫金山古墳、高槻市の闘鶏山古墳を始めとする摂津
・北河内地域に点在する結晶片岩石積みの竪穴式石室について、その用材石室構築技術が、阿波地域から提供されたとみる説が定着しつつある。
鳴門板野古墳群には中国製の銅鏡の副葬がみられるのも特徴である。 @阿波
板野・鳴門古墳群
http://ktmrj15.webcrow.jp/p36ts/tpx14042619maibun.htm 邪馬台国は、女王に率いられた平和なユートピアではなかった
鉄器で完全武装した渡来侵入者の奈良ず者集団で、九州の弥生の村々を襲って倭国大乱の勝者となり、
やがては畿内へも迫り、征服し、国を建てたのだよ。 >>624
>阿波は畿内説の亜流デス
阿波を取り込もうとしてもダメだよ。 @阿波 >>626
それにしても、なんなの、この口調は
>やがては畿内へも迫り、征服し、国を建てたのだよ。 福岡平野の東端の三笠山(宝満山)から、西端の糸島一貴山までは、40qほどもある。
両山を結ぶ直線ライン上には、奴国王の4世代(4時代)の王墓がおよそ10qごとに配置されている。
その雄大な国家観・歴史観は、見事というほかない。
福岡平野〜糸島平野のすべては、漢委奴国王家の長きにわたる支配下にあったのだ。 >>630
それにしても、福岡平野は人が少ない寒村のようだね。 @阿波 @瀬戸内(山陽)→大山祇の子孫の国々
A対馬北九州→海神の子孫の国々
高祖皇統は上記と姻族関係を結んで勢力を広げた。
大山祇と海神=イザナギ×イザナミの子供
イザナギとイザナミは肉食系で他にもパートナーがいて子供が多かったので
後々揉めますたというのが記紀が本当に言いたいことだと思っている俺。 >>633の続き
@→ニニギの時代
A→彦渚(ウガヤフキアエズ)の時代
神武の代になって九州から上京したのが神武東征。
ナガスネヒコがニギハヤヒを崇拝してる聞かん坊だから成敗した。 >>633-634
う〜ん、あまり出来の良くない妄想だね。 妄想は楽しいだろうけど。 @阿波 >>634
>ナガスネヒコがニギハヤヒを崇拝してる聞かん坊だから成敗した。
少しだけ間違いだな。
長髄彦を成敗したのは饒速日だぞ。
饒速日と神武の天神一族が一族で長髄彦から大和を奪ったのだよ。 >>633
>@瀬戸内(山陽)→大山祇の子孫の国々
長髄彦は大山祇の曽孫な。
長髄彦の祖父が初代鴨王だ。 鴨じゃねえよw
ただ、あいつも一部は正しいんだよ。
鴨王一族から筑紫から来た天神族が畿内を奪った。 >南至投馬国 水行二十日 ・・・ 可五万余戸
帯方郡から南へ行くと、半島南部の投馬国に至る。水行で20日である。
>南至邪馬台国
さらに投馬国から南へ行くと、北部九州邪馬台国へ至る。
(対馬も邪馬台国だから水行1日)
>女王之所都 水行十日陸行一日
北部九州邪馬台国において、女王卑弥呼が首都としている伊都には、
水行10日陸行1日で到着する。(※首都の説明)
>可七万余戸
26国邑を擁する北部九州邪馬台国は約7万余戸である。(※戸数の説明) 1日の行程を千里としたんだよ。
だから帯方郡から九州北岸までは水行10日、一万里。
投馬国は水行20日の宮崎県。 >だから帯方郡から九州北岸までは水行10日、一万里。
いい加減だなあ。
水行10日はいいとして、陸行の部分はどう説明するのだ? 宮崎のは念仏みたいにただ唱えてるだけだから相手しなくていいよ。
遺跡とかの根拠も無いし。 韓国は陸行さ。
帯方郡から狗邪韓国まで7千余里。
沙里院から金海まで直線で500km。
陸行だから、多少の紆余曲折を入れると550km。
7000で割ると、78.5になる。
一里76.6kmでばっちり。 投馬国は五島列島。
富江の事を現地ではトンメと言うらしい。
投馬=トンメ
郡より水行20日の行程になる。 先に結論ありの無理やり詰め込み北部九州説だな。
古代ラッシュアワー並みの混雑地帯で、内乱必死。 先に結論ありの無理やり詰め込み北部九州説だな。
古代ラッシュアワー並みの混雑地帯で、内乱必死。 奈良県には古墳時代になってもろくに鉄器がない。
纏向には人の住んだ形跡(住居跡)が皆無。
纏向は墓場だった。あるのは墓。
国の首都であるはずがない。 弁辰から帯方に至る鉄の道の[道里]が7千余里
男王が壹與に倭國王の職を譲った年に
不耐淮王が発生して
帯方に至る鉄の道が設定された
川を辿る船旅の陸行だけどね 夏華に到る鉄の道の半島側のポートが沙里院というのは
まったく受け入れ難い
そもそものが帯水の河口付近にあったとされる帯方だが
この帯水は古の漢江の謂いとするのが妥当だろう
ちなみに記号上でいえば弁韓は華韓と等価ではある 「妥当だろう」の一言で、
「ははーん、また嘘をついているな」とわかるw 壱岐 銅戈将軍 銅矛王
博多 銅戈将軍 (出土:銅戈+銅矛)
下関 銅戈将軍 銅矛将軍
神戸 銅戈将軍 銅剣女王
大阪 銅戈将軍
銅矛王は金印漢使を迎える時に、重要経由地の壱岐に多大な投資
銅矛王配下の銅矛将軍が瀬戸内銅剣女王と戦う時に、重要兵站基地の下関に多大な投資
銅矛王&銅矛将軍を追いやった、銅戈将軍+銅剣女王が大阪湾上陸作戦の際に、
重要兵站基地の神戸に多大な投資
銅戈将軍とその末裔は全てに投資 銅鐸とは北部九州倭人が領土拡大する過程で、
本土の九州から離れた場所を開拓する際に、
現地人からの襲来に備えたJアラート。
環濠集落とセットであり、敵が襲来して来た時に高台の銅鐸を鳴らして
環濠集落の中に逃げ込んで防戦。
銅鐸を鳴らした者はそのまま伝令として、最寄りの倭人陣地へ救援軍を呼びに急いだ。
敵も稲作しているから、農繁期は攻めてこない。
収穫が終わった冬に攻めてきても、収穫した食料を備蓄した環濠集落の中で籠城すればいいだけ。
基本的には、本格的な襲来は収穫期だけだから、
普段は土中に保管しておいて、収穫期だけ取り出して、高台の見張り台に設置した。
イタズラ防止のため舌は普段は環濠集落のお偉いさんの家に保管していた。
淡路島は畿内本場と目の鼻の先だから
しょっちゅう襲来があったのだろうな。
>銅鐸鳴らしまくり 倭人がどんどん進出して銅鐸の使用頻度が減り、
集落に配布する側の威信を示すため大型化した。
けれども本来は単なるJアラートだから、
最終的に敵がいなくなったら必要なくなったんだよ。
銅矛(北部九州〜淡路島まで)が北部九州において失脚し、
銅戈が(北部九州〜)実権を握った。
銅矛勢は畿内の向こうの東海に逃げ込んだ。
銅戈が(北部九州〜)畿内進出を果たしたので、
畿内と東海で睨み合う形になり、
お互いの味方集落にお互いが防衛目的で銅鐸を設置した。
銅戈が勝ったから、畿内のは大型化して非実用。
銅矛は負けたから、東海のは大型化することなく実用段階で終了。
東海が負けて、銅鐸は必要なくなり、敗者として労働力を畿内銅戈へ献上する。
土器の流れ。
倭国乱で銅戈は狗奴国側についたから、金属原料が枯渇して、
淡路島の鉄工房は使われなくなるし、
埋めてあった銅鐸を掘り返して破砕して再利用した。 銅鐸は単なるJアラートだから、
畿内と東海でお互いに占領して奪った銅鐸は
気兼ねなく道具として使い合ったし、
捕縛した銅鐸職人が恭順すれば、そのまま自領で働かせたから
後期には双方の特徴を持った銅鐸が作られることになる。
銅戈側が勝ったのだから、銅戈側に東海銅鐸職人が捕縛される確率の方が高く、
大型化銅鐸に双方の特徴を持った銅鐸が出現した。 >>655
>夏華に到る鉄の道の半島側のポートが沙里院というのは
まったく受け入れ難い
そもそものが帯水の河口付近にあったとされる帯方だが
この帯水は古の漢江の謂いとするのが妥当だろう
沙里院の南にも大川が流れている。
その川は沙里院からカーブして大同江に合流している。
楽浪郡から船で行く事もでき、馬での交通も可能だ。
ソウルには中国人の住んだ形跡が皆無で中国の基地があった可能性がナイ。
一方、沙里院近くからは帯方郡太守の墓碑のある古墳が検出されている。
沙里院が帯方郡であった可能性が高いだろう。
沙里院から南に行けば海州と言う港があって、此処からだと船に乗って韓国に行く事も、陸路で韓国に行く事も可能だ。
漢の時代には平壌、沙里院、海州を通って陸路韓国へ行き道があったことが確認されている。
ただ、この道は間に大河が三つもあって陸路の旅だと橋がかかっていたわけではないので、三度も船の乗り降りをしなければならなかった。
大量の人員を運ぶにはこの三つの大河をバイパスしたほうが楽である。
江戸時代の東海道も途中に大河が三つも並んでいた名古屋付近を船でバイパスしていた事を思い出せ。
そこで韓国に兵を送るときとか、物資を送るときなどは海州から船を使って韓国に行ったと推定される。
京幾湾内は比較的波も穏やかで船旅も安全だったろう。
もし、沙里院で無いとしたら、海州が帯方郡の候補地になる。 >>664
一つ付け加えると長山串より北は冬場は鴨緑江から流れてくる流氷で覆われ、冬場に大同江から船で外海に出ることは出来ない。
海州が韓国への基点だった可能性が高いだろう。 >>661
>淡路島は畿内本場と目の鼻の先だから
「目と鼻の先」は倭国(阿波)の鳴門。 淡路島は倭国(阿波)の島 だと、何度言えばw @阿波 東夷伝里がなんのためにあったかというとやはり異民族への増税だろう。
漢本国に比べて同じ面積の耕作地でも距離で3倍。面積で9倍の増税となる。 >>669
漢?!
魏でもなく、後漢でもなく、か、か、か、漢?! >>49
こういう説聞くといつも思うのだが
単純に日本列島が天変地異の多い土地だから
渡来してもうまく定住できなかったとか
もしくは遺構として残らず消えてしまったとか
そういうの可能性は無いのかな >>671
それNGワード指定してる人も多いネタコピペな 魏は戦争戦争また戦争だから里程を測定する余裕なんて無かっただろう。倭地だけとかなら張政が一人頑張って歩数を数えたなどありうるが、東夷伝全部で里程が記されているのだから東夷伝里を測定できるのは戦争の無い平和な時期。後漢の安定した時期だな。 1日の行程を千里と数えるだけだから、厳密な測定は不要だ。 >1日の行程を千里と数えるだけ
百里単位で記載されている部分がある以上、その理論は間違っている。 【従郡至倭 循海岸水行 歴韓国 乍南乍東 「到」其北岸狗邪韓國 七千余里】
帯方郡から韓国(方可四千里)を通り過ぎて、
「通り過ぎてから」、さらに南へ進み、そして東へ進んで、
倭人領域の北岸である狗邪韓國に到着する。
帯方郡から狗邪韓國までの総距離7000余里。
(対馬海峡渡海専用倭舟に乗り換えるため、必ず到着する必要がある)
【始度一海 千余里 「至」対海國 所居絶島 方可四百余里】
これまでの沿岸航海から、対馬海峡渡海専用倭舟にて、渡海を開始して1000余里。
対馬島にある複数のクニの一つである、対海國へと至る。
対海國のある場所は、絶海の孤島である対馬島である。
対海國は400余里四方。
<7000+1000+400×2=8800余里>
【又南渡一海 千余里 名日瀚海 「至」一大國 方可三百里】
また渡海1000余里で、壱岐島にある一大國へと至る。
一大國は300里四方。
<8800+1000+300×2=10400余里>
【又渡一海 千余里 「至」末盧國】
また渡海する。1000余里で、末蘆國へと至る。
(末蘆國東部=唐津湾より東に上陸しただけで、
唐津の柏崎や桜馬場遺跡などには立ち寄っていない)
<10400+1000=11400余里> 【東南陸行 五百里 「到」伊都國】
陸行500里で伊都國(糸島平野+早良平野)の中の、目標地点へ到着する。
<11400+500=11900余里>
漢代の到着目標地点は、吉武高木宮殿だから、500里で到着。
末蘆國上陸地点から、至伊都國なら200里。
吉武高木宮殿は動かないんだから、これらの里程は漢代でも魏代でも現代でも変わらない。
魏代は末蘆國上陸地点は伊都國寄りで、目標地点は三雲遺跡だから、
至伊都國は100里で、到伊都國は300里。
魏代のこの里程は、現代の我々が現代地図を見たら計算できるが、
陳寿の手元には三雲遺跡への里数情報はなかった。
魏使の見聞録には、考古学的に判明している奴國の描写が無いので、
魏使は伊都國までしか来ていない。
魏代の伊都國中心は、糸島平野の三雲遺跡。
女王墓は平原遺跡1号+2号+共通の周濠で囲まれた墓域。
【東南「至」奴國 百里】
吉武高木宮殿から、伊都國と奴國の境界まで100里。
伊都國の吉武高木宮殿(政治中枢)と、奴國の最大発展地域である須久遺跡群(経済中枢)の間
=北部九州倭国の中心地点<11900+100=12000余里>
【東行「至」不弥國 百里】
奴國を横切って、奴國と不弥國の境界まで100里。
雀居遺跡。 【女王国東 渡海千余里 復有国皆倭種】
不弥國の博多湾に面した港から出港して、
渡海1000余里で、下関。
下関から本州日本海沿岸には、倭種の国がある。
【又有侏儒國在其南 人長三四尺 去女王四千餘里】
日本海沿岸の南、瀬戸内海沿岸に、侏儒國がある。
水銀朱を露天掘りではなく、坑道掘りで身を低くして採掘している国である。
坑道に入るひとの身の高さは、三四尺=約70〜90センチメートルである。
(若杉山遺跡にて発見済み)
侏儒國は、北部九州倭国(倭読み邪馬台国)から4000余里である。
【又有裸國黒歯國 復在其東南】
侏儒國の東南には、
温暖だが未開の南の後進国、裸國と、
お歯黒の風習のある、黒歯國とがある。 以上の里程は全て、金印漢使の倭国出張用のロードマップ。
在倭の楽浪郡吏が測定して55年頃にまとめあげた、
57年当時の里程。
金印漢使を運ぶのは、
狗邪韓國までは楽浪郡吏。
対馬海峡渡海からは倭吏。
漢使は金印を倭地に届け、吉武高木宮殿での授与式を行うのが仕事なので、
自分がちゃんと目的地へ運ばれているかどうか、
毎朝出発する前に、7月後半の日の出の太陽方角と照らし合わせながら確認した。
方位磁針はまだ無い時代。 委奴国王が金印を貰うにあたって、
その評価基準を満たしたのが、
奴國弥生銀座の大規模工房群に加えて、
瀬戸内海沿岸の高地性集落群=弥生時代の石油である木材
淡路島の五斗長垣内・舟木遺跡=大規模鉄工房
それらの事前チェックは在倭の楽浪郡吏が行った。
タケミナカタの船団にて、
まず福岡湾を出航して、下関着。
住吉神社の前身の官社に宿泊。
関門海峡を通って、瀬戸内海へ入り、東行。
侏儒國へ入国し、淡路島へ向かった。
五斗長垣内・舟木遺跡に、やけに立派な施設が多いのはその時に外交用に整備したため。 >>681
>瀬戸内海沿岸の高地性集落群=弥生時代の石油である木材
無知。 木材を言うなら、北部九州や瀬戸内海は不適。
木材は四国南部一帯。 これ常識だよ。 @阿波 【南至投馬國 水行二十日 可五万余戸】
帯方郡から南に水行20日で、投馬國に至る。
投馬國に入国した時点で、一旦倭の支配町で旅装を解いて、休憩したり補給したり病人を治療したりする。
その後移動した先の狗邪韓國では対馬海峡渡海倭舟への移乗作業なども必要。
だから、帯方郡→投馬國の20日は旅日程として意味があるが、
投馬國入国して狗邪韓國で再度の出発準備をするまでの日程は、移動以外の時間がほとんどで、
移動日程としての意味が無いから書いてない。
【南至邪馬壹國 女王之所都 水行十日陸行一月 可七万余戸】
投馬國から南へ行くと、邪馬台国=北部九州倭国へ至る。
北部九州倭国の中の、女王卑弥呼が首都としている場所、
(つまり漢代の早良平野吉武高木宮殿ではなく、魏代では糸島平野三雲遺跡を中心とする地域)
までは、
投馬國から水行10日陸行1日かかる。 【韓在帯方之南 「東西以海為限」「南與倭接」 方可四千里有】
【國出鉄韓濊「倭」皆従取之】
【今辰韓人皆褊頭 男女近倭亦文】
辰韓人は倭人に近く、倭人と同様に入れ墨を入れている。
【其瀆盧国與倭接界】
弁辰の瀆盧国は倭と境界を接する。
【従郡至倭 循海岸水行 「歴」韓国 乍南乍東 到其北岸狗邪韓國 七千余里】
<韓>
「馬韓」50余國 十余万戸
「辰韓」12國
「弁辰」12國 辰韓+弁辰=四、五万戸
<倭>
「投馬國」4國 五万戸
「邪馬台国=倭国」26國 七万戸
(今使譯所通三十國)30-26=4 日程部分は張政の出張日誌が情報源。
魏使は伊都までで、奴国以東には行っていないのだから、
当然投馬國は半島南部。
陳寿は各部族の出自として墓制を重視している。
巨大な前方後円墳なるものが存在しない場所に
卑弥呼の墓は作られた。
【居所作草屋土室 形如「冢」】
韓人の住居は、草の屋根と土の部屋で作られており、
韓人の住居は「冢」のようである。 【又有裸國黒歯國 復在其東南 船行一年可至】
北部九州倭国=邪馬台国から、瀬戸内海を東へ4000里行くとある侏儒國の、
さらにその東南に、
温暖だが未開の南の後進国、裸國と、
お歯黒の風習のある、黒歯國(大阪湾沿岸)とがある。
船で1年かけると至ることができる。
陳寿の情報源
@金印漢使の倭国出張用の里程・方角は7月後半の日の出基準
A張政の出張日誌
B邪馬台国女王から贈られた生口への直接インタビュー
裸國もしくは黒歯國出身の生口は、
楽浪郡吏が乗せてもらった準構造船などではなく、
普通の輸送船であっちこっちの港に立ち寄って、荷物を上げ下ろししながら、
瀬戸内海を西へと運ばれた。
途中の生口島で、職業訓練を受けてから、
また輸送船であっちこっち立ち寄りながら、西へと運ばれ、
那の津に陸揚げされた。
生口が北部九州倭国に着いたのは、
故郷を出発してから、じつに1年後のことであった。
と、若かりし日の出来事を陳寿に話した。 >>686
>船で1年かけると至ることができる。
12日が12月と誤記され1年に書き換えられたんじゃないかな。
C公孫氏の帯方郡から押収した東夷に関する資料(里は公孫氏の1里80m)。 東夷伝里が、
後漢代の楽浪郡里であるか、
公孫氏里であるか、
という問題。
もし楽浪郡里=後漢本国の漢里、であって、
公孫氏里=東夷伝里≠楽浪郡里である場合、
公孫氏が、高句麗の国土面積や、北方の沃沮の土地、
はたまた倭の侏儒國までの里程などを全て測定したことになる。
公孫氏が栄えたのは実質的には30年ほどであり、
韓や倭を従えたといっても、考古学的には実体があまりない。
たった30年の政権が、後漢や魏と睨み合いながら、
他民族の領土を広域に測定する動機もなければ余裕も無い。 @金印漢使の倭国出張用の里程・方角は7月後半の日の出基準
A張政の出張日誌
B邪馬台国女王から贈られた生口への直接インタビュー
C梯儁の出張記録
【三国志東夷伝倭人条(魏志倭人伝)】
情報源:@〜C
作者:陳寿(233-297)
完成:280-297
【魏略】
情報源:@C
作者:魚豢
完成:魏末〜晋初期
魏 220-265
晋 265-316 <魏略逸文(漢書)>
【倭在帯方東南大海中依山島為國 度海千里復有國皆倭種】
倭人の国は山島=九州島にあって、
その東に渡海千里で下関以東は全て倭種である。
(@からの情報)
<魏略逸文(翰苑)>
【従帯方至倭循海岸水行歴韓國「到」拘邪韓國七千里】
帯方郡から韓人の領土(方可四千里)を「通り過ぎてから」、
倭人領である狗邪韓國に到着する。
【始度一海千余里「至」対馬國 其大官卑狗副曰卑奴無良田南北市糴】
これまでの沿岸航海から、対馬海峡渡海専用倭舟にて、渡海を開始して1000余里。
対馬島にある複数のクニの一つである、対馬國へと至る。
金印漢使・張政=対海國で停泊
梯儁=対馬國で停泊 (その日の天候や潮流の影響)
対馬島の中で、
北部に対馬國(半島南岸投馬國に対面する) ?里 ?戸
南部に対海國(瀚海に対面する) 方可四百余里 千余戸
【南度海「至」一支國 置官与対同 地方三百里】
また南に渡海して、壱岐島にある一大國へと至る。一大國は三百里四方。
梯儁は対海國ではなくて、対馬國に停泊してしまったから、
魚豢にとっては、対馬國から一大國までの渡海距離がわからない。
【又度海 千余里「至」末盧國 人善捕魚能浮没水取之】
また渡海する。渡海+東松浦半島〜唐津湾を越えての沿岸航海の、
合計1000余里で、末蘆國へと至る。
(末蘆國東部=唐津湾より東に上陸) <魏略逸文(翰苑)>
【東南五百里「到」伊都國 戸万余置曰爾支副曰洩渓觚柄渠觚其国王皆属女王也】
陸行500里で伊都國(糸島平野+早良平野)の中の、目標地点へ到着する。
【女王之南又有狗奴國女男子為王其官曰拘右智卑狗不属女王也】
魏略は伊都國までで、次は狗奴国の説明に入る。
梯儁は伊都國で金印外交を終えて、帰国した。
【自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆点而文聞其旧語自謂太伯之後昔夏后少康之子封於会稽断髪文身以避蛟龍之害今倭人又文身以厭水害也】
梯儁が対馬國に停泊したことで、万二千余里の詳細を示せなくなった。
以上は翰苑より。
<魏略逸文(法苑珠林)>
【倭(種)南有侏儒國其人長三四尺去女王國四千余里】
@にあった侏儒國までで、
Cの裸國黒歯國は魏略に間に合っていない。 魏略と魏志倭人伝の制作時期は20年ほどの差。
魏略には、@Cの情報しか含まれていない。
魏志倭人伝には、@Cに加えて、A張政B生口の情報が含まれている。
【台与遣倭大夫率善中郎將掖邪拘等二十人 送政等還 因詣臺 献上男女生口三十人】
ABの情報源はセットで洛陽にもたらされた。
魏志倭人伝は魏代の歴史を記載しているので、張政が帰国したのは魏の末期。
魚豢はギリギリでABの情報源を入手し損ねており、
魏略の成立は魏末期〜晋成立直後の混乱期でABに接触できなかった。
魏略には、狗奴国は出てくるのに、邪馬台国は出てこない。
邪馬台国は、倭国に長年滞在したA張政が当てた倭読み訓読みであり、
邪馬台国(倭読み訓読み)=倭国(漢魏読み音読み)
魏略に狗奴国が登場して、拘右智卑狗の存在まで判明しているということは、
もう一つの情報源があった可能性が高い。
狗奴国が後漢と接触していた。 張政は卑弥呼の墓の完成形を見ている。
見ているどころか毎日目にしていた。
男王時代の邪馬台国内の内乱を経験し、
台与の共立まで倭国邪馬台国に滞在。
崇神と景行にも会っている。 >>691
魏略は使った字が違うだけで倭人伝の焼き増しだよ。
対馬の方可4百里は、西岸からしか見ていない。
釜山⇔壱岐に向かう場合、対馬の長辺が海岸水行の千里有る。
これは、使っていない。
狗邪韓國は弁辰狗邪と見るべきで、東行3千里も東岸には届かない。
投馬国は謎の倭人域であるが、この時魏は、辰韓と弁韓の雑居を把握していない。
韓伝の記述は246年の臣智を置いた以降である。
魏は、邪馬台国外交が終わる247年、この後も、弁韓、倭人域は未知なのである。
240年が梯儁だが、魏船は黄海を渡る帆船であって、
対馬から壱岐を経由せずに博多湾に入った可能性も高い。
半島西岸から済州島なら、対馬が要らない。
南至 投馬國 水行二十日
南至 邪馬壹國 女王之所都 水行十日 陸行一月
が、自郡至女王國 萬二千餘里 である。 九州王さんがいつも書いているように、
筑紫の日向=(魏代)伊都国
三雲南小路遺跡1号墓被葬者=ニニギ
平原遺跡1号墓被葬者=卑弥呼
なのであれば、
座標点が固定されるので、
あとは説ではなく、方程式のように解読されていくわけです。
倭国乱が146-189に納まりますから、
男王70-80年から逆算して、
三雲南小路王は66年以降にしかならないわけです。
ということは、57年の委奴国王は、伊都国以外の場所にいたことになります。
記紀から、ニニギは高天ヶ原から降臨する。
その途上で、猿田彦と出会うわけですが、
猿田彦からニニギに向かう光が、高天ヶ原と葦原那珂津国を照らすので、
高天ヶ原と葦原那珂津国は、ニニギの背後。
つまり早良平野と福岡平野なのだろう、ということになります。 >>695
> 九州王さんがいつも書いている
何の話をしているんだお前は??? >>695
>倭国乱が146-189に納まりますから、
>三雲南小路王は66年以降にしかならないわけです。
>ということは、57年の委奴国王は、伊都国以外の場所にいたことになります。
ムムム
倭奴国王は伊都国王ではない可能性についての具体的な反証は初めて読みましたが、一理ありますね。
>猿田彦からニニギに向かう光が、高天ヶ原と葦原那珂津国を照らすので、
記紀の「照らす」は支配することと解釈していますが、猿田彦は博多湾で陸海を支配していたようです。
ただ、高天原はあくまでも天照が照らしているわけです。
>高天ヶ原と葦原那珂津国は、ニニギの背後。
豊葦原那珂津国は良い読み方ですね。
福岡平野の繁栄ぶりを伝える言葉なのでしょう。
葦とは稲穂のことだそうです。
稲作先進地域である博多湾沿岸の呼称として相応しい。
あと、九州王さんとは別人です。 詳細は過去スレで何度も出ているので省きますが、
三雲南小路1号王墓と2号王妃墓がセットになっており、
すぐそばの細石神社がコノハナサクヤを祀っていることからも、
三雲南小路王はニギハヤヒよりはニニギの可能性の方がはるかに高く、
倭国王とは、九州説の一部の方がおっしゃっているニギハヤヒではなく、
やはりニニギなのだろう、とわかります。
ニギハヤヒについては、
先代旧事本紀に、一旦畿内で埋葬されたが、
天神達が憐れんで、高天原に遺体を運んで埋葬し直した、とあります。
手がかりが少なすぎるのですが、
須玖岡本甕棺墓が最も可能性が高いと思われます。
三雲南小路とほぼ同時代である点。
そして伊都国から見て、金印漢使ルートを鬼門方向で遮る位置にあります。
本当は憐れんで、ではなく、
滅ぼした委奴国王の祟りを遮断するため鎮めるために、
同時代最強の銅戈将軍であったニギハヤヒを須玖岡本に配置したのではないでしょうか。 詳細は過去スレで何度も出ているので省きますが、
三雲南小路1号王墓と2号王妃墓がセットになっており、
すぐそばの細石神社がコノハナサクヤを祀っていることからも、
三雲南小路王はニギハヤヒよりはニニギの可能性の方がはるかに高く、
倭国王とは、九州説の一部の方がおっしゃっているニギハヤヒではなく、
やはりニニギなのだろう、とわかります。
ニギハヤヒについては、
先代旧事本紀に、一旦畿内で埋葬されたが、
天神達が憐れんで、高天原に遺体を運んで埋葬し直した、とあります。
手がかりが少なすぎるのですが、
須玖岡本甕棺墓が最も可能性が高いと思われます。
三雲南小路とほぼ同時代である点。
そして伊都国から見て、金印漢使ルートを鬼門方向で遮る位置にあります。
本当は憐れんで、ではなく、
滅ぼした委奴国王の祟りを遮断するため鎮めるために、
同時代最強の銅戈将軍であったニギハヤヒを須玖岡本に配置したのではないでしょうか。 委奴国王についてはこれも過去スレで検討しましたが、
中広型銅矛王として、平型銅剣女王を滅ぼすわけですね。
弥生時代のメインプレイヤーを考えると、
壱岐対馬唐津からの天神男系イザナギ。
遠賀川発祥の豊国女系イザナミ。
天神イザナギが、福岡市土着の古来勢力に阻まれている間に、
イザナミ系が一気に日本全国に稲作をもって拡散します。
イザナミ系は、
北部九州の豊国領域に、祖である八雷神8部族。
本州日本海沿岸に、八岐大蛇部族。
福岡市で壱岐対馬と遮断された状況では、八岐大蛇が最大勢力だったわけです。
イザナギとイザナミが婚姻を結んで、福岡市を挟撃して筑紫統一。
吉武高木王=アマテラスが誕生し、
東征将軍スサノオが八岐大蛇を下し、日本海沿岸を統一して、
丹後に扇谷遺跡が建設されます。 敗北した八岐大蛇が虐殺された遺構は有りません。
アマテラスの支配下に入ったことになります。
豊国の八雷神→8山津見と、八岐大蛇は、共にイザナミ女系なので、
支配者と被支配者の関係になりにくいわけです。
一方のイザナギ系は男系なので、
イザナギ系の王族男子が、八岐大蛇の女首長に子供を産ませ、
その息子が支配者として君臨する、という支配体制が
円滑に進んだことでしょう。
よって、日本海沿岸の支配権はイザナギ系によって占められることになり、
大山祇の女性指導者は、
琵琶湖や、瀬戸内海に進出することになります。
後に銅矛銅剣戦争で負けた銅剣女王国の、開拓最前線が、
荒神谷や加茂岩倉の同范銅鐸の分布域となります。 >>699
そういや最近どこかのスレで三雲南小路と金印を無理やり繋げようと躍起になってた阿呆がいたな 八上姫=豊国女王が、大国主との子供に国を継がせることを拒んだので、
大国主は天神族と組んで、スサノオ将軍職について、
銅矛銅剣戦争を開始します。
しかし、大国主は自分の手勢も欲しい。
そこで目をつけたのが、
イザナギ、豊国(八雷神→大山祇)、本州日本海沿岸(八岐大蛇)の、
八岐大蛇族ですね。
沼河比売を口説いてタケミナカタを産ませて、
上手く越国を乗っ取ったわけです。
八岐大蛇族の指導権を乗っ取った方法は、八雷神への復讐心を煽ったわけですね。
八雷神+イザナギが八岐大蛇を負かした恨みを利用して、
八岐大蛇をタケミナカタに率いさせて、
瀬戸内銅剣女王国を攻めさせたわけです。
紀元前に、イザナギ(スサノオ)+八雷神 vs 八岐大蛇
一世紀前半に、イザナギ(アマテラス)+大国主(スサノオ)+八岐大蛇(タケミナカタ) vs 八雷神(大山祇)
一世紀後半に、イザナギ(ニニギ)+饒速日(スサノオ)+八雷神(建御雷神)vs 大国主+八岐大蛇(タケミナカタ) 個人的には、須玖岡本は将軍クラスということで猿田彦を推します。
春日市には猿田彦を祀る塚が多いですし。
イザナミ国津神の女系氏族とイザナギ天津神の男系氏族なら、うまくやっていけるのでしょうね。
ニニギと木花咲耶姫、ヒコホホデミと豊玉姫、ウガヤフキアエズと玉依姫らの日向三代も、同じ天津神と国津神の夫婦ですね。
ニニギの父であるオシホミミの妃であった豊秋津師姫も、名前から考えるに博多の姫でしょうね。
その父は高木神、兄はオモイカネだそうです。
高木神は福岡平野の最も古い王の一人なのでしょう。 遠賀川山鹿貝塚を発祥の地とする、イザナミ女王系列。
北部九州の八雷神→8山津見
本州日本海沿岸の八岐大蛇
どちらもイザナギ男系と婚姻を重ねていきます。
そこに割り込んだのが、委奴国王=中広型銅矛王ですね。
銅矛銅剣戦争で大山祇女王の八上姫を降伏させて、
関連集落の女系指導者を後宮に集め、
最終的にはなんと181柱の子孫を産ませます。
降伏した集落の分布域は、荒神谷や加茂岩倉の同范銅鐸が最大域。
1世紀前半に早くも畿内、そして岐阜まで達しています。
雀居の縄文系女性は客死した地方女指導者でしょう。
雀居からは、1世紀の長文=後漢との外交文書 を作成した机が出土しています。
つまり、委奴国王の元に集められた女性指導者が産んだ息子達は、
委奴国王の元で「文字」を習い、
各地へ指導者として戻っていった。
卑奴母離=委奴国王の後宮にいる母と離れて、出身地の地方支配官となった、委奴国王の血族 >>706
>遠賀川山鹿貝塚を発祥の地とする、イザナミ女王系列。
もともと豊国が博多湾沿岸および志賀島の国津神勢力で、天津神の勢力拡大により東に圧迫され、遠賀川から、律令時代には大分県まで押されていったのでしょう。
発祥の地というなら、志賀島の綿津見神社でいいかと。
その両親イザナギイザナミは能古島で婚姻していますし。
>卑奴母離=委奴国王の後宮にいる母と離れて、出身地の地方支配官となった、委奴国王の血族
まさしくツクヨミですね。 標高の高い早良が高天原。
高木神とは、早良の吉武高木宮殿で政治を決めていた支配者達のことでしょう。
天神族の中にもしがらみがあり、
アマテラスをトップとしながらも、合議制を取っていたわけです。
しかし委奴国王はしがらみがないので、
天神族間の競争を利用して、一気にのし上がった。
ニニギがコノハナサクヤの不義を疑ったことから、
天神族ですら委奴国王の後宮に出していたことがわかります。
しかし、いくら頑張っても、天神族でない委奴国王はスサノオ止まりで
アマテラスにはなれない。
だから漢から金印を貰った。
しかし金印を貰うために木材を大量伐採して施設整備をせざるを得なく、
環境破壊による那珂川の氾濫、土石流、疫病の発生、によって、
一夜にして失脚したわけです。
委奴国王の一件を教訓にして、
天神族は結束し、
オシホミミ一族を大王に、
西の糸島平野に人口制限のある新首都=魏代伊都、を建設したわけです。 委奴国王が失脚して、奴族はちりぢりに逃げ惑います。
タケミナカタが
本拠の越後。
海を迂回しなければならない長崎。
まだ広島平野のない安芸の奥の中国山地内。
などで抗戦します。
饒速日(銅戈スサノオ)
+恨みを喰らった恨みを返そうとする八雷神(建御雷神)
は、まずは大阪湾を攻略します。
八雷神の荘園である瀬戸内海沿岸ではなく、
大阪湾に高地性集落を建設して木材供給源にするためです。
大阪湾占領が完了してから、
いよいよタケミナカタを攻め立てるわけですね。
銅戈の出土分布がそれです。 卑奴母離がなぜ倭人伝で残っているか。
一つは、半分は委奴国王の血ですが、もう半分はそれぞれの地域の女王の血だからです。
女王の血を引いていて、しかも優秀で容姿端麗なわけですね。
もう一つが、「文字」スキルですね。
邪馬台国では租税を徴収していたとあります。
戸数が把握されています。
これらの官僚的支配は、「文字」スキルが必須であり、
卑奴母離たちは、「文字」スキルを持つ官僚として、
天神族に恭順することで、副として身分保障してもらえたわけです。
ちなみに、
『自女王國以北 其戸数道里可得略載 其余旁國遠絶 不可得詳』
とは、
女王國=邪馬台国ですから、
列挙された20国は、其戸数道里可得略載です。
単に字数の関係でいちいち書いてないだけで、陳寿の手元には戸数データはあったわけです。
総計7万戸だけ記載したわけですね。
道里は、周旋五千里ですね。
だいたい狗邪韓國から五千里で到達できる範囲にあるよ、
というのが道里可得略載ですね。
其余旁國遠絶とは、不属女王の狗奴国とか、東の倭種の国とかのことです。 多少、ドラマ仕立てが強すぎませんかな?
記紀の隙間を埋めるのはいいですが、盛りすぎてもダメ。
高木神は吉武高木の倭王でしょうが、記紀の視点が当時は傍系だった皇孫である天津神に置かれています。
ではアマテラスはどこにいたのかといえば、海を照らすという語義からは、海上のどこかでなければならない。
対馬海峡を卑奴母離(月詠)の地だとするならば、やはり沖ノ島しかないのではないか。
また、瀬戸内海の開拓は、大山祇の息子である三島の神(三島溝杭耳、鴨王)であることがわかっています。
淀川流域から奈良盆地の富美までその支配地が及びます。
神武と戦った富美の長髄彦は三島の神の孫、その姪が神武の妃となるイスケヨリ姫であることがわかっています。 高木神とは吉武高木宮殿にいた殿上人。
そのトップがアマテラス。
その東征将軍がスサノオ。
スサノオと豊国八雷神(後の大山祇)が、本州日本海沿岸の八岐大蛇に勝利。
八岐大蛇も女系イザナミなので、
男系イザナミが子供を産ませて、その子供に支配権を奪われていった。
女系豊国八雷神(後の大山祇)は、日本海沿岸に進出できずに、
琵琶湖に巨大環濠集落を作って苦労して開拓したり、
瀬戸内から紀伊を経て開拓したけれども、銅矛銅剣戦争で負けたりと、
苦労続きだったわけです。
大元の、豊国=古代出雲=イザナギ族にとってのイザナギ領の東隣り
について考えてみます。
ワニと白兎ですね。 今じゃ当たり前にみんなアマテラスは女神って前提で語ってるが、記紀にアマレラスが女神だと書かれてる箇所が見つけられない
アポロンら同様に太陽神なんだから男神なんじゃないか 兄弟と共に稲羽の八上姫に求婚しに行った大国主が、稲羽の白兎に出会います。
ニギ、ウサ(宇佐)、というのは古代神官のことであり、
ウサギとは神官あるいは巫女のことですね。
稲羽の八上姫に仕えて沖の島祭祀に関わる神官あるいは巫女だったわけです。
ワニとは、記紀でそれぞれ熊鰐とも和邇とも記されている、
岡田宮の熊鰐氏のことですね。
縄文から続く八雷神の一神だったわけです。
過去スレで検討しましたが、
稲羽=稲場=鐘崎
海の関所です。
八上姫とは、豊国イザナミ八雷神系の正統な女王。
各地の大山祇荘園からの年貢=稲荷を、稲場に陸揚げして、差配していたわけです。
そして年貢よりも重要な物資が、
瀬戸内海からの木材。炭。
熊鰐氏は、瀬戸内海利権を狙う天神族と結んで、
天神族イザナギ系の男系支配者オオワダツミを受け入れていた。
イザナミ系の本来の女王である、八上姫と、
イザナギ系がワニ氏に取り入った、オオワダツミが、争っていた。
だから八上姫の部下である白兎を助けてくれた大国主を、
八上姫は信用したわけです。 天津神が男系相続の一族なので、アマテラスは男性でしょう。
そしてその支配地域は海上(海を照らす王)でもある。
一方で、高木神らは陸上(吉武高木?)にいた別の王統、女系相続の国津神ですね。
この両者の婚姻が倭国の王制の基本スタイル。 >>715
いやいや、綿津見、大山祇は国津神と明記されており、志賀島、博多湾から東に東遷した豊国王家でしょう。
それは筑紫王家すなわち天孫族と区別されなくてはいけない。 >>716
つーことはコノハナサクヤヒメが卑弥呼でFAやんけ またまた前フリが長くなってすみません。
ここからが本題です。
九州説によると、ニニギ=三雲南小路王という座標点があります。
ニニギより前については、以上のように自動的に決まりますが、
では、
ニニギより後については、どうでしょうか?
山幸彦と海幸彦です。
まず、
山幸彦は山、高千穂宮ですね。
海幸彦は海、スサノオ水軍です。
ニニギは笠沙の岬=考古学的には、糸島平野と陸続きの柏崎遺跡になります。
に、長く住んでいます。
糸島平野に遷都したばかりだったので、
奥さんであるコノハナサクヤ=柏崎天孫族の父と、大山祇母の娘、の実家に住みながら、
新首都建設に尽力していたわけですね。
糸島平野が整備されて、高千穂宮=高祖宮に住むようになるのは、
二代目の山幸彦からで、高祖神社の祭神もそのようになっています。 >>718
木花咲耶姫は王子が3人もいて、ちゃんと倭王(ヒコホホデミ)になってるじゃん。
しかも細石神社の三雲南小路遺跡なら、卑弥呼より年代が少し古すぎてしまう。
年代が近いのはその後の平原遺跡だよ。 猿田彦は、オルドス式短剣=触角式有柄銅剣ですね。
柏崎遺跡、つまりコノハナサクヤの両親のお抱え工人です。
サルマトイ
後漢本国、あるいは少なくとも楽浪鏡工房で働いていた
コノハナサクヤの父親にヘッドハンティングされて、
半島南部の倭人領土→柏崎遺跡へとやってきます。
一族は触角式有柄銅剣の出土する場所でそれぞれ働いていたので層が、
猿田彦自身は、コノハナサクヤの大山祇母親の荘園である、
高島市の熊野本遺跡が本拠ですね。
内行花文鏡や方格規矩鏡のほぼ完成形をもたらしたり、
漢の円周率暗算単位である、咫をもたらしたわけです。 >>719
>山幸彦と海幸彦です。
海幸彦は山幸彦に負けて都落するのだが、その足跡がどこにあるのかというと宮崎県だったりする。
つまり福岡に正統となる山幸彦、宮崎に傍系となる海幸彦。
これが魏志倭人伝だと福岡の邪馬台国七万戸と宮崎の投馬国五万戸となる。 >>721
>猿田彦は、オルドス式短剣=触角式有柄銅剣ですね。
これって、根拠はなんですか? >>723
猿田彦を大陸からの渡来神に仕立てたい陰謀な悪寒 古代は末子相続ですね。
大王と年齢の近い長子相続だと、戦争になる。
だから長子などには兵を与えて、東征や北征させて、新規領土を切り開かせる。
年齢の離れた末子に、晩年に本拠を継がせるわけです。
理にかなっています。
饒速日は東征将軍スサノオとして東征。
邇邇芸は糸島平野の新首都整備。
海幸彦と山幸彦も同じですね。
ただ、二人が海と山の支配権を交換します。
これが意味することはただ一つ。
倭国王師升の直接訪問ですね。
邇邇芸が動いた記録はありませんから。
倭国王師升が外遊した時、
あるいは、色気を出して水軍で外地征服を試みた時、
に、
天候あるいは敗戦によって、水軍を喪失してしまったわけです。
それで一時的に失脚して、
山幸彦が身を寄せた先が、ワニの王宮です。 山幸彦は、岡田宮に身を寄せたわけです。
イザナミ八雷神系の正統女王である八上姫はとっくの昔に滅ぼされ、
熊鰐族がリーダーとなっていたわけです。
八畳の控室、八尋和邇、などは、八雷神由来の古代出雲を示唆しているわけです。
熊鰐族オオワダツミの娘である、豊玉姫・玉依姫。
玉とはすなわち、
リーダーとなった熊鰐族が、
北九州市の城野遺跡の玉造工房を領有していた、からですね。
大量の鉄製工具と、
大量の翡翠。
翡翠があるということは、倭国乱の前です。
倭国乱で銅戈は狗奴国側ですから、邪馬台国への翡翠の供給は途絶えてしまいます。
だから平原遺跡には翡翠がありません。
逆に狗奴国には鉄の供給が途絶えるわけですが。 ヒナモリ……
後代の日本語で、辺境/地方/田舎のことを言うヒナという語句があるが(用例:鄙びた)
辺境をまもる(または、おもりする)役職だったのかねえ? 末子相続というより兄弟相続の結果として最後は末子がすべて持っていくのです。
饒速日も先代旧事本紀では、天照国照の称号があり、出雲国譲りにより海上と陸上の両方の王となっていたことになっています。
ただし記紀は弟の邇邇芸の末裔である天皇家がまとめたので、その治世が省力されています。
海幸山幸の物語も、兄弟相続の話と読めなくもない。
記紀は後になるほどその世界観が広がるが、逆に神代については九州北岸からせいぜい出雲までしか文明社会になってない。
賑やかな龍宮は文明の中心地である志賀島の綿津見神社でしょう。
後に北九州に豊国王家が遷都して筑紫岡田宮の熊鰐らがいたと考えられます。 忌部氏で考察しましたが、
古代出雲は遠賀川〜北九州市の辺りであり、
つまり古代出雲の玉造忌部とは、城野遺跡のことなわけです。
八尺瓊勾玉とは城野遺跡で作られた翡翠勾玉であり、
オオワダツミが、山幸彦に与えたことになります。
城野遺跡のそばからは、何度も掘り戻されては埋納されてを繰り返した
広型銅矛が出土しており、
一つは、山幸彦海幸彦のペアは広型銅矛を祭祀に使っていた。
もう一つは、祭祀型銅矛(銅戈)とは、出陣式の時に使って、
北部九州倭国の母なる大地に埋納。
もう一本を、遠征先の征服領土に埋納。
だから、出陣元の北部九州では何度も埋め戻しされているわけです。
山幸彦の奥さんの実家ですから、
山幸彦が政権に復帰してからは何度も出征に出たわけですね。 >>728
辺境といっても、対馬海峡の交易が倭国の繁栄の基礎なら、生命線です。
必死で他の民族から守らなくてはいけません。
だから卑奴母離、大率などの制度が発達したのでしょう。 広型銅矛は高知など太平洋側に出陣している。
海幸彦を倒した潮盈珠・潮乾珠の故事とは、
周期的に訪れる南海トラフ巨大地震の津波によって遭難した、
ということでしょう。
海幸彦が太平洋側で遭難し、
山幸彦は山=高千穂宮=高祖宮へ復帰した。
このような経緯を辿っているので、
邇邇芸と比べても、山幸彦の伝承は広範囲に渡っているわけですね。 広型銅矛は高知など太平洋側に出陣している。
海幸彦を倒した潮盈珠・潮乾珠の故事とは、
周期的に訪れる南海トラフ巨大地震の津波によって遭難した、
ということでしょう。
海幸彦が太平洋側で遭難し、
山幸彦は山=高千穂宮=高祖宮へ復帰した。
このような経緯を辿っているので、
邇邇芸と比べても、山幸彦の伝承は広範囲に渡っているわけですね。 豊玉姫が出産する。
岡田で出産すればいいのに、わざわざ伊都へ赴きます。
これはなぜかというと、文身ですね。
大王の血統であることを証明するために、産まれてすぐ文身を入れる。
岡田で出産すると、
敵対勢力からそこを指摘される危険性があるわけです。
だから伊都まで行って、伊都の重臣たちの監視下のもとで、出産する。
ただ、豊玉姫は女系としては縄文山鹿貝塚からのイザナミの血を引いています。
豊玉姫の出産シーンを山幸彦がうっかり覗いてしまうと、
豊玉姫が八尋熊鰐の姿でのたうち回っている。
これはワニになったわけではなくて、
イザナミ縄文系の民族出産時衣装で民族出産時儀式を行っていた、ということでしょう。
見られることはタブーでもあったわけです。
イザナミの儀式をイザナギが覗いてしまったのと同じですね。
現代人の我々と全く違い、弥生人にとってはタブーはタブーで絶対禁忌。 豊玉姫・玉依姫の父、オオワダツミの支配下である、城野遺跡。
北部九州でも最大級の方形周溝墓に、なんと小児が二人埋葬されています。
男の子のほうは、
山幸彦と豊玉姫の子供である、武位起命
もしくは
鸕鶿草葺不合と玉依姫の子供である、三毛野命
のどちらかであることが確定します。 倭人伝の官を紐解くと、
邪馬台国=倭国の官(中央政府の内閣大臣)が、
伊支馬 壱岐イザナギ系代表
彌馬升 大山祇イザナミ系代表
彌馬獲支 大山祇イザナミ系代表(どちらかがオオワダツミ)
奴佳鞮 奴国オオクニヌシ系代表
となります。
地方行政(都知事・府知事・県知事)が、
対海國 卑狗(狗人=海幸彦血族隼人)卑奴母離(委奴国系書記官)
一大國 同上
伊都國 爾支(都知事)泄謨觚柄渠觚(イザナギ系)
奴國 兕馬觚(イザナギ系が押さえる)卑奴母離(委奴国系書記官)
不弥國 多模(事代主末裔)卑奴母離(委奴国系書記官)
となります。
伊都國は女官が1000人もいる首都ですから、卑奴母離は必要ありませんね。 頂点にいるのが、「世有王」
伊都の倭国王です。
人前に姿を現さない=文身が・・・の卑弥呼が摂政。
狗奴国との戦争で緊急時だったので、
有能なキャリアウーマンの卑弥呼が抜擢された。
その後もずっと狗奴国と対戦していたから、
卑弥呼が重宝され続けたわけです。
張政が来たのは倭国政治に介入するため。
倭国王勢力と、卑弥呼勢力の、
どちらかが、朝鮮半島積極派で、
どちらかが、狗奴国戦積極派で、
そのどちらか魏にとって有利な方を、応援しに来たわけです。
台与は張政の策略もあって女王になりましたが、
肝心かなめの魏が滅びそうになって、
張政の頑張る意味が無くなって、張政は帰国してしまった。 >>736
大王が城野遺跡=豊玉姫か玉依姫に産ませた子供で、小児で亡くなった。
記録に残っていない可能性もありますが。 >>739
推論に「確定」なんて言葉を使ってはいけない。
軽薄に見えてしまうから。 >>740
ああ、すみません。
三雲南小路王=ニニギ、が確定なら
→確定、という意味です。
山幸彦はワニ=弥生岡田の元に身を寄せ、
その娘たちは玉で、
そこに翡翠が供給されるうちに作られた小児墓=倭国乱前
ですから。 前提がなんの確証もないんだから、それを基にしたものはみんなゴミ ニニギの妻コノハナサクヤの実家が柏崎遺跡であり、
宇木汲田から続く由緒ある土地なのですが、
山幸彦の井原鍵溝遺跡に同期する桜馬場遺跡は、北西に移動しています。
そして末蘆王家は桜馬場までで途絶え、魏志倭人伝にも末蘆國の官は無い。
狗奴国に滅ぼされたわけです。
さらに、対海國と一大國の官は、旧王名の痕跡の無い「卑狗」(隼人の狗人)。
狗邪韓国にも官はいません。
壱岐対馬ルートが一度狗奴国に蹂躙されたわけですね。
ごく短期間ですが、狗奴国が壱岐対馬ルートを手にした。
その時に後漢の有力者曹操と外交して手に入れたのが、
金銀錯嵌珠龍文鉄鏡などのオーパーツでしょう。 魏代伊都=糸島平野の高祖宮を中心とした鉄壁の山城。
南の狗奴国が、壱岐対馬ルートを攻略できる唯一の拠点が、吉野ケ里遺跡です。
高千穂宮を攻めるのではなく、
吉野ケ里遺跡から出陣して北上し、末蘆國を急襲した。
末蘆國側も不穏な雰囲気を察知して桜馬場に移動していたけれども、
耐えられなかったわけです。
吉野ケ里遺跡は様々な勢力が入っていますが、
最後に入ったのが銅戈。
なんのためにかというと、長崎タケミナカタとの海上戦闘のためですね。
銅矛銅剣戦争と同じく、海戦だから遺物は出土しにくいですが。
銅戈を旗印にする=鉄戈が主兵装
唐古鍵遺跡に絵画が出土しています。
矛は対戦争用兵器ですが、
戈は捕獲用器具です。
怒られそうですが・・・
長崎タケミナカタの誰かしらを捕獲したら、その旨を先方に伝えて、
タケミナカタが救出にやってきたら、
高楼の上に人質を出して煽ります。
怒ったタケミナカタが仲間を助けようと殺到してくる。
城柵を乗り越えたところを、下から戈で手前に引き落とし、
溝に落ちたところを上から木の刺又で押さえつけて捕獲します。
生口ホイホイですね・・・ >>745
城柵の前に空濠を掘るのが当時の慣わしだけどな 卑弥呼自身も共立女王にふさわしく、オールニッポンの血筋です。
卑弥呼の父親は、大田南1号墳被葬者の、
一大率丹後若狭湾水軍長官。
銅戈将軍饒速日の、畿内妻である登美夜姫の子孫は、
北部九州倭国のヒエラルキーに反抗して狗奴国に加担しましたが、
饒速日の、九州妻との子孫である、卑弥呼の父親は、
逆に邪馬台国の絶体絶命の危機を救ったわけです。
逆に卑弥呼の子孫には、青龍三年銘の方格規矩四神鏡がお裾分けされています。 畏れ多いので、あくまでも、九州説ならば、という話です。
『天叢雲剣』
吉武高木王アマテラスが、九頭竜川(頭部)を本拠とする、
石剣の八岐大蛇部族の若狭湾水軍(胴部)と戦争して勝利。
丹後半島(尾部)に扇谷遺跡を建設して、鉄器製造。
アマテラスに献上された至上の逸品が、天叢雲剣。
『八尺瓊勾玉』
山幸彦が、古代出雲=遠賀〜北九州市を支配する岡田熊鰐のもとへ滞在。
城野遺跡の玉造工房=出雲忌部の祖、において鉄製工具を駆使して
翡翠勾玉の円周長八咫首飾りを作成。
『八咫鏡』
邇邇芸の妻、木花之佐久夜の実家のお抱え工人、
楽浪仕込み猿田彦一族の工房において、
魏から入手した青龍三年銘方格規矩鏡を溶かして作成。
直径二尺。円周長八咫。 青龍三年銘方格規矩鏡を溶かして作成したら
鉛同位体分析値は前漢鏡主要分布域には収まり得ない
4世紀以降の鏡を溶かして3世紀の鏡を作成したがるのは阿呆 >>737
首都である伊都國の役人には卑奴母離はいませんね
国邑の連合体である投馬國や邪馬壹國の役人にも卑奴母離はいませんね。 伊都国の官の禰宜は天孫ニニギの末裔が卑弥呼の下でナンバーツーに収まっていたということ。 卑奴母離は奴母離が各国邑に派遣した副官
奴母離は奴界の守護者の称
降臨系のボスが卑弥呼の守護者であることを主張した
だから鄙とは云い難い弐萬戸の奴國にも配置されている
降臨系のボスとは伊都國王の難升米のこと 雀居の委奴国王は渡来系なので、外交時は漢語で話したわけですね。
バイリンガルです。
侏儒國のネーミングも委奴国王がつけたのでしょう。
黒歯國や裸國は陳寿でしょうけれども。
(一)大率も委奴国王が創始でしょうね。
遠征や内政検察に便利だから
饒速日や瓊瓊杵なども倭国に取り入れて流用発展させたわけです。
大倭はオオヤマト
つまり大山祇ですね。
八雷神→8山津見
それが銅矛銅剣戦争で負けて、大山祇として組織整備されたわけです。
瀬戸内海の海運業ですね。
高地性集落で木材、炭を生産。
淡路島の鉄工房へ、鉄原料を東へ運び込み、鉄完成品を西へ輸送する。
硯が筑前町で出土するのは、海運商売に文字が必須だったからですね。
旧三輪町に大倭=オオヤマト運輸の集配管理センターがあったわけです。 一方の井原鍵溝の師升は生粋の倭人というか、
倭人の頭領たる倭国王です。
委奴国王の使者が、光武帝に謁見した時は、
「我従倭地来了」
全て漢語で話したわけです。発音は、わこく、わじん、ですね。
海幸彦の水軍を借りて、大量の生口を土産に意気揚々と後漢に乗り込んだ
師升の場合は、横に通訳を侍らせて、
「われこそは、やまとこくおう、すいしょう、なりぃ」
と自ら倭語でやったわけです。
居並ぶ後漢の重臣たちは、
「わこくおう」が来たと思っていたのに、
「やまとこくおう」などという言葉を初めて聞かされて、面食らったわけですね。
その場にいた書記官が慌てて当てた字が、
「倭面土國王」
本来なら、「邪面土國王」とかが正しいのでしょうが、
さすがに師升も、
事前の外交文章では、「倭国王」と書いて、漢文で連絡していたでしょうから、
後漢側では「わこくおう」倭国王が来た、と思い込んでいたので、
最初の一文字はどうしても倭に引きずられたわけですね。
タイムマシンがあったら、
師升の口上を聞いている安帝と重臣たちのどよめきを聞いてみたいですね。 里程と日程が並列
邪馬台国の首都が伊都でその他25国にヒナモリ
それぞれの国に相当する遺跡もあって
平原女王墓もあって
文献と考古学が完全に一致して北部九州邪馬台国で決着ですな >>762
ヒナモリ? 副日卑奴母離 は 247年張政の倭人船に同乗していた、現地案内官。
郡〜狗邪韓國〜對海國〜一大國〜末盧國〜(伊都國)〜奴国、不彌國
で、随行している。
240年に卑弥呼に印綬の為、魏の軍船で行軍し、
女王宮に来た梯儁の譯での邪馬台国は
女王を共立した21の王の国で構成されている。
その南は、狗奴国である。
文献と考古学が完全に一致して北部九州邪馬台国で決着です。 また伊都クズが文献史学者も考古学者も誰も主張していないことを文献史学的に〜とか考古学的に〜と勝手に決めつけてる >>764
基本的に古代史で持論展開するやつはウソツキだからしゃーない 自分のウソをごまかすために他人をウソつきよばわりするのは
推理ものの犯人なんかがよくしている非常に見苦しい行動だな >>767
>自分のウソをごまかすために他人をウソつきよばわりするのは
すげーブーメランw ホラフキン
,へ
\/ ヽ ( )
_/*+*`、 ( )
<_______フ )
从 *`∀´> 〜
/゙゙゙lll`y─┛息を吐く様に嘘を言い
ノ. ノノ | 飯を食うが如くクソをすする
. `〜rrrrー′ これはチョンコのことです
. |_i|_(_ |_ l ―┬─ l ヽヽ |_ .┌-┐ へ | ヽヽヽ
| l ─┼─ ヽ/ _|∠ | / /__ \  ̄| ̄ヽ \
__| | __ | / /l二l.| _). __ . / │
\ノ\ レ .(_ノ`ヽ ヽ__ |_|.| |__| ノ ヽノ
(ヽ三/) ))
__ ( i)))
/⌒ ⌒\ \
/( ●) (●)\ )
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| (⌒)|r┬-| | >>767
,┌、-、!.~〈 .`ー´/ . _/
| | | | __ヽ、 /
レレ'、ノ‐´  ̄〉 . |
`ー---‐一' ̄
. ̄ ̄| ̄| ̄ ̄ .
.匚二|二|二コ / . . |_ ー _/__ヽヽ _/_
.__|_|__ . l ヽ | -― 、 . / __ .  ̄/ ヽ
. ヽ、 ヽ、 | ) .__| } / / __|
ノ |___i ヽ/ \ノ\ __ノ / \__ (_l\ W W W >>771
iヽ /ヽ
| ゙ヽ、 / ゙i
| ゙''─‐'''" l
,/ ゙ヽ
,i゙ / \ ゙
i! ● ● ,l
゙i,, * (__人__) ,/
ヾ、,, ,/ 猿真似はダメにゃん
/゙ " ヽ
/ i!
(⌒i 丶 i ! i!.,
γ"⌒゙ヽ l l γ'.ヽ
i i,__,,ノ i,__,,ノ_,,丿
ヽ,_,,ノ"~´ ̄  ̄ ハラタの説は箸墓撤退で北部九州(福岡・糸島平野)の平原・天照大神だけが残り、高祖山に籠っている。
フルタの説はもともと北部九州(福岡・糸島平野)だけ。
ヤスモトの説は甘木朝倉の筑紫平野に邪馬台国を設定したものの、
そこは倭国大乱で無残にも破壊し尽くされた邑だったので、これも福岡・糸島平野に撤退し、卑弥呼の墓は平原に・・。
呉越魏同舟というか、
現代日本のエルサレム化して、聖地の分取り合い状態になっとるな。 >>763
>随行している。
してないだろw
ヒナモリは伊都国の卑弥呼が各国邑に派遣した国邑の副官だよ。 >>774
逆に婢千人は、各国邑からの人質かもしれませんね。
江戸幕府が各藩大名の妻子を江戸に住まわせたのと同じです。
ただぼんやり住んでいるのも何なので、養蚕機織や、賢い女性にはOLとして働いてもらったのでしょう。
>>773
>そこは倭国大乱で無残にも破壊し尽くされた邑だった
北部九州のど真ん中にありながら、鉄器が出ないことから、
狗奴国だったわけですね。
そして、狗奴国の支配域においては、鉄器があったはずなのに、無くなってしまうことがあり得ることも証明されているわけです。
対馬海峡を支配する邪馬台国と敵対しているのですから、
何年もすると鉄器が欠乏して、領内の鉄器をかき集めて鉄製武器に溶かし直したわけですね。
太平洋戦争末期にも、金属類回収令によって、弥生時代の青銅器なども供出されました。
正しい認識に出会った時に、自論を変化させていくというのは、
正常な科学的思考がなされている、ということで、
スタート地点がどうあれ、その人の言うことは信用できるということですね。 ハラタ説、フルタ説、ヤスモト説に従えば、
甘木・朝倉市・朝倉郡筑前町辺りは狗奴国だったということになるなあ。
そして、吉野ヶ里も同様に狗奴国の勢力範囲だったことになる。
わかりやすいといえばわかりやすい。、 吉野ヶ里は戦争に負けたわけではないけど。
まあ、吸収してどこかに再編されたのかな。 >>661-663
要するに銅鐸というのは、
その時代における倭人倭種のフロンティア(開発最前線)に分布しているわけですね。
そして主に使っていたのは、
鉄器を独占して強力なスサノオ水軍で日本海沿岸を支配していたイザナギ系倭人ではなく、
おこぼれの金属器しかもらえず、琵琶湖沿岸や瀬戸内海沿岸へとフロンティアを求めていったイザナミ系倭種。
現地人との武力差が小さいので、防衛策を講じる必要があったわけです。
相互の同范銅鐸が多い、荒神谷遺跡・加茂岩倉遺跡・松帆銅鐸。
同時期に埋納されているのですから、
これらの同范銅鐸の分布を検討すると、
一世紀前半における、イザナミ系倭種のフロンティアが浮かび上がってくるわけです。 【加茂岩倉遺跡の同范銅鐸】
太田黒田鐸(和歌山県)
気比2号鐸・4号鐸(兵庫県北部)
辰馬419号鐸・川島神後鐸(徳島県)
下坂鐸・上屋敷鐸(鳥取県)
伝淡路鐸・松帆3号鐸(淡路島)
岐阜県鐸(岐阜県)
上牧鐸(奈良県)
伝陶器鐸(大阪府)
伝福井鐸(福井県)
桜ヶ丘3号鐸(兵庫県)
念仏塚鐸(岡山県)
【荒神谷遺跡の同范銅鐸】
伝徳島県出土鐸(徳島県)
松帆5号鐸(淡路島)
梅ヶ畑遺跡4号鐸(京都府京都市) 北部九州から、イザナミ系倭種なので豊国から、
日本海沿岸と瀬戸内海沿岸の海沿いに東進していくイメージです。
そして領土を奪われていく側、仮に毛人とします。
毛人に残された土地を考えてみます。
まず、<兵庫県の内陸>ですね。
ここに毛人がいるので、それを取り囲むように銅鐸がある。
北: 気比2号鐸・4号鐸(兵庫県北部)
西: 念仏塚鐸(岡山県)
南: 桜ヶ丘3号鐸(兵庫県)
東: 梅ヶ畑遺跡4号鐸(京都府京都市)
次に<大阪>です。
北: 伝陶器鐸(大阪府)
南: 太田黒田鐸(和歌山県)
東: 上牧鐸(奈良県)
(西は大阪湾、その先の淡路島や徳島などは銅鐸圏内)
銅鐸を配備しているので、倭種よりも毛人のほうが優勢だった可能性も高いです。
<兵庫県内陸>と<大阪>は分断されていなくて、毛人領土として連続していて、
倭種が点として入りこんでいた、という状況だったのではないでしょうか。
この後の時代に、銅戈が全力で大阪湾上陸作戦を行うわけですから。 次に徳島ですが、
既に和歌山や大阪に銅鐸が上陸していることから、
毛人が海を越えて集落してくることは考えにくく、
四国内陸に毛人がいるのか。
あるいは高地回りで中広型銅矛軍の分隊が攻めてくることがあったか。
面白いのは、東国ですね。
岐阜まで到達しています。
琵琶湖周囲には既に銅鐸は無く、
紀元前の下之郷遺跡で苦労して制圧して、
滋賀県は倭種の荘園となっていたわけです。 瀬戸内海において、平型銅剣が出土する範囲の、
やや外側に銅鐸が分布していますね。
これが平型銅剣女王国の東部境界です。
中広型銅矛王に征服されて、侏儒国と名付けられたわけですね。
九州説で神話と結びつけて考えてみます。
大巳貴は最初は八上姫と結婚したわけで、
むしろ、兄弟の攻撃から八上姫が守ってくれたわけです。
日本海沿岸はイザナギ天神族によって統一されていますから、
日本海沿岸へ逃げても兄弟は国内移動で簡単に追いついてくる。
だから、倭種が新規開発したばかりの瀬戸内海沿岸の平型銅剣女王国の奥、
紀伊(木伊、木国)へと
八上姫が匿ってくれたわけです。
となると、木国において大巳貴を保護したオオヤビコとは、
太田黒田遺跡の首長だったわけであり、
豊国イザナミ系の木材目的の開拓班長だったわけですね。
高床式倉庫の絵画などが出土していますね。 さらにその前。
稲羽の白ウサギ。
八上姫は稲羽=海の関所・鐘崎を保有する豊国イザナミ系女王。
一方で、岡田のワニ部族は八上姫と仲たがいしていたわけです。
豊国イザナミ系倭種は、神話にくどいほど繰り返されているように、
縄文時代からの「八」部族で、
山鹿貝塚のイザナミ共立女王のもとにまとまっていた。
八雷神→アマテラス誕生以降は8山津見ですね。
しかしこの時代になると、イザナギ系・アマテラスになびいて、
共立女王に従わない山津見も出始めていた、ということを示しています。
それがわかるのが、
荒神谷遺跡の銅鐸が6口しかない、ということです。
ワニ+1部族は、八上姫に従っていなかった、わけですね。
では、八上姫が何族なのかというと。
荒神谷遺跡の同范銅鐸の出土場所。
神話で八雷神に早くも登場する。
そして、要所要所の遺跡の名前に。 「倭女王卑弥呼考」・・・ 東京帝国大学 白鳥庫吉
>「日本書紀」の編者が暗に卑彌呼を以て神功皇后に擬せしも、全く此類似を認めたるが故なるべけれど、
>斯る類似は獨り神功皇后と卑彌呼とに限るべからず。
>苟も當時一方に雄據して君主と仰がれし女王は、大概此の性質を具備せしなり。
>故に余輩は茲に「書紀」が卑彌呼を以て神功皇后と考定せし妄を斷じて、本論の結末となす。
〔明治四十三年六・七月、『東亞之光』第五卷第六・七號〕
すでに明治時代において、卑弥呼≒神功皇后は妄想と断じられていたのに、
大正時代の笠井信也、戦後昭和のハルタダイロ狗、フルタタケヒ狗、ヤスモツ卑テンらが、
依然として仲哀天皇・神功皇后伝説の糸・怡土・伊都に縛られたままで論じてきたのは解せぬ。 卑弥呼≒神功皇后が妄想と言っているのではなくて、
「斯る類似は獨り皇后と卑彌呼とに限るべからず。苟も當時一方に雄據して君主と仰がれし女王は、大概此の性質を具備せしなり。」
から、書紀が卑弥呼≒神功皇后と断定しているのはおかしいということでしょう 仲哀って伊都と関係していたかな?
宮は香椎だし。
壇ノ浦は神功皇后が祭壇を作ったところだとか。 >>785
オレ理系の素人だから、
この件の「妄想」と「おかしさ」のちがいが良くわからん。今少し解説してくれ。 卑弥呼は高齢独身女性
神功皇后は既婚、子供が天皇
卑弥呼が神功皇后の晩年の姿>高齢寡婦としても無理がある
卑弥呼は人前に姿を現さない
神功皇后は陣頭に立って大活躍、各地に伝承残りまくり
記紀の作者が卑弥呼≒神功皇后をほのめかしているなどありえない 卑弥呼がいたのは高祖宮で
卑弥呼の墓は平原女王墓だよ 魏志倭人伝を読むうえで大事なことは
倭国と狗奴国が戦っている、ということ。
倭国とは本来の北部九州国家であり、訓読みで倭面土国。
狗奴国が反旗を翻して九州南部で頑張っているところに
張政らがやってきた状況。
倭国=完全体の姿=北部九州統一国家
女王国=邪馬台国=狗奴国のせいで不完全体=30国しかない
張政そして陳寿が女王国と言う時は、
後漢書などに書かれた本来の倭国ではない、
不完全体の邪馬台国(=倭国だが)だよ、ということ。
つまり女王国=卑弥呼時代の倭国 世有王
伊都に本来の倭国王=倭国が完全体だったら大王であるはずの存在
がいる
卑弥呼は女王国=狗奴国のせいで不完全体の倭国=邪馬台国
の女王←魏が勝手にそう言ってるだけで、
倭国内での序列がどうだったかはまた別の話
魏から見たら卑弥呼が全権代表だから世有王が統属されてるが
日本列島の権威序列は本音と建前が逆なのは歴史の通り
だから親魏倭国王じゃなくて親魏倭王 ふーん。
後漢書の大倭王は、邪馬台国と狗奴国をあわせた倭国全体を支配していたと解釈するのか。
一理ある。 8山津見のうち
八上姫に従う6山津見→中広型銅矛王に降伏
八上姫に逆らう2山津見→関係なし
6山津見→豊国領土喪失、琵琶湖沿岸と瀬戸内沿岸の大山祇(大倭)に再編
2山津見→豊国領土統一、大綿津見に再編
<大国主時代> 大山祇敗北
大山祇:瀬戸内沿岸に高地性集落建設して木材・炭供給、瀬戸内海運業(オオヤマト運輸)
大綿津見:豊国で優雅に暮らす
!那珂川土石流で大国主失脚→糸島平野高千穂宮へ遷都
<日向一代目> 大山祇勝利
ニニギ 外戚:柏崎遺跡=天神族+大山祇母 勢力範囲はオルドス式短剣分布範囲(お抱え工人)
ニギハヤヒ 外戚:九州妻&畿内妻=登美夜姫=唐古鍵首長の妹
畿内妻との子孫の勢力範囲は銅戈分布範囲(大阪湾〜朝日遺跡、筑後肥後、越後)
<日向二代目> 大綿津見勝利=大山祇失脚?
山幸彦 外戚:岡田宮を県庁所在地とする豊国支配者の大綿津見
広型銅矛
海幸彦 外戚? 広型銅矛?
大山祇系柏崎遺跡→桜馬場遺跡(広型銅矛=大綿津見)へ移動? 300年間、畿内説も北部九州説も、
仲哀天皇・神功皇后記のパクリで解釈してきたから解けなかったのだよ。
パクリ解釈だと、糸島が伊都国になるが、そもそもそれが迷宮の入り口。
末盧国・唐津からは、松浦川に沿ってさかのぼり、
脊振山系を南に迂回して、佐賀川上に伊都国、佐賀三根郡の目達原(吉野ヶ里一帯)に不彌国・・・、
そしてその南方に、投馬国(日向西都の都万)と邪馬台国(肥後熊本の邪馬嘉国)で、超カンタン解決。
何事によらず、最初の一歩、が最も肝心なのだよ。 自郡至女王國、萬二千餘里。
平壌-釜山 520km (狗邪韓国7000里・・・740m/里)
釜山-唐津 209km (渡る三海3000里・・・700m/里)
唐津-熊本市 155km(邪馬台国2000里・・・770m/里)
唐津-鹿児島 322km
唐津-宮崎市 336km
唐津-徳島市 536km
唐津-桜井市 716km 熊本では遠すぎる。
やはり熊本は狗奴国で、邪馬台国は福岡県だ。 >ワニ+1部族は、八上姫に従っていなかった
ふむ・・・戸明神社・・・天手力・天児屋根・・・ですかなあ・・・
天岩戸をこじあけて・・・ほんにご苦労なことですえ・・・ >>799
魏志倭人伝の記述から卑弥呼が伊都国にいて
邪馬壹國は北部九州に在ったことは間違いないが
その範囲はよく分からないな
熊本付近までが邪馬壹國の範囲内とするか熊本を狗奴国とするか
どの道、鹿児島、宮崎は狗奴国側だな。 畿内説のスレに書かれていたが、熊本は3世紀前半までは博多湾側と文化的に分断されているらしいから、やはり熊本は狗奴国だろう。
魏志倭人伝の記事も、邪馬台国側に大野城、基肄城があり、狗奴国側に菊池城があると読める。
これらは古代の三大城址なので、それが倭国大乱に起源を持つことになる。 到る○○国の前には、○乍ら△乍らが入る。「到る」狗邪韓国がそうだ。
「到る」伊都国の前にも、○乍ら△乍らが入る。
この場合は、唐津平野から(南して東して)500里で伊都国に「到る」という書き方だ。 >>802
三城とも、6-7世紀ころの朝鮮式山城だろ。
二世紀の倭国大乱や、三世紀の倭人伝とは程遠い存在。 白村江の戦いで新羅と唐の連合軍に制服されて
九州各地の城塞が半島式になったのである 久々知城について、いわゆる「改修」以前のことはまったく不明 標高300〜400mの急峻な立地がものを言ったので、
改修したからといって、直ちに「朝鮮式山城【ちょうせんしきやまじろ】」になるわけではない。
>663年の白村江(はくそんこう)の敗戦後,朝鮮からの来襲をおそれた日本政権が国土防衛のため築造した山城。
>北九州から瀬戸内海沿岸の重要地点に,亡命百済人の指導で朝鮮様式に築かれた。
>筑紫国大野城・基肄(きい)城,対馬島金田城・讃岐国屋島城・大和国高安城などがある。
>多くは標高300〜400mの急峻な地形にある。稜線に沿って石塁または土塁を築き,>城内に倉庫群があり,谷間に渓流が流れるか泉があるのが特徴。 城の造り方が悪かったから百済は滅亡しちゃったんじゃないかなw 城の造り〜『松傾』・・・聖造の話?
建築とか城などの話ではない、
と言ってる人がいたよ、何なんだと思う 誰々の下で働いている〜〜、
そう思い込んでいるだけとかw 『松傾』・・・・が、
そこの家の何やらだと書いてあったりしない? 〜造る(作る)人々がいて・・・・
『松傾』が祭祀関係、みたいな事を言ってる人がいたり なぜか「>>さいきば、さいきば」
という謎のレスをしてきた人がいたりw
さかきばら(事件)・・・みたいな意味? 祭祀、斎祀?
数年前の畿内スレだったかな、
読んでいた人なら知っているはずなんだけどw
「さいきば、さいきば」
このような謎の書き込み(レス)をしている人がいたり、
さかきばら事件?みたいな事を言いたいのかな 実際に家も・・・・、
セメント?そういうところで仕事をしていた家ではないし
最近の話? それか・・・・同じ名前の家?なんだけど、
他の人物の話とか
家は山の上のほうに住んでいて・・・という話だし、
日本昔話みたいな・・・w 『日本昔話 姥清水』〜
このような事を言っているでしょ
『五穀豊穣』『身を清め』
??????????????? イザナギ、イザナミ・・・桃の話も出てくるでしょ、
『神仙界』
本当に????????????????みたいな話 『牛郎織女』
日本の神話と、本当に同じような話が出てきたり
『松傾』? 『狂った桃源郷』関係の話(曲)、
真のまがいもの〜と言っていたり、どういう事なんだろう
何かが入れ替わっている? 老婆も・・・、
むかーし泥棒のようなモノに入られたみたいな話をしていたり
とあるスレでも
「殺そうとしたんでしょ」
「殺したんでそ」という書き込みとか
『松傾』を殺した、
殺そうとしたみたいな話?何なんだろう 老婆談というのも・・・、
ほとんど『松傾』の家の話
それとも『松傾』の親戚の話?
蚕を飼い、機織りなんかをしていた家で・・・、
泥棒のようなものに入られ〜
ねつ造、嘘の話? 大野城、基肄城、水城は、大宰府を囲む大宰府羅城の一部であることがわかってきた。
山城だという定義そのものを改めなくてはいけないかもしれない。 斎祀=アッシュ・・・・?
ポケモソの主人公の英語名じゃなかった? >>826
朝鮮式山城って高句麗のは有名だけど
百済や新羅も同じ様な山城があるのかな。 シンクロ現象?何なんだろう
wikiで良いから読んでみて『アッシュ・クリムゾン』
ほとんど合致しているような気がしたり 扶余羅城は平壌羅城と共に朝鮮半島で最古の羅城跡に挙げられる。
百済が熊津(ウンジン)(現在の公州)から泗ビに首都を移した538年前後に積んだ外郭城で、今年まで計4回の発掘調査を経て実体があらわれた。
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/26088.html
より
これまで日本には、都市を長大な城壁で囲む羅城は知られていなかったが、近年では大宰府羅城が知られている。
百済の王都と同じく、倭の王都も羅城を持っていたことになる。 https://www.isan-no-sekai.jp/feature/201711_08
大野城の南裾には九州を統括した官衙かんが大宰府(特別史跡大宰府跡)があり、その6キロメートルほど南には基肄城きいじょう(特別史跡基肄城跡)がある。
北西裾には山続きで水城(特別史跡水城跡)が長さ1.2キロメートルの土築の城壁となり福岡平野と筑後平野をつなぐ太宰府地狭帯の北側を塞いでいる。
この地狭帯の南側の口にあたる基肄城南東裾では水城と類似した構造を持つ関屋土塁があったが、
近年、筑紫野市前畑遺跡で古代の特徴を持つ土塁が丘陵上で発見され、
北に大野城をいただく構図で全周約50キロメートル規模の「大宰府羅城」とされる、都市大宰府の外郭が構えられた蓋然性が高いことが指摘されている。
この形状は滅亡した百済の最後の首都であった泗さびと同様であり、大野城や基肄城のみならず羅城プラン全体が百済式の都城の系譜をひくものとして注目され、
そのことは大宰府そのものが東アジアの時代の潮流の中で生まれたことを物語っている。 九州上陸から二千里(短里)、帯方郡から一万二千里の倭国の王都。
それが大宰府。 740年に藤原広嗣が大宰府で挙兵したが、
城郭が特に役に立ってるふうでもない 都は平城京に遷都されたから、荒れていたんだろう。
それでも、挙兵にあたり拠点にするくらいには権威があったわけだ。
平家も大宰府を目指して征西したんだろうな。 国が滅んで無職になった口八丁百済人が
倭国内での地位確保のために実戦では役にも立たない城郭造りを上申したんだろう
肝心の海岸線が元寇が来るまで無防備だから
どっちかというとヤマト王権が中央集権化を進めるのに役に立ったじゃないか 唐は結局、半島・列島の主要国をすべて滅ぼしてしまう。
都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に設置した統治制度である。
百済には熊津都督府
倭には筑紫都督符
新羅には鶏林州都督府
高句麗には安東都護府 滅亡前の百済もサビ羅城を建設していたのだから、実際には白村江より前に大宰府羅城は建設していただろうね。
白村江の後にはもう唐からのGHQもどきが都督府に駐留しているわけだし、それから羅城を建設する意味がない。 荒れるもなにも、太宰府には古代の都と呼べるレベルの痕跡はないし 大宰府は遠の朝廷(とおのみかど)だよ。
古の倭国の王都ということだ。 大宰府の前はもっと博多湾に近い伊都が王都だったのだろうね。
その前は早良が王都だったのだろう。 遠の朝廷
都から遠く離れた地方にある政庁。陸奥?(むつ)?の鎮守府や諸国の国衙?(こくが)?などをさす。
万葉集では大宰府や官家(朝鮮半島南部に置いた官府)についてもこの名称を使っている。 唐は結局、新羅以外の半島・列島の主要国をすべて滅ぼしてしまう。
都督府制度は唐が周辺の国々を征伐した後、征服した国に設置した統治制度である。
百済には熊津都督府
倭には筑紫都督符
高句麗には安東都護府
被制服地にはこれらがおかれた
なお形だけ服属した新羅には、鶏林州都督府が書類上設置されている
大和は九州倭国の政治的権限を何一つとして継承していない 問題は、いつの時点で伊都から大宰府に遷都したかだが、個人的には狗奴国を統合した壹與の時代ではないかと思う。
だから魏志倭人伝の時点ではすでに倭の王都まで一万二千里で良くなっていたが、中国側に詳細な情報が来ていなかったのだろう。
だから、伊都国までは一万五百里で終わってしまう。 比恵遺跡で6世紀後半から7世紀後半の時期の
多数の倉庫跡が発見されてるから現在の大宰府に移ったのはその後だろ 朝鮮式山城があるから九州北部は百済人の国家って言ってるアホって横須賀はフランス人建築家による建造物が非常に多いからフランス人の国家だったとか言うのかな? つか、朝鮮式山城と神籠石って、記録の有無以外の違いはないんだよな 屯倉が防衛ラインの外にあったら全部取られちゃうだろ >>853
どこにそんな記録があるんだって何度言えば証拠を見せてくれるんだよウソツキw 九州北部のあちこちに屯倉があったんだよ。
その頃は、大宰府が攻め込まれる危機が訪れるとは考えていなかっただろうけど。
あと、大宰府に来たのは唐人と百済人だよ。 >>858
>今の大宰府には7世紀以前の遺構はない
白村江の敗戦以降だろう。 @阿波 大宰府を囲む羅城の一部である水城の炭素年代測定は、240年、430年、660年となっている。
最初の建造は卑弥呼の時代、最後は白村江の直前となる。 水城に使用した加工痕が多数ある転用材の木樋の年代だろ
いいかげん覚えろ爺 >>838
>新羅には鶏林州都督府
唐は新羅を滅ぼしてないけど都督府が置かれてるね
倭も滅ぼされてはいないよ。 日本名の大宰は周礼では百官の長だから都督府は唐名なんだよ 白村江敗戦後に防御し易い今の地に大宰府を建造して屯倉を移したんだな >>862
新羅の場合は新羅王が都督に冊封された。
しかし、倭の場合は倭王が都督に任じられていない。 >>862
>唐は新羅を滅ぼしてないけど都督府が置かれてるね
>倭も滅ぼされてはいないよ。
形だけ服属した新羅には、鶏林州都督府が書類上設置されている
百済には熊津都督府
倭には筑紫都督符
高句麗には安東都護府
他の被制服地にはこれらがおかれた >>870
これ
ビビって唐風の名前をつけて阿っただけ
そもそも唐軍も新羅軍も海を渡った記録がない=筑紫島には来ていない 九州王朝脳にかかれば水戸黄門も中国人か中国の官位を受けた人になるんだろうな 郭務悰は大宰府まで手土産持ってちょっと様子を見に来ただけだな
劉徳高が正式な使者 ということで、白村江の後は、もはや戦ってどうこうする段階ではなく、敗戦処理の段階。
カクムソウは何度か来訪し、抑留されていた捕虜の返還をしたりしている。 百済の戦後処理だろ
劉徳高が来日したときは高句麗と交戦中で
郭務悰が捕虜返還に来たときは新羅と交戦中で唐軍が負けてるし 捕虜返還は立派な戦後処理だろ。
唐側の事情の有無は知ったことではない。 伊都国と関連の深い三雲南小路遺跡と細石神社、そして神社が保管していたという金印「漢委奴国王」に関しての話題を始めたい。 高祖神社とゆかりのある細石神社が消失し、再建も叶わぬまま没落してしまったのは何故なのか? ここは邪馬台国のスレです。
大宰府のスレでも白村江のスレでも細石神社のスレでもありません。 >>882
白村江は専スレもあるからスレチ認定でも良いが、大宰府は邪馬台国の外交機関という側面を否定できないし、細石神社の御神体と思われる三雲南小路の王墓跡は伊都国の案件 >>882
ここは邪馬台国のスレじゃなく(伊都国を王都と考えた)邪馬壹國のスレな 九州上陸から二千里(短里)、帯方郡から一万二千里の倭国の王都。
それが大宰府。 >>886
うめぇよな
対して櫛田神社の松ケ枝餅はクソまじぃ 倭人伝の行程記事の
従郡至倭、循海岸水行歴韓国、乍南乍東、到、其北岸狗邪韓国
この「到」狗邪韓国の前には、「○乍ら(途中右折の)△乍ら」が入っている。
しかし上陸後の第一歩を、北東の糸島平原へ向かえば、険しいけれど一本道で右折左折はない。
ここを、前例に倣って(省略せず、正しく)読むならば、
東南陸行して、○乍ら、途中折れて、△乍ら、「到伊都国」となる。
つまり、唐津平野から松浦川沿いに(南して、途中多久で右折の、東して)、
東南陸行500里で(佐賀川上の)伊都国に到る、という書き方だ。 >>881
個人的に気になるのは、神社の境内(社殿の後方70m)の土を土塀の材料にと掘り出してること
三苫清四郎はキチガイだったのか? 細石神社(佐々禮石社)の来歴
建武中元2年(57年) 漢光武帝が金印を下賜
紀元前1世紀頃 三雲南小路遺跡築造
王墓前の祭祀施設が後の細石神社の可能性あり
高祖神社との由縁あり
元慶元年(877年) 三代実録に高磯ひめ神に従五位下を授けるとあり
天正年間(1573〜1586年) 戦火により焼失
天正15年(1587年) 太閤検地により神田没収、筑前の石高に組み込まれる
寛永年間(1624〜1645年)末 村長の大原金左衛門が流鏑馬を実施するも再興叶わず
元禄8年(1695年) 細石神社御縁起
元禄16年(1703年) 筑前国風土記にて佐々禮石社の実在が確認
天明4年(1784年) 百姓の甚兵衛が志賀島から金印を発見
文政5年(1822年) 三苫清四郎が三雲南小路遺跡を発見
文政12年(1829年) 氏子が手水舎を奉納(現存)
明治5年(1872年) 村社
大正12年(1923年) 幣帛供進社 >>891
何度も断絶してるんじゃないか?
天正年間に消失しても再建できなかったって時点でほとんど力がなかったってことだろ
寛永年間に流鏑馬したのは神社再興すれば神田に戻って年貢逃れできるとの目論みだったけど頓挫
元禄16年には実在してたようだが、その8年前の御縁起は細石神社と名称の混乱が見える
文政12年に奉納されたツクバイは三雲南小路遺跡の発見で、ここに神社があった記憶が蘇り再建したと取るのが自然な気がする 秀吉も黒田氏も細石神社を日本の歴史とは関係ないと判断したんだろう >>894
>秀吉も黒田氏も細石神社を日本の歴史とは関係ないと判断したんだろう
一方、徳川幕府は阿波が天皇陵と関係があると判断していたがね。 @阿波 土佐(後に阿波)に流された土御門天皇の墓のことじゃね? 【徳島市大原町千代ヶ丸山 観音山古墳は、反正天皇の御陵跡であった】
元禄年間に徳川幕府から「阿波淡路右両国之内、古代之天子葬之場所有之由ニ候云々」として阿波で古代天皇の埋葬が行われた痕跡を徳島藩に調査させている。
元禄十四年四月二十四日(同日)、勝浦郡大原村千代ヶ丸の観音山古墳を徳島藩普請奉行 猪子理五郎等が掘り出した時の記録も残っている。
『(元禄)同十年十一月十九日、土屋相模守殿、御留守居呼出左之書付御渡、 覺 阿波淡路右兩國之内、古代之、
天子葬之場所有之由に候、淡路國三原郡有之旨に候、場所吟味有之候䔡其所に矢奈等被申付、雑人不入込候様可被申付候(中略… )
同十四年四月廿四日、勝浦郡大原村千代ヶ丸觀音山へ、普請奉行猪子理五郎、森脇彌五兵衛罷越、石之櫃堀出し申處に、内に右左品々有之、
一、石櫃長九尺八寸、深貮尺九寸、幅三尺餘、切ふさ貮枚、むぎ合に仕、内樋有之、
一、しやれかうべ貮つ、長サあぎとまで壹尺四寸、丸サ三尺七寸廻り、兩眼の間三寸、
一、上下の齒長さ八分、左奥齒より右之奥齒まで壹尺四寸、兩方の耳幅長さ壹尺五分、
一、今一つかうべの儀は不分明
一、刀一腰長さ六尺八寸、幅貮寸五分、
一、釼二振有之内一振は長五尺五分、幅三寸五分、今一振は長壹尺五寸、幅三寸五分、
一、鉾一、長さ貮尺は丶七寸、石突八寸、
一、矢根廿五本有之、長壹尺貮寸、幅三寸、
一、からうとの内かうや貮つに書付添、
右之通 以上』
「古代天子葬之場所有之由の候… 」 この記述から、徳川幕府は阿波国に古代天皇陵が存在することを知っていたことになる。
反正天皇は「古事記」に「御身の長(たけ)九尺ニ寸半、御歯の長さ一寸、広さニ分、上下等し斉(ととの)ひ、既に珠を貫けるが如くなりき。」
と記録されているが、こちらの記録と千代ヶ丸 観音山古墳の埋葬者の身体サイズときちんと一致している。
徳島市は大原町千代ヶ丸。この千代ヶ丸山 観音山古墳は、実は反正天皇の御陵跡であったのである。 @阿波 >>899
>宮内庁が参考地に指定してないから結局違ったんだな
指定したら大変な事になるでしょ。 今までの諸常識が崩壊するから。 @阿波 なんでも鑑定団に持ってきたら千円の壺だったみたいなことだな 二年くらい前の確か秋くらいな記憶あるけど
TVで四国説みて作品のネタにしようかなと思って四国スレに質問書き込んでたけど
こっちの伊都国スレのレベルの高さにビビって取りやめた思い出 >>904
武器時計力が全ての時代だったからな
ぶっちゃけ相当に怖かったと思うw 中立的な立場から、邪馬壹国九州説の人に質問がある
倭国大乱によって邪馬壹国を中心とする倭国連合が北九州に成立したとして、考古学的にはほぼ同時期に大和の地に一大勢力が形成されているのは事実
また大和の勢力形成に吉備(つまり東部瀬戸内勢力)まで関わったいるのもほぼ確実(弧文円板や特殊器台から)
九州説の立場からすると、倭国大乱による北九州の倭国連合の形成と、吉備が関わった大和勢力の形成は、ある程度関連したものと見ているのか、それともほぼ無関係の動きと考えているのか
もう一つ
卑弥呼の死後に倭国が乱れたとあるが、この倭国が乱れた原因は、これもあくまでも九州内での争乱と見ているのか、それとも大和勢力が関連していると考えるのか 邪馬壹国という名前を使うのは古田氏とその支持者だけなので、ほぼ九州王朝説の人だよな
九州王朝説では壬申の乱までが九州王朝で、壬申の乱によってヤマトに交替したとか言ってるから、それ以前の記録は基本的に九州の出来事を記してると認定してるんじゃなかったかな
このあたりの与太話を言いだしたあたりになると古田氏の説ってgdgdだった気がする、すでに馬脚を現しきってたのではないかと >>907
>考古学的にはほぼ同時期に大和の地に一大勢力が形成されているのは事実
これは願望が先に出て目が曇ってますよ見直しが必要でしょうね。
>それともほぼ無関係の動きと考えているのか
当然です。 >>907
>九州説の立場からすると、倭国大乱による北九州の倭国連合の形成と、吉備が関わった大和勢力の形成は、ある程度関連したものと見ているのか、それともほぼ無関係の動きと考えているのか
九州の騒乱で失脚した天孫族の東征が、本州の西日本にも影響した可能性はある。
>卑弥呼の死後に倭国が乱れたとあるが、この倭国が乱れた原因は、これもあくまでも九州内での争乱と見ているのか、それとも大和勢力が関連していると考えるのか
おそらく関係しない。
ちなみに上のレスとは別人です。 >>909
>これは願望が先に出て目が曇ってますよ
いや、纒向石塚古墳が造られたのは遅く見積もっても3世紀前半になるが 九州王朝説は、フルタのニッチねらい、与太話。
いまさら、言うほどのことではない。 ろくな根拠も示さずに理化学年代を全否定するデムパ集団だしな、与太話としてしか通用しないのが現状。傾聴に値する話はほとんど無くなった。 >>911
今どき巻向どうのって言ってるのは関西の自称研究者だけだぞ。みっともない。 >>913
そもそも理化学的に畿内説を説明できてるやつを見たことがない >>910
なるほど
確かに、纒向型前方後円墳の前身の可能性もある吉備の楯築墳丘墓も、実は吉備であれほどの規模の墳丘墓が形成されるのは唐突だったりするからな
そう考えると、北九州の争乱を逃れた何らかの勢力が吉備→大和と東征したと考えるのには一定の説得力はある そもそも邪馬台国畿内説などと言う学説は存在しない
卑弥呼が居た三世紀半ばは、西日本は出雲や吉備や近畿などいくつかの豪族が割拠して
緩やかに連合している状態であり、
どの勢力も他を軍事的に統括することは出来ずにいた。
これは古代日本史の完全な常識であり、異を唱えるものなど居ない。
しかるに、邪馬台国の命令で奴国などの北部九州を軍事的に統括していた伊都国は北部九州にある。
つまり、近畿に邪馬台国があったと主張することは、近畿は自分の周辺を軍事的に統括することが出来ずにいるのに
中国地方をすっ飛ばして北部九州は軍事的に統括することが出来たと主張することになる。
このような説はバカが言う説であり、もはや学問の体をなしていない。
邪馬台国畿内説は検証を加える以前に、立論の段階で失敗してしまっており、学説として成立していない。
邪馬台国畿内説は、在大阪朝鮮人による民族的願望から発生したファンタジー 邪馬台国畿内説などというものは平然とデータの改竄を行うことを前提としたトンデモ説であり、学説と呼ぶのが痴がましい下劣ものであります。
大前提として魏志倭人伝には「南、邪馬壹国に至る」とあるわけですが、この大前提を無視して「東、邪馬台国に至る」と、方向も国名も好き勝手に改竄するところからスタートしているのが邪馬台国畿内説なのであります。
これと同じような下劣な行いを理系の研究論文で行おうものなら、立ちどころにレッドカード(退場)となることはお分かりいただけるでしょう。
それ以前に、論文掲載を拒否され、二度と学者としての振る舞うことは許されなくなることでしょう。
この一点だけでも、邪馬台国畿内説は研究不正の所産であり、学説(学問的仮説・学問的態度)に値しないことは明白なのであります。 纒向の「ま」の字を見たとたんに、ヒステリーになったのかしょうむない煽りをする人がいたのは非常に残念だったが、九州説の人から別勢力の東征説を聞き出せたのは良かったよ
魏志や後漢書から分かる倭国大乱の時期は2世紀後半なので、邪馬台国と別の東征勢力が九州から逃れて吉備→大和と拠点を移したとしても楯築墳丘墓や纒向型前方後円墳の年代比定に大きな矛盾は無い 箸墓古墳を卑弥呼の墓と想定するのは無理がある。
魏書に於いては一貫して短里が用いられているのだから、1里=300歩、100歩は25.3m、百余歩は30m程度ということになる。
箸墓古墳は、墳長が約278m、後円部の直径が約150mであり、百余歩よりも桁違いに大きい。
畿内説信者は苦し紛れに「当初は円墳として築造され、前方は後年増築された」と言い出したが、桜井市教育委員会の橋本輝彦氏らによって完全に否定されている。
また三国志に於いては「塚」と「墳」が明確に区別されていたことに留意せねばならない。
諸葛亮伝の「山に因りて墳を為し、冢は棺を容るるに足る」や、大君公侯の墓が「墳」であったという記述からも高さのある人工の大きな墓を「墳」と呼び、棺を入れるのに十分な程度の高さしかない墓を「塚」と区別していた。
周礼には「漢律に曰く、列侯の墳は高さ四丈、関内侯以下庶民に至るまで各々差あり」とあり、高さが四丈もあれば、墳として扱われていたことになる。
一丈の長さは時代によって2-3mの間で変化するが、8-12mを超えれば間違いなく墳である。
箸墓古墳は高さ30mもあるので、魏使が見たら「大いに塚を作る」ではなく「大いに墳を作る」と書いていなければ辻褄が合わない。 >>919
続き
畿内説は纒向遺跡形成に関わった勢力の広範囲性(吉備の影響が強く、出雲や伊勢東海圏も関与)を根拠にして、当たり前のように筑紫・吉備・出雲・東海を含んだ大規模連合が形成されたかのように言うが、実は肝心の筑紫が纒向形成に関与していたという根拠が希薄なんだよね
つまり、伊都国や奴国が当時において大和連合に加わっていた証拠が無い
大和連合が広範囲"にも関わらず"筑紫勢力の関与が薄いことは、邪馬台国=畿内説最大の弱点なんだよね
北九州の亡命勢力が吉備に迎え入れられて、さらに東征して大和に本拠を移したという可能性は、記紀の東征神話(史実を反映している可能性はある)や弥生後期までの北九州の他地域に対する政治的・文化的優位性からはあり得ない話ではない
何も纒向遺跡の考古学的年代比定を頭ごなしに否定せずとも、邪馬台国(邪馬壹国)=九州説が崩壊するものではないし、まだまだある程度の理はあると思うけどね 実在しない短里を、あたかも事実であるかのように強弁するのも九州王朝信者の病弊の1つ。 九州王朝説は、フルタのニッチねらいの与太話。
もう、消え失せたたおとぎ話さ。 全く証拠を出さなくなった九州説が学説として終わってる、という現実を思い知らされるスレ >>922
アホなのか?短里認めないと沖縄方面行っちゃうぞ A: 曰卑彌呼 宣帝之平公孫氏也 其女王遣使至帶方
B: 自称大夫 倭国之極南界也 光武賜以印綬
上のABは同じ構文であるが、「之」があるので、
Aでは、平を「・・を平らぐる」と他動詞読みすること明らか。・・・宣帝、これ公孫氏を平らぐる也
Bにおいても、極は「・・を極むる」と他動詞読みすること当然である。・・・倭国、これ南界を極むる也
つまり、「奴国は、倭の極南界であった」などとはワラワラ で、南界を極むる、と、極南界であった、とどう違うの? >>921
理解してくれてありがとう。
卑弥呼が記紀に登場しない理由も説明できるし、在位年数から考えて神武が卑弥呼に近い年代でもいいことになる。 >>927
おんや、ちがいがお分かりになりませぬか。
こりゃ、重症ですな。 「倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」 一大卒が北九州にいたなら、首都は北九州から離れた場所なのでは? >>925
記事がすべて正しいと想定するから海の果てに到着しちゃうだけだ
実際には記事内に多くの間違いが含まれているから問題ない。記事の本文では到着不可能で所在地を探し当てることができないと、いい加減に認めるべき >>936
魏志倭人伝の話をしてるところに虫ケラどもの民族願望を挟み込むな無能ヒトモドキ いや、民族願望はお前さんだろ
戦闘民族・北九州人? 魏志倭人伝や記紀を読めば、当時の倭人は戦闘民族のように思えるよ。
ユートピアお花畑の奈良盆地はただのど田舎。 >>938
魏志倭人伝の話をしてるところに虫ケラどもの民族願望を挟み込むな無能ヒトモドキ(本日二度目) 倭奴国が貢を奉り朝賀した。使者は自ら大夫と称した。倭国これ南界を極むる。光武帝は印綬を賜った。 >>939 どこが戦闘民族なん? むしろ平和民族だけど?
三国志 魏書三十 東夷伝 韓伝(主に馬韓=後の百済)
其衣有上無下 略如裸勢
上着だけ身にまとい下半身は丸出しで裸同然。←土人の証拠
其俗好衣帽 下戸詣郡朝謁皆假衣帽 自服印綬衣帽千有餘人
衣頭巾を好み、朝謁にあたって帯方郡から借りるも、印綬や衣頭巾を自作する者1,000人以上。←パクりの起源
其俗少綱紀 國邑雖有主帥 邑落雑居不能善相制御 不知乗牛馬 牛馬盡 於送死
規律が少なく、統治者はいるが法はないので統率が取れない。 牛馬に乗ることも出来ず、死ぬまで酷使する。←無法地帯の証拠
居處作草屋土室 形如家 其戸在上擧家共在中 無長幼男女之別 其葬有棺無槨.
入り口が上にある塚を掘っただけの家とは言えない穴に草の蓋をしただけの住居に老若男女入り乱れて住む。 埋葬は棺がなく地面の槨に収める。←未開の証拠
其遠處直如囚徒奴婢相聚 無他珍寶 禽獸草木略與中國同
囚人や奴隷のごとく礼俗をわきまえない。 また宝と言えるものが一切ない。 なお動植物は中国と同じ。←奴隷根性の証拠
三国志 魏書三十 東夷伝 倭人条
男子皆露? 以木緜頭 其衣幅 但結束相連 略無縫
男子は皆髷をし、木綿布を頭に巻いている。 衣服は幅広い布を結び合わおり、縫われていない。←髪の服もきちんとしてる証拠
婦人被髪屈 作衣如單被 穿其中央 貫頭衣之
婦人は髪に被り物をし、後ろで束ねており、衣服は単衣のように作られた貫頭衣である。←女でも髪の服もきちんとしてる証拠
不?忌 不盗竊 少諍訟 其犯法 輕者没其妻子 重者滅其門戸及宗族
盗みはなく争いもない。 法を犯すと軽いものは妻子を没収し、重い者は家族を皆殺しにする。←法治国家の証拠
有屋室 父母兄弟臥息異處 其死 有棺無槨 封土作冢
家には部屋があり、家族の寝室が別にある。 人が死ぬと槨のない塚に棺を納める。←高文化の証拠
其風俗不淫 婦人不淫
その風俗は淫らではない。 女は慎み深く嫉妬しない。←高民度の証拠 魏志倭人伝の、倭国の風土関連記事は儒教経典(経書)を元にした創作譚が過半を占めてるから実録じゃない ゞ:.y.ノゞ ; ;y.ノゞ; ;ゞ ;" "ゞ; ; y.ノゞ;;ヾ ;ゞ y.ノゞ ;;;; "ゞ;ヾ;
ゞ:.y.ノゞy.ノゞヾ ; ;ゞy.ノゞ; ; ; ゞ゛;ゞ:ノゞ ; ;ヾ ゞ ;" "ゞ; ゞ゛;
:ゞ:.y.ノゞ ; ;ヾ ; ;:_/ゞ ;" "y.ノゞ; ; ; ゞ゛;ゞ.ノゞ ; ;ヾ ; ;ゞ"ゞ;
"ゞ ; ;";;;;""ゞヾy.ノゞ_;/"ゞ ; ;"/" ヾ ;ゞ ;" "ゞ ; ; ;
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/'´`i´ `ヽ| ` `
: !リ`´リ从:| ` ` `
:!!-ω-ノリ:|
;;;....;;::;...;;ii:| _ 春ねぇ〜またチョンコが花粉と共に
::;...;;:..;i...iii:| ' ´ ,、 `ヽ ソメイヨシノの嘘をつきまくる季節だわ。
:..; <⌒ ;ii` i (ノ )))) ) _ ./ん〉 ヾ>、 回/ `´∇
'´  ̄ `ヽi| |! リ゚ ー゚ノi| <⌒8'´ `ヽ ! ,イ(从リソ)〉! i | |(」」i」」)
j (リハ从レ| ノ⊂i(.乂)つ レ'´iノヾヽi) i ノノヾ(リ゚ ー゚ノ l | ノ(G!|゚ o゚ノ!|
iヘ(i゚ ヮ゚ノ`i| (( 〈ハi__i〉)) 从゚ヮ ゚从i ∩∩ (( ( O▼O (i∪ ∪
iii( つ▼とii ,,,,,,.と__)__).. ,,,.,っ[◎]c ⌒⌒; ,...,... と__)__),.....,..と__)__),,,.,
'''''ヽ_つ-つ'''''
,;∧_∧: グギギギギギィィィィィ
<;l|l;`田´>;
(6 9 もうバレてるニダか・・・
ム__〉__〉 >>935、>>942
そうだね
主語は倭の奴国で、・・・南界を極むる、だね >>952
そうか、分割してすまんかった。
それで倭奴国と、倭の奴の国とはどう違うのかい。正直良くわからんのだ。 なるほど
委国が伊都国になって、奴国は博多の那国になったというわけか。良く勉強しておこう。 金印スレからの引用だけど
> 中国史では、王朝と民族は密接に結び付いた概念である。
> とは言えイデオロギー論争はそうであっても、
> 中国の古代の印章のなかに
> 「民族名+国名」の構造をもつ印章実例を一つも見いだし得ない。
> 委奴国王は「委(の)奴国(の)王」ではなく「委奴国(の)王」である。
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1537107301/488 良くわからんな
倭は倭人という民族名でなく、
その後に倭国と出てくるその国名ではないのかな?? 金印に彫られてる「委奴国」のことを倭奴国と言ってるんだよな?
だとしたら一度も実例がないんだから倭の奴国、つまり倭国の中の奴国という解釈はあり得ないので実例通り倭奴国と読もうぜって話でしょ >>959
金印に彫られている文字のことではない
先ほど来、話題にしているのは、下の文章の「倭奴国」のことだけどな
「倭奴国奉貢朝賀、使人自称大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」 >>960
それにしても倭の中の奴国って読むのは筋違いだと思うよ
東夷伝の中にそういう読み方する国が他に一つもないんだから >>961
委奴国、或は倭奴国の名称それ自体はそれでいいんだけど、
その後に出てくる「倭国」とは何者なのか、
それとの整合性もつけなくてはならぬなぁ。この倭国はどこにあって、どの範囲たのかい。 後漢書における邪馬台国までの里程
大倭王は邪馬台国にいる。
楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
その西北界(国境)である狗邪韓國からは七千里である。
倭奴国は倭国の極南界である。 後漢の頃の倭国は対馬海峡と筑前だけだね。
卑弥呼の頃には筑後、肥前は含まれたかもしれない。
肥後は狗奴国かな。 >>967
そういうこと。
「倭奴国は倭国の南界・・・」だから、倭国>倭奴国と読めるんだけどねえ。
そして、
>後漢書における邪馬台国までの里程
>大倭王は邪馬台国にいる
>楽浪郡の国境は、その国(邪馬台国)から一万二千里である。
だから、後漢書時代の倭国はどこにあってどの範囲で、倭奴国とはどんな関係にあったのか?。
(また同様に、三世紀の倭国はどこにあってどの範囲で、倭奴国とはどんな関係にあったのか?) >>948
中国古代思想史および中国古代思想の専門家である渡辺センセの論考
それぞれの要素がどの本のどの文章に由来するかを明示してある
あと、三国時代の思想系譜やら魏晋朝の政治派閥の関係、立ち位置も示してる
三国志は政治的中立ではないとな 三国志は政治とは無縁の陳寿が個人の趣味で完成させたからこそ価値が高いとして正史扱いになったんだろ? >>970
その通り。 三国志は陳寿の私撰であって政治色はない。
自身が蜀出身だったので若干の贔屓は感じられるものの魏書・呉書・蜀書をバランス良く書いてあったので成立の400年後に唐の第二代皇帝 太宗が正史と認定した。
また内容の正確さと密度が高かったため夏侯湛は筆を置いてしまい、夏侯版魏書は未完となった。 陳寿がそもそも派閥抗争の真っ只中にいたし、
陳寿を庇護していた上司は陳寿の学閥の師匠筋の人間を求めて雇用してるっぽく >>972
それだと一般に知られてる>>971の情報と真逆なんだけど、何かそれを裏付けるソースある? 陳寿が招聘された頃、晋では征呉論争があった
貴族の大半が和平派で、陳寿を招聘(というか、晋朝に推挙)した張華のほかでは羊?と杜預ぐらいしか征呉賛成者がいない中で征呉を強行したことで派閥争いになったっぽい
その影響か、張華は敵の多い人だったようだ
少しのち、魏志の記述の一部への反感から陳寿を左遷する動きがあって、青島近辺にあった長広郡の太守としてとばされそうになった際には上記の杜預の推薦で治書侍御史に任命されてるように、
間違いなく派閥人事の影響を受けている。
もちろん、左遷を求めたのは征呉反対派だった人物(荀勗)だ。 >>976
それと>>972の内容は違うんでない? (1)
国内最古のすずり、福岡・佐賀の遺跡で 倭人が製作か
https://www.asahi.com/articles/ASM2M56RLM2MTIPE01H.html
>(紀元前100年ごろ)の石製すずりの未製品など
(2)
サイエンスZERO 「弥生人DNAで迫る日本人の起源」2018年12月23日放映
ー朝鮮半島に渡った縄文人ー
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm
朝鮮半島から渡って来た「渡来人」の正体は「出戻り縄文人」
(3)
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA07_480P.jpg
DNAによると、
福岡の弥生人=現代日本人
長崎の弥生人でも、岩手の弥生人でもなく、福岡の弥生人が現代人のルーツ
当然、畿内大和政権=福岡の弥生人 スレ全く読んでないけど
複数の最新研究>>981により、現代日本人=伊都国や奴国の子孫
仮に邪馬台国時代、畿内に大政権があったとしても、
(1)その政権も福岡の弥生人の東遷
(2)もし福岡の弥生人と違う場合、現代へは子孫を残せていない
2は考えにくいので、1であろう でも九州が卓越してたのは紀元前だけで、1世紀ごろから凋落して他の有力ないくつかの地方と互角にまで持ち込まれてるから、倭国大乱の前の時点でも主役を張れる力はない >>981
俺が想像してたのと殆ど一致してるな
驚いた
投馬国(任那)が滅んで朝鮮半島の倭人が日本に引く上げて来たんだ。 訂正
投馬国(任那)が滅んで朝鮮半島の倭人が日本に引き上げて来たんだ。 >>981、>>986
>(2)
>サイエンスZERO 「弥生人DNAで迫る日本人の起源」2018年12月23日放映
>ー朝鮮半島に渡った縄文人ー
>http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm
>朝鮮半島から渡って来た「渡来人」の正体は「出戻り縄文人」
やはり投馬国は朝鮮半島南岸でよかったでしょ。 >>988
朝鮮人が南下してくる前に倭人の国が朝鮮半島に在ったってことだろ
つまりそこが投馬国であり、後の任那。
任那が滅亡して住んでた倭人が日本に引き上げて来たのが渡来人。 >>989
任那、伽?は当時の狗邪韓国
魏志倭人伝を素直に読めば投馬国は半島に存在し得ない >>983
その場合、神武の東征や、それより先に移っていたニギハヤヒなどは
邪馬台国より前の時代ということか >>991
やっぱこれだよな。
当時は多数の倭人が半島にいた訳だし、新羅=倭種と考えれば大量の移民を受け入れた理由も十分に理解できる。 >>993
そりゃ、万世一系・近畿王国の発想だ。
当時の人たちからすれば、どっちが本国だったか、分からない状態。 後漢書や魏志倭人伝からは、九州北部の倭奴国が本国に読める。 福岡付近から倭人が全国に拡散したとすると、その時期は何時か?
朝鮮半島の倭人が九州に引き上げて来た後の時代となる
任那の滅亡は日本書紀によると663年であるが
中国資料では525年前後には既に存在していない
478年に宋朝の順帝は、倭王武に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王」の号を授けた
実際には500年頃に任那は滅亡していた可能性が高く
朝鮮半島の倭人が九州に引き上げて来て現在の日本人が完成したのがこの頃で
神武の東征もこの直後だと推定される。 後漢書や魏志倭人伝を書いた人の本国は中国で、
博多那の津は「奴国=奴婢の国」扱いだった。 弥生時代以降、数次にわたり波状的に別の氏族が福岡を起点に拡散したんだろう。
また、次々に新しい氏族が博多湾に流入した形跡もある。
倭国大乱も含め、激しい政争の中心地であり続けたのだろう。 遺跡の人骨の特性の研究が進むと何時現代日本人が九州から拡散したか究明されるな
多分6世紀だな。 このスレッドは1000を超えました。
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