邪馬台国=福岡説 PART6
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◆シン日本神代古代史◆
「高天原=邪馬台国=福岡」説の初論者(おそらく)は、益田謙三『赤裸々の神代』(大正8年)
・高天原=邪馬台国=福岡
・天照大神の生誕地は筑紫の日向
・天照大神=卑弥呼+台与
古墳時代(宋書倭国伝)は朝鮮半島の事を、日本書紀(神代上)では沖ノ島の事を「海の北」と記している。
これは、天孫族が九州北部にいた頃の名残である。
沖ノ島・大島・宗像の三女神は、天照大神の命令で天孫を助ける為に、天降った。
↓↓↓↓↓↓
・天孫(族)降臨地=対馬国・壱岐国・伊都国
天孫(族)ニニギ命=邪馬台国系の代官一族
ニニギ命の名前=アメ「ニキ」シクニ「ニキ」シアマツ「ヒコヒコ」ホノニ「ニギ」ノ命
邪馬台国から伊都国へ派遣されたの代官名は「爾支ニキ」
対馬国と壱岐国の代官名は「卑狗ヒコ」
日向三代は邪馬台国の代官の系統なので、独立した存在とは言えないから、天皇とは認定されなかった。
神武天孫族が畿内に独立国を成立させた。
その後継が、高天原=邪馬台国と勢力争いになった。
そして十代崇神天皇の御代に、かつて祖先が属していたた高天原=邪馬台国を制圧してしまった。
欠史八代は天孫族と高天原=邪馬台国との争いの歴史なので、古事記・日本書記の記述はカットされた。
・・・なので、天照大神=卑弥呼・台与に祟られる事となった。
崇神天皇は祟りを鎮める為に、
ニニギが台与から授かった、ヤタの鏡を地元神と一緒に宮中で祀ったが、祟りが収まらないので場所を替えて祀った。
そして後に、ヤタの鏡は倭姫に託された。
それが、伊勢の神宮の由来である。 >>1
九州説の核心「伊都説」
邪馬台国ファン、卑弥呼ラブのあなた
ゴールデンウイークに時間があったら、いかが?
邪馬台国の歩き方(女王之所都=伊都國)2
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1615458138/l50
邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part16
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1601445951/l50
ユーチューブのゆっくり動画でトンカラリンさんが邪馬台国1〜5の5回シリーズで詳しく説明してますよ。
トンカラリン 邪馬台国 で検索すると見つかるよ >>1000
>女王國は後漢書にも記載されているのだが、
>大率については、後漢代の女王國によって設置されているにも関わらず、
>後漢書には記載されず、魏志倭人伝に詳述されていることから、
これは真実だろうか?
大率の率と帥は意味も読みも同じだという。
実は倭王帥升が大率なのではないだろうか。
帥升は洛陽まで詣でているが、戦乱期の倭王が自国を長期不在にするとは考えにくい。
しかしもともと諸国を検察する役割の大率ならば、洛陽まで足を伸ばすことも不可能ではなかったかもしれない。
漢は倭国の詳しい事情を知らないから、帥升つまり率を王と勘違いしたわけだ。
そう考えると、帥升から大率、太宰の帥は一貫して同じ制度だと考えることができる。 平原遺跡の鏡の続き。
西日本各地の大型内行花文鏡のうち、後漢鏡とともに見つかった平原遺跡の鏡がおそらくは最も古く、その後のお手本となったのだろう。
興味深いことに、その後のどの鏡も、平原遺跡の円周8咫を超える大きさのものはない。
その理由について踏み込んだ推察をするならば、八咫の鏡を超える大きさの鏡を作ることは憚られたのだろう。 >>5
なるほど。
王は別にいて、大率は外務大臣のようなものか。
あるいは弥生時代の軍は基本的に水軍なので、水軍大将でもある大率は、
日本史における将軍のようなものであり、
倭国自体が、大率(=日本史における将軍)が建てた、軍事政権であった可能性もあるな。
だとすれば符合するのは、
吉武遺跡では大王=木棺墓、戦士階級=甕棺墓だったのに、三雲井原王墓は甕棺墓である点。
伊都説者によると糸島伊都=筑紫日向であるが、日向三代は天皇でない点。
ニニギとニギハヤヒ(天照国照)
山幸彦と海幸彦
なども腑に落ちてくる。
なれば卑弥呼もそもそもは大率で、元は奴國or不彌國から北方を担当する検察官であった。
それが倭国乱による混乱で刺史のように政務も行うようになり、
卑弥呼が統治する奴國不彌國は女王國として認識されるようになった。
女王國運営の手腕を認められて倭国王として共立されるわけだが、
その場合、「有男弟佐治國」とあるので、
これが女王國時代のことであれば、奴國不彌國を治めるのに弟が兕馬觚か多模か卑奴母離として助けたでいいが、
邪馬台国女王時代のことであれば、弟=大率?=難升米??伊聲耆掖邪狗???となってくる。
難升米は奴国王系と思われ、次の大率の伊聲耆掖邪狗は伊族=天神族系と思われるので、
卑弥呼の正体にも関わってくる。 >>7
>倭国自体が、大率(=日本史における将軍)が建てた、軍事政権であった可能性もあるな。
日向三代の末期の争いに嫌気が差して卑弥呼を共立したわけだから、卑弥呼政権そのものは軍事政権ではないだろう。
しかし、実務として軍事を司る人物は必要なわけで、卑弥呼は象徴のようなもので、君臨すれども統治せずということだったかもしれない。
日向三代が三雲南小路遺跡に始まる伊都国王家だよ(細石神社の祭神は木花佐久夜姫、高祖神社の祭神は彦火火出見)。
とすれば、卑弥呼は伊都国王統ではなく、血縁は近いが別の王統でなければならないだろう。
いわゆる国津神、筑紫の日向の生まれ(伊奘諾の末裔)ではあるけれど、天照の末裔ではない王族達だ。
例えば大山祇、綿津見、住吉の神などだ。
その中で、次代の壹與とクマソタケルがともに佐賀川上に鎮座していたことは注目に値する。
狗奴国王もまた卑弥呼の同胞であったとすれば、卑弥呼自身がもとは肥国女王であったとして矛盾しない。
倭国乱で天孫族が筑紫の日向を離れた後、筑紫(旧倭奴国)と肥国を統合する形で大倭国の女王に共立されたということになる。
筑紫の日向に留まった天孫族(邇邇芸の末裔)が、伊都国の官であった禰宜だろう。 卑弥呼は肥国の山門の出身で、それまでの伊都国王統を継承するために都である伊都に行き、倭国全体を統治したのだろう。
特に敵対的だった伊都より北の国々(狭義の倭国=天津国)には一人の大率を任命して監視した。
しかしそれは卑弥呼が筑紫の王のようになってしまうこととなり、肥後狗奴国の王と肥国の家督争いを招いたのかもしれない。
後に山門は有明海に向かって拡大する筑紫に飲み込まれて筑後となる。
これにより肥国は肥前と肥後に分裂する。
卑弥呼は死後に都の平原遺跡に葬られた。
※もともと筑後は有明海沿岸なので肥国だったが、なんらかの理由で筑紫が併合した。
地理学的には、佐賀平野の河川は筑後川の支流だったが、後世に流路が変更された。
つまり壹與を祭る肥前一宮與止日女神社(旧河上神社)も、熊襲タケルあらため川上タケルも、筑後川の川上にいたことになる。
卑弥呼が肥国(後の筑後)山門の女王なら、肥後熊本つまり狗奴国の王である卑弥弓呼とも旧知の間柄どころか、同族であっただろう。
何より、名前が一文字しか違わない。 【肥国】
倭国は筑紫を中心に、肥国、豊国、海を渡り出雲、越などから構成される連合国家である。
瀬戸内、畿内、東海はまだ開拓の途上であり、関東や東北は蝦夷の地であった。
筑紫の王族は天津神として他の王族である国津神と区別された。
国津神には豊国王家、肥国王家、出雲王家などがあった。
その中でも、免田式土器に代表される阿蘇の東西にまたがる倭人の勢力が、狗奴国や熊襲、肥国であり、年代や立場により呼称が変化したのたろう。
筑紫が博多湾沿岸国家なら、肥国は有明海沿岸国家である。
もともとは有明海沿岸はすべて肥国だったが、筑紫が筑後川流域を吸収して有明海に進出すると、肥国は肥前(佐賀県)と肥後(熊本県)に分断された。
肥国王家の別称が熊襲であり、本貫地は熊本が想定される。
肥前も肥後も筑紫とはやや縁が遠く、その王家は記紀にあまり名前を残していない。
ヤマトタケルに殺された熊襲タケルの墓は肥前川上大願寺にあるという。これは肥国と熊襲は同じだということになる。
ここにある肥前国一宮の河上神社(與止日女神社)の祭神は、壹與に比定できる淀姫である。
ならば肥前佐賀も卑弥呼の領土であったはずであり、南の肥後熊本の狗奴国の王であった卑弥弓呼との対立は家督争いだったのだろう。魏志倭人伝に卑弥弓呼とはもとより不和とある。
卑弥呼、卑弥弓呼、壹與、熊襲タケル、田油津姫らはいずれも肥国王家の人物であり、倭国王となる資格を持っていたが、天皇家につながる筑紫日向の天孫族である伊都国王家との関係は良好ではなかったため、記紀には卑弥呼の名が記載されていないのかもしれない。
熊襲征伐、田油津姫征伐は、倭国の内乱を筑紫の天孫族から見たものであったと考えることができる。 畿内派も九州派もその他の人らも、こっちのスレを使って盛り上がりませんか? 【邪馬台国の終焉】
八咫の鏡を持つ卑弥呼の後継者の一人であり、筑紫の梟帥の称号を持つ神夏磯姫は、外部勢力である忍代別大足彦(景行天皇)とともに耳垂などかつての邪馬台国の官を粛清した。
大足彦の孫の足仲彦(仲哀天皇)が息長帯姫(神功皇后)とともに筑紫香椎宮に入るとき、
伊都高祖宮と筑紫岡田宮の王(五十迹手、熊鰐)が出迎えたが、足仲彦は筑紫香椎宮で急死してしまう。
大足彦は神夏磯姫と共闘していたが、足仲彦の妃の息長帯姫は筑紫を支配していた羽白熊鷲や、神夏磯姫の末裔とされる田油津姫を倒し、朝鮮半島に出兵した。
大足彦に倒された耳垂や息長帯姫に倒された田油津姫はいずれも正史では土蜘蛛と称されており、筑紫は勝てば官軍、負ければ賊軍のような状態であったと考えられる。
田油津姫の宮は銅を産出する香春岳の麓の香春宮であったが、決戦の地に筑後山門を選んだのは、そこが本貫地であり、自身が邪馬台国の女王であるという意識があったかもしれない。
羽白熊鷲の名は息長帯姫側の熊鰐と同類の名前であり、筑紫の王家の一員であったろう。
田油津姫は八咫の鏡を保有していた神夏磯姫の末裔と伝えられており、筑後〜筑豊の女王であったと考えられる。
つまり息長帯姫の土蜘蛛征伐は筑紫倭国の内紛に他ならない。
その中でも、肥前・筑後・筑豊に拠点を持つ邪馬台国の女王の系譜は、卑弥呼、壹與に続く神夏磯姫、田油津姫までで終わりとなる。
足仲彦の急死は息長帯姫と武内宿禰による暗殺であり、その夜に息長帯姫と住吉の神(武内宿禰)の間に密事があったと伝えられている。
息長帯姫は足仲彦に続いて、その后(大中津姫、足仲彦と同じく大足彦の孫で息長帯姫より高貴な身分)の皇子二人を倒し、足仲彦の血筋を根絶やしにして、武内宿禰との間の子である誉田別(応神)を天皇にした。
足仲彦の死から応神の誕生まで十月十日以上かかる理由について、日本書紀は言い訳に腐心している。
天皇の諡号の中に神の文字が入っているのは各王朝の祖先神を表しているという説がある。神武、崇神、応神がそれであり、応神天皇が現在の天皇家の始祖となる。
その宗廟である宇佐神宮は八幡信仰と結びつき、天皇家から伊勢神宮以上の崇敬を集め(宇佐神託事件など)、八幡神社は全国で最多の神社となった。 >九州説の核心「伊都説」
なんだ、鬼道の意味も把握できない伊都チョンの第二スレッドだったのか?(失笑) 天孫降臨の舞台は宮崎高千穂だ
福チョンの妄想は書き込み禁止しろ ごめん1か月だと片道だった
魏志倭人伝の最後の部分をそのまま読むと
往復だから政等は伊都国での滞在は2〜4ヶ月か滞在している
当時は時間距離を埋める手段がない ネットとか郵便とか電話ないでしょ >>14
>伊都説は何人もいるんだよ。
そうか?ものの言い方や思い込み方、決めつけ方まで似通ってくるのか?
気の毒な説だなw 【なんちゃって一級建築士の特徴】
高卒か大学文系卒
親族の工務店で修業
エコ、環境、子育て等のキーワード使用
設計依頼すると家族ぐるみのお付き合いをなどと言われ食事会に招待されキャンセル不可能に持ち込まれる
大きな建築物は経験無し
各地の建築セミナーに足繁く参加してHPに載せる >>17
俺が伊都国説を言い出したころは賛同者は数人だったな
最初は内容も固まってなかったが
纏めた内容がユーチューブのゆっくり動画にある
UP主がトンカラリンの名前で邪馬台国1から5まである
見てくれ >>17
視聴したら感想や批判をよろしくお願いします >>21
>視聴したら感想や批判をよろしくお願いします
まず第一話を拝聴いたしました。
前置きとしまして、日本の指折りの旧家が、所謂邪馬台国は九州にあったと言っています。
例を挙げるのであれば、出雲の王家の血筋、出雲大社上官家筆頭の富家(事代主の直系)
更には、物部と連合を組み、東征した、九州ド真ん中の真実を知る立場の宇佐家
そして後年の伊都の偽装に結び付けられたと考えられるヒボコの姑の家、元、糸井造家の神床家(旧出石神社社家)
他の旧家は武内家ですら歴史を原則は明かしておらず、武内家の宗家(石川臣家)の分家の北陸蘇我家もまだ存続していますが、証言を始めていません。
それら主だった旧家は口をそろえて魏書における邪馬1国は、九州だよと言っています。
ただ、肝心の邪馬1国の位置となると、実際には国としての実態がないので、「東征開始にあたって宇佐八幡に軍隊が集結する前の拠点、都万が実際の邪馬台国である」という立場をとっています。
要点としては、記紀、とりわけ古事記は、まるでヤマトが大和を攻撃したように書かれています。
実際に大陸の魏書でも同じような誤解が生じました。
九州の卑弥呼たちは、自分たちの国名をヤマトの邪馬1国と名乗ったのです。
すでに朝貢していた国を倒すとは当然に言えない訳です。
邪馬1国と名乗った人たちが、実際に奈良の邪馬1国に攻め込んだというのが実態との事です。
イツ伊都に関しては、大宰府と同じように、邪馬1国が首都を分からなくするように日本府を置いて、そこから先に外国が入ってこないために作られた「施設」とのこと。
故に、王様がそこに居るように見えるのは当然という事でした。
なるほど、安曇と強引に結び付けてなさそうなので、伊都チョンとは別人なのですね。 駆け落ちした(してきた?)〜とか、
江戸時代中期の伝説でもないしな、もっと前の時代。 筑後市玉垂宮辺りが邪馬台国の都で間違いないだろう。 そうそう、ヒボコの舅の家の神床家にはキチンと神功皇后伝承が残っていて、息長帯姫は実際には成務天皇の奥さんだったそうです。
たしかに、ヤマトが九州にやられた景初の東征の戦いで、前政権はヒコイマス系から手打ちとして奥方のヒバス姫を出していますが、系図を見てもわかる様に、神功皇后は、ヒバス姫と同年代の人物。
年上にしても成務天皇あたりまでが限界でしょう。
あの時代に母系の先祖のヒボコの実家が、王権が部下の人物に移行した際に、相続権を主張して韓征伐を計画したそうです。
当初、成務には断られた神功皇后は、なんと彼を見限り、九州の豪族、中臣家(当時はまだ中津臣家)の人物に依頼します。それが後に仲哀天皇にされ、取ってつけた様にナカツヒコと割と中継ぎの様な可哀想な名前になっています。
そして、九州西都原に住んでいた武内宿臣太田根の孫の襲津彦が、彼女と組んで二韓征伐を成功に導いたそうです。
つまり、応神ともなると孫の摂政の世代になるので、相当なおばあちゃんという事になってしまうので、この辺りまでは記紀によって時代が圧縮され、九州宇佐の卑弥呼が隠されている時代になります。
応神期以降は記紀は割と本当の時代にあってくる感じになります 西小路の旧生目神社跡地が
伊支馬長官の所在地だろうな。 >>24
>>27
妄想、楽しそうだな。 わははははは @阿波 >>22
全部見てね、おかしいと思うところ指摘してくれ。 銅鐸の分析によると、
大国主と大物主の共同作業の國造が、
実際に1世紀中期にあった事が分かる。
更に言うと、須佐之男命は実際に居て、
コレは荒神谷遺跡の主であると考えられるのである。
となると大国主は加茂岩倉遺跡の主だろう。
また、国譲りの際に事代主が隠れたと言われる青柴垣が高地性集落で、
建御名方神が逃げていった諏訪が、
銅鐸分布圏の最果て地であることも、
大国主のパートが歴史の事実であったことを物語っている。 >>30
妄想、楽しそうだな。 わははははは @阿波 で、この大和の大物主が大和に取り込まれるのが、
崇神天皇の時代のモモソヒメのパートの事で、
箸墓の伝承になって記述されている。
大和の支配者の大物主は、
実際には吉備の豪族御間城崇神に、
縁戚関係で取り込まれたと言えるだろう。 また、御間城崇神の系統は、
孝昭天皇孝安天皇孝霊天皇孝元天皇開化天皇らと
同族であると考えられ、
これらは中国四国地方から畿内へ
婚姻関係を広げて行っている事が分かり、
これらもまた縁戚関係によって、
畿内進出したことも分かるのである。 で、この御間城崇神の大和進出以前に、
天孫降臨によって河内を拠点にして、
大和に進出していった部族がニギハヤヒであり、
それらは大阪湾型銅戈の出土と一致し、
長野県安積野からも出土したことで、
ニギハヤヒの河内を拠点にした大和進出と一部安積野進出が、
歴史の事実であることも証明されたと言えるだろう。
そしてこのニギハヤヒの部族との婚姻関係で、
御間城崇神は畿内に進出していった。
コレが歴史の事実である。 また、御間城崇神と婚姻関係を結んで、
畿内に進出していった日向の部族が生目垂仁であり、
コレが魏志倭人伝には伊支馬長官として記述されている。
また、御間城は彌馬升として記述されており、
記紀では子と親の関係でありながら、
役職逆転していることから、
実際の直系の親子関係は無かったと考えられる。 また、当時、狭穂彦の乱を制して、
日向から北部九州に進出していた生目が長官で、
一方、四道将軍を本州各地に派遣して
肇国知命となっていた御間城崇神が
副長官であることを考えると、
倭国の中心地は北部九州であることも分かるのである。
御間城崇神が四道将軍を本州各地に派遣しながら、
北部九州には手出しが出来なかったことも、
北部九州に軍事的に大きな勢力があったことが分かるのである。 >>1スレ建てありがとうございます( ̄∇ ̄*)ゞ
邪馬台国はどこなんでしょうねえ
九州は間違いないと思っていますが
私は
邪馬台国は高良山、高千穂は英彦山だと思っています
英彦山が高千穂の方が自信あるけどなあ >>37
高千穂は高祖山 三雲南小路など方形墳
高良山は孝霊など大倭系男王 祇園山など前方後円墳
邪馬台国は北部九州全体 >>29
ただいまです。
これから全部見てみますね。
あと、一応日本の旧家との違いは都万国の位置です。
https://daredoku.net/2020/08/17/1093/
当時、数万戸になっていたのは西都原で、そこが都万国でした。
私のお気に入りのヨウツベ動画はこれです。
https://www.youtube.com/watch?v=H9RcFp7PrRw&list=PLil3fU968DZoNIkJAhk1K4yWoeAislED1
ここの邪馬台国と都万国の位置を入れ替えてみてください。
概要としてはそんな感じです。
大陸の史書というのは、実は恐ろしい確度で日本の事を書いているそうです。
日本の旧家に言わせると、日本に欠史は存在しないとの事です。 西都原のあたりが邪馬台国となるとは、実はかなりの線を行ってるらしいですね。
此処に集結した群衆が、タジマノモリ(だしょうまい)が大陸から貰った八本の属国旗を宇佐八幡で掲げ、
その旗の処に銅鏡を下げて、進軍が開始された様です。
二回目の東征が景初の東征にあたるそうですが、つまり、垂仁がヤマトを倒し、短期間ですが政権をとり、曲がりなりにも日本統一をしたというのが概要になります。
つまり、単なる奈良の出先機関の伊都は重要ではないんです。ヒミコが独身の卑弥呼、いつの間にか結婚してた卑弥呼が大陸の史書に書かれていた事。
宗女トヨの母親が、九州の卑弥呼で、朝貢した卑弥呼。大和の出雲の太陽の卑弥呼に対し、九州の月神信仰の卑弥呼という事が重要な話の様ですね。
魏志倭人伝は、物部と宇佐一族による、親戚の家、ヤマトへの侵攻という事なのだそうです。 伊都と安曇の、景初の時代の関りは極小値。
律令時代にまで渡って長い間に展開した安曇族と、その勃興のあたりの時代とは基本無関係。
下手すると安曇族は宇佐家の分家筋。
磯良関係の神事はほぼ全て応仁期以降に宇佐八幡が作った体制への服属儀礼。 >>36
北部九州が本陣なら、北部九州には攻め込まないよ。>大型内行花文鏡の東征 高天原は元々は九州ではありませんでした。
九州説の人って、延喜式に書いてある事を不思議にガン無視ですよねww
延喜式に本来の高天原の場所が言及されています。
現在の高天原産参考地、御所市の高天彦神社の上の高台の様な処が本来の高天原です。 記紀の中でも古事記は、実は九州系の旧家の血筋の伝承で書かれています。
それが稗田流と呼ばれるもので、トヨが名を変えられたあとの、天鈿女。
鈿女の系譜を名乗る一派の口伝が中心となって、記紀が書かれています。
口伝の伝承資格は利発さが問われ、必ずしも血筋に限った継承ではなかったようです。
九州説の方はもっとそれを認識すべきではないでしょうか?
九州説という話の中心は、トヨの実家筋の宇佐家ですよ。安曇なんてたまたま伊都の近くに神社があっただけの一族です。
鹿の神事は下手すると、鹿島から中臣家が運んできた神様ですよ。
延喜式には本来の高天原の場所以外にもう一つ大事なことが書かれています。()内は私の想像。
美濃に八人(不明)、丹後に二人(物部や海部)、但馬に七人(ヒボコや海部)、淡路に二人(忌部やヒボコ)、因幡二人(ヒコミチヌシなど)、出雲四人
延喜式には口伝の継承者の一族の数がハッキリ明言されています。
ヤマトの和邇の分家の一族に、柿本家と小野家がありました。
実は、小野家が稗田流の継承者で、その仕事を大海人皇子の乳母だった綾部家の人麿の母親がお役御免になった際に次の仕事として引き継いだのが稗田流の語り部の仕事だったそうです。
綾部家の人麿は頭がよかったらしく、母親の仕事を空で覚えてしまい、利発さが買われて柿本家の養子になりました。
稗田阿礼とは、便宜上、彼の母親の事です。
現在でも石見の戸田の綾部家、人麿の実家は現存します(妹さんが後を継いだらしいが、現在では口伝は失われています) >晋書倭人伝
倭人在帯方東南大海中 依山島為國 地多山林無良田食海物 舊有百餘小国相接 至魏時有三十國通好
戸有七萬 男子無大小悉黥面文身 自謂太伯之後 又言上古使詣中國皆自稱大夫
>これ見ると七万戸ってのは30国の合計で七万ってことなんやね
邪馬台国は伊都を首都とする連合国家。
列挙された30国は地方自治体で、その合計が七万戸。ということです。 >>46
>邪馬台国は伊都を首都とする連合国家。
邪馬台国は東征側の陣営なので、厳密に言うと乗っ取った側の陣営の国。
伊都を中心として支配していたのは奈良の邪馬1国
それが崩れた際に奈良に進軍する為に集まったのが魏書に書かれた邪馬1国
九州の卑弥呼が既に朝貢していた邪馬1国を名乗っただけの話。
政変が起きる前と後で、伊都の位置づけだけ変わらないなんてあり得ませんよ。
戦闘開始前に朝貢した事がきちんと魏書に書かれているでしょ? 一大率は港に出向いて開封して中身をあらためてるけど、
勝手に開けていいんかな?
先スレで誰かが言ってた、実は一大率が真の支配者だったみたいな。 >>50
一大率は女王以北に居るから末盧国の港には来ないよ
末盧国の港に集まるのは女王の家臣団 >>49
邪馬壹國女王之所都
邪馬壹国は女王の統べる所である
丗有王皆統屬女王國
(伊都国には魏の)世に(卑弥呼、壱与)王が居た、(倭の国々は)皆女王国に統属していた 「自女王國以北
特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國
於國中 有如刺史
王遣使詣京都帶方郡諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露
傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯」
>王遣使詣京都帶方郡諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露
>傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
>皆臨津搜露
王からの文書や品々、王への文書や品々、その全てを港で開封して臨検するとある。
文書とか賜物の内容に相違がないかチェックするとまで書かれている。
この感じだと、船荷から陸荷に積み替えるところで一大率が開封している。
現代だと、船のコンテナからトラックへ移すところで一度開封するイメージか。 開封まではしてないんじゃないの?
舟で運ばれてきた木簡束や品々の包装を確認して、取り残しが無いよう全て陸装に詰め替えるってことじゃ。舟で運ばれてきたコンテナを開けずにそのままトラックの荷台に乗せていく、一つも残さず。 台帳があり、それを読み書きしていたということなんだよね。 >皆臨津搜露
開封しているようですね。
伊都国が最終目的地、つまり卑弥呼がいるところだからでしょう。
魏志倭人伝は、伊都国における卑弥呼の統治を繰り返し具体的な描写で伝えています。 >>53
この辺の文章は全て女王卑弥呼の行いに付いての記事だよ
自女王國以北 特置一大率 檢察諸國 諸國畏憚之 常治伊都國 於國中 有如刺史
女王卑弥呼は女王国以北に特別に一大率を置き諸国を検察させていた、諸国はこれを畏れ憚っていた
女王卑弥呼は常に伊都国で一大率を使い諸国を治めていた
この様子は魏での刺史の様であった。
王遣使詣京都帶方郡諸韓國 及郡使倭國 皆臨津搜露 傳送文書 賜遺之物 詣女王 不得差錯
女王卑弥呼が使者を遣したり、魏の都や帯方郡、諸韓国、及び郡使が倭国に来る時は、卑弥呼の家臣は皆、末盧国の港に出向いて調査、確認した。
文書を伝送し賜遣の物を女王に届けるので、間違いは起きなかった。
末盧国の港に一大率は出向いていないよ
>>55
贈り物の目録と現物を港で確認してたんだ
末盧国の港からは魏使は手ぶらでの旅だね。 独身の卑弥呼と、トヨの母親の卑弥呼は別人
魏書にはそうキチンと書いてあるでしょ 魏書では、宗女トヨの母親の名代が、邪馬1国を名乗り、戦闘開始後に武内宿禰(たいしゅうえつ)が狗奴国のヒコミチヌシノミコ(ヒミココ?みたいな)と戦闘中だとオウキに報告してる。
つまり、大陸は、最後まで東征軍が邪馬1国が狗奴国と戦っていると思い込んでいるわけだ。
九州だけで完結する話なら三角縁神獣鏡は九州だけで出なければならない ヒコミチヌシノミコは、ヒコイマスの息子で、サホヒコの兄弟。
彼ら二人が後目の争いで葛城国が分裂していた。
ヤマトが九州勢に負けた後、ヒコミチヌシノミコは昔の名前、ヒコタツヒコに戻し、因幡国造になった。
武内宿禰はヒコタツヒコを守るために随伴したが、物部イクメ(垂仁)が追手を差し向けたので、そこから逃げ出し、出雲に保護された。
故に、彼の子孫全てが臣家になった。
蘇我家もwikiで確認できるが、カバネが臣になっている。
逃げ出した元の家は神社になり、その時のことが現在でも逸話として残っている。
出雲で景初の三角縁神獣鏡が出たのはこういう流れなのだそうだ。 伊都の長官は耳の一族である、多臣家
耳の字は母権尊重で、母系の父親、出雲初代のスガノヤツミミとされ、二代目大君の綏靖だかにも入る(沼川耳だっけ?)
つまり、本来の神武である村雲の兄弟か、子供の代から分かれた分家で、ほぼ海部氏と同格の分家。
故に、魏書にビビと出ているのは耳の一族であるという話が九州説には出てくる事がある
基本は世襲なので、九州の卑弥呼が我々は邪馬1国であると言った際に大陸が疑いの目を向けていないことから、多氏は物部側の東征軍についた可能性がある
そして鹿島国造家の、鎌足の両親はおなじ八井耳で、鎌足は中臣家に養子入りした後に藤原氏となった
不比等の母親は中臣家とは別の家系の人物で、中臣家の血が入っていない
藤原氏と多氏は親戚同士
それが、完成しなかった帝記のメモと、和邇系統により保護されてきた細女の稗田流を元に古事記の編纂を開始した。 先ず平原遺跡の方格規矩四神鏡は、
鉛の同位体比分析の結果、
同一工房内で、長江周辺の銅に、
北魏の銅を混ぜて作った鏡であることが分かり、
それが鏡の作成過程で徐州の銅山の銅を
使えなくなったことを意味すると考えられ、
ソレは即ち三国時代に呉に徐州の銅山を取られて、
魏は銅が枯渇したことを意味すると考えられるため、
コレが魏の時代に作られた卑弥呼に送られた鏡で間違いないだろう。
また、邪馬台国と関連が深い丹波氏の拠点、
丹後太田古墳から、青龍3年の銘のある方格規矩四神鏡が出土した事で、
卑弥呼に送られた鏡が方格規矩四神鏡であることは決定したと言っていいだろう。 高天原が、当初の奈良から九州への変更がなされたのは、多氏か、物部、もしくは宇佐に配慮した結果かもしれない
定期の編纂メンバーには、上から序列順に、皇族関係者→各地豪族が呼ばれている。
半分の6名が皇族
残りが豪族
村雲の政権の大彦系である敗れた側の阿部ですら呼ばれ、臣姓にはなれず、連止まりだった格下の安曇氏まで呼ばれており、更には応神朝(ウズメの実家関連)の上毛野まで招かれているのに、物部氏が呼ばれていない。
これは一説によると、物部氏が圧迫されハブられたとも言われているが、私個人としては違うと考えている。
物部氏、多氏に加え、藤原氏は黒幕側であり、編纂委員を招いた側だから、招待されたリストには乗らなかったのではないか。
そうでなければ、諡号をつける役目の物部系の血が入る開化系の子孫の淡海や、壮大なネタバレ(饒速日とホアカリが同一人物)が含まれた先代旧事本紀などが編まれた理由が分からなくなる。 つまり誰が誰で何処が何処なのかを=で書いて欲しいわw >>64
イト君に限らず、邪馬台国絡みのスレに書き込むヤツらって、わかりやすい文を書いて持論を理解してもらおうという気がサラサラないように思える >>65
ナンバーワン知ったかたったったーの阿波じゃねえかよ 6人の豪族のうち、呼ばれた動機が不明なのが安曇氏。
安曇連稲敷は、神功皇后関係か、海部氏の代わりとして呼ばれたとしか思えない。
難波連大杉は、大彦系であるので、ヤマトの磯城王朝のことで負けた側代表で呼ばれたのだろう
上家野君家は、細男、細女の関係で藤原に呼ばれたのかもしれない。
稗田流は多臣家か、中臣家の管轄下に入っていたと思われる。
春日神社では磯良舞を、細男舞として保護してきた経緯がある
平群臣小首は、武内宿禰(武内臣太田根)の子孫で、平群王朝(応神の次から武烈まで)のことで呼ばれたのだろう。
忌部は第三席で、何故か上毛野家より上位に置かれ、末席に中臣が来ているが、これは形式上の配慮であろう。
中臣家と忌部は争っていたからね >>64
先代旧事本紀だと、アマテルクニヒコアメノホアカリニギハヤヒでしょ
同じ人物で、簡単に言うと、奈良の海部や尾張氏は、九州の物部と同格の親戚同士
だから後目のお家騒動で争ったわけだ >>66
イヤイヤ、時代の合わない漢の金印と安曇と伊都を強引に結びつけるペテンよりはマシでしょww
ありゃマジクズの思い込み出ぜ?w >>63
高天原(海の城)が海なし県である奈良県に移動された理由でも考えてくれ。 >>31
これに関しては流石に阿波に同意
埋められた銅鐸や銅剣には特異な紋様が刻まれていて、それは出雲の富家と、神門家の所有の区別のために刻まれていたもので、須佐男とか全く無関係ww >>71
字が読めないらしいな
延喜式でも見てきたら?
奈良から九州に変更されたのであって、その逆ではない。 高天原は博多湾周辺である。
というのは、高天原から天孫降臨したのは、
天皇家だけではなく、
ニギハヤヒもいる。
ニギハヤヒの天孫降臨は、
大阪湾型銅戈で特徴づけられ、
銅戈等を祭祀の道具として使用していたのは博多湾周辺の部族であり、
高天原が銅剣銅矛文化圏発祥の地、
博多湾周辺であることが分かるのである。
また、スサノウが高天原を追い出されて、
出雲に拠点を張った事も、
荒神谷遺跡の大量の銅剣から裏付けられ、
このことからも高天原が銅剣の生産地=博多湾周辺であることがわかる。
また、国譲りの際に西日本一帯に進出していった高天原の勢力が、
銅剣銅矛の伝播とイコールであることからも、
高天原が博多湾周辺であることが確定する。 天孫ニニギが高天原から博多湾沿岸の高祖山(クシフル岳)に降臨しているから、博多湾に近いけれど博多湾ではないだろう。
海の城という原義に照らせば島嶼部であり、沖ノ島が有力候補。
大規模な祭祀つまりは祖先祭りが行われていたことが明らかであり、おそらくアマテラス祭祀だったのだろう。 >>74
〉また、スサノウが高天原を追い出されて、
出雲に拠点を張った事も、
荒神谷遺跡の大量の銅剣から裏付けられ、
このことからも高天原が銅剣の生産地=博多湾周辺であることがわかる。
不気味なほど気持ち悪い伊都チョン表現ww
出てきたものと強引に何の証拠もなく関連づける、まさに安曇脳ww >>76
高天原はニギハヤヒの天孫降臨や国譲りによって、
銅剣銅矛を祭祀の道具とする部族であることは確定する。
スサノウが高天原(博多湾周辺)から追い出されて出雲に勢力を張った場合、
出雲から銅剣銅矛の出土がソレを裏付ける訳で、
つまり、出雲から大量の銅剣が出土した荒神谷遺跡が、
スサノウの拠点となるのは間違いないだろう。 一方、大国主は銅鐸の伝播によって特徴づけられる部族であり、
荒神谷遺跡と同時期の遺跡で、
なおかつ初期の銅鐸が大量に出土している
加茂岩倉遺跡が、大国主の拠点であることは間違いないだろう。
およそ前2世紀〜前1世紀頃に、スサノウと大国主の物語りのようなことがあったのは
間違いないだろう。 >>77
銅剣は、吉備国である、フトニの領域からも出土する。
やり直し。 >>78
出雲の銅剣と、銅鐸には部族を区別する同じ刻印がなされている。
やり直し また、瀬戸内海に勢力を張っていたと考えられる事代主が、
国譲りの際に青柴垣を作って隠れたという。
コレがまさに弥生中期後期に
瀬戸内海を中心に出現した高地性集落であり、
記紀の出雲のパートは、
史実に基づくものである事が確定する。 >>79
ソレは私の説を否定することには一切ならない。 >>76
>荒神谷遺跡の大量の銅剣から裏付けられ、
これは出雲国譲りの結果だろう。
武装解除して放棄させられた。 アマテラスは博多湾沿岸(筑紫の日向)の生まれだが、筑紫を出て高天原に移った。
孫の天孫が、豊葦原中国の王となるために筑紫に戻ってきた。
つまり高天原は銅矛文化圏ではあるけれど、博多湾沿岸ではない。 >>84
>これは出雲国譲りの結果だろう。
何のなんの、出雲忌部の痕跡に過ぎん。 @阿波 吉備国の平型銅剣の分布
http://shosuzki.blog.jp/archives/80931430.html
吉備国の地方の王に成り下がったフトニの系譜は出雲領から奪った砂鉄の産地から、鉄器を作った
倭国大乱期の初端を開いた播磨に侵攻したヒボコ族は尾張氏などのイタテの一族に圧倒され分断される
そこで当時最新の鉄器の製造法を手に入れる
後漢が滅んだことにより流出した鍛造可能な鋳鉄の精錬法に、朝鮮半島の磁鉄鉱を使い、急速に武装化が進んだ
さらに、出雲に向かって停戦の条件として出雲の青銅器を要求した
西出雲王家の神床家のものだけ差し出し、東出雲王家のものは埋設して隠す方針に決定された
故に、出雲で大量に発見された銅剣に関しては過半に、富家の✖の刻印がある
逆に、差し出された無印の青銅器は吉備国に差し出されたから、平型銅剣は成分が無印の銅剣と同じになるはずだよ >>87
何のなんの、吉備忌部の痕跡に過ぎん。 @阿波 伊都チョンは、それまで発見された全ての銅剣を足しても足りないくらいの青銅器に刻まれた特徴のある刻印には全く無関心らしいなw
普通なら気にするだろww
銅剣分布からもわかる様に、瀬戸内海から山陰の妻木晩田遺跡の東方、孝霊山までは吉備の領域になり、ヤマトは基本海、瀬戸内海の朝貢ルートが寸断され、出先機関の伊都は、単独で朝貢の判断が出来る様になっていた
そして、景初の出来事に繋がっていく
景初の戦闘で吉備国と出雲は滅んだ。
奈良のヒコミチヌシも降伏し、戦乱は終結した 考古学的に考えて、最古の大王がいた吉武高木遺跡が高天原だろう。
豊葦原中国は豊葦原那珂津国。
早良平野は標高が高いから貴族が住んでいたのだろう。
出雲は遠賀式土器や鐘撞式土器が東征していった宗像地域。
越は土井ヶ浜遺跡など山口県からの本州日本海沿岸。
弥生遺跡の分布から考えると現代よりは西寄りにコンパクトになる、。 稲葉国造のヒコミチヌシは、国造本紀にも出ていて、ネタバレされている 考古学的に見て、
荒神谷遺跡の大量の銅剣に特徴づけられるスサノウと、
大阪湾型銅戈で特徴づけられるニギハヤヒらが出自した高天原は、
銅剣銅鉾の生産地であった博多湾周辺で間違いないだろう。
また事代主に国譲りを強要した高天原の部族という点でも、
銅剣銅鉾の西日本への広がりで裏付けられ、
高天原=銅剣銅鉾の生産地=博多湾周辺で間違いないだろう。 また、銅鐸の時代編年と分布密度の分析から、
銅鐸の分布変遷は大国主の國造の伝承と一致する事が分かる。 出雲は荒神谷と加茂岩倉に青銅器が埋められていただけで、
勢力としての人々が住んでいた痕跡が皆無 スサノオは多重環濠集落の世世将軍である宗像の田熊石畑遺跡 >>90
逆にいうと、年代とともに博多湾沿岸を中心に東に(時には南にも)全て拡大して移動した。
南っていうのは、日向が高祖山から宮崎に移動したことね。 >>95
出雲全体ではたくさんの住居跡があるだろ?
荒神谷には人知れずこっそりと武器を埋めたのだろうから、近くに家がなくて当然。
しかしこの地域に200人を超える規模の軍団があり、そらを支えることができる人工と生産力があったことは間違いない。
まあ、出雲国譲りの時に放棄した武器だろうね。 >>99
悲しいほど無いね
調べたけど無いから、出雲にはそーゆーのが無かったという結論に至った。
あるというなら、ここに列挙してみなよ。 八雲立つ 出雲八重垣 妻込めに 八重垣造る その八重垣を
環濠集落の環濠は、多くが3重程度。
8重あれば、国内屈指の守りの固い城柵ということになる。 >>101
島根県、弥生時代、遺跡で検索すると出てくるから、ないわけではないね。
伝承の通りなら、出雲の支配域はかなり広くて、神無月には各地から首長が詣て参集していたわけだから、それこそ支持基盤は島根県外まで含むだろう。
国譲りで出雲を倒して筑紫が再び天下を統一したというのなら、それこそ一時期は筑紫も出雲の傘下だったということだしね。
滋賀県の伊勢遺跡もまるで出雲のような内容だから、確実に出雲の傘下だったのだろう。
そう考えると、日本海側の非常に広い地域が荒神谷を含む出雲を支えていたことになる。
その範囲の集落なんて、いくらでもある。
見つかっていないのは八重垣の環濠集落。 >>102
八重の環濠集落はどこにある?
あれば出せ
なければ八重は多いという表現 スサノオは多重環濠集落の世世将軍である宗像の田熊石畑遺跡 昭和の編年や誰だか知らない人の説を出すけど現在においてそれ意味ないよね
鎌倉幕府は1192いい国じゃなくて1185いい箱だし
風邪ひいてもできれば風呂入ったほうがいいし
運動中は水をこまめに飲んだほうがいい
世の中の変化についてきてなくね九州 九州は昭和にできた甕棺編年を信じて
250年ごろまで甕棺が作られたと本気で思ってるの?
だとしたらアホだなあ
甕棺編年が250年前後の卑弥呼に合わせて
ゆがめられて作られた編年である可能性は高いよね
これちゃんと説明になってるぞ
予備知識のない
これ意味わかってない人はこのスレにいてほしくないなあ
九州ももっと勉強すべきだと言いたいのよ
学術的にかみ合わないからいちいち説明しないといけない
その面倒な作業をなくしたいが九州は勉強不足すぎる 2009年の纏向の大型建物群の発見にから状況変わってるぞ
おれは奥村とか誰か知らないが
そんなの関係なく九州の書くことを否定できるのは
現代の客観的資料にしか興味がないからだろう
そして昭和に発表された説とかどうでもいい
知名度のある教授の編年を否定できないとか窮屈すぎる
現代の科学的資料を元に言いたいこと言おうぜ >>103
>そう考えると、日本海側の非常に広い地域が荒神谷を含む出雲を支えていたことになる。
それは本国「阿波」から進出した、出雲忌部や北陸忌部だ。 @阿波 >>107
甕棺と卑弥呼と何の関係がある?
言いがかりだね。
平原遺跡は木棺墓だし。 >>108
>2009年の纏向の大型建物群の発見にから状況変わってるぞ
纒向なんて関係ないだろ。
平成の遺物は引っ込んでろ。
現実を直視できていないのはお前だ。
昭和の教授?
誰の何のことかさっぱりだ。 甕棺墓の甕は水を意味しているので九州北部を支配していた海神族の証
(本質は雨の多い地域なので、単純に遺体保護の為)
海神族の都は山門周辺で、奥八女を禁足地とし女王が天道を行っていた
海神族の女王は豊玉姫(八女津姫)で、二代目は玉依姫(卑弥呼)である
飢饉の末、天道に従い豊玉姫を山麓に捧げた後、玉依姫が女王となった
倭人伝に記載されている邪馬台国の人々と、海神族との共通点は多い
当時の筑紫平野は沼地が多かった為、熊本平野より稲作量は少なかった
海に近い山門は漁業がメインだったと想定される >>98
八重垣の意味がまるで分からず、適当に物を言ってるだけ
八重垣というのは、出雲基本の法律。これを八重垣の法と言った。
伊都の地名の元になった可能性のあるヒボコの出石の子孫タジマノモリが出雲をわざわざ攻撃したのは、ヒボコが末子相続のために朝鮮半島から追い出された際に、最初に出雲に行って土地の世話をして貰おうと思ったが持ち前の高慢チキの性格が災いし、「八重垣の法を守る事を拒否」
それ故大国主は出雲の領域にヒボコが住む事を禁止し、遠くの土地の世話をする事もやめたそうである。
ヒボコ属はそれをずっと恨みに思っていて、わざわざ大和に行く前に物部朝倉の郡に合流してまで出雲攻撃作戦に加わったそう。 大陸式の環濠集落は、吉野ヶ里でしょ。
大陸から二度目の渡来を果たした例の人は、和名ニギハヤヒを名乗った。
母系は出雲の分家、宗像家。
そして彦ホホデミを設けた。 >>108
巻向遺跡は昔はもっと関連していた豪族がわかる様な名前でした。
三輪大君説の、太田氏。
昔は太田遺跡といい、現在でも発見された大型遺構のあたりの地籍は太田になっています。
太田氏の本家筋は現在は墨坂神社の宮司家です。 纒向遺跡への搬入土器(全体の15%)の出身地割合
伊勢・尾張系 : 49%
北陸・山陰系 : 17%
河内系 : 10%
吉備系 : 7%
近江系 : 5%
関東系 : 5%
播磨系 : 3%
西部瀬戸内海系 : 3%
纒向には魏の使いが滞在していた筑紫からの搬入物がない。
邪馬台国が交流していたはずの楽浪・帯方郡からの土器も出ない(四捨五入で1%に満たない)。
目と鼻の先の河内との交流も乏しく、畿内の他の地域のような瀬戸内海や淀川の水運の利益を受けられない、尾張の影響下の後進地域であった。
河内が狗奴国とする説もあるが、その場合では纒向は半島大陸への玄関口である筑紫へのアクセスルートがなくなり、魏と交流できた可能性は低い。
畿内説が言うように東海地方が狗奴国なら、纒向への土器の流入を説明できない。
尾張氏は饒速日の末裔であり、記紀では大和も饒速日の支配下であったとされる。
邪馬台国とは関係ない。 >>95
〉勢力としての人々が住んでいた痕跡が皆無
その認識は正しいそうです。
青銅器は宗教の祭器だったので、外敵から守られる様祈りを込めて、当時の国境や、戦線の防衛ライン付近に埋められたそうです。 巻向遺跡は住居ではなく三輪山祭祀の遺跡で、農機具も刃先鉄器のない木製農具しか出てこないはずだよ。
これは、出雲系の三輪山祭祀で、神在月の様な祭りが春と秋に開かれたから。
だから関連する豪族の持ち込んだ土器しか出てこない。
更には外国の勢力は奈良に入ってこない様に国の都を偽装して伊都を都に見せかけてそこで足止めして入ってこない様にしていたから、そもそもが巻向を持ち出して論じて結論を出す事自体が不適切。
話は変わるが
1%未満だけと九州式の土器が出た際にはテレビ放映もされるほど話題になったな。 >>103
〉それこそ一時期は筑紫も出雲の傘下だったということだしね。
これに関しましては少し違っていて。青銅器時代、つまり大陸からの渡来者(一度大陸に帰もう一度来日するのは、徐と、スサノオのみ)は、先代旧事本紀でネタバレされている様に同一人物が男系になって始まっています。
故に、青銅器時代に奈良と九州に文化差はなく、大阪あたりからは丸木の船ではなくキチンと構造船が、出土しています。
どちらが格上かの、決着は、一応九州物部がホホデミの妹であるホヤ姫を出しているので下位には収まっています。
昔の習慣として、嫁を出す側が仕立てに出る側になります。
故に前政権が負けると血筋を残して手打ちにするために姫を出すわけです。
イクメには、磯城王朝最後の王、ヒコイマスの娘のヒバス姫が差し出されました。 >>125
>だから関連する豪族の持ち込んだ土器しか出てこない。
関連する豪族が尾張氏しかいなかった。 >>125
つまり魏志倭人伝に出てくる、中国人が見た邪馬台国は伊都だということだよね。 弥生初期
九州 イザナギにより能古島で倭国建国、稲作拡大
本州 スサノオが日本海から全国へ農業を広める
弥生中期
九州 大山祇らによる倭奴国の最盛期、前漢に朝貢し内行花文鏡をもらう
本州 大山祇の子である三島溝杭耳らにより瀬戸内から近畿の稲作が拡大、出雲に大山祇の曽孫の大国主が日本海を支配
弥生後期
九州 伊都に遷都した天孫ニニギらが後漢に朝貢し金印と内行花文鏡をもらう
本州 出雲の国譲りで大国主が失脚、三島溝杭耳の末裔である鴨一族と天孫ニギハヤヒの王権
弥生末期
九州 倭国は乱れ天孫族が九州を脱出、収拾のため伊都で共立された卑弥呼が、滅亡した漢王朝のかわりに国産の内行花文鏡である平原遺跡の八咫鏡を製作
本州 ニギハヤヒの物部王朝に神武が合流して大和王権の基礎となる
古墳時代初期
九州 再びの乱を収拾するため壹與共立へ、続いて八咫鏡を継承した神夏磯姫が景行と共闘、沖ノ島の合同祭祀の規模拡大へ
本州 崇神により大和王権は拡大征服路線へ、八咫鏡を宮から追放し伊勢へ
古墳時代前期
九州 仲哀が筑紫に迎えられるが崩御、神功皇后が神夏磯姫の末裔の田油津姫を倒し筑紫を統一へ
本州 神功皇后の子で筑紫倭王であった応神による統一王朝へ >>127
東海方面、阿部の領域からも土器が来てるでしょ。
イソタケル系の紀伊半島系の土器も出てる。
太田遺跡は、要は国内版の朝貢。手土産交換の貿易の場でもあったわけだ。
吉野ヶ里ではちがってたのかなあ?
九州ではそう言ったお付き合いの交易は無かったのだろうか? >>128
その通り。畿内ヤマトと大陸は最後まで勘違いしたままだった
九州の卑弥呼を奈良の卑弥呼と勘違いしてた
だから未婚の卑弥呼と子供のいた卑弥呼が同じ政権の卑弥呼としてそのまま記述された 九州の卑弥呼と伊都は無関係
そんな物がなくとも朝貢した卑弥呼は九州の宇佐家の姫巫女
邪馬台国九州説に伊都や安曇は基本無関係。意味がない情報 >>130
阿部の領域ってどこさ。
尾張との境界はどこ? >>130
>九州ではそう言ったお付き合いの交易は無かったのだろうか?
博多ですよ。
吉野ヶ里は周囲の国邑を従えてはいたけれど、遠隔地との交流は奴国と伊都国の管轄ですね。 >>133
どの時代のことを言ってるの?
太田遺跡は景初のあとも続いてるけど?
180年代以降の東海地方は阿部系(大彦の息子のヌナガワワケ)
東海地方の三三島社は、九州に端を発する小市(越知)、奈良の事代主の系譜の登美家、そして阿部の一族が関連してる。
巻向の出土の土器で多いのは東海地方のものでは?
尾張氏、海部氏、加茂氏は一度、景初の戦いで奈良から逃れ、加茂氏は山代國に行った。だから鴨神社が移動した。
尾張氏は海部と途中で別れ、海部はイソタケルが奈良入りする前に地盤を作った丹後に。尾張氏は熱田方面に。そこで草薙の剣を祀った。
九州で三種の神器が正式化されたなんてクソデマな訳だ。 二人も同じ人物はいらないよ。
魏志倭人伝にある卑弥呼も邪馬台国も九州だということだ。 >>136
倭人伝も普通に読んで理解できない程度では話ならん。
畿内説とか九州説を論じる以前の話だわ 巻向の遺跡の祭祀の中心は太田氏が管轄していた時期がある。
太田太根彦(オオタタネコ)が、独身の姉の卑弥呼の世話をしていた。
それが記紀に書かれた。
大陸の皇帝は、後漢が滅んだ後の内戦がやっと落ち着き、朝鮮半島の目の上のたんこぶを処理した後、倭国大乱期にも関わらず、遠くのヤマトから朝貢したと思ったから健気に思ったんだよ
九州に居たことが分かってたら、あそこまでの表現にはならないし、大陸に提出した日本書紀の誤魔化し方が分かってしまうから、普通なら記紀の編纂者はそんなリスクは取らない。
記紀の編纂者は確実に大陸の史書に目を通して居た。その上で属国の歴史や朝貢の事実を全て消したとしても、何とか内容が通る形に我が国の歴史を纏めた。 二度にわたる大規模なお家騒動、権力の相続に関連した物部氏によるヤマト侵攻だけど、九州の物部は本当に性格が悪く、力で強制する手法だったので、相当に嫌われたらしい。
離れた地で政治の根を下ろすのにはパートナーが必要。
物部は奈良では嫌われ、負けた側の住民は逃げ回るばかりで決して従わず、貢物も出さなかったらしい。
垂仁の次の成務は、結局奈良からかもしや太田氏などにより追い出され、宮は播磨に移動した。
結局、実質ナンバーツーの勢力の賀茂氏以下の貢物しか集まらず、再度平定のために戦闘をしなければならなかった。
関東方面にはタケルを、自らは九州方面に攻め込んだ。
東征の連合相手の宇佐を裏切った物部に帰る場所はなかったから九州では戦闘になり、宇佐氏は、奈良の土蜘蛛に比して、土雲にされた。
腹違いの兄弟であるトヨ彦、トヨ姫を椿大社で暗殺し、権力を独占した無法者は結局機内での権力基盤を掌中にすることはなかった。
二度にわたる東征移行、二度と物部は奈良に攻め込むことは無かった。 >>134
そういう意味ではなくて、他の地域から大規模な貢物があったり交流を示す様な、地域外の土器が沢山出るような遺跡のこと。
思い込みの話はどうでもいい >>135
>九州で三種の神器が正式化されたなんてクソデマな訳だ。
福岡における弥生墳墓の副葬品から、制式化は明らかだよ。
後年になって畿内でもそれを継承して、草薙剣や八咫鏡を当てはめたんだ。 >>140
福岡で全国各地の産物が出ることは有名で、キナイコシは九州が全国各地の勢力に征服されたからだなどと畿内説の根拠にしていたくらいなんだが。
福岡の場合は、そもそも遺跡が密集して、福岡平野全体が一つの遺跡みたいなもの。
魏志倭人伝でも奴国は2万戸となっているからね。
明らかに人口も一番集中していた。
それを支えるだけの農地や漁獲と、周辺地域からの移入産物があったということになる。
弥生時代におけるこのような大都市圏の形成は、福岡だけの特徴になる。
簡単に言うと、どこを掘っても遺跡に当たる。 >>142
根拠は考古学的な出土品だよ。
動かぬ証拠だ。 >>143
>福岡の場合は、そもそも遺跡が密集して
碌な弥生集落遺跡や鍛冶炉遺構そして資源の無い、くそ田舎の福岡に、「邪馬臺国」など興る訳がない。 @阿波 >>144
頭がおかしい。さすが九州男児ww
3種が出土する古墳なら幾らでもあるし、そもそも青銅器の剣ではなく鉄剣という段階で後年のもの。
村雲の剣は、大王就任の際に出雲側から尾張家に贈られたもの。
一応王権のシンボルとして村雲の実家の尾張家が所有する事になった
しかし、シキツヒコの代からは三代も出雲系から嫁入りした弊害が出てしまい、尾張氏は銅剣を磯城王朝に渡さなくなった。
それ以降、ずーっと皇室に草薙の剣は渡っていなく、うつしがあるのみである。
尾張氏の持ってるものは青銅器の剣 熱田神宮の本当の御神体は村雲の剣であり、草薙の剣ではない >>146
>3種が出土する古墳なら幾らでもあるし、そもそも青銅器の剣ではなく鉄剣という段階で後年のもの。
古墳時代の話じゃないだろ。
紀元前からの弥生時代の話をしているんだ。
副葬品を見ると、剣は青銅でも鉄でも構わないみたいだけどね。
たなまに平原遺跡は鉄剣だが、後年ってどういう意味? >>107信じられないと思うかもしれないけど
福岡は昭和の初めのころまで甕で土葬の地域もあったんだよ >>148
弥生式墳丘墓と古墳の間の区別は現在では意味がない。
便宜上、古墳と表現しただけ。
紀元前600からあったのは出雲のみで、最大版図になったのは記紀もしくは出雲風土記にある様に出雲6代のオミツヌ。
その時には、先代旧事本紀でネタバレしている物部と尾張氏の共通の先祖である同一人物饒速日ホアカリは渡来してきていない。
彼らは我が国に青銅器を持ち込んだから確実に後年の話。
そもそも弥生時代は今いつからの開始になってるよ?
佐賀には紀元前10世紀の水稲遺跡があるよな?
昭和の感覚と今の弥生の感覚は開始年代が違うぞ? >>148
詳しい話よりも、世間一般の三種の神器のビジュアルって青銅器の剣になってやしないか?
まずはそこからだ >>143
ばっかだねー、だったら巻向の土器でも出るのか?w
巻向に九州の土器がほとんどないのはどういうことよ?
またお得意の思い込みか?ww
そこはかとなく漂う伊都チョン臭ww
隠しても普段の言動や考え方、言葉の軽さや考えの浅さだけは隠しようがないなw >>151
>出雲風土記にある様に
その出雲風土記に、「大国主」や「国譲り」の記述が一切ないというシャレにならないお話。 わははははは @阿波 大国男児?
数年前の、とあるスレッドを読んでいたとき、
そういう話をしている人がいた。
おかしな話ばかり、例『大国男児』? 家の近所の話。
数日前、ジャパニーズ何やらが〜という話(芸能関係)をしながら、
歩いている数人組もいたしな。
日本人ではないのかな。 日本人(不明)なら、ジャパニーズ何やらとか、あまり使用しない。
でも使用する人は使用する。 見た感じはw日本人()と同じような(少し違うのかな)・・・だから、
ほとんど、わからないしな。 >>154
>巻向に九州の土器がほとんどないのはどういうことよ?
そういうことだw >>154
>巻向に九州の土器がほとんどないのはどういうことよ?
纏向の土器はすべて「東阿波型土器」だから。 @阿波 中国書物に記載されている他国の地名や人物名の漢字は基本当て字と思って良い
例えば狗奴国の狗が犬だから熊襲や隼人なんじゃないのかという推測は正しくない
あくまでも日本語を中国語(漢字)で説明しているだけなので漢字自体に意味は無い >>150
聞いたことある。
福岡は昭和まで甕棺が使われていたって。
最近は流石に話を聞かなくなったから、思い違いかと思ってた。 >>152
そうか?
草薙剣は鉄剣だと思っていたけど? >>160
纒向は、魏からの使いが滞在した伊都国とは隔絶され、魏と交流がない田舎だったんだよ。
楽浪土器もないし。
言わせんなよ、恥ずかしい。 >>162
寧ろ逆で古来の漢字にこそ意味がある
例えば不彌国という国は馬韓にも存在したので
馬韓の不彌国が日本に移った可能性もあるし
同じ意味合いの国が日本にもあった可能性もある
狗奴国は文字通り狗をシンボルとした国で、狗の付く国は他にも沢山ある
奴は奴隷的な意味なので「狗族の奴隷となった国」とも考えられる
若しくは「犬のように野蛮で奴隷のように醜い国」なども捉えられる
もちろん今と昔で意味合いが違う可能性もあるので一概ではないが 実際、狗奴国が存在したと言われている熊襲や隼人の南九州は、ヤマト政権に度々反乱を起こしているがなw
日本の歴史書にもそう記されている 肥前一宮である與止日女神社(河上神社)の西に大願寺廃寺跡(佐賀市大和町大字川上大願寺)という遺跡がある。
ここに熊襲の王であるクマソタケル、名をトロシカヤ(取石鹿文)という人物の墓が伝わる。
この地に伝わる伝承では、筑紫を根城としていたトロシカヤが筑紫の穴倉陣で小碓命に襲われて肥前川上に脱出してくる。
小碓命は船で肥前堀江、蠣久と追跡し、大願寺の山中でトロシカヤの宮の新築祝いに女装して潜入し、トロシカヤを暗殺する。
死の間際にトロシカヤはクマソタケルの名を返上してより小さな地域の王の名であるカワカミタケル(川上梟帥)と名を改め、小碓命にヤマトタケル(倭建命)の名を献上したとされる。 >>172
それって筑紫を脱出したというよりも、遠征先の筑紫で戦に敗れて肥前に逃げ帰ったような印象だな
敗走先で宮を建てた上に新築祝いまでするものだろうか? 倭人伝に記載されている国名こそが日本古来の国名
漢字の意味は恐らく部族や地位などを意味している
「今では野蛮に思える漢字も、昔は強さを表していた」←ここ重要
邪馬国と邪馬壹国なんかは、同じ種の国の中で
王(壹)のいるエリアを独立させたとも捉えられる
そうなると邪馬壹国を日本で新たに当て字をする場合
大和という漢字は成立しない事に気付く
基本的に漢字と読みが一致しない地名というのは
方言が原因とされるので、それ以外は合併や移動などの
特別な条件で生まれた地名だと推測される >>173
熊襲タケルの言葉として、九州全土を治めていたが、(小碓尊のような)智略に長けた人物がいたとは知らなかった、と言っている。
九州全土を治めたなら、当然筑紫も治めていたことになる。
最後に倒されたのが佐賀大和だった。
ヤマトタケルの息子の仲哀天皇の時代の熊襲征伐では、神功皇后が筑後山門に田油津姫を追い詰めて倒している。
舞台はやはり九州北部になる。
博多湾沿岸から見れば漠然と南であることは間違いないが、南九州ではない。 倭人伝の奴国=倭奴国であり、倭族が支配する国である
奴国が二回出てくるのは、別の倭の支配国を意味する
鳥奴国は恐らく鳥栖であり、鳥族の支配国を意味する
倭族は海神族、鳥族は天孫族、狗族は山神族
これらは皆、大陸から渡ってきた弥生人と推測される あ、天孫族は「伊」だから伊都国と伊邪国か…
他の鳥とか鬼とか蘇とかは部族なのか地位なのかは不明 >>177
しかも、熊襲タケル(川上タケル)の墓があるのは、河上神社こと與止日女神社といい、そこに祭られている神様こそ壹與でしょう。
肥前と肥後と筑後は、有明海沿岸として一つの領域と見做せるので、おそらく卑弥呼も壹與や川上タケルと同様に肥国の出自で、倭国大乱で筑紫を含む倭国女王に共立されたのかもしれません。 >>174
菊池は阿部の領域
クコチヒコから来てる >>165
伊都に出て、巻向に無い土器という事なら支配関係は想像できるけど、なんとごく少数だが、巻向から九州式の土器が出てるというww
伊都に巻向の土器がないのなら、どちらが上位か想像はつきそうなものだ 少なくとも倭国大乱期開始以降、景初までは平型銅剣の勢力により瀬戸内海で九州と奈良の勢力は分断されていた
例外は四国南部ルートのみ
あそこは物部の勢力圏
銅剣だか銅矛は物部のものが出ている
その頃に忌部がいたかどうかは不明だが 平型銅剣の勢力とは、古代出雲すなわち現宗像地域から東方開拓していたカモ勢力 >>184
>その頃に忌部がいたかどうかは不明だが
少なくとも、縄文時代晩期末から「倭人(阿波勢力)」は全国へ進出していた。 @阿波 それは毛人。
倭人はもう少し後で、先に進出した毛人と混ざったのが倭種。 前スレの後半あたりから内容が濃くなっているね
書く人が変わったのか戻ったのか
昔みたいだ
勉強になります >>185
フトニ=孝霊天皇
つまり、海部や尾張氏(村雲の家)
父系がホアカリ、母系が出雲
それが開化天皇までの家系。
故に、阿部は本来の村雲の家系
だから帝記編纂委員に選出されたのではないかと 私は竹原古墳の壁画が邪馬台国の邪馬だと思っている
壁画のように牙の生えた馬のようなのを想像していて
その想像の動物の骨か牙か化石?が安置してある場所が邪馬台国
みんなに失笑されるかもと思っているけど 遺跡にばかり集中していると本質が見えなくなる
本質は倭人伝の中に書かれている >>191
邪馬1国の1は、不思議な事に蔑称ではないんですよね。
確かにヤマってナニヨって感じる。
まあ、普通にヤマトの1国って事かな?とは思う。
ヤマトは蔑称で省略、国名は朝貢した事により良呼称になった
でも逆説もある。
それが宇佐豊姫。豊国のトヨ。
1与が、イヨなのかトヨなのか。
た行なら、邪馬1国がヤマトになる。
豊国の読みは、とよくにで良い事になる
しかし、昔から教科書にはトヨ(イヨ)と出ていた 結局、邪馬1国だよ、伊都は1だよという説も、じゃあ邪馬ってナニヨでつまづく。
大陸の史書はあくまで大陸目線であるが、ひとつだけ例外がある。
それが自己紹介。
あれだけは中国読みではなく、和名の音感になる。
邪馬とはなんであろうか?
そもそも1国=伊都なら、漢字が同じになるはずである。
少なくとも別と大陸が認識していた事は間違いない。
陳寿はトヨと同年代の人物で確実にリアルタイムに出来事をまとめることができた時代の人物。
1国と1与が同じ字であるのなら伊都は、別の存在と考えるものではなかろうか ここからは勝手な思い込み
臺與、あるいは壹與
魏書に書かれたのは後者だったと記憶している。
豊という字に似ている。
当時の豊という字が和製漢字であるとするのなら何となく似た漢字で書いた可能性はあるかも知れない
板木で写していく過程で誤字になったとも考えられるが、何回も間違えるだろうかという話もある。
武内宿禰は、魏書には「たいしゅうえつ」と出ているが実際にはたけの字の写し間違いと言われており、実際にはタケシウエツではないかと考えられている。
弟の額田宿禰は「ぬかだい」と出ている。
タジマノモリこと「ダショウマイ」は、朝鮮語が話せ、漢文が読めたので、大陸の政変で、魏国に朝鮮半島を経由して真っ先に朝貢し、魏の権威を独占できるタイミングで朝貢したかったと考えられ、その際に自己紹介の字を先に考えて行った可能性はある。 卑弥呼=甕依姫(玉依姫)
卑弥弓呼=国乳別皇子(海幸彦)
壹與=豊姫(神功皇后の妹)
邪馬壹国=山門国(八女王国)
鬼道=天道(母子信仰)
欠史八代を排除し、神話と実話を融合すれば答えは導かれる 九州物部には二つ名の習慣があったらしい。
記紀においては法則があり、ササラ皇女が夫の政策を引き継ぎ、不比等を重用して記と、紀を纏めようとした際に、ヨキコトエラブツカサの委員を選出している
記紀編纂前には解散したらしいが、万世一系は、ササラ皇女か、もしくは不比等からの持ちかけだったのではと考える。
基本、朝貢した歴史や、我が国皇室の男系が渡来者である事は絶対的タブーで、複数の政権が入れ替わっていても同じ家系に偽装する。
他、大王自ら軍を率いて戦った事もみっともないとされた。
大陸に提出する我が国の書物に自慢げに属国でしたとは書かないのである。
物部イクメは朝貢したとされ、その際には九州の名前を名乗ったらしい。それがイサチ。
イサチイリヒコイクメ。
これが後の物部系の淡海によりネタバレされて諡号になった。
イクメの息子は成務だっけ?
彼の物部の名前は、物部オオタラシ彦。
諡号は確かオシロワケオオタラシ彦ではなかったかと。 壮大なネタバレ本である先代旧事本紀。
そこにはヤマトと、九州の男系の共通の祖である一人の人物が書かれている。
さらに大陸には不老不死の薬を探しに来た道教のおっさんがいた
記紀は巧みにその部分を誘導し、その人物が誰だかバレても問題がないようにした。
大陸のおっさんと、スサノオだけ、大陸に一度戻っており、そいつが誰だかバレても問題ないようにするのには、女系に落とし込む事で解決した。
国譲り前の出雲、奥さん側のお爺さんにスサノオを持ってきて女系の先祖にしている訳だ
丹後ホアカリ、築秦国の饒速日、そしてスサノオは同一人物
スサノオを紀元前7世紀にして、出雲初代の管八耳の奥さんの稲田姫を娶ったように書いた。
この部分は千家果安が忌部小首に頼み、右大臣が許可して書かれたらしい
スサノオは記紀の際に生まれた新造の神で、渡来時期を誤魔化し、国譲りの事件を引き起こす手引きをした千家の悪事を隠すために工作されたらしい。
紀元前3世紀の渡来人を遡らせ、ヤマトと九州の共通の男系の重要人物をこのようにして隠した。
実際には丹後に移住したイソタケルと村雲が奈良入りしたのは紀元前二世紀あたりらしい 記紀の狙いは成功した。
日本書紀が大陸に提出されて以降、その後の大陸の歴史書においても、我が国に大きなターニングポイントを持ち込んだ大陸からの渡来者の正体はバレる事なく、その後も修正される事はなかった。
せいぜいが、邪馬1国の読み方に修正が入ったくらい
しかし効きすぎてしまって、本来は国内向けには隠す方針ではなかったので様々なネタバレが随所に散りばめられた記紀を参照して持論を展開する論調が増えてしまったとも言える。
磐余彦の軍隊は物部氏。
磐余彦は、いつの間にかヤマトにきたら物部のウマシマジになってる。 そもそも伊都国の井原や三雲や平原の弥生遺跡は奴国と比べて小さいんだよな
福岡市が行った那珂遺跡群34次調査説明会の画像
https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1d/76/c93468b601104d5eb8a2df8dbbfb58f2.jpg
紙に書いてる内容 読めないところは□
那珂八幡古墳後円部
南側周溝下層出土土器
(那珂遺跡群34次調査)
□弥生時代終末期〜古墳時代初頭の
□□□(「西新町式□□」、「庄内式」□
□「□□式」□□□□□□
福岡市 西新町式T(編年240〜260年)と
大阪府豊中市 庄内式TB(編年210〜250年)と
不明だがもうひとつ何かの土器が出たんだろう
その結果調査した専門家たちは那珂八幡古墳が作られたのは
弥生時代終末期〜古墳時代初頭 と判断した↓記事
つまり卑弥呼〜台与あたりの時代に福岡市に
86mと小さいが前方後円墳が作られた伊都国〜奴国周辺は
畿内のヤマトの支配下にあったと考えるのが自然
福岡・那珂八幡古墳
全長86メートル 前方後円墳、北部九州最初のモデル
https://mainichi.jp/articles/20190303/ddp/014/040/012000c
九州では最古の前方後円墳とも言われる那珂八幡古墳(福岡市博多区、
古墳時代初頭・3世紀中ごろ)で、
福岡市の発掘調査により前方部の端が確認され、全長86メートルと判明した。
同古墳の後円部・前方部の比率と同じ前方後円墳が北部九州に複数あることから、
同古墳を基本にした可能性があるという。
前方後円墳の普及の過程を知る上で貴重な成果となりそうだ。 狗奴国との戦争中にでかい土盛りは作らん。
その一点だけでも台与以降のもの。
土盛りや周溝からどんな土器が出ようが、それより新しい、ということしか言えないのだから、
早くても3世紀後半、おそらく4世紀以降のものだろう。 福岡市博多区の前方後円墳の那珂八幡古墳の周濠で
大阪府豊中市製の庄内式土器がでた(編年210〜250年)
しかも福岡市 西新町式T(編年240〜260年)といっしょにでた
九州初の前方後円墳を作るにあたり
畿内から技術者が応援にきたんだろう
言っとくけど調査したのも発表したのも福岡市教育委員会だからな
>201 >土盛りや周溝からどんな土器が出ようが、それより新しい、ということしか言えないのだから、
いや240〜250年の可能性は排除できないし実際記事にもそう書いてるじゃん
これは俺の意見ではなくて福岡市教育委員会の専門家の意見ね 魏志倭人伝の誰が土盛りを作るんだ?
まさか妻を何人も持つ倭人様じゃないよな?
奴婢?生口?
生口はどこから来た?
来たとしたらその痕跡は?土器の流れか?
大きな土盛りを作るには多くの生口が必要だよな?
それはどこだ? また邪馬台国畿内説スレが終わってしまったので、
こちらに、転写保存です、
>>752
>最初の方は明らかに倭の説明をしているだろ?
倭あるいは通交していた倭の三十国の戸数が七万戸としか読めんけど
同時代の魏の役人らに拠る実地の見聞計測の記録に拠った魏志倭人伝では、
女王之所都のある邪馬壹國の推定戸数が「可七万戸」。 >>207
>こちらに、転写保存です、
いらんわ。
ボケ 魏志倭人伝の矛盾点の一つに奴国の南に倭国30国があると同時に
狗奴国も南にあること
女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、
その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。
次に斯馬国有り。次に巳百支国有り。次に伊邪国有り。次都支国有り。
次に弥奴国有り。次に好古都国有り。次に不呼国有り。次に姐奴国有り。
次に対蘇国有り。次に蘇奴国有り。次に呼邑国有り。次に華奴蘇奴国有り。
次に鬼国有り。次に為吾国有り。次に鬼奴国有り。次に邪馬国有り。
次に躬臣国有り。次に巴利国有り。次に支惟国有り。次に烏奴国有り。
次に奴国有り。ここは女王の境界尽きる所なり。
その南に、狗奴国有り。男子が王と為る。
その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。
この文章の部分ね
邪馬台国からみて北にある国の名を箇条書きにして
最後の奴国が一番北にあり30国の境界と書いていて
さらにその奴国の南に狗奴国があると読める
三国志正史より後に出た歴史書の中には
狗奴国を奴国の東と勝手に書き換えたものもあるから
昔の中国人もこの矛盾に気づいてた 対馬、壱岐、まつろ国、伊都国、奴国は道のりや戸数が書かれてる
女王国より以北は、その戸数、道里の略載を得べきも、
その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。
ここを読むと箇条書きされた国は遠くて詳しくわからない
もっとも南にある邪馬台国までの陸行の一月なんかはわかるけど
邪馬台国周辺の国は名前しかわからないと
魏志倭人伝には書かれてるわけだ
魏志倭人伝をちゃんと読むと九州北部は消える 邪馬台国以北の対馬海峡の国々は道のりがわかる(里程が書いてある)。
その他の邪馬台国(おそらく伊都国と奴国)の周りの国はよくわからん。
それらはぐるっと周旋五千里で奴国に戻ってくる(距離的には佐賀、長崎)。
それらの南に狗奴国(熊本)がある。
それとは別に(邪馬台国へのルートと並行して別ルートで)投馬国(宮崎都万神社)への道がある。
邪馬台国は狗奴国(熊本)や投馬国(宮崎)より帯方郡に近いことになる。
福岡と佐賀しかない。 福岡には卑弥呼と思われる平原遺跡、佐賀には壹與と思われる與止日女神社。 つぶやきさんの話は面白い
擬宝珠は龍の頭から出てきた珠
竹取物語、大納言大伴御行には「龍の首の珠」を探させる
大伴は船で探索するが嵐に遭い、更に重病にかかり両目は二つの李のようになり、
世間の人々が「大伴の大納言は、龍の首の珠を取りなさったのか」「いや、御目に二つ李のような珠をつけていらっしゃる」「ああたべがたい」と言ったとか
龍の珠の代わりに目のモモ
4世紀半ば〜後半の神功皇后、応神の話かな? 平原遺跡は木棺
3世紀半ばとは考えにくくせめて石棺でないと
そうなると祇園山を出してくるだろうけどあれは方墳で
径百歩ではない なぜ木棺墓だとダメなのか、理由を聞かせてもらおうじゃないか。 三雲南小路遺跡は後漢鏡、平原遺跡は後漢鏡プラス国産鏡だこら、平原遺跡は後漢滅亡後、つまり卑弥呼の時代の女王墓にしかならない。 ならその棺の移り変わりの仮説が間違っているんだよ。
平原遺跡が後漢滅亡後というのが歴史的定点だろう。 >>210
>魏志倭人伝をちゃんと読むと九州北部は消える
ちゃんと読めば真っ先に消えるのは畿内 >>219 もちろんだ 九州と同様に畿内も消える
それどころか中国では1060年の新唐書がでて旧唐書の間違いが訂正されるまで
九州も本州も存在していないことになってるので書きようがない 5世紀にでた後漢書のこれは
桓帝と霊帝の間(146〜168年、168〜189年)に倭国は大いに乱れ
3世紀に出た魏志倭人伝を脚色した結果だろう 倭国乱 → 倭国大乱
大した戦いはなかったんじゃないかってこと
そして畿内には畿内式銅鐸と三遠式銅鐸の特徴を併せ持つ
大岩山銅鐸があり共立のあとの可能性がある
1世紀や2世一の漢委奴国王やスイショウが朝貢した時には敵はいなくなってて
2世紀の九州に戦いのあとはない
七が瀬遺跡は鏡が出てきているので伊都国所属だろう
九州は狗奴国との乱れはあったとしても共立のあとはない 紀元前の吉武大石の使われた形跡のある剣とか
〜1世紀の再建前の吉野ヶ里の首のない被葬者とか
矢がささったままの被葬者とかあるじゃん?
遺構的に九州では1世紀までは戦いがあった可能性はある
てか平原はピアスがでているので女性で
2世紀の九州は女性がトップになれる状況だった
個人的な意見だが戦いを避けるために女王にしたと考えてる
ただ狗奴国との関係はよくわからないがとりあえず共立はしてない >>222 悪いがレベルを落とす気はないぞ
おれは知識を望む
九州の戦いのあとを出せるか?出せるなら出せ
それが確かな場合はおれが間違ってる
出せないならおまえらが間違ってる
俺の書いてることどこか間違ってるか? 普通は北九州から山陰で大乱があったと言われているんじゃないのか? 吉野ケ里遺跡は2世紀に壊滅
桜馬場遺跡や七が瀬遺跡の王家も2世紀に断絶
三雲井原王墓から期間を経て平原遺跡に類を見ない女王墓
どう見ても北部九州が倭国そのもの 畿内って戦いの跡あったっけ?あまり聞いたことないけど 情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
弥生時代各時期における受傷人骨数
<弥生時代早期>
福岡1
高知5
<弥生時代前期>
福岡1 熊本1
兵庫5
<弥生時代中期>
九州52 (福岡39佐賀11長崎1熊本1) ※宝満川流域33
山口2
関西15 (大阪12奈良2兵庫1)
長野1
<弥生時代後期>
九州7 (福岡5佐賀1鹿児島1) ※宝満川流域4
鳥取10
関西0 >>226 >畿内の戦いのあとは出せるのかい?
それは出せない
ただ小競り合いの可能性はある
倭國亂相攻伐歴年 もともと大いにとは書いてない
大いに乱れるって後漢書のやつは
150年後に当時を知らないやつが勝手に書き換えた可能性はある
畿内式銅鐸(飾り耳)と三遠式銅鐸(飛び出す太い横線)で分かれていたのが
その両方の特徴を持った銅鐸が伊勢遺跡にちかい大岩山でみつかる >>231
> ただ小競り合いの可能性はある
可能性くらいならどこでもあるやろw >>232 ないものは出さないぞ
ゴッドハンドと一緒にするなよ
ただし共立については出したぞ
共立のあとは九州は出してない
ここが決定的に違うところ >>235
お前がゴッドハンドだとは誰も考えとらんから心配せんでいいぞ >倭國亂相攻伐歴年
てかこれだけでどのくらいの争いかわかったらエスパーじゃね
しかも最終的には共立してるわけで状況から
憎みあうほど大いに乱れた可能性は低いといえなくもない >>235
銅鐸が共立の跡?
じゃあ卑弥呼の都では共立の根拠となった銅鐸がさぞかし沢山出土するのだろうなw 吉野ケ里遺跡は2世紀に壊滅
桜馬場遺跡や七が瀬遺跡の王家も2世紀に断絶
三雲井原王墓から期間を経て平原遺跡に類を見ない女王墓
どう見ても各王家による平原女王共立
北部九州が倭国そのもの >>203
那珂郡で三角縁神獣鏡が出てるんだから、思いっきり畿内の豪族の拠点でしょ。 情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
受傷成人人骨数の出土全成人人骨数に占める割合
<弥生時代中期>
九州 総1374出土中48 3.49%
福岡904出土中36 3.98%
佐賀409出土中10 2.44%
山口 187出土中2 1.07%
関西 95出土中15 15.79%
大阪 87出土中12 13.79%
奈良 4出土中2 50.00%
兵庫 4出土中1 25.00%
<弥生時代後期>
北部九州 187出土中7 3.21%
福岡 166出土中5 3.01%
佐賀 21出土中1 4.76%
鳥取 36出土中10 27.78%
関西0
弥生時代中期に関西でやばいことが起きた。
後期の関西は無風。
北部九州は甕棺墓制度の終了に伴って遺骨が溶けやすくなり、出土人骨総数が減った。
出土人骨総数に対する、殺傷人骨の割合は変わっていないから、
人口に対する戦乱自体は中期も後期も変わらず起きていたことがわかる。 >>216
>三雲南小路遺跡は後漢鏡、平原遺跡は後漢鏡プラス国産鏡だこら、平原遺跡は後漢滅亡後、つまり卑弥呼の時代の女王墓にしかならない。
お前の妄想は自分のスレッドでだけ書いてろ伊都チョン 情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
弥生時代各時期における受傷人骨数
<弥生時代早期>
福岡1
高知5
<弥生時代前期>
福岡1 熊本1
兵庫5
<弥生時代中期>
九州52 (福岡39佐賀11長崎1熊本1) ※宝満川流域33
山口2
関西15 (大阪12奈良2兵庫1)
長野1
<弥生時代後期>
九州7 (福岡5佐賀1鹿児島1) ※宝満川流域4
鳥取10
関西0 >>228
吉野ヶ里が衰亡に向かうのは3世紀以降でしょ。
二世紀までは築秦国があり、物部王国だった。
景初以降から神功皇后期にかけて北九州から物部族が少なくなった。
朝鮮半島での戦闘に狩りだされたから。
どのみち、母系の協力者である豊国を裏切った物部氏に居場所はなかった。
その後、朝鮮半島の王から物部氏には七支刀が贈られた。
故に、石上に七支刀があり、住吉に七支刀が行かなかったらしい。
成務は結局朝鮮半島で洋平のような事をやって高句麗と戦っていた。それが広開土王碑文に書かれることになったそうだ。
朝鮮半島の前方後円墳は蘇我氏ではなく物部氏のものらしい >>244 そう簡単に決めつけられるものではないだろう
後漢鏡が手に入る状況にないとだめじゃね
曹操と袁紹が争っていた時期に手に手に入るかな
交易ルートが確保できてない可能性あるよね
結構粘ったよ袁家 >>246
それはつまり率善中郎將を印綬された伊聲耆掖邪狗ならびにその一族が台与政権以降も朝鮮半島に干渉し続けた、ということ? 三国志で戦乱だったからね
しかも楽浪郡や半島の混乱とかある間はルートが断たれて
後漢鏡の入手は難しいよね
袁家滅亡後も楽浪郡の公孫家の抵抗とか
帯方郡制圧や高句麗や半島三韓の抵抗とか三国志正史に書いてる
漫画では書いてないから正史を読んでるかどうか てか鏡が入手困難だったから
卑弥呼は銅鏡100j枚を曹芳にお願いしたんじゃないの
また、特に、汝に紺地句文錦三匹、細班華罽五張、白絹五十匹、
金八両、五尺刀二口、銅鏡百枚、真珠鉛丹各五十斤を賜ひ、
みな装ほひ封じて難升米、牛利に付す。
還り到らば録して受け、悉くを汝の国中の人に示すを以って、
国家が汝を哀れむを知らしむべし。
故に、鄭重に汝の好物を賜ふなり。
そのために鄭重に汝の好む物を賜うのである。
魏志倭人伝に書かれてる絹、鏡、丹などは倭国側が要望した可能性が高い 那珂八幡古墳
『古代の福岡』(アクロス福岡文化誌3、2009)
「規模は墳丘長約八五メートル、後円部径約五二b」「後円部径と前方部長の比率が八対五」「九州各地の古墳時代前期前半の初期前方後円墳の墳形につながると考えられる」
「『庄内式』(弥生時代終末期ないし古墳時代早期)の時期に古墳が築かれた可能性がある。
とすれば九州最古の古墳となり、大和の纒向古墳群に匹敵する古さと規模の古墳となろう」。2019年の調査で明らかになったはずの事柄が、不思議なことに、その10年前の2009年に出版された書籍にしっかりと記されている。
東征してない鏡である三角縁神獣鏡が出てる時点で畿内の勢力下であったことは明らか。
邪馬台国事件の後、衰退した物部のあとに、中津臣や阿部家が九州北部に入り込んでる。
宮地嶽古墳の神社の元社家が阿部氏だった事にも関係しているだろうな。
神功皇后期の前に急速な移動が発生している。
阿部系の不正神社は不思議な移動をしており、本来なら琵琶湖周辺から180年代には北陸や東海方面に撤退したはずの大彦勢が、なぜか瀬戸内海に布施神社を作ってる 銅鐸祭祀は、盛んになったという点では出雲が先と一般には考えられているが、大型化した、いわるゆ見る銅鐸は、基本はヤマトの文化
フトニが出雲に攻め込む前に出雲が銅剣祭祀に変わっており、大型化したのは安倍勢が畿内から撤退した後。
その中間の時期の銅鐸は、出雲の砂鉄と機内の銅鐸を交易で交換していた時代がある。
出雲では、後期の銅鐸は畿内製品に置き換わっていた
そして、九州ではやっとこさ、吉野ヶ里遺跡から超初期型の小型の銅鐸がひとつ出土。
どういうわけか、九州では銅鐸が早くに廃れ、銅鏡に置き換わっていったようである。 物部の生贄的文化
物部は元はイスラエル的な文化を持っていたとされ、生贄の文化があった。
対して出雲は黒不浄を極端に嫌う傾向があり、最高礼装が鳥葬であった。
杵築大社が出来上がってからは特にその傾向が強まり、死体に触れたものは祭祀の継承から外されるほどであったと言われる。
故に忌部などの特殊な一族が埋葬などに関わっていたらしい
物部族が景初において二度目の東征を行った際に、記紀に書かれている出来事が実際に起きたらしい。
つまり、古墳の処に戦った敵方の人間を首から下だけ埋めて叫ばせた。
あれが奈良の出雲族に決定的に嫌われる原因を作ったらしく、敵方であったはずの野身宿祢などの出雲勢まで動員して、仲間であったタジマノモリや豊国を切り捨てて政権を取った物部勢は孤立化した
じゃあ、丹後から大和に入った五十猛の一派はどうだったかというと、大年教が絡んでいると思われる。 国譲り事件は、先代旧事本紀で出ている様にアメノホアカリニギハヤヒ(スサノオ)が渡来した直後に起きている。
千家の先祖であるホヒ家が手引きし、出雲の第八代の主王、副王が同時に殺された。
主王は郷戸家の大穴持、八千鉾
副王は富家の少名彦、八重波津身
特に郷戸家親族の怒りはすさまじく、ホヒも殺されるところだったが、向家が助命を申し出たそうだ。
その際、首謀者であるスサノオは、何と子供と奥さんを放り出して中国に帰ってしまった。
母系社会の出雲では、五十猛はそのまま放り出されるはずであったが、幼かった事もあり、大年教の巫女であった大屋姫の近くで育てられることになった。
現在でも出雲の五十猛神社の南には、大年教の神社がある。
そして、五十猛はカゴヤマと名を変えて奈良入りする前に、一時的に「大年彦」を名乗っていた時期がある
つまり、五十猛は、物部式の生贄の文化のある処では育てられていない。 五十猛は九州には行っていない。
大陸に逃げ帰る前の父親の方針に従って丹後に移住したとされる。その際に大屋姫も随伴し、一緒に奈良入りしている。
奈良では、富家系の子孫、事代主の息子であるクシヒカタが摂津の三島家(おそらく主体は九州の越智氏)と組んで奈良湖の開拓を行い、水稲を栽培していた。
どうもその際に大規模な手打ちが行われたらしく、奈良の富家の分家、磯城登美家には、ホヒの娘のサマナ姫が輿入れ。
出雲における最下層の奴隷である「やっこ」からは比較的短時間で脱している。
そして、カゴヤマの息子は腹違いの妹である物部の穂屋姫と婚姻。
出雲側は短期間に再渡来したニギハヤヒの正体を知りながら、嫁を輿入れさせる(服属させる)ことで事を収めたようである。
すさのおにあてられた人物は宗像のイチキシマヒメを娶り、和名ニギハヤヒを九州で名乗った
ヤマトの村雲の家系は
父系父にカゴヤマ、父系母に穂屋姫
母系父に事代主系のクシヒカタ、母系母に三島ミソグイ姫
クシヒカタの次代の建飯勝が、サマナ姫を出雲から呼んで娶っている
五十猛=大年彦=カゴヤマ
大屋姫との間の子供は、和歌山の紀伊家になっていった。
紀伊家はヤマトの村雲の家と同格の分家であり、武内宿祢は、出雲、物部、紀伊家の全ての血が入った人物であった。
紀伊家の母親の兄弟の代で珍彦が生まれており、その代が、物部の最初の東征。熊野本宮大社に陣を張った物部勢との戦いの次代になる。 つまり、村雲の家系の大彦は、五十猛の子孫
大彦系なら五十猛系の神を九州に持ってこれる立場。
それと、村雲か、沼川耳の代で分かれた八井耳系の多臣家も同じく五十猛の子孫。
つまり、この二つの家系が、北九州に三角縁神獣鏡を持ち込んだ可能性がある もうひとつ、紀伊家は、どういうわけか、ヤマトとの違いを出したかったのか、カゴヤマではなく、名を変える前の五十猛を奉じている。
古くから西都原にも地盤があったらしく、紀伊家も五十猛を九州に持ってこれる一族
しかし、築秦国に地盤があったかと言えば、安倍や多氏よりは地名などの名残が極端に少ないと言わざるを得ない。 >>250
だろうね。
けど倭国でも作る絹をなんで欲しがったんだろうね。 情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
弥生時代各時期における受傷人骨数
<弥生時代早期>
福岡1
高知5
<弥生時代前期>
福岡1 熊本1
兵庫5
<弥生時代中期>
九州52 (福岡39佐賀11長崎1熊本1) ※宝満川流域33
山口2
関西15 (大阪12奈良2兵庫1)
長野1
<弥生時代後期>
九州7 (福岡5佐賀1鹿児島1) ※宝満川流域4
鳥取10
関西0 情報考古学Vol24「弥生時代中期における戦争」表6より
受傷成人人骨数の出土全成人人骨数に占める割合
<弥生時代中期>
九州 総1374出土中48 3.49%
福岡904出土中36 3.98%
佐賀409出土中10 2.44%
山口 187出土中2 1.07%
関西 95出土中15 15.79%
大阪 87出土中12 13.79%
奈良 4出土中2 50.00%
兵庫 4出土中1 25.00%
<弥生時代後期>
北部九州 187出土中7 3.21%
福岡 166出土中5 3.01%
佐賀 21出土中1 4.76%
鳥取 36出土中10 27.78%
関西0
弥生時代中期に関西でやばいことが起きた。
後期の関西は無風。
北部九州は甕棺墓制度の終了に伴って遺骨が溶けやすくなり、出土人骨総数が減った。
出土人骨総数に対する、殺傷人骨の割合は変わっていないから、
人口に対する戦乱自体は中期も後期も変わらず起きていたことがわかる。 それにしても、 例『方広寺鐘銘事件』
〜臣、〜国家なりとか、 この辺りの話と同じような・・・、なぜなんだろ?
ほんとーは、家と某、誰かの話なんだろう? 『酔臣 聖造』?こういう家、
『天財若子』・・・同じ。 例『朕は国家なり 天皇』
最近の〜の話、ギャグ、ネタ(?)だという説もあるし。 だから何があったんだよ?と(聞いている)言っているだろ。
何なのか知らないけど、入れ替わっているのかな。 ほんとーに、おかしな話ばかり。
老婆談によると、
家は、そういう近代〜〜〜?の家ではないと言っているし。
『天財若子』(『』)、こういう家。 〜談によると、
泥棒のようなモノに入られた、駆け落ちした?
そういう話、何かの家だという話ばかりしていたしな。
『天若日子 シール』? >>248
まず、
伊聲耆→イサチ→イリヒコイクメ=垂仁
掖邪狗→矢坂イリヒコ
神功皇后期の三韓征伐は実はニ韓しか従っておらず、その2国では我が国の権益、徴税権が発生しましたが、高句麗は従わず度々先頭になりました。
それを守ったのが成務(物部オオタラシ彦)なのだそうです。
まあ、記紀からは死んだ事にされて消されますよねw
それに感謝して朝鮮王は彼に七支刀を贈ったのだそう。
つまり神功皇后期、トヨは既に亡くなっています。 >>249
遠くからやってきた朝貢集団が、なんと鬼道をやっており、正式に認められた証である鉄の鏡ではなく、旧来の、当時では既には反体制の象徴の銅鏡をおねだりされたので、重鎮の人たちはさぞかし顔が青くなった事でしょう
それどころか魏の国の名代である張政を派遣してまで東征軍に肩入れしたのです
通常の朝貢は、貿易の側面が強かったとされ記録はまともにされませんでしたが、こんな大事件でしたから記録されたのでしょう >>192壁画は文章と同じだよ
出土品より価値ある場合もある だから言っているだろー、
『』・・・『天財若子』同じ家。
何やら職、〜□位とか、何時代の話(そういう説明)なんだろう、
ほとんど関係ないみたいな話をしている人(人達)もいた。 それにしても、数日前の話。
網でガサガサやっていたら透明なウオ(魚)が捕れたんだけど、何だったんだろう。
全長10cmくらいあった、場所は多摩川の下流のほう。 『透明 魚』画像、調べてみるとわかる。
細長い、ヒョロヒョロしたタイプだった。 よーし、鶴見川(横浜)のほうに行ってみるとするか。 だから言っているだろー、とある説、論と同じ。
某、某・・・某みたいな家、人物(ほんとーの?むかーしの?)がいるんだけどw
認識不可、〜することが出来ない。 例『』『』『』〜『』
こういう作品(キャラクターとして?)には出てきたりする? 何度も説明した。
稲荷(つきね)〜何やら〜家に置いてあったり、という話もw
『』(天若〜?)、この家の話、談(老婆談)、
・・・書き込みしている家。 『天財若子』?
数代前に・・・引っ越してきた家なんだとw 『日本昔話 石楠花』
こういう話も、ほとんど同じ?話(老婆談)をしていたしな。 邪馬台国、魏志倭人伝を誤記なしで読めば、
里程でも北部九州、首都が伊都
日程でも北部九州、女王が都としている所が伊都 ?だから言っているだろ(言っていた)、
そういうことに、なっているものは、なっている。
かなり有名な〜とか、
ほとんど家と某と某・・・?の話ばかり。
老婆談によると先祖〜と同じ、
謎の日本昔話みたいな話、有名すぎる? 何かに乗っ取られたのかな、
埋立地のほうの話も、それらしき話ばかりだしな。
正確には、そういう企業(〜工場)の土地ではない、埋立地。 何の勢力(金儲け?)なのか知らないけど、無断で建てたりしていたんだろ? 釣り関係w・・・調べてみたんだけど、立ち入り禁止とか、関係ない、
そもそも・・・そういうところの持ち物(土地)ではないし、
何なんだろう? いつ頃からなのか知らないけど、
悪く言うと成り済まし、騙り・・・?
そういう何かがやっているんだろう、しきっている。 だから言っているだろー、
釣り禁止(現在?封鎖中、立ち入り禁止)とか関係ない、
もれが良いと言ったと言えばいい、
〜禁止とか、それ自体、無断(偽の勢力?団体?)でやっていることだから。 どこそこ、何やらが管理(管轄)しているという案内、看板とかあるでしょ?
それ自体・・・?そういう団体?とか。 おかしな話ばかりだな〜?
と気づいている人は気づいている(知っている) 家が言っているんだから、正解。
ちなみに家は『』・・・・・・・こういう家。 悪く言うと、成り済まし、騙りみたいな勢力?集まり、団体とか、
家に挨拶に来たこともないような?
それとも、数代前くらいに?
そういう何か(不明)があったのかな、それにしては?おかしな話ばかり。 『日本昔話 石楠花』、『石見神楽』〜『』『』
ほんとーは同じ家()の・・・・・・・・・・・・・・・・・・w
国の〜だと言っている人達もいたような。 何がおかしいのか?みたいな話ばかり。
いま住んでいる家、土地を売ってくださいみたいな広告(チラシ)が、
たまーにポストに入っていたり。
どこかの企業、不動産〜のチラシ? 例えば、企業、会社自体・・・無断でやっているわけではないしな、
政府の何やらでもない?
ちなみに家は『』こういう家。 とあるスレッドがあるんだけど、
〜の家(家のこと)とか、知らないんじゃないの?みたいな話、書き込みをしている人もいた。
自分の家自体、何やら〜だと知らないとか。 そういう企業(会社)自体も・・・、ほとんど知らないとか。
ちなみに家は『天財若子』()・・・こういう家。 おかしな話ばかりだろ。
家の近所の談とかも、〜工事(道路とか?)をするという理由から、
誰々さんは・・・家の土地(角)を削り取られた、売った。
確実に、家に無断でやっている。 悪く言うと、
成り済まし、騙り?そういう(集まり)・・・が無断でやっている。
〜を工事(例えば道路)するからという話とかも同じ。 家は、右翼?左翼、何やら〜というわけでもないしな、活動もしていない。
おそらく、おかしな人間がいるんだろう、近代(最近)の・・・何やら関係者? なぜ家の・・・なのか?みたいな話ばかり。
例『アニメ オジギソウ』
稲荷(いなり)みたいな〜〜〜とか、老婆談も同じw だから言っているだろー、数代前に引っ越してきた家なんだとw
『天財若子』こういう家。 〜(そういう話、こととか)知らないんじゃないの?
みたいな書き込み(話)をしている人もいた。
数年前の、どのスレッドだったかな。 だから言っているだろーw
何やらを建設する、工事、拡張、開催するとか、何でも良いんだけど、
(日本の)なんていう集まり、団体なんだ? それにしても、おかしな話ばかりだろー、
セメント通り、浅野町・・・、家は、その近所に住んでいる家w
産業を道路を渡らない、工場地帯に入らないところ。 とあるw〜〜〜でも、
なぜか・・・家の周辺の話ばかりしているし。
何やらの社宅、〜寮とか、
例『デイ・シイ浜町宅』この周辺? なぜ家の近所の・・・wなのか?
うちだ・ゆーやのドラム(高野さん)が住んでいたところも、
現在、〜ライスのところだしな。 おかしな話ばかり。
とある時代になり(悪く言うと)乗っ取られたのかな、
国の何やら〜なんだけどみたいな話(書き込み)をしている人達もいた。
(どういう位置づけなのかは、わからないけど)
一番下の・・・、上のほうとも言える。 『天財若子』・・・・・・・・・・。
ビックリマン?『天若日子 シール』 まさか〜?みたいな話ばかり。
なぜか家の?オジギソウ、松の木が立てられている写真w
立っている人物。
そこの近所に住んでいる家。 数代前に引っ越してきた家。
旧広瀬座とか、そういうところの話もしていたしな、
山の上のほうに住んでいて〜とか。 べつに、なんでも良いんだけど、
ほとんど?無断で〜みたいな話ばかり、なんていう団体なんだ?
とある時代、近代の何やら〜? だから言っているだろー、おかしな話(ばかり)だと。
例えば、釣り禁止、現在工事中(封鎖)、〜立ち入り禁止、
〜団体の表記(看板)とか。
何の権利、権限があってやっているんだ? とあるスレッドに書き込みをしたときも同じような反応ばかり、
「さあ?」「・・・」「・・・」「・・・」よくわかりません・・・みたいな反応。 何の(〜近代?)集まりなのか知らないけど、
何の権利、権限があってやっているんだ。 だから言っているだろー、
オマエ達(成り済まし?)の何やらとか通用しないと。 メーソン、イルミナティというスレッドがあるんだけど、知っている?
例『フリーメーソン』 何かの家の本人?ホンモノ(ほんとーの何やら)というのは、
お金とかを持っているわけではないという話をしている人もいたしな。
そのスレッドではなく、・・・そういう話がある。 例えば日本の話をするなら、(日本の)国の何やら?
他の国にもいたりするでしょ、〜国王みたいな人物、家とか。
日本の、ほんとーの何か・・・乗っ取られた? 例えばw
メディアで言っている何やら〜とか、
何のつもりでいるんだ?
(日本の)国の何やら? 数年前の、どのスレッド(日本史関係w)だったかな。
テンノウは、東京の、どこそこに住んでいるんだろうという、
謎の質問をしてきた人もいるし、・・・もれには、わからない。
ちなみに、もれは川崎区という言ところに住んでいる、
あと最近の?テンノウとか、しらないし。
家は『天財若子』?『』こういう家。 これも、どのスレッドだったかな、
(この書き込みをしている)家のw写真を貼り付けた後、
「それ宮様の写真でしょ」という謎のレスもあった。 なんで知っているんだろ?みたいな・・・(レス、返事みたいな意味)ばかり。
調べてみると『』『』・・・とか。 ・・・おかしな話ばかり。
他の何かに、乗っ取られた? 家の周辺にも・・・みたいな人がいたみたいだしな。
兄の話(兄に関係する)なんだけど、
お前、若桜の何やらだろう、そうだろう?そうなんだろうとか聞いてきた人がいるとかw
兄が中学くらいのときの話。 たしか、若桜の、なんとかコ、〜ゴ?
多摩川(六郷橋)のほうに行ったときの話。
当時w同じくらいの年齢の・・・が、
「そうだろ?」と聞いてきたという話。 例『若宮 川崎』この周辺の話?
ほんとーに、おかしな話ばかり、
老婆談によると、何かの家みたいな話もしていた。 老婆と結婚する以前の話、何かの家の・・・だとか。
『天財若子』〜?かなり、むかーしの? だから言っているだろう、
日本の何やら〜とか、おかしな・・・ばかり。
例「天若日子 シール」?こういう家。 テレビで言っている何やら〜とか、
家自体(何かの系統)違うんだろう? とある時代から、
近代?最近のテンノウ(?)とか何やら〜というのも、
ただ、そう言っているだけ・・・みたいな話だしな。 家の周辺の、どこだったかな、
最近のテンノウの何やら〜に、似ている人が歩いているし。
明治くらいのときの?その写真みたいな。 それとも昭和〜くらい?
(wiki)相撲を取っている〜みたいな写真(画像)があるでしょ?
なんとなく、その子供に似ている人物(中年になった?)、誰なんだろう。 例『カウカウ』(どちらの人物なのかは説明不要)
このような・・・、もう少し?・・・。 なんとなく・・・そういう雰囲気で、
最近・・・、近所?〜周辺を歩いているところを見かける。 〜系統(不明)とか、違うんだろう?
子供の頃にもいたような、
そういう雰囲気、池上町のほう? 桜本のほうだった?
そのような感じ(ほとんど同じ?)の・・・たしか、いたしな。
その芸人の親戚というわけでもないだろうし。 それとも平成(wiki)の?
相撲を取っている〜みたいな画像、写真があるでしょ?
ほとんど同じ? 『川崎 池上町』のほうだった?
おかしな話ばかり、そのような感じの・・・。 最近のテンノウ()とか、芸人なんだろーという論もある。 (代わりに?)
そういう活動をして、何か(誰かの)の宣伝しているみたいな・・・、詳しい人は知っている。 家の周辺(謎の聞き取り)も・・・一般人(不明)なのに?
何か知っている人(人達)がいるのかな?
それとも一般人ではないのかな。 おかしな・・・ばかり、ほとんど老婆談と同じ。
当時、住んでいたところにも(山の上のほう)土俵があって・・・、
相撲が好きだったという話もしていたしな。 家の近所w
悪く言うと、すとーか、工作員みたいな・・・が、いるのかな。 〜どこからか、引っ越して来たとか?
かなり遠い地方。 もれはw京都に住んでいたわけでもないしな。
とあるスレッドによると、京都が何やらとか〜、〜。 『姥清水』
この物語自体は知らないけど、ほんとーの話w
家は、この周辺に住んでいたことがあった。 『天財若子』(『』)〜こういう家w
山の上のほうに住んでいた。 そんなことは、どーでもいいんだよ!という話(都市伝説)もあったような。
アクアリウム、熱帯魚〜?飼育〜、そういうことがしたいだけだとか。 ほんとーに誰の話(都市伝説?〜論)なんだろう、他の・・・誰か?
そんな事は、どーでもいいんだよ?
それよりも魚類(例えば、魚介類)を飼育したり、〜、〜とか。 ・・・創作?
アイツは、(魚〜を扱ったりするショップ)それで生計を立てたかった、
それが、アイツの夢だったんだよ。 例『2ch 偉人 おわた・じんせい』
〜〜〜〜〜〜〜他の人物の話だったのかな。 それにしても、ネタ()みたいな話ばかり。
例『徳永英明 - Wednesday Moon』 『日本昔話 石楠花』
老婆談によると・・・家の?みたいな話をしていたしなw おかしな話ばかり。
老婆談によると・・・何かの家だという話。 それにしても、何の話なんだろう。
隣に住んでいた高野さん(たしか兄弟だったような、どっちだったかな)、
〜パワー?みたいな事をしているところを見たことがある。
外をみたとき、偶然(高野さんの家の窓)見えた。
ムーンみたいな、そういうシーン、手を〜・・・。 普通に座って、していたんだけどw〜パワーみたいなシーン。
手で三角形、円形を作っているような・・・何だったんだろう。 <後漢書韓伝>
韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪 南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國
馬韓 「其北與樂浪 南與倭接」
辰韓 「其北與濊貊接」
弁辰在辰韓之南 「其南亦與倭接」
どう見ても後漢時代から朝鮮半島南部は倭領。
<三国志魏志韓伝>
「韓 在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
最初にドンと韓全体の南が倭と接することが明記されている。
馬韓を構成するのは55國。
弁辰はたったの12國。
・馬韓の構成国のうち倭と接する国が多すぎて字数を割いていちいち列挙してられない。
・弁辰には金印倭人が鉄を取りに入っているので、情報価値が高い。「國出鐵 韓濊倭皆從取之」
ことから、弁辰瀆盧國だけ特別に触れた。 だから言っているだろー、そういう作品、曲とか、
・・・・・・・・・・・〜弟子〜弟子・・・弟子?
そういう話なのかな。 例えばw
家は『』こういう家なんだけど、
氏子〜何やらみたいな話、弟子〜弟子・・・弟子?
祭祀(斎祀)関係?なぜか家の話のような。 ほんとーに何度も説明していることなんだけど、
もれwが言っている、成り済まし(不明)〜何やらというのは、
そういう作品(曲とか)〜のことではない。 何がしたいんだ?と聞いているだけ。
墓w荒wらwしwがw何やら〜という謎のスレッドが立っていたこともあるし、
どこかの業者(墓荒らし?)みたいな話? 日本の何やら〜wとか気づいているだろー、
おかしな・・・ばかり(時系列。時代、時間の経過、順序?) 『天若日子』『天財若子』不明、
家は・・・、こういう家なんだけど。 〜荒らしとか、ネット、掲示板の話でもないw
それ以前?ネットも無かった時代。 それにしても、家の近所?周辺にいたしな・・・、
例「カウカウ」?明治の?〜みたいな人とか。 最近、引っ越してきたのかな、(ここ数年)見かけたりする。
子供の頃にも似たような人(同じくらいの年代)はいた。 それとも、少し離れているけど、周辺に住んでいたりしたのかな?
最近(数年前)?家の近所に引っ越して来たとか? 明治時代(もう少し前)くらいの何やら〜とか、
誰かがテキトー(どーでもいい)に決めたりしていたという話(そういう論)をしている人もいる。 なぜ、そういう話(説、論)があるのか?なんだよな。
何者か誰か(〜集まり?)が、
どうでいいみたいな感じで、テキトーに編成(?)していたりした。 それにしても。
2ちゃんねる(5ちゃんねるも同じ)ではないんだけど、
なぜか家の話をしている、何かの家なんだろう?
たしか伊達郡、現在の・・・県?
〜というスレッド(掲示板)で・・・。
老婆談によると、当時、住んでいたことがあった。 老婆談によると川俣町?そういうところがあった、
どこだったかな〜、山の上のほうで・・・・・・・・w 悪く言うと、すとーかー?
とあるスレッドw
京都(学校?)が何やら〜みたいな話をしている人もいたしな、
もれが書き込みをしたあと、そういう話をしている人がいたり。 もれはw京都の出身ではないし、京都の学校にも行っていない、覚えもない。
何の話なんだろう。 何時代(日本w)の話なんだろう、駆け落ちした?
そういう話(老婆談)をしていたことはあった。
数代前まで、・・・いまの福島県のほうに住んでいたw 家の近所にあった(まだ、あるのかな)
『バリバリ伝説』という落書きのネタ?・・・テルクハノル? 『日本昔話 石楠花』
(老婆談)同じような・・・?だしな。 現在の?何県?という話も同じ、〜駆け落ちした?
『巨摩郡』 〜大膳(職?)みたいな人物の話、
『天財若子』こういう家w
それらしき話もしていた、落雁みたいなものとか、
何かに供えたりするものを作っていたり。
偶然にしては、おかしな話ばかりだろう。 家は『天財若子』?
こういう家の・・・、先祖が〜?という話もしていた。
日本昔話と同じ。 漫画、アニメ〜、何かのネタみたいな話?
『』自体、自身が・・・何かの家(本体?)。 それにしても、
捏造(創作)?みたいなことばかりしている人間がいるんだけど、何なんだろう。
すとーかー? 「さあ?」「・・・」みたいな反応ばかりだしな。
ちなみに家は『天財若子』天若〜?こういう家。 創作、あるでしょ?
そんな話はない(創作)みたいな事を言っている人もいたような。
どのスレッドだったかな。 例『天若日子 シール』
『天財若子』()、川崎区に住んでいる家、謎の写真も。 <後漢書韓伝>
韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國
馬韓 「其北與樂浪南與倭接」馬韓の北は楽浪郡と接し、馬韓の南は倭と接す
辰韓 「其北與濊貊接」
弁辰在辰韓之南 「其南亦與倭接」弁辰の南もまた倭と接す
どう見ても後漢時代から朝鮮半島南部は倭領。
<三国志魏志韓伝>
「韓 在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
最初にドンと韓全体の南が倭と接することが明記されている。
馬韓を構成するのは55國。弁辰はたったの12國。
・馬韓の構成国のうち倭と接する国が多すぎて字数を割いていちいち列挙してられない。
・弁辰には金印倭人が鉄を取りに入っているので、情報価値が高い。「國出鐵 韓濊倭皆從取之」
ことから、弁辰瀆盧國だけ特別に触れた。
朝鮮半島南部にあった倭領=投馬國。その中心地が「到」狗邪韓國。
<三国志夫餘伝>
「南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接」
<三国志高句麗伝>
「南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接」
<三国志東沃沮伝>
「北與挹婁夫餘南與濊貊接」
<三国志濊伝>
「南與辰韓北與高句麗沃沮接」 あるでしょ?
弓矢を射って(上空とかに向かい)・・・ただ、
そのまま落ちてきたというだけの話?
「さあ?」みたいな話。 返し矢とか、そんな話はない、
という書き込みをしている人もいたしな。 何かの(弓矢を〜)練習していただけとか、それだけの話? 『落雁』
だから言っただろ、当時の嫁(嫁の家で?)このようなモノも作っていたという話。
〜供えたりするモノ。
でも家自体、自身は『』こういう家。 創価(〜?系統)でもないと言っていたような、
老婆(老婆が?)のときに〜〜〜〜〜〜〜〜〜創価に入っただけ。 どういう事なんだろう、
家自体、自身は『天財若子』?・・・こういう家。 落雁・・・?『雁』
何の話なんだろーみたいな・・・ばかり。
『天若日子』とある画像とか。 何かのネタなのかな?
『雁』(wiki)〜の役という出来事(日本の歴史w)、
アベみたいな人物の話も出て来るし、当時の東北地方のほうの? wiki『雁』w〜『後三年の役』?
謎の説明、関連しているのかな。 何の話なんだろ・・・『落雁』?
例えば、家があるでしょ『』こういう家、
かなり、むかーし(?)の何かみたいだしな・・・w それにしても・・・、テレビで言っている何やら〜とか、
悪く言うと、成り済ましか何かなんだろ?
誰かが、テキトー(どーでもいいみたいな感じで)に決めたりした? 知っている人は知っている、
家のw写真を貼り付けた後「それ宮様の写真じゃないの?」という謎のレスをしてきた人がいる。
子供の頃の写真、何かの制服を着ている、軍人、〜、でもない。 例『羽衣』
とある画像、松の木が立てられていて〜、
このような写真も・・・家の写真だしな。
家の女の親戚、嫁みたいな話? 老婆談と、
ほとんど同じ・・・、日本昔話〜みたいな・・・とか。 『天財若子』こういう家。
『王母 七夕』同じ・・・。 『王母 龍宮』?
『葱の華』が写っていたりする写真、そういう名前の家の写真。
ググったりすると、ほとんど出てきたりする。 その家の子供の頃の・・・という意味なんだろ、
(〜若子という名前ではない)、老婆談と同じ。 『若子 意味』
それらしき・・・・・ばかり、どういう事なんだろ。 ちなみに・・・老婆談(旧姓わたなべ)
テレビwで言ったりしている・・・そういう家ではない。 『わたなべ 源氏』?
豆まき、鬼退治〜みたいな話をしていたこともあったしな。 ほんとーの何か?むかーしの中国の、
稲荷(きつね)〜という話もしていたしな。 おかしな話なんだと言っているだろ、
・・・・・・知っている人は知っている。
家のほうがオニ(不明)〜みたいな家?
稲荷(つきね)を祀っていた、家に何かが置いてあったとも言っていたしな。 例『アニメ オジギソウ』不明。
同じような植物が植えてあったり、
そういう作品(コミック)も、なかった頃の。
松の木も(立ててある)植えてあるし、何の話なんだろう。 羽衣?飛天〜みたいなネタと同じ。
例『飛天』
おかしな話だと言っているだろー、
家のほうが・・・オニ、何やら〜みたいな。
『』こういう家。 天若日子(?)・・・『天財若子』、
あと誰と誰・・・?の家なんだろう、それらしきw
ほんとーの、そういう家? それにしてもwなんで知っている人がいるんだろ?
例『天若日子 シール』
『』この家だしな・・・・・・・・・・・・・・。 それにしても有名な話なのかな。
例えば川崎区の南部のほうにある埋立地、工場地帯?
あったりするでしょ?
正確には企業(?)の〜土地ではないみたいな話、埋め立て。 家の近所、周辺も?(道路の向こう側)そうなのかな。
老婆談によると、
まだ埋め立てたりしている(完成していない?)〜だったと言っていたしな。
老婆が嫁に来たころ。 例えば、オマエ達(不明)のせいで、
釣り、漁・・・潮干狩り?とか出来なくなっただろうみたいな話?
・・・埋め立てて、俺たちの土地だとか? どういう勢力の仕業(?)なんだろう、乗っ取られたのかな。
それとも、ほんとーは家の何か? ちなみに家は『』こういう家なんだけど。
例『石見神楽』〜それらしきばかりだしな。 老婆談によると、家から、ちょっと行っただけで、
潮干狩りもしていた(当時は?できていた)と言っていたしな。
どの辺りなんだろう。 (どこだったか覚えていない)〜の辺りだよとも言っていたしなw
まだ・・・潮干狩りみたいなことはできた、可能だった。 家から(歩いて、徒歩)ちょっと行った場所・・・だと言っていたしな、
どーなっているんだろう。 例『写真で見る昭和の川崎』
それらしき・・・だしな、家から(歩いて)ちょっと行ったところ。 おかしな話ばかりだろー、
老婆談によると、・・・何かの家だという話もしていた。 家の近所の・・・聞き取り(〜談)も?なぜか詳しいような、
おかしな話ばかり。 それにしても、おかしな話ばかり。
『みなしねや』
このような・・・もあるしな。 だから言っているだろ、
オマエ、オマエ達の話など何も関係ない。
そういう家、何やらの話?とか知らないんだろう?
みたいな(話)書き込みをしている人もいたしな。
どのスレッドだったかな。 どの時代からなのか、知らないけど、
悪く言うと、成り済ましみたいな集まり? 明治時代、もう少し前?近代の何やらとか。
悪く言うと、どーでもいいみたいな何か(?)を、
集めただけだという論、説もある。
なぜなんだろう? 何か、それなりの理由()があるんだろう。
そういう論、説が出るような、何か? 日本人と言えば日本人なんだけど、
もともと日本人ではないんだけどなwという話をしている人もいた。
何かの〜系統の家とか。 例『第二次世界戦』・・・(不明)、
近代の?何かの家とかあったでしょ、財とか没収されたりした? 家の近所、周辺?それらしき話をしている人達もいるし。 もともと日本人(後の〜)ではない?・・・土地だったみたいな話、
ほとんど? 土地とかも乗っ取られたわけでもない?
もともと日本人の〜ではないとか、(日本の)国の何やら自体、日本人ではない? 誰の話なんだろ、
例えばw駅前のほうの〜を盗まれたとか〜何やらとか。
戦後とか、そのころ。 例えばw伊達某〜の話でもなさそうだしな。
戦後、駅前の〜盗まれたとか。 そういう話があるんだけど、かなり有名な話・・・誰の話なんだろう。
戦後(混乱期)、土地(一等地)を〜盗まれた、何やらとか。
ノブナガ? 伊達某が〜という話をしている人もいたような、いるでしょ、
ほんとーの何か?陰謀の・・・w なぜ、そういう説があるのか?
・・・何かあるからなんだろうw それとw
なぜ『天若日子 シール』このような・・・なのかな?
そもそも?日本人ではないんだろ〜という話ばかり。 どういう話なんだろー、
伊達郡(いまの〜?)のほうに住んでいたという話もしていたしな、
駆け落ちをした?してきたとか、何やら〜。
『』こういう家。 そういうレスをしてきた人もいる、
たしか、もれwが〜〜〜〜という書き込みをした後、
とあるゲームのスレッド。 ノブナガ(主人公というわけではない)とか〜出て来たりゲームw
そのゲームのスレッド。 <後漢書韓伝>
韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國
馬韓 「其北與樂浪南與倭接」馬韓の北は楽浪郡と接し、馬韓の南は倭と接す
辰韓 「其北與濊貊接」
弁辰在辰韓之南 「其南亦與倭接」弁辰の南もまた倭と接す
どう見ても後漢時代から朝鮮半島南部は倭領。
<三国志魏志韓伝>
「韓 在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
最初にドンと韓全体の南が倭と接することが明記されている。
馬韓を構成するのは55國。弁辰はたったの12國。
・馬韓の構成国のうち倭と接する国が多すぎて字数を割いていちいち列挙してられない。
・弁辰には金印倭人が鉄を取りに入っているので、情報価値が高い。「國出鐵 韓濊倭皆從取之」
ことから、弁辰瀆盧國だけ特別に触れた。
朝鮮半島南部にあった倭領=投馬國。その中心地が「到」狗邪韓國。
<三国志夫餘伝>
「南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接」
<三国志高句麗伝>
「南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接」
<三国志東沃沮伝>
「北與挹婁夫餘南與濊貊接」
<三国志濊伝>
「南與辰韓北與高句麗沃沮接」 あまり、そういう話とかする人がいないのかな、
なぜか詳しい人がいる。
とある時代のw誰の家なんだろう、
こじき(不明)?ではないけど、
ほんとーは、そういうことをしていたとか。
金を出せ、〜、〜とか。 どのスレッドだったかな、
(悪く言うと)コジキがwww何やら〜みたいな話をしている人もいた。
ノブナガ(その時代?)とか、出て来たりゲームのスレッド。 誰なんだろー、かなり詳しかったような。
(当時の)関係者だったのかな? 当時の関係者?何か知っている人がいるんだろう、
ノブナガ〜とか出て来たりするゲームがあったんだけど、・・・。 だから言っているだろう、
家(〜こういう家)の話と・・・近代の〜?とか、何かが違うのかな。 確実、
家は・・・伊達郡(現在の?)〜そういうところに住んでいたと言っていたしな。
近代〜それ以前、もっと前の時代から。 例『王母 七夕』七夕とか?
仙台ではないけど、それらしき・・・。 例『エジプト アンク』とある画像。
他の国に、例えているだけなんだろ、
はやく金を出せ、こっちに渡すんだ。 とある画像・・・、調べてみた?
手に鈍器(ではないけど)のようなもの。 「ですら〜」「〜か!!」とか
そういう謎のレスをしてきた人もいる。 何があったんだろう、
家は『天財若子』こういう家、
老婆談も、それらしき・・・ばかり。
あの日本昔話とか。 例『カンノパトラ』
まさかネタではない?
名前の読みかたも〜〜〜と言っていたことがあったしな。 数年前の、とあるスレッド。
「おまえはデスラかー!!頭おかしくなるわ!!!」
こういう謎のレスをしてきた人がいる。 例『日本昔話 石楠花』
・・・・何かの家なのかな? <後漢書韓伝>
韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國
馬韓 「其北與樂浪南與倭接」馬韓の北は楽浪郡と接し、馬韓の南は倭と接す
辰韓 「其北與濊貊接」
弁辰在辰韓之南 「其南亦與倭接」弁辰の南もまた倭と接す
どう見ても後漢時代から朝鮮半島南部は倭領。
<三国志魏志韓伝>
「韓 在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
最初にドンと韓全体の南が倭と接することが明記されている。
馬韓を構成するのは55國。弁辰はたったの12國。
・馬韓の構成国のうち倭と接する国が多すぎて字数を割いていちいち列挙してられない。
・弁辰には金印倭人が鉄を取りに入っているので、情報価値が高い。「國出鐵 韓濊倭皆從取之」ことから、弁辰瀆盧國だけ特別に触れた。
朝鮮半島南部にあった倭領=投馬國。その中心地が「到」狗邪韓國。
<三国志夫餘伝>
「南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接」
<三国志高句麗伝>
「南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接」
<三国志東沃沮伝>
「北與挹婁夫餘南與濊貊接」
<三国志濊伝>
「南與辰韓北與高句麗沃沮接」 例:サウザー、〜、〜みたいなキャラクターも同じような。 他の国(?)の〜〜〜〜みたいな設定にしているだけ? 例『ウラシマまりん』龍宮〜?
同じような設定、コンセプトばかり。 だから言っただろ、
家の先祖?・・・天若日子(現在?〜という名前ではない)、
老婆談によると、それらしき話。 なぜか、伊達郡(現在の、〜県)?
そういうところがあって〜、山の上のほうとか。 アマテラス()〜何かの家だと言っている人もいた、〜の系統。 ほんとーに、・・・なんで知っている人がいるんだろう、
(つーちゃんねるではない?)掲示板があるんだけど。
〜談と、ほとんど同じ話、書き込みをしている人がいた。 〜談によると。
伊達郡のどこそこで、
広瀬川という川があった、・・・、・・・、・・・。
蚕を飼っていたり、・・・、・・・。 謎の写真も、そこに住んでいた家(書き込みしている)の・・・w 『蚕』wiki。
それらしき話(〜神話とか)ばかり。 コミック、アニメとか無かった頃の・・・、
ほんとーの何か?
『』こういう家w 例『サイバーパンクSPECIAL』
偶然にしては?〜〜〜〜ばかり、
川崎区というところの南部のほうの・・・作品w
以前、伊達郡というところに住んでいた。 ママ(母親)が〜みたいな事を言っているキャラクタとか。
『三貴子』? あの曲(某徳〜)も同じような?
家は・・・伊達郡(数代前まで)というところに住んでいた家w 例『もう一度 あの日のように』
・・・・・・・・バスケがしたいのテーマ? なぜ東遷説のキウスがこのスレを荒らすのかは
解らないが 『バスケがしたい』?
なぜか『サイバーパンクSPECIAL』・・・? サイバーパンク?伊達某と同じキャラクターも出て来るし、
ほんとーの何かの家だと言っている人もいた。
伊達郡とか〜? 『もう一度 あの日のように』曲があるでしょ?
なぜか『サイバーパンクSPECIAL』〜という作品。 家も・・・伊達郡というところに住んでいたと言っていたしな。
川崎区というところの南部のほうに引っ越してきた家。
『』こういう家。 家は『天財若子』()?
こういう家・・・おかしな話ばかり。
>風姿 それらしき・・・ばかり・・・?
『旧広瀬座』というところもあった。 とある作品、ノブナガ〜みたいなキャラクターもいるしw
あと、例『石見神楽』このような・・とか。 あと家の父親談によると・・・、
生麦(鶴見区)のほうの〜みたいな話をしていたこともあった、
誰かが住んでいたのかな、芸能関係? 鮮魚店(商店街)が〜並んでいるところとか、
父親によると・・・、そういう話をしていた。 例『鮮魚店 生麦』
この周辺とか、何の話なんだろう。 ほんとーはw
ほとんど?川崎区というところの南部のほうの・・・、
数代前に、引っ越してきた家。
『天財若子』こういう家。 聞いてみるとわかる、例『石見神楽』〜とか。
>風姿『天財若子』
この家ではないと答えるから。 何者かが(誰か?)、
そういう役を演じさせたり、宣伝?・・・という話、有名なのかな? >>476
ヒボコの渡来は実際には紀元後100年代とも伝わり、新羅の時代ではなく、辰韓からやってきたらしい
新羅建国年は新羅本紀しか資料がなく、現在考えられているような統一新羅が発生したのは4世紀半ば過ぎで、国名を正式に新羅と名乗ったのはもっと後年のこと。
つまり、神功皇后期にはまだ辰韓だった。
辰韓は、元々築秦国と同じで秦国系、つまり大陸系の韓国であり、負けて辺境に逃げたとはいえ巧みな戦術を受け継いだ国家で、ヒボコ勢は紀元後150年代、倭国大乱の初頭において、出雲領の播磨侵攻に際しては圧倒的に強かったらしい。
当初は九州物部と共闘して侵攻する予定だったが、物部に騙されて(神床家の側の視点)単独開戦になってしまい、最終的に淡路島と糸島半島に逃げ込んだと伝わる。
淡路島には不思議な鉄遺跡があり、旧来から出雲やヤマトがやっていたタタラ製鉄が存在しない、景初前の大規模な鉄遺跡が存在する。
ごっさかいと遺跡。
九州に関係すると思われるカエシのついた鉄器が出土しており、出雲の旧家と、ヒボコの家系の神床家に共通している伝承に近い遺跡になっている。
景初前には急激に伊都のある北九州で鍛冶レベルの鉄素材を利用した製鉄が行われ、景初後にはヒボコの地盤の丹後地方が日本一に取って代わり、九州製鉄は急激に勢いを失っている。
なんにせよ、淡路島と伊都島半島においては同じような時期、二世紀には実用鉄器が始まっている様である。 >>250
〉魏志倭人伝に書かれてる絹、鏡、丹などは倭国側が要望した可能性が高い
そういう考え方が言われていますよね。
さらに、丹が出るはずの我が国で同じようなものを所望している事に謎があってそれに関する考察もなされています。
どうも我が国側が望んだのは、鉛丹だったらしいのです。
鉛丹だけは我が国では出現時期がかなり後年になっており、当時最新の赤い染料、鉛丹だったのでは?という考え方をしていました だから言っているだろーw、それらしき・・・ばかり。 『日本昔話 石楠花』
みたいなネタ?ほとんど同じ。 ほとんど観たことがないから〜なんだけど、
最近、再放送(TVK)がやっていて、観ていた。
『バスケがしたい』みたいなネタ? 例『ドンバ』
ネタ?ほとんど同じw
アニメとか観ていた人は知っているはず。 〜宣伝しているのかな?どういうシステムなんだろう。 『王母 龍宮』
家は、こういう家なんだけどw
『天財若子』〜と同じ家。 バスケがしたい、
アニメがあるでしょ?CMになる前とか?同じようなシーンw
『ドンバ』〜『』 『日本昔話 石楠花』
老婆談によると、家の話だと言っているんだけど。 何か知っている人がいるのかな、
例『アニメ オジギソウ』(なぜかアニメ)
よくわからないシステム、稲荷(きつね?)〜という話もしていた、
神道の何かの家? 例『羽衣』
松の木が立てられているでしょ、同じような画像。
オジギソウ・・・植物も植えられている、笹の葉?とか。 家自体、自身は・・・『』こういう家、どういうシステムなんだろう。
キュウリのような葉、葱の葉が写っているのも、家の写真だしな。
軍人、〜、〜でもない。 『セメント通り ふれあい館』
謎の聞き取り。
近所(というか)wに引っ越してきた家。 謎の写真の当時?
キュウリのような葉、葱の華〜とかw
まだ父親もいて(生きていて)・・・、
伊達郡というところに住んでいたと言っていたしな、山の上のほう。 あったでしょ、戦争〜?
そのときは伊達郡?山の上のほうに・・・という話、老婆談。 戦争が終ってから・・・?
いま住んでいるところに戻って(不明)来たのかな? いまの福島県に?父親もいて・・・、長男だと言っていたしな。 老婆談によると・・・謎の写真があるでしょw・・・長男。
父親も伊達郡?いまの〜?県の山の上のほうに住んでいた。 『王母 龍宮』
こういう家、近代の?軍人、〜でもない?という話。 だから言っただろう?という話(書き込み)をしている人もいた。
どのスレッドだったかな。 もっと前の時代の話、
〜駆け落ちした(してきた)という話も同じ。
現在の福島県()のほうに住んでいた。 コミック、アニメとか・・・、
日本人(主人公とか)ではない?みたいな話ばかり。 もともと?日本人ではないみたいな・・・ばかり、
例えば・・・主人公。 <後漢書韓伝>
韓有三種 一曰馬韓 二曰辰韓 三曰弁辰
馬韓在西 有五十四國 其北與樂浪南與倭接
辰韓在東 十有二國 其北與濊貊接
弁辰在辰韓之南 亦十有二國 其南亦與倭接 凡七十八國
馬韓 「其北與樂浪南與倭接」馬韓の北は楽浪郡と接し、馬韓の南は倭と接す
辰韓 「其北與濊貊接」
弁辰在辰韓之南 「其南亦與倭接」弁辰の南もまた倭と接す
どう見ても後漢時代から朝鮮半島南部は倭領。
<三国志魏志韓伝>
「韓 在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里」
最初にドンと韓全体の南が倭と接することが明記されている。
馬韓を構成するのは55國。弁辰はたったの12國。
・馬韓の構成国のうち倭と接する国が多すぎて字数を割いていちいち列挙してられない。
・弁辰には金印倭人が鉄を取りに入っているので、情報価値が高い。「國出鐵 韓濊倭皆從取之」ことから、弁辰瀆盧國だけ特別に触れた
朝鮮半島南部にあった倭領=投馬國。その中心地が「到」狗邪韓國。
<三国志夫餘伝>
「南與高句麗東與挹婁西與鮮卑接」
<三国志高句麗伝>
「南與朝鮮濊貊東與沃沮北與夫餘接」
<三国志東沃沮伝>
「北與挹婁夫餘南與濊貊接」
<三国志濊伝>
「南與辰韓北與高句麗沃沮接」 まあなんにせよ朝鮮半島に倭が権益を持ってた事は確かだよな。
昔から日本の方が大国だった。朝鮮半島は小国に分かれ過ぎていたからね。 「韓は帯方郡の南にあり、東西は海を限りとし、南は倭と隣接している。広さはおよそ四千里四方。三つの国があり、一は馬韓といい、二は辰韓といい、三は弁韓という。辰韓とは、いにしえの辰国のことで馬韓の西に存在する」などと書かれています。
帯方群は、魏の出先機関で、中国領。
日本で言えば、ヤマトからみた伊都や、任那と同じ。
韓の東西の限界を海と書き、韓の南の限界を海と書かず、倭と接していたということ。
海を渡る事なく倭の領土にたどり着けたという事は、朝鮮半島南部は倭の領土だったということになる。
故に、物部イクメの父親は、ミマキイリヒコと、任那に居た事がある様に諡号で書かれた。
豊国から来たから、豊彦やトヨ姫は、豊来入彦(姫)と書かれたのと同じ >>33
村雲→開化までが、尾張氏海部氏の王朝
崇神→仲哀までが、物部政権
応神が、物部と宇佐豊玉姫(卑弥呼)の政権
仁徳から武烈が武内宿禰系の平群氏王朝
そして、継体から現在が蘇我系の現在の皇室
継体の代で、男系は途切れ、現在の皇室の男系は出雲の第8代少名彦、事代主に行き着きます。
北陸蘇我氏の太彦は、出雲からの養子入りの人物です。
武内宿禰系の親戚筋であったがため、請われて大王に就任した 春日之伊邪河宮=宇美八幡宮
春日=春日市
伊邪河=井野川
伊邪国=井野
日本書記などの奈良説は、移した後の場所である ジャップ気づいてしまうw 「邪馬台国」「卑弥呼」は蔑称 [241672384]
https://greta.5ch.net/test/read.cgi/poverty/1651223185/
山本ともひろ
@ty_polepole
午前、自民党文科部会を開催。
九州大学の川本芳昭名誉教授から「邪馬台国・卑弥呼の呼称と国号日本との関係」と題して講演して頂き、
邪(よこしま)、卑(いやしい)は、当時の中国が周辺国を文明が劣ったものとして蔑称の意味で
それらの文字を当てたことが良く分かりました。今後どうすべきか考えます!
https://mobile.twitter.com/ty_polepole/status/1519550955028910080
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 魏志倭人伝を読んで邪馬台国までの行程、最後の陸行30日以外全部船による水行だと先ず第一に思った。
伊都国だけ到、その他は至。
それに末盧国から陸行なら船は末盧国、それなのに不弥国からまた水行は要領が悪い。
末盧国から東南に歩いて500里に大都市伊都国があると記しているだけに実際は伊都国には行ってないように思った。
すなわち、水行で対馬→壱岐→末盧→奴→不弥→邪馬台国だと思う。その時代は博多湾から有明海まで水行出来たんだと思う。
博多湾の入り口が末盧国、湾の途中が奴国、博多湾の最奥が不弥国、そこからは川みたいになり有明海に出たんだと思う。末盧→糸島市、奴→春日市、不弥→太宰府。
投馬国まで水行20日は博多湾の入り口の末盧国からの放射式の距離。博多湾を抜けて有明海を通り旧薩摩国、肥後南部辺りが投馬国に思う。
邪馬台国は末盧国から水行10日だから熊本あたりで船を降り九州横断陸行で30日、延岡市か大分市あたりが卑弥呼がいた都市。
途中通ったと思われる国に蘇が付く国が数国あるから阿蘇山近くを通って竹田市抜けて大分市か高千穂を抜けて延岡市に行ったのでは?
東に海は四国。南に狗奴国は旧大隈国と旧日向中南部。
邪馬台国自体は北九州一帯が勢力圏で大分市か延岡市が卑弥呼がいた都市。
大分市にしろ延岡市にしろ関門海峡を通って行けば水行だけで行けるのに使わなかったのは旧周防国辺りに敵対勢力があり関門海峡の治安が不安定だったからだと思う。
戦国時代末期の大友氏と龍造寺氏連合が邪馬台国。島津氏が投馬国と狗奴国。
毛利氏が北九州くらいまで勢力を伸ばしていて北九州で常に戦があったのでは?だから北九州に近い伊都国に一大率をおいていたのだと思う。
全てただの無知の素人の予想です。
中国に友好を求める使者をわざわざ送るからには邪馬台国連合国は九州北中部。 >>5
〉大率の率と帥は意味も読みも同じだという。
マジですかそれ。勉強になります ● 日本の成り立ち ●
倭人
定期的に楽浪郡を介し前漢へ朝貢
ー 200.00.00 ~ ± 00.00.00
奴国 首長
57年に後漢に朝貢→金印 57.00.00
倭国 帥升(すいしょう)
107年に後漢に朝貢 107.00.00 ~ 117.00.00
【別天津神】
1 天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)
至高の神 117.00.00 ~ 127.00.00
2 高御産巣日神(たかみむすひのかみ)
男女の「むすび」の男を象徴する神
天の生産・生成の「創造」の神 127.00.00 ~ 137.00.00
3 神産巣日神(かみむすひのかみ)
男女の「むすび」の女を象徴する神
地の生産・生成の「創造」の神 137.00.00 ~ 147.00.00
4 宇摩志阿斯訶備比古遅神(うましあしかびひこぢのかみ)
活力の神 147.00.00 ~ 157.00.00
5 天之常立神(あめのとこたちのかみ)
天の永久性を象徴する神 157.00.00 ~ 167.00.00 【天神七代 (十二神)】
1 国之常立神
(くにのとこたちのかみ) 167.00.00 ~ 177.00.00
2豊雲野神
(とよぐもぬのかみ) 177.00.00 ~ 187.00.00
3♂ 宇比地邇神
(うひぢにのかみ)
3♀ 須比智邇神
(すひぢにのかみ) 187.00.00 ~ 197.00.00
4♂ 角杙神
(つぬぐいのかみ)
4♀ 活杙神
(いくぐいのかみ) 197.00.00 ~ 207.00.00
5♂ 意富斗能地神
(おおとのぢのかみ)
5♀ 大斗乃弁神
(おおとのべのかみ) 207.00.00 ~ 217.00.00
6♂ 淤母陀琉神
(おもだるのかみ)
6♀ 阿夜訶志古泥神
(あやかしこねのかみ) 217.00.00 ~ 227.00.00
7♂ 伊邪那岐神
(いざなぎのかみ)
7♀ 伊邪那美神
(いざなみのかみ) 227.00.00 ~ 237.00.00 【地神五代】
1 天照大御神 = 皇祖神 (とされる) = 卑弥呼
(あまてらすおおみかみ) 237.00.00 ~ 247.03.24
2♂ 天忍穂耳尊
(あめのおしほみみのみこと) 247.03.24 ~ 248.09.05
2♀ 万幡豊秋津師比売 = 台与
(よろづはたとよあきつしひめ) 248.09.05 ~ 257.00.00
3 瓊瓊杵尊
(ににぎのみこと) 257.00.00 ~ 267.00.00
4 彦火火出見尊
(ひこほほでみのみこと) 267.00.00 ~ 277.00.00
5 うがや草葺不合尊
(うがやふきあえずのみこと) 277.00.00 ~ 286.12.31 【歴代天皇】
**1 神武天皇(じんむ) 287.01.01 ~ 297.03.11
**2 綏靖天皇(すいぜい) 298.01.08 ~ 308.05.10
**3 安寧天皇(あんねい) 308.07.15 ~ 318.12.06
**4 懿徳天皇(いとく) 319.02.04 ~ 329.09.08
**5 孝昭天皇(こうしょう) 330.01.09 ~ 340.08.05
**6 孝安天皇(こうあん) 341.01.07 ~ 351.01.09
**7 孝霊天皇(こうれい) 352.01.12 ~ 362.02.08
**8 孝元天皇(こうげん) 363.01.14 ~ 373.09.02
**9 開化天皇(かいか) 373.11.12 ~ 383.04.09
*10 崇神天皇(すじん) 384.01.12 ~ 394.12.05
*11 垂仁天皇(すいにん) 395.01.02 ~ 405.07.14
*12 景行天皇(けいこう) 406.07.11 ~ 416.11.07
*13 成務天皇(せいむ) 417.01.05 ~ 427.06.11
*14 仲哀天皇(ちゅうあい) 428.01.11 ~ 436.02.06
*15 応神天皇(おうじん) 437.01.01 ~ 447.02.15
*16 仁徳天皇(にんとく) 448.01.03 ~ 458.01.16
*17 履中天皇(りちゅう) 459.02.01 ~ 464.03.15
*18 反正天皇(はんぜい) 465.01.02 ~ 469.01.23
*19 允恭天皇(いんぎょう) 470.12.01 ~ 480.01.14
*20 安康天皇(あんこう) 480.12.14 ~ 483.08.09
*21 雄略天皇(ゆうりゃく) 483.11.13 ~ 493.08.07
*22 清寧天皇(せいねい) 494.01.15 ~ 498.01.16
*23 顕宗天皇(けんぞう) 499.01.01 ~ 501.04.25
*24 仁賢天皇(にんけん) 502.01.05 ~ 512.08.08
*25 武烈天皇(ぶれつ) 512.12.01 ~ 520.12.08
*26 継体天皇(けいたい) 521.02.04 ~ 531.02.07
*27 安閑天皇(あんかん) 531.02.07 ~ 535.12.17
*28 宣化天皇(せんか) 535.12.17 ~ 539.02.10
*29 欽明天皇(きんめい) 539.12.05 ~ 571.04.15
*30 敏達天皇(びだつ) 572.04.03 ~ 585.08.15 *31 用明天皇(ようめい) 585.09.05 ~ 587.04.09
*32 崇峻天皇(すしゅん) 587.08.02 ~ 592.11.03
*33 推古天皇(すいこ) 592.12.08 ~ 628.03.07
*34 舒明天皇(じょめい) 629.01.04 ~ 641.10.09
*35 皇極天皇(こうぎょく) 642.01.15 ~ 645.06.14
*36 孝徳天皇(こうとく) 645.06.14 ~ 654.10.10
*37 斉明天皇(さいめい) 655.01.03 ~ 661.07.24
*38 天智天皇(てんじ) 661.07.24 ~ 671.12.03
*39 弘文天皇(こうぶん) 671.12.05 ~ 672.07.23
*40 天武天皇(てんむ) 673.02.27 ~ 686.09.09
*41 持統天皇(じとう) 686.09.09 ~ 697.08.01
*42 文武天皇(もんむ) 697.08.01 ~ 707.06.15
*43 元明天皇(げんめい) 707.07.17 ~ 715.09.02
*44 元正天皇(げんしょう) 715.09.02 ~ 724.02.04
*45 聖武天皇(しょうむ) 724.02.04 ~ 749.07.02
*46 孝謙天皇(こうけん) 749.07.02 ~ 758.08.01
*47 淳仁天皇(じゅんにん) 758.08.01 ~ 764.10.09
*48 称徳天皇(しょうとく) 764.10.09 ~ 770.08.04 *孝謙天皇と同一
*49 光仁天皇(こうにん) 770.10.01 ~ 781.04.03
*50 桓武天皇(かんむ) 781.04.03 ~ 806.03.17
*51 平城天皇(へいぜい) 806.03.17 ~ 809.04.01
*52 嵯峨天皇(さが) 809.04.01 ~ 823.04.16
*53 淳和天皇(じゅんな) 823.04.16 ~ 833.02.28
*54 仁明天皇(にんみょう) 833.02.28 ~ 850.03.19
*55 文徳天皇(もんとく) 850.03.19 ~ 858.08.27
*56 清和天皇(せいわ) 858.11.07 ~ 876.11.29
*57 陽成天皇(ようぜい) 876.11.29 ~ 884.02.04
*58 光孝天皇(こうこう) 884.02.05 ~ 887.08.26
*59 宇多天皇(うだ) 887.08.26 ~ 897.07.03
*60 醍醐天皇(だいご) 897.07.03 ~ 930.09.22 *61 朱雀天皇(すざく) 930.09.22 ~ 946.04.20
*62 村上天皇(むらかみ) 946.04.20 ~ 967.05.25
*63 冷泉天皇(れいぜい) 967.05.25 ~ 969.08.13
*64 円融天皇(えんゆう) 969.08.13 ~ 984.08.27
*65 花山天皇(かざん) 984.08.27 ~ 986.06.23
*66 一条天皇(いちじょう) 986.06.23~1011.06.13
*67 三条天皇(さんじょう) 1011.06.13~1016.01.29
*68 後一条天皇(ごいちじょう) 1016.01.29~1036.04.17
*69 後朱雀天皇(ごすざく) 1036.04.17~1045.01.16
*70 後冷泉天皇(ごれいぜい) 1045.01.16~1068.04.19
*71 後三条天皇(ごさんじょう) 1068.04.19~1072.12.08
*72 白河天皇(しらかわ) 1072.12.08~1086.11.26
*73 堀河天皇(ほりかわ) 1086.11.26~1107.07.19
*74 鳥羽天皇(とば) 1107.07.19~1123.01.28
*75 崇徳天皇(すとく) 1123.01.28~1141.12.07
*76 近衛天皇(このえ) 1141.12.07~1155.07.23
*77 後白河天皇(ごしらかわ) 1155.07.24~1158.08.11
*78 二条天皇(にじょう) 1158.08.11~1165.06.25
*79 六条天皇(ろくじょう) 1165.06.25~1168.02.19
*80 高倉天皇(たかくら) 1168.02.19~1180.02.21
*81 安徳天皇(あんとく) 1180.02.21~1185.03.24
*82 後鳥羽天皇(ごとば) 1183.08.20~1198.01.11
*83 土御門天皇(つちみかど) 1198.01.11~1210.11.25
*84 順徳天皇(じゅんとく) 1210.11.25~1221.04.20
*85 仲恭天皇(ちゅうきょう) 1221.04.20~1221.07.09
*86 後堀河天皇(ごほりかわ) 1221.07.09~1232.10.04
*87 四条天皇(しじょう) 1232.10.04~1242.01.09
*88 後嵯峨天皇(ごさが) 1242.01.20~1246.01.29
*89 後深草天皇(ごふかくさ) 1246.01.29~1259.11.26
*90 亀山天皇(かめやま) 1259.11.26~1274.01.26 *91 後宇多天皇(ごうだ) 1274.01.26~1287.10.21
*92 伏見天皇(ふしみ) 1287.10.21~1298.07.22
*93 後伏見天皇(ごふしみ) 1298.07.22~1301.01.22
*94 後二条天皇(ごにじょう) 1301.01.22~1308.08.25
*95 花園天皇(はなぞの) 1308.08.26~1318.02.26
*96 南1 後醍醐天皇 (ごだいご) 1318.02.26~1339.08.15
*97 南2 後村上天皇 (ごむらかみ) 1339.08.15~1368.03.11
*98 南3 長慶天皇 (ちょうけい) 1368.03.11~1383.10.01
*99 南4 後亀山天皇 (ごかめやま) 1383.10.01~1392.10.05
北1 光厳天皇 (こうごん) 1331.09.20~1333.05.25
北2 光明天皇 (こうみょう) 1336.08.15~1348.10.27
北3 崇光天皇 (すこう) 1348.10.27~1351.11.07
北4 後光厳天皇 (ごこうごん) 1352.08.17~1371.03.23
北5 後円融天皇 (ごえんゆう) 1371.03.23~1382.04.11
100 北6 後小松天皇 (ごこまつ) 1382.04.11~1412.08.29 101 称光天皇(しょうこう) 1412.08.29~1428.07.20
102 後花園天皇(ごはなぞの) 1428.07.28~1464.07.19
103 後土御門天皇(ごつちみかど 1464.07.19~1500.09.28
104 後柏原天皇(ごかしわばら) 1500.10.25~1526.04.07
105 後奈良天皇(ごなら) 1526.04.29~1557.09.05
106 正親町天皇(おおぎまち) 1557.10.27~1586.11.07
107 後陽成天皇(ごようぜい) 1586.11.07~1611.03.27
108 後水尾天皇(ごみずのお) 1611.03.27~1629.11.08
109 明正天皇(めいしょう) 1629.11.08~1643.10.03
110 後光明天皇(ごこうみょう) 1643.10.03~1654.09.20
111 後西天皇(ごさい) 1654.11.28~1663.01.26
112 霊元天皇(れいげん) 1663.01.26~1687.03.21
113 東山天皇(ひがしやま) 1687.03.21~1709.06.21
114 中御門天皇(なかみかど) 1709.06.21~1735.03.21
115 桜町天皇(さくらまち) 1735.03.21~1747.05.02
116 桃園天皇(ももぞの) 1747.05.02~1762.07.12
117 後桜町天皇(ごさくらまち) 1762.07.27~1770.11.24
118 後桃園天皇(ごももぞの) 1770.11.24~1779.11.09
119 光格天皇(こうかく) 1779.11.25~1817.03.22
120 仁孝天皇(にんこう) 1817.03.22~1846.02.06
121 孝明天皇(こうめい) 1846.02.13~1866.12.25
122 明治天皇(めいじ) 1867.01.09~1912.07.30
123 大正天皇(たいしょう) 1912.07.30~1926.12.25
124 昭和天皇(しょうわ) 1926.12.25~1989.01.07
125 上皇 (平成)(へいせい) 1989.01.07~2019.04.30
126 今上天皇 (令和)(れいわ) 2019.05.01~ 以前貼らせて頂いたものの追加版です
個人的にしっくり来たので…
http://yamataikokunokai.com/tousennsetu/nendai.htm
初期の天皇の平均在位を約10年前後で
当て嵌めていったら
確かに卑弥呼が活躍したとされる時代と
当て嵌まる形で行き着きました...
因みに それより前の世代については
そのまま単に10年前後にしただけです...
あと 神武天皇より前の系図が
別天津神から地神五代なんですが
こちらも確かに
天照大御神 (皇祖神) =卑弥呼で
万幡豊秋津師比売 = 台与
(よろづはた「とよ」あきつしひめ)
に当て嵌まりました
なおかつ そのすぐ前代には帥升…
そして 金印から帥升の間は50年…
皇室の皇祖神 (とされる) が天照大御神なのと
個人的には「東方征伐」というものが
かなりのパワーワードだと思っていますので
邪馬台国(九州)→東方征伐して→ヤマト王権(大和朝廷)
で認識する事にしました
あくまでも個人的なので...
その方がいいや
さすが日本だわ ただ
時系列と登場人物や代数は
比較的きれいに繋がり
卑弥呼や台与は重なったものの
金印と帥升 及び 帥升と天之御中主神の
関係性は未定です 祇園山古墳が高良大社の麓にあることは、ほとんどの本州人は知らないので、困ったことですね(大和説の陰謀かな?!^^)。
まず、魏志倭人伝「女王国(九州)東渡海千里複有国皆倭種(本州)。又有侏儒国(四国)在其南、去女王(之所都)四千里」で、九州で決まり。
さらに「(女王国)其南有狗奴国(長官・狗古智卑狗=菊池彦)」ですから、邪馬台国七万戸は、菊地平野の北・筑紫平野しかないですね。
そして、3世紀中頃の築造で、殉葬者66人が確認されている王墓は祇園山古墳しかなく、その尾根上にある筑後国一之宮・高良大社で決まりです(おめでとうございます)!
ちなみに「不弥国から南水行二十日で投馬国に至る。さらに南水行十日陸行一月で邪馬台国に至る」は、「その道里を計るに、まさに会計東冶(帯方郡から12,000里)之東(沖縄と台湾の中間)にあるべし」と結論付けるために、陳寿が帯方郡から会稽東冶に至る「中国大陸沿岸の行程」を倭国に転用した忖度(蛇足)とすると、投馬国五万戸(宮崎都万)も九州内に収まりますよ。
おそらく洛陽(後漢〜曹魏〜西晋の帝都)から見た倭国は、宿敵・孫呉の背後の海上に浮かび、(自ら渡海してまで朝貢して来て)呉を牽制してくれようとしている可愛い国という認識だったんでしょう。
だからこそ特別に優遇して金印「親魏倭王」(鉄の発注書の封泥用)を与え、帯方郡の鉄の輸出を許可し、狗奴国の卑弥弓呼を平定せよと銅鏡百枚(✕五百枚w)を与えたんでしょうね。
なんだか双六の「ふりだしに戻る」みたいで、呆気ないものですね( *´艸`) これぞサイエンス? 邪馬台国の場所は「日食」で特定できるか
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1655311038/
卑弥呼の時代にいつ皆既日食が生じたか
247年3月24日と、248年の9月5日にあったことがわかります。
247年3月24日に日食が起こった時刻は、北九州では日の入りの頃でした。
太陽は日没までにほぼ皆既日食となって真っ暗になり、そのまま日が没したと考えられます。
一方、近畿では、その時刻にはまだ太陽は半分くらいしか隠れていないまま、日の入りとなります。
日没後も真っ暗にはならず、徐々に暗くなってゆきます。
この見え方の違いから、皆既日食によって世界が真っ暗になるという恐怖を体験したのは
九州の人たちであると斉藤は結論し、247年に福岡市で見えた日の入り時の皆既日食を
岩戸日食と断定すれば、議論は明快に片付く。そして卑弥呼の死亡年は247年となり、
邪馬台国も九州と言うのが有力となる >>565
これビンゴかも
・モモソヒメの墓は4世紀半ばのものの可能性がある
・最古の人型の埴輪は4世紀末
殉死をやめて人型の埴輪を置いたのは垂仁天皇の御代 >>570
>太陽が隠れたので殺されたのか
【悉可以示汝國中人使知國家哀汝】とまで詔書で述べたのに
こんなアホな思い付きの説が出るとは実に嘆かわしい限りだ。 赤村の前方後円墳らしき墳丘は卑弥呼の墓の記述と大きさも一致するのに自治体は自然の地形と言い張り調査せず放置 九州でも考古学は畿内派が抑えてるからな
大宰府天神も >>576
涙拭けよ否定された近畿パー
はい、また論破w >>578
涙拭けよデタラメ垂れ流して人格まで否定された近畿パー
はい、また論破w >>578
人格障害者ってお前らウソつき近畿パーのことやで
それただの自己紹介w
はい、またまた論破w >>581
>神武東征は考古学的に否定済み
解説してください >>582
こんなのもうテンプレな
遅れたアホだなお前は
纒向には西日本全域から土器が集まっているが
九州のものは僅かしか無い。
近畿の征服者としての九州勢の面影は全く見ることが出来ない。
東征も東遷も無い。
纒向遺跡が考古学的に否定した。
>>583
纏向に一番多い庄内式は九州原産ですけど 郡使が駐在した伊都には楽浪土器など魏との交流の痕跡が色濃いが、纏向は魏とはおろか、九州との交流すらなかった。
つまり纏向は魏志倭人伝に登場する邪馬台国と何の関係もない。 >587
そういう嘘ついてると九州説が浮かばれないでしょ >>583
土器が集まっている=王都
とは安直過ぎないか? 1000年後に、爆買いにより日本製の炊飯器が中国で大量に出てくるからといって、日本(纏向)が中国(北部九州)を支配していたとはならないだろうw 魏志倭人伝にト骨があり
卑弥呼が居るのは大野市より北にはない。 そら人足寄せ場やから土器もいるわな
そんだけの話
自分に都合いいとこだけアホほど膨らますの
いい加減止めへん?
こっちが恥ずかしいわ 卜占は民間信仰だろ、卑弥呼の鬼道とは無関係じゃないの >>593
そこじゃない。
使者がト骨の習慣がある所を訪れている。
弥生後期にト骨の出土がある地域はどこだよ 九州説はあり得ない。
邪馬壹国は近畿
卑弥呼が九州にいるだけだよ。
地域にト骨が出土する地域はどこだよ
卑弥呼とト骨は関係ないとして考えろ 597 日本@名無史さん[] 2022/09/05(月) 17:34:01.62 ID:
出た!近畿説w結局、九州説じゃないかw
阿保である。奈良が都である
景行天皇が九州へ遠征、
九州が都になるという考え方。 博多に庄内土器があったから博多が畿内の支配下?
そんなことあるわけない。
東京に中国製の家電品がたくさんあったから東京は中国の支配下にあったと主張しているのが畿内説。 >>601
そこが畿内説と違う点
まだ、そんな力は近畿にないな。
祭祀での共立と見たほうがいい。
邪馬壹国近畿説 >>591
そこで絹は出土するか?纏向で出土するか? 纏向説でなく、近畿説
鉄の出土と同じく、稲部遺跡からの出土あります。
邪馬壹国近畿説。 邪馬壹国に鉄や絹が豊富とかの記載はない。
鉄や絹についてはあるが
どの国が多いとかの記載はない。
邪馬壹国 しかし、ト骨、絹ともあるのは
九州では有明海沿い 吉野ヶ里、
或いは周辺に卑弥呼居たかも?
邪馬壹国近畿説 >>583
巻向一式は、確か180年代に突如出てくる土器でしょ
倭国大乱期後期なんだから東征が関係してるのでは? 三国志東夷伝倭人の条通称「魏志倭人伝」の記述によれば
3世紀の倭人は顔中体中真っ赤な入れ墨だらけ
ところが日本書紀・古事記では入れ墨族は
入れ墨の習慣がない「天孫族」とやらにひたすら殺戮されていくウホウホ蛮族扱い
「天孫族」と入れ墨族のハーフのイハレヒコが
入れ墨族の小邑を配下にしたという記述はあるが
イハレヒコの配下の入れ墨族もやっぱり他の入れ墨族を殺戮していく >>611
土器は、東海・伊勢からのが多い
戦乱跡と思われる痕跡もない。 >>612
4世紀、6世紀の埴輪には入れ墨がある。
飛鳥京あたりで入れ墨の
ない文化が入り浸透かもしれない >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ >>616
それ倭人伝を正しく読むスレで完全論破された糞コピペじゃんw
今どき水行陸行の意味すらわかってないとかw
2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし 3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる >>617
1000年近く後の事ではないのか。
見方、考え方も違ってるかも 文字が無かったなんて
どうしても思えないんだけど… >>613
180年代から始めるからだよ
その前が大乱期でしょ?
180年は大乱期終結期
つまり巻向一式そのものが戦乱の後に入ってきた連中の土器という考え方ですよ
丹後風土記だか、播磨風土記は、倭国大乱期の初端をヒボコの播磨侵攻にしてたはずだよ >>618
肝心な邪馬台国までの里数がないんだよ。 イヒ限契
急定約
げ放者
!送 09/14 14時05壺 >>619
沈約の宋書は5世紀だが?
そこから光緒四年(1878)の嘉興府志まで千年以上意味が変わっていないものを
魏志の頃だけ違ったと言い張るのはさすがに苦し過ぎるぞ 佐賀市大和町・七ヶ瀬遺跡 「三種の神器」セットで出土 県内初、弥生後期に有力首長か
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/704143
これが奈良だったら大騒ぎだろうに佐賀だから誰も話題にしない 福岡や糸島では昔から出るからな。
ご近所さんみたいなもんだから
文化的に近いんだろうな。 吉野ヶ里が福岡と同じ甕棺だから、佐賀は同じ文化圏ということで。
邪馬台国の周旋五千里は、福岡佐賀長崎、大分の一部くらいかと。 福岡佐賀は同じ文化圏ぽいが
八女あたりから南は熊本が混じってくる。
筑後だと、久留米文化圏、大牟田文化圏
佐賀文化圏。
佐賀と久留米の間で戦っていたのが
吉野ヶ里から鳥栖にかけて。 水行10日は俺のただの意見だけどはるばる中国から使節が来るんだから通り道の全ての小国のオモテナシがあってほとんど進んでないと思う。
東京から大坂まで新幹線で行くと仮定するとこだまの各駅で降りて駅長にオモテナシを受けてを繰り返すみたいな感じ。
ちょびちょびオモテナシを受けて距離的には進んでないから日数で表記して水行10日とだけ記載して距離を書いてないのでは?と直感で感じた。
少なくとも私が邪馬台国連合の小国の長なら盛大なオモテナシをしてアピールする。 >>633
水行10日 【又は】 陸行1月 だ。
投馬国(五万戸)(土佐国宿毛・太平洋沿岸一帯)
↓【南】水行10日 【又は】 陸行1月(旧土佐街道)
邪馬台国(女王之所都)(七万戸)(阿波国鮎喰川下流弥生後期集落群) @阿波 >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ >>635
それ倭人伝を正しく読むスレで完全論破された糞コピペじゃんw
2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云?陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上?縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし >>635
3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる 不弥国から南の方角に向かって水行したので最終到着地点は有明海沿岸ですね
https://i.imgur.com/aeC7cCw.jpg >>635
大月氏国より【遠い事にされた】だけだよ。
これで倭人伝の「おかしな里」も説明できるだろ?
帯方郡から万二千里とは洛陽から万七千里。
帯方郡から万六千里の大月氏国より遠くなりましたーと。司馬氏ご満悦。これが真相。 >>638
確かに邪馬台国探究において有明海沿岸部が軽視されてるのはおかしいな
壱岐から平戸方面に回り、大村湾から有明海に入る
昔は大村湾と有明海は繋がってだからね 卑弥呼は伊都にいた説だが、本貫地は有明海沿岸だと思っている。
邪馬台国は博多湾沿岸と有明海沿岸を両方含む福岡佐賀長崎だな。 >>641
>本貫地は有明海沿岸だと思っている。
なんとなく、もやっとそう思うわけだな。 妄想が趣味のようだ。 わははははは @阿波 >>640
> 確かに邪馬台国探究において有明海沿岸部が軽視されてるのはおかしいな
> 壱岐から平戸方面に回り、大村湾から有明海に入る
> 昔は大村湾と有明海は繋がってだからね
諫早に船越と言う地名がありますが、ここで繋がっていたのでしょうね
https://i.imgur.com/x809xx9.jpg >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の(北部)九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高いが、
古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている
(北部)九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい大人がいつまでもみっともないよ
もういい加減あきらめようぜ 不弥国まで細かく里程を刻んでおいて、いきなり水行二十日とかになるわけない。
その情報では辿り着けないしな。
ということは読み方が根本的に間違えている。
まして畿内は中国と交渉していた痕跡そのものが希薄。 >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。 ・理化学
「今回のモモの種の年代測定の結果から、纒向遺跡が邪馬台国である可能性が高いことが示されました」
(『奈良県纒向遺跡出土のモモの種の 高精度 14C 年代測定と邪馬台国の所在地論争』中村俊夫 二〇一八年)
・考古学
「この『第V様式土器』圏として把握される畿内圏が、のちに〈魏志倭人伝〉に『邪馬台国』と表記されるヤマト国であろう」
(『倭における国家形成と 古墳時代開始のプロセス』岸本直文 二〇一四年)
・文部科学省検定済教科書
「最近では、大型建物跡や大溝が見つかった奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡の発掘成果や、
漢の鏡の出土分布などから、大和盆地南東部がその候補地として有力になりつつある」
(『新選日本史B』東京書籍 二〇一八年)
「初期の前方後円墳の一つである箸墓(はしはか)古墳の築造時期の見直しや、奈良県の纒向遺跡で魏志倭人伝にいう
「宮室」にあたるとも考えられる遺構が出土するなど、この問題に関する新たな発見が続いている」
(『高等学校日本史B』清水書院 二〇一七年) >>652
そういう非科学的な願望を並べることしかできないから畿内説は敗れ去ったんだよ >>652
桃の種は纒向遺跡とは別の遺構から発見されたものであり遺跡とは無関係
邪馬臺はヤマタイでありヤマトとは別種
隋書では改めて邪馬堆として紹介されており語尾がタイである事が強調されている
教科書に記載されているのは畿内説のコメントであり史実とは言えない
宮殿と騒いでる纒向建物跡は実際は魏志倭人伝の記述内容と大きく異なる貧弱な構造をした臨時施設である 纒向遺跡の建築
日本書紀をみると、王宮では崇神天皇が天照大神(あまてらすおおみかみ)の御霊代(みたましろ)を祭っていた。
天皇は御殿で「同床共殿(どうしょうきょうでん)」の祭祀(さいし)を行っていたが、神の霊威(れいい)を恐れて、宮内の大庭にホコラを建てて、大神(おおみかみ)のご神体である宝鏡をお納めした(神宮雑例集)。
これが建物Cである。
それでもまだ恐れ多いので、垂仁天皇の時代に伊勢に社を造り、宝鏡をお移しした。
それが伊勢神宮であり、建物Cの復元形態は神宮の正殿と極めてよく似ている。
神明造(しんめいづくり)の形が倉庫と近いのは、王宮における建物Cが宝庫だったことによるのである。
建物Dは正面の柱間数が偶数の四間であることが大きい特徴である。
出雲大社本殿も正面柱間数が偶数の二間である。偶数柱間だと正面中央に柱が来るから、王宮や寺社は奇数柱間が常識である。
だから偶数柱間の建物Dと出雲大社本殿は著しい類似性を持つといえる。
出雲大社本殿の建設は、古事記垂仁天皇の条に記述がある。皇子(おうじ)が出雲の大神のたたりで言葉を発しなかったが、大神に祈ったところ皇子が治癒した。
そこで大神のために天皇の御殿に似せて出雲大社を造ったというのである。建物の性格としても、両者はともに外から拝礼するのではなく、内部で祭りごとを行うので、偶数柱間で差し支えないのである。
纒向遺跡の建物Cは伊勢神宮の直接の起源であり、建物Dは出雲大社と関連が深いことがお分かりいただけただろうか。
黒田龍二
結論: 纒向遺跡は崇神天皇の磯城瑞籬宮。
本殿と拝殿の間の中庭に八咫鏡を納めていた倉があるのが特徴。
全体を囲む柵が瑞籬。 しかしなあ、「蓋然性が高い」と言われ始めてから何十年もたつのに、いまだおなじ「蓋然性が高い」と唱えられて、そこから1ミリも進んでないからな。
このまま蓋然性だけで胸張り続ける邪馬台国大和説かいな。 🤣
34 日本@名無史さん sage 2023/03/28(火) 07:34:02.58
要するに畿内説は韓国式歴史捏造テロなのですね 纒向遺跡は当の桜井市教育委員会の
発掘担当者が
宮殿としては柱が細すぎるし
柱間隔も狭すぎる
倉庫や住居の可能性が高い、って言ってるんでしょ 日本で黥面文化が確認されてないのは日向国と大和国だけ
邪馬台国は黥面文化だから日向国と大和国は邪馬台国ではない
九州北部で力を付けた連合国の邪馬台国が、宮崎にあった投馬国を追いやったのが神武東征
畿内に辿り着いた投馬国が王権となって出雲や吉備を併呑しながら西征して、邪馬台国を打ち破ったのが記紀神話の土蜘蛛討伐
こうして邪馬台国を併呑してヤマトの名前を乗っ取ったヤマト王権が熊襲を征伐したけど、熊襲は邪馬台国の南にあった狗奴国
邪馬台国、投馬国、狗奴国の位置関係や文化と記紀神話の辻褄が合うのはこのパターンだけ
邪馬台国東遷説では色々と矛盾があるし時代は投馬国東遷説だよ 公認の学会は彼に講演させることを拒む。雑誌は彼の論文を拒否し、彼の本を無視するか、「敵」にわたしてひどい書評を書かせる。
ほんとに卑劣なやり方である。こういう反対の原因が、彼の仕事がまちがっていることにあるとは、奇人には全く思いうかばない。
それはひとえに、確立されたヒエラルヒー──自分たちの正統思想がひっくり返されることを恐れる科学の高僧たち──の側の盲目的な偏見から生じていると彼は確信する。 >>662
どこの国でもいいが、東遷が事実なら文字の無い時代だろうが伝承で生々しく記憶が残ってそうなもんだけどなあ。
先祖が東遷しましたなんて言ってる奴等いる?(除く神武天皇) 神武が東征したと言っているよね。
その前の饒速日も、その後の応神天皇も筑紫の生まれ。 倭人て黥面文身(顔に刺青、身体に文様)なんだぜ?
そんな土人由来みたいな文化って畿内じゃなくて九州だと思うけどなあ。 >>667
それ古代中華思想の勝手な思い込みや、って
テレビで言うてたで
中華思想で中国から東へ行くと顔に刺青を
南へ行くと体に刺青を入れる
日本は東南にあるだろうから顔と体に刺青ってことらしい
同じ中華思想の女人国の話からすると
女王国ってのも中華思想の勝手な思い込みかもな 神武天皇の従者に「その顔の文様は何ですか?」と聞かれてるエピソードある
まあ海洋民族の刺青の理由は仏さんの判別が第一なんだけど >>668
刺青の役割とかが説明されているから、実際に郡使が見せてもらって説明も受けたことは間違いない。 >>670
九州から神武に従っていた側近が、畿内に辿り着いてから現地の姫に顔の刺青について驚かれて問答したいる。
その姫は第二代天皇の母親となった。 >>672
>九州から
記紀に固有の「国名」など有る訳がない。
「好字二字令」は元明天皇の御世、和銅6年(713年)5月に発せられた勅令である。
阿蘇も磯城も飛鳥も出雲も伊勢も日向も筑紫も大津も吉野も纏向も吉備も、記紀以降の後付け地名。
その後付け地名に踊らされている、三流学者や郷土史家ども。 わははははは @阿波 なぜ私は、精魂込めて『神武天皇実在論』を上梓したか
https://nakagawayatsuhiro.com/?p=2913
中川八洋、筑波大学名誉教授
那珂は、1888年に「日本上古年代考」、1897年に「上世年紀考」を世に発表した。
日本書紀の神武天皇“即位”が660年遡り過ぎなのを明らかにした著名な論文。
神武天皇のご即位の時期は、ほぼ西暦紀元頃と、那珂は推定した(注5)。これは学術的に最も歴史事実に迫っている
学界はこれを黙殺し、文部省も徹底無視。
学界も文部省も、天皇制廃止に直結する嘘歴史「神武天皇が存在しない」を推進しているのである。
どうやら、1910年代に、この“逆走”推進が始まったようだ。
方法は二正面作戦。正面攻撃は、津田左右吉に露骨な
「神武天皇は実在しない/皇室がでっちあげた小説よろしい物語だ」の大プロパガンダをさせた。
これは、1919年以降、燎原の火のごとく学校や大学で広まった。
背面攻撃は、GRUロスケが支配していた文部省が音頭を取って1940年に
「二千六百年祭」を全国規模で開催し、神武天皇の即位を紀元前660年に戻した(注6)。
那珂通世の学問を全否定したのである。
さらに、伊勢神宮だけでなく、皇室の祖先の高天原も日向三代も真赤な捏造嘘歴史になってしまう。
そこは、前漢鏡だらけの地だからだ。前漢が存在しない時代なら、前漢鏡も存在しない。
三種の神器のトップ神器“前漢鏡(国産)”を初代神武天皇は
神宮に奉戴していたと記述する記紀を編纂したのは現皇室。
が、前漢が存在する前に神武天皇が即位したとすれば、この記紀の記述は真赤な嘘の垂れ流しになる。
仮にも「紀元前660年に神武天皇が即位」とすれば、
この時には前漢も後漢もまだ支那には存在しないから、神武天皇自体も実在しないということが、
瞬時に確定する。
特に、皇室のレーゾンデートルは、前漢鏡を国産化した天照大神の八咫鏡だから、
「神武天皇は即位時に八咫鏡を奉戴した」が、瞬時に真赤な嘘となるからだ。 もう一人の重要な歴史学者が、内藤湖南である。
「邪馬台国は九州にあった」など、戯言ならまだしも、学問なら妄言・暴言に過ぎない。
なぜなら、「邪馬台国」とは、和語“大和の国”の支那国の宛て漢字だから、
「邪馬台国」は「やまとのくに」としか訓めない。
だが、これを「ヤマタイコク」と、日本は学校教育でもトンデモ嘘読みさせる。
天皇制廃止のためなら嘘を擦りこめ!である。
一方、「やまとのくに」と当り前に訓めば、大和朝廷の皇后クラスの女性皇族が
『魏志倭人伝』の「女王=ひめみこ」となる。卑弥呼は「ひめみこ」の宛て漢字だから、
ヒミコと訓むことはできない。
これはまた、大和朝廷が魏帝国(220~65年)と外交関係を持っていたことになり、
大和朝廷が三世紀前半には北部九州をも統治下に置く確固たる統一国家だったことが判明する。
が、この正しい歴史が『魏志倭人伝』によって判明するのは、天皇制廃止勢力にとって、どうしても困る。
なぜなら、「大和朝廷は三世紀後半以降に誕生した」と、
事実を二百五十年ほど遅らせないと、神武天皇から少なくとも第九代開化天皇までを紙上テロルして抹殺する政治的歴史改竄ができなくなるからだ。
「大和朝廷は、邪馬台国の後に出現した」とか
「大和朝廷は、魏帝国が滅んだあと、邪馬台国が東遷した国家」等の政治的創作の嘘歴史にすれば、
皇室の祖先である「神武天皇~開化天皇」は消え、皇室はどこの馬の骨かわからぬ人物から生まれたとなり、その由緒ある皇統史をぶっ壊せる。
これが、天皇制廃止勢力は暴言・妄言の類「邪馬台国(やまとのくに)は九州」を執拗にがなり立て続ける理由である。
現在は、共産党が組織的に指揮し、
暴言・妄言「邪馬台国(やまとのくに)は九州」を、大学だけでなく、
学校教科書の定説にデッチアゲている。これは明治時代から執拗で、
共産党員のハシリ久米邦武や水平社系の喜田貞吉はこの巨頭だった。
今もその悪影響は衰えていない。 >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。 >>638
それだったら邪馬台国の次に更に南下して水行しそうなもんだけど 中国歴史書に登場、最初の日本人「帥升」 弥生時代の吉野ケ里の王か 邪馬台国論争に一石
https://www.saga-s.co.jp/articles/-/1030781 『上峰町史』販売のお知らせ
https://www.town.kamimine.lg.jp/kiji003878/index.html
販売時間 : 毎週火曜日から金曜日(祝祭日を除く) 午前10時~午後2時
販売場所 : 上峰町ふるさと学館
販売価格 : 上・下巻セット 8,000円
※上・下巻セットのみの販売です。
購入方法 :
・上峰町ふるさと学館での販売
代金をお持ちのうえ、上峰町ふるさと学館までお越しください。
ふるさと学館に備付けの「上峰町史申込書」に必要事項をご記入の上、代金を添えて受付へ提出してください。
ご購入の際には、つり銭が出ないようにご協力をお願いします。
・郵送をご希望の方へ
お申込みは、【申込書類】からダウンロードした「上峰町史申込書」に必要事項をご記入のうえ、
申込書と代金を下記住所あて現金書留で郵送してください。代金が到着次第発送します。
なお、送料はお客様のご負担(着払い)とさせていただきますのでご了承ください。 TwitterやYouTubeを見てみるとネトウヨ芸人はみな九州説だな
口を揃えて韓国ヘイトをばら撒くレイシスト
統一教会や日本会議や暇アノンの教義なのか?
ネトウヨに残酷な歴史的真実を告げよう
人類学的にジャップのゲノムは紀元前3000年頃の遼寧省の遼河文明人のものだと判明している
縄文人はアイヌの先祖でありジャップは遼寧省から韓半島を経由して日本列島に移住したんだ
遼寧省が農耕に適していた上古に夏家店下層文化が栄えていた
しかし気候変動で農耕ができなくなり遼河人は南方へ移住していった
殷王朝は彼らの王朝だったという説も強い
夏家店下層文化人が使っていた言語が古日本語だった
彼らは農耕が不可能になって故地を捨てて韓半島に移動した
そしてそこで山東から江南にかけての稲作農耕を取り入れた
今のジャポニカ米はその子孫だ
そして古日本語話者の一部は北九州にまで生活範囲を広げていった
これが弥生時代の始まりだ
遼河が乾燥して干上がった後も一部は移動せずに残った人がいた
残った人たちは近隣の狩猟採集民と協力し半農半牧の生活を取り入れてその地に適応した
これが夏家店上層文化人で古韓民族の起源となる
春秋戦国時代の燕が遼寧に勢力を伸ばしていった結果、古韓民族は韓半島へ民族移動をして先住の古日本語族を駆逐した
三韓の土器は夏家店上層文化の粘土帯土器の系譜にある
そしてジャップの弥生土器は三韓に駆逐される前の松菊里文化人の土器が元になっていて、これは夏家店下層文化の一つの偏堡文化の土器に連なる
ジャップの起源は西遼河人であり縄文人ではない
邪馬台国は奈良県であり中国の属国として朝貢をしていた
これが真の歴史だ 殷を周が滅ぼして
ハプログループQ
・中国北部の約3000年前の周時代の人骨から59%の高頻度で発見されている
・日本ではハプログループQは約0.40%(約250人に1人)という、ごく低頻度で観察されている
周王朝が後の中華文明の基礎だから大陸では置き換わったよね 中国の歴史書がもう邪馬台国の所在地を記して、日本から物的証拠も出ている。
・後漢書
「その大倭王は邪馬台国に居する」
・隋書 倭国
「その国境は東西五月行、南北三月行にして、それぞれ海に至る。地勢は東高く、西は下。邪靡堆に都する。すなわち、魏志いうところの邪馬臺なる者なり」
倭国🟰邪馬臺
・旧唐書 倭国
「倭国はいにしえの倭奴国のことである。」
倭国=倭奴国
・新唐書 日本
「日本は古の倭奴国である」
日本=倭奴国
・宋史 日本国
「日本国は本倭奴国也」
日本国=本倭奴国
=を繋ぎ合わせると
【倭国🟰邪馬臺=倭奴国=本倭奴国也】
今の中国の歴史書(正史)は
【倭国は邪馬壹(邪馬台国)で昔の倭奴国ですよ】
と正式に言ってる。
金印(漢委奴国王印)は福岡県から出てる。
歴史書も物的証拠ももうあるんだよ。
これが吉野ヶ里遺跡と関係があるとは言ってない。 「倭国の王→倭の国王」「日本国の王→日本の国王」など、津田左右吉らが徒党を組んだ「支那人漢語の“嘘読み”」は、紙上テロルの「王おほきみ殺し⇒天皇殺し」
https://nakagawayatsuhiro.com/?p=3003#more-3003
筑波大学名誉教授、中川八洋
『後漢書』倭伝にある「倭国王」の間違った訓みの問題も、この一つ。
支那人のこの種の文は、必ず「国名+官名」。間違うことは万が一にも不可能。
訓みの間違いは、訓みの意図的な捏造から生まれている。
具体的には、『後漢書』倭伝にある西暦107年の記事「倭国王帥升」の、
「倭国の王」を「倭の国王」と訓読みしている。「王」は官名。「倭国」は国名。
なので、「倭国」と「王」の間に「の」を入れる。
支那人の漢語では、「倭やまと」は、「倭国」という国名で用いなければ、
“日本(やまと)地方”とか“日本(やまと)民族”とかの意味として用いる。
「倭」の古音は「ヤ」で、「やまと」の最初の一音を表記。故に、
「倭国王帥升」は、表1の右欄のようにしか訓めない。
箸墓の大きさは、「墳長280㍍弱=円部150㍍+前方部130㍍」で、高さは16~30㍍。
今般、吉野ケ里で発掘調査しているのは、ゴミほどの「縦3.2㍍、幅1.7㍍」。余りに小さすぎる。
報道すること自体ナンセンス。嘘つき朝日新聞のエゲツナイ他意が丸見え。
『魏志』倭人伝が「邪馬台国」と表記した国が「大和朝廷のくに」を指すのは自明。
「台」の古音が「ト」なのも、この証拠の一つ。
しかも、『魏志』倭人伝が、箸墓を「径百余歩」と描写しているように、
魏帝国は、百襲姫が気になって気になって仕方がなかったほど徹底的に調査したようだ。
径とは後円部の直径の事、そして歩とは六尺で一尺は24.3㎝だから百歩は145㍍となる。
記述「百余歩」は、実際の150㍍とぴったり一致。 >>690
成分のうち妄想が100%
典型的ボケ老人 邪馬台国は福岡県田川郡あたり香春町や川崎
今の採銅所駅や香春町辺りが中心地
ついでに旅行して実際に見てきたわ
もしかしたら古宮神社が卑弥呼か臺与の墓かもな
古宮神社は謎 邪馬台国は福岡県田川郡あたり香春町や川崎
今の採銅所駅や香春町辺りが中心地
ついでに旅行して実際に見てきたわ
もしかしたら古宮神社が卑弥呼か臺与の墓かもな
古宮神社は謎 北部九州全域が邪馬台国、平原女王墓が卑弥呼の墓だろ 平原も女王の一人だろう
田油津も神夏磯も女王の一人だろう 邪馬臺国
福岡県田川郡には臺(ダイ)という苗字の人もいる
たまたま偶然だろうけどなw
福岡県には神夏磯(カンカシ)もいる
これも偶然だろうなw 邪馬臺国は山の臺、山の見晴らしのよい高台にある国だ
邪馬台国=やまと、なんて有り得ない かつて日本全体がヤマトの国だったように当時は北九州30ヶ国全体がヤマトだった、その後東遷して侵略を繰り返して大きくなった 三女神
これは元々、湧き水のある所なんだよ。水こそが命の道案内
宗像に移ってから舟の道案内に変わってしまっている 三女神
これは元々、湧き水のある所なんだよ。水こそが命の道案内
宗像に移ってから舟の道案内に変わってしまっている わからない教えてください
邪馬台国は漢字の通りにヤマタイコクの発音で良いのでしょうか?
もしかしたらヤマタ・イ・コクの気がするんですが.. >>1
★★★猿でもわかる邪馬台国の九州否定説★★★
邪馬台国 論争の背景
http://www.yoshinogari.jp/ym/topics/yama02.html
伊都国(福岡県糸島市)
↓
↓百里
↓
奴国(福岡県博多湾付近)
↓
↓百里
↓
不弥国(福岡県糟屋郡宇美町付近)
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(不明)
↓
↓水行十日、陸行一月
↓
邪馬台国
まともな地図を作れなかった古代では距離や方角を常時正確に測ることは難しかった可能性が高い。
しかし、古代であろうと水行、陸行日数を数え間違える可能性はほぼゼロに等しい。
ということは、もうこの時点で方角に関係なく、不弥国のすぐ近くにある(北部)九州の可能性が
一番最初に消えることは猿でもわかるはずだよね???
考古学会も畿内説でほぼ固まっている。
九州説を主張してる人は振り上げたこぶしを下ろせないだけでしょ?
いい歳した大人がいつまでもみっともないよ。
もういい加減あきらめようぜ。 時計のなかった時代に方角が分からない阿呆がいると思っているのか? 時計がないからこそ
太陽の角度や潮の満ち引きで時間を体感的につかんでいた。
夜空の星の位置で季節を感じていたかも
夜空の星と古代の国の位地はリンクしている。
大和三山はカシオペアの3つの星をたとえているんだよ >>704
太陽が南から登ることがない限り
東と南を間違える阿呆はいないと思うよ >>702
それ倭人伝を正しく読むスレで完全論破された糞コピペじゃんw
2 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:15.78
邪馬台国議論で必ずと言っていいほど議題に上がる水行陸行の記述だが、他の中国史書に照らすと
水行●●陸行▲▲という表現は、「水行ならば●●掛かり、陸行ならば▲▲掛かる」の意味である
これを押さえておかないと正解には辿り着かない
【用例】
通鑑釋文辯誤卷六
https://www.kanripo.org/text/KR2b0012/006#1a
>沈約宋書云汶陽太守何承天志新立去江陵陸行四百里水行七百里上黃縣
江陵から上黄県まで陸路で200kmほどなので、陸行四百里だけで目的地に着いてしまう
江陵は長江のほとりなので蛇行する川を水行すると陸路は無しで目的地に着ける
【嘉興府志】
https://wenku.baidu.com/view/d78078781711cc7931b71692.html
>{嘉善縣誌}達省城二百里達京師水行四千一百三十裡陸行三千六百二十裡
嘉興府の置かれた嘉興市から京師(首都のこと、当時は北京)まで直線距離で1100kmほど
やはり陸行三千六百二十裡だけで目的地に到達してしまう
また、杭州湾沿岸の嘉興市から沿岸水行して北上し、蛇行する川を遡って北京まで2000kmほどで水行もそれのみで目的地到達、陸路の出番なし 3 :日本@名無史さん :2021/02/23(火) 23:24:29.01
>>2により邪馬台国までの所要時間は水行ならば10日、陸行ならば一ヶ月であると確定したが、
同時に行程が放射読みで書かれていることも導かれる
なぜなら前段に書かれている投馬国へは水行20日とあるので、連続読みならば、訪問者は投馬国に着いた時点で必ず船に乗っていることになる
20日間も船に乗って投馬国まで来たのに、そこからわざわざ船を乗り捨てて3倍も時間の掛かる陸路を選ぶ理由が存在しない
そのままあと10日船で行けば済む話であるから、もし連続読みで記載しているのならば投馬国からの陸路なんて記載する必要が無い
そうではなく、行程が放射読みで書かれているため、伊都国を経由して邪馬台国へ行こうとする中国人への道案内のための文章としては
彼らが船を確保できていないケースも想定しなければならない
なぜなら末廬国から伊都国までは陸行だと書いてある以上、伊都国に到着する中国人は船に乗っていないわけだからな
そのため時間さえかければ陸路でも行けることを併記する必要があった
つまり邪馬台国の場所は伊都国と地続きの範囲、すなわち九州内に限られる
水行のみで行ける場所なので海か大河のほとりであり、かつ陸行も可能なので伊都国との間に通行不能な山塊などは存在しない地域、となる 万葉集に
大王の親魄あへや 豊国の鏡山(かがみやま)を宮と定むる。とある
近畿の大王の墓を豊国にわざわざ作るかね?
この時代の王も九州に住んでいたんだよ
豊=臺與だと思うけどねぇ >>708
原文は大王ではなく王、太宰府に派遣されていた王という解釈のようだが 邪馬台国は福岡県田川郡香春町
大和三山(香春岳)に囲まれた天然の要塞 日数の行程は帯方郡からのもの
帯方郡
↓
↓水行二十日
↓
投馬国(朝鮮半島南部、狗邪韓国を中心とした地域)
↓
↓水行十日、陸行一日(月は日の誤記)
↓
邪馬台国(北部九州地域、伊都国を中心とした地域)
里数の行程と日数の行程を続けて読むから訳が分からない
そてぞれ、帯方郡からの距離と時間を説明したもの。 日本、此云耶麻騰。
やまとう、やまどう、やめとう、やめどう
読み方は、こんな感じだろう。 奴国は何故金印を送られたのだろうか?
出土品からして重要なのは伊都国の方に見えるのに
そもそも何故伊都国は立派な字を当てられているのか?
女王国でさえ邪馬台なんて字を当てられてるのに
前漢時代の伊都国は委奴国だったと考えている
イとヰは違うと言われてる説だが、外国人の発音に字を当てるのにそんな事気にするだろうかと疑問だ 邪馬台国はヤンマトかヤンマトウと読むかもね。
倭国はトンボの国といわれたのよ。
オニヤンマって鬼邪馬じゃないかと思うのよ。
鬼と邪馬
まさに卑弥呼でしょ。 トンボの交尾の様な形をした島
こんな形をした倭国とバカにしてたんだよね。
アキツの語源はアクツでしょう。
丸く小さくて平野の少ない土地、バカにしてたんだよね。
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