邪馬台国畿内説 Part711
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邪馬台国論の鉄板、畿内説のスレです。
【骨 子】
・3世紀中葉には、古墳時代が開始していた。(◆10,FAQ10,43)
・古墳出現期段階で、近畿中央部を中心に列島規模の政治連合が形成され始めていた。(◆2,4〜6)
・北部九州博多湾岸地域は、既にこの政治連合の傘下にあった。(◆7)
ゆえに、倭女王卑弥呼の都があったのは畿内である。
邪馬台国論争ももう畿内で決着なのでロマンはありませんが
勝者の貫録を見せつつ、更なる真実を探求しましょう。
前スレ
http://lavender.5ch.net/test/read.cgi/history/1627798075/l50
◆0【 要 旨 】 ( >>2-12に各論、それ以下にFAQを付す )
纒向遺跡の発掘状況等から、ここには西日本の広域に影響力を持った宗教的指導者が君臨しており、それは各地の首長に共立され求心的に集約された権力基盤を持つ女性であったと考えられる。
その死亡時期は3世紀中葉とみられる。畿内に中国文化が急速に浸透する時期である。
これらを倭人伝の記事と対照すると、箸中山古墳の被葬者が倭人伝に記載ある曹魏に卑弥呼と呼ばれた人物であり、纒向が邪馬台国にあった倭女王の宮殿所在地であると同定できる。
2世紀の地球規模的寒冷化は、農業生産力を強化する社会的需要から指導的地位を占める析出集団の成長を強烈に促進し、弥生的青銅器祭祀を終息せしめ、高塚化した墳丘墓を現出させる。
換言すれば、弥生墳丘墓の巨大化が顕著な地域こそが、弥生社会に古墳時代へと向かう構造変化の著しい地域であり、3世紀に爆発的に広域化する萌芽期国家の中核である。自然環境変化に起因する社会構造変化が現象として纒向に凝集し結実したと言える。
倭人伝に記載された卑弥呼の活動期間は概ね庄内併行期に相当する。畿内様式の土器が漸進的に北部九州に流入していく時期であり、ことに那珂比恵地域への人口流入が急拡大する。
博多湾貿易が対外交渉の主役に躍り出るこの時期には、西日本各地の人々が韓人や楽浪商人と直接交渉による交易をする段階に入る。
絶域であった日本列島が中華社会と二国間の国交を再開した時期、この外的刺激で最も変化の生じた地域こそが当時の倭国の中枢である。
倭人伝述べるところの、3世紀前半末に曹魏と通交した倭の女王はどこにいたであろうか?
それは桜井市纒向以外にありえない。 >>579
まとめると、663年8月の白村江海戦で(互いに先陣を競って無秩序な突撃を繰り返す)倭国水軍を全滅させた大艦隊を擁し、その気になれば、完全に無防備〔もはや陸軍のみ→夥しい神籠石(高句麗)式&朝鮮(百済)式山城の築造ラッシュ〕となった倭国に来襲して、天智の首都・太宰府を殲滅できた超大国・唐(外交)への忖度で生まれた記紀が消そうとしたのは、
A.倭国史上初めて北部九州を出て、近江大津京に東遷した天智@太宰府以前の倭王権(崇神朝→応神朝→継体朝)がすべて北部九州(筑紫邪馬台→阿蘇邪靡堆→天智太宰府)にあったこと
→3王朝ともその奥津城(王家の谷)&新益藤原京を新設したばかりの「畿内」にあったことにした(記紀の歴史テーマパーク「大倭」→「大和」>聖徳太子(以和為貴)」)。
B.さらに、磐井の乱で応神朝@筑紫を乗っ取った、継体朝@阿蘇がやらかしていた3つの不都合な史実なのである!
1.(武寧王の百済を完全属国化した)継体が中国の南北朝二帝並立の隙に創始してしまった(時間の支配者=中国皇帝の冊封からの独立を意味する)倭国独自(九州)年号
→天智の【倭京】(太宰府)以前は全て抹消!(下記リンク参照)
2.鉄の産出により高句麗&百済に形勢逆転した新羅からの朝貢で調子に乗り、南北朝を再び統一した隋の「天子」煬帝相手に日出処「天子」を名乗ってしまった阿毎多利思比孤(冠位十二階)
→同時期の大和分家・厩戸皇子と合成し、憲法十七条(以和為貴)「聖徳太子」を捏造&抹消!
3.白村江海戦惨敗で唐新羅連合艦隊の倭王成敗(王族9親等全員処刑)に怯えた九州本家・天智@太宰府の、(裏口から船で高句麗に脱出できる)近江大津宮への遷都(臆病風→周辺国の笑い草)
→舒明♂皇極♀の長男=斉明皇太子として大和分家に接続&統合!(皇極斉明重祚&天智天武兄弟の秘密)
-継体朝@阿蘇による倭国独自(九州)年号一覧
継体・善記・正和・教知・僧聴・明要・貴楽・法清・兄弟・蔵和・師安・和僧・金光・賢称・鏡當・勝照・端政・告貴・願転・光元・定居・【倭京】・仁王・僧要・命長・常色・白雉・白鳳・朱雀・朱鳥・大化・大長
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/nengo/nengou.html
-熊本県玉名市和水町前原の石原家文書
http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/kaiho122/kai12204.html 今城塚古墳に眠る治天下大王のピンクの石棺は、なぜ遠路はるばる運ばれてきたのだろう。。。 筑紫の君がしばかれたから、火の君は必死でゴマすったわけだ >>583
実年代=古事記の没年補正(卑弥呼=魏志倭人伝、※神功=日本書紀)+漢(×満)民族皇帝への朝貢記録
◆奴国@博多【後漢の冊封を受けて外交デビュー→大陸や半島との貿易本格化】
漢委奴国王(情報なし)…57年(光武帝、金印下賜=鉄輸入開始!)
帥升(情報なし)…107年(安帝に謁見。生口160人を献上=鉄輸入急増→タウポ山大噴火→大飢饉(黄巾の乱)発生→倭国大乱へ)
◆邪馬台国@筑紫【狗奴国と戦争→曹魏皇帝に水銀朱と引き換えに帯方郡の鉄、独占輸入権要請→親魏倭王】
卑弥呼(〜247年)…238年/240年/243年/245年
台与(235年〜?)…247年
◆伊都国@博多(崇神朝)…国内統一→半島派兵(新羅攻撃)開始→任那日本府設置(鉄資源独自確保)
10祟神(〜318年)…266年(西晋武帝へ)、四道将軍派遣270年頃。
11垂仁(情報なし)…330年頃没。伊勢神宮創建(紀伊半島の水銀鉱床独占)。
12景行(情報なし)…343年頃没。日本武尊の東征335年頃。 大臣・武内宿禰
13成務(〜355年)…国造/県主設置(国内統一完成)
14仲哀(〜362年)…新羅征伐(関門海峡開削=北朝/高句麗艦隊の瀬戸内海侵入リスク)に反対、神罰で崩御(暗殺)
神功(※〜389年)…「旨」(「泰和4年」369年銘石上神宮七支刀→372年百済・近肖古王より贈呈)
◆邪馬台国@筑紫(応神朝)…半島派兵(高句麗戦争&百済支援)本格化→大将軍位を求めて南朝(東晋/宋/斉/梁)に朝貢
15応神(〜394年)…「禰(でい)」
16仁徳(〜427年)…「讃」(413年/421年/425年)
17履中(〜432年)…「倭国王」(430年)┐
18反正(〜437年)…「珍」(438年)…「弟、珍立つ!」
19允恭(〜454年)…「済」(443年/451年)
20安康(情報なし)…「興」(460年/462年)
21雄略(〜489年)…「武」@(477年/478年)「獲加多支鹵大王」…辛亥(471)年銘稲荷山鉄剣+江田船山鉄剣
22清寧(情報なし)/23顕宗(情報なし)/24仁賢(情報なし)
25武烈(情報なし)…「武」A(502年)
◆狗奴国@阿蘇(継体朝)…倭王磐井暗殺→日出処天子・阿毎多利思比孤→欽 明皇子を本州の飛鳥へ分家→現在の天皇家へ
26継体(〜527年)…「男弟王」癸未(503)年銘人物画像鏡(隅田八幡宮) >其國本亦以男子為王 住七八十年 倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑弥呼
卑弥呼が即位する7,80年前に倭国が成立した
初代の国王は永初元年(107年)に後漢へ遣使した帥升
何代目かの男王の時代に内乱が発生するが
卑弥呼を共立することで国が纏まる
卑弥呼の死後も男王を立てたが国中が不服で、十三歳の壱与を立てて王と為し、国中が遂に安定した
この歴史を振り返ると武力が強いとか政治力があるという評価基準ではなく神に仕える人物という宗教的な側面でリーダーが決まった様子が判る
この古のスタイルがその後天皇制を生み、今に至るまで続く伝統を形成してきたことになる くーずー王朝説が妄想の塊になるのは歴史の基礎知識がないからだろう >>592
魏志には大和の記はない。
大和説学者らが妄想の塊になるのは、
人類の常識や、
文献考古の史料事実からの、歴史の学問の方法論の、
基礎的能力や知識がないからだろう >>593
空想ばかりだな。
文献考古の史料事実て?
魏志、後漢書にあるかい 九州説学者らが妄想の塊になるのは、
文献考古の史料事実からの、歴史の学問の方法論の、
基礎的能力や知識がないからだろう >>597
オウム返しをしてるのはザラコク、九州王朝説だな >>596
たとえば若井敏明な
奈良県出身で1関西大学大学院博士後期課程単位修得というのが笑えるが >>602
という証拠は?
証拠がないなら、息を吐くようにウソをついてるのは九州説の>>602 卑弥呼の墓は箸墓ではない
寺澤先生のホケノ説を支持します。 >>603
畿内説の吐いたウソ
596 日本@名無史さん 2021/08/04(水) 17:22:39.41
>>595
いや、九州説に学者いないし 研究者では数名いるけど九州説ではなくて北部九州のどこかというような、
つまりわからないという話だからな >>562
>墓域もないし、
今もある。
>作り話で洞窟に生き埋めにされた土蜘蛛の昔話を
魏使が倭人から聞いたとしても殉葬だとは思わない
中国側は墓の大きさ、特徴を聴いたのだろう。
奴婢が埋まってたらそれは殉葬だと思って当然。 >>563
>卑弥呼の墓は、日向阿蘇の高千穂神社のご神体である小さな盛山だ、この神社の神域全体は南北約150mのこんもりした丘陵で、
その一角には、王族でない身分の者たち多数をまとめて弔う「荒立神社」もある。
おもしろいけど、卑弥呼が誰なのか言えてないので無理だろう。 >>601
記紀の誰かにアテハメる遊びに、なんか価値があるわけ? >>611
それは畿内説が得意だぞ
これは卑弥呼や!とやってる 日本に殉葬という習慣はない。
だから卑弥呼墓の殉葬奴婢百余人の記事は、何らかの事件。
崇神天皇(=4世紀前半)以前、大量に奴婢が死んだ事件は神武東征紀にしかない。
神武軍は大和入りしてから先住・土蜘蛛を殺害している。
だから九州や纏向に殉葬奴婢百余人の痕跡を探してもあるわけがない。 >>613
そんなウソついても、シナ人になんの得もない >>611
>記紀の誰かにアテハメる遊び
あてはまったらそれでいい。
それで邪馬台国論争は終わるからね。
何を言ってるんだお前は。 >>614
イミフ。
中国側は卑弥呼の葬儀を見ていないし、埋葬状況も見ていない。
マタ聞きで理解した。 >>615
元の話を勝手に改変しちゃったら、アテハメ遊びは反則でゲームセットだよ >>608
今もない。
卑弥呼の死と何の関係もない昔洞窟に閉じ込められた土蜘蛛を殉葬だと思わけないだろ >>617
>元の話を勝手に改変しちゃったら
何のことかな。 >>618
残念ながら崇神以前に奴婢が大量死した事件は神武東征時期にしかない。
葛城の一言主神社参道脇にも土蜘蛛が埋葬されている。
高天原=高尾張邑は神武軍の4回の土蜘蛛誅殺の最後。
纏向には土蜘蛛誅殺の痕跡が全くない。
いいかげん諦めたらどうだ。 >>616
そういう何の根拠もない追加設定って、反論にはならないんだけど >>624
お前だろ
江戸、明治時代の墓なんか何の根拠にもならん >>621
土蜘蛛窟という史跡として今もあるものを無視できまい。
纏向には全くない癖に何言ってんだお前。
箸バカ古墳近辺に奴婢埋葬痕跡を出してみろ。 >>623
日本に殉葬はない。
考古学的にも認められていない。
だからこの殉葬は別の意味。
取あえず古代日本の奴婢大量死の記事を探せ。
まぁ俺が先に見つけてるので残念だな。 >>627
卑弥呼に自ら仕えてた婢の多くが卑弥呼にお供するために自ら命を絶ったんだよ
各々どこかに埋葬された >>628
石碑は昭和に建てられたはず。
石碑の新しさは関係ない。
問題はいわゆる高天原伝承地がここにしかないこと。
古今和歌集でそれが分かる。
そして神武軍が葛で編んだ網で土蜘蛛を討ったという日本書紀に記された場所でもある。
平均在位から計算しても卑弥呼は神武の時代だ。
もはや一人しかいない。
邪馬台国の王都は葛城だ、纏向ではない。 >>623
zarakokuなみになってきたな。
ならば倭人伝に記された殉葬ってどんなのか言えよ。
で、それが纏向であったのか?
アホ言え、まったくあるかい。 >>630
なんで神々が住む高天原の住民を殺すんだよ >>629
そういう事件があったとしたら、それはそれで記録に残る。
なにせ100人もの集団自殺だからな。
しかしどの文献にもそんな集団自殺の記事はない。
だから「ない」ということになる。 >>610
日向高千穂町内の神社のあらましと、高千穂神社成立の伝承を知れば、おのずと被葬者が誰かわかる仕組みさ。
つまり高千穂神話でもっとの重要な人物を祀る神社が無いのに、
その子・孫たちはズラリ高千穂神社に祀られている。
しかも肝心の本殿背後のご神体山は無標無銘で、神職関係者も由来を語ろうとしない。不思議だろ・・、 >>632
あそこは大和盆地屈指の水源。
その洞窟に土蜘蛛が住み着いた。
それを神武軍が制圧した。
そういう事。 おそらく高天彦神社は鑑真が住職になった高天寺橋本院を創建したときに
金剛山登山口で握り飯を売ってた所に人が集まるから賽銭箱を置いとけば賽銭を入れていくだろうというのが始まりだろう
農耕は東から昇る太陽信仰だが仏教では西方浄土だからな >>635
高天原の先住民なら土蜘蛛が神々ってことになるだろ >>636
わしは高天彦神社自体が神武軍が洞窟の入り口に置いた大きな岩の上に立っているのではないかと推測している。
大神神社や出雲大社もそうであるように、怨霊封じのために建てられたと推測している。 >>637
近くの宮滝遺跡から南九州の市来式土器が出ているように、
土蜘蛛とは朱を採掘しに来ていた南九州系かも知れない。
海の向こうに秦という超巨大国が誕生し、
遷都目的なのか出雲から王族を含め沢山の人間が大和に来たようだ。
だから出雲の銅鐸が畿内や中部に拡散する。
卑弥呼=ヒメ后はその出雲系の王家のヒメ。
お父さんは今も関西を中心に信仰されているえべっさん。 >>604
>畿内説です
畿内なんて存在もしなかった嘘つき騙し文言であるから、バツです。
>卑弥呼の墓は箸墓ではない
有難う。
>寺澤先生のホケノ説を支持します。
寺澤も、
「南→東」や「卑弥呼の冢→前方後円墳」や「正北抵新羅の倭國の中心は北部九州」などの、
史料事実や史料実態の曲解や否定の嘘つき騙しをしているから、バツ学者です。 >>629
>卑弥呼に自ら仕えてた婢の多くが卑弥呼にお供するために自ら命を絶ったんだよ
各々どこかに埋葬された
いや、張政らがはっきり殉葬を確認記録したんだから、
当然卑弥呼の墓の周辺に埋葬された。
それが祇園山。 中国三大古典に逆らう北東組が、
二重三重の内輪もめ状態になっとるようだな・・、 キウスです。 殉葬について、
私見ですから、ツッコミはご勘弁ください。
倭人伝か創作された時代で話せば、
中国の殉葬は墓と関係あります。墓所とともに殉葬されます。
各説に関わらず、ここは統一すべきです。詳しくは中国の殉葬を学んで投稿したらいかがですか?
箸墓は陵墓ゆえ殉職者がいたか?どうか?はわかりません。
箸墓近辺でも良いでしょう
しかし、今のところは??
倭人伝の記述通り、殉職者の形跡が有れば良いのですが、、
あくまで、私見です。
魏の使いが見たならともかく、伝聞かもしれません。
ナーバスに議論するところかどうかはわかりませんが >>645
殉葬はふつう墳丘の中じゃないって常識がわかればいいだけだよ 追記、
埴輪の多くは古墳から出土しているのでは?
殉職の形跡? 441:名無しの報告:2021/08/04(水) 23:38:43.70 ID:aehr6IQZ0
・埋め立て
・マルチポスト >>648
失礼しました
古墳、埴輪、殉死 プラス?で検索ください
日本の古代の殉死と墓との関係が出てます。
できればで結構です感想が有ればお聞かせ下さい。 そもそも、倭人伝に書かれているのは【狥】葬
狥という漢字は意思有宣示の意味を持つ
旬は十日間を表す形声文字
殉葬の【殉】という漢字の「歹」は骨の断片の象形で
殉という漢字に主人などのあとを追って死ぬという意味を持つ 畿内説がねつ造しても無駄
魏志倭人伝を書いたのはシナ人
そしてシナには殉葬の習慣があった
そのシナ人が、卑弥呼の死に際して殉葬があったと書いてるのだ
シナと同じ殉葬があった証拠じゃないか そりゃそおだ
渡来人らで文書を書けた存在らは西文氏となる
彼らが日本に来ることができてようやく日本内の記録も日本内で取ることができるようになった
日本の朝廷の文官なども彼らからが始まりだからな それ以前から取れる連中らもおったかも知れないが記録がまったく残っていないからな 古代中国のような惨たらしい殉死は日本にはないと言われてるが、
卑弥呼の時期だけあったと仮定してよい。
また上の方でも出てるが後追い自殺でも良い。
そしてわしが言うように大きな岩を置いて洞窟から出られなくしたでもいい。
死に方はどうであれ、古代に奴婢の大量死があったかどうか。
話はその1点。
あるだろ、それが神武東征紀だ。
ならば卑弥呼の住んだ場所も墓も分かる、葛城である。
邪馬台国論争終了。 >>653
倭人伝には殉葬とは書いてないし
日本では殉葬は確認されていない >>656
土蜘蛛はヒメタタライスズヒメの死とは何の関係もないし
ヒメタタライスズヒメは女王でもないし
葛城の斜面に墓は確認されていないし
大きな岩を置いたというのも確認されていない
すべてが作り話 >>658
負け犬の咆哮。
崇神(4世紀前半)の数十年前の最高位のトヨは懿徳皇后・天トヨ津媛しかいない。
他にいるのなら遠慮なく言え。
国宝中平銘鉄刀の和邇氏の祖である。
そのトヨ津媛の3世代前がヒメ(蹈鞴五十鈴)后。
ついでにトヨの少し前にタケミカヅチ。
国中服さず千人が死ぬ大戦争が、タケミカヅチとタケミナカタであった事が分かる、
完璧なんだがw >>657
ほう、徇葬とどこが違うんだ?
少なくとも、魏の使者は話を聞いて「徇葬」と解釈したようだが >>659
ヒメとトヨだけのゴロ合わせで、後はすべてが高鴨神社立小便犯人の作り話 >>660
倭人伝には殉葬とも徇葬とも書かれていない >>662
また畿内説がウソついたな
徇葬者奴婢百餘人 >>661
ヒメとトヨだけのゴロ合わせがまず第一。
二人とも最高位の女性。
時代も合う。
ゴロ合わせ一つできないくせに偉そうに言わないように。 藤井寺市のホームページより
垂仁(すいにん)天皇のころ、貴人が死去すると、その陵(みささぎ)のまわりに生前付き従っていた人々を生き埋めにする殉死(じゅんし)の風習がありました。生き埋めになった人たちは、昼夜泣き叫び、見るに耐えない光景であったということです。そこで野見宿禰(のみのすくね)は一計を案じ、土で作った人物や馬を生きた人に替えて古墳のまわりに立て並べてはどうかと天皇に進言したのです。天皇は宿禰の進言を大変喜ばれ早速、日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓にこの制度を採用したとのことです。
この説話は、陵墓の造営を担当した土師氏の始祖の物語として、伝えられたものです。埴輪という名称もこの記録の中に登場するものです。 >>656
文献のみでは証拠にはなり得ない。
物証である被葬者、埋蔵物等があって成り立つ >>666
実際には古代日本に殉葬はない。
しかし垂仁紀には「あった」と書かれている。
これはどういうことか。
「昼は人が造り、夜は神が造った」と記される箸墓古墳に、
殉葬はありましたと、間接的に言いたかっただけ。
もっと言えば、箸墓古墳=卑弥呼墓と間違えてくれるポン介君を大量に増やしたかったのだ。
身よ、このスレのアフォの>>1は見事に引っかかっている。 >>667
>物証である被葬者、埋蔵物等があって成り立つ
どアホ。
式内名神大社の御神域をどうやって発掘するのだ。
逆に言えば発掘できる場所は何の謂れもない場所であり、
そこには王権、王墓はない。
纏向遺跡のようにね。 畿内説は、倭人伝を無視しすぎ
倭人伝が無いと邪馬台国も無い >>671
>畿内説は、倭人伝を無視しすぎ
何を無視してると?
九州節はいつも具体性なさすぎ >>669
お前のホラ話では神武が巨大な岩を置くまで何もなかったんだろ? >>672
ならば、シナ人のいう徇葬者がいなければ、そこは卑弥呼の墓じゃないと認めるんだな? >>674
倭人伝は狥葬
日本では殉葬は確認されていない >>675
殉葬か不明だが、古墳から埋葬者以外の人骨は発見されてるよ。大量じゃないけど。
倭人伝に限らず記紀にも殉葬の記述があるのは確か。
どう解釈するかは学者によって違うと思います。
この議論は不確実要素が多いのでお互い
やめた方が良いかも 中国三大古典が示す東南行に逆らってきた北東組に、大義名分・学識・道理なし・・、 >>675
魏の使者に徇葬は確認されたんだろ
畿内では確認されないが >>676
どこの古墳から?
倭人伝に殉という漢字は使われていない >>678
九州のは、竹島どろぼう反日有害活動員が言い張っている集団墓地のことか? >>678
>畿内では確認されないが
九州でも確認されてない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています