邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part15
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
長江下流域に龍が伝わったのは約5000年前。
「遼河文明」から伝播したと思われる、約5000年前の長江下流域・良渚(りょうしょ)遺跡の玉龍も、
角と耳がありイノシシの顔だ。
http://www.seibutsushi.net/blog/2012/01/1238.html
. ◆中国の釜
中国では新石器時代には持ち運び可能なコンロに釜を載せた形態の釜竈がみられた[1]。
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた[1]。
釜が再び使用されるようになるのは春秋時代晩期になってからである[1]。
http://ja.wikipedia.org/wiki/釜
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
商朝から戦国時代にかけては鼎や鬲が多用されていったん衰えた
. 女王之所都
女王 治所 は
女王國 と等価
女王之[対象領域]治 が
[邪馬]の領域+[壹]の領域 [壹]=[伊]=[yi]であるから
[邪馬]の領域+[伊]の領域 と書き直すのも可
[自女王國以北]
[自女王國以北] は [伊]の領域の謂い
[伊]の領域
[壹]の領域 の治所が[伊都國] という構図
[伊都國] は
[壹都國] と書き直すのも可
[yi-tu]と読んでください 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >>61
>[邪馬]の領域+[壹]の領域 [壹]=[伊]=[yi]であるから
四声も知らない無学さんが邪馬台国に手出しちゃダメ ゆっくり埋めるよ
何か書きたい人はこちらにどうぞ
「邪馬壹國は北部九州に在った(王都は伊都国)part15」
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1541115802/
リンク先は盛り上がってるよww >>68
そう思ったら、何かネタ振りくらいしなよ
もともと、伊都国説なんて不人気トンデモなんだから、同じ名前の偽スレがあっても
誰も来ないんだよww 【筑紫の日向】
福岡県の高祖山の最高峰は高地山、別名をクシフル山とも言う。
古事記では天孫降臨の地は「筑紫の日向の高千穂の峰のクジフル岳」とあり、福岡県のクシフル山とするべきだろう。
考古学的にも、三種の神器を伴う弥生墳墓は高祖山の東の福岡平野と西の糸島平野にのみ発見されている。
クシフル山から自分の国土を眺めたニニギの国見の詔に「此地は韓国に向ひ、笠沙の御前を真来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」とある。
宮崎県の日向高千穂では意味が通らないが、福岡県の高祖山なら、福岡平野と糸島平野の間にあり朝鮮半島に向かう博多湾に面している。
最初の王墓として福岡平野に吉武高木遺跡(紀元前2世紀)、須玖岡本遺跡(紀元前1〜1世紀)があり、
高祖山をはさんだ西側の糸島平野に三雲南小路遺跡(1世紀頃の王・王妃墓)、井原鑓溝遺跡(紀元1〜2世紀の王墓)、平原遺跡(紀元2〜3世紀の女王墓)がある。
これらの遺跡からは、皇位の象徴とされる三種の神器と同じ剣、鏡、玉があわせて出土する。
倭国王権の起源は稲作伝来と弥生文化発祥の地である博多湾・玄界灘周辺にあったことになる。
漢により冊封された王権の象徴としては他にガラス璧があり、福岡県の須玖岡本遺跡、三雲遺跡、峯遺跡、宮崎県の玉の山遺跡からのみ出土している。
伊都国の三雲南小路遺跡には王と王妃があわせて葬られており、ニニギと木花開耶姫といわれる。
その拝殿である細石神社は江戸時代まで「漢倭奴国王」の金印を保管していたと伝えられている。
伊都国の平原遺跡からは円周が八咫(あた)となる超大型内行花文鏡が出土していて、ニニギがアマテラスから受け取った倭国の王権の象徴である八咫の鏡と考えられる。
高祖山には後世に山頂から山麓までを囲む中国式山城である怡土城があり、峰々に楼閣があった。
その中に高祖神社がある。これが記紀にある高千穂宮だろう。
筑紫の日向にあった伊都国が倭国の王都であり、高祖山の高千穂宮が倭王である天孫降臨の舞台、神武東征の出発地、そして倭国女王卑弥呼の王城である。 まだ100もいってない。
伊都国説は安定しているだけ。 気になる材料を羅列してみると、
渡来系弥生人骨はコンピュータ形質解析で朝鮮人骨とは一致せず、オロチ、
ギリヤークなどの沿海州の北方民族にかなり近寄った数値を示す人骨。
弥生土器が始まったのは最古水田・菜畑遺跡より50年以上前の山陰あたりで、
その土器は同期する沿海州南部の土器と特徴が一致している。
最古水田はイネの粒種、耕作用農具、炊飯器から考えて、明らかに朝鮮南部の影響で
始まっているのに、その人々はなぜか朝鮮土器を一つも作っていない。
複合的に考えて、まず沿海州あたりから渡来人の渡来があり、渡来後に朝鮮南部から
稲作をパクってきただけのように考えざるを得ない。 >大量の仿製鏡が出土
なるほど畿内説にとっては渡来人がいたら困るわけだ。
洛陽生まれで、呉で鏡職人として修業した、陳さんw
呉では神獣鏡系の銅鏡が盛んだった。
魏では鉄鏡の時代に入っていた。
魏が勝って、呉が滅びた。
銅鏡専門で失業した陳さん一家が来日して、さあ、伝わるものは? 【古代】「徐福伝説」DNAで追う 佐賀で渡来系弥生人の実像に迫るシンポ 徐福渡来の謎に専門家ら持論展開
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1553000954/
このスレで大分にあった秦王国が話題に上がっているんだけど、
中国の文物と弥生時代の発掘物の共通点って何かありますか 鏡、矛、璧、金印、絹、水銀朱
まあ、どれも九州ばかりだが。 >>107
誰にも相手にされないから泡吹いて死んだんじゃね?
しらんけど 細石神社はネタとしても伊都か奴に邪馬台国があったのは間違いないやろ 行政を扱う伊都国と、最大の人口密集地の奴国をあわせて女王国、倭名は筑紫の日向だ。 5chのパカのみなさんへ
満州先生の新著が出ますので、お知らせします。
「馬韓も百済も満州にあった」
あらあらかしこ あらかしこ ////////, ''" ヽミ川川
|//////, '" ',川川
川/////, '",,,,,,,,,,,,,,,, r''"',川||
川f 川f´ ,ィ::ラ',川 やだっ…
川ヘ | 弋て::>  ̄ ',リ
川 ヘ.__ ヽ /7! >>114がすごく
川川 ヘ _,. '-‐''"´y' //
川川リヘ , '´ __,,,/ / / チョン臭い …
川川川|/ '"´ , '´ /||
川川川| /川 高祖山の南に日向峠、高祖山の東に日向川、高祖山の北に筑紫の日向の小戸。
つまり高祖山周辺全体の名称が筑紫の日向。 >>120
つまり筑紫の日向に伊都国があったという事が言いたいんやね。 魏志倭人伝も記紀も、倭の王都は同じところなんだよ。 少なくとも記紀に倭の王都なんて記述はないわな。
あえて言うなら、その時々、大王の治世によって変遷しているが、伊都国が登場するような記述はない。
筑紫の宮は2度ほど記紀に登場するが、卑弥呼とも邪馬台国とも関係ない。 日本書紀には記されない「倭」だが、古事記は自国の国名を倭と記している
記紀には登場しないとか、ふかしすぎ >>126
>日本書紀には記されない「倭」だが、古事記は自国の国名を倭と記している
「倭大國魂神社」の倭国(阿波)だね。 @阿波 >>126
いや日本書紀にも「倭」ってワードはある。
今問題なのは「倭の王都」というワードで、これは古事記にも日本書紀にもない。
流し読みしすぎだよ。 では倭の王都はどこなのか。
時代により変遷があるが、ある時期においては筑紫の日向という語が登場する。
イザナギの禊や、ニニギの降臨である。
ニニギから三代の間、筑紫の日向に王家がいたことになっている。
三代目の彦渚の息子達が筑紫を出て大和に向かったと記紀は記録している。 >>128
>今問題なのは「倭の王都」というワードで、これは古事記にも日本書紀にもない。
そりゃ、「倭の王都」なんてわざわざ記紀に書くわけないよ。 記紀は倭国(阿波)の物語なんだから。
いちいち、王都などと書く必要などない。 @阿波 其王姓阿毎氏、自言初主號天御中主、至彦瀲、凡三十二世、皆以「尊」為號、居筑紫城。彦瀲子神武立、更以「天皇」為號、徙治大和州。 「其年代紀所記云:初主號天御中主。次曰天村雲尊,其後皆以「尊」為號。次天八重雲尊,次天彌聞尊,
次天忍勝尊,次瞻波尊,次萬魂尊,次利利魂尊,次國狹槌尊,次角?魂尊,次汲津丹尊,次面垂見尊,
次國常立尊,次天鑑尊,次天萬尊,次沫名杵尊,次伊獎諾尊,次素戔烏尊,次天照大神尊,次正哉吾勝速日天押穗耳尊,
次天?尊,次炎尊,次?瀲尊,凡二十三世,並都於築紫日向宮。
?瀲第四子號神武天皇,自築紫宮入居大和州橿原宮,即位元年甲寅,當周僖王時也。」 >>129
筑紫の日向が出てくるのは古事記で、日本書紀には出てこない。
そして日本書紀も古事記も、神武東征の始まりは日向国であって、筑紫の日向ではない。
日本書紀でははじめに東に進んで、速吸之門=豊予海峡に出た後、宇佐を経由して岡水門=福岡県遠賀郡に進んで本州に渡る。
古事記では日向を出発して筑紫に向かった。その後宇佐を経由して岡田宮=福岡県北九州市を経て本州。
どちらにせよ、筑紫の日向は神武東征の起点にはなり得ない。 筑紫という単語は九州全体を指す場合もあるから、筑紫の日向と言うのは、九州の日向国という意味だよ。 日本書紀 神代上
「至筑紫日向小戸橘之檍原而秡除焉、遂將盪滌身之所汚、乃興言曰・・・」 >>134
多分筑前国続風土記に書いてあったと思う。
肥前国風土記か豊後国風土記のどちらかだったかもしれない。 >>134
>筑紫の日向と言うのは、九州の日向国という意味だよ。
「竺紫(とくし)」については、古事記の中では、注意して見ると、
「筑紫」と「竺紫」の二つが混用して使われており、イザナギの禊の場面では「竺紫」である。
(日本書紀は、全て「筑紫」で統一されている)
しかも、国産みの場面では、
「次生筑紫嶋。此嶋亦、身一而有面四。毎面有名。故、筑紫國謂白日別、・・・」
と明らかに、「筑紫」が使われているが、イザナギの禊の場面では「竺紫」に変わっている。
一連の「イザナギ・イザナミの時代」話で、二つの漢字で分けられているのは不自然である。
したがって、「竺紫と筑紫は別物である可能性が高い」と考えられる。
ただし、その他で「竺紫」が出てくる事例として、
ニニギ降臨時の「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」と「竺紫君石井」が見られるので、
後代に、「竺紫」と「筑紫」が混同されていったのだろう。 @阿波 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています